これはロマン主義の巨匠ドラクロワの
1826
年の作品「ミソロンギの廃墟上のギリシャ女性」です。
1821
年から始まったギリシャ独立戦争
1821-1829
年)中に、祖国の独立のために、残忍なオスマン帝国軍と戦い、玉砕した、ミソロンギ守備隊の史実に基づいて描かれています。
この、屈服するよりも死を選んだ、名もない英雄たちのエピソードは、現在、孤立無援の中で、マリウポリの製鉄所に立てこもって、ロシア軍と絶望的な戦い続けるウクライナ軍の姿に、相通じるものがあります。
ギリシャは
15
世紀以降、オスマン帝国の支配にありましたが、
1821
年に独立戦争が起こりました。約
10
年に及ぶ戦争の中で,約
20
万人ものギリシャ人が犠牲になったといわれています。
その中でも最も多くの犠牲者を出したのが、キオス島でした。キオス島はエーゲ海に浮かぶ大きな島で、トルコのすぐ西に位置しています。そのエーゲ海上で最も豊かといわれたキオス島に、
1822
年
3
月、約
2500
名のギリシャ義勇兵が上陸して、トルコ軍との間に戦闘が始まりました。
怒り狂ったオスマン帝国は
4
月に
7000
人の軍隊を島に上陸させ、島民の大量虐殺を行ないました。
12
歳以上の男性と
40
歳以上の女性,そして
2
歳以下の幼児が皆殺しとなり、その結果、キオス島だけで、なんと
25000
人が殺され、
45000
人もの女性と子どもが奴隷として売り飛ばされました。
島から脱出して生き残れたのはたった
10000
から
15000
人と言われています。このキオス島での大量虐殺は国際世論を巻き起こし、イギリスのロマン主義の詩人バイロンやフランスのビクトル・ユーゴーもペンを取ってトルコを糾弾しました。
さて、絵の舞台となったミソロンギは、ギリシャ中央部に位置する海辺の町です。ここはギリシャ独立戦争で、キオス島と並んで、オスマン・トルコ軍と激戦が繰り広げられた悲劇的な場所です。
1822
年以降4回もトルコ軍に包囲されたにもかかわらず、
1826
年まで持ちこたえました。
ギリシャ軍は2回目の篭城戦に勝利した後、イギリスの詩人バイロンも私財をなげうってミソロンギのために参戦し、翌年の
1824
年4月に戦地にて病死したことは国際世論を動かす上でも重要な役割を果たしました。
そして
1825
年、
5000
人の戦闘員と、その以外に女、子どもがたてこもるミロンギを、
15000
人のオスマン帝国軍が包囲しました。その後も、ギリシャ軍は
1
年間持ちこたえたのですが、オスマン帝国軍は、約
1
万人のエジプト軍を援軍として呼びました。食糧難と伝染病に苦しんだミソロンギの住民は、女、子どもを含めて約
9
千人がミソロンギを脱出して、
100
キロ北東のアムフィサという町に逃げようとしました。しかし、オスマン帝国軍は、その脱出した住人の大半を虐殺し、たった
1800
人のみ目的地のアムフィサにたどり着きました。
一方、ミソロンギにわずか残ったギリシャ守備隊は、
1826
年
4
月
22
日にオスマン帝国軍がとうとう町に侵入した際に、自ら要塞の火薬庫に火をつけて爆発させ、自決してしまいました。この作品は、そのミソロンギの悲劇的かつ英雄的な戦いを描いたものです。
それでは、画面を見てみましょう。薄いテュニックを着て、胸をあらわにした女性戦士の堂々たる姿は、ルーヴルの古代ギリシャ彫刻「サモトラケのニケ」からヒントを得たように思われます。彼女は、爆発で廃墟となった要塞の瓦礫の上に立ち、背後からオスマン兵が近寄って繰るにもかかわらず、両手を腰の横に広げて、澄み切った表情で、遠い空を見つめています。近い将来、必ずや勝ち取るであろう、自由と勝利を確信した、勝利の女神の眼差しです。
また、彼女が立っている瓦礫の下には、戦死したギリシャ義勇兵の手がのぞいています。この、同胞の屍を踏みしめながら、自らの命を、祖国の自由と独立の為に捧げる美女の姿が、
1830
年の代表作、「民衆をみちびく自由の女神」のアイデアの一つになったことは間違いありません。
蛇足になりますが、この絵のモデルとなったのは
Mlle Laure
と言う、ドラクロワの愛人です。
ところでミソロンギの悲劇と、ギリシャ軍の英雄的な戦いは決して無駄ではありませんでした。ミソロンギの玉砕は、ヨーロッパの世論を動かして、
1827
年のロンドン条約によって、フランス、英国、ロシア三国がギリシャ沿岸に共同で軍艦を派遣することになりました。
三国連合艦隊は、ペロポネソス半島のナヴァリノ湾において、偶発的に発生した海戦でオスマン・エジプト艦隊を撃破しました。この勝利が契機となって、ギリシャ軍は、ギリシャ本土を制圧して、
1830
年のロンドン議定書によって、独立が認められたのです。
最後に、今もなお、全滅の危険をも顧みず、祖国のために戦闘を続ける、マリウポリのウクライナ軍の崇高な祖国愛に、心から敬意を表すると共に、マリウポリに残る数多くの市民が、安全な場所に避難できることを祈っています。
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