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サボってばかりのクマタツが久しぶりの更新をします。去る1月13日(土)北九州の小倉に住む妻の妹から一本の電話が入った。叔父が亡くなったという知らせだった。それより2,3日前にも電話があり叔父が家で転んで入院したが、2,3日で退院して帰ってきたから一安心、だがもう一週間何も食べられない状況だという知らせだった。それから亡くなるまでの間があまりにも短かったので、驚くほかはなかったが、一昨年11月に今は亡き妻と一緒に叔父の顔を見に行った時は、まだまだ元気だったのでまだしばらくは大丈夫だろうと思っていた。しかし男性としては長寿の満96歳と聞けば、まあまあ大往生という事だろうと自分を納得させた。 翌日の14日(日)が通夜で15日が葬儀だという。すぐに子供たちに連絡し、衆議一決、14日の朝、二男の運転する車でフルメンバーの親子4人で行くことに決定。日曜日の朝、北九州に向けて出発した。九州自動車道を運転する息子の車に乗りながら、私が40代から70代まで家族を乗せてこの道を何十回いや百回を超えるくらい走ったなあ、と思いながら感無量であった。 葬儀など一切は家族葬であったが、団結の固いS家一族だけあって50人近くは集まった。叔父も惜しまれながらも安心して旅立ってくれたことだろうと思うことだった。 通夜が済んで会食の後、我が家の長男と二男は翌日、月曜日の仕事に備えて深夜の九州自動車道路を運転を交代しながら走るということで帰って行った。後で聞いたところ午前1時前には鹿児島に帰着したという。 私と娘は、翌日の葬儀にも出るため2日間、妻の妹宅にお世話になることにした。葬儀も悲しみの中にも粛々と終わり、火葬場に行って荼毘に付した後、再び葬儀社に帰り、初七日も営まれた。 上から3枚の写真は、いつ行っても綺麗に手入れされて、美しい花を見ることが出来る妹宅の庭である。夫婦でよく手入れがされていて、寒い冬場でもこの美しさである。男所帯になった我がも少しは見習わなくては思う事だった。 明けて16日(火)私と娘は新幹線で鹿児島に帰るべく小倉駅に向かった。少し時間があったので、いつものように62年前に銀行に就職し、初任地の小倉支店があった京町通りに自然に足は向かった。北九州市で一番の繁華街である魚町と交差するここ「京町商店街」も時代の移り変わりで昔の店は数えるほどしか残っていない。銀行の支店跡も一時はパチンコ店になっていたが、今はビジネスホテルになっている。もっとも銀行は私が在勤当時に馬借町に新築移転していてそこの現在は銀行の前の通りの上にはモノレールが走り景色は一変している。 京町商店街のアーケードを抜けて左に行くと勝山公園があり、北九州市役所が小倉城を凌駕するような形で建っている。(グレーの建物) 右の建物はNHK。その間に小倉城が小さく見えている。 新幹線に乗車する前に「小倉駅7番、8番ホームの名物うどん」を娘と食べた。これは、一回食べたら病みつきになるおいしさ!(私の感想)今回もお土産にも妹からいただいて帰ってきた。まだ、二袋残してある、楽しみはとって置く。
2024.02.19
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一昨年の12月に妻を亡くした我が家に2回目の正月が巡ってきた。それでも13ヶ月も経っていない正月である。元旦の朝は、我が家では二男と二人で二男がダシをとったお雑煮をおかわりをして食べたり、これも二男が二日がかりで煮た黒豆だけの朝食を食べた。この食事も妻在世中からと何ら変わりはない。 ふと考えると今日はもう1月も最終の31日である。正月のことを二月になって書くのもと思いパソコンに向かっている。 昨年の正月は二男と娘で餅を搗いたり、娘がおせち料理やお雑煮を造ったりはしたが、長男が年末にコロナに罹患し、結局は娘家族と二家族で妻亡き後2週間も経たない慌ただしい中で正月を迎えるという盛り上がりも何もない正月であった。 今年の正月は妻が生きていた頃の正月を出来るだけ取り戻そうと、娘と長男の嫁が分担しておせち料理を造って持ち込んでくれた。それはそれで、感慨無量の私は年始の挨拶でしばらく涙が止まらず、子供や孫たちに見苦しいところを見せてしまう始末だった。 それはともかく、出来上がったおせち料理は妻がいる時と何ら遜色もなく、皆で美味しくいただいた。2日と3日は二男は外出したので、私は両日とも昼は、おせちの残りを食べながら至福の日々だった。 そして5日の誕生日には前々回書いたように「鹿児島五社詣り」で今年の体力試しと幸運を祈った。夜は家族も来て誕生日を祝ってくれた。7日は近所のNさんから「七草がゆ」の差し入れをいただいた。我が家は都合で後日造った。8日は黎明館であった「石垣シンポジュウム」に参加した。目出度い正月もここまでで、13日には北九州小倉の妻の叔父の訃報が入った。急遽私と子供3人で北九州に向かった。そのことは、次回に。
2024.01.31
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歌を忘れた状態のクマタツが今年2回目のブログ更新を思い立った。もう1月も今日は28日(日)である。一日10時間近くベッドにもぐりこんでいるクマタツも勃々目覚めなくてはと思いやっとこれではいけないと・・・。 日記というのは苦手な私も1969年29歳の時に転職した時から営業の日報の他に自分のための備忘録などを兼ねる手帳を書き始めた。しかし北九州から長崎、徳山と転勤する度に捨ててしまったのか鹿児島に帰る1981年41歳からの手帳しか手許にはない。1981年の11月に鹿児島に帰ってきたのだが、その年の手帳には帰ってくるための親会社との打ち合わせの日付や内容などが詳しく記載されている。それ以降の2017年までの手帳には単年毎にプライベートな主な出来事を全て記載してある。私が自分史でも書こうとするならそれ等を中心に写真なども見ながらということになるのだろうが、もう現状では無理かなと思う。 2018年からは、妻がその頃から書いていた3年手帳を勧められて私も使うようになった。書く欄は少ないが、その日の朝の室内温度や出来事など書くのには何ら不自由はない。2年目、3年目になると同じ日に何があったかということがわかり悲しい出来事であれば、感慨にふけることもあるが、それはそれでいろいろなことを思い出すきっかけにもなる。 2018年~2020年、 2021年~2023年の黄色の3年手帳が昨年で終わり、今年からの手帳を単年の手帳にするか、3年手帳にするか考えたが単年手帳に切り替えるのは、縁起が悪いような気がして、思い切って3年手帳を買ってきた。今年は前年や前々年の出来事を振り返ろうとすると、古い手帳を引っ張り出さなくてはならないが、それはそれでいいし、過去は振り返らないという意味ではいいのかもしれないと考えたりもする。 当面考えるのは、この手帳を完結するまで元気でいようと、そのためには生活全般をどのように過ごしていくかということだけである。
2024.01.28
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我が家に一足早い正月が来た。昨日、昼過ぎにチャイムが鳴るので「ハ~イ」と言いながら玄関に出てみると、近所のTさんが大きな鉢を抱えて立っておられた。この鉢は、先日妻が生存中に近所の仲のいい4人で毎月「女子会」と称してランチをしていた3人が玄関に置く鉢物を造るから適当な鉢はないかと訪ねて見えて託したものだった。その中のお一人でいつも県の美術展入選のTさんがセンス良く仕立てていただいたものだ。鉢の白い模様もTさんが描かれたものと思う。これも花鉢にピッタリでセンスがいいですねぇ。正月花や正月飾りも華やかに仕上がっていて、このところ殺風景だった我が家の玄関に文字通り一気に花が咲いた。妻の一周忌の12月を迎えて沈みがちだった私も一気に元気を取り戻すことだった。 12月3日(日)は北九州に住む妻の妹家族5人が前日から鹿児島に入り、西本願寺別院で極々近い親族だけ10数人で法要をお願いした。その後、城山ホテル鹿児島で会食をし、午後には高速道路を北九州まで帰って行った。12月10日(日)は新しく買うことが出来た西本願寺中央出張所で納骨式の後、納骨をすることが出来た。私や子供たちも一周忌までには納骨を済ませたいと思っていたので、一応の一安心ではあったが、寂しさも感じるこの頃でもある。 先祖代々の納骨堂は近々墓じまいをして、先祖のお骨も新しい納骨度に納めようと思っている。20日の命日に向けて自宅の仏壇にお参りしてくださる方や、供花など送ってくださる方があったりで、忙しい日々を過ごしていた。 そういう中で、大変嬉しい出来事あった。私が10年以上前に書いたエッセイ「花瀬望比公園」を2019年8月17日に 終戦記念日に寄せて(その三)「花瀬望比公園」と題して拙ブログにアップしたものがあった。それから4年以上経過したこの12月4日にある方から思わぬコメントが入ったのだ。いずれ詳細を書くことになると思うが、わかりやすくは下記の通り入力いただければ概要がわかると思う。 https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/201908170000/ その他にもグラウンドゴルフの忘年会や妹の傘寿の祝、姉と妹たちのコーラス「いきいき」の演奏会、友人中村隆重くんの「哲学の庭」出版記念パーティーなど嬉しいことも山盛りの12月だった。 そして、今年最後の今日のグラウンドゴルフで何と一年に何本も出ない50mホールでホールインワンを出すことが出来た。「終わりよければ全て良し」と一人悦に入っている。
2023.12.27
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今朝はいつもより遅い5時30分頃目覚めた。最近は早い時は朝4時ごろに目覚めて、もうそれから眠れなくて、エイ! とばかりに起き出してもそもそしながらパソコンの前に座ったりすることもある。ただ昨日は土曜日でグラウンドゴルフをする日だったので、8時にはグラウンドゴルフをする公園に出かけて、いつもの通り清掃や草むしりをし、そのあとラジオ体操をしてゲームに入った。ところがこの夏一番の暑さで4ゲームできるかなと心配になった。メンバーの2/3が80歳越えのため最近の話し合いで暑い日は1ゲームでも2ゲームでもして終わろうということになっていたので2ゲームの後、休憩をして後半は1ゲームで終わった。都合3ゲームで終わったのだ。 詳細は省くがその後、近所に弔問に行く約束があったので、嫁ぎ先から実家に帰ってくる娘さんの時間に合わせて11時に弔問に行った。 帰ってしばらくすると、我が娘から電話があって、昨晩私の妹と所用で会ったところ一日早いがこの日の午後に私の長姉とその家族と妹が我が家の妻の初盆のお詣りに来てくれるという。男所帯の我が家はお客さん一人でもバタバタする現状なので、娘が来てくれることになった。午後2時ごろ長姉と娘がその婿殿の運転する車で到着。妹も便乗してきた。長姉はこの7月28日に連れ合いを亡くしたばかりの状態でよく我が家にお詣りに来てくれたものだと、ただただ頭が下がった。 姉妹たちが帰ってしばらくすると、近所のIさんからの電話が鳴った。初盆のお詣りに来てくださるという。有難いことだ。Iさんご夫婦とは妻の生存中から近所では一番付き合いが深かった。現在もご主人は老人会でも私と一緒にいつも活動していただいている。せっかくお見えいただいたのに娘も帰った後で、私が準備していたお茶を出そうとしたが、遠慮されたのでお茶も出さず仕舞だった。本当に申し訳ないことをした。 この12日は、妻の初盆に仏前にと花を贈ってくださる方があったり、御佛前を送ってくださる方があったりで、慌ただしく過ぎていった。 しかしこの日の疲れの99%は暑い中での朝からの草むしりとグラウンドゴルフのせいだと思う。そいうことで寝つきもよく、今朝は、ゆっくりと目覚めたのだ。 起きていつものように雑草園を見ると、朝顔がこれまでの最高の数で咲いていた。主に2ヶ所に集中して咲くのだが、この場所でこれだけの数が一日で咲くのは初めての事だった。 そればかりではなかった。今朝はこれまで気がつかなかったのか3種類の花が咲いているのを発見した。3種類とも名前は知らない。多分、妻が昨年の秋に植えたものだろう。私の今となっての記憶では、妻亡き後、今年の春に雑草に埋もれてしまって育ちきれない花々を抜いたりした記憶がある。そいう中で生き残った花ではないか。3種類とも少しづつ申し訳なさそうに咲いている。 この花の名前をブロ友・蕗さんに教えていただいた。 「玉すだれ」です。 今日13日はお盆の入り。今朝は妻の初盆供養のため西本願寺別院の9時からの合同内勤に行くべく、迎えに来てくれた娘家族の車で西本願寺に向かった。いつも一緒に行く同居する二男がちょっと事情があって今日はお詣りに行くことが出来なかった。お寺さんで長男家族とも落ち合って7人でのお詣りとなった。この日は9時から30分刻みの合同内勤ということだったが、朝一番の9時からの参加者も多く、お焼香台も8台あった。それでちょど9時30分には終わった。その後、7人で我が家に帰り、娘と長男の嫁が手分けして料理してくれた料理で昼ごはんとなった。妻がお盆には毎年つくっていた「だんご」や鹿児島の郷土料理「かいのこ汁」なども見よう見まねでつくっていて、妻の味をそのまま引き継いでいるようで美味しく頂いた。 我が家恒例の御先祖を迎える「迎え火」も皆で一緒に済ませてそれぞれの家庭に帰って行った。 この花は「ゼヒランサス」です。
2023.08.13
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しばらくブログを休みます。皆様のブログへの訪問もしばらくできませんがお許しください。事情解決次第復活の予定です。
2022.12.18
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11月13日から2泊3日でコロナの合間をぬって北九州市小倉北区を始め玄海方面や博多を訪ねた。主な目的は妻の叔父の様子を見て一族と久しぶりに会うことである。それまではできるだけ一年に一回は小倉に住む妻の妹家族との行き来を含めて私達も小倉に行くようにしていた。 小倉を始め北九州は、私にとっても第二の故郷みたいなもので、若い時12年間住んだ街でもある。それまでは車で行くことが多く、小倉駅周辺を歩き回るような機会は殆どなかったが、車の免許を2年前に返上した今回はJR九州「ハロー! 自由時間ネットパス」を購入し3日間乗り放題フリーパスとした。これまでも何回か利用して九州内を自由に旅したことまあったが、今回は大幅値上げがなされていて@19,800円となっていたので、いささか驚いた。それでも予約もいらず3日間なら九州内どこにでも行けるので便利この上ない。 小倉駅構内への階段 どこか鹿児島中央駅とも似ている 小倉駅の特徴は何といっても「モノレールの発着点」があることか。モノレールもできた当初は駅から数百メートル離れた平和通りまでだったが、利便性もあってか駅を発着点とするため延長されている。 小倉の紫川に架かる橋から見えるレンガ状の建物はデパートの井筒屋。北九州のデパートの老舗でブランドが光る。鹿児島市でいえば山形屋デパートみたいな存在か。 私が住んでいた頃の紫川は、あまりきれいな川ではなかったが、都市の再開発と合わせてイメージを一新し珍しい建物もたくさん建っている。 次回は小倉城訪問記など書く予定です。
2022.12.01
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11月21日(月) 近所のお医者さんで第5回目のコロナ予防接種を左手に、インフルエンザ予防接種を右手に受けてきた。それより前、第5回目のコロナ予防接種を受けようと思い、予約の電話を入れると同時に「インフルエンザの予防接種もお願いしたいのですが、何日がよろしいでしょうか」と問うた。すると、「11月21日の同時でよろしいですよ」との返事があった。一瞬戸惑った私は「同じ日でよろしいのでしょうか」とおもわず問い返した。すると「同時で構いませんよ」との返事があった。私も再びオウム返しに「では、それでお願いします」と答えた。 しかし、思い返してみるとこれまでのコロナの予防接種では注射後の発熱があるとか、様々なことが言われて、実際に身近にも「結構高い発熱があった」「きつかった」という話がある。幸い私は4回目の接種後の翌日も何事もなくグラウンドゴルフに興じたのだが、終わった後で仲間に話をすると「翌日はゆっくり休養するものだよ」とたしなめられる始末だった。そういうこともあり私自身、同じ日の予防接種を必ずしも納得はしていなかった。その後、新聞記事で厚生労働省だったと思うが「同じ日の接種については勧めはしないが、やっても構わない」旨の発表がなされているとのことで、接種後ではあったが私も納得した。 実際の処、両腕に注射をした翌日22日(火)も接種した両腕とも痛くも痒くもなく、ましてや熱発、疲労感などなく、予定通り鹿児島県県民センターで開催された姉たちの合唱団の演奏会に行くことができた。23日(水)はグラウンドゴルフの定例日だったのでこちらも何事もなく、プレーできた。先ずは、メデタシ! メデタシ! あ そうそう上のイラストはネット上から拝借したが、念の為一言付け加えれば、あそこまで頭は薄くなっていない。😁
2022.11.24
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久しぶりの更新である。前の更新から一ヶ月以上経ってしまった。目の状態は一進一退か。自分でもよくわからない。いずれにしてもこの一ヶ月新聞やネット情報は以前と同じくらい読んできたが、本は根を詰めるのでほとんど手にしなかった。それでも、その間に本を一冊買ってしまった。それは久しぶりに島津氏の関連本で「秀吉を討て」。著者は島津家の歴史館ともいうべき「尚古集成館」館長の松尾千歳氏。この本のことを地元新聞の紹介で知り、すぐamazonで購入した。地元鹿児島でも今週のベストセラー10位に入っている。いずれ詳細は書く予定であるが、私が当ブログにも2回位取り上げた「朝鮮出兵の頃、明が薩摩と組んで秀吉を倒す、という企みがあった」という話に今回のこの「秀吉を討て」では「徳川も加担していた」ということが書いてある。いずれにしても大変興味を惹く本である。 台風のことを書くつもりが、いきなりの脱線である。台風に戻ろう。昨年だったか、大きな台風が襲来するとのことで戸締まりにも万全を期していたが、嬉しいことに肩透かしをくって何事も起こらなかった。今回の台風14号も予報の前触れが大きい。今度は本当に来るかもしれない。そこで、雨の降り出す前に戸締まりを始めて、使っていない部屋は完全に締め切って、使っている部屋だけ外光を入れるだけにして、ほぼ締めてしまった。あとは、また肩透かしを願うのみである。
2022.09.17
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(今朝写した我が家のノウゼンカズラ) 我が家の今年のお盆は、いつもとちょっと様子が違う。それは、全てがますます大きな波になってきたコロナ禍のせいである。いつものお盆は、13日の夕方に「迎え🔥」を焚く頃から始まるのだが、コロナ禍に影響された息子の勤務が13,14,15日になったからだ。息子は9日から12日まで4日間が休みとなり、その代わりにお盆が出勤になってしまった。これまではお盆や正月や祭日はいわゆる世間並だったのだが、今回はやむを得ない事態の発生である。 そこで、12日に初盆を迎える叔母の家に親子3人でお参りをし、墓参り、買い物を済ませ、ランチをして帰宅した。13日昼前には長男家族が沖縄にいる長男を除く3人で墓参りを済ませた後、我が家にお参りに帰ってきた。妻がお盆の団子や昼のご飯を用意して迎え、14時30分頃帰って行った。そして今日14日、娘家族4人がこれから墓参りを済ませて帰ってくるという。東京にいる娘家族の長男は9日に帰ってきて、先日我が家にも顔をみせたが、久しぶりに4人揃って来るそうだ。昨日と同じような準備をして迎えるようにした。 これまでは14日の昼に一斉に集まって、ワイワイ騒ぎながら食事をしていたが、コロナ禍で3年目の今年も11人がいっぺんで集まることは避けようとしてこういう形にした。一日も早いコロナの収束を願うばかりだ。 話題は変わって、私事。慢性結膜炎? の具合が良くない。お盆明けには行きつけの眼科に行く予定だが、とりあえず目薬を買ってきてしのいでいる。そのためしばらく読書もブログも休んで様子をみることにした。皆さんのブログに訪問することくらいはできるでしょう。 (また咲いた大好きなテッセン)
2022.08.14
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(雑草園の大株のベコニア) 7月27日、4回目のコロナワクチン接種を受けた。3回目までと同じ病院、同じファイザー社製である。接種記録を見ると、一回目:2021年5月28日、二回目:2021年6月18日三回目:2022年2月19日、そして今回である。 一回目から三回目までは、注射跡を何気なく触れたときに、「ああ、注射を射ったのだったなあ」と思うくらいで痛くも痒くもなく、だるさも熱発も何も感じなかった。私の周りの人々は、それなりに「熱発があった」「ちょっとだるかった」など様々な反応をしていたが、私は「もう80歳を超えたから、身体も鈍くなって、もういろいろなものに反応しなくなっているのですよ」と煙に巻いていた。 7月27日(水)グラウンドゴルフの定例日であった。11時30分からの接種に10分前には病院に来てください、との指示だったのでいつもの4ゲームの途中の2ゲーム終わって休憩時間にメンバーに断って帰宅した。そして汗を流し11時のバスで病院に向かう。この日は8人の接種で様子見の時間も入れて11時45分過ぎには病院から退出した。この日はこれまで通り体調不良や熱発もなく眠りについたが、夜中に起きたときに少しきつさを感じ、注射を射った腕が少し熱をもっていた。 そして28日(木)朝、この日はグラウンドゴルフの定例日ではないが、いつものメンバーの一人・NSさんが知り合いの女性3人がグラウンドゴルフをやりたいという希望があって、私達のいつもの公園で私達の用具を使ってやってみたいということで私達も誘われていた。せっかくだからと私も妻と、いつものメンバーのITさんと3人で参加することにしていた。ちょっと身体は重かったが、行ってクラブを振っても特別痛みも他の違和感もない。ただ、いつもよりきつい感じはした。二組の分かれて競技開始。私は2ゲーム目にホールインワンも出て、2ゲーム終わって休憩に入ったときには成績はトップだった。しかし、休憩前も、ちょっと暇があると座り込んで休むような状態になっていた。休憩時間は初めて会った皆さんとも話が弾み、いつもにも増して賑やかに過ごした。しかし私は「昨日4回目を接種したので、今日はちょっときつかった」と白状し、休憩後の2ゲームは見学することにして、木陰で皆さんのゲームを見ていた。終わって、NSさんの仲間の3人も「ここの公園はやりやすかった。楽しかった」と口々に言って感謝の言葉を述べて帰っていかれた。 私自身の4回目のワクチン接種は、寝込むようなことはなかったが、これまでにないきつさであった。これから5回目ということもあるかもしれないが、歳のことも考えて今後は慎重に対処しなくてはいけないという思った。 (ゴーヤに花が咲いてきた)
2022.07.29
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昼過ぎに娘から電話があり「今日は家にいる?」という。「午前中はがラウンドゴルに行っていたけど午後は二人とも家にいるよ」と返事をする。「この前、話をしていた薩摩蒸気屋に来ているのだけど、今日は『桃太郎』があるから買っていくよ」と娘が言う。何やら季節限定のケーキ? らしい。もう数年前から売られていたようだが、私たちは知る由もなかった。待つこと30分くらいで娘がやってきた。お土産だと言って差し出されたのが上の写真の「桃太郎」である。薩摩蒸気屋でもつくる数が少ないらしく、運が無いと買えない代物らしい。今日は運良く買えたそうで、我が家に3個、自宅用に2個買ったそうだ。 昼のデザートとして早速食べると、桃の種部分を切り抜いて、その部分に生クリームとベリーが入っていて、土台はスポンジだ。娘がナイフとフォークを使って食べたほうがいいとの指南があり、その通りにして食べた。よく冷えていて、絶妙な味で大変美味しい。その上、ボリュームたっぷりだった。 このところのぐずついた天気も良くなり、久しぶりに雑草園に出てみると、私のお気に入りの紫の「てっせん」が2輪咲いていた。 こちらも花が咲き始めた。 今日は水曜日。グラウンドゴルフの定例日だった。このところホールインワン欠乏症にかかっていた私に久しぶりのホールインワンが出た。しかも3本も出たので自分でもびっくり。一年に3,4回くらいしかない珍事である。このところ、3日に一回の更新を目指していたブログも滞り気味である。寄る年波に負けているのが一番だが、ちょっと面白い本に取り憑かれているのもその一因である。高校同期生でつくる「歴史通信」のメールの中で、最近ちょっとした「古代史」についての交信が多くなっている。古代史は全然かじったこともない私だがメール交信の中で妻が古代史や中国の歴史に興味があり少しかじっていると知った東京に住むNSくんが、安部龍太郎著の「迷宮の月」という本を贈ってきてくれた。関西のKBくんや鹿児島のKくんなどは古代史を勉強しているので彼らにも同じ本を贈ったそうだ。我が家では先ず妻が読んで私も昨日から読み始めたのだが、それがとても面白く、小説とはいえ、歴史上の人物はそのまま出てくるので、古代史初心者の私は主要な登場人物に出会うとその人物のことをネットで調べてメモし、次に進むという読み方をしている。種明かしをすると、第八次遣唐使のことを書いた本であり、どんどん引き込まれている。それでも全413ページのうち、半分の204ページまで現在到達した。読み終わって読後感でも書ければと思っている。
2022.06.22
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今日はいくつか買い物があって、10時45分発のバスに乗って鹿児島中央駅まで出かけた。ビルの上に見える観覧車は、このアミュプラザと駅の併設ビルができるときに上に観覧車を設置するということでいろいろ物議を醸したものだった。2004年新幹線が新八代駅~当駅間で部分開通となった日、西鹿児島駅から鹿児島中央駅となり、2011年3月12日博多駅~鹿児島中央駅間が全線開通した。奇しく東日本大震災が前日の11日に起こり、開通のお祝いも簡略化されたように記憶している。 話は戻って観覧車のことだ。直径60m,最高地点は約91mあるという。建設に当たっては物議を醸した観覧車も市内のアチラコチラから見えて、鹿児島中央駅の方向を指し示してくれるので、私にとっては違和感はなくなってきた。何よりもこの歳にして孫たちと一緒に3回も乗って楽しんだので文句を言えた義理ではなくなった。 右に見えるビルは現在鹿児島一高いビルで地上24階、高さ101m。高層階は分譲マンションで「ザ・パークハウス鹿児島中央タワー」低層階はテナントで「ライカ1920」その前にある建物は南国センタービル。そのいずれも、新幹線鹿児島乗り入れがきっかけで再開発されたビルである。新幹線の威力をまざまざとこの鹿児島にも見せつけたのではと思う。 中央に建つビルは「鹿児島中央ターミナルビル」。下には南国交通などが入る。上は「ソラリア西鉄ホテル鹿児島」7F~14F 昼は「いちにいさん」でランチ。前回より値上げになっていた。 イオンで娘から「父の日」のプレゼントを一緒に買いに行けないのでと渡されていたお金でアディダスのスニーカーを買う。出たついでに夏のズボンも一本ゲット。いい日だった。(笑)
2022.06.18
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明日、6月16日は義弟の一年忌である。その一年忌を前に妹から連絡があり、コロナ禍の中なので、ほんとに身近なものだけで12日(日)一年忌の法要を鹿児島市の西本願寺別院で行うという連絡があり、私達夫婦もお参りした。 思えば昨年の6月16日、妹宅から電話があり、妹婿の容体が急変して危ないという。それまでに入退院を繰り返していた義弟だったが、コロナ禍の最中のことでもあり、病院にも見舞いにも行けず、退院したときには義弟が自分で運転して我が家にも、ちょっと立ち寄ることもあるような状態だったので、そこまで悪化しているとは思いもしない日々が続いていた。そこで、昼ごはんを済ませて駆けつけたのだが、看護師の娘が関東から帰ってきて父親の看護を続けていたこともあって、そのときは酸素吸入が始まっていたが、息苦しさが私達にも伝わるほどの息遣いだった。1時間ほど経過したが、そのような状態が続いたので、私達がいても役にも立たないと思い、一旦我が家に帰ってきた。帰ると間もなく電話があり、先程安らかに息をひきとったとの連絡だった。後で聞くと、看護師の娘がこれまでの経験からその日が山場だと思い、身近なものに連絡をしたのだそうだ。さすがプロである。無駄にはメシを食っていないことがわかった。義弟も娘のおかげで最後の2週間を十分な看護を受けながら最後を過ごしたとのことで、悲しい中にもななかホッとするものを感じた。 そういうことを思い出しながら、お経を拝聴し、その日は広島からみえたというお坊さんの講話を聞くことだった。いい法要だった。 この本願寺別院には子供の頃から数え切れないほどお参りに訪れているが、この大伽藍が九州一のものだということを「鹿児島市 史跡めぐり ガイドブック」で知った。薩摩藩では、江戸時代を通して一向宗(浄土真宗)の信仰はキリスト教とともに禁止されていたが、かくれ念仏とし密かに信仰が続けられていた。 明治9年(1876)に信仰が許されると、真宗本願寺派は布教活動を始め、説経所も開いた。明治30年(1897)、別院が建てられたが、昭和20年(1949)再建、さらに昭和57年(1982)には九州一の大伽藍が完成した。(鹿児島市 史跡めぐり ガイドブックから引用)
2022.06.15
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我が家の狭い雑草園も日々変化している。上の写真にあるニチニチソウも以前アップしたときよりも整ってきた。ありふれた花だが白い花びらの中の赤が彩りを添えて愛らしい。 下のピンクの花もニチニチソウ。ちょっと大きな花が二輪咲いた。 一回咲いて、散ってしまったテッセンがまた咲き始めた。他の株にも蕾があり、しばらく楽しませてくれそうだ。 紫陽花 ゼラニューム ダイアモンドフロスト この季節になると始まる我が家の行事が今年も始まった。その中で唯一私が加勢できるのが「らっきょう」の皮むきである。今年はとりあえず6kg買ってきた。妻が先ず外の水道で土を洗い落とし、大まかに皮むきをしたものを台所に持ち込んでくる。それから下の写真の通り、上下をカットし固い皮を剥いて出来上がり。これは二人がかりの仕事になる。その後の漬け込みなどは私に関知することではないが、今年もあと2,3kg買って再び同じ作業を繰り返した後、醤油漬けを中心に酢漬けなど3種類くらいに分けて漬けるそうだ。らっきょうを買った後の楽しみは、漬け込む前のらっきょうをサクサク小さく切って酢味噌で食べるのが最高である。 昨年は日置市永吉の歴史仲間「本○どん」宅に私達歴史仲間が中国人留学生など一緒に大勢で押しかけて沢山の「梅」をいただいて帰り、皆それぞれに沢山の梅の加工品を作ったのは記憶に新しい。先日Mくん宅で関西の同期生KBくんを迎えての「歴史的会談」のことは当ブログに紹介し、「本○」どんから差し入れのビワを私たちも沢山いただいて帰ったことを書いた。そのビワを我が家では「ビワジャム」に挑戦しようということで、妻がネットのレピシなどを見て作った。毎朝のヨーグルトに入れて美味しくいただいている。その「本○どん」から「今年は梅は裏年でした」という話があった。昨年作った「梅干し」以外は全部お腹に収まってしまったが、梅干しは2,3年はあろうという量だったので、殆ど減っていない。そういう時、近所のがラウンドゴルフ仲間から下の写真の様に沢山の梅をいただいた。阿久根の里で沢山収穫があっとのことでありがたくいただいた。そして早速、「梅ジャム」や「梅シロップ」など作りに妻が励んだ。 この時期は「すもも」系の果物を買って、ジャムも作っているので、近々、朝市に行こうということになっている。運搬しか能のない私も付いていくことになる。
2022.06.06
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2,3年前から、いやもっと以前から「チャバネゴキブリ」と思われる小型のゴキブリが我が家で思い切り動き回っている。朝起きて台所に行ってみると私の視界の中にチョロチョロと動き回る小さなゴキブリがいる。エイッという掛け声と共に素手で叩くのだが、すばこしく動いて何処かに消えてしまう。「秒速ノックダウン」なる噴霧式の薬剤の缶も置いているのだが、それが近くに無いときは、素手の方が早い。うまく仕留めた場合はゴキブリを処理して、石鹸で手洗いを繰り返す。 今年は4月25日(月)台所(8畳フローリング)とリビングルーム(10畳フローリング)続き間にバルサン2個炊く。続いて少し間が空いたが、5月13日(金) 全く前回同様にバルサン2個。そして今日5月23日(月) 台所はアースレッドW,リビングルームはバルサン。これまでのバルサンは古いものだったので、無くなったら変えてみようと思ってアースレッドにした。 さて効果は、どうかこれからの結果になるが、過去2回はそれなりに 直後に10匹くらいで翌朝迷い出てきたのが5,6匹くらいで大きな効果は出ていない。後は私の目に届かないところでどのような変化があっているのか。今日は直後に8匹、後に天井をさまよう5匹を落とした。しかし、ネットで見ると、「1匹見たら100匹はいる」など悪い情報ばかりで気が重い。15年位前に、然るべき業者にお願いして、大きな効果があったので、今回も最終的にはその方法を取らざるを得ないかもしれない。いい手があったろご教示ください。
2022.05.23
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今、全国的に餃子がブームだという。総務省発表によると2021年の一世帯当たり餃子購入額4184円で宮崎市が日本一になったという。当地・鹿児島でもお隣の宮崎市の日本一に刺激されたのか、負けじ魂に火がついたのかこのところ餃子屋出店のニュースが流れている。そういうのに弱い我が家では新規開店の店に早速餃子を食べに行こうということになった。 バスに揺られること15分、都通りバス停で降りて(下の地図参照)、左の方向に歩くとJR鹿児島本線の踏切に出るのだが、その手前の赤マルの所が私が生まれて5歳まで住んでいた場所である。久しぶりに歩いてみると上の写真にあるように「こころ」という海鮮丼屋さんになっている。2,3年前はクリーニング屋さんだった気がするが業種が次々に入れ替わっているようだ。もっともこの場所は祖父が土地を借りて家を建て自宅兼お茶屋さんと奥では「縄の工場」を始めた場所だったので、父(父は銀行員だった)が招集され、私達が疎開をしたあと空襲で焼け落ちた後は何らの権利も残っていなかったそうだ。 「こころ」の前を通り2,30m行くと鹿児島本線の宮田通り踏切がある。 その宮田通り踏切を渡るとすぐこの日のお目当て「餃子のあかり」があった。ここで2種類の餃子を組み合わせた「W餃子定食」を食べた。 この宮田通りを真っ直ぐ進むと写真にかすかに見える山の下に疎開先から帰ってきて借りた家があった。そこには中学校2年の途中まで住んだ。その後、別な場所に引っ越すのだが、22歳で鹿児島を出て41歳で鹿児島に帰ってきて以来、住み続けているのがこの山の奥の方である。この周辺は私とは切っても切れない場所である。 この線路は鹿児島本線でこの先に鹿児島中央駅がある。 人が歩いている場所は「こころ」から歩いて来たところだが、私が子供の頃夕方になると汽車を見に来た場所であり、昭和19年6月、2度目の招集で戦地に行くため汽車に乗った父を最後に見送った場所でもある。 ここは帰り道で再び都通りバス停向かう方向。 右側のちょうど真ん中辺りが私の生まれた場所である。鹿児島中央駅とは150mくらいしか離れていないが、昼間は寂寥感が漂っているようだ。
2022.05.13
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鹿児島市一の繁華街・天文館に4月9日、センテラス天文館が開業した。少しでも早く覗いてみたいという気はあったが、混雑を避けて、他に用事も済ませるべく訪ねたのは4月25日(月)だった。友人のMくんは開業の日に夫婦で訪れてLineが入ってきた。ホームページを開くと次のように書いてある。 天文館地区の新しいランドマークとなる地上15階建ての複合施設。 飲食や物販、ファッションなどのアイテムが揃うほか、ゆっくり読書が楽しめる図書館、広々とした屋外 庭園、街を一望しながらくつろげる最上階のスペースなど、歩いているだけでワクワクできるような施設となっている。観光案内所やクリニック、多目的ホール、ホテル7階~14階、最上階にはレストランもある。 (下の写真はエントランスとなる広場・センテラススクェア) 正面玄関を入るとすぐ左側にあるのが、「Eggs'n Thing's」エッグスンなんでもハワイ発祥のカジュアルレストランのようだ。名物は「パンケーキ」だという。甘党の私として見逃せないところであるが、昼前だったので今回はパス。後日を期して通過した。この日は「鉄板焼 いいとこどり」で鉄板焼定食を食べた。「はとやのぱん」でパンを少し買って帰った。 雑貨を扱う店が多い。ちょっとした贈り物を探すのにはいいかも。 ファッションも多い。 鹿児島市立図書館はこれまでももちろんあったが、交通の便などが悪くて、私は一回しか訪ねたことはなく、城山の下にあり天文館からも歩いていける県立図書館を専ら利用していた。今回のセンテラス天文館の開業に伴い、市立図書館がここの4階と5階に開かれる事になった。蔵書は4万冊だという。今回は「図書館利用者カード」を作成に行ったのだが、10分くらい待つ間にできて、交付してもらった。蔵書を詳しくは見なかったが、広々としてゆっくり本を読める場所もあった。(下の写真)他の用事もあったので、最上階からの眺めを見ることもなく、これも次回の楽しみにした。
2022.05.10
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娘の次男は昨年20歳となり、今年の1月は成人式だった。3歳上の長男のときは、成人式の後、日を置かずにお祝いをした覚えがあるが、今年はコロナの蔓延もあってお祝いも一日伸ばしになっていた。 そういう中で、今年は二人の孫の父親の婿殿がこの春の人事で転勤になってしまった。しかも離島だという。今度は初めて単身赴任するそうだ。そいうことで急遽、次男孫の「成人祝い」と婿殿の「送別会」を娘家族とわが家のごくごく少人数で開いた。場所は鹿児島中央駅前を真っ直ぐ伸びるナポリ通りの左側にあるイタリアンレストラン「Marco polo」。 サラダを始め料理が出された。 スープ パン 魚は「サワラ料理」だった。 私の席からは「ふるさと維新館」前バス停に停まる鹿児島シティービューのバスが見えた。 肉料理 これはランチメニューのコース外のピッツア。足りないということでデザートの前に若い連中はそれぞれ「スパゲッティ」も頼んでいた。(一族皆 食い意地が張っている)(爆) 次男にデザートが運ばれてきてびっくり! レストランの粋なはからいである。 できるだけ黙食に努めながら、久しぶりに楽しいひとときを過ごした。
2022.03.24
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3月3日 「ひな祭り」の夕食にちらし寿司をつくって祝いました。娘がわが家にいた頃からの習慣です。もっとも、その頃は同じお寿司でも雛人形を模したものなどバラエティーに富んでいました。 先日、104歳で亡くなった叔母の四十九日が明日です。これを早めて3月6日(日)ごく少ない親族だけで法要をする予定でしたが、折も折、叔母からみるとただ一人のひ孫の小学校でコロナ患者発生しました。その濃厚接触者となったひ孫といつも接している家族も自粛するということで、6日の法要も中止となりました。そのため、今日は叔母の大好きだった「おはぎ」を妻がつくって、二人で仏前にお参りに行ってきました。ひ孫は、学級閉鎖で今日からリモート授業に入ったそうです。(自宅は別々です) 私も叔母の家にお参りに行く前に、一ついただきました。今日も鹿児島県は486人の患者発生で、そのうちちょうど半分の243人が鹿児島市の発生です。横ばいが続いています。早く収束してほしいものです。
2022.03.08
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アッという間に1月が終わり、今日はもう2月3日、節分である。このところ天気も悪く天濃い同様に気分も晴れない日々が続く。 そういう中で、遅い夕食の前に節分恒例の豆まきを玄関を開け広げて親子3人で「鬼は外、福は内」の掛け声と共に行う。近所からはちょうど同じ時間に子供さんの声で「鬼は外、福は内」の大声が聞こえるが、我が家は小さな声で豆まきをする。大人だけの3人家族だが、節分の豆まきだけでなく、節気の行事をできるだけ毎年やっていると、それをやめると何か悪いことがありそうで意識して続けている。おかげで息災である。 今年の恵方は「壬(みずのえ)北北西に向けて手作りの「恵方巻」をパクリとしたあと、ゆっくり食べた。メニューは「イワシ」と天ぷらと豚汁。腹一杯で満足。 節分にあたって思うことはコロナ禍。今日は全国で初めて10万に越えとのこと。今日の鹿児島県は622人、うち鹿児島市328人。2月2日 県 665人 鹿児島市387人。2月1日 県 744人 鹿児島市389人。(最高更新)この節分を文字通り分け目にして減少してほしい。
2022.02.03
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今日は書く予定だった「昔住んだ場所の古地図と現在地図・写真など・・・」をアップしようと先日現在の写真を写してきたのだが、写真取り込みに失敗! 捲土重来を期す! (大げさだなあ) そこに娘から電話が来て「今、山形屋デパートに来ていて、全国有名駅弁大会をやっているけど買って帰ろうか」とLINEが入った。急遽我が家3人集合し鳩首会談。(これも大げさだなあ)息子は他にも 中部国際空港の「みそかつサンドこんがりトーストタイプ」も頼んだが売り切れだった。「いかめし」は娘夫婦のお土産である。今日は11日の「鏡開き」の「ぜんざい」を今日が休日ということで一日早く娘家族分も妻がつくったので、娘家族は先日の「七草がゆ」に引き続き「鍋」持参である。 駅弁選択結果。 私が「近江牛ステーキ&焼肉弁当」 息子が、北海道 厚岸駅前 氏家待合所の「氏家かきめし」 妻が東北新幹線 八戸駅 「こぼれイクラととろサーモンハラス焼き弁当」
2022.01.10
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(鹿児島中央駅付近だが正月のものではない) 今日はもう1月4日。今年の正月3ヶ日もアッという間に通り過ぎていった。でも、まあいいかっ! 松の内は7日まである。できるだけ正月気分でいたいが時は容赦しない。 元旦は我が家を入れて3家族が午後4時に集合し「しょがっで」が始まった。因みに「しょがっで」とは鹿児島弁だが、それは「正月礼(しょうがつれい)」のことで、正月に親族が揃って挨拶を交わす会のことだ。広く親戚や知人宅などを正月に訪問することも「しょがっで」だ。子供ころは「しょがっで」で何軒行く親戚・知人宅があるかが大きな問題だった。なぜなら必ず「お年玉」をいただけるからだ。それは現代の子どもたちも変わりのないことだと思うが、最近は気軽に訪問できるような気風が無くなっているので子どもたちにとっては嘆かわしいことだろう。我が家ではジジ・ババから孫たちへのお年玉の他、娘家族と息子家族とのやり取り? 孫も一人新人社会人になったので従兄弟たちへのお年玉を渡したりしてしばらくの間そのセレモニーが賑やかだった。 娘家族の長男が東京から初めて帰ってきたのだが、羽田空港でPCR検査を済ませて帰ってきた。1月5日、明日には上京の予定である。沖縄の大学に行った息子家族の長男は12月24日に帰ってきたが、1月4日から授業が始まるということで、2日の最終便慌ただしくで沖縄に帰って行ったようだ。 そういう正月だったが、「しょがっで」以外は特別なこともなく、テレビを見たり、新聞・本を読んだりの3ヶ日だった。ただ私をお守りしてくれるパソコンのマウスが元旦くらいから迷走を始めて、思うように動いてくれなくなった。何回も試行錯誤を繰り返すがうまくいかない。ついに昨日3日になってしびれを切らした私はバスに乗ってパソコンのアプライドに新品を買うべく出かけた。鹿児島中央駅から歩いて12,3分の距離を歩いて10時20分には到着。事情を説明すると、古いマウスを見せてくれとのことで見てもらうと5分くらいで「ゴミが詰まっていました。ゴミを取り除いておきましたので、帰って試してください。だめな場合はパソコンも持ってきてください」とのこと。帰ってドキドキしながら試すと一発でOK。もし駄目なら、先日も持ち込んだデスクトップの重たいものを再度運ばなければならなかったのだ。もちろん、免許返上済の私も先日バスで運んだのではなく、息子や娘に依頼して運んでもらったのだが。 こうして、また友人たちとのメール交換やブログ(その後は今回が初めて)を書けるようになったのだ。めでたしめでたし。明日は誕生日。誕生日恒例となった6回目の「上町五社詣り」(鹿児島五社詣り)が今年もできそうだ。ただ連れ合いが年末年始の動き過ぎで足が痛いという。でも一緒に行けそうとのことである。天気がこれまでと違って曇り空予報だがここは行くしかない。
2022.01.04
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 先ずは正月にふさわしいめでたいニュースからです。「霧島神宮」の本殿、幣殿、拝殿が国宝指定を答申されたことです。地元の南日本新聞によると、「国宝指定の答申を受けた霧島神宮の社殿はきらびやかな装飾に彩られた圧倒的な内部空間、斜面を利用し自然と調和した建物の配置といった、約300年前の建築技術が高い評価を受けた」という。 (下の写真は南日本新聞掲載の「拝殿」) 更に「極彩色に囲まれた素晴らしい内部空間。龍柱は圧倒的」と専門家はいう。「2本の龍柱は高さ4メートル、巻き付いて昇るように龍と雲が彫られている。」「中国や琉球から伝わったもので、華麗な色使いにも大陸との共通点がある。」アジアに開けた南九州ならではの装飾と強調。詳しい制作方法は分かっておらず、指定を機に研究が進むよう期待する、という。 上の南日本新聞掲載の「拝殿」以外の写真は2012年11月23日に写したのだが、この日は「勤労感謝の日」ということもあり、国宝指定答申とコロナ騒動の谷間を縫う形での参拝者で賑わっていた。国宝指定の場所には近づく事もできないほどの人出だったが、あとで知ったのは、普段は立ち入り出来ない拝殿だそうで、12月2日から答申を記念した特別拝観が始まり、一日4回事前予約した計約200人が参加できる狭き門のようだ。有料の予約にもかかわらずもう定員に達したそうで、いつ拝観できるのかはわからない。しかし、一回は見てみたいと思っている。 余談だが、鹿児島県の国宝は鹿児島市の照国神社所蔵の太刀「銘 国宗」の一件のみだという。 下の写真はコーラスの先輩・「ほていさん」作の来年の干支・寅(虎)。今年もいただいた。後から昨年の干支・丑(牛)が名残惜しそうに見ている。 下の写真は12月28日、次男が佐多岬近辺の船釣りでの釣果。手前がブリ、奥がカンパチ。長さ70cmのクーラーからはみ出て、いずれも80cmあった。この他に65cmクラスのカンパチ3本の釣果があり、近所におすそ分けしたが、正月用すると大変喜ばれた。我が家もしばらくは魚料理が食卓を賑わすことになりそうだ。 縁起のいい正月を迎えることができたが、これからの一年もいい年であるように願うばかりだ。
2022.01.01
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十数年書いてきた拙いブログに我が家の一年を振り返って「十大ニュース」」という大げさなタイトルで書くのは初めてのような気がする。だが、とにかく振り返ってみようということで一年間の動きを記してきた手帳をパラパラとめくって拾い出した。こんなこともあったかと、忘れていた事も多かったが、それよりも一つ一つの出来事が先日のことのようだったという気がして、月日の経つそのスピードに戸惑うばかりである。但し、十大ニュースとしたが、順番はつけがたいものがあった。 1,娘の長男が東京の企業への就職のた上京。(明日初めて帰省する) 2,息子(長男)の長男が琉球大学工学部に合格。(嫁の実家が沖縄に近いため、実家では大喜び)3,家屋の屋根、壁の塗り替えなど久しぶりのリニューアル。4,今年も誕生日の「上町五社詣り」が元気でできた。5,息子(次男)の釣果大なり。(鯛65cm,ハマチ70cm,ブリ3本等などなど・・・)6,楠声会、めぐみコーラスの練習に行くことができた。(週2回など不定期ではあるが) 唯一のステージ・県合唱祭では長渕剛の「乾杯」を高らかに歌った。めぐみコーラスは不参加。7,ブログを100回以上書けたこと。(来年もこれくらい書けたらいいな!)8,史跡訪問ができたこと。(荒田八幡、喜入麓、小野町、姶良・霧島、甑島他)9,梅ジャムなど梅製品(梅は本○どん宅でいただく)、果物ジャム、ラッキョウ漬けつくれたこと。10、コロナ禍の合間を縫っての小旅行ができた。(指宿1泊、霧島・垂水バスツアー、甑島2泊など) 来年もいい旅をしたいな。 皆様、一年間おつきあいいただき、また心温まるコメントもいただきありがとうございました。くる年もよろしくお願い致します。私も薄れゆく頭髪と脳に刺激を加えつつ、健康寿命保持のために虚しいかもしれない努力を続ける所存ではあります。 皆様 いいお年をお迎えください。
2021.12.29
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鹿児島でのコロナ禍対策として県が旅行に援助金を出している。それを利用して娘が「指宿温泉」に連れて行ってくれるいうことで、先日私達夫婦と娘で1泊2日の旅に行ってきた。交通手段は娘運転の車である。こんなに嬉しくて楽な旅はない。車は鹿児島市を南下し、錦江湾(鹿児島湾)沿いに指宿へ。途中、「道の駅いぶすき」に立ち寄る。建物の奥に広がる展望所に行くと、虹が見えた。しかし、真ん中がない不思議な虹だ。 宿泊は「指宿 こころの宿」 翌日は朝食の後、日本最南端の駅「西大山駅」に向かう。ここは以前、当ブログで紹介したことがあるが、その頃より有名になって整備されていた。向う正面に見えるのは「さつま富士」と呼ばれる開聞岳。天気のいい日には富士山にそっくりに見えるのだが、この日は山頂部が雲に覆われて全体的に霞んでいた。 「幸せを届ける黄色いポスト!」が設置されている。
2021.12.04
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ほぼ毎週末は釣りに出かける次男の釣果はこの2週間ばかり「坊主状態」だったが、今日は久しぶりに65cmの「カンパチ」と35cmの「ウッカリカサゴ」に釣ってきた。他にサバ1匹とアジ0匹ほどのおまけもあった。 「ぼうずこんにゃくの市場魚類図鑑」によるとカンパチは体長1,9m、重さ80kgになるというから、65cmはまだこれから大きくなるところを次男に釣られたことになる。カンパチはアジ中最大、紡錘形、やや側偏で体色が赤紫色を帯びるという。背びれは低く、尾ビレ下葉は白いという。 さて奇妙奇天烈な「ウッカリカサゴ」のことである。これまでも釣ってきたことはあるが、私達が子供の頃、釣っていた当地でいう「アラカブ」(カサゴ)と比べると赤色が強い。アラカブは茶色。大きさも40cmを超えるという。紡錘形でやや側偏する。そして頭が非常に大きい。身体の側面一面に円形の白い斑紋がある。(写真写りが悪く判然としていないので次回しっかり写します)水深60~940m(通常は150mまで)に生息している。 さて今日の釣果から造れる料理は?これは包丁使いの出来ない私には一切口出しの権利はなし。話によると、アジのたたき、サバの味噌煮、カンパチのしゃぶしゃぶ、ウッカリカサゴの唐揚げ、その他になって、数日の食卓を賑わす予定だという。 楽しみ、楽しみ!
2021.10.30
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好天に恵まれて、ジッとしておれない気持ちになった昨日・26日、急に歩きたくなってウオーキングスタイルになって一人で近所を歩いた。こういう気持ちになったのは実に久しぶりだった。 これまでのように足が自然に向く方向があり、気持ちのまま歩き始めた。先ずは、同じ町内でも私達の住む今では老人が多くなった一角を抜けて、20年くらい前に建てられた上の写真に見る若い人たちの洒落た住まいの立ち並ぶ道路を進む。 そこから2,3分で到達するのが私達が週2回、グラウンドゴルフを楽しむ公園である。私がちょっと体調不良の5月から9月くらいの間も、毎週水・土のグラウンド・ゴルフは2回位欠席しただけでプレーをしてきた公園である。 この公園は私達の団地の奥にあり、ほとんど同じ町内の人しか利用していないようだ。土曜日には時々、近所の保育園の子どもたちが保母さんに連れられて公園に遊びにくる。そして下の写真にある遊具を使ってあそぶなど、飛び跳ねている。遊具の上に見える建物は、私達の住む大きな団地の中に唯一ある中学校である。団地内には以前も書いたと思うが小学校は2校、県立養護学校、公立高校、私立高校がそれぞれ1校づつある。因みに私立高校は甲子園球場の常連校・樟南高校である。 この公園は「地震時の緊急避難所」に指定されている。 ここがグラウンド・ゴルフを楽しむ場所である。最長で50mのホールに少し足りないがローカルルールで許容範囲として15m・2ホール、25m・2ホール、30m・2ホール、50m・2ホールの8ホールとしてポールを立てて一応の形を整えている。 公園の地下には「雨水貯留施設」もある。 公園をぐるっと回って行くと谷の向こうに「西の谷のダム」が見える。このダムは日頃は貯水してなくて、大雨のときに貯めるようになっているそうだ。以前、私達の町内のどんぐりの会(老人会)で見学に行ったこともある。 更に歩を進めると別な公園に到着。ここでもグラウンド・ゴルフを楽しむ姿があった。 この一帯は市営住宅が立ち並ぶ。 市営住宅を左に見ながら進むと「桜島」が見える場所に到着。真ん中辺りにかすかに見える。鹿児島のシンボルは我が家からは見えないが、少し歩くと団地内からあらゆる場所で見ることができる。 次の公園でもグラウンドゴルフ。 続いて次の公園でも・・・。このようにグラウンドゴルフは盛んである。皆さん健康寿命を伸ばすべくがんばっています。 スタートから20~30分歩くと、高速道路が見える。左方向には住宅団地が見える。右方向に見えるのは鹿児島西部卸団地。この日は、ここで大回りして自宅方向に引き返した。こうして約1時間のウオーキングは終わった。少し疲れたが、今朝はまた定例のグラウンドゴルフを4ゲーム、約2時間楽しんだ。
2021.10.27
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8月16日から始まった我が家のリフォーム工事は9月4日に無事終了しました。お盆過ぎからまるで梅雨の再来を思わせる大雨・長雨で工事業者の皆さんは大変だっただろうと思います。本当にご苦労さまと言いたいです。ありがとうございました。エアコン2台の取替を含めて大仕事が終わった感じでホッとしています。 架設の取り付けをカワギリに壁・屋根、戸袋の塗り替えと雨樋の交換など雨の様子を見ながらの作業でした。それでも実質は14日間で終わりました。壁の色は従来より少し濃い目のベージュにして、屋根は従来のエンジの濃い色からほぼ黒に近い色の変えて気分一新です。 なにはともあれ、肩の荷が一つ下りました。めでたし! めでたし!
2021.09.17
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我が家のリフォーム工事も今やたけなわである。そういう中で、一昨日の夕方、親方から「今日壁の下塗りが済みました。明日は本塗りですが、家を閉め切っていてもシンナーの匂いが家の中まですると思いますので、10時頃から夕方5時くらいまで外出されたほうがいいと思います」との助言があった。このとろのコロナ禍に加えて家のリフォームのため、家に閉じこもりきりだった私達も「じゃあ どこか出かけてみようか」ということになった。職人さんへのお茶などは冷凍バッグに入れて用意し預けて、いざ出発。 しかし、この暑さとコロナ禍の中、私達老夫婦が行く先も限定される。さて、どうしたものか。とりあえず鹿児島中央駅まで行って「時間つぶしにいい映画でもあれば見ようか」くらいの気持ちでアミュプラザ6Fへ。「鹿児島ミッテ10」に直行し私達が見るような映画があるかチェックする。そこで唯一目に留まったのが「キネマの神様」である。そういえば、この映画の主役を務める予定だった志村けんがコロナ禍に倒れ、急遽、沢田研二が主役を務めるようになった映画ということを思い出した。チケット売り場に行って、上映時間を見ると11時から一回のみの放映とのことで、只今の時刻は10時55分。偶然にもピッタリの時間になった。 謳い文句は「松竹映画100周年を記念した山田洋二監督による人間ドラマ」だという。山田洋次監督にとっては89歳で89作目の映画だという。俳優陣も凄い顔ぶれである。正直言って、時間つぶしのつもりだったが、上映が始まるとどんどん引き込まれていった。詳細は一切書かないが、ドラマを通じて、夫婦愛、親子愛、家族愛そして友情など自分の人生と重ね合わせて考えさせらた。今生きていることに前向きな価値をみいだすことができる映画だった。 映画が終わったのは1時30分。遅くなったランチをとるため5Fへ。「遊食豚彩 いちにいさん」へ入る。窓側に席に案内される。写真はそこからの桜島。私は大好き「黒豚とかつ(ロース肉)セット」を食べた。 その後、紀伊國屋書店で本を見て、「星野コーヒー」で休憩しアミュプアラザ地下と朝市で買い物をして帰った。久しぶりの息抜きにもなり、いい時間を過ごすことができた。たまたま
2021.08.27
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築40年近くなった我が家の屋根や壁の傷みが酷くなってきた。以前にも手入れはしたことがあるが、それからどれくらい経ったのか定かな記憶はない。その時は小さかった孫たちのために庭にテラスを造ったり、床を張り替えたりする工事も一緒にやってもらった。今回はエアコン2台を入れ替えようとしたことがキッカケになった。2階のエアコンの室外機を置いていた場所が経年変化によって、床が傷み傾いていることを発見し、そこを直さないといけないということから家中を見回すと瓦の傷みや塗装の脱落など見るに耐えられない状態になっている。 そこで、一念発起してこの家を建てた業者に見積もり依頼し、どうにか予算内に収まりそうなので、8月16日からの工事が始まった。もう私の代での大きな手入れはこれを最後にしてくれと願いながらの契約である。 工事期間は天候などのことも配慮して1ヶ月としたが、初日の16日からほとんど日本全国を襲った豪雨に当地も狙われた。しかし、上3枚の写真にあるように架設の骨組みは雨の中、3人の若者たちが午前中で終わらせてくれた。さすがはプロである。 翌日は屋根と壁塗りの業者さんが入る予定だったが、さすがにこの豪雨のため2階のエアコンの取り外しの業者さんだけが入ることで終わった。 そして、今日18日、屋根と壁の塗装業者さんが午前8時前には到着。家族でやっているとの紹介があり、親方とその奥さん、息子さん二人の構成である。今頃家族仲良く仕事をするという話に好感が持てた。塗料飛散防止の布張りが終りただ今は高速洗浄機で屋根と壁を洗浄中だが、午後2時くらいには終わるとのこと。しばらく雨模様が続きそうだが、素人の私には今後の日程のことは、さっぱりわからない。雨模様が続くと塗装もままならないだろうし、どうなっていくのか。雨樋の交換もお願いしてあるので、その辺りの工事が先に入るのか。
2021.08.18
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日置市吹上町永吉の「本〇どん」宅に友人たちや中国人留学生と一緒に訪問し、心温まる接待をしていただいた上に旬の「梅」と「ビワ」のお土産をたくさんいただいて帰った。 我が家では「梅」の4種類の加工品をつくることにして、水洗いをし、へたを取り除いて準備OK。先ずは一番上のオーソドックスな「梅干し」をつくる分。 下の写真は「梅ジャム」つくりの準備。レシピはネットで検索できる。この梅ジャムは「大人の味」とでも申しましょうか・・・・。このジャムだけは、娘家族や息子家族は、もらっては帰らない。 下の「梅シロップ」の漬け方は「本〇どん」の奥様から聞いて帰り、妻が漬け込んだものだ。「本〇どん」宅で飲ませていただき、お土産にいただいたものを家に帰ってから味無しの炭酸で割って飲んだのだが、その美味しかったことで我が家でもつくろうと初めての挑戦。瓶に「らっきょう」とあるのはご愛敬。お許しくだされ! 下の写真は「梅味噌」言い換えれば「酢味噌」である。酢でつくらず梅から出る酢をりようしたものである。これは毎年我が家で妻がつくるもの。 レシピはネットでも検索できるが簡単である。梅 1(500g)味噌(好みで良い) 1(500g)砂糖(好みで良い) 1(500g) 梅(完熟の方が仕上がりが早い)を煮て、少し柔らかくなったら味噌、砂糖を入れて煮込む。 好みの柔らかさになったら、出来上がり。(冷えると少し固まるのでゆるめにした方が良い) 朝市に出かけてラッキョウ5Kgを買ってきた。毎年の事だが、ここまで剥くのが大変な作業である。今年も私も手伝った。我が家では「醤油漬け」が主流である。これは子供家族にも好評なので、もう一回くらい買いに行かなければならない。
2021.05.27
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次男の勤務先は市内ではあるが、田舎である。先週の金曜日、大きな筍と小さな筍を抱えて帰ってきた。今年初めての孟宗竹の筍だ。 翌日の土曜日は朝4時起きで市来串木野市から出る船に乗って釣りに出かけた。釣果は多くはなかったが、鯛一匹と鯵数匹。鯵はその夜、たたきにして食べた。 日曜日の食卓には「たけのこご飯」「鯛の刺身」「みそ仕立ての鯛汁」「筍の煮しめ」他が並んだ。旬のものは何物にも勝るご馳走である。鯛の半身はいずれ焼き魚で出てくるらしい。
2021.04.06
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去る3月29日(月)鹿児島城(鶴丸城)について、最近の新聞等の記事から調べたいことが出来て妻と二人で出かけた。そのことは、別の機会に書くことにして、今が旬の桜を中心に花の便りを書いてみたい。上の写真は当日の城山への登り口の照国神社前の中央公園に咲いていた紫蘭。真っ盛りだった。当日のコースは下の写真の通り。(赤の線を描いて矢印をつけたが見えにくくて後免なさい) 照国神社の左側から急坂を登り、展望台に出た。この日は生憎の「黄砂」で桜島もやっとその輪郭を見ることが出来るくらいだった。 展望台をあとに今度は「城山自然遊歩道」を下り始める。ここ城山は高さ107m,約10,9ha が昭和6年6月「史跡・天然記念物」として国の文化財指定を受けた。約400年の大楠をはじめ椎、樫など常緑広葉樹が繁る。その他シロヤマシダやゼンマイなど約600種の植物が確認されている。 自然遊歩道を通って最後は「薩摩義士碑」のある場所に下りつく。 木曽川治水工事に赴いた平田靱負などを称える薩摩義士碑の前にも桜が咲いていた。 城山からは薩摩義士碑の右側から下りてきたが、左側からも登ることが出来て、遊歩道に合流する。 鹿児島城の石垣に咲く桜。左側の道路は、私たちが子供の頃は電車道だった。 鹿児島城の本丸があった辺り。桜と気の早いツツジが華を競っていた。 鹿児島城の二の丸があった辺り。ここらの桜はまだ満開にはなっていない。
2021.04.02
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娘のところの長男が3月22日いよいよ就職のため上京することになった。門出を祝っての激励会は13日に3密を避けて、娘家族と我が家だけで、セットしてあるのだが、先日その孫(長男)が我が家に来た時に何かの話から「牛たん」を食べてみたいという話になり、私たちが一回行ったことのある「利久」に連れて行くことになった。次男(大学一年生)も一緒に連れて行こうということで、アルバイトの都合なども考えて、今日という日になった。11時30分に鹿児島中央駅のアミュプラザ鹿児島の5階で待ち合わせて、ジージ・アーちゃんと男の孫二人とのランチとなった。 二人とも好きな定食メニューを平らげたあと、居酒屋メニューの一品料理なども追加して食べて、大満足の様子だった。 そのあとがまた傑作でアーちゃんが10数年前孫たちと乗った大観覧車に乗ってみたいと言い出したのだ。孫たちも、ここは付き合いと思ったのか、まあまあ素直についてきた。ここはジージも思い出作りと思って付き合った。 観覧車が動き出すと、決していい天気とは言えないまでも上空に雲か煙かがたなびく桜島も見ることが出来た。 (下の2枚の写真は鹿児島中央駅東口方面) この写真に見る旧来の鹿児島本線は左右に走っている。写真で見る縦方向の白い大きな屋根の下が鹿児島中央駅の新幹線ホームちょうど山の下のトンネルから新幹線が走ってきた。先日来、当ブログに書いた「西宇豪邸跡」や「島津どんの墓」はこの写真ではトンネルを出た左側に位置する。 (下の2枚の写真は鹿児島中央駅西口方面) 前に見えるビルは、まだ開館していない鹿児島中央駅の前の再開発ビルの一つで現時点で鹿児島で一番高いといわれる24階建てビル。 二人とも175CMの身長になって昔172CM(現在は60CM台)あったジージを追い抜いてしまった孫たちとの楽しい一日は終わった。
2021.03.09
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2月16日、テレビで石橋記念公園で河津桜が咲いているというニュースを見て行ってきた。石橋記念公園にはもう数え切れないほど行っているが、そこで河津桜を見たことはなかったからだ。 鹿児島市の中心を流れる甲突川には、江戸末期に肥後の名石工・岩永三五郎指導のもと建造された5つのアーチ石橋が架けられていた。 中でも西田橋は表玄関として豪華に建造され、上の写真にあるような御門もあったという。ここは、参勤交代の道でもあり、歴代の藩主がここを通った他、西郷隆盛や篤姫もここを通っている。平成5年(1993)8月6日の豪雨による水害でその五橋のうち武之橋と新上橋の2つが流失した。残された西田橋、高麗橋、玉江橋をここ石橋記念公園に移設した。移設については賛否両論があったが、やむを得ず石橋記念公園をここに造って移設された。い「石橋記念公園」と五橋については、当ブログの2013年3月7日に書いている。 上の写真は西田橋の復元された御門。遠くに「河津桜」が見える。 下の写真は移設された高麗橋。向こうに桜島が見えている。 本数は少ないが、河津桜が満開だった。 お茶会でもあったのか、赤い傘などがしつらえられていた。 ここにこれまで来た時には気が付かなかった石造の「水位計」があった。その説明文によると、この石橋記念公園の周辺一帯は、元禄14年(1701)幕府の許可を得て造成された埋立地で、抱真院などの寺社のほか重富島津家、今和泉島津家の下屋敷や、船着場があった。また稲荷川河口は岩永三五郎が鹿児島で最初に石橋を架けた地である。3連アーチの永安橋などである。天保期の絵図では、旧海岸沿いの行屋堀に小舟の、弁天社前の大船の溜まり場があった。 行屋堀には、境橋、汐見橋など5つの石橋が架けられていたが、鉄道建設が始まり明治33年(1900)に埋め立てられ、今は市道になっている。この市道に接した枝元チヨ氏(故人)の住宅地(当時の境橋、汐見橋付近)に、この「水位計」と思われる石造物が置かれていた。現住宅所有者・白男川眞理子氏の話によると、祖父が行屋堀埋立の際この「石造物」を自宅庭に移転させたものと思われるという。 運よくムクドリと遭遇、黄色い嘴が特徴である。
2021.02.26
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昨夜から釣りの準備に取り掛かっていた息子が、今朝は4時起きで串木野市の港に出かけた。お馴染みの遊魚船に乗って鯛釣りに行ったようだ。休みといえば、釣り仲間と釣りに出かけると息子なので、私たちもその時間に起きて送り出すようなことはしない。 そして、午後2時過ぎ、いつもより早い時間の御帰着となった。いつもよりちょっと早いので、今日は釣果は無かったのかなと思いながら玄関に出迎えた。しかし、結果はご覧の通り。鯛2匹である。大きいのは、65cm。これは2016年5月4日、鹿児島市谷山港にある谷山避難用ヘリポート近くで釣ってきた60cmを上回り、2020年1月3日、この年の初釣りに今日と同じ串木野港から4,50分先の東シナ海で釣ってきた65cmと同じである。 世間ではコロナ禍やオリンピックのや話題でカシマシイ日々が続いているので、たまには私も昔取った杵柄ならぬ釣り竿でがんばってもみたいが、船酔いのことを考えれば二の足を踏んでしまう。船に乗って釣り場まで行く間はいいのだが、船が止まって波によるローリングが始まると、もう駄目である。これは経験した者でないとわからない何とも形容しがたい気分になる。もう釣りなどはどうでもよくなって、一時も早く陸に上がりたい気持ちになる。息子も用心のため船酔い予防の薬はかかさないようだ。朝、起きると食卓の上には、必ず薬を服用した跡が残されている。しかし、船酔いをしたという話は聞かない。まあ、あれだけ釣りに行けば、身体も船酔いしない体質になっていくのかもしれない。 一匹は近所の方におすそ分けしたが、我が家でどういう料理になって出てくるのか楽しみである。
2021.02.11
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昨日、2月2日、は124年ぶりの2日の節分だった。我が家では、今年は手造りの「恵方巻」が食卓に並んだ。3人家族だが、4本の恵方巻が出来上がり、3人で南南東を向いてガブリ。そのあと、妻と私はいつもの巻きずし状に切って食べた。息子は1本はそのまま完食し、2本目は切って食べていた。 そして、鰯(いわし)も食卓に並んだ。新鮮なものは売っていなくて見かけも悪いが塩づけ鰯で我慢。しかし、塩味も良くておいしかった。 我が家では毎年ではないが、節分の鰯を食べることがこれまでもあった。そこで改めてその謂れを調べてみた。ネット情報では柊鰯(ひいらぎいわし)は節分いわしや焼嗅(やいかがし)とも呼ばれ、焼いた鰯の頭を葉付きの柊の枝に刺し、門口(玄関など)に取り付けて鬼が家に入ってこないようにする魔よけの風習だった。そして鰯を食べるというものだ。これは平安時代に遡るという。奈良を初め西日本の風習だというが、北九州出身の妻の祖母が広島生まれであったので、妻が子供の頃、見知ったようだ。昨日が節分、今日は立春ということで「季節の変わり目には、邪気が入りやすい」とされており、節分の鬼もそこからきている。「柊の尖った葉」と「鰯のにおい」は鬼がいやがるものとされる。
2021.02.03
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誕生日の1月5日、恒例の上町五社(鹿児島五社)詣りを始めて5年目の今年も、妻と出かけた。近所のバスの終点からバスに乗って、昔住んだ清水町バスで降車して、南方神社(諏訪神社)を振り出しにそこから歩いて約1時間30分かけてまわった。 五社のめぐり方としては南方神社、八坂神社、稲荷神社、春日神社、若宮神社の順だといわれているので、また元の神社の前を通ったりするのだが、毎年決められた順番でまわるようにしている。 上の写真の南方神社(みなかたじんじゃ)、諏訪大明神、お諏訪さあ とも呼ばれている鹿児島五社の第一。島津氏初代惟宗忠久が11歳にして副将軍を命じられ奥州の藤原泰時を討ったとき、信濃国諏訪大明神に祈願して勝利を得たことに因み、5代忠久が諏訪神社を総社として山門院に勧請。さらに6代氏久が康永2年(1343)頃に東福寺城を居城として鹿児島を府城の地と定めたとき、現在地に本府の総廟として遷座したものといわれる。今年は企業のお詣りのために、本殿前にたくさんの椅子が用意されていた。 八坂神社は祇園社とも言われる。鹿児島五社の第二。現在でも八坂神社の祭りは「御祇園(おぎおんさあ)」と呼ばれ鹿児島の夏の大きな祭りになっている。 ”番外" 八坂神社の隣接地にある「石橋記念公園」鹿児島市の中心を流れる甲突川には、上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の五つの大きなアーチ橋がかかっていた。この五石橋は、江戸時代末期に城下整備の一環として肥後の名工・岩永三五郎によってかけられた。しかしで、平成5年(1993)8月6日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋が流失。残った3橋を貴重な文化遺産として後世に残すため石橋公園が整備され、ここに移設保存した。桜島をバックに写したのは、その中の一つ高麗橋。 稲荷神社(旧郷社)。鹿児島五社の第三。私の母校清水中学校のちかくにあり、後の山には清水城の山城があった。 春日神社。鹿児島五社の第四。ここは昔は海で港があった。 若宮神社。鹿児島五社の第五。近世までは「若宮八幡宮」と呼ばれた。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」その一
2021.01.09
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次男が2日、鹿児島県の大隅半島の最南端・佐多岬に指宿からの釣り船に乗って初釣りに出かけた。釣果が上の写真の通りである。一番大きいのが内径長さ70cmのクーラーと同じ長さの「カンパチ」。赤い魚が「ウッカリカサゴ」。正にウッカリしたのかカサゴには珍しく大きく育ったものだ。遠慮がちに首を曲げているのが「鯖」。 年末26日にも同じような釣果があったので、今年の正月は雑煮用、刺身用ともブリを買うこともなくて大助かりだった。 ただ、これらを裁く妻は包丁を何本も使って大変である。しかし、捨てる部分のないこれらの魚をうまく裁いてくれていつも食卓が賑わう。 元旦は例年、娘家族、長男家族、我が家3人の11人が照国神社(島津斉彬公を祀る)に集合して初詣をした後、我が家で新年の集まりをしていたが、今年は初詣はそれぞれの家族が都合のいい時にやることにして、4時ごろ我が家に集まった。 孫たち4人、21歳を頭に4人集まると、4人とも私より背も高くなっていて、話題も違い、もう年寄りの時代ではないとつくづく実感した元旦であった。一番上の孫は3月末には就職のため上京するし、長男のところの孫も大学受験である。彼らにエールを送るのが精いっぱいである。 今年も自家製の「おせち料理」が並んだにぎやかな正月の夜は更けていった。
2021.01.03
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「明けましておめでとうございます。」とは素直には言えない新年が明けました。しかし、新年は日本人にとって大きな節目の一つです。先ずは、素直に喜ぶことにしましょう。改めまして「おめでとうございます。本年もよろしく御交誼のほどお願いいたします。」 コロナに明けてコロナに暮れた一年でした。そういう中でも鹿児島のシンボル・桜島は火や煙を吹きながらも麗しい姿を見せてくれました。桜島の三景を紹介します。 上の景色は鹿児島市街地の桜島桟橋の先から桜島を望む絶好のポイントからのものです。鹿児島市街地から桜島の袴腰桟橋まで24時間運航の桜島フェリーも一緒に写しました。 2枚目の下の写真は、鹿児島市街地から北の方向にある市民の憩いの公園・吉野公園からの桜島です。ここ吉野公園は春の桜に始まり、バラなど一年中様々な花が咲いていて私たちを楽しませてくれます。当ブログにも度々登場します。 最後の3枚目は鹿児島中央駅東口から真っすぐ伸びる「ナポリ通り」に沿うように流れる甲突川に架かる橋の上から写しました。 このように桜島は鹿児島市のいろいろな場所から見ることが出来ます。もちろん桜島も鹿児島市です。桜島は一日に七変化するといわれ、季節によっても様々な貌を見せてくれます。今年も様々な形で私たちを励ましてくれるでしょう。
2021.01.01
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昨日パラついていた雪が、今朝起きて新聞を取りに玄関先に出てみると車に少しだが降り積もっていた。いつもの年より今シーズンは少し早い気がする。車は昨日からおせち料理つくりに泊りがけで来ている娘の軽自動車である。写真を写して振り返ると近所の家々の屋根にもうっすらと雪が・・・。 今年は本当に多難な年だった。それでも家族を含めて個人的には何事も無かったことがせめてもの救いの一年でもあった。しかし将来、コロナな一年だったと子供や孫たちも振り返ることだろう。 コロナ禍でいろいろ制約はあったものの振り返ってみると、高齢者にしては遠慮なく動いた一年でもあった。2月ごろから騒ぎが始まったコロナ禍の中、おじさん合唱団は石谷小学校でのスクールコンサート、この時は、まだマスク着用もせずに演奏できた。しかし、秋も深まった東郷学園義務学校でのコンサートではマスク着用での演奏会となった。しかし、いつもは年間10回くらいの出番があるおじさん合唱団の活動もこの二つだけであった。練習も緊急事態宣言のあとは休止、8月からそれまでの毎週一回を月二回にして練習再開となった。これまでの練習会場は狭いということで、広い会場を探して地方にまで行くなど渡り鳥の練習である。 週二回のグラウンドゴルフも緊急事態宣言が出され、学校も休校になった時点で休止、その後再開。旅も孫たちの春休みに予定していたものを決行し長崎は島原・長崎市、熊本の阿蘇方面へ2泊3日をコロナを気にしながら決行した。阿蘇の宿で鹿児島での初の感染者情報を知るというギリギリの旅だった。高校の同期生との「歴史旅」も鹿児島の栗野城を皮切りにえびの市の史跡を訪ねた日帰り旅。宮崎市の佐土原、都城市の史跡を訪ねた一泊旅行。一人で歩いた鹿児島県姶良市の史跡探訪などなど。2019年の「島津義弘没後400年」の記念行事に触発された島津義弘に関する楽しみも今年までひきずって、それに関するブログ記事も多くなった。 その他にも「鹿児島城(鶴丸城)のご楼門の再建」があって楽しませてもらった。松本清張の「傑作短編集」5巻の読破も楽しかった。いらない本の整理もやった。初めての経験で「国勢調査」の調査員も近所の人から頼まれてやってみた。苦労したが貴重な経験だった。約50年間、フルに活用した車の運転免許証を1月5日の誕生日を前に返納した。営業職を中心に地球を何周したのだろう。大きな事故もなく返納できてよかった。 一年間、拙いブログを読んでいただいた皆様ありがとうございました。来年こそは、明るい年になりますように祈念しながら、今年の〆といたします。
2020.12.31
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8年ぶりにパソコンを買い替えた。無精者の私は、WINDOWS7 の期限が切れた今年の年明けから買い替えようと思いながら、遂に年末を迎えたのだった。先日から↑Shift が効かなくなったのと、年賀状作成を新しいパソコンでという思いで販売店を訪れて、即決で決定した。初期設定は店にやってもらったが、我が家に帰ってからのそれなりの設定には四苦八苦してしまった。今日ここに至り、何とか不自由なく動かせるようになり、ブログも久しぶりに更新することが出来ている。 古いパソコンはデスクトップ20型だったが、新しいパソコンは移動が自由なノートパソコンにしようと思いながら店を訪ねたのだが、画面の大きさと価格のことを考えるとこれまでと同じデスクトップ型がいいと思い一回り大きな23,8型にした。 おそらく、パソコンを買うのはこれが最後だろうと思いながら買ったので、大事に使いたい。
2020.12.28
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12月5日(土) 所用があって街に出かけた。ちょうど終わる時間が午後7時だったので、妻と待ち合わせて鹿児島市で現在点灯中のイルミネーションを見ることにした。 先ず行ったのが鹿児島市役所前にある「みなと大通り公園」。毎年、こに時期になると点灯するので、乗り物の上から見たり、テレビで見たりはしていたが、間近に見るのは初めてである。 昼間はこのような風景である。右遠くに見えるのは桜島の南岳である。この写真は2011年9月22日のブログから持ってきた。写真サイズが違うがそのまま持ってきたので最近のものと比べるとちょっと小さい。 歩いて15分くらい離れた天文館公園へ。ここ天文館は鹿児島市一の繁華街である。最近はコロナ禍で人出も少ないが、毎年この時期は忘年会などで大賑わいする場所である。天文館の名前の由来は島津家第25代当主・薩摩藩第8代藩主の島津重豪(しげひで)がヨーロッパの文明を取り入れて1779年に天文観測や暦の作成などを行うために、ここに明時館(別名天文館)を建てたことからそう呼ばれるようになった。そして当時の幕府とは別に「薩摩暦」を作ったと言われる。農事暦みたいなものだった。 その天文館の街を抜けた所が「天文館公園」である。ここも毎年このところ毎年綺麗に彩られるようになった。この日も、子供たちも多く、しばしコロナ騒ぎを忘れたかのように走り回っていた。
2020.12.12
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5年に一度の国勢調査が今日9月14日(月)から始まった。 図らずも初めて「国勢調査員」に任命された私は午前中25軒の訪問をすませた。しかし、10軒は留守だった。午後も34軒中10軒の留守だった。途中にわか雨で休憩したりで一区画全部訪問する予定だったのだが、残りの18軒はまわることができず明日訪問することにした。懸念していた通り前途多難を思わせる滑り出しである。夫婦共働きの多い現在の世情を反映したもので、時間を見計らって再訪問するなどして解決しなくてはならない。 この一週間くらい前から受持ち地区を訪ねて空家などの下調べをして、それに基づいて提出書類に調査員として書き込みをしたり、封筒に詰めたりの仕事に追われていた。 明日は一区画の残り18軒と、二区画の約70軒を訪問する予定である。国からに指示は、9月14日(月)~20日(日)の一週間が「調査書類の配布」期間となっている。そう焦らなくても、再訪問先も含めても何とかなるだろう。 そういうことで、ブログの更新も思うように進まない今日この頃である。
2020.09.14
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「えびの市歴史旅」はまだ続くのだが、小休止。朝4時頃から釣りに出かけた次男が午後3時に帰ってきた。いつもの友人たちと今日は船で桜島沿岸での釣りだったそうだ。私も、その昔、桜島沖50mくらいのところで「あらかぶ」釣りをしたものだ。この辺りの海底はは噴火による溶岩によろ岩礁があり格好の釣り場になっている。 真ん中の一番大きいのが「クエ」(あら)。今日の収穫は小ぶりだが、この冬にはもっと大きなものを釣ってきたこともあった。魚類図鑑によると「クエ」は沿岸や大陸棚周辺の岩礁域にいる「少ない超高級魚」であるという。国内でもっとも大きくなるハタ類の一つで九州では「あら」という。大相撲九州場所の冬場には鍋などにして供される。人気があり養殖魚が中心だが天然物は高い。キロ辺り1万円前後する。鱗は皮に埋もれて取りにくい。冬に大きなものを釣ってきたときは魚屋さんに捌いてもらったが、今回は我が家捌こうということななったが、案の定、妻が台所で悪戦苦闘中である。 下の2匹は「「オオモンハタ」これも魚類図鑑によると鹿児島や長崎、大分、和歌山などに生息する。鱗は固く皮膚に埋没している部分あって引けない。身は透明感のある白身で血合いは弱い。煮付け、汁物にて美味。刺身、カルパッチョ、薄づくりでポン酢などで食す。 今晩はどちらが食卓に上がるかわからないが、アルコールの飲めない私でも、食べるのは楽しみである。
2020.08.01
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先日の「私の散歩道」(前半)では、この公園の少し先まで歩いたところで雨が降り出したので、途中までで引き返したところまで書いた。 この日は、夏の空、夏の雲の広がる梅雨時ということを忘れさせるほどの天気に恵まれて、先日の前半で紹介たコースを通ってここまで来た。ここまでの時間約20分。公園から真っ直ぐ200mくらいで右に曲がると(かごっま弁では「まぎる」という (笑))勾配は少ないが少し下り坂になっている。 上の写真の道を更に左に曲がってくるとテニスコート併設の公園に出る。ただ、テニスコートは土・日しか使用するひとはいないようだ。この日は日曜日だったので、8時50分ころだったが、早い人がきて準備を始めていた。 こちらは広場の公園。ここは月~土はいつもグラウンドゴルフの人で賑わうのだが、日曜日で犬の散歩をさせる人が、のんびり歩いていた。 公園を通過して右に曲がると住宅街に出る。この通りは少しだが高級住宅街? 住宅街から右に曲がると、先ほどの公園の反対側に出る。 上の写真の公園を進んでいくと再び右に曲がる。住宅団地の一番奥を辿って回るようなコースなので、このような場所が多い。 上の写真の道を突き当たって右に進むと、いきなり右方向に視界が開ける。右下に見える工事車はここが過去の大雨などで崖崩れを起こしたため、保全のための工事中の車である。もう何年掛りの工事だが、一向に終わらない。 高速道路とインターチェンジの先の向こう側には卸団地が見える。 さらに進むと向かいの山の崩れた場所にブルーシートもあり、災害の傷跡がそのまま残っている。向こうの山の上に住宅団地が見える。鹿児島市は人口急増部分の住宅地をこのように山を削ってつくっている。 しばらく歩くと小さな公園に到着。 公園から出て再び道路へ出る。車が走っている方向は団地から下界への一つの出口でもある。 山の団地特有のものか、階段を登る。 階段を登って左へ。ここからは帰り道になる。 急な坂道を降る。 テニスコートのある公園まで到着。この日はグラウンドゴルフをする人がいないので、公園を横切って帰った。ここから先の帰り道は来る時と同じ道になる。 ちょうど50分で我が家に帰り着いた。グラウンドゴルフがある日と雨の日以外は大体歩くことにしているが、別なコースもある。
2020.07.03
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今年は「すもも が手に入らない」と言っていた連れ合いが先日「いぐり があったから買ってきた」と言いながら帰ってきた。娘一家が奄美大島に転勤で住んだいたときに、婿の同僚の家で「すもも」をつくっておられるとのことで、送ってくれていて、その頃から我が家ではジャムや砂糖煮にしてヨーグルトに入れて食べるようになった。 娘一家が鹿児島市に帰ってきてからは、朝市で買ってきて同じようにつくるのが我が家の恒例行事になっていた。ところが、今年は朝市に行くのが遅かったのか、買えないと言っていた矢先に「いぐり」が入手できたのだった。いぐりは「いぐりもも」とも言われるようだが、少し粒が小さいような気がする。 下の写真にあるように、これも手作りの日向夏やいちごのジャムがぼつぼつ底をついてきていたのでいぐりももが手に入って早速つくってくれた。もっともイチゴジャムは娘家族にほとんどつくってやったようなもので、我が家には一瓶しか残っていなかった。 これでしばらく楽しめそうである。
2020.06.30
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今朝は8時10分に我が家を出る。家の前にあるゴミ集積所に今日の分類ゴミ・プラスチック類を置く。 ゴミ集積所を後ろにして出発。右と前方には市営住宅群。突き当たりを左に曲がる。 ぐるっと回ると、新しい団地に出る。ここは造成・新築から10年以上は経過している。もっとも私たちの住む場所は40年近く前に造成されている。ただ、私たち古い造成地と隣接しているので、同じ町内会である。この突き当たりを右に行って更に左に曲がると、公園に行き着く。 この公園は、私たちがグラウンドゴルフのために毎週水曜日と土曜日に使わせてもらっている。公園は手前と向こう側は段差がある。気が向けば、この公園を周回することもある。そのあと更に歩を進める。 公園を下に降りると、グラウンドゴルフをする場所だ。公園内の右端にある小さい四角の物置が掃除用具入れ。毎週土曜日のグラウンドゴルフの前に全員で公園の草取りや清掃をする。左が公衆トイレ、ここは水曜日に役所から清掃にみえる。 公園からさらに進むと右下に「西の谷」のダムが見える。鹿児島市を流れる「新川」の源流だが、歴史に残る8・6水害を契機に新川が増水しないように大雨の時にこの西の谷に水が溜まるようになっている。https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/?PageId=20&ctgy=5 公園から更に進むと次の公園に突き当たる。ここも市営住宅の人たちのグラウンドゴルフ場になっている。もう早い人が来て準備が始まっていた。 団地の一番奥も市営住宅群。 しばらく進むと、向こうの山の上の団地が見える。下には高速道路もあるが、小さくて見えない? 更に歩を進めると今度は大きな公園に出る。ここもグラウンドゴルフが盛んな場所である。少年野球やサッカーにも使われていて、秋には幼稚園の運動会も開催される。 この公園を過ぎたところで、小雨が降り始めた。家を出るときは、お日様もあったので、折りたたみ傘の用意もしていなかった。ここから慌てて家に引き返すことにした。今日は30分で終わった。散歩道の後半部分はまたいずれということにしよう。
2020.06.26
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朝食が済んでしばらくすると、「ラジオ体操第一 ほな行きまほか!」という大きな音声が流れる。上の写真の「体育のにゃんこお兄さん」の張り裂けんばかりの大音声である。そして音楽とともに号令が1,2,3・・・と流れる。しかも何故か関西弁である。扱い方は簡単。頭のポンチンを押すだけで終わった時に止める必要も巻き戻す必要もないスグレモノである。電源は100円ショップで2個入り100円の電池を3個使用する。100数十時間はもつそうである。大音声にハッとして威儀を正したクマタツ・ジージが慌ててそれに従う。 これまでは、グラウンドゴルフの会場である近所の公園で水曜日と土曜日の週2回(妻は土曜日のみ)ゲーム開始前の公園の草取りや清掃の後に全員でCDの伴奏で行ってきた。ところが、今回のコロナ騒ぎでグラウンドゴルフも約1ヶ月間、自粛して中止していた。その間、雨が降らない日はウオーキングに出かけていたが、妻がどこからか「体育のにゃんこお兄さん」を仕入れて来て、私にもラジオ体操をするようにとの号令が下った次第である。 もう、グラウンドゴルフも再開されたのだが、我が家のラジオ体操旋風もいつまでも続きそうな気配である。
2020.06.21
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