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June 12, 2014
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カテゴリ: 【Cebu Philippines】





【6月12日はフィリピン国家独立記念日】


~フィリピンを独立に導き、命をフィリピンに捧げた英雄~

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ホセ・リサール / ホセ・プロタシオ・メルカド・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ
(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)




・医師免許を取得、作家、画家であり、複数の言語に堪能。



アメリカで南北戦争が始まった年の1861年6月19日に
ラグナ州(Laguna)カランバ(Calamba)で
父フランシスコ・メルカドと、母テオドラ・アロンソの
11人兄弟の7番目として生まれました。

父方のメルカド家は中国・福建省の晋江から17世紀にフィリピンに渡り、
フィリピン先住の女性と結婚した商人で、父フランシスコ・メルカドは
ラグナ州(Laguna)ビニャン(Binan)で1818年に生まれました。


母方のアロンソ家はスペイン人とフィリピン先住民の混血の家系で、
母テオドラ・アロンソ(Teodora Alonzo y Quintos)は、
マニラ(Manila)のサンタクルス(Santa Cruz)で1827年11月9日に生まれました。



【幼児期から才能を発揮】

ホセ・リサールは、3歳のときに母親からアルファベットを学び、
5歳のときには読み書きが出来て、
6歳で鉛筆画によるスケッチや粘土のモールドで家族や親類を驚かせたそうです。

1870年、9歳のリサールは最初の教育を受け、
そこで、白人と自分を比較し、知的にも情的にも両者間に根本的には差はない、
皮膚の色が違うだけだと確信するようになります。

初等教育を終えると1877年、16歳で
マニラのアテネオ大学(Ateneo de Manila University)で
学士号を取得し、土地測量の技術を学びながら、
同年、東洋最古の大学、サント・トマス大学(University of Santo Tomas)で
哲学と医学を学び始めます。

1878年5月21日に測量士の試験に合格しましたが、年令が17歳のために、
1881年12月30日までライセンスは与えられませんでした。
サントトマス大学では、ドミニカの教師によるフィリピン人蔑視を感じ大学を去ります。



【最初の海外留学】

1882年リサールはスペインのマドリッドに留学し、
マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid, UCM)で
医学の勉強を続け、1883年にフリーメーソン(Freemason)に加入します。

1884年に医学コース終了し、1885年6月19日に
医学博士の学位を授与されると、
さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の勉強を続けました。

1987年、26歳までにスペイン語を初めとして、
フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルニア語、
英語、ドイツ語、オランダ語、スエーデン語、
ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、
サンスクリット語、など、10数ヶ国語以上を習得し、
絵画と彫刻を研究するために、美術専門学校に通い、
フェンシング、射撃の訓練も行ったそうです。



【ホセ・リサールの思い】

リサールは政治的独立を目指す革命志向家では無く、
フィリピン人たちの生活改善を願う改革者でした。

リサールはスペインに支配されていたフィリピンを
問題視して来ました。彼はフィリピン人に言論の自由が認められるべきこと。
フィリピン人に法律的平等が与えられることを心から望んでいたのです。



【二度目の海外留学 / 命を狙われるきっかけになった本】

リサールは、1887年、マドリード大学で医学を学ぶかたわら、
300年以上もフィリピンを植民地としている
スペインとカトリック教会を批判した小説をなんと
ヨーロッパで発表し、スペイン政府から反逆の書として激しく非難されました。

 『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』 (ラテン語で『我に触れるな』)
 『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』(スペイン語で『反逆者』)

スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、
フィリピン人の間に独立への機運を高めたことで知られています。

 1887年出版の『ノリ・メ・タンヘレ』では植民地政府と
カトリック聖職者の腐敗の実態を克明に書き出し、
同時に支配者に擦り寄る有産階級などを皮肉いっぱいに書き出し、
植民政府の批判のみならずフィリピン人に自己改革の余地があることを訴えました。
これによりホセ・リザールは政府に処刑を命じられます。

1891年に続編として発行された『エル・フィリブステリスモ』では、
一歩進んでフィリピン社会をよくするためには
スペインから独立しなければならない、
植民地のまま有り続けることはフィリピンの国民性を
破壊させることにほかならないと書きました。

フィリピンに帰ったリサールを待っていたのは
小説の発禁と国外追放の命令で、
ホセ・リサールは1888(明治21)年2月29日、
ヨーロッパに向けて亡命の旅に出発しますが、
その途中、短期間の予定で日本に立ち寄りました。



【日本人女性との儚い恋】

1888年2月28日にリサールは横浜に到着します。

2,3日ですっかり日本の魅力に落ちて
出発を先延ばしするうちに「おせいさん(臼井勢似子)」と出会います。

維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、
つつましく、編み物と絵画を得意とし、
英語とフランス語を学んでいた女性でした。

22カ国語に精通していたという語学の天才・リサールは、
たちまち日本語を覚え、彼女に早春の東京や日光、箱根などを
案内して貰ったり、一緒に歌舞伎で見た忠臣蔵で、

「身を捨てても、主君のために忠義を尽くす浪士たちの行動」に
大変な感動を覚えたようでした。

また、おせいさんも、兄が彰義隊に加わって上野で
戦死しているだけに、フィリピン独立の志士として不遇な
状況にあるリサールに深い同情の念を抱いていたようです。

しかし、27歳のリサールには故郷や世界各地にフィリピン独立のために、
自分を待っている同志がたくさんいます。
断腸の思いで、彼は当初の計画どおり
ヨーロッパに向かう決心をすることになります。

 4月12日、横浜港からの出発を明日に控えて、
リサールはおせいさんとの別れの一時を、
目黒のあるお寺で過ごしたそうです。

ヨーロッパに渡ったリサール、
1891年に続編として発行された『エル・フィリブステリスモ』では、
一歩進んでフィリピン社会をよくするためには
スペインから独立しなければならない、
植民地のまま有り続けることはフィリピンの国民性を
破壊させることにほかならないと書きました。

2冊目の小説「反逆者」を発表し、
フィリピンでの独立活動家の機関誌にも投稿を続けました。

1892年、家族や友人の反対を押し切って祖国に戻りますが、
逮捕され、ミンダナオ島に流刑されました。

4年間の流刑を終えてマニラに戻ると、
そのころ激化していた独立勢力の武装蜂起を
教唆したとして再び逮捕され、名ばかりの裁判を受けて、
1896年12月30日の朝、35歳の若さで
マニラのルネタ(Luneta)で民衆の前で銃殺処刑されました。



【最後の日】
リサールは処刑の前日の1896年12月29日の0時から
5時の間に詩を書きました。

『1896年12月29日の午後に、リサールのところへ彼の母、
2人の妹と2人の甥が訪問し、リサールはアルコールストーブに
何かがあると妹のトリニダード(Trinidad)に英語で話します。

家族が帰ろうとしているときに、アルコールストーブが
護衛によって妹のナーシャ(Narcisa)に渡されます。

アルコールストーブには、折り重ねられた無記名・無題そして、
日付のない詩が書かれたメモが入っていました。』

リサールの遺言となった2枚の小さな紙は、カビーテ(Cavite)でコピーされて、
献身的な愛国心が、より革命家の国家主義的な熱意を示唆しました。

詩は、1897年に香港で発表され、
わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)は国際的に有名になりました。
(※詩は最後に)

この12月30日は、独立の英雄であり、
国父であるリサールの死を悼む日として、
今もフィリピンでは国家による儀式が行われています。

その後、リザールが書いた本をきっかけに様々な人物が
反乱など繰り返し1898年6月12日、フィリピン国家の独立が叶いました。


【2014年6月12日”フィリピン国家独立記念日”】
【2014年6月19日は、ホセ・リサール153回目の誕生日】

 6月19日は、フィリピンの英雄の一人として数えられる、
ホセ・リサールの誕生日です。
勿論、故人ですが153年目の誕生日である為
テレビや様々な場所でイベントなどがが催されます。

日本にも英雄がたくさんいる様にこの国フィリピンでも英雄がいます。
フィリピン人を知りたいなら、歴史や人物から本来のフィリピン人を
学ぶ事も時には必要になるのではないでしょうか。





MI ULTIMO ADIOS
わが最後の別れ



Adiós, Patria adorada, región del sol querida,
さようなら愛する祖国、懐かしい太陽の地よ、
Perla del Mar de oriente, ¡nuestro perdido Edén!
東洋の真珠、今は無き我が楽園よ!
A darte voy alegre la triste mustia vida,
喜んで君に捧げよう、貧しきやつれたこの命を、
Y fuera más brillante, más fresca, más florida,
たとえ輝きに満ちていて、一生清らかで花咲くような私であったとしても、
También por ti la diera, la diera por tu bien.
やはり、君の為にこの命を捧げよう、君の幸せの為に、この身を捧げよう。


Si sobre mi sepulcro vieres brotar un día
いつの日か、私の墓に茂る草むらに、
Entre la espesa yerba sencilla, humilde flor,
ひっそり咲く花を見つけたら、
Acércala a tus labios y besa al alma mía,
君の唇を寄せて、私の魂に口づけしてくれ、
Y sienta yo en mi frente, bajo la tumba fría,
そして、冷えた墓の下で、わたしは額に感じるのだ、
De tu ternura el soplo, de tu hálito el calor.
君の愛情の息吹、君の吐息の温もりを。


Deja que el sol, ardiendo, las lluvias evapore
残った太陽は燃え、雨は消え去り、
Y al cielo tomen puras, con mi clamor en pos;
そして、澄み渡った空に、私の叫び声を捜してくれ。
Deja que un ser amigo mi fin temprano llore
友は、私の早い死に、涙を流してくれ、
Y en las serenas tardes, cuando por mí alguien ore
そして、穏やかな午後に、私のために誰かが祈ることがあれば、
Ora también, ¡oh, Patria, por mi descanso a Dios!
祖国よ、私の神への休息のために君も祈ってほしい!


Adiós, padres y hermanos, trozos del alma mía,
さようなら、父母、兄弟たち、私の魂の破片、
Amigos de la infancia, en el perdido hogar;
今は過ぎ去った、家で遊んだ幼友達、
Dad gracias que descanso del fatigoso día;
苦しみの日々を離れ、休息することに感謝します。
Adiós, dulce extranjera, mi amiga, mi alegría,
さようなら、いとしい外国の地、私の友人、私の幸せ、
Adiós, queridos seres morir es descansar.
さようなら、親愛なる人たち、死は休息なのだよ。



―終わり―







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最終更新日  June 12, 2014 09:00:32 PM
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