中高年の生涯学習

中高年の生涯学習

2026.07.05
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
前回、塙保己一について書いた。法政大学の靖国神社側がメインの場所だった。法政大学の前の外堀の向こう側にもう一人の 盲人の偉大な人 が住んでいた。その跡地に宮城道雄記念館がある。ここは邦楽に興味のない方は、あまり行かないところだ。飯田橋駅から神楽坂を上って、左に入ると。すぐ右に 検番 がある。検番とは神楽坂の芸者が集まる事務所だ。私がその通りを歩いていると三味線の音が聞こえてきた。昼間は時間が空いているとき三味線の練習をしているのだろう。その道なりに歩いていくと、左に公園があり、その向かいに宮城道雄記念館が建っている。立派なビルディングだ。

東大教授、文学研究者のロバート・キャンベルによる宮城道雄記念館のガイドがユーチューブにあった。まず、これを見てもらおう。
ユーチューブの右側ガイドに「漱石山房」、「矢来能楽堂」などがある。こちらもチェックを。
鉄道列車から転落して
武原渓(たけはらけい)著 「盲目の天才音楽家 宮城道雄 死の真実」 (近代文藝社、1995年12月発行)という本を入手した。武原はNHKのプロデューサー、NHK文化センター主管をして、フリーに活動されている。ジャーナリストらしく、資料調査、さらに現場取材を綿密にされて、この本が書かれている。今から70年以上前のことなので宮城の近親者は亡くなっている。「真実」が書かれても問題が生じることはない。むしろ宮城の残した音楽の作曲、楽器の制作、演奏、随筆のすばらしさを再認識したいという気持で、この本が発表されている。


昭和31年(1956)6月25日、梅雨に入り、この日も雲が垂れ込めた曇り空だった。25日夜大阪、26日神戸、27日京都への演奏旅行が決まっていた。24日夜6時半、いつも通りお酒を少し飲んで夕食。そのあとで演奏会で使う 琴爪の手入れ をした。琴爪というのは右手の親指、人差指、中指にはめて絃を弾くピックである。午後7時半、同行する助手の牧瀬喜代子と玄関前に止まった迎えの車に乗った。東京駅に着くと赤帽に手荷物と持参の箏(そう)を預けた。この箏は越天楽と銘打たれた宮城愛用のもの。既にホームに入っていた20時30分発下り急行「銀河」の先頭1号車の二等寝台に乗り込んだ。宮城の乗った1号車は車両の前半分が1等寝台のコンパートメント、後の半分が2等寝台になっている変形で、2等寝台は通路をはさんで左右に片側4つずつ、計8つの仕切りがされている。夜になると1つの仕切りが上下2段のベッドにセットされる。宮城の寝台は1号車後部入口から二つ目の左側12番、付きそう牧瀬喜代子の寝台は通路を隔てた10番、ベッドは何れも下段だった。


列車は定刻の20時30分に発車した。宮城は同行の牧瀬喜代子と雑談したり、点字のリーダーズダイジェストを読んでいた。牧瀬は「お手洗いにいらっしゃる時は、私を起こしてくださいよ」と念を押した。トイレは後部のドアを左側に押して 右側にある 。左側は洗面所である。その先の引き戸の向こうはデッキである。デッキの左右は列車の出入り口になる。この列車内の構造が、この本の最後の「宮城自殺説」の検証で最重要事になる。


午前1時半、浜松駅発車。1号寝台受け持ちの列車ボーイの大森孝雄の「常務日誌」には、「社内巡視したるも異常なし。ドアは何れも施錠されていることを確認」と書かれていた。それから1時間余りの後、大森は後部車両に行こうとした際、列車進行方向に向かって左側(トイレの側)の海岸に面した乗降口扉(デッキドア)が 半開きになっていた ので、彼はこれを閉めた。宮城道雄の転落事故はこの直前に起こった。下り貨物列車の機関士が「刈谷駅ガード下に轢死体らしきものを見た」と大府駅を通過するときメモを投下した。大府駅から刈谷駅に緊急電話が入り、4人の刈谷駅員は携帯ランプをもって線路を歩いていった。


三河線ガード下で、横たわっている人が発見された。担架に乗せられ駅へ戻ると、600メートル離れた豊田病院へ運ばれた。午前4時40分から50分、空は白み始めていた。傷はひどかったが、まだ意識があった。 宮城自身の口から身元が明らかに なった。豊田病院の手術室で裂傷の縫合が行われた。警察官と駅員の血液提供の申し出で輸血が行われた。宮城瀕死の重傷のニュースはNHKラジオ午前6時のラジオニュースで全国に報じられた。看護婦が容態の急変を医院長にしらせ、臨終の確認は午前7時15分だった。この突発ニュースを聞いて集まった取材記者で豊田病院周辺は大混乱、カメラのフラッシュが次々光った。


演奏会を予定していた大阪道頓堀の松竹座は宮城の突然の死のニュースで大混乱をきたした。遺体が東京へ無言の帰宅をしたのは翌26日、午前5時過ぎだった。29日、芝増上寺で葬儀が行われた。墓は東京谷中墓地に作られている。この死から 38年後の平成6年 、宮城の生誕百年記念演奏会がNHKホールで開かれた。その2週間後、武原は谷中の墓地にお参りに行った。普通の人は気づかない、ジャーナリストの鋭い眼力は宮城家の家族内の問題を見つける。宮城道雄の「死の真実」への調査、取材が始まる。


谷中墓地にあるとは聞いていたが、宮城道雄の墓はどこにあるか探し当てられない。雑草取りの寺男に尋ねると、15代将軍慶喜の墓地の反対側だという。墓石の左に御影石の墓誌がおかれ、そこには 4名の名前 が記されていた。宮城よし子、宮城道雄、宮城貞子、宮城清子。「よし子」は子供のいない道雄が養女にしたお嬢さん。「貞子」は宮城道雄が朝鮮から上京し、大正7年に再婚した妻で宮城を支えた。「清子」は貞子の姪で宮城と行動を共にした人物。同行時、牧瀬喜代子と称し、宮城の後継者として人間国宝宮城喜代子になっている。この宮城家の墓誌をみても家族関係は相当複雑であることが推察される。朝鮮の京城で結婚し、4年後の 大正6年に亡くなった最初の妻「仲子」と連れ子の「安子」の名前が刻まれてない ことに気づいた。そして大いに疑問をもった。「安子」は脊髄カリエスという障害をもっていた。脊髄カリエスはくる病とも言い、背中に瘤をもっている。現代ではこの瘤は手術でとることができるが、明治時代では異様な姿態として嫌われ差別の対象だった。武原はNHKの職員として福祉番組にもかかわりをもったのであろう。当然、カリエスという障害の知識はあった。宮城道雄も視覚障碍者として、障碍を持つ人間の実情を知っているはずだった。ところが「安子」の扱いは、どう見てもひどいではないか。調べてみると「仲子」と「安子」は京都の墓地に葬られていた。


(以下、次回へ)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.07.05 10:52:00
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

カレンダー

プロフィール

masa2948

masa2948

コメント新着

 大原問答@ Re:京都大原歴史文学散歩(06/24)  ≪…   世の中にたえて桜のなかりせば …
高木千佳@ Re:帝銀事件71年目の真実(その2)(02/24) 誰が犯人って?それは平沢さんだと思いま…
小林美香子@ Re:帝銀事件71年目の真実(その2)(02/24) 神戸連続児童殺傷事件の通報者として私も…
一般神@ Re:相模原事件の深層(09/04)  知的障害者が経済的にマイナスにはなっ…
2021 放送大学生@ Re:放送大学の自主規制(11/01) 放送大学 天下り で検索し、こちらに来…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

お気に入りブログ

まだ登録されていません

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: