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敦賀半島・中池見湿地・池河内湿原と加賀の旅(2022年5月) 5
安曇野ちひろ美術館・安曇野散策・無言館(2019年5月21~22日) 4
志度・屋島・高松・琴平・善光寺・丸亀城・銭形・父母ケ浜(2019年5月3~4日) 7
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鞆の浦ですが、「渋滞解消」という理由で、鞆の浦の港を横断する橋を建設する計画があります。常夜灯の沖に橋が架かり、自動車が走ることになります。「鞆の浦の文化遺産を保存しよう」ホームページ橋が架かった時のイメージを私が撮った写真に入れてみました。【常夜灯の位置から見たイメージ】架橋 常夜灯 posted by (C)きんちゃん【鞆港から見たイメージ】架橋 常夜灯2 posted by (C)きんちゃん【架橋の架かる位置から見たイメージ】架橋 鞆港横断2 posted by (C)きんちゃん架橋 鞆港横断1 posted by (C)きんちゃん【医王寺からの朝日のイメージ】架橋 鞆港横断3 posted by (C)きんちゃん
2007年12月09日
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鞆の浦の古寺めぐり最後は、善行寺と小烏神社【善行寺】鞆の浦 古寺めぐり 善光寺 posted by (C)きんちゃん護法山善行寺。浄土真宗本願寺派のお寺です。寺院調査の中で、表装の裏面に「天□□年甲午(中略)山田村寺迫」の墨書が発見され、この年号が天文3年(1534)と推定され、寺伝を立証することができたそうです。立派な本堂ですね。鞆の浦 古寺めぐり 善光寺2 posted by (C)きんちゃん【小烏神社】小烏神社_01 posted by (C)きんちゃん【小烏神社】祭神は小烏大神と天目一箇神といい、鞆鍛治の氏神です。奈良時代から船具加工が始まり、南北朝・室町時代には多くの刀鍛治がいました。伝統あるふいご祭(鉄鋼祭)は、12月第1週の土・日曜日に行われます。【小烏の森古戦場】1349(正平4)年、足利尊氏の弟直義の養子直冬は、中国探題として鞆の浦大可島城にいましたが、反逆を疑われ尊氏の中央軍とここ小烏の森で戦いました。しかし、直冬軍は敗れて九州へ逃亡しました。小烏神社_02 posted by (C)きんちゃんここまでで、古寺めぐりは終わりです。鞆港近くの小さい祠に、力石が祀ってありました。【力石】力石_02 posted by (C)きんちゃん力石_02 posted by (C)きんちゃん【鞆の津の力石(ちからいし)】 江戸時代、船積み荷物の陸揚げ、積み込みに従事する仲仕(なかし)たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げて、その力と技を競ったものです。 花崗岩製で、重さ140kg~200kg(37~54貫目)あります。 鞆港のそばの祠に3個、沼名前神社に20個あります。【万葉の歌碑】対潮楼の下に、歌碑はありました。万葉歌碑 posted by (C)きんちゃんむろの木歌碑吾妹子之見師(わぎもこがみし) 鞆浦之天木香樹者(とものうらのむろのきは)常代有有跡見之人曽奈吉(とこよにあれどみしひとぞなき)鞆の浦は瀬戸内海交通の中心の港でした。万葉の時代は遣唐使、顕新羅使などが立ち寄り、いくつもの歌がよまれています。万葉秀歌といわれるこの歌は、730(天平2)年大伴旅人(おおとものたびと)が大宰府の役人の任期を終えて鞆の浦に寄った時の歌です。727(神亀4)年か728(神亀5)年に任地に向かう時、妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)と神木のむろの木に海路の安全などを祈ったと考えられます。728(神亀5)年大宰府で最愛の妻を失った旅人の嘆きが伝わってきます。説明文が無いと、何の碑かまったく判りません。時の流れを感じますね。この後、ブログ中に書いたように、民族資料館に行ったり、夕日を撮ったりしました。そして、いよいよ鞆の浦ともお別れです。鞆港の夕日_03 posted by (C)きんちゃん鞆港の夕日 釣竿 posted by (C)きんちゃんバスセンターでお土産を買って、バスで福山駅まで行き。新幹線で神戸まで帰って来ました。
2007年12月08日
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鞆の浦の古寺めぐりは、終わりに近づきました。【正法禅寺】鞆の浦 古寺めぐり 正法禅寺 posted by (C)きんちゃん大雄山正法禅寺、臨済宗のお寺。本堂は、少し大きい(りっぱな)造りです。鞆の浦 古寺めぐり 正法禅寺2 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり 正法禅寺3 posted by (C)きんちゃん本堂脇に、水琴窟があります。【安国寺】鞆の浦 古寺めぐり 安国寺 posted by (C)きんちゃん道の突き当たりにあります。鞆の浦 古寺めぐり 安国寺2 posted by (C)きんちゃんここは参拝料が必要です。そのかわり、ご本尊を拝ませていただけます。瑞雲山安国寺、臨済宗のお寺。鎌倉時代の優れた建物と仏像が、安国寺の長い歴史の重みを物語っています。鞆の浦 古寺めぐり 安国寺釈迦堂 posted by (C)きんちゃん【釈迦堂】鎌倉時代、文永十年(1273)に金宝寺の仏殿として建立されたと思われる。その翌年、この仏殿に阿弥陀三尊像(重文)が安置されました。鞆の浦 古寺めぐり 安国寺庭園 posted by (C)きんちゃん【安国寺庭園】 この庭園は枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表し、室町末期の作庭と推定されます。三途の川には石橋がかかり、蓬莱山には岩石で仏様を表し、蓬莱式庭園ともいいます。中央部の鶴島にはソテツを配し、亀島には松を植え、鶴亀式庭園ともいいます。鶴亀式庭園は戦国時代に流行し、武将は自分たちや主家の繁栄を願い、作庭しました。そして、石橋の矢穴や長さ高さが桃山期の手法で1599(慶長4)年安国寺恵瓊(えけい)が改造したといわれています。でも、実際見た時は、かなり荒れ果てた庭でしたよ。鞆の浦 古寺めぐり 安国寺本堂跡 posted by (C)きんちゃん【安国寺本堂跡】 ここに建っていた本堂は徳川時代、寛文年間の建設であったと伝わっています。広く回廊になり、庭園を眺められる・本堂は近在になきすばらしい本堂であったといわれます。 明治・大正のころは、無檀家のお寺になり、荒廃していた。そのおり、大正9年11月30日、雨宿りの浮浪者による失火で、焼けてしまいました。残念な事です。
2007年12月07日
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鞆の浦の古寺めぐりは続きます。沼名前神社の手前、寄り損ねていた、左手にあるお寺によって行きます。【小松寺】鞆の浦 古寺めぐり 小松寺 posted by (C)きんちゃん萬年山小松寺、臨済宗のお寺。境内には、琉球使節の扁額「琉球司楽向生碑」が掲げられている。鞆の浦 古寺めぐり 小松寺2 posted by (C)きんちゃん【ぼけふうじ】鞆の浦 古寺めぐり26 posted by (C)きんちゃん 本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は、非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参拝者が多い。 ”おかげさま”というボケ封じのご利益があるとか・・・。沼名前神社に別れを告げて、さらに北への道を進みます。【本願寺】鞆の浦 古寺めぐり 本願寺 posted by (C)きんちゃん興楽山本願寺、瀬戸内の時宗の拠点であったといわれています。この寺も質素な造りです。お地蔵さんが脇に立っていました。鞆の浦 古寺めぐり 本願寺2 posted by (C)きんちゃん白壁のきれいな通りです。鞆の浦 古寺めぐり29 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり30 posted by (C)きんちゃん白壁の角を曲がると、慈徳禅寺です。【慈徳禅寺】鞆の浦 古寺めぐり 慈徳禅寺 posted by (C)きんちゃん大悲山慈徳禅院、臨済宗のお寺。境内には、薬師堂があり、宗派を問わない信者がいると言います。鞆の浦 古寺めぐり 慈徳禅寺2 posted by (C)きんちゃん鞆の浦の古寺めぐりもあとすこし・・・。
2007年12月06日
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鞆の浦の古寺めぐり さらに続きますささやき橋の角を曲がっての2つ目のお寺です。【顕政寺】鞆の浦 古寺めぐり 顕政寺 posted by (C)きんちゃん壽福山顕政寺、日蓮宗のお寺。質素な造りである。ガラスの模様が、日本的でない感じ。境内に、別のお堂があります。鞆の浦 古寺めぐり 顕政寺2 posted by (C)きんちゃん大きい道にでると、山手に鳥居が見えます。沼名前神社です。「ぬまくまじんじゃ」と読みます。【沼名前神社】鞆の浦 古寺めぐり 沼名前神社 posted by (C)きんちゃん鞆の祇園さんそもいわれる沼名前神社。大綿津見命(おおわたつみのみこと)と、須佐之男命(すさのおのみこと)が祀られています。鳥居は、珍しい形の石鳥居です。上部の笠木の先端が丸みを帯びてそり上がり、鳥が止まっているように見えます。”鳥衾(とりぶすま)”と呼ぶそうです。と言っても、言われないと気付かないと思います・・・。鞆の浦 古寺めぐり 沼名前神社2 posted by (C)きんちゃん本殿の手前にある門は、”随神門”と言います。お寺の仁王門にあたるものでしょう。鞆の浦 古寺めぐり 沼名前神社3 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり 沼名前神社4 posted by (C)きんちゃん【拝殿の右に祀られている神社】左から八幡神社・竈(かまど)神社・松尾神社・厳島神社他に、渡守神社・護国神社等があります。沼名前神社にお参りすると全国の主なお宮さんにもお参りできるってことです。お寺でも、「西国三十三ヶ所めぐり」などがあるところがけっこうありますね。鞆の浦 古寺めぐり 能舞台 posted by (C)きんちゃん【能舞台】豊臣秀吉が配下の将兵の長期の戦場での慰安用に造られたもので、簡単に分解して移動できました。伏見城に置かれてましたが、二代将軍徳川秀忠が伏見城取り壊しの時、現在福山城にある伏見櫓とともに水野勝成に譲り渡しました。その後万治年間(1650年代)に三代水野勝貞は、鞆の津祇園社(現沼名前神社)に寄進しました。そして、こけら板で葺き、楽屋、鏡の間、橋掛りを常設し、固定舞台となってます。この舞台の前に、能舞台を観覧する建物が建っています。鞆の浦 古寺めぐり 森下仁丹 posted by (C)きんちゃん沼名前神社から降りてきて、ふと見ると森下翁の銅像が・・・。後で調べると、森下仁丹の創業者でした。出身が鞆の浦だったそうです。
2007年12月05日
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鞆の浦 古寺めぐりの続きです【山中鹿之助首塚】鞆の浦 古寺めぐり 山中鹿之助首塚 posted by (C)きんちゃん戦国時代の終わり、毛利に滅ぼされた尼子(あまご)氏の家臣山中鹿之助は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578(天正6)年岡山県の高梁川阿井の渡しで討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の阿井の渡しには胴塚があります。【ささやき橋】【ささやき橋の伝説】応神天皇のころ、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と官妓(かんぎ)・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから、秘語(ささやき)の橋と語り継がれています。鞆の浦 古寺めぐり ささやき橋 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり ささやき橋2 posted by (C)きんちゃんこの「ささやき橋」のあたりの道は、鍵曲(かいまがり)になっています。本当の鍵曲は道の両側に塀があるのですが、ここは片側だけです。以前は、両側に塀があったのかもしれません【静観禅寺】鞆の浦 古寺めぐり 静観禅寺 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり 静観禅寺2 posted by (C)きんちゃん正覚山静観寺、臨済宗のお寺。質素な造りです。春には桜が咲きます。ささやき橋の手前にあります。【妙蓮寺】鞆の浦 古寺めぐり 妙蓮寺 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐり 妙蓮寺2 posted by (C)きんちゃん法昌山妙蓮寺、日蓮宗のお寺です。山門の脇には鐘楼があります。本堂の前にある、お墓の山はなんだろう?ささやき橋の角を曲がったところにあるお寺です。
2007年12月04日
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鞆の浦 寺町地域のお寺めぐりです午前中は、いろは丸展示館、太田家住宅(保命酒を作っていた)、淀姫神社、焚場跡、波止などを見て周り、午後からとなりました。【阿弥陀寺】鞆の浦 古寺めぐり 阿弥陀寺 posted by (C)きんちゃん鞆の浦 古寺めぐりの最初のお寺。心光山阿弥陀寺、浄土宗のお寺です。本堂の大きな造りのとおり、中にも大きな大仏(高さ4m)があるそうです。阿弥陀寺の前の道から、南禅坊を眺める。鞆の浦 古寺めぐり 阿弥陀寺2 posted by (C)きんちゃん【南禅坊】鞆の浦 古寺めぐり 南禅坊 posted by (C)きんちゃん海龍山南禅坊、浄土真宗本願寺派のお寺です。山門に鐘楼があり、意匠的にもすぐれています。尾道でも、同じようなお寺を見た覚えがあります・・・。南禅坊本堂鞆の浦 古寺めぐり 南禅坊2 posted by (C)きんちゃん【法宣寺】鞆の浦 古寺めぐり 法宣寺 posted by (C)きんちゃん大覚山法宣寺、日蓮宗のお寺。 大覚山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方に布教する拠点となったそうです。【法宣寺の天蓋の松】鞆の浦 古寺めぐり 法宣寺の松 posted by (C)きんちゃん境内一面に枝葉を広げる黒松は「天蓋の松」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600平方メートルです。まだ生きて、葉を広げていた頃を想像するとすごいですね。法宣寺の本堂かなり立派な本堂ですね。鞆の浦 古寺めぐり 法宣寺2 posted by (C)きんちゃん
2007年12月03日
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鞆の浦に泊まった翌朝、早起きして医王寺に行きました。鞆港に登る朝日を見るためです。山の中腹にあるだけに、チョット息切れしました。【医王寺】医王寺_01 posted by (C)きんちゃん医王寺_02 posted by (C)きんちゃん桃林山慈眼院医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。本尊は木造薬師如来像で県の重要文化財に指定されています。慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642(寛永20)年福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685(貞享2)年四代水野勝種の再興したものと伝えられています。ここから15分ばかり登ったところになる太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダの医師のシーボルトはツツジや松の観察のために小路を登りました。鞆港の朝日_02 posted by (C)きんちゃんきれいな朝日でしょう!!医王寺_03 posted by (C)きんちゃん医王寺_04 posted by (C)きんちゃんここから登った所に、聖徳太子を祭っている太子殿があるっていうので行ってみることにしました。太子堂_02 上り坂 posted by (C)きんちゃんところが、登り出すとすごい坂道。いくらたってもたどりつきません。ブロックで階段がつくってあるのですが、ブロックの間に入れられた盛り土が雨で流されて、ブロックがむき出しに・・・。非常に歩きにくい・・・。やっとの思いで太子殿に到着です。太子堂_01 posted by (C)きんちゃん【聖徳太子のご詠歌】父のさと立ち出て、来る母の里。またたち帰る父のふるさと。太子殿から下りてきて、今度は、明圓寺というお寺によって見ました。明園寺_01 posted by (C)きんちゃん明園寺_02 posted by (C)きんちゃん【松江山明圓寺】真宗大谷派のお寺。写真を撮っていたら、「ここは京都に大きなお寺があるのよ」と言っておられました。東本願寺のことですね。大きなソテツがありました。ホテルへの帰りに、もう一ヶ所、地蔵院に寄りました。地蔵院_01 posted by (C)きんちゃん【鶴林山地蔵院】真言宗のお寺。「中国地蔵尊霊場第8番」の札所になっています。脇室の十一面観音は、鞆の浦古寺めぐりの本尊になっているそうです。本堂は、真新しい建物でした。地蔵院_02 posted by (C)きんちゃん朝食前の、お寺めぐりでした。本格的な古寺めぐりは、その日の昼食後になります。
2007年12月02日
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日本丸・海洋丸の神戸港寄港で中断していた、鞆の浦紀行を再開します鞆の浦には、多くのお寺があります。まず最初は、だれもが立ち寄る対潮楼です。対潮楼_01 posted by (C)きんちゃん福禅寺対潮楼 海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。本堂やそれに隣接する対潮楼(たいちょうろう)は、江戸時代の元禄年間(1690年代)に建立されました。客殿からの海の眺めはすばらしく、特に正徳元年(1711年)朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦(イバンオン)はその書を残しました。また延享5年(1748年)には正使洪啓禧(ホンケヒ)は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海(ホンキョンヘ)がその書を残しています。ここが文化交流の場になっていました。弁天島(対潮楼から)_02 posted by (C)きんちゃん対潮楼_02 posted by (C)きんちゃん私が行った時は、雅楽の演奏サービスがありました(土・日曜日限定)。対潮楼_見ざる言わざる聞かざる posted by (C)きんちゃん「見ざる、言わざる、聞かざる」がありました。円福寺 対潮楼を探して、間違えて反対側の山に登った時にお参りしました。円福寺_01 posted by (C)きんちゃん円福寺 大可島城跡にある真言宗のお寺。元々は、沼名前神社の南側にあったという。円福寺_02 posted by (C)きんちゃん芭蕉の句碑「疑うな うし保のはなも 浦の春」「くだけちる波の花をみると、この浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」 1777(安永6)年に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者鼎左の筆です。この碑文の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689(元禄2)年伊勢の絵をみてよんだ画賛です。なお、円福寺の夾明楼(きょうめいろう)は頼山陽の叔父頼杏坪(らいきょうへい)が美しい景色に感嘆して命名したものです。円福寺 芭蕉の碑 posted by (C)きんちゃん大可島城(たいがしましろ)跡 1342(康永元)年四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代の村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。淀姫神社淀姫神社_01 posted by (C)きんちゃん 鞆港の淀姫神社の波止を見に行くためにやってきました。【淀姫神社】 明神山に淀姫神社は鎮座している。神功皇后の妹と伝えられる淀姫を祭神として、古来、平らの産土神(うぶすながみ)として祭られてきた。現在の社殿は、大正2年の造営で、拝殿の前には神輿の飾り場がある。 旧暦7月7日(現在は8月第1土曜日)は、俗に「だんご祭り」と呼ばれる淀姫神社の祭りで賑わい、「平らの投げ神輿」として有名である。淀姫神社_02 posted by (C)きんちゃん 淀姫神社の上からも、周りに回り込んで探しても、波止を見れることはできませんでした。 海からでないと、見ることができないようです。
2007年12月01日
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鞆の浦 常夜灯から、郷土資料館、さらに古寺方面への道です。鞆の浦民族資料館の駐車場の前にある江戸時代の商家です。 母屋、土蔵ともに江戸時代末期の商家です。母屋の内部は通り庭形式の三間取りで、店の間、中の間、奥の間の三室を配し、商家の建造様式の1つである。入口の格子や吊り大戸は建築当初のものに復元した。 土蔵は、全部和釘(角釘)を使用し、幕末ころに流行した登り梁造りになっている。なお、この土蔵は明治末期に移築したものである。 その後、明治27年設立の「鞆製鋼合資会社」の建物となり、漁網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社でした。鞆の町並み_14 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_15 posted by (C)きんちゃん雰囲気が、保命酒の岡本亀太郎本店の蔵と似ています!その脇の道を入っていくと、対潮楼に行けます。鞆の町並み_02 posted by (C)きんちゃん途中の脇道を左に下りると、鞆シーサイドホテルに出ます。鞆の町並み_03 posted by (C)きんちゃん対潮楼のそばの道、石垣と石畳です。対潮楼石垣の道_01 posted by (C)きんちゃん対潮楼石垣の道_02 posted by (C)きんちゃん古寺散策の帰り道にも、古い家並みがあります。鞆の町並み_11 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_10 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_12 posted by (C)きんちゃんなんと、老人ホームも江戸時代風の建物です!!町並みの最後はボンネットバス!!ボンネットバス_01 posted by (C)きんちゃん鞆の浦をバックに走る、ボンネットバスボンネットバス_02 posted by (C)きんちゃん鞆港に着いて、福山駅にUターンするボンネットバス鞆港と福山駅を一日4便、ボンネットバスの直通便が走っています。鞆鉄バスの土・日のみの観光便です。【ボンネットバスの仕様】いずず自動車製型式:RX341初年度登録:1958年(昭和33年)エンジン出力:120馬力最大乗車人員:49名、座席定員:27名車両全長:8,220mm、車両全幅:2,450mm、車両全高:2,880mm、車両重量:5,150kg、ホイルベース長:4,250mmです。現在走っているバスと比べると、大きさに比べて乗車人員が少ないですね。鞆鉄という名の通り、以前は福山と鞆の浦は鉄道が走っていました。鉄道は廃線になった後、バス路線に移行しました。
2007年11月24日
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鞆の浦には、江戸時代からの古い町並みが残っています鞆の町並み_09 posted by (C)きんちゃん鞆の浦の観光情報をインターネットで発信している、「澤井釣具店」です。店構えの方は、江戸時代からの造りです。鞆の町並み_04 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_05 posted by (C)きんちゃん太田家住宅の隣のみやげ物や鞆の町並み_17 posted by (C)きんちゃん鞆港から常夜灯への抜け道です。鞆の町並み_16 posted by (C)きんちゃん澤井釣具店から常夜灯への道。いずれも、石畳です。鞆の町並み_07 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_18 posted by (C)きんちゃん太田家住宅の裏手の蔵群です。鞆の町並み_13 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_06 posted by (C)きんちゃん鞆の町並み_01 posted by (C)きんちゃん澤村釣具店から、「古寺めぐり」方面の道です。大衆食堂も結構古い造りです。
2007年11月23日
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鞆の浦は保命酒という薬用酒が名産です。3つ酒蔵があって、そのひとつ、岡本亀太郎本店を訪れました。保命酒(岡本亀太郎本店)_01 posted by (C)きんちゃん大きい酒蔵。保命酒の看板。「何かあるな!」と思って、立ち寄ってみました。保命酒(岡本亀太郎本店)_02 posted by (C)きんちゃんかなりしっかりした造りの建物です。「岡本家長屋門」の看板が・・・。この建物は、かつて福山城内にあった長屋門である。 明治の初め、当岡本家の建物は火災により消失した。復旧のため、明治6年(1873年)廃城となり民間払い下げを行っていた福山城内の建物の一部を譲り受け、海路を船により運びここに移設した、といわれている。 もともとこの門の左右には、対の番所が付随していたが、現在右側は取り払われて残っていない。しかし、門扉や門構えは城内の長屋門としての形式をよく残しており、材質(ケヤキ)・規模より考察して、江戸時代初期の福山城郭内の遺構として貴重な建物である。 門は、鏡柱・脇柱は二枚立てで竪に筋鉄二条を打ち、上下に八双金具等を打ち、扉裏に閂を取り付けている。鏡柱に潜りを設け、片開き戸が建つ。 番所の腰は、彫子下見板張り、上方は軒まで漆喰塗壁。門寄りに出窓を設け、上方に武者窓2ヶ所を開き、窓上に2m間隔に腕木を出して軒を造っている。番所の天井は門のそれよりも一段低く張り、根太露出の板天井。上階は床板張りで小屋は松丸太の梁を渡し、垂木露出天井です。 建物の大きさは、桁行17.15m、梁間5.27m、建築面積90平方米です。入母屋造。本瓦葺。保命酒(岡本亀太郎本店)_04 posted by (C)きんちゃん岡本亀太郎本店の入り口。福山城の長屋門を使っただけあって、しっかりした造りです。保命酒(岡本亀太郎本店)_03 posted by (C)きんちゃん店内には、元祖保命酒・中村家から譲り受けたという龍が舞う看板が・・・保命酒_01 posted by (C)きんちゃん最近のアレンジ商品である、「梅太郎」「杏子姫」を買いました保命酒_02 posted by (C)きんちゃん最初に、「梅太郎」を飲んで見ました。梅酒と薬用酒のアレンジで飲みやすい。ガブガブ飲むお酒ではないので、ワイングラスで飲んでいます。買った保命酒に、岡本亀太郎本店の紹介パンフが付いていました。下記のリンクをクリックして開いてみて下さい。保命酒パンフ表 posted by (C)きんちゃん【保命酒の紹介パンフ(表面)】保命酒パンフ内側 posted by (C)きんちゃん【保命酒の紹介パンフ(内側)】
2007年11月23日
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鞆の浦は、もち米を元に16種類の各種薬草を配合した保命酒が作られました。福山藩によって庇護されて、栄えてきました。太田家住宅といろは丸展示館を見学しました。太田家住宅 太田家住宅は、1991年に重要文化財の指定を受けた、瀬戸内を代表する建造物群です。建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、敷地の四方は道路で囲まれています。敷地の南東部に建つ主屋は、道路を隔てて、同じく重要文化財の指定を受けた別邸「太田家住宅朝宗亭」と向かい合っています。太田家住宅_02 posted by (C)きんちゃん太田家住宅_03 posted by (C)きんちゃん 建物の建築年代は、文書や日記、棟札などから、主屋が18世紀中期、炊事場・南保命酒蔵が18世紀後期、北保命酒蔵が天明8年(1788)、西蔵が寛政元年(1789)、東保命酒蔵が寛政7年(1795)、釜屋・新蔵・北土蔵が19世紀前記ごろと考えられています。 これら一連の建物は、江戸時代の中期から後期にかけて、保命酒屋中村家によって、家屋敷を購入しながら拡張・増築されてほぼ現在の規模になり、明治期に太田家が受け継ぎ今日にいたっています。太田家住宅図面 posted by (C)きんちゃん 中村家から太田家に譲り渡す時、保命酒の醸造権も3つの蔵にゆずりわたしたそうです。岡本亀太郎本店、入江豊三郎本店、保命酒屋です。岡本亀太郎本店には、中村家から譲りうけた看板が残っています。太田家住宅_04 posted by (C)きんちゃん入口の土間は、黒い石と白い石の組み合わせでモダンな造りです。「時間はありますか?」と聞かれて、「大丈夫です」と答えると、順番に案内してくれました。太田家住宅_07 posted by (C)きんちゃん 2階にあがる階段は、いわゆる箱階段で、下が物いれになっています。太田家住宅_06 posted by (C)きんちゃん 茶室は、お殿様をお迎えするためで、いわゆる「ひじり口」でなくて、立ってそのまま入れるような造りになっています。「保命酒の業者と当時の支配者である武家とが密談した場所」という説明でした。 維新の幕開けも近い1863(文久3)年8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残しました。世にならず 鞆の湊の竹の葉を かくて嘗(な)むも 珍しの世や鞆の浦は、坂本竜馬との係りもあります。坂本竜馬率いる海援隊の船、いろは丸が鞆の浦沖で沈没したのです。いろは丸展示館いろは丸展示館_01 posted by (C)きんちゃんいろは丸展示館_03 posted by (C)きんちゃんいろは丸の沈没の経過、引き上げの取り組み、引き上げられた燃料の石炭や古伊万里茶碗など、坂本竜馬の足跡などを展示。A、いろは丸の沈没の経過1、いろは丸士官、右斜め前方に右舷青燈を発見2、明光丸相舵手、いろは丸を発見、万国航海法通り右旋して回避しようとする3、いろは丸、明光丸を避けるために、急左旋4、明光丸舵手、このままでは衝突不可避と見てあわてて左に舵をきる。いろは丸右舷に衝突5、衝突後、明光丸は、いろは丸乗員救助のため90メートルバックしていろは丸に接近しようとし6、操舵をあやまって、再びいろは丸右舷に衝突いろは丸展示館_02 posted by (C)きんちゃんB、引き上げられたいろは丸の分析1、いいえ。モダンアートではありません。電子顕微鏡による鉄の分析写真です。 きれいだから額に入れて飾りたいほどですが、電子がつくりだしたカラー画像です。 さてさて・・・。 「鉄」といっても純粋100%の鉄ではなく、鉄のかけらのなかにはさまざまな元素が微量に含まれています。 電子顕微鏡はそれらの微量元素をカラー画像で表現、写真のなかになるさまざまな色彩の違いは、ケイ素とかチタン、燐などの分析対象の違いをあらわしています。 さて、最下段の左側の2枚のうち、右は現代の鉄。左はいろは丸の鉄。 シミのような文様部分は鉄分が少ないこと。つまり、この部分に不純物が多量にあることをあらわしています。現代の鉄にはこのような多量の不純物はありません。2、NKK鉄鋼研究所(現JFEスチール)はシャーロックホームズになった 昭和63年(1988年)8月、いろは丸沈没地点から回収された鉄材が研究所にもちこまれ、電子顕微鏡による科学的追跡が始まった。 「ホームズ君、これはどんな鉄鉱石からつくられた鉄だと思う?」 「見たまえ、ワトソン君。これはヨーロッパで作られた鉄だよ。燐の含有量が異常に高い。この写真の黄色のシミは燐だ。 しかもこいつは19世紀の錬鉄(れんてつ)であって、現代鉄じゃないね」3、地球は不思議。専門家は偉い。 「どうしてそんなことがわかるかって?ハハハ。不思議なことに地球上でとれる鉄鉱石は大陸によって成分のバラツキがあるのさ。 ヨーロッパ産の鉄鉱石は他と比べると、異常に燐の含有量が高いのが特徴だ。今までの分析で、いろは丸であるという可能性を否定するデータは何一つ出ないね。以上が結論だ」 ということで、専門家はスゴイ。 科学的分析で、いろは丸の生まれ故郷の割り出し成功!「キメ手は燐の含有量ですね」とは、鉄鋼研究所分析担当者の話でした。いろは丸展示館 説明 posted by (C)きんちゃんいろは丸展示館2階には、竜馬の隠れ家が再現されています。いろは丸展示館_05 posted by (C)きんちゃん
2007年11月22日
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鞆港から常夜灯、山の中腹には医王寺が見えます。鞆港_03 posted by (C)きんちゃん対潮楼からの弁天島の眺め。朝鮮通信使が「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と絶賛した風景です。弁天島(対潮楼から)_02 posted by (C)きんちゃん対潮楼_02 posted by (C)きんちゃん10月、11月の土・日曜日は、人数が適当に集まった時点で、随時雅楽の演奏のサービスがありました。対潮楼_03 posted by (C)きんちゃん弁天島(円福寺から)_01 posted by (C)きんちゃんこちらは、円福寺からの弁天島。やっぱり同じ島でも、見え方が違う。
2007年11月21日
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鞆の浦の旅行で泊まったホテルで、ボンジョレー・ヌーボを提供していました。11月第3木曜日解禁。今年は11月15日。ホテルに泊まったのが、16日だったので、解禁されて2日目。レストランにこんな宣伝!シーサイドホテル posted by (C)きんちゃんグラス1杯700円。とても飲み口がよくて、美味しかったですよ。シーサイドホテル ボンジョレ・ヌーヴォー posted by (C)きんちゃんフランスとボンジョレー・ヌーボに関するマル・ペケ式のクイズが10問だされました。シーサイドホテル 当選 posted by (C)きんちゃん最後に、「一番たくさん正解したと自信ある人」と言われ、「9問正解した」と自己申告した女性。ボンジョレー・ヌーボではなけれど、ワインを1本プレゼントされました。シーサイドホテル 料理 posted by (C)きんちゃんホテルの食事。「鯛のカブト煮とお刺身」オプションで頼みました。大変美味しかったですよ。ホテルは、鞆シーサイドホテルです。
2007年11月20日
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鞆の浦には、江戸時代からの港湾施設が5つも残っています。すべて残っているのは、全国でも鞆の浦だけだそうです。昼のの常夜灯_04 posted by (C)きんちゃん1&2、雁木と常夜灯船の出入りを誘導し、“海上闇夜東西を失ひし時”の燈台、これが常夜燈です。この雄大な燈の高さは5.5m、基礎石は、3.6mです。竿柱の南面に『金毘羅大権現』北面に『当所祇園宮』の石額を掲げています。安政6年(1859年)に建てられました。江戸時代に造られた船着場、干潮でも、満潮でも荷物を積み下ろしできるよう石積みの階段状になってます。 posted by (C)きんちゃん3、波止場古代以来鞆港は、東側の大可島や西側の明神岬と南側の玉津島が波よけとなり、湾状の船溜まりであり、天然の良港となってました。 近世に入り周囲の埋め立てなどにより、砂の回流がなくなり、港の海底に土砂が堆積して浅くなったり、強風により、船舶が損傷を受けたりして、波止場の必要を生じました。1791年に最初のものが作られて、その後延長されていきました。写真は、大可島の波止場です。 posted by (C)きんちゃん右端に見えるのが淀姫神社の波止場です。現在の波止と重なっています。 posted by (C)きんちゃん昔の波止場の間に、今は、新たに波止ができています。写真は、淀姫神社から見たものです。波止場の全体の配置です。鞆の浦民俗資料館から見た鞆港です。焚場跡_01 posted by (C)きんちゃん4、焚場跡当時は、すべて木造船でしたので、フジツボやカキなどの貝殻や海藻が付着したり、船虫が付いたりするため、船底を焼いて乾燥させることによって、船命を長持ちさせる必要があります。これを「たでる」と言い、そのたでる場所を「焚場」と呼んでいます。この「焚場」では、船の修理も行われました。満潮時に船を引き寄せ、干潮時に船底を木の葉で燻したり、修理をする施設が焚場です。江戸時代の商港でこの施設が残っている所は極めて少なく、ここは最大で石畳造りの立派なものです。「焚場町」という地名も残っています。焚場跡_02 posted by (C)きんちゃん江戸時代の焚場は自然の岩盤を利用していたそうですが今は砂に埋もれてます。 砂の中からすこし、岩が顔をだしているのが分かるでしょうか?5、船番所船番所は「遠見番所」とも呼ばれ、江戸時代初期、鞆奉行荻野新右衛門が出船、入船の監視と難破船発見などのために建てました。 写真は、淀姫神社から見たものです。尚、説明文は、「澤村釣具店」のホームページから借用させていただきました。
2007年11月20日
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鞆の浦の朝日と夕日です。写真撮影は、「朝駆け、夕駆け」といわれます。「港町といえば、やはり朝日と夕日と撮らねば」ということで・・・[2007年11月17日の朝日と夕日]朝日が昇る前の、しばしの静けさ・・・。鞆港_07 posted by (C)きんちゃん朝日は、医王寺から撮影。鞆港の朝日_02 posted by (C)きんちゃん鞆港の朝日_03 posted by (C)きんちゃん港には、漁船の出港していく音が響き、海や山からは海鳥、山鳥のさえずりが聞こえます。活気ある一日の始まりです。もう、日が西の空に沈んでいきます。県営桟橋から撮影しました。鞆港の夕日_01 posted by (C)きんちゃん海鳥たちも、羽を休めています。鞆港の夕日_02 posted by (C)きんちゃん西の空が、一瞬、真っ赤に染まりました。
2007年11月19日
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潮待ちの港町 鞆の浦に行ってきました。鞆の浦といえば、やっぱり常夜灯です。観光写真で見る常夜灯は、なぜかいつも昼の写真ばかり。常夜灯なのだから、夜の姿を撮らないとあまり意味がない・・・夜の常夜灯_04 posted by (C)きんちゃん夕闇迫る、と言いたいところだが、夜明け前の常夜灯といろは丸展示館夜の常夜灯_03 posted by (C)きんちゃん常夜灯と月・・・もちろん合成です。夜の常夜灯_01 posted by (C)きんちゃん西側から見た常夜灯。バックの大きい建物は、鞆シーサイドホテルです。昼間の常夜灯_01 posted by (C)きんちゃんもちろん、昼間の写真もあります。漁船といっしょに。昼間の常夜灯_06 posted by (C)きんちゃんいろは丸展示館と常夜灯昼のの常夜灯_04 posted by (C)きんちゃん常夜灯と雁木。雁木とは、干潮でも満潮でも荷物の積み下ろしができるように、石積みの階段状になっています。上の平らな部分は、荷上場で、船をつなぎ止める「つなぎ石」も残っています。常夜灯のある浜は、文化8年(1811年)のものということです。雁木_01 posted by (C)きんちゃん常夜灯の対岸の雁木です。夕日があたって雰囲気をだしています。
2007年11月18日
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