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今日の読売新聞朝刊第7面に、橋本五郎氏に「政治家の品格を考える」と題した一文がありました。
そこでは、クラシックの由来を説き、「人間が人生の危機に直面したとき、精神の力を与える書物や作品」という意味を紹介しています。
さらに、「人間としての古典」として台湾前総統の李登輝氏を評しています。
今、学校教育の中で、広い意味での教養というものの価値が失われているような気がしてなりません。古典の定義が上記のようなものだとすれば、高校レベルで履修する内容は古典とは程遠い現状です。
日本の古典も、中国の古典も、西洋の古典も触れる機会があまりにも少ないのです。
国語の時間、歴史や公民の時間がその役割を担っているのでしょうが、受験のための枝葉末節に目が行き、その思想や感性を十分味わうことができずに終わっています。
現代的なテーマも大事です。科学技術のためや、意思伝達のために理数や英語が大切なこともわかります。
しかし、いざというとき、あるいは人生を通した生き方を問うとき、人格を陶冶する鏡としての古典の必要性は決して軽くはないはずです。
特に、一流進学校と呼ばれる高校の生徒などは、功利的な学問だけでなく、古典ひいては人間についての深い洞察力を身につけてほしいと思うしだいです。
こんなことを考えたのは、今月号の文芸春秋誌の特集、昭和の陸軍の中で、陸軍幼年学校出身者とそうでない将軍たちの資質についての論考があったからでもあります。
陸軍幼年学校というのは、今の中1ないし中2から2~3年間の時期の学校で、そのまま陸軍士官学校へ進学しました。ほかの旧制中学出身者も陸士へ入学できました。
陸士出身者で優秀なものは陸軍大学校へ進み、その中から陸軍の中枢を担う人々が出てくるのです。
幼年学校出身者はいわゆる純粋培養のエリートです。しかし彼らが、日本の戦争指導の最も責めを負わなければならない人たちでもあったのです。専門性が高ければいいというものでもないのです。
教養を正しく身につけて、総合的な判断力や人間的な深みを持った人々が社会の指導的立場に立ってもらいたいし、真の一流校といわれる学校ならば、そうした人々を数多く輩出すべきだと思います。