まいど、俺や
今日もSNSの海を漂っとる。
「誰かに見てほしい」って気持ち、
まるでマリア様に救いを求める信者みたいやと思うことあるんや。
現代人の信仰対象、それは“いいね”や。
昔は教会で祈っとったけど、今は画面の向こうに祈っとる。
拝む相手が神様からフォロワーに変わっただけの話や。
「いいね」という聖母の微笑み
「いいね」って、魔法みたいな言葉やな。
押された瞬間、心が少し軽くなる。
「誰かが見てくれた」「自分は無価値やない」――
その一瞬だけ、救われる。
まるで、マリア様が静かに頷いてくれたような感覚や。
でも、その光はすぐに消える。
次の投稿、次の承認を求めて、また祈りが始まる。
現代人の祈りは“通知”で届く。
フィードという礼拝堂
スクロールする指先が、数珠みたいなもんや。
毎日、タイムラインという聖堂を巡礼する。
きれいな風景、かわいいペット、うまそうなごはん。
そこには「見て」「褒めて」「羨ましがって」が詰まっとる。
みんな笑ってるけど、ほんまはちょっと泣いてる。
SNSのフィードって、
“孤独のデコレーションケーキ”みたいなもんやな。
マリア様の正体
マリア様の正体、それは“他人の目”や。
「自分はどう見られてるか」を気にして、
その評価に祈る。
本来、マリア様は“慈悲の象徴”やけど、
SNSのマリア様はちょっと冷たい。
いいねをくれるけど、
次の瞬間には別の誰かの投稿に手を合わせてる。
承認は一瞬の愛や。永遠の救いやない。
無職の俺でも祈るとき
俺もようある。
誰も見てへんポストに、たった一個「いいね」がついたとき、
なんか“生きててええんやな”って思ってまう瞬間。
あれはまさに、デジタル懺悔室や。
誰にも会わんのに、誰かに赦された気がする。
無職の俺ですらそう思うんやから、
社会で戦っとる人たちは、
もっと深くその光にすがっとるんちゃうかな。
親父のことば
防大卒の親父が言うてた。
「評価を求めるうちは、戦場では生き残れん。」
それ、SNSにもそのまま通じる。
“評価”がゴールになると、
“自分”がいなくなる。
マリア様にすがるより、
まず自分の足で立たなあかんのやな。
おかんの現実論
おかんは言う。
「いいねもええけど、
ご飯つくって“おいしい”言われるほうが幸せやで。」
……せやな。
あの“おいしい”には、アルゴリズムもランキングもない。
ほんまの承認って、
人の目より、人のぬくもりや。
まとめ
SNSは現代の教会、
そして「いいね」はマリア様の微笑み。
でも、救いを求めすぎたら、
いつの間にか“自分の祈り”が他人の評価に支配される。
マリア様は優しいけど、
あくまで“仮想の愛”をくれるだけや。
ほんまの救いは、スマホを置いたそのあとにある。
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