1

パシフィック野球連盟は、パリーグの様々な記録を集めた「BLUE BOOK」(非売品)を毎年発行している。パリーグ略史・チーム別成績推移・在籍選手全名簿・年度別開幕試合一覧等々が詳細に掲載されており、ファンにとっては非常に興味深い資料である。その中に年度別観客動員表がある。パリーグは1950年に7球団(阪急・南海・東急・近鉄・西鉄・毎日・大映)でスタートしたが、初年度の観客数は全部で1,744,200人で1試合あたり4,200人であった。3年目の1952年からはチーム別も掲載されており、7球団合計で2,284,100人(@5,668人)、うち最も多い南海が656,002人(@10,843人)、最も少ない近鉄が95,202人(@1,763)人である。その後は少しずつ増えているが、70年代前半まで近鉄は年間30万人前後、リーグ全体でも300万人前後と低迷し、各球団共に赤字経営が慢性化した。近鉄球団は2004年まで続いたのだが、公共性の強い電鉄会社がよくぞ55年間持ちこたえたとも言えるのだろうか??
July 14, 2007
閲覧総数 146
2

西本監督時代に1番バッターとして活躍し「切込み隊長」と言われた平野光泰選手は、大阪の明星高校からクラレ岡山を経て71年のドラフト6位で近鉄に入団した。同期入団には後に監督を務めた佐々木恭介と梨田昌孝、さらには4番を打った羽田耕一がいてバファローズにとっては豊作のドラフトだった。闘志をむき出しにして相手に向かっていく気迫あふれるプレーぶりから「ガッツマン」とも呼ばれた。非常に勝負強いバッターだったが、最も印象に残っているプレーは79年6月、大阪球場で前期優勝を決めたホークス戦でのセンターからのバックホームである。同点で迎えた8回裏にノーバウンドで梨田捕手に返球してランナー定岡を刺し、ホークスの勝越しを防いだプレーにより前期優勝を達成し、さらにはその年のパリーグ制覇につながった。現役引退後はテレビ解説者を務めたり、ミナミでスナックを経営していたことがありしばしば店へ行って親しくしていたが、閉店してしまい最近は彼の消息も聞かなくなった。近鉄の球団史を語る時には必ず登場する選手である。
February 10, 2007
閲覧総数 1339

![]()
![]()