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私という紙切れは 光沢の面(おもて)の裏に 光のあたらぬ同じ広さの一面を持って 成されてる にほんブログ村
2017年03月10日
Hikaritoha posted by (C)maryam f d義姉の手術が昨日無事済みました。義母には知らせずにおりました。しかし、義姉の長女(病あり)が突然義母に電話して告げるというハプニングがあって、義母は大きなショック....義母は血圧と血糖が上がるので心配させないために、そのほかの義姉妹も私も隠密にしていたのが水の泡となりました。六人いる私の義姉妹のうちの二人は海外に移住していて、手術した義姉の次女もフランス人と結婚して旦那さんの海外勤務に付き添いアメリカに一年以上も滞在してるので、いろいろと難しいことがあります。そんなこんなで今日も、以前記した記事の再掲載でございますm(_ _)mにほんブログ村
2017年01月29日
昨日と今日は曇りがちで風があって過ごしやすい。 最高気温は36度ということだけれど、 テヘランのように乾燥気候で風があれば夏の天候としては理想的といえるのではないかと思う。 なかなか更新できないのは、30分以上の時間を作るのが難しくなっているからで、 家事炊事、息子のサマースクールや塾の送り迎え、 ペットの世話などの義務以外のことでやりたいことは山ほどあって、 やりたいことの全てに毎日一時間を割きたいという希望はあるけれど私には無理で、 15分から20分間、その時間がないときは十10分でも練習するようになった。 朝おきて朝食やら、洗濯ものなどの家事を終えて、 15分セタールか、キーボードの練習。 圧力鍋をかけているあいだに腹筋、ダンベルを使った筋トレをしたり・・・ そんな細切れ練習の日々が続いている。 わたしの脳の許容量、需要量、集中力の臨界点などを考えても、 15分を目安にした細切れ練習は効果的であるように感じている。 そういうわけで、記事を書き、アップする時間も細切れにして、なんとか更新頻度をあげたいな・・・ っとついさっき思いついたので、さっそく実行に移すことにした。 キーボード、セタール、筋トレなどの運動、そして始めて一ヶ月程の習い事は、 なんとか毎日触れていたい・・・その思いだけで思いついた時間の過ごし方。 そこまで趣味に酷くこだわり、執着しているけれど、私は習い事が上達することで、 資格やら仕事を得たいとか、誰かを喜ばせたいとか、人に見て聴いてもらいたいとかいう考えはほとんどなかったりもする。まったくないとは言えないけれど、そのパーセンテージは極めて低い。 それでもそこまで趣味にこだわれるのは、きっと私が ”おそろしくわがまま者” だからだろうと思う。 ********* I don't know any stronger power than ”continuation”. by Hiro-Maryam Instagramで補整 にほんブログ村
2016年07月28日
痛みとならん心の痛みに慣るゝことなければ痛みとならん痛みとなりて時とゝもに消えのちに傷跡遺すことなからんと先日、走行中に突然ギア3でロックしてしまった車....そのまま修理工場へ私はずっとマニュアル車に乗ってます。この車はそろそろ十年目ぐらいになるのでは。。。画像は二日お泊まりした車を引取りに行った時撮影。イランにもAT車あり、楽に走行できるので女性から支持を得て現在普及しつつあります。私は19歳で免許取得しましたが、東京、横浜に4年ずつ住んでた独り身一人暮らしの間は車の必要もなく、イランに来て運転するようになりました。ハンドルの位置は日本とは異なります。白のプライドという車です。にほんブログ村
2016年02月04日
われわれは 誕生のうちに 死を予感せねばならぬ 花が咲いたときに散るを 出逢ったときに別れを 結婚したときに離別を そして 死を前にして誕生をも ※ 昨日の夕空 にほんブログ村
2015年10月20日
頼みとするも 親しみも 壊れてみれば独りよがりばかりで 頼みとされるを 親しまれるを 枷を解くように壊してみても なお繋がり続ける 縁(えにし)の深さ 緻密に仕組まれたサダメの網の目に 捕らわれ宙にぶらさげられ その命の綱に今も保たる 不甲斐なきこの身 にほんブログ村
2015年10月13日
意識を集中することと意識を解き放つことの術を索む 現象をミクロスコープとマクロスコープとで眺められるように・・・ にほんブログ村
2015年08月04日
” 識 の限界 ”ある物事を認識するとある死角を伴う有識者とは有死角者でもありうる… にほんブログ村
2015年07月23日
言葉となった想いは 言葉に込められたが故に 発せられた次の瞬間より刻一刻と 元の想いから離反していくという 皮肉なサダメを負う
2015年07月12日
希望はもとめるものでもみつけるものでもなくわたしの宇宙(うち)にすでにある追記希望 という言葉の部分には幸せ、満足、愛 などの言葉も入るかもしれません…また、もとめるものでもみつけるものでもなくをとっぱらってしまえば絶望、不幸、不満、憎悪 なども入るでしょうか…。無意識であってもわたし という 意識は 宇宙 なのだろう…っと私は感じています。にほんブログ村
2015年07月05日
どんな状況でも苦境であればあるほどに無心にあそぶことを忘れない宇宙なんて知らずとも来る日も来る日もあそぶこは真実なんて知らずともその真実を知っている************こうこさん、ありがとう************にほんブログ村
2015年07月03日
真実の不在といふ真実は迷い子の傍らに常にピッタリ寄り添っている草木も花も花を飛び交う蝶も蜂も土を這う蟻にもぐらも…彼らは思考することなきゆえに真実のみを知っているにほんブログ村
2015年06月28日
果が因を 喰らひ 果が因に 喰らはるゝ其の裡に 真(まこと)在りにほんブログ村
2015年06月26日
存在を感じていればいる程にその存在との間に言葉は 意味も必要性をも失っていくにほんブログ村
2015年06月16日
我々もそして森羅万象我々と月・陽・星でさえも空(そら・から・くう)まで透け通れば一(いつ)であるそこ(今・ここ)は温度も湿度はおろか時間も空間をも悠々と包み飲み込むわれが空(そら・から・くう)と一(いつ)となるとは姿形を認識する・捉えることの消滅とも言えるなぜならばそこ(今・ここ)では全ては空(そら・から・くう)であり空(そら・から・くう)以外のものはありえないからそして森羅万象、ありとあらゆる全てのものはわれであり即ち空(そら・から・くう)である空(そら・から・くう)は無ではない空(そら・から・くう)はカラではない空(そら・から・くう)は無でもカラでもない空(そら・から・くう)とは無でありカラであり且つ全であるもの(完)にほんブログ村
2015年06月15日
"同一視と混同"空模様を空(そら)と同一視するようにこゝろ と われ を混同してはならない喜怒哀楽も感情もこゝろも空模様と等しく一過性のものにほかならない空模様・天気は時と場所に限られこゝろもまた時と場合(立場・状況)に限られる一方空(そら・から・くう)はわれ(真我)は時空(時間と空間)に限られることはない同じ晴天・曇り・雨という空模様であっても時と場所で異なり・限られるようにこゝろの動きもまた共感できたと”思われ”ようがぴったりと重ね合わせることは不可能(であろう)しかし空模様を超越した空(そら・から・くう)に至ると空(そら・から・くう)はただただ広がり・繋がっているすべてを飲み込む正体不明のブラックホールでさえも空(そら・から・くう)の一部に過ぎないにほんブログ村
2015年06月11日
わたしは欠陥人間ですそのことを諦観してますが悲観はしてません欠陥を補うにあまりある人々の存在に気がつくことが出来るからですあなたもそういう御方ですにほんブログ村
2015年06月11日
”空(そら・から・くう)とは”空(そら・から・くう)とは無であり全であり必然と偶然を超越しているもの何ひとつ所有せずして全てを内在させ満たされていて 且つ満たすことができるもの”空とこゝろ”こゝろは空(そら・から・くう)にあるが空はこゝろではない謂わばこゝろは雨風嵐雲日差しという空の様相空模様であるしたがって空なくしてこゝろは有り得ないしかしこゝろ無くとも空はある空はこゝろを飛び越えた先にありこゝろに捉えられたり影響を受けることなど有り得ようもないにほんブログ村
2015年06月10日
先日ショッピングセンターでの買い物帰りに撮影した画像。こちらが テヘランにある Milad tower。近く行けたらいいねっと話しておりました。 運転は息子の従姉嬢に頼んでいたので、助手席より楽々撮影☆夜景はこんなふうです。ライトアップの色も七変化します(^_^) 空(そら・から・くう)とは無であり全であり必然と偶然を超越しているもの何ひとつ所有せずして全てを内在させ満たされていて 且つ満たすことができるものにほんブログ村
2015年06月08日
*画像は切り取りましたが一切加工してません。 ”空想” 思いは重い 溜めれば心潰れ 懸ければ其(そ)を圧(お)す だからわたしは 思いは想いに 空に描き 空へと還す
2015年05月17日
*画像は切り取りましたが一切加工してません。感じ受け取れるものしか受け取れないのだそれは最初からサダメられていたという程に平等であるにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年05月16日
想いを紡いだ 千の 万の 言葉が 大して思い入れのない 成り行き上の行為ひとつで 意味を失うことを知った 千の言葉が意味をなくすとは 千の言葉の遣い手さえも消えることだった 想いを紡いだ千の言葉も その遣い手も 雲散霧消 してしまったのだ そこにのこったのは 行為という現象だけだった にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月14日
殊に 本能に関することは 量でなく質を重視せねばならぬ 量ではなく質を! 本能の要求とは 量や数によって 完全に満たされるということは まずありえない したがって 大量 数多 を激しく欲する場合は 病に冒されているか 中毒であろう また まったくそれ(本能の要求)を絶ってしまうことも 違った意味での弊害や病を 誘引する引き金となり得る ********* 画像はササン朝時代の砦跡らしい。 この下には金銀財宝が.... という伝えがあるが定かではない。 しかし、わたしが空想を掻き立てられるのは確か。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月10日
光 を 受け 光 を 与える その目印であり その媒体となるのは 青空。 澄んでいる存在 青空をみつけましょう。 そして、青空でありましょう… にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月07日
名も知らぬ野の花に癒さるる去年(こぞ)の花より種を出で風に吹かれ土に眠り酷暑極寒に耐へ 我に顔みせむとここに咲く斯(かく)も美しき其のこゝろにわれ満たさるる にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月05日
雲 流れ風 流れ雲と風 空を流れ雲と風と空を眺むこゝろもまた刻一刻と流るるを観るにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月03日
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2015年04月03日
音楽を聴いていたら(走行マシーンでランニング中)ふと耳にとまった言葉sakhteh, vali rah dareh.意味: 難しいさ、でも道はある。sakhteh → sakht ast の口語体 難しいですvali でも、しかしrah 道、方法、手段dareh → daradの口語体 英語の have曲はこちらから↓VALY "Khanoumi" にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年03月28日
理由や意味は探したってみつからないあなたの瞳はすでにそれらを映してるわたしの存在理由はわたしと関わるすべての人すべての事柄でまたわたしが誰かの瞳に映り誰かと関わっているならわたしはその誰かの存在理由のひとつそうすべてに意味はないそしてまたすべてに意味があるイランの新年が間近にせまり、ここ数日は多忙であります。朝晩は多少冷えますが、日中は暖かい日が差し、車内ではもう暑いぐらいの陽気です。新年の買い物をする人々が溢れ、新年のお飾りのヒヤシンス、金魚や鉢にはいった豆を発芽させたSabze等・・・店頭に登るようになりました。街路樹も、力強く新緑を芽吹いています。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年03月19日
言葉が放たれることは風の発生と似ている風が吹けば桶屋が儲かるっということと似ているっとわたしは想うのだ言葉を意図的に発していると想うと発する方にも受け取る方にも多くの誤解を生じることがある風に踊らされ砂塵が荒れ狂うこともあるだろういつもは静かな湖水がひどく波立つこともあるだろうしかし意図的に発せられたと想う言葉でさえも自然発生し自然消滅する風のようなものだにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年03月15日
喜怒哀楽を眺め居ることと無感情であることととは雲泥の差天地の差天国と地獄の差光と闇の差があるそれを数字でしめすならば100パーセントの受容と100パーセントの拒否との異なりがあるその違いはいうなれば死と対峙することに変わりないがその死の内容は眠るように訪れる死と心身の全神経に苦痛と恐怖を感じる死程の隔たりがある喜怒哀楽を眺めることと他人ごととして眺めることは全く異なる喜怒哀楽というこゝろの起伏の波もそのほかの事象現象天候のように100パーセント受容し100パーセント委ねることにほかならない受容し委ね ただただ それだけそこには哀しみが怒りになったり怒りが恨みになったり恨みから復讐心が生まれたり苦痛を感謝に変えてみたりすることなどありえないそれはただそれだけであり あるがまま のことと知ることすべての物事事象に主語も目的語もないと知ることただそれだけである昨日の空と、今朝の空です。昨日はとても暖かかったのですが、今朝は雪混じりの、寒く冷たい雨が降っています。雨音で目覚めました。季節の変わり目、天候不順ですので、どうぞどうぞ皆様ご自愛くださいませ。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年03月10日
イランのお正月は毎年春分の日で、太陽が春分点を通過した瞬間が *。:.゚アケマシテヽ(´∀`)ノオメデトウ゚.:。+゚となります。先日の記事で来年は夜の7・8時ではないか?と書きましたが、来年は3月21日午前2時2分ということです。これはテヘランの時刻ですので地方では、礼拝の時刻と同じように多少異なりますので、ご注意くださいませ<(_ _)> イランのお正月のお飾りのひとつに、お豆(種ではなくて)とか麦を発芽させた双葉というか、ニョキニョキっと生えたものを飾ります。毎年私も元旦の十日前ぐらいから、豆を水に数日浸して発芽させる準備をしますが、今年は息子が学校で習うので、数日前に水に浸し始めました。わたしはいつも家の食材のお豆を使って発芽させますが、息子の先生のご指定は、私が発芽させたことのないお豆でござんした。今朝水に浸したものを水切りして、平らにならべて湿気を与える段階に入りました。私とはやり方が異なるのは、豆の種類異なるからでしょうか(’◇’)!?はたして上手に発芽するのかどうか?見守りたいとおもいます。帯に短し襷に長しそれでもあたしはあたしなの・・・役たたずでもボケっとしててもあたしはあたし・・・みんなと前後して発芽して、別の方向に伸びて、ほかより短くて細っこくて弱々しい芽きっとそれがわたしです(^_^;)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年03月03日
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2015年03月01日
追記:21日正午すぎの空。3.4日よく雨が降りまして美しい空が。。。あまりに空と雲と雪山が美しいので、車内からでもいいから画像に残したいとを車止めていたら、この地域(この地域は軍人関係の方の移住区なので、常時警備員がウロウロしている)のお兄さんが、近寄ってきて、ここは勘弁してくださいって訛ったペルシャ語で優しい物言いで。。。地方出身の方でした。物言いと同じようにとても優しい美しい瞳をしてました。横暴な人が多いんですが。実に、実に珍しい若者でした。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月21日
言葉とは裏腹の言葉を紡いだその時の書き手の心のありかたも儚く哀しく透けてくるもちろん透けてみえてきたイメージは吾が脳裏というスクリーンに映し出されているわけでわたしの感性という映写機から映し出しているのではあるけれど普遍という真実を精巧に独特な手法で言葉を選びつなぎ合わせて宝石の原石の材料から吟味し研磨しつなぎ合わせる道具や方法にも精魂込めて最高の虚構を構成する人をおそらく言葉の職人(プロ)というのだろうひとはアダムとイブの時代から裸の自分を隠すようにできているのか?隠すことが誠実さと言わんばかりににほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月18日
言葉はあらゆる衣装を身に付けさせ化粧を施しある情景にある人物を立たせることが可能しかし言葉はどんな情景にどんな人物をどんな風に描いたとしても言葉を紡いだ人を偽ることはできないそれらの言葉をどんなカメラを使ってどんな被写体を選んでみたところでカメラマンの視点と腕前が製造番号のようにその裡に刻印されてしまうからにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月18日
実を伴わないどころか実が反している人の言葉ほど虚しいものはないたとえプロの言葉であっても豪華絢爛八重咲きの花のようにどれほど流麗に重ね連ねられていようが・・・もちろん虚構としてみるに文句なしにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月18日
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2015年02月13日
あるのは一つただそれだけなのにその理由をいろいろつくるこゝろ作った理由をもっともらしくさせることばあゝヒトのサガよ にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月05日
生きること は常に心を刺激されること喜怒哀楽は現象に過ぎない っということを知っていれば言葉も風や香りのようなものに過ぎない ことを知っていればそれで良いすべての存在が現象に過ぎず我々という存在そのものが現象のひとつなのだから。。。我々はなにも持って居らず持てるはずもなく一瞬を認識し続けているに過ぎず何も持たずして同時に一瞬のうちにのみすべてを含有しているのだから過去も未来も虚構あるのはただ一瞬一瞬一瞬のうちに絶望があり希望がありすべてがある新しい自分は見つけずとも既にあなたとわたしのうちに常に打ち寄せる波のようにまた刻々と変化している空のようにそして一瞬 一瞬新しい星図を刻む惑星の配列のようににほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月03日
言葉(外国語)を覚えたかったら使わないとダメ。ヘボでも、馬鹿でも、とんちんかんのすっとこどっこいでも!諦めず使う馬鹿にされても喋る人前で間違って笑われても諦めないそれでも使えるかどうか?実はそこんところが肝心。その国の言葉を話せる人にたよらず、自分がその国の言葉をそこで生きるために、使えたら覚えられるはず。日本にいるんなら、ちょっとしたことにでも英語(習得したい言語)を使おうと思えば覚えられるのだろう。映画やドラマを見るだけでも使ってることになる。わたしは息子を妊娠していた8ヶ月の間、韓国のドラマを英語字幕でひたすら毎日みていたことがあった。最初は、字幕の切り替わりの速さに目がついていかなかったのだが、半年を過ぎた頃には、英語の一文字一文字を追っているのではなく、単語単位で英語を目で追うことができるようになっていた。実は、日本人も日本の文章を何気なく読んでいるとき、一文字一文字を見て理解しているのではないと思う。文字を単語単位で一塊にして理解しているだろうと思う。もちろん習得するまでの速度は個人差があるんだけど、才能とか、向き不向きということはない!絶対ない!!図太いかどうかが大事で、へっぽこでも、馬鹿にされても、話すこと、書く事、聴くことなど、使うことを続けられるかどうかが肝心。だから、無神経な方が言葉覚えるにはいいのだろうっとわたしは思う。日本で生活する分には、海外に旅行へいかない限りは、外国語は必要ないかもしれない。でも、知っていればその国の人との交流、触れ合いは日本国内でも可能であろうと思う。言葉は、単なる言葉であり、手段であり、実体もなにもないものかもしれないけれど、それでもやはり・・・言葉を通じてあなたの世界は確実に広がるし、それとともに、あなたが可能な事柄もまた広がっていくであろう、と私は感じている。(完)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月14日
前置きが長くなったけれど、お話の続きを。”魂を吹き込むっということには、言語は関係ない っと感じている。”外国語を学ぶ醍醐味は、やはり会話にあるのだろう・・・っと個人的には考えている。ペルシャ語を覚えると、タジキスタンの人とも会話できる。タジキスタンの公用語はペルシャ語だから。おそらくイランの周辺の国には、イラン系の人がいるから、アフガニスタン、パキスタン、イラク、アラブにもペルシャ語を話す人がいるだろう。当然だけれど、世界中にいるイラン人とも会話ができる。ドイツに行った時に、ドイツ語がわからなくても、ドイツにいるイラン人がペルシャ語を話していると完全に話の内容がわかる・・・その人たちは、まさか隣のベンチに座っている息子とわたしが会話を耳にして、100%その意味を理解しているとは、全く思いも寄らなかっただろう。ちょっと、いじわるだったけどね。でも、言葉をしっていればしっているほど、言葉を通して得られる魂、エネルギーを受け取れる。会話は意思の疎通をしているだけでなく、実は魂の交流をしているのかもしれない。とくに、ある人との関係が、言葉に頼る部分が多い場合は、言葉の力を、大いに発揮できるのだろうと想う。そんなことが分かってくると、いかに英語(世界の公用語)が大事かってことがヒシヒシと感じられてきた。(自分の国を一歩外にでたら、身をもってそれを感じるだろうけれど。)遅ればせながら、最近英語の勉強をわたしがいそいそと、おっぱじめたのはそんなことが、ぼや~~~~~んと見えてきたからだろうと想う。この辺のわたしの感じたことをもっと詳しく記すと、笑顔やら、視線、ちょっとした仕草や言葉にも、意識しているしていないにかかわらず、魂が宿っているわけだから。言葉が日本語であっても、英語であっても、もちろんその人の印が刻まれていることに変わりはない。っということに気がついた。そして英語で自分の思ったことを表現してみたら、どうだろうか?っと書いてみたら、、、、その言葉は、英語であっても、やっぱり わたし。おもしろ~~い!っと思った。でも、その魂の印をはっきりくっきりさせる、魂を意図的に刻む(吹き込む)、発信するには、日本語、外国語を問わず、その言葉の表現やら、語彙をしっていることが大きな助けになるっということも同時に、わたしには感じられた。言葉は手段なのだろう・・・ただし、侮ってはいけない。言葉に頼りすぎても、まったくそのあたりの言葉の効用をないがしろにしても、言葉の力をうまく行使できないのだろうと感じている。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月12日
先日、さすが世界のヤマハ!っということで、ご紹介いたしました、タールという楽器は、これに御座います。タール奏者の義姉2の次男、Payman Khazeni。現在イランで活躍中です。其の弐に進もうと思ったのですが、昨日の其の一は、表現不足でありましたので、追記いたします。わたしゃ大した言葉は使えないけれど、大したことのないわたしの言葉に、魂を吹き込みたい。できれば飛びっきりの魂を!****ある人の言葉、否言葉だけでなくすべての言動、その人が生きているということ、(わたしとしては、生きているということには、夢の中でも、亡くなっていてもというもっと広い意味が合わさってますが)”魂の印が刻まれている。”ちょっとした笑顔、視線にさえ!!その人のエッセンスという魂印に、その人自身が、周囲の人が、それに気づいていなくても、気づいていても、意識的でも、無意識でもね。ただその魂の刻印には、強弱やら性質やら、千差万別、宇宙の大きさ程に様々であり、この世の中は多種多様で、多種多様な次元のエネルギーに満ちている。一瞬しか存在しないということはすなわち、 無限の魂の刻印が、、、続き、連なり、繋がっているということでもある。"一瞬=無限の包括" となる。(まるっきりの狂人噺で御免くださいませ~)そんなことをイメージしているわたしは、無意識でも、なんでも、生きている、存在していることによってなされている、魂の刻印を意識的におこなおう!っというのを魂を吹き込みたい。っと表現したつもりなの。その吹き込みたい魂は、、、、"わたしであって森羅万象"でもある”飛びっきりの魂”なわけ・・・にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月10日
最近また翻訳の仕事がきた。ペルシャ語でなく英語から日本語への。お代は頂いてないんで気楽にやっている。真剣にやっているけど、お金が仲介していないから気楽☆そしてそれは空手関連の仕事なんで、夫に還元されるから、お金もらってないけど、タダじゃあない。(9日はたいへん寒うござんした。雪が降るとかいってましたが天下のB○C。大外れのドカンピン♫で、しかし、大気が冷え冷えとしてました。そんな中、息子と彼の友人を連れて公園に行ってまいりました。そこでもわたしは、ダンベル振り回してました。)どんな仕事でも、わたしは言葉が好き。言葉をどのように使おうか?ってその可能性を想像すると、ワクワクするから。言葉に限らず、なんでも使い用で、良くも悪くも使う人によって、使い方が異なり、また決まってくる。わたしゃ大した言葉は使えないけれど、大したことのないわたしの言葉に、魂を吹き込みたい。できれば飛びっきりの魂を!そして、魂を吹き込むっということには、言語は関係ない っと感じている。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月09日
今日、こんにちは(とか挨拶)には、いろいろな想いがこめられていることに気がついた。お元気ですか?何してますか?良いお天気ですね?目が合いましたね・・・など。なにはともあれそのわたしの こんにちは に対する相手の返事がなくとも、こんにちは(挨拶)によってわたしはどっかでなんかして生きてますっという今 という瞬間を相手に伝えることはできるんだと。今 という一瞬にはいろいろな想いをこめられるのだと。 省みると、こんにちは といいたくてもいえなくなってしまった人もいる。それもまたいろいろな状況やら、事情やらで・・・ 息子が生まれる数年前に描いた油絵にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月09日
苦境にいる人を助けられなくても苦しい気持ちを汲んでくれる人がいるだけで苦境の人を力付けることもある何もしてもらえなくても何も与えられなくてもこゝろ触れ合うだけでこゝろ温まりその温まったこゝろで人は苦難の中に足を踏みとどめ耐えられたりするもの にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月26日
TokihaTokini (620x620) posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2014年11月05日
a broken heart傷心 を感じているとき 人は こころ で硝子の破片を握りしめてる こころ にあるのは硝子 とわかっていても こころ が握りしめてる 追記:これを、傷心 というタイトルにもできましたが、a broken heart と敢えて英語のタイトルにしたのは ”壊れた心”という意味合いを全面に押し出したかったからでした。傷心という日本語では傷ついた心なのか、心を傷つけている のか、そのあたりの微妙なニュアンスは伝わらなくて、私が書きたかったのは、”執着して自虐的に傷つけている”ということであり、それはやはり普通の状態から考えてみると ”壊れている”ということを、知っていただき、お伝えしたかったにほかなりません。人の心というものはそう言う意味では、とてもオソロシイもので、”自分で自分の心の作用をコントロールできないなければ、自覚することもできない”こともあると私は思っています。 にほんブログ村
2014年10月29日
我が遣い ”己 止 波”あゝ 君って奴は全てのことを そつなく 伝えてきているようでいてその実 ひとつとして 全うには 伝えては来ないのだなあゝあゝあゝ己 止 波 って奴は!!!*** *** ***私、これを書き終わったあと、ふと思ったんです。言葉って、己(の想い、感情)を放出、流出させるものではなくて、言葉にすることによって、己の想い、感情、感じ方から己 というものを削って、理性や、客観性を持たせるためのものではないか?っと。その意味ではギリシャ語のLogos が言葉、理性 という意味であり、Logicが論理・道理 という意味となるのに通じているのであろう・・・っと。もちろんこのこと(言葉は客観性をもたせるものということ)は、小学生の時から気がついていましたが、言葉 が 己 止 波 っとも言い換えられることには、今日、私は気がついたのでした。*** *** ***そして、そう(言葉 が 己 止 波)であるならば、我が遣いは、ひとつとして全うには(私・己を)伝えないことで、実は 言葉の使命 を 全う しているのではないだろうか?!っと。 にほんブログ村
2014年10月26日
切なさへの希求心、気持ち、心情というものはそれこそ星の数ほどあり、宇宙の広さほど大きく、複雑で正体不明なものではないかと私は思う。多くの人はあまりそういう自覚はないのかもしれないけれど、皆それぞれ自分の裡に大宇宙を抱えているのだと私は思う。心と身体がバラバラで不一致なのは精神病であるとか精神を患っているからだと言われようが、、、、私にはそんな 心と言う怪物 と自分の身体がぴったり一致するなどということは考えられず、有り得ないような気がする。そして私は現実世界では表せない、報われないさまざまな思いを慰めるように、あるいは溜まりに溜まった心を吐き出すように文章を書いている。もちろん書くことが 好き 最も簡単でわかり易い言葉で書くと、この一言なのかもしれない。ただ心と身体の関係と同じように身体は 心のごく一部 を形として外に表現できる道具というか手段の一つ なのだと思う。そのことは舞踏だとか、バレエ、フィギュアスケート、新体操、シンクロナイトスイミングの演技だけではない。私達は日々の生活や行為や行動、ちょっとしたしぐさの中に心(の一部)を表しているのではないだろうか?またこれは、思いを綴る、文章を書く、言葉にして発するということにも言えるのではないだろうか。その人が心に相応しい一言、一言を選らんで形成される、その人独自の身体のようにそれぞれ異なる文体 あるいは 言い方 というものの中に心、精神の一部分を形として外に表現しているのだと思う。ここでも同じことが言えるはずだ。宇宙のような大きさの心を相手に数限りある言葉はあまりに小さい、従って言葉を限りなく心に近づけることは人間に可能であると思うが、心と言葉がぴったりと添うということは私にとっては夢のような気がする。その夢に向かって私はできるかぎり努力をしたいという気持ちは常に持っているが・・・・私がこんなことを思ったのは、ある方が以下の言葉を私に与えてくれたからだ。巧い詩というのは、自己から離陸(飛翔)している詩だと思います。一義的な思いに相応しい形(言葉)を選ぶとき最初の思いは薄くなります。薄くなりながらも、透けて見える、透けて見えざるを得ないのが切なさだと思っています。一旦自己を捨象しないと、芸術とはいえないと私は思いますけどね。それに対して私はこのようにお返事した。私は芸術と言われるような精神活動が、無かったらとっくの昔にこの世に居なかったと思います。(私は芸術作品や、文学作品と言われるものに触れることや、自分自身が書くことで、心を吐き出すことで今までどれほど救われてきただろうか?)私が創作活動を好むのは正直に心を表現することができるからだ。どんなに表現しようと思う心(欲情という言葉に置き換えることができるか?衝動とか?)が汚く、醜悪で、我侭で、目を背けたくなるようなものであっても精神とその活動によってそれを高めて形にして外に出すことができるからだ。一旦自己を捨象しないと、芸術とはいえないと私は思いますけどね。自分というものは捨てたようで捨てきれないものです。私はずっとずっと、ずっとその事にもがいている。それでも私という海の中に今でもどっぷり浸かっている。。。と。最近また、上記した言葉について考えてみた。おそらく 自己を捨象 というのは(捨象:抽象する際に、本質的でない種種の性質を捨て去ること)私が自分の本質という言葉を使って述べていることを指しているのだと思った。そう考えると私が自分の本質を感じ、それに逆らえないともがき、苦しんでいることは芸術へ近づく一歩なのかもしれないと励まされた。一義的な思いに相応しい形(言葉)を選ぶとき最初の思いは薄くなります。薄くなりながらも、透けて見える、透けて見えざるを得ないのが切なさだと思っています。ここは本当に美しい表現であるし、この文章が指し示している内容も美しい。薄くなりながらも、透けて見える、透けて見えざるを得ないのが切なさ私はこういうものに心が触れたときに心揺さぶられ、どうしょうもなく心惹かれてやまない。そしてそれは言葉 と 心 の微妙な ずれ が切なさを生み、ずれ ていて、言葉に表れていないものが微かに透けて感じられて見えるものが切なさ であるのではないかと思った。私が幼いときから心と身体が別々であったらいい・・・・と望んでいたのは、私が肉体に縛られていると思うような身体を持って生まれ、常に心身の不一致を感じてきたのは、私が 切なさ という私の心を揺さぶってやまないものを希求するためなのではないか?とさえ思った。 (2011年4月記)にほんブログ村
2014年10月20日
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