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物言えば 唇寒し 秋の空
これは、芭蕉の有名な句であるが、一般には 「人の悪口など、言わずもがなの余計な事を言ったりすると、思いがけない災いを招くことになるから、なるべく口を慎めということ」 というような意味で使われているようだ。
これは、この句に 「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」
という前書きがついているせいだそうだが、この前書き自体は元禄9年に上梓された 『芭蕉庵小文庫』 において追加されたものなのだそうだ。
芭蕉が亡くなったのは元禄7年だが、この 『芭蕉庵小文庫』 は史邦(本名は中村荒右衛門)という芭蕉の門人が師の死後に編纂したものである。芭蕉自身は、 「わが草庵の座右に書き付けることを思ひ出でて」
と前書きをしているそうだ。
しかし、漂泊の詩人たる芭蕉に、いささか道学者じみた訓戒の句などは似合うまい。この句には、むしろなにげないことを口にしただけで、周りから浮いてしまったり、ときには白眼視されたりして疎外感を味わったというような、 「属せない人」
としての経験がこもっているとしたほうが解釈としては素直なような気がする。
ちなみに、詩人の清水哲男は、この句についてこんなことを言っている。
(前略) 普通には 「口」 や 「口元」 だった。キスでも 「口吸ふ」 と言い、「唇吸ふ」 という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて 「唇」 と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」 と 「眼球をこする」 では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。
したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。
さて、いよいよ秋も深まっており、深夜になると空にはオリオン座が姿を現す。神話では、オリオンの傲慢に怒った女神が遣わしたサソリに刺されて命を落としたため、オリオンはサソリが浮かんでいる間は出てこられず、地平線の下にサソリが沈んでからやっと姿を現すのだそうだ。とはいえ、見方によっては、オリオンは憎き敵のサソリを、空の上で延々と追いかけているように見えなくもない。
太い柱とかの周りで二人で追いかけっこをしているうちに、どっちが逃げており、どっちが追いかけているのか分からなくなるというのは、昔からある古典的なギャグであるが、オリンピックでも、トラックを大勢の選手が何週も走る長距離走では、集団で走っている選手がしだいにばらけてくると、誰が先頭で誰がビリやら、一瞬分からなくなることもある。
平面であれ空間であれ、1点を通る線は無数に引ける。2点の場合、直線ならばたしかに1本しか存在しえない。しかし、2次関数のような曲線ならばやはり無数に引ける。
それと同じように、ある事象についての 「説明仮説」 は、それ1つのみを取り出せば、いくらでも立てられる。今日の天気がよいのは、どこかでチョウが羽ばたいたせいかもしれないし、大気中の二酸化炭素が増えているせいなのかもしれない。その原因も、ひょっとすると、どこかで放牧された牛がげっぷをしたせいなのかもしれない。
桶屋が繁盛し儲かって儲かってしょうがないのは、風が吹いたせいかもしれないが、誰かの陰謀のせいなのかもしれない。あるいは桶屋自身が、陰でこそこそとなんらかの工作をし、自分でよい噂だとかを振りまいたせいなのかもしれない。
とくに、ただの自然現象とは異なり、人間の意思、それも複数の意思が介在する社会的事象の場合、「陰謀」 だとか誰かの 「悪意」 や 「敵意」、他人を 「嘲笑したい」 という欲望だとか 「自己顕示欲」 によるだとか、はるかに多数の 「仮説」 が成立しうるだろう。
だが、多くの場合、ある社会的事象について、人がどのような 「説明図式」 を好み、採用するかということに示されているのは、その人自身のイデオロギー的な立場と思考の特性である。どこにでも 「陰謀」 をかぎつける人は、その人自身が 「陰謀論」 的な思考を好んでいるからにすぎない。実際、「陰謀論」 の教祖は、たいていが 「陰謀」 好きな人でもある。
同様に、たいした根拠もなしに、なにかといえば 「悪意」 だの 「嫉妬」 だのというような言葉で物事を説明しようとする者は、その人自身がそういった観念に強く捉われていることを意味するだろうし、どのような対立をも、ただの 「党派的」 な争いというふうにしか見られない者は、その人自身がそういう発想しか持ち得ない、視野の狭い人間であるということを意味しているにすぎない。
人がある事象について好んで持ち出す 「説明図式」 は、多くの場合、「事実」 についての説明というより、むしろその人自身が無自覚に持っている思考傾向の表明であり、また人間観や社会観の反映である。ある人が様々な事象を説明するさいに、どのような 「説明図式」 に最も惹かれるかには、その人自身の物の見方と思考の特性が現れている。
人はある仮説を立てると、おうおうにしてその仮説にあった 「事実」 しか見ようとしなくなる。それに、おのれを疑うということは誰にとっても非常に困難なことであるから、たとえ 「事実」 を目にしても、その事実をあらかじめ立てておいた 「仮説」 にあうように解釈することはそれほど難しいことでもない。
だが、どのような仮説が事象の説明として最も蓋然性が高いかは、仮説そのものの説得力はもちろんだが、結局は可能な限り公正な目で、可能な限り多くの事実を集めるという努力に依存するというほかはないだろう。とはいえ、それはむろん、たんなる願望のみによって可能なことではない。
2009.11.15 一部加筆
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