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8月1日からいよいよ集中稽古です。今回もハイライトシーンをご紹介します。山岡母 ミチ子、弁当はもったかいね?ミチ子 心配せえでも、ちゃんともっとるよ。4 ミチ子さんは、振り向いて弁当を高くかかげた1 女の子たちは町内の広場で縄跳びをやっていた2 金魚売のオジサンが声を張り上げていた3 玄米パン売りが自転車をこぎながらラッパを吹いている4 赤ん坊が母の乳房をしゃぶっていた1 鳥籠の小鳥に餌をやっている主婦がいた2 猫がゆっくりととおりを横切った3 そのとき (音、止まる)4 エノラ・ゲイの爆弾倉の扉が開いた。スクリーン 爆発 40秒前5 自爆装置が点火電気回路の第一スイッチを入れた 爆発 39秒前6 電流が点火装置に向って定められた区間だけ前進した 爆発 30秒前1 路面電車が人々を乗せて走り出した。 爆発 20秒前2 高度2100メートル、自爆装置が第二スイッチを入れた。 爆発 九秒前男の子1 ほら、あそこ、今夜の食料が泳いどるぞ男の子2 どこじゃ男の子1 みえるじゃろうが 爆発 0秒前男の子2 あれなんじゃ男の子1 魚にきまっとろう男の子2 川じゃのうて、空じゃ きらきらして SE 爆音(またはイメージ)ナビゲータ 爆発から十億分の一秒後、爆心地の温度は摂氏六千度に達した。 スレート屋根を溶解させ、女性の髪の毛がぱっと燃えた
2006年07月28日
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立ち稽古に入り、方言指導も済ませました。 稽古にも、みんなの身が入ってきています。 稽古風景と台本の一部をご紹介します。 《予告編》ナビゲータ エノラ・ゲイは予定通りゆっくりと上昇をつづけた。 高度8800メートル、エノラ・ゲイより一足早く テニアン基地を飛び立った気象観測機から連絡が入った。 イーザリー 「ストレート・フラッシュ」から、「エノラ・ゲイ」へ、 「ストレート・フラッシュ」から「エノラ・ゲイ」へ ネルソン 受信しました。Y―3 Q―3 B―2 C―1。 「低・中・高空とも雲量一〇分の一以下。」 「第一目標を爆撃せよ。」 チベッツ ハレルヤ。(笑)快晴ってわけだ。広島だ。 ナビゲータ その時広島は8月6日の朝を迎えた。 晴れて雲ひとつない夏の日がはじまっていた。 女性1 おはよう。 クルー 照準点まで10分前。 女性2 おはよう。 チベッツ 管制盤はどうだ。 女性3 今日も暑いねェ。 クルー 異常ありません。 女性2 あんたンとこの娘は、今日はどこへいっとりんさる? クルー 高度3万1060フィート、気速1時間200マイル。 女性3 相生橋のあたりじゃいうとってじゃ。 クルー 進入点。 女性1 うちの坊主は、今日は川で遊びよると。 クルー 広島だ! 橋が見えたぞ! 女性3 ほう、空見てみい、ゆうらゆうらとなんか落ちてきよるわ。 チベッツ 信号音停止用意―旋回用意! SE オートトラックの音 路面電車の音 街のなかのありふれた生活音 女性2 あれ、ぴかっと、ありゃぁ みな一様に天を仰ぐ。ストップモーション。 スクリーン <タイトル>「ヒロシマ」
2006年07月26日
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昨年はオリジナル台本での公演です。 こんな舞台を作り上げての公演でした。 今年もほぼ同じ規模で行います。 ホームページをご覧下さい。 URL:http://www.photo-make.co.jp/sakura.html そして再び今年の宣伝です。ぜひご来場下さい。HPからお申し込み。 被爆61年 桜隊原爆殉難者追悼会 ――――――――――――――特別企画――――――――――――――― 新藤兼人監督シナリオ 『ヒロシマ』――朗読構成 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 2006年 8月 6日(日) 受付10:30から 10:30~ 碑前祭・記念撮影 11:30~「ヒロシマ」開演 12:30~ 休憩・軽食・懇親会 (14:30閉会) ●参加費:3,000円 (高校生以下1,000円 ) ●会場:目黒 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒 3-20-11 電話03-3792-6751 主催:桜隊原爆忌の会 会長 中村美代子 五百羅漢寺へは、 *JR目黒駅から徒歩15分。 *目蒲線・地下鉄南北線「不動前」から徒歩約10分。 *目黒、中目黒からはタクシーで1区間。 *東急バス「渋41」渋谷←→大井町(中目黒経由) 渋谷駅南口ロータリー33番乗り場から。「不動尊参道前」下車1分。 《 出 演 》 有馬理恵(劇団俳優座) 浦吉ゆか(青年劇場) 遠藤祐明(板橋演劇センター) 河村理恵子(劇団民藝) 野沢由香里(青年座) 渡邉 力(フリー) 台本構成/山口みる 音楽/古川東秀
2006年07月25日
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桜隊原爆殉難者追悼会 今年の公演【特別企画】新藤兼人監督シナリオ ヒロシマ――朗読構成 昨年の8月6日が土曜日にあたったため、大きな企画を立て、たまたま広い会場を使わせてもらうことになったのですが、今年も日曜日と考えると、昨年末から企画はなかなか煮詰まりませんでした。ずいぶんといろいろな企画を練りましたが、なかなか決定打が出ません。1月末でしたか、僕の持っていた本『新藤兼人・原爆を撮る』を演出家が見て目を通すと、「これ、上演できないかしら?」 シナリオとしては難しいと思っていた僕の目を開かせてくれました。そう言われれば、朗読劇の方が向くかもしれない。後は演出家の構成次第。交渉の手紙を演出家に任せて1か月ほど待ちましたか。 交渉は難しいかもしれない、そんな話の出た会議解散の後、僕の事務所に1枚のハガキが届きました。 新藤監督が全面的に了承してくれたのです。 今日はとりあえず、このシナリオへの新藤監督の熱い思いを、その著書から一部抜き出して紹介します。(チラシに掲載したものです)-------------------------------------------------------- 映画「ヒロシマ」のシナリオは出来ているが、映画はまだである。 「原爆の子」「第五福竜丸」「8・6」「さくら隊散る」「原爆小頭児――ヒロシマのお母さん」と撮ってきたわたしは、しめくくりとして是非「ヒロシマ」を撮りたいと思っている。 それは、原爆が落ちた瞬間を撮り残しているからである。(同書「未発表シナリオのこと」冒頭部分) -------------------------------------------------------- 《創作ノート》新藤兼人 この映画は広島に投下された原子爆弾の実体を描くものである。 原子爆弾を投下したのは、何処の国か、原子爆弾はどんな殺戮力をもっていたか、広島市民は何十万殺されたか、残留放射能はその後どんな風に人間の内臓を破壊したか。 これらの問題は、よく研究され、明らかになって、世界の人たちは、研究結果の数字はよく知るところである。 しかし、大事なものが残されている。それは原爆の『残酷』の問題である。一秒二秒三秒の間に何が起きたか、白閃光に人間が焼かれ、爆風に人間が吹き飛ばされ、何万という人間が悶絶した。その実体は、だれも示していない。 原爆を発明した科学者たちが原爆投下の成功に歓声をあげているとき、広島の人間は死に向かってのたうちまわっていたのだ。 アメリカは、原爆がどれほどの威力が、あるか、試して見たかった。試しに人殺しをやったのだ。戦争をする人は、どんどん人を殺すことが、勝つことだと思っている。 原爆が投下された、人が殺された、あと広島が壊滅された。映画はその三段階の場面と取り組む。 そうすることによって、原爆が投下されれば、どのように、どれくらいの人間が、一秒二秒三秒の間に殺されるかがわかる。 映画『ヒロシマ』は、そういう一秒二秒三秒の映画である。(同書より)
2006年07月23日
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*4人の最後 でも、丸山隊長は生きていました。下敷きになった家の下から、何とかもがいて抜け出したところを、怪我人たちに混じって学校の校舎に収容されていたのです。それを、東京から戻った隊員たちが探し出しました。まわりには、顔が半分崩れたように火傷を負っている人、体中の火傷の跡から膿を流している人、生きているのか死んでいるのかわからないような人たちの中に、丸山さんは横たわっていました。「来てくれたか、来てくれたか。」 そう言うと、丸山さんは涙声になりました。「みんなは? 助かったのか?」と、聞き、そして残念そうに言いました。「俺一人、生き残っちゃったのか。すまない、すまない。」 そこで二人は、桜隊の俳優さんらしい姿を見かけたという、近所の人の話をして、丸山さんを安心させました。そして、少し離れた厳島の存光寺というお寺まで連れて行って、休ませました。丸山さんは、病気と、原爆を浴びたこととで、40度もの熱があり、体が弱りきっていたのです。 でも、「助かったんだ」と、本人も、周りの人も思っていました。 丸山さんは、高い熱を出していたので、「暑い、暑い」と言いながら、布団から抜け出して井戸水をあび、看病している人に何度も叱られました。そして15日、日本は負けて戦争が終わったという天皇の声が、ラジオから流れました。そのとき、「また、芝居ができる時代になったんだね。きっと、いい芝居をやってみせるよ。」と、丸山さんが言いました。 しかし、丸山さんは、その次の日に亡くなってしまいました。もう、食べ物も水ものどを通らない状態でした。原爆の放った放射能が、一見助かったように見えた丸山さんの体の中を蝕んでいたのです。 近所の人が姿を見たという、園井恵子と高山象三、仲みどりの三人も、爆弾の下から抜け出すことができて、それぞれ助かったと思っていました。 園井さんは、高山象三を連れて、兵庫県の知り合いの家まで電車で戻りました。一時元気に見えた2人も、毛が抜け落ち、黒い血を流し、苦しみながら死んでいったのです。高山象三は20日の朝、園井恵子は21日の夕方のことでした。 仲みどりは天幕1枚で身を包み、東京の自分の家まで戻ることができました。そして、戦争の終わった8月15日に、体の具合が悪いので、東京大学の付属病院に息、入院しました。しかし、手当ての甲斐もなく、ほかの3人と同じように、24日に亡くなってしまいました。 こうして、桜隊に加わり、広島に残っていた9人は場所を違えながら、順々に亡くなっていったのです。 今もこの9人を偲び、原爆の恐さを伝えている会があります。毎年8月6日の朝からその会は開かれています。原爆を受けてから48年後の1993年、その人たちの力で、広島以外の土地で死んでいった園井恵子、高山象三、仲みどりの3人の名前が原爆慰霊碑の名簿に書き加えられ、9人全員が、やっと原爆の地で揃うことになったのです。<終わり>(小峰書店・近野十志夫編「子どもノンフィクション8・戦争の悲劇」『象のいなくなった動物園』から加筆して掲載)【追記】今年の7月2日、「桜隊」の俳優や舞台監督計7人について、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市/平和記念館とは別の国立の施設です)に氏名と遺影を登録しました。丸山定夫と園井恵子はすでに遺族の手で登録されていましたが、その他は未登録となっていたのです。今回、7名を加え、原爆の犠牲になった9人全員が登録されたことになります。(*これは、本年7月3日前後に新聞に掲載された記事の骨子ですが、NHKテレビ、朝日、毎日、読売、サンケイ、中国新聞で広島を中心に報道されたのを始め、共同通信の配信記事として全国地方新聞にも掲載されました。)
2006年07月06日
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*運命の分かれ道 さて、6月の出発にあたって、「桜隊」と名前を変えた劇団に加わった隊員は、14人でした。赤紙(国が兵隊として呼び出す命令書)が来て、参加できなくなった俳優がいたからです。14人の落ち着いたところが、高野さんのお屋敷で、ここが、宿舎を兼ねた桜隊の事務所になったのです。 桜隊は、広島を足場にして、島根県と鳥取県の町を公演して回りました。7月6日から15日の間でした。丸山定夫隊長の病気はだんだん重くなっていましたが、舞台では精いっぱいがんばって演技を見せてくれました。 しかし、公演を終えて16日に広島に戻ってみると、日本はますます追いつめられ、広島もいつ爆撃を受けるのかと、大騒ぎになっていました。次の公演どころではありません。俳優さんたちは、仕事のめどが立たずにいらいらするばかりです。そんな中で、3人の俳優さんが仕事を探すために東京に帰りました。また、一人の俳優さんは、家族が疎開先で空襲を受けたのを知って、様子を見に帰りました。こうして、4人の男の俳優がいなくなってしまい、最後には、事務局の責任者が、参加してくれる俳優を探しに、東京へ出かけていきました。 そして、広島に残ったのが、原爆にあった九人だったのです。 *原子爆弾の恐ろしさ さて、お話を8月6日の朝、8時15分に戻します。 広島上空で原子爆弾が爆発し、ピカッという光を浴びた瞬間、広島中の建物は激しく揺れ、崩れるようにつぶれてしまいました。多くの人が、その建物の下敷きになりました。つぶれた建物からは、火が吹き出しました。その火は広がるばかりで、夜になってもおさまらないどころか、ますます広がり、広島中を火の海にしていきました。まるで地獄のように、炎は天を焦がします。広島は一夜のうちに、熱く白い、灰だけの町に変わってしまったのです。建物といっしょに焼けてしまった人がたくさんいました。 しかし、原爆が恐ろしいのは、そうした火災によるものではありません。原爆の光を受けた人びとは、体中に激しい火傷を負いました。何しろ、原爆が炸裂したときには、セ氏何百万度という高い熱が生まれるのです。それが30万度という火の玉になり、地上に3000度から4000度の熱が届きます。そして、1キロ以内の地点で直接光を浴びれば、1800度の熱に焼かれてしまうのです。1800度といえば、鉄をも溶かす温度です。人間は、ひとたまりもありません。あっという間に、黒焦げになってしまいます。そうした死体が、広島の町中にごろごろしているのです。また、激しい熱を浴びた火傷の火ぶくれがつぶれ、皮膚がはがれて手足にぶら下げている人もいます。爆発の勢いでガラスが割れ、体中に突き刺さっている人もいます。それは、地獄のような世界でした。 桜隊を離れて東京に戻っていた隊員たちは、ニュースで広島に落ちた大型爆弾のことを知りました。戦争の被害で、鉄道もたいへん不便になっていますから、何回も何回も乗り換え、2人の隊員が広島に着いたのは10日の昼過ぎでした。焼け跡からはまだ、チロチロと炎の上がっているところもありました。そしてやっと、事務所の跡にたどり着きました。その焼け跡からは、3日後、5人の骨が見つかりました。押しつぶされた家の下で、逃げることもできずに、炎に包まれていったのでしょう。(小峰書店・近野十志夫編「子どもノンフィクション8・戦争の悲劇」『象のいなくなった動物園』から加筆して掲載)
2006年07月03日
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