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昼食を食べた後、私たちツアー一行は、チャーター船に乗って長島遊覧へ。養殖ブリ生産日本一の養殖筏が散在する海を巡り、船長からいろいろな説明を聞くことができた。 東町漁業協同組合が商標登録した「鰤王」の養殖現場を目の当たりにして、私が想像していた以上のそのスケールに驚いた。その生産量は年間約12000トンだそうだ。稚魚(モジャコ)から出荷まで一貫しているとのこと。 午前中に針尾公園の展望台から下に見えた伊唐大橋を今度は海上から眺める場所に案内された。 養殖場の珍しい場所を見て満足した私たちは、今度は化石で有名な獅子島に案内された。嬉しいことにここで約15分の上陸をすることもできた。 船を降りて目の前の崖の上に「獅子島幼小中一貫校」があった。 その崖の下の道路沿いに「アンモナイト」と「サツマウツノミヤリュウ」の大きな造り物があった。ここで、ほとんどの人々が記念写真を写していて、この写真を写すまでは少し時間がかかった。 獅子島はお隣の熊本県御所浦島と共に日本有数の化石産地だという。島の大部分は約1億年前「白亜紀」の地層とされる御所浦層群で覆われいる。島の北西岸の御所浦周辺には新しい姫浦(ひめのうら)層群が露出し、更に片側から白浜を結ぶ海側には、より新しい数千年前の古第三紀の地層が表れている。いずれの地層にも化石が多く含まれるが、特にアンモナイトや爬虫類の化石も発見される白亜紀の地層は古生物ファンにとっては魅力があるのだという。 船着場の前にはちょっとした食堂兼お土産屋の「獅子島屋」があった。 船着場の前には「片側港」というバス停があっかご
2024.03.14
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新年の挨拶が遅れましたが、「皆さま明けましておめでとうございます。このところなかなかアップされない拙ブログ共々、本年もよろしくお願いいたします。」 今日は私の何と84歳の誕生日です。いつものように朝6時起きで、身の周りの事を済ませ、同居する二男を勤めに送り出すと、自分の自由時間である。今日は、ここ数年続けている誕生日記念の「上町五社詣り」の日である。天気晴朗にして、朝方こそ今シーズン最低の2℃を記録したものの、日中の最高気温は14℃予想である。昨年は家庭の事情で行けなかった五社詣りを決行することにして、朝9時10分のバスで順路で一番になっている「南方神社」に近い清水町バス停で下車する。ちょうど10時に到着した。 この南方神社については、これまでも何回も書いてきたので詳細は省くが、鹿児島五社の筆頭の神社である。信州諏訪大社の分社で諏訪神社(おすわさあ)と言われる。薩摩藩主の崇敬が厚かったが、庇護を失い衰退した。2004年に社殿が老朽化により取り壊された。現在の社殿は2010年に再建された。場所は鹿児島城(鶴丸城)の前を通り島津家の磯庭園(現在の仙巖園)に向かう国道10号線沿いの左側にある。 続いては2カ所目の「八坂神社」。言わずと知れた祇園祭(おぎおんさあ)で有名である。 すぐ隣の石橋公園から見た櫻島。私自身、今年初めて写した櫻島である。迫力に欠けていますね。 八坂神社から南方神社方面に引き返し、再び南方神社前を通り、仙巖園方向に行き、左側に入った山の下にあるのが3番目の「稲荷神社」ここも以前何回も詳しく書いているので詳細は省きます。 稲荷神社の鳥居の前から右側に歩くと我が母校・清水中学校がある。ここは清水城のあった場所でもある。 清水中学校を背にして稲荷川に架かる橋を渡って清水小学校に向かって進むと左側に「仁王堂水」がある。私が中学校や高校に通うためにこの前を通るころはまだ湧き水を掬って飲む場所ったが、現在は水道になって、蛇口からみづが出るというなんとも無粋なことになっている。 清水小学校を左に見ながら三叉路を左に行くと4番目の「春日神社」に到着。 春日神社から引き返し、先ほどの三叉路を道なりに進むと5番目の「若宮神社」である。ここも今回は省略。 若宮神社を後に右に出て大きな道路を左に行くと国道10号線に帰ってくる。ここの昔から美味しいと評判の「つきあげ」(さつま揚げ)の早﨑屋がある。これも恒例になっているのだが、今年も買って帰ることにした。たくさん買ったら、一本味見をさせていただいた。空腹につけあげが美味しかった。 その後、鹿児島駅前で今は亡き同級生の息子さんが経営するお好み焼き屋「彦太郎」に寄ってお好み焼きを食べて金生町のバス停まで歩いた。バスに乗ってスマホの万歩計を見るとなんと「8880」歩となっている。何とも言えない縁起の良い数字に驚いた。若宮神社で「五社詣り」も終わったと思い万歩計を見た時は6700歩くらいだったので、それから2000歩くらい歩いていた。今年最高の歩数だったが、疲れも感じることなく歩くことができた。この調子で今年は生きたいものだ。
2024.01.05
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このところ体調もいいとは言えない中で、昨年までは夏場が過ぎると始めていたウオーキングも今年は暑さが続くとはいえ始める気分にならないまま今日まできていた。10月27日にこれではいけないと思い少し歩いてはみたのだが、身体がだるくなって30分くらいで切り上げたことがあった。そこに持ってきて29日の校区運動会での顔面を負傷するという無様なことも起こしてしまった。 そいう中で11月2日、少し懸念していた自分自身の問題が解決したのである。それ以来2,3日しか経っていないが、不思議なものですっかり元気を取り戻すことができた。そして昨日はカットバンをつけたまま定例のグラウンドゴルフに参加して、仲間の皆さんに運動会で迷惑をかけたことを詫びたり、年末のグラウンドゴルフクラブの忘年会の打ち合わせをしたりすることができた。そして、今朝は母校・鹿児島大学の駅伝部が出場する「第55回全日本大学駅伝対校選手権大会」を第二中継所まで見て9時40分に家を出て歩き始めたのだった。 するとこれまで買い物に行ったり、その他の用事でも外出して少し歩くだけで違和感を覚えていた体調がどうもない。これはいけるぞ! とこれまでの歩きのコースをどんどん歩き始めた。30分くらい歩いたところで自分の体調を推し量ってみたが、まだいけそうである。そこで同じペースで久しぶりのコースをどんどん進んでいった。温度も上昇しているのだろう。肌着の代わりに着たTシャツが汗ばんでくる。そして、ここから引き返せば大体1時間くらいの場所というところまで来て引き返すことにした。もう少しコースを変えれば1時間15分くらいという私なりのコースもあるのだが、今日はこの辺りでということで戻ることにした。 帰りにちっちゃな野菜屋さん兼果物屋さんで果物でも買おうと店の前を通ると今日は休みだった。青果市場が休みだから営業は出来ない日曜日だということまでは頭が回らなかった私である。家に帰ってTシャツを着替えたがその上にシャツをつけることもなく夕方まで過ごしたほどの暑い? 一日だった。 爽快な一日を過ごした今日だったが、明日は午後から雨模様の予報が出ている。しかし、傷も癒えてきたので明日から通常の生活に戻る予定である。
2023.11.05
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鹿児島県合唱連盟と合唱振興基金の主催で11月3日「世代と仲間をつなぐコンサート」が開催される。今回のコンサートは文字通り世代と、どこそこの合唱団員という枠を乗り越えて歌うように下のポスターにある8つのステージが設けられている。私はその中の「一般男声合同」と「シニア合同」の二つに出演して歌う予定である。 今日は私たちの男声合唱団・楠声会の練習日だったのだが、その会場に他の合唱団3団体から男性の有志が集まって総勢70人くらいでの練習となった。本番は80人くらいを予定しているとのことだ。今回「一般男声合同」で歌うのは4曲。 1,秋のピエロ(「月光とピエロ」より) 2,梅雨の晴れ間(「柳川風俗詩」より) 3,群青(福島県相馬市立小高中学校平成24年度卒業生 構成 本田美樹) 4,少年時代(井上陽水 作詞・作曲)「月光とピエロ」は男声合唱をやったことのある人なら誰でも歌ったことがあると言っても過言ではない堀口大学作詞、清水修作曲の有名な歌である。「柳川風俗詩」も同様で北原白秋作詞、多田武彦作曲である。いずれも男声合唱曲の定番であるので、男声合唱の合同演奏の時にもよく歌われる。 今日はこの2曲を男声合唱団「ひびき」の指揮者の指導で歌った。あと2曲の「群青」と「少年時代」は我らの指揮者の指導で歌った。本番もこのお二人の指揮で演奏する。本番までの練習は29日、再び同じ方法で行われる。 もう一つ私がエントリーしている「シニア合同」は過去二回練習があったのだが、いずれも参加して練習した。最後の練習は10月24日(火)の予定である。こちらは2曲 1,マイ・ウェイ(片桐和子訳詞、野間幹夫編曲) 2,切手のないおくりもの(財津和夫作詞・作曲 野間幹夫編曲)この2曲とも皆さんご存じの有名な歌である。いずれにしてもシニアと男声の残された一回づつの練習を楽しんで本番に備えたい。
2023.10.22
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公園から右方向を見渡すとツツジが満開であった。真ん中に見える道を歩いて行くと激戦地跡に行くことが出来る。車が時々行き来していたが、今回も私はそこまではたどり着けなかった。 西南戦争の顕彰碑として建てられた「崇烈碑」。 これが歌でも有名になった「馬上豊かな美少年」の彫像。 西南戦争とは関係のない戦国時代の島津と戦った証がこのような形で残されていた。 「田原坂西南戦争資料館」これまでの案内板などにもあったように田原坂は西南戦争で17日間にわたり戦闘が繰り広げられた激戦地で、当時の貴重な政府軍と薩摩軍の武器、弾薬、備品などの遺品や戦争資料約600点が展示されている。
2023.10.12
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白池地獄を後にして、有名な7ヶ所の地獄の中でこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」と「かまど地獄」に行こうとしたが、それまでの長崎の旅で歩き回った疲れがドッと出てきて残念なことに、もうどうでもいいやという心境になってきた。そして「鬼石坊主地獄」は入口から見ただけでスルー、「かまど地獄」もスルーしたが、7ヶ所には入っていない「山地獄」を目にして、ここで少し休憩しようと入場料を払って入場した。そこは、山のいたるところから噴気が上がっていたが、疲れのせいなのかそれらの写真は一枚も写していない。ここはまた温泉熱を利用してカピバラやヤギなど小動物が飼育されていた。結局上の「山地獄」の写真の1枚だけで、ここの前に座り込んでしばらく休憩しただけだった。 山地獄の見学を終えて、もうその日の宿泊地である別府の市街地に向かおうと歩いているとその日、高速バスを降りた場所の近くに亀の井バスの営業所を発見し、そこからsunQパスを使って別府駅まで行くことが出来た。 別府駅前で久しぶりに「油屋熊八」の銅像に対面した。この油屋熊八は別府観光の生みの親と言われている。満面の笑みで両手を高く挙げたポーズで有名。 この日はホテルに入り、温泉にも入ってゆっくり休憩した明けて3月30日、この日は鹿児島に帰る日である。 先ず「海門禅寺」の近くにある「海門寺公園」に向かう。お寺の向こうに別府タワーを望める公園である。ここでしばしゆっくり過ごした。 歩いて別府タワーへ。ここも久しぶりの訪問だったが、展望所には上らなかった。 海を眺めたくなり別府湾の方向へ歩く。正面に見えるのは猿で有名な高崎山。 左側にはホテル群が見える。 別府からバスで鹿児島に帰る方法は九州横断道路の「やまなみハイウェイ」を通って熊本で乗り換えて鹿児島に帰る方法もあるが、今回はバスのつながりが悪かったので、別府~博多乗換~鹿児島のルートをとった。ここは別府北浜のバス停近くにあったスターバックスコーヒー。時間があったのでコーヒーを飲んでゆっくりした。 バス停からは斜め前に「西鉄リゾートイン別府」が見えた。ここは現役時代に出張に来て宿泊したことがあった懐かしいホテルである。 こうして3月27日鹿児島を出発し長崎に2泊、別府に1泊の一人旅は終わった。一言で言えば「ちょっと長いバス旅で疲れたなあ」。
2023.10.07
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昨日3月12日(日)は私の属する男声合唱団の練習日だった。発声練習の後、S指揮者が昨日は東日本大震災発生12年目だったので「群青」と「花は咲く」を歌いましょうと言う。私はその楽譜を持っていっていなかったので隣の仲間に見せてもらって歌った。この「群青」は昨年の鹿児島県合唱祭で歌った曲だった。合唱祭の前の練習では一生懸命練習し、福島に思いを馳せながらステージでも精一杯歌った。その時の本番ステージのDVDは持ち合わせがなかったので、最終練習日に日置市伊集院公民館で歌ったものを昨年の6月8日の当ブログにアップした。 ああ あの町で生まれて 君と出会い たくさんの思い抱いて 一緒に時間(とき)を過ごしたね 今 旅立つ日 見える景色は違っても 遠い場所で 君も同じ空 きっと見上げてるはず 「またね」と 手を振るけど 明日も会えるのかな 遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない あの日見た夕陽 あの日見た花火 いつでも君がいたね あたりまえが 幸せと知った 自転車をこいで 君と行った海 鮮やかな記憶が 目を閉じれば 群青に染まる あれから2年の日が 僕らの中を過ぎて 3月の風に吹かれ 君を今でも思う 響け この歌声 響け 遠くまでも あの空の彼方へも 大切な すべてに届け 涙のあとにも 見上げた夜空に 希望が光ってるよ 僕らを待つ 群青の町で きっと また会おう あの町で会おう 僕らの約束は 消えはしない 群青の絆 また 会おう群青の町で・・・ 一回目は久しぶりに歌ったので楽譜を追うのが精一杯だった。そして一回目の歌唱が終わり次の「花は咲く」を歌うのかと思っていたら、指揮者が「もう一回歌いましょう」と言う。私にとってはその二回目の歌唱がいけなかった。福島の歌なのに自分の現在の境遇と重なる部分が多く、目から汗が吹き出てきて止まらない。歌い進むほどに目から汗は出る出る、声は出ないと言う状態になった。幸いか不幸か マスクに助けられて人に気づかれずに済んだのではと思う。 次の「花は咲く」も同じようなことで目から汗は止まらずこの2曲を歌いながら、いろいろなことが頭を駆け巡った。しかし、これらの歌が嫌いになったわけではない。ますます大好きな歌になった。
2023.03.13
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今年も今日を入れても、あと3日となりました。12月17日夜、突然の病に倒れた妻が、20日早朝、逝ってしまいました。 呆然自失のクマタツですが、少しづつ自分を取り戻しつつあります。いえ、そうなるように自分を励ましています。 そういうことで、しばらくしたら元気を出して、また書こうと思います。皆様、いい年をお迎えください。
2022.12.29
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パソコン調整のためドック入りさせます。どれくらいの日数がかかるのかわかりませんが、そう時間はかからないと思っています。私自身は元気です。
2021.12.15
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ここは夜萩円山公園から約20分で到着した「鳥の巣山展望所」。夜萩円山公園から右側に見えていた「甑大橋」を足元に見ることのできるポイントである。今も見事な風景だが、鹿の子百合などの咲き乱れる夏にはどのような景色を見せてくれるのだろうか。想像するだけでもワクワクする。 私は、ここでも一人階段の長い坂を降って行ったが、皆に心配をかけることにならないように、途中で立ち止まって奇岩に目を奪われてパチリ。まだ道はあったが、帰りのことも考えてそこから引き返した。 坂の途中から甑大橋もパチリ。 展望台に戻るとMくんが「まだ上にも展望台はあるよ。自分たちは上にも行ってきた」というので、再び老体に鞭打って上の展望台を目指した。なるほど! ここからの展望は灯台も見えて、下の展望所にいる人々が小さく見えるほど長い階段の先にあった。 この灯台は「カノコユリ灯台」という。 まだ時間があったので昨日山中を彷徨って遂に見ることの出来なかった「トンボロ」の見える場所を探そうということで再び上甑島へ。その日の宿泊先も昨日と同じ上甑の「FUJIYA HOSTEL」なので帰り道でもある。昨日探すことが出来なかったのは車のナビの命ずるままに行ったのだが、ナビは「現地に到着しました」というもののそこは山の中、私が探してくるということで皆と離れて展望のきく場所を見つけるべくしばらく山中を海岸線に向けて降ったが、遂に発見できずに引き返したのだった。その間、残った3人は「熊にでも襲われたのではないか」と冗談ともつかず心配していたそうだ。そういう因縁の場所だけにこの日は慎重に探すことにした。この日は違う入口から入り、慎重に探すうちに「トンボロ」の見える場所に到着した。下の写真の町並みは上甑島の里町である。沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れた細長い地形をトンボロ(陸繋砂州)と呼ぶ。南北に約1500m,最大幅1000m。この島と島をつなぐユニークな陸地の上に集落ができ、里町の中心になっている。
2021.11.24
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高校の同期生で毎月発行してきたKくん主宰の「八期歴史会往来」が50回に達したのを機会により多くの同期生の参加を期して7月号から「八期オンライン通信」(Kくんのホームページ「Kくん基地」ーkeiji siteでWEB検索できる)として更なる発展を遂げるようにしようというKくんから提案があり、始まった。一月のメールやLINEをまとめてメールで送るというこれまでと大きく変わることはないのだが、月毎にKくんから依頼を受けた誰か一人がエッセイなり、テーマを造っての小文なりを書くようにしようという提案があったのは6月だった。記念すべき第一回の7月号はいつも熱心に便りやコメントを寄せてくれる東京在住のNくんに依頼し、彼は東京の大学に進学するまで鹿児島で過ごした頃の「街の図書館『貸本屋』」というエッセイを寄せてくれた。さて2回目に指名されて8月号に雑文を書くことになった私は何をテーマにしようかと大いに迷ったが、日頃YouTubeでよく見る「孤独のグルメ」について書こうと想いが至った。ご存知のように「孤独のグルメ」は「テレビ東京」の番組である。しかし、テレビ東京の系列放送局は私の住む片田舎の鹿児島にはない。大放送局でネットワークがないのはテレビ東京だけである。テレビ東京の番組は昔の「田舎に泊まろう」から現在の「youは何しに日本へ」「ガイアの夜明け」など面白い番組は鹿児島の他系列のテレビ局がテレビ東京から買って放送している。もっとも「BSテレビ東」は我が家のテレビでも見ることができるし、ネットでは「YouTube」で「孤独のグルメ」などはいつでも見ることができる。そういう中で痩せの大食いの私がはまり込んだ番組の一つが「孤独のグルメ」である。 私の好きな「孤独のグルメ」 子供の頃から貧乏な家庭に育った私は、食べ物へのこだわりは今でも強く、貪欲で大食いである。しかしおいしいものはもちろん食べたいが世にいうグルメではない。何でも腹いっぱい食べれればよい。 「孤独のグルメ」の主役はイケメン俳優? の松重豊である。その松重豊に私がよく似ているという話が世に伝わった(大げさ)のは2017年10月放映開始のNHK朝ドラ「ちりとてちん」で松重豊が主役の父親に扮して以降のことである。そのことは下記クリックで出てくるので参照ください。https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/201304150000/でウェブ検索すれば出ます。又は当ブログ「ジージの南からの便り」の「2013年4月15日」で見ることができる。 この番組の原作は久住昌之、作画は谷口ジローの漫画だという。1994年から1996年にかけて扶桑社「月刊PANJA」に連載されたというが、読んだことはない。その後は「SPA」2008年1月15日号に読み切りとして復活し、以後「SPA」上で2015年まで掲載されていたそうだ。テレビ東京系でテレビドラマ化し放映されるようになったのは、2012年1月期からで次第に人気番組になっていったとのことだが、私がそれを知ったのはだいぶ時間が経過した後だった。 松重豊扮する主役の名前は「井之頭五郎」。個人で輸入雑貨商を営んでいるという設定である。その五郎は依頼のあった客と会うために、主に東京近郊の街に出かけて、先ず商談先を訪ねるのだが、食いしん坊の五郎は、たまには客先までたどり着く前に街なかにある目についた美味しそうなもののある喫茶店に入ったり、土地の名物の饅頭やケーキ、珍しいものに目がいき、ついつい立ち寄って食べるようなことも再三である。 その後、客先での商談の様子も映されるが、商談が終わった五郎が街に出て「何だか急に腹がへったあ!」「そうだ店を探そう」という決めゼリフが出る。まさにここからが本番である。五郎が入る食い物屋も大衆食堂がほとんどで、和食・洋食・中華・アジア・カレー・肉料理・魚料理・スイーツ・その他何でもござれである。 ここでは両国にある「ちゃんこ大内」を訪れて「ちゃんこ鍋 鳥そっぷ」を食べる様子を取り上げる。ここは我々年代には記憶にある大関・大内山の家族が経営されている店だという。だれでもそうだが、先ず店に入るとメニューを決めなければならない。五郎もメニューを見たり、他の客がどのようなものを食べているか見回したり、店に人に何がおいしいか聞いたりするのだが、ここでは店に人に「人気メニューは何ですか」と問う。「鳥そっぷが一番人気ですよ」「じゃあ、それでお願いします」と注文する。 料理が出てくると、一口食べたときから「うまいじゃないか」「ああ、味が沁みてる」「応えられないな」「つみれもいいじゃないか」「横綱相撲」「つみれと鶏肉のぶつかり稽古だ」「どんといこう」「色んな味を出してくるなあ」「味のデパート」「大一番だった」などなどの言葉が五郎の語りで流れる。そしていよいよ〆のうどんが出てくるとそれを食べながら「あれだけちゃんこ食べたのにいくらでも入っちゃうぞ、こいつは!」「あれ、なくなっちゃった。まだいくらでもいけそうなのに淋しいな」「伝統・伝承・稽古・心技体全てが充実した鍋だった」「ごっつあんです」どこで食べても、何を食べてもその料理に合った気の利いたセリフを五郎が言う。この「ちゃんこ大内」でもそうだが、五郎の注文は大食漢の私でも驚くほどの品数と量であり、普通の二倍はゆうに越えていてご飯もおかわりする。これらをいつも完食するのを見ているとあっけにとられながらも気持ちが良い。ただ下戸という設定で飲み物はいつも烏龍茶である。 しかし、特別に料理に対するウンチクを言うわけではない。私はそこがこの番組を好きになった理由のような気がする。全体を通じて決して行儀が良いとは思わない。おいしく食べるために五郎は、ある意味ではマナーも捨て去り、料理の汁をご飯にかけてみたり、立て続けに口に押し込んでみたり、自分がおいしく食べることをひたすら追い続けている。ここが見るものを惹きつけるのではないかと思う。 松重豊へのインタビューを見たことがあるが、その中で言っていることは作者の久住の食に対する想いに自分も似ているし、五郎ももちろんそうだ。3人が一体となっている。更に曰く、「他のドラマの演技は日常のじぶんとは違うが、食べる行為は嘘ではできない」「食べることの役づくりは芝居とは違う。楽しい思いをして申し訳ないと思うほど楽しませてもらっている」と言っている。私は自分が見ていて感じた通りだったので納得した。 ここまで書いてきて私も「何だか急に腹がへってきたあ」「そうだ! おやつの時間だ!」
2021.09.20
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この 「西郷どん」の眠る南洲墓地を訪ねる も断続的に書いてきたが、今日の十回めを一区切りとしたい。まだまだたくさんの写真も写しているがいずれまた復活する予定である。 西郷小兵衛・西郷隆盛の末弟。弘和4年(1847)~明治10年(1877)2月27日 没 31歳1868年戊辰戦争に参戦するが、八幡の戦いが小兵衛にとっては緒戦となる。のち、一番隊となって江戸に進軍。その後陸奥白河に進み東北の戦闘にも参戦する。明治2年(1869)2月29日分隊長になる。のち鹿児島に帰り加世田郷(南さつま市)の副戸長に就任。 明治10年(1877)西南戦争に参戦し2月10日、薩軍第一大隊第一小隊長としてかごしまを出立するが、同年2月27日 出立後17日目に肥後国高瀬河南(玉名市)の戦いで官軍の銃弾を受け戦死する。玉名市高瀬で戦死した地には石碑があるという。 兄隆盛は小兵衛戦死の報を受けて号泣したという。このシーズでも取り上げた辺見十郎太とは兄弟以上の交情があったといい、小兵衛戦死の際、十郎太は小兵衛の遺髪を西郷家に届けた。その時、隆盛の妻・糸は十郎太に小兵衛の形見として袴下を与えたという。 小倉壮九郎知周東郷平八郎の兄。1871年近衛大尉に任官し、2年後海軍に転じた。1875年、西郷隆盛に従い官を辞して鹿児島に帰り、種子島区長などを務めた。 西南戦争では、第三番大隊第九番小隊長を務め熊本・植木方面で戦った。その後、本営護衛狙撃隊一番中隊長として西郷と共に行動し、明治10年(1877)9月24日、城山で戦死。
2021.02.06
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昨日(26日)の地元新聞によると、25日私の家から歩いて5分くらいの距離にあるスーパーの従業員の一人が新型コロナウイルスに感染したという。 同じスーパーの市内の別な店舗で一人、同じく本部の事務員が一人感染したとのことだが、そのつながりなどは発表されていない。ただ3人のうち誰とは書いてないが、「感染者と接触があったため同日、PCRを受けた」とある。そしてこの店に従業員の感染が分かったのは25日だったという。しかしこれだけでは、わからないことが多いが、発表しただけでも可とすべきかもわからない。「最後の出勤はそれぞれ21日、22日。店舗の消毒を済ませ26日は通常通り営業する」ということで、昨日から開店したようだ。 このスーパーは前記の通り、自宅から近いこともあり、私も奥方のお使いで一週間に1、2回ちょっとした買い物に出かける。2年くらい前にりリニューアルオープンしたこともあって、その後、客も多くなっていたように思っている。 私は、毎日の行動を主なものだけだが手帳に書く習慣がある。このスーパーに行く日は、単に往復に留まらずに、ついでに散歩をすることも多いので必ず手帳につける。そこで、いつ行ったか調べてみた。1月14日に行った後は24日(日)であった。新聞の通りとすれば、その従業員さんは21日まで勤務し、発見されたのが25日である。私は感染発覚の前日24日に店に行ったので先ず大丈夫だろう。しかも、24日はコーラスの練習で街に出かけたが、練習会場の入り口で消毒・検温し、終わって帰る時も会場出口で消毒。その後、バスに乗って、そのスーパーの前で降りて、入口で消毒して入店、帰りに出口での消毒はしなかったが、自宅の玄関で消毒・手洗いをしている。都合4回の消毒をしているので先ず大丈夫とは思う。しかし、今日のグラウンドゴルフにはいつもは着用しないマスクを付けて行った。 いろいろ書いてきたが、神経質になりすぎて、そういうことが誹謗中傷に結びつくことがないように自分でも気をつけながら行動しなくてはいけないと思う。
2021.01.27
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昨夜は久っかぶいの「飲ん方」だった。これは、かごっま弁であり、標準語風に言えば、久しぶりの「飲み会」ということ。 先日、当ブログに楠声会の「会報」への投稿文のことを書いたが、その会報の編集委員の打ち上げ会として開催されたものだが、私たち投稿者にもお呼びがかかった。飲めない私だが「飲ん方」の雰囲気は昔から大好きなので、酔っぱらいの中に入っても現役時代も一向に臆することなく付き合ってきた。 昨夜はやや短めの2時間くらいの時間だったが、飲むほどに酔う程に久しぶりに談論風論留まるところを知らない有様だった。時間を見計らった幹事が「こういう世の中ですから、ぼつぼつこれで終わりにしましょう。皆さんこれから夜の天文館(鹿児島一の繁華街)をウロウロしたり、カラオケなどに寄ることなく真っ直ぐ帰りましょう」ということでお開きとなった。しかしその後の幹事の行動は一切知らない。 私は同じ方向に帰る仲間とバスに乗って真面目に帰路についたのは言うまでもない。
2020.09.27
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新型コロナ パブクラスター100人 発生1週間 県内12市町 今朝の地元 南日本新聞の見出しである。6月30日までは、11人止まりだった「新型コロナ感染患者」が7月1日、40代女性が感染! という一報からその悪夢は始まった。私はテレビでそのニュースを見て一瞬身体に緊張が走った。「ああ、またきたか。大きなことにならなければいいが」というのがいつものことである。それまでも散発的に患者発生はあったが、大きなことにはならなかった。それでも高齢の私たちには、そのニュースにはいつも緊張を覚える。7月2日から発表される数字は20人を超える日が多く、昨日8日に至り、パブクラスターは直接店を訪れた人、その接触者、さらに次の接触者と次々に広がり、ついにパブクラスターが100人に達したということだ。中には病院関係者や大学生、高校生も含まれており、デパートの休業、学校の休校など社会に大きな影響を与えている。 昨日までのクラスター100人の他に同じ7月1日以降昨日までに何故か感染経路不明の感染者11人も発生している。つまりわずか8日間で111人の発生を見たことになる。コロナ騒ぎ発生の当初からは122人という人数である。 この騒ぎの影響で7月5日(日)から練習開始が決まっていたコーラスの練習もいつ再開できるのか見通しが立たなくなった。我慢、ガマン、がまんの毎日が続く。
2020.07.09
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予報通り来るのか、来ないのか、気をもんでいます。来ないことを祈りながら。 朝から某公共放送は台風状況放送一色ですし、先程から某民放も2局が台風状況の放送に切り替わりました。 昔から「台風銀座」と言われた当地には、最近は大きな台風や大雨が来襲せず、正直ホッとしています。が、地球の温暖化のせいなのか科学に弱い私にはよくわかりませんが、この数年は大雨も台風もこれまでの常識を覆して、日本全国どこに被害をもたらすかわからなくなってきましたね。 今日も千葉県に竜巻状のものが吹き荒れて、大きな被害をもたらしたとか、荒川の水位が危険水位を超えたとか、悪いニュースばかりです。 しかも、時間的にはこれからが危ない時間になるようです。どうぞ、気をつけてお過ごし下さい。何事もないように祈念しています。
2019.10.12
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2,3日前から右目の涙腺辺りが痒くなり、今日は病院に行って来ました。病名はハッキリ言われなかったのですが「お薬手帳」には「細菌による感染症を治療する抗生物質の点眼薬です」と書かれています。 治癒するまで、ブログを休みます。皆さんへの訪問もしばらく出来ないと思います。
2018.09.10
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霧島市の城山公園にある「国分郷土館」の近くに「十三仏」はあった。それが、まれに見る貴重なものだとは聞いていたが、説明板にある通り、大変珍しいものだということを実感した。 十三仏のうち、三仏だけ写真に写してきた。虚空像菩薩である。大日如来である。 普賢菩薩である。 説明板にある他の場所を調べると薩摩川内市入来と樋脇町、さつま町佐志、湧水町般若寺跡、出水市野田、霧島市隼人町菅原神社の磨崖仏などにあることがわかった。これらも少しづつまわってみようと思う。
2015.07.08
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少し考えるところがあり、しばらく休止します。ご愛顧ありがとうございました。
2012.10.18
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2月12日、日置市の吉利麓の小松墓所や菩提寺、武家門などを見学したら12時を過ぎていた。だが3時までに帰ればコーラスの練習にも間に合う。このまま帰るにはもったいない。そこで再び南下し、“かめまる館”で野菜など買い、隣接のそばやでうどんをかき込む。そこから亀丸城跡をめざす。ここの入り口は車で通る度に見ていたので、県道谷山伊作線より中に入る。しかしここからが思ったより距離があった。もっとも山城だから、入り込むのは当然といえば当然である。道を間違ったな?と思うころ看板のある“憩いの森”駐車場に着いた。車が20台くらい駐車できるスペースがあり、トイレも完備されている。ここから案内版に従って「山之城跡」へ。 登ってみたが、今はもう山の上の平野(荒地)にすぎない。もちろん曲輪ははっきりした形のものを見ることが出来た。ここを下り駐車場を抜けて少し下るとやっと「亀丸城跡案内版」を見つける。 そこから空掘(からぼり)を通って本丸である亀丸城跡に登る。 登り口から奥に進むと案内板と石碑がある。 では、この伊作城(亀丸城)はどういう城だったのだろうか。ここは島津家中興の祖ともいわれる島津忠良の城であったことはよく知られているが、フリー百科事典ウィキペディアによると「日置市吹上町中原に残る中世の山城、県指定史跡本丸は亀丸城と称した。南北朝時代に島津氏の分家伊作家の城として築かれたと考えられる。その頃は『中山城』と呼ばれていた。戦国時代にはここを拠点として島津忠良が南九州統一に繰り出し、戦国大名島津氏雄飛のきっかけとなった城でもあった。元和の『一国一城令』で廃城になった。最盛期には南北750m、東西1050m城域全体の面積は50万平方メートルという広大な規模を誇っていた。亀丸城の他に『山之城』『蔵之城』『花見城』『御仮屋城』と6つの曲輪(くるわ)が設けられていた。この城は島津貴久、忠将、尚久の忠義の3人の息子、そして島津義久、義弘、歳久、家久の島津四兄弟の誕生地であり、記念の石碑が残っている。」と書かれている。 また「島津家おもしろ歴史館」(尚古集成館)によると、「島津忠良は戦国島津氏の事実上の祖」と言っている。 実際、忠良の嫡子・貴久は代14代島津当主勝久の養子になり、第15代当主となって、薩摩を統一している。またそのあと、貴久の嫡子・義久は16代当主、次男義弘は17代当主、そして義弘の3男家久は義久の養子となり、18代当主になっている。 最後の写真は、善久、忠良、忠将、尚久の誕生石である。亀丸城跡を下りて蔵之城跡へ行く。ここも木々が生い茂り平たい広場になっている。亀丸城を下りた道路沿いにも土塁が残されている。 帰り道に武家屋敷跡と思われる石柱の門を見かけた。ここ伊昨麓には立派な武家門など沢山残されているとのことだが、今回は時間がなくなり、そこまで行けなかった。いずれまた訪れたい。
2012.02.16
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10月4日当ブログに鹿児島市武にあった島津墓地は佐志島津家のものだろうと書いたが、その後も史料を調べる中で、そうではないという新しい発見があった。 ただ当初から書いている佐志島津家の墓地が笑岳寺墓地にあったろうことはこれまで色々調べて書いてきた通り間違いはない。ただ一般の墓とどういう折り合いをつけていたのかは、まだ調査中である。関係者にたづねたり、メールを入れて問い合わせもしているが、なかなか決定的なことは未だ分っていない。 それでは、武にあった島津墓地はどういう墓だったのか。それは昭和49年2月20日 武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」に詳しい。それによると、「西鹿児島駅裏口を西方に行き、武岡の麓に寿国寺の跡があるが、そこに島津家の墓地がある。武町の人は『島津どんの墓』といっている」とある。寿国寺跡(明治2年廃仏毀釈により廃寺)の場所を色々調べてみると、武2丁目47番付近となっており、その場所は2011年「武・田上地域ガイドマップ」にも場所が明記されている。その場所というのが常盤トンネルと新幹線トンネルの間にあり、私のこどものころの「島津どんの墓」とも一致した。 同誌によると「島津どんの墓」を49年当時たづねてみたら、「墓の礎石はあったが墓石はなかった。付近の人の話によると、昨年9月ごろ島津興業の手によって移動されたということであった。そこで島津敬久氏に問い合わせたところ、池之上町の玉龍高校裏の福昌寺跡の墓地に改葬したということであった」とある。 更に同誌には島津敬久氏提供の写真もあったが、4基のうち3基のみ写っている。そして次のような記述がある。「左から二番目の宝塔には正面に 常照院殿観了日脱大姉 南無多宝如来 右面に 寛文十三丑妃 南無妙法蓮華経 後面に 江戸池上本門寺墓地 墓碑と共に改葬 と刻まれている。 常照院殿は第20代島津綱貴公の御夫人である。松平左兵衛督信平主の娘であって、寛文十三年(1673)正月五日死去され忌日は二月五日と定められていた。東京の池上本門寺から改葬したものである」とあり、この宝塔の台石の漢文のお経か詩も書いてあるが、割愛する。 「一番左側ののには中央に 蓮亭院殿香顔玉溶大姉 と刻まれている。 これは第26代島津斎宣公後の御夫人で丹波加賀守長祥元の妹にあたる方である。文化十二年(1815)巳亥六月二十六日に死去され、忌日は六月二十三日と定めてある」 「一番右側の六角柱の墓には 正面 信証院殿寿国総元持大禅尼 左面 改号 福宝清香姫命 と刻まれている。 この墓は第20代島津綱貴公後の御夫人の墓である。この方は、江田五兵衛国重の娘で幼名を梅ヶ枝といい、のち於豊といった。宝暦六年(1756)丙子正月三十一日死去されている」 「その次、右から二番目の五輪塔には 正面 信解院殿方広浄玄大禅尼 左面 改号 伊都栄樹姫命 と刻まれている。 この方は第二十代島津綱貴公の娘さんにあたられる方である。元禄十一年(1698)一月十七日に生まれ、明和八年(1771)六月八日七十一歳で亡くなられている。この方は伊予の飛騨守定英の奥様になられたが、のち離別され、剃髪して仏門に入られ、信解院と号された」 尚、この「武郷土誌」によって、佐志島津家の墓や我が家の墓のあった「笑岳寺墓地」があった笑岳寺がいつ廃寺になったのかも明らかになった。ここも徹底的に行われたという明治2年の廃仏毀釈によって廃寺になったそうだ。 そうするといつごろ我が家が笑岳寺墓地を手に入れたのか考えてみた。父方の祖父が明治4年(1871)2月28日に生まれて昭和18年2月28日という誕生日に没しているので、祖父の父親の代に手に入れたものかと思う。この墓は以前当ブログに書いたように昭和50年代初めには区画整理により、現在の武岡墓地を中心に他の墓所に改葬された。 今回いろいろ調べる中で感慨深い想いを持った一つは、自分の3代前の祖父が明治維新の直後に生まれていて、4代前のその父親というのは明治維新のまっただ中を生き抜いた人だったのかなということだ。歴史というのは決して遠い昔のことだけではない。ますますいろいろ調べることが面白くなってきた。
2011.11.25
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今日は朝から鬱陶しい空模様だ。時々小糠雨も混じる。 グラウンドゴルフをどうしようかとのTさんの電話にも、昼からにしましょうかと 答えたが、結局それも中止した。 そのため、農園にも行かず、新聞、本、テレビの断続模様で午前中は過ぎた。 週一回のヨガから帰ったかみさんは、一人で雑草園の手入れを始めたようだ。 私は、5月22日に開催される母校の同窓会総会・懇親会の会費6000円也を ゆうちょ銀行に払込に行ってきた。 母校の鹿児島G高校が70年を迎えるそうで、我々33年卒の八期会の会長から 誘いがあったものだ。なんでも同期生も10人あまり参加するそうで、1昨年 卒業50周年記念同窓会以来会っていない友も多い。 8期会は良くまとまっており、50周年同窓会にも115人参集したが、全体同窓会 にもそこそこ集まり、総会の後、2次会として8期会をやるのが、恒例になっている。 今日の写真は我が家の雑草園のガーベラである。
2010.04.20
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北九州から帰った翌日から、雨模様で3日間運動も出来ずストレスが溜まった。 今日は温度こそ13°くらいまでしか上がらないようだが、朝から日本晴れの 良い天気である。 早速、グラウンドゴルフ仲間でライバルのTさんに電話を入れる。 9時半公園集合で、先に行って手ぐすねひてTさんを待つ。 何しろ先週木曜日以来のことで、Tさんも腕を撫して私の挑戦を待っていたようだ。 5試合終終わって二人とも調子悪く、ホールインワンもなく、点数も悪い。 そして、いよいよ最後の6試合目に突入。 先ず私が、4ホール目 距離15mでホールインワン。続く5ホール目 50mで 連続のホールインワン、グラウンドゴルフ歴3年の私も連続ホールインワンは初め である。これで今日の勝利の女神は自分にほほえんだと思った。 ところが“敵も然る者ひっかく者”7ホール30mで私が先に打っていたボールに あとで打ったTさんのボールが当たり、跳ねてTさんのボールがホールインワンに なってしまった。しかもそれだけではない。更に最終8ホール目15mでTさんが またホールインワンを入れてしまったのだ。万事休す! 終わってみれば6ゲームで二人とも116点。目標の平均20点もクリアー。 二人で健闘をたたえ合って別れた。明日の どんぐりの会定例会に勝負は持ち越し となった。二人とも大満足で終わったのは何よりだった。 写真は先日小倉の叔父の家で珍しい花を見かけたので、写してきた。 三又(ミツマタ)の木だ。枝の先が3つに別れて3つの花が咲く。 昔から和紙の原料として知られている木だ。
2010.03.26
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昨夜は夕方から冷え込んできて、ついに7時頃にはエアコンを入れた。 そして今朝も室内で7.5°という冷え込みである。 暖かくなってホッとさせたかと思うと、又 寒くなるの繰り返しで寒がりの 私を裏切り続けてきた。もういい加減にしてくれという気持ちだ。 午前中はいつもの公園へ。 水曜日は大体4人でグラウンドゴルフをするのが、このところ定着していたが 何故かT2さんと私しか集まらない。それでも練習の後、2人でゲーム開始。 3ゲームが終わる寸前にライバルTさん登場。なんでもお孫さんを病院に連れ て行っていたとのこと。4ゲーム目は3人でして、終わったところでT2さん は帰って行った。物足りなさそうなライバルTさんを置いて帰るわけにもいか ず、2人で2ゲームをこなすが、成績はパッとせず。 かみさんはコーラスの友達とランチに出かけて留守。 罪滅ぼしかデザートに“だんご”を作って置いてあった。 白玉粉で作ってあんこで食べるやつだ。昼ごはんの後、すぐ食べたが、食べ過ぎ て苦しい。甘党の上大食いなのでついつい食べ過ぎてしまった。
2010.03.17
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1週間のご無沙汰でした。 その間、鹿児島も寒い日、暖かい日の繰り返しです。 その1週間、いつものグラウンドゴルフと散歩のどちらかは欠かしていません。 一昨日は免許更新のための「高齢者講習」で安全教育、適性検査、実技運転 など受けて修了証をもらい、今日は免許更新に行ってきました。 不思議だったのは、70歳以上はゴールドであっても3年免許と聞いていた のが、帰って見てみると平成27年までの5年間の免許になっていたことだ。 私としては嬉しいことだが、次回は75歳なので、認知症の簡単な検査なども 追加されるとのことなので、少し憂鬱だ。 少しおかしいと思ったら免許返上が最善の道ですよ!皆さん!
2010.01.29
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今週月・火・水曜日ともまるで春の陽気です。 家にじっとしておれず、グラウンドゴルフ三昧の日々です。 月曜日は散歩途中の公園で仲間と会い、急遽2人でやることに! 練習の後、6ゲーム遊ぶ。成績は2人ともまあまあ。 火曜日はまた2人で練習の後、仕上げに6ゲーム。 私は何を間違ったか平均19点を出す。 そして今日。4人で3ゲーム終わった所に2人みえて、3人づつ2組で 2ゲーム。成績は平均18,8.今日も上出来だ。 ただ仲間の一人が1ゲーム8ホールでホールインワンを3個出すダイヤモンド を達成したったの6点という数字をたたき出したので、もうびっくり! 明日もまた午後からという約束をして帰ってきた。 先日散歩をしていると、新川上流の新設ダム工事の現場に大きなクレーンが にょっきり立っているのを見かけたので昨日写真を撮ってみた。 これは鹿児島で8・6水害とよばれている平成5年に起こった大水害の時に 甲突川とならんで氾濫した新川上流にダムを造って治水をはかるというもので その是非は私にはよく分からない。
2010.01.20
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一昨日降った雪が3日目なのに、まだまだいっぱい残っている。 鹿児島にしてはほんとに珍しいことだ。ちょっと記憶にない。 そんな中、今朝も9時過ぎには散歩に出た。 昨日よりも、空気が冷えている感じで40分くらいしてやっと汗が出てきた。 散歩の途中はいつもとりとめもなく色々な事を考えるが、今朝は公園の雪の 上を横ぎりながら、ふっと昔みた「八甲田山」の映画の事を思い出していた。 特に印象に残っている場面は雪の中の灰色のシーンが思い出の場面に切り替わ り、お花畑のようなカラーの鮮やかな色が一瞬写ったシーンである。 鹿児島の雪などと比べるべくもないそんなことを思い出しながら歩いた。 家に帰ってWikipedia「八甲田山」(映画)で改めて調べてみた。 作家 新田次郎 原作の「八甲田山死の彷徨」を映画化したものである。 高倉健 北大路欣也、三国連太郎主演でその他の俳優陣もそうそうたる メンバーである。1977年公開で日本映画として配給収入の新記録(当時) をマークしたとのこと。 1977年といえば私は37歳。どこでこの映画を見たかまでは記憶に なかったが、転勤先の長崎で見たことになる。 時の過ぎる速さを今更ながら感じることだった。 今日の写真も散歩途中で写したもの。 私の住む団地から隣の団地を写した。完全な雪融けまでは明日までかかる かな。
2010.01.15
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今朝起きてみると、昨日よりも降り積もった感じがした。 しかし、さすがに南国鹿児島である。10時頃から太陽が顔を出し始め 道路の真ん中あたりから雪は融けはじめたようだ。 バスも団地まで上がって来始めた。 しかし家の周辺やちょっと日影のところはほとんど雪は残ったままである。 この調子ではしばらくは雪があちらこちらに残るだろう。 かみさんはもう一つのコーラスの歌い初めの日であったが、朝から団長から 電話があり、山の上の団地住まいの人や、高齢者もいることから、練習は 中止となり、連絡網を使ってその連絡に追われていた。 結局昨日に引き続き我が家は引きこもりとなり、昼はくず餅でピザを作って 食べた。我が家で毎年この時期になると出るメニューである。 とてもおいしい。このところ大好きな餅料理が多く私はご満悦である。 そういえば、まだぜんざいもいくらか残っている・・・。 写真は午後1時半頃の公園の雪景色である。いつもグラウンドゴルフをして いる場所でもある。 昨日は散歩も行けなっかが、今日は早速7000歩くらい歩いてきた。 日頃と違う雪景色を満喫しながら、公園ではサクサクいわせながら歩いた。
2010.01.14
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今朝はどんぐりの会のグラウンドゴルフの打ち始め?である。 8時過ぎには家を出て、いつもの公園へ。 木々の枯れ葉や、山茶花の花びらなど掃き溜めて集める大掃除から始めた。 9人で5人、4人の2チームでゲーム開始。 今年初めてのゲームなのに4ゲームで88点でビリ。ホールインワンなし。 9人中7人はホールインワンを出す。一人で4個も出した仲間もいた。 今日はもう一つ午後5時からおじさんコーラスの練習初めもある。 毎月の練習初日にはその月の誕生者が紹介され、一言挨拶し、「ハッピー バースデイ・・・」を歌うようになっているが古希を迎えた私も今日は 当事者の一人であり、なにか恥ずかしい。 とは言ってもメンバーの中ではちょうど平均年齢くらいではある。 この3連休、娘一家は北九州に遊びに行ってしまったので、我が家は閑である。 その代わり、小倉の親戚一同が大騒ぎして迎える準備をしてくれているようだ。 昨年の夏にも行ったばかりなのに、この寒い中で鹿児島より寒い北九州に行く ことになったきっかけが面白い。5年生の孫(男)が、“ふぐ”を食べたいと 言った一言に娘夫婦が触発されて、自分たちも下関の市場に行っておいしい物 を食べたいという不純な動機である。 我々夫婦も誘われたが今回は一緒に行かないことにした。
2010.01.09
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今朝目ざめるとついにあの「古来希なり」の年齢に達していた。 同窓生が会報に書いていた通り「これまで生き延びてきたことが、奇跡であり 神の恵みである」 テレビで今年やはり古希を迎える鳥越俊太郎氏が「自分はあと5年生きるか 10年生きるか分からないが・・・」と言っていたが、まさに同感であり、 もうそういう年齢になってしまったということだ。 これからはこれまで以上に一日一日を大切に生きなければならないと思う。 そんなことで、娘一家も集まって今日の昼は“城山観光ホテル”でお祝いを してくれた。 ランチを囲みながらの一時はなによりも嬉しく、今日も腹一杯食べてしまった。 帰宅後高校サッカーの「神村学園」対「青森山田」戦を見ていたが、3対0 で神村が負けている段階で散歩に出た。結局4対0で負けとなった。 今日の散歩は寒い中だったが、重装備で出かけたため、途中から汗が噴き出し シャツはびっしょり。結局8214歩 歩いて終わった。 写真は今日写した“城山観光ホテル”。桜島も写したが霞んでいた。
2010.01.05
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今朝起きて室内の温度を見ると5°である。私の記憶する限り今冬一番の冷え 込みである。 だが、そこは南国、9時頃には日射しが強くなり、部屋の中は温室状態。 9時半には散歩に出かけた。1時間少し歩いて帰ったが歩数は7305歩。 昨日は7342歩。 この年末年始、家事手伝いや、来客などで1週間くらい散歩も出来ず、食べる ばかりで身体が重く感じていたので、昨日から散歩復活。 いつもの調子が戻ってきた。 今日の最高気温予想は15°。寒さが苦手な私にはなによりも有り難い。 午後もちょっとした買い物以外は予定もない。 この解放感はなんともいえない。 世間の今日から仕事の方々には申し訳ない。 では また。
2010.01.04
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車で20分もかからない所に住む娘一家が元旦の午後から2泊3日で来ていた が、箱根駅伝のゴールまで見て帰って行った。 鹿児島は昔から出稼県で男性の数が女性に比べて少ないと言われている県である。 そんな中、娘が県内に嫁ぐことが出来たのは幸いだった。 そのおかげで、孫たちとも会いたい時に会えるし、盆・正月も帰省問題で騒ぐ こともなく過ごすことが出来る。 姉の息子は現在転勤で外国におり、娘は東京に嫁いでいるので、交通ラッシュも あり帰省もままならず、いつも寂しい思いをしているようだ。 そういう家庭が鹿児島には多く、老後の問題にも影を投げかけている。 もちろん我々も子供達の世話になろうとは考えていないが、何かの時の心強さに はなっている。 まあ そいういうことで、孫が身近にいることでの楽しみも多いが、3日間大騒 ぎすると、帰った後の静かさにもなにかホッとしたものを感じる。
2010.01.03
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今年も早かったなあ! 特に12月は! 今日も昨日から泊まり込みでお節づくりに来ている娘と買い忘れの材料を 数回買い物に出た。 かみさんと娘が料理する間も私は2階や階段の拭き掃除など。 ほんとに今年はよく働くなあ!自分で自分を誉めてやりたい。 そして4時前やっと出来上がって重箱などに詰めたお節を持った娘を家まで 送って行って終了。婿殿のお父さんにも喜んでいただいた。 今日送って行っても明日の午後からは家族4人で2泊3日の予定で来ること になっているので、また賑やかになる。 4時半くらいから新年号の文芸誌“ゆーとぴあ”に載せるエッセイ「確かに 生きる」を書き上げてメールで送る。 現役時代とは違う年末を過ごした日々だった。 本年も拙いブログにアクセスし書き込みなどありがとうございました。 来年も皆様にとって素晴らしい一年でありますように。 どうぞ良い年をお迎えください。
2009.12.31
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昨日は朝7時出発の日帰りで太宰府まで行ってきた。 鹿児島に帰り着いたのは、夜の10時30分。 親戚が亡くなり、葬儀に行ったのだ。 車で行ったが、今回は従兄弟の車だったので運転も任せっぱなし。 従兄弟にはちょっと悪かったが、ゆっくり行けた。 それでも往復7時間くらいの車での移動は大変だった。 6人乗りの車に行きは3人、帰りは5人で余裕あり。 帰って風呂に入ってくつろぐも、結局休んだのは午前1時。 今朝は6時過ぎのは起き出して、かみさんを乗せて“朝市”へ。 鰤をはじめ昆布巻き、蒲鉾類など買い物。 スーパーにも寄っておせちの材料購入に大童だ。 帰って今度は墓参りへ。花屋さんに半年分のお世話代を支払って墓参。 続いて畑へ。正月用の水菜や大根の収穫。 娘もおせち作りに朝から来ている。出来上がったら一式お持ち帰り予定。 今日もくたびれたなあ!
2009.12.30
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23日 祭日だったが、閑なおじさん4人でグラウンドゴルフ。 成績は4ゲームで79点 ホールインワン 1つ。 午後は雑草園の大掃除。草とり、枝おとしに奮闘す。 24日 姉や従姉妹たちのコーラスグループ、海老原グループのクリスマス コンサートに行く。楽しい音楽会だった。 夜は娘宅のクリスマスパーティに呼ばれて行く。 昨年までは仕事でイブに宮崎に行っていたので、久しぶりだった。 娘宅では、この夜はなぜか「かに鍋」と決まっていて今年もそうだった。 最後は手作りケーキを別腹に入れて帰った。 25日 午前中はスーパー巡りで正月用品で早めに買える物を購入。 午後障子張り替え。大小12枚の張り替え予定だったが、半分で ギブアップ。それでも古い紙をはぐのに便利な浸透液などあり、昔と 比べるとだいぶはかどるようになった。 26日 7時30分出発で鹿児島中央駅前の“朝市”へ。大きな混雑はなし。 ここでも正月用品の早めに買えるものを購入。 30日か31日もう一回行かなければならない。 9時から今年最後のグラウンドゴルフへ。 さすがに少なくて7人。公園の掃除の後、ゲームをしたが、4ゲーム で80点ホールインワン1つの成績で今年は終わった。 新年は9日からということでお別れ。 午後昨日の張り残しの障子張りをやって、くたびれた。 コーヒーとあんパンのおやつタイムで一息入れた。 明日は車庫周辺の片づけやや窓拭きなど・・・。 素浪人としての初めての年末はこんなにもいそがしいものか! ほんとにくたびれた!!
2009.12.26
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久しぶりに良い天気になった。 午前中、私はグラウンドゴルフ、かみさんはヨガ。 午後それぞれの合唱団の年内支払振込のため銀行へ。 その後、妹が送ってくれた玄米の精米に行く。 精米機は畑の近くにあるので、畑に寄ってみることにした。 陽気に誘われて向こう3軒両隣りという感じで畑に皆さんきている。 しばらくは井戸端会議ならぬ畑会議の様相を呈していた。 我が畑はどうかと言えば、玉葱を始め冬の寒さのなか順調に育ってはいるが、 雑草がはびこっている。 私はこの雑草退治に時間をかけた。 かみさんはある程度大きくなった「高菜」の定植をしていた。 今日の収穫は「水菜」「青梗菜」「ネギ」など、沢山。 帰り道、“泉石蔵”と言う売店に寄って、「柚」を買った。 今日は冬至なのでこれを風呂に入れて楽しみたい。
2009.12.22
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南国鹿児島を返上しなくてはならないような 雪日和の一日になってしまった。 先程車でスーパーまで買い物に行ったが、途中バスと軽自動車が衝突している ところに行き合わせた。まだ事故処理もしてなくて、そう大きな事故とも思わ なかったが、私が現場を通り過ぎたあと、すぐ救急車が走ってきていたところ をみると、負傷者がでたのだろう。大したことが無ければいいが・・・。 帰りには事故処理をやっていた。年末に向けて気をつけようと改めて思う。 昨夜は楠声会の今年最後の練習と打上忘年会があった。 久しぶりの中華料理屋であったが、料理がだいぶおいしくなっているような気が した。最後に4~5曲ハモッたが〆はいつもの円陣を組んでの「あつい涙」である。 この曲はいつのころからか我が団の持ち歌としてすっかり定着し、今では何の行事 でも最後に歌うようになった。時には演奏会のアンコール曲としても歌う。 私も大好きな素晴らしい曲である。 小2の孫が新型インフルに罹ったと先日書いたが、昨日はお兄ちゃんの小5の孫も ついにやられたようだ。38.5度の熱発で今日もまだ熱があるとのこと。 熱が下がったら顔を見に行こうと思っている。
2009.12.20
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今日は恒例のグラウンドゴルフの日。 家を出ようとすると雪が降り始めている。 ままよ!とばかりそのまま公園へ。 三々五々集まっては来たが、その数8人。 4人ずつ2チームでゲーム開始。途中雪になったり、雨になったり。 それにもめげずいつもの通り4ゲームをこなす。 まことに物好きなジジ・ババ達である。 4ゲーム終わったところで成績の悪かったTさんからもう一ゲームという要望 があり、ついに5ゲームをこなす。 私はホールインワン1個出したりして、まずまずの成績で終わる。 今日は先日行った霧島市の和気神社の“白いのしし”の写真をアップした。 この神社と猪との縁についてはいわれがある。 和気気清麻呂が769年宇佐八幡宮神託事件に関連し大隅国へ遠島となった。 配流の祭に宇佐神宮に参詣しようと豊前国に上陸したところ猪が御輿を守った との伝説があり、その事から猪が和気清麻呂の守護神とされている。 そのため拝殿前には狛猪がある。 それに因んで“白いのしし”を飼い「あいちゃん」の愛称がつけられているそ うだ。
2009.12.19
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どんぐりの会の忘年会を兼ねたグラウンドゴルフに行ってきた。 予定では8時半に国民宿舎“江口浜荘”のマイクロバスに迎えにきてもらう ようになっていたが、はっきりしない天気に10時半に変更。 グラウンドゴルフ抜きの忘年会とすることで出発。 40分くらいかけて現地に着くと、グランドゴルフも出来そうな天気である。 道具は持っていっていたので、急遽試合開始。 海から吹き付ける寒風と時折降る雨にも負けず、ジジ・ババ達がんばる。 予定の4試合は出来ず、2試合終わったところで12時半には試合終了。 待望の温泉に浸かって、昼食となった。 表彰式では私が2位だったとのことで、賞状、賞品をいただく。 いつも下手な私が2位に入ったのは初めてのコースで皆同じ条件だったから。 皆からさんざん冷やかされた。 ビールで乾杯。一口のビールで誰よりも真っ赤になる。 料理も珍しいものが出て、おいしくいただいた。 帰りはマイクロバスが”江口蓬莱館”にまわってくれて、魚や野菜を買い込む。 料理良し、サービス良しで皆でまた行こうということになった。 帰って車で20分くらいの娘の家を訪ねる。 先日新型インフルで学級閉鎖の憂き目にあった小2の孫が今度は本人がかかって しまったとのこと。急遽見舞いに行くことに。 16日38.8度の熱発があり、昨日判定されたとのことだ。今回は小5の孫も 先生をしている婿殿も濃厚接触者ということで、自宅に閉じこもっていなくては ならないらしく、娘は家族に家でゴロゴロされて参っているとのこと。 見舞いは何が良いかと孫たちに聞いたら、今日学校に行っていれば一年に一回の 「チョコレートケーキ」給食を食べることが出来たのに、食べられなかったので 「チョコレートケーキ」が良いとのこと。 ジジ・ババ馬鹿の我々はそれと娘のリクエストの近所の「餃子」を持って行った。 もうすっかり回復しており、うるさいくらい元気になっており、ホッとする。 家に上がると、娘からマスクを渡され、コーヒーを飲む間だけはずしてあとは 皆マスクをして話をするという思わず笑ってしまいたくなる風景であった。
2009.12.18
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南国鹿児島の桜島も昨日のテレビで何回も流れたようにこの冬の初冠雪である。 朝晩は室内でも10度を切るようになり、ついにエアコンが始動した。 しかし日中はガラス越しに入る陽光で暖房は要らない。 このあたりが、南国の得するところかと思う。 歩きのための歩数計が行方不明になっていたので、昨日また買ってきた。 そんな中、たまたま中央駅の近くまで行く用事が出来たので、一念発起歩いて 往復しようと思い立った。距離もまあまああるが、それよりも我が家は山の上 の団地なので、平地の中央駅まで行くには起伏が多い。それもあり普段の散歩 は出来るだけ団地内の歩きにしているのだが・・・。 往復歩いた結果は11,700歩時間にして1時間40分であった。 思った程のきつさはなく、これならたまにはまた今日の道を歩いてもいいな。
2009.12.17
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昨日は午後3時にかみさんのコーラス練習の終わりを待って叔母たちも乗せて 霧島に向かった。高速も使ったので5時前には宿泊先の“霧島温泉ソサェティ” に着いた。姉夫婦は一足先に着いていた。 久しぶりの温泉を満喫し、6時半から従姉妹の旦那さんの退職慰労会になった。 その後、8時過ぎから10時近くまでカラオケを楽しんだ。カラオケも久しぶり で皆大張り切りで歌っていたが、私も4曲歌った。 今朝も6時半には起床し、温泉へ。 8時半から食事。10時出発で和気清麻呂を祀る和気神社に参拝。鹿児島神宮 にも詣る。 昼ご飯は“吹上庵”にて味噌煮込みうどんを食べた。これは私のお気に入り。 写真は夕方5時頃ホテルの窓から写したもの。 真ん中に見えるのが桜島。霧島から見るとこういう風に見える。
2009.12.15
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今日の鹿児島は日本晴れの最高の天気です。 私の寒さへの不安を吹き飛ばすかのように連日暖かい。 でも明日からは最高気温予想が12~3度となっており、今週末には10度 を切りそうでいよいよ覚悟しなければならないようだ。 今朝もいつものように1時間歩いたが、20分くらいで汗が噴き出すほどだった。 散歩の後、車を洗ったが、全然冷たさも感じない。 午後から今日は一泊で霧島温泉に行くことになっており、叔母なども乗せて行くた め洗車の必然性があったわけだ。 1時間くらいかけて念入りに洗ったが、中国に行った小沢党首が乗ったリムジン ほどにはきれいにならなかった。(爆) 霧島温泉に行くのは従姉妹の旦那さんの退職慰労会のためである。 11月30日に65歳を期に第2の職場からも退いたので、ごく内輪で慰労しよう というもので、従姉妹夫婦、姉夫婦、91歳の叔母に私達夫婦の7人である。 久しぶりの温泉でゆっくりしてきます。
2009.12.14
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このところ毎日歩いたり、グラウンドゴルフをしたり一応の運動はしていたが、 なにか中途半端で身体がすっきりしなかった。 そこで今朝は8時15分から1時間を超える散歩をしてきた。 12月中旬とは思えない暖かさが続いているが、それでも朝の冷気はあり、清澄な 空気が満ち満ちている。 それは30分ほど強歩で歩かないと汗ばんでこないことでも分かる。 それでも帰って身体をふいてしばらく裸でいても寒くないくらいの陽気で助かる。 今日はこれから近所のスーパーに買い物に行き、4時からのおじさん合唱団の練習 があるくらいで、のんびり出来そうだ。もっともいつもそうだが!
2009.12.13
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かみさんの合唱 ジョイントコンサートが昨晩開催された。 鹿児島では一番古いおかあさんコーラスで47年の歴史を持っていて、相手の 団も36年の歴史がある。指揮者が同じ先生ということでジョイントが実現 した。歴史があるだけに1500人収容の宝山ホール(県文化センター)が ほぼ満員になった。 我が楠声会の団員の奥さんがうちのかみさんを入れて4人いるので、我が団にも 40枚の招待券が届いた。 近所のどんぐりの会からも3組のご夫婦をはじめ9人が聞きにきていただいた。 かみさんの通う ヨガの仲間も沢山みえていただいた。 団員の高齢化はあるが、歴史を重ねてきただけの演奏が出来ていたようで私の 周辺の人々からも好評だった。今朝も沢山のメールや電話が入っていた。 まあ これで一段落、あとは私の練習もふくめコーラス関係は納会を待つのみで 今年も終わりそうだ。 私のブログもサボりながらも丁度300回になった。 今後ともよろしくお願いします。 今日の写真は昨日の演奏会のあった県文化ホール前にある“小松帯刀像”である。
2009.12.11
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昨日はグラウンドゴルフの後、かみさんと久しぶりにランチに行ってきた。 といっても“焼き肉ランチ”であり別に洒落たものではない。 かみさんの11日の演奏会の準備も一段落したようで、久しぶりの休日?と なったからだ。かみさん曰く「演奏会前に焼き肉を食べたい」という一言が きっかけである。もちろん食い助の私に反対する理由はなにもない。 昔はよく行っていた“焼き肉なべしま”である。ここは地元の会社だが、福岡や 宮崎・熊本にも出店していて、繁盛している。 カルビ1.5倍のランチを注文したがこれで@1350円。 サラダバー付き(デザートもあり)、みそ汁かわかめ汁、コーヒー、ごはんはお 代り自由。最近家では“黒豚しゃぶしゃぶ”が多いので、おいしく食べて満腹に なって帰った。あれで採算がとれるのかなあと思う。 夜、娘から電話が入ってきた。 小2の孫(男)のクラスが新型インフルで午後から今週いっぱい学級閉鎖になった とのことで、1時30分に親が全員呼ばれて説明を受けたとのこと。 本人はどうもないので「やったー」と喜んでいるらしいが、外出も止められている ので、これからどういう風に過ごさせようかと悩んでいた。 娘一家の前の家に住む婿殿のお父さんがお守りに一番大変だろうなと思うことだ。
2009.12.10
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このところ天気が不安定だ。 しばらくこのブログも天気と一緒で休んでしまった。 いや それは天気のせいじゃなくて、私の自信の問題だ。 休んでいる間、特別なことが起こったことといえば、高校時代の恩師が亡くなって 悲しい別れをしなければならなかったことだ。 私は高校時代はマイナーなクラブ活動で生物部だったのだが、先生は顧問だった。 あの時代、校長を説得し毎年 霧島に生物採集とい名目でキャンプに連れていって もらったり兄貴のような存在で思い出の多い先生だった。 私に登山の楽しさを教えてくれたのも先生だった。 今日の朝は曇り空。いつもの閑なおじさん3人組でグラウンドゴルフをやった。 4ゲームの中でIさん絶好調で5回もホールインワンを出してなんとトータル60点 という好成績だった。私も久しぶりにホールインワンを2回出したが、79点だ。 もう一人が83点ということで、大いに楽しんだ。 しかも最後に奇跡的なことが起こった。 それは4ゲームの最終ホールで3人ともホールインワンをだしたことだ。 これまで2人は入れても1人がはずれるなどだったのだが、初めてのことで 思わず3人で握手をして別れた。 有終の美を飾れたので、土曜日につなげたいものだ。
2009.12.09
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先程散歩から帰ってきたが、曇り空に風はビュービュー吹いている。 こんなことを繰り返しながら冬になっていくのかな。 明日の予想は晴れながら、最高気温予想は16度しかない。 ところで昨夜は変な夢で目が覚めた。 公の機関に出す見積書らしきものに印鑑が抜けていて、変に焦っているのだ。 どういう状況だったかはきりは覚えていないが、なにかややこしい有様でもう 朝起きてすぐにその始末に走らなければいけないということのようだった。 目ざめて意識がはっきりすると、どうも現役時代の仕事上のトラブルが潜在 意識として残っていて、それがこういう夢になったのだろうと思った。 退職して6ヶ月以上経つのに未だに変な夢に悩まされるなんて悲しい性だなあ。 そういえば似たようなことは昔もよくあった。 学校を卒業して20数年経った40台後半くらいまでは、よく単位の足りない 夢をみて慌てて目が覚めていた。 いずれも意識がはっきりすると、過去の事で終わった事だと分かりホッとする のだが、自分の不徳の致すところと思わなければならない。
2009.12.03
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北九州からのお客さんが29日から30日まで鹿児島に見えていた。 と言っても私のお客さんではなくかみさんのお客さんだった。 かみさん多忙のため29日は会うことも出来ず、昨日30日朝 城山観光ホテル に私の車で迎えに行き約半日案内出来ただけである。 かみさんの高校時代の友人お二人である。 もっとも彼女たちの主な目的は昨日まで“かごしま近代文学館”で開かれていた 「向田邦子80年記念特別企画展」と29日に開かれた地元アナウンサー5人に よる向田邦子作品朗読会であった。昔の文学少女健在なりというところだ。 かみさんも含めて“文芸部”だったらしい。 朗読会では彼女たちが地元放送局のインタビューも受けたそうだが、私達はそれを テレビで見ることは出来なかった。 朝9時に迎えに行ったあと、かみさんを含めて3人を城山の下の文学館まで送り、 その後私は用事を済ませて11時に合流、長島美術館に向かった。 12時半まで絵画など美術品の鑑賞をし、食事のため“いちにいさん”に向かった。 黒豚の豚汁など大変喜んでもらえてホッとする。 その後、お二人を鹿児島中央駅まで送り、かみさんをコーラスの練習会場まで送って この日の主要な用事終了。 帰って食べ過ぎ是正もあり、いつもより長めのウーオーキングに励んだ。
2009.12.01
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「明日から師走」とテレビで言っている。 そんな中 昨日は写真の“作曲フェスティバル・in鹿児島”が開かれた。 我が楠声会はその中の中学生の部、優秀賞曲「すいせんの花」と最優秀賞曲 「旅立ちの時」を男声合唱曲に編曲したものの演奏を頼まれて歌った。 中学生とは思えない作曲で転調などもあり、結構むつかしい歌である。 今日はかみさんの高校時代の友達2人が北九州から 向田邦子展を見るため に来鹿されていたので、半日 市内の案内などをした。 このことは後日書くことにします。
2009.11.30
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全国的に良い天気が続いているようだが、南国鹿児島も例外ではない。 20度を越す日が今日で3日目。言うことなし。 散歩もグラウンドゴルフも出かける時はTシャツ、シャツ、ジャンパーと3枚 重ね着で行くが、10分くらい動くとジャンパーを脱ぐ。 それでもしばらくすると、汗が噴き出す暖かさだ。 昨日は初めてブック・オフに本を売りに行った。 本の整理が進み、いくらか不要なものが出たことと持っている本を重ねて買った ものなどである。もともと本を売るということには抵抗があって、買う一方だっ たので売るというのは初体験である。 普通の本屋で買った物(当然後ろにブック・オフの105円とかのラベルは貼って ない)10冊くらいとブック・オフで買った物10冊くらいである。 計算が出来たとのアナウンスがありカウンターに行ってみると、な なんとたった の260円である。店員「これでよろしいですか」あっけにとられた私「はい」。 あまりの安さに他の言葉が出なかった。値段づけの根拠を聞く元気もなかった。 まあ しかしこんなものかなと後で思ったりもして、半分は納得して車に乗り込ん で帰った。これからも要らなくなった本を処分する必要が生じるかも分からないが 「ただよりいいや!」と思って持ち込むことが必要だ。
2009.11.27
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