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今は本当にラジオを聞かなくなった。昔はラジオといえば若者の文化のひとつで、テレビは一家に一台しかなく、居間にどんとあり、チャンネル権はお父さんだった。小学生のときは、ドリフや歌番組をみていたが、中学になると部屋に追いやられラジオを聞くしかなった。ぼくが一番好きだったのは、鶴瓶の放送だった。彼が出てきたのは中一かそのくらいでちらほら出ていたが、メインに出てきたのはヤングタウン月曜日だった。前後して近畿放送の日本列島ズバリリクエスト、略してズバリく、当時は近畿放送といい、いまのKBS京都京都は盆地で電波が飛びにくい。神戸の家からだと雑音混じりだった。1974年から1978年まで放送し、その後、ハイヤング京都になったと思う。鶴瓶師匠は、1976年秋から1977年の春の編成まで、火曜日の深夜だった。ヤン月は、1975年10月から82年の三月まで 7年もやって、ヤンタンの人気者だった、桂三枝師匠の勇退で、土曜日の公開録音に移動。1982年から1988年まで担当した。13年間もヤンタンをやり続けた。で、一度ヤンタンが終わりかけたのを惜しむさんま師匠がヤンタン土曜日をやりだし日曜日を1999年から続けている。13年と25年で38年もヤンタンをやってるすごいと思います。ヤンタンにでることは関西でスターへの登竜門で、ここに出ることはすごい名誉であった。鶴瓶師匠のヤン月は、笑いのるつぼで、仁鶴師匠の影響もあり、マシンガンのようにギャグをとばしこんなに面白いやつがおるんや、と、ぼくはすぐに虜になった、鶴瓶師匠のヤン月も人気だったが、鶴光師匠と角さんのヤン木も最高に面白かった。鶴瓶師匠の番組は山のようなはがきがあつまり、毎週何万という投書があった。ほとんどが、ギャグものであった。ギャグベストテンというコーナーがあり、これがまた、放送事故寸前の禁止用語の連発。忘れもしない、「いい子にあったらドッキ!」という、ひまわりむすめの伊藤咲子さんのヒット曲。これを「いい子にあったらボッキ!」海原千里真里という漫才師、当時はかわいい漫才だった。海原せんzりまんZrい といい、大爆笑。しかしながら、ヤンタンの総元締め、おおなべさんの逆鱗に触れ、たしか、三回か二回放送謹慎という処罰を受けた。これも自主的な処置で、おおなべさんは鶴瓶師匠の才能と将来性を買っており、くびにはならなかった。深夜というのは、昔ははやかった、おかんもおとんも12時に寝て真っ暗な家で、蛍光スタンドから光が漏れないように、よこに寝て居るおねいちゃんにもめいわくかからんように、勉強してラジオを聴く、ながら族である。ほとんどが生放送、リアルタイムであり、みんなのおにいさんか友人のようなDJがぼくらのような受験生のために放送をしてくれてるのだ。ヤン月で、あるとき、数年たっただろうか、急に鶴瓶師匠が、こういった。「これから、ゆっくりと普通に話す放送をします」マシンガントークとギャグ満載のやりかたを、個性的な普通の話に変えた。ぼくは、あれ?と思った。鶴瓶師匠が変わった瞬間だった。なんで、変わったのか、わからないが、彼が今成功して君臨してるのはあのときがまず、ひとつのポイントではないかと思う。続くphoto 筆者近影、1977年ごろ千里丘MBSスタジオでわいのわいの90 にて
2023.09.15
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学生の頃の夏休みは、貧乏人の僕はひたすらバイトしておこずかいを稼ぐしかなかった。一年のころは神戸から学校のある京都まで通学していた、長距離通学である。2時間半はゆうにかかった。だから、時間に余裕はなくバイトは長期休暇のときしかない、あのころは、バイトは少なかった。時給も500円前後 1980年前半のころの話。どんなに必死に働いても月に10万稼げるのは夏休みだけ、前期試験が終わる、またしても散々なでき、ぼくは外国語学部のスペイン語だった、しかし、まあ、英語も話せないやつが、できるわけもない、それにスペイン語の先生はとっつきにくく、どうも、溝を感じだ。どうやら、先輩たちから、勉強をしない日本人を相手にするのは嫌だったんだろうと思う。まあ、その話はおいておいて、一年は新大阪駅で新幹線の列車食堂の輸送斑というところでバイト、朝の9時からよく朝9時までの勤務、三交代。たぶん一回で9000円ぐらいだったか、二年になると、いろんなバイトをしたいと思い、当時、ポートピア博覧会が神戸であり、その中央ゲート周辺のごみ掃除。いたって地味な仕事。おばちゃんとふたりで、ひたすら観光客の落とすごみをひらい、投げ捨てられたすいがらをひらう。来る日も来る日も・・、ゲートには、きれいなおねいさんが、笑顔でもぎりおそらく、ぼくと同年代か、それより少し上。土曜日になると、従業員の入り口の外には彼氏の車がずらりと並びおむかえに来る。ぼくは、おばちゃんと、ポートライナーで帰る。おばちゃんは、優しかった。おにぎりをくれたり、ジュースをくれたり。でも本心は、若い同世代の女の子とバイトしたかった・・。あるとき、おばちゃんは、泣いていた。聞くと、大事にしていた犬が死んだという、その日を境にして、おばちゃんは来なくなった。ひとりでできる仕事でもないので、今度は社員のひとがきた。同志社をでて、なんやかんや、あって、社員に、なんで、同志社みたいないい大学出て、掃除してるのか恐らく、なんかあったんだと思ったが、ぼくは聞かなかった。ポートピアの最終が近づいてきた。ぼくのお気に入りのゲートの女の子がいた。綺麗な子で、明るく挨拶をしてくれる。ぼくは、その子がいると元気が出た、ごみもおちていないのにそのまわりをうろうろしていた。最終日、とんでもないくらい徹夜のお客さんがゲートに並んだ。新聞紙引いて、弁当食って、散らかして、僕の掃除の仕事を増やしてくれていた。そうえいば、何万人かの来場記念で、くす玉がわれる。そのとき、よばれるんだ、くす玉のごみの後始末。風が吹いて、どこかにいけばいいのに、と、思っていた。最終日、あの子に声もかけれず、度胸もなくお客さんは狂ったように、チケットをもぎるのが遅いと、思ったのか、ことごとく、チケットを投げ捨て、放り投げ、足早に、サントリー館のウイスキーを買うのか走り去る。ぼくは、見ていて、かわいそうになり、投げ捨てられたチケットを屈んでひらうあのこの近くに行き一緒にチケットをひらった。彼女はなぜか泣いていた。ぼくに、ありがとう、といい、ぼくは拾ったチケットを渡そうとした。その時、しゃがんでいた女の子のスカートの中身を見てしまった。あ、と、ぼくは反省しながら、しらばっくれたように「大変ですね。最後だから、がんばってくださいね」と、しらじらしく言った。しかし、あのパンツは脳裏に刻まれた、なにか、こう罪悪感を感じながら、最後の日はごみの量もおおく、疲れて帰った。秋になり、また好きでもないスペイン語を勉強しに上賀茂まで通う日々が始まった。「ああ、あのこはどうしてるのかな?」と、思い出していた。そんな夏だった。
2023.09.12
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ブログを久々除くと、一年ぶりだった。コロナもなんとか落ち着いたようで、ひどい世の中でした。大地震もいつくるかわからないし、あちこち揺れてるしこわいですね。南海大地震では、大阪壊滅します。高知も和歌山も・・。
2023.05.30
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ほんと、まさか、彼が自殺するとは思いもしなかった。そうだ、誰しもそうだ、人はわからない、表があり裏がある。ほんのすこしの、迷いをついて、死神は耳元でささやく。そのときの判断を、そのときの判断で、そのときのつらさ、苦しさ、思いが、自殺する瞬間に延々に続いてゆく。自殺者の霊が浮かばれず、のこってしまうのはそのときの「念」のせいであるという。そして、弱っている人間たちに、『伝播』するのである、連鎖というか竜兵さんは、お笑いだったから、余計につらい。みんなを笑わすのが仕事である。バカにされて、見下されて笑われてなんぼなのである。彼がない面で苦しんでいようが、悩んでいこうが、そういう顔は、みんな知らないのである。彼もまた、人なり。なのである。いやこともあったろうし、馬鹿にされたことも毛嫌いにされたこともあるだろう。これがまた、渡辺裕之さんと対比的なのである。彼もその数日前に亡くなったのであろうが、彼は彼で、渡辺を演じることがしんどかったに違いない。いいひとであること、健康体であることダンディであること、みてくれがいいこと。彼がなくなって、多くの芸能人が、インスタなどでこぞって、彼との思い出の写真を上げた、どれもこれも美しく、かっこいい。上げてる芸能人は、惜別の念であはるのだろうが心の内面の葛藤を、知る由もせず、外見だけで判断する。彼もまた、ひとなり。なのである。60歳こえたあたりで、初老鬱になりやすくなる、ホルモンのバランスが崩れ、精神的に揺らぎはじめる。なんで、恵まれていたのではないの?みんながそう思うのだろうけど、彼らは、「いままでの人生はどうだったのか」と、自問自答し、消去したかったのだ。なんで、消去したいのか、亡くなった人を非難するのではないが、自殺は他殺を同じで、命を大事にしない。周りのことや、仕事のことなどよくよく考えてみれば到底できないこと恐らく、とっさにやってしまうのだろう。だから、よくよく考えていないのだ。だから、要するに脳気質的な問題なのである。ひとりにしてはいけないのである。これもまた、できないことであるが、立場上の問題で彼らも相談する身近な人がそのときいなかったのであろうと思う。5月という特有な時期で、しかも60代というそして、コロナ禍、大地震、核戦争。テレビはほんと毒のオンパレード。きれいな花を見てるだけでいい人生が哀しすぎる。渡辺裕之氏上島竜兵氏両氏のご冥福をお祈り申し上げます、残された人々の悲しみも相当なものであろうことかと思います。
2022.05.12
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1977年ごろだったろうか、MBSヤングタウンが夜の1時に終わり、たしか、そのあと2時から3時までやってうた深夜放送、帯でたしか月曜から金曜までだったろう・・。最終回を録音したカセットテープがあったはずだったんだが、見当たらない。ぼくは、当時、一番の人気であった桂三枝とその兄弟弟子、ザ・パンダ(残飯ではない)の中で一番、好きだったのが桂文珍だった、彼の話は面白く、自分のことを語ってくれて篠山鳳鳴高校という有名な進学校から、三流の大阪産業大学にしかいけななかった、そんな話をしていた。番組の内容は覚えているのは、アシスタントの女の子と風呂にはいるのだ。まあ、実際は音声にエコーをかけて、効果音をつけただけとおもうが、若い僕らは想像して楽しむだけ、そこで、文珍さんがあーとかうーとかそそそんな、とか、話すだけであった。この放送は、あまり続かなかった。アリスがバカ売れして、ほかのアーチストも売りたいというヤングジャパンというところが、その帯を全部奪ってしまい、文珍を下ろしヤンジャのアーチストがでるようになった、同時期か、KBS京都のズバリくというラジオ放送の火曜日に出ていてそちらを聞き始めた。でも、なんせ、KBSの電波は飛びにくく、盆地なので神戸から聞いていたが、聞きにくかった。ズバリくは、鶴瓶もでていたが、ハイヤング京都【ハイやん】になり継続されたが鶴瓶は降ろされた、その最後で鶴瓶は反旗を振りかざし、最終回はリスナーの名前をひたすら言うだけ、「山科のまるまるくん、どうもありがとう」真夜中の文珍の最終回は、最後は、ひたすら、激怒し「チキショー、チキショーとおもひながら生きてきました。世の中みんなチクショーです」と、泣きながら、BGMはデモ隊の音だったか、衝撃的だったのを思い出す。ぼくらのオアシスといえば、深夜放送ラジオだった。学校へ行ってもちゅがくの時は屈辱感と挫折感の繰り返し、勉強もできないスポーツもできない、ぶさいくな、ちぅう学生だった。高校にいっても、いじめられ、勉強をして、なんとか見返そうと思った。夜の21時過ぎから夜中の3時かへたすると4時まで勉強をしながら深夜放送を聞くのだ。その放送はほとんど生放送で「ああ、この放送のひとたちは夜中ぼくらのために起きていて仕事してる」と、思ったものだ。「まん丸眼鏡にイガグリ頭、働く農協青年は、滝廉太郎こと桂文珍」はザパンダの中でもあまり売れておらず、どことなく地味ででも、話はとても面白く、知的であり、好きだった。文珍さんは、その後、全国区で売れて、テレビにでまくりスターになった。僕がラジオで好きだった人はたいていそうなった。そして、文珍さんはテレビの仕事を減らして、落語に打ち込み落語ファンはかなりいる、らしい。#真夜中の文珍 #文珍
2022.02.24
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YouTubeヲ見ていて、ワタナベなんとかさんがずっとやってるんだけどJAL123の「隠ぺい説」についてなんですが、驚くべきことばかりです。最近になって、いろんな人が再びこの墜落事故は事件であると言い出したようです。まず、事故調の報告書の重要部分である「後部圧力隔壁」?の破壊から始まったという話。金属疲労とかなんとか、聞いたことが大昔ありました。それならば、客室は減圧が急激に生じて、たいへんなことになる、が、実際なっていない。どうやら、結論を予測すれば、米軍の戦闘機か、音速可能なステルス爆撃機がニアミスをし、かすめたのか、衝撃波をあたえたのかで、尾翼の三分の一がぶっとんでしまい。三回の爆発があったと、音を記録したのですが、後ろの重要な部分を吹き飛ばし操縦が困難になった、その後、実は、横田基地の滑走路を目指し、寸前までいったのだが何らかの原因で阻止か、妨害され、仕方なく群馬の山に消えたその過程のボイスレコーダーが改ざんされており、事実は伏せられている、日米同盟の根幹を崩す事件となり、国民は怒り狂う東京上空や関東の空は、ほとんど米軍のものであるというそういう事実さえも知らない平和ボケした日本人が目をさます、それで、なかったことにして事故説を作り上げて、ボーイング社のせいにして、今に至る、というわけだ、日本航空は全責任を負い、賠償行脚を行い、反省をし、安全対策を行うという、そのことは、まるでやらなくてもいいことだったということそれは、どうも、考えてしまう。もし、事実を公表し、(事件説が正しければ)て、いたならば、どうなったのか、隠ぺいせずとも、ぶつけた飛行機があるのだとすれば責任を米国に求める、ということが、できないのか?日米地位協定で? ほんと、この世は嘘ばかり、韓国の慰安婦問題もこれもうそっぱちだししな国のオリンピックは、ひどいものです。やはり、この問題は、多くの犠牲者がいるということで触れてはいけない部分と、さえもおもえるし、事実がどうであれ、生きて返ってくることはないのだ。しかしだ、犠牲となった、パイロットやCAさんは、報われない。みんな、必死で、恐怖と戦い、死んでいった。ひどくないか、ぼくの奥さんは、恩師が二人、乗っていて、幼い子供を残して亡くなった、だから、どんなことがあっても、飛行機に乗らないと、決めている。#JAL123
2022.02.17
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ほんと、沙也加ちゃんの時さつはいまだに、心痛む。なんともいいようのない感覚、で、相手の男への怒りというかバッシングも相当のようだが、真実はどこまでなのかわからないがネットでは燃えている。テレビやでかいとこのニュースではタブーになっており連鎖を防ぐためにだろうけど、対比的なものである。やはり、メンタルの部分はなんともいいようのないものだがコアになる部分がなかったのかもしれない。聖子さんは、同世代で、ぼくとおなじ年。恋の歌、愛の唄を歌い続け、多くの恋をし仕事をし、元祖ママドルといわれ、王道をつくってきた。それが、これだ、批判するつもりはない。彼女は、いままでの人生をきっとこう思ってるに違いない。「いままでの人生はいったいなんだったのだろう」大阪の梅田で、焼き殺された人々、罪亡き人々その人たちの話はもうニュースではながれない。悪魔の化身の男は、道連れに多くの罪亡き人を焼き殺した。亡くなった人々は「いったいなにが、起こってるのか、なんで死ななければいけないのか」そう理不尽に思いながら、死んだのだと思う。命を大事にする、時さつも他殺も命を大事にしないことはおなじだ。沙也加さんがどういう性格の人だったのか、わからないし批判するつもりはないが、あの馬鹿たれから、暴言をはかれ常にあった選択肢の一つを選んでしまったのだろう。華やかに見える芸能界、綺麗な衣装で、素敵な舞台で誰もがうらやむようなお仕事。実はその裏は、泣きながら哀しみもけしながら、やっとの思いで仕事をしている。恋の歌を歌っていても、恋の歌なんか歌いたくもないと思ってるのだろう。表と裏がすべてのものに、裏のつらさをわからないように表だけをつくろうのはしんどいのであろうよ。聖子ちゃんよ、哀しみくれているだろう全部わたしのせいです。そう、思ってるだろう。しかし、そうではない。それは、彼女そのものを否定する。そう思うのはよくない、彼女は、自分の人生を一生懸命探して、生きようとした。立派であった。そう、思うのだ。力尽きただけだ。誰も彼も、死ぬために生きているのではなく。いかにして死するか、思うところである。
2022.01.12
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またまた、ひさびさ、ブログを開けてみる。だれもいないが、訪問は相変わらずあるようです。昨年末の小田さんの「クリスマスの約束2021」はよかった。なかでも、緑黄色社会の晴子さんがとてもよかった。オフコースがいたあの時代には、まだ生まれてもいないし解散したときもまだ生まれていない。正月を過ぎるあたりから、ずしんとくるのは、阪神大震災の思い出亡くなった多くのひと。昨年末、店の売り上げ補填のために、バイトをした夜中中。5日間、年賀状のバイトだ数時間しかねれない。若い人がきていて、話をしたみんな、2000年以降に生まれた連中。もちろん、地震はしらない。地震の時の話をはなしていると、なぜか思い出したことがあった。ぼくが学生のとき、バイトしていた新大阪駅60前後のじいさんと働いていた。彼らは多くは戦争にいって、帰ってきた人だ。南方のひとはすくなかったが、大陸と、シベリアのことは聞いた。戦争の話はあまりしたらがなったし、もう、おなかいっぱい聞いていたのでまた、戦争の話か、と思ったものだ。ソレが40年後、逆にぼくがその爺さんになり、若い子に語っている。そんなぼくも夜中、郵便局で年賀状の束を輪ゴムに止めながら60歳になった。時間というのは、ループしてるようにも思えるし若い子たちにもまた何かがおこり、また、それを乗り越えていきてゆく。オフコースの「さよなら」が流れていたあの寒い冬。すきだった方おもぃの女の子としか頭になく、戦争とかそういうのは、ぴんとこなかった。
2022.01.05
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ひさびさに、ブログを開けてみる、ひとりだけコメントを入れてくれた、背番号のないエース さん、ありがとう稲垣潤一の septembaer kiss を聞いています。ぼくが大学3年の頃だったろうか、稲垣さんがドラム叩いてでてきたのはオフコースのファンで、松尾さんの関係するひとだったので興味があり、聞き始めた。80年代後半から90年代初め頃までCMもひっぱりだこカーステのテープで何回も聞いた、ほとんどのLPやCDを買って聞いていた。ぼくは彼の初期のあの不思議な声、パンチも効いてるし哀愁感もあり、なんと言っても、七色のような輝きのある声だった。大学四年の夏に、「夏のクラクション」が リリース。丁度、学生生活最後の夏で、海沿いのカーブを 君の白いクーペ曲がれば夏も終わる。夏が終わるの歌詞が、じーんときた。カーブは北海道の積丹半島のカーブ。あの最後の夏休み、北海道の旅、最後に訪れた積丹半島、積丹岬。そういう思い出をかかえながらいやないやな就職活動、ネクタイ締めて、企業訪問。遅いって、夏休みはもう終わる頃・・。卒業できるかどうかもわからないのに、なにがしたいのか、なにが向いてるのか、わかるはずもない。なにしろ、三流大学、就職課には、中小の会社しかこない。成績もわるい、あるわけない、「自分で探しなさい!」まさに、その時始った、ふぞろいの林檎 とおなじ境遇だった。そういうことを思い出しつつ、稲垣潤一の若い声を聞く。あの頃のぼくにであったら、こう言うだろう。「好きなことだけしてればいいさ!」Live History I 1984~1992 [DVD] 稲垣潤一 新品 マルチレンズクリーナー付き【中古】30周年記念ベスト~テーマ・ソングス~(初回限定盤)(DVD付) 稲垣潤一[CD]
2021.11.04
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ほんと、こんな年になるとは思わなかった。よく映画で見た、パンデミック。感染拡大で人類滅亡。実際におきるとは・・。まさに、米中対立が生み出したものではないか、あのトランプのおっさんのお土産ではないか。シナ国の連中はとにかくやることが汚くてずるい。半島の指導者もそうだ。毒餃子問題がありました、異物混入冷凍食品です。ああいうことを平気でするのですよ。まあ、あまり文句をかくっと、工作員に痛い目にあうかもしれないので辞めておきます。アフターコロナの世界はどうなるんか、この変異コロナ騒動は第3波をどうかえてゆくのか、3月まで続くのか・・ぜったい、潰れるとこ多くで始めます。生活できないひとが増える。シナ国観光客の皆さん、そして広げてしまった悪意亡き伝播。どうなんねん。桜の会なんか、どうでもいいから、野党の連チュこそ、給与ゼロに、タイムカード方式に成果報酬に
2020.12.28
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[ロンドン発]共同通信は5日、英海軍が最新鋭空母クイーン・エリザベス(QE)を中心とする空母打撃群について沖縄県など南西諸島周辺を含む西太平洋に向け来年初めにも派遣し、長期滞在させることが分かったと独自ダネで報じました。シナ国包囲網でしょうか、尖閣問題も東南アジアのうみの問題も香港も、やばい。シナ流行りたい放題。そして、コロナですよ。シナ国に怒り心頭ですよ、全世界。コロナ以降の世界はとんでもないことになるのか・・。
2020.12.28
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楽天ブログ、かなり放置しています。毎年、この時期は、小田さんのクリスマスの約束の番組の話をみんなでしました。今年は、新型コロナでない。寂しいものです。まあ、最近は出てるメンバーが定着してるので半分面白くないのですが・・。齋藤哲夫さんがでたときはほんと感動した、拓郎がでたときも、嬉しかった。佐野元春にも感動した。さだまさしもよかった。もう、紅白もつまんないし、レコード大賞なんて・・だし。音楽はなんか、つまんない。
2020.12.25
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2020.09.11
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オフコース4人時代真っ最中の小田さん、桑田さんがインタビュー。
2020.09.09
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2020.09.05
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2020.08.29
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みなさん、お元気ですか。暑いですね
2020.08.28
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よろしければ、みてください。
2020.08.28
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SELECTION 1978-81(初回生産限定) [ オフコース ]価格:2361円(税込、送料無料) (2020/1/22時点)楽天で購入オフコースオフコースこのLPには、さよなら がやっとはいるんです。
2020.01.22
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見体験!BEST NOW DVD::Off Course 1982・6・30 武道館コンサート [ オフコース ]価格:3080円(税込、送料無料) (2020/1/22時点)楽天で購入kこのDVDのみどころは、やすと、小田さんとのかけあい、そして、小田さんの涙、最後にある、あの大合唱
2020.01.22
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ほんと、最近、ふぞろいの林檎たちのDVDを見直して、じーんときてる。リアルタイムで見ていて、ぼくもまさに同世代。
2020.01.20
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大学の友人がずっと寝たきりで、もう10年にもなるか、とうとう、亡くなった、はがきの印刷の文字が・・。思い出と言えば、大学の授業、欧州論2の講義をぼくはぜんぜん出ていなかった。4年にもなって、ノートもない、きちんと取っていたノート。友人は女の子で、あった。「ノート、貸してくれよ?」頼んだ、確か電話で頼んだのだ・・。「待ち合わせは、三叉路で14時」ぼくは、すっかり、その約束を忘れていた。下宿でぼーとしていた。電話がなった。「1時間も待ってるのに・・」「ごめん、ごめん、すっかり忘れてたよ!」慌てて、バイクを飛ばしてゆく。「上賀茂神社まで来てね」「わかった」慌ててゆくと、待っていた、手を振って。二人して、鴨川の橋をわたり、喫茶店に行った。「就職活動どう?」「うーん、なんかやる気がでないんだ」「そう、でも、みんな動いてるよ」「動くもなにも、単位が足らないから、そっちが先・・」彼女は、おもむろにタバコを取り出し、火をつけた。「あ、吸っていいよね」「ああ、いいよ」「止めたんだね、たばこ」「うん、止めたよ」お店の中に音楽が流れていた。オフコースの愛を止めないでだ。恋人未満、友人以上。あのタバコを吹かすあの子は遠く、比叡山を眺め、秘密めいたとこが魅力的だった・・。もうすぐ、夏だった。
2020.01.18
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ことしもまた12/24がやってきた。きっと君は来ない。クリスマスイブ。クリスマスなんてのは、寂しさを思う夜なのである。マスコミはこぞって、クリスマスの¥雰囲気を盛り上げ、一人でいるのが悪いような扱い・・・。「中村雅俊のいつかまちで会ったなら」という、歌が好きだ。中学のときに聞いた歌。京都の下宿の友人が1981年12月24日。北大路の交差点で原付の乗った彼と、同じく学生アルバイトのお歳暮のトラックと交通事故を起こし、原付の東くんが、死んだ。もう、38年も前の時が経ってしまった。しかし、昨日のように憶えてる。東君は、その一週間前、三条河原町で、同志社のサークルのアップルというやつの忘年会、帰り。そのタクシー乗り場で好きだった女の子に、タクシーを待つ間。告白したわけだ二人は並んで、タクシーの順番を待ちながら女の子は、気まずい顔で、「ごめんなさい」と、言ったのである。撃沈というやつ、その長い髪で瞳の可愛い女の子は東君の知らないうちに、東君の同じサークルのしかも、東君の友人に告白され、つきあい始めていた、東君はまったく気がつかず、知らず。告白してしまったのである。そして、ぼくらの下宿の忘年会をやろうということになり、その三日後、いろはにほへと という居酒屋で飲んでいた。振られた話を明るくはなすのであった。みゆきちゃん、好きだったのにな・・。みゆきという名前は、美幸とかく。そして、同じ下宿の先輩、鍛治さんは高校3年のとき、京都に田舎からでるときにずっと好きだった女の子に告白するわけである。みゆきちゃん、ぼくも好きだったのにな・・。みゆきという漢字は、美雪と書くらしい・・。そして、ぼくは、ずっと好きだった女の子がいた。長い髪で、ミニスカートが似合う。足の速い目が大きくて、笑い声がすこし変っていて、ぼくも中学3年のとき、告白するのである。「いい友達でいてください」素晴らしい返事だった。みゆきという字は、美由紀と書く。下宿は4人いて、古い京都の町屋であった。僕らは、恋をしていたんだな。そういう仲間の東君がせつなくてクリスマスイブに事故で亡くなる。振った美幸さんは、相当参ったらしい・・。ぼくのクリスマスイブの思いではそういう悲しいできごとから離れることができない。何気ない 毎日が 風のように 過ぎてゆく この街で 君と出会い この街で 君と過ごす この街で 君と別れたことも 僕はきっと京都という学生のまちでであった彼はどこかで生きてる気がする。死んだのは夢で、そうおもい、どこかの街で肩を叩いて、ほほえみ会おう。
2019.12.24
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学生のころは、つまらないことで悩むことが多かった。当時はそれでも本人にとっては、大きな問題でもあった。こうありたい、こうなるべきだ。目標はこうだ。夢はこうだ!そう思いつつも、現実は何も出来ない。いじめなどで、死んでゆく若い子供たちのニュースを見るたびにやるせない思いが出てくる。本人にとっては大問題であるが、まわりの奴らは何も遊びでいじめてストレス解消をしてる程度なのだ。同窓会の幹事をしていて、いろんなことを思った。僕自身でも高校時代はひどいめにあい、暴力もいじめも受けた。誰にも相談できず、耐えるしかなかった。あと115日で卒業だ、それまでがんばろうと指折り数えたものだ。昼飯代は母が250円くれるが喝上げされるので、お金は一円ももっていかない。昼時は腹が減るので、水を飲んだ。小遣いはなかった。しかし、その金がどんどんたまりその金で司馬遼太郎の本を買ったり、オフコースのレコードを買った、不良たちに負けないのは、何か。勉強しかない。ひたすら勉強した。工業高だったので大変だった。独学で勉強し、推薦で大学にいけた。ある意味、あの不良がいなければ、なにくそ!という気持ちが沸かなかったのかもしれない。同窓会は中学の時のもので、いじめを受けていたやつが涙ながらに酔ってぼくに語るのだ。笑いながら語るやつもいたが、そいつも悲しい目をしていた。30年たっても40年経っても、忘れてはいない。その念がすごいと思った。封印していたもの・・。そして、いじめをしたり、暴力を振るったものそれは憶えてないのである、これも酷い話。要するに、軽い気持ちだから忘れているのである。そして、念は存在し続ける。念を送られた人は、哀れにも早死にしてる。それか、体を悪くしている。成功してる人はほとんどいない。要するに、自らの行動で自らのその後の人生も人間関係の構築や仕事などもうまくいかないのである。「あいつ、死んだらしいぞ」「ざまあみろ」その言葉を聞いたとき、ショックを受けた。酷いことをいうと思ったが、いじめをしていたやつは最後に復讐をされるわけであった。自分が死んで、ざまあみろ、なんて、誰かに言われるなんて、最低だ。ふと、深夜に思い出すことだ。#いじめ問題#いじめ
2019.12.12
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時間が過ぎてゆく。日が沈んでゆく。年を重ねてゆく。
2019.06.10
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TBS、学校会見でマスコミへの注文時に音声絞る 児童ら殺傷事件報道めぐり批判- 記事詳細|Infoseekニュース神奈川県川崎市の登戸駅近くで、子どもらが刃物で男に刺され、小学生の女児と男性が死亡した事件で、亡くなった女児が通う私立カリタス小学校側が2019年5月28日、記者会見を開いた。テレビ各局が会見の模様を夕方の番組で生中継する中、TBS系の番組Nスタでは、校長がマスコミに子どもたちへの取材自粛を呼び掛け…【全文を読む】ほんとうにひどい事件、繰り返し繰り返し起こる、マスコミは何度も何度も朝から晩まで、「興味本位」で取材をする。新潟の地震のとき、マスコミが同級生が亡くなった女の子たちを見つけ、マイクとカメラを向けた。そのときは、彼女たちは、笑っていた。でも、そのアナウンサーは、番組として、地震の犠牲者の同級生が泣いて悲しんでいるという映像がほしいがために、無理矢理、女子たちに、「同級生が亡くなって悲しくはないのか?」と、インタビューした。女の子たちは見る見る間に、表情が曇り、泣き出した。酷かった。今回も子供らにインタビューするな、という学校の希望を絞った。「そんなものどうでもいい」と、言うように、それが彼らの心の底にある得体の知れない正義感だろう。今回の犠牲もひどいものだ。反社会的人格症の連中は、すべての自らの不幸は、世の中のせいであると思っている。この男の頭の中には、人の幸せ が呪うべき対象なのであろう。そういう予備軍がまだおそらく日本国中にいる。次から次へと陰惨な事故が起き「またか、可哀想に」と、思い、次のニュースが出るともう人々は忘れてしまう。しかしだ。人が死んだり、殺されたりしても、被害者や遺族の気持ちがわからないのがいる、人の感情を持たない、共感できない冷えたココロをもつやつだ。こういうやつは社会性も協調性も無いので、家でテレビを見ている、何度も何でも流れるその事件を見て、加害者への憧憬をもち、ひとの不幸をあざ笑うのである。そういう側面がワイドショーにはあるのだ。
2019.05.29
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1979年はオフコースにとっては大きな変化をもたらした年、まず、「愛を止めないで」のヒット。メンバーが正式に5人になったという年。1979年はぼくは高校3年だった。嫌で嫌で仕方ない高校をやっと、3年になり、卒業できる希望をもてた年だった。
2019.05.28
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学生の頃、外国語学部だったので、できもしない、憶えもできない、スペイン語の勉強を下宿でやっていた。三畳一間の狭い部屋で、京都壱安かったかもしれない6000円の部屋。隣はマーじゃーん、逆の部屋はギターで唄を歌ってる、ぼくは、集中できないので、ヘッドホーンでラジカセから音楽を聴く。もちろん、オフコースの唄だった。オフコースの人気がでるまえから好きだった。応援していた。アリスや、チューリップの唄が流行っていた。ABCヤングリクエストでも、「サボテンの花」は一位だった。でも、ぼくは決して彼らのレコードを買うつもりはなかった。オフコースが次にでるレコードを買うために、当時はレコードは子供には高い買い物だった。レンタルレコードはまだ無かった。あんなもの、あとで思うとない方が良かったんだと思う。オフコースが売れたのが高校3年の冬の「さよなら」どこからともなく、街を歩いていても聞こえてくるほど人気が出た。大学に入り、オフコースのLPも買い続けた。それらをテープに落として、なんども聴いていた。よく、飽きもせず、先輩が、「また、オフコース聴いてるのか?」友人が思い出したように「オフコースのどこかいいんだ?」初恋の美由紀ちゃんにも「オフコースよりも井上陽水がいいな・・」姉も「オフコースより、ユーミン、タツローだな」ヘッドホーンで聴いた音。楽譜は読めないけど、一昨年、メンバーの松尾さんのライブにいった。「さよなら」のなかの、ハーモニカを吹かれていた。まったく、あの頃の音であった。ハーモニカはひとの息。ブレースである。ひとの呼吸。ああ、あのとき聴いていた音程だ、そう思うと、あの部屋や勉強してたことをさっと、数秒であるが「飛んだ」あの時間に、つまらないことに悩み。些細なことに躓き。あの頃のいろんなことがそこに封印されている。僕のなかの思いでは、そこにあるのだろう、
2019.05.27
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この唄は後にリバイバルされなじみが深いのだ宇徳敬子&近藤房之助のシングル。でヒット。作詞は庄野真代。
2019.05.26
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森田童子さんは、もうこの世のかなにいない。でも、歌はのこり、いつでも聞ける。生きているように、でも、実際、生きてる、僕のなかでは
2019.05.25
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2019.05.25
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りりィ(Lily、1952年2月17日 - 2016年11月11日)は、日本のシンガーソングライター・ 女優。本名、鎌田 小恵子(かまた さえこ)。福岡県出身。
2019.05.25
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日暮し(ひぐらし)1970年代に活動していたフォークグループ。1972年、RCサクセションの前身バンド、The Remainders of The Cloverのメンバーだった武田を中心に結成。1973年4月、 日本コロムビアのBLOW UPレーベルからデビュー。シングル4枚、アルバム3枚を発表後、1977年にビクターが新設したレーベル「インビテーション」に移籍。同年12月に発売した「い・に・し・え」が翌1978年に掛けてロングヒット、当グループの代表曲となった。1979年に解散。
2019.05.25
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先日また、近隣で中学生の男の子が飛び降り自殺した。その記事を見て、みんなどう思うか、「あ、またか・・」「いじめられたのか・・」ほんと、みんな、僕を含めて他人事のように思うんだろう・・。自殺したひとを責めたくはないが、そのマイナスの影響は計り知れない。生きることへの絶望と、その選択することを誰かが共感してしまうのだ。その少年の最後の風景はどんなものだったのかその訳はなんだったのか、この世を恨んで去って行くのか・・。生まれて来なければよかった、なんて、思うんだろう。人生とはいったいなんだ。哲学の延々のテーマである。寅さんが、映画で言っていた。「なにか、こう、良かったことがあるじゃあないかああ、良かったと、そう思えるときが、何度かある、そのために生きてるんじゃあないか」僕らが、少年のころ、「二十歳の原点」という、日記風の本があり、19歳から20歳になるとき、みんな読んだものだ。あの当時を、みんなを振り返って、吉田拓郎は「みんな、老感していた・・」要するにみんな生きることやいろんなココロの感覚は今よりずっと、深くて、大人であった。今は、みんな子供に見える、精神性が低い。理不尽なことが多かった。差別、男尊女卑。暴力。どんなことも許される時代でもあった、理不尽なことに怒り、自分の無力さを感じ、いろんなことを思ったものだ。暗いとか、女々しいとか、言われても、あの時代を思うに、哀愁の時代なのだ、みんな、悩んでいたのだ、崖っぷちのみちをでも、そっと、誰かが手を差し伸べてくれたり支えたり。そうして、生きてきたんだと思う。拓郎の唄に私は今日まで 生きてみました時には誰かの 力を借りて時には誰かに しがみついて その唄の良さは、生きてきました。でなく生きてみました。なのだ。みんな、手探りで生きてきた。あの少年の選択肢にない、とても、悲しくて残念と思う。
2019.05.24
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ブログももうやらなくなった。みんな、Facebookに移行したようだ。ぼくもそうだ・・。もうそれもだいぶになります、ブログブームが起きて、みんなブログやって若い人はあんまりしないらしい・・。平成が終わり、令和となったいま、あまり実感がない。ぴんとこないというか、ずっと、あとになって、平成は終わったんだ、そして時代の総括みたいなものがあって、ああそうだったなと、思うのだろう。僕が子供の頃は明治のひともたくさん居たがもはや、明治世代はほとんど亡くなられた。昭和一桁世代がいまは介護対しよう・・。昭和はどんどん遠ざかり、やがて昭和世代も居なくなる。この先、また、戦争は起きるのだろう。日本はこの先どうなるのか、
2019.05.22
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この歌も懐かしい・・。
2019.05.21
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この歌を聴くと、あのころの喫茶店の風景を思い浮かべることができる。相曽さんの伸びやかな声、しっかりとしたかわいい声・・。あの頃は、喫茶店でいろんな話をしたね。相曽晴日 / トワイライトの風(Blu-specCD2) [CD]
2019.05.21
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1981年開催の第21回ヤマハポピュラーソングコンテストに「摩天楼」で初出場。翌1982年開催の第23回同コンテストに「花ぬすびと」(作詞:すずきゆみ子)で再出場し、優秀曲賞を受賞した。同年の第13回世界歌謡祭ではグランプリに輝きプロデビューを果たす。デビュー曲となった「花ぬすびと」は30万枚のヒットを記録した。1986年名古屋音楽大学器楽学科ピアノ専攻を卒業。ポプコンの全盛期のころは、質の高い歌が多かった。この歌もよくできた歌。明日香さんは結婚し、その後札幌へ2013年の秋に亡くなられた・・。
2019.05.21
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時の流れに(AS TIME GOES BY)中村行延作詩 堀内孝雄作曲
2018.11.21
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中村ブン/かあさんの下駄
2018.11.21
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酒と泪と男と女1976年6月25日にリリースされた河島英五とホモ・サピエンスのデビューアルバム『人類』に収録された曲河島英五/DREAM PRICE 1000 河島英五 酒と泪と男と女もう17年になるのかあ・・亡くなって、阪神大震災のときはありがとう、英五
2018.11.15
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この歌に込められものはなんだろうか、「さよならは言わない」は、2009年2月25日にリリースされた、27作目シングル曲でした。関西テレビ制作(フジテレビ系列)のドラマ『トライアングル』の主題歌。オフコースのヒット曲。「さよなら」その反対の、さよならは言わない。ぼくはこの歌を何度も聞いて、あの学生のころを思い出す。遠い日の思い出。ぼくが大学の四年のときの話。夏休みの話だ、留年しなければ、最後の夏休み。しかし、あのころ、30年前のころは夏前から秋にかけて大学生は就職活動を行い、実質的には休みの気分とは言い難いものであるが、普通はそうであるが、ぼくはそうでなかった・・。大学の前期テストは夏休み前におわり、友人たちと下宿で話をしていた。・「ああ、やっと、テストおわったなあ・・」「単位とれるかな・・」そういう話の中、友人のYがこう言い出した。「あしたナ、日本海にバイクで泳ぎにゆくんだ!」「へーー、ひとりでか?」「ばかいうな!だれがひとりでいくねん・・・」傍らの法学部の安藤が「クラスのKさん、さそて、いくそうやぞ!!」三人で「へええええええ・・!」「まあな、かえりに、カーブをきって、寄り道するかもよ!」「どこに寄り道するねん・・」「きまってるやろ!ははは!」うれしそうだった。Y君。自慢の250の川崎のバイクでクラスでも魅惑的なKさんをいつのまにか、誘っていたのだ。大学の学食の隅で、タバコをすっていたKさんはなんか、大人のかんじがしたもんだ・・。大学の前期テストもおわり、暑い暑い京都の夏が佳境を迎えていた。当時、どの下宿にもクーラーなんて気の効いたものはなく、ましてや、古い下宿には、ぼろい窓をあけても風ははいってこない。はやく、京都を脱出すべく考えていた。ゼミ旅行と、自分ひとりでの北海道旅行。めじろおしのスケジュールだった。もちろんバイトも・・。下宿の階段は、裸電球ひとつしかなく、暗くてしかも、きゅうで40度は傾斜のある古い木造だった。その階段の上に黒電話があり、共同でつかっていた。そして、翌日の夜、大学の友人、やすえから電話があった。「あのね、たいへん!Yくん、舞鶴で事故ったそうだよ!」僕は驚いて、電話をきり、友人立ちの下宿にゆき、相談した、Yくんの下宿の青山荘にもゆき、おばさんにもいろいろ聞いた。翌日の始発で僕たち友人4人で舞鶴の病院にむかうことにした。古ぼけた山陰本線の鈍行の客車にのり、4人はだまったまま・・。「Kさんはどうなったんだろうか・・」そこも気がかりだった。なんとか、9時過ぎに病院につき、足にギブスをはめ、つるしたYくんを見た。「たいへん、やったなああ・・」「3ヶ月やで、ほんま、たまらんわ、最後の夏休みやいうのに・・」「どないしとってんや・・」「トラックが急にでてきて、僕らのバイクに横からつっこんできて ぼくらは転倒した、」「ほんで、あの、Kさんは、どうなったんた?」「あの、Kさんは、捻挫ですんだ、ふきとばされてけど」「そうか、よかったなあ、それでどこにおるんや」「ひとりで、旅館にとまってるよ」そういう話をしていると、足をひきずりながらKさんが現れた。ぼくらは驚いて、席をゆずり、声をかけた。「 だいじょうぶかいな・・」Kさんは、うなずき、笑顔で答えた。「私は大丈夫、きょうね、かえるから・・」「帰るって?どこに・・」「実家に帰る。」ぼくは、驚いて「実家って、和歌山やん!」僕は少し考えて、「ぼくがここから送ってゆくよ、足も捻挫してるし、肩もいるだろ」みんなは、納得し、ぼくらを見送った。しかし、日本海から太平洋までの縦断の旅は長かった。舞鶴から大阪まで福知山線経由で特急にのり二人で、並んですわり、旅が始まった。あれこれとはなし、トイレにゆくのもついてゆきまあ、中にははいれないが、大阪駅についてからたいへんだった。環状線にのりかえるにも階段をおり、のぼり、そのたびに僕の肩や手をもち、のり、新今宮で南海電車にのりかえるのもたいへん・・。南海電車でもはるかかなた、和歌山はとおい女の人と二人で旅行をしているような錯覚に陥りまた、なんか、えらい仲がよくなっていったのをおぼえている南海高野線の中で話した。「家には電話した?」「うん、したよ、」「駅から家までは一人でかえれる?ついていこうか・・」「お父さんがくるって、お父さん、すごく、怒っていた」「・・・・」「気にしないで、お父さん、よく怒るの・・」ぼくは、南海電車のなかで、そうか、当然だよな、怒るよな・。Kさんが、怒られるのはかわいそうだなあ、と、思った。もう、8時過ぎになっていただろうか、九度山の駅についた。ひなびた駅だった、駅の待合に、ひとり、背の高いしゃつをきたこわそうなおじさんがいた。「お父さん!」Kさんは、おとうさんに声をかけた。ぼくは、すかさず、お父さんに話した。「大切なお嬢さんを怪我をさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」ぼくは、頭を下げた、Yの気持ちを込めて、謝った、お父さんは、何も言わなかった、何も言わず、Kさんをつれて、暗闇に消えていった。7時間の短い二人旅がおわり、とぼとぼと、帰りのホームにひとりたち、大阪を目指した。そして、下宿に最終の地下鉄でたどりつき、下宿につくと11時40分ごろだった。つかれて、そのまま、下宿で倒れこむように寝てしまい。翌日の就職活動の会社説明会は参加しなかった、電話で目が覚めた、Kさんからだった。「きのうは、ありがとう、おくってくれて・・」「いや、それよりも、お父さんにおこられたかい?」「うん、すこしね、」「今度さ、会えるかな?」「え、合えるって、ぼくと?」ぼくは、すこしあせった。というか、ぼくは昨日の旅のなかで、ほんのすこし、Kさんのことを好きになっていたからだ、「いや、あえない」無碍もなく言った。「なんで?」「いや、あえない、ひとり旅にゆくんだよ」そんなことどうでもよかった、女の子から会えない?といわれて、会わない、というやつもいないだろう。それよりも事故したYと、付き合うことも考えられるのに横取りするなんて、ひどい話だ、と、頭をよぎった。結局、夏休みがおわって、みんなでコンパにゆくときに電話で誘った。しかし、その後、Kさんは、わざわざ、Yの実家にまで遊びに行きでも、付き合い始める様子はなかった。そして、秋になり、Yはギブスをとれ、再びバイクにのりある日にバイトにでた、滋賀県のほうにしかし、運命とおそろしいもので、再び、横からトラックん激突され、骨折。琵琶湖のほとりの病院に再び入院した。ぼくらは見舞いに行き、顛末を聞き、しかも、その病院の看護婦見習いの女の子と彼はえらい気があって、付き合いだして、今に至るそして、30年後あんなことがあったよな。昔の手紙を読んでたら、あのことがKさんの手紙にかいてあったよ・。そういう話を携帯電話でしていた。「あ、今度同窓会あるから、Kさんのとこにも電話しとくよ!」」Kさんは、結婚し、女のこが一人いて、幸せにくらしていた。でも、なにか、気になって、電話すると、旦那さんがでてきた。「実は、病がひどく、参加できないとおもいます・・」ぼくは、驚いて、いろいろ聞いたが、おもい病であること、それから、僕は長い手紙を彼女の書いた。そして、だんなさんから返事がきた。同窓会でY君にそれをいうと、落ち込んでしまった。同窓会の居酒屋の片隅にKさんが笑って座っているようなきがした。「あのときの輝いていた嫁を思い、うれしく思いました」だんなさんはこう書いていた。ぼくは、小田さんのこのシングルを贈った。もう、治らなく、意識も戻らないといわれてる彼女に、そして、数年経って、その九度山のお父さんもなくられた、いろんなことが人生にはある、人は人と出会い、別れて、そこに残るものはなんなのか
2018.11.10
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良しリンの、この歌は何度聞いてもじんーとくるね。ぼくはこの主題歌の「タッチ」は、実は見たことがない。
2018.11.05
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いい歌ですね、70年代なかばほど、小椋佳ブームがおきなおかつ、彼が銀行員しあがら、やってるのを驚いた。彼の独特の世界。「俺たちの旅」の歌は、小椋さんの夢で見た世界という、
2018.11.04
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こんばんわ、オフコースのファンです。オフコースは、小田和正の オ ではじまり鈴木康博の ス でおわる。売れなかった頃の曲が数珠玉でとてもいいのである。
2018.10.27
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南海トラフ巨大地震は恐ろしい。サバイバルシート 単品 防災用品 防寒 保温シート 地震対策 毛布 寝袋 定形外内ええ。一円、やすーー
2018.10.21
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名曲。
2018.10.20
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2018.10.18
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次々と大地震が起きて、次はどこ、とみんな心配。疑心暗鬼で、なんか、予知するひともいて、まあ、あれだけ、たくさんの人がさまざまなことを言えばどれか当たるだろう。しかし、肝心な予知は誰もできないし、気象庁はできない、と、言い切っている。しかしだ!ある程度の「くるかも・・」ということは言うそうだ。「避難準備情報」というのが、政府の名称。正式には「避難準備・高齢者等避難開始」と、なった、長い。情報は政府が各機関の情報によりだすが、避難せい!というのは市町村単位で行う。災害対策基本法60条 台風、大雨とかも同じ、こないだとかの台風で、さんざん、流れたあれです。伝達手段として、防災無線、サイレン、町内会組織や消防団を利用した口頭伝達、自治体などの拡声器を備え付けた広報車による呼びかけなのですがスマホなどのアラームでおなじみのあれです。大地震が来そうで、津波が起こる地帯で、しかも標高が低いところなどは、大切なことですが。いつくる?という明確なものではないし、明日来るか再来週にくるかわからない。それまで、どこで避難し、待機するか、待機する間の生活は大変です。「ああ、もう、いいや、家に帰ろう・・」と、帰った瞬間、地震がくるかもしれない・・。また、避難してる間に、治安はどうなるの、ペットとかどうなるのと、なりますし、寝たきりとか、介護が必要な人さまざまな問題を抱えつつ・・・関東大震災 東海大地震、南海大地震を今は、いつくるか、いつくるか、と、思いながら過ごすわけです。まあ、水と、缶詰とか、備蓄は必要です。台風や大雨などはある程度、予測はできますが、大地震は難しい状態です。
2018.10.16
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イルカ/イルカ アーカイブVol.3 「我が心の友へ」「FOLLOW ME」 +ボーナス・ディスク 【CD】価格:3066円(税込、送料別) (2018/10/14時点)楽天で購入Disc.101.ふりむけばそこに(1:39)02.我が心の友へ(3:38)03.涙のコンチェルト(3:29)04.夢みるパワー(3:47)05.いらくさ姫の伝説(3:18)06.ジェレミーの木(3:27)07.夜明けのグッドバイ(5:03)08.幻のタペストリィー(4:02)09.射手座生まれのキューピッド(3:39)10.ガラス窓の少女(3:13)11.まあるいいのち(4:03)Disc.201.うつろな二人(4:32)02.孤独なダンス(3:27)03.Follow Me(4:23)04.悲しみのジャンクション(4:12)05.蒼い狼(4:41)06.すべてがラヴ・ソング(4:28)07.月光(4:22)08.僕のLovely Girl(3:39)09.雨の日の動物園(2:41)10.あなたへの手紙(4:44)Disc.301.Follow Me 〔シングルver.〕(4:32)02.十九の春に 〔シングルver.〕(3:38)03.枯葉のシーズン 〔シングルver.〕(4:27)04.渚にて 〔シングルver.〕(3:39)05.すてきなSCIENCE(5:36)06.まどろむ夕べ(4:45)07.恋はカラフル(3:47)08.きみのマーチ(3:53)09.夢想家(3:59)イルカの1980年台を代表する、エレキサウンドの決定版アルバム『我が心の友へ』『FOLLOW ME』2作品のリマスター盤と、この時代のシングル楽曲等を中心に収録。イルカの軌跡をたどる、アーカイブ・シリーズ第3弾!小田さんがプロデュースしてます。
2018.10.14
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