全51件 (51件中 1-50件目)
(上の写真も陸軍大将軍服姿の西郷隆盛、令和4年3月3日撮影)先日の「西郷隆盛の遣韓論・征韓論を見直す」について、私の属する高校の同期生でつくる「八期オンライン通信」でも紹介したところ仲間二人からそれぞれの考えなど大きな教示をもらうことができた。 その二人の私の「西郷隆盛の征韓論」についての感想と自分の考えを述べておられるので概要をまとめてみた。 kazu n氏のメール概要 板垣退助への手紙は当時最も激烈な征韓論者であった板垣の行動を抑えるためのもので板垣の論に反対するものではなく、必ずあなたの言う通りにするから、先ずは私を朝鮮に行かせてくれというものであったと思う。西郷さんには、私げ行けば戦争にならず必ず説得し、平和裏に収められるという目算があった。自信はあったが周囲にいる戦争をやりたがる輩をなだめるために私が行って殺されたら出兵の大義名分が立つと強硬派をおさえたのであろう。 より過激な論で強硬派を抑えるのは西郷さんが最も得意とするところである。最も述べたいことは征韓論に敗れて下野という見方は短絡的だと思う。廃藩置県直後の2年近くも確たる目的も成果もなく外遊した者たちに反対されたことは腹にすえかねたと思う。維新によって何をなすべきかについて考えや意見に大きな違いがあった。明治6年の政変の本質は征韓論ではなく国家運営に対する考え方と生活態度の批判であった。 本○どん氏のメール概要 維新政府成立直後、欧米の政治・経済体制の修学の不平等条約の改定という趣旨で大久保、岩倉などの明治政府の重鎮たちが多勢で2年近くもまだ固まっていない政治状況の中で「外遊」しています。残された西郷、板垣、後藤らの「サムライ」が各藩主たちの反対を押し切って困難な「廃藩置県」や「学校制度の確立と施行」などをやり遂げています。その以前から西郷の弟・従道が台湾の統治を手掛けたり、琉球・朝鮮への貿易・通商などのアプローチはなされていたのですが、朝鮮との交流が上手く行かず打開のために西郷の主唱したのが、自分が先ず朝鮮へ赴き誠意をもって交渉する。その後、具合が悪ければ、それなりの威嚇を行う。ついては「軍隊を用意すべきである」との「主張」であったと思われます。 欧米の近代的な国家を学んできた大久保以下の重鎮たちは「今は国の振興を図るべきだ。海外の進出など反対」とのことで西郷らの意志が抹殺されたのです。そこで西郷は鹿児島に帰り、今まで自分らの理想郷【明治政府の確立】のために奮闘してくれた武士集団の事での「私学校の開設」「吉野大地の農地開墾事業」【寺山開墾社】などの事業を起こし、武士階級の「活躍の場」(という生計を立てる事)に腐心したのです。この征韓論は自分が例え倒されても、フリーとなっている武士集団の将来を慮っていたという解釈も成り立つと思います。 以上お二人の意見の概要を書いたが私なりにまとめれば次のようなことに集約されるのではないかと思う。1,西郷は朝鮮に対する説得の成算は十分持っていた。2,一方、西郷の明治政府からの下野は、征韓論に敗れたからではなく、外遊派に対する国家運営に対す る考え方の相違と、その生活態度に対する批判がそうさせた。3,欧米の空気を吸って近代的な国家を見てきた外遊派は日本の遅れを知り、日本國の振興が先で、海外進出などは今はすべきではないとした。4,下野した西郷は在鹿の武士集団のために私学校の開設や農地開墾などで士族の生活を成り立たせるように腐心した。 このお二人のメールを読んで自分の歴史の見方が直線的で、言い換えれば単純であることに気付かされた。そういう意味で今後の歴史を見る姿勢がどうあるべきか大変いい勉強になった。感謝! そこで以前、南日本新聞で、西郷は「平和交渉論者」か というような記事があったような気がして新聞切り抜きスクラップを手繰ってみた。出ました! 日付は2018年(平成30年)9月20日付けの 1868-2018 明治150年 維新鳴動ーかごしま再論ー である。そのスクラップを見ると、私はこの記事は本編(第9部)の3回目までしか保存していなっかた。しかし、その後、一年間連載された記事は2019年12月21日 初版発行で1冊の本として刊行されていて、私も購入している。本の名前も新聞記事の見出しと同じで「維新鳴動」 かごしま再論 である。もちろん南日本新聞社発行で、一年間12部に渡る連載記事とこの本の刊行のために書き加えられた「総括編」を加えた405ページの大作である。 下の写真は第9部の書き出しの「転機の外交 覇権主義胎動 征韓論」である。 そこにいきなり「西郷は『平和交渉論者』か」とある。記事を読んでいただければわかるように、「西郷隆盛は征韓論者ではなく、平和的・道義的な交渉による外交樹立を目指していたー」という主張によって、通説(多分、征韓論者だったというそれまでの通説のことだろうと私は思う)に一石を投じ、歴史学会で征韓論政変の研究が進んだといわれるが、その考え方への支持は広がっていないようだ、とある。そのことについては他の学者から「征韓論者」という見方がある一方で他の学者はさまざまな見方をしたことが書かれている。今後も研究は進んでいくのだろうと思うが、私も自分の学びの中から自分なりの歴史観を持つことも大事だと思う反面、歴史は見る人によって、それぞれの角度があり、見え方があると思うので、これからも「知りたい」「見てみたい」「面白い」というこれまでのスタンスで歴史を知っていきたいと思う。
2022.03.13
コメント(10)
(鹿児島市に立つ陸軍大将姿の西郷隆盛像) 私はこれまで西郷隆盛がいわゆる征韓論に敗れて辞表を出して中央政府を離れ地元鹿児島に帰ってきたのは西郷が「征韓論」に固執して敗れたのではなく朝鮮に使節を派遣して平和的に解決しようと意図しようとしたことで、政府と意見が対立してそれに敗れて帰鹿したと思って当ブログにもそのように書いてきた。 しかし今回これまで積読で置いていた桐野作人著「薩摩の密偵 桐野利秋」 ・「人斬り半次郎」の真実 を読んで、いささか間違った判断をしていたことがわかった。 そもそも「征韓論」は一体何だったのか、復習してみた。明治初期、維新政府は朝鮮国王に日本と朝鮮との友好関係を期待し求めたが、朝鮮政府は鎖国政策を取り続けて交渉拒絶を回答してきた。そのような中で明治6年(1873)5月、朝鮮国釜山にある日本公館から外務省に送られた報告があった。それによると、朝鮮国が日本商人の密貿易を取り締まったとき、日本側の公使館の門前に日本を「無法の国」と侮辱するような書札が掲げられたという。この事件が発端となり、今度は日本側が態度を硬化させた。それについて外務省は人民保護のため先ずは軍艦と陸軍を派遣し、その後に使節を派遣すべしとした。この外務省の意見を支持したのは参議の板垣退助で強行派だった。これに対し反対したのが同じ参議で近衛提督の西郷隆盛だった。西郷はまず使節を派遣すべきであり(遣韓論)、それに対して朝鮮は暴挙に出るだろう、そうなれば出兵の大義名分が立つ(征韓論)、と述べた。 私の理解はそこまでで当ブログにこれまで西郷は前段の「遣韓論」を主張し、それが上手くいかない時に初めて「征韓論」に傾くという説をとってきた。 ところが桐野作人氏の「薩摩の密偵 桐野利秋」を読むと私の考えていたような単純のものではなかったということがわかった。 明治維新後、明治政府はいくつかの外交上の問題をかかえていたという。①樺太でのロシア人との紛争②台湾での琉球民殺害③朝鮮国との国交問題 ①の問題については今回割愛し②の台湾問題を少しと③の朝鮮国問題のことを考えたい。西郷が強硬な出兵論を唱える板垣を説得した有名な書簡を送ったには明治6年8月17日だが、1ヶ月前までは西郷の主な関心事は朝鮮問題よりも台湾出兵問題だった。弟の西郷従道(陸軍大輔)への7月21日付で次のように述べていた。 「さて台湾の模様も少々わかったとのこと。ついては出兵なれば、鹿児島の兵一大隊を召集し、別府氏(晋助)が引き受けたとのことなので、至極よろしいと考えています」西郷は従道が主導する台湾出兵に賛成で、別府晋助を隊長とする鹿児島士族から一大隊の派遣を提案している。西郷の最大の関心は鹿児島士族の活用に合ったと思われる。しかし、そのわずか一ヶ月後に、西郷は朝鮮への使節派遣に異常に固執するようになった。 そこで征韓論問題が政府内において、どのような議論となり、ついには政変と言われるほどの激震になったのかを見ていきたい。明治元年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いがあり、これが戊辰戦争の始まりとなった。鳥羽伏見の戦いに討幕軍は勝利し、西郷は大総督府参謀となり東下し、旧幕府方の勝海舟と折衝して江戸城無血開城を実現した。上野彰義隊の戦い、奥羽越列島同盟との戦い、会津戦争、翌年5月の五稜郭の戦いで戊辰の内乱は終わった。そこで 幕藩体制は終わりをつげ、新政府によって統一国家形成は絶対主義官僚機構をもってつくられることとなり、新政府は薩長土肥の四藩からなる藩閥政治となった。中でも西郷の盟友・大久保利通が中心となった。新政府を大久保に託した西郷は帰藩し、鹿児島藩大参事となって兵制の改革強化にあたった。しかし、新政府が西郷を必要とするときがきた。明治4年(1871)の廃藩置県の断行に際して反乱の恐れがあったからである。新政府の目指す中央集権国家樹立のためには廃藩置県は避けて通れない政治改革だった。西郷指揮のもと薩長土三藩の協力で御親兵1万人を東京に集め、非常の際に備えさせたのである。新政府に出仕を固辞していた西郷もこれを契機に政府に留まることになった。7月に廃藩置県が発令され、11月には岩倉、大久保、木戸ら48名の欧米視察団が出発した。廃藩置県の反動が予想される大事な時期に、政府の要人が半分以上も先進地視察と安政の不平等条約の改正交渉の準備を名目としての洋行であった。留守内閣の中心人物西郷は、大久保らの専制政治への反動を受けながらも、学制、徴兵令、地租改正条例など新政策も実行し、留守内閣として最大限の役割を果たしていた。 しかし、先に述べたように西郷は明治6年(1873)7月征韓論が起こると自ら遣韓大使として朝鮮に渡ることを主張したが、欧米視察団の帰国によって抑えられた。岩倉、大久保、木戸ら外遊派の反対に敗れ、参議の板垣、副島、後藤、江藤らと下野することになる。 今日のブログを書くきっかけとなった西郷の征韓論政変について、桐野作人氏は次のように書いている。敗北した西郷は何を考えていたのだろうか。それは板垣を説得した先の書簡(8月17日付)によく示されている。「この節は戦争をすぐさま始めるのではなく、戦争は第二段階です。これまでの行きがかりでも公法上は(朝鮮)を討つべき道理はあるけれども、天下の人々はそのことをよく知らないので今日に至っては、まったく戦いの意図をもたないで、(朝鮮の)隣交を阻害する行為を責め、これまでの不遜を正し、今後隣交を厚くする厚意を示すつもりで使節を派遣されたら、必ず彼(朝鮮)が軽蔑の振る舞いを示すばかりか、使節を暴殺に及ぶのは間違いないから、そのときは天下の人々はみな(朝鮮を)討つべき罪を知るようになるので、ぜひここまでもちこまないとならない。内乱を冀う心を外に移して国を興す遠略はもちろん、旧幕府が機会を失して、自分たちの無事ばかり考えて、ついに天下を失ってしまった所以を確証をもって(三条太政大臣に)論じた(後略)」そして桐野作人氏の言葉は続く。西郷の主な主張は二点あるだろう。ひとつは、いきなり戦争を仕掛けるのは無謀だから、正式の使節を派遣し、先方の非を責め、当方の道理を説くことが大事であること。そうすれば、朝鮮が使節を暴殺するから、出兵の大義名分ができる、というわけである。次に「内乱を冀う心を外に移して国を興す遠略」という有名な一節である。これは政府に不満をもって反乱を起こしかねない不平士族の関心を海外にそらすことによって、政府を安泰にしながら、朝鮮の屈服を実現できる一石二鳥の「遠略」である、ということだろうと書いている。台湾出兵論と同様に,西郷には士族(特に鹿児島士族)を鎮静、救済しつつそれを外征に活用すべきだという持論が常に念頭にあったのだろう。 こういう思いが戦う相手は明治政府という悲劇とも言える日本最後の内戦「西南戦争」へと結びついていったのだろうか。たらねばという言葉があるが、もしそのとき台湾か朝鮮に士族のエネルギーを向けることができていたら(外征ならいいという意味ではなく、そうことになっていたらという意味)西南戦争は避けられたのではなかろうかと言うのは言い過ぎだろうか。 この歴史作家・桐野作人氏の文章を読み、西郷は私が思っていた遣韓論の奥に自分の身をなげうって、それを征韓に結びつけるという流れを思い浮かべていたということがわかった。これはも立派な「征韓論」そのもであると思う。 参考資料 「薩摩の密禎 桐野利秋」 桐野作人著 「鹿児島上町の歴史と文化」 鹿児島玉龍高等学校 「征韓論」の解説 日本大百科全書 他
2022.02.27
コメント(16)
(2018年9月14日撮影の「南洲翁終焉之地」碑) 西郷隆盛の最期の様子については地元鹿児島でもあまり知られていないのではないか。西郷の最期については、2018年9月2日の当ブログ「西郷どん 城山へ向かう。140年前にタイムトラベル」に少し触れている。それは明治10年9月1日が西郷が鹿児島に退却した日から140年に当たるため「上町維新まちづくりプロジェクト」が主催したこの催しに友人たちと参加して書いたものだ。 明治10年(1877)2月15日、鹿児島では珍しい大雪の中を薩軍1番隊が熊本方面へ向かう。それを追って2月17日、西郷も桐野利秋などと出発する。 それより前、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白に基づく西郷暗殺計画の陰謀があったことを知り、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱吉に届けた。 それから約半年、戦い利あらず最後の激戦、宮崎延岡での「和田越の戦い」に敗れて約600名が城山まで退却の道を辿る。 最後の時は来た。明治10年9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。その様子を「西郷の女たち」の著書のある作家・阿井景子さんが「文藝春秋」平成29年12月1日発行の「12月特別増刊号・永久保存版」「西郷隆盛を知る」の中で「西郷はどのように死んだのか」という一文を書いている。「明治10年9月24日、西南戦争の城山で西郷は斃れた。しかし、どのような最期だったのかは、あまり明らかにされていない。信頼できる資料を元に『その時』を検証する」と書き始めている。私なりのまとめ方で、概略を述べたい。 いきなりだが、西郷の介錯をした別府晋介の刀が出てくる。ふつう介錯には脇差ではなく長刀が用いられているが、あらかじめ西郷から介錯を頼まれていた別府は長刀を用意していたと思われる。その別府の刀はどのようなものだったのか。「鹿児島之史蹟」の著者・林吉彦氏は「二尺八寸丸田惣左衛門正房」の刀を揮って介錯した、と記している。陸軍少佐だった林は大正13年3月予備役になると、西南戦争の生き残りを訪ねて精密な調査を行った。文献を調べ、現地を踏査し、西南の役体験者の談話を集めた林は、その談話に潤色が多いことを指摘している。 そして林の記述をもとに、西郷の最期を検証している。というのも従来の書物の多くが、緊迫した戦況、岩崎谷の地形を念頭に置いていないからだという。明治10年9月24日。 西郷が城山の洞窟を出たのは、午前6時過ぎだったと思われる。洞窟前に勢揃いした桐野利秋と40余名の将兵は、西郷を囲むように走り出す。岩崎谷入り口堡塁に移動し、全員斬り死するつもりである。だが、堡塁に向かう谷底の道は幅2間の狭さで、行列は縦隊にならざるを得ない。恐らく将兵は西郷を行列の中に挟み込み、2,3人づつ駆け下りたと思われる、岩崎谷が火点(鉄砲など装備)となっていたからで、政府軍はわずか2時間の間に、城山の他の塁をすべて陥れていた。彼らは唯一残った岩崎谷堡塁(薩軍はここを本営にしていた)をめがけて、鉄砲を猛射した。薩軍が歩いて移動できるような状況ではなかった。古老の話にも、40余名の将兵は「黒い疾風のように走った」とあるそうだ。そのあと、走り出した途端に桂久武が雨のように注ぐ弾丸に斃れたとか、雑誌、書籍によく書いてあるように、この谷道で辺見十郎太が「この辺でどげんでしょうか」と自刃を問うと「まだまだ」と答えたといったというが、そんなのんびりした状況ではなかった。別府晋介の下僕で大内山平畩(ひらげさ)(加治木出身 当時16歳)は、そのことを裏付けるように「官軍の弾丸がどんどんくる中を・・・進むなかに沢山の人が弾にあたって倒れていた」と述べている。平畩は、畩市(垂水出身)と二人で別府晋介の輿(別府は脚に負傷し、歩行困難)を担ぎ、西郷のあとに続いていた。だが島津應吉(まさよし)邸(下記地図参照)の少し上で、畩市が弾丸にあたって動けなくなったので、平畩は別府を背負い坂道を駆け下る。以下、平畩の話。 私は別府さんを背負って進みました。そのため西郷さんなどからは少し後れました。そして島津さんの前に行った時、西郷さんが股を撃たれ少し脚を上げて停まっておられましたから、別府さんが先に行く方々に「先生が弾丸に中っておられるが、いけんすっか」と叫ばれました。西郷さんは別府さんに向かって「もー歩かれぬから、首を斬ってくれ」と言われましたから、別府さんが一撃に斬られました。その時私は別府さんより先に岩崎谷台場(堡塁)右手(坂を下って行くと左手)にある鮫島さんの内(うち)に着きました。 別府は西郷の首を一撃で斬った。ぐずぐずしていたら別府も弾丸にやられていたにちがいない。平畩がいなくなったので、西郷の首は薩軍の士が持って去り、土中に埋めたという。(『鹿児島之史蹟』より) 前述の平畩はその後政府軍に捕らえられる。そして最後にこう述べている。「・・・その後私が米蔵に送られるため今の高野山の辺りを通る時に、別府さんの輿に西郷さんの屍体を載せて通るのを見ました。 以上が阿井景子さんの文章の概略である。 下の写真は一番上の写真にある「南洲翁終焉之地」碑(マンションの手前)前から城山洞窟方向を写したものである。この坂道を下ってきたが、西郷が自決し別府が介錯した場所はずっと先に小さく見えるマンションの向こう側である。 下の写真の場所が島津應吉宅があった場所で、この辺りが最期の場所である。 下の写真の手前の建物辺りが西郷の首が発見された場所とされる。その後のことについては別な読み物がある。「西郷の首を発見した男」の話 である。機会を見て続編みたいな形で書けたらいいと思っている。
2022.02.06
コメント(18)
「西郷隆盛御座石」を後に、向かったのは坊野上にある「西郷殿屋敷跡」。ここを知ったのは、昔読んだ 阿井景子著「西郷家の女たち」(平成元年・1989年8月10日 第一刷)の「あとがき」(昭和61年・1986年書いている)を読んでからである。そこには概略次にようなことが書いてある。 「そんなところに行っても、何もないのでは・・・・・・」”坊野(日置郡吹上町)に行く”という”私に、鹿児島ではあやぶむ声もあった。しかし私は鹿児島取材を思い立った時から坊野・西別府をコースに組み入れていた。 あとがきはこのような書き出しに始まり、「坊野」に行きたいと思ったのは、文献に西郷家に仕えた女中・よしの家がそこにあるというのがわかったからだ。すでに吹上町役場の佐土原さんには連絡済みで南日本新聞の高柳さん(「西郷隆盛伝・終わりなき命」の著者で後に西郷南洲顕彰館館長)が同行してくださる段取りがついていたとある。吹上町では佐土原さんの案内で「よしの家」に案内され、よしの子孫・黒川ゆきえさんから吉之助(隆盛)やいと(隆盛の妻)の話を聞くことが出来た。ゆきえさんは、西南戦争の時、いとが女・子供たちを連れて避難した当時の場所に住んでいた。下の案内板にあるように西郷はよし夫婦に家を一軒建ててやったが、よし・仁太夫婦は西南戦争後その家は売ってしまっていた。その理由をゆきえさんは「広か家なので、西郷さんの魂が籠っているようで、こわかったとおばあちゃん(よし)が言うておりました」と語ったそうだ。「よしさんが売った西郷さんの家は、この山の上のほうに残っていますよ」前もって調べてくださっていた佐土原さんが、舗装の切れたデコボコ道を誘う。「あの家でしょうか」高柳さんの車を下りた私は、竹藪に囲まれた家を指差した。「あんなものではないでしょう」高柳さんは言下に否定し、「西郷さんが建てた家ですから、きっと立派だと思いますよ」と言う。道路から細い坂道を上がると、山を切り開いた場所に二軒の家がみられた。佐土原さんがその一軒に近づいて行く。なるほど高柳さんの言葉通り、吉之助がよしに与えた家は立派で堂々としていた。百十年の歳月が感じられぬほど真新しく、がっしりしている。「手を加えられたのですか」「いいえ、土間を少し広げただけで、むかしのままです」住んでいる婦人は、西郷さんの家とは知らずに、私の問いに答えた。 以上の他に、この後、鹿児島市内の西別府の西郷さんの野屋敷を訪ねたことが書いてある。これを数年前に読んだ私は、特別な感慨を持つこともなかった。しかし、先日来、Kくんから回してもらった井口富雄さんの「史跡ひとり歩き」を読む中で私が昔住んだ鹿児島市武町にあった「西郷屋敷」の写真を見て、そこに住んだ人々の事を思い「西郷家の女たち」を再読した。そして驚いた。なんと「よし」の家が親交のある「本〇どん」の住む吹上町永吉だという事実である。そこで、よしの家が現在もあれば、訪ねてみたいと思い、本〇どんに詳細を書いてメールした。日を置かず返信がきた。地元の事ゆえもちろんご存じのことであり、いつでも案内しますという嬉しい知らせだった。私は「高校同期歴史同好会」のメンバー3人に呼び掛けて、この「永吉史跡めぐり一日旅」が実現した。当日はMくんが車を出してくれるということでMくん宅を午前8時に出発したのだった。 ほん〇どんの話によると、この「西郷隆盛開墾の碑・手水鉢」のところにある家はよしの家だが、西郷さんがプレゼントした家は柱野にあった。今はもう壊されているとのことで、見ることは出来なかった。 (西郷隆盛開地の碑) 西郷さん手づくりの手水鉢 同じ場所ある昔の家は空き家になっている。 上の写真にある西郷隆盛手水鉢(西郷屋敷跡)・開墾の地は坊野上にある。西郷さんがよしにプレゼントした家は柱野にあったが、現在は壊されていた。
2021.03.17
コメント(4)
黒川洞穴を見学した後、「西郷隆盛御座石」見学に向かう。先ずUターンのため、永吉ダムまで行く。上の写真の堤防の向こう側に満水のダムが広がっていたが、車上からのため、写真は撮り損なってしまった。残念! ダムからUターンして「西郷隆盛御座石」へ。 木々の間を100mくらい歩く。参観者が多いのか歩きやすい山道だった。 明治6年(1873)いわゆる「征韓論」争に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰り、先日当ブログにも書いた鹿児島市武の西郷屋敷を拠点に多くの青少年など子弟を育てた。吉野に農地の開墾などにも励んだが、県下各地に出かけて狩りを楽しんだりしていた。 ここ吹上町永吉の坊野地区にも狩りに訪れていた。この石(縦3m、横2m、高さ1mで上の方が平になっている)に腰かけて村人との会話を楽しんだ様子が下の案内板に書いてある。 次回は今回の一日旅の最大の目的であったここ坊野に何故西郷さんが狩りに訪れ、いろいろな足跡を残したのかということを書く予定です。
2021.03.16
コメント(4)
西郷家家系図(阿井景子著「西郷家の女たち」より) 先日書いた西郷家の墓地に葬られた「徳嶋仲祐」の墓碑を訪ねた時に西郷家の家族の墓碑の写真も写してきた。ただ先日も書いたように墓碑のほんとんどが経年変化による摩耗と苔に覆われることによって文字が読めない状態であった。 西郷家の墓地はもともと南林寺にあったのだが、南林寺は明治2年(1869)の廃仏毀釈によって廃寺となったが、その後も墓地だけは残った。しかし、その墓地も大正期になると市街地計画の中で移転することになり、西郷家の墓地も整理することになった。これらの墓は大正11年(1922)までに、西郷隆盛と愛加那との間に生まれた西郷菊次郎によって移転整理された。それより前、菊次郎は墓地の近くにある町・薬師町に引っ越していた。そのために墓地も住居の近くに移転したものと思われる。 南林寺墓地から移転された墓碑は23基あり、20基が西郷家の墓であり、3基は西郷家に仕えた人々の墓である。そこには西郷隆盛の父母や祖父母の墓がある。 隆盛の父・吉兵衛の墓には、隆盛という名が本当は父のものであることがわかるように右側面に「西郷吉兵衛隆盛」と刻まれている。 父吉兵衛の横に母「まさ」の墓碑が並ぶ。 墓地の中でひときわ目立つのは弟・吉二郎の墓碑である。中央正面に「西郷吉二郎隆廣之墓」と刻まれ、裏側には慶應4年(1868)こと明治元年に越後五十嵐川で負傷して、柏崎の病院で亡くなったことが刻まれている。 吉二郎の最初の妻・「ます「」の墓か。 吉二郎の後妻「園」の墓。 この新しい墓碑は西郷菊次郎のもので、正面の揮毫は吉田茂によるものである。 参考資料 阿井景子著「西郷家の女たち」 ネット 鹿児島商工会議所ホームページ 他
2021.03.01
コメント(8)
先日、高校同期会の歴史会主宰のk くんから一通のメールが入った。その前に井口富夫さんの「史跡ひとり歩き」を送ってくれたのも彼である。メールによると、「西郷家の墓地」に「徳嶋仲祐」という人の墓碑がある。その「徳嶋仲祐」は、同期生のNくんの遠い親戚だという。 下の写真は「徳嶋仲祐」の墓碑。墓石の風化と白がかった苔に覆われて文字が見えにくくなっていた。この墓碑はそれでも何とか判読できる数少ない墓碑の一つであった。間違っているかもわからないが、「慶應二年 玄道智徳居士 十二月廿六日」と読むのが精一杯だった。 そういう中で、思い出した記事がある。それは「西郷の身替りになった男」(文藝春秋 平成29年10月19日発行のー12月特別増刊号・永久保存版「西郷隆盛を知る」)である。筆者は霊山歴史館副館長である木村幸比古氏。曰く「西郷を慕ったがゆえに若くして散った男と西郷の悲しみを追う」とあり、元京都鹿児島県人会副会長のA氏が自分のところにある資料を持ち込んだということから、話は始まる。実は同郷の徳之島仲祐(なかすけ)(クマタツ注 徳嶋仲祐のことと思われる。なおNくんによると当時は徳之島の人は全て徳之島という姓で呼ばれていたのではないかという)という人物は文献には病死となっているが、どうも西郷隆盛と間違われて新選組の土方歳三に斬殺されたらしい。一度調べてほしいといわれたそうだ。その資料は昭和21年5月31日付で、奄美新聞に掲載された安藤佳翠「大西郷と徳之島仲祐」と、この小論に対し同39年4月1日付で小林三郎が書いた「琉仲為とその一門」(安藤氏寄稿に応えて)であった。 西郷と仲祐の関係は前述のとおりでも西郷の身元引受人は同じ徳嶋仲為であるが、ここでは「琉仲為」となっている。そして実際は仲祐の伯父に当たり後に仲祐が仲為に養子入りして親子となっている。仲祐は神童の誉れが高く、漢籍を父や伯父に学び、角力でも彼の右にでる者はいなかった。仲祐は西郷に道案内など身の周りの世話をし、西郷の語る諸国の話を楽しみにした。仲祐は西郷に聞いた京の町のことが脳裏を離れず、西郷の罪が許されたら京へ連れて行ってくれと頼み込むようになっていた。西郷も流罪が解けて鹿児島に戻ることがあったら必ず呼び寄せると約束した。 ある日、愛加那親子が西郷を訪ねてやってきた。しかし、一方で西郷にはより厳しい藩命が下る。この度、さらに沖永良部島に遠島を申し付けるものなりという厳しものだった。島津久光の私怨以外の何物でもなかったとされる。沖永良部島での西郷は昼夜番人の監視のもと、豚小屋同然の寓居で日々を過ごす。元治元年(1864)2月21日、思いもかけず藩命を受けた吉井友実と弟・西郷従道が胡蝶丸で召還にきた。西郷は復帰するや、八・一八の政変で西下した五卿問題で奔走し、長州との薩長同盟を慶應2年(1866)1月21日坂本龍馬立会いのもと締結した。2日後、龍馬は幕吏に寺田屋で襲撃を受けた。同じころ西郷も幕吏から狙われ2月30日帰藩する。 諸事落着し、西郷が仲祐を徳之島から薩摩に呼び寄せたのは慶応2年の夏ごろだった。仲祐は21歳になっていた。9月、西郷は大目付陸軍係に任ぜられ、翌月15日、小松帯刀と西郷と仲祐の3人は薩摩を出発し同月26日入洛した。仲祐にとって京は別世界、見るもの全てに感激の日々だった。 一方、新選組は連日市中巡邏と浪人狩りに明け暮れ、ひそかに大物暗殺を企てていた。土方は部下に命じ薩摩藩邸近辺の探索をはじめ、ついに藩邸近くの西郷の宿をつきとめる。西郷は身長180センチ、体重は100キロを越す巨漢である。西郷は藩命で多忙を極めていた。一方、仲祐は西郷から言いつけられた諸用で市中を走りまわっていた。師走25日の夜半、仲祐が用を終えて宿の近くまできたとき、数名の浪士風の男とすれ違った。そのうちの一人が振り向きざま白刃を振い、真向に後ろから切り下げた、力強い一撃だった。襲ったのはのは新選組。隊士の一人が近づいて仲祐の顔を覗き込み、土方に一言告げるや、土方は一瞬身を震わし、引き上げる手合図をおくった。全員闇の中へ走り去った。新選組に戻った土方は近藤に、その首尾を告げた。「局長、しくじった。西郷と思って斬ったら下僕だった」 28日訃報を聞いた西郷は急遽京に戻った。変わり果てた仲祐の姿を見て、やはり連れてくるべきではなかったかと悔い翌日涙ながらに郷里に一書をしたためた。この後に、先に述べた奄美新聞に小論を書いた小林三郎が仲祐の調査に打ち込んだ話や新選組の近藤勇の子孫と偶然に会ったことなどが書いてあるが、ここでは割愛する。 西郷家の墓地に建てられた仲祐の墓碑にはこの記事によると「玄道知徳居士 慶応二丙寅十二月二十六日」、側面には「於京都没、徳之島仲祐」と刻むとある。 一番先に取り上げた「KAGOPIC」というホームページでは病死、次の「西郷の身替りとなった男」では殺されたという二つの説があって真相はどこにあるのかと考えた。そこに歴史作家・桐野作人(出水市出身)氏が南日本新聞に連載された「さつま人国誌」で掲載直後にブログに更なる解説などを書いた「膏盲記」に「徳嶋仲祐と西郷隆盛」を書いた時の ー徳之島出身、京都で客死- という記事に出会った。 この記事の中の「徳嶋仲祐」の部分には次のような記述がある。「ところで、仲祐は病死ではなく、新選組、それも土方歳三に斬殺されたという説があるようである。しかも、西郷の護衛をしていて、体格などが西郷と似ていたため、間違って斬られたと具体的に書かれているのを見たことがある。しかし、寡聞にしてその典拠を知らない。(中略)少なくとも新選組関係の信頼できる史料にはそのような記述はないと思うし、薩摩側も同様である。 仲祐が亡くなった慶応2年(1866)12月26日は奇しくも孝明天皇崩御の日であり、京都では激震が走った時期。またこの時期、薩摩藩と幕府は幕長戦争をめぐって対立関係にあるが薩摩の要人を襲撃するような情勢ではない。そうした点からも、新選組による惨殺は考えにくい」と結んでいる。この桐野作人氏の説が結論かと思うが、さあ、これらの説をどう受け止めて考えるか、皆さんどう考えますか。
2021.02.18
コメント(11)
鹿児島中央駅西口から出て新幹線線路に沿う形で山の方向に10分ほど歩くと武岡トンネルが見えてくる。その手前の左側にあるのが、西郷屋敷跡であり、現在は整備されて公園になっている。この西郷公園については、これまで数回書いてきたが、今回ある冊子で、大変珍しい旧西郷屋敷の写真を見つけたので改めて紹介したいと思う。 1番上の写真と下の写真は、現在の西郷公園(西郷屋敷跡)の写真で2019年10月に写したものである。 下の案内板は公園内の一枚である。 先日も書いたが、戊辰戦争において西郷率いる新政府軍に抵抗した庄内藩(山形県)に対し寛大な取り扱いをした西郷に敬服した庄内藩が明治3年には庄内藩公・酒井忠篤以下70余人がはるばる鹿児島を訪れ百余日の間、西郷に就いて教訓と兵学を修めた。更に明治8年には藩家老・菅実秀(すげさねひで)が8人の青年を引き連れて西郷の許を訪れ21日間教えを受けている。そのときの教えを書き記したのが「南洲翁遺訓」であり、明治23年1月に山形県鶴岡の庄内藩の人々によって出版されている。 藩家老・菅実秀が同行してきた石川静正が描いた西郷屋敷の絵が屋敷見取図とともに残されている。次の次の写真にある当時の案内板によると、明治3年(1870)島津藩の家老・二階堂氏から譲り受けたものである。(所有者は三崎平太左衛門だったといわれる)加治屋町の生家を生活が困窮したことで売り払い、上之園にある借家住まいだった西郷家が少し余裕ができて新しい屋敷を買って引き越したものである。下の案内板の写真に見る通り部屋数も多く、立派な建物であり、相撲の土俵や菜園も備わっている。 今回入手した冊子は昨年亡くなった高校同期生NAくんの奥様から「義父が残したものだが、お役に立てば」と高校同期歴史会を主宰するKくんに贈呈があったものである。そのKくんが私に読んでみては、と先日わざわざ郵送してくれたものだ。 その冊子、「史跡ひとり歩き」の著者は井口富夫さんという方で、肩書は書いておられないが、文章の内容からすると、昭和53年3月(1978)まで5年間転勤族として鹿児島市の「朝日生命」に勤務された鹿児島支社長? ではないかと思われる。当時私は山口県徳山市(現在の周南市)に住んでおり、38歳。昭和56年(1981)に帰鹿したので私より3年前には鹿児島を去っておられる。そのようなことから考えると当時の年齢も私より上ではないかと思われる。 先ず「序にかえて」で「鹿児島に住んで、間もなく五年を迎えようとしている。住めば都というが、私は鹿児島が殊のほか好きである。桜島の降灰さえ無ければ、一生住みたいとさえ思った。(中略)そう思った私は、いつの日かの想い出のためにと、暇をみつけては、史跡をひとりで歩き、その一つ一つをカメラにおさめて来た。(後略)」と書かれており、その鹿児島への思い入れは凄いものがある。内容は1、西郷洞窟 に始まり 27、西田橋 までを98ページにわたり書いておられる。私は一気に読み進んだが、大変面白く、私が行ったことのない史跡、初めて教えられることなど、興味の湧く内容である。 今回はすぐに目に留まった、2番目の記事・西郷屋敷の写真のことを取り上げる。というのは、私は子供の頃、この西郷屋敷のすぐ近くに住んでいたからだ。今、鹿児島の歴史に関心を持つようになって振り返ってみると史跡の宝庫に住んでいたものだと思う。「借家」とある場所が我が家が疎開先から鹿児島市に帰ってきて最初に住んだ家である。借家の左上には「島津どんの墓」(現在は福昌寺に移設されている)、右側に「西郷屋敷」があった。その他にも「二階堂屋敷」「二階堂家の墓地」(現在は東京に移設されたと聞いた)笑岳寺墓地もあった。ここらは私たちの遊び場でもあった。しかし、私が鹿児島に帰ってきた昭和56年(1981)に訪ねてみると区画整理されていて、武岡の他は昔の面影はなく、今浦島という感じを受けた。昔遊んだ場所も、友人や近所の人たちの家も無くなっていた。今住んでおられる方に声をかけてみたが、当時のことを知る人は無くがっかりしたのをおぼえている。その後、時間をかけて何人かの人とは再会することが出来たのだが。 話がそれてしまったが、「西郷屋敷」のことである。井口富夫さんの冊子の中に下の案内板の写真が掲載されている。昭和53年頃写されたものだ。 そして、当時写された「西郷屋敷全景」の写真である。大変貴重な写真である。当時の案内板には1100坪とあるが、その後の資料では690坪と書かれているものばかりなので、690坪が正解だと思われる。上で紹介した庄内藩士・石川静正が描いた西郷家が買い取った家の立派さには比べるべくもないが、重厚な建物である。最初の家が西南戦争によって官軍に焼かれたが、その3年後の明治13年、西郷の弟・従道によって再建された建物である。(一説に第二次世界大戦で焼失したということも言われているが、写真で見る建物の風格からして、私は従道が建てたものだろうと思っている) 冊子によると、ある時、西郷屋敷を訪ね庭の方に廻って、古めかしい家の入口を覗くと「西郷隆吉」という表札があったので帰って系図を見ると、西郷菊次郎(西郷と奄美大島の愛加那との間にできた子供)の長男だということがわかった。急に何かを話してみたい衝動にかられ、引き返して格子戸を開けて声をかけたそうだ。奥から出てきたおばあちゃんは怪訝な顔をしながら「新聞社の方ですか」と明らかに警戒する気配であった。「いや、ただ史跡に興味を持つだけの者です」と言って名刺を差し出すと、途端に饒舌になり座敷に招じ入れられた。そして「私も朝日生命に契約していて、あと五年すると満期になる」と言われた。私は思わぬご契約者の出現に驚きながら、実は朝日生命は西郷家と深いつながりがあるんですよと、話を続けた。即ち、隆盛の弟・従道の孫(二男従徳の二男)従純が28歳のとき古河家の養子に入り、古河鉱業から帝国生命(1888年創業で後に朝日生命に社名変更)の6代目の社長になっている。隆吉という表札の御主人はすでに亡く、一人住まいとのことである。 そして続く。「だが、この由緒ある屋敷も、昨年の秋ある日忽然として失せた。隆盛の孫(嫡子・寅太郎の三男)になる西郷吉之助が、参議院議員法務大臣の時、手形乱発が明るみに出て、短い政治生命を終えてから既に久しいが、この土地も同じようなケースで抵当に入れられ、東京の不動産会社の所有に移った」 1968年に法務大臣に就任するが1969年頃からそういうことに手を染めていったようだ。私も遠い記憶ではあるが、覚えている。1971年、1974年ともその影響で落選し、政界引退を引退した。その後、「西郷屋敷を守る市民の会」などが出来て、このように公園として残されることになったのだが、現段階ではその詳細まではわからなかった。 下の図面は当時の武の地図であるが、下方右側に青色で囲んだ舟形の部分が西郷屋敷である。現在は区画整理とその後に続く平成23年(2011)3月新幹線開通によるトンネルなどの掘削などで、この近辺は様変わりした。そのため下の地図と現在の鹿児島市の地図と比べて「西郷屋敷跡」(西郷公園)の場所が移動しているのか、あるいは移動していないのか、このことについても今日までには調べがつかなかった。 この「史跡ひとり歩き」は西郷を中心とする史跡が県外にまで及んで書かれているが、私の知らないことも多く、大変面白い。いずれ、私の訪ねていない史跡も訪ねたり、調べたりしてみたい。
2021.02.12
コメント(10)
「西郷どん」の最初の妻・須賀 2018年5月18日 「西郷どん」の2番目の妻・愛加那 2018年5月29日と書いたが、最後で3番目の妻・糸 についてはそのままになっていた。 初婚の相手は「須賀」。嘉永5年(1852)のことである。須賀は薩摩藩士・伊集院兼善の娘だった。しかしこの結婚生活は2年ともたなかった。なぜなら当時、西郷は郡方書役助という地方役人だったが、結婚後すぐ西郷の祖父、父、母が立て続けに亡くなる。直後の嘉永7年(1854)西郷は藩主・島津斉彬に抜擢され、江戸詰めになり、斉彬の庭方役となる。今でいう単身赴任のため、残された須賀は貧しい日々の生活を強いられ、夫の弟・妹6人の母親代わりもしなくてはならず、見かねた実家が離婚を言い出して、江戸にいる隆盛も承諾せざるを得なかった。 それから6,7年、安政の大獄の嵐が吹き荒れてそれに巻き込まれた西郷だったが、藩の温情で菊池源吾と名前を変えて、奄美大島に行かされた。そこで西郷の世話を引き受けた島の実力者・龍佐民(りゅう・さたみ)の娘・愛加那を島妻とする。これが2度目の結婚である。二人の間には菊次郎、菊草の二人の子供ができたが、西郷が許されて島を去る時、愛加那はついて行けなかった。二人の子供は後に鹿児島の西郷家に引き取られる。愛加那は明治35年(1902)奄美大島で亡くなり、今も島に眠る。1度目と2度目の結婚の復習は「この辺でよかとじゃなかろかい」。 3度目の糸との結婚は、愛加那との離別から3年後のことである。召喚命令ににより奄美大島を後にしたのは1862年1月14日。せっかく鹿児島に帰った西郷は同じ年の4月下関での待機という島津久光の命令に背き上方へ向かう。憤懣が爆発した久光は、西郷を奄美大島より南方の沖永良部島に今度は流刑とする。西郷が沖永良部島に流されている間に鹿児島では薩英戦争が勃発する。ここで詳しくは書かないが前年の生麦事件が起因である。西郷が再び赦免されて帰ってきたのは1864年のことであった。それまで人々に妻帯を勧められても耳を貸さない西郷だったが、縁戚の有川矢九郎が岩山糸を連れてきて承諾させたしまう。糸の母と矢九郎の妻とは、従姉妹どうしであった。1865年1月28日、婚礼は藩家老・小松帯刀の媒酌で盛大におこなわれた。時に西郷39歳、糸23歳であった。糸はそのあと西郷が国事のために家にいないことが多い中で西郷との間にできた3人の子供のほか愛加那の子供2人引き取って一貫して質素な暮らしのまま一緒に暮らし子供たちを立派に育て上げる。 1868年鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発するが、西郷は東征大提督参謀として江戸に入り勝海舟と会談、江戸城開城に結びつけるなど大活躍する。しかし持病(フィラリア)が悪化した西郷は鹿児島に帰り日当山温泉で療養するが、長逗留は許されず、北陸出征軍総差引として鹿児島を出帆する。 明治2年2月、西郷は鹿児島藩参政に就任し7月中旬に上之園の借家から壽国寺に近い武村(現在は旧西郷屋敷跡として「西郷公園」になっている)引っ越す。西郷が屋敷を購入したのである。敷地690坪で部屋数も多く、菜園もある立派な屋敷である。明治3年7月、鹿児島藩大参事に就任、明治4年、6月新政府において参議となる。明治6年5月、陸軍大将兼参議に就任するが、10月朝鮮半島への使節派遣が中止となり参議の職を辞し、11月10日、鹿児島の武村の自宅に帰る。 明治7年の正月にはこれまでになく多くの人々が次々と西郷家を訪れた。叔父椎原国許を皮切りに、桐野利秋、村田新八、別府晋介、池上四郎、野村忍助、篠原国幹等々、彼らは征韓論で野に下った西郷に従い、帰郷していたのである。糸はこれらの人々をもてなすのに忙しかった。6月には私学校を設立する。12月の冬休みに入ると、糸と子供たち家族や犬10匹を引き連れて日当山陰線に行き正月2日まで滞在する。西郷家にとってかってない平穏な日々であったろう。明治8年四月、吉野開墾社を設立。その後も西郷の妹の結婚や姪の誕生などめでたいことも続いた。 しかし、平穏な日々もつかの間、明治10年が明けた。おりしも昨秋11月ごろより西郷暗殺がささやかれ始めていた。小根占に猟に出かけていた西郷は私学校生徒による鹿児島の火薬庫襲撃を2月1日に知る。「しもた」(しまった)早船でそれを伝えに来た西郷の末弟・小兵衛から知らされ西郷は叫んだ。東京から送り込まれ、鹿児島で逮捕された警視庁警部・中原尚雄らの自白にもとづく、西郷暗殺計画の陰謀も暴露され、西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で県令・大山綱良に「今般政府へ尋問の筋これあり」として届け出た。 2月15日、15センチ積もった大雪の中、それぞれ2千名からなる二大隊が出発。しかし、糸はそれが国を揺るがす戦になるとは思いもしなかった。16日、積雪30センチくらいの更なる大雪の中、二大隊が出発して行く。2月17日、西郷は陸軍大将(参議はやめたが陸軍大将は辞していない)の軍服に着替え、桐野、村田を従え池上5番大隊と共に営門を出た。それを見送りに出た糸をはじめ家族が営門に着いたときはすでに出発した後だった。あとを追いかけた子供たちは途中で追いついて見送ることができた。3日間で出発した私学校生徒を主力とする本体は一万三千人、内城下士は千六百人、服装は将も兵もまちまちであった。西南戦争の戦闘の詳細についてはここでは書かないが、家を守る糸の許には一緒に出陣していった菊次郎の様子などが入ってくるが、中でも西郷の末弟・小兵衛の戦死の報には大きなショックを受ける。戊辰戦争の北越で次弟の吉二郎を失い、3弟の慎吾(従道)は敵(政府軍)に廻っている。糸は男たちの戦いが恨めしかった。2月22日、薩軍は熊本城への戦闘開始、3月4日、田原坂の戦い、6月1日、人吉陥落、8月16日、薩軍解散、8月18日、和田越えの戦いを指揮し可愛岳突破、9月24日、城山の戦い、西郷自決。 それより前、5月4日、以前西郷家の使用人だった「よし」の住む毛角村坊野(日置市吹上町永吉)に糸は家族を連れて避難する。6月24日、政府軍が陸海より大挙押し寄せてきて鹿児島で大激戦となり、武村の西郷家も消失した。戦争で苦労するのは今も昔も戦う男ばかりではなく、女・子供に及ぶ。避けられない事実である。 明治22年2月11日、憲法発布の大赦で、西郷の賊名は除かれ、正三位を追贈された。29年7月、鹿児島を引き払った糸は、寅太郎に伴われて上京、牛込加賀町に一戸を構える。大正8年1月8日寅太郎が53歳で亡くなると、糸は次男・午次郎の家に引き取られた。彼女は大正11年6月13日夜、麹町新龍町の午次郎の家で息を引きとる。時に80歳であった。 糸については今回とても満足のいくまで書き込むことは出来なかった。まだまだ数えきれないほどの逸話が残されているが、今後少しづつでも書ければいいなと思う。参考資料 「西郷家の女たち」 阿井景子 文春文庫 「その後の西郷家の人々」 阿井景子 文芸春秋12月特別増刊号「西郷隆盛を知る」 「維新鳴動」 南日本新聞社 「西郷どん案内帖」 観光こごしま大キャンペーン推進協議会事務局 他
2021.02.09
コメント(6)
前回の(その八)に書いたように西南戦争において西郷軍(薩軍)は3万人の兵力だったが、その中には薩摩以外から参戦した人々も数千人にのぼった。 中村恕助(なかむらじょすけ)も秋田県出身でその中の一人である。天保15年7月11日生まれで出羽久保田藩(秋田県)藩士。京都にて愛宕通旭(おたぎみちてる)ら公家の反新政府運動に加わり、明治4年終身禁獄、鹿児島県預けとなる。西南戦争で西郷軍に志願し出獄。熊本保田窪の戦いで明治10年4月20日戦死。34歳。 森川政一私学校で唯一の「雇われ人」として門番役を務めた。山梨県出身の平民。戊辰戦争で薩摩軍に加わり緒戦で活躍、関東でも戦功を挙げた。その後、西南戦争にも従軍し、豊後竹田市で挺身敵陣に切り込んで戦死した。 種子島彦之亟薩摩藩士、若干20歳で戦死。 1月も今日で終わり。皆さんのコメントに励まされて、1月は14回更新することができた。ありがとうございました。
2021.01.31
コメント(10)
西南戦争には官軍 約7万人、 薩軍(西郷軍) 約3万人が参戦した。薩軍には西郷の心意気に刺激された者や、武士の身分を失い苦しんでいた旧士族など参戦して来る者も多かった。中でも鹿児島だけではなく、他県からの参戦者も多くいた。熊本隊 1550人。 協同隊 500人。 滝口隊 200人。 人吉隊 350人。 飫肥隊 800人。佐土原隊 1300人。 延岡隊 550人。 延岡農民隊 800人。 都城隊 1550人。 高鍋隊 1120人。 福島隊 300人。 中津隊 150人。 竹田報国隊 120人。福岡隊 535人。などである。 戦死者も官軍 6403人、薩軍 6765人にのぼった。薩軍参加者で県外出身の者も南洲墓地に葬られているので、紹介したい。 西郷隆盛(南洲翁)と庄内藩(山形県)とのことについては、西郷の遺訓「南洲翁遺訓」が初めて世に出たのが、明治23年1月に山形県鶴岡市の庄内藩の人々によって出版されたことでもわかるように強い結びつきがあった。 庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕派で、徳川のために最後まで忠義立てした藩であった。越後から東北地方、北海道を平定せんとする明治元年の戊辰戦争に官軍の総参謀として庄内に向かった西郷は、庄内藩に対して寛大な措置をとり、その誠意溢れる西郷に人物は庄内藩士に深い感動を与えた。そのことがあって、明治3年に庄内の藩公・酒井忠篤以下70余人は、はるばる鹿児島に西郷を訪ね百余日の間、南洲翁に就いて教訓と兵学を修めた。また明治8年には藩の重臣・菅実秀・が8人の青年を連れて南洲翁の幹を訪れ21日間教えを受けた。南洲翁が私学校を開設すると、明治8年9月に庄内藩の戸田、池田、黒谷の3人が南洲翁の許に来る。まもなく12月には、私学校入学を熱望する伴兼之(18歳)と榊原政治(16歳)の二人を連れて伊藤孝継が鹿児島に入り、南洲翁に二人の入学を願った。翁は他県人は応じがたいが貴県は特別ということで、二人の入学を許し篠原国幹の家にしゅくはくさせて通学させた。やがて明治10年になって西南戦争が勃発したので翁はしきりに帰国を勧めるが二人は、義を重んじ共に死を誓って遂に戦場の露と消えた。 参考資料 wikipedia 「西南戦争」 「大西郷の遺訓と精神」 南洲翁遺訓刊行会
2021.01.25
コメント(6)
島津啓次郎 1857~1877(明治10年9月24日 没 享年21)後期佐土原島津家第10代当主・島津忠寛の三男。幼児期に家臣・町田宗七郎の養子となり、11歳で江戸の幕臣・勝海舟に入門した。その後、12歳で渡米し英語、仏語、数学などを学び19歳で帰国する。この後、養子先の町田家を出て生家へ戻る。明治10年(1877)西郷らが鹿児島で兵を挙げると、啓次郎は自ら佐土原隊を立ち上げて、西郷軍に身を投じた。やがて西郷軍へ加わり、日向各地を転戦する西郷等と行動を共にする。9月、鹿児島まで撤退した西郷らと城山に籠城し9月24日戦死した。墓碑はここ南洲神社と佐土原にある。西南戦争では多くの士族(旧藩士)が西郷軍に身を投じたが、藩主の子弟で参加、戦死したのは啓次郎のみであった。 次は墓標ではないが、「岩村県令記念碑」である。 岩村通俊(いわむらみちとし) 1840~大正4年(1915)土佐藩士、幼少のころから漢字を修め、剣術を学ぶ。戊辰戦争には、軍監として従軍し、越後に転戦した。維新後、新政府に仕え明治10年(1877)5月鹿児島県令(県知事)となり、西南戦争の戦後処理当たった。城山の戦いで西南戦争が終わると、浄光明寺跡に送られてきた西郷隆盛、桐野利秋以下薩軍の戦死者を丁寧に埋葬した。岩村はのちに沖縄県令、北海道長官や農商務大臣など要職を務めた。 参考資料 「島津一族」 川口素生 著 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト
2021.01.21
コメント(3)
辺見 十郎太 1849~1877(明治10年9月24日没 享年29) 鹿児島市新田町生まれ。戊辰戦争で薩摩藩2番隊小隊長として東北戦争で活躍した。明治維新後、近衛陸軍大尉。明治6年の政変により西郷が下野すると西郷に従い鹿児島に帰る。明治10年の西南戦争では薩摩軍3番大隊1番小隊長。のち雷撃隊大隊長。大口、踊、岩川、末吉に転戦。宮崎県延岡市の可愛岳(えのたけ)突出のとき先鋒を務め、陣中12時にならなければ就寝せず、過ぎれば1時間毎に起きて斥候(本体の移動に先駆けて進行方向の状況を偵察しつつ警戒する任務)を出し、一日も怠らず精力絶倫だったと言われる。戦いの最後の城山岩崎谷にて闘死したとき、その顔は生きているようだったと言われる。 池上 貞固(いけのうえ さだかた)1842~1877(明治10年9月24日没 享年36) 通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島市樋之口通町(現加治屋町16番街区)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として誕生。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛・伊地知正治の教導を受け、勤皇の志を抱いた。安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の名によって江戸に遊学し、ときどき天下の情勢を藩主に報告した。戊辰戦争(1868年)では鳥羽・伏見の戦いに城下十番小隊の監軍として参戦したが、東山道軍が結成された以降は参謀・伊地知正治の下で軍議に参画し、白河城攻防戦、棚倉・二本松攻防戦、会津若松攻防戦では直接戦闘に参加した。 1869(明治2年)に鹿児島常備隊がつくられたときは大隊の教佐となり、藩が御警衛兵を派遣したときは第2大隊を率いて上京した。西郷からは、その能力を高く評価されいろいろな重要な場面に護衛を兼ねて同行した。その後、陸軍少佐に任官されたが、病気を理由に明治4年7月に免職した。明治5年(1872)征韓論に関連して西郷隆盛が朝鮮・満州の軍事偵察をさせたとき、8月8日、外務省十等出仕に任じられ、満州に派遣された。西郷下野を知った明治6年(1873)12月に帰国した。 明治7年、私学校が創建されたとき、池上は病気で積極的な関与はしなかった。明治10年(1874)の西南戦争のときには、西郷暗殺計画に憤慨し挙兵に賛成し、池上は五番大隊の大隊長となって10個小隊2000名を率いた。鹿児島を出発した薩軍は2月21日夜、熊本の川尻で軍議を開いた。でこの軍議で池上は熊本鎮台を抑えるための兵を一部残し、全軍北上する策を出したが入れられず、篠原国幹らが主張する全軍による熊本城攻撃が採用された。その後の田原坂の戦いでの後退などで次第に追い詰められた薩軍だったが、更に宮崎、延岡、熊田などで敗退を重ね、8月17日、長井村の可愛岳を突破する際は別府晋介とともに約60名を率いて西郷を護衛した。その後も西郷に従い宮崎、鹿児島の山岳部を踏破して鹿児島に帰った。9月24日の城山陥落時は西郷の自決を見守った後に桐野、村田らと岩崎口の塁をめざして進撃。途中、弾雨の中で自刃した。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 他
2021.01.18
コメント(3)
別府晋介 1846~1877(明治10年9月24日没 享年31) 鹿児島県吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる。名は景長(かげなが)、通称は晋介。西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。陸軍在職中は、士官以下、軍曹、曹長と官俸を平均に分配し、士卒と苦楽を共にした。いわゆる征韓論に敗れたといわれる西郷が帰鹿すると、少佐の職を投げうって鹿児島に帰った。私学校の育成に尽力する。鹿児島では西郷のそばを離れず、9月24日の官軍総攻撃に際しては共に岩崎口へ迫撃する。足に重傷を負っていたため輿で従った。西郷が流れ弾に当たると、輿から下り、西郷から「晋どん、ももこらでよかじゃなかろかい」と言われ西郷を介錯した。桐野利秋とは従兄弟だったが、真の兄弟以上だったという。桂 久武 1830~1877(明治10年9月24日没 享年48) 島津久風の第5子として生まれ、桂久徴の養子となった。明治3年鹿児島藩権大参事となり、西南戦争では大小荷駄本部長。出兵したあと4月鹿児島に戻り、輜重(軍隊で、前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称のこと)、募兵に尽力した。桂久武が書いた「桂久武日記」は幕末維新史の重要な史料の一つとして知られる。西南戦争には参戦するつもりはなかったが、出陣を見送りに行って、翻意しそのまま出陣する。城山の最後の戦いで流れ弾に当たって戦死する。 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 桂 久武
2021.01.16
コメント(4)
このシリーズは2018年8月11日を第一回として、8月23日、9月4日と飛び飛びで3回まで書いているが、その後「島津義弘没後400年」などもあって、途中で止まってしまった。 年も改まったので、一念発起! 続きをシリーズで書いてみたいと思っている。今日は、「篠原 国幹」と「淵辺 高照(群平)」篠原国幹(しのはらくにもと) 1836~1877(明治10年3月4日 没)享年42。記録奉行の家に生まれ、通称は藤十郎、冬一郎。剣は薬丸兼義に薬丸自顕流を学び、謹厳寡黙、言行一致でその後の戦いで全軍を統率し、陸軍では儀表(手本・模範)と仰がれた。文久2年(1862)有馬新七らと挙兵討幕を企てたが島津久光の鎮圧にあって失敗。(寺田屋騒動)薩英戦争で砲台守備に出陣、戊辰戦争で薩摩藩の城下三番小隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦する。戊辰戦争後陸軍少将。近衛長官。明治6年には陸軍少将、近衛兵司令官を辞職し帰鹿する。藩校造士館で和漢学を修め、文武両道を究め私学校が創設されると総監督として子弟の教育にあたった。西南戦争では一番隊長を務めた。 明治10年3月4日、早朝政府軍第2旅団の野津隊が悪天候を利用し、吉次本道から薩軍の奇襲を試みた。これを受けた篠原は、村田新八とともに川尻からの増援部隊を基幹として反撃に出た。このとき同郷の出身で、元部下の近衛歩兵第1連隊第2大隊長・江田国通少佐は濃霧と雷雨の中、赤裏の外套を翻し銀装刀を振るい陣頭に立って部隊を指揮する篠原の姿を前方に認めた。すぐさま江田少佐は射撃のうまい兵に赤裏の外套を目印として狙撃を命じ、弾を数発受け篠原はその場に崩れ落ちた。篠原を失った薩軍は、復讐心から逆に戦意を高め、江田少佐を斃し、官軍を原倉まで退けた。 南洲墓地の中でも、一際目立つ「渕辺高照」の墓標 参考資料 「あるく みる いこう かんまち本」 上町維新まちづくりプロジェクト wikipedia 「篠原国許」 他
2021.01.14
コメント(5)
いわゆる征韓論に敗れた(私はそうは、思っていないが)西郷は、明治6年(1873)10月23日、岩倉首相代理に辞表を提出し、東京日本橋小網町の寓居を28日に出発した。下僕の竹内矢太郎を連れて品川から海路帰途についた。大阪で数泊し、長崎に向かい、茂木港から海路阿久根に上陸、市来に一泊して鹿児島に帰り、懐かしい武村の屋敷(現在の西郷屋敷跡・公園)に落ち着いた。ときに11月10日で47歳であった。明治4年2月に乞われて上京してから、京にいること2年9ヶ月3年ぶりの帰国であった。 西郷隆盛は明治6年(1873)11月から約4年間この屋敷で生活した。屋敷は明治2年(1869)薩摩藩の上級武士から譲り受けたもので、敷地約3600平方m。高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。西南戦争で焼失したが、明治13年(1880)弟の従道が再建した。 西郷は晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励んだり、県内各地で狩猟を楽しんだりした。また、私学校を創設し、青少年の教育に当たるなど「武村の吉」として悠々自適の暮らしをおくった。自宅には、沖永良部流刑中に出会った川口雪篷を同居させ、近辺の子供たちの教育にあたらせた。 参考資料 「武郷土誌」など
2019.12.10
コメント(9)
西郷屋敷を久しぶりに訪ねた。先日の南日本新聞に新しい詩碑が建てられたと報じられていたからだ。私はここからすぐ上の山の下に小学校3年生の途中に疎開先から帰ってきて、中学校2年生の途中まで約6年間住んでいたので、馴染みの場所である。ただその頃は、西郷屋敷とは知っていても、草木が鬱蒼と生い茂っていた記憶しかない。公園として整備されたのは、だいぶ後のことだという。現在は公園もきれいに整備されていて、すぐ横を新幹線の高架が通っている。つくづく時代の移り変わりを感じる今日この頃である。 この歌碑の案内板には次のようにある。「右の詩は明治6年の政変により東京から官を辞して、故郷鹿児島のこの地にあった自宅に帰られた南州翁が、騒がしく煩わしい都会から離れて三年振りに我が家での自然に親しむ暮らしを手にされた心境を詠まれたもので、南州翁と徳の交わりを結ばれた旧庄内藩家老の菅実秀翁の贈与された書を原寸通りに石碑に刻し、鹿児島市と鶴岡市との友好都市盟約五十周年の佳節に因み詩碑を建設しました。」 令和元年十一月吉日 鹿児島中央ロータリークラブ 西郷隆盛と菅実秀(すげさねひで)「徳の交わり」の像
2019.12.08
コメント(11)
「西郷隆盛宿陣跡資料館」のすぐ近くに「西郷菊次郎加療の地」である児玉惣四郎宅がある。西郷菊次郎は西郷隆盛が奄美大島に1回目の遠島のとき結婚した2番目の妻・愛加那との間に生まれた長男である。 菊次郎は8歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカに留学し、17歳で父・西郷隆盛に従って西南戦争に従軍していた。 しかし、熊本、高瀬の戦いで重傷を負い、延岡に運ばれて児玉惣四郎宅にて治療を続けた。 俵野脱出を前に西郷は菊次郎に永遠の別れを告げるとともに、政府軍の陸軍中将として延岡に来ている弟の西郷従道に会って投降するように諭した。菊次郎は右足を膝下切断していたこともあり、それに従った。 そのときの様子は次のように伝わっている。「永く西郷家に仕えていた永田熊吉(ドラマ・西郷どんでも頻繁に出てきた)が菊次郎を背負い投降すると、西郷隆盛の弟・従道は、喜んで涙を流して、熊吉に礼をいったそうだ。西郷隆盛の3番目の妻・イトも菊次郎の看病のため、ここ俵野を訪れたと言われる」 その後の西郷菊次郎は23歳で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で勤務し、明治20年(1887)6月、再びアメリカに留学するが、右足の宿痾もあって、留学を中止し帰国する。帰国の後、明治23年宮内省式部官に就く。 日清戦争で日本が台湾を統治すると、明治28年(1895)台湾基隆支庁長、宜蘭長官を4年半務め帰国後京都市長を6年半務めるも、右足後遺症の余病を理由に辞職する。辞職後、鹿児島に帰り、明治45年(1912)島津家管理の山ヶ野金山鉱業館長に就任するが、健康回復せず、大正9年(1920)に辞職。昭和3年(1928)鹿児島市薬師町の自宅で満67歳で死去する。波乱に満ちた生涯であった。 参考としたもの 延岡市商工観光課 パンフレット「西郷隆盛 青空テーマ館」 wikipedia 「西郷菊次郎」
2019.12.02
コメント(9)
延岡市北川町俵野の「西郷隆盛宿陣跡資料館」のすぐ近くにあったのは、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の陵墓として伝わる「北川陵墓参考地」。延岡市のパンフレットには次のように紹介されている。 魂に触れるドラマ 出会い 天孫瓊瓊杵尊と西郷隆盛の「時空を超えた出会い」和田越決戦に敗れた西郷隆盛は、ここ俵野(ひょうの)の可愛山陵(えのみささぎ)が天孫瓊瓊杵尊の御陵墓だということを知っていて、あえて袋小路のようなこの場所に宿陣したことが、近年、資料や証言から明らかになりました。 西郷は、政府軍が天皇家の先祖の墓に向けて砲撃できないであろうと考えたのです。そして事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃をしませんでした。 西郷たちは瓊瓊杵尊に守られて一時の安らぎを得ることが出来たのです。(可愛山陵は、宮内庁から「北川陵墓参考地」として治定されていて、現在も俵野の人達が大切に守り、毎年4月3日には御陵祭として神事や神楽の奉納が行われています) 北川陵墓参考地を左に見ながら進むと、30mくらい先に、薩摩西郷軍が登って行った可愛岳登山口がある。 140m先にあるとの表示の「中津大四郎之墓」というのは、西郷隆盛が解軍令を発したときに政府軍に降伏した瀧口隊の隊長・中津大四郎の墓だが、この日は時間の都合もあり、御参りすることは叶わなかった。
2019.11.30
コメント(9)
11月19日(火)晴天にも恵まれて、久しぶりに「日帰りバスツアー」に行ってきた。行き先は宮崎県延岡市。ツアーの旅程にかねてから行きたいと思っていた「西郷隆盛宿陣跡資料館」が含まれていたからだ。 鹿児島から高速道路で直行し、一番先に訪ねたのが「西郷隆盛宿陣跡資料館」場所は延岡市北川町の俵野地区(ひょうのちく)入場料無料なのに、延岡市商工観光戦略課発行のパンフレット等をいただく。全体の佇まいも建物や駐車場も素晴らしい。今になっても、西郷さんのことを大事に思って手を尽くしておられることが、手に取るようにわかり、感激した。 明治10年、国内最後の内戦いと言われる西南戦争のこれまでの経過は省くが、遂に宮崎の延岡まで退却を余儀なくされた薩摩西郷軍は、8月14日、延岡の和田越の峠に集結、西郷のもとに桐野利秋、村田新八、別府晋介ら幹部が集い、軍議が開かれた。軍勢は3500人。最大で3万以上いた薩摩軍もそこまで追い詰められていた。明けて15日午前8時、早朝から辺りに立ち込めていた霧も晴れ、戦闘が開始された。このとき、西郷は桐野、村田、別府らと全軍を指揮、一方山縣有朋参軍も和田越からおよそ2km離れた樫山に置かれた第2旅団本営で部隊を指揮した。西南戦争中、両軍の総大将がともに前線で指揮を執るのはこれが初めてのことだった。両軍一進一退の攻防を繰り広げたが、兵力、火力に勝る政府軍が薩摩軍を圧倒し、正午頃には薩摩軍は逃走し、午後2時頃、俵野へと退却する。 もはや薩摩軍に逃げ道はなく、弾薬、食糧も尽きていて、戦う余力はなかった。進退窮まる中、8月16日午後、西郷は遂に「解軍令」を発する。「我軍の窮迫ここに至る。今日の事、唯、一死を奮って決戦するにあるのみ。この際諸隊にして、降らんとする者は降り、死せんとする者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯その欲するところに任ぜよ」 これに応じて、それまで薩摩軍を支えてきた熊本隊、龍口隊、佐土原隊などは相次いで政府軍に降伏した。16日夜、薩摩軍幹部は西郷の宿営所・児玉熊四郎宅に集まり、最後の軍議を開いた。(下の写真)降伏論、玉砕論など様々な意見が出たが、結局、政府軍の包囲網を突破して脱出するという案が採択された。その後、突出方法について野村忍介は豊後進出を、別府晋介は鹿児島帰還を、桐野利秋は熊本城攻略を主張したが、議論は紛糾するばかりで平行線をたどる。判断を仰がれた西郷は「まず可愛岳を突破し、三田井に出る。豊後に出るか、熊本へ行くか、それとも鹿児島に帰るか、それからのことはそのときに決めればよい」と決断を下した。17日夜、西郷は残った数百名の兵とともに可愛岳の突破を敢行する。 説明をいただいたボランティアの方 ありがとうございました。 旅は続きます。 参考資料 延岡市パンフレット サンエイ新書 「戦況図解 西南戦争」
2019.11.28
コメント(6)
次に訪ねたのは、桐野利秋(中村半次郎)の誕生地。それは、道路から少し上り坂を進んだ見晴らしのいい場所にあった。1838年、別府晋介と同じ鹿児島郡吉野村実方の下級武士の家に生まれる。(別府とは従兄弟)無類の豪胆さで勤皇の志士として活躍し、一般的には中村半次郎の名で有名である。示現流を体得し、佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとる。戊辰の役で大きな功績をあげ、明治4年には陸軍少将となる。遣韓掄(征韓論という説もある)に敗れた西郷と帰鹿し、明治7年同志と「私学校」を設立した。西南戦争では薩摩軍の四番大隊長を務めた。1977年、西南戦争の最後の城山の戦いで西郷とともに戦死。享年40歳。 桐野利秋も西郷や同じ薩摩軍の兵士たちと南州墓地に眠る。
2019.03.12
コメント(6)
大河ドラマ「西郷どん」が終わって2ヶ月以上が経過した現在も、私は未だに西郷隆盛のことにこだわりがある。毎回録画して見てきたドラマは見終わると消してきたが、最終回だけは、録画したまま折に触れて見返している。あの下野竜也指揮のNHK交響楽団が奏でるテーマ曲に勇気をもらったり、西郷の最後の姿など見ることなど考えるとしばらくはそのまま保存したい気持ちが強い。 明治維新150年の中で、いろいろ新たなことを見聞し、未だに訪れたことのない西郷関連の史跡も多いことも知った。これからもその他の史跡も訪ねる中で西郷関連史跡も訪ねたいと思っている。 この日は春の陽気に誘われて鹿児島市吉野町実方(さねかた)を訪ねた。先ずは、西南戦争で西郷と共に戦い、最後に城山で西郷を介錯した別府晋介の誕生地である。 そこは個人の住宅地内にあった。ただ、夕方6時以降の立ち入りはご遠慮下さいとの表示があるので注意したい。 別府晋介は当時の吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる。諱(いみな)は景長、通称晋介といった。戊辰戦争では薩摩藩分隊長として奥羽に転戦して戦功を挙げ、維新後鹿児島常備隊長、のち上京して近衛軍少佐。明治6年辞職帰郷し私学校の育成に尽力した。西南戦争では志願者で組織した二大隊を編成し連合大隊長は別府晋介が任についた。六番、七番の連合体で兵員約3千人だったという。そして、熊本城を攻撃、続いて各地を転戦奮闘したが、9月24日、城山での決戦ではいつまでも自分に従う部下に対し「早く逃げろ」と言ったと伝わっている。最後は重傷の西郷を西郷を介錯し、後に自刃した。時に1877年、享年31歳。桐野利秋(中村半次郎)とは従兄弟で実の兄弟以上に仲が良かったという。 鹿児島市上竜尾町にある南州墓地に西郷隆盛や同じ薩摩藩士と眠る。
2019.03.11
コメント(10)
村田 新八(むらたしんぱち) (1836~1877 明治10年9月24日没 享年42歳) 高橋八郎の第3子として生まれ、村田十蔵の養子となる。文久2年(1862)寺田屋騒動に連座して西郷は徳之島(のち沖永良部島)、村田は喜界島へ流罪となる。復帰後、王政復古に尽力した。また新選組と剣を交えた。維新後は、鹿児島常備隊の砲兵長。明治4年宮内大丞となり、全権岩倉具視一行と欧米を視察し、明治7年に帰国した。勝海舟は村田を「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」と賞賛したが西郷に従って西南戦争の挙兵に加わったため政府を驚かせたという。 桐野、篠原、村田の3人は大西郷の三将とも言われるくらいである。西郷は「村田新八は知・仁・勇の三徳を兼備した士。諸君、この人を模範にせよ」と言っていた。西郷とは刎頚の交わりだった。 また美術を愛し、和歌や漢詩もつくる才人だった。音楽も好きで、家にいるときはいつも風琴(アコーデオンやコンサーティーナ)を手放さなかったという。西南戦争従軍中も常に持ち歩いたという説もあるようだ。 西郷とは刎頚の友で、西郷が倒れたあと、「ああ、天なり」と長嘆し、涙が下る間もなく、銃弾があたり、立ったまま腹を切ったという。西南戦争では薩軍2番大隊長を務めた。 次は永山盛弘(弥一郎)の墓 永山 盛弘(弥一郎)(ながやまもりひろ やいちろう) 天保9年(1838)~明治10年(1877)没 享年40歳 永山休悦の第1子として薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の上荒田町)に生まれる。若くして勤王の志を抱き奔走した。文久2年(1862)有馬新七らに従って京都の上り挙兵に加担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であったため処罰を免れる。 明治2年(1869)に鹿児島常備隊がつくられ大隊の教導となった。明治4年(1871)藩が御親兵を派遣した際には、西郷に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に趣いた。明治6年(1873)征韓論敗れたと言われる西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職した時も、彼らと行動をともにすることはなかった。明治8年(1875)軍に復帰して陸軍少佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が樺太・千島交換条約を締結したことに憤慨して、職を辞して鹿児島に帰った。永山は政府高官を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、私学校に与しなかった。 明治10年(1877)中原尚雄の西郷暗殺計画を聞いた会議に同席し、憤慨したものの出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京には反対の態度をとる。しかし桐野利秋の熱心な説得で漸く同意した。弥一郎は3番大隊長となって、10箇小隊2000名を率いた。4月12日熊本の緑川から川尻を攻略するため進撃を開始したが、砲弾の破片を浴びて足腰に重賞を負い熊本の二本木本営に護送された。しかし、翌13日、苦戦を聞いて人力車に乗って御船に出陣、川路少将の別動第3旅団との戦いの指揮をとった。そして矢尽き刀折れるまで戦い、四面楚歌の状況に陥った。そこで近くの農家の老婆に数百円を渡し家を買い取り、自ら火を付け自刃した。撤退を勧めにきた税所左一郎に介錯を頼んだとも言われる。 参考資料 「かんまち本」その二 ウィキペディア 「激闘田原坂秘録」肥後評論社
2018.09.04
コメント(8)
明治10年9月1日、今から141年前、西郷隆盛が鹿児島に退却してきたこの日に「上町維新まちづくりプロジェクト」主催の「140年前にタイムトラベル! 西郷さん 城山へ向う・・・」に友人たちと参加した。西郷が鹿児島に入り「一つ橋」の近くの田中七之丞宅に一泊した場所から「西郷隆盛終焉之地」(碑文は南洲翁終焉之地)まで歩こうという企画である。 明治10年(1877)2月15日、夜間に降った雪が50年来こんなに降ったことがなかったと古老が言う6インチ(15cmあまり)も降り積もった中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面に向けて出発。あとを追って2月17日、西郷隆盛も桐野利秋と共に出発し、加治木、人吉を経て熊本へ向かった。ことここに至るには、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白にもとづく西郷暗殺計画の陰謀があったことがわかり、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱良へ届け出てのことである。続けてこれには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書き添えていた。 それから約半年後、西南戦争の最後の激戦「和田越の戦い」(宮崎県延岡市)で破れ、8月7日夜、延岡西方の可愛岳を突破した薩軍約600名は鹿児島城山までの退却の道を辿ることになった。 1、明治10年9月1日、午前10時5分 鹿児島市吉野「帯迫の戦い」前軍、中軍が吉野私学校(現在の吉野小学校)で休憩。軍議中に帯迫も官軍の攻撃を受けた。前軍は辺見十郎太に率いられて鹿児島に突入、中軍を率いた貴島清が帯迫で戦い、河野圭一郎が実方橋を守った。西郷隆盛は、狙撃隊に守られて前軍と共に一つ橋の方に向かったと考えられている。 下の写真が「一つ橋」(現在の橋は平成6年12月に完工したものである) (この「一つ橋」は平安時代の末、長谷場氏が鹿児島を支配した頃、アベキ川・現在の稲荷川に架かっていた唯一の橋。それが呼び名の語源と言われている)因みに私は高校生の3年間、通学の往復にこの橋を渡っていた。当時は西郷とこういう因縁のある橋とも知らず渡っていた。 (橋の向こうに見える山は島津家五代当主貞久が南朝方の肝属兼重らが立てこもる東福寺城を攻略し六代氏久を住まわせた東福寺城のあった多賀山。) この日の参加者は34名。朝方強い雨が降ったために中止も検討されたようだが、小康状態となり2班に分かれて出発することができた。 2、午前11時 西郷隆盛は、一つ橋の田中七之丞宅に着。宿泊。 田中七之丞宅は現在は「一つ橋 米穀店」とあるが、営業中かは不明。前軍の辺見十郎太らが私学校突入し、私学校を占領。 その後、「家鴨馬場」(鹿児島弁では「アヒルばば」を「アヒイばあ」という)を通る。 「佐衛門坂」は「せもんざか」と言う。 一行はひたすら歩き続ける。 西郷隆盛他、西南戦争で倒れた戦士の墓地である「南洲墓地」の下を通る。「般若院小路」は「はんにゃいんこすっ」と言う。 西郷の薩軍の行動は9月2日、一つ橋の田中七之丞宅を出てから9月24日、終焉の日を迎えるまで城山に籠る動きだったが、ここでは「上町維新まちづくりプロジェクト」の企画による動きに合わせて書いている。 西郷の薩軍の涙か、「南洲翁終焉之地」に到着する頃にはまた大雨となった。石碑も周りも雨に霞んでいる。ここは終焉の地ではなく石碑であって岩崎谷全体が「薩軍最後の地」であったことを示している。 終焉の地はここ。写真撮影の手際が悪く場所がわかりにくいが終焉之地碑から城山に向かって110mほどの場所。島津応吉久能邸前だと言われている。左側には城山トンネルがあり、伊敷方面に抜ける道路になっている。 ここは西郷の遺体の首が見つかったとされる場所。介錯されたあと、西郷の首が無くなったと言われたが、このあたりで見つけたという。 地図の写真はネットから借用した。この地図は南洲墓地の説明版のものと思われる。 話は前後する。3、9月1日 本営の移動 平田盛二日誌 薩摩郡東郷町出身 狙撃隊所属(狙撃中隊は総大将西郷隆盛の護衛を任務とした) 晴れ、今日蒲生を午前1時に出立、吉田郷鈴松で一時休息、吉野村に突入、同所学校において軍議 のところ、官兵突然後ろの山より砲撃す。よって前軍は鹿児島へ突入、後軍半道を絶たれ、中軍半は官兵を攻撃す。即ち城山を乗っ取り・・・・・今日本営は1ツ橋田中七之丞へ置く、一時は谷山郷までも領し、磯辺まで追撃、谷山郷に味方病院を置く。 9月2日 晴れ 今日 本営を岩崎江直す。護衛す。谷山口、磯辺等も防兼破歩。 行進中隊小隊長松本利器上申書;下伊敷村 出身より 9月1日 後軍は花棚で官軍と交戦。夜に入り関谷→牧山→中別府→雀ヶ宮を経て、2日鹿児島に進入、鳥越の塁を守備。官軍に攻められ城山へ。 懲役3年(秋田)4、9月3日 城山一帯に陣を構えて、戦いに備える。5、9月24日午前4時 官軍の総攻撃始まる。 西郷隆盛、洞窟の中で身支度をして、薩軍防塁の大手口とも言うべき岩崎口に向かって、進軍を開始した。しかし、西郷の大きな体に2つの小銃弾が食い込んでつんのめるようにして倒れた。すぐに体を起こし、後の別府晋介をかえりみて、「晋ドン、モウココデヨカ」と伝えると、正座して東を遥拝した。「ごめんなったもんし」(お許しください)の掛け声とともに別府晋介の太刀が一閃して西郷の首は落ちた。こうして西郷は49歳の生涯を閉じた。西郷の死を見届けた後、桐野利秋や村田新八といった主だった幹部は堡塁に趣いて壮絶な戦死を遂げた。城山から銃声が途絶えたのは午前7時頃であった。城山の最後の戦いで戦死した薩軍の兵士は約160名投降した者約200名。西郷の首は薩軍によって隠されたが、すぐ発見され政府軍幹部の実見によって西郷と確認された。 参考資料 上町維新まちづくりプロジェクト配布の当日資料。 「かんまち本」その二 「西南戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄13」萩原延壽著 など。
2018.09.02
コメント(10)
桐野 利秋(きりのとしあき)(1838~1877 明治10年9月24日 没 享年40)桐野の墓は西郷の墓に向かって左隣にある。桐野利秋といえば 司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(一)の文春文庫の 「はじめに」 に次のように書かれていたことを思い出す。(1980年1月25日第1刷 手持ちは1990年3月15日第31刷) ーいっど、吉野に、行たっおじゃはんか。 (クマタツ鹿児島弁解釈 ー一回吉野に行ってみられませんか。)という言葉であったか、鹿児島市内の知人に、市内から東北へすこし離れた吉野郷という高原に行くことをすすめられた。吉野郷は桐野利秋という、この小説の最後まで登場する汗くさい男のうまれ在所である。 そうこの吉野は桐野利秋の在所である。この時は吉野を吉野郷と呼び、高原といっているが、「翔ぶが如く」は1972年の1月から1976年9月までで毎日新聞朝刊に連載されたことを考えると、司馬遼太郎が吉野を訪ねたのはその構想を練るためであり、1971年(昭和46年)以前のことだろう。私が鹿児島を出る1962年(昭和37年)頃は吉野はまだまだ畑が多かったので司馬遼太郎もそう変わらない桐野の在所を見たのではなかろうか。その吉野もその先の溝辺に1972年(昭和47年)に鹿児島空港が開港し高速バスとつなぐリムジンバスの通行路になったことや区画整理により見違えるような街に生まれ変わっている。 桐野利秋は吉野の下級武士の家に生まれた。前名は半次郎。桐野が西郷と運命を共にするほどになったことについては逸話があるが、長くなるので割愛する。戊辰戦争の東海道の先鋒、ついで会津征討軍軍監として会津城受け取りの大任を果たした。立ち木を相手に一人で極めた示現流は佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとった。明治維新後陸軍少将となるが、明治6年(1873)西郷が対朝鮮問題で当時の他の政府首脳と対立(私はその説はとらないが、いわゆる征韓論)し帰鹿するのに同行し帰鹿する。明治7年同志と私学校を設立、西南戦争では薩軍4番大隊長だったが、事実上の総指揮官として奮戦し、城山岩崎谷で戦死した。 次は篠原国幹の墓 篠原 国幹(しのはらくにもと) (1836~1877 明治10年3月4日 没 享年42)記録奉行の家に生まれる。通称は冬一郎。剣は薬丸半左衛門に学び、謹厳寡黙な人であった。薩英戦争では砲台守備に出陣した。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参戦した。上野の彰義隊を攻めたときは正面の黒門攻めを担当し、その陣頭指揮に経っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。その後、奥羽に転戦した。後に陸軍少将になる。近衛長官。言行一致で全軍を統率し陸軍の手本・模範と言われた。藩校造士館で和漢学を修めて、私学校が創設されると総監督として子弟の教育に当たった。西南戦争では薩軍の1番大隊長を務める。熊本城の戦いを皮切りに始まった戦闘は官軍の増援により次第に転戦を余儀なくされていいた。そして明治10年3月4日、田原坂は吉次超えの戦闘により篠原の元部下・近衛歩兵第1連隊第2大隊長江田国道少佐率いる射撃手に撃たれた篠原は弾を数発受けてその場に崩れ落ちた。壮絶な死であった。 参考資料 「かんまち本、その二」 肥後評論社発行「激闘田原坂秘録」、ウィキペディア
2018.08.23
コメント(13)
南州神社参道階段は途中から東と西に分かれる。東の広い方を「男坂」、西のやや狭い方を「女坂」と呼んでいる。墓地を守ることを業とした人、隠坊や御坊とも表記し、オンボとも呼ぶことから、オンボ坂とも呼ばれる。階段は155段ある。 下の写真は参道階段を上り左側の公園から桜島と鹿児島市内を眺望したもの。この日は、南岳が噴火し、噴煙が南の方向に流れていた。 「西郷どん」の眠る南洲墓地一帯は公園化されて、南洲公園と呼ばれている。その南洲公園については、この4月に「西郷隆盛の南洲公園を訪ねる」の(その一、その二)で当ブログに書いたが、肝心の南洲墓地についてはあまり触れていなかった。(もっとも以前には何回か書いてはいると思うが) 今回、「西郷どん」に因んで、南州墓地をもう少し詳しく書いてみたいと思う。 階段を登った先に鳥居があり、その先に西郷隆盛の墓標がある。西郷隆盛 1827年~1877年(明治10年9月24日没) 享年50 鹿児島城下下加治屋町(現在の加治屋町)に生まれる。18歳で藩の郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)となる。そののち書役となり、27歳まで勤める。その間農政に関する意見書で、藩主・島津斉彬の目に留まり庭方役となり、身分も小姓となる。仕事は情報探索と渉外工作で、水戸の藤田東湖などと交流する。安政5年(1858)主君の斉彬を失った西郷は殉死を考えるが、京都清水寺成就院の僧・月照の説得によりそれを思いとどまる。その後、安政の大獄に巻き込まれ僧・月照と鹿児島の錦江湾に入水自殺を図るが、西郷のみ一命をとりとめる。 しかし、幕府の手前もあり、藩命で奄美大島に蟄居させられる。その後、1862年国父と呼ばれた久光に召喚され鹿児島に帰るが、先進的な尊皇攘夷派との結託を疑われ、今度は奄美大島の徳之島に流刑され、すぐに沖永良部に移される。ただ、それも大久保利通などのはからいもあり、1864年再び久光に召喚されて、禁門の変などで戦功をあげる。慶応3年(1867)12月9日 王政復古の大号令 小御所会議において新政府発足。慶応4年(1868) 1月3日 鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争勃発。 3月13日 東征大総督参謀として江戸入りし勝海舟と会談。 4月11日 無血開城により江戸城に入る。明治2年(1869)2月26日 鹿児島藩参政に就任明治3年(1870)7月28日 鹿児島藩大惨事に就任明治4年(1871)6月25日 新政府において参議となる 7月14日 廃藩置県の実施明治6年(1873)5月10日 陸軍大将参議に就任 10月23日 朝鮮半島への使節派遣をめぐり、意見対立し、参議の辞表を提出 11月10日 鹿児島に到着。武村の自宅に帰る明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校を設立明治10年(1877)2月1日小根占村にいるとき、四学校生徒による火薬庫襲撃の報を受ける 2月17日 兵を率いて熊本城にある鎮台を目指す 2月22日 西郷軍と政府軍との戦闘開始(西南戦争) 3月4日~20日 田原坂の戦い 5月16日 延岡において全軍解散命令 9月1日 西郷軍、鹿児島に帰り、城山に籠城 9月24日 官軍の総攻撃により、西郷も介錯され生涯を閉じる 西郷の墓を中心に桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武の武将などの墓がある。鹿児島県令(初代県知事)大山綱良、県令岩村通俊の願いを政府軍が聞き入れ、西郷隆盛以下40人を浄光明寺境内に仮埋葬することを許可、この他120人が不断光院、草牟田、新照院の上、城ケ谷の4ヶ所に埋葬された。 明治12年(1879)有志が鹿児島市内に埋葬されていた220余人の遺骨をまとめて知事の許可を得てここに埋葬した。明治16年(1883)薩摩、大隅、日向、豊後などの各地で戦死した遺骨も集められこの墓地に埋葬された。749基の墓石、明治10年(1877)西南戦争に敗れた薩軍2023人の将士が眠る。 西南戦争終結から12年後の明治22年(1889)西郷隆盛は名誉回復し、正三位に叙される。その後、日本各地に銅像や記念碑などが次々に建立されて今日に至っている。西郷南州の墓標の前にもいつも花が絶えない。 参考資料 「かんまち本」その2 「明治維新150年維新のふるさと鹿児島市」ホームページ
2018.08.11
コメント(11)
「寺田屋騒動」は文久2年4月23日(1862、5,21)に薩摩藩の事実上のトップであった島津久光が薩摩藩の尊皇派を始末した事件であり、「寺田屋事件」(坂本龍馬襲撃事件とは別物)「薩摩藩志士粛清事件」ともよばれている。 薩摩藩尊皇攘夷派は藩兵1000名を引き連れて上洛した島津久光を迎え、これを機に倒幕へ向かおうとしていた。ところが、久光にはその意思はなく、公武合体を目指していた。 その時には、西郷隆盛、村田新八、森山親蔵は大阪から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全く考えを異にしていた。4月13日に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷から志士の始末をするように命じられた。 こういうことになるとは思ってもいなかった薩摩藩の過激な尊皇攘夷の過激派は、憤激した。そこで有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、公武合体派の関白九条尚忠とこれに同調していた京都所司代酒井忠義を襲い、これを契機に薩摩藩を倒幕派につけようとする。しかし島津久光は、その会合場所の京都伏見の寺田屋に側近の大久保一蔵(のちの利通)、海江田武次、奈良原喜左衛門を次々に派遣、説得を命じて藩士を抑えようとするが失敗する。すると久光は、上意討ちの念を含んだ意味をこめて、奈良原喜八、大山格之助など特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び派遣する。これら8人は本街道と竹田街道に分かれて進んだ。後から上床源助が志願して加わり、計9名となった。 23日夜、寺田屋に到着した奈良原喜八郎など4名は有馬新七に面会を申し出たが、2階からの声で「いない」と断られたので、江夏仲左衛門と森岡善助が2階に上がろうとして押し問答になった。柴山愛次郎が1階で応ずることになり有馬と田中謙助、橋口壮介も降りてきて議論になった。しかし埒があかず、鎮撫使側は、ともかく藩邸に同行するように求めたが、拒否された。そこに遅れて大山など4人も到着、奈良原は説得を続けたがそれでも埒があかず、遂に君命に従えと道島五郎兵衛が「上意」と叫んで抜き打ちで田中謙助の頭部を斬り、同士打ちの斬り合いが始まった。 その後は悽惨な斬り合いが続き、この戦闘によって、鎮撫使側では道島五郎兵衛が死亡、森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門の4名が軽傷を負った。残りの3名は無傷だった。志士では有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵の6名が死亡、田中謙助、森山新五左衛門の2名が重症を負ったが後に切腹させられた。 その後、2階にいた尊皇派の薩摩藩士の大半は投降したが、逃亡した藩士もいた。最終的に21名の藩士が帰藩を命じられた。なお、京都藩邸で療養中であった薩摩藩士山本四郎もこれに加わるところだったので、帰藩謹慎を命じられた、しかし、それに従わなかったので、切腹を命じられた。従って前記志士8名と山本の9名が九烈士と言われている。 この九烈士の中でも過激派とみられる中心人物の有馬新七は文政8年11月4日(1825、12,13)は薩摩藩伊集院郷士の坂木四郎兵衛の子として日置郡伊集院郷古城村(現在は日置市伊集院町古城)で生まれる。父が城下士の有馬家の養子となり、鹿児島城下の加治屋町に1827年に移住した。剣は伊集院郷に住む叔父、坂木六郎が剣の達人だったことから子供のころから神影流を伝授されていた。学問については14歳頃より「靖献遺言」を研究し、崎門学派の学を修めた。1843年より江戸で学び、山口菅山の門下となる。1852年には上洛の機会に梅田雲浜らとも交流する。そして1857年には薩摩藩邸学問所教授に就任する。1861年に造士館訓導師に精進。 そういう中でも、尊皇攘夷派の志士たちと交流し、水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を図ったが、薩摩藩の同意を得られなかったことから手を引き、結果的には水戸藩を裏切る形になった。 1860年に町田久成の要請で、伊集院郷石谷村(現在の鹿児島市石谷町)を統治することになる。新七は石谷村を治める間に、刑法を定め、悪事を働いた者には罰として石坂(一部は現在、鹿児島市の指定文化財)とよばれる道の建設に当たらせた。また、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。 そういう文武両道、人の上にも立てる有馬新七だったが、その後も過激な尊皇攘夷運動を続け、寺田屋に集まったところを、島津久光による上意討ちにあったのだった。享年38歳。 上の写真は日置市伊集院町にある「有馬新七先生墓碑」昭和47年に鹿児島市南林寺墓地撤去により、郷里のここに移設されたものだ。 下の写真は同じく伊集院町の護国神社にある有馬新七石碑。没後110年に町の有志により建立されとものだという。 南日本新聞に連載中の小説「曙の獅子」桐野 作人 作にもあるが、伏見寺田屋で闘死、自害した有馬新七など九烈士は暴徒と認定されたため、薩摩藩の京都菩提寺である即衆院(島津家六代当主・島津氏久が1569年に開山、現在地より南にあったが、火災で焼失し1613年島津義久が再建した)に埋葬することは許されなかった。 それでは有馬新七など九烈士はどこに葬られたのか。京都伏見にある大黒寺(元は長福寺とよばれていたが、島津家18代当主で初代薩摩藩主 家久の命を受けて1615年、大黒寺と改めた)である。ここには九烈士の他、木曽川治水工事で犠牲となった平田靱負の墓標もある。 このあと、島津久光が目指した公武合体はならず、時代は大きく倒幕から明治維新へとむかうのだが、有馬新七などの思った方向に動いていくのである。結果的には彼らの動きが時代の流れの中で少し速すぎたのかなと思ったりもする。しかし、決して無駄ではなかったのかなとも思う。 (参考本など 桐野作人 「曙の獅子」、 ウィキペディア情報など)
2018.06.06
コメント(12)
NHK大河ドラマ「西郷どん」が奄美大島を舞台になる次の展開が始まった。これからいよいよ島妻となる「二階堂ふみ」演ずる「とぅま」~「愛加那」との生活が始まるのだろう。ものの本によれば、幼名は「於戸間金」(おとまがね、おとまがに)。「於」は尊称で「金」は加那の古称なので、名は「とま」となる。これをドラマでは「とぅま」と呼んでいるようだ。結婚した場面にあったように西郷が「愛」の名を与え、愛加那(本土風にいえば「愛子」)と名を変える。 安政5年(1858)西郷どんが「安政の大獄」で追われる身となった月照との入水で西郷だけ生き残った後、藩は幕府の目から逃すため名を「菊池源吾」と変えて奄美大島の龍郷に「潜居」させる。これは罪人としての「遠島」ではない。12月下旬山川へ向かい翌1859年1月奄美大島に向かう。罪人ではないので、禄をもらって龍郷村の借家で暮らし、次弟の吉二郎はじめ鹿児島からたびたび品物が届いたという。 愛加那は龍郷の名家、龍・田畑家 龍為志(りゅうためし)の娘。(諸説あり・・佐栄志、佐恵志・・)安政6年(1859)11月 二人は結婚。文久元年(1861)1月2日 長男 菊次郎誕生文久2年(1862)1月14日 召喚命令により西郷が龍郷を離れる。文久2年(1862)7月2日 娘 菊草誕生娘 菊草誕生の時には、既に西郷は島にいなかった。それは薩摩藩の島妻(とうさい)制度があり、島妻を連れて帰ることは許されていなかったためである。 西郷は一人、島を去り、後に3番目の妻・糸と結婚した後、明治2年(1869)、菊次郎(8歳)を鹿児島の西郷家に引き取る。この年7月8日 に西郷は武村の屋敷を購入している。明治9年(1876)秋頃、菊草(14歳)が西郷家に引き取られ、いとこの大山誠之助(大山巌の弟)と婚約。一人大島に残された愛加那(40歳くらい)は生涯、菊草とは会えないままだった。 菊次郎はその後、アメリカに留学し、帰国後、鹿児島の吉野開墾社(全寮制の農業学校)に入る。16歳の時、西南の役に出陣し、右足の膝下を切断するが、奄美大島に帰り愛加那と数年暮らした。23歳の時、外務省入省のため奄美大島から東京へ移る。明治28年(1895)、日清戦争後、菊次郎が台湾に赴任する際に奄美大島に寄り、愛加那と会っている。菊次郎はその後、京都市長となる。 愛加那は明治35年(1902)8月27日65歳で没。雨の降る中、一人で畑に行き、農作業の途中で倒れてそのまま息を引き取った。菊次郎は母の死の知らせる電報を台湾で受け取った。菊次郎が京都市長になる2年前のことだった。 愛加那は生涯、奄美を出ることなく、西郷にもらった家(現在、復元されている)で暮らした。私も15年くらい前、娘家族が奄美在住の時に訪れたことがあるが、当時写した写真が見当たらない。 参考にしたもの ウィキペディア(愛加那) ネット情報「西郷隆盛の先妻」など
2018.05.29
コメント(9)
薩摩藩は現在の鹿児島県だけではなく、「薩摩国」「大隅国」「日向国」の三つからなっていた。現在は都城市などは宮崎県に属しているが、私も最近になって知って驚いたことがある。それは現在、鹿児島県に属する「志布志市」を中心とそしたその近辺は薩摩藩時代には「大隅国」に属していたと思っていたのだが当時は「日向国」だったのだ。「灯台下暗し」とはこのことか! 2ヶ月くらい前に友人のKクンから上の地図をメールしてもらって初めて知ったのだった。 そうそう、今日は「都城六烈士」のことである。都城は薩摩藩「日向国」であり、先日ブログにアップしたように「都城島津家」の当治下にあった。 新選組や会津兵が入り不穏な空気が流れていた伏見において、維新前夜の慶応3年(1867)12月21日、斥候(敵の状況を探る役割)を担っていた都城隊士 坂元与八郎(18歳)、横山権助(23歳)、野辺納右衛門(23歳)、安藤惣兵衛(18歳)、大峰壮之助(18歳)、内藤庄左衛門(20歳)の6人が、新選組に不意に発泡されるという事件が起きた。 彼らが伏見奉行所の北にある御香宮の大手門前で、境内に不穏な動きがあるのを察知し行ってみると、新選組と思われる幕兵60人が駐屯し、内30人ほどが武装行軍を行っていた。驚いた6人は急ぎ本隊に報告のために引き返したが、その帰途、新選組の一団とかち合い、引き返す途中、背後から銃声が聞こえた。彼らは交戦せずに本隊へ帰り報告した。しかし、藩兵の間では発泡されて逃げ帰ったのではないかということになり、本営軍監の吉井幸輔が6人に尋問した。彼らは斥候の任務は敵状視察であり、戦うことではないと主張した。その2日後、都城隊が伏見から東寺に転陣になったため、同隊中では、これは6人の行動による前線から後方への不名誉な更迭との噂がたってしまった。6人は、責任をとる覚悟を固め、切腹嘆願書を提出した上で、26日深夜、東寺薬師堂で次々と自刃した。彼らの墓は京都市九条狐塚墓地にあり、その墓石に6人の中で最年少だった大峰壮之助の辞世の句が記されている。「武士(もののふ)の義の一筋に思い立ち、命は露も思はざりけり」 この事件の1週間後に鳥羽・伏見の開戦となり戊辰戦争へと突入していくが、都城隊は日頃の軍事訓練の成果を発揮したのである。(出典・平成29年度都城島津伝承館特別展、西郷隆盛と都城島津家) 都城へ移される前の京都九条狐塚墓地にあった墓 都城市都島町に撮された墓標 近くには慰霊碑もあるという(南日本新聞、2018年1月3日号) こういう形で、志半ばで思わぬことから倒れた志士も多かったのだろう。
2018.05.17
コメント(10)
ここは明治維新の志士たちを生んだ鹿児島市加治屋町の「歴史ロード 維新ふるさとの道」入口。加治屋町を中心に周辺には西郷や大久保、大山巌、伊地知正治、東郷平八郎、篠原国幹、村田新八井上良馨、海江田信義、奈良原喜左衛門などが誕生又は育っている。 「維新ふるさとの道」は既設のものであったが、今年が「明治維新150年」にあたることや、NHK大河ドラマ 「西郷どん」も放映されることもあって1月9日、新たに「歴史ロード 維新ドラマの道」が完成した。 斜め左側から見ると西郷隆盛 左側に寄って写す西郷隆盛 右側から見ると大久保利通 トリックアート仕立ての西郷と大久保6本の柱で構成される高さ3m、幅6mのシンボルゲートである。 ここから「維新ドラマの道」 高麗橋から甲突橋の間290mにモニュメント7基が立つ高さ2,15m 幅4,5m 表と裏(ここでは表だけの写真)を使って幕末、明治期の歴史を紹介してある。 島津斉彬と集成館事業 薩摩藩英国留学生 大山巌と薩英戦争 西郷隆盛と西南戦争 大久保利通と岩倉使節団 五代友厚とパリ万博 東郷平八郎・山本権兵衛と日露戦争 甲突川(こうつきがわ)の向こうに桜島が見える。「維新ふるさとの道」と「維新ドラマの道」は左側にある 私はスマートフォンには縁がないが、スマートフォンなどで無料アプリ(英語、中国語、韓国語にも対応)をダウンロードし、モニュメントにかざすと約3分間の動画や解説が表れるそうだ。その上、無線LAN(WI-FI)も整えてあるという。
2018.05.16
コメント(13)
西郷どんは生涯に3回結婚(相手は伊集院須賀、愛加那、岩山糸子)したと言われているが、その最初の須賀との結婚生活が2月18日と25日の大河ドラマで放映された。須賀役は橋本愛。実際に須賀も美人だったという。 西郷誕生の地 鹿児島市の加治屋町(当時の下加治屋町) 結婚は嘉永5年(1852)西郷は24歳。相手の須賀は4歳年下で薩摩藩士・ 伊集院兼善(かねよし)の娘であった。伊集院家は藩主・島津家の分家、戦国時代には家老などを務めるなど要職にあったが反乱を起こし、一時島津家と対立することもあった。須賀の父・「伊集院兼善」は明治政府で内務官僚、後に高知県令になる、須賀のの弟「伊集院兼寛」は明治に「子爵」「貴族院議員」を務めている。なお、西郷と弟・兼寛は離婚後もその関係は良好であったというという説と、のちに西郷が篠原冬一郎(国幹)に送った明治7年(1874)8月31日付の書簡の中で兼寛のこと(西郷より10歳年下)を、「誠に鉄面皮の先生」「ダッキョウ(ラッキョウの鹿児島弁)先生」にて驚き入ると非難しているので、実際はどうだったのか真相はわからない。また、「西郷家の女たち」の著者・阿井景子が「文藝春秋」の別冊「西郷隆盛を知る」の中にある「その後の西郷家の人々」に書いた文章には、「この後西郷家が下加治屋町の家を売り、上之園の借家に移転したこと、兼寛がわだかまりなく西郷家に出入りしているのを考えあわせると、離婚は直五郎(父・伊集院兼善)の意志だったという気がしてならない」とある。ますますわかりずらくなってくるのだが・・・。阿井景子の文章では、須賀の父親は直五郎、須賀は俊子として書かれている。 翻って西郷は当時、郡方書役助(こおりがたかきやくたすけ)という地方役人だった。なお、その仕事内容は、農民が税として納める米の出来高を見積もって納入させる役所の書記係であった。西郷は郡奉行・迫田太次右衛門の下で働き、農政に関し多くを学んだばかりでなく、人間的にも大きな影響を受けた。 西郷が須賀と結婚した1852年、西郷家では祖父・竜右衛門、父・吉兵衛、母・政子が相次いで他界し、西郷は若くして弟妹5人と妻、祖母を抱えることになった。父の死亡により収入が少なくなった上に1854年には藩主・島津斉彬に抜擢された西郷は江戸へ赴くことになる。そのことでも出費がかさむので弟・吉二郎はお金の工面に苦労したという。そういう境遇に置かれたことと、体調不良になった須賀を見かねた実家・伊集院家は須賀を引き取ったというのが真相だろう。1854年のことである。その後の須賀のことは情報がない。 西郷家が1856年に下加治屋町の生家を売って、上之園町の借家に移る。 原作者・林真理子の「西郷どん」では、貧乏で家族も多い西郷家に嫁が来たのは俊子として登場するこの嫁に「痘痕」(あばた)があるという負い目があったからのように書かれているが脚本ではそうような描写は全然無かった。また特異な人物像になっていて私は興味深く見ることだった。史実は史実、ドラマはドラマとして楽しんで見るようにすることで一層興味は深まるので、今後も2番目の妻・愛加那と3番目の妻・糸子がどういう形で登場するか楽しみである。いよいよ、舞台は奄美大島へ。 (ネット情報「西郷隆盛の先妻・西郷家の女性たち」等を参考にした)
2018.05.13
コメント(9)
姶良市加治木町日木山にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)を再び訪ねた。2015年10月15日の拙ブログ「島津義弘公ゆかりの精矛神社」にあるように、2015年に一回訪れている。今回、再度訪れたのは「西郷どん」のロケ地としてここ精矛神社が使われて実際に視聴し、もう一回行ってみたいと思っていたところ、案内のNくんのコースに組み込まれていて願いが叶ったのだ。 拙ブログ2015年9月10日「島津義弘公の居城跡・加治木護国神社を訪ねる」の記事あり。神社入口の案内版には概略次のような記述がある。 島津義弘と精矛神社 精矛神社は、薩摩藩の礎を築いた戦国大名島津義弘を祀った神社です。ここは江戸時代に加治木島津家の別邸・扇和園があったところです。精矛神社は以前島津屋形内(加治木高校前の護国神社の一角)にあったものが、大正七年十月に義弘公没後三百年祭の記念事業として、この日木山の地にへ遷座されました。 慶長四年(1599)正月、慶長の役の武功により、薩摩大隅国内に設けられていた豊臣家の直轄地(蔵入り地)などの知行地約五万石が、恩賞として島津家に返還されました。この中に加治木や国分、出水が含まれていました。慶長十二年(1607)、島津義弘は帖佐平松から加治木の屋形へ移り、新しく町割り(都市計画)を行い、通りや商人町を整え、加治木の町の基礎を作りました。島津義弘は、江戸時代の元和五年(1619)七月二十一日加治木屋形で亡くなっています。享年八十五歳、法号松齡自貞庵主妙円寺殿であり、亡骸は屋形を出て南へ向かい、白銀坂を超えて鹿児島城下にある島津本家の菩提寺福昌寺墓地に葬られました。また伊集院の妙円寺には義弘の影像が納められました。 その義弘公ゆかりのここ精矛神社で「西郷どん」の撮影が行われ、放映された。なんと、同じ義弘公の関ヶ原の戦いで有名な「島津の退き口」の敵中突破の武勲を賛えて現在も鹿児島で続く秋の行事・妙円寺(徳重神社)詣りを西郷の子供時代に行ったシーンが妙円寺に代わり、精矛神社で撮影されたのだ。私もそのシーンをテレビで見たとき、よく知っている妙円寺ではないことはすぐにわかったのだが、一回しか行ったことのない精矛神社とは気がつかなかった。あとで調べて精矛神社だとわかったのだった。 今回、現地にいってみると、下の写真が大きく飾られていた。いつもはほとんど人もいないこの精矛神社が大変な賑わいだったろうと想像するに十分な写真である。 本殿の右側に置かれている朝鮮から持ち帰った石臼と手水鉢(ちょうずばち)椿窓寺の住職であった鳳山和尚が文禄・慶長の役に陣僧として従軍した際、持ち帰ったものといわれる。行く時は、兵士、武器、軍馬、兵量を満載して船脚(ふなあし・吃水)を沈めて渡海したが、帰りは空船に似て不安定で波荒い朝鮮海峡を渡るには沈没の危険が考えられるため船の底荷とした。はじめ島津屋形の西の丸の庭に置いていたが、明治2年(1869)今の「義弘公終焉の地」碑(護国神社)のあたりにそして大正7年(1918)現在地に移したものという。(現地案内版) 経塚文禄・慶長の役の出陣将兵の武運長久を祈るため8年数ヶ月かかって法華経13000部を読経した。その記念碑である。(現地案内版)
2018.04.25
コメント(5)
私が掛橋坂(かけはしざか)のことを初めて知ったのは南日本新聞の2012年2月4日のこの記事であった。 記事は「姶良市蒲生町西浦の山間部で草やぶに覆われて石畳の道『掛橋坂』が、往時の姿を徐々に取り戻し始めた。調査に乗り出した同市教育委員会が1月から清掃作業を進めており、歴史的な背景や価値など全容解明へ向けた作業が本格化している。坂は周辺住民だけが”かけはしの坂”として記憶する程度で、長い間忘れ去られた状態だった。昨年11月末、古道を探し歩いていた山元貞秋さん(68)=薩摩川内市=が確認し、再び脚光を浴びることとなった。確認当初、280mほどしか見えなかった石畳が1キロほどある坂のほぼ全体にあると推定されることがわかった。同市教委社会教育課の下鶴弘課長補佐は『石の組み方が白銀坂や龍門司坂と類似しており、江戸時代から明治初めの幹線道路であったことは間違いないだろう』と話す(後略)」とあり、大いに興味を持ち、整備されたらいつか訪ねたいと思っていた。 新聞記事で見た2012年から6年、今回 Nくんの案内で念願の掛橋坂にたどり着くことができた。姶良市が力を入れて整備された跡を見ることができて感激した。石標で「掛橋坂」と造られ、公園状に駐車場も整備され坂に至るまでの道は舗装されていた。 今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」のロケ地であったことも当時の写真で紹介されている。私の覚束無い記憶では妙円寺詣りのシーンで石の急坂を登るシーンが撮されていたような気がするが、その場面だったか、確信はない。 ここは坂の入口。左に曲がるると昼なお暗い石畳の急坂がある。 掛橋坂(かけはしざか)と呼ばれる由来となった「道幅が狭く危険な板敷の道=『桟(かけはし)」の名残なのか、壁面にには当時のノミ穴が残されている。桟(かけはし)は木を渡して造る道のことで、桟道は谷深く或いは流れが急で橋柱を立てることができない所に、岸壁から行桁(ゆきがた)を組み出して造ったものといわれる。 掛橋坂は、姶良市蒲生町北字込原にあり、距離661m、現在の県道川内加治木線の前身である旧道上にあり、加治木・帖佐・蒲生を経由して、藺牟田・祁答院を結ぶ重要な地方街道であったと考えられる。 江戸時代には、上記のように藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として利用され、帖佐郷にあった納屋町御蔵・小鳥御蔵まで、毎年たくさんの年貢米が輸送された。掛橋坂は道中もっとも厳しい難所として知られ、18世紀末、寛政8年(1796)までには、地山の石を削った石段や切石を敷き詰めた石畳が完成したと思われるという。 今回、姶良市の有名な三つの坂をNくんという地元の歴史に詳しい友人の案内で巡ることができた幸運に感謝したい。この日は他にも、たくさんの名所・旧跡を案内してもらったので、少しづつアップしたいと思う。お楽しみに!(本記事を書くに当たり、姶良市発行の「掛橋坂」のパンフレット等を参考にした)
2018.04.19
コメント(5)
姶良市の二つ目の坂は白銀坂と同じく国指定史跡「龍門司坂」(たつもんじさか)である。すぐ近くにある滝を龍門司滝(りゅうもんじたき)と言うが、何故か同じ漢字でも呼び方が違う。ここは、NHK大河ドラマで過去にもロケ地として使われてきたが、(1990年・「翔ぶが如く」 2008年「篤姫」 2010年「龍馬伝」)今回の「西郷どん」でもオープニングや妙円寺詣りのシーンなどで使われた。私はこの坂だけは「翔ぶが如く」のロケ地に使われた後、一回だけ訪れたことがあったが、長い距離は歩いていない。 龍門司坂は、姶良市加治木から霧島市溝辺につながる大口筋の一部で、加治木町木田の高井田から加治木町小山田の毛上集落を結ぶ山道である。杉木立と木漏れ日、そして苔むした石畳の風情が美しい坂道で、石畳敷きの平均幅は約4m、最大幅は7mあまり、全長は1500mと考えられているが、集落内にある両端部は舗装されており、現在は山間部の486、8mが当時の状態で残されている。 この石畳はあまり段差がない石敷が特徴で、写真ではわかりにくいが、斜面に敷かれた石畳がずれないように、縦に深く埋める石列を地形に沿って設ける工夫がなされているという。また傾斜の強い場所などには側溝を設けるだけでなく、雨水が1か所に集中してのり面を侵食しないような工夫もみられ、薩摩街道の中でも大規模に整備された古道である。 この坂は寛永12年(1635)に着工し、その後100余年後に完成した。龍門司坂の近くにには敷設に使用した凝灰岩、通称・樋の迫石の採石場があり、そこには加治木島津家第4代久門直筆といわれる「山神」の祠が、作業の安全を願って建立されているという。この祠には「元文6年(1741)」という年号が刻まれており、敷石のなされた期間が推察できる。 加治木は栗野からえび野市につながる加久藤筋(かくとうすじ)や、そこから人吉地方へ続く球磨筋(くますじ)なども大口筋同様につながっており、古代から中世にわたり幹線道であった川内ー蒲生ー国分ルート上でもあって、また湊(みなと)では中世から海外貿易や、産物の積み出しも盛んに行われていた。人や物、情報、技術が行き交い、交易の街として繁栄してきた姿を、龍門司坂は伝えている。 明治10年2月、沢山の人々に見送られ、西南の役で熊本方面を目指した総数6000人とも言われる薩軍兵士がこの坂道を登っており、別府晋介に率いられた6番(加治木隊)・7番大隊は大口筋を通って佐敷(熊本県芦北町)へ、西郷隆盛率いる本営は大口筋のここを通って加久藤超えから人吉に向かった。明治22・23年頃に龍門司坂の東側に剣道が造られて、幹線としての機能を終わった。 因みにこの杉は、大河ドラマ「西郷どん」のオープニングで西郷が手を触れ空を見上げるシーンの杉である。私たちもそれにあやかって、交代で写真撮影をしたが、ここでは非公開とする。(笑) 私たち鹿児島組4人は486、8mの石畳の歩きを楽しんだが、Nくんは先回りをして、私たちの到着地点に車を回して、待っていてくれたので、効率が良く大いに助かった。この後の「掛橋坂」も同じように先回りで待っていてくれたので、この日は三坂の他にもいろいろな史跡を巡ることができた。(この記事を書くに当たり、姶良市教育委員会発行のパンフレットや一部NHKのネット情報も使わせていただいた)
2018.04.17
コメント(7)
鹿児島県の姶良市には三つの有名な坂がある。白銀坂(しらがねさか)と龍門司坂(たつもんじさか)は国史跡として有名だったが、掛橋坂(かけはしさか)はそれらに比べると忘れられた坂であった。しかしその掛橋坂も平成25年6月13日付で市の史跡に指定されて近年訪れる人も多くなったという。私も歴史探訪を始めたここ数年来、ここを訪れることが夢であった。 今回、姶良市に住む高校の同期生Nくんの案内により、その三つの坂を巡る機会に恵まれた。鹿児島市内からの同行者は同じく高校の同期生、私を入れて男3人、女1人、最近歴史づいている自称・〇〇八期会歴史同好会の一行である。姶良市内の駐車場で案内のNくんと落ち合って、Nくんのクラウンに同乗し5人で出発。先ずは、国指定の大口筋白銀坂へ。 「白銀坂」は鹿児島県姶良市脇元から鹿児島市宮之浦町の山間部を抜ける石畳の峠道である。江戸時代に整備されたと考えられる白銀坂は、薩摩藩の主要街道(街道を筋と呼ぶ)である「大口筋」の一部で、藩内随一の難所として知られていた。(実際今回その一部800mを歩いてみてそれを実感した)大口筋は、鹿児島城下から吉野ー重富ー帖佐ー加治木ー溝辺ー横川ー菱刈を通り、山野の小川内関所から亀坂を超え、肥後国境の亀割峠を下り水俣に至る、全長約70kmの街道をいう。 江戸時代、薩摩藩の陸上交通における領外への主要街道は、小倉筋(西目筋)と東目筋に分けられていた。寛永年間(1624~1644)に名称が改められ、小倉筋は出水筋と大口筋に東目筋は高岡筋(日向筋)とされた。領外に出ると、出水筋と大口筋は豊前小倉に、高岡筋は日向細島に出て、主にここから海路で大阪や江戸にへと向かった。この他に、加久藤筋、志布志筋、綾筋など鹿児島を中心として諸郷を連絡する街道があり、領外に通じる街道には関所が置かれ、厳重な取締が行われていた。高岡筋は、加治木麓(現在の姶良市)で大口筋と別れ、小浜ー浜之市ー住吉ー新川ー敷根ー牧之原ー通山ー都城ー高城を通り、高岡の去川関(宮崎市高岡町)に至る街道で現在の10号線に沿ったルートである。なお、加久藤筋は大口筋から横川で分かれ、栗野ー吉松を通り、えびの(宮崎県)へ向かう街道である。 登っていくにつれて、石畳状だったり、石段状だったりするが、よく整備されていて歩きやすい。 ガイド役のNくん言うところの第2休憩所までたどり着いた。「霧島錦江湾国立公園 白銀坂」の看板あり。 ここまで800m歩いたことになる。ここから頂上まではまだ2,2kmということで、白銀坂はここから引き返すことにした。 おじいさん、おばさん、いやいや後期高齢者のおじいさん、おばあさんはここで休憩し飲み物やお菓子で暫しの休憩。ここまで登れたことに感謝! 景色を楽しんだ。 この白銀坂が残る山なみは、古代から近世に至るまで大隅国(姶良市側)と薩摩国(鹿児島市側)の国境だった。戦国時代には島津隆久や義弘などの武将たちが、周辺に陣を構えたといわれる。 白銀坂は、西郷隆盛が西南の役で熊本に行くときにここを歩いて行ったと言われている。 (この記事を書くに当たり、姶良市教育委員会発行の諸資料を参考とした)
2018.04.16
コメント(6)
南州公園の一角に「西郷南州顕彰館」がある。ここは西郷南州百年記念事業として西郷を慕う全国の人々の寄付により建てられたものだという。西郷の生涯・思想・業績などわかりやすく紹介したジオラマなどの他、西郷の衣服や西南戦争に関する資料などが展示されている。ここでは講演会や研修会なども開かれる。 公園内の建物の一角に小さな石碑がある。うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな碑だが、「有川矢九郎頌徳碑」だと説明があった。 有川矢九郎とはどういう人物なのか。薩摩藩士として鹿児島城下千石馬場に生まれ、幕末から維新にかけて、兵員輸送などで西郷の戦略を支えた人だという。明治以後実業家となり、西郷からロンジン製の腕時計を譲与された。当日のガイドさんによると西郷と3度目の妻・イト(糸子、いと、以登などとも呼ばれる)を肝いり(仲立ち)した人と言われているとのこと。 イトの父は薩摩藩士・岩山八郎太。元治2年(慶応元年と同年)(1865年)2月23日、西郷隆盛(吉之助)と結婚。西郷37歳、イト21歳、媒酌人は当時30歳の薩摩藩家老・小松帯刀であったという。西郷が遠島となっていた沖永良部島から帰還した約一年後であった。その時、妻のいとこに当るイトを西郷に引き合わせたのが薩摩藩士・有川矢九郎である。イトは以前、海老原家に嫁いだことがあったが、西郷はそれを気にもしなかったという。(これら西郷の妻などについてはいずれ詳しく書こうと思っている) 黄興(こうこう)(1874~1916)中国湖南省長沙市出身辛亥革命(1911)は数千年続いた中国皇帝専制の時代を終わらせ、アジア初の共和国(中華民国)を成立させるきっかけとなった。革命の中心人物だった孫文の右腕となって活躍したのが黄興である。日本に留学、亡命していた黄興は西郷隆盛を尊敬していた。辛亥革命に携わった人々は、日本の明治維新を手本にし、なかでも西郷には傑出した人物として畏敬の念を抱いていたと思われる。黄興は大正5年(1916)、志半ばにして上海でその生涯を閉じるがその後、故郷の長沙市で国葬を以て埋葬された。終生、中国の西郷南州を自認し、南州翁の人格と思想に傾倒していた。 浄光明寺島津氏初代・忠久から5代・貞久までと21代・吉貴までの菩提寺。開山は宣阿説誠。孟宗竹を日本に初めて取り寄せた島津21代・吉貴は藩主全ての菩提寺は福昌寺となっている中、ただ一人本人の遺言により浄光明寺に葬られた。しかい昭和45年4月に島津興業によって福昌寺跡の墓地に改装された。西南戦争後は、廃仏毀釈で焼損していた本堂等の敷地も含め、かって丘陵のほぼ全域を占めていた敷地の大部分が南州墓地、南洲神社として利用されている。廃仏毀釈が徹底された鹿児島で、同じ地域に再興した数少ない寺院の一つである。門の先にある 聖観音像 この日は私たち一行を特別に本堂に上げていただいた。お寺さんの説明も聞くことができた。 本記事を書くに当たり、「かんまち本」その二、ネット情報「西郷隆盛の妻ー西郷家の女性たち」を参考とした。
2018.04.14
コメント(3)
縄文前期の遺跡碑一緒に行ったMくんが高校時代、考古学部に入っていてここを掘って遺構、遺物を探したそうだ。当時私たちの高校には鹿児島県の考古学会会長を長く務められたK先生が在職しておられて、考古学部の活躍は目覚しいものがあった。この一帯の台地からは縄文式土器、石斧、矢じり、イノシシなどの動物の骨、しいの実などの植物の加工品、竪穴住居跡などの遺物や遺跡が発見され縄文時代(約4千~5千年前)、鹿児島市街地の大半が海だった頃から、この付近には人々が住みついていたことがわかるという。 上の「南州公園エリア」地図は「かんまち本」その二から引用。 3月30日、西郷どんの墓地や周辺を訪ねる「南州公園は、歴史のテーマパークだ!」友人二人と参加した。この会主催の史跡探訪に参加するのは、2月の島津家墓地・福昌寺跡墓地に続いて2回目である。今回の参加者は募集人員20名に対して30名近くで、霧島市から見えた若い3人組のご婦人の姿もあった。この史跡巡りは島津家が鹿児島を統治するのに拠点になった東福寺城~清水城~内城~鶴丸城(鹿児島城)の全てが上町に存在したことから、他の史跡も沢山残されている地元に上町維新まちづくりプロジェクトという強力な団体があることで続いているものだ。 この日は桜も満開で桜島とのコラボを見ることができた。ただ午前中で逆光であったためきれいに写っていない。残念! 墓地の少し上に竹公園がある。西郷どんの墓前には参っても周辺までは行かないので初めて目にする場所である。 これは現代の水槽に当たるとのこと。ここに溜め込んだ水を下の小さな穴から出していた。 招魂 西南の役戦歿者慰霊塔 明治10年(1877)9月の西南の役終息より、120年余、平成11年年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。戦域より遺砂を格納し、また戦跡より「縁の石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。 周辺のことも一回では書ききれなかったのでいづれ続編を・・・。
2018.04.06
コメント(0)
鹿児島は現在、「西郷どん」一色である。新聞もテレビも行政も明治維新150年を迎えた今年、力の入れ方ににはこれまで以上のものを感じる。 今日の写真は8枚全部、地元の南日本新聞に掲載された、「明治維新150年」や「西郷どん」に関するものをである。テレビではNHKはもちろんのこと、民間テレビもBS放送を使って毎日のように明治維新に関する番組流されていて録画しないと見逃してしまうほどである。大きな本屋を覗いても、明治維新本、西郷隆盛本が所狭しと並べられて、どれから見ればいいのか迷ってしまう。 その南日本新聞によると、鹿児島での初回平均視聴率が34,9%(ビデオリサーチ調べ)であったという。関東地区の15,4% 関西地区の関西地区の19,8%を大幅に上回り地元の関心の高さが浮き彫りになったという。それに近年は衛星放送で視聴する人も多く、BSプレミアムは4,9%(関東地区)だったとのこと。私もBSプレミアムで録画をし、後でゆっくり見ることにしている。 地元鹿児島が待ちに待った大河ドラマ「西郷どん」には県出身の俳優も起用されている。薩摩藩の重臣・赤山靱負役の沢村一樹、西郷の妹・琴役の桜庭ななみ、薩摩ことば指導の迫田孝也(もう一人田上晃吉がいる)の3人の座談会を開き、作品への思いや古里へのメッセージを語らせている。 新聞には鹿児島維新マップも掲載されている。(よく見えなくてすみません)観光にお見えになれば、いろいろなマップも用意されていますし、地元ガイドも待機しています。 昨日1月13日には、西郷どん 大河ドラマ館が開館した。鹿児島市が市立病院跡(加治屋町)に総事業費4億7千万円をかけて開館したもので、来年1月14日までの一年間。ドラマ館撤去後は敷地を緑地として整備するとのこと。施設は鉄筋コンクリート平屋延べ1300平方メートルである。このことを見ても力の入れようが並々ならぬものであることがわかる。NHK大河ドラマに登場した西郷隆盛らの生家のセット目玉に、県内ロケの映像、衣装展示などでドラマの世界を体感してもらう狙いだ。昨日西郷どんの父母にとして出演した風間杜夫、松坂慶子さんを迎えて開館式があった。 明治維新に関連する施設の紹介もある。その中には、「西郷どん 大河ドラマ館」と「維新するさとの道」を結ぶ「歴史ロード 維新ドラマの道」の紹介もなされている。私自身も新設されてからのこれらの施設には訪れていないので、近々訪ねるのを楽しみにしている。 新聞掲載記事も多岐に渡り、「戊辰戦争」特集記事や明治維新を成し遂げた「薩長土肥」の偉人の紹介や土地土地の歴史的な博物館などの紹介もある。
2018.01.14
コメント(20)
NHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)が始まった。「西郷どん」が企画放送されるということを知ったのが平成28年9月。そして10月には「平成28年度 海音寺潮五郎記念文化講演会」(鹿児島県出身の作家のため毎年テーマを変えた企画講演がある)に「西郷どん」の原作者・林 真理子氏(第94回直木賞受賞作家)がみえて「歴史小説を書く」という講演があり、それを友人のKくんに誘われて聞きに行った。 そのことは2016年9月9日の当ブログに書いたが、講演の要旨は「男の作家は談合を書きたがるが、自分は歴史小説においても人間を書きたい」とのこと。そういうことを聞いた私は今回の「西郷どん」で今まで万人に知られた西郷像ではなく、その人間性がどのように描かれるか楽しみにしている。 その講演の中で西郷隆盛に大きな影響を与えたと言われる「島津斉彬」のことについても触れている。江戸で生まれ、江戸弁を使い技術者、科学者、経営者であった。生きていれば明治維新もなかったかも知れない。西郷はこの人の為なら命を落としてもいいと思った。それほどの影響を与えた人物だったと言う。 第一回の放送では、上記のことはもちろんのこと鹿児島の地がどういう風に描かれているか、ロケ地は何処だったのか鹿児島弁はうまく伝わるかなど地元の人間ならではのことにも大きな興味を持って見た。それ等は、今後機会があれば触れることにしたい。 上の写真は番組の冒頭、明治31年(1898)上野で西郷銅像の除幕式が行われた浴衣がけの銅像とは違い、我が国初の陸軍大将の制服姿で鹿児島の城山を背景に建てられた銅像である。没後50年祭記念として鹿児島出身の彫刻家・安藤照(渋谷の「忠犬ハチ公」の製作者)が8年をかけ製作し、昭和12年(1937)5月23日に完成したものである。台座から8mの堂々たるモニュメントである。鹿児島を訪れた観光客はほとんど素通りすることはない有名なスポットでもある。 第一回の放送の中に西郷の子供時代・小吉の居宅があったのが、この場所・鹿児島市加治屋町(当時は下加治屋町)である。この生家は敷地259坪半あったといわれる。現在の住宅事情を考えればあの大家族でも容易に住めたことは頷ける。 私はこの地には事ある毎に訪れているが、この一帯は、明治維新の大久保利通など明治維新はもちろんその後の日本を背負ったたくさんの人材が生まれ育った場所であり、いつも身の引き締まる思いがする。一帯は公園化され「維新ふるさと館」などもあり、年中見学客が絶えない。西郷隆盛については、その偉大な人物同様 話題が多すぎて私などが取り上げるには空を掴むようで難しいことが多い。それでも、気になる「西郷どん」! 折に触れて当ブログ上でも少しでも取り上げるようにしたい。
2018.01.12
コメント(17)
今、鹿児島は再来年のNHK大河ドラマに林真理子原作、中園ミホ脚本による「西郷どん」(せごどん)が決定したことで大いに盛り上がってきている。 昨日の一部ネットでその「西郷どん」の西郷隆盛役に俳優・鈴木亮平が内定したとの報道もある。 そういう中で、今朝友人のKくんから一通のメールが入った。記念切手発売 「だんだん盛り上がります」という書き出しで新聞記事が添付されていた。「薩長同盟150周年を記念した切手シートの発売が31日、鹿児島、山口両県の郵便局で始まった。(中略)2年後の明治維新150周年記念切手シリーズの特別版。3年前から維新企画に取組む山口県萩市からの打診を受け実現した。鹿児島側で1500枚売られる」というもの。 私はすぐ近くの郵便局に買いに行った。団地の小さな郵便局で果たして買えるかどうかと思いながら行ったが。幸い買うことができた。「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」「伊藤博文」「木戸孝充」「坂本竜馬」など@‘82円が10枚の記念シートで1300円也。
2016.11.01
コメント(10)
3週間ぶりの更新になってしまった。日頃、仙人みたいな生活(いやいや煩悩は多い?)をおくるおじいさんもたまには忙しい日も続くのだ。 日々の些事は殊更書く事もないが、10月7日(金)は県文化センター(宝山ホール)で「鹿児島県おかあさんコーラス第39回合唱祭」を聞きに(見に)行く。朝から夕方まで54団体の出場だったが、私は妻の所属する二団体とも午後の出演だったので、午後2時くらいから5時まで一聴衆となった。 翌10月8日(土)はたまたま二つの歴史講演会を聞く日になった。午前10時30分からは照国神社(島津斉彬を祀る)境内にある照国記念館で鹿児島市教育委員会文化財課藤井大祐氏による「薩摩藩主島津家墓所の魅力と意義」という演題での講演会。受付で講演内容の概要が記された5枚の資料をいただいて着席する。 鹿児島市池上町にある福昌寺跡の島津家墓地には私も歴史散歩を始めてから数回訪れてその度に新しい発見もあり、私にとっても行けども汲み尽くせない泉のような場所である。藤井氏によるとその福昌寺跡墓地の研究を平成23年度より始めて、その成果をこの日発表されるということで講演会は始まった。 この日の発表はスライドを駆使して大変わかりやすいものだった。1、薩摩藩主島津家の葬制度ー島津家墓所と福昌寺ー2、大名家墓所としての福昌寺3、墓所に存在する多様な石造物4、藩主墓標の成立5、藩主墓標と石燈籠ー「墓域」は何を表象するかー6、現状と課題 その中で一番驚いたのはここには864基の石造物があるということである。それを種類別に、あるいはサイズごとに分類したりしての説明で私も今後の石造物を見ることに大変参考になった。詳細は折に触れて今後取り上げていきたいと思う。 この日午後は、同級生のKくんと県民交流センターに向かった。先日当ブログにも書いた再来年のNHK大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)の原作「西郷どん!」の原作者・作家林真理子氏の講演を聞くためである。1時30分開始の講演会の会場は600人収容の満席である。 演題は「歴史小説を書く」執筆の動機は、人気者なのに、島流しにあった奄美大島時代のエピソードなどは、全国的に知られていない。男性作家は、談合や駆け引きを描くことが多いが、自分は人間を書きたいと思った。などと語り、西郷が島津斉彬に命をかけてもいいと思った斉彬その人を「江戸弁を話し、技術者、科学者、経営者、男前」などと言葉を尽くして賛辞をおくり、この人が生きていれば明治維新は起きなかったのではないかと語ったことが大変印象に残った。 その他では、これまで歴史小説を書く中で、手紙を読むことで、これまで分からなかったことも解明できることが多かったことなどの話があった。それらについて、エピソードを交えて面白おかしく語り、会場は笑いに包まれる時もあった。 この日の二つの講演は直接のつながりはないが、鹿児島に住んで、鹿児島の歴史に興味を持つ私には大変興味深く、これからも鹿児島の歴史を知ろうという意欲を掻き立ててくれるものであった。
2016.10.10
コメント(7)
今朝、鹿児島の南日本新聞を見て驚いた。写真にあるように平成30年(2018)のNHK大河ドラマの第57作が「西郷(せご)どん」に決定したというのだ。一週間くらい前にKくんからのメールにそれらしきことが書いてあったが、その時点では半信半疑だった。なぜならば、最近は島津義弘公を大河ドラマに取り上げて欲しいとの地元からのアピールが強力になされているのを知っていたからだ。 もちろん再来年の明治維新150年を期して西郷どんの売り込みもされていたであろうし、「西郷(せご)どん」に決まったと聞けばなるほどと納得もいく。地元の人間にとってどういう形で西郷どんの姿が描かれるのか大いに興味があるし、鹿児島を全国にアピールする機会でもあり、大変嬉しいことだ。今から、2年後が楽しみである。 尚、西郷隆盛が大河ドラマに取り上げられるのは平成2年(1990)の西田敏行 西郷役、鹿賀丈史大久保利通役の「翔ぶが如く」以来である。薩摩が舞台のドラマはこの他にも2008年の「篤姫」以来である。 西郷隆盛(1828~1877)・西郷どんは薩摩藩の下級藩士の極貧の家庭に育った。男からも女からも“日本史上最もモテた男”と言われ時の藩主・島津斉彬に見出されて出世していく。だがその生涯は波乱万丈で、2度の島流しにあい、3度の結婚をしたが、たぐいまれな勇気と実行力で幕府を倒し、明治維新を成し遂げる。しかし最後は自分の造った明治政府と戦い城山の露と消えてしまう。 その生涯を今回のドラマでは原作を女性作家・林真理子の「西郷どん!」、脚本を「花子とアン」の中園ミホが担当するとのこと。新聞によると「西郷の妻や家族らとの人間関係を描き、周囲から慕われた西郷の姿を浮き彫りにする」とあるので、これまでの西郷像とは違う角度からのものにもなりそうで、興味はつきない。これから決まるであろう配役も楽しみに待ちたい。
2016.09.09
コメント(14)
先日、久しぶりに鹿児島市城山町の「南洲翁終焉之地」を訪ねた。鹿児島の人間ならまず知らない人はないと思われる一つの聖地である。この近くに住む友人宅を訪問したのだが、その道筋にあるのでデジカメを持って行った。 道路の先の方が西郷隆盛が最後に篭った城山である。この道を下りて来て右の石段の場所が終焉の地になったのだ。 説明版には次のように記されている。 西郷隆盛終焉之地 「晋どん、もうここらでよか」 ー波乱の道、ここに尽きるー ズドン、ズドン! 2発の銃声が西郷隆盛の腰を大腿部を打ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか。」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10)9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。熊本城の攻防、田原坂の激戦に破れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのだけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷の銃声がやみ、西郷に死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」と語り、いつまでも黙祷したということです。「南洲翁終焉之地」表から見る。 真裏から見る。 次のように書かれている。 丁丑ノ役交戦幾月、薩軍日洲長井村ノ重囲ヲ破リ、連戦数回、鹿児島ニ帰リテ、城山ニ拠ル、時ニ九月一日ナリ、官軍従テ之ヲ囲ム数匝、是ヨリ復、激戦虚日ナシ、同二十四日未明官軍衆ヲ悉クシテ薄ル、翁既ニ決スル所アリ、諸士ヲ率ヒテ山ヲ下ル、弾丸雨下、半ハ途ニ殪ル、翁遂ニ岩崎口ノ砲塁ヲ要シテ自刃ス、年五十一、桐野利秋・村田新八・桂久武・池上貞固・別府景長・辺見十郎太・其他悉ク之ニ倣フ、今此碑ノ立所、是其終焉ノ地タリ、焉ソ、此旧跡ヲシテ湮滅セシムルニ忍ヒンヤ、是ニ於テ、有志相謀リ、石碑ヲ建テ、以テ永ク紀念ト為ス、 明治三十二年九月之ヲ建ル 西郷隆盛・文政10年12月7日(1828年1月23日)~明治10年9月24日(1877年) その生涯は波乱にとみ、全体像は一言では書ききれない。
2016.08.04
コメント(10)
日置市日吉日置の桂山寺を訪ねると、その100mくらい手前左側に「赤山靱負の墓」の案内板があった。恐らく広い意味での桂山寺の一角と思っていいのだろう。この案内板から左に数十メートル入るとそこに墓地はあった。 赤山靱負 [文政6年(1823)~嘉永3年(1850)]は日置島津家十二代久風公の次男で兄は家督を継いだ十三代久徴(ひさなが)公、弟は本藩の家老職を務めて明治維新に活躍した桂久武(歳貞)である。江戸末期、島津家の家督をめぐって嫡子 斉彬公を望む人たち(正義党)と側室 お由羅の方の久光を推す人たちが対立抗争した。これがお由羅騒動(嘉永朋党事件、高崎崩れ)である。この事件で正義党の中心人物の一人であった靱負は切腹を命ぜられ嘉永3年(1850)3月4日自決した。享年28歳という若さであった。彼の血染めの肩衣は遺言により親しかった西郷隆盛に譲られた。彼の志を継いだのが西郷隆盛である。(現地説明版などより) 赤山靱負の墓 他にも墓碑がある 中に島津家祖先の墓碑もある 日置島津家については、拙ブログ2015年10月23日、26日、29日の「大乗寺跡墓地を訪ねる」でいくらかの記述をしているが、島津四兄弟の一人である島津歳久(島津貴久の三男)に始まる島津家の分家である。
2016.02.01
コメント(13)
去る土曜日 9月26日 鹿児島市の宝山ホ-ル(鹿児島県文化センター)において、歴史作家・桐野作人氏の講演会が開催された。 タイトルは 「花燃ゆ」と薩長同盟 ~若き志士たちの情熱~ 折しも鹿児島では2018年(平成30年)の明治維新150年を迎えるに当たり2012年~2018年に向けて「明治維新150年カウントダウン事業」が進められており、主催者発表の聴衆は1200名とのことだ。鹿児島での明治維新への想いが強いことをうかがわせる聴衆の数である。そのうちの7、8割は中年以上の人々である。 講演内容は「犬猿の仲だった薩摩と長州がなかなか歩み寄れなかったのだが、その原因は何だったのか。またこの問題には多くの疑問点があり、論争になっているががどうなのか。例えば、その性格をめぐって薩長同盟、薩長連合、薩長盟約とかよばれるが、本当はどうなのか。締結した日はいつで、場所はどこなのか。坂本龍馬は本当に重要な働きをしたのか」などの疑問について考えさせるものだった。 賢明な皆さんは、多くのことを知っておられると思うので、その講演内容について詳細は書く必要はないと思うが、薩長同盟の成立に仲介役として大きな役割を果たした坂本龍馬・中岡慎太郎らは、雄藩で実行力のある薩長が手を結ぶことが、幕府に代わる新しい政治体制を確立するために不可欠と考えたことが話された。そして、幕府を相手にお互いの思惑が一致し、小松帯刀や西郷隆盛・大久保利通ら薩摩藩士と長州藩の木戸孝充らが結んだ薩長同盟を主軸にその後の明治維新に大きな影響を与えたとのことが話された。 薩長同盟の成立が慶応2年1月21日説が有力であること、また場所は従来二本松の薩摩藩邸とされてきたが、小松帯刀邸「御花畑」が有力であることなど、具体的な史料・文献に基づいて解説がなされた。印象に残ったのは、あのNHKの大河ドラマ「篤姫」で大きく取り上げられた小松帯刀のことである。当時薩摩藩在京のトップだった小松帯刀が大きな働きをしたことを評価すべきではないか、若くして亡くなった小松帯刀が明治政府でも健在であれば、その後の日本に大きな影響を与える人物になっていたのではないかなど、興味ある講演であった。
2015.09.28
コメント(6)
黎明館(鹿児島鶴丸城跡)と道路をはさんで北側に国立病院機構鹿児島医療センターがある。そこが私学校跡である。国道10号線沿いの石塀は道路拡張で後退したが、原形に復元されている。 旧門の横に「私学校跡」の石碑がある。(上の写真) 明治6年(1873)、征韓論・遣韓大使派の政治家・軍人・官僚600余が次々に官職を辞任した明治六年の政変で西郷隆盛が下野して鹿児島に帰ると、西郷を慕って同調した青年子弟があふれていた。 西郷は彼らを教育するために、県令大山綱良の協力を得て、ここに明治7年(1874)6月私学校を設立した。「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の3校だったが、幼年学校は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されたことから「賞典学校」とも呼ばれる。西郷が二千石、大山が八百石、桐野利秋が二百石を拠出し、参議大久保利通も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。また県内各郷に130校くらいの分校が設置された。 教務は主に漢文の素読と軍事教練にあったが、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐことにあったとされる。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られていたという。 ここからは私見だが、言うなれば、明治維新によって日本一多かったとされる鹿児島士族に現代風に言えば大失業時代が到来したわけで、士族の不満は頂点に達したものと思われる。そいう中で、帰郷した西郷は明治政府から警戒もされ、ある意味では鹿児島士族の暴発を防ぐ意味で安全弁とも見られていたのだろう。 そいう中で日本各地では士族の反乱、農民一揆などが頻発し、不穏な空気が渦巻いていた。しかし、鹿児島では私学校幹部の努力もあり、平静を保っていた。 それでも、そのような鹿児島士族の動きは政府にとってはむしろ無気味な存在であり、警戒感を強めて様々な圧力と兆発を繰り返し、20数名の密偵を送り込んだ。その中で私学校士族らが捕らえた政府密偵から「西郷刺殺」の情報を知ることになる。そして政府軍が夜間に弾薬輸送を行うことを知り、弾薬庫を襲う。これら跳ね上がり士族の行動で私学校幹部の努力は水泡に帰した。 明治10年2月5日私学校幹部は会議を開き、西郷が上京して政府に問い質すためにどのような方法をとるかなどを協議したが、軍を興して決起すべしという意見と、慎重論に分かれた。平時なら慎重論を唱えたはずの士族たちもこの西郷刺殺の情報には冷静さを失っていた。出兵論に慎重反対の桐野利秋、篠原国幹らさえ我慢の限界に達しており、支持多数で出兵論でまとまった。最後に西郷の「同意」得て,ことは決したのである。 西郷出陣の直前に西郷と会ったという日記をもとにした記事がある。著作のことなので、直接旧い文献を見たものではないことをお断りしておく。それは、萩原延壽著 「遠い崖ーアーネスト・サトウの日記抄 13」西南戦争(朝日文庫)からの引用である。アーネスト・サトウはイギリスの外交官であり、鹿児島で医師をしていた旧友ウイリアム・ウイリスのもとを訪れて正に西南戦争前夜の鹿児島・西郷の出陣までの経過を見届けた人物である。 明治10年(1877)2月2日、サトウは鹿児島に到着し、旧友ウイリスの家で旅装をといたが、当時ウイリスは宮崎へ出張中であり、そのウイリスが鹿児島に戻るまでは、政情視察というパークスの訓令はひとまず脇に置くというのが、このときのサトウの思惑ではなかったかと想像される。すでに1月29日から2月2日にかけての私学校徒による火薬庫襲撃事件によって、動乱は動き始めていたのであるが、2月5日に県令大山綱良を訪問したサトウは、大山の「まったく冷静で、落ち着きはらった様子」におどろかされた。(中略)しかし、2月8日、ウイリスが宮崎から戻り、ウイリス家の夕食に加わった若い医師三田村敏行(三田村一の弟)からくわしい説明を聞かされるに及んで、サトウにも動乱の深刻さが納得できた。何よりもまず、これに西郷隆盛が加担していることである。西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で、大山県令に送った届書は、上京の理由として「今般政府へ尋問の筋これあり」と述べ、つづけてこれには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書き添えていた。さらに若い三田村は、東京から送り込まれ、やがて鹿児島で逮捕された警視庁警部中原尚雄らの自白にもとずく、西郷暗殺計画の陰謀を暴露した。(中略)「2月10日、聞くところによると、西郷と大山を暗殺すべく当地に下った者たちは、江戸の大警視川路某(利良)の内命を受けていたという」「川路の共謀者は内務卿の大久保で、大久保は昔は米倉庫の小役人だったそうである」「暗殺の陰謀に加わった者たちは、一名の江戸の『さむらい』を除くと、すべて薩摩の出身者だという」(中略)ところが、翌11日、その西郷が突然ウイリスの家に姿を見せた。「2月11日、西郷がウイリスに会いに来た。ウイリスは用事で西郷を訪ねるつもりだったし、わたしも西郷を訪問したいと思っていたところであった」(中略)旧知のサトウが鹿児島に滞在していることも、西郷の耳に届いていたであろう。ウイリスが訪ねてくるとすれば、サトウもこれに同行してくると西郷は予想したであろうし、じじつサトウもそのつもりでいたであろう。(中略)しかし、このときの西郷の来訪ぶりは異様であった。その模様をサトウはつぎのようにつたえている。「西郷には約20名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの4,5名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家に中へ入ると主張してゆずらず、さらに2階へ上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った。結局、1名が階段の下で腰をおろし、2名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう1名が2階のウイリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた」ここに描かれている西郷の姿は、あたかも「虜囚」のそれに似ている。中原尚雄らの自白にもとづく暗殺計画が発覚していたとはいえ、この警戒ぶりは尋常ではない。護衛たちが「監視」していたのは、暗殺の危険ではなく、西郷の発言の内容ではなかったか。最初、護衛たちがウイリスの家に入るのを西郷が制止したことからみても、西郷は旧知のサトウやウイリスに何かを語りたかったのかもしれない。(引用終り) この辺りの西郷の心境は如何なものだったのだろう。安政の大獄で一緒に錦江湾に飛び込んで水死した僧・月照とのこともあり、自分だけが生き残ったという気持ちが、その後の人生においてずっと負い目となり、こういう場面でも人に命を預ける、という気持ちを持っていたのではないか。 これをきっかけに大軍を率いて熊本まで上り、そこからは、官軍の猛烈な攻撃に撤退を余儀なくされ、最後は城山で切腹という結末を迎える日本で最後の内戦と言われる西南戦争である。 その城山の麓の上記鹿児島医療センターの石塀にその時の弾丸の跡が今も無数に残っている。 その他の参考文献「鹿児島県の歴史散歩」(編者 鹿児島県高等学校歴史部会) ウィキぺディア「私学校」「西郷隆盛」
2014.07.25
コメント(4)
鹿児島市の草牟田に座禅石公園はある。護国神社前まで行くと行先案内板があるので右折して坂道を登って行くと誓光寺墓地がある。その墓地の前に公園はある。以前は背後の丸山公園にあったが、平成15年(2003)前面に座禅公園として整備されたという。 「南洲・甲東両先生座禅石」の碑がある。南洲は西郷隆盛、甲東は大久保利通のそれぞれの雅号である。 もう一つの碑は東郷平八郎の書で「南洲・甲東参禅之處・・。」とある。 ここの案内板の言葉を要約すると次のように書いてある。 西郷・大久保座禅石 「志を鍛えた石」 -西郷・大久保ら精忠組の青春ー 西郷隆盛や大久保利通の青春時代をじっと見守っていた人物がいた。草牟田誓光寺(そうむたせいこうじ)の住職円了無参和尚(えんりょうむさんおしょう)といい、城下 南林寺や島津家菩提寺福昌寺の住職を務めた名僧である。当時、薩摩藩は次の藩主をめぐって斉彬を押す一派と久光派が対立し、ついに久光の実母であるお由羅の暗殺計画へと発展した。 首謀者の一人赤山靭負は、切腹。大久保利通の父は喜界島へ流罪となった。下級役人の仕事を黙々とこなし、仲間と「近思録」(朱子学の書物)を読み、誓光寺で座禅を組んでいた二人に最初の試練が訪れた。座禅によって、自分を見つめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなった。 無参和尚の教えを受けた若き志士たちは、有志組を結成、後に精忠組と呼ばれ、薩摩藩の中核として明治維新を成し遂げた。 今、こうして日本を思う当時の志士たちが座禅を組んだという石の前に立つと、これからの日本がどのようになっていくのだろうと一人思うことだった。
2014.06.17
コメント(12)
先日鹿児島市の西部の大峯流通団地近くにある地区公民館を訪ねる機会があった。用事を済ませた後、時間があったのでかねて気になっていた「西郷南洲野屋敷跡」を訪ねた。流通団地の中を抜けて行くと市が設置した行先案内板があり、それに従って進むと鹿児島実業高校の門前から小さな道を通って現地に到着した。 西郷隆盛(吉兵衛、吉之助とも言った)が困窮する家計を助けるため、青年時代から里芋や薩摩芋を植えていた場所であり、ここに農機具を置き寝泊りもしていた。明治6年(1873)遣韓使節派遣がかなえられず帰郷した西郷は、武村の屋敷に住んでいたが面会人を避けるため、野屋敷をよく利用した。はじめは小さな家だったが、後には六畳、三畳、囲炉裏部屋、奥の間二畳の大きな家になったという。西南戦争中は妻の糸(糸)など家族が避難したという。 その西郷隆盛は鹿児島市加治屋町で生まれた。現在近くには維新ふるさと館が建てられ公園化されているが、「西郷隆盛君誕生之地碑」が建っている。これは明治22年2月22日に大赦によって西郷に正三位が追贈されるのを待ってその翌日に建てられたという。 右の小さな記念碑は弟・西郷従道の誕生地碑である。しかし、この西郷家の屋敷は安政2年(1855)に売却され、一家は上之園の借家に移った。 現在その一帯は共研公園となり、市民の憩いの場となっている。この日もグラウンドゴルフに興じたり、木陰で休む人など多くの人で賑わっていた。 西郷隆盛が明治2年(1869)三崎平太左衛門から譲り受け上之園の借家から引越し明治6年(1873)下野して帰鹿し、西南戦争まで過ごしたのが現在西郷公園として残されている武の西郷屋敷跡である。 西郷南洲翁野屋敷跡を訪ねてことから西郷の鹿児島での住まいを振り返ってみたが、上之園居住時代には2回わたり奄美大島に流されるなど苦難の時を過ごしている。その他明治維新につながる京都や東京での住まいなど調べることは多い。(これらは「鹿児島県の歴史散歩」鹿児島県高等学校歴史部会編 山川出版社 、鹿児島市ホームページ等を参考にした)
2014.06.14
コメント(2)
1月にもかかわらず春のような陽気に誘われて、鹿児島市内の郊外にある仙巌園(島津家別邸)の先にある「花倉御仮屋跡」を訪ねようと思って出かけた。ここは鹿児島藩における倒幕の軍用金(贋金)造りがなされたと言われた場所でもある。所が諸般の事情でここには立ち入ることが出来ず、この日は諦めざるを得なかった。 そこでいつも車で前を通るだけで立ち寄る機会のなかった「西郷隆盛蘇生の家」に行ってみようと思い1km位先のそこを目指した。 西郷隆盛が、僧月照と共に入水した事件はNHKの大河ドラマ「飛ぶが如く」でも取り上げられた史実であり、鹿児島では誰一人知らない人はない事実である。 1858(安政5)年11月16日の明け方近く、錦江湾の三船沖に西郷と月照は抱き合って身を投じた。井伊直弼による志士への弾圧、いわゆる「安政の大獄」である。尊王攘夷の月照は幕府に罪人として追われる身となり、薩摩へ逃亡した。しかし地元薩摩も島津斉彬亡き後は藩内にかくまえる状態ではなく、藩は西郷に月照を日向に送るように命じた。当時薩摩では日向へ送る者を「永送り」と言って国境で斬り捨てる習わしだった。それを十分承知した上での覚悟の入水だった。結局、月照は不帰の客となり、西郷はこの蘇生の家で息を吹き返した。 私は、この西郷だけが生き残ったことが、その後の生き方に良くも悪くも大きな影響を与えたように思われてならない。そのことについては、また折に触れて書きたいと思う。 「西郷隆盛蘇生の家」の案内板 上の字は「土中の死骨」である。 次の写真は鹿児島市の中心地にある「南洲寺」とその境内にある僧月照の墓である。その案内板には「尊皇倒幕運動に殉じた宗教人」とある。
2014.02.01
コメント(14)
本棚から引っ張り出して10年ぶりくらいに再読した。それは最近「歴史散歩」を始めたことと無関係ではない。史跡をめぐったり、本で調べたりすると、中世以降の鹿児島の歴史はほとんどが「薩摩藩」「島津家」を抜きにしてはありえないし、更に明治維新においては「西郷隆盛」を抜きには語れないのが事実である。 そんな中で本棚をのぞいているとこの「西郷と大久保」が目についた。あまり問題意識を持たずに読んだ前回であったので、ほとんど詳細については忘れている。そこでもう一回読んでみようという気になったのだ。 550ページにわたるこの本を改めて読んで感じたこと。それは同じ明治維新の功労者である二人「西郷隆盛」と「大久保利通」の性格の違いである。ただ、二人に薩摩人として共通するものがあったからこそ、この明治維新を成し遂げたのも事実である。 ところでこの二人に共通するものと、違うものは何だったのか。当時の薩摩藩主・島津斉彬に見出された西郷は表舞台に立つが、大久保はお家騒動がもとで、父は流罪になっており、いわば田舎にくすぶっていた。しかし、斉彬の死後、藩政府の方針が一転し、「安政の大獄」のあおりを受けた西郷と月照が心中をはかる。生き残った西郷は幕府から身を隠すために奄美に隠棲させられる。 それまでの間に西郷・大久保を中心の作っていた薩摩の急進的な下級武士の集団「精忠組」を実質的に預かる形になったのが大久保である。それからの大久保は深謀遠慮、大きな戦略を持って権力に近づく。それは大久保が父親の流罪により苦しい生活に追い込まれたことなどで、権力の怖さや強さを知ったからに他ならないと思われる。それから先は大久保の面目躍如である。先ず藩主忠義の父で当時の一番の権力者である久光に近づくために、久光の碁の相手である吉祥院の住職・真海に弟子入りする。そこから久光に通ずる道を考えてのことだ。そのあと、江戸で国学者・平田篤胤「古史伝」37巻が刊行され、真海の弟から薩摩に送ってくる。それを皆で読んだあと、国学好きの久光の目に入るようにし、久光に貸し出して読ませるようになる。そこでも大久保は一計を案じ、その本に外交問題、将軍継嗣問題等、当時の問題を系図的な説明文をつけて、それを本に貼り付けて久光への提言にした。 このように知略をめぐらした大久保は狙い通り久光の知遇を得ることになる。「元来薩摩人は忍耐が苦手だ。大志あるものは場合によっては隠忍して時機をを待たねばならんものとは理解としては十分知っているが、実際はまるで出来ない。・・・・・チェスト!として立ち上がり・・・・・」と鹿児島生まれの海音寺潮五郎が言っている。大久保は薩摩っぽとしては、隠忍して時機を待てる珍しい いや貴重な存在だった。それに対して、西郷はすぐ厭世的になり、隠遁したがったり、命を粗末にしたがったりするが、これはまたこれで否定的にだけには受け止められない。それだけ、その時々に命を懸け自分のことは二の次だったのではと思われる。 大久保が「精忠組」の頭になってから、倒幕の気運が盛り上がり、水戸藩、土佐藩、長州藩などが薩摩の蜂起を待つが、大久保は逸る「精忠組」をだましてたり、あるときは仲間を見殺しにしたり、また西郷の文書を利用したりして、その勢いを削ぐ。それは久光との関係や新しい日本を作るためなのだが、なかなか出来ることではない。そしてついに、そのような勢力を抑えるため、西郷嫌いの久光を説き伏せて奄美大島から呼び戻す。 しかし事は皮肉な方向に発展していく。天下の情勢は公武合体論は下火になり、天下を朝廷に取り戻そうとの気運が出てきて、それまで兵を率いての上洛にあれほど反対していた久光が、上洛の動きをみせはじめてきた。ところが今度は西郷が斉彬の天下への影響と久光との比較で猛反対である。一方、久光は久光で西郷を面白く思っていない。ある機会をとらえた久光は、西郷を今度は流罪にし再び奄美大島に送る。 その後、薩摩藩では寺田屋事件などが起こってしまい、天下に薩摩藩への失望をかう状況に至る。その状況を打破して天下の信を取り戻すには西郷の力が必要だとの声が精忠組から起こり藩主忠義の許しをえて西郷の帰還がなる。 「以後、満4年数ヶ月、江戸開城、会津開城があって、北海道をのぞく全日本が朝廷に帰するまでの間は、西郷の最もはなやかな時期であり、彼の人物、彼の手腕が最も光彩を放った時期である」 維新戦争が一応片付くと、西郷はさっさと国に帰ってしまうが、再び中央政府に引っ張り出される。その新政府には問題が山積していた。西郷など征韓論者とそれに反対する岩倉具視を中心とする議論は、相当なものであったが、これに敗れた西郷は大久保を中央に残し去ってしまう。ここまでにはまだまだ色々なことがあるのだが、次の機会に譲ることにする。 そして、西南戦争へとつながっていくのである。 人物論も中途半端なものになってしまったが、これもいずれかの機会にまた書いてみたいと思う。
2011.11.11
コメント(10)
全51件 (51件中 1-50件目)