基本読書

基本読書

PR

×

Calendar

Favorite Blog

connaissance ダルダル2430さん

Category

Profile

kent04072108

kent04072108

Archives

2026.07
2026.06
2026.05
2026.04
2026.03
2008.06.21
XML
カテゴリ: ノンフィクション
これはなかなか長丁場になりそうだぞ。何文字書くことになるやら。

生物界を操る、利己的遺伝子の真相に迫る。



正直いって、人生が変わるとまでも言わなくても、人生観を一変させてしまいそうな、そんな内容だった。これを中学生の時に読んでいたら、今とは全く違う人間になっていたかもしれないというそんあ予感もある。

あまりにも衝撃的すぎて色々考えながら読んでいたら、全部読み終わるのに1か月近くかかっている。中断したりなんやりで、内容を確かに覚えていられないのが非常に残念だ。ちょっとづつでも、考えた事をメモしながら読んでおけばこんな事にはならなかったのだが。

全く数学というものを使わないからか、恐ろしいほどにわかりやすい。こんなにわかってしまっていいのか、とか、こんなに面白くていいのか、という思いを抱きながら読んでいた。およそ想像しうるかぎり最善の文章が使われているように感じる。



読んでいて、田中ロミオの原点を見たような気がする。ミームだとか、家族計画だとかは、ここからとったものなのだろうか。ミームは確実だから、家族計画も当然、そうなのだろうとは思うが。

少しずつ引用しながら先に進んでいくとする。

 私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には固体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である。

全ては、遺伝子なのである、という考え方は、最初は意味がわからなかったものの、最後にはなるほど、と考えるようになり、さらに何故そうなったのかというその先まで考えられるようになった。
それはつまり、何故遺伝子は体というものを構築するのであるのか、というような問いである。

 ことばというものはわれわれが自由に使う道具にすぎず、またたとえ「生きている」というようなことばが辞書にあるからといって、そのことばが現実世界における何か明確なものを指しているとは限らない。人間の苦難はこういったことを理解していない人があまりに多いために生じているのだ。



 一つの生存機械はたった一個のではなくて何十万もの遺伝子を含んだ一つの乗り物である。


ここでいう生存機械というのは人間にとどまらずにこの世に生きている、と定義されるありとあらゆるものである。生きているという言葉は上に書いたように、特に明確に決まった意味があるわけではない。

 DNAのいう真の「目的」は生き延びることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。


今こうして笑ったり泣いたりしている自分は、DNAが生き延びるための装置でしかない。

 意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考える事が出来る。


意識というものを持っている人間が、特別な存在だという事。このことについてはのちに後述。

 ──利他的なものにせよ利己的なものにせよ──が進化するためには、その行動のための遺伝子が別の行動のためのライバル遺伝子、すなわち対立遺伝子よりも遺伝子プール内でうまく生き延びることが必要である。


これも本書の中でかなり重要な話である。すべての遺伝子は、現場に適応していける遺伝子のみが生き延びていける。

人間でたとえれば、狩りを主流とする人間の足が、長ければ長いほど、狩りに有利だ。そうすると足の長い遺伝子を持った人間は、のちの生存競争を生き抜く可能性が高くなる。短い脚の遺伝子を持った人間は、獲物を狩れず死んでいくからだ。その場合、足の長い遺伝子が残り、短い遺伝子は消えていくことになる。

第五章、攻撃──安定性と利己的機会では、生存に効果的な戦略、という観点から遺伝子というものを見ている。戦略は基本的にシンプルなもので、たとえば小さければ逃げろ、大きければ攻撃しろ、といったたぐいのものである。

ライオンはたまに、自分の子供を食べる事はあるが、他のライオンの子供を食べる事は決してない。それは報復の危険が高いからである。

第六章、遺伝子道では、利他的な行動をとる時に、いったいどういう計算がおこなわれているか、というような事が書かれている。

例えば兄弟がおぼれかけていたとして、その兄弟は自分の遺伝子を50%は持っているわけである。その場合、あまり危険でない場合なら確実に助けるであろう。もし仮に危険で、死亡率が50%を超えそうな場合は考えるかもしれない。50%を得るために、自分が持っている遺伝子100%を潰すことはないからだ。

全く知らない他人でも、それがほとんど危険のない場合ならばプラスになる可能性が高い。なんらかの「見返り」が得られるかもしれないからだ。仮に得られなかったとしても、それはしょうがない。このことについても、のちほど後述する。見返りを求める遺伝子の話は非常に複雑なため、一度に説明することはできない。

 溺れかかっている人間が野生のイルカに助けられたという話をよくきく。少なくともその一つには確実な証拠がある。これは、群れの溺れかけているメンバーを救うための規則の誤用だと考えられる。この規則における、群れの溺れかけているメンバーの定義は、次のようなものであるにちがいない。「水面近くで息ができずにもがきまわっている細長い物体」。


 多くの種では、母親は父親より自分の子を確信できる。母親は、目に見え、触れることのできる卵や子どもを産む。彼女には自分の遺伝子の持ち主を確実に知るチャンスがあるのだ。あわれな父親ははるかにだまされやすい。だから、父親は母親ほど育児に熱をいれないのだと考えられる。


なるほど、確かに。この件についてはまたあとで書く事があるのでその時でもいいか。


たとえば
 個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体が出来、彼らは繁殖できないことになろう。ウィン=エドワーズによれば、なわばりの獲得は繁殖への切符あるいは許可証をてにいれるようなものである。成立しうるなわばりの数には限りがあるので、いわば繁殖許可証の発行数が限られているようなものだ。

しかしこの説は正しくないらしい。というよりも、証拠がない。

ここで新説が出る。

 子をたくさん生みすぎる個体がふりをこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく、端的に彼らのこのうち生き残れるものの数が少ないからなのである。

たとえば鳥が、たくさん産めるからといって5個も6個も卵を産んだとしても、それを育てるために必要な量が増えて、結果的に食べさせてやる事ができなくて全員死んでしまうかもしれない。だったら初めから、3個か4個の卵しか産まなければ、エサもやれて結果的に生き延びる数は多くなる。

間引き、というような行為である。



 自分でやしなえる以上の子どもをかかえている人々は、たぶんほとんどの場合無知のゆえにそうしているのであり、彼らが意識的に悪用をはかっているのだと非難するわけにはいかない。ただし、彼らが多数の子を作るよう意図的にけしかけている指導者や強力な組織については、その嫌疑を解くわけにはいかないと私には思われる。

日本みたいにどんどんうめ、なんて言われたって、経済的に厳しいのだから無理にきまっているんだ。本当に産ませたかったら、補助金を出すしかない。

だいたい年金を下の世代が支えなきゃいけないような、そんなわけのわからない破綻しか見えない年金制度にしたのがおかしいのだが。
七章終り

と、ここまでで13章立ての本書の半分である。そろそろ文字数が一万文字を超えそうで危ないので次のエントリに移って書こう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012.04.16 01:31:08
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: