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って、ワタシのことではありません。。←当たり前か・・・(涙)実は、麻布十番で輸入子供服のお店を経営されている麦茶さんにお願いしていた、オーダーメイド・バスケットが出来上がったのです!ジャジャーン!!キャワイイなあ~プロセスとしましては、何種類かあるバスケットの形や色をまず選び、その後、麦茶さんと相談しながらトッピングやアップリケをデザイン注文するのです。お店には過去のバスケット作品の写真や、テンプレートのようなデザイン集があり、それを見ながら自分の好みや予算を相談しつつ、麦茶さんとデザインを考えていくのですね。男の子の場合は、たとえば水色のバスケットにパトカーや自動車のアップリケがついたりします。女の子ですと、ピンクや赤のバスケットにクマちゃんやウサちゃんのアップリケやお花畑が加わったりするのです。もともとはお子さん向けのバスケットとして販売されていたようですが、お店に立ち寄るママさんたちが「お化粧品ケースとして使います!」といって、ご自身用に注文されることも多いとか。 うんうん、わかるな~その気持ち。 昔々、子供のころにお弁当やお菓子をつめて近くの公園にピクニックにいったりしたなあ~、なんて自分の子供のころを思い出したりもします。大人向けには、スマートなデザインの白や黒のバスケットに、クリスタルやすっきりしたお花などを付けると、それはそれでとても素敵なバスケットに変身するのですよ。私の場合は、お化粧品ケースにしておくなんて、もったいなくて、バスケットも可哀想なので、絶対使おうと思っています。デザインもかなり真剣に考え、麦茶さんと二人で「クマちゃんをもう一匹持ち手のところに座らせてみて~、それでラズベリーとかいっぱい抱えさせてみて~!」とか「お花をもっと盛り盛りトッピングしてみようか~?」などなど、作成中のバスケット写真をメール添付で送っていただきながら、調整をしました。←って、おい、ここ、仕事しろよって感じですが。。。この思い入れあるバスケット。デビューはいつになるかまだ未定ですが、今からワクワクどきどきしています。麦茶さん、ありがとうね!ご自分用にしてもよし、お子さんやお孫さんにプレゼントするもよし、おススメです。この、ココクマ・バスケット、この夏、大活躍しそうな予感がします
July 30, 2009
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「リンゴが教えてくれたこと」という本を読みました。青森県の故郷でリンゴの栽培を中心とした農業に従事している木村秋則氏が綴った作品です。これまで多くのリンゴ栽培農家が農薬と肥料に頼った生産を続けていましたが、これらの化学薬品の被害にあっているご自身の家族の姿を見て、「何とかして現状の農薬・化学肥料漬けのリンゴを栽培するのではなく、安心で美味しいリンゴを作りたい!」という思いで、無農薬・無肥料のリンゴ栽培を始めるのです。ご近所の同業者達からは村八分状態となり、「木村は頭がおかしくなった」と揶揄されながらも、自分が信じる道を貫くために、勉強と実験を重ねて無農薬・無肥料のリンゴ栽培にチャレンジし続ける木村氏。 収穫もない年が続き、経済的に限界を迎えながら、黙って応援してくれるご家族。そしてチャレンジを始めて6年目のある夜、思いもかけない大きな気づきが木村氏に舞い降ります。遂に責任を取って死ぬ覚悟でロープをもって山の奥深くに入っていった木村氏の前に現れた、立派な実生のドングリの木。 こんな山奥で農薬も肥料もないのに、これほどまでに見事な枝ぶりやみずみずしい葉を茂らせているのはなぜか? 自殺をする予定で入ったその山奥で氏は、自然のサイクルで創られた母なる土が全ての恵みに繋がる答えだ、と気づくのです。「そうだ、この土を作ればいい」と信じて、山や自然が当たり前のように繰り返している土作り(落ち葉や枯れ枝が朽ち、それを微生物が分解し土を作る)をリンゴ畑に応用し始めます。そしてその過程は、これまでの農業では当たり前に行われていた耕土や栽培の方法と真逆のプロセスでした。これまで常識とされていた栽培方法や耕土に対する固定概念を取り払い、自然の声に耳を傾け、リンゴや作物の気持ちになって土作り、畑作りを続けた結果、チャレンジしてから10年目、遂に無農薬・無肥料状態にした木村氏のリンゴ畑が満開のリンゴの花で埋め尽くされたのでした。木村氏とリンゴ畑・木との深い関わりと根気強く続けた対話の軌跡から、我々は学べることがとても沢山あるように思います。それは親子や夫婦の関係であったり、会社の人間関係だったり、自分が目指す仕事への取組み方に繋がるように思えてならないのです。またそれは今の社会のあり方や政治にもいえるのかもしれません。一般的に日本経済を樹木に当てはめると、まず中央に太い幹(首都)があり、そこから枝(地方都市)や葉(町や村)が伸びている、と考えがちです。しかし、本当は発想が逆で、実は末端の葉っぱ(町・村)がデンプンを作り、枝(地方都市)を通して幹(首都)を育て支えているのだ、と氏は強調するのです。どのような立場にいるかたが読んでも、我が身に置き換えて考える機会に恵まれる一冊ではないでしょうか。折を見て、読み返したい本の一冊に出会いました。
July 20, 2009
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先日、初めてその存在を知りました。愛する人の死や、かけがえのない家族との永遠の別れを受け入れることは、とても辛くまた時間がかかりますね。中には亡くなった大切な方の存在をいつまでも身近に感じていたいと願うご遺族も多いことでしょう。その希望に応えるのが、メモリアル・ダイヤモンドです。 最愛のかたを見送った後に遺される遺灰、遺骨の一部がダイヤモンドに加工されてジュエリーとして生まれ変わるのです。気温や外的環境の影響で、水がときに水蒸気や氷になってその姿を変える様に、遺灰や遺骨も特別な加工技術を経るとダイヤモンドに姿を変えることができるのだそうです。なんだかとても不思議な話ですね。出来上がったジュエリーのサンプルがHP上でも紹介されているのですが、そのダイヤモンドは淡いきれいなブルー色をしています。涙色に着色しているのかな?とも思ったのですが、その色合いは個々の遺骨に含まれる成分の比率により、同じブルーといっても一つとして同じ色はないのだそうです。色の違いも個性、ということなのでしょうか。「四十九日に納骨をする」という当たり前のように行われている日本のしきたりが、時に遺族の皆様にとって耐えられないことでもあります。できたらお骨をお手元やお仏壇にずっと置いておきたいと願う方も少なくないのでは、と思います。「永遠の別れをしても、心の中に大切な方は生き続ける」 とか「お骨をお墓に納めないと、仏様が成仏できない」などという解釈は、やはり頭では理解できたとしても、心から受け入れることは並大抵ではないことでしょう。どんなに自分自身を納得させようとしても、それはそう簡単なことではありません。 この世でお別れをした後も、大切な方の一部がダイヤモンドのペンダントや指輪になって、残されたご遺族の方がいつでも身につけることができる・・・。このダイヤモンドは、突然の別れを受け入れられないご遺族の方々が、すこしでも心の痛みを和らげることができる、癒しの結晶なのかもしれません。先日、友人がこのダイヤモンドを注文することになり、友人の付き添いとして一緒に営業の方からお話しを伺う機会がありました。その際にダイヤモンドの実物見本を拝見したのですが、0.34カラットのそのダイヤモンドはアクアマリンでもないブルートパーズでもない深い透明なブルー色をし、梅雨の合間の日差しを受けてきらきら輝いていました。そのダイヤを見ているうちになぜかとても謙虚な、そして暖かい気持ちになり、友人の心の痛みが少しでも和らぎますように、と心の中で手を合わせたのでした。ご参考までに ~ アルゴダンザhttp://www.algordanza.co.jp/index.html
July 13, 2009
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今日は七夕でしたね。みなさんはいかがお過ごしでしたか?毎年この日に思い出すのは、初めての飼い犬だった「クマ」のことです。物心がついたときにはもう家にいたクマ。夜な夜なえさをねだりに来たのがきっかけで我が家の一員になったそうです。毎晩やせこけた小さな雑種の野良犬にえさをあげているうちに、きっと母の情が移っていったのでしょうね。全身の毛は茶色なのに、なぜか顔だけが真っ黒でした。「クマ」と名づけられた野良犬は、それ以来、桜の古木がある庭の隅っこに小さな犬小屋つきの居場所を見つけ、7年近く家族の一員として共に生活をしていくのです。当時、両親はよく週末の夜にはクマから鎖をはずして「遊んでおいで!」とご近所に放していました。(今考えるととんでもない!とご近所様から大目玉を喰らいそうですよね。)当時住んでいた、横浜の保土ヶ谷区和田町町内会の皆様、あの時は本当にスミマセンでした!!水を得た魚と化したクマは、のびのびと近所を走り回り、ご近所の犬仲間にちょっかいを出したり、時たまケンカを吹っかけたりして散々遊びまわり、数時間後に意気揚々と我が家に戻ってきていたそうです。首輪に「児玉クマ」と書いてあったから、飼い主さんから苦情が来てもおかしくなかったのに、そんなお叱りもあまり受けた覚えはありません。やっぱりご近所の皆さんは寛容だったのかなあ。それともクマが悪賢く立ち回っていたのでしょうか? 今となってはわかりません。夏休みには車に乗って一緒に家族旅行にも行きましたし、お正月、入学式、七五三、卒業式、などのイベント日に庭で記念写真を撮るときはいつもクマも一緒に写りました。一緒にいるのが当たり前の存在で、ずっと一緒にいるものだと思っていました。なのに、クマとの別れは突然やってきました。その日は激しい雷雨で大雨が降っていたのです。年を取って心臓も弱っていたクマは雷の音にショックを受けたのか、もう寿命だったのか、夕飯のえさをあげに小屋まで行った時は、縁の下でひっそりと丸まって死んでいました。「ご飯だから起きて!」って何度も呼びかけても、いつもご飯を求めて寄ってくるときの鎖の音がしません。目の前にはクマがいるのに、やはりそこにはクマがいない。それは初めて私が体験した身近で大切な存在の「死」でした。ちょうど30年前の七夕の夜の出来事です。笹の葉と短冊が目に留まるこの時期になると、今でもよく無愛想な黒い顔と、前足の肉球の焦げ臭いにおい(前足をつかんで肉球の間のにおいをかぐのがなぜか好きでした)を懐かしく思い出します。七夕の夜に旅立ったクマはきっと星になって今では天の川の一部になっているのかもしれません。 ほろ苦く、そして懐かしい思い出です。
July 7, 2009
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