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今年も咲いた鹿の子百合。起きて雑草園に目をやると、いつ咲いたのか鹿の子百合がたくさん咲いている。いつもの年より多い気がする。まだまだ蕾もたくさんある。デジカメを持って雑草園に降りる。 一匹の黒い蝶々が舞っている。何かの使いなのか。私が近づくと舞っては別の花に取り付く。私もしばらくその動きを追った。 他に花は咲いていないかと、周囲を動き回る。紫陽花も2輪健気に咲いている。まだ梅雨明け宣言もないから別におかしくもないのかと一人で呟く。 そう言えば、あれから6ヶ月が過ぎたが、独り言が多くなったなあ。別に怪しいことではないと自分では思う。仏壇に向かっての独り言だから・・・。他にもいろいろあるが、まあそこはこの辺りで。 当然のことながら生活は一変した。妻と二男との3人暮らしが何の前触れもなく、いきなり二男との2人暮らしになったのだから。家庭生活の中心にいた人がいなくなったそのショックは未だに尾をひくどころの騒ぎではない。気分を切り替えるために6ヶ月の間に大小3回の旅をした。だいぶ癒やしになったと思う。一人旅、長男とのついで旅、仲間との旅。どれも楽しいものだった。テレビを見ることも殆どなくなった。BSプレミアムで毎朝見ていた2篇の朝ドラもあれから見ていない。日中も夜も見なくてもテレビを点けていた私がほぼ一日テレビを見なくなった。その代わりパソコンの前に座る時間は多くなったかなあ。パソコンに向かう時間が多くなったのに、ついついブログは遅延しているこの現実はどうか。気をつけなければいけないのはわかっているが、気持ちが進まない。でもあまり考えないようにしよう。なるようになるさ。 夜も以前より1時間早く眠りに就くようになった。9時30分には眠る体制に入り、途中2,3回は目覚める。これは年齢からして致し方のないことと割り切る。朝は、夏ということもあり、5時位には目覚めるが、6時まではジッとベッドで我慢して身体を動かしたり、ラジオを聞いたりして6時きっかりに起き出す。年寄なりの身繕いや、朝パンの用意などして新聞片手に済ませる。食事も済んだ6時50分頃になると二男の部屋の扉が開く音がして、階段をトントンと降りてくる。私よりも少ない食事をとって7時20分には車で出かけていく。水曜日と土曜日は8時に私もグラウンドゴルに出かける。ついでに言えば、日曜日の午後2時からおじさん合唱団の練習がある。一週間のうちにこの3日間が私の軽い縛られた日である。その他は全くの自由の身だが、そう言っても日常の瑣事に追われる毎日だ。これも生きている限りは仕方のないことだ。あ、そうそう毎日の食器洗いとほぼ一日おきの洗濯と曜日ごとの異なるゴミ出しが私の仕事である。食器洗いは、この20年位は毎日、洗濯物の取り込みも、ゴミ出しの仕事もそうだったので普通の流れの中で今もやることができる。妻がいるときからこういうことだけでもやっていたので違和感はない。 辞書を見ていたら「男やもめに・・・。」に対して「女やもめに花が咲く。」ということわざがあるそうだ。意味は深いがなるほどと納得のいく言葉ではある。(笑)
2023.07.13
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謄写版関係一式 今朝、地元新聞の「南風録」を読んでいると「誰しも来し方を振り返れば、多くの人に影響を受けてきたことだろう。学校の恩師や部活動の仲間、職場の上司や同僚、取引先の担当者、隣近所の人々・・・」それを読んだ私は自分にとって一番長くお付き合いがあり、縁も深かった恩師のことを思い出してしばし感慨に耽ることだった。 私は小学校3年生の途中に疎開先から鹿児島市に引き揚げてきてT小学校に転校する。3年生のときはK先生が担任だった。このK先生のエピソーはこの歳になってもここではちょっと書けない。4年生になって担任として受け持っていただいたのが、今日の主人公・Y先生である。Y先生は当時30歳代の後半くらいの年齢ではなかったかと思う。メガネをかけた元気な先生だった。当時は戦後の混乱期で教室も足りず、私たちの教室は2階にある渡り廊下だった。当然のことながら教室は長細く珍奇な形だった。そこで受けた授業で忘れられないのはある日の理科の実験授業のことだ。その日は「対流」とはどういうものかという実験でY先生がフラスコにカンナ屑を入れて、アルコールランプに点火された。私たちはその渡り廊下の細長い教室で自分の席に爪立ちした形で実験を見守っていた。フラスコの水が徐々に熱せられカンナ屑が上へ下へと動き始める。Y先生がぐっと顔を近づけて「ほらほらあ温められた水がお湯になって上に上り始めたよ。よく見てよく見てこれが対流だよ」と言われた途端、「パン!」という音とともに何事かが起こった。よく見るとフラスコがなくなっている。フラスコにヒビでも入っていたのか割れて飛び散ってしまったのだった。先生はといえば、後ろにあった黒板の顔をくっつけておられる。反射的に自分の身を守るために取られた行動だったのだろう。その時、先生のメガネがどうなっていたのか、生徒と先生に火傷など怪我はなかったのかもう覚えていないが、そのあと大騒ぎになった覚えもないので大したことはなかったのだろうと今頃になって思う。 さてそのY先生が当時学校での印刷物を刷るのに無くてはならなかった謄写版(以下ガリ版という)での印刷を何故かいつも私に依頼されたことだ。若い人はガリ版印刷て何? といわれると思うのでここで簡単に説明すると、ヤスリの広い板状の上に置いた蝋原紙に鉄筆で文字や絵を書いて版を作り印刷するものである。鉄筆を使って書くとガリガリ音がするのでガリ版といったという。(上のネットから借用の写真に一式が写っている) Y先生は文字もきれいに書かれる方で、必要な文章などのガリ切(文字書き)が終わると休み時間や昼休み、時には放課後に私を呼んで「これを○○枚印刷してきてくれないか」と頼まれる。出来上がった原紙を持って職員室の隅っこにある謄写版でガリ版印刷をする私を見た通りがかりの小使いさんが「いっも、あんたい印刷を頼んみやっただい先生か」(いつもあなたに印刷を頼まれるのはどの先生か)と言われるほどほどだった。別に級長とかでもない私に何故いつも頼まれるのかわからなかった。そして、5年生に進級すると担任はメガネの度数が牛乳瓶の底くらいあるT先生だった。 それから1年、6年生になった。なんと担任はまたY先生である。また、当然のようにガリ版印刷の日々が到来した。もうその頃には、印刷も名人級になっていた? 。放課後など遅くまで印刷して教室に上がっていくとY先生が「からいも飴」(さつまいもの粉でつくる)をたくさん用意されていて「食べなさい」と差し出してくださることが何回もあった。そしていよいよ卒業のときがきた。今の子どもたちは、そういうことをお願いしているか知らないが、私たちは一冊のノートを持ってお世話になった先生方に、「卒業おめでとうの一言」を書いてもらっていた。Y 先生の私への言葉「温厚篤実とは君のことか・・・」語彙の少なかった私にもその大意はわかった。先生からそう思っていただいていたのか。先生からそう思われていたということは、よほど「外ヅラ」が」よかったのだろう。 しかし、Y先生とのご縁はこれではまだ終わらなかった。私はT小学校卒業後、T中学校に入学する。しかし、疎開先から帰ってきて借りた家が私たち兄弟の成長に伴って手狭になり中学2年のときにS町に引っ越すことなる。引っ越してみるとなんとお隣の住人がY先生一家ではないか。驚くのなんの! しかもY先生は「歴史の先生」となってS中学校に私より一足早く転勤されていたのだった。そして3年生からS中学校生となった私は「歴史」の先生はY先生だった。私は意識していなかったが、歴史好きになった一因は、その辺りにもあったのかもしれない。人の出会いはまことに不思議なものである。からいも飴
2022.03.29
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「鹿児島市電 上町線の思い出」は2012年6月に書いたものだ。当時はワードで書いたエッセイなどフロッピーデイスクに保存していたが、世の中がUSBカードなどに移っていく中で、フロッピーは新しいパソコンでは使えなくなっていった。それでも必要に迫られて「外付け」のフロッピーディスク・ドライブを買って使っていたが、それも故障しお手上げの状態になった。そのため、印刷していないエッセイは今は見ることができない。このエッセイはブロ友だった今は亡き「やまももさん」からの依頼があって「やまももの部屋」の「月下推敲」に投稿したもので、そこにしか残っていなかった。今回そこから逆に戻す形でここに再現した。これを書いてから既に10年近く経っているので、ここに書いた街の様子などは様変わりしているところもあるがあえてそのまま書いた。また、新設の電車路線の計画も10年経った現在も暗中模索のようである。 (下の写真は廃線となった「鹿児島市電 上町線 岩崎谷の高架線上を桜島をバックに市電」) しゅうさん撮影1985,9,29 鹿児島市電 上町線の思い出 最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。 1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後、近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていなとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。 こうした記事を見て思い出すのが子供の頃から馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく新設を検討される路線もあるということだ。そこに自分の年齢と時代の流れを感じる。 1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成によって、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったということか。つまり、1964年の東京オリンピックを境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することはできなかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。 私の市電の思い出は清水町電停から大学通り(のちの工学部前)電停に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。1953(昭和28)年、武中学校2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学年から清水中学校に転校することにして約半年間、上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通りまで通学することになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことができたのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたのだった。 高校は私達の学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩で行けるG高校に進学した。その3年間は市電を利用することは少なかったが、、天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を見るために学校を早退して市電に乗って見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演だったと思うが、現在の表現からすると他愛のないものだが、ちょっとドキドキづる場面もあり、懐かしい思い出になっている。 1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~竪馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から5分もかからない近くまで電車がくるようになったのだが、その恩恵を私が受けたのはわずか1年間だった。 この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅方向に直進せず、現在の医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院前電停を過ぎて坂を上り鶴丸城跡と薩摩義士碑を左に見ながら進み軌道専用道路に向かって大きく右折して少し進んだ高架線上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの狭くて長い階段を上り下りしていた。私は、この電停を利用したことは一回もなかったが、電車の上から見ても怖い感じの階段だった。ただここから見える市街地や錦江湾(鹿児島湾)の向こうに見える桜島は市電随一のビュースポットだった。 二つ目も岩崎谷に連なることであるが、逆の方から、つまり清水町を出発した電車が長田町を通り岩崎谷電停を過ぎると、左に曲がって坂を下るのだが、下る前に運転士が運転席の右側にある真鍮製のハンドブレーキをキリキリと音を立てて一旦停止をした後、おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、50年前のことにもかかわらず鮮明に覚えている。 上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。このところの史跡探訪で上町方面を数回歩き回ったりしたが、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺のことをよく知っていたので、その変容ぶりには驚く他なかった。友人たちの家もほとんど無くなっていた。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて心が和む。 大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら授業料は年間9000円でこれを前期、後期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると現在の価値では安い授業料だが、当時は我が家にとっては大きな金額でこれを納めるために母が苦労していただろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外のお金はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。中でも家庭教師はいいアルバイトで通算では小学一年生から高校受験の中学三年生まで10人以上の子供さんたちに教えるなどした。もちろん家庭教師の行き帰りにも市電の定期券は使ったが、学校に通う途中に鹿児島一の繁華街・天文館があったので、途中下車するなどフル活用した。 こうして市電は当時の私に欠くことのできない乗物だったが、鹿児島に帰って30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することは皆無に等しかった。ところが70歳になり「敬老パス」(料金は1/3)を支給され、この3年間、バスを利用することが多くなってきた。オジさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、その他の用事にも使用することが多くなった。市電にもたまにだが乗ることもある。 ただ、今回の市電新設ルート案5つをみても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望は、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながら、あの坂を上ったり下ったり、岩崎谷電停の高架線上から桜島を眺めてみたい。 (以上 2012年6月記) 補足 国立大学法人の授業料を国立大学当時の私達の時代と比べてみた。 昭和37年(1962)卒業当時 フランク永井歌う「13800円」が昭和32年にレコード化されている。 当時の年間授業料は9000円とすると初任給平均13800円の0,65倍。一方現在は大卒初任給平均 213000円。 年間授業料 535800円 2,5倍私達当時の入学金は忘れたが、現在は 282000円も払わなくてはいけないそうだ。 これをみても国立大学でも最近は裕福な家庭でないと行かせることはできないというが、そのとおりだと思う。国の施策が望まれる。
2021.12.26
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たまに見るテレビ番組に「武田鉄矢の 昭和は輝いていた」がある。先日は「魅惑の低音 フランク永井の世界」だった。私は録画をしてゆっくり見ようと思い、予約を入れた。それは若い頃だっという記憶しかないが、フランク永井が唄って大流行した「有楽町で逢いましょう」がまだ見ぬ東京への想いを掻き立てたという思い出があったからだ。因みに私が東京に「お上りさん」として初めて行ったのはそれから12年後の齢30歳の時である。しかし、その上京のきっかけとなった転職した会社が東京に本社があったので、約40年間に100回を越えて東京に行くことになった。 話は戻り、フランク永井を知ったのは、彼が歌謡曲でメジャーになる以前の昭和30年前後のことだと思うが、鹿児島の鴨池で博覧会が開催された時、特設舞台で彼が歌うのを聞いた時だった。その時はカウボーイハットを被り、全てカーボーイスタイルだったような記憶がある。何曲か歌ったのだろうが、印象に残ったのが低音で歌った「シックスティーン トン」である。この歌はその後「小坂一也とワゴン・マスターズ」や「ジュークエイセス」などが歌って誰でも知る歌になってきたが、フランク永井の歌を聞いたときは、その低音に驚くと同時に凄い歌手だと思った。 フランク永井との出会いはそういうことから始まったが、それから間もなく「有楽町で逢いましょう」という都会の匂いを漂わせた曲がラジオで流れ出してそれが大流行した。今回の放送によると昭和32年11月発売だったいう。私が高校3年生の時である。それを歌っていたのがフランク永井である。私が高校を卒業したのが昭和33年、その年には同級生の友人たちが数十人単位で東京の大学に入学のために上京した。彼らも東京のあちらこちらでこの歌を聞いたことだろう。そして歌の雰囲気と街の様子がマッチしていたのか未だに聞いたことはない。私は家庭環境からして夢にも東京の大学に行くことなどは考えもしなかったし、そういう意味での憧れもなかった。そして地元の大学に幸いにも入学するできた。それでも当時流行したこの歌は私に夢の大都会の雰囲気を感じさせる何かがあったのだろう。よく歌ったものだった。 番組では、この「有楽町で逢いましょう」は日本の高度経済成長期、発展する東京の情景を歌ったもので、フランク永井はまさにその申し子といわれたという。また昭和33年2月号の雑誌「明星」が「嵐を呼ぶ3人の男たち」魅力座談会なるもので①石原裕次郎、②長嶋茂雄、③フランク永井、の座談会を企画して、娯楽の3色旗として、映画、野球、歌謡曲を話題にしたという。私の若い時代は確かにそういう時代だった。 フランク永井は昭和7年3月18日生まれ。私より8歳年上だった。昭和26年、19歳で上京「素人ジャズのど自慢」で優勝したのをキッカケに進駐軍クラブの専属歌手になる。フランク・シナトラになぞらえて「フランク」と呼ばれたという。その後、日本ビクターに所属しジャズ歌手として「恋人よ我に帰れ」でデビューした。 そこに表れたのがその後、フランク永井の導き手となった作曲家・吉田正である。吉田正は昭和18年、戦地においてあの誰でも知っている「異国の丘」作曲した。その吉田がフランクと出会う。そこでジャズと歌謡曲の融合が起こったのだ。いわゆる「都会派歌謡の誕生」である。番組では「和洋魂才」といっていた。それがキッカケで吉田正作曲「有楽町で逢いましょう」が生まれる。その後も同じコンビでの「東京午前3時」「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「西銀座駅前」などなど連発する。 この番組では「有楽町で逢いましょう」の誕生秘話も披露されていた。それによると、大阪の「そごう」東京店の開店のキャッチフレーズが「有楽町で逢いましょう」だったというのだ。32年4月テレビで「有楽町で逢いましょう」を放送開始。5月「有楽町そごう」(当時そごう東京店)開店。11月「有楽町で逢いましょう」歌謡曲発売。昭和33年1月15日連載小説「有楽町で逢いましょう」連載開始。33年1月映画「有楽町で逢いましょう」封切り。出演は川口浩、野添ひとみ、京マチ子などだった。 その後、ジュエットの定番曲「東京ナイト・クラブ」を松尾和子と歌って大ヒット。大人の世界のあやしさを教えてくれた最初の曲だったと番組で言っていた。 昭和36年には昭和3年の名曲「君恋し」をリバイバル曲として発売し、現代風なアレンジもあって、これも大ヒットし、遂に「レコード大賞」を獲得する。なお、NHK紅白歌合戦には26年連続出場した。 フランク永井を語る場合にもう一つ忘れてはならないことがある。それは、熟年夫婦のラブソングと言われる「おまえに」である。この曲は昭和41年にB面の曲として岩谷時子が吉田正夫妻をモデルに作詞したものである。フランクはこの曲を昭和41年34歳の時を始めとし、47年40歳、52年45歳で年代を重ねながら録音・発売した。そしてこれも大ヒットする。「人間の愛を歌えるような歌い手としての変化を見てみたい」という吉田正の願いがあったというが、フランクがそれに応える形での大ヒッになったという。 唯一惜しまれるのは、昭和60年10月21日(53歳)自殺を図ったことだ。未遂に終わったが、会話が不自由になり、記憶も乏しくなるなどして復帰は叶わなかった。原因は様々言われているが、遺書もなく不明のままだという。そして平成20年10月27日、76歳で自宅で肺炎により死亡。惜しい人を失ったと思うことしきりである。 写真はテレビ番組「昭和は輝いていた」より転写した。参考資料 テレビ番組 「昭和は輝いていた」魅惑の低音 フランク永井の世界。 Wikipedia フランク永井
2021.10.24
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( 写真はいずれも2018年10月撮影)先日の昼間のことだ。スマホをとった妻が驚いて、そのあと懐かしそうに話をしている。誰かと思っていると、妻が私にスマホを手渡した。 電話に出て驚いた。なんと相手は10数年ぶりのF子ちゃんである。実は、彼女、私が長崎に勤務していた時に新入社員として18歳で入社してきたのだ。思わず幾つになった、と聞くと64歳になりましたという。そこから自分の年齢と差引してみると、当時私は35歳だったことになる。 F子ちゃんの実家は福岡県のO市にあったが、当時彼女のお父さんがO市の会社の責任者をされていたので、親の会社では不都合もあろうということで長崎に入社したのであろう。私は北九州あった九州支店に入社した当時から、支社会議にみえるお父さんとはよく顔を合わせ、そのうち何故か気に入られて大変可愛がっていただくようになっていた。その私が長崎支店に転勤になり、2年目にF子ちゃんが入社してきたことになる。入社してきた日はご両親も一緒に長崎までみえて、初めて知らない土地で仕事をするF子ちゃんのことを心配されている様子だった。その夜は、長崎の中華街にある「江山楼」に私は招待を受けて、御両親、F子ちゃんの4人で食事を御馳走になった。電話で話をしながら、その時代のことが走馬灯のように頭を駆け巡った。 F子ちゃんは、私が長崎在勤中には我が家にもよく遊びに来てくれて、妻や子供たちとも仲良くなっていた。ある夏、社員旅行で五島に行くことになって、家族参加もOKということになった。私は手間がかかることはわかっていながら、子供たちを連れて行くことにした。小学生だった長女と長男、それに幼稚園児だった次男の3人である。妻は私の母が鹿児島から遊びに来ていたためその世話で、一緒に行けなくて、女子事務員さんやその家族の皆さんに子供たちの面倒をみてもらうことになった。初めての長い船旅だったが、船酔いによる大きなハプニングはなかったのだが、夜の宴会で当時M重工から出向でみえていた酒の勧め上手な支店長に乗せられて飲んだ一杯のビールに酔ってすっかり寝込んでしまって、子供たちの面倒はみた記憶がない。昼も夜もF子ちゃんを中心とする女子グループに任せきりだった。ほんとに申し訳ないことをしたものだ。 その後、3年間いた長崎から私は山口県の徳山の店へ転勤、F子ちゃんは長崎のM重工の社員さんと結婚をして幸せに暮らしている。私が4年間いた徳山を最後に鹿児島に帰って、グループ会社として独立するときは数年前にO市でグループ会社として独立されいたF子ちゃんのお父さんの勧めやアドバイスがどれほど力になったかわからない。鹿児島市での会社もどうにか落ち着いて、数年後国分に営業所を開いたときには、F子ちゃんから電話がきて「自分の高校時代の親友が国分に嫁いでいる。よかったら事務員としてパート採用でもしてくれないか」というやり取りがあり、採用し、彼女も長年仕事を続けてがんばってくれた。 私は、鹿児島に帰って約40年、F子ちゃんののお父さんとは、その間にも在職中の約10年前までは毎月の福岡での支社会議や東京の親会社での年2,3回の会議などいつも一緒だった。それのみならず、出張の前後にはO市のご自宅にお邪魔したり、温泉に行ったりした思い出はつきない。そのお父さんも10数年前に亡くなってしまった。 そうそう、私たちが鹿児島に帰った後、夫婦で長崎に行くことがあり、それをF子ちゃんに連絡したところ、彼女が佐賀県の太良町で「蟹」を御馳走してくれるということで佐賀で落ち合ってご馳走になったこともあった。 今回、F子ちゃんの電話をきっかけに、お互いの孫の写真をやり取りしたり楽しいひと時を過ごすことが出来て、次に長崎に行くときは会おうということになった。ほんとに人の縁は貴重で不思議なもの、そして大事にしなくてはいけないと、改めて思った「長崎から架かってきた一本の電話」であった。
2021.03.07
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このエッセイは2007年(平成19年)、今から14年前に書いたものである。もうそんなに昔のことだったのか、と今更ながら懐かしい思い出となってしまった現在だが、紹介したい。 ♫ 島育ち ♩ ♬ 最近よく車の中で聞くCDがある。去る3月3日鹿児島市の宝山ホール(鹿児島県文化センター)で開催された「第一回かごしま夢舞台」支援事業として開催された奄美大島の女声合唱団「ラ・メール」公演のCDである。この公演は優秀な技能を持ちながら、日頃いろいろな事情により鹿児島での発表の機会の少ない団体を県文化振興財団が支援しようということで始められたものと聞いている。 その第一回の幸運を引き当てたのが「ラ・メール」だった。2005年5月私の所属する今では鹿児島で唯一の男声合唱団「楠声会」(なんせいかい)の奄美公演のとき、賛助出演をしていただき、チケット販売などで大変お世話になった合唱団である。ここは少しでもご恩返しをということで今度は我々の賛助出演となったのだ。 当日の宝山ホールは開場前からかってないほどの人で溢れかえり、聴衆の皆さんに予定時間を早めて入っていただいたほどである。恐らく多くは鹿児島在住の奄美大島出身の方々だったと思われる。石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」というのと同じような気持ちだったのだろう。懐かしい故郷への想いと息遣いを楽しみに集まってみえたにちがいない。舞台袖から見た会場は開演前から熱気に溢れていた。 演奏はオープニングの「海よ」に始まり 一部 日本の叙情 の9曲、 二部 楠声会の6曲、三部 女・想い の組曲「金もくせい」 そしていよいよ特別出演の島唄界の若きホープ、民謡連続2年日本一の中村瑞希さんの登場である。島唄2曲の美声に会場全体が酔いしれた。そしてアンコールの拍手に応えて唄ったのが御存じ「島育ち」である。唄者・中村瑞希さんの三線(さんしん)と唄にピアノも加わり会場全体が大合唱となった。いつの間にか指笛の名手も加わり会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。おそらくこの日一番会場が一体となって、盛り上がった時ではなかったろうか。ふるさとを離れ、今ふるさとの仲間たちをここに迎えて懐かしいふるさとの唄を歌える。そういうことをかみしめながら一緒に歌っておられたのではないかと思う。今、ボリュームをいっぱいあげながらCDを聴いても皆さんの想いが伝わってくるようで私も思わず涙が溢れてくる。 この想いは奄美大島と少なからぬ縁ができた私だけの想いなのだろうか。そして興奮も冷めやらぬ四部 うなり神の島にありて が始まる。唄者・中村瑞希さんも加わり、このステージこそ「ラ・メール」の女(ウナリ)神たちが真髄を披歴した場ではなかったろうか。この日の演奏会のタイトル「´奄美の風´を歌う」にふさわしい島唄の合唱編曲やオリジナル曲などまだ肌寒かった鹿児島に、しばし南の風を運んでいただいた気がした。 奄美大島と我が家との縁・・・。それは娘婿のお父さんの出身地が奄美大島の笠利町であることから始まった。お父さんも婿も二代続けて先生である。そのため娘一家4人が2005年3月までの4年間奄美大島に赴任していたので、私たち夫婦も奄美に数回訪れることができた。「ラ・メール」のメンバーの中にお父さんの同窓生がおられたり、また娘たちがお世話になった方もおられて演奏会後のパーティーで挨拶を交わしたりして益々縁が深くなった気がする。 (2007年5月記)
2021.01.29
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私の所属する男声合唱団・楠声会では「楠声会 会報」を毎年数回定期的に発行している。これまでも数回投稿してきたが、今年の始めだったか編集者から「クマタツさん、次回発行の会報にブログのことを書いてもらえませんか」という話があった。私は「自慢できるようなブログでもないし、ましてやブログについての投稿なんて・・・」と断った。しかし、編集者の立場も考えて表題の「迷走! 迷走!私のブログ」という文章をどうにか書いて投稿した。割り当てられた字数で書き上げてはみたものの読み返してみるとなんとも尻切れトンボの文章になってしまった。そう思いながらも当時何があったのか思い出さないが慌ただしくそのまま投稿してしまった。あたかも続編があるような文章で恥ずかしい限りであるが、恥を忍んでそのまま転載する。 「ジージの南からの便り」が拙ブログのタイトルである。そのブログは今回振り返ってみると、書き始めていつの間にか13年近くになっていた。休み休み、試行錯誤しながら、迷走に迷走を重ねて、遂に前年の12月末に1100回に到達した。正直言ってもの好きで、好奇心の強い私が大した覚悟も信念もなく、気まぐれに始めたものだった。 2008年の4月に始めているが、当時、それまでの鹿児島での親会社との共同経営から退き、親会社に復帰する形で監査室勤務となり、鹿児島在住のまま九州管内の関連会社の監査を一手に引き受けていた時代である。週3日くらいの勤務で、パソコンで次の監査先の売掛金などの精査をし、月に一回臨店のため訪問し、3泊4日くらいで監査をするという比較的ゆったりした勤務状況であった。この頃は、市民農園を借りたり、近所の仲間たちとグラウンドゴルフを始めたり、これからの第二の人生を模索していた時である。 そういう中で始めたブログは、日常の瑣事を書き綴ることが多かった。しかし、ちょうど一年過ぎた2009年5月、銀行勤務から始まった47年2ヶ月の会社生活が全て終わってしまうのである。ときに69歳と5ヶ月の齢を重ねていた。そのあと70歳まで続けていた楠声会の本部会計も終えて気持ちにも余裕ができてきた。それから2年くらい経って、もともと好きだった鹿児島の歴史を改めて知ろうと思い、史跡の探索を始めた。初めは私の住む武岡周辺の武町や田上、常磐、小野などの史跡を巡っていたが、母校である清水中にあったと言われる清水城跡、これも母校の玉龍高校の裏山にある福昌寺の島津家墓地など市内一円の史跡を訪ねるようになった。次第に足を伸ばして県内の山の中に分け入ったりして、古い石造物や墓標を探して自分で写した写真と共にブログに書くようになっていった。 私は、楽天ブログを使っているが、当初はカテゴリの分類もなく、途中でカテゴリが導入されるなど13年の間には幾多の書式変更など変遷を経て、今日のスタイルに落ち着いている。拙ブログのカテゴリで現在一番多いのは「未分類」の302件であるが、これは分類の項目がなかった頃の名残であり、不精者の私が未だにその分類を怠っている証である。多い方では「鹿児島県の歴史」267件、「つれづれ」115件、「旅行・ドライブ」97件、「男声合唱」64件などである。 「鹿児島県の歴史」の他に「西郷隆盛」と「島津一族」などの項目をつくったのは、NHKの大河ドラマ「西郷どん」や南日本新聞の年間連載記事「島津義弘没後400年」に依るもので、高校の同期生の歴史好きで「玉龍八期歴史会往来」を主催し、メーリングリスト化して月に一回、会報を出してくれるKくんの影響が大きい。私もそれには積極的に参加して、いろいろなことを書くようにしているが、シリーズとして書こうと思っていたブログの方は「西郷」も「島津」も完結には程遠いものがある。 話題は変わってブログを書いていると「ブロ友」というものができる。それはブログの下に「コメント」を書き込む欄があって、同好の士が感想などを書き込むのだが、それが縁で楠声会の第10回演奏会に夏の帰省に合わせて東京から帰ってきて聴いてくれた女性がいる。鹿児島出身で小学生二人を子育て中の女性である。私とは一面識もないが、次の演奏会も心待ちにしてくれているようである。ブロ友については、13年の間にはいろいろな出会いやエピソードがある。一緒に史跡を訪問したこともある30代のブロ友が「鹿児島古寺巡礼」という本を出版したのには驚いた。 以上が投稿の全文であるが、最初にも書いたようになんとも中途半端なものになってしまった。会報は今年の春に発行される予定であったが、コロナ騒ぎで編集もままならず、やっと出来上がって昨日の練習時に配布された。同時に全国に500人くらいいる会員にも発送されたものと思う。
2020.09.21
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「本の整理」というタイトルでいつかエッセイを書いたことがあったなあと思いながら、振り返ってみた。そして当ブログのカテゴリ「エッセイ」欄にそれを見つけた。2012年9月21日に書いていた。実際は2009年12月10日に書いたものを、あることがキッカケでブログに転載したものだ。 実際は2009年からそう思っていたことがわかったのだが、その「本の整理」にこのコロナ禍の閉じこもりの閑を幸いに今頃になって、本格的に始めようと思い立ったのだ。 まず先週の火曜日の紙類のゴミ集配日を目指して一階居間の本棚の整理を始めた。私と妻のそれぞれの本の整理分類で約250冊のもう必要としない本を選び出して廃棄した。BOOKOFFに持ち込むことをしなかったのは、もうだいぶ前に持ち込んだ時に、大した本でもなかったせいか、2足3文にしかならなかった経験があったので、今回は再生紙になるようにと願ってのことであった。 続いて上の写真のほぼ私専用の2階の本棚である。ここには私が暇にあかして読みあさった多くはBOOKOFFで買ったものである。好きな4,5人の作家の本を集中して読んで置いてあるが、ここでも3段目に山積している不要な本が200冊以上出た。来週の火曜日にゴミとして出す予定である。 この10年くらいの歴史に関心を持ってから読み始めた本や史料はー階の廊下の本棚に置いており、必要に応じて取り出している。この部分には現在のところ廃棄するような本などはないと思っている。 いずれにしても家庭用品や雑貨類、衣料なども断捨離をしてこなかったので、家中モノが溢れている。今回の本類の整理を第一弾として、思い切った断捨離をしようと思っている。
2020.09.04
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武にあった島津どんの墓地の移設先昭和21年疎開先の薩摩郡東郷小学校小学校に入学した私は、小学3年生の昭和23年の秋頃だっと思うが、父のフィリッピンでの戦死の公報を受けて、元々の生活根拠地の鹿児島市に帰ることになった。家族7人での鹿児島市への帰還である。 男手のない引越しで大変だったようだが、東郷に住む従兄弟たちの加勢で鹿児島市に帰ることができたと聞いたのは大人になってからのことである。母の話では戦前、住んでいた家(鹿児島市武町で現在は中央町)は土地だけ借りて、家は自前のものだったそうだが、鹿児島市への大空襲により焼失し、焼け跡には風呂釜が転がっていただけで全てを失っていたという。 因みに鹿児島市への空襲は前後8回あったそうだが、昭和20年(1945)6月17日の大空襲では市内一円に渡り死者2316人、負傷者3500人を数える最大の被害を被った。120機のB-29がマリアナ諸島から飛来し、午後11時に鹿児島市に達し市内の44,1%が損壊し、最終的には3300人が亡くなったという。市街地の93%が焼失するという大空襲だった。当時、女学校に通うために一人だけ鹿児島市の叔父の家に残っていた長姉が叔父たちと一緒に私たちの疎開先の東郷町まで命からがら逃げてきた時の話では、城山の入口まで逃げてきた馬などが力尽きて、そこここに倒れて死んでいたそうだ。 鹿児島市に帰ってきて住んだ家は、疎開前に住んでいた本籍地のある家の山手にあって、現在私が住む武岡の下に位置している。結局生涯を通じて武町周辺とは縁が続くことになる。借家は大叔父の知り合いの隠居所だったようで部屋は畳敷二間、二畳くらいの板の間、土間のある台所、廊下が少しあるという家であり、当時なればこそ住めた家であった。 小学校3年生で武小学校に転校し、その家に武中学2年の途中まで約5年間住む事になる。家主さん夫婦は当時70歳代だったと思うが、私や弟を可愛がってくれて、武岡に持っておられた芋畑によく連れて行ってもらったものだ。芋畑へは現在私の住む武岡への急な坂をリヤカーを押して上り、さつまいも(かごっまでは「からいも」という)を収穫したり、また保存のために穴を掘ってその中に埋めてああたりあったりしたものを掘り出して、リヤカーに積んで今度は急坂を逆に紐をつけて引っ張りながら帰るのである。帰りついたらバケツいっぱいのさつまいもをお礼と言っていただくものだった。 当時は井戸で水汲みをやっていたが、家主さんと共用である。時々井戸の掃除のために家主さんがロープを使って井戸の底に降りてバケツで溜まったゴミなどを汲み出しておられたのを覚えている。当時の遊びはすぐ近くにあった笑岳寺跡墓地が隠れんぼをしたり、飛び回ったりで格好の遊び場でもあった。広い墓場の山際には戦争中に掘られた防空壕があって、近所の悪童仲間とおっかなびっくりで中に入り、懐中電灯に照らされて見えるゲジゲジと言っていた足の長い虫の集団を見ては、鳥肌を立てながら皆で一斉に大騒ぎをしながら外に飛び出したものだ。怖いもの見たさにやったことである。 我が家と笑岳寺跡墓地の間には「島津どんの墓」と言っていた島津家の墓地もあり、(上記「武にあった島津墓地の移設先」参照)その下には二階堂家の墓地もあった。そこも子供にとっては神聖な場所にもかかわらずいい遊び場であり、山から竹を切ってきてチャンバラごっこなどをして遊んだ。武町に住んだこの頃は子供遊びが多くたくさんの経験をしたものだ。「目玉」(ビー玉)、「カッタ」(面子)、缶蹴り、独楽、凧揚げ、そして自転車に乗れるようになったのもこの時期だった。友達もたくさん出来たが、やがて中学2年生でここから清水町に引っ越すことになる。小学校一回、中学校一回という2回の転校をすることになったのだった。
2020.06.06
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コロナは「王冠」とのことだが、今や全世界からの嫌われ者である。私たちは、時代にそぐわない王冠など戴きたくもないもないのに、知らない間にそれを冠らされようとしている。しかも念入りに「新王冠」だという。そんなものはいらない。 その騒ぎを知ったのは2月3日、横浜港に到着していたクルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」からもたらされた「新型コロナウイルス」感染のニュースだった。クルーズ船は鹿児島にも寄港し、乗客が鹿児島観光をしたことなども報じられ、緊張が走ったが、調査の結果、事なきを得てホッとしたのを覚えている。 その気分が一転したのは、私のメモ代わりの手帳に2月20日に「新型コロナウイルス福岡で発生」とあるるように九州に感染者が発生したことであった。そのことがあって、いい加減な私も2月22日の講演会「戊辰戦争と薩摩藩」、27日の高校同窓会の幹事会、29日の「鹿児島城御楼門復元の意味するもの」講演会、など出会などを回避する。3月2日、予定されていたスクールコンサート中止、3月から毎週日曜日のコーラスの練習も休止。3月7日、かごしま遺跡フォーラム「発掘調査が解き明かす鹿児島城と西南戦争関連の物語」欠席。3月9日、伊敷歴史研究会「島津家家臣団系図表」「島津歳久と日置島津家」欠席。3月10日、小学校スクールコンサート中止、12日鹿児島史談会「中世蒲生氏の山城と近世蒲生氏の外城・麓」中止。 そういう中で、3月26日~28日、不謹慎にも長崎~阿蘇へのドライブ旅行(孫の卒業祝いを兼ねて)心からは楽しめなかったが、それなりに・・・。老人会の花見中止、追い打ちをかけるように4月末からは週2回のグラウンドゴルフも休止して自粛。 こうして振り返ってみると、好きなこともできない不自由さを久しぶりに味わういい経験にもなった。先の見えない中で、これからの「コロナの日々」はどうなっていくのだろう。
2020.05.05
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1999年12月29日、母は亡くなった。今日は20回目の命日である。明治41年(1908)1月11日生まれだから、満90歳であった。あと3日生きていれば、21世紀の空気を感じることができたものをと20年経った今でも思う。 母は特別な病名は付いていなかったが、それまでも入退院を繰り返していて、それでも盆・正月は自宅に帰れるような状態が数年は続いていた。しかし、3年くらい前からは用心深い母はそれもしなくなり、いわゆる老衰みたいな状態にあった。 当時、現役だった私は、仕事を終えて三角形に位置した会社→病院→自宅という回路で病院に行って、先に行っていた妻と一緒に帰るという毎日だった。亡くなる1ヶ月くらい前からは、妻や姉が食事の度に一匙を口に入れて食べさせるのに苦労するようになっていた。もう食べる気力が無くなっていたのだろう。しかし、頭はそこそこに冴えていてそこで苦労することはなかったのは幸いだった。 亡くなる前日の28日夜、私は1999年の最後の仕事を終えていつものように病院に向かった。母の様子もいつもと変わらず、この年も病院で年を越すという。そういう母に「また、明日な」と言葉をかけて、妻より一足早く病院の駐車場に向い、エンジンをかけて車を温めていた。しかし、いつもと違って妻がしばらく降りてこない。やっと車のところに来た妻に「えらい、今日は遅かったね」というと「お母さんが、もうかいやっとな」(もう帰るのか)と言ったとのことで、しばらく留まっていたのだという。これまでにそういうことは、記憶になかった私たちは「今日はどうしたのだろうね」とお互いに言いながら家路についた。 家に帰って、明日からの正月休みを楽しもう、生まれたばかりの孫を連れて娘家族も地方から我が家に帰ってきているし、東京にいる次男も帰ってくるとのことで、久しぶりの家族団欒をと思ってその夜は眠りについた。 29日の朝、5時過ぎごろだっただろうか、枕元に置いていた子電話の音が、けたたましく鳴り響いた。私は何故か瞬間的に頭の中を何かが駆け巡り「母が・・・」と思った。病院からの電話だった。「様子がおかしいのですぐきてください」とのこと。私と妻は車を飛ばしてすぐに駆けつけた。看護師さんたちが慌ただしく動き回って、ベッドの周りには大きな機材が置かれていた。しかし、間に合わなかった。私たちが到着する前に息を引き取っていた。昨夜の母から妻への「もうかいやっとな」と言った言葉は、母が自分の寿命を悟っての言葉だったのだろうかと後々夫婦で話すことである。 それからの2,3日のことは、どう過ごしたのか順番など覚えていないが、29日早朝に亡くなったこと、正月が近いことなどを考えてその日の夜に通夜、翌日葬儀ということを決めて、長男喪主ということで走り出した。父は私が5歳の昭和20年6月1日にフィリッピンで戦死しているので、葬儀のことなどは映画の一コマ一コマくらいの記憶しかない。もちろん葬儀を取り仕切るのは初めての経験である。親戚や関係者への連絡、葬儀社との細かい打ち合わせなど、アッという間に夕方になってしまう。葬儀社に母を運び、弔問客を迎えるなどするうちに、千葉、神戸、滋賀に住む兄弟家族たちも、年末のラッシュの中を臨時便などを使って帰ってきた。翌日、葬儀など一式を済ませ、遠くの兄弟や親戚には、帰ってもらうことにして、残こされた我が家は大晦日、元旦など所在なく過ごすことだった。3日になって、子供たちもいることだし、お雑煮くらいは作ろうということで食べたのを覚えている。 明治・大正・昭和と3代を早くに未亡人となって波乱に満ちた生涯だったと思う母だが、その母の年齢に私もあと10年となってきた。私は90歳まで生きるとは思っていないが、残された人生はどうなるのか、いろいろなことを考える今日この頃である。 一年間ありがとうございました。2008年4月9日にもの好きで始めた当ブログも、今日で1100回を迎えました。記入率は25.3%と4日に一回しか書けていません。長い時は6ヶ月くらいのブランクや2,3ヶ月の空白はザラという頼りないブログです。来年1月5日には満80歳を迎える「ジージの南からの便り」をいつまで続けることができるかわかりませんが、これまで同様、力まずにいきたいと思います。皆様いい年をお迎えください。
2019.12.29
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戦局も行き詰まりつつあった昭和19年の秋、生まれた鹿児島市の家を離れ、薩摩郡の上東郷村(現在の薩摩川内市東郷町)五社へ疎開をすることになった。父が2回目の出征をし、残された家族9人の疎開である。家族は母、父方の祖母、姉3人、私、弟1人、妹2人の大家族だった。 疎開先は、母の2番目の姉の家(私からすれば叔母の家)の隠居所であった。その叔母の家は子供12人という我が家に負けない大家族である。屋敷が広く家の前には畑もあり、家の周囲は孟宗竹や銀杏木や椿などさまざまな樹木で覆われているようなところだった。 子供の記憶なのでおぼろげなところもあるが、そういう田舎でも空襲があった。そういう時は従兄弟たちが掘った一人づつ入る「蛸壺」と言っていた防空壕に入って飛行機の去るのを待ったものだ。防空壕に入る余裕もないくらいの米軍機の来襲が1回あって、防空頭巾を被って家の畳の上に伏せたことがある。そのとき、おっかなびっくり防空頭巾と畳の間から家の前の畑の先にある孟宗竹の林を見ると、米軍機が竹の上を掠めるように飛んで、孟宗竹の上部が揺れていた。その日だったか、当時 上東郷村の中心部の街と言っていた舟倉に住む母の一番上の姉などが空襲を受けた。私たちは従兄弟達と一緒に五社の入口で街から続々と荷車などを引いて避難してくる街の人々に叔母たちの安否をたずねたものだ。その後の経過は記憶にないが、街に住む叔母一家も無事だった。その叔母たちも、五社の家にいて、しばらくして屋敷に家を建ててしばらく住んでいた。終戦後にはしばらくして街の家を再建して帰って行ったように記憶している。 五社での思い出は、前のエッセイにも書いたように「父の戦死の公報」「一番下の妹の死」など悪い思いでもあるが、悪い思い出ばかりではない。何よりも疎開をしていなければ、母方のたくさんのいとこ達と親密な關係を築くことはできなかっただろうということが一番である。当然のことながらいとこ達とも現在も冠婚葬祭を中心に行き来ができるということがありがたい。小学校に入学したのが昭和21年、担任の先生方もよく覚えている。3年の時、父の戦死の知らせがあり、田畑もない我が家の行くすえを考えた母や祖母の考えだったのだろうが、再び鹿児島市に借家を借りて帰るまでの間のいい思い出も多い。 田舎ならではの、風習があり、十五夜の綱引きや相撲大会に出場させられすぐに負けてしまったこと。また学校の帰りに牛の引く荷車に乗せてもらったこと。川内川が氾濫すると普段は桑畑の泥水の中で泳いだことなど思い出は尽きない。
2019.11.24
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私の生まれたのは、昭和15年1月5日。西暦では1940年である。この年は紀元2600年とも言われている。いずれもキリが良くて覚えやすい。戸籍上はそうなっているが、実際は昭和14年の年末に生まれたらしい。これは両親を除く近親者の話でわかったことだ。一時、母親にそのことを聞いたことがあるが、それを強く否定されたので、逆に14年生まれということに確信を持った。それでも覚えやすいことなど利点もあるので、それ以降こだわらなくなった。今頃、紀元2600年なんて言うと、若い人は、「何のことだ! 化石の話か!」と思うかもしれないが、私の頭の中には「♪゜・*:.。. .。.:*・♪紀元は2600年♪゜・*:.。. .。.:*・♪」という部分だけは、メロディが今も頭の中を流れる。(参考までにYou Tubeでも流れています) 姉が3人いて4番目の誕生が長男の私だったので祖父が喜んで仏壇に燈明をあげたそうだ。その後、弟、妹、妹と生まれて、7人兄弟だった。しかし一番下の妹はその後、疎開先で短い命を閉じてしまった。ただ荒波をくぐり抜けた6人は88歳の姉を先頭に皆元気である。 生まれた家には、疎開をするまでの5年足らず住んでいたことになるが、どのような家だったかも、ほぼ記憶にある。角地にあって、2階建で間取りも、2階への階段の位置も、家の中に土間があって、その奥には祖父が縄を作る工場もどきがあったことも、東側にはお茶を売る店もどきがあったことなどもほぼ覚えている。2階には釣り好きだった父がイカ釣りの疑似餌を鴨居にきれいに並べていた。 父の職業は銀行員だった。その父との思い出はほとんどないと言っていい。ただ、いろいろな場面場面が写真や動画みたいに頭の中を駆け巡るくらいのものだ。私が大きくなって聞いたことだが、父は2回出征したという。2回目の出征で帰らぬ人となってしまったのだが・・・。その1回目だったのか、2回目だったのか今になってはわからないことだが、小さかった私は、西鹿児島駅は近かったにもかかわらず連れていってもらえなかったのだろう。家のすぐ裏にあった鹿児島本線を走り去る汽車を誰かに連れられて見送った記憶がある。その時の父の姿は自分で後で作ったイメージかもわからないが、軍服姿に帽子を被っていたような記憶として残っている。 その武町の家にも防空壕があって、いざという時の準備はあったようだが、それくらいでは危ないと思ったのか、子沢山に父方の祖母まで抱えた母の決断だったのだろう、母の里の薩摩郡の上東郷村に叔母(母の二番目の姉)の家を頼って疎開する。昭和19年の秋のことである。(続く)
2019.10.23
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このエッセイは、まさに青春だったころの50年以上前の思い出を、10年くらい前に振り返って書いたものである。 「フォーガイズ」 22歳で社会に出て、地元の銀行に就職した私の初任地は、思いもかけず県外の小倉支店であった。昭和37年の春のことで、北九州市誕生の前年、東京オリンピックの前々年であり大きな希望を持てる時代であった。世間知らずの私には本当にそう思える時代だった。 小倉の繁華街・京町の商店街に支店はあり、その裏の独身寮が私の住まいとなった。私と相部屋になったのは、社歴では1年先輩ながら19歳のM青年だった。このM君が好青年ですぐに意気投合、一緒に行動するようになった。寮生活に潤いを求めていた私は、学生時代に歌った合唱のことが忘れられないこともあり、歌のうまかったM君を誘って、「小倉市民合唱団」(現在の北九州混声合唱団)の門をたたいた。 学生時代の男声合唱団とは違って、混声合唱団だったが、私が求めていた雰囲気の合唱団であった。やがて、そこで気の合った4人の野郎で結成したのが男声カルテット「フォー・ガイズ」である。トップテノールが問題ガイの私、セカンドテノールが音楽センス抜群で編曲もこなすナイスガイのけんちゃん、バリトンがタフガイのM君、バスが正真正銘のトリガイの4人である。 始めた頃は、レパートリーも何もあったものではない。私が学生時代に歌った楽譜を引っ張り出して歌っていたが、けんちゃんが編曲も手がけるようになり、彼の編曲による男声四重唱曲「ラ・ノビア」(ペギー葉山がソロで歌っていた)はフォー・ガイズにとって得意な一曲となった。合唱団で出かける慰問演奏会や「北九州勤労者音楽祭」、団員の結婚式、懇親会などでよく歌ったものだ。 そして、その後のフォー・ガイズのことである。それぞれ結婚もして、仕事も多忙になり、、転勤もあったりで、いつの間にか合唱団からも足も遠ざかってしまった。しかし、お互いの消息がわかるくらいの付き合いは続いていた。問題ガイの私は転職して、八幡、長崎、徳山、鹿児島と転勤して波乱の人生をおくっていたのだが、銀行の同僚だったタフガイのM君はその後も、順調に銀行の階段を駆け上がり、各地で経験を積んだ後、若い頃、私と一緒に勤務した小倉に戻り、支店長となる。その後、鹿児島の本部の部長となっていった。私も鹿児島に帰って、それまでの会社の現地法人を経営するようになっていた。M君の娘さんの結婚式にも呼ばれたりして、今後の交流を楽しみにしていた矢先、そのM君が突然の病で急死してしまった。お葬式で会った娘さんはお腹が大きく、孫の顔を見ることもなく逝ったM君の無念さを思い涙が止まらなかった。 それから2年後、今度はナイスガイのけんちゃんが亡くなったとの連絡が北九州の仲間たちから入った。彼も私より1歳だが年下である。4人のうち、二人が50歳そこそこで亡くなって、後に残ったのは問題ガイの私と同じ歳のトリガイの二人である。つまり年長の二人が生き残ったのだ。たまたまこういうめぐり合わせだったのだろうと思うほかない。 いまでも「ラ・ノビア」の曲がテレビやラジオから流れると、青春真っ盛りの良き時代の「フォー・ガイズ」を思い出して涙が溢れてくる。我が青春の思い出の一曲である。 以上 ここからは、生き残った二人の物語である。正真正銘のトリガイは今も、北九州・小倉で元気に暮らしている。トリガイ夫婦はステンドグラス制作に一生懸命で、力作をたくさん見ることができる。そして、週一回、北九州混声合唱団の練習も欠かさないという。私たち夫婦が北九州を訪れる度に、ほかの昔の仲間たちも集まってくれてランチ会などを開いてくれる。10年くらい前までは、一緒に熊本の阿蘇や大分の国東の石仏巡り、安心院の石橋巡りなどドライブ旅行をしたが、寄る年波には勝てず最近はその機会もない。私の近況は休み休みではあるが、このブログに書いているような状況である。トリガイも問題ガイの私も80歳を迎えるが、この状況がいつまでも続くように願っている今日このごろである。
2019.09.06
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このエッセイも8月4日の「終戦記念日に寄せて」シリーズに入れてもよかったかなと思うが、まあ、戦後4,5年頃の思い出なので、今回のアップになった。これも10年くらい前に「ゆーとぴあ」に投稿したものである。サイダーの名のとおりほろ苦い思い出である。 「サイダー」 小学校3年生の途中で疎開先の東郷(現在薩摩川内市)から鹿児島市に帰ってきて大叔父(父方祖母の末弟)の世話で武岡の下に一軒の家を借りて住むことになった。 父はフィリッピンで戦死し、母と姉3人、弟と私に父方の祖母を入れての7人の大家族である。働き手は母が一人で、姉たちが高校を卒業して働くまでにははしばらくの時間があった。そのような中で高齢の祖母は狭心症などで病院の薬は欠かせなかった。それでも往診や薬などの医療費の心配もなくあの戦後の厳しい時代に養生できたのは、大叔父のおかげであった。大叔父は西田本通りで内科の開業医だった。 祖母に頼まれて、私は薬をもらいにその大叔父の病院に通った。2週間に一回くらいだったと思うがいつも病院の玄関からではなく勝手口から入って行った。そしてしばらく待っていると、”西田のおばさん”が薬と一緒にお菓子などをハンカチに包んで「これは帰ってから食べやんせ」と持たせてくれたものだった。家族全員とも薬代など払ったことはなかった。 たまに父の従兄弟にあたる男兄弟3人が自宅にいると、「クマタツ表に回らんか」と言われて、庭にまわって縁側や座敷に上り込み、飲み物やおやつをご馳走になった。そんなある日「よか飲料水があっで飲まんか」と言われて飲んだのがサイダーだった。当時はどういう飲み物かも知る由もない。小学校4,5年頃のことだから、昭和24、5年だったのだろう。貧乏な家庭でそんな清涼飲料水など飲んだことのなかったその味は喉を刺すようで、それいて甘い不思議な飲み物だった。自分は大変おいしく飲み干した。 そして事件? が起きたのはすぐそのあとのことだ。「さようなら」を言って病院から出た。すぐ左に本屋さんがあったのだが、その本屋さんの角を曲がらないうちにいきなり大きなゲップがこみ上げてきた。しかもこれまで経験したことのない強烈なゲップである。しかし、その飲み物の名前も知らず、ましてや炭酸入りなんて知る由もない当時のことである。食べたり飲んだりしたものがなにか悪いものだったのかと思い、病院に引き返そうとしたが、頭の中で「いや、病院で悪いものを食べさせたり、飲ませたりするわけがない」と言い聞かせて引き返すのはやめた、しばらく歩いていると再びゲップが出たが、最初のときほどではない。子供の足で20分くらいの我が家に帰りつく頃にはすっかりよくなっていた。 家族にその話をしたらいつの間にかその話が親戚中に伝わり大恥をかいてしまった。貧乏だった私たちがラムネなどを六月灯(鹿児島で7月の夜、神社仏閣で順繰りに開催される夏祭り)で飲めるようになったのは、その事件のあと数年たった後だった。 以上 このような悲喜交々の思い出はたくさんある。書きたくない思い出も多い私たちの年代である。なにしろ終戦時の昭和20年に満5歳で翌21年が終戦後初めての小学校入学という、ある意味では戦争のことを語れる最後の年代かもしれない。折に触れて書いてみようと思う。
2019.08.29
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このエッセイも10年くらい前に、文芸誌「ゆーとぴあ」に投稿したものだが、今回のブログへの掲載に当たり、再録とし、少し加筆した。 私とパソコン パソコンに出会ってどれくらい経つだろう。はっきりとは覚えていないが、60歳の定年を迎える随分前のことだから、20年近くは経っているだろう。私が入門編を習う前に会社では既に親会社主導のもと売上伝票や請求書、簡単な集計表などは事務員さんたちがやってくれていた。だが、機械音痴の私はなにか怖いものでも見るように、遠くから眺めているような毎日だった。 そんなある日、ついに私にも支社から召集がかかった。今後これまで月一回、福岡の九州支社で開催されている支社会議の資料や、東京の親会社で開催される我々、子会社の株主総会の資料も全て、パソコン入力文書にするので、講習会を開催するとのことである。一泊二日の日程で経理の事務員さんたちも帯同せよとのことで福岡に赴いた。そこには、私から見るとアンちゃんにしか見えない若い人も混じった親会社の「情報システム室」の一団が待ち構えていた。 一台づつ与えられたパソコンを前に緊張したおじさんたちの姿、今 思い出すと笑えるが、そのときはテストを受ける緊張した学生に見えたにちがいない。なにしろ、入力の仕方も知らない私同様の販社のおじさん責任者が数名いる講習会である。初めて聞く用語の羅列、やり方、ついていくのも必死で、おじさんあたまでに馴染むはずもない。何も理解できないような状態でその二日間は終わった。 しかし、そこからが勝負である。好奇心の強い私は、なにか面白そうだと思った。「文字の入力はローマ字のを使ったほうがよい」「最初はソフトに入力するだけだから、むつかしく考えずにやればよい」などなど周りの人に教えてもらいながら素直に? それに従った。そのうちにフロッピーがどうの、メールがどうの、解凍しなくちゃのどと、教えてもらったり、本を読んだりするうちに少しづつではあるが、パソコンの前に座るのが楽しくなってきた。時間をかけながらの入力ではあったが、必要書類は自力でこなせるようになってきた。この頃になっても、支社会議の提出者類を未だに事務員さんに作ってもらう責任者もチラホラいたようだ。 しかし、私も新しい場面に遭遇すると、応用力がなく、人に聞くようなことだった。ワードや特にエクセルでの新規文書作成はむつかしく、いつまで経っても高嶺の花であったが、このところ必要に迫られてこなせるようになった。おかげで、定年後も65歳まで現役を続けることができ、その後も親会社に復帰する形で九州管内の販社の「監査」をするようになって、現在3年目に入った。 この「監査」の仕事もパソコンと密接な関係があり、売上台帳は当然のことながら機械の中である。鹿児島にある親会社の監査分室にいながら、臨店前には台帳などは全て見て、問題点もわかる。臨店ではその問題点を解明すればよい。事後の報告書も全てパソコンで処理するこになる。パソコンを使えるようになったことで、自分の会社人生も広がり、65歳以降もこうして、グループ内の仕事を続けることができている。感謝! 以上 現在読み返してみると、私が70歳まで仕事を続けることができたのは、29歳で転職後、車の免許証を取得したことと、50歳過ぎてからパソコンに馴染むことができたおかげである。そして今こうして、10年以上、拙いブログを書き続けることができるのも、パソコンのおかげである。もっとも、最近はボケ防止のただその一点のために自分を奮い立てせて書いているのが実情である。
2019.08.23
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「武田ヶ瀬戸の防空壕」(ぶたがせとのぼうくうごう) 昭和19年の冬だったか、父が2度目の招集で、戦地に向かった後、残った我が家族は武町(現在の中央町)にそれまでどおり住んでいた。7人家族の大所帯である。 戦況は厳しく、空襲警報に子供ながら身の縮む想いで過ごす毎日だった。警報のサイレンの音が鳴り響くと、電灯を黒の布で覆い外に光が洩れない様にしてB29が去っていくのを待ったものだ。我が家は居宅の中で家業でお茶を商っていたが、その店先の地下に防空壕を掘っていた。そこにも2,3回は逃げ込んだ記憶がある。 そういう中のある日のことだった。今度は「ぶたがせとの防空壕」に避難するようにとの警防団からのお達しがあった。そこまでの距離今になって調べてみると、当時の我が家からは1km以上ある。年寄りと子供だけの我が家がそこまでどういう手段で荷物も持って行ったのか、道中のことも全然覚えていない。記憶にあるのはただ次の二点だけである。余談だが、私は子供の頃、「ぶたがせと」という不思議な地名にどういう字を書くのだろうとおもっていて、勝手に「豚ヶ瀬戸」と思っていた。ところがあるとき「武郷土誌」を見る機会があって、そこにあったのは表題の地名だった。つまりは武と田上の境目という意味だった。納得。 一つは、防空壕で一晩、不安な夜を過ごした翌朝のことだ。防空壕から1,5kmくらい離れた西田に住む大叔父(祖母の弟)が自転車に乗って訪ねて来てくれたことだ。私は防空壕の中の綿入れの布団の中から、大叔父を見上げた覚えがある。綿入れの布団をはっきり記憶しているので、冬に間違いない。布団までどういう形で運んだのか。今思うに不思議である。大叔父が祖母に「もう警報は解けもしたど」「早よ、我が家い戻いやんせ」とでも言ったのだろう。その日のうちに我が家に帰った。父のいない家族を心配して様子を見に来てくれたのだろう。ありがたいことだった。 二つ目は、竹やぶを分け行った先の山に掘られた防空壕に警防団人が訪ねてきて、「こげなモノが落ちていたら触らずに場所だけをすぐ届けやったもんせ」と防空壕を一つ一つ訪ねて回り注意していたことだ。手には機銃掃射で打ち込まれたであろう弾丸だろうか、真鍮のような色で先が尖って丸く、先っぽには橙色の色が塗ってあった。その弾の形状や橙色が強烈に印象に残っている。当時は警防団とか、隣組とかの言葉が飛び交っていて、幼かった私でもよく覚えているが、今、思うとこれらが戦時下の日本では重要な役目を担ったのだろう。 それから、どれくらい鹿児島の家に留まっていたのか記憶にないが、母と祖母が、西田の大叔父にも相談しながら決めたのだろうか、おそらく19年末から遅くとも20年の春にかけて母の郷里の親戚を頼って東郷(現在の薩摩川内市)に疎開をするのである。もう今は母も亡くなり、詳しいことをしる人間もいない。もう少し、早くいろいろなことを聞いておくべきだったと反省しきりである。 2019、8、20 記
2019.08.21
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「一枚の食パン」は8年前に書いて、文芸誌「ゆーとぴあ」に投稿したものである。長崎在住中の出社途中の出来事を題材に書いた。 「一枚の食パン」 この夏、広島と長崎は66回目の原爆の日をむかえた。昭和49年12月から3年間長崎に住んでいろいろなことを見聞きした私には感慨深いものがあり身近に感じてきた。しかも今年は東北大震災による福島原発の事故があり、改めて原子力のことを更に身近なものとして考えなおす夏になった。 私の職場は浦上天主堂の真下200mくらいのところにあり、左に歩いて2、3分で平和公園、少し下ると原爆落下中心地という長崎の平和を願うシンボル的な場所であった。休日にはまだ小さかった子供3人を連れて家族5人、平和公園でお祈りをしたり、遊んだり、長崎独特のアイスクリンを食べたりしたものだ。 その長崎は、坂が多く家は段々畑のような場所に建てられている。私の借家もそんな中の1軒で車を置く場所もない。幸い通勤距離が2,5kmくらいだったので、よほどのことがない限り行き帰りとも歩くことにしていた。途中には次男が2年間お世話になった聖アントニオ幼稚園のある本原教会があり、街全体がいつも敬虔な祈りに満ちているような所である。 そんな長崎で今でも忘れることのできない一つの光景がある。ある日の朝、いつものように、とある2階家の前を通りかかった時である。2階の窓がパッと開けられ前方にある1階の屋根にいる鳩をめがけて、いきなり一枚の食パンがそのままポンと投げられた。私の記憶では当時の私より少し若い30歳前後の男性だった。 大げさなようだが、それを見た瞬間、私は全身に冷水を浴びせられたような、気持ちがサッと萎えるような複雑な気持ちになったのを昨日のことのように思い出す。たまたま目撃したその男性のことはいざ知らず、その頃から日本全体が、ある意味の平和ボケに陥ってしまって心にも荒みが出始めていたのではないか。私の感覚ではパンを投げ与えるにしても、それは食べ残して古くなったものでしか許されない。それも小さく切って与えるだろう。私たち戦前生まれは食べ物に限らず、モノを大切にするように教えられ、特の食物は大切にしてきた世代である。ご飯は一粒も残さず食べたし、それが普通のこととして身についている。そんな目の前の光景は、私にはとてもショッキングな出来事だった。。 40年近くなった今でも一枚の食パンのことが忘れられないのは、それが平和を願う長崎の出来事だったせいかもしれないが、「平和の象徴の鳩」に対してとはいえ、その餌に食パンを一枚、ポンと投げ与えることは私にはできない。 そういうことがあった長崎ではあるが、キリシタンや中国との交流の歴史、異国情緒溢れる風景、そしてなによりもそこに住む人々の人情は素晴らしく、長崎には良い思い出の方が多い。家族全部が長崎ファンで家族旅行となれば、今では孫たちも連れて長崎をよく訪れている。
2019.08.19
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このエッセイも先輩の主宰する文芸誌「ゆーとぴあ」に10年以上前に投稿したものであり、その後、私の所属する男声合唱団・楠声会との関連も出てきたので、その会報にも同じものを投稿した。 「花瀬望比公園」 手許に一枚のコピーがある。昭和44年10月発行の鹿児島銀行の ”旧友会報” 第3号とある。義兄が同行に勤務していて手に入れたもののコピーである。 私の父もその昔、同行の前身 第百四十七銀行に勤務していたが、召集されフィリッピンで戦死した。その父との思い出を書いてくださったのが父の少し先輩のNさんである。少し長くなるが概略を引用してみる。 「昭和19年の初冬、二度目の応召で西駅頭に君を送った日、陸軍少尉の軍服姿もりりしく勇躍出征の途についた君をほうふつとして今でも憶い出すのである。門司駅に集合、その後、フィリッピンに転進したらしいという風の便りを聞いたきり消息は絶えた。後日談ではルソン島をあちらこちら追われ、衣も食も不自由の中に戦死したらしい。昭和42年、比島遺骨収集団が結成され、鷹野頭取が渡島されると聞き、線香と奥様から好きであった煙草を供えていただいた。年も迫った12月29日の朝、遺骨を出迎えるべく私は埠頭に立っていた。自衛隊の吹くラッパも物哀しく、弔銃の響きも哀しかった。越えて4月20日これらの遺骨は本土の最南端 開聞岳山麓花瀬海岸の砂丘に場所を得て、永遠の眠りに就いたのである。その埋骨の日、鹿銀旧友会を代表して、はからずも私は式に参列した。同君とのつきせぬえにしに感謝した。君が踏んだ土の感触の暖からむことを祈るのだった」 私はこの父のことをこれほどの気持ちで書いていただいたことに何回読んでも涙が溢れてくる。その昭和42、3年頃、私は北九州に住んでいて、母の便りでそのことは知っていたが、すぐに花瀬海岸に行くことは叶わなかった。44年に転職をし、新しい会社で八幡、長崎、山口の徳山(現在の周南市)と勤務し、チャンスに恵まれて鹿児島に帰ってきたのが昭和56年だった。その後、鹿児島での仕事も安定し少し落ち着いて花瀬海岸に行けたのは、昭和の終わりが近くなってからのことだった。 その花瀬望比公園に再び出会ったのは思いもかけない映画館のスクリーンでのことだった。私たちの男声合唱団 楠声会(鹿児島大学男声合唱団フロイデ・コールのOBで結成の合唱団)が依頼されて劇中歌を歌った「北辰斜めにさすところ」の映画の中だった。この映画は鹿児島大学の前身の一つである旧制七高が中心になっており、七高、五高の対抗野球試合を通じての当時の学生たちの熱い想いが描かれている。この映画の中で私たちは「北辰斜め」と「楠の葉末」の二曲を歌った。三国連太郎や緒形直人、坂上二郎など芸達者な俳優陣が好演している映画である。 この冬、鹿児島でも封切られ、私も観客の一人となった。映画の後半ごろだっただろうか、三国連太郎扮する主人公がひさしぶりに鹿児島を訪れ、なんと花瀬望比公園も映し出された。主人公が先輩を偲ぶシーンである。私が花瀬望比公園に初めて行ったときに心を打たれた母の想いを感じた ”母と子の像” もしっかり映し出された。映画に引きずり込まれ、それまでも涙が滲み仕方のなかった私は、そのシーンを見てからは自分の様々な想いも重なり、最後まで涙に乾くことがなかった。 後日談 この文章が「楠声会会報」に掲載され練習日に会員に配布されたその夜、一本の電話が入った。楠声会先輩のKWさんからだった。「おまんさあが書いた文の中いあったNちゅうのは私の叔父じゃっど」一瞬私はあまりの偶然でそういうことがあるのかと耳を疑った。そのKWさんは、私が最初に就職した銀行の先輩で、楠声会の本部会計も銀行つながりでそのKWさんから私が引き継いだ縁の深い方だ。人生はどこでどんなつながりがあるかわからない不思議なものだと、改めて思った夜だった。
2019.08.17
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このエッセイも10年以上前に書いたもので、やはり先輩の主宰する文芸誌に掲載されたものである。 「大叔父の涙」 父の戦死の公報が届いたのは、父の職場の先輩の手記によると、昭和24年だったということである。私の拙い記憶では小学校3年生になったばかりの頃で、まだ疎開先の上東郷村(現在の薩摩川内市)に留まっている時である。 微かな記憶を引き戻せば、戦死の公報があったことで遺骨を引取りに向かった先は現在鹿児島県立短期大学などになっている通常私たちが伊敷の練兵場跡だったと思う。母と私の他に誰が行ったのかも覚えていないが、遺骨を渡されて長男の私が胸に抱いて帰った。ただ大きくなってから聞いたところでは小さな位牌が入っていただけだったそうだ。当時の地図で見ると伊敷電亭だったと思うが、そこで電車を待っていると、通りがかりの人々が静かに頭をたれてくださった。そのことは、はっきり覚えている。 葬儀は我が家の疎開先の東郷ではなく鹿児島市の泉町にあった叔父(父の弟)のいえであった。父方の親戚の多くが鹿児島市に住んでいたからなのだろう。その日はたくさんの方々の弔問があったことを覚えているくらいである。 ただ物心ついた頃になって母に葬儀の日のことをきかされて忘れられないことがある。それは西田の叔父さん(私たちの大叔父で父方祖母の末弟)のその日のことである。大叔父は西田本通りで内科医を開業していたが、私たち子供にとっては雲の上の存在で、西田に行く時は、服装を整え、爪もきれいに切って緊張して行くくらいの威厳のある存在だった。親戚も畏敬の念をもって接していた。その大叔父から母に「鈴どん(母の名前)遺骨箱には何か入れるものはなかったや」という問いかけがあったそうだ。そこで母が「出征前に爪を切って残しておいやしたが・・・」と答えたところ、それを聞いた大叔父がハラハラと涙を流したそうだ。それを見た母は大叔父にとっても私たちの父が大事な甥っ子であったのだと思い改めて涙が出て止まらなかったそうだ。そのことはその後もははから何回も聞かされたが、あの威厳に満ちた大叔父が父のために涙を流した想いを考えると本当に戦争はもうやってはいけないものだと思う。 子供ころは、正直少し近寄りがたいと感じていた大叔父ではあったが、私たち家族が病気になれば駆け込むところであったし、本当の赤ひげ先生だった。親戚も皆頼りにする存在だったし、私が就職した時も喜んで保証人を引き受けてくれた。本当は気持ちのやさしい大叔父だったのだと今更ながら思う今日このごろである。その大叔父の墓所も我が家の墓所の近くなので墓参りの度に「クマタツごあんど」と参拝は欠かさない。
2019.08.16
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8月15日は74年目の終戦記念日である。以前、書いた戦争関連のエッセイから2、3紹介することにした。今日紹介する「疎開」は2012年8月頃、先輩の主宰する文芸誌「ゆーとぴあ」に投稿したものである。 疎開 「疎開」という言葉はいまや死語にちかくなったと思っていたら2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による原子力発電所事故により、福島の人々が今また疎開を強いられる事態になっている。ただ夏休みに入った子供たちだけを臨時に受け入れる善意の場所が全国に90箇所もあることを聞き少しホッとした。 一方、太平洋戦争による我が家の疎開はどうだったのか。父が召集令状で狩り出され、7人の子供と父の母親までを一身に背負わされた母の戸惑い苦労の末の疎開先はただ一つ、生まれ故郷の上東郷村(現在の薩摩川内市)の五社しかなかったのだ。 そこで用意してもらった家は叔母(母の姉)の家の数百坪の屋敷の中に隠居所とし建てられていた家だった。部屋も3つあった。しばらくして、そこに父方の叔母一家も、叔父の復員を待つかたちで疎開してきた。 当時その五社には、甑島からの学童疎開組や、近くには兵隊さんたちもいた。そしてある日のことだった。その兵隊さんたちが軍靴の音もけたたましく、叔母の家に集まってきた。ラジオでなにか発表があるらしい。わずか5歳の私がそれを玉音放送だったと知ったのは、もう少し大きくなってからのことだった。その夜、母や姉たちが蚊帳の傍で泣いていたのも忘れることはできない。 終戦の翌年、昭和21年4月 東郷小学校に入学。ここには3年生の途中で鹿児島市に帰るまでお世話になった。その間、赤ん坊だった一番したの妹が「面疔」にかかり病院に行く途中、母の背中で死んでしまった。葬儀では従兄弟たちが手作りの小さな柩を用意してくれて、しめやかに葬ってくれた。そんな中、母は、闇屋をするために集落の農家をまわり、持っていた着物と、米などと物々交換をするタケノコ生活だった。そうして集めた物資を背負って宮之城線の楠元駅から乗車し、川内駅で鹿児島本線に乗り換え鹿児島市まで売りに出かけて私たちの生活を支えてくれた。 そんなある日ついに悲しい知らせを持って、遠い縁戚にあたる村長が我が家にみえるのである。「父の戦死」の公報であった。昭和20年6月1日、フィリッピンはルソン島での戦死の知らせであった。それより前、叔父は無事復員し、叔母と鹿児島に帰って行った。我が家もいつまでも東郷にいても生活できないということで、その叔父を頼って鹿児島市に帰ることになった。母は叔父の会社で働くことができたが、当時、3人の姉たちも学生で、母以外には働き手のない我が家が、それからどうやって生計を立てていくのか、たくさんの子供の教育の問題や祖母まで抱えた母の苦労の第二幕がここからまた始まったのである。 その波乱に満ちた生涯をおくった母は60歳近くまで働いて大変だったが、晩年は孫やひ孫たちもよく訪ねてきて、42歳で戦死した父の分まで長生きして92歳で人生の幕を閉じた。早いもので今年の12月には13回忌を迎える。
2019.08.14
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松本清張ドラマを65本も録画して、見ては消す作業を繰り返す中で、ある日「やさしい地方」という番組を見た。古谷一行が地方出身の代議士という役である。このドラマを見るのは2回目だったが、敢えて見ることにしたのにはワケがある。 高校の同級生・草野大吾くんが出演していたからだ。代議士に絡む役で多くの場面に登場する。草野大吾は、文学座付属養演劇研究所を昭和37年に修了し、昭和42年に文学座を退団し、六月劇場にの結成に参加している。その後はフリーとなり、「放浪記」で映画デビューするが、映画監督の新藤兼人の目にとまり、監督作品に多く起用され「弱虫女と弱虫男」「触角」「裸の十九歳」「竹山ひとり旅」などの出演した。舞台、テレビ、映画など多数出演したが、NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」ではナレーターと役者として出演した。(ここまで「コトバコ」) しかし、放映の3ヶ月後の平成3年(1991)ラジオ放送の録音中に突然倒れて、そのまま帰らぬ人となってしまった。51歳という若さである。我々同期生の期待の星であっただけに私たちの衝撃も大きかった。後に遺骨が地元鹿児島に帰ってきた百日祭の時には、草野と一緒だった一組を代表して玉串を捧げた記憶がある。 彼と同期の文学座の仲間は、岸田森、樹木希林、小川真由美、寺田農、橋爪功、北村総一朗などそうそうたるメンバーが揃っている。ヌーボーとした中に独特の個性、風貌の彼が生きていれば、どんな俳優になっていたのだろうと、久しぶりの画面上の対面で思うことだっだ。 余談の蛇足 草野が亡くなる数年前になるが、、我が家の次男が高校を卒業し俳優を目指して上京した。20年間、プロの劇団に入って、日本全国、海外まで公演をしていたが、体調不全で帰鹿してきた。つまりは、「第二の草野大吾」にはなれなかったのだ。現在は一社会人として、鹿児島でがんばっている。
2019.07.26
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えっ 「松本清張を見る」は「松本清張を読む」の間違いじゃないの!いえいえ、この多チャンネル時代、私は清張を見ているのだ。昔は確かに清張も読んでいたのだが、「見れば見るほどバカになる」と言われるテレビで飽きもせずに見ている。 その反動もあって、好きな歴史に関する本や史料を読むのもこのところ滞りがちである。いや全く進まない有様である。ましてやブログの更新などすっかり止まってしまった状況が続いているのだ。 松本清張は、明治42年(1909)~平成4年(1992)の作家であるが、そのデビューも比較的遅く1953年43歳で「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞している。続いて1958年「点と線」「眼の壁」を発表しているが、私が初めて読んだ清張小説は「点と線」である。その後、清張の活躍もあって、社会派推理小説ブームがきたが、清張は時代小説、日本古代史なども数多く発表している。私もたくさんの清張モノを読んできたが、「日本の黒い霧」などは特に印象に残っている。 その後、テレビで清張モノのドラマが放映されるようになり、手軽に楽しめることもあって、時間が合えば見たものだ。しかし、放映は少なくたくさん見た記憶はなかった。ところが多チャンネル時代になって我が家はケーブルテレビと契約をした。もう20年くらいになるだろうか。そして、この3,4ヶ月前から「AXNミステリー」で松本清張特集が始まった。毎週日曜日3、4編が放映されるのである。もちろん他のチャンネルでもこれまでどおり、単発でも放映されるので、そのチェックも必要である。それを毎週、録画をして見るのだ。これまでの放映で古いモノは1975年~78年にNHKから放映された「土曜ドラマ」シリーズである。その頃の自分の年齢や俳優陣の年齢、当時何処に住んでいたかなど、ドラマと重ね合わせて見ると感慨深いものがある。 一回見たものを再度録画しないように、最近は題名と主役の俳優の名前などメモをとっている。同じ題名のドラマでも各テレビ会社が脚本も俳優も時代も変えて制作しているものもあり、そこらもチェックしなくてはならない。脚本によっては、全然といっていいくらい違うドラマになることもあるが、当然のことながら似たような脚本の場合にはうんざりすることもある。 皆さん笑うなかれ! これまで65本を録画して見てきたが、もう疲れてしまった。(笑)しばらく、これ以上バカにならないために、できるだけテレビを見ることを控えようと思う。
2019.07.25
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先日、NHKアーカイブス あの日 あの時 あの番組 を見た。「長崎と天草地方の潜伏キリシタンの関連遺産~世界文化遺産登録」である。 私は曲がりなりにも仏教徒であるが、今から43年前から3年間 長崎に住み、身近にクリスチャンの方々を見聞きしてきたので、キリスト教にもいつしか関心を持つようになった。長崎に転勤したとき、次男坊が近くの「本原教会」付属の「聖アントニオ幼稚園」に入園した。年少組のとき、何故か父母の会の副会長に指名され、副会長ならと気軽に引き受けたのだが、ここではその翌年、子供が年長組になったときには、会長に昇格することになっていた。よそ者でそういうことを知らずに軽く考えたのが間違いだったのだが、慣例には従わざるを得ず、やむなく会長職も引き受けた。そういうこともあって、園長の神父さんシスターの先生方とも2年間だったが交流があり、貴重な経験をすることができた。 今回の放送は数年前にKくんと見に行ってシリアスな映画だったが大変感動した「沈黙ーサイレンス」のキリスト教徒に対する拷問シーンから始まった。 日本へのキリストの伝来は1549年 ザビエルが鹿児島の祇園の洲に上陸したのが始まりである。そのことと、現在、鹿児島に残るザビエル教会やキリスト教布教にかかわる遺産やまた福昌寺墓地の上に残る浦上4番崩れによるキリシタン墓などが私たちの郷土に残ることを考えただけでも、鹿児島もキリスト教と深い関わりを持っていると言える。 今回の登録は長崎県平戸市の「春日集落と安満岳」など12ヶ所 ユネスコの諮問機関・イコモスの勧告によるもので共生しながら独自の文化を築いたことなどが評価されたようだ。 NHKのアーカイブスの新日本風土記から2本の放送があった。一つ目は、1979年(私は39歳で山口県徳山に在住)放送の「天草の崎津集落」を紹介した ー十字架の見える海 天草西海岸ー漁師の住民は夫婦で漁船を出して、船上から海岸の岩の上に立てられたマリア像に、「海の安全と豊漁を願って十字架を切る」 生活の中にキリスト教が溶け込んでいて、印象に残った。崎津の集落の3分の1を占めるカトリック信者は毎日午後6時30分ミサのため教会に集まる。礼拝堂は畳敷きだった。神父はアイルランド人。これまでいつも異国人だが、いつかは集落から神父を出したいと皆が願っている。そういう中、先ほどの漁師夫婦の息子さんが、集団就職のため都会に出ていたのだが、そこを退職して帰郷し、現在 福岡の神父の学校に学んでいる。信者にとっては嬉しいニュースだ。私が長崎市在住当時、近所のキリスト教信者の方が、二人いる息子さんの一人を神父にしたいと語っておられたが、熱心な信者はそういう気持ちを持っておられるのだろう。その後、近所の息子さんがどうなったかは知らない。しかし、放送された漁師の息子さんはその後、神父となり、現在、佐賀で神父を務めておられるとのことだ。 この崎津天主堂には今から20年くらい前に訪れたことがある。当時は3連休を使って妻と二人で九州各地にドライブ旅行をしていた頃で、3日間で1000kmを走るようなことが多かった。当時、九州内の行っていないところ見つけては走って行ったものだ。崎津天主堂には鹿児島県の長島・蔵の元港から天草の牛深にフェリーで行った。教会には入ることが出来なかった記憶がある。周辺は漁村という感じで漁港まで細い道を降りて行った記憶がある。キリスト教徒も家で初盆を迎えるとのことで、その場面も映し出された。お盆には墓で爆竹や花火を賑やかにやって先祖の霊を慰める。8月15日は聖母マリアの昇天の日であり、漁も休むそうだ。そしてその日は神父が聖体を持って船に乗り込み海上をパレードする。しかし、現在は過疎で人も少なくなり、その行事も行われていないとのことで、残念に思った。 次に映し出されたのは、天草町の大江の天主堂(山里の教会)。大江の集落に500人の信者がいる。この集落からは明治6年、2人が長崎で洗礼を受けたのが最初だという。洗礼式の様子も映し出されたが、成人になってからの洗礼は難しいそうで、週一回つづ教育を受けて初めて洗礼を受けられるという。 二つ目は、1986年(私は46歳、鹿児島に帰って6年目)放送の「国宝への旅 クルスの堂は七色の輝き 長崎大浦天主堂」 放送では唯一の洋風建築の国宝と言っていた。調べて見ると1865年(明治維新の3年前)の建築で1933年に国宝に指定されている。その後、2009年に迎賓館赤坂離宮が国宝に指定され、現在2つになっている。大浦天主堂は外国人の礼拝のために作られたが、当時の日本人は「フランス寺」と呼んだという。建物には、漆喰の技術も使用され、屋根も切妻式に日本瓦を使用している。正式名称は「日本26聖人天主堂」。 「日本26聖人殉教図」(西坂の丘 最初の犠牲者)に因む。ここに「自分たちはキリシタンです」と浦上より二人が名乗り出た。そのことは世界のニュースとなった。しかし、その後も徳川幕府も明治政府も弾圧を続ける。 特に「浦上4番崩れ」と呼ばれる弾圧では浦上地区の3394名のキリスト教信者を弾圧して、鹿児島や津和野などに配流し、662名が命を落とした。しかし、世界中から非難を受けた明治政府は明治6年(1873)やっと禁制を解くのである。プチジャン神父がクリスチャンを発見してから121年の歳月が流れていた。生き残って浦上に帰還した信者たちは浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てるのである。 今年も我が家の雑草園にユリの花が咲いた。 鹿児島に残るキリスト教関連遺産や浦上4番崩れについては、またいつか書きたいと思っている。
2018.06.29
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昭和15年(1940)1月5日、これが私の誕生日である。西暦では1940年。1515 なんと申しましょうか。なんとも調子のいい誕生日です。いやいや 1212ならもっと順調な人生をおくっていたかも・・・。メリットは西暦も含まて覚えやすいこと。 その誕生日について、叔母(父の末妹で満100歳で存命中)に言わせれば「あなたたちは、12月に生まれたけれど、お父さんたちが1月の出生届けを出されたのでは・・」と言われて納得。そう言えば弟が1月2日、何よりも亡くなった母は明治41年1月11日という1が四つ並ぶ調子の良さだった。これは母の親がそうしたのだろうが、いずれにしても戦前はそういうことが許されていたのだろう。 私の所属する男声合唱団では毎月の練習始めの日にその月の誕生日の団員のを祝して「Happy birthday to you」歌うようになっているが、毎回50人前後の集まりの中で、1月生まれだけが断然多く、10数名もいる。これもほとんどが戦争前後に生まれた世代なので、12月生まれをを1月に届けた親が多いのだろうといつも1月のその日には思う。ご同輩の皆さんほんとの1月生まれだったらごめんなさい。 生まれてからこれまで住んだ場所と思い出を書くはずが、誕生日の話になってしまった。本題に戻ろう。 生まれたのは、本籍地の鹿児島市武町(現在も武町はあるが、私の生まれた場所は中央町になっている)である。鹿児島中央駅から南へ200mくらいの場所で、現在アーケードのある商店街になっている。現在もその土地があれば、今頃はウハウハ? ところが実態はその土地は祖父が借りて家だけは自分たちで建てたというものだったらしい。世の中そうそう甘いものではない。 そこを振り出しにこれから自分の住んだ場所を中心に振り返ってみよう。鹿児島市武町(中央町)ー鹿児島県薩摩郡上東郷村(薩摩川内市東郷町)ー鹿児島市武町ー鹿児島市清水町ー福岡県小倉市(北九州市小倉北区)[銀行独身寮]ー北九州市小倉南区ー北九州市小倉北区[銀行社宅]ー北九州市小倉北区ー北九州市八幡西区折尾ー長崎市三原町ー山口県徳山市(周南市)ー鹿児島市武岡団地ー鹿児島市武岡団地[自宅を建てる] なんと自分でも驚く13ヶ所に住んでいる。生まれた武町を入れても現在の武岡の自宅に落ち着くまでの12ヶ所はせいぜい2~5年くらいで転居したことになる。現在の自宅は徳山から鹿児島に帰ってきた時、借りた家から直線で300mくらいしかないところで、売り出しのあった土地を買ったものである。鹿児島に帰って36年、自宅に住み始めて34年が経つ。 今、思うにこの土地に住むのは偶然が生んだ必然だったような気がする。何故なら、鹿児島市の地理に詳しい人でないとわからないことだが、生まれた武町、疎開先の東郷町から帰って借りて住んだ家も武町、会社の事務所も最初は武町、その後新築移転した場所が武岡の下の田上だった。我が家の墓地も武岡,偶然がそうさせたのが、全てが武、武岡である。ルーツの場所に呼び戻されたのは必然だったのか。 これまで住んだ場所、家にはそれぞれの思い出が詰まっている。それぞれの場所、家について暇をみては徒然なるままに書ければいいなと思う。
2018.06.08
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平成21年5月20日 22歳から70歳までの50年近い長い長い会社生活を終えてからもう7年が経ってしまった。現役時代も含めてあっという間に日々が過ぎ去った気がする。 会社生活の終わりが見え始めた頃から、世間でよく言われる「退職後の生き方には、何か生き甲斐を持たいないといけない。その為には退職前から趣味を持つなど準備が必要だ。そうでないと奥さんに嫌われる濡れ落ち葉になってしまう」などの言葉が世の中には飛び交っていた。しかし元々好きなように生きたきたこれまでのやりかたを特別に変えることもないだろうと何の準備も心構えもなくその日を迎えたのだった。 そして、いざ退職してみて一番感じたのはこの快感は何だろうと思うほどの開放感だった。会社時代、B型の自分には何もストレスはないと思っていたのだが、やはりそれなりのストレスがあったのだとつくづく思うことだった。 いざ退職してみると先ず助かったのは近所の気のおけない友人たちと夫婦で集まって2,3年前から毎週土曜日にプレーしていたグラウンドゴルフだった。35年くらい前に私の住む団地が出来て、そのとき前後して家を建てて住み始めて、皆現役時代の忙しい中で、夜な夜な集まって町内会を一緒につくり、苦労したほぼ同年輩の仲間である。その後にはグラウンドゴルフの仲間を中心に町内に小規模ながらどんぐりの会(老人会)も作ることができて更に交流は広がっている。どんぐりの会では新年会や史跡巡りなども楽しむ。 65歳から通い始めて8年間妻共々農業の真似事をしていた(詳細は拙ブログのカテゴリ・エッセイ欄にある)市民農園も大いに退職後の生活を楽しませてくれた。 また旧友たちとの付き合いも楽しい。特に高校時代の同期生たちとは今でも、いやゆっくりなった今だからこその付き合いが続く。同期生は350人。残念だがそのうち分かっているだけでももう50人を越す旧友が亡くなってしまった。同期会の度に、今は亡き恩師や旧友に黙祷をする時にはいろいろな想いが頭の中を駆け巡る。そういう歳になってしまった現実がある。 同期会で還暦旅行と称して行ったロスアンゼルスとラスベガスの旅、博多港から行った釜山の旅、伊勢・熊野の旅、奈良・南紀の旅など参加した旅の数多い。この11月には指宿で「八期喜寿の集い2016」を幹事の一人として計画中である。 同窓会といえばもう一つ今も週一回の練習をする大学時代の男声合唱団のOB会がある。これも私の生活の中で大きな比重を占めている。大学を卒業して小倉市(合併で北九州市になるの前年の小倉市が初任地だった)に行きここで転職その後、長崎市、徳山市(現在は周南市)と転勤し、鹿児島に子会社を作るというチャンスを得て20年後に帰郷した。仕事も軌道に乗った2,3年後だったか再び歌いたくなり同期生を訪ねた。そこで聞いたのはOB会で合唱祭などに出場して歌っているという耳寄りな話だった。私は次の総会に出席して先輩、同輩、後輩に挨拶をし、それから諸行事にも参加するようになった。 参加して2,3年後には先輩方が定年退職で自由な時間を確保できるようになり、演奏会を開こうという気運が盛り上がり、週一回の定期練習が始まった。仕事が多忙だった私だったが時の運と地の利にも恵まれほぼ毎週の練習にも参加し0B会としての第一回目の演奏会を迎えた。それからほぼ3年に一回の定期演奏会が開催されるようになり、昨年7月には第九回目を迎えることができた。幸いこれまで9回の演奏会には全てのステージに立つことができた。それだけではない。県内各地や時には県外から各地に呼ばれて公演や賛助出演、各種イベントなど年間10回近くステージに立つ。これも大きな生き甲斐になっている。 もう一つがこのブログである。これも思いつきで書き始めたブログが開設からの日数が3000日になっている。そして開設日から8年を経過しているのである。それにしては、書いた回数は未だに900回にも到達していない。気まぐれな自分を反映して、最長では6ヶ月も更新をサボったり、1ヶ月くらいは簡単にサボるブログだが、平成23年の秋から始めた「鹿児島の歴史」による記事が多くなってきた。歴史は子供の頃から大好きではあったが、その道に進んだわけでもないし、その後も忙しくてそれどころではなかった。しかし、自由な時間ができたとき、あるきっかけで近所の史跡巡りを始めた。そこを出発点にして今日まで郷土史全般手当たり次第に動き回っている。 この春には退職後少しでも社会に恩返し出来ればと二つやっていたボランティア活動も高齢を理由に辞退して文字通り更に自由の身となった。 このように振り返ってみるとタイトルにした「歳をとるのも悪くない」は「歳をとるのもいいものだ」に変えたいくらい現在の生活は自分なりに充実している。しかし、確実に国指定の後期高齢者という老境に入っているし、あまり無理せず今後の生活を楽しみたい。
2016.05.31
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鹿児島中央駅前のナポリ通りから海岸に続くパース通りの中央に植えられた「日の出霧島」である。先日、神社仏閣巡りをして、石仏や墓標ばかり写したが、通りがかったパース通りでこのつつじに出会いパチリ。この日唯一の華やかな写真である。 話題閑休 何だったけ! そう今日はNHKの朝ドラの話である。 エッセイ「ちりとてちん」2008年3月記 NHKの朝の連続ドラマの存在は昔から知ってはいたが、それを見ようとか、見たいと言う想いは「企業戦士」? の私には頭の隅にもなかった。またそういう暇もなかった。そんな私達夫婦が昨年4月北九州の妻の妹宅に泊まったときのことである。朝8時15分になると妹夫婦が揃って「どんど晴れ」をものも言わずに見ている。私達夫婦もそれにつきあって見た。2日ほど見て「「う~ん なかなか面白いではないか」というのがその時の感想である。 鹿児島に帰って新聞のテレビ欄を見てみるとBS2で朝の7時30分からも放送されていることを発見。これなら出勤の日もゆっくり見ることが出来る。それからである、熱心にドラマを見始めたのは。しかもこの時間の放送には、それに引き続きだいぶ前に放送されたらしい「さくら」も付録でついてきているではないか。まさに一石二鳥である。夫婦ですっかりはまり込んでしまって、それからは朝食の時間もそれに合わせるようになってしまった。おかしなもので出張で見ない日があると、最近ではどこかに忘れ物をしてきたような気持ちになる。そして初めて楽しんだ「どんど晴れ」と「さくら」は終わった。 新しく10月から現在の「ちりとてちん」が始まった。付録は第二次世界大戦前後が時代背景の「都の風」である。その付録も京都、奈良、大阪が舞台で毎日の展開に目が離せない状況であるが、ここでは「ちりとてちん」の話である。 それも主役の関西の女落語家・若狭のお父さんで塗箸職人・和田正典(松重 豊)になんとこの私がそっくりだという話である。ある日、妻が近所のIさんから「お宅のお父さんを毎朝見ているよ」と言われ「えっ 何のこと!」と問い返したところ、「若狭のお父さんに顔も所作もそっくりだよね~」と言われたとのこと。それを聞いた私はそんなことを考えてみたこともなかった お父さんを改めて見てみた。「なんだ! 俺の方がハンサムじゃないか」「あんなお父さんに似ているのかなあ!」(読者の皆さんこの天の恐れも知らぬ厚顔無恥をお許しください。そして俳優の松重さん ゴメンなさい)というのがその時の正直な感想であった。 それからしばらく経って大口市(現在は伊佐市)であった我が「おじさんコーラス」の公演の日である。控室で昼食を摂っているとき先輩のWさんが「クマタツさんな ちりとてちんのお父さんに似ちょっどなあ」「顔もしぐさもそっくいじゃっど」(そっくりだよ)との発言。すると周囲にいた皆が口々に「よ~似ちょっど」「そげん言えば似ちょっどなあ」なだなど一気にその話になってしまった。そこでやはり似ているのかという想いと、皆さんよく朝ドラを見ていることにびっくである。 それから後は、友人に言われたり、妻がコーラス仲間からもよく言われるということを聞きおよび、私も毎朝観察するようになった。よく見ればなるほどよく似ている。ヘヤースタイル、顔の輪郭、横から見る風貌、ちょっとした動きなどなど最近では自分でもおかしいくらい似ていると思うようになってきたから不思議なものだ。最近は昔から自分に似た人間は必ずいると言われていることに納得である。今月でドラマが終わるが、あと何回もう一人の自分を見ることが出来るか楽しみな毎日である。≪完≫ それからは「瞳」「だんだん」「つばさ」「ウェルかめ」「ゲゲゲの女房」「てっぱん」「おひさま」「カーネーション」「梅ちゃん先生」「純と愛」そして現在の「あまちゃん」までとどまるところを知らない。う~ん あれからもう何年経ったのか。数えたくもないが、もうこんなに沢山の朝ドラを見たのか?
2013.04.15
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4月2日の拙ブログに「ラジオと私」をテーマにしたエッセイを書いたが、その中に慣れない車の運転で営業に出かけたことに触れている。営業のテリトリーは北九州とその周辺地域だったがその中に筑豊地区もあった。その筑豊のお得意さんの中で、一番印象に残っている炭鉱のことをあるきっかけで思い出して書いたエッセイがあるので今日はそれをアップしたい。 エッセイ「筑豊炭田の思い出」2011年7月記 最近、筑豊の炭鉱記録画家、山本作兵衛の説明文つきの炭鉱画が、世界記憶遺産に登録されたということで、注目を集めている。それをみて筑豊の炭鉱に少しだけだが、かかわったことのある私は、筑豊のことを懐かしく思い出している。 鹿児島の地元銀行の小倉支店から、全国区の安全産業の会社に転職し九州支店に配属されたのは昭和44年(1969年)のことである。家族もいて30歳目前の転職であり、背水の陣だった。将来は経理マンとして生きるべく入った会社ではあったが、周りを眺めるうちに営業マンとして生きていこうと志が変わった。支店長の後押しもあり、業務中に自動車学校に通い免許証を取得し勇躍営業へ。昭和46年春のことである。安全靴(爪先保護のため鋼板を入れてある靴)や作業服、防塵マスク・メガネなどを工場を中心に営業をするのだ。 私のテリトリーは八幡の西部、若松、筑豊方面である。自動車運転も不慣れな中、筑豊には週一回営業に行っていた。その中に長年の取引先である炭鉱が3つあった。いや3つ残っていたと言う方が正しいかもしれない。というのも、それまでに沢山あった炭鉱の取引先はエネルギー革命による相次ぐ閉山で、もう3つしか残っていなかったのだ。そういう中で先輩社員から私が引き継いだ3社だった。三井山野炭鉱、三井漆生炭鉱、貝島炭鉱である。この3社に坑内用の安全靴を納入していたのだが、会社により、ゴム長安全靴、ズック安全靴、革安全靴など様々である。商品は会社に直接納入するなではなく、生活協同組合や労働組合経由であり、炭鉱住宅(炭住)の近辺にあるため、勤務の交代時間にぶつかると、坑内から出てきた人と行きかうことも多かった。坑内から出てきて、まだ風呂にも入っておらず、顔は墨を塗ったように黒く、過酷な労働のすさまじさを感じさせると同時に逞しさも感じたものだった。 しかし、そのころになると人員も少なくなり、炭住にも空き家が多く、なかには屋根にペンぺん草が生えているような状況でこちらも寂しい気持ちがしたものだ。 そして筑豊を担当してわずか二年後の昭和48年3月、三井山野、三井漆生の両炭鉱が閉山、追いかけるように11月には貝島炭鉱が露天掘りのみを残して閉山するのである。長い間日本のエネルギーを支えてきた筑豊炭田の歴史が終わる最後に立ち会うというめぐり合わせだったのか。それぞれの担当者と最後の商品精算などするのは感無量であった。 昭和26年の炭鉱数は全国に882、九州に473、そのうち筑豊に265あったそうだが、筑豊では貝島炭鉱の露天掘りも昭和51年に中止し、91年間の歴史に終止符をうったとのこと。いずれ筑豊の地を訪れて、炭鉱の歴史と自分の歴史を確かめてみたい。≪完≫ その後の筑豊はトヨタ自動車の進出などもあり、時代や産業の移り変わりを象徴する地域の一つになったように思う。 自伝まがいのエッセイはその後も何篇も書いているが、機会があればまたアップしたい。私はその後、昭和49年12月に長崎に転勤し三菱重工や三菱電機を担当、52年徳山に転勤、石油、セメント、鉄鋼などの業種の取引先にお世話になる。56年鹿児島の子会社を引き受けて帰郷、半導体やパルプ、金山、宇宙開発などの取引先と約30年間仕事をすることが出来た。現役中、日本にあるほぼ全ての業種の皆さんとお付き合いが出来て、広く浅くではあるが、いろいろな現場も見聞きし勉強できたことは他に代えられない財産になっている。
2013.04.07
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昭和15年(1940年)生まれの(随分歳とったものだ)私が子供のころ聞いたものといえば、ラジオと我が家にあった手回しの古い蓄音機くらいのものだった。 ところがどうだ、 このところの情報の伝達手段の発展は目覚ましく携帯電話もいささか旧いものになり、スマホだ、何だともうついていけない年齢になってしまった。まあそれだけ世の中が便利にもなり、文化的なことも享受する機会も多くなったわけだが、反面それを使って悪だくみを企む輩も出てきた。心して使いたいものだ。 そこで懐かしいラジオについて私が退職して2年目、いまから2年前に書いて先輩の主宰する文芸誌に投稿したエッセイが出てきたので、ここに再び書いてみたい。 エッセイ「ラジオと私」2011年4月記 ラジオを久しぶりに身近に感じるようになった。いや 毎日聞くようになったのだ。それも夜ベッドに入ってすぐと、真夜中のほんのちょっとの時間である。そう、あのNHKの「ラジオ深夜便」を少し聞くのである。 それまでは、寝室のテレビを導眠剤として見ていて、たまにはそのまま寝入ってしまい、夜中に目覚めて慌ててスイッチを切るようなこともあったが、ある事情で室内アンテナを他の部屋に持ち去られてしまったので、テレビを見ることが出来なくなってしまい携帯ラジオを愛用することになってしまったのだ。 もっともラジオには子供のころから、様々な思い出が沢山ある。私がラジオと言うものが、意識として残っているのは、5歳で疎開した東郷町での玉音放送を聞いたことだが、その放送の内容を自分で理解したわけではない。当時はラジオのある家庭は少なかったと思うが、疎開先の叔母の家にはそれがあり、沢山の人が集まってきて玉音放送を聞いた記憶がある。 終戦後、父も戦死して貧乏だった我が家にラジオが入ったのは、小学3年の途中までいた東郷町にいる時だったと思う。それは父の弟である叔父からのプレゼントで、当時3球とか5球スーパーとか言っていたラジオだったと思う。初めてスイッチが入り音声が聞こえたときの感激は今でもはっきりと思いだすことが出来る。 鹿児島市に戻ってからもしばらくはそれを聞いていたような気もするが、その後の我が家のラジオの歴史は覚えていない。子供のころ、夕方の楽しみとして新諸国物語「白鳥の騎士」や「笛吹童子」「紅孔雀」などを夢中で聞いたものだった。その後の「赤胴鈴之助」のテーマ音楽などは今でも歌えるくらいだ。子供だった私には興味はなかったが、放送時間には銭湯が空っぽになると言われたあの有名な「君の名は」もこのころ放送されたものだと思う。 昭和20年代も後半になって、鹿児島でも民間放送局が開局することになる。たまたま従兄弟が南日本放送の初代アナウンサーの一人となったので、私も大いに興味をもって従兄弟にいろいろ聞いたり、当時南日本新聞社内にあったスタジオの見学や、従兄弟の司会する「職場対抗源平歌合戦」の公開録音などにもよく出かけたものだった。 その後、世の中はテレビ時代に入り、ラジオとはほとんど縁がなくなったが、再びラジオに親しんだのは就職をし、転職も経験し、そこで営業職として車を運転するようになった30歳過ぎからである。運転は初心者で100万都市の北九州市とその周辺をおっかなびっくりの運転であったが、そのうち少しづつラジオを聞く聞く余裕も出てきた。 その中でいまでも懐かしく思いだす番組がある。確か福岡の地元 RKB毎日放送の番組だったと思うが、毎日だったか、週一回だったか、後の直木賞作家で歴史・海洋時代小説家の白石一郎氏が出演して、いつも為になる、素晴らしい話をされていた。いまでもその声は耳に残っている。残念ながら10年近く前に故人になってしまったが、作家だけあっていろいろなことに造詣が深く面白いので、その時間は出来るだけ車上におり、放送を聞き逃さないようにしていた。そのこともあり、当時彼の小説もよく読んだものだった。北九州を離れてからもその動向に注意していたが、何回も直木賞候補に上がりながら、やっと「海狼伝」でそれを手中にしたのを知ったときは自分のことのように嬉しかった。手許に「海王伝」「戦国武将伝」「戦鬼たちの海」「海狼伝」などがある。 しかも本人亡き後の2010年、そのご子息である白石一文氏が「ほかならぬ人へ」で親子二代にわたる直木賞作家となる嬉しいニュースもあった。 そして「ラジオ深夜便」である。私は聞き始めて半年も経たないが、その存在は早くから知っていたがそれまでは聞くことも無かった。知人が投稿して何回も放送にのせられた話も聞いていたし、あるときその放送の録音も聞かせてもらったこともある。 そして眠られぬ夜の良い慰めになる番組であることも人に聞いたこともあり、興味は持っていた。それを今回毎日、少しづつ聞くことになってしまったのだ。夜の11時過ぎ、あの何とも言いようのない安らぎの音楽に始まり、朝の5時までの番組だが、私が聞くのは11時半くらいまでの10分くらいと、トイレに起きる4時前後の歌やインタビュー番組の一部である。人によっては、小さな音声で一晩中スイッチオンのままにしているということも聞くが、私は幸い眠気がすぐ来るので、すぐオフにして眠ってしまう。それでも最近の睡眠時間は6時間から7時間くらいのものである。ラジオを友にしながらも、いつまでもそれくらいは眠れる身体と精神を維持したいと思う今日この頃である ≪完≫ いま こうして読み返してみると、現在は2年前よりもよく眠るようになったのか、寝入りばなは聞くが、夜中には一週間に1,2度しか聞かないようになっている。これが、まだまだ健全な身体と精神を保っている証拠なのかと思うことにしよう。
2013.04.02
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2週間ぶりの更新である。もう弥生三月になってしまった。「二月は逃げる」とは昔の人はうまく言い表したものものだと思う。日数が少ないこともあろうが、ほんとに二月はあっという間に逃げて行ったというのが実感である。こうして歳を重ねていくのかなあ? 徒然なるままに旧いエッセイを読み返していたら、私が閑になって急に主夫業に目覚めたころ書いたものが出てきた。このエッセイを書いた頃と現在の生活はほぼ同じに推移しているので披露してみる。 エッセイ「主夫業 定着?」 (2009年10月記) 私の会社からの完全リタイアを待っていたかのように、妻の持病の手荒れが酷くなってきた。昨年までもそうだったが、夏の入り口くらいから特に毎年悪くなるようだ。皮膚科も何軒もまわり、色々なアレルギー反応の検査なども受け薬を試してみたがなかなか良くならない。民間療法も取り入れてみたり、大概のことはやってみた。 今年は伊集院の太田鉱泉まで霊験あらたかという冷泉の水まで買いに行く始末だった。これも二カ月くらい続けてみたがどうもはっきりしない。 こうなれば、しばらくの間、出来るだけ水を使う仕事を控えて、しかも乾燥を防ぐ手立てを講じなければならない。市販の手袋はどれも「帯に短し、たすきに長し」という感じでぴったり来ないという。そこで私の働いた会社が特殊な手袋を無数に取り扱っていたので、取り寄せてもらった。そして買いに行ったとき、別な試供品なども貰えて、いま5、6種類の手袋をTPOに応じて使い分けているようだ。 そういうことで、茶碗洗いくらいは私がやろうと自分から手伝うようになった。結婚して40数年、忙しさと怠け心からたまの風呂掃除と買い物のつきあいくらいしかしたことのなかった私にとっては、それでも革命的なことである。洗い物は茶碗・皿から鍋・釜までご飯を炊くための米とぎまで、もちろん一切である。少ない数ではあるが、一日三度、必ずやらなくてはならない仕事であり、やり始めてみるとそれなりに大変なことだ。「まだ子供たちも家にいたころからの40数年毎日よくやってきたねえ」と妻に言ったほどだ。だが慣れない仕事ゆえ、たまに皿を割ったり、傷つけたりするが、妻に「ランニングコストだから・・・」と慰められるのか、励まされるのか分からない言葉をかけられながらやっている。 最近は朝6時、妻と一緒に散歩に出かけ、7時ごろ帰って草花の水やりの後、私はコーヒーを沸かし、パンにバターを塗り、トーストにする。妻は我が家特製の果物入りヨーグルトの準備をして朝のドラマ「ウェルかめ」と「街道てくてく旅」を見ながら食事をすることが、朝の定番になってきた。 そんなかたちで一日が始まるが、妻は最近、以前にも増して出かけることが多くなった。所属する二つの合唱団が二つとも近く大きな行事を控えているためだ。一つは日本の合唱界の大御所であったT先生の七回忌の祈念コンサートが東京であり、お世話になった合唱団の一員として、それに出かける練習のためである。T先生は2、3カ月に一回、鹿児島にみえて、妻の所属する合唱団の指揮をされておられたが、お亡くなりになり、その後を今度は息子さんにお願いして同じ形で指導を受けている。 もう一つはこれも所属する合唱団の指揮者の先生が別の合唱団も指揮をされており、この二つの合唱団が12月11日ジョイントコンサートを開こうというのだ。こちらは役員もしているので、その打ち合わせのため練習日以外にも出かけることが、多くなっている。 それやこれやで最近は否応もなく、私の出番が多くなったわけだ。洗い物の他、朝のゴミ出し、洗濯物の取り込み、簡単な買い物などなど我ながら少しは仕事のレパートリーが増えてきたなあと思う。だが決定的な料理、洗濯は一切やらない。いや未だに料理は全然出来ないし、洗濯機も動かし方も分からないのだ。 ということは、私の主夫業と言ってもたかが知れたもの!妻がやったことの後始末だけじゃないか!でもまあ、そう自嘲的にならずに頑張ることにしよう。【完】 現在から見ると約3年半前の出来事だが、つくづく進歩がないなあと思う。その後、当ブログにも書いたように、数回の料理教室参加はあったものの、相変わらず料理はインスタント以外は手を付けていないし、洗濯機も動かせない。今も、反省点は同じ「でもまあ、そう自嘲的にならずに頑張ることにしよう」お後がよろしいようで!
2013.03.01
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1月7日の朝、鹿児島でも「七草粥」を食べる風習がある。鹿児島では「七草ずし」(雑炊の意味らしい)とか「七とこいのずし」と呼ぶことが多い。 我が家の簡単なレシピは、買ってきた七草の他、そこらにあるゴボウや人参や里芋、油揚げなど何でも放り込んでいるようだ。これに小さく切った餅を入れて、味噌仕立てで食べる。見かけは決して良くないが、大変おいしい。 ただ若い人の家庭では、どれくらいの家庭でそれをつくって食べているのかは皆目見当もつかないし、一般家庭でも作らなくなった家庭が多いようだ。もっとも6日のスーパーにはセットになった七草が沢山売り出される。雑煮を作らない家庭もあるくらいだから、寂しいことだ。 それでも鹿児島では「七草祝」の風習もあり、1月7日はおめでたい一日である。それは数えの7歳になった子供に晴れ着を着せて、神社の祈願を受けた後、親戚や友人宅を7軒回って七草ずしをもらうというものである。 七草ずしを戴くにはお膳にお椀を載せて親戚など7軒を訪問し、「七歳になりました。これからもよろしくお願いします」などと挨拶をして、お椀に少し装ってもらうものだ。差し上げる方は、お祝いやお菓子を一緒に差出し、もらう方は記念品を置いて帰る。 しかしこの風習も残念ながら忘れ去られつつあり、最近はその目出度い姿を見ることもほとんど無くなった。地方ではまだ普通に行われているのかもしれない。 私が以前書いたエッセイが出てきたのでここに再現したい。 エッセイ「七草がゆ」 2009年1月記 今年は1月7日、昼ごはんに「七草ずし」を食べた。私は勤務日であったが、娘や孫たちも我が家に食べに来るというので、昼休みに自宅に帰った。お呼びしていた婿のお父さんもみえて、賑やかな昼食になった。 七草ずしと言えば、私たちの子供の頃は7歳になると、この日は男の子は紋付き袴、女の子は振袖姿で親戚や友人の家を回り「七ところずし」をもらって歩いたものだった。今もそれをする家庭もあるようだが、その晴れ姿はほとんど「七五三」のものになってしまった。 私の七草の思い出は、疎開先の東郷町でのものだ。終戦の翌年だったにも関わらず、誰かのお下がりだったのか、紋付き袴姿で2,3軒親戚を回った記憶がある。そのとき一人の従兄弟が「写真機があれば、写してあげるられるのになあ」と言って残念そうにしていたのを忘れることが出来ない。敗戦後のことでそれすら出来ない時代だった。 七草ずしは物心ついてから鹿児島を離れる22歳まで毎年食べていたが、就職して親元を離れて北九州に行ってからは、食べる機会がなかった。当時、意識はしていなかったが、私にとっては、いわゆる「おふくろの味」となっていたのであろう。結婚すると北九州育ちの妻に私があれこれ指南しながら鹿児島風の「七草ずし」を作ってもらった。ところが毎年作ってくれても、もう一つどことは言えないがピンとこない。少し違うぞと言いながら20年近くが過ぎて、一家で鹿児島に引き上げてきた。 そこで同居した母に材料から作り方まで「七草ずし」を教えてもらった妻曰く「お父さんの教えてくれたものは違っていた・・・」そこでも私のいい加減さが露呈してしまった。それから後は、七草ずし作りの名人になり、今は亡き母を超越してしまったかのようなおいしいものを作ってくれる。孫たちも毎年我が家で食べるのを楽しみにしているようだ。 同じようなことは「かいのこうつい」(かいのこ汁)でもあった。これも我が家では昔からお盆の8月14日と15日の朝食べる習慣があった。結婚の後、これも同じような経過をたどり、今日我が家に再び定着したものとなっている。 ただ一つ我が家の伝統食から無くなったものがある。それは元日の朝食べる里芋の八頭の親芋で作った味噌仕立ての雑煮である。それは大きな親芋を丸いまま入れてあり、お椀からはみ出しそうだった。元日の朝はそれだけを食べて学校の新年の会に行ったものだ。今でも叔母の家などでは、それを食べているようだが、我が家ではいつの頃からかその風習は無くなり、普通の雑煮で祝うようになった。 その他にも沢山ある節季ごとの風習や料理など伝統的なものが、少しづつ無くなっていくようで、寂しい気がしてならない。十五夜の飾り、お盆の提灯を持っての墓守、先祖の命日のおはぎつくり、餅つきなど私たちが子供のころ祖父母や親から教えられてやってきたことが、だんだん無くなってきた。 昔からのそのような節季ごとの風習を出来るだけ子や孫に伝えるのも、我々のつとめであると思いそのようにしているが、孫たちも興味を示してくれていて嬉しいことだ。子供のときからいろいろなことを教えたり体験させることが、大切だなあと思うこの頃である。(完) ということで、今年も七草ずしを腹いっぱい食べることが出来た。餅の大好きな私は小さく切った餅を五個も入れてもらった。
2013.01.07
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今年10月15日当ブログに「長崎は今日も晴れだった」というエッセイを書いたが、今回はまっとうに「長崎は今日も雨だった」について書いたものをアップしたい。これも2年前長崎の思い出に書いたものでいささか旧いものだが、それだけ長崎に対する私の思い入れがあるということだ。 エッセイ“「長崎は今日も雨だった」を語る” 2010、10月記 2010年10月某日、BS朝日のテレビ欄に“うたの旅人 長崎は今日も雨だった”とあるのを発見。そして午後10時私にとって楽しい時間が始まった。 この歌は演歌も大好きな私にとってベスト10に入るお気に入りの歌である。恐らくその誕生秘話などが聞けるのではとの想いでテレビを見たのだが、その想いを十分に満たしてくれる番組だった。 それによると、この歌の誕生は1969(昭和44年)2月だったとのこと。今思えばその年は私が2年越しで模索していた転職が11月に叶った年である。当時この歌にどういう思いを抱いていたかは思い出せないが、少なくともその翌年くらいには、まだカラオケもない中で職場の飲み会などで歌っていた記憶がある。自分の声域と合うことや、なにか惹かれるものが当時からあったのだろう。本当に忘れられない歌になったのは、縁あって、その後長崎に転勤し長崎の良さにすっかりはまりこんでしまったせいでもある。 番組で一番興味深かったのは、その誕生のいきさつである。当時、夜の長崎のキャバレー“銀馬車”と“十二番館”は競合店として争っていた。そして「内山田洋とクールファイブ」の銀馬車より一足早く十二番館所属の「中井昭・高橋勝とコロナティーノ」があの“思案橋ブルース”をひっさげてメジャーデビューしてしまった。 それを見た銀馬車も負けてはおられない。次長の吉田孝穂が永田貴子(ながたたかし)のペンネームで書いたのが「長崎の夜」。それを当時北海道放送のディレクターだった彩木雅夫に依頼し、彩木が語呂の合わない歌詞を変更し“長崎は今日も雨だった”として作曲しこの歌が誕生した。 メジャーデビューはチャーリー石黒の推薦により、日本ビクターのプロモーションで売り出す計画で始動した。そして内山田洋一行は長崎から夜行列車で上京し、レコーデイングしたが、当時から強力であった渡辺プロから声がかかり、その力もあって翌日からテレビにも出られる状況だったと前川清は語っている。これがのちに累計売上150万枚を売り上げる曲のスタートであった。 そしてその年の「第11回日本レコード大賞新人賞」の獲得と「第20回NHK紅白歌合戦」への出場を果たす。 しかし最初はこの曲のキャンペーンには銀馬車も苦労した。当時170人いたホステスに一人100枚づつのレコードを買わせて、ホステスはそれを客に売るという手法をとった。当時は造船業も好況で三菱重工の客が多く、重工の人が来店すると“軍艦マーチ”を演奏して迎えていたほどの上客だった。当然ホステスは重工の人にも多くのレコードを売ったそうだ。 そしてもう一つ興味深い話があった。それは“長崎は今日も雨だった”の前に別のメジャーデビュー曲が検討されたという話である。それは後にこのクールファイブが歌うことになる“西海ブルース”だった。これは当時佐世保で流しをやっていた尾形義康の持ち歌でレコード化寸前までいったが、ある事情で駄目になってしまった。しかしこの歌も1977年吉田(永田貴子)が補作して内山田洋とクールファイブの歌として日の目をみることになる。 そしてこの“西海ブルース”こそが私がカラオケで一番歌った歌といっても過言ではない大好きな歌なのだ。この歌は1975(昭和50年)から1977(昭和52年)まで転勤先の長崎に住んだその最後の年に発表されて、次の転勤先山口の徳山市(現在・周南市)のスナックなどで私は歌い始めたような記憶がある。 長崎在住時に一回だけ「銀馬車」に行ったことも今となってはよい思い出になってしまった。当時小倉に住んでいた妻の叔父が長崎の我が家を訪ねてくれたとき、その叔父の戦友が長崎に住んでおられて、私もご相伴にあずかり、「銀馬車」に招待を受けたのだ。もちろんもう当時のクールファイブは日本全国で活躍中で、そこには名残もなかったが、キャバレー全盛時で紫煙に包まれて大変な賑わいであった。後にも先にもこの一回きりで今は亡き叔父との思い出の一場面となっている。 そして1981(昭和56年)鹿児島に帰って独立してからは、接待や同窓生との集まりも多く、その2次会などで、酒を飲めない私ではあったが、いつも“西海ブルース”を歌っていた。私にとっても良き時代であった。 その後、前川清は体調のこともあり、クールファイブを離れて独立するが、クールファイブ時代の持ち歌もそのまま歌っていた。残されたクールファイブも新しいソリストをメンバーに加え同じ歌を歌っていた。ところが2006年11月リーダーの内山田洋が病気で亡くなってしまった。その追悼のテレビ番組で前川清とクールファイブが一緒に歌ったことなどが、きっかけとなり、最近は「前川清とクールファイブ」としてテレビ出演や公演が多くなってきた。一ファンとしてこんなに嬉しいことはない。 前川清はこの番組の中で“長崎は今日も雨だった”は自分の代表曲としての想いが強いらしく「自分が死んだら、この曲を送葬の曲として使ってもらいたい」とまで言っていた。 私もこれからも“長崎は今日も雨だった”や“西海ブルース”を機会あるごとに歌いつづけたい(完) そういうわけで、今日は私の演歌に対する想いを振り返ってみた。毎週一回の叔父さんコーラスで男声合唱というあまり世間には馴染の薄いことをやっているが、これもむつかしい? 歌ばかりでは無く、最近はポピュラーな歌も多くなってきている。例えば「川の流れのように」「秋桜」「少年時代」「あの素晴らしい愛をもう一度」「我が人生に悔いなし」などなど。でもたまにはカラオケで一人で歌いたいものだ。
2012.12.11
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私は3年半前の2009年5月まで仕事を続けることが出来て、70歳まであと数カ月というところで、完全リタイヤした。 もっとも、65歳までは常勤であったが、それ以降は親会社に復帰する形で九州管内のグループの全ての監査業務を行うという仕事につくようになり、勤務も平均すると週三日ほどのものとなった。 監査の仕事を引き受けるにあたって、車の大好きな私は車での出張OKをもらって、5年間ほとんどの出張を車で動いた。次のエッセはそのころ書いたものである。 エッセイ「出雲大社と足立美術館」 2009年3月記 いよいよ終わりの近づいた会社生活のなかで2月24日から26日まで北九州は小倉の仕事である。そこで小倉が里である妻も車に乗せて、23日の夕方、高速道路を一路小倉に向かった。 65歳から親会社に復帰する形で監査の仕事を始めてから小倉行きも4回目だが、いずれも妻同行で妻の妹の家にお世話になってきた。24日は仕事の後、40年以上前、一緒に歌っていた北九州混声合唱団の友人たちと食事会をして旧交を暖めた。これも数年来の行事となっている。 仕事の全日程も終えた27日、妹ふうふも誘って予約済みの“びっくり皆生温泉と出雲大社参拝”の一泊二日のバスツアーに出発した。福岡始発のバスに乗り込んだのは、私たち二組の夫婦と女性3人組の7人、そして満席となったバスは関門橋を渡りいよいよ中国路へ。 三次インターで降りて「三次ワイナリー」で焼き肉の昼食。そのあと国道54号線を出雲大社に向かう。民家の作りも屋根瓦も九州とは違うなど新しい発見もある。初めての土地の雪が残る風景もまた風情がある。途中「道の駅 掛け合いの里」でトイレ休憩。そこには今話題の民主党 小沢代表とも関係の深かった竹下元首相の銅像もあった。案内によるとこの掛合町が出身地とのこと。旅では思わぬところで、思わぬものに出会うものである。興味だけでつい一枚写真を撮ってしまう。 午後4時過ぎやっと出雲大社に着く。いまさら縁結びの神様でもないのだが、一回は訪れたかったところである。今回のコースを選んだのもそのためと言っても過言ではない。ツアーバスの駐車場と時間の関係で参道をゆっくり歩くことは出来なかったが、日本一の注連縄を見たり、銅製の鳥居を見たり十分楽しむことが出来た。ただ本殿は平成20年から6ねんがかりの「平成の大遷宮」に入っているため、御仮殿でのお詣りとなった。境内の土産物店に入ると今放送中のNHKの朝ドラ「だんだん」に因むお菓子類も多い。 その夜は、皆生温泉に宿泊したが、冷えた体に温泉は心地よかった。お膳に並んだ蟹料理に舌鼓をうち翌朝ホテルの窓から雪の大山を眺め堺港の魚市場へ。 ここも蟹や烏賊など海産物が並ぶ。皆さん競うようにお土産を買っていた。またこの町は出身の漫画家・水木しげるのおばけのキャラクターで有名なところでもある。市場の前にも「げげげの鬼太郎」の大きな像があった。 そのあと、今回二番目の楽しみとして期待していた足立美術館へ。横山大観の作品収蔵が多い美術館として有名だと聞いていたが、先ずびっくりしたのは、ここの庭園である。2003年から2008年まで6年連続庭園コンクールで第一位を獲得したとのことで、借景をも取り入れたそのスケールといい自然と人工の調和美など正に日本一にふさわしいものであった。大観を中心とする日本画等の美術品も素晴らしく絵心もない私でも十分楽しむことができた。ただバスツアーの悲しさ、ここでの時間は90分しかなく、庭園も含めた見学には時間が足りない。最後の北大路魯山人の焼き物のコーナーは駆け足で廻ってやっとバスの集合時間に間に合った。ゆっくり半日くらいはとどまりたい場所である。 帰りは宍道湖湖畔の「勾玉ミュージアム」にて、そば御膳の昼食。思い出と名残を惜しみつつ再び九州に帰ってきた。出雲大社、足立美術館など次は自分の車でゆっくり行ってみたいものだ。自分で行くと最低でも2泊3日のコースである。 非日常に身を置く“旅”はどんなものでも楽しいものだ。この3月14日は、「龍馬ハネムーン・ウオークイン霧島」に参加し天孫降臨の高千穂峰登山に挑戦しようと思う。(完) その高千穂峰登山も好天に恵まれ予定通り無事終わることが出来た。ただ高千穂峰(ここは宮崎県の高千穂峡ではありません)霧島連山の中でも最もハードな山であり、学生時代以来、40数年ぶりに登った我が身には大いにこたえた。高齢者の登山としては、大浪の池、中岳、新燃岳、韓国岳などの方が楽しんで登れるようだ。
2012.11.09
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写真は浦上天主堂。ちょうど桜が満開だった。 私は昭和37年、学校を卒業し鹿児島の地元企業に就職したのだが、新人研修会を終わって配属されたのは、福岡県の小倉市だった。5市合併で北九州市になる前年のことである。日本経済も勢いがあり、これから発展するという頃で、昭和39年には東京オリンピックが開催された。 そういうなかで、昭和44年、今度は全国区の会社に転職し、九州支店(八幡東区)に配属された。そこで、内務と営業の仕事を5年間、昭和49年の暮れに長崎支店に転勤になる。長崎には3年間しかいなかったのだが、家族を含めて人情良し、食べ物良しなどいろいろな意味で忘れられない土地である。その後山口県の徳山市(現在の周南市)に転勤し、5年後に鹿児島に帰るという経路をたどる。 鹿児島に帰って親会社の地元法人を引き受け、65歳までその任に当たるのだが、65歳から70歳まで親会社の監査室勤務となり九州管内の店販社の監査を担当することになった。その時、長崎に監査に行った時のエッセイが出てきたので・・・。 エッセイ「長崎は今日は晴れだった」 2008年4月記 私は歌謡曲も大好きである。とりわけ昔の“内山田洋とクールファイブ”の歌は大のお気に入りである。もちろん現在の前川清も大好きだ。それは彼の歌が、私の声域に合っていることも大きな要因であるが、何よりもあの声を張る歌い方が大のお気に入りである。コーラスではやってはいけない歌い方なのだが・・・。それでも機会ある毎にカラオケでよく歌ったものだ。中でも一番の愛唱曲は「西海ブルース」である。この歌は私が長崎から山口県の徳山に転勤した翌年ごろ世に出た歌で、長崎への思い入れの深かったのに加え、郷愁もあって大好きになったのである。彼の歌では「長崎は今日も雨だった」「逢わずに愛して」などがそのあとに続く好きな歌である。 もちろん好きなのは前川清ばかりではない。竜哲也の「紬の女」や平和勝次とダークホースの「宗右衛門町ブルース」などなど好きな歌は枚挙に暇がない。古いところでは藤山一郎の「長崎の鐘」もよく歌った。 そんな大好きな歌のふるさと、長崎に今年も行った。その日から帰るまでの4日間、桜の咲き始めた長崎は歌に反して晴れだった。もちろん主目的は昔3年間勤めた事務所での仕事である。 今回は仕事の始まる前日の昼過ぎには着くようにJRを利用した。九州管内に行くときはほとんど車を使っていたが、今回は途中もゆっくり楽しみたかったからだ。長崎に仕事で行くのはおそらく今年が最後だろうとの想いがあったからだ。昔、3年間住み、その後も何回となく訪れた長崎であるが、まだ見ていない場所も多い。駅から歩いてもそう遠くない中華街に先ず足を運んだ。懐かしい“江山楼”でちゃんぽんを食べる。そのあと長崎新地中華街の門を3か所とも見てまわる。「1985年 王震」と書いてある。それから道路を隔てた“湊公園”に憩う。しばし旅人気分で春の陽射しを楽しむ。 そこから歩いて再現された“出島”に向かう。ここは、私が長崎に住んでいたころは、まだ再現されておらず、今回特に行きたかった場所である。ゆっくりと2時間くらいの時間をかけて見てまわる。出島とオランダ商館の1639年からの約200年にわたる歴史を再現しているが、163人にわたる商館室長をはじめ興味深くみることができ好奇心を満たしてくれた。外国人の見学者も多い。あとで分かったことだがこの日は長崎港に外国の大型観光客船STATENDAM号も入港していた。 出島を出て中華街の山手にある“唐人屋敷跡”を訪ねた。ここは現在、館内町となっているが、鎖国時代は出島とともに海外に唯一開かれた窓口であったという。主な史跡として残されている観音堂、福建会館、天后堂、土神堂などを見てまわる。 最後に長崎港を見渡せる大波止海岸に向かう。出島ワーフを眺めながら水辺の森公園へ。ここから素晴らしいビーナスウイング・長崎女神大橋を眺める。橋長 1289m、 主塔高 170m、完成年月 2005年12月の比較的新しい橋である。この橋は長崎市の西部と南部を結ぶもので私は昨年、妻と一緒に車でわたってみた。長崎に住む人や、いくらかでも長崎を知る人にとってはバイパスも兼ねるこの橋は大変役に立つ橋である。 こうして夢のような長崎の前段の一人旅の部分は終わった。翌日から3日間、浦上天主堂の真下にある平和町の事務所で仕事、ただ昼休みは桜の咲き誇る平和公園や原爆落下中心地、浦上天主堂などを散策し私の今年の春も充実したものとなった。(完) こうして改めて読み直してみると、遊ぶことに夢中で仕事は二の次だったように思うが、監査という人からは敬遠される仕事がら、しっかりとやってきたつもりである(笑)長崎についてはこのように思い入れも深いためエッセイも何本か書いているので、また機会があればここに書いてみたい。
2012.10.15
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屋久島は鹿児島県の大隅半島南南西約60kmの海上に位置し、その一部が世界自然遺産に登録されて一躍有名になった。 一方、種子島は同じ大隅半島の南約35kmの海上に位置し、宇宙センターのある島として有名である。 その二つの島と私の現役時代の仕事を通じての関わりなどを書いたエッセイを紹介したい。 エッセイ「種子島と屋久島」 2009年9月記 種子島と屋久島、鹿児島の人間にとっては、二つとも身近ではあるが、まだ行ったことのない人も多い島ではないだろうか。幸い私は種子島に15回以上、屋久島には20回以上は行っている。もっともそのほとんどが、仕事のためであって、観光はほとんどしていない。 「安全」を売り物の企業に勤務したが故に、鹿児島県内のほんとんどの大手企業や官公庁などがお得意さんだった。そういう中で、種子島には誰もが知っている“種子島宇宙センター”があり、また屋久島には知る人こそ少ないが、日本の国内生産の大部分をまかなっている「炭化ケイ素」製造・販売のY電工がある。「炭化ケイ素」は耐火物やファインセラミックスの原料となるものである。炭化ケイ素の製造には屋久島の豊富な水力発電による電熱が不可欠だからである。 先ず種子島である。宇宙センターやその協力会社にはよく売り込みや打ち合わせに行ったが、最初の頃はまだ高速船もなく、飛行機での日帰りもよくやっていた。鹿児島空港から中種子空港に着き、そこからタクシーで宇宙センターのある南種子まで往復するという経費もかかるものだった。 しばらくすると高速船が運航されるようになり、種子島まで95分で行けるようになった。上陸後、西之表港から宇宙センターまでレンタカーで行きセンターや協力会社での仕事を済ませ、西之表に引き返し一泊する。そして翌朝鹿児島を出港してきた屋久島行きの高速船が寄港したものに乗り、屋久島に向かい仕事をする。その後、夕方の高速船で鹿児島に帰る。これで仕事の効率もあがるようになってきた。 宇宙センターでは、機密保全や安全確保のため、当然のことながら、きびしい二重、三重のチェック体制がとられていて見学出来ない場所も多いのだが、我々の仕事柄、衛星を組み立てるクリーンルームを外から見ることの出来る場所や打上塔の上階まで案内されることもあり、商品の打ち合わせに役立つとともに大変良い勉強をさせていただいた。 宇宙センターで働くスタッフは協力会社の人に言わせれば、作業服を着ている人もほとんど博士号を持った人だということで、科学に弱い私は対等に話が出来るかどきどきものだった。しかしそれも杞憂に終わり、大きな商談も幾つかまとめることが出来た。 次に屋久島である。ここにもY電工の他、その協力会社や製薬会社など数軒のお得意さんがある。Y電工は製品の他、豊富な水力を利用しての水力発電を行い、全島の企業や一般家庭に供給している。ここでも高温の炉の周辺で説明を聞き、相談に乗りながら商談をまとめることが出来た。 商売はほとんどの企業がそうだと思うが、特に我々の商品はリピート性の強い消耗品といわゆるスポット商品とよばれるある機会にのみ使われるものの二通りがある。販売計画もその両方を織り込んだもので、その達成には約40年間苦労も多かった。ただ経済発展や安全重視の時流にも乗り、今となれば苦労は忘れてしまうくらい全体的には順調だった。特に鹿児島に帰ってきてからの20数年は種子島、屋久島への依存度も結構大きく、その意味でもおおいに助けられて忘れることの出来ない場所である。出会った人も数多く、仕事を離れた今もつきあいのある人もいる。 仕事のことは抜きにして、私の種子島・屋久島の紹介を少し!種子島は仕事でしか行っていないが、標高282m、面積445平方Km、海岸線延長186km,人口33000人。ロケットの射場のある宇宙センターは「世界一美しいロケット基地」と呼ばれているだけあってその竹崎海岸は絶景である。その他でも、Iホテルのレストランから眺める海岸の奇岩など海辺の景色はさすがと思わせる。また西之表のホテル近くの料理屋は新鮮で安価な魚料理を腹いっぱい食べることが出来る。 それは屋久島も同じで食堂に入って「刺身定食」を注文すると、生簀に泳ぐ魚を目の前ですくって造ってくれのにはびっくりしたものだ。屋久島のお土産に今朝お得意さんが自分で捕ってきたという水烏賊をいただくこともあった。また宮之浦港の近くの魚屋さんで「飛び魚のすり身」を買って帰り、「つけあげ」(さつま揚げ)にして食べるのも家族中が喜んだ。 屋久島には会社の旅行でも2回行ったが、残念ながら登山までは至っていない。それでも屋久杉ランドで深山の雰囲気を味わうことは出来たと思う。そのほかウミガメの産卵で有名な永田浜やガジュマル、沢山の滝など見どころはいっぱいである。屋久島は宮之浦岳をはじめ標高2000m級の山がつらなっており、面積503平方Km,周囲132Km,人口13570人の島である。 (完) と、まあ2009年9月当時こういうことを書いているが、その年の5月20日に完全リタイヤしたばかりで、まだ仕事のことが頭から抜けていないなあと思い思わず苦笑してしまった。リタイヤから3年数カ月経った私には、もう仕事のことをこんなにリアルには書くことは出来ないし、また書くこともないだろう。
2012.10.04
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数カ月前、近所の友人で元大学教授が本の大整理をされたとの話を聞き、私も大いに刺激を受けた。私の本なんて先生に質量ともに及ぶべくもないが、それだけに読み捨てていい本が沢山溜まってしまっている。特にこの10数年は、安売り本屋さんで手軽に買えることもあって溜まる一方であった。 そこで、これから現在時点で読み返す気持ちがある本とその気がない本を先ず区分けすることにして、少しずつ見直しを始めた。日頃読む必要のない本は、物の奥に隠れてしまっていたものもあり、新しい発見もあった。日本史が好きだったことや、その昔卒業論文に歴史関連のことを書いたこともあり、歴史の専門書や西郷隆盛などの本も相当数出てきた。このところ改めてやり始めた分野のほんである。買ってから50数年を経た本もあり、古色蒼然としているが、読み直すに十分な本ばかりである。いや むしろこれからの方が楽しみながら読めそ少しづつ読み始めたところである。 整理して、要らなくなったものから、火曜日の紙類のゴミとして廃棄を始めたが、少しも進んでいない。そこで以前「本を整理する」というエッセイを書いたことを思い出したので、ここに書いてみたい。なんとそれは3年前のエッセイだが、その時から少ししか進んでいないことに自分でも唖然とする。自省もこめて、恥をさらしたい。 エッセイ「本を整理する」 2009年11月記 退職して6カ月、11月に入り、良い季節になった。これまで溜め込んできて気になっていた本や写真の整理をやろうかと思い立った。本棚4戸と部屋の隙間などに置いており、いざ読みたい本を探し出すにも、ウサギ小屋をうろうろしなくてはならない有様なのだ。しかも1階、2階に分かれて置いているので行ったり来たりで手間もかかっている。 文庫本が多いので、本棚を有効に使おうと横並べ、縦積み、二重置きなどしているので探し出すのに前面に置いている本を一旦前に取り出し奥の本を探す手間も必要なのだ。 サボりサボり整理を始めて1,2日も経たない中で、狙い澄ましたように、あるきっかけで昔読んだ本を探し出す必要に迫られた。梅原 猛著「隠された十字架 法隆寺論」である。これは比較的容易に探すことが出来た。 ところが、それも読み終わらないうちに今度は勝谷 誠彦著「いつか旅するひとへ」を探し出すことになった。たまたまブロ友がその本の中に本名で出てくるのだとのこと。好奇心の塊の私は昔読んだこの本を探し出してもう一回読み直すことにしたのだ。こんなに連続して、昔買った本を探し出すことは、滅多になかったのだが、2冊もそういう偶然に驚きながら、探すのだがなかなか出てこない。探し始めて2日目、前日も探した場所からやっと見つけることが出来た。 せっかく思い立った本の整理を早くやらないと、こういうことになるのだと反省し、とりあえず作家別、ジャンル別に仕分けることにする。ところが、ゆっくり本を手に取りながら整理していくと、懐かしい本やもう一回読み直したい本が次々に出てくる。 そんな中で、五木 寛之著「青春の門」が目についた。第一部の筑豊編に始まり、自立編、放浪編、堕落編、望郷編、そして第六部の再起編までである。私の持っているこの本はそれぞれ上・下巻になっていて以前から数冊は持っていたが、全部揃うまでにはBOOK・OFFを廻りながら日にちをかけてやっと集めて読んだ経緯がある。そしてなぜか当時は再起編で完結と思い込んでいたが、読後感からして続編があるような余韻を残していた。そこが気になり、パソコンでフリー百科事典 ウィキペディアで「青春の門」を探してみた。なんとそこで見たのは第七部「挑戦編」と第八部「風雲篇」が続編としてあるとのこと。最近もBOOK・OFFdesagasiteいたので、目にすることがなかったのだ。また本屋に行って探す楽しみが増えた。 そのような状態で整理は進まないが、やっと7割方の整理は出来てきたように思う。私の読書は好きな作家とジャンルが偏っていると思うのだが、それでもBOOK・OFFの百円コーナーなどでは、そうでない分野の本も面白そうそうだとついつい買ってしまう。 そういう本の中で好きな作家が出てきたりして、本棚は分裂症の状態を呈している。今回作家別に分類してみて、一番多かったのはB・N、この作家の本はマニアックで、私は40冊を超えていた。藤沢周平や松本清張などは30余冊。司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は全巻。そのほか推理小説、エッセイ、事件ものなどのドキュメンタリーなども多い。その他好きな作家は白石一郎や山本一力、夏樹静子など10人ほどはいるが、外国ものはほとんどない。趣味の音楽、旅行や焼き物の本など種々雑多である。整理する中で足立倫行の「人、夢に暮らす」「人、旅に暮らす」「錦の休日」なども出てきた。現役時代に読んで感慨に耽ったが、またいま読んでみたい衝動にかられて下に持って降りた。そんな本も沢山あるので、楽しみである。しかしこの調子ではいつ終わるのか先がみえない。困ったものだ (完) というようなことだが、予想通りというか3年経っても整理の入り口に入っただけだ。これからは、先のことを考えて「整理よりも捨てること」を実行に移さなければならない。
2012.09.21
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9月4日、待望のパソコンが入った。当ブログも一か月ぶりの更新である。プライベート用としては3台目である。今回設置したのは、NECのPCVN370/HS6R.自分としては、これくらいの容量があればと、選んだ機種である。しかし「おじさん頭」では解らないことが多く自信はない。 そこで思い出したのが、だいぶ前に書いた私のパソコン入門のきっかけを書いたエッセイである。古いフロッピーを引っ張り出してみたので、恥を忍んでここに開陳してみる。 エッセイ 「私とパソコン」 2007年9月記 パソコンと出会ってどれくらい経つだろう。ハッキリとは覚えていないが、定年の60歳を迎えるだいぶ前のことだから、20年近くは経っているだろう。私が入門編を習う前に会社では、すでに親会社主導のもと売上伝票や請求書、簡単な集計表などは事務員さん達がやってくれていた。だが機械音痴の私は、なにか怖いものでも見るように遠くから眺めているような毎日だった。 そんなある日、ついに私にも支社から召集令状が届いた。「今後は月一回、福岡の九州支社で行われている支社会議の資料や東京の親会社で開催される我々子会社の株主総会の資料も全てパソコンで入力したものを使用することになった。ついてはパソコンの講習会を開催するの出てこい」との内容である。私は戸惑いつつも事務員さん達を帯同して一泊二日の講習会に赴いた。 支社に待っていたのは私から見ればアンちゃんにしかみえない今風の若者を交えた親会社の“情報システム室”の数名のスタッフだった。一台ずつ与えられたパソコンを前に緊張したおじさんの姿は、いま思い出すと笑えるが、その時はテストを受ける子供のように見えた。もちろん私も含めてだが・・・。なにしろ入力の仕方も知らない私同様の販社のおじさん責任者が数名いる講習会である。はじめて聞くことばの羅列、やり方、自慢じゃないがおじさん頭に馴染むはずもない。なにも理解できないような状態でその二日間は終わった。 しかしそこからが問題である。好奇心の強い私は、なにか面白そうだということは感じた。「文字の入力はローマ字の方が良い」「最初は人が作ってくれたソフトに入力するだけだからあまりむつかしく考えない方が良い」など周りの声を聞きながら、素直? にそれに従った。そのうちにフロッピーがどうの、メールがどうの、解凍しなくちゃ、などなど本を読んだり、教えてもらったりするうちに少しづつ楽しくなってきた、時間をかけながらの入力ではあったが、必要書類はなんとか自力でこなせるようになってきた。このころになると、おじさん仲間でもまだ自力で出来ず、というよりもやる気がなくそれらを事務員さんに作らせているなど差が出てきたようだ。そういう物好きおじさんの私でも、新しい場面に遭遇しても、残念なるかな応用力がない。ワードや特にエクセルでの文書作成は高嶺の花であったが、このところ、必要に迫られて少しづつこなせるようになってきた。おかげで定年後も65歳まで現役を続けることができて、その後も親会社に復帰するかたちで九州管内の販社の“監査”の仕事をするようになり、3年目に入った。 またこの監査の仕事もパソコンとは密接な関係があり、売上台帳は当然のことながら機械の中である。監査報告書も全てパソコンで処理しなくてはならない。 不器用な私が車の免許証を得たことと、パソコンを曲がりなりにも習得したことが、今日こうしておられることになったのかなと、思うこの頃である。数年前からは自宅にもパソコンを入れて、メールをしたり、ブログを読んだり、出張の際のホテルの予約をしたり楽しみが広がってきた。 (完) 以上のエッセイを書いた翌年の2008年4月9日から物好きおじさんの当ブログは始まっている。
2012.09.08
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先日、当ブログに「何とも寂しい我が家のグリーン・カーテン」について書いたが、市の農業センターの菜園を借りていたときの、エッセイが出てきたのでここに書いてみたい。 ー真夏の畑ー (2009、8月記) 今朝は5時30分に起きて、妻と畑に向かった。畑といっても犬迫の都市農業センターの一角にある市民農園を借りている6、7坪のものだ。そこで野菜を作り始めてもう7年目になる。 真夏には涼しい時間に作業をするようにしている。夏の畑は作物の出来も速いが、草の伸びも速いので気が抜けない。その草取りのためにも、いくらかでも涼しい朝を狙って早朝から畑に出かけるのだ。 65歳を目前に退職後のことも考えて、かねて草花作りの好きな妻と野菜作りでもしてみようかと思ったのがきっかけだった。とはいえ、それまで野菜作りどころか草花の水やりしかしたことの無い私が、一念発起して農業の真似事ををしていると知った姉妹たちからは「何もしなかったあなたがよくそういうことをするようになったね」と冷やかされる。実態は、畑での種まき、植え込み、肥料入れ、棚作りなど主要な仕事は妻がやる。私は市備えつけのレストハウスから鍬や如露など必要な道具類を運搬し、耕し、草取りをするのが中心だ。その草が、肥料がよく効くのか野菜より成長が速く困ったものだ。その草は地中にしっかり根を張るものが多く一週間も放っておくと草畑になってしまう。 今朝も黙々と草取りに励んでいると、センター内の広場にグラウンドゴルフに行く人々が通りかかった。ここでは皆、心も解放されているので、知らない人とも気軽に挨拶をし、声を掛け合いあうのが通例となっている。私がその人たちに「おはようございます」と声をかけ、草茫々の照れ隠しもあって「私が草の種を撒いたので、こげんおえっつきもしたが」と言うと、その中のおじさんの一人が「あたいが我が家い良か草の苗を作っちょっで、あげもんそかい」と私の上をいく言葉を返してこられた。世の中には頓知の効いたことを言う人もいるものだと思い「あとでもろけ行っもんが」と私が答えて、居合わせた皆で大笑いになった。 畑を始めてからの楽しみは、収穫の喜びはもちろんのこと、それまで知らなかった野菜の成長度や、特徴などを自然に覚え、次の年から少しづつその知識を役立てることが出来るということだ。当然のことながら、手入れをすれば作物もそれに応えてくれるが、天候に左右されることも多く、広い田畑を耕作される本格農家のご苦労を身をもって知ることができる。 畑の向こう3軒両隣の方々とも仲良くなり、お互いに作っていない作物や苗のやりとりをするのも楽しみの一つである。 我が家のヒット作物は「四角豆」で南方系の豆のようだが、、天麩羅にして食べると天下一品である。これは沢山の人におすそ分けしたり、種をあげたりして皆さんに喜ばれた。そして最近はこれを植える人も多くなってきたようだ。 真夏の畑は暑い。今朝も2時間と少しの作業で8時過ぎには、キュウリ、大葉、ピーマンなどを収穫して畑を後にした。(完) 写真は当時の四角豆である。今年は種があったので、我が家の庭に種を十数粒撒いたところ四つが芽をだしたので、鉢植えしてある。はたして結果はどうなるか。楽しみである。鹿児島弁の会話を少し入れたが、わからない方はコメント欄におかきください。懇切丁寧に解説いたします。
2012.07.24
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今年は諸般の事情であと一年権利のあった市農業センターの貸し農園を返上してしまったのだが、いざ返上してみると、いささか手持ち無沙汰でもある。そこで、せめて我が家の雑草園にささやかではあるが緑のカーテンを作ってみようかということになった。 ほんとにささやにプランター2個を先日購入し同時に土や苗も買ってきた。そして植えたのが上の写真2枚分である。緑のカーテンをと言うには何と心細いことよ!大きさから言えば、苗を各一本くらいしか植えられないと思われるそれぞれのプランターに「にがごい」(ゴーヤ)3本、「きゅうり」2本を植え込んでしまった。その他の場所にも有り合せのプランターに青じそ(大葉)やねぎなども植えてみた。 もともと野菜作りに興味を持っていた私たち夫婦が、初めて農作業の真似事をしたころのエッセイを書いてみる。 -土の恵みー (2007、7月記) 鹿児島市犬迫町の都市農業センターの一画にある貸農園を借りて最終年の3年目に入った。5,6年前になろうか、秋の農業祭を見に行き散歩をするなかでこの貸農園を知り4月入園の抽選でやっと当たったのが2年前のことである。 私にとっての農業経験は母の郷里の上東郷村(現在の薩摩川内市)に疎開していた小学校3年生までの拙いもので、麦踏、麦刈り、からいもの収穫くらいしかない。一方妻は北九州育ち、ただ草花が大好きで家の周囲を季節の花々でいっぱいにする特技の持ち主である。そんなことで農園も妻主導、、私は刺身のツマである。ただ自宅から車で15分くらいかかるので、免許証のない妻一人ではいかんともしがたく、私の出番となる。 現場では植栽、剪定、施肥など主要な仕事は妻、私はもっぱら、畝起し、草取り、水やりなどを引き受け結婚40数年の阿吽の呼吸で楽しくこなす。10坪もない畑でも雑事ですぐ2、3時間は経ってしまう。まさに農作業のミニ体験である。 一年目入園式の後、畑を前にして期待と不安のなか、まわりの皆さんを見習いながら堆肥3俵を施すことから始まった。それから一週間後、夏野菜の植え付けである。茄子、きゅうり、とまと、にがごい(ゴーヤ)、ピーマンなどなど欲張って10種類以上も植えたろうか。途中の手入れも大変である。一週間も行かないと堆肥も効いているせいか、草の芽が出てすぐ大きくなる。農園の指導員の先生やまわりの農業の先達からの助言等聞きながらの暗中模索の農作業である。この野菜にはこの肥料をこれくらいの頻度で、またこの野菜には沢山の水を与えないといけないなど、初めて知ることばかりである。 それでもありがたいことに初心者の私たちの畑にも確実に恵みのときは訪れた。きゅうりが収穫第一号だったと記憶しているが、その後、茄子、とまと、にがごいなど一週間に2回は行かないと野菜によっては大きくなりすぎてしまうのである。おかげで7月、8月は収穫ラッシュで食卓はいつもに増して野菜料理で賑わった。叔母達親戚や近所の人にも随分喜んでもらえたように思う。 その他季節をみながら、からいも、じゃがいも、たまねぎ、大根、らっきょう、落花生など植えて自分たちでもびっくりするような出来栄えのものもある。2年目は猛暑と手入れ不足で収穫は少なかったが、植物は正直である。今年はいまのところ順調で、手入れに余念がない。土の恵みに感謝しつつ残された3月までを楽しみたい。(完) 我が家のささやかな農業体験はその後も農園の抽選にも当たり、今年の3月まで続けた。10年近くの体験でいささか疲れたこともあり、今年度は返上したが、また充電をして再挑戦が出来ればいいなと思っている。
2012.06.14
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昨日5月20日は3年前 会社生活を卒業した日であった。そしていよいよ今日から4年目に入った。何も特別なことでもないが、ただこの3年間元気に過ごせたことが何よりも嬉しいことだ。 そういうなかで、先日テレビで藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」第○話の再放送を見た。そこで思い出したのが数年前に初めて読んだその小説に大きな感銘を受けて、一つのエッセイを書いたことを思い出した。その頃の私が退職後のことを思う心情を書いて、先輩の主宰する文芸誌“ゆーとぴあ”に出稿したものだが、退職3年を経た今、ここに再録してみたい。 「三屋清左衛門残日録」のお話 (2007年4月記) 藤沢周平に興味を持ったのは、いつの頃だったろうか。その動機も時期も全然思い出せない。これも齢(よわい)67を数えるせいか。私も「清左衛門」同様、ぼつぼつ残日録を書かねばならないのかと思ったりもする。大好きなテレビを見ながらタレントの名前が出てこない。妻ともども頭の中では解っていることにしてしまう。 ただ手許にあるこの本の後付を見ると「1997年2月15日 第12刷」とある。しかもまだ私が現在よく利用する「BOOK・・」で買ったものではなく、定価で買ったものらしい。しかし、買ってすぐに読んだ記憶はなくお得意の“積ん読”の中の一冊だったのだろう。それを何かのきっかけで2年くらい前に取り出して読み、この一冊で一気に藤沢周平ファンになってしまった。その後、藤沢作品を読み漁るキッカケをつくってくれた一冊である。その後「BOOK・・」に行く度に買ってきたので数十冊は読んだと思う。 主人公は52歳で引退しているが、当時の私は65歳、諸情勢からぼつぼつ引退を考え始めていた頃である。主人公 清左衛門は「用人」まで上り詰めて52歳で息子に家督を相続し、藩主の温情により離れの隠居部屋まで与えられる。そして思い描いていた悠々自適の生活をおくろうと考えた。それは「城下周辺の土地を心ゆくまで散策する」ことであり、「たまには浅い丘に入って鳥を刺したり、小川で魚を釣ったりする」ことであったりでそれを考えると「清左衛門の胸は小さくときめいた」ほどである。 時代こそちがえ私にもその心情は十分に理解できるものであり、なにかその夢を現代から見ると、ほのぼのと感じむしろ羨ましくさえあった。 ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、「そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だった」のである。隠居することを、清左衛門は世の中から一歩退くだけだと軽く考えていたが、実際には、それまでの生き方、もっといえば暮らしと習慣のすべてを変えることだったことに気づき驚くのである。 そんなある日、息子の嫁が隠居部屋を訪れ、「残日録」という日記に気づき「でも残日録とはいかがでしょうね」「いま少しおにぎやかなお名前でもよかったのでは、と思いますが」それに対して清左衛門は「なに、心配ない」「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」と答えている。なんとも心憎い言葉ではないか。その後は藩から隠居はしたものの信頼のおける人柄を買われ次々と難題の解決を頼まれてその信頼にこたえていく。一読を勧めたい本である。私もその後2年間も仕事が続いているが、いずれ完全引退の日がくる。 だがそのときに臨む覚悟とその後の生活設計は出来ていない。私には現代からみても「三屋清左衛門」の生き方は一つの理想的な指標のように思われる。 (完) いま再録してみると、自分の5年前の心情を映しているが、その後更に2年間仕事を続けることが出来て結局69才と5ヶ月で完全リタイヤした。引退後の3年間も十分ではないが、自分なりの生き方が出来たと思うしリタイヤ前に心配したことは、いまのところ杞憂に終わっている。まあ、これからも肩の力をぬいてぼつぼついきましょうか。
2012.05.21
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今日はうす曇の一日だ。妻にに誘われるままに散歩に出かけた。歩いていると、団地の一角にまだ家の建っていなくて、草茫々の場所の前にさしかかった。「ここで、前に“のびる”を採ったけど・・・」と言う。二人で目をこらしてみると、草の間に今年も小さなのびるを見ることができた。ささやかな量だが、料理をすれば、私の分だけはあるという。酢味噌で食べよう。 それで思い出したのが、前に書いたエッセイである。帰って見てみると、2,008年4月に書いていた。4年前のそれをここに書いてみる。 ーのびる(野蒜)- “のびる”を見かけて郷愁にかられ、手にとったのは数年前のことである。それは田んぼのあぜ道でもなく、野原でもなかった。郡山のドライブイン「八重の里」の売棚だった。朝採れの野菜のなかにそれをみつけた。4月初旬のことである。それは旬の筍などと一緒に並べられており、あの特徴のある白い根の少し大きめの球ですぐわかった。 妻に、籠に入れてくれるように頼み買って帰った。疎開先の母のの郷里・東郷で食べて以来のことで、おそらく50数年ぶりのことである。子供時代のことでその味も記憶にはなかったが、なぜか食べたくなったのである。酢味噌で食べたことも思い出して、その夜のおかずの一品になった。一口食べたときのあのツーンとする香りとヌルッとした食感は一気に東郷の春をよみがえらせた。お酒を飲めない私にも逸品である。 あのころの食料不足もあったせいか、大人たちに連れられてよく野草などを採りに行ったものだ。わらびや三葉せり、のびるなど大人たちにとっては食料不足解消もはかれる戦中戦後の心なごむ楽しいひと時だったのかなと思いたい。 しかし、思い出すのは、のびる採りに行って田んぼのあぜ道で聞いた空襲警報のサイレンの音である。私は敗戦の翌年の昭和21年の小学校入学だから、それをそこで姉や従姉妹たちと聞いたのはおそらく5歳のときのことだ。のんびりと春の日差しを浴びて採っていると突然のサイレンの音だった。逃げ惑うように皆で家に帰り、家の前の畑に従兄弟が掘ってくれた“たこつぼ”といっていた一人用の防空壕に入った記憶がある。戦争も終わりに近づくころになると家の20~30m先にある孟宗竹の林が爆風で揺れるくらいの勢いで飛行機が飛んでいた。そんな時は、たこつぼに入る間もなく皆で家の座敷に這いつくばっていた。それからしばらくして東郷の中心である舟倉の街も空襲を受けるのである。そんなことを思い出させる“のびる”との出会いであった。 再びのびるに出会ってそれを食べたことで、その味が忘れられず、春になると毎年「八重の里」に通おうようになった。それでもうっかり時を過ごしてしまうと、もう季節が終わっていたりする。今年の春は妻のコーラス仲間二人を誘って4人で蘭牟田池に花見にでかけ、途中「八重の里」で買うことができた。その夜さっそく酢味噌で食べて春の息吹を感ずることができた。ただただ感謝あるのみ。この平和に感謝し、のびるよ永遠なれ!という気持ちである。
2012.04.20
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当ブログでも何回か書いたが、コーラスの先輩の主宰する文芸誌“ゆーとぴあ” に拙文を投稿し始めて3年が経ってしまう。 昨夜4月号への原稿「いとこ会」を書き上げて、メールで送りホッとしている ところだ。これで36号連続で38編くらいのエッセイを書いたことになる。 それまでは、文章を書くことなど考えたこともなく、おじさん合唱団の「楠声会」 の会報にたまに投稿するくらいだった私に、先輩から「何か書いてみませんか」と 誘われた時、短歌が中心の文芸誌と知っていたので、丁重に辞退した。ところが、 再度、何でも良いと言われて「エッセイもどきのものなら書いてみましょうか」 と言って藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」の読後感と当時の自分の生き方みたい なものを繋げて書いたのが最初である。その後「人間の顔」「私の好きな海の風景」 「私の好きな山の風景」「土の恵み」「長崎は今日も晴れだった」「サイダー」等々 ジャンルを問わず40近いエッセイが出来上がった。 フロッピーに保存したそれ等をときに読み返してみるといつの間にか“自分史” みたいなものになっており、書くきっかけを与えてくれた先輩に今では感謝している。 今日の鹿児島は雨の予想通り、小雨が降ったり、止んだり、厚い雲に覆われている。 かみさんは午前中からコーラスの役員会、午後は練習とのことで、9時頃中央公民館 まで送り届けてきた。 写真は先日 市民農園での農作業の後、桜の木の下でおにぎりをパクついた場所であ る。
2010.04.01
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我が男声合唱団 N会は多士済々である。 もちろん男声合唱を楽しむために集まっているのだが、現役時代のいろいろな経験をつんできて それを現在に生かしているのだ。職業もさまざま、そのなかでも先生が一番多いかな。 銀行員、マスコミ、公務員、建築士、医者、大学教授、市議会議員などなど。もちろん現役も多い。 そんな集まりなので、いざ定期演奏会などいうときには、それぞれが力をだしあってスムーズにい く。 そして、合唱以外の沢山の趣味をもった人もまた多い。 そんななかの一人、もと高校教師のY先輩は県でも有名な短歌の先生である。 そのY先輩が主宰して毎月発行されているのが、写真の“ゆーとぴあ”という文芸誌である。 昨年の春、ちょっとしたきっかけから「何か書いてみませんか」とY先輩に誘われて短歌は書け ないが「エッセイ」もどきなら書けるかなと思い恥も省みず書きはじめて一年たってしまった。 これまで15編くらいかな。Y先輩や翌月号に感想を書いてくださる皆さんに励まされてここまで きてしまった。汗顔の至りである。 しかし書き始めてわかったことは、エッセイを書くにはいつもなにかを感ずる心、いままで以上に 好奇心をもって世の中をみることが必要であるということだ。題材が偏らないようにとかいろいろ 気をつかいながら書くということでボケ防止にもなるのではと思う。 ましてやこのブログやっかいですね。毎日・・・・・。 おあとがよろしいようで今日はここまで。
2008.05.27
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はじめてシーラカンスの映像を見た 6連休中の3日目、少し退屈していたので、テレビ番組をみたら、NHK BShで9時から「生きた化石シーラカンス」という番組を発見、シーラカンスと言う言葉は知ってはいても実体を知らない私は興味を持ち見ることにした。 いやあ見てよかったですよ!皆さん。再放送だったのか定かではないが、一見の価値ありの番組でした。東アフリカはタンザニアのキゴンベ村がその主な舞台になっており、その沖合の深海に棲むシーラカンスの映像を福島の水族館 クリアマリン福島のスタッフとNHKの共同取材によるものです。 いずれまた放映されることもあるでしょうから、詳細は見ていただくとして、「人間より2000倍生き抜いて3億8千万年の姿をとどめる」その映像は素晴らしいものがあります。 しかし、地球上どこも同じで沿岸で魚が採れなくなり、わずか2000人の村で漁業が生業の村民がやむなく沖合で漁業をするようになり、その網にシーラカンスがかかり話題になったのが、今回の番組に結びついたのには皮肉を感じますね。しかしタンザニアの国は漁民の反対を押し切ってシーラカンス保護のために沖合での漁を禁止してしまいます。 そしてこれを見ながら思ったのが有明海の埋め立ての問題です。賢明な皆さんには“釈迦に説法”なので多くは書きませんが、我が国の行く末を憂えるのは私だけでしょうか。以上ジージの独り言でした。
2008.04.11
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