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【1月20日(日曜日) 癸巳旧十二月九日 丙戌 友引 月齢8.3 大寒】 ヒトが、霊長類のいとこ達とは別の途を歩き始めたのは、今から約200万年前。我々の直接の祖先であるホモ・サピエンス・サピエンスが、他のホモ属から分化したのは、今から25万年~40万年前。その後、石の道具を作って使い始めたのは、今から5万年ほど前。 やがて、「彼・我」の意識が嵩じて、意思伝達手段として「文字」を作り、使い始めたのが、今から1万年ほど前のことです。そしてそれから更に約2千年を経て、それまでは記号でしかなかった、文字の配列の中に「文章」らしき構造が現れてきます。 最初の頃の文字は、天や神の意向を卜(ボク)する為や、権力者の命令を発するために使われました。これは文字を書くのに手間がかかる、つまり亀の甲羅や獣の骨を焼いたり、石や木を彫り付けたりしなければならなかった事が影響しているようです。 時代は下って、やがて筆が登場しました。それ以前と較べれば、格段に簡便に、また速やかに文字を記すことが出来ます。「文字を刻する」のはそれまで、占いの結果、規則、命令の布告をするのが主な目的だったのが、気持や印象を記述したり、事物や事象を記録したり、思索を表現したりと、文字の使用は飛躍的に豊かになりました。文字は権力者の占有物ではなくなったのです。お手本とする書体も整理され、中国では「千字文」というテキストも考案されました。 そこに「書聖」王義之(おうぎし)が登場してきます。王義之は四世紀初め頃の中国東晋の人で、門閥貴族、いわゆる「政治エリート」の家に生まれ、一族の期待を一身に担う若者として嘱望されていました。しかし、やがて政争に倦んで田舎(今の浙江省紹興市付近)に、地方役人として移り住みました。彼は山水豊かなその地を愛し、やがて役人も辞してしまいました。そして、知人友人たちと盃を酌み交わし清談に耽り、散歩に時間を費やし、仙道の修行に励むなど、悠々自適の生活を送ったということです。つまり、今で言うなら脱エリート、或いは挫折した人間だったようで、そういう辺りが彼の書にも一種の「味」をもたらしたようです。 その書聖 王義之の書が今月22日(火曜日)から、上野の国立博物館の特別展で展示されます。挫折したエリートが芸術に目覚めるなんて中々興味深い。3月初めまで、約一ヶ月余りの展示期間があるので、私も是非行ってみようと思っています。http://o-gishi.jp/
2013.01.20
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【1月23日(月曜日) 旧壬辰一月一日 癸未 先勝 月齢29.4 朔】 今日の月は朔、つまり新月である。 と、いうことは旧暦(太陰暦)では新しい月の初日で、つまりは旧一月一日。お正月元旦であるわけだ。お隣の中国では未だに太陰暦で一年の最初を寿ぐのが主流である。この時期かの国では、郷里で一族郎党が集まって新年を祝うというので、民族の大移動が現出する。日本では年の初めを太陽暦で祝うようになって最早久しい。遡れば明治政府の力ずくの欧化・開明化の賜物である。旧正月のこの日、関東太平洋岸でも夕刻から雪の予報が出ているが、さてどうなることやら。最近の天気予報は悲観的に傾くようで、殊更に悪天候を予報しがちである。後で大雨や大吹雪になって予報の甘さが批判されるより、少し大げさに言っておいて結果大したことが無ければ、揶揄はされても非難は免れる。背後にそういう計算があるとすれば、このごろの政府・政治家と同じで天気予報までがポピュリズムに堕している事になる。ところで閑話休題。「男子厨房に入らず」という言葉がある。料理を作るのが好きな私には、この言葉が以前から気になっていた。この言葉、「男子たるもの、台所などに立って料理の如き瑣末事にかまけていないで、須く天下国家の事に衝るべし」という意味合いがある。料理などは所詮女子、小人の携わるべき雑事である。少なくとも普通はそういうニュアンスで語られ、聞き取られる。つまりは、封建時代の男尊女卑の思想なのだ。そう思われている。調べてみたらこの言葉は、中国の孟子の言葉で、君子の道を説いているのだという。孟子の原文は、「君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉、是以君子遠庖廚也」である。つまりは、「鳥や獣が生きているところを目にすれば、その死を見るに偲び難い思いを抱く。その声を聞けば、その肉を喰うに忸怩たる気持ちが起きる。よって君子たるもの厨房には近づかない方が良い。」と、こういう意味が本来らしい。昔の中国の厨房はまた、鳥や獣の屠殺場でもあったのだ。君子は民草の上に立ち、彼らを統べる存在だ。彼が命令を出せば、人々はそれに従う。それが、民草の大事な生きる糧でもある鳥獣を哀れんで私の情に駆られ、よしんば屠殺を禁じたり、食肉の売買を差し止めたりするようなことがあっては、正しい政道が覚束ない・・・なるほど。わが国でも綱吉公はそこで誤って悪法を発したわけだ。しかしこの言葉、随分身勝手な感じもする。考えてみれば、この言葉の主語が「君子」であり、後世では「男子」であるところに、違和感の理由があるようだ。鳥や獣の肉のみならず、食材の大半は自然にあるがままでは我々の食には適さない。獣は屠らなくてはならず、鳥は縊らねばならず、魚も捌かねばならない。穀類や芋類だって、刈り取り、皮を剥き、切り刻まねばならない。その上で火にかけて調理しなければならないのだ。それを、大局を失わないために、君子や男子らは、自らはそういう現場を遠ざかり避けて通るべし、というのだ。なんだかムシの良い話だ。細部の現実に直面しないままに、或いは見もしないままに大局を論じて恥じないところは、わが国の政治家や高級官僚の悪癖である。これは昨年の3・11以来、災害処理や原発事故対策に際して我々が親しく目のあたりにしたところだ。被災地のみならず沖縄の人たちも同じ理由で怒っていらっしゃる。人間は自然を改変し、自然の恵みを蚕食しつつ生きてきたし、これからも生き延びていかなければならない存在である。牛肉を戴くには牛を屠らなければならない。食肉牛を屠殺場に連れて行く時には、命の終焉を察知した牛は哀しげに鳴くそうだ。君子たるものそれを見ずして、哀切の咆哮を聞かずして、大局を得る事はできないだろう。事ほど左様に、人間は他の一切の犠牲の上に在るものだし、これは同じ人間同士の中においても同じである。そう考えると、むしろ「君子は厨房に入るべし」であろうと、私は思う。何れにしろ老孟思想のお蔭で、それとわが国の戦国時代以降の男尊女卑の考え方も相俟って、第二次世界大戦の頃までは、厨房の地位は低かったようである。そこで働く主にご婦人のみならず、料理人の地位も低く、一個の男子が料理人になるのは、武家の男子が商人に身を窶すよりもはるかに身を堕すことだと看做されていた。わが国で最も格式があるとされた帝国ホテルにおいてすら、創業時の経営陣やスタッフの記録はあっても、厨房関係についてはほとんど記録が無く、初代の料理長の名前すら記録されていなかったそうだ。文字通り「男子厨房に入らず」だったわけだ。然し、時代をもっと遡って平安時代にまで行けば、光考天皇(第58代:830~887)がおわします。この方は手ずから大いに料理を好まれたようで、彼の炊事好きの所為でお住まいの部屋の辺りが煤で真っ黒になっていたため、「黒戸の宮」と呼ばれたそうだ。この天皇が百人一首に遺した御歌、 「君がため 春の野に出でて若菜摘む 我が衣手に雪は降りつつ」は、ひょっとしたら春未だ浅き野面に出て、「今日は一つ美味しいおひたしでも拵えてやろう」とセリかナズナでもお摘みになっている時にでもお詠みになった歌かもしれない。この頃には君子でも男子でも、厨房に入っても恥ずるところ一向に無かったのだろう。光考天皇は藤原山蔭に命じて「四條流庖丁道」を編ませていらっしゃる。これは、饗応饗膳の作法や料理法を体系化したもので、今も日本料理の流派として受け継がれているのだ。つまりは、「男子は須く厨房に入るべし。」そして、「君子は身を以って小局を経ずして、大局を吹聴するを得ず。」なのだ。
2012.01.23
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【2011年(辛卯) 8月14日(日曜日) 旧7月15日 辛丑 先負】毎日猛烈な暑さが続いている。何年か前から暑くなると熱中症に気をつけろと言われるようになった。(昔は日射病といっていた。)それで「こまめに水を採りましょう」と、私の住む町では防災放送というので、折に触れては拡声器放送をしてくれている。私の部屋では夏でもクーラーを稼動させていないので、防災放送で促されるまでもなく水を飲んでいる。水を飲んでは汗をかいている。汗は乾く間もあるどころか、どんどん出てくる。汗が出るのは体温調節機能がちゃんと働いているということだから、「生きている」とは実感できるが、決して快適どころではないのは当たり前だ。しかし、人間は本来恒温動物であるのが、技術を進歩させ、莫大なエネルギーを費やして、今や「恒環境動物」になり、暑いといえば涼しくし、寒いといえば暖めて、その結果環境問題やエネルギー問題を抱え込んでしまっている。神経を使う作業や人と会ったりする時以外は、別に高邁な決意があるわけではないけれど、私としては半分意地になって汗をかいているようなところがある。それにしても水は偉大だと思う。何より人間を含む生き物の全てが、水でできている。人間ならば体重の62%が水だ。生まれたての赤ん坊の頃は、全体重の80%程が水だそうだ。海や川の水の中に棲んでいる魚の場合は概ね82%、今周辺でしきりと婚姻の唄を競っている蝉だって、あんなにスカスカに見えて全体重の約61%が水なのだ。クラゲにいたっては95%が水だが、まぁこれは無理なく想像できるな。植物の場合も似たようなもので、草の場合は80数パーセントが水、樹木の場合も半分以上が水で出来ている。全ての動物を根底で養っているのは植物だが、根によって吸収された水は植物の体の成分として貯め置かれると共に、蒸散によってどんどん空気中に放出される。水が蒸散していくことで葉を冷やし、又植物体内で水に関して負圧が生じ、これがポンプの働きになって根から何十メートルの高さの梢にまで水を供給することが出来る。吸い上げた水の九割以上がこの蒸散によって空中に失われるそうだ。残りの一割未満の水を使って光合成が行われる。光合成は太陽エネルギーを使って二酸化炭素と水からデンプンを合成するプロセスだ。この植物本体や合成されたデンプンを動物が食べる。その動物を又肉食動物が食べて生きている。こうしてみると我々生き物は、膨大な量の水のお蔭で生きているのだということが良く分かる。例えば日本人の主食である米の場合、一キログラムの米を生産するのに約3.6トンもの水が必要だそうだ。つまり、米の生産には3,600倍の水が必要だと言うことだ。他の穀類でもほぼ同様で、小麦やトウモロコシでは約2,000倍、大豆では2,500倍の水が必要になる。もう少し感覚的に分かり易くすると、普通のお茶碗に一杯のご飯には、家庭の浴槽(約200リットル)2.5杯分の水が費やされているということになる。ご飯を一膳お代わりすると、その背後には浴槽2杯分の水が背後霊のように控えているということだ。ところで日本の食糧自給率は四割程度でしかない。トウモロコシも小麦も大豆も、殆どが海外からの輸入に頼っている。これはつまり、我々がちゃんと食事を戴くためには、生産国の水を非常に大量に消費しなければならないということである。もし、そういった国々の水事情が悪化したらどうなるか?もし、そこの水が汚染されたらどうなるか?・・・そう考えると、環境問題は世界レベル、地球レベルで考えないとダメなんだということが、非常に身につまされる実感として感じられる。もっといえば、食料の外国依存は国際問題、更には戦争の危機を孕んでいるとすらいえる。我々が喜んで戴いている牛も豚も、そして鶏も、牧草や穀物など植物を飼料として育てられる。上にも書いたように、草や穀物が生産されるためには、それの千倍ほどもの水が必要だ。その結果を動物が食べる。一般に動物(人間も例外ではありません)では食べたものの10%程度しか「身」にならない。残りの90%は排泄されて、別の生き物(植物や細菌など)の食料になる。それは食物の大連鎖という点ではちゃんと意味あることなのだが、そうなると人間や肉食動物が肉を食べるということは非常な無駄をしていることになる。エネルギーコスト的には、野菜や穀物を直接食べる方がはるかに理にかなっている。世の中のヴェジタリアンが、そこまで考えているとすれば、彼らは中々の慧眼の持ち主だと認めざるを得ない。(でも私は、肉はやはり美味しいのだが。ライオンも恐らく同意見だと思う。)つまりは、「生きとしいけるものは水である。」そう言い切ってもいいくらいなのだ。地球が誕生して10億年ほども経った頃、寄り集まった岩石などが概ね落ち着いて、中に含まれていた水が蒸発し、雲になり、「地球規模」の大豪雨をもたらして、その結果海が出来た。水には色々特異な性質があるが、その一つが地球の大部分の環境では、「色々な物を溶かし込む液体で存在する」ということだ。溶かし込まれた物は、お互いに化学反応を起こし易い(つまり相互に衝突し易い)距離にある。水が気体(つまり水蒸気)としてしか存在できないと、これらの物はお互いに離れすぎていて、中々反応しない。一方で水が固体(つまり氷)だと、今度はこれらの物が自由に動けないから、お互いにぶつかるチャンスは小さくなってしまう。水は水素原子が二つ酸素原子にくっついた分子だ。つまりH2O(エイチツーオー)である。水の分子量は18である。一般に分子量18程度の化合物だと、沸点は-80℃程度になる。そうなると水は我々の生きている環境では気体でしか存在できないことになる。しかし、実際には水は100℃で沸騰して液体から気体(水蒸気)になる。つまり我々が暮らす世界では、水は普通液体なのだ。これは水の「水素結合」という性質に由来する。幸いなことに水が液体で存在しているから、中に溶かし込まれた様々なものは、ぶつかり合って色々な化合物が出来る。これに当時海中にまで降り注いでいた紫外線の作用などもあって、やがて生き物の基本構造である有機物が合成された。色々な分子はぶつかり合って、相手を得れば徒党を組みたがる性質がある。その内自発的にそういった塊を「膜」で囲い込んでしまって、原始生物が登場したのだ。我々の体もはるか昔のこの名残を留めている。つまりは細胞だ。細胞は膜で包み込まれた海に他ならない。その小さな海の中で、一定の反応が間違いなく行われるように、膜が「外側」から守っているのである。我々が「生きている水の塊」であるのは、こういう由来なのだ。細胞の中で活発な反応が行われるためには、細胞内の水が豊かでなければならない。人間の場合は、受胎してから出産まで、そしてその後は赤ん坊から子供へと成長する時期は、様々な反応が活発に起こっている。だから、上に書いたように生まれたばかりの赤ん坊では、全体重の八割程度が水なのだ。青年になって成長が鈍り、やがて大人になって成長段階を終える頃になると、水の含有率は徐々に減ってくる。これはつまり、活発な反応が収まり、それまでのように細胞が水を必要としなくなるからだ。この際体の外側、つまり表皮の方から段々「乾いて」くる。この辺りを何とかしようと色々工夫しているのが、私が顧問をしている会社を始めとする、「基礎美容」とか「素肌美容」といわれる分野なのだ。さて、水にはもう一つ、我々生き物にとって重要な特徴がある。それは、固体になるとき体積が増えるということだ。よく知られているように水が凍る(液体から固体になる)時には、体積が11%ほど増える。つまり1キログラム(つまり1リットル)の水より、1キログラムの氷のほうが「大きい」。この性質のお蔭で氷は水に浮かぶのである。若し、水が凍ったときに体積が小さくなるのであれば、氷は水に沈む。つまり寒冷地の海では(或いは地球が冷えた時期には)底の方から凍ってしまい、海底近くに住んでいた生き物(海では今でも底棲生物の方が圧倒的に多い)は死んでしまったに違いない。そして、やがて海が全面凍結すれば、生き物が棲める世界は無くなってしまう。しかし、氷が水に浮かぶ性質があるために、地球の海が完全に凍結してしまうことはなく、氷河期でも或いは「全球凍結」の時代でも、海の底深くではちゃんと液体の水が存在でき、生き物は生命を繋ぐことが出来た。その結果、末裔としての我々が存在できているのだ。こうして見ると、水にこういう特徴があったこと、そして地球が太陽からちょうど良い距離にあって、非常に長い時間の間、全地球平均気温18℃程度という、水が凍りもせず、気体にもなってしまわない状態にあったことは、まことに稀少で貴重なことだといえる。我々(人間だけではありません)が、稀有な幸運の賜物であると共に、水はそれほどに「エライ」のだ。
2011.08.14
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☆ 9月1日(水曜日) 旧七月二十三日 甲寅(きのえ とら) 大安: 二百十日、風の盆 【人間は考える竹輪である ? (5)】《コラーゲン鍋は美味しければ・・・》コラーゲンは、真皮、靱帯、腱、骨、軟骨などを構成するタンパク質のひとつで、繊維状を為す。細胞外基質として、細胞の外側にあって絡まりあったり組み合わさったりして、体の形状を支える物質(細胞外マトリクスという)の主成分として重要である。肌の表皮の下(真皮層と呼ばれる)には、エラスチンというタンパク質と共に、このコラーゲンが存在する。弾力を保持するエラスチンとコラーゲン繊維が立体格子状に(健康的に)絡まりあっていれば、肌の弾力、保湿力などを保つことが出来て、しわやたるみを防ぐことになるので、ご婦人方は、コラーゲンに対しては美容上の関心も高い。また、高齢になるにつれコラーゲンを作る作用は、(他の代謝作用も高齢化すれば同様であるが)段々衰えてくるため、膝などの関節に痛みを生じたりするようになる。だからコラーゲンは、ご婦人のみならず、中高年の諸賢にとっても関心が高く、タンパク質の中でも耳なじみの程度が高い。我々の体の中ではコラーゲンタンパク質は、全タンパク質のほぼ30%を占める程多いのだ。そこで、世の中には「コラーゲン錠剤」や「コラーゲンサプリメント」と題する商品が数多く出回っていて、人気も高い(それぞれ結構なお値段もする)。テレビなどのコマーシャルでも、必ずこの手の「健康食品」が宣伝されている。しかし、前回の話を思い出せば、「体は、タンパク質は吸収しない」のである。コラーゲン錠剤を服用しても、さめの軟骨のサプリメントを飲んでも、居酒屋で豚足を食べても、焼き鳥屋で鶏の軟骨焼きを食べても、どれも皆同じである。体にとってはそのままでは単なるエイリアンだから、腸の中では様々な酵素がこれを一生懸命アミノ酸に分解する。コラーゲンは分解されると、アラニン、プロリン、グリシンなどのアミノ酸に分解される。そして初めて「体内」に吸収されるのだ。アラニンも、プロリンも、グリシンもアミノ酸としては極ありきたりのものである。アラニンは蜆やエビなどの甲殻類に多く含まれている。プロリンは豚肉や大豆・小麦タンパク、焼き麩などに含まれている。グリシンはエビやほたて、イカに多く含まれている。だから、何も高いお金を出してサプリメントを買わなくても、こういう食品を普通に食べていれば良いのである。それに第一サプリメントを食べても、その中のコラーゲンは結局アミノ酸に分解されてしまう。結果のアミノ酸はその時の都合で何処に使われるか分からない。肝臓細胞を作るのに利用されるかもしれないし、筋肉細胞の材料になるかもしれない。勿論、期待のコラーゲンを作るために使われる場合もあるだろう。しかし、それは確率の問題になってしまう。ちょうど、学校の校庭の隅に並べられた花壇の内の一つに水をやるために、校庭全体に水を撒くようなものである。つまり、コラーゲンを食べても「マイ・コラーゲン」にはならない。「肌がつやつや。名物コラーゲン鍋始めました!」という貼り紙を見つけたら、先ずは大いに笑って宜しい。コラーゲン鍋も、他の何やかやも、そういうものなのだ。「コラーゲン鍋や豚骨は、美味しいから、好きだから食べる」というのが、一番健全なのだ。これは、他のグルコサミン、コンドロイチン、ヒアルロン酸など、最近喧しい様々なサプリメントについても同じことである。敢えて言えば、サプリメントなどの形でタンパク質を食用(経口摂取)することには、今まで述べたように何らの科学的根拠も無い。だから、サプリメントを煽る行為を疑似科学といって非難する専門家も多いのだ。効果ははっきりいって疑わしい(それも大いに)、しかし(金銭面以外では)害は無い(結局アミノ酸にまで分解されてしまうのだから)ということになるのだろう。《アミノ酸からコラーゲンへ》じゃぁ、サプリメントなどに頼らず、普通の食品を満遍なく食べるように努めて、ひいてはその結果としてコラーゲンも豊かにしようとする。その際に一つだけ考慮しておくべきことがあるので、それをここに書いておこう。コラーゲンの材料になるアミノ酸は、上に書いたようにグリシン、プロリン、及びアラニンと、更にいえばリジンである。この内プロリンとリジンに水酸基(-OH:ヒドロキシ基ともいう)がひとつ付加された、ヒドロキシプロリン、ヒドロキシリジンというアミノ酸も追加される。この2つのアミノ酸はコラーゲンに特有のアミノ酸で、他のタンパク中にはほとんど含まれない。これらは、水素結合によってタンパク鎖同士を結びつけ、絵に掲げたような3重らせん構造を保つ働きがある。ヒドロキシプロリンとヒドロキシリジンは、体内では先ずプロリン、リジンの形で合成され、コラーゲンタンパク鎖が形成された後で酸化酵素によって水酸基が付加される。この反応の際にはビタミンCが補酵素として必要とされるため、ビタミンCが欠乏していると正常なコラーゲン合成ができなくなるのだ。これが、昔船乗りなどに恐れられた、壊血病である。人間はビタミンC(別名アスコルビン酸)を体内で合成できない。だから必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要がある。一方、多くの動物は、自らアスコルビン酸を体内で合成できる。自前で「マイ・ビタミンC」を合成できないのは、人間と一部の霊長類(オランウータンやゴリラなど)、それにモルモットだけである。だからペットの犬や猫にビタミンCを与える必要は無い。しかし、我々人間は適宜ビタミンCを含んだ食物を摂取する必要があるのだ。《余談:アメフリイトイロバス》人間の体を構成する約10万種類のタンパク質は、20種類のアミノ酸を材料にして作られる。この20種類というのは、地球上の他の生き物にも共通している。基本となる部分が共通しているから、我々は他の生き物の命を戴いて我々自身の糧にすることができるのだともいえる。さて、この20種類のアミノ酸には、自らの体内で合成して作ることが出来るものと出来ないものとに分かれる。自分の体内で合成できるアミノ酸の種類は、生き物の種類ごとによって異なる。人間の場合、20種類の内11種類までは体内で合成できる。これは言い換えれば、9種類のアミノ酸は自給できないから、食物の形で摂取することが必要になるということだ。だからこれら9種類のアミノ酸を「人体必須アミノ酸」と呼んでいる。この場合「必須」というのは「外部から摂ることが必須」という意味である。人体に必要なのは20種類のアミノ酸であることには変わりない。偏食などの理由で必須アミノ酸が不足すると、タンパク質の順調な合成が阻害されるため、体の構造が脆弱化するし、ホルモンや酵素を介した体の機能も低下してしまう。私が高校時代、この必須アミノ酸(当時は9種ではなく10種だった)の名前を覚える必要があった。生物の試験では必ず出題される問題だったのだ。【画像:あめ降り一色バス】昔から受験生は暗記物に関しては語呂合わせの達人である。誰が考えたか、必須アミノ酸を「アメフリヒトイロバス」と覚えるのだと教えてくれた友人がいた。「雨降り一色バス」である。こうなると、田舎の(何故か田舎なのだ)一本道を雨に降られながら寂しげに(何故か寂しいのだ)走っていくモノトーンのバスを映像として連想できて、すぐに覚えられたのだ。私はお蔭で今でも「人体必須アミノ酸」はソラでいえる。(別に試験のとき以外に役に立った記憶はないが。)ついでだからここで、その必須アミノ酸を列挙してみる。アルギニン、メチオニン、フェニルアラニン、リジン、ヒスチジン、トリプトファン、イソロイシン、ロイシン、バリン、スレオニン。ね?凄いでしょ?(だから何だって?・・・別に、それだけのことです。)因みに筆頭のアルギニンは、今では必須アミノ酸から外されている。これは、幼児では生長、成人では窒素平衡に必要なアミノ酸で、タンパク質の生成・分解を調整することによって筋肉の維持に関与する。人間の体内では「クエン酸回路」という仕組みの中で合成されるから「必須」ではないが、成長期にはこれだけでは足りず、外部から食品の形で摂取する必要があるのだ。だから「成長期の必須アミノ酸」は今でも10種類だという事ができる。それにしてもアルギニンが必須でなくなったら、「メフリヒトイロバス」になって、これでは意味が通じなくなる。・・・バスヒトリフメイロ?「バス独り不明朗」??・・・ヒバリイロメトフス?「雲雀色目と伏す」???今の子はどうやって覚えているのだろうか?私にとってはこれから死ぬまで「雨降り一色バス」のままだな、きっと。
2010.09.01
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☆ 8月30日(月曜日) 旧七月二十一日 辛亥(みずのえ ね) 先負: 【人間は考える竹輪である ? (4)】《我われは流れに浮かぶ竹輪である》我々が普段体の表面だと思っている部分だけでなく、「体の中」だと思っている胃や腸の表面も、実は元を質せば竹輪の(内側の)壁で、つまりは体表と同じ「外側」なのだと、今まで繰り返し述べてきた。つまり、「おなかは中ではない」。我々の体の本当の内側は、竹輪の肉の部分なのだ。言い換えれば生き物としての我々のアイデンティティは「竹輪の肉」にこそある。我々は、この竹輪の肉を、養い育て、外界に対して防御することを所与の作戦としているのだ。我々の体は約60兆個もの細胞から出来ているそうだ。そして毎日その20%ほどが死んで新しく生まれ変わっている。20%といえば約12兆個だ。つまり約1億4千万個もの細胞が、たった一秒の間に世代交代していることになる。そうなると、明日のあなたは、今日のあなたの8割しか「あなた」ではない?(残りの2割は誰だ!?)我々は、毎日水を飲み、ものを食べ、排泄をしている。呼吸もしている。その過程で行動したり考えたりするエネルギーを獲得し、連日全細胞の2割を更新している。山奥の渓流。そんなイメージを思い浮かべよう。川の流れがあるところまで来ると、一旦淀んで淵を作る。水は淵の中で緩やかに還流した後、やがて反対の端から下流に向かって又流れ去っていく。生命とはそんなものだといえるかもしれない。そうなると、我々は淵に浮かぶ竹輪のようなものだ。水は常に淵に流れ込み、くるくる回っては再び流れに戻っていく。そこに竹輪が浮かんでいる。竹輪の一部が水に溶けて流れ去ると同時に、又新たに竹輪の一部が作られてもいる。竹輪も大きな眼で見れば流れの一部であるのだ。こうして、我々は常に流れの中にある。その流れの中から必要なものを吸収し、竹輪の肉にしなければならない。不要になったものは流れに戻さなければならない。流れの中には色々なものも混じっている。だから、必要以外の様々な異物が入り込む可能性がある。我々のアイデンティティを守るためにはそういった異物が体の「内部」に入り込まないようにしなければならない。《マイ・タンパク質しか意味は無い》我々のみならず地球上のあらゆる生き物はタンパク質によって作られている。タンパク質はアミノ酸というものが沢山連なったものをいう。アミノ酸は更に分解すると、炭素(C)、水素(H)、酸素(O)、窒素(N)になる。一部には硫黄(S)も含まれている。これらは全て地球上ではありふれたものばかりである。地球上に生命が生まれる際には、こうした何処にでもあるありふれたものを材料にしたのである。これらの材料が組み合わさって出来上がる有機化合物であるアミノ酸は約500種類以上あるが、地球上の生物はこの内20種類を、体を構成する材料として使用している。この20種類は、長いながい生命の歴史の中で選び採られたものである。言い換えれば、すべての生き物、そして我々の体は、20種類のアミノ酸を様々に組み合わせたタンパク質で出来ているのだ。ところでこのタンパク質は何種類くらいあるのだろうか。なんとその数は数千万種類にも及ぶのだそうだ。これはちょっと確かめてみればすぐに分かる。例えば、アミノ酸が5個つながって出来ているタンパク質があるとする(アミノ酸が5個というのはタンパク質としては単純な方だ)。それぞれのアミノ酸は20通りの選択可能性があるのだから、20を5回掛け合わせる、つまり20*20*20*20*20=320万種類ということになる。これだけの多くの種類のタンパク質の中で、我々人間は約10万種類のタンパク質を選び出して、体の材料にしている。選ばれたタンパク質以外は、我々にとっては異物である。我々のアイデンティティを維持していくためには、これらの異物は体の「内部」つまり竹輪の肉の方には入れてはいけない。実際のタンパク質は、アミノ酸が数十から千以上、複雑に組み合わさって出来ており、体の各部位を形造ったり、我々の体が様々な生理作用を営む際に使われている。タンパク質の主な働きを列挙すると;(1) 酵素:代謝などの化学反応を起こさせる。 (2) 生体構造を形成する。(3) 生体内の情報のやりとりに関与する。(4) 運動に関与する。(5) 免疫を司る抗体として働く。 (6) 栄養の貯蔵・輸送に関与する。などなど、およそありとあらゆる生命現象はタンパク質の働きによっているのだといえる。高分子有機化合物であるタンパク質は、その構成の仕方により、折れ曲がったり畳み込まれたりと、複雑な三次元構造を持つようになる。この構造によって、上に掲げたような機能が生じてくるのである。つまりこの構造が異なれば、上記の機能は発動しないか、発動しても誤った動作をもたらしてしまう。そして、類似のタンパク質であっても、生物の種が異なればこの構造が異なるが普通である。ある生き物にとって有用なタンパク質は、アミノ酸が多数結合する時の順番が自らのDNAによって、きっちりと記述されている。その結果その生き物にとって必要なタンパク質が、誤ることなく用意されることになるのだ。つまり我々にとってのタンパク質は「マイ・タンパク質」しか意味が無い。他の生き物のタンパク質を持ってきても、それは我々にとっては基本的に異物でしかないのだ。そうはいっても、我々は炭素や窒素などから直接タンパク質を製造する機能を持っていない。だから他の生き物の体を戴くのだ。野菜にしろ、魚にしろ、獣肉にしろ、我々は他の生き物を殺して食べることによって、エネルギーや体の源とさせていただいているのである。そうなると、元来異物であるタンパク質が体の「内部」に入り込まないようにするにはどうするか。我々の体は、極簡単に「タンパク質は取り込まない」という作戦を採用したのだ。つまり、疑わしきもそうでないものも、タンパク質は取り込まない。その代わりに高分子であるタンパク質をどんどん切り離していき、アミノ酸の形にまで小さくして、そこで初めて体の「内部」に取り込むのである。アミノ酸の形にしてしまえば、どの生き物にとっても共通の20種類に落ち着くのだ。これが「消化」である。アミノ酸さえあれば、必要なタンパク質は体の中で作ればいいのである。「よく噛んで食べないと消化に悪いよ」といわれるが、これは消化の極始めの段階しか捉えていない。つまり、「消化」とは、先ず口の中で咀嚼して他の生き物の体を細かく砕き、それを飲み込む。それが胃から腸へと「竹輪の内側の皮」を通過していく過程で様々な酵素を投入して、タンパク質の鎖を断ち切り、アミノ酸にまで分解する。それまでの一貫した過程のすべてをいうのである。アミノ酸の形になって初めて、竹輪の内側の皮に並んでいる細胞の膜が、「栄養物」だとして竹輪の肉の方に選択的に通してくれるようになる。それまで、つまりアミノ酸にまで分解される前のタンパク質は、我々の体にとってはエイリアンなのだ。だから、アミノ酸まで分解されなかったタンパク質は、そのまま排泄されてしまうことになる。我々の体は、自らのアイデンティティを守るために、異物に対しては様々な対抗手段を用意している。アレルギーやアトピー、拒絶反応、それに炎症などは、すべてこの対抗手段の発現の結果なのだ。つまり、あるタンパク質が足りないといって、タンパク質を食べることなんて、全く意味が無いのである。
2010.08.30
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☆ 8月29日(日曜日) 旧七月二十日 辛亥(かのと い) 友引: 【人間は考える竹輪である ? (3)】《「おなか」は中か?》さて、我々は一個の細胞から自身の歴史をスタートさせ、やがて竹輪になる。その後は竹輪の皮のあちこちが出っ張ったりへこんだりして、様々なパーツが出来ていくのだが、それは竹輪という基本形を壊すものではない。相変わらず一方の開口部(入り口の方は「口」と呼んでいる)から、他方の開口部(これは肛門と呼んでいる)までつながった、一本の管であることには変わりがない。竹輪の外側の皮(焦げ目が付いていて、これが香ばしくて中々美味しい)では、手足や指、目鼻や耳など、我々の外観を構成するパーツが作られていく。一方の内側の皮のほうでは、引き伸ばしたり部分的に膨らませたり、或いは折畳んだりして、胃や腸などが作られていく。つまり、竹輪の外側の皮も内側の皮も、竹輪本体からすれば「外側」なのだ。このことを頭に入れると、我々が普通に使っている言葉を考え直さなければならなくなる。なにしろ「おなか」は「中」ではなく、外なのだから。「ハラにイチモツ」といえば、竹輪の穴の中に何か怪しげなものが詰まっている人の意味で使われる。しかし、上等の竹輪の穴に、チーズや牛蒡の漬けたのを細く切って詰めるとおいしい。「ハラ黒い」とは、竹輪の穴の内側が真っ黒になっているから、これは美味しくなさそうだ。中だと思っていたものが外だということになると、ものの見え方も少し変わってくるから愉快だ。我々は「おなかに良い(悪い)」というのを、「体に良い(悪い)」と同じ意味で使っているが、実際には食べたものがお腹にある段階では、体の中ではなく竹輪の内側の管の途中に引っかかっているだけに過ぎない。つまり中ではなく、未だ外にあるのだ。「おなかに赤ちゃんが入っている」という。実はこれも体の中に赤ちゃんがいるのではない。受精後6週間頃になると、体の表面の二箇所が内側にくびれ込んでいって、袋小路の細い管が2本出来る。どちらも、口から肛門に続く竹輪の穴とは別物である。一方の管(ウォルフ菅という)は途中にさらに窪みができて、これが何れ腎臓や尿路になる。もう一方はミュラー管と呼ばれ、これがやがて子宮や卵巣になる。(因みに、男の子の場合にはミュラー管と呼ばれる陥没は元に戻って消えてしまう。男は、女性になり損ねた人間なのだ。この話も面白いけれど、いつか他の時にしよう。)つまり、「赤ちゃんがお腹に入っている」といっても、元を質せば子宮は「皮の窪み」であって、竹輪の穴ですらないのだ。しつこいようだが、「お腹」は体の内側ではなく外側なのだ。《人間の「竹輪の内皮」》竹輪の外側の皮の方はひとまず置くとして、竹輪の穴のほうの皮は色々に分化・発達していって、我々の生命にとって非常に重要な役割を負うようになる。今、テニスコートを思い描いてみよう。ここでは、テニスをするのではなく、一面のテニスコートを多い尽くすほどの大きさのシートを用意する。このシートの向かい合う二つの辺を貼り合わせると大きな管が出来あがる。これをつまんだり、細くしたり、小さな出っ張りを沢山作ったり、折畳んだり、更には途中に窪みを作ったりして、我々の体の中になんとか入れられるようにしてみよう。そうです、これが我々の竹輪の内側の「皮」の実際の有様。両端の開口部は、一方は口で他方は肛門だ。途中の出っ張りやくびれ、折畳まれたクネクネは、胃や腸、またそれらの部分である。この辺になると、竹輪のイメージからは随分遠くなる。それでも、本質的にはやはり「体」の「外側」、つまりこの複雑なチューブの中にあっても、それは未だ「体外」にあることに変わりはないのだ。《ここで再び余談》人間の始まりは一個の細胞である。この細胞が分裂していって、上に述べたようなことが起こっていく。一個の細胞が二個に、二個が四個に、四個が八個に・・・・・と分裂していくのだ。まるで麻雀の点数の数え方みたいだが、実際細胞はこうして増えていくのだ。さて、「完成品」としての人間は、幾つの細胞から出来ているだろうか?・・・我々の体は大体60兆個の細胞から出来上がっているのだそうだ。60兆といっても大きすぎて分からない。6の後に0が13個も付く膨大な数字である。それだけの数の細胞が、最初の一個から始まるのだ。それでは、一個の受精卵が60兆個の細胞に増えるまでに、何回細胞分裂をすることになるのだろうか?数千万回?100万回くらい?・・・実は46回程度で済むのです。たった46回で60兆個!これは、高校で教わった対数を使えば簡単に計算できます。つまり、倍々で増えていく細胞がn回分裂して60兆になるのだから;{2のn乗=6*10の13乗}この式の「n」を求めればいい訳です。そこで、両辺の対数をとって、・・・・ま、その結果n≒46となるわけです。(この稿まだまだ未だ続く)
2010.08.29
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☆ 8月28日(土曜日) 旧七月十九日 庚戌(かのえ いぬ) 先勝: 【人間は考える竹輪である-(2)】《寄り道:ヒトはいつから人間なのか》ここで、最近ちょっと印象に残った話に寄り道してみる。前の稿で書いたように、我々は一個の細胞からスタートする。それが分裂していって、やがて竹輪になる。その竹輪の部分々ゝが更に分化・発達していって、ヒトの形が出来上がる。それでは我々はいつから「人間」になるのだろうか?私は何時のころからかははっきり分からないが、疑うこともしないで自分を人間だと思っている。周りも私のことを人間だと思っている(はずだ)し、私も周りの連中のことを人間だと思っている。そういうことだ。しかし自分を人間だと思えば、それで人間なのだろうか?最近は、ものを言ったり、選挙に出たり、あげくに波乗りまでする犬がテレビに出ている。観ていると周りも、その犬を普通に人間扱いしている。してみるとあの犬は「人間」なのだろうか?(そうならば、一度じっくり話してみたい。中々味のありそうな犬である。)ヒトが人間であるためには、何かの基準がないと心もとない。第一私の人間としての歴史は何処まで遡れるのだろう?母親の卵子が父親の精子によって受精した時にまで遡れるのだろうか?実は日本の法律上では胎児は人間ではないとされている。刑法上は、出産の際、母体の外に出た瞬間に人間になる。その瞬間以降は、これを傷つければ傷害罪に、殺してしまえば殺人罪に問われる。しかし、「母体の外」に「何が」出た瞬間に人間になるのかは、法律には明確に規定されていない。頭の天辺が見えた瞬間なのか(逆子の場合には足だな)、体の半分以上(この表現も未だ曖昧だが)が出ればいいのか、それとも、全身が出きった瞬間をいうのか?帝王切開の場合にはどうなのか?聞いた話だが、昔東大の先生が、この辺のプロセスを黒板に板書して(絵まで描いて!)、実に詳細に講義をした。この先生の講義は、学生、特に男子学生に大好評を博したそうだ。つまり刑法上「いつ」人間になるかははっきりしない。(その先生が、「赤ん坊の頭がアソコから見えた時が・・・」と仰ったかどうか、正確にはよく覚えていない。)刑法には堕胎罪というのがあって、人工中絶などによって胎児を殺傷することは罪とされているが、しかしそれは傷害罪や殺人罪などではなく、つまり被害対象は人間であるとは看做されていない。つまりやはり胎児の段階では人間ではない。母体保護法という法律がある。この法律が1948年(昭和23年)に最初に制定された時には、優生保護法という名前であった。優生保護法も母体保護法も(優生保護法では障害児排除の色彩が強かったが)、基本線は母なる人の母体保護の観点から、堕胎罪の適用除外を定めようとするものであって、「胎児はいつから人間なのか」という問いに直接答えるものなどではない。母体保護法では、「胎児が母体外において、生命を保続することのできない時期における、医師の認定による人工妊娠中絶に対しては堕胎罪を適用しない。」と定められている。そうなると「母体外でも生命を保持できるまでに育った胎児」は、その時点以降は人間(というより、正確には未だ法律的人間ではなく「人間に準じるもの」といわねばならないのだろうが)と看做せるのだろうか?再び、ここでもその時期がいつなのかは、明確に示されていない。実際1953年(昭和28年)の厚生事務次官通知では、その「時期」の基準は「通常妊娠8ヶ月未満」(ということは「満32週未満」となるか)とされていたが、1976年(昭和51年)の厚生事務次官通知では「通常満24週未満」に変更され、さらに1990年(平成2年)の厚生事務次官通知において「通常満22週未満」に改正されて現在に至っている。つまり「準人間」になる時期も変動しているのだ。しかも、「個々の事例における時期の判定は、都道府県の医師会が指定した医師により判断される」。つまり、人工妊娠中絶実施限界とされる妊娠22週は、医師の判断によっても、その時期が変動し得るのだ。更には、死体解剖保存法という法律では、四ヶ月未満の死胎は人間の死体としては扱われない。だから、死胎が出るという話になると、製薬会社や化粧品会社の車が、密かに病院に乗り付けられたのだそうだ。一方で民法上では、相続、遺贈、損害賠償の請求に際しては、胎児であっても親子関係がはっきりしてさえいれば、人間としての権利を持っている。つまり、妊娠中の胎児であっても遺産相続人としての資格は持っているし、母親が事故にあったりした場合の損害賠償請求は、胎児の分も行うことができるのである。つまり民法では場合によって胎児も人間扱いされる。まとめると、日本の法律においては、先ず胎児は人間ではない。民法上は上記の三つのケースにおいてのみ人間である。と、そういうことになるのだ。(以上のかなりの部分は、『村上陽一郎著:「人間にとって科学とは何か」 新潮選書』を参考にしました。)・・・さて、これじゃぁどうもすっきりしないなぁ。ところで、日本には「お七夜」という風習がある。これは赤ん坊が誕生してから七日目(生まれた日も一日と数える)の夜に、赤飯や尾頭付きの鯛、昆布、紅白の麩などの祝膳を用意して家族で食べ、この日からお宮参りまでの約1ヶ月間、命名書を飾る。この風習は平安時代にまで遡ることができるそうで、「名づけ祝い」、「命名式」などともいわれる。お七夜といえば、なんの疑問も無くおめでたい行事だと思うけれど、その背景には少し怖いものがある。昔の日本では、赤ん坊が誕生しても、すぐにこれを公表したりしなかった。生まれてから七日間は内緒にしていた。この期間を通じて新しく誕生した子を、我が家の子供として認証し、育てていくかを考えていたのだそうだ。つまり言い換えれば、この期間内であれば、その家の当主の判断でその子を殺すことも捨てることも出来たのだ。七日目の晩になると、その子は晴れて人間と看做され、その家の子供として認証され、そして近所や縁者にお披露目され、家族から祝福を受けることになるというのだ。つまり、昔の日本は誕生しても七日間は人間ではなかったのだ。お七夜の本来はそういうことだったのだそうだ。今の日本の戸籍法では、誕生後14日目(生まれた日も入れて)までに、役所に出生届けを出すことに定められている。しかし、それまでの期間に赤ちゃんを殺傷すれば、当然罪に問われることになるのは勿論である。「いつから人間になったのか」は、色々調べてもどうも曖昧ではっきりしないが、最近では「いつまで人間なのか」も問題になっているのはご存知の通りだ。「人間である」ということの大前提は「生きている」ということであるが、この「生きている」ということも、人間に限って生物学的な意味と、哲学的というか倫理上の意味が絡み合っており、その両者は明確には分かちがたい。こうなると、「人間であることが分からないまま考え続けるのが人間である」となってしまうのだろうか?(この稿未だ続く)
2010.08.28
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☆ 8月27日(金曜日) 旧七月十八日 戊申(つちのと とり) 赤口: 【人間は考える竹輪である】「人間は考える葦である」、この言葉は17世紀のフランスの哲学者であったパスカルによるものとして有名だ。「人間は物理的には弱く卑小な存在に過ぎない。しかし考える力を持っていることによって、何よりも高貴な存在たりえる。だから考えることで、我々は自らを高めよう。」という主旨の言葉である。こういう言葉は何世紀も経った後でも、我々の心に響いてくる。人間はまことに考える葦である。しかし、生き物としての人間を考えてみると、「人間は考える竹輪である」といえるのだ。我々は、最初は一個の受精卵(細胞)から始まる。旅立ちの場所は母なる人の胎内である。細胞は受精後数日かけて、細胞分裂しながら子宮内に落ち着き、そこでさらに分裂を続け、やがて中空の細胞の塊(胚盤胞)になる。この段階では、つまりはゴムマリのようなものだ。暫くすると、ゴムマリの一部がくびれて内側に向けて陥没し始める。陥没の先端が反対側に達したところで、先端部が融合して、その部分に穴が開く。ここでゴムマリは一本の管になるのだ。この後は、この管の形を基本的に維持したままで、各部分が発達・分化していく。手や足や何やかやが出来ても、それは管の外側の表面が出っ張ったりへこんだりすることであって、一本の管であることには変わりがない。同じように管の内側でも発達・分化が進み、それらが胃や腸を作っていく。しかし相変わらず基本的には一本の管であることに変わりはない。数学に「位相幾何学」という分野がある。英語ではトポロジーといい、「柔らかい幾何学」とも云われている。トポロジーでは、ある形を連続的に変化させていくことで出来上がる色々な図形を数学的には同一であると考える。粘土のお団子を一本の穴で貫くとドーナツのような形が出来るが、このドーナツを引き伸ばせば管になる。この管の様々な場所を、引っ張ったりつまんだり、或いは膨らませたりすると、複雑な形を作ることが出来る。追加の穴をあけたり、くっつけたりしてはいけないのが、ここでのルールである。こうすればドーナツ(管)は取手の付いたコーヒーカップに変形させることも出来る。しかし、上のルールに従う限り、メガネや(ただし、レンズの無いメガネだが)クラッカー(穴が幾つも開いている)は作れないし、日本の茶碗(取っ手が無い)も作れない。穴を開けたり、或いは塞いだりしないと作れないメガネや茶碗は、ドーナツ(管)とはトポロジー的には別物なのである。頭の中で周りのものの形をトポロジー的に色々変化させてみて、別の何ものがトポロジー的に同じかを考えてみるのは、ちょっとした頭の体操にもなって面白い。しかし、ここではこの話はこれくらいにしておこう。さて、人間は口から肛門に穴が貫通している管なのだというと、いやいや、人間の体にはそれ以外にも色々沢山の穴が開いているじゃないか。そう思われるかもしれない。しかし、これらの穴は全て袋小路なのである。耳の穴も尿道孔も、胆管や膵菅など、消化器につながる穴も、肺につながる気道もすべて行き止まりの袋小路で、管をトポロジー的に変化させないで作ることが出来る。これは人間だけのことではない、すべての動物は同じく一本の管なのだ。それでも「一本の管」というのでは、何となく無味乾燥な感じがするから、「一本の竹輪」ということにしよう。竹輪は柔らかいし、生きてはいないけれど管よりは生き物のアナロジーとしては相応しい(それに何より美味しい)。ここで、パスカル以来の人間の定義を改めることにしよう。「人間は考える竹輪である」。中々いいじゃないか。これは、私が勝手に云っていることではない。分子生物学者の福岡伸一さんも云っていることなのだ。(この稿続く)
2010.08.27
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☆ 8月18日(水曜日) 旧七月九日 庚子(かのえ ね) 先負: 佐藤春夫の詩に有名な「秋刀魚の歌」というのがある。1922年(大正11年)、春夫が30歳のときの詩だ。他のたいていの人も同じだろうと思うが、私はこの詩が、何かの理由でやもめ暮らしをしている中年の男が、一人で秋刀魚を焼いて食べるという、物悲しくもしんみりした秋の情景を詠ったものだと思っていた。「男ありて 今日の夕餉に ひとりさんまを食ひて・・・」とか、「さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせてさんまを食ふは、その男がふる里の習いなり。」とか、特に「さんま、さんま、さんま苦いか塩つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて、さんまを食ふはいづこの里の習いぞや。」とかいう辺りは、そういう情景にぴったりではないか。時は秋の夕暮れである。独り家を離れて暮らしている男が、軒先に七輪を出して秋刀魚を焼く。恐らくは広くもない庭の向こうには夕暮れの明かりを彼方に残した海が見える。(その方が絵としては良い。)男はやがて焼きあがった秋刀魚を皿に乗せて卓袱台に運び(これも卓袱台でなければならない)、青々とした柑橘類の汁を搾りかけて、独りきりの夕餉の膳とする。男の脳裏にははるか昔に離れてきてしまった故郷の夕餉の膳がよみがえる。・・・と、まぁそんな情景を詠ったのだと思っていた。ところが、実際のところは違うようだ。佐藤春夫はこの時、知人の奥さんに想いを寄せていたのだそうだ。知人とは文豪谷崎潤一郎である。潤一郎は常套的に女性に恋をするたちだったようで、この時も娘までもうけた千代夫人をほったらかして別の女性に走っていた。春夫はこの時期前妻と離婚してバツイチである。千代夫人に対する同情が、やがて恋心に変わっていった。この日も春夫は潤一郎が女性を追いかけて留守にしている小田原の家に上がりこんだ。そして亭主のいない家で、春夫は千代夫人の幼い娘も交えて、三人で夕飯を食べるのである。食卓の上には秋刀魚の塩焼き。千代夫人は、春夫の故郷(彼は今の和歌山県新宮市の出身である)では焼いた秋刀魚に青い蜜柑を搾りかけるのを聞き知っていて、この日もそれが用意してある。ところで、この蜜柑というのは紀州蜜柑であろうか?蜜柑の果汁は秋刀魚には甘すぎて合わないような気がする。やはり酸味が強く、香りの高いすだちの方が秋刀魚の塩焼きには相応しいと思うのだが。それとも紀州蜜柑でもまだ青いうちにもいで来ると、充分な酸味があるのだろうか?その場合、東京の店でもそんな未熟な蜜柑が手に入ったのだろうか?まぁ、あまり詮索するのはやめておこう。食事をしながら、千代夫人と谷崎の娘(だろうと思うのだが)は、覚束ない手つきで箸を操り、秋刀魚のはらわたの部分を春夫に「あげる」というのだ。秋刀魚のはらわたは大人には大いに美味だが、小さな子には苦くて、ぶよぶよで敬遠される。それにしても小さな子がそんなことをしてくれるのだから、その子は春夫に既になついていたのだろう。一緒に食事をするのも初めてではなかったはずだ。そういう擬似家族的な情景の中で、春夫はこの詩を得たのだ。何だか、私の想像上のイメージとはえらい違いだ。独り暮らしの男のもの哀しさなどではない。秋刀魚をつつく母娘を前にして、春夫は「この先二人をどうしようか」と、とつおいつ考えていたことになってしまうのだ。ものの本によると、この後谷崎潤一郎は親しい友人でもあった春夫に対して、「千代を君に譲るから貰ってくれ」ということになる。そして、「かくかく斯様な次第で、谷崎は妻千代を佐藤春夫氏に譲ります。」と挨拶状を方々に出してしまうのだ。それもあろうことか、挨拶状は谷崎、千代夫人、春夫の三者連名であったのだ。昭和5年(1930年)のことである。これは文豪の大スキャンダル「細君譲渡事件」として新聞でも大々的に報じられたそうだ。1930年といえば、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれ、翌昭和6年には満州事変が勃発する。この頃から日本はどんどん戦争に向かっていくのである。そういう時局下にあっての「細君譲渡」だ。一体世間はこれをどう受け止めたのだろうか。ただ、春夫は千代夫人と再婚し娘(名前は鮎子というのだそうだ。秋刀魚に鮎か、フム・・・・)も引き取って、その後は家族として円満に仲良く暮らしたそうだ。鮎子はやがて春夫の甥に嫁いだ。谷崎潤一郎のほうは、その後も延々と女性遍歴を続けたのは、周知の通りである。まぁ何だかなぁ・・・。何れにしても私の「秋刀魚の歌」に対する、脳天気な位に素朴なイメージは大きく変わってしまったのだ。ところで、その秋刀魚。いつも今頃になると東北沖で秋刀魚の初漁獲の報が入ってくる。ところが、今年は海の沖には秋刀魚の群れらしきものも見えず、大いに不漁だったという。初入荷の秋刀魚はせりの段階で一匹400円にもなったそうだ。原因はまだ分からないようだが、このところ平常事になりつつある異常気象の影響で、日本の周辺での潮の流れに変化が起こっているのかもしれない。これがこのままで推移すると、秋刀魚は高級魚になってしまう。一品270円の居酒屋チェーンの店では、先ず食べられなくなってしまうだろう。日本の秋の食卓には秋刀魚は欠くことが出来ない。焼き上がったばかりの、薄い皮がまだフツフツいっているのに、すだちを存分に搾りかけ、醤油を少し垂らして熱々の身を箸でほぐして戴く・・・。願わくば今年の秋もそうであって欲しいものだ。さて、以下にその「秋刀魚の歌」を掲げておく。スペースの都合で、オリジナルの段落は私の勝手で変えてある。往年のイメージを壊してくれた佐藤春夫先生へのささやかな意趣返しである。上の話を聞いた後で、皆さんにはこの詩、変わらずに響くだろうか?・・・・・・・・・・・・あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ――男ありて 今日の夕餉に ひとりさんまを食(くら)ひて思ひにふける と。さんま、さんまそが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせてさんまを食ふはその男がふる里のならひなり。そのならひをあやしみなつかしみて女はいくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。あはれ、人に捨てられんとする人妻と妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児は、 小さき箸をあやつりなやみつつ父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。あはれ秋風よ汝(なれ)こそは見つらめ、 世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。いかに秋風よいとせめて 証(あかし)せよ、 かの一ときの団欒(まどゐ)ゆめに非ずと。あはれ秋風よ情(こころ)あらば伝へてよ、夫を失はざりし妻と、 父を失はざりし幼児とに伝へてよ――男ありて今日の夕餉に ひとりさんまを食ひて涙をながす と。さんま、さんま、さんま苦いか塩(しょ)つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて、 さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれ げにそは問はまほしくをかし。・・・・・・・・・・・・
2010.08.18
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◇ 11月12日(木曜日) 旧九月二十六日 辛酉(かのと とり) 仏滅: 【酉の市】今日は一の酉。酉の市というのは東京(首都圏)に来るまでは知らなかった。私にとっての最初の酉の市は、浅草の鷲神社であった。知人に誘われて出かけたら、大変な人混みで近くの道端には機動隊の装甲車が待機していた。その中に「4」という番号の車を見つけて、思わず石を投げそうになった。警視庁第4機動隊は、当時は「鬼の第四機」といって、学生デモの鎮圧時の精鋭として悪名を馳せた。グレーに塗られた装甲車の前上部に放水銃の筒先を見たら、反射的に道端に落ちている石を探してしまったのだ。最初の酉の市は人混みと装甲車しか覚えていない。だから一体何の縁日なのかは知らなかった。酉の市は日本武尊が鷲神社で戦勝を祈ったとか、或いは勝ち戦を祝ったことに因み、日本武尊の命日と云われる11月の酉の日に行われる。元々江戸時代から関東地方でのみ盛んな縁日だったそうだから、中部地方出身の私が上京して初めて知ったのも無理は無い。中部地方では浜松辺りまで酉の市をやっているそうだ。関西では酉の市に代わって恵比寿講の方が盛んだそうである。昔の暦では、十干十二支によってそれぞれの日に動物の名前が付けられていた。十干というのは、陰陽道の五行説による。それぞれ、「木」に因む「きのえ(甲)」、「きのと(乙)」。「火」に因む「ひのえ(丙)」、「ひのと(丁)」。「土」に因む「つちのえ(戊)」、「つちのと(己)」。「金」に因む「かのえ(庚)」、「かのと(辛)」。「水」に因む「みずのえ(壬)」、「みずのと(癸)」。以上「木、火、土、金、水」という五行のそれぞれに、「え」(兄、陽という意味)と「と」(弟、陰という意味)がついて十干である。五行のそれぞれを五角形の頂点に置いてそれぞれの頂点を結ぶと星芒形が出来上がるが、それに陰と陽を絡ませると、相性だの運勢だの色々なことが分かる、らしい。そんな事を覚えていたり、知っていてどうなるの?と云われても困る。実際には十干を空で言える(私はこれが出来るのだ)事で何のご利益を被ったこともない。しかし、人間とは時々こうして意味の分からない事を覚えていたりするものである。十二支の方は、例の「ね・うし・とら・・・」というアレであるが、名前の通り十二ある。十干と十二支を組み合わせると、両者の最小公倍数60で同じ組合せが戻ってくる。これを人間の歳と絡めると還暦という。昔は人生50年などといって、60歳になるまで生きられるのは幸運な事であったから、還暦の祝いというのは中々お目出度いものがあった。今は60歳まで生きることは珍しくも何ともなく、むしろ定年退職の歳としての意味の方が強いから、目出度いのかどうかは実感として良く分からない。しかし十二という数字は、時間や方角にも割り当てられている。一年の月数でもある。そして60も1時間の分の数でもある。円周の度数にも関連する。だからこういったものをこねくり回すと、運勢とか相性とか、お日柄とか、行く方角の良し悪しだとか、色々な解釈をひねり出すことが出来る。4種類しかない血液型などというものよりは遥かに複雑で、神秘性も演出し易い。世の中の占い師には良い飯の種になるのである。血液型もABOだけでなくRh+-とかM、Nとか絡ませると16通りくらいになり、もう少し説得力が出てきそうだが、第一自分の血液型をそこまで言える(分かっている)人は居ないだろうし、4種類くらいが巷の大衆には丁度いいのかもしれない。因みに三の酉まである年は火事が多いといわれる。酉の日は12日ごとにやって来るから、11月1日から6日のどれかが酉の日だったら、その年は三の酉まである事になる。そうすると、確率は12分の6で、均せば2年に一回は三の酉まである年になる。つまり、三の酉はそんなに珍しいものではない。しかし、これを口実にして殊更に火の用心を心がけるようにするのは、決して悪いことではないと思うのだ。
2009.11.12
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◇ 11月9日(月曜日) 旧九月二十三日 戊午(つちのえ うま) 先勝: 太陽暦採用記念日【太陽暦】今日は太陽暦採用記念日と云う事で、ブログでよく暦の話を書いている私としては、一筆献上しなければならないと勝手に決めた。わが国がそれまでの太陰太陽暦を改めて太陽暦に移行したのは1873年(明治5年)の事である。この年、明治政府は今日、つまり11月9日に新しい暦に移行する旨発布し、明治5年12月3日を改め1873年(明治6年)1月1日とする事とした。旧幕時代が終わり、いよいよ西欧列強に伍して国力を蓄えていこうとするためには、海外とのやり取りを飛躍的に活発にしなければならない。それなのに日本が旧暦のままでは困る。条約を結ぶにも日付をどうするか。条約まで行かなくても、欧州の先進国に使節団を送る打ち合わせをするにも、向こうが西暦で日付を云ってくるのを日本の暦に翻訳しなければならないし、又その逆の場合も同じである。今は電話やネットで海外だろうが何処だろうが直ぐに連絡できるが、それでも時差の計算を間違えたりする事は私も頻繁にある。「えーと、アチラとの時差はこれこれだから、今は一日の勤務時間が終わる直前だから、電話するには丁度良い頃合だろう。」と電話すると、向こうは夏時間で既に帰宅してしまっていた。そういう失敗は何度もしている。当時の通信手段は手紙でしかも船便だから、時差を心配する必要は無かったろうが、暦の体系が異なると、時差の換算よりもっと困ったろうと思う。年号だけの話だったら、西暦を併記するようにすれば済むが、太陽暦と太陰太陽暦では、月も日にちも異なるからどうにもならない。「あの人は背丈が五尺八寸で体重が二十貫もあるんだって。」というのを、「彼は身長が・・フィート・・インチで、体重は・・ポンドだ。」と翻訳するのは誰だって直ぐには出来ないだろう。歴史の勉強をして、いやそこまでいかなくても時代小説を読んで、文久三年閏四月などといってもそれがいつの事だかは日本人でも(私だけか?)ピンと来ない。元禄花見の宴と云っても、それが一体いつ頃の花見の宴会なのかは、一々調べて西暦に変換しないと分からない。今の我々はいってみれば当時の外国人と同じである。つまりは、太陰太陽暦と太陽暦は数え方の単位系が違うようなものだ。そこで明治政府は、エイヤーとばかりに当時西欧列国が広く採用していた太陽暦(正確にはグレゴリオ暦)を採用することにして、その年の12月2日の翌日を翌年の元日にしたのだ。と、いうのがごく真っ当な話なのだが、実は本音は違ったらしい。当時の明治政府は旧幕軍に対する戦勝国(藩)の寄せ集めであったが、これは内戦であったから戦時賠償も取れず、財政に逼迫していた。そこで太陽暦を採用すると、12月は2日しかないからという口実で12月分の給料を払わなくて済ませられる。それに太陰太陽暦では19年に7回の割合で閏月というのが有る。これはちゃんと説明しようとすると、又長々と書かなければならない。そこをなるべく簡単に済ませるとこうなる。つまり、太陰暦は要するに月の暦である。月齢周期は約29.5日だからこれを12倍すると354日にしかならないから、年に11日足りなくなる。これをそのままにしておくと1月が春になりやがて夏になってしまうから、農耕には役に立たなくなる。それで19年に7回の割合で閏月を入れて、太陰暦と太陽の動き(実際の季節)との間に大きなずれが生じないようにした。(いつどういう目安で閏月を入れるかに付いてもちゃんとした規則があるが、この説明は余りにオタクっぽくなるので省略する。)つまり一年に13ヶ月有る年が出てくるので、たまたま旧暦明治6年はこの閏月がある年であった。そうすると、明治政府としては上のタイミングで太陽暦に切り替えてしまえば、上に述べたように明治5年12月分の給料一か月分と、翌年の閏月分の給料と、合計2か月分の給料を削減できるのである。つまりは、明治5年の決断は、グローバルスタンダードに追随するというようなまともな動機からというよりも、実は財政上何とかしなくちゃ、という背に腹は代えられない理由に依るものだったのだ。いつの時代も金の無い政府は苦労する。それにしても、この年は師走になったと思ったら、直ぐに正月が来てしまったのだ。晦日の借金の取り立てはどうなったんだろう?借り手の方が踏み倒しできて得をしたのか?それとも、暦の変更が発布されてから、取立て騒ぎが起こったのだろうか?大いに気になるところである。
2009.11.09
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