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あの日から2週間あまり。いろいろとありすぎて気分が全く乗らなかったのだが、ご心配してくださった方もいらっしゃるので報告がてら書かないといけないかな。と思い腰を上げました。(食欲無くなって少し軽くなったけど!)あの日、3月11日は主人が夜勤明けで朝に帰宅。長女は小学校、次女は主人に預けて浦安へヨガに。で、家に帰ってそれから昼食だったか?ミヤネ屋を見ながらもうすぐ長女が帰ってくるなあ今日はスイミングに行く日だなあと思っていたところ…グラッ。すみません。3階の適当に置いていた荷物が落ちてきました。パソコンも斜めになっていました。物が落ちる地震は初めての経験でした。がしかし、直感的に「ここじゃないな」と感じた後、テレビを見ると…。東北で震度6だの7だの…。ああああ来てしまった…。主人の実家が宮城県なんです。それも沿岸部。5年ほど前から宮城県沖地震は90%の確率で必ず来る。大きめの揺れがあるとこれか?これか?と言っていたら専門家は必ず「これじゃないです」え~みたいな。とうとう来ちゃった…。ああ、そうだ長女だ!もう学校から出てるはずだから下校中だ。大丈夫か?と外に出てしばらくすると、とぼとぼと帰ってきた。「大丈夫だった?」と聞くと「みんなでうわ~~と固まってた」そうだ。子供達に塀が倒れたり瓦が落ちてこなくてよかった。で、すぐに義姉家族や義弟に電話してみるもつながらず。(音もしない)そしてしばらくするとテレビは津波の映像に。ええええええ~~~~~主人はテレビにくぎ付け。地名も聞いたことある、行ったことある地名も出てくる。どこだろうどこだろう?本当に不安になった。結局深夜になって義姉から電話が来た。家族全員無事。平日の午後だから家族4人バラバラだっただろうに、全員無事とは本当に良かった。で、すぐ近所に住んでいる義弟は?「うん、もう停電で真っ暗だし、余震も怖いから明朝見に行ってみる」えええ?大丈夫なの?そして週末2日間、電話もメールも全くつながらず。Googleに出てる浸水した地域の地図。うん、大丈夫だ。Twitterでのつぶやき。義弟の会社のあたりは建物の倒壊も無い。うん大丈夫だ。お義姉さんの余裕(?)ぶりも大丈夫ということだろう…。でも確信がないからイマイチ安心できない。その2日間にもうちの実家だの親戚だの友達だのいろいろと電話やメールが来る。ええと、大丈夫だと思うんだけどまだ連絡が取れなくて。と言うしかない。行方不明者になるのか?警察に聞けばいいのか?といっても電話はつながらないし。Googleの安否不明検索にも入れてみた。電気通ってないから誰も書くわけないか。そしたら義姉の子(甥っ子)の名前があってビックリ。お父さんの東京の知り合いが心配して書いていた。家族皆無事と連絡がありましたと返事を書いたらほっとしたと返信があった。結局13日だか14日だかにメールが来た。心配かけてごめんなさいみんな元気です。とあった。みんなって誰だ~~~と義弟は無事ですか?とまたメールしたら、無事です。今朝一緒に水汲みに行きましたと返信があった。は~よかった。仙台市内の義姉のご主人のご両親も無事とのこと。ということで近々の親族は無事ということがわかった。そしてもう一つの心配が原発…。これもまさにその日が来ただった。私は親戚は誰も被爆してないけれど、広島出身で嫌というほど原爆の話、その後の話を聞いてきた。原発についてもなんか署名が回ってくると書いていた。私が広島に住んでいた頃は、ちまたは中国電力が原発作るなんてありえないという雰囲気だった。(でも今は日本海側に作っている。国策の流れに逆らえなかったのだろう)そして関東に来た。結婚した。車で宮城に帰った。その道中で初めて原子力発電所と言うものを見た。常磐道で宮城に行く場合、いわきまでしか高速は走っていない。高速3時間、下道3時間。高速を降りてすぐに見えるのが福島第一原子力発電所。「あれが原発なんだよ。東京電力のなんだよ」と主人が説明した。他の人は原発を見てどう思うんだろう。私はいつも心がざわざわした。とても緊張した。どうしてこんなものを作るんだろうといつも思っていた。東京電力がなんで福島に原発を作るんだという怒りもあった。テレビでの答弁で、壊れた時はどうするのという問いに、「壊れるわけがないので壊れた時のことは想定してません」と言った言葉をいつも思い出していた。そしてその時が来た。嘘かと思ったが嘘ではない。すぐに終息するかと思った。そしたら爆発した。もう終わりだと思った。そしたら枝野さんが終わりではないという。ほんまかいな。もうテレビにくぎ付けになった。主人がなぜかずっと仕事が休みなのは良かった。地震津波も含め、自分ひとりでは対処できないくらいパニックになっていたから。そしてそれからほぼ毎日のように爆発していく。もうダメだもうダメだ。避難してくださいの地域がだんだん広がって行く。富岡、楢葉、双葉、大熊、浪江、相馬、南相馬。帰省するとき必ず通る町。景色が頭をよぎる。もうみんないないんだ。当分通れないかもしれないのか。あまりに可哀想すぎる。そして放射能物質が観測されましたとの報道がだんだん範囲が広がって行く。そして千葉にも。我が家の被害はというと水が極端に出が悪くなった。お湯が出ないほど水圧が低かった。マンションだけど同じ地域でとうとう水が止まったというところもあった。うちももうすぐなのかと鍋に水を溜めたりした。停電もやるかもという話になって来た。そうなってくるとうちの子供達をどうしようと思い始めた。幸い私の実家が広島だ。春休みに行く予定だった。この未曽有の大災害&原発事故において全く空気が読めていない。騒ぎまくり。ニュース画面にも飽き飽きしていた。学校は長女のクラス以外は次々とインフルエンザで学級閉鎖。娘に何人休んでるの?と聞いたら7人。もういいだろう学級閉鎖でいいよ。と思うのに一向にお達しが来ない。私もだんだん寝れなくなってきた。余震もまだまだ大きいのが続く。長女はともかく次女はまだ2歳だ。生活が不自由になるかもということが理解できるはずが無い。かといって自分の出身地が大変なことになってショックを受けているだろう主人を置いて私らだけ広島へ行くというのも無情な気もする。ネコもいるし、最悪の事態になった時主人が対応できるとは限らないし。ということで両親に相談すると、子供達だけでも預かってくれるという。何かあってからでは帰ることはできないだろう。なら早めに決断したほうがいいのか。仕事に行ってる主人にどうしようとメールすると「オレとしてはもう行ってもらいたい」との返事。なんだそうだったのか。じゃあ飛行機予約するぞ。両親に広島空港まで来てもらい(片道2時間!)、飛行機に乗って二人を手渡し、私はまた飛行機でトンボ帰り。友達がやったことがあるとは聞いていたが、ケチの私がまさかやろうとは。意を決して学校を休ませ帰省させたら、広島空港で「1年1組は学級閉鎖になりました」とのメールが届く。あああ、一日フライイングか!でも帰りの渋滞のバスの中でも大きな余震があり、やっぱり預けて良かったと思ったり。もはや私一人では対処できないわとかなりパニックの数日間でした。子供達は毎日タダ友のじいちゃんばあちゃんと電話していたこともあって、幸いにも違和感なくなついて楽しい毎日を送っているようでホッとしました。今日で2週間ですが長女は帰りたくないくらい。母にがみがみ言われず、食べもの(お菓子)にも制限緩く食べたいものを食べているからでしょう。これを機に次女のトイトレが済むのかと思いきや、全く進展せず。買っておいたオムツも使い切ったとのことで、2パック目を購入したとのこと。もう4月の入園まで間に合いません…。先週あと数日で学校も終わりというところで、主人がいきなり「このまま学校へ行かないまま一年生が終わるのか?他の人も帰省までさせて大げさなと言っている。明日迎えに行って来れば?」などと言いだした。え~~~全部私がわるいの??自分が「行ってもらいたい」って言ったじゃん!行かせるときは全く止めなかったじゃん。全く男と言う生き物は何でも人のせいにするんだなと強く感じた一瞬でした。関東の人が関西方面へ避難するというのは賛否両論あるかと思うけれど、行ける人、行く場所がある人、行きたいと思う人は行っていいと思います。普段は遠すぎて甘えられないんだもの。こういう時こそ甘えさせてよと言いたい。あのまま子供らと一緒に過ごせるほど私は心に余裕が無かったし、最終的に何かあった時子供を守れるのは親だけだから。パンデミックになった後だとどこにも行けなくなるわけだし。夫婦みずいらず?の時を過ごさせていただきました。ささやかながらタスキプロジェクトという支援にも物資を送りました。http://117kibounoakari.jp/子供が帰ってきたら小学生の分も作って送ってあげようかと思っています。きっと私と子供とでは入れたいものも違うだろうから。お友達に送る気分で、まるで風船に手紙をつけて飛ばすような気分です。ちゃんと東北のお友達に届くと良いなと思います。消防士の弟が昨日から応援で宮城県入りしています。それも主人の実家の隣の隣の市。主人の通った学校所在地でもあり、娘がプリキュアを観に行く予定だったショッピングセンターがあるところ。実は震災が無ければお彼岸なので3月の連休に墓参りがてら帰省するつもりだったんです。結局プリキュアは広島で祖父母と観に行ったようですが。ヘタレの私と同じ血が流れてるはずの弟が、あんな大変な場所に行って大丈夫なんだろうかと心配します。というか、消防ではそういう場面もあるでしょう。よく頑張ってるなあと前々から思っていました。今回私のヘタレぶりが証明され、益々弟を心配してしまうばかりです。ということで、まだ原発は現在進行形ですが、余震もだいぶおさまってきたし、水も出るようになったし、あさって子供を迎えに行ってきます。数日向こうでのんびりして、こちらに戻ってこようと思います。さすがに子供と長く離れて寂しくなってきたけれど、部屋を片付けたり幼稚園入園の縫物をしたりして先送りになっていたことを片付けることもできました。企画していた29日&31日の親子クッキングも食料調達が困難なこと、計画停電や断水で会場が使えないことなどから中止となりました。当日まで連絡が取れない方もいらっしゃってどうしようかと思いましたが、なんとか連絡がついて良かった。また改めて似たようなメニューで講習会を開催したいと思います。早く落ち着いてお料理のことを考えることができる、そんな日が来てほしいです。
2011年03月30日
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震災のことでも落ち込んでいますが、さらに追い打ち。とうとう2匹いたうちのネコちゃんが1匹天国へ行ってしまいました。もう老猫でもともと調子は悪かったのですが、地震があった時、適当に置いていた荷物が落ちたりして大きな音がしたので、隣の部屋にいたジャーちゃんがびっくりしたんだと思います。それ以来食欲が無くなり、だんだんこもるようになってしまって…。もともと人間が触れない猫だったんです。とても神経質で。家の中で野良猫状態でしたが、それでも15年飼いました。3匹いたうちの猫のトップバッターでした。その日は子供らを広島に連れて行った日でした。出発の時は階段の下に隠れるようにいましたが、まだ動いていました。うるさい子供らがいなくなったら少しずつ元気を取り戻してくれるかなと期待していました。午後に戻ってきて、真っ先に行ってみました。横たわっていました。でももう動きませんでした。よく飼い主が戻るまで待ってるという話を聞きますが、ジャーちゃんにとっては私たちはそこまで信頼のおける存在じゃなかったんだろうと思います。独りで逝かせてしまったのは本当に申し訳なかったです。地震の前まではちゃんと食べてました。なのでまさかこんな急にとは思いませんでした。ジャーちゃんは前の前のアパートで、テレビではオウム事件がにぎわっていた頃アパートに現れました。たまたま持っていたネコ缶をあげると食べました。パルプのジャーヴィスコッカーが好きだったのでジャーヴィスと名付けたらメスだとわかり、ジャーちゃんとなりました。本当に触れないネコでした。96年に子供を産みました。私がイギリスへ行っている間でした。子猫はとても人懐っこかったです。主人もかわいがりました。生まれて2カ月、予防接種を打ちに行った翌日交通事故で逝ってしまいました。私は半狂乱になって外にいた他のネコも家に入れました。ジャーちゃんもエサで誘って捕まえ、すぐに動物病院に連れて行き避妊手術をお願いしました。退院の時先生は「この猫は飼えませんよ」と言われました。あまりに凶暴だったのでしょう。アパートに来たジャーちゃんは1日中1ヶ月間ウォ~ンと鳴き続けました。ペット不可のアパートだったので、私たちはすぐ近くの貸家へ引っ越しました。他の子猫はもらわれて、ジャーちゃん、しろちゃん、ブーにゃんの3匹との生活が始まりました。ジャーちゃんは脱走もしました。他のネコは触れるので捕まえられますが、ジャーちゃんはエサなどでおびいて捕まえるしかありません。主人のお父さんが亡くなったという連絡があった時もちょうど脱走していた時でした。すぐ駆けつけるためやむなくジャーちゃんを脱走させたまま出発しました。葬式も終わり私だけ帰宅すると、家の中はあちこちふすまが開いていて、ものがひっくり返っていました。隣のおばさんがちょくちょくジャーちゃんを見かけたと言っていました。お腹がすいていたのでしょう、ケージにエサを入れて待っていると食べに来ました。バンと閉めてやっと確保しました。ネコがいるのでマンションではなく家を買おうということになりました。土地を買って家を建てることになったので、ネコ用に窓の外が見れるように、ネコが眺めがいいようにと注文もしました。3階建なので元気に階段を上り下りしていました。ジャーちゃんも元気に走り回っていました。4年前しろちゃんがいなくなった頃から、ジャーちゃんは水を良く飲むようになりました。かといって病院に連れていくわけにもいかず、水を頻繁に変えてあげること、ホメオパシーの腎臓と肝臓の薬を毎食あげることくらいしかできませんでした。ちょうど1年前くらいか、きっかけは気に入っていた爪とぎが近所のスーパーで入手できなくなり、爪をとぎ損ねたのかだんだん爪が伸びてきました。伸びすぎて肉球にささってき始めたのです。まるでハイヒールを履いてるようにジャーちゃんが来るとカツカツと音がしました。どうしようどうしようと思ううちにどんどん伸びてきます。血もにじんで来ました。とげないから他の爪も伸びているようです。近所の病院に相談しても、連れてこないことにはと言われるばかり。そりゃそうですよね。そして意を決して昨年の10月、子供たちが寝静まった夜中に主人と決行。ジャーちゃんを追い詰めて捕まえ、私がジャーちゃんを抱っこして主人が爪を切ったのです。15年飼って初めてジャーちゃんを抱っこ。まともに触ったのも初めてでした。ふわふわの柔らかい毛でした。しかしそれから数日後。ジャーちゃんは血便なのか血尿なのか。数日置きにお尻から血のようなものが出てとても苦しがるんです。あまりのストレスだったんだと思います。今まで人間に触られたことが無いんですから。あちこち病院に電話して症状を話しても、連れてこないことには薬は出せませんとのこと。下手な処方は出来ないからでしょう。すがる思いでホメオパシーを出してくれる病院に電話すると、ではママだけ来てくださいと。病院で説明しておそらく膀胱炎でしょうとそれ用のホメオパシーを処方。しかし病状変わらず。どうやらうんちの時に苦しくなっているようなので、と伝えるとまた違う薬を処方してくれた。すると薬を飲んだ翌々日から出血が止まり、それから少しずつジャーちゃんは復活して行きました。ホメオパシー効かないとかバッシングにあってるけれど、たまたま治る時期と重なっていたのかもしれないけれど、効くときは効くと思います。私も風邪っぽい時はすぐにホメオパシー飲んでたら一度も風邪はひきませんでした。ということで復活したジャーちゃん。食欲は旺盛になり、元気にはなったけれど、以前よりは明らかに小さくなった気がしました。いつもブーにゃんのご飯まで食べてしまったり、夜にはおやつのシーバを欲しがったり。そして今年に入ってから、また爪が伸び始めてしまいました。また同じように捕まえればいいのかなと主人とどうするどうするいつ捕まえる?と言っていた時でした。寝ているときにそっとそばに行って足の裏を見ると、2本はぐさっと肉球に刺さっている様子。それでも階段を上ったり下りたり、手作りのネコタワーに上がって寝ていたり。痛くないのかなあ痛そうだなあと思うばかりで何もしてやれませんでした。そうなると例え爪を切るために捕まえたとしても、またそのショックでおかしくなっただろうと思います。地震が来ようが来まいが、どうしようもなかったのかなと思ったりします。飼い始めて15年だからおそらく16歳くらいだと思います。母が寿命だねと言います。確かにそういう性格なのに家ネコで、本当に元気だったなあと思います。ただ、最期に一緒にいてあげられなかったのが申し訳ない気持ちでいっぱいです。夢でジャーちゃんを抱っこしたことがあります。ジャーちゃんを抱っこ出来るのは最後だけなのかなと思ったりしていました。それさえもしてあげられなかったのは本当に申し訳ないと思います。長女には広島へ帰るとき、ジャーちゃんがかなり体調が悪いから、もしかしたらあなたたちが帰ってくるまでに持たないかもしれないと伝えていました。そして長女にダメだったということを電話で伝えると、電話の向こうで泣いていたようでした。翌日、車検で車が無いのでタクシーでクリーンセンターへ連れて行きました。うちの市のセンターは個別に火葬してくれ、骨も持って帰れます。主人が休みだったので二人で行きました。刺さっていた爪は主人が切ってあげました。天国に行っても痛くないように。人間が亡くなった時には家族や親せき、友達が悲しんでくれます。でもペットはやはり一緒に過ごした家族しか悲しんでくれないと思うのです。よそのうちの人にはわからないですよね。今はしっかりと悲しんでやりたいなと思います。世間が悲しいことばかりなので、どうしてこんな時にと思ってしまいます。毎日泣きっぱなしです。全てが悲しいことだらけです。独り残ったブーにゃんは、子供達もいなくてジャーちゃんもいなくて、どうしたの?って感じです。誰もいない分私に甘えています。ジャーちゃんで始まったネコとの生活も、とうとう1匹になってしまいました。一日でも長く元気でいてほしいです。ジャーちゃんは我が家で幸せだったのかな。もっと自由に暮らしたかったのかな。今は楽になって元気に走り回っていて欲しいです。
2011年03月28日
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