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三連休は台風を心配して遠出はせずに秋田市内を散策久保田城跡(千秋公園)に行ってきました 本丸表門 秋田藩佐竹氏の居城。標高45mの神明山の丘陵上に築かれた平山城関ヶ原の合戦で西軍石田三成に通じたとして常陸54万石から出羽20万石に転封された佐竹義宣が1603年(慶長8)に起工。石垣をほとんど用いず、土塁と堀をめぐらして防備を固めた天守は築かず、8基の2重隅櫓と2階建ての御出書院が置かれた 佐竹氏は12代で明治維新を迎え1880年(明治13)の大火で御物頭御番所以外の本丸建物はほとんどが焼失した現在、城址は千秋公園として整備され、御隅櫓と表門などが復興されている 与次郎稲荷神社常陸から秋田に国替えになり、この山に新しい城久保田城を築いた佐竹義宣公の前に、一匹の大きな狐が現れました狐は義宣公に、「私はこの神明山に住んでいた齢三百の狐の頭であるこのたびの殿の築城により住む場所をなくし困っているので殿のお力で住む場所を与えてほしいもしもこの願いがかなえられるならば、必ず殿のお役にたちます」と願い出ました狐をかわいそうに思った義宣公は、狐に城の茶園の近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼ぶことにしました与次郎狐は約束どおり義宣公のため飛脚として秋田~江戸をわずか六日で往復し大いに働きました しかし、与次郎狐の活躍により仕事をなくした飛脚たちの恨みをかい羽州街道の六田村(山形県東根市)で罠にかかり殺されてしまいました与次郎狐の無念の死を哀れみ義宣公が祠をつくりその霊を祭ったのが現在の千秋公園本丸に移された与次郎稲荷神社です 10月4日から始まった第29回国民文化祭・あきた2014 作品が展示されていました台風は被害なく通り過ぎて行きましたっが風邪ひいちまって最悪の三連休になりましたくしゃみ、鼻水、鼻づまり熱のあとは咳まで><風邪の症状全部出まくりです 台風が去った後寒くなりました日曜日遂に暖房入れちゃいましたわもうすぐ冬が来るのねぇー
2014.10.15
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気持ちのいいお天気の日はカメラ散歩しています すごい家発見廃屋のようです・・・うぅー不気味だ>< きれいなニャンコ発見呼んだら逃げられた^^: 川沿いの遊歩道 甘くなるの? どっちが動くか我慢比べしばらく見ていたけれどまったく動かない負けた・・・ 呼んだらまたまた逃げられたまっ近づいて来られても困るんだけれどね^^; 紅葉の始まり夜中の雨が止んで朝は晴れていたのになんだか曇ってきました出かけたい所があるんだけれどどうしましょう 今日の朝ごぱん玉子サンドとポトフ
2014.10.10
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日曜日の夕方ウォーキングに出かけたToちゃんがカメラを持って帰ってきたなぜ? EOS M ダブルレンズキットレンズEF-M18-55mmF3.5-5.6 IS STM/EF-M22mmF2 STMマウントアダプター EF-EOS M、スピードライト 90EX リニューアルオープンした家電量販店で安く売っていたからだって¥37000確かに安いわCanon兄弟EF-M22mmF2 STMで撮ってみましたキャップにピントを合わせたら後ろのボケがいい感じ Toちゃん、カメラ男子デビューです
2014.10.08
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刈り取られた稲が干されていました 初めて見る光景です 秋田も岩手県ものどかな風景ばかりです...(´-﹏-`;) 無量光院跡(むりょうこういんあと)無量光院は三代秀衡が建立した寺院広大な境内地の中心に池がありその中島に本堂となる阿弥陀堂が建てられていました 宇治平等院を模して建立されました残っていたら素晴らしい建物だろうな 毛越寺(もうつうじ) 大泉ヶ池広大な境内には、かつて金堂円隆寺をはじめ嘉祥寺・常行堂・経楼・南大門などの堂舎が並びその前庭に大泉ヶ池を中心とする浄土庭園が配されていた 洲浜(すはま)海岸の砂洲を表現しています 出島と地中立石荒磯の風情を表現しており飛島には約2.5mの立石が据えられている地中立石は毛越寺庭園を象徴する景趣です 遣水池の東北側にある遣水は、池に水を引き入れるためと造られたものです「作庭記」に記述されている四神相応・吉相の順流であり曲がりくねる水路の流れに、水切り、水越し、水分けなどの石組が配されています毛越寺の遣水は平安時代の唯一の遺構で、全国的にも極めて珍しいものです 金堂円隆寺跡基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺で、本尊は雲慶作の丈六の薬師如来でした毛越寺の中心伽藍で、東西に翼廊が出て南に折れ東廊先端には鐘楼(しゅろう)が、西廊先端には経楼(きょうろう)が附属していました 基壇は石造り壇上積です 蕎麦と餅3種ずんだ餅美味しかったです蕎麦弁当わんこそばに挑戦しようかと思いましたが食べきれそうにないのでやめました( ̄(エ) ̄) 平泉今から900年前、奥州一円を掌握した藤原清衡が館を構えた所でありその後、基衡、秀衡、泰衡の4代、約100年にわたり政治・経済・文化の一大都市として平安末期の東北地方に栄華を誇りました 源頼朝によって藤原氏が滅ぼされなければ素晴らしい景色が残っていたんだろうな
2014.10.03
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世界文化遺産 平泉平泉文化は平安時代後期、奥州平泉に陸奥の豪族藤原清衡を父として子の基衡、孫の秀衡の奥州藤原三代がおよそ100年にわたって築いた文化をいいます平成23年に中尊寺を含む「平泉文化遺産」が世界文化遺産に登録されました 開山 中尊寺月見坂中尊寺の表参道を月見坂の道の両脇には樹齢300~400年ほどの杉の並木が続いています江戸時代に伊達藩によって植樹されました 弁慶堂この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である-案内板より- 本堂明治42年に再建されました中尊寺は高僧慈覚大師円仁によって嘉永3年(850)開かれその後、奥州藤原氏の初代清衡が江刺豊田館から平泉に移し、長治2年(1105年 )に造営に着手しました 鐘楼当初は2階造りの鐘楼であったが、建武4年(1339)の火災で焼失梵鐘は康永2年(1343)の鋳造銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である-案内板より- 金色堂新覆堂この建物の中に金色堂があります 金色堂は天治元年(1124)に建てられた奥州藤原文化の少ない建物の遺構の一つ初代藤原清衡により建立され、当時の技術の粋を集められています一辺が3間(5.46m)の宝形造、木瓦葺の小堂で柱、壁、床、天井、扉など総漆塗りの上に布を張りさらにその上に金箔を張っています 堂内には奥州藤原氏四代のご遺体が金色の柩に納められ安置されています 旧覆堂金色堂を風雪から護るため正応元年(1288)に鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂で古くは「鞘堂」と呼称-案内板より- 源義経が自害し、奥州藤原氏が滅亡した1189年その500年後の1689年に奥の細道の旅に出た松尾芭蕉が金色堂を参拝しました「五月雨の 降りのこしてや 光堂」この句の「光堂」が金色堂 白山神社 能舞台現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたものです(平成15年国の重要文化財指定)現行の能舞は天正19年時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が当社参拝の節観覧に供し依頼続行今日に至っている 武蔵坊弁慶大墓碑文治5年(1189)義経の居城高館焼打されるや弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて往生す遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた 「色かえぬ 仏のあるじや 武蔵坊 」 -案内板より- 源義経、終焉の地高館義経堂(たかだちぎけいどう)高館は北上川に面した丘陵で判官舘(はんがんだて、ほうがんだて)と呼ばれています判官舘と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来しますこの一帯は奥州藤原氏初代清衡公時代から要害地とされていました 兄 頼朝に追われ、少年時代を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は藤原氏三代秀衡公の庇護のもとこの高館に居館を与えられましたしかし文治5年(1189)四月三十日頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子、泰衡の急襲にあいこの地で妻子と共に自害したと伝えられています 弁慶の立ち往生藤原泰衡に館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すがついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている 義経堂天和三年(1683)、仙台藩主四代伊達綱村公が義経を偲んで建てました 平泉を訪れた松尾芭蕉は高館の丘陵にも登りました「夏草や 兵どもが 夢の跡」 転勤先や旅行先で義経ゆかりの地を観て回りましたがとうとう終焉の地に来てしまいました大河ドラマ「義経」のタッキーの顔が思い浮かびます
2014.10.02
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