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2011.03.08
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カテゴリ: 日記

 ~開かない扉は・・・ない~  (ビジネス研究会レポート)
アラビア半島の人口260万人の国、オマーン。この国に単身で渡り、名門校を作った日本人女性がいます。

 彼女の名は、「スワーダ・アル・ムダファーラ」。 

 元々、「森田美保子」として日本で生まれた彼女は、得意な手芸や洋裁を活かし、カルチャー・スクールを経営してました。

 79年に文化使節団員となった彼女は、オマーン王国を訪れ、宮内大臣邸宅でのパーティーに参加します。異国情緒溢れる建物に感激する彼女でしたが、化粧室に入った際、何か物足りなさを覚えます。そこで、庭の花を摘んでそっと生けたのです。

 後日、その事実を知った大臣は感動し、「ぜひ我が国の女性にも、日本の心を教えてほしい」と、帰国後の彼女に、航空チケットを送ってきました。それをキッカケに、彼女はオマーンを何度か訪れるようになり、次第に同国やイスラムの教えに強く惹かれるようになるのです。

 そして80年。イスラム教徒に改宗した彼女は、「スワーダ」と名乗り、83年にオマーンの官僚と結婚。同時に、オマーン国籍を取得します。

 オマーンでは慣習上、女性は働かず、家事もすべて使用人がします。あまりにも退屈な毎日に、「このままでは駄目な自分になってしまう。何か、オマーンで生きている証を残したい。」と、彼女は考えるようになります。そして、ついに学校作りを決意するのです。

 一見、突飛な考えに思えますが、これには理由がありました。  

 長期間、鎖国状態にあったオマーンは、70年に現国王が即位すると鎖国を解き、急速に近代化が進みます。それに伴い、教育制度も変わりましたが、読み書きや計算、基本知識の暗記で精一杯でした。しかも、家では使用人が子供の着替えも手伝うため、幼少期から不器用な人が多かったのです。

 そんな彼らを観て、自分のことは自分でやり、自分で物事に対処する教育の必要性を、彼女は痛感したのです。

 しかし、学校設立には莫大な資金が必要です。しかも、夫は彼女の熱意に折れたものの、「自分は手助けしない」の条件を出しました。

 そこで、彼女はアクセサリーの製造販売を始め、コツコツとお金を貯めていくことにしました。そして、自らも小学校に通い、真剣にアラビア語を習っていきます。

 ところが、そこで彼女の前に立ちふさがったのが、文部省の壁です。

 学校設立には、専門知識を要する複雑な書類を提出しなければなりません。ましてや、外国人女性の申請など前例がなく、文部省は非協力的でした。しかし、「この国を良くする」という信念が彼女を支え続け、4年後、ビジネスで知り合った弁護士が支援者になってくれたのです。

 彼の協力の下、申請書類は完成し、90年、アザン・ビン・ケイス私立学校(以下ABQ校)は学校法人として認可され、彼女は校長職に就きました。

 開校時、湾岸戦争で混乱した時期にあったにも関わらず、5名の生徒が入学してきてくれました。

 彼女はまず、一方的に習うことだけを教えられていた子供たちに、「考えることの大切さ」を教えます。そして、何か問題があると、「こうしなさい」と押しつけるのではなく、「なぜそうなったか」、「どう対処したらよいか」を、自分で考えさせたのです。

 また、幼稚園クラスでは、洋服の着替えや折り紙を取り入れ、手先が器用になるようにしました。

 続いて、生徒にグローバルな視野を持たせるため、世界中から優秀な教師を集め、英語での授業を取り入れます。

 母国語のアラビア語で教育する方針の文部省は、当初、英語の使用を許可しませんでした。しかし彼女は、文部省からの再三にわたるクレームを無視し、アラビア語と英語の両方で教え続けます。最終的には、文部省が折れることになり、彼女の授業は認められたのです。

 その後、彼女は学習指導は信頼できる教師陣に委ね、自らは「生徒への心のケア」を重視するようにします。

 毎朝、学校の入り口に立って、全生徒と握手することから始まり、校長室の扉は常に開放します。そんな校長室に毎日何人もの生徒が訪れ、一人ひとりの悩みを真剣に聞いてあげるのでした。

 時には、彼女の膝に乗って甘える子もいれば、涙を流しながら話す子もいます。でも、いつも最後は皆笑顔になって、クラスに戻って行くのです。

「子供の心に徹底的に寄り添うのが私の役割。分かってもらえると感じれば、どんな子も無限に伸びる」と語る彼女は、ダウン症や自閉症の子も積極的に受け入れるようにします。

 こうして、彼女の斬新な教育は徐々に評判を得、6年後には、300名の生徒数にまで成長します。そして01年、彼女は借ビルから自校舎の建設を決断するのです。

 ところが管轄の住宅省は、これまた、「前例がない」の理由から、彼女の申請を全く相手にしてくれません。しかし彼女は諦めることなく、毎日毎日、大臣室の前で座り込みを続けました。

 そして一ヶ月後。ようやく会えた大臣に、「私はこの国の子供たちのために尽くしたい。私が死んでも残る学校を作りたいのです。」と熱く語ったのです。その言葉に心動かされた大臣は、「スワーダは、我々の兄弟だ。兄弟にすぐに土地を用意しなさい」と、その場で認可してくれたのです。

 その後、建設は急ピッチで進み、03年にABQ校は新校舎に移転。こうして、500名の生徒を抱えるABQ校は、オマーン国内に200校ある学校中、トップクラスの学校になりました。

 08年には、ABQ校生の一人が、国際的統一試験「IGCSE A-Level」で満点を取り、オマーン国内でも大きな話題になります。

 そして現在、オマーンで彼女を知らぬ人はおらず、06年のニューズウィーク誌「世界で尊敬される日本人」に名を連ねました。

 一人の日本人女性が、その国を思い遣る心から、一国の教育に大きな貢献をしました。

 世界中を講演で廻り続ける彼女は、静かにこう言います。


            「できることから一歩ずつ始めれば、開かない扉はない」と。







小学館◆田鎖郁男著 そうか、こうやって木の家を建てるのか。 読者モニター募集!





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最終更新日  2011.03.08 18:55:55
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