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NHKの4月の編成替えでNHKラジオ第2が無くなった。第2は教育・福祉番組が多く、これを聴くことを楽しみにしていた人も悔しく思っているであろう。基礎英語、英会話などは1日に何回か放送され、自分の都合のいい時間帯を選べばよかった。ところが4月からNHKFMの朝の6時台に移行した。他の語学番組は深夜から早朝にかけて放送されている。不便になったが、インターネットラジオの「NHKゴガク」を利用するようになる。聞き逃し番組は放送から1週間聞ける。昨年暮れあたりから、NHK ONEというサイトが新設されて、NHKテレビの放送が視聴できるようになった。「NHKゴガク」、「らじる*らじる」は従前どうり、インターネットで聞けるが、NHK ONEはネット上で契約する必要がある。少し面倒である。ネット契約に慣れていない中高年は手こずるかもしれない。NHKのサイトには案内が出ているが、意味不明に感じてしまうかもしれない。受信契約をしている人は無料で利用できる。以前のNHKプラスを使っていた人は、スムースにNHK ONEに移行できる。NHK ONEでは現在放送しているテレビ番組を同時視聴できるほか、1週間分の再視聴が可能になる。その他に防災情報、天気、医療健康情報なども見ることができる。教育のサイトには高校講座が入っている。NHKプラスを利用したことがある人は「旧NHKプラスを利用されている人はこちら」をクリック。入力したメールに認証コードが送られてくるので、その番号を入力する。パスワードを再設定する。昨年(2025年)メールアドレスを変更していると、面倒なことになる。メールアドレスがIDになっているので、新規にNHK ONEのアカウント登録が必要になる。ここで重要なのは以前のID(使っていないメールアドレス)を削除する必要がある。これはNHKに電話して削除してもらわないといけない。電話番号は下記。新規にNHK ONEのアカウント登録するには、NHKのホームページ(動画による説明がある)によると、2つのステップが必要と説明される。第1ステップは、「受信契約の登録確認」→「受信料アカウント登録」第2ステップは、受信料アカウント登録後、NHK ONEアカウントの「連携」注意すべきは、これらの作業中、スマホ等の携帯電話の番号の入力が求められる。本人確認が必要ということだろうが、スマホを使ってない人は、ここでストップしてしまう。先に入力したメールは何だったのか。意味不明の作業を要求される。スマホにはSNSで認証コードが送られてきて、それを再度入力することになる。スマホを持っていない方は、下記のNHKへの電話で問い合わせてください。受信料を払ってNHKテレビをみているのに、改めて受信契約をしなければならないというおかしなシステムなのだ。NHK ONEなど見なくてもインターネット上には様々な講座や教育コンテンツがあふれている。時として、あやしい偽情報が含まれているが、それを批判できる能力を養うテストと思えばいい。もう一つ、NHKオンデマンドというのがある。こちらは有料で月額税込990円で見放題である。過去の大河ドラマや、「あまちゃん」等の朝ドラを見ることができる。1本のみ220円~という見方も可能である。NHKへの問い合わせ電話番号0570-099-033音声ガイダンスが流れるが、「2」を押す。
2026.05.03
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森信三。この名前を知ったのは、ある小さな出版社の応接室の書棚だった。「まぼろしの講話」と題した本が5冊並んでいた。書名に引かれて一冊借りてきた。中味の濃い人生論だった。読んでいるうちに背筋が立ってくる。全5巻をすべて借りた。この本は、有志の力で作られた本のようで、書店で入手するのは難しい本だった。文字通り「まぼろし」の本なのだ。森信三といえば、「人生二度なし」というキャッチフレーズが有名だ。当たり前の事を言ってるようだが、生きる姿勢として言われれば、大変なパワーを持った言葉だ。今、生きている人生は後戻りできないし、やり直しは利かないものだ。人生には死と言うものが裏に貼り合わされていて、この裏が表にひっくり返れば、人生はお仕舞なのだ。表は一回限りという限定がついている。「人生二度なし」は、このことを自覚せよ、と言ってるわけだ。そういう人生をどう生かしていったらいいかを、森信三が諄々と語っていくのである。こういう直球勝負の人生論はなかなか見つけられない。「まぼろしの講話」は入手しがたいが、「修身教授録」(致知出版社)という本が出版され、こちらは入手できる。修身とは、大時代な言葉だが、身の修め方、つまり生き方を説いたものだ。戦前の大阪の師範学校で行われた授業の筆記録だ。師範、つまり先生を養成する学校での授業だが、一般人が読んでも参考になる。当時の文部省からすれば、異例のもので、注意されれば教職そのものを辞めると言う覚悟で行われた授業のようだ。森信三とは、どういう人物なのか。先の講話でも、教授録でも、自分のことはほとんど語っていない。経歴などという形式的なものより、中味の実質が重要なんだと言ってるようである。教師としては授業そのものであり、○大卒業などというのは屁のようなものであり、授業とはなにも関係ない。弟子の寺田清一が伝記のようなものを書いている。それによると京都大学の哲学科で西田幾太郎に学んだ哲学の徒のようだ。この筆記録、中味の本体と同時に重要なのは、授業前と後の森信三の振る舞いを描写している所だ。前の授業の消し忘れの黒板をきれいに消す、本日の題目をチョークで大書する。黒板に突き出た画びょうの処置、本題に入る前の森先生のささやかな行動に、生き方が見事に示される。「修身教授録」には、先の「人生二度なし」も含め、「一道をひらく者」「人生の深さ」等、珠玉の講話が二年分収められている。読んでいくうちに背筋が伸び、腰が立ってくる。生き方の大黒柱をうち立てられる。
2026.04.05
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前回は高野山大学の空海を学ぶオンラインコースを紹介した。学費が高額なので、学長の松長有慶の岩波新書「高野山」をもとに高野山と空海について書いてきた。空海は命がけで中国、唐にわたり、寺を遍歴していた。青龍寺の恵果和尚(けいかかしょう)を訪ねる。和尚は空海が来ることを知っていたようで、待ちかねていた。正当な系譜の密教を無名の沙弥である空海に授けた。恵果和尚には数百人の弟子がいたが、胎蔵と金剛界の密教を授けられたのは、青龍寺の後継者の義明供奉(ぎみょうぐぶ)と空海の二人だけだった。恵果和尚はその年、遷化(死亡)された。恵果和尚は「直ちに日本に帰り、密教の流布に努力せよ」という遺言をのこしていた。師の遺命に従い、20年の予定の滞在を変更して、大同元年(806)、帰国の途についた。空海は唐から請来した典籍、仏像、仏具の目録を朝廷に提出した。すぐには京都に戻れず、筑紫国に2年ほど留まった。弘仁2年(811)京都高雄山寺に帰った。伝教大師最澄から密教経典の借用の申し出があった。最澄も入唐して密教を学修していたが、空海の「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」をみて、自分が学んだ密教は傍流だったことに気づき、空海から本格的な密教を学び取ろうと志したと考えられる。最澄やその弟子は金剛界や胎蔵法を受法したが、やがて両者は決別する。密教に対する思想的違いから別々の道を歩むことになる。空海は多くの著作を残している。人間を含む森羅万象が、密教の観点からみれば、そのまま大日如来に他ならないという原理が論じられている。宗教理念だけでなく、「文鏡秘府論」という文学理論、音韻論、創作技術を論じた本もある。また空海は嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに平安時代の三筆とされ、書の名筆家とされている。仏教の有名な成句に「諸行無常」、「諸法無我」、「一切皆苦」、「一切皆空」がある。これらは現実の生活を否定する意味がある。「諸行無常」といえば、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と言う平家物語の冒頭の句を思い出す。平家の奢れる生活も一時的なもので、「春の夢のごとし」海のなかに消えた。「諸法無我」とは、現実に存在するものに、「特別の我」が存在しないことを表す。独自の我(俺が、俺がという我)が存在するという常識を否定する。空海はこれら否定的な思想を、肯定的な思想に読み替える。「現世は無常ではなく常、苦ではなく楽、無我ではなく大我、汚ではなく浄」。一般に考えられている否定的な意味を含まないと主張する。むしろポジティブに評価し日常生活に取り入れていく。人間の欲望は煩悩に根ざすものであるから捨てよ、と教えられる。といって欲望を否定しては、人間の日常生活や経済活動は成り立たない。密教では、欲望を一応は否定する。否定される欲望は自己中心的な欲望に限られる。それはエゴ意識に基づく小欲だからである。密教の大欲は相対的な意識を超越した絶対的な大欲である。自己のための欲ではなく、他人の利益のため発動する欲である。利他の精神を原動力とするため欲望を肯定的に考える。密教はインドで、大乗仏教の一つの流れとしておこった。7世紀、ないし8世紀ころ、中インドから南インドで隆盛期を迎えたが、イスラム教の侵入によって13世紀に滅亡した。大乗仏教はシルクロードに沿って中央アジアに伝播し、中国本土に広がった。9世紀の初め日本から空海が唐の都の長安に留学し、インド伝来の密教を日本に持ち帰った。19世紀にヨーロッパの学者がチベット仏教の特異な儀礼や僧侶の姿を見て、それをラマ教という名で呼んだ。ラマとはチベット語で師匠を意味する。空海は京都の東寺に密教を定着させた。一方、高野山に修禅、つまり瞑想の道場を開いた。大宇宙との対話を目指す密教の本来の姿を再現しようとした。中国の天台山で天台教学、禅密教を合わせ学んで帰った最澄は比叡山で天台宗を開創した。真言宗の密教は空海が本拠地とした東寺にちなみ。東密(とうみつ)と呼び、天台宗の密教を、天台の台をとって、台密(たいみつ)と呼ぶ。日本では中世以降、身体がミイラとして残ることを即身仏と言い慣わしている。この信仰が持ち込まれて、即身成仏とは生きたままミイラになる事だと思われている。これは、とんでもない誤解である。密教では、この現実の身体を持って目覚めた者になることを目標とする。これを即身成仏という。インドでは本来の自己を顕現するための方法として、ヨーガを使う。現在の日本では健康体操として、アクロバット的な体の動きをヨーガとして盛んにおこなわれている。密教でもヨーガを取り入れている。ヨーガは漢訳では瑜伽(ゆが)という漢字があてられている。禅定の一種で瞑想を通して精神を統一することが中心である。これは宗教体験を積んだ師匠から伝授されることが必要である。この師匠の事をグルという。どんな技芸でも師匠を見つけることは簡単ではない。空海の場合も、師匠の恵果と出会うのは命がけであった。海を渡って中国まで出かけた。恵果も空海が来ることを待っていた。運命的な出会いである。師匠との出会いは焦ることはない。すばらしい人は、どこかで待っている。高野山大学公開講座般若心経についてhttps://www.youtube.com/watch?v=oHR2rZGnxgM曼荼羅とはhttps://www.youtube.com/watch?v=78m3fLJXHCc
2026.03.01
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空海と言う名前をたびたび目にする。空海とはなにものか。四国遍路、高野山が有名である。関西にお住みの方は参詣する機会もあるだろう。関東の人には、どこにあるかもわからない。関東から行くとなると新幹線で新大阪駅まで行き、JR大阪駅に移動し、地下鉄でなんば駅へ。なんばから南海高野線で極楽橋。そこからケーブルカーで高野山駅まで行く。さらにバスに乗り、高野山の街に着く。なかなか大変な行程になる。高野山とは天空の都市、宗教都市である。高野山という山はない。高野山は山号。寺に冠した称号である。成田山と同じである。不思議な街である。寺は140いくつかあるが、コンビニもあれば郵便局もある。役場もある普通の街である。坊さんだけが住んでいる街ではない。ここに高野山大学という大学がある。坊さん養成の学校と思いきや、空海・密教を学ぶには、まさにドンピシャの学校である。入学資料を取り寄せてみた。空海が京都で創設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を原点とする大学である。綜芸種智院は、天長5年12月15日(828年1月23日)、空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に建てた学校である。系統に京都伏見区に種智院大学がある。学部は密教学科と教育学科があり、密教学科は3つのコースに分かれる。密教学、日本文化(留学生対象)、密教文化(社会人対象)である。注目は密教文化である。これはオンラインで、自宅で学べる。科目は、仏教入門、空海の思想入門、弘法大師伝、釈尊の生涯、祖典講読、仏教美術等、これらはオンラインで学べるが、集中講義というのがあり、独特なものだ。四国遍路、瞑想法、マインドフルネス、古文書調査。これらは現地集合、高野山大学に行かなければならない。このコースの学費は61万円で、ちょっとお高い。この学費は本年(2026年)のもので、次年度以降上がるかもしれない。テキストがついているのかは不明。高額な学費で「空海・密教の旅」を諦めるのは残念だ。高野山大学学長松長有慶(ゆうけい・2023年逝去)が岩波新書で「高野山」、「密教」、「空海」の3冊を出版している。3冊合計で3000円ちょっとだ。非常にわかりやすい文章だ。仏教関係は難解な漢語や意味不明な文章が多いが、これは素人向きだ。難しい専門用語にはカッコで注が入っている。「高野山」はガイド本だ。高野山の街の様子、各寺の紹介、高野山の歴史、弘法大師空海の活動と思想、文化財の紹介。この本だけで先の密教文化コースの3科目分はある。さらに深く学びたければ「密教」、「空海」へと行けばいい。高野山の山の上は平らな盆地である。周囲は高い山に取り囲まれている地形から八葉の蓮華の花びらの峰に取り囲まれたようになっている。峰の上は女人道といって、かつては女性が山内に入れなかったため、ここから参拝した。現在は女人禁止は廃された。ハイキングコースになっている。これらの峰を越えて高野山に入る道は7つあった。街の中央に案内所がある。地図をもらい、宿泊する宿坊を決めよう。食事は精進料理だ。学生には学生寮がある。女性専門の寮もある。明け六つ(午前6時頃)には朝の勤行の開始の鐘が打たれる。奥の院では弘法大師にお供えする精進料理が運ばれる。大師は今も生きているとされ、信仰の対象だ。朝早く起きよう。高野山の神聖な雰囲気を味わおう。奥の院への参道には歴史的人物の墓や碑が並んでいる。織田信長、石田光成、徳川吉宗、明智光秀、大岡越前、曽我兄弟、平敦盛。珍しいのは朝鮮役敵味方碑がある。なぜか親鸞上人の墓がある。本願寺ではなかったのか。文学碑も多い。弘法大師空海は宝亀5年(774)、讃岐の国(香川県)で生まれた。才能にめぐまれた大師は都の大学に入った。官界での出世を目指す大学生活になじめなかった。一人の沙門に出会って、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法をさずかり、山岳修行に励むことになる。虚空蔵求聞持とは記憶力増強のテクニックである。だれでもほしいと思う技法だ。単純なことを言ってしまえば、覚えるべき経文を何百回も繰り返せというもの。根性論のようなものになってしまう。大学は中退。悩みに悩んだが密教に出会った。しかし、その内容がよく理解できない。天才空海でも分からないことがあった。本場の中国へ行こう。二十台の空海は山岳修行に励み、南都の各寺を訪ねて仏教の勉強をしていた。この見通しのきかない暗黒の時代に生まれ故郷の四国の山々を巡り、野に伏し、その足跡が八十八か所の霊場の形成になった。延暦23年(804)肥前の国を出港した遣唐使船に31歳になる沙門空海は乗船していた。途中、暴風雨に会いながらも中国福州に漂着した。福州から唐の都長安に到達した。諸大寺を巡りながら仏教の優れた師を探し求めた。巡り合った僧侶から密教についての概要とサンスクリット語の知識を得た。次回へ続く参考文献司馬遼太郎「空海の風景」上下巻、中公文庫高野山大学https://www.koyasan-u.ac.jp/
2026.02.02
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現在NHK「朝ドラ」で放映されている「ばけばけ」はラフカディオ・ハーンの妻小泉セツの物語である。ドラマでは松野トキという名前になっている。書店には関連本が多数置かれている。どれがいいか、わからないので適当に買ってきた。家には古本屋で購入した「新編日本の面影」(角川ソフィア文庫)があった。読んでなかったので、さっそく読んでみた。明治の日本が絵のように詳細に描かれている。非常に解像度の高い文章だ。細かいディティールが丁寧に文章化されている。冒頭文はハーンが横浜に上陸して、人力車で横浜見学である。車夫に「テラへ行け」と命じ、寺めぐりである。一般の外国人の日本観光とは全く違う。街の風景、寺の様子が細かく表示される。ここにハーンの精神構造、文学志向がはっきり表されている。この本は「知られぬ日本の面影」(これは大著である)から10本の文章を選択したもので「新編」と銘打っている。一つ一つの文章は非常に長い。英語の文章は修飾が多く、分かりずらいらしく、日本語では簡明に訳されている。それでも非常に細かいところが表現されている。翻訳は相当の苦労だったろう。入手した関連本の一つは「セツと八雲」(朝日新書)。朝日新聞山陰版に連載された小泉八雲記念館館長小泉凡さんへのロングインタビューをまとめたものらしく、「朝ドラ」の内容に沿った分かりやすい本である。記念館展示の前で凡さんの解説を聞いているような感じである。凡さんは八雲のひ孫にあたる。ひ孫とは八雲から数えて4世代目である。孫が3世代目、その次である。ひ孫の次が「やしゃご」である。漢字表記は「曾孫」である。凡さんは東京都生まれ、成城大学で民俗学を学び、1987年から八雲ゆかりの松江で暮らす。セツは節分のころに生まれたので、そう名付けられた。1868年(慶応4)2月4日生まれ。この年の10月に明治が始まる。小泉家は藩をおさめた松平家に仕え番頭(ばんがしら)を務めていた。セツは子供がいなかった親類の稲垣家の養女となり、稲垣セツと名乗る。松江城の近くで会った軍事訓練を見物に行ったとき指導教官のフランス人ワレットから虫眼鏡をもらった。外人に物怖じしない女の子だった。これが生涯の宝物になる。この虫メガネは記念館の重要な展示品である。小泉家も稲垣家も侍の家で幕藩体制から明治維新に体制がかわり、零落した。セツは学校へも行けなかった。そんな中、因幡(いなば・鳥取県東部)の士族だった前田家から為二(ためじ)という人を養子に迎え、セツは結婚した。為二は浄瑠璃がすきで近松門左衛門を愛読していた。稲垣家には借金が重くのしかかっていた。為二は、それに耐えられず、1年ほどで出奔した。セツは為二を追いかけ大阪まで出かけた(ドラマでは東京になっていた)。セツの願いは受け入れられず、離婚。小泉家に復籍し、小泉セツと名乗るようになる。ここにセツの行動力と人間的な強さがある。当時、松江から大阪まで船で行ったらしい。もう一つの関連本は、ノンフィクションライターの工藤美代子が書いた「小泉八雲ー漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯」(毎日文庫)である。NHK教育テレビ「人間大学」の番組テキストを増補したもので、ハーンのアメリカでの活動、文学的特質などが詳しく論じられている。ハーンの生い立ちは複雑である。ここで細かなことはとても書けない。ハーンは1850年6月27日、ギリシャのイオニア群島のサンタ・モウラ島(現在レフカス島)で生まれた。アイルランドのダブリンへ、それからアメリカへわたり、新聞記者になる。39歳で日本へ、セツと結婚して、小泉八雲と名乗る。八雲の名前は、古事記の和歌、八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣をからとった。鎖国から解放された日本では外国人は見慣れぬ人物だった。今は外国人と結婚する日本女性は多くいて、英語ができて立派という印象だが、当時は、セツはラシャメンとさげすまされた。現在「日本ファースト」と宣伝する政党ができたが、セツの時代は差別と偏見は凄まじいものがあった。ラシャメンとは羊毛製の織物や羊を意味する言葉で、外国人男性と関係を持つ日本人女性をさげすむ言葉だ。攘夷運動などがあり、外国人は「夷狄(いてき)」と呼ばれていた。八雲の文学は皮肉にも「日本ファースト」である。古事記、神社、祝詞、盆踊り、伊勢神宮、怪談、神道、仏教、テーマは日本の古い民話や呪い、今の日本人が忘れてしまったものである。八雲は島根県尋常小学校に赴任したとき、ラフカディオ・ヘルンと呼ばれていた。八雲とセツのコミュニケーションは、どうだったか。セツは英語ができない。八雲も日本語ができず立ち往生した。セツは単語帳を作り、少しづつおぼえていった。八雲は英文執筆に熱中し日本語を勉強する余裕がない。二人の間にはヘルン言葉を案出した。助詞がなく、語順は英語式だ。例えば「何ぼ喜ぶ、言う、難しい」という具合だ。これは、難しいことを言えたら、非常にうれしい、というような意味だろう。逆に考えると、われわれ日本人が英語を使って外人と会話するとき、使えそうなやり方だ。学校の英語の先生が教える英語ではないけれど。知ってる英単語を並べることで外人とコミュニケーションできそうだ。八雲は片目を事故で失明している。これが他の感覚を研ぎ澄ます要因になっているかもしれない。ただ執筆は苦労しただろう。アメリカで新聞記者をしていることも八雲文学の重要ポイントだ。新聞記者の強みは取材力だ。常に現場に立って話を聞く姿勢だ。言葉がわからなくても雰囲気はわかる。工藤の本では八雲の新聞記事が引用されている。現場の事実が描かれるのは当然だが、読んでいくといつの間にか、その想像力に引き込まれ、記事に釣り込まれてしまう文章だ。文学になってしまう。これが筆力というものだろう。例文がいくつも出されている。新聞記者というよりも文学者なのだ。これは八雲が多くの文学作品を読んでいる結果なのだろう。八雲文章の特徴は細密画を描くように丹念だ。八雲にはアメリカにエリザベス・ビスランドと言う恋人がいた。この敏腕女性ジャーナリストに手紙を送っている。ビスランドは美しく社交界の花形だった。裕福な弁護士と結婚してしまう。八雲にとって片思いのようなものになってしまう。ビスランドは十数冊の本を書いているが代表作と呼べるようなものはなく、ハーンの書簡集の編纂者として名前を残すのみになってしまったのは「人生の皮肉」と工藤は書いている。参考文献「小泉八雲ー東大講義録ー日本文学の未来のために」(角川ソフィア文庫) 文芸創作論、文学創作をする人にとって必読本小泉八雲記念館(「詳細」をクリックするとひらかれる。参考文献が紹介されている。一番下にホームページガイドがある)https://www.hearn-museum-matsue.jp/次回更新は2026年2月の予定です
2025.12.07
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加藤秀俊教授の「独学のすすめ」(ちくま文庫)は50年前に出されたエッセイである。言ってみれば、完全に古本の一種である。最初の婦人雑誌「ミセス」に教育論として発表された。これが文芸春秋で単行本として出された。さらに2009年にちくま文庫で解説付きで出された。もちろん現在でも入手可能である。ここには当然ながら編集者の眼がある。第一に文章がわかりやすく明解であること、主張されている内容が現在でも生きていることが長期にわたって出版されている理由であろう。「独学」といっても独学の方法論や目先のテクニックについては書かれていない。言ってみれば教育についての幅広いテーマが取り上げられている。独学とはなにか、学ぶとは、読書、教養とはなにか、お稽古ごと、創造性、試験、専門とは、外国語の教育、学問、学校の意味。生涯学習を行っている人には誰でも考えているテーマだ。加藤教授は社会学博士。京都大学、スタンフォード大学、ハワイ大学などで教鞭をとっていた。日本の学生とアメリカの学生の学ぶことに意識の違い、比較が多く取り上げられている。大学名はほとんど一流大学だが、当然、意欲のない、やる気のない学生はいる。そういう学生は大学へ入ることが目標で、入ってしまえば、勉強などしないで麻雀屋やパチンコ屋等で過ごすことになる。「学校」など意味があるのかという疑問が出てくる。一方で大学に行けなくて、人生の途中で自分の無知に気付いて独学を始める人もいる。第一章「独学のすすめ」では、イギリスの女性ジェイン・ヴァン・ラヴィック・グロールの紹介である。縫いぐるみのチンパンジーのおもちゃで遊んでいた女性がふとした切っ掛けでチンパンジー研究の大家になった話である。チンパンジーから身の回りの動物に興味を持つようになる。鶏小屋のにわとりの卵を産むのを熱心に観察するようになる。高校を卒業するとロンドンで普通のOLになった。あるときオフィスに一通の手紙が舞い込んだ。なんと消印はアフリカのケニアからである。差出人は高校時代の友達である。その友人の両親はケニアで農場を経営しており、「遊びに来ないか」という招待である。しかしアフリカに行くお金がない。ロンドンで暮らしていたらお金は貯まらない。会社を辞め、故郷に戻り、食堂のウエイトレスになった。自宅通勤なので余計なお金はかからない。ウエイトレスにはチップという収入もあった。しばらく働いたらアフリカまでの旅費はたまった。ジェインは飛行機の切符を手に入れアフリカへ飛んだ。ひと月ほど友人の家に滞在したが、あんまり長くお世話になれない。ジェインが動物好きと知った友人はリーキー博士を紹介してくれた。リーキー博士はアフリカにおける霊長類研究の最高権威であり、ナイロビ自然博物館の研究主任である。ジェインが動物好きと見抜いたリーキー博士は秘書の仕事を与えた。取り扱う書類は勉強の宝庫である。そこで動物学と考古学を学び始めた。ジェインは探検隊についてキャンプ地の草原や茂みを歩いた。周囲にはキリンやゼブラなど動物園でしか見たことのない動物たちが眼の前にいた。博物館の学者からたくさんの事を教えられた。野生のチンパンジーの生活についての研究がされてないことに気づいた。「チンパンジーを勉強するわ」とジェインはリーキー博士に申し出た。秘書の仕事から研究部門に移った。そしてタンガニーカ湖畔の密林のなかにテントを張って研究をはじめた。チンパンジーは時々姿を見せるが、すぐどこかに行ってしまう。しかし時が経つにつれてチンパンジーはジェインを気にしないようになり、ジェインはじっと動かないで待った。チンパンジーの警戒心を解くことに成功した。チンパンジーはジェインを仲間と感じるようになったのだろう。近づいてきてジェインに触るようになった。至近距離で彼らの生活を記録していった。一冊の本になった。日本では「森の隣人」(平凡社→現在「朝日選書」)の題名で翻訳されている。1971年に出版され驚異の記録として欧米では版を重ねている。アメリカでは大学の教科書になっている。高校卒の女子が独学で、ここまでの成果を上げる彼女の人生記録でもある。学校というのは勉強するのに便利な施設である。しかし学校へ行かなくても「独学」という方法論がある。加藤教授の殺し文句。「独学できっちりと学習できない人間が、やむをえず、学校に行って教育をうけているのだ。学校は脱落者救済施設のようなもので、独学で立ってゆけるだけのつよい精神を持っている人間は、本当は学校に行かなくたって、ちゃんとやってゆけるものなのである。」以下は赤線を引いた一発フレーズ集である。前後の文脈を知りたい人は同書を参照してほしい。「教育というものの基本的な目的と意味は、ひとりひとりの個人が、人生にたいする意欲をつちかうことにある。」「読書というのは、他人の経験を共有するということだ」「高等教育レベルでは、本を読むことの方が、授業をきくよりはるかに有効であるばあいがすくなくない。「じつのところ、日本の主婦たちが、いっこうまともに本をお読みになっていない、ということにわたしは気がついている。」「のぞましい教育ママとは、自己教育に熱心なママのことだ。」「伝記をつうじてわれわれが学ぶのは、人生の理想というものだ。」「情報の質が人生の質をきめるのだ。情報を選ぶことが、人生をえらぶことである。「それぞれの道で立派な教育を受けた人が「三国志」を読んでない、とか、落語、講談のたぐいを知らない、とか、あるいは「百人一首」をいちどもやったことがないとか、そういうふしぎな事態が出現しているのではないか。「ねどこ」って何ですかと聞いてきたエリート青年がいた。→「ねどこ」は落語のタイトル。「男のつまらなさ、というのは、子供のころの情操教育を受けなかったことと関係している。たくさんのお稽古のチャンスにめぐまれた女性文化をねたんでいる。」「仕事とは、個人が義務を果たすだけではなく、他の人間としっかりつなぎあわされることのできる開かれた通路と考えられる」「一般的な思い込みを破った思考によって問題解決にいたることを創造という。」「創造的思考をするためには、どうしたらよいか。常識を疑い既存の観念の枠組みにとらわれないことがその秘訣だ。」「ギリシャの学者たちは、それぞれが、ひとりで多面的な知識人であった。」「日本人の外国語は、着信専用であって、なかなか発信用の道具としては使われにくい。」
2025.11.02
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多く人は墓をどうするか悩んでいる。特に都会暮らしで墓は必要か。両親や自分が死んだ場合、普通、墓が必要になる。公立の墓苑をまず考える。格安だからだ。しかし多くの人も同じように考える。当然ながら抽選になる。場所によっては倍率100倍ということもあり、何年たっても当選には程遠い。手近い所でと考えるが歴史散歩で訪れた寺はどうかと行ってみると、宗派の問題やら墓地の管理料が意外と高い現実を突きつけられる。自分の家からは遠距離だが、霊園の墓地を手に入れた。父母の遺骨も入れたが、今度は自分の番だ。恐る恐る自分が死んだら入れるかと管理事務所で聞いた。なんと「継承者がない場合、入ることができない」という返事。一人、独身の場合、ご遠慮するというのだ。墓は自分の家族のものと思っていたら大間違い。管理料が払えない。まさか墓の中から管理料を払うわけにはいかない。この霊園には縁がない。さっそく墓じまいを考え出した。しかしどうしていいかわからない。学校では、こんなことを教えてくれない。「墓じまい」の自己学習が始まった。まず霊園に「墓じまい」をするという申し入れをする。霊園では、こういう申し入れは多いのだろう。準備、作業一覧を書いたパンフレットが用意されている。その都度の必要な費用も明示されている。まずは墓の撤去と遺骨の取り出しの費用だ。これは石材店にたのむ。確認しておきたいのは、石材店が霊園指定の業者か、他の石材店でも構わないのかを確かめる。霊園指定の業者は見積もりで他の業者と比べられないので、ほぼ独占の状態になる。比較的高めの見積もりでも商売が可能である。他の業者は今の時代、インターネットで検索すれば、すぐわかる。墓の大きさで撤去費用が決まる。普通だったら40万から60万円くらいだろう。遺骨取り出しの際にも霊園に支払う費用がかかる。これは先の霊園パンフレットの書かれている。次は取り出した遺骨を納める霊園、寺探しだ。これも遠方より家に近いところがいい。インターネットには墓探しにいいサイトがある。ここに登録すると近所の墓候補のパンフレットを送ってくる。これに基づいて実際に見学してみる。誤解を受けやすいのは永代供養という言葉だ。「永代」とは永久という意味ではない。10年、20年という年限が限られている。長ければ長いほど費用がかかる。まずは寺に行って住職の話を聞いてみる。寺の外観を外から見ていてもなにもわからない。せっかくなので話を突っ込んで聞いてみる。浄土真宗なら親鸞の話を聞いてみる。住職はどういう修行をされたか。寺ではどういう行事をされているか。めったに聞けない貴重な話が聞けるかもしれない。日蓮宗なら宗教としてどういう特徴があるか。なぜ宮沢賢治は日蓮宗にはまったか。日蓮宗のお経は日常的にどうあげているか。法華経を全部読んでいるのか。お寺も商売である。墓の格付けによって値段が違う。ビルの中に納まる墓もある。ビルは冷暖房、エレベーターがついている。コンピュータ制御でお骨が眼の前に出てくるというハイテクの寺もある。こういうところは金額が高価である。永代供養の費用はさまざまである。5万円、20万円、50万円。どれが正貨かは不明である。これは1霊につきである。二人分なら倍額になる。即決しないで、二~三か所見学してからの判断である。無宗教の霊園もある。宗派はどうでもいい、という霊園である。お坊さんの出張読経も可能である。当然出張費がかかる。サラリーマンと同じである。無宗教の霊園は担当者も考え方もドライである。見学で墓の中まで見せてくれる所と絶対見せない所がある。見せたくない理由があるかもしれない。どう思うかは見学者の判断である。「墓じまい」する霊園と契約が済むと、霊園から「改葬許可申請書」が送られてくる。これは霊園が位置する市役所に故人の名前等を書き入れて郵便で送る。返信用封筒も入れておく。ポイントは改葬する先の寺や霊園の名前、住所を入れることである。これを忘れると市町村から許可が出ない。この許可証を墓じまい当日に霊園管理事務所に提出する。霊園から「納骨証明書」も忘れずにもらう。これは改葬先の寺や霊園に持っていく。ともかく「墓じまい」はお金がかかる。お金も時間も余裕を持って進めることである。たくさんの書類が行き来するので混乱しないよう。一呼吸してじっくり進めよう。
2025.10.05
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ラジオを使わないラジオ。つまりインターネットを使ったラジオが出現している。それがポッドキャスティングだ。電子機器のipodからポッドキャストという言葉が生まれた。ipod(アイポッド)はアップルコンピュタ社が作ったもの。日本では音楽再生用機器として使われている。これを使って録音、保存してインターネットで流すのがポッドキャスティングだ。その他にもグーグルなどのアプリがある。動画を流すユーチューブがあるが、こちらは音を流す。音によるブログである。機械とアプリがあれば、だれでも番組を作れ、自分の家が放送局だ。本ブログ下記にいくつかのポッドキャスティングのURLを記したが、残念ながら日本のポッドキャストは、ほとんどが放送局、新聞社の作成のプロが作ったものである。ラジオ番組の番外編である。新聞社のものはニュース解説と言ったものになる。アメリカのポッドキャストは素人、つまり普通の人が作り、多くの人と情報を共有しようという精神で作られているものが見られる。英語のヒヤリングを勉強している人は、アメリカ人の日常生活にふれることができる。VOAのスペシャルイングリッシュは、語数制限の上、ゆっくり発音し、ホームページにはスクリプトも出ている。ポッドキャスティングにはそんなサービスはない。いきなりアメリカ人のなかにホームステイした状態になる。トップテンは人気投票で選ばれたもので洗練されたものがならんでいる。VOAで紹介されたものに、「The Dawn and Drew Show」がある。下記のホームページで検索すれば出てくるかもしれない(素人ものなので中止もありうる)。ドーンとドルーは若い夫婦でウイスコンシン州に住んでいる。その時の興味や日常生活が話題である。かならずユーモアが盛られる。人に聞かれているという意識だ。ゲストが出る場合もある。ゲストは自分の家族や友達である。有名人やタレントを引っ張ってくるなんてありえない。あなたも音のブログ、ポッドキャスティング(ポッド放送局)を作ってみませんか。例えば「好きな演歌」「練習中の詩吟、謡」「文学作品の朗読」『視覚障害者への高校教科書音読」「我が街散歩」「私の落語、漫才」、音をメインとした独自番組など。作成したら、本ブログにURLをお知らせください。紹介します。下記のホームページには、その作り方のガイドがある。おすすすめポッドキャスト92選(日本)https://mg.propo.fm/media_hotpodcast/hotepisodes-all-genre-92/アメリカのポッドキャスト。生英語の宝庫。トップテンは聴取者の投票によって選ばれたもの。アメリカのデイリーライフがわかるが、相当にヒアリング能力が必要。表現は中学英語、ただヒヤリングで聞くとなると?。オープンに少々時間がかかる。ちょっとお待ちを。https://www.podcastalley.com/
2025.09.07
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「ヘレン・ケラー自伝」(ぶどう社版)はヘレン・ケラーの22歳の時、出版された。英語版「The Story of My Life」は様々なヴァージョンが出ており、私が入手したのは2ドル50セントの廉価版である。書店でたまたま見つけた。日本円では400円から500円であろう。アメリカでならスーパーの本棚に置いてあるようなものである。アマゾンなら写真入りの豪華本から子供用のイラスト入り本まで取り揃えてある。読者対象は小学生から高校生となっている。これは英語が読めるアメリカ人という意味である。アメリカ人なら誰でも読んでいる教養書と考えられているようである。冒頭部分を引用してみる。It is a kind of fear that I begin to write the history of my life. I have ,as it were ,a superstitious hesitation in lifting the veil that clings about my childhood like a golden mist.(注)as it were まるで~のように、superstitious 迷信を信じる、hesitation ためらい、lifting 持ち上げ、clings くっつく、まつわりつく、 日本の英語学習者でも、第一文は何とかわかるであろうが、第二文は難しい単語が入っていて、解釈するには苦労する。ちなみに、ぶどう社版の翻訳者の川西進さんの訳は次のとおりである。「私はなにか一種の恐れをおぼえながら、いま、自分の生涯をかきはじめようとしています。金色のかすみのように、私の幼年時代にまといついているヴェールを取り払うのに、別に祟りを恐れているわけではないのですが、ためらいを感じてしまうのです。」冒頭の文章の英語を持ってきたのは、英語のテストをしようとおもったわけではない。目も見えない、耳も聞こえない、おしゃべりもできないヘレン・ケラーが、どうやって、こうした文章が書けるようになったか。「water(水)」という単語からヘレン・ケラーの人生が始まった。この本は、この冒頭文を書く道のりを描いた学習記録である。1章から3章までは闇の中の彷徨である。手であらゆるものを触り、あらゆる動きをとらえる。母親のスカートをさわり、やわらかくひらひらしたものであることがわかる。それが布であり、スカートという言葉に結び付くのはサリヴァン先生が来てからである。感情のコンロールもできず、怒りが爆発する。身の回りの出来事はわかる。しかし前掛けが水にぬれ、乾かそうと火のそばに近づくと、火が燃え移り、大やけどする状態だった。そこへ大人が駆けつけて毛布をかぶせるという事件もおこった。幼い妹がゆりかごにのっているのに腹をたて、ゆりかごをひっくり返すということもあった。サリヴァン先生が来て、ヘレン・ケラーの生活は一変する。海で濃い霧の中にあったところに光が差し込んだ。翌朝、人形をプレゼントされた。遊んでいると、サリヴァン先生はヘレンの手のひらに「D-O-L-L(人形)」という字を書き綴った。この指の遊びがおもしろくなった。ヘレンには、これが言葉であることもわからなかった。サリヴァン先生は別の古い大きな布人形をヘレンの膝の上にのせ「D-O-L-L」と書き、その言葉がどちらにもあてはまることをわからせようとした。ヘレンにはその区別がつかなかった。サリヴァン先生はあきらめない。別の機会にまた同じことを繰り返す。同じ練習にヘレンはいらいらし、人形を床に投げ捨てた。人形は砕けて壊れた。スイカズラの香りに誘われて、井戸の小屋に歩いて行った。誰かが水を汲んでいて、先生はヘレンの手を井戸の口に持って行った。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に「水」という字を書いた。突然、思考が戻ってきたように戦慄が走った。そのとき「W-A-T-E-R」が手に流れている、冷たい何かであることを知った。言葉がヘレンの魂に入った瞬間だった。井戸を離れる時、「学びたい」という思いでいっぱいになった。部屋に入ると壊した人形の事を思い出した。手探りで暖炉のそばにある人形の破片を集めたが、元に戻らなかった。涙が噴き出た。その後、次々あたらしい言葉を覚えた。母、父、妹、先生。これはやがて世界に花を咲かせる「アロンの杖の如く花をもて」(民数記17章8節)彩(いろど)る言葉になった。言語学者が問題にしないことが書かれている。言語のない世界とは何なのか。ヘレン・ケラーにして初めて、このことが、それも「言語」で表現されている。読者は、読み流してしまうところだ。言語がないということは、「doll」と「water」の区別がつかないのである。先の「アロン…」も聖書を読んだことのない人にとって、何のことかピンとこない。「言葉」を覚えることに必死になる。手でさわるものには「名前」がついている。サリヴァン先生にしても庭に植えてある植物や花の名前をすべて知ってるわけでない。この自伝には大量の植物名が出てくる。サリヴァン先生も調べまくっているのであろう。大変な苦労と思われるが、ヘレン・ケラーは「遊び」と言っている。「名詞」の場合は触って確認できる。しかし困るのは「愛」などの抽象名詞だ。ヘレン・ケラーはどうしてもわからない。心臓のところに手を置いたり、頭に手を持って行ったり、様々なことを試みる。サリヴァン先生はいろいろやった後に、詩的表現を用いて、愛の概念をヘレンに伝える。この場面は本で確認してもらいたい。サリヴァン先生は詩人であることがわかる場面である。今までは名詞の単語を学んできたが、文章を読む、書くということをどのようにしたか。浮き出し文字が印刷された厚紙が用意された。単語が書かれている。もう一つ、単語を並べて文章を作れるようになっている枠(浮き出し文字が書かれた厚紙を置く枠)をもらう。枠に単語カードを入れる前に実物で文章を作ってみる。例えば「人形」、「あります」、「寝台」、「の上に」と書いてあるカードを、実際の人形の上に「人形」というカードを置く。寝台の上に「寝台」を、それから寝台の上に人形を置く。これは大変な作業である。「の上に」の代わりに「の中に」、「寝台」を「洋服ダンス」の変えると、「人形が洋服ダンスの中にあります」という文章に変更できる。ここで英語の初歩を英文構造の型で学ぶ。様々な所に出かけ経験を積むことによって、多くの語彙を覚え、「話し方」も学ぶ。ここで「霧の王様」事件が起こる。書いた作文が盗作と疑われ、学校で審判にかけられる。似たような文章が発見され、盗作と認定された。文章を書くことの恐ろしさを味わった。しかしヘレン・ケラーにはその「似たような文章」の記憶がなかった。サリヴァン先生も覚えていなかった。推定であるが、誰かに、その話を読んでもらった。集中して聞いていたので、丸暗記の状態で、いつしか、それは記憶から無意識層へ移動した。これは言語学の記述にあるかどうかわからないが、われわれが日本語を書いたり、話したりできるのは、無意識層の言語だまりから意識層に移行し、それを口や手を使って発しているのではなかろうか。そんなことを思わせる事件である。ここでスチーブンソンの文章作法がヘレン・ケラーの頭に浮かぶ。「偉人(ここは文人であろう)でさえ、(文を作る)修練を何年もしたあとではじめて、精神のあらゆる小道から群がり出てくる言葉の大軍を統率する術を修得したのです」この辺は先日の日本の参議院選挙の候補者の発言の言葉を思い出させるところである。ほとんどの発言に、その候補の独自の意見がない。パソコンのコピー&ペイストと同じで、みんな同じ、さらにデマと思われるものもコピペで発せられていた。「言葉を統率する術」などの基本が忘れられている。永田町には「偉人」など必要ないのだろうか。1893年夏の万国博覧会をグレアム・ベル博士とサリヴァン先生と見に行った。7日間をかけて、まさに世界旅行である。宇宙の広大さ、地球の構造、ベル博士の解説は大学を2回卒業する分量である。電気通信の話はベルの専門である。万博の主催者は展示品に触ることを許可してくれた。アメリカ全体がボランティア精神の満開である。作家の書斎に招待され、「批評」の意味を教えられる。批評から作家の文体が読み取れるようになる。このころすでに多くの文学作品を読んでいる。自伝には作品名が紹介されている。さらにヘレン・ケラーの学びは進む。外国語の学習である。フランス語、ドイツ語、ラテン語。点字表記のないものもあり、困難さが覆いかぶさる。その専門家を探し出し、その家へ行ったり、その専門家が来てくれることもある。かつての言葉の重大さに無知だった状況が骨身に染みているようだ。最後のラドクリフ・カレッジに入学を果たすが、これは大したことはなかった。ほとんどの事をすでに学んでいたのだ。この後は世界の障害者の福祉を向上させるための運動、講演旅行である。日本には3回訪問した。日本は慌てて、障害者の法律を作った。福祉後進国であることを露呈した。素朴な疑問であるが、ケラー家はどうして偉大な教師アン・サリヴァンを雇うことができたか。本文のなかで父親の仕事が新聞の編集をやってることがわかる場面がある。それと別荘が所々に出てくる。この辺からケラー家は中流以上の家庭であることが想像できる。アメリカの福祉制度に詳しくないので、はっきりしたことは言えないが、ヘレンのような重度障碍者のサポートでサリヴァンのような家庭教師を雇う場合、補助制度のようなものがあるのだろうか。「学ぶ」ことの意味をヘレンの体験から伝えられる。単語を一つ一つ覚える。いらいらして、人形を暖炉の投げつける。根気が続かない。しかし、その先に太陽がもたらす光の世界が広がる。
2025.08.03
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ヘレンケラーと言えば、我々中高年は小学校のころ、学校の課外学習で映画を見た経験がある。「water(水)」というものを認識する場面で涙を流し感激した記憶がある。ところがヘレン・ケラーという人物はどういう人だったか、ほとんど忘れ去られている。ヘレンは何冊も本を書いていることすら知られていない。「ヘレン・ケラー自伝」は、「The Story of My Life」という原題でアメリカの何種類かの出版社から出ているようだ。もちろんイギリスその他の国でも出されている。ここでは、ぶどう社版「ヘレン・ケラー自伝」を紹介する。翻訳者は川西進さん。東京大学教養学部の助教授(当時)で英文学者である。 実は、富士書店版「奇跡へのあゆみ」(1965)が初版で、ぶどう社を創業した市毛研一郎さん(故人)は障害者問題専門の出版社として「ヘレンケラー」の本をどうしても出したかった。富士書店版を見つけた。聞いたことのない出版社だったし、あまり売れていそうには見えなかった。川西先生を訪問した。ぶどう社版として出版できないか。案外簡単に再出版を許してもらえた。底本はDell Books版である。ヘレンケラーを日本に招請した経験のある日本ライトハウスの岩橋英行さんから貴重な写真を借り受けた。表紙に使った。この本はヘレンケラーが22歳の時、ラドクリフカレッジ在学中に出版されたもので、生誕から22歳までの記録になっている。記録というより第一級の文学作品になっている。<水>という一単語から発展して、文学作品が生まれるというのは驚異だが、「学ぶ」ことの激しい意欲がほとばしる。また読者にも「学ぶ」事の意味、その素晴らしさを身をもって感じさせてくれる。この本に行く前に、ヘレン・ケラーは全人生で何をやったかをまず紹介したい。リチャード・テームズの「ヘレン・ケラー」(国土社)を参照する。この本は児童書であるため簡潔である。ヘレン・ケラーは、1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州の小さな町タスカンビアに生まれた。父親は新聞の編集者、のちに連邦保安官になる。南北戦争の時には南軍の大尉をつとめた。母親は裕福な家庭で育った気品のある人だった。1882年ヘレンは病気になり、熱が引いたとき、ヘレンの視力と聴力が奪われた。原因不明の病気で目が見えず、耳も聞こえなくなった。この暗闇の世界でヘレンはもがいた。まるで獣のような振る舞いで、足でけったり、かみついたり、両親はどうしていいかわからなかった。父親のアーサー・ケラーはワシントンに住んでいるアレグザンダー・グレアム・ベル博士に手紙を書いた。電話の発明者と知られるベル博士は妻と母親がともに耳が不自由だったため、聾唖者問題に関心をもっていた。ベルはボストンのパーキンス盲学校のアナグノス校長に相談してみては、とアドバイスをくれた。ケラー大尉はさっそく手紙を書くと、アナグノス校長は、アニー・サリバンという教師を見つけてくれた。アニーの両親は、アイルランドからの移民だった。大飢饉に見舞われた祖国を逃れてアメリカにわたった。アニーは5歳の時トラコーマという眼の病気にかかり視力がおちていた。8歳の時母親が亡くなり、その後救貧院に送られた。14歳の時、学ぶことにあこがれ、ボストンのパーキンズ盲学校に入学を許された。貧しく、勉強もできず、行儀作法も知らないからと、他の生徒たちにばかにされたが、やがて、芯の強い、しっかりした女性であると周囲は理解するようになった。20歳の時、アニーはパーキンス盲学校を首席で卒業する。アナグノス校長はアニーについての手紙をケラー大尉に送った。ボストンからアラバマまで2280キロ。アニーは何日もかかる旅をしてケラー家に到着した。アニーはすぐにヘレンが癇癪もちで強情なことに気づいた。この野生児にどのように接するかは分かっていた。まず「規律」を教えることだ。アニー・サリバンの教育方法、ケラーの学び方については「自伝」の紹介(次回、第2部で)する。ケラーは大学卒業後、25歳の時、マサチューセッツ盲人救済委員会の委員に任命される。ヘレンは社会運動に関心を持つようになり、女性の権利や厳しい生活をしている黒人についての意見を持つようになった。33歳の時、社会主義についての自分の考えをまとめた「暗闇より出でて」という本を出版した。ヘレンは発声訓練を続け、人前で話ができるまでになった。各地に講演旅行に出かけた。これは生活費を稼ぐためでもあった。「自伝」は相当売れた。ハリウッドから映画化の話も舞い込んだ。映画は「救済」というタイトルがつけられた。しかし、あまり収益は得られなかった。ヘレンとアニーは演芸の舞台に立つことになった。コメディアンやダンサー、手品師などが加わる舞台だった。1921年、盲学校の数を増やし、点字の本を出版することを目的といてアメリカ盲人協会が設立された。ヘレンも協会の活動に賛同し、各地を回って講演をし、寄付金を集めた。この間に「わたしの宗教」という本を出版している。この本はエマニュエル・スウェーデンボルグについて書かれている。スウェーデンボルグは、神の存在は論理と科学によって証明されると主張している宗教家だ。アニーは視力が衰え始め、片方の眼を摘出手術を受けている。1931年からヨーロッパを旅している。1933年には、アニーの伝記が出版されている。アニーは残された眼の手術をしたが、失敗に終わり、手術後、70歳でこの世を去った。アニーの後継者はポリー・タムスンが担った。1937年、ヘレンはポリーと日本を訪れた。日本各地をまわり、天皇皇后にも対面した。日本政府は障害者に対する政策を作ることを約束した。1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。日本はハワイの真珠湾を攻撃した。戦争では多くの身体障害者を生み出した。ヘレンはこうした兵士を見舞うことを自分の仕事と考えた。負傷兵の慰問はヘレンに広い社会への眼を開いた。再度、日本訪問は広島、長崎の被爆者に会うことだった。ここで核兵器廃絶を誓う。1957年にはヘレンを描いた演劇「奇跡の人」が上演された。映画化もされ、アカデミー賞も獲得した。1960年、ポリー死去。ポリーの死後ヘレンは外に出ることがなくなった。1968年6月ケラーは息を引き取った。87歳だった。ぶどう社版「ヘレンケラー自伝」は次回に。
2025.07.06
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哲学、思想の学問は、どうしても西洋の学問に偏りがちである。デカルト、カント、マルクスを読まなければと思う。日本には哲学、思想はなかったのか。その上に、哲学、思想というとまず難解さが付きまとう。放送大学の「原典で読む日本の思想」という科目がある。講師は東京大学大学院教授の頼住光子先生である。頼住先生は道元の解説書を角川文庫で出されている。本屋ですぐ目に付く本であるが、道元など恐れ多くで手に取るのをためらってしまう。この科目の中にも道元を扱っているが、道元の禅の思想を短い時間の中で実にクリアに解説されている。座禅会の導師の説明を聞くが、半分分かったようで、どうもさっぱり理解できない、という方は、この講義で心身脱落するであろう。頼住先生は、和辻哲郎が開拓した日本倫理思想史を専攻してきた。さて頼住「思想史」とは、どんなものか。その特徴は、この科目のタイトルに表れている。「原典で読む」というところである。テキスト上の限界があり、全文ではない。一文、あるいは数行の文章を取り上げて、それを深く読むことで、その作品の思想の全体を捉えようという試みである。全文は各自それぞれ読んでください、ということである。各章の終わりに大量の参考文献が挙げられている。放送大学の授業はたった45分、これで終わりと思ったら甘い。この参考文献を一つでも二つでも読むことが大学の学問である。日々の活動や仕事があり、時間が限られている。中高年はさらに病院やらリハビリ、デイサービスなどに追われている。幸いなことに文献の中に文庫本が多く紹介されている。これなどは入手しやすい。普通の日本思想史とは違い古事記、万葉集、謡曲等の文学作品が入っているところが頼住思想史の特徴だ。万葉集などは文学作品として読む場合は作品の解釈が中心になる。この授業では、万葉集を素材として歌や和歌はどうして生まれてきたか、その起源とは何かが問題になる。文学作品の他に宗教、とくに仏教思想が問題とされる。万葉集の章(第5回)では、芸術、文学の発生について祭祀(さいし)が重要な場であったことが論じられる。祭祀とは神や先祖をまつることである。祭祀において神は自らの来歴を語り、人々に諭(さと)しを与える。一方、人々は共同体の繁栄と除災を祈願し、捧げものをしたり、踊ったり、歌ったりして神からの恵みを引き出そうとする。ここでの言葉は日常の言葉とは違い、一定のリズムを持ち、対語(ついご・意味が対照的な語、白黒、上下等))や繰り返し等の特殊な言葉である。現在では神が人に与えたり、人が神に奏上したりする言葉としては「のりと」がある。「のりと」には宣命体と奏上体がある。宣命体は神が人に「のる」ことで、奏上体は人が神に申し上げる形となる。神の降臨を定期的に繰り返し再現する儀礼の中で共同体の中で伝承され、これが和歌の母体となっていった。この韻文の神謡が古代の貴族社会に取り込まれ、儀礼や宴会で歌われるようになる。この中で新作が作られるようになり、自己の内面の感情を吐露する歌が作られるようになる。口承によって共有される歌謡から特定の作者によって書かれる歌(和歌)が制作されるようになる。万葉集は、この過程が見られる歌集なのだ。頼住思想史は、その個々の歌を分析し、この過程を見せてくれる。単なる万葉秀歌ではない。第7回で禅と道元について述べられるが、前史として、仏教とは何か、日本人は仏教をどう受け止めたかがあるが、本ブログでは略す。道元は中国の曹洞宗を日本に伝え日本曹洞宗の開祖となった。道元は源通具(みちとも)の子として上級貴族の家に生まれた。14歳の時、比叡山の天台座主公円に就いて出家する。比叡山の教学に飽き足らず山を下りる。天台本覚に対する疑問だった。さらに禅を本格的に学ぶため、当時中国は宋の時代、中国曹洞宗の天童如浄に入門、ここで座禅を組み、心身の執着を離れ解脱した。28歳で帰国した道元は中国で学んだことを「普勧座禅儀」にまとめた。京都深草に興聖寺を開き、教団の運営と布教に励んだ。44歳の時、京都を去って越前国に下向した。そして永平寺を開く。弟子の指導に打ち込み、主著「正法眼蔵」を執筆した。建長5年、病を得て、永平寺住職の座を懐奘(えじょう)に託し、京都に行ったが、そこで54歳で入滅した。遺偈は「五十四年、第一天を照らす。箇のボツ跳を打(だ)して、大千を触破(そくは)す。いい。渾身覓(もと)むるなく、活きながら黄泉に落つ」というものだった。テキストにはこの偈の意味は書かれていない。放送授業で説明される。大まかに捉えれば「54年の生涯で、天の最高の世界を照らす。今、ここでひと飛びして、三千世界打ち破る。全身求めるものなく、生きながら地獄に落ちる」。なんとも凄まじい生き方である。中国まで禅を学びに行き、比叡山の圧迫をはねのけ、鎌倉北条時頼政権に見向きもせず、永平寺の厳しい禅行を打ち立てた道元。「正法眼蔵」冒頭は、「仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするる也。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。これも非常に難しい文章だが、あえて大まかに捉えるなら、「仏道修行とは、自分が何であるかを追究することだ。それは自分に対する執着をなくすことだ。自分は万物によって悟らせられているので、執着がない。自分はあらゆる存在によって悟らせられているということは、自分と他のものが別々のものでなく、互いに成り立たせつつ、このような自分として存在している」世界のあらゆる存在はつながり、関係して存在している。このことを仏教用語では「無我」あるいは「空」と表現している。なんとも難しい議論ではあるが、この講義一回聞いて分かろうと思ってはいけない。幸いなことに放送大学は同じ授業を何回もネットで聞ける。普通の大学とは違う特徴だ。この授業は3回聞くことをお勧めする。道元に関する参考文献頼住光子「正法眼蔵入門」角川ソフィア文庫水野弥穂子訳「正法眼蔵隋聞記」ちくま学芸文庫
2025.06.01
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宮沢賢治は文学史の上では重要な詩人、作家とされている。しかし、その難解さに困惑してしまう人が大半であろう。「雨ニモマケズ」などは誰でも知っている有名な詩もある。なぜ難解なのかが分かる講座に出会った。ほとんどの文学愛好家は仏教についての知識がないこと。宮沢賢治の場合は仏教、特に法華経の知識がないとほとんど解釈できなくなる。仏教哲学のほか宇宙や土性学、地質学、物理学、岩石学等のマルチタレントを賢治は持っていた。文章のなかに、これらの専門用語が入ってくると、読者はお手上げになってしまう。童話は動物や樹木等の自然物が会話をする擬人的表現で楽しめる人にはすんなり入れるのだろうが、変だと思う人には拒絶感を抱いてしまう。生前、出版された本は2冊のみ。1冊は自費出版だった。賢治の詩の真価を認めたのは草野心平だった。現在では全集が刊行され、小学校の教科書に掲載されるようになっている。本屋さんでたまたま見つけたのは、「NHKこころの時代」という宗教の講座のテキスト「宮沢賢治ー久遠の宇宙に生きる」だった。一昨年(2023年)の放送された再放送だった。講師は北川前肇(ぜんちょう)さん。立正大学教授で日蓮宗妙揚寺住職をされている。内容は宮沢賢治を題材にした法華経入門である。仏教入門も兼ねている。宮沢賢治は明治29年(1898)8月花巻市豊沢町で宮沢政次郎とイチの長男として誕生した。宮沢家は質店と古着商を営んでおり、地元では名の知られた裕福な家だった。家は浄土真宗の門徒であり、正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)や白骨の御文(おふみ)を賢治は暗誦していた。小学校や中学では鉱物や植物の収集に熱中していた。仏教への関心は深まり講話を聞きに行ったり禅寺で座禅の修行もやった。浄土真宗の島地大等(だいとう)の編輯した法華経の本を読み、感動して身体が震えるほどだった。賢治が心酔した法華経とは、いったい何か。法華経は「妙法蓮華経」の略称で、サンスクリットでは「サッダルマ・ブンダリーカ・スートラ」といい、インドから中国に伝わり406年に後秦の首都長安で鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳し、日本には飛鳥時代に伝わった。法華経は長編のお経(岩波文庫は3巻本、春秋社版の日本語訳では上下2段組で400ページ)で、道元は「諸経の王」と称した。内容は釈迦がインドのマガダ国の霊鷲山(りょうじゅせん)で行った説法である。たとえ話や詩、人物が空を飛ぶ、地中から僧侶が湧き出すという奇想天外な話が連続する、筒井康隆もびっくりするような話である。最澄が建立した比叡山延暦寺は天台教学と法華経を学ぶ。法然、親鸞、道元、日蓮といった鎌倉時代の祖師たちは比叡山で天台教学を学んでいる。日本の古典文学の「源氏物語」の紫式部、「方丈記」の鴨長明、「徒然草」の兼好にも影響している。日蓮は法華経を根本経典として日蓮宗を開いた。宮沢家では浄土真宗を信仰していたが、賢治は法華経に出会い、「南無阿弥陀仏」という念仏から「南無妙法蓮華経」という題目へと変わった。この変化で父親との口論が激しくなった。家の中で2つの宗派が対立したのだ。大正10年1月、たまらなくなり賢治は家出をし、東京に向かう。上野の国柱会の高知尾智耀(ちよう、智学とも)に会い、国柱会入会を申し込む。国柱会とは日蓮宗から独立し法華経を伝道する団体で、政治的には右翼的な組織である。賢治はどうして、こういう組織にかかわったか不明である。しかし高知尾のアドバイスが賢治の文学創作の熱源になった。「文学作品に法華経信仰がにじみ出るようでなければならない」。賢治自身が「法華文学ノ創作」と書いている。猛然と執筆活動を開始する。妹トシが花巻で発病したのを機に大きな茶色のトランクに原稿を詰め込んで帰ってきた。東京生活は8か月だった。宮沢賢治全集の3巻分の量の原稿がトランクの中に入っていた。しかし、この原稿は発表される当てもなく、トランクは宮沢家の蔵の中に置かれていた。初期作品集「春と修羅」を仏教的に解釈するとどうなるか。わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です(ひかりはたもち、その電燈は失われ)普通に読むと何を言ってるのかよくわからない。法華経に基づく人間の存在論である。まずタイトルの「春と修羅」であるが、「修羅」は「阿修羅」の略で、阿修羅とは常に戦闘している悪神である。天台教学では人間の境地を十にわけ、もっとも安らげる境地を「仏界」と称する。その下に菩薩界、縁覚界、声聞界とする。ここまでがさとりの世界。さらにその下に天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界という迷いの世界があり、これを六道という。この十界は人間の心中にすべて備わっている境地だと考えられている。人間には仏の世界もあれば修羅の世界もあり、地獄の世界もあるということだ。ここからが法華哲学だが、十界の一つ一つの世界には他の九つの世界がそれぞれ具有されている。十界×十界で百界になる。百界は「十如是(十種の真実相)を備えているので千如是。さらにそれぞれが「三世間(現象世界)」にわたっているところから「三千世間」という。この三千世間が宇宙の中のすべてを含んでおり、われわれの一瞬の心の動きの中に含まれている。これを一念三千という。「春と修羅」というタイトルに戻ると、「修羅」が偽りに満ちた世界とすれば、「春」はそれとは反対の仏界を表している。「わたくしという現象」という表現は、自分という人間は「一つの現象」であると捉えている。仏教の基本思想は「諸行無常」で万物は移り行くという意味である。仏教用語で、とてつもない長い時間を「劫(こう)」といい、一瞬の短い時間を「刹那(せつな)」という。人間は自分のことを連続して存在していると思っているが、次の瞬間に消滅し、また次の瞬間に生まれている。まさに明滅しながら、ともりつづける「照明」のようだ。一瞬一瞬、消えては生まれる私たちの心は「有機交流電燈」の照明が明滅しているようなものだ。賢治はこの瞬間に生きる自己を認識しようとする強い意思を詩表現に賭けている。人間はいつか必ず死ぬ。それならばこの一瞬、一瞬に全力投球して生きるしかない。それが「無常」という教えの意味である。「雨ニモマケズ」という詩に「ミンナニデクノボートヨバレ」という詩句がある。「でくのぼー」とは何か。漢字では「木偶の坊」で「操り人形」のことで、一般的には役立たずということを表す。浄土真宗の開祖・親鸞は自分のことを「愚禿親鸞」と称している。当時の権力者から迫害され、僧籍も剥奪された状況から自己を顧みての自己認識だろうが、宗教者としては尊い存在としてのお釈迦様に比べれば、自分は「愚者」であるという表明なのだろう。法華経では巻七に「常不軽菩薩品」の話がある。「常不軽」(常に他者を軽んじない)という出家者がいた。「わたしはあなたを深く尊敬します。けっしてあなどることは致しません」と言って他者を礼拝していた。しかし出家のお仲間は、彼を馬鹿にし、石をぶつけ、杖で彼をたたいた。常不軽菩薩はひるむことなく修行を続け、ついに悟りを得たという。賢治は「デクノボー」に、この話を重ねているのかもしれない。放送大学には「宮沢賢治と宇宙」という不思議な科目がある。文学系と自然科学が混じっている。初めの3回は宮沢賢治論であるが、4回目から宇宙論である。文科系の人間には、さっぱりわからない講義がつづくが、突然「銀河」の話になる。テレビ画面に銀河の映像が映される。平べったい形に中央が盛り上がっている空飛ぶ円盤のようだ。「銀河鉄道の夜」を思い出す。この銀河の中を走る鉄道なのだ。賢治の想像力のすごさが実感される。「天文学」の本をよんでいなければ、思いつかない。「アンタレス」、「プレシオス」、「昴の鎖」等の天文用語が次々でてくる。とても「木偶の坊」とは思えない。参考文献「NHKこころの時代 宮沢賢治ー久遠の宇宙に生きる」NHK出版図書館で「宮沢賢治」、「法華経」で検索すると大量の関連本が出てくる。
2025.05.04
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昨年(2024年)暮れにWindowsメールが突然使えなくなった。有料版officeのoutlookは(new)という記号が入り、入れ替わった。もちろん旧のoutlookを使っている人もいるだろう。outlook(new)は全く使い方が変わり、戸惑っている人もいるだろう。今、出ているoutlookの解説書は、ほとんどが旧(クラシック)のもので、(new)には使えない。そのうち新しい解説書が出るだろう。詳細はそちらで参照していただくとして、ここではメールの送受信の最低限の情報をお知らせする。outlook(new)の一番の変化は、受信メールのトップに広告が入ってくることである。物の値段が上昇しているので、Microsoft社も収入を上げる必要を考えたのだろう。この広告は無視すれば、いいのだが、どうしても邪魔だと思う方は、有料で「広告なし」も選択できる。outlook(new)を立ち上げると、インターネットにつながっていれば、自動的に受信メールが入ってくる。旧(クラシック版)の「送受信」はなくなり、(new)では、表示タブの「同期」をクリックすると、送受信になる。まず、メールの送信方法から説明する。ホームの「新規メール」ボタンを押すとメッセージを書く画面が現れる。「宛先」をクリックすると「受信欄の追加」が表示され、「連絡先」をクリックすると一覧が表示される。送信する相手の名前の右側に+(プラスマーク)をクリックして、「保存」をクリックすると、宛名欄にアドレスが入力される。後はタイトルと本文を入力して、「送信」で終了である。宛先欄に直接メールアドレスを入れることも可能。連絡先を開いて、宛名をクリックすると、宛名の情報が開かれ、そこからも送信できる。メールの返信は相手のメールを開いて、画面右上の「戻るボタン(一番左)をクリックすると、返信画面になる。添付ファイルは、挿入タブから「添付ファイル」をクリックする。「このコンピュータから選択」で、例えばデスクトップにファイルがあれば、それを選択する。相手のアドレスをアドレス帳(連絡帳)に登録するには、相手のアドレスの上で、右クリックして、3つの点が並んでいるところを右クリック、「連絡帳に追加する」で、出てきた画面で相手の名前、その他の情報を入れる。連絡帳の編集は、画面左の連絡帳(人型のマーク)をクリック。「すべての連絡帳」をクリック。編集する連絡先を選び、「編集」ボタンを押す。表示された項目を編集し、「保存」ボタンをクリックする。「名前フィールドの追加」をクリックすると、フリガナやニックネームなどを追加できる。以上で、ほとんどのメール作業はできるだろうが、さらに詳しくは以下の解説ページか、これから出される解説書を参照されたい。メールの自動分類とか、様々な機能がある。これから、新規にofficeを購入される方は、ホームエディションにはoutlookは入っていないので注意が必要である。outlookにはプロバイダーメールを導入できる機能がある。Gメールもoutlookから利用できる。これで気づくのは、OCNやソネット等のプロバイダーメールを使っている人は、実はoutlookのベースに乗って利用しているのかもしれない。ocnやソネットの契約を取り消してもメール利用は可能ということだ。ただし連絡帳の移動や契約解消の面倒な作業が必要になる。ocnやソネットの連絡帳のデータを一旦外に出し、それをoutlookに取り込めばいいのだが、高度な知識が必要だ。プロバイダーメールのソフトを削除しなければ、outlookでそのまま利用可能だ。富士通のoutlook(new)の解説ページhttps://www.fmworld.net/cs/azbyclub/qanavi/jsp/qacontents.jsp?PID=0711-3743
2025.04.06
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書店で「NHKテキストナビ2025春」というガイドが配布されていた。無料である。新しい番組や中止になるものの案内である。NHKの語学は、コストパーフォーマンスが抜群である。テキスト1冊が600円台。あとはラジオかテレビで視聴するだけである。申込手続きなど必要ない。しかし1回聞いただけでは、ほとんど物にならない。これをどう利用するか、学習する側の必要度、力量が試されてしまう。「ナビ」からポイント情報を抜き出してみる。「ラジオ英会話」:講師、大西泰斗。定番の英会話番組。文字が大きくなり紙面を刷新した。別に「サブノート1日1文集中トレーニング」というテキストが販売されている。1日1文に集中して音読、書くという体を使ってのトレーニング教材である。「英会話タイムトライアル」:講師スティーブ・ソレイシイ。日本語を即英語にするというトレイニング。瞬発力を養う。「ラジオビジネス英語」:講師、柴田真一。仕事で英語が必要な方向け。ビジネス英会話、英文メール、ゲストのインタビュー。実践向き。「中学生の基礎英語、レベル1,2」:英語としばらく縁がなかった人が英語をやってみようと思ったら、ここからスタート。「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」:多読多聴を狙った番組。1回5分のミニ番組だが、毎日少しづつ英文が読めるようになる。ある程度の基礎があることが必要。「会話が続く!リアル旅英語」:これはテレビでの新番組。海外旅行を考えている人にとっての必須の英会話。アメリカ現地ロケで各地を旅しながら現地の人と会話していく。旅先での聞き取りづらい会話を重点解説していく。早口、なまりに慣れよう。これはNHKプラスで何回か視聴することで再学習可能である。残念なのは「基礎英語 in English」が、この3月で終了してしまうことだ。「基礎英語」とはいうものの、オールイングリッシュで、まるでアメリカの語学学校の授業のようだった。テキストはすべてのスクリプトが掲載されているので、聞き取れなかったところはテキストで確認できる。しかし単語の説明も英語であるので、相当手ごわいものだった。講師は東海大学のゲーリー・スコット・ファインさん。相当長い会話文をもとに日本人にはわかりづらい単語、フレーズを英語で解説、課題として内容をまとめる(サマリー)というものがあった。週の後半はアジア各地の英語の達人を招いてのチャットという構成で、英語が世界語になっていることを実感せしめた。面白いのは英語の達人といえども間違いがあるもので、語学番組としては異例だが、そのまま放送されていた。テキストには修正が施されていた。これがヒアリングだけでわかるレベルになれば、海外の語学学校で勉強できる資格になる。終了になる番組は、テレビ「英会話フィーリングイングリッシュ」、ラジオ「ステップアップ中国語」、「ステップアップハングル講座」。CDとダウンロードチケットは販売中止になる。「テキスト音声」は、4月からはNHK出版のウェブサイトで購入できるようだ。「ナビ」には、その他、多言語テキストの案内や趣味・教養のテキストの紹介も出ているので近くの書店で入手ください。新語学番組の紹介だったが、あえてこれらの新番組を聞かないで勉強する方法を提案したい。それは、すでに長い間、学習されている人は、すでに過去のテキスト、音声テープ、CDをお持ちの事と思う。それらを活用すれば費用はゼロである。語学は、繰り返すことが要諦だ。CDであれば、ある語学の先生は、短い文章、英会話のスキットはCDを90回くらい聞けと指導している。耳に焼き付けるという精神だ。そして音読。これも相当回繰り返す必要がある。あとは英文筆写、書き写すのである。これは漢字の書き取りと同じである。中高年になると、相当漢字を忘れ、いざという時、書けないという事態になる。語学は頭の体操と思って楽しめばいい。
2025.03.02
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森田正馬と聞いて知ってる人は多くはないだろう。森田療法というのは、どこかで聞いたことがある感じかもしれない。高知県の人でも坂本竜馬は知ってるけど、森田正馬は忘れられた人だろう。森田は高知県に生まれた。帚木蓬生(ははきぎほうせい)の書いた「生きる力ー森田正馬の15の提言」(朝日新聞出版)は森田正馬の15のことばの意味をわかりやすく解説し、森田療法の真髄を明らかにしている。精神を病んでいる人はもちろん、一般の人の人生を豊かにする心のとらえ方を教えてくれる。帚木は精神科医であるのと同時に小説家でもある。この二つの視点から森田正馬(まさたけ、通称しょうま)の人生を浮き彫りにする。「森田正馬が語る森田療法」(岩田真理著、白揚社)は、「森田正馬全集全7巻、白揚社)を編集した岩田が森田療法の真髄をまとめたもの。正馬の故郷の高知を訪ねるところから始まる。「自覚と悟りへの道ー神経症に悩む人のために」(森田正馬、白揚社)は、形外会(正馬の家で行われた悩み相談会)で行われた相談の内容を記録したもので、対人恐怖、不眠症、どもり、読書恐怖、不潔恐怖等の神経症に対する正馬のアドバイスが網羅されている。病院へ行かないで、これを読むだけで、ほとんどの神経症は治癒してしまいそうな正馬の指導だ。この3冊から普通の人が充実した人生を歩む法則を引き出してみる。主に帚木の「生きる力」を参考にする。まず、森田正馬とは、どんな人だったか。正馬は明治7年土佐の素封家の息子として生まれる。幼少時に寺の地獄の絵を見て、死の恐怖に取りつかれた。ちょっとした体の違和感に病気ではないかとびくびくするような神経質な子供だった。父は小学校の臨時教員を務め教育熱心だった。勉強を強いられた正馬は学校嫌いになり不登校になった。中学に入学した後も家出をしたり、腸チフスになったりで、落第。同級より二、三年遅れて卒業した。熊本の第五高等学校進学には、父親の反対にあい、大阪の医師の奨学金を得て入学を果たす。22歳で従妹の久亥(ひさい)と結婚。結婚を前提に学費を出すという父親の約束があった。24歳で五高を卒業し、上京して東京帝国大学医学部に入学するが、神経質の傾向は続く。医師を訪れると「神経衰弱兼脚気」と診断される。体調はよくならず、父親からの学費も送金されず自暴自棄になる。身体の懸念はそっちのけで勉強に打ち込む。不思議なことに体調はよくなった。28歳で大学を卒業し、精神科の医局に入局。指導教授は、日本の精神医学の生みの親、呉秀三だった。すぐに東京府立巣鴨病院に勤務する。同時に東京慈恵会医院医学専門学校(後の慈恵医大)で精神医学の講義を担当する。この時の服装は詰襟の洋服で、用務員とまちがわれた。45歳の時、自宅に患者を入院させるようになる。ここであみ出されたのが森田療法という独特な治療法だ。患者は1週間から10日、絶対臥褥(がじょく)を言い渡される。ずっと寝っぱなしで、洗顔、食事、入浴以外は誰とも口を利いてはいけない。自分の不安、恐怖に直面させられる。次の1週間は軽作業期で庭の自然の観察や古事記の朗読などをさせられる。自分にばかり関心を向けていたものを外の世界にふれさせる。第三期は重作業期。障子張り、炊事、配膳、鶏小屋の世話、庭掃除、便所の汲み取り作業などがあった。東京の真ん中で汲み取りとは患者は驚いてしまう。正馬は号を形外(けいがい)と称し、患者の集まりを形外会と命名した。夜、座敷に集まって正馬の話を聞き、質問ができた。第四期は社会復帰期で買い出しに行ったり、外泊も許された。投薬はほとんどなく、まったくの精神療法だが治療効果は非常にあった。患者の症状は、赤面恐怖、読書恐怖、不潔恐怖、吃音恐怖、字が震える書痙(しょけい)などである。正馬の指導とはどんなものだったか。その言葉は一般の人にも「生きる力」をエンパワー(力づける)ものだった。帚木は15の言葉を説明する。指導の実際を経験すれば、即わかるものだが、言葉で説明するのはむずかしい。帚木は小説家である。小さなプロット(小話)を重ねるという手法をとる。一つ目は「一瞬一生」である。一瞬を一生と思えということであろうが、何のことかわからない。そこで山口県の長門市にある小さな美術館の話からはじまる。この美術館の入口に自然石の碑に刻まれている言葉が「一瞬一生」である。この美術館の絵画は香月泰男(かづきやすお)のもので、シベリアに抑留された経験のもとの画業である。画家は、一つの画面に一生をかけている。一筆の線に一生をかける。どの絵をみても、その情念が伝わってくる。人生を常に一瞬にかけて生きていく強さをもつと人生そのものが強靭になる。今の一瞬一瞬に命を懸け、重荷を一つ一つ解きほぐしていけばいい。正馬の体得した「生きる技術」もこれだった。森田療法の特徴は、患者の過去の来歴を一切問わないことだ。通常の精神療法では成育史や親子関係を重視し、そこから現在の症状の原因を探ろうとする。森田療法は過去を問わず、現在の生きざま、動きのみ問題にする。悩みはたくさんある。それはさておいて、生きている今の瞬間に一生をつぎ込んでいく。このことが「一瞬一生」という言葉の意味である。第二の要諦は「見つめる」である。これも何のことか意味不明である。帚木は、意表をついて「文章を書く力は、どうやって養われるか」と問うてくる。普通は「読む力」と考えるが、帚木は「良い文章を書く力は、見つめる習慣から生まれる」、と説く。文章が上手な人の職業をよく見ると、たいていは「見つめる人」であると、証拠をあげる。たとえば「画家」である。具象画家であれば、眼の前の風景、人物を見つめ続ける。見つめる過程で頭が澄んでくる。論理がクリアになり、言葉が洗練されてくる。写真家も同じ。新聞社では写真部員も写真に添えた文章を書く。記者の文章より写真に添えた文章の方が名文であることもしばしばである。視力障碍者の場合はどうか。見る代わりに聴く。「聴き入り」「聴き詰める」。「考える」行為は案外、実を結ばない。人前でスピーチをするとき緊張する。これは自分を見つめる行為で自然な働きである。にもかかわらず、緊張してはいけない、という「考え」が入ると、人前でのスピーチを避けるようになる。緊張する場面では当然、緊張する。この「当然」に余計な考えが入ると、正馬が表現する「悪智」になる。不可能を可能にしようと考えることを「悪智」という。森田療法では絶対臥褥を終えた後、患者が命じられるのが「庭の観察」である。草や花、飛んでくる鳥、虫などを眺めさせる。不眠を訴える患者には、正馬は、悩まずに、不眠を「見つめよ」と言う。森田療法の第三期から四期は、休む暇のないほどの日課が組まれている。これは禅僧の修行方法から取り入れたのかもしれない。禅僧は朝は4時に起き、布団を片付け、歯を磨き、用を済ませると本堂に行く。朝の読経を大声で行う。5時ころ、粥座(しゅくざ)という朝食を食べる。梅干し、漬物、たくあん、粥ときまっている。6時から老大師と独参という禅問答が行われる。一つの公案を何度も質問され、それに答えなければならない。独参が終わると、朝の掃除である。境内を掃き清め、庫裏、書院などを掃除して、雑巾がけである。それが終わると作務(さむ)という労働が入ってくる。これはまさに肉体労働である。石を運び、雑木を切り、障子張り、窓ガラスを拭く。10時ころ、昼食。これも粗末なもので毎日、同じ。午後の仕事が始まる。こんな日常を何年もおこない、禅僧は無念無想の境地を目指す。休む暇もないほどの作業が続く。悩んでなどいられない。この作業が体を鍛えていく。7つ目の要諦は「無所住心(むしょじゅうしん)」。これも字義からして何のことか、わからない。帚木は宮本武蔵の「五輪書」の剣の極意から話を始める。武蔵は、心の置き方を「一点に注意を集中させず、眼もどこかを見つめるのではなく、満遍なく相手の総体に注意をはらう」。こういう心構えが「無所住心」だと説く。正馬も日常の所作として重視した。帚木は練達の看護師や介護士は。この無所住心を実行しているという。いくつか紹介したが、帚木の本では、あと十いくつ提言が説明されている。興味ある方は同書を参照してほしい。岩田真理の「森田正馬が語る森田療法」(白揚社)では、サブタイトルに使われる「純な心」が一章を使って説明されている。これもわかりずらい概念だ。この「純な心」の体得が森田療法の核心という。岩田の説明では「正馬は<純な>という言葉で、「美しい感情」「良い感情」という意味のことを表現したわけではない。彼は、理屈などの夾雑物などが入り込まないという意味で<純な>という形容詞を使っている。」「常に自分を厳しく裁き、だからこそ他人の視線に過度におびえ、また過度に称賛を求める神経質の患者に、森田は他人の感覚や他人の評価でなく、自分の感覚自分の感情を拠り所に生きることを教える。つまり本来の自分に返る事、自分を欺かないことである」。「純な心」を感じることで、観念から解放された自由な瞬間を得る事ができる、という。この心の体得が森田療法のゴールとされる。「自覚と悟りへの道」(白揚社)は森田療法の治療を受けている患者の夜の座談会を記録したもので、正馬の深い指導による人間教育の足跡がみられる。窃盗恐怖と不潔恐怖に悩む人と森田正馬の会話の要点を紹介する。「往来で煙草の吸い殻が落ちているのをみると、それを自分が盗んだと人に思われはしないかと恐怖した。学校付近で家に着物を干してあるのを見ると、それを盗んだのではないかと恐怖し、家に帰ってからも安心できないので、電車に乗って見に行き、それでも安心できないので、夕方、家のものを連れてさらに見に行く、というふうでした。また不潔恐怖になり、自分の手や身体に不潔なものがつきはしないかと極度に恐れました。正馬はこれに対して、次のように答えた。「みなさんは、このような話を聞くと、ずいぶんばかげたことと思われるかもしれません。しかし、それは自己観察が足りないからでありまして、私どもの心は少し深く自分で観察してみれば、お互いにいくらも違わず、このような気持になることはたびたびあることです。それを一番簡単に体験することができるのは、夢を見ているときです。煙草の吸い殻を盗むという気持は、普通の人の場合、目が覚めているときにはめったにおこりませんが、夢の中ではそんなことはいくらもあります。夢を見ているときの精神状態には周囲にたいする見境がないからでありまして、ただ気分だけに支配されているからであります。だから、私どもの日常生活におきましても、気分本位、感情本位の考え方にとらわれ、それをどこまでも推し進めてゆくと、しまいには夢を見ているのと同じような状態になってしまうのであります。夢を興味をもって観察するならば、人間心理の奥の奥がわかるようになるのです」まるで「夢の心理学」の講義である。正馬の講話には仏教用語が多く出てくる。当時の精神医学の段階は専門用語が確立していなかったため、仏教用語で代用していたという事情がある。ここで紹介した本は図書館に置いてあるので、詳しく知りたい方は図書館で参照されたい。
2025.02.02
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あけましておめでとうございます今年も「中高年の生涯学習」、よろしくおねがいします。今回は過去多く読まれた記事を採録します。ある風変わりな酒場です。テレビの酒場訪問記では行かないような所です。残念ながら現在は店を閉めています。40数年前、初めて勤めた会社は、東京・飯田橋駅近くにあった。小さな会社で給料は、やっと食べていけるだけ。月末になると財布の中は空っぽの状態であった。駅近くの交差点を渡って路地に入ると、ちょっと変わった酒場があった。会社の先輩に連れられて、その酒場に行った。昭和レトロなんてものでなく、戦前に戻ったかと思われる風情である。しもた屋風の平屋で玄関のところに「手相酒場」と書かれた赤ちょうちんがぶら下がっている。入ると土間の横が畳敷きになっており、客はそこで飲み食いする。飲み食いといっても、出てくるのは日本酒と豆腐だけである。他の物を注文すると「帰ってください」と追い出される。酒1合と冬は湯豆腐、夏は冷奴がついて、当時のお金で100円であった。歌舞伎座の立ち見が学割で50円、近くの名画座の入場料が100円で、金のない安月給人にとって100円という金額は相当な出費である。その上、この手相酒場は酒3杯飲むと手相を無料で見てくれるというプレミアムが付いていた。この手相が妙に当たるという評判もあった。酒場のご主人は60代から70代のおばあちゃん。和服を着て、一人で店を切り回していた。髪は肩切りのおかっぱで片眼が曲がっていたので失明していたのかもしれない。しかし、そんなことは面と向かって聞けないオーラがあった。なにしろ本業は占い師という背景は恐れ多い。店は夕方6時開店。夜10時には店を閉めてしまう。客は付近の大学生、安サラリーマン、出版社の多い所なので編集者。大学は法政、理科大、早稲田、医大、神田周辺の学生だ。つまみを含めて200円で間に合ってしまう酒場はめったにない。六大学野球が終わると「手相酒場」は、第2ラウンド、延長戦の場になる。当時、法政には江川、田淵という強力な選手がいた。早稲田にとって当面の敵は慶応ではなく、法政だった。野球のある時は、野球終了に合わせて店を開けた。おばちゃんの管理は絶対だ。喧嘩はご法度である。校歌放吟は許された。他の客にとっては迷惑のことであったが、ここの土地柄であるので、どうしようもない。早稲田は「都の西北…」とやる。法政は?、あれ、校歌なんてあったっけ? バリケードの中で「大学解体」を論じてた奴が校歌なんて歌うのか。しらけてしまうので、早稲田の替え歌を作ってやり返す。「都の真ん中、我らが母校…、ホーセイ、ホーセイ」とだみ声で張り上げる。畳敷きの奥の窓を隠すように、読めない達筆の書が屏風に置かれていた。この屏風があることで文学的ムードが醸し出され、狭い貧相な部屋が異空間であるように演出された。四文字書かれているのはわかるが、絵のようで文字には見えない。筆の勢いは雄大で生きて迫ってくるようだ。おばちゃんに聞いてみた。「漱石の「則天去私」ですよ。私の祖父が、ある書家に書いてもらったもので、譲ってもらいました。天に則り、私を去る、ということでしょう。漱石の小説家として行きついた理想らしいのです。文学者らしからぬ言葉ですね。禅のお坊さんのようです。」おばちゃんの言葉はどのくらい正しいのかわからないが、文学というのは「私」を表現するものであるとすると、去私というのは道理に合わない。「則天虚私」なら、いくぶんわかるが。さて、おばちゃんの手相であるが、将来を見通すというより、人生相談のようだ。[当たるも八卦,当たらぬも八卦」という言葉があるが、そもそも人生の将来など、だれもわからない。おばちゃんの場合、酒3合と条件が付いている所が巧妙だ。3合飲む間に、人はいろいろ話す。1時間くらいかかるだろう。おばちゃんは、この間じっと話を聞いていて、職業や考え方、趣味まで読み取ってしまう。手相は方便で、その人に合わせて話題を選んで語るので、本人はまさに自分のことと思ってしまう。「当たっている」と思ってしまう。そして、その人の希望に合わせて、ちょっと先の実現しそうなことを話す。結婚したがっている人には「1か月先に出会う人が、まさにその人です」と言えば、喜んでしまう。ところが酒を3合も飲んでいるので、意識朦朧の状態である。人生の大事なアドバイスをもらったとしても、翌日になれば、ケロッと忘れてしまう。また行くと、おばちゃんも兵(つわもの)で、「手相無料は、3回はお休みです。4回目にまたやりましょう。」と軽くいなされてしまう。この味のある酒場も数年前に消えてしまった。飯田橋周辺の開発は大規模で、街の様相の変化は激しい。未来告ぐ手相酒場や暁(あけ)の星法政大学OBの方へ:失礼な言動お許しください。校歌は大学のホームページやユーチューブで聞くことができます。作詞、作曲はだれか、どんな意味かも確認するとおもしろいかも(古典語が使われていることもある。歴史ある大学の場合、歌詞はじっくり読むこと)。「法政大学校歌」で検索。他大学の校歌も、同じ方法で検索してみてください。
2025.01.02
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最近(2024年)の選挙で驚くような事態が起こっている。アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選。兵庫県知事での斎藤氏の当選。トランプ氏は様々な事件で訴追されている。斎藤氏は百条委員会でパワハラ疑惑やおねだり問題で追及を受けている。既存のマスコミの予想とは全く違う結果になった。SNSの情報を大半の人は信用してしまった結果だとされている。また選挙に立候補し、自らの当選を目指さず斎藤氏の応援をするという奇妙な候補者も現れた。この候補はメディアを使い、フェイク情報を流し、さらにそれが拡散するというメディア情報を破壊する行為になった。 放送大学の「メディア論」担当の立命館大学の飯田豊教授がNHKラジオ「こころをよむ」で「メディアの歴史から未来をよむ」という授業を展開している。(放送は12月末まで。テキストも販売されている。インターネット「らじるらじる」でも聴取可能)上記の驚くべき結果については、今から100年以上前に著されたギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」(講談社学術文庫)に予言されていた。「群集は暗示を受けやすく、指導者たちが根拠のない断言を反復することによって、極端な思想や単純な意見が支持されるようになり、強力な感染作用が働き始める」。これは近代的な理性や教養に対する危機とル・ボンは考えた。飯田教授の「こころをよむ」では、第3回「新聞」で、このことが取り上げられている。「未来をよむ」という意味が強烈なインパクトをもってせまって来る。 よく馴染みのあるメディアから聞いたことのないメディアまで、まるでメディアの百花繚乱である。ここでは、最も馴染みのあるラジオを取り上げる。ラジオは無線電話から起こった。1920年、アメリカのピッツバーグでKDKAが設立された。KDKAは開局時、大統領選挙の開票速報を伝えて、人々を驚かせた。無線電話機はラジオ受信機と呼ばれるようになった。アメリカのラジオブームが日本に輸入され、民間資本による放送局設立の機運が高まって来る。逓信省は1922年、放送事業を民営とすることを決定した。1923年(大正12)9月1日の関東大震災で状況は一変する。流言蜚語による虐殺事件が起こる。政府は告知宣伝文を街頭に張り出した。ラジオがあったら、と多くの人はおもった。政府は急速に規制を強化した。逓信省に放送事業計画を出願した者は全国で64件に達したが非営利の社団法人に統合された。1925年3月22日、社団法人東京放送局がラジオの定時放送を開始した。同年に大阪、名古屋の放送も始まった。これらは民間資本を基盤とする独立の経営組織による番組制作を行っていた。ところが逓信省は1926年、この3局を統合して社団法人日本放送協会を設立する。放送事業は国家統制のもとに置かれ、全国一元的な放送網が完成する。1928年ラジオ体操の放送が始まり、ラジオが大衆化する。 1960年代、若者をターゲットに深夜放送がはやる。われら中高年は受験勉強と称して、TBSの「パックインミュージック」、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」などを聞いていたはずだ。リスナーは手紙を書くことで参加した。不思議なコミュニティが作られていた。1970年代からFM放送が始まる。同時にミニFMが流行する。微弱電波の範囲内で無許可で開設できる、視聴範囲は100メートル程度だった。大学のサークルから宗教団体まで関西では165曲のミニFM局があったことが記録されている。インターネットが始まる直前のことだった。 NHKではテレビで不定期の「病院ラジオ」が放送されている。芸人のサンドウィッチマンが病院に出向いて、院内だけで聴取できるラジオを開局し、それをテレビで放送するというドキュメントである。イギリスには大病院などに「ホスピタルラジオ」という取り組みがあるそうである。ケアするラジオと言われている。 こうなると地域内ラジオ、町内会ラジオ、福祉施設内での福祉ラジオなどもでてくるかもしれない。 テキスト「メディアの歴史から未来をよむ」はNHK出版のサイトから購入できる。990円。
2024.12.01
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タイトルに物騒な言葉を持って来たが、現代を生きる手段としての生物学という意味だ。最近の新聞記事でも「生物学」関連の記事が多い。しかし中身を理解するには基礎的な生物学の要点を知ってないと難しく、多くは記事をパスしてしまう。ましては50数年前に高校で「生物」を学んだはずだが、ほとんど記憶に残っていない。現代の「生物学」は50数年前の「生物学」とはまるで違っている。 つい最近の新聞記事では「今年(2024年)のノーベル化学賞はたんぱく質の設計と構造予測の研究者に決まった」と出ており、米グーグル社のゲームオタクの研究者と紹介されている。2012年には京都大学の山中伸弥博士のiPS細胞の発見がノーベル賞を授与されている。iPS細胞とは万能細胞である。素人的には何のことかさっぱりわからない。数年前から続いているコロナ騒動。これも今年から予防注射は有料になっている。コロナとは何なのか。関連する概念に免疫という言葉がある。免疫とはどういう仕組みなのか。また中高年の2人に1人がかかると言われるガン。医者に「あなたはガンです」と言われて頭が真っ白になる。数年後にはガン細胞をiPS細胞で修復することが出きるかもしれない。 不安材料ばかり並べたが、これらの分からない事を撃破する武器が「生物学」である。いまさら「生物」と言うなかれ。植物採集や亀を追いかけまわすわけではない。いや、もちろん花の構造や亀の生態を調べることも「生物」だが、ここでは先の新聞記事の意味を読み取ることを優先する。そこでテキストだが、高校の生物の教科書と放送大学の「初歩からの生物学」、講談社のBLUE BACKS「アメリカ版大学生物学の教科書」を用意する。高校の教科書は基本的なことがまとめられている。ここでは東京書籍の「生物基礎」、これはNHK高校講座の教科書になっている。テレビでも視聴できるし、ホームぺージでの視聴もできる(NHK高校講座)。高校の教科書は先生の講義が前提になっているので、単独で読むのはかなりつらい。アメリカ版はかなり詳細な論議で、新書版なので安価に入手できるが、3巻本である。構成は第1巻、細胞生物学(細胞、代謝、光合成)、第2巻、分子遺伝学(染色体、遺伝子)、第3巻、分子生物学(情報伝達、遺伝子工学、免疫、発生と分化)。文字が小さい。図や写真はオールカラー。日本では大学院レベル。マサチューセッツ工科大学(MIT)では生物を専門としない学生にもすべてこの教科書を学ばなければならない。日本語版は1巻が300ページと浩瀚(こうかん、書物の分量が多いこと)である。3巻で900ページである。アメリカの学生はこんなものを学んでいるとは脅威である。日本語の翻訳はすばらしい。アメリカの学生に負けずにチャレンジしたいところであるが、ここでは放送大学のテキストでテレビでの視聴を行いながらテキストを読んで行く。高校の教科書も放送大学のテキストもインターネットで入手できる。放送大学は学生登録すれば、インターネットのホームページで視聴できる。 さて「初歩からの生物学」では5章までは前ふりで、生物とは何か、その多様性と生物を学んだことのない人向けの授業である。本格的な生物学は6章の「細胞」から始まる。この授業の基本構成は、細胞などのミクロと自然の見方というマクロな視点が提供される。細胞などは眼に見えないものなので、光学顕微鏡、電子顕微鏡で観察する。テキストにはその写真が掲載されている。アメリカ版にはそれらの顕微鏡の詳細な説明が入っている。光学顕微鏡はヒトの眼の分解能の1000倍、電子顕微鏡は100万倍と出ている。 生物の体は細胞からできている。これは植物の葉の細胞と人間の体の細胞は基本的に同じ構造だということである。細胞内の分子は、水、たんぱく質、糖、脂質、核酸、イオンである。この構成は人間も大腸菌も同じである。大腸菌は原核細胞で核と言われるものがない。動物や植物は真核細胞で核がある。核の中に遺伝情報であるDNA(デオキシリボ核酸)がはいっている。DNAがあることによって人間は人間の子を産み、犬は犬の子を産む。 人間の体の構造に移っていく。これは生理学の範疇である。興味深いのは神経の記述である。「神経は刺激そのものを伝達することはできない。刺激の有無を電気的な信号に変換して伝達する」。なにかコンピュータの理論を読んでいる感じだ。この電気的な信号とは神経細胞(ニューロン)を伝わるナトリウムイオンの電荷である。自分の頭の中で電気が動いているとは奇妙な感じだ。 生物をマクロの視点からみる枠組みが紹介される。里山歩きやハイキングなどをしている人にとって自然の見方が変わってしまう。この枠組みは4つの階層で構成される。それぞれに1章が当てられ詳しく紹介される。 4つの階層とは生物の生態学的分析になる。生物の基本単位は個体である。その同じ種の集まりを個体群と規定する。その個体群が集まったものが生物群集である。その生物群集に環境を加えたものが生態系である。その地域の生態系が集まったものをランドスケープという。生物群集は鳥類、魚類、植物のそれぞれの群集に分かれる。生態系とは陸域や水域のある範囲内に暮らす生物群集と、その生物群集を取り巻く環境を一括して捉えたシステムである。野外の生物は樹林、草原、河川、湿地、あるいは都市的環境としてビル群、住宅地、公園と様々な所で生きている。生物の中には昼間は都会の樹木に餌を求めて移動し、夜になると山地の森林にねぐらを求めるものもいる。生態系を超えて空間的広がりを捉える枠組みがランドスケープという認識である。 新聞にゲノム解析で日本人の祖先が明らかになったという記事が出ていた。ゲノムとはなにか。これも生物のテキストに出ていた。古代史の探求最前線ではゲノムが使われている。生物の知識が意外な所で役に立っている。 ゲノムとは生物のDNAに入っている遺伝情報のことである。詳しくは上記テキストを参照ください。
2024.11.03
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中高年になると漢字が書けなくなったという経験はないだろうか。役所の申請文書や病院での病状申告で漢字が思い出せない。仕方がないのでひらがなで誤魔化す。なんとも恥ずかしい思いがする。年だなと思う。本は目で読むだけ。日頃はパソコンやスマホでメールを出すが、手紙やはがきをほとんど使わなくなった。パソコンやスマホは予想漢字が出るので、それをクリックするだけである。これでは漢字を忘れるのは当然である。予防する手段はあるか。一つの方法は書き写しである。これは時間がかかるし、非常に非効率な方法であるが、「言葉」を自分のものにする最良の方法である。 「通販生活」という雑誌がある。通信販売の商品カタログであるが、記事も付いている不思議な雑誌である。最近号(2024年初秋)では特集が「なぞり書き日本国憲法」で憲法の条文が薄い文字で書かれてあり、それを鉛筆でなぞり書きするという記事になっている。これは今の日本が憲法をないがしろにしている状況に反発した編集者のアイデアだろう。なぞり書きする意義についての法律家のコメントも掲載されている。自民党総理選挙が盛んに行われている。候補者の大半は憲法改正を訴えている。裏金議員で法破りしている人が憲法改正などと訴えているのは笑止千万であろう。 憲法と言えば、聖徳太子の「十七条憲法」は歴史の教科書に出ているくらい有名である。これを書き写すのも面白い。「世間虚仮(こけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉が出てくる。世の在り方は虚仮(空、無常)と見て、仏の悟りこそが真実だ、という仏教思想の核が述べられている。まさに裏金議員の憲法改正議論など虚仮(こけ)と見通されている。 新聞の一面の一番下に各新聞社のトップライターの随筆が置かれていることが多い。朝日新聞でいえば「天声人語」である。これを書き写している人は多い。普通のノートでも構わないが、朝日新聞では「天声人語書き写しノート」が作られていて、講読者であれば、新聞販売所に申し込めば届けてくれる。新聞の「天声人語」を切り抜いて貼る欄が設けられ、「天声人語」と同じ字数、行数のマス目が作られている。販売価格は200円(現在は変更されているかも?)。 今年のラジオ講座「基礎英語レベル2」にはその日の重要構文であるターゲットと称する文章を書き写す欄が設けられている。英語を書くという機会はあまりないが、英語の書き写しは、日本語の漢字の書き取りと同じ作業で、スペルを覚えるのに重要で、じっくり学習する人には大切な作業である。レベル1,2で海外で通用する英文構造は、ほとんど学べる。レべル1は中学1年生対象の初歩の英語で、テキストは空きスペースが多い。この場合はテキストにそのページの英文を直接書き写すことができる。重要単語はほとんど網羅されており、スペルを覚えるのに適切である。基本単語のスペルが分からないということは無くなるはずである。 書き写しで有名なのは写経である。京都の大きな寺で行われているのは般若心経の写経で、このお経は短いので写経によく使われる。正式には筆、墨、紙、経本を用意し、色々な作法があるが、自宅ではノートと鉛筆で行うのが簡単である。書店に行けば「般若心経」の本が多種置いてある。折り込みで写経用の見本が付いているものがある。読誦用のCDも付いている。これも色々なものがあり。工夫がされている。CDの一文の読誦音声の後が空いているものがある。英語のリピーティングと同じである。いずれにしても、本の解説をよく読むことが重要で、解説には写経の心構えが書かれているはずである。こういうのを参考にノートに書いてみることである。短いとはいえ全て漢字である。なかなか骨の折れる作業である。 小説の書き写しは作家修行する人のよく行われる勉強法である。志賀直哉とか文章の神さまと言われる作家の短い小説が使われる。作家は誰でも構わないお気に入りの人でいい。俳句、短歌の勉強も書き写しは有効である。俳句の本でモデルの句が大きく書かれ、その後3行分のスペースがあり、モデルの句を書き写すという作業の本がある。3回同じ句を書くのである。その先生の句会での指導法が本で再現されている。100句のモデルとその句の解説がある。まるで小学生の勉強法であるが、どのくらい力がつくか、やってみないとわからない。こんな本をわざわざ買う必要はない。適当な俳句の本の例句を3回書くのである。俳句は短いので簡単である。重要なのは書いた句を自分なりに解釈してみることである。書くことで自分なりに一歩踏み込んだ解釈になるはずだ。ついでに漢字の読み、意味を確認しておく。 受験で有名な灘高の国語の先生が古文学習法で兼好法師の「徒然草」を使った書き写し学習を伝授していた。その本では大学受験でよく使われる五段(5つの文章)の指定があったが、生涯学習的には冒頭の5つの段が対象である。ノートは縦書きがいいが、横書きノートを縦にしてつかう。ポイントは2行空きスペースを置きながら書き写すのである。その空きスペースには、読み仮名、意味を書き入れる。数回音読しながら、兼好法師になりきるという学習法である。段はお好きなところでいい。樋口一葉もやってたようである。一葉の作品のなかに徒然草の仏教思想の言葉を使って綴られている所がある。書き写していなければ、この言葉に気づかない。 本格的に、その先生の学説を学ぼうとする人は、先生の本を丸写しするという勉強法を取る人もいる。いずれにしても書き写しは大変な作業である。覚悟が要請される。のんびりやる人は、大げさに構えないで、思いついたとき、気持ちが静かな時、ちょっと(ノート2ページくらいか)やってみるくらいでいい。やって見て自分に効用があると認識出来たら本格的に勉強法として取り入れたらいいだろう。 書き写しの効用を脳科学のメカニズムから説明しているリハビリの理学療法士が説明している個所を最後に引用しておく。 「文字を書くときには大脳が働きます。大脳は前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭用の4つの領域に分けられます。文字を書くとき、まずは前頭葉の一部である前頭前野の言語領域を使って、言葉や文章を考えます。そして考えた言葉や文章を作動記憶(ワーキングメモリー)の中に留めます。次に側頭葉で書くべき文字の形を引き出して、前頭葉の運動領域で書くための運動プログラムを作成します。同時に頭頂葉で適切な文字の大きさ、形、位置などの情報を付け加えます。作動記憶中の情報をもとに文字を書いていきながら、後頭葉で書いた文字を解析して、運動プログラムの修正を行います」(和田祥平「足腰の教科書」(メディカルパブリッシャー))より。 これは文字を書くことが大脳をフル活用していることになる。機能的MRIをつかって脳の血流を調べた研究から明らかになっている。
2024.09.29
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ひろさちやという名前の仏教啓蒙家がいた。2022年4月に亡くなられた。仏教だけでなく、キリスト教、イスラム教、神道の本も出されているので宗教評論家ともいえる。「ひろさちや」はペンネームで、本名・増原良彦。1936年、大阪に生まれる。関西人である。東京大学文学部印度哲学科卒業。学校は東京であるが、関西人らしく、東京の知識人とはちがい、反権力、反知識人的な評論活動が特徴のような気がする。 仏教というと難しいという印象で、仏教書を読んでも中々腑に落ちない感じがする。特に漢字がむずかしい。やさしい漢字でも、輪廻、業(ごう)、般若、中道、縁起、空、無我、解脱等の概念、意味となるとなんのことやら、さっぱりである。国語辞典には意味が出ているが、仏教本来の意味はどうなのか、わからない。頭で意味がわかったとしても、体で体験として意味が浸み込まなければナンセンスである。普通の仏教書では、これらの言葉で論じられるが、大抵、途中でギブアップである。 「ひろさちや」というひらがなのペンネームはめずらしい。どういう意味か。なにか哲学的な意味がありそうである。「幸(さち)」を「弘(ひろ)」める、という意味ではないかと、当方は解釈している。この人の評論活動は、仏教哲学を一般の人にできるかぎりやさしく解説する方針が徹底されているようである。そのための具体的方法が譬(たと)えや身近な話題で仏教の哲学概念を敷衍するという方法である。例えば「空(くう)」という概念も「こだわらない」とパラフレーズする類である。普通の宗教学者は「空」だけで、一冊の本を書いている。 「ひろさちや」を図書館で目録を調べてみると200冊くらいの本が出てくる。ある本の著者紹介には600冊の本を書いていると出ている。毎月1冊本を出しているとして、12冊を50年にわたって出しているとということになる。松本清張なみのベストセラー作家である。この人の本に「ひろさちやのいきいき人生ー釈迦にまなぶ」(春秋社)がある。「人生論から仏教を考える」という、この人独特のヘヤピンカーブの効いた論書である。この中に、仏教学者の解く「四諦(したい)」は間違っている、という章がある。間違っているというより、解釈の違いではないか、という気がするが、ともかく「いきいき人生」のために「四諦」という考え方を、どのように応用するかという趣旨だろうと思う。 「四諦」とは4つの真理」という意味である。ほとんどの仏教書は教理の解説は小乗仏教的解釈で説明される。本の中ほどで日本の仏教は大乗仏教であると論述が変わる。ここで混乱が起こる。今までの説明は何だったのか。小乗仏教とは出家者のための仏教。つまり坊さん専用の仏教である。大乗仏教とは在家信者用の仏教である。仏教書を読むのは専門の坊さんが大多数だろうということで、仏教学者は小乗仏教の説明をしてしまう。一般人が、こうした裏事情を知ってないと、仏教書はさっぱりわからない、ということになる。 大多数の仏教書の「四諦」の説明は、こうである。1、苦諦(くたい)…苦に関する真理2,集諦(じったい)…苦の原因に関する真理3,滅諦(めったい)…苦の原因を滅する真理4,道諦(どうたい)…苦の原因を滅する方法(道)に関する真理 仏教理論の核になる教説だが、人生は苦であると認識し、その苦の原因は欲望、煩悩にあると明らかにし、それを滅すれば苦はなくなる。その欲望、煩悩を削除する方法が道諦だという理論だ。職業的お坊さんは、そのためにお経を読んだり、座禅をしたり、乞食(こつじき)をしたり、比叡山の山道をマラソンしたり、滝に打たれたりと様々な努力をしている。在家信者が、こうしたことを真似したら、大抵病気になってしまう。ひろさちやは、これは小乗仏教のやり方で大乗仏教とは違うと言う。 在家仏教である大乗仏教では、どのように解釈するか。その前に「苦」とは何かを押さえておく。生・老・病・死が四苦で、それに加えて愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦を加えて、四苦八苦という。仏教的に苦を分析しているのだ。詳しく知りたい方は同書(釈迦にまなぶ)を読んでもらうとして、ポイントは「生」。これを多くの仏教書は「生きていること」が「苦」だと解釈している。これだと最後の「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」と同じことになってしまう。「五蘊盛苦」とは、生存自体が苦であるという意味だからだ。ひろさちやは「生」を人間が赤ちゃんとして生まれること、母親の産道を通って生まれる意味だと解釈する。大抵の人間は、この苦しみは忘れている。それと「死」も死それ自体は感覚がなくなるはずで、「苦」もへったくれもない。ただし現代ではガンで「あと半年の命」と医者に宣言された時や、交通事故などの場合は苦しみがあるだろうが、釈迦の時代には想定されていない。問題は「老」と「病」なのだ。本ブログ読者の多くが直面している「苦」のはずだ。 さて四諦の「諦」とは、「あきらめる」と訓読みできるが、これは「断念する」という意味ではなく、「真実を明らかにする」という意味である。仏教学者であるひろさちやが、これが間違いだと気づいたんは古希(70歳)の時だという。まず、生存が「苦」だというのは、医療とのアナロジーで言えば、熱がある者はすべて病人と言ってるようなもので、少しくらい熱があっても、子供は外で遊ぶし、大人はパチンコに行ける。しかし最近は熱があると言えばコロナと疑われるが、熱があっても自分が病気と思わなければ、病人にはならない。苦を「苦」と思うから、「苦」になってしまう。苦を「苦」にしないというのが大乗仏教の教えだという。病気も、老いも「苦」にしなければいい。と言っても簡単に、そういう心境にはなれない。それをどうするかが、この本の後半部分だ。 次が「集諦」だ。小乗仏教は欲望が「苦」の原因だとする。大乗仏教では、一切の事象が起きる原因はわからないとする。原因は一つではなく様々な要因が集まっている。だから「集諦」と呼んでいる。大乗仏教的には原因を「因縁」という用語を使っている。 次が滅諦。「苦」を滅する。大乗仏教では「苦」をそのまま引き受けて生きろと説く。ひろさちやの表現では「南無そのまんま、そのまんま」になる。病気になれば病人として生きるよりほかはない。 四諦の第四は「道諦」。「苦」を滅する方法論で、小乗仏教では八正道を実践せよと教える。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。いずれも「正」の文字がついている。これをどう解釈するか。「正しい」の意味と捉えて、正見は正しい見方か。ひろさちやは「正」を「明らめる」意味だと考える。だから正見は「明らめる見方」となる。正思以下は正しいと捉えて、「明らめる見方」をするために、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、「正定」は正しい精神統一になるが、これもひろさちや流は、心をのんびり、ゆったりさせることが「正定」だと考える。 独特な仏教解釈だが、ひろさちや教に入信したい方は図書館で著者目録で「ひろさちや」と入力すると大量の本が出てくる。どれを読んでいいか、分からないと思うのが普通だ。まず本ブログで紹介した本がわかりやすい入門書だ。さらに突っ込みたい方は「仏教の歴史」(全10巻、春秋社)。10巻本のすごい本だが、1~3巻がインド編で、インドの仏跡をひろさちやが観光ガイドになって巡り歩く、非常に読みやすい本だ。ポイントとなるところで仏教の基本が説明されている。次が中国編、日本仏教編とつづく。 「ひろさちやの般若心経88講」(新潮社)。これが数多の「般若心経」本のなかで一番わかりやすい。3分間で読める講義が88回。短い文章の中、見事な説明である。譬えを多く使っているのはひろさちや流である。あまり分かり易くて、なんにも残らないと感じた方は、もう一度読むことをお勧めする。読み飛ばしが相当あることに気付くだろう。読誦CDは付いていない。
2024.09.01
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放送大学面接授業の資料が配布されている。この授業は10月~12月に行われる。放送大学というのはテレビ、ラジオ、インターネットを使って授業が行われる大学である。あまり宣伝はされてないが、この面接授業は、この大学の大きな特色である。全国の学習センターで行われる。ポイントは所属学習センター横断で行われる。自分の所属センターにとらわれずに受講できる。神奈川学習センターに所属する学生でも北海道学習センターの授業を受けることが出来る。地方の学習センターでは、その地域の話題を生かした授業が行われるところが見どころである。先生も放送大学の先生ではなく、その地域の大学の専門家が担当される。開講場所も学習センターだけでなく、その先生の大学だったり、博物館、美術館、専門の研究所だったりと様々である。今回は学習センターの外で行われる授業をいくつか取り上げる。放送大学受講生は配布された資料を参照されたい。多くの受講生が見込まれる授業は抽選になる。遠距離移動の場合は学割が発行されるので学習センターに問い合わせてください。申し込みはWEBか郵便である。申し込み締め切りは8月いっぱいである。受講料は1科目6000円。これはカルチャーセンターに比べると非常に安い。 抽選に落ちた方、あえて受講しないという方は資料の授業項目の一番下の持ち物、教科書、参考書に注目してほしい。ここにあなたが気になっているテーマの資料名が書かれている。このタイトルでその資料を図書館や古本屋で入手できれば、自宅で自主面接授業が受けられる。この場合は授業料は無料で、本格的な自主学習ができる。 主な学習センター外講座(学習センター名、場所、講座タイトル、コメントの順) 宮城 特別史跡多賀城跡 「創建1300年の多賀城」テキストでは有名な多賀城だが、現場を見た人は多くはないだろう。5人の専門家の解説。 山形 致道博物館 「山形の酒造りと文化」 庄内藩校「致道館」の典籍などの藩校資料が収められている博物館見学と庄内地方の酒蔵など。 。 山形 立石寺、山寺芭蕉記念館 「考古学からみた山寺立石寺」、「静けさや岩にしみいる」の句で有名な立石寺。これは俳句や芭蕉論でなく、「考古学からみた」という所が注意。 栃木 宇都宮大学調理実習室、「栄養の基本と食の自己管理」放送大学にはめずらしい栄養学と調理の実習。 群馬 尾瀬ヶ原 「尾瀬の自然とその適正な利用」、尾瀬の旅館に泊まっての授業。講師は環境学の加藤教授。山歩きの経験を要す。ガイドに従って尾瀬ヶ原を歩く。宿泊代7000円、他に交通費が余計にかかる。登山装備で。現地までの交通費は、ご自分で。 埼玉 さいたま市立博物館、春日部市郷土資料館 「埼玉の街道ー中山道と日光道」。埼玉在住の方は、ぜひ。 千葉 千葉港、千葉市動物公園、「俳句の楽しみー句会」、講師の浦川さんは「NHK俳句」のテキスト編集者、俳人。今回は吟行がメインポイント。港や動物園で何をみるか。俳人の物の見方に注目。 千葉 九十九里海岸、「砂の科学ー砂粒から地殻を読む」、海は泳ぐところ、海は広いなと言った常識からは考えられない、海の砂つぶから地球の真ん中まで視野を広げる。 東京多摩 玉川上水、狭山丘陵、「武蔵野台地の自然史」多摩川上流の起伏にとんだ丘陵は足を運ばないとわからない。東京の水はここから運ばれている。 神奈川 学習センター周辺、「ウオーキングは生涯スポーツ」、中高年は歩かなくなった。腰が痛い、膝が痛いと病気が次々と襲う。これの解決は病院ではなく、ウオーキングである。しかし、改めて「歩き」とは、と問われると困ってしまう。専門家に問うてみよう。「歩き」とは何ですか。1日1万歩なんて必要ですか。 福井 宿布発電所跡、グリフィス記念館、水道記念館、「福井の産業科学遺産に学ぶ」 京都 比叡山、大原、「京都周辺などの地形と自然環境」これは寺巡りとは違う京都の発見。 大阪 四天王寺、「四天王寺信仰を読み解く」、仏教を四天王寺という寺から深彫りする。 兵庫 白鶴酒造資料館、「灘五郷日本酒学」、日本酒はどのように作られているか。大いに酒を飲んでこよう。酒学、いいですね。この学問、突っ込んでいくと深い香りが漂ってくる。 奈良 平城宮いざない館、平城宮周辺、「平城宮を深掘りする」、奈良のかつての都とは。専門家の視点とは。 和歌山 南方熊楠記念館、「歩く百科事典ー南方熊楠」、ロンドン大英博物館でひとり勉強していた南方熊楠。粘菌の研究で有名。粘菌とはなにか。生物学から環境問題、はては国家との対立まで。 岡山 倉敷物語館、「歩いて学ぶ江戸時代の倉敷」、観光名所の倉敷、素晴らしい風景の残る風致地区。江戸時代はどんなだったか。 福岡 九州歴史資料館、「大宰府史跡から歴史をひもとく」大宰府とは歴史上、重要な場所、万葉の時代から戦国時代。さて現在の大宰府とは。 鹿児島 いおワールドかごしま水族館、「水族館学入門」、水族館に行って「あっ、魚がいる」では、小学生レベルだ。水族館はなぜ必要か、その役割、バックヤードでは、どんな仕事をしているか。世界でもっともすごい水族館はどこか。魚のえさとは、水族館で研究されていることとは。 以上の詳細は所属学習センターホームページの面接授業シラバス(授業ガイド、授業内容のこと)参照。 芸能関係で、大阪学習センターでは3本入っている。国立文楽劇場、「文楽を鑑賞する」、大槻能楽堂「能の世界を知る」、天満天神繁盛亭「上方落語の世界」、芸能を学問するとは。テレビとは一味違う鑑賞講座。 東京文京学習センターでは「人生が愉しくなる落語学」、こちらは春風亭昇吉さんの「芝浜」、「紺屋高尾」、「文七元結」等、8つの古典落語の実演と寄席のしくみ、前座、色物などの落語の基礎知識が学べる。 生涯学習も楽しく、ゆったりと行きましょう。繰り返しですが、受講生が多い人気講座は教室の座席の関係で抽選になります。落ちても諦めないで、資料の解説の中の参考書のタイトルが次への飛躍につながります。
2024.07.28
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WEBを色々見ていたら、「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」が東洋英和女学院の大学院棟へ移ったというニュースが目についた。NHK朝ドラの「花子とアン」で注目をあびた村岡花子。主演は吉高由里子であった。吉高は今年の大河ドラマでは紫式部を演じている。吉高は文学者に縁がある俳優のようだ。 大森の馬込文士村散歩の帰りに、この記念館まで足を延ばしたが、予約制になっているのは知らず、住所のマンションまでたどり着いたが入ることができなかった。お孫さんの村岡恵理さんの編による「花子とアンへの道」(新潮社)という本を入手した。この記念館がビジュアルに再現されている。明治時代の女性文学者の生き方、苦労がよくわかる。この本により村岡花子の足取りを追ってみる。なお、東洋英和女学院の住所は、このブログ最後に入れる。男性の方も歓迎とのことである。アン・シャーリーを「腹心の友」にした男性も多いだろう。「赤毛のアン」は児童文学と考えられているが、英米文学の粋が詰まった、大人が読んでも耐える文学である。モンゴメリーの英文は、日本人英語学習者が読むのが難しい。 本のトップページは花子の晩年の書斎が写されている。女性文学者の書斎らしく整理整頓されて美しい。飾られている本は表紙が向けられている。作家の書斎は戦闘場所なので、大抵は乱雑である。次の仕事の資料が山積みになり、灰皿には煙草が山となっている。奥にはそのまま寝ていいように布団が積まれている。しかし、この写真の書斎は見学用に作られたようで、ただ静寂がただよっている。次のページは花子が翻訳した児童書の表紙が並ぶ。次のページは夫から贈られたウェブスター英英字書とルーペ。次が和服姿の花子の肖像写真。花子は和服姿を通した。次がプリンス・エドワード島の美しい風景写真。「赤毛のアン」の世界に引き込まれる。残念ながら花子は、この島を一度も訪れることができなかった。 村岡花子は、1893年(明治26)山梨県甲斐市で茶商をしていた安中逸平と母てつとの間に生まれた。花子は2歳で洗礼を受けたが、妻の実家の人々はキリスト教に嫌悪感を抱き「女の子に学問はいらない」という考え方で家の中で衝突が絶えなかった。逸平はしがらみを逃れて一家で上京、東京の南品川に居を構える。逸平はカナダ・メソジスト派が設立した東洋英和女学校に受け入れを切願した。左翼運動家だった逸平からすると、この学校選択は異常だが、お金が問題だったようだ。給費生として編入した。給費生にはメソジスト派が運営する孤児院の奉仕活動が課された。不思議な縁だが、後に翻訳する「赤毛のアン」のアンも孤児院からやってくるさびしい女の子である。 東洋英和女学院は山の手の令嬢が通う学校。この雰囲気と午後の授業はすべて英語で行われる授業は花子にとってカルチャーショックだった。日露戦争が始まり国の教育方針は忠君愛国へと傾く。ミッションスクールには政府から圧力が加わる。校長のブラックモアは文部省の通達を握りつぶし、キリスト教育と英語教育を貫いた。寄宿舎に歌人の柳原白蓮(びゃくれん)がいた。白蓮は柳原伯爵令嬢燁子として編入するが政略結婚を破棄して、23歳でこの学校へはいった。白蓮は花子を短歌の師佐々木信綱に紹介した。ここで日本古典文学を学んだ。図書室には日本語の本はなく、英語の本ばかりである。ほとんどの学生は、この図書室に寄り付かないが、ここで花子は子どもの本から古典まで英米文学を読破した。信綱の短歌指導で言葉の感覚が研磨された。これが後の翻訳活動に生きてくる。信綱教室で片山廣子と出会う。片山は信綱門下の代表的歌人であり、松村みね子のペンネームでアイルランド文学の翻訳者として知られる。一方、白蓮は親子ほど年の離れた炭鉱王伊藤伝右衛門との再婚で福岡の飯塚に去った。二度の政略結婚は花子は許すことが出来ず絶交を言い渡した。語るべき友を失った花子は大森の片山の家を訪れ本を借りた。ここで日本近代文学を学んだ。 東洋英和を卒業した花子は21歳で山梨英和女学校に英語教師として赴任する。1919年(大正8)、教師を辞し、東京の日本基督教興文協会に編集者として勤務。後に銀座の教文館として和洋書をとりそろえる書店、出版社として発展する。教文館の裏手にあった福音印刷で夫となる村岡敬三と出会う。1923年9月1日、関東大震災で印刷中の聖書も廃塵に帰した。復興の見通しは立たず、自宅に青蘭社書房という印刷所兼出版社を起こした。市川房江の婦人参政権運動が高まり、長谷川時雨が「女人藝術」を創刊。花子は家庭文学を提唱し、雑誌「家庭」を創刊した。婦人矯風会の書記、「婦人新聞」の編集もしていた。さらにNHKラジオで「子供の時間」で、その日の出来事を子供にわかりやすく伝えるという仕事もしている。1939年(昭和14)、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、日本と諸外国の関係は悪化し、駐日の連合国関係者は帰国を始めた。カナダ人宣教師ミス・ロレッタ・レオナルド・ショーがカナダへ旅立つ朝、教文館に送別に来た花子に、かなり読み込んだ跡のある一冊の本を「友情の記念」として手渡した。それはルーシー・モンゴメリー著の「Anne of Green Gables」だった。世界平和を愛し、クリスチャンとして、祖国の偉大な物語を手渡してくれたショーの深い思いを花子は受け止めた。どんなことがあっても翻訳して日本の読者に手渡そうと誓った。しかし鬼畜米英が叫ばれ、国家総動員法の下、文学者も戦争動員の駒にされ、貯蓄を呼びかける講演に借り出された。英文の本を持ってることさえ、官憲の目が光っていた。東京空襲がはじまり、焼夷弾が落とされる。花子は本と訳稿をかかえ、本門寺の防空壕へ逃げ込んだ。 1945年(昭和20)、第二次世界大戦終結。「Anne of Green Gables」の訳了。1953年(昭和27)「赤毛のアン」という題名で三笠書房より刊行された。村岡花子は1968年(昭和43)死去。75歳だった。 村岡恵理さんの挨拶(冒頭部分)1991年より、東京大森の自宅の書斎を「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として予約制で公開してきましたが、この度、蔵書や資料、愛用品を花子の母校である東洋英和に寄贈させて頂きました。麻布、鳥居坂の通りに面した大学院棟の入口「ブルーシアター六本木」の向かい、「国際文化会館」のはす向かいに、慎ましやかに「学院資料・村岡花子文庫展示コーナー」と書かれたパネルが立っています。男子禁制ではありません。どなたでもお入りになれます。(以下略) 村岡花子展示コーナー(東洋英和女学院大学院棟1階ロビー 東京都港区六本木5-14-40)
2024.06.30
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中高年は入院する機会が多い。救急車で運ばれて持ち物が何もない場合もある。その時は必要な物をリストにして、ケアマネや誰かに持ってくるように頼むほかない。ベットに寝たきりの状態になると危険なのは歩行能力が極端に落ちることだ。2週間の入院でも相当体力は落ちる。動ける状態であれば、出来るだけ体を動かす工夫をすることが重要だ。トイレへ行くにも看護士は車イスを持ってくる。看護士は倒れて怪我することを恐れている。自分の責任になることを避けようとするから当然のことだ。しかしベットに寝たきりは危険である。 入院したら病院の売店でスリッパ(あるいはつっかけ)と小型ラジオを入手する。スリッパも危ないということで病院によっては禁止するところもある。特殊な履きものを用意するところもある。家からスニーカーを持ってきてもらうことも方法だ。これは入院時は歩くことを忘れないためだ。ベットに寝たきりにならないことが重要なのだ。仮に1か月の入院すると退院してから3か月くらい普段の体力に戻る時間がかかる。ある医師がそう言っていた。これは人によって違うだろうが、入院時、体力トレーニングを意識的にやってた場合と、何もしないで寝たきりの場合では、回復時間の開きは相当あるはずだ。 入院したらできるだけ歩くことだ。リハビリ室へ行く必要はない。病室の隣の廊下で十分だ。病後の歩行は特に気を付ける。病院の廊下には大抵手すりが付いている。常に手すりにつかまれる距離を保つ。病院の廊下には色々なものが置かれている場合もある。その場合は車イスを利用する。車イスに乗るのではなく、車イスを後ろから押す。そうすれば倒れることはない。車イスが無ければ点滴スタンドを杖にして、ガラガラと引っ張る。ともかく途中で倒れる危険を避けることである。厚生労働省は健康寿命の伸ばすには1日9000歩歩けと言っている。時間にして1時間である。 入院時は1日が全くの暇である。ここで小型ラジオが楽しみを与えてくれる。相部屋の場合はイヤホンが必須である。最近はAM放送がFMで聞ける。病院の中ではAM放送は聞くことが困難である。そのときFMに合わせると、かなりいい音質で聞ける。医師の回診は1日1回。間に看護士が体温や血圧の測定に来るが、後はやることがない。AM放送はつまらないおしゃべりばかりだと思っていたのが、びっくりするくらい面白い番組を発見する。音楽を聴きたい場合はアメリカ軍人放送(AFM)がお勧めだ。さぼっている軍人を目覚めさせる音楽だ。アメリカンポップは妙に元気にさせてくれる。 デイケア施設に入所した時も同じライフスタイルだ。寝たきりにならないことが肝心だ。ともかく歩く。できるだけ車イスには乗らないで、車イスを杖代わりに使う。最近のデイケア施設は職員の半分が外人ということもある。政府の安上がり福祉施策の為でどうしようもない。外人職員は型通りの仕事をするだけで、親身の仕事を期待しないほうがいい。日本語のコミュニケーションもあやしい。ここで英会話を勉強されている人は英語で話しかけてみるのもおもしろい。たいていはアジアの出身者で英語が日常語という人もいる。面白い話も聞けるし、英会話の勉強にもなる。大いなる暇つぶしにもなる。意外な所でNHKの英語講座が役に立つ。聞き入った人と一緒に施設内を歩くのも楽しい。 家にいるときも、なるべく歩く習慣をつける。犬を飼ってる人は実にいい散歩相手になってくれる。大型犬は力が強いので引っ張られるのが注意が必要だ。近くのコンビニでもスーパーでも目標をみつける。そこまで歩く。俳句をやってる人は吟行である。今は雑草でも花を咲かせている。ルーペなどを持っていって、花の奥まで拡大すると万華鏡のような異世界を発見できる。家に帰ってその感動を言葉にする。歳時記には言葉が満載だ。そこの言葉を当面借りておく。句会に出さないものなら、自分の言葉として使っておく。自分の俳句なのだから大いに盗作をやろう。他人に見せるものではない。腰が痛い人もゆっくり、休み休み歩くと徐々に体が楽になる。焦らないで、人生はゆっくりと。小雨もまたいい。足元をかため、雨の匂い。誰もいない公園。露をおいた葉や花は雨がふってないと見ることができない風景である。
2024.06.02
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中高年は病気を持つことが多い。病院の待合室は高齢者ばかりだ。身体を動かさない。一日中座っていることが多い。新聞やテレビの広告はそんな中高年を狙った高額のサプリメントばかりだ。尿が出にくくなる、筋肉痛、腰痛、皮膚やのどに腫れ物が出来る。病院へ行くのも面倒なので、つい、こういうサプリを試してみたくなる。深刻なのはガンで、あなたは余命半年などと宣告された時だ。どうしていいのか、頭が真っ白になる。 健康を保つにはどうしたらいいか。江戸時代の禅僧に白隠禅師という人が「夜船閑話」という本を書いている。江戸時代の健康本だ。文学部の人間でも、ほとんど話題に上らない本だ。古典文学全集にも入っていない。半分は虚構のようなので、文学にも見える。村木弘昌先生が「医僧白隠の呼吸法ー「夜船閑話」の健康法に学ぶ」という本で解読法を伝授している。この本は柏樹社から出版されたが、柏樹社倒産したため、現在は春秋社から新装版が出ている。ここでは柏樹社版で紹介する。 「夜船閑話」の本文は難解だ。医学用語や禅の専門語、中国古典の漢語などが出てきて、現代文に訳されても理解するのは難しい。村木先生は段落ごとに現代文にして、難読単語を解説するという古文を解釈するような手法をとられた。要は白隠禅師の呼吸法は丹田呼吸だというのが、その主張だ。村木先生は医学の面から呼吸の意義を解説している所が、この本の強みだ。 白隠は貞享2年12月に富士山の裾野、原の宿で生まれた。幼名は岩次郎といい、3歳まで病弱で歩くこともできなかった(ある本では不具、つまり身体障碍と解釈していた)。岩次郎は母に連れられて寺で説法を聞いていた。12歳ごろから「般若心経」、「観音経」等を読み、14歳で原の宿の松陰寺で得度、名を慧鶴(えかく)と改め、修行がはじまった。しかし「法華経」にはたとえ話が多く幻滅を感じ、文学書を耽溺するようになる。美濃大垣の瑞雲寺の禅僧馬翁(まおう)に師事するようになる。馬翁は文学は禅の道の余技なので禅の道を逸脱するなと指導される。慧鶴は悶々とした日々を送る。この寺には蔵書がたくさんあった。作務で本の虫干しをしている時、「禅関策進(ぜんかんさくしん)」を手に取り、「慈明の引錐自刺(いんすいじし)」の1章に釘付けになった。慈明和尚は夜遅くまで勉学し、眠気に襲われると錐(きり)を自分の膝に突き立て眠気をとばし勉学を続けたという話に自分はどうだと猛省した。ふたたび禅修行に励むことになる。慧鶴20歳の時、母の死の知らせを受ける。しかし仏道入門の時でもあるので故郷にはもどらなかった。やがて馬翁の元を去り、多くの寺を回り遍歴の修行をつづけた。24歳で悟りを得たとおもった慧鶴は信州飯山の正受老人に大喝をうけた。「生悟りの増上慢め」と拳で叩かれ、胸倉をつかんで縁側から庭に突き飛ばされた。この厳しい正受老人のもとで慧鶴は大悟を得るのである。 郷里の沼津の大聖寺(だいしょうじ)の先師が病気という報に接し、看病のため正受老人の元を暇乞いすることになる。師の看病と座禅修業が重なったため、心身ともに疲労の極に達した。睡眠不足、ノイローゼ、さらに結核におかされていた。慧鶴は座禅で乗り切ろうとしたが、大きく息を吸い込んで、その息を止めた。頭に血が上り胸も苦しくなった。後から、この呼吸法の間違いに気づいた。「夜船閑話」に表現される「心火逆上」という状態だ。村木先生の用語では「努責(どせき)」である。胸に力を込めて息を止めると血液が心臓へ戻らなくなる。倦怠感が生じ、立ち居振る舞いもおかしくなる。自分の病は鍼灸や薬では治らないと名医を求めて再び旅に出る。旅の途中で京都郊外に蟄居する白幽仙人のことを聞きつける。白幽仙人は天文・医道を極めた人物という。すぐに京都郊外の白河に向かった。慧鶴と白幽仙人との対話が「夜船閑話」のハイライトになっている。この病を治すには、内観の秘法と軟酥(なんそ)の法という呼吸法を伝授された。原の宿の松陰寺で住職になった慧鶴は富士が雪に隠れるのを見て白隠と名を改めた。 「夜船閑話」の序文がなんともおかしい。この本自体が作りものであると表明しているのだ。草稿は出来上がってたが、ある時、京都の小川屋善兵衛という版元が訪ねてきて刊行を申し出た。禅病に悩む修行僧が、この秘伝を書き写していたが、その情報を小川屋がつかんだ。草稿は虫食いだらけで読めたものではない。それを弟子たちが読めるように文章を付け加え、清書して、白隠が加筆して上梓したという事が書かれている。眉唾な一文だ。落語の枕のようなもので、ここはどうでもいいとこだ。 さて「内観の秘法」とはなにか。「眠りに入らないうちに、両足を伸ばし、しっかり踏みそろえる。そして全身の元気をへそ下の気海丹田にこめ、さらに腰部から足心(そくしん)にまで充実させる。そのとき「わがこの気海丹田・腰脚足心こそは本来の自己である」などの4つの観念をくりかえし心に念じていく、というもの。これだけだと、意味不明だ。仰向けに寝て丹田に力を込めて腹式呼吸を行うように見える。直木公彦の「白隠禅師」(日本教文社)では、そのように解釈している。そうして直木自身の病気も治ったとしている。軟酥の法とは、軟酥(やわらかい牛乳の凝固した栄養豊富なもの)の卵大のものを頭上に置き、それが徐々に溶け出し頭部から胸部、腹、左右両下肢を潤していうという想念を保持しながら呼吸をおこなうイメージ療法である。この呼吸は息を吐きぬくことだ。 この「夜船閑話」の呼吸法をシステマティックに再構成して、だれでも出来るようにしたのが、明治元年生まれの藤田霊斎という人。息心調和法と称し、一般への普及に乗り出した。波浪息、屈伸息、大振息というステージを作り、そこに短息、長息を組み込んだものを完成させた。藤田は調和道協会を作り、講習会を開いた。村木先生が藤田に出会ったのは昭和16年、ここに医学を通して呼吸法を捉えることが可能になった。呼吸とは何か、体にどういう影響があるのか、体内での変化等の科学的な分析がされるようになった。村木先生は家庭で独習できる呼吸法として三呼一吸(さんこいっきゅう)というやり方を提案している。「最初、イチーと力強く発声し、入って来る吸気を用いて、「ハッハッハー」と心を込めて息を出す。三回目の「ハー」は少し長く出すと、間髪を入れず深い吸気が誘発される。これを12回繰り返す。その後、緩息(かんそく)は緩めの「ハッハッハー」とリラックス呼吸で休みを入れ、再び三呼一吸を行う。12回を1セットとして、徐々にセット数を増やしていき、1日10セットを目標にする。これを積み重ねていくと胃液の分泌は正常になり、胃潰瘍も消えてしまう。高血糖、高血圧も正常値に近づいていく」という。 残念ながら、日暮里にあった調和道協会は解散してしまったが、有志がNPO法人丹田呼吸法普及協会を作り、カルチャーセンターへの講師を派遣している。ホームページもあり、オンラインでの講習も受け付けている。 丹田呼吸法普及会https://www.tandenbreathing.com/ 参考図書調和道呼吸入門書として優しく紹介した本として、村木弘昌「健心・健体 呼吸法」(祥伝社)、帯津良一「ガンに克つ調和道呼吸法」(祥伝社)がある。共に新書。ネット書店で簡単に入手できる。村木先生の本は医学から調和道は健康に役立つことを説明されています。帯津先生は東洋医学を取り入れた治療を行い、呼吸法の重要さを強調されています。初期のガンが調和道で消えてしまったことも報告。帯津三敬病院では太極拳、気功、八段錦、智能功、郭林新気功等の様々な呼吸法を実践する道場が併設されている。西洋医学に加え、漢方、鍼、灸等も利用し治療に当たっている。帯津先生は生命場という概念を出し、呼吸が重要な影響を与えていると書いている。帯津先生の道着を着た大きな写真で調和道の動作を解説している。やはり直接指導を受けた方が分かりやすい。 帯津三敬病院:川越市並木西町1-4(池袋にクリニックがある)TEL:0492-35-1981
2024.04.28
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川崎市人権学校の講演がオンラインであった。東洋英和女学院の石渡和実教授の講演内容を紹介する。石渡先生は川崎市人権尊重のまちづくり推進協議会の会長でもある。放送大学の講師もされている。本ブログでは講演の一部であることをお断りしておく。 考える原点は「否定される命」 私にとって恩師と言えるのは障がいのある方々の生き方だったと言える。当事者運動というのを紹介します。横田弘さん(10年くらい前に死去)の神奈川青い芝の会の運動の支援が、私の障がい者問題を考える原点となっています。横田さんはいつも「否定される命」という言葉を使いました。障がいのある命が生きる権利を問うたのは、1970年に横浜の磯子区で起こった事件でした。 30歳の母親が2歳の脳性マヒのお嬢さんをエプロンのひもで絞め殺してしまった。残念ながら、このような事件は50年たった今でも、あちこちで起きています。お母さんは大変な苦労をしていた、お母さんに罪はないという減刑嘆願運動が起きるわけです。これに対して青い芝の運動は減刑嘆願運動の反対運動を起こすのです。障がい者は命を奪われるのを諦めるしかないのか。亡くなったお嬢さんに代わって生きる権利を問う色々な運動が進められていったわけです。 障がい者の療育をやっている青い鳥愛児園長の宮下先生、聖坂養護学校の柴田先生が「お母さんの気持ちはよくわかりますが、子どもの命を育む者としては嘆願運動の署名をすることは命を奪うことに同意することになる」といわれる。とてもショッキングな言葉ですけれど、障がいがある命の立場に立たなければならない、ということをつくづく思ったわけです。 このような考え方が今でも優生思想として注目されるわけですけど、「障がいを持って生きるのは不幸」ということで、お腹の子どもがダウン症ということがわかると9割以上が中絶するという現実があります。障がいを持って生きるというのは、この子にとって可哀そうなことだからという理由です。障がいがあろうがなかろうが、一人の人が幸せか不幸かということは他人が言及すべきでない。かわいそうだから命を奪うのはとんでもないこと。「いつわりの愛と正義を否定する」と横田さんはおっしゃっていたわけです。 優生保護法 優生保護法は1948年に制定され、今でも重くのしかかっている。これは断種という、障がいのある人たちが子どもを作らないように、ドイツでは毒ガスの実験台で20万、あるいは50万人の障がい者が殺害された。毒ガスが有効だとわかって、600万人のユダヤ人の大虐殺につながった(ホロコースト)。ということも歴史的に証明されています。障がいのある人たちが命を否定される立場になってくるというのが歴史を見てもわかるわけです。優生保護法では「不良なる子孫の出生を防止する」ということで強制手術が行われた。 2018年に仙台の女性が優生保護法は憲法違反であると提訴しました。今、全国で38人の人が裁判を起こしています。地裁、高裁の判決が出ていて、ほとんどが憲法違反で、賠償金は時間がたっている(除斥期間)というので、賠償金については考慮されていないという現実がある。2023年の仙台高裁では除斥期間は権利の乱用という判決が出ました。 知的障がい者については神奈川県では20年前にあおぞら宣言というのが出ていました。知的障がい者も手をとりあって生きていこう。神奈川県では命を尊重しようという流れが出ている。こういう流れが世界的な、大きな意味をもったのが障がい者権利条約が採択されたことです。条約が日本が2014年1月20日批准した後に意思決定支援と合理的配慮が注目されている。 障がい者の権利条約 障がい者の権利条約が2006年にニューヨークの国連で採択される。この条約は障がい者が国連に出かけて行って障がい者中心に作られたのです。当事者が作ったのは、この障がい者権利条約は初めてだった。このときのキャッチフレーズがNothing about us without us.(私たち抜きに私たちの事を決めないで) この条約の意義は障がい者観の転換だと言われています。障がいのある人が可哀そうな、不幸な存在というのではなく、障がいという困難なことがあれば、きちんと支援があれば、その人らしい生き方ができる社会の中で大事な存在になってくる。障がい者と同じように弱い存在と考えられていた認知症のお年寄り、子ども、外国籍の人とか人間観そのものの転換が実現しつつあると思っています。 障がい者観の転換というのは、この条約の第1条に出ています。よく医学モデルから社会モデルに変わったと言われますが、医学モデルというのはリハビリテーションに象徴される個人の責任で頑張って障がいを克服する。社会モデルというのは社会や環境の在り方を変える。駅にエレベーターがあれば、車椅子でも学校や会社へ行ける。社会のバリア、物理的にも心理的にも社会のバリアがなくなれば、障がいのある人たちも生きることが出来る。 5つのキーワード バリアをなくすための条約の第2条は5つのキーワードがあり、1 意思疎通、2 言語、3 障がいに基づく差別、4 合理的配慮、5 ユニバーサルデザイン、です。4番目の合理的配慮というのは障がいのある人が他の者との平等を基礎としてあるのですが、他の者というのは障がいのない人と同じように生きられる色んな調整とか気遣い、障がいがあるということで生きにくさを感じることがないように合理的配慮を考えてくださいということが、強くこの条約で言われている。 もう一つ注目してほしいのは17条です。個人をそのままの状態で保護すること。「そのままの状態」というのは、英語ではintegrity(不可侵性)という言葉が使われています。どんな障がいが重かろうと認知症があろうともあるがままの状態で尊重される。最近では医学モデルから社会モデル、さらに人権モデルへと発展しています。 19条がインクルージョンです。インクルージョンというのは、排除するというexcludeの反対でinclude、すべての人を包み込む、地域のなかに包み込むということです。大きく人間観が変わりつつあります。障がい者も色々な可能性を持っています。その可能性を引き出しましょうというのがエンパワーメントです。エンパワーメントは黒人の支援からスタートしました。黒人が人間あつかいされていなくて、黒人が力がないわけでなく、powerless(パワーの欠如)の状態に社会が追いやっているのだ。社会の在り方こそが変わるべきだ、というのがエンパワーメントの本質です。そういう風に人間の可能性を信じる。これがアメリカで1964年に公民権法になります。公民権法は黒人が白人と同じ権利をもつという法律です。キング牧師を初めとして60年代にエンパワーメントという考え方も広がって来る。力がそがれている障がい者、女性、子ども、外国籍、性的マイノリティの人たちにもエンパワーメントの支援が注目されています。 エンパワーメント エンパワーメントとは何か。私たちは「良い所探し」という言い方をしています。その人の長所、力、強さに着目して援助する。サービス利用者が自分に自信がもてるようになり、自分の能力や長所の気付き、ニーズを満たすために、主体的に取り組めるようになることを目指す。たとえば自閉症の方などに電車が大好きという方がいるわけですが。電車についてすごい情報量をもっている。それじゃあ、こんど小田急線に乗って箱根まで行ってみようか。そこで何しようか、みたいに支援者がその人の持っている強みを認めてあげて、共にパートナーとして寄り添う支援、伴走型支援が大事です。
2024.03.24
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松原惇子(じゅんこ)さんの講演会に行ってきた。600人が入る会場は満員。タイトルは「ひとりの老後、上手な生き方、楽しみ方」は現在の中高年にとって、引き付けられるテーマだ。話の終わりに、自分が作詞した歌を2曲披露した。まるでエンタータイメントのようだった。聴衆を惹き付ける言葉も堂にいっている。年齢は76歳。本人は中高年の星になってるような感じだ。 案内によると「昭和女子大学卒業後、ニューヨーク市立クイーンズカレッジ大学院でカウンセリングで修士をとった。39歳の時「女が家を買う時」(文藝春秋)で作家デビュー。「クロワッサン症候群」はベストセラーになり、流行語にもなった。」 「クロワッサン症候群」は女性雑誌「クロワッサン」の編集理念を批判したものだ。これに感化された女性は主張を持ち、独立心の強い女性であったが、結婚という習俗に否定的であった。結果的に独り身の女性がおおくなった。雑誌は売れなくなれば編集方針を変えてしまえばいいが、ひとりになった女性は生き方を簡単には変えられない。これ以降、松原さんは一貫して「ひとりの生き方」をテーマにした本を執筆することになる。 もう一方でパラサイトという現象がある。パラサイトとは寄生という意味である。親に寄生して生きているという揶揄のまじった言葉である。親が死んだ後、どうなるか。これから派生したパラサイトシングルという言葉も生み出された。男性がメインだろうが、女性もいるだろう。 夫婦も片方が死ねば、独りで生きなければならない。離婚、未婚の場合も独りである。周囲も見渡しても、ほとんどの人が一人で生きている。現在は2人に1人は単独世帯である。松原さんはひとり女性の老後を応援する団体「NPO法人SSS(スリーエス)ネットワーク」を作った(URLは下記)。会員は600名。ひとり一人に出会い、お話を聞いてきた。何に困っているか、心配事は何か。こういう情報を共有するために本を書いてきた。作家という可能性を生かしたのだ。強みは取材というパワーだ。行政、団体へ取材という名目で話を聞きに行く。会員の疑問に応えるためだ。どこでも出かけていくフットワークをお持ちのようだ。「ひとりの生き方」という単独のテーマでたくさんの本を書いている。 「孤独こそ最高の老後」(SB新書・SBクリエイティブ)は孤独のポジティブな生き方を提案している。孤独であることは、逆から見れば束縛がないこと、何をしようと自由であることだ。と言われると多くの人は困ってしまう。何をしていいか、わからない。会社人間は、ほとんどこうなる。学生時代何をやってたかが、ヒントになる。山岳部だったら、ガイドブックを相棒に単独行はどうか。絵が好きなら風景画を描きに出かける。湯治場にこもるというのも面白い。本が好きなら図書館から本を借りて批評を書く、評論家気取り。芭蕉にならって旅をし、俳句を作る。財産は子供に残すのではなく、このために使う。なにをやるにしても、大事なことは、そのことに「没頭」することだと松原さんは言う。これが芸術を生む要諦だ。健康対策、資金問題、人間関係、死に支度まで論は及ぶ。SSSネットワークでは共同墓の話も出ているようだ。エンディングノート書き方指南も。 昨年(2023年)出た「97歳母と75歳娘ーひとり暮らしが一番幸せ」(中央公論新社)は面白い。松原さんの母かね子さんとの一時的共同生活を往復書簡のような形で二人で書いている。お二人とも独立心の強い方で、松原さんがマンションを出なければならない状況になり、実家の母に家に同居することになる。さあ、ドラマが始まる。笑いと涙の異色のホームドラマだ。同じような状況にある人にとって参考になる情報が盛りだくさんだ。かね子さん直伝のレシピも入っている。食事をどうするかも重要な問題だ。 もう一冊。「ひとり暮らし安心ノート」(ユーリーグ)。この本は一人暮らしのための情報が集められている。心構えや食事のレシピ、終活を扱う組織、様々な老人ホーム、松原さんが取材したもの。中高年のひとり暮らしに必須の情報。男性の方も利用可。 SSSネットワーク(会員になるには会費がいる。講演会、勉強会、相談会など企画多数。人生を語るに足る友人の見つけ方などのアドバイス、そういう友人を作るチャンスも。女性限定)https://www.sss-network.com/
2024.02.25
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昨年のNHK朝ドラ「らんまん」では牧野富太郎の一生が描かれていた。牧野は文久2年(1862)、四国の土佐佐川村で生まれた植物分類学者である。小学校を中退し、独学で植物学者になった。なぜか東京大学植物学教室に入って、勉強を続けている。小学校を中退した人間が東大へ入れたのか不思議だが、当時は現在のような受験競争のような雰囲気はなく、担当教員が牧野の勉強の実績を評価したのだろう。土佐の地元の植物の植生を調べ上げ、本にしていた。牧野はそれを日本全国の植物の調査に広げようと考えていた。その時は、植物について研究している所は東京大学しかなかった。 「らんまん」の植物監修者が田中伸幸さんだ。国立科学博物館植物研究部に属し、高知県立牧野植物園にも関係している。牧野富太郎について熟知の人だ。NHK出版から「牧野富太郎の植物学」という新書を出された。テレビドラマになると多くの関連書が出される。多くが牧野の一生を描いた本になる。牧野の勉強、研究とは何だったかについては、ほとんどが触れられてない。牧野の仕事、業績を中心に紹介されているのが、この新書である。植物学の全般を扱ったものではないが、植物学の入口には絶好の本である。 田中さんが最初に牧野の名前を知ったのが「学生版牧野日本植物図鑑」(北隆館)だった。昭和24年初版、私の積読本の中から見つけたのは昭和38年発行、36版だ。奥付に頒布番号が記されている。90799号となっている。すごい番号だ。私が購入する前に9万人の人が入手している。1ページに6種類の花の図解と簡潔な解説が付いている。この小さな本に2322種の花が紹介されている。高山植物や希少植物は除外されている。家の近所の植物はほとんど掲載されていることになる。本の最後の付録に「植物名の引き方」と題して、図鑑の使い方が解説されてある。植物分類学上の科名を知ってないと、この本は使えない。科名とは、キク科とかツツジ科とかいうものである。つまりある程度植物について知ってないとお手上げになる図鑑である。最近の図鑑は花の色別とか季節、里山、海辺、都会などの場所別の図鑑になっており、より花の名前を知り易くなってる。またスマホのアプリに花の名前を写真に撮って、すぐ表示するものも出ている。植物について勉強しようとする人は索引から科名を覚えていくという方法で、この図鑑を使いこなすのだろう。学生版ではなく「牧野日本植物図鑑」という大きな図鑑もある。こちらは図書館の参考図書においてあるもので、研究者向きである。 田中さんの専門は東南アジアの植物における種の多様性の研究で東南アジアで調査を行い標本を採集して同定する仕事である。同定とは学名を調べることである。日本の植物は牧野以前は、ほとんどが外人が調査していた。長崎の出島でオランダ商館の医師、エンゲルベルト・ケンペルが図解入りの本を出した。ケンペルはスウェーデンのウプサラ大学で植物の研鑽を積んだ。ここには植物分類学の権威カール・フォン・リンネがいた。リンネは属名と種小名からなる学名を発案した。これは二名法と呼ばれる。例えば庭木として知られるヤブツバキはリンネが学名を付けた。例えばカメリア・ヤポニカ・リンネ。カメリアはツバキ属を意味する。ツバキ属はツバキ科に属しているので、先頭の語でその植物がどの属の何科であることがわかる。ヤポニカは日本産を意味するラテン語で、最後のリンネが学名を付けた人物名である。学名にはランク(階級)がある。ドクダミは、コショウ目・ドクダミ科・ドクダミ属の下のドクダミという種である。この目・科・属・種という階層がランクである。種以下に亜種・変種・品種がある。 北海道、日本、アジアという地域に線引きした場所に生えている植物の構成要素を植物相(フロラ)という。かつての植物学は医学だった。本草学、薬の(本)になる植物(草)を研究していた。薬草は、食料としての需要に並ぶ、植物に対する人間の最大の関心ごとだった。植物学では薬草ではなく、植物そのものが研究対象だ。庭先の花壇に種をまくと、やがて発芽し双葉がでる。トウモロコシの種は一ッ葉(単葉)がでる。1600年代、イギリスの植物学者ジョン・レイは植物の芽生えに双葉と単葉があることに世界で最初に気づいた。双子葉類と単子葉類と名付けられている。植物学の幕開けである。 牧野富太郎は文久2年4月24日、土佐佐川村の商家岸谷の息子として生まれた。成太郎と名付けられたが、6歳の頃、富太郎と改名した。生家の裏山に金峰神社があり、境内の植物を見ているうちに植物が好きになった。富太郎が生まれたころ、日本で精力的に植物最終を行っていたロシア人がいた。カール・ヨハン・マキシモヴィッチである。ロシア科学アカデミーのコマロフ植物研究所の研究員だ。函館、横浜、長崎で調査をおこなっている。鎖国をしていた日本は、どんな植物があるか、興味津々だったのだろう。 明治14年、富太郎は書籍や顕微鏡を入手するため、東京に出る。高知から東京への旅行は当時は大変だった。途中、汽船や歩きで東京までたどり着いた。千代田区内幸町にあった文部省博物局で植物学者田中芳男に会っている。田中は上野に博物館や動物園を設立した人物である。持参の「土佐植物目録」の草稿を見せている。 明治10年、東京大学が設立され、フロラ研究の元になる標本採収の重要性を理解し、全国を歩いていたのが矢田部良吉教授だった。矢田部はアメリカのコーネル大学で植物学を学んでいた。助手の松村仁三は3000種類の標本を全国から集めた。学名を調べ、標本室を作った。この標本室をハーバリウムという。 牧野は東京大学に飛びこんだ状況は朝ドラが描いていた。アカデミズムの中ので格闘が続くが、牧野の牧野たるところは、彼の人生後半の軌跡である。アカデミズムの中で研究するのではなく、在野の研究者、趣味の会、子どもたち、理科教育の教員の指導に乗り出す。植物同好会の講師となり、植物の名前、形態の特徴、似ているものとの見分け方などを解説しながら野山を歩いた。全国から花の名前の問い合わせがあれば、できるだけ応えた。また植物知識の普及のため、多くの雑誌に随筆を書いている。アカデミズムでは論文だが、これは特定の人にしか読まれない。小学生向きの学習雑誌にも書いている。田中の本には雑誌に掲載された随筆の一覧が掲げられている。 もう一つの牧野の業績は植物図である。牧野に関するどの本でも構わないが、特徴的な植物図が掲載されている。植物の構造図なのだろうが、図鑑の絵とは違う。美術的な絵画である。美術館に展示されている絵画のようだ。「学生版牧野日本植物図鑑」にも各章扉に見られる。ぜひ、どこかで見てほしい。 牧野顕影施設練馬区牧野記念庭園https://www.makinoteien.jp/ 東京都立大学牧野標本館https://www.biol.se.tmu.ac.jp/herbarium/ 高知県立牧野植物園(ホームページでは四季の花の写真が見事)https://www.makino.or.jp/
2024.02.04
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今年(2023年)の芥川賞は市川沙央(さおう)の「ハンチバック」に決定した。未知の作家は、たちまち有名になり、あちこちのメディアに出ている。芥川賞は純文学というジャンルになっており、話題にはなるが、普通の人にはなかなか理解しがたい作品が多い。3回くらい繰り返し読むと、おぼろに作品の骨格が見えてくる。「文藝春秋9月号」に全文が掲載され、市川のインタビュー記事、選考委員の選評などが入っている。「文藝春秋」は主に中高年の保守的なおじさん、おばさんを読者対象としており、たぶん、この作品は「読んでもわからない」、「半分読んでギブアップ」、「無視する作品」のような気がする。 市川も、この小説の主人公も先天性ミオパチーの一種「ミオチュブラー・ミオパチー」という難病を患う障がい者だ。ミオパチーとは筋肉に現れる病気を意味し、色々な病型がある。筋肉の張りが弱く、体がぐにゃぐにゃ曲がってしまう。遺伝子の異常が原因のようだ。市川の姉も同じという。 受賞者インタビューで市川は「父は破廉恥さに激怒した」と語っている。中高年の、普通の感覚である。逆に言えば、それだけ衝撃的作品ということになる。市川は、学校は中学でドロップアウトと語っているが、実際は学校へ行きたくとも行けないという日本の教育制度の犠牲になっている。それでも勉強したい人は裏街道があり、通信教育で大学まで通過可能だ。作品の中で中卒でも行ける大学として、第一は単位を取れば高卒資格なしでも特修生制度のある所に潜り込んで、第二の現在は早稲田大学人間科学部の通信課程に学んでいる。第一の大学は放送大学だろう。これを市川は「学歴ロンダリング」と言っている。 市川は「障がい者で文学賞を取った人はいない」と言ってるが、乱歩賞を取った二木悦子がいる。謎解きの本格派と江戸川乱歩が認めた。二木は児童文学を書いており、さすがに殺人事件は出てこない。 さて「ハンチバック」は、どこが芥川賞に値するのか。 気付くのはやたらとカタカナ語が出てくる。さらにIT用語。タイトルのハンチバックとは本文中に「せむし」という語にルビをつけて使用されている。英語のhunchbackは背が曲がっているという状態を表現している。日本語では「せむし」という差別用語になってしまう。ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」も原題は「ノートルダム・ド・パリ」で「せむし」という用語は使われていない。翻訳者が本文内容から、この用語を選んでいる。映画のタイトルも、そのままである。現代では背中の曲がりなどは手術で取り除くことが出来る。色々な障がいの症状として現れる。 作品冒頭は、文学作品としては異例のHTML言語で始まる。HTMLとはホームページを作製する言語である。主人公がアルバイトで行っている男性向け風俗専門のウエッブメディアへの投稿である。こうした記事のライターとしてお金を稼いでいる。こういう記事を「コタツ記事」と自嘲して表現している。「コタツ記事とは、取材せず、ネット上の情報のつぎはぎで粗製乱造された記事」と説明している。この冒頭は芥川賞もエロ文学になったかと思わせる諧謔で始まる。その後は主人公が生活しているグループホームの日常が描かれる。ただこれだけなら生活記録レベルの「文学」で終わってしまう。芥川賞を受賞したのは日本社会への知的異議申し立てが仕組まれている所が評価されたのだろう。 「生産性のない障がい者に社会保障が食われることが気に入らない人」にも「留飲を下げる」ような一文を入れている。「気に入らない人」が増えているし、なんと社会福祉施設の職員にもいることは昨今の事件などで新聞記事になっていることで明らかだ。なぜなのかについては評論家が論じることで、小説家はドラマ仕立てでこれを表現する。そのキーワードになるのが「読書バリアが生ずるマチズモ」である。自分の障がいを「曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく」と表現し、紙の本の重さで背骨が曲がっていく実状を訴える。普通の読書人は考えてみたことはなかった。「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること」。この5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。少し後のページで「マチズモ」を健常者優位主義のルビに使っている。マチズモを英和辞典で調べてみると、machismoというスペルで「男らしさ、男の自己顕示欲」と訳されている。フェミニズム論で出てくるような言葉を障がい者問題に引っ張り込んだようだ。 小説の後半は、このマチズモをひっくり返す逆マチズモへと展開する。女性優位、障がい者優位の世界とはどんな世界か。グループホームの職員田中は主人公が垂れ流していたツイッターのアカウントを見つけて、つぶやきを読んでしまう。エロ小説の投稿がばれてしまう。「妊娠と中絶がしてみたい」、「出産にも耐えられないだろう」、「育児も無理だろう」。このツイートを田中はチェックしていた。人手がなく、主人公の介護に田中が担当することになる。主人公は1億5千万円で男を買うという行為に出る。1億5千万円はギャクだろう。田中はズボンとパンツを引き下げる。田中の一物を口に入れる。田中は女のようなよがり声をあげる。逆マチズモが生み出される瞬間だ。 専門の福祉職員の場合、こういう主人公にどのように対処するだろう。介護現場では田中のような非専門の、指導力のないアルバイト要員が多い。介護職員の給料が非常に安いことが問題になっている。人手が集まらない。臨時にアジア各地から安い労働力を調達しようとする。実際の介護現場では、午前中は日本語教室になってしまう。専用のフレーズを覚えるのに精いっぱいで、とても心の通じ合うコミュニケーションには間に合わない。こういう福祉政策を決定している政治家は、せっせと裏金を集め、老後に備えようとしている。この政治家を選んでしまった日本人の多くも似たような感じである。老人ホームの職員は、ほとんど外人とアルバイト職員といううそ寒い現実が待ち構えている。成金族が入る高級有料老人ホームと天下り所長が管理する官製有料老人ホームとに日本の老人政策は差別化されている。 市川はエロ小説に仮託して、政治思想小説を書いたのだ。 この本は単行本になって書店に並んでいる。
2023.12.24
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400メートルハードル日本記録保持者の為末大(だい)さんが「熟達論」という本を書いた。今年(2023年)の7月に出た本で最新の本だ。スポーツ選手が本を出されるのはめずらしい。「走る哲学者」と言われている。非常に読みやすく、すいすい読んでしまう。明解すぎるのだ。為末さんは法政大学卒業である。法政には福田定良という不思議な哲学者が教授を務めていた。大衆文化、落語や芸能などを哲学的に考察するというスタイルだ。授業も講壇から降りて、教室の一番前の長つくえに腰をかけ、学生に世間話のように「哲学」を語り掛けていた。岩波書店の目ざとい編集者は、これを「岩波新書」にしてしまった(「民衆と演藝」というタイトル。図書館か古本屋で)。何年か後に、為末さんはグラウンドで語る哲学者になるだろう。 本の内容はハードルのトレーニングを中心にしたものだが、「熟達」は他の分野にも共通する概念である。オリンピック選手ということで熟達に秀でた多くの人に会うことができ、話を聞いている。その話を自分の考えに取り入れ、温めたようだ。直接的なインタビューの内容は書いてない。熟達とは主に芸道で重視される概念で学校教育の知識を蓄えるものとは違う。一つの分野を深め極めるという性格のものであろう。書道、お茶、弓道、日本舞踊等、日本の芸道では熟達することが、その道の権威といわれる。 為末さんは熟達の段階を「遊」、「型」、「観」、「心」、「空」の五つに分けて論じている。ここが為末さんのオリジナルなところだろう。しかし宮本武蔵の「五輪書」と似ている。「五輪書」よりわかりやすいところは現代の読者には適している。 為末さんは大学の時、実力が伸びず悩んでいた。日本代表の合宿で短距離コーチの高野進さんに出会った。悩みを話すと「ちょっと走ってみて」と言われた。その走りを見て、高野さんは「足を三角に回しなさい」とアドバイスされた。なんのことかわからなかったが、言われた通りやってみた。すると今度は「君は器用貧乏だから不器用になったつもりでやりなさい」。ますますわからなくなった。このアドバイスの意味は同書で読んでもらいたいが、高野さんは問題になっている為末さんのクセを見抜いたのだ。言われた通りやっていると、いつのまにかスランプを抜けていった。これが熟達者との最初の出会いだった。ふつうは、これで終わりになるところだが、為末さんは「熟達とは何か」を考え始めた。熟達論という哲学だ。どうすれば熟達できるのか。この理論を構築できれば多くの人に役立つだろう。その成果がこの本として出版できた。 技能の向上には自分を知り、自分を扱う方法を実践を通じて体得することだという。コンピュータで言えば、人間はOSであり、技能はOSの上で動くアプリケーションに喩えられる。この人間と技能をアップデイトしていくことが熟達の本質だ。「遊」、「型」、「観」、「心」、「空」とは何か。これを詳細に論じていく。序章で、大まかな定義がくだされている。「遊」とは不規則さと面白がる姿勢を身につける段階。「型」とは意識的に、あうポジションを身体に刷り込み、無意識に基本的な動きが出来るようになる段階。「観」とは自分の動きを観察することで、部分の関係と構造が理解できる段階。「心」とは中心を捉え、自在に動ける段階。「空」とは自我がなくなり、技能が自然に表現される段階。こうした段階は行きつ戻りつすることもある。需要なのは自分の現在地を知る手掛かりになり、問題解決につながることだ。 ここで突然、為末さんは孤独論を展開する。孤独感を和らげる簡単な方法は集団に属することだ。そこでの役割を見出すことによって安心する。しかし、そこで認められるとは限らない。勝ち負けがはっきりしているスポーツの世界では評価は単純である。その他の領域では評価の基準がはっきりしないし、時代が変わると基準も変わってしまうこともある。集団の常識というものに慣れてしまい、そこでの不条理も常識になってしまう。他者といる時、私たちの注意は他者に向かい、自分と向き合うということをしなくなる。孤独の時間は今まで気づかなかったことを浮かび上がらせ、人をオリジナルな存在にする。 集団に属することと孤独であること、この二つの状態を選べる人は幸いである。しかし、これはそう簡単ではない。普通、人は就職すれば会社という集団に属する。仕事に追いまくられて孤独であることは許されない。時々、仕事をさぼって喫茶店に逃げ込み、つかの間の孤独にありつく。老人の独り暮らしや病院での入院生活では孤独という悪魔が忍び寄る。看護士という仮の集団に話相手になってもらって一時的に孤独から逃れるということもある。この辺は、どうにもならない自己をコントロールしなければならない。ここが熟達論の第一のポイントである。 為末さんは「型」を二つ目の段階に置いている。普通の人は、この「型」をマスターするだけでも大変である。これは限りない繰り返しという修練が必要である。同じことを1万回以上繰り返す。同じことを繰り返すということは飽きてしまう。大抵、ここで脱落してしまう。ここで第一段階の「遊」が効力を発する。「遊び」の意味を馬鹿にしてしまうと、「型」までたどり着けない。トレーニングの質は「適応」と「醇化(じゅんか)」という二つの要素で決まって来るという。腕立て伏せをすれば腕の筋肉が太くなり、より多くの回数がこなせるようになる。これが「適応」である。「醇化」とは難しい漢字だが、同じ刺激を続けていると体が慣れてしまい、変化が起こらなくなることである。「醇化」が起こった時は、違う種類のトレーニングをしろと指導する。長距離選手の場合なら短距離選手が行うダッシュをしたほうがよい。これは自己の今の状態を冷静に察知することが必要である。 「型」とは「土台となる最も基本的なもの」で、「走る」場合の「型」とは「片足で立つこと」だそうだ。誰でも出来そうなことだが、スプリンターの場合、1秒間に5回、足を回転させるという。右足、左足を交互に高速で動かす。中高年の人はやらないでほしい。足がもつれて怪我をする。「型」の章では様々な「型」の習得法が紹介されるが、最近は海外で活躍する選手が出ている。この場合、英会話は必須のトレーニング科目である。「観」の章で、それが出てくる。これも「型」であろう。為末さんの場合はスポーツトレーニングと同じようにスピーキングもリスニングも時間をかけて繰り返すというやり方である。完全に暗記である。 「観」、「心」、「空」の段階はオリンピックへ出場するレベルの人の話で、普通の人は「型」の修得のレベルで十分だろう。「遊」と「型」の章だけでも参考になる金言が満載である。 「型」を身につける方法として、塾に入るという手がある。これは、もちろんお金がかかる。書道、お茶、ダンス等で、大体、同じことを繰り返す。先生は毎回、一つの新しいことを付け加えていく。週一回でも半年くらい行けば、ほとんどの所作は身につく。これは他律的やり方。お金をかけず、自律的にやるには、お坊さんのお経が参考になる。最近、仏事に関することがあり、お経を聴くことが何回かあった。お経はいくつか種類があるが、一つが30分くらいかかる。お坊さんは意味不明のお経をよく覚えているなとボンクラ頭は考えていた。実はお坊さんは朝4時くらいの起きて、朝の勤行がある。これが1時間くらい。毎日、同じお経を読み上げている。最初は経本を手に持ち、文字通り読む(音読)のであるが、3か月位続けると経本なしでも読めるようになる。お経を読むことはお坊さんの最大の仕事である。この方法で、英語でも歌謡曲でも論語でも丸暗記が出来そうである。最近はCDも出ており、それをかけ、オーバーラッピングすればいい(モデルの声にあわせて、声をかぶせていく)。「空」の段階まで行けば、サトリ(悟り)もついてくるかもしれない。
2023.11.26
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お釈迦様は菩提樹の下の座禅で悟りをひらいた。この悟りとは何なのか。ある意味で仏教的認識論、心理学である。 悟られた内容を四諦(したい)という。諦(たい)とは諦(あき)めるという意味ではなく、サンスクリット語の「シャタイヤ」の訳語で真理を明らかにするという意味だ。つまり四つの真理ということで、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)のことだ。苦諦とは、この世は苦しみに満ちているという真理。これは仏教の基本認識。この苦をさらに分析したのが、前回出てきた四苦八苦だ。おさらいすると正老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。五蘊盛苦(ごうんじょうく)がちょっとわかりずらい。五蘊とは人間の存在を成り立たせている構成要素の集まりで「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・職(しき)」のこと。色は物質のことで、肉体を意味する。受、想、行、職は精神作用で受は感受作用、想は知覚表象作用、行は意志、職は認識作用である。ここから苦が生じると考える。。 四諦の二番目が集諦。苦を集めたものという意味だろうが、これは煩悩や執着が生じる原因だ。集諦をさらに精密に分析したのが、十二因縁という項目だ。無明・行・職…老死まで12の条件がからんでくる。四諦の三番目が滅諦、人間の苦しみの根源は無明であり、無明を消してしまえば、渇愛も老死も消えてしまい、老いや死ぬことなどで悩むこともなくなる、とお釈迦様は考えた。では、どうすればいいか。修行方法、涅槃に至る道とはなにか。それが四諦の四番目の道諦である。この具体的方法が八正道で、正見(正しく見る)、正思(正しい考え)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(外に向いている心を自分の内にむけて、念ずる)、正定(禅定、つまり座禅)を実践すること。だれでも思いつくようなことだけど、実行するのは難しい。これは部派仏教の教えで、専門の坊さんが行う行で、大乗仏教が教えるのは六波羅蜜のいう簡略版である。大乗仏教は在家の人間が仏教的生活を行うために生み出された運動である。この八正道の項目のどれに重点を置くかで、宗派の違いが出てくる。正定、つまり座禅を修行の中心に置いたものが曹洞宗だ。正念に重点を置いたのが浄土宗や浄土真宗だ。念仏が行の中心になる。ちなみに「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の「南無」とは、サンスクリットの「ナーム」に漢字を当てはめたもので「おまかせします」という意味だ。つまり阿弥陀様におまかせします、と唱えていることになる。ここから他力という姿勢が生まれる。他人まかせと考えたら間違いで、これも自分が主体となって考えないと、怪しい宗教に騙されて金を巻き上げられることになる。あくまでも自灯明(じとうみょう)が重要だ(これについては前回参照)。 六波羅蜜とは何か。波羅蜜とはサンスクリットの「パーラミータ」を漢字にしたもので、「彼岸へわたる」という意味だ。六波羅蜜は彼岸へ渡るための六つの修行方法にあり、布施、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧という方法だ。布施はお金をだすことだが、金である必要はない。人と会ってにっこり笑う。これが顔施。人間関係の重要なアイテム。人の話を聞く。悩んでいる人の話を聞くだけでもいい。これが心施。持戒は戒を保つということ。悪いことはしない、いいことをする。忍辱は辛抱するということ。沈んだ時期は誰にでもある。こういうときは、我慢して耐える。精進とは努力すること。精進しても、うまくいかないことがある。でも、じっと我慢して精進を続けることが彼岸行きのチケットをとる秘訣になる。禅定は心を静めること。座禅である。最後の智慧はおまけ。先の5つの行を行えば自動的のプレゼントされる。智慧とは正しい判断力が身に備わる。 信仰は頭で理解するこのではなく、体得するものと寂聴さんはいう。比叡山では千日回峰行という行がある。酒井雄哉阿闍梨が有名だ。寂聴さんは阿闍梨の後を追っていくという行を体験した。まさにスーパーマンのような人物という印象だ。 この後、巡礼論が続く。巡礼で有名なのは四国八十八か所。関東にもある。巡礼は非日常への旅で、日常の煩悩から脱出できることに意味がある。足腰の弱い人には観光バスでまわる巡礼もある。 次に般若心経の講義がある。今までの仏教概論の総まとめである。ここでは空の思想が述べられる。寂聴さんの講義は漢文訓読式で、その後で意味が解説される形式でわかりやすい。この本には般若心経の写経用のお手本と寂聴さんの読み上げる般若心経のCDも付いている。 寂聴さんの読者への最後のメッセージは「切に生きよ」だ。 参考文献「痛快!寂聴仏教塾」(集英社インターナショナル) 寂庵ホームページhttps://www.jakuan.jp/
2023.11.05
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瀬戸内寂聴さんは2021年1月に遷化(せんげ、死去)された。99歳だった。家の積ん読本の中から「痛快!寂聴仏教塾」(集英社インターナショナル)を引っ張り出した。2000年4月に出た本なので相当古い。本ブログを読んで必要と感じた方は古本屋か図書館で探すと見つかるかもしれない。大型本で横組み3段、230ページなので分量はある。特徴は小学4年以上で習う漢字にルビが付いている。あちこちに「ちびまる子ちゃん」のマンガが入っている。子どもにも読んでほしいと著者の願いがあるのだろう。内容は仏教概論、仏教入門である。 仏教用語は、特に漢字が難しく、専門書は読むのに苦労する。この本は専門用語は赤線が付いてページの上に解説も付いている。寂聴さんの語りは分かりやすく仏教とはどんな宗教なのか説明してくれる。難解な概念も、さすが小説家らしく、くだけた比喩で、当方の「おバカちゃん」の頭に入るように表現される。ルビが付いているお陰で、仏(ぶつ)と仏(ほとけ)が使い分けられていることを発見した。1か所校正ミスを発見した。(ぶつ)のところを(ほとけ)と入っている。これは概念が違うのだ。仏(ぶつ)は理想の生き方で、仏(ほとけ)は死んだ人である。成仏(じょうぶつ)は、人が死ぬことではなく、理想の生き方を成し遂げた人の意味である。多くの人は成仏は死んだ状態と考えている。多くの寺が葬式が一大事業になっているので、仏教の本当の意味が分からなくなっている。なぜ葬式仏教になってしまったかについての説明も入っている。(ぶつ)と(ほとけ)の使い分けの混乱も、その一因だろう。 本ブログでは要点だけなので、仏教を学びたい人は本書を参照してほしい。お坊さんになりたい人や仏教学者を目指す人には勧めない。仏教業界の裏側まで分かってしまう。ページ扉に「師僧 今東光大僧正に捧ぐ 弟子・寂聴」という献辞が入っている。今東光(こんとうこう)とは、小説家であり、参議院議員であり、中尊寺の貫主であった人。貫主とはお寺のトップという意味だ。まず、ベストセラー作家であった瀬戸内がなぜ出家したかという所から話が始まる。要するに、小説を書くことが面白くなくなったという所が発端のようだ。最初に相談したのは遠藤周作だった。遠藤はカトリックの信者だったが、立派な神父を紹介してくれたが、洗礼まで至らなかった。今度は仏門だということで、禅宗、浄土宗、真言宗にあたったが、断られてしまう。そして天台宗の今東光の自宅へ行き「出家したい」と相談したら、ひと言「急ぐんだね」と話が進んだ。得度式は中尊寺で行うことが決定したが、今東光が癌になり、急きょ、東京上野の寛永寺貫主杉谷義周大僧正が行うことになった。法名の「寂聴」は今東光が命名した。東光の法名は「春聴(しゅんちょう)」、その一字「聴」をもらい「寂聴」、「寂」は「出離者は寂なり梵音(ぼんおん)を聴く」から取った。出家者は心静かに仏(ほとけ)の声を聴くという意味だ。ここは(ほとけ)でいいだろう。葬儀の時、亡くなった人の人生に思いをはせるのが出家者の仕事ということだろう。 今東光は一番厳しい僧侶養成学校の比叡山「横川行院(よかわぎょういん)」に送り込んだ。こんなハードな所と知っていたら出家などしなかったと回想している。クライマックスが五体投地礼という行だ。両膝と両肘、おでこを地面につけてお祈りする礼拝だ。これを3000回行う。500回過ぎたころには目はかすむ、鼻水が出る。お仲間には気絶する人も出る。その時は水をぶっかけて正気にもどす。その間に教義の教習、経典の読み方、声明の唱え方、仏教儀礼の作法の勉強も行う。 いい宗教か、悪い宗教かを見分けるポイントは、金を要求する宗教はインチキと考えることだそうだ。壺が500万円、宗祖の顔写真が400万円、先祖の祟りよけの祈祷が1千万円などと言われたら詐欺と思えということだ。もちろん仏教にもお布施というものがある。これも限度がある。最近の葬式仏教では葬儀の読経1時間くらいで60万円から70万円になっているが、「もう少し負けてくれませんか」と交渉すれば、安くなる。最近の仏教が悪い宗教になっているのは周知の事実だ。 第二章から仏教概論だ。今から2500年ほど前、ネパールのあたりにサーキャ族という人たちが暮らしていた。漢字で書くと釈迦族だ。お釈迦様はそこの王子として生まれた。本名はゴータマ・シッダールタ。実在の人物だ。仏伝というのはオーバーな表現をするので、にわかに信じがたい。生まれた赤ちゃんは前に7歩、後ろに7歩、左右に7歩、上下に7歩歩いたと書いてある。これは化け物である。仏教学者は、これに意味を付け加えるが、眉に唾を付けて聞いておく。そして「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。寂聴さんは、これにも「後世の作りごと」とパンチを加える。「天にも地にも、尊いのは我のみ」という意味だが、寂聴さんの読みは「自分が受けたこの命は、天にも地にもただ一つの、かけがえない尊いものである」と捉える。こういう独自の読み方ができるのは作家としての力だ。ゴータマは王子として生まれたので豪華な、贅沢な生活が保障されていた。所が突然、王宮を抜けだし出家してしまう。仏伝は四門出遊(しもんしゅつゆう)というエピソードを語る。東西南北の門を出ると、死人、病人、老人、出家者に出会うという話だ。寂聴さんは、こんな話は今どき下手な小説家でも書かないという。しかしお釈迦様が何に悩んでいたかは、この話の通りだろうと推測できる。人は生まれてきたのに、老い、病いに苦しみ、そして死んでいくのか。人間に与えられた生老病死、これを四苦という。さらに愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えて四苦八苦という。この四苦八苦からいかに脱却できるかを悩み、出家したというのが寂聴さんの解釈だ。 まず、お釈迦様は苦行林に入った。しかし、なぜ人間は四苦八苦があるのか解答は得られなかった。修行の方法が間違っていると気付いた。自分のやり方が違うと考えられる所がすばらしい。苦行をやめると、すぐ悟りに至った。ネーランジャー川のほとりの大きな木の下で座禅を組む。スジャータという若い女が乳がゆを供養した。再びアシヴァッタの木の下で座禅をした。翌朝、暁の明星が輝いたとき、お釈迦様は悟りを得たといわれる。この瞬間を成道(じょうどう)という。アシヴァッタの木は菩提樹と呼ばれるようになる。悟られた内容は「因縁」という縁起の法則で、この世の出来事は、すべて原因があるという考え方だ。だから苦から逃れたければ苦の原因を滅すればいいということだ。ここから仏教の大系が展開していく。 縁起の法則を発見されたお釈迦様は自分の心の中にしまっておこうと考えた。そこへ梵天(ぼんてん)という神様があらわれ、「一人で楽しまず、衆生へおしえてください」とお願いした。これを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)という。ここから伝道という運動がはじまった。最初の伝道はサールナート(鹿野苑(ろくやおん))で5人の修行僧に向けて行われた。これを初転法輪という。教えを巨大な輪にたとえて、法輪という。それを初めて回すという意味だ。こうして仏教の教えを北インドの各地を歩きながら、広めていった。旅の途次、チュンダという鍛冶屋の出した食事に当たり、腹をこわし亡くなってしまう。80歳だった。弟子のアーナンダに遺言を残す。「お前たちは自分達を明かりとしなさい。人をよりどころにするな。仏法をよりどころにして、他をたよるな」。これを自灯明(じとうみょう)という。仏教の重要な教えである。あくまでも頼りになるのは自分である。誰も助けてくれない。自分で自分の心を鍛えろ、ということだ。 人生は苦労の連続だ。この苦から、どのように脱出するか。仏教の教えの核心に入っていく。それは次回へ。
2023.10.15
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メールに潜ませた詐欺が続々と来るようになった。銀行口座が閉じられた、などはすぐわかる。まして自分が契約していない銀行なら、すぐ怪しいと分かる。自分が契約している銀行の場合は気を付けたい。とくに引っかかりやすいのが、引き落しの契約がある場合、焦ってしまう。心理的に追い詰められた状態だとクリックしがちだ。夜中にメールチェックをする場合、もう寝なくちゃと気がせいている時が危ない。 通信販売、楽天やアマゾンを騙った詐欺メールが多い。「アカウントを止めます」などが常道である。最近は新手の詐欺メールが来る。「何者かがあなたのアカウントで買い物をした。中止にする場合は、〇〇をクリックしてください」というもの。おかしいのが、その何者かの名前と住所、購入品目が書いてある。本当らしく見せるためだろう。「何者か」という冒頭のフレーズは何のために入れたか。よっぽど国語の成績が悪い奴だろう。 「何々さまからのギフト券が贈られてるが、アカウントに登録されてない。Amazonギフト券¥6000をお送りします」という手の込んだ詐欺メールが来た。これも贈り先が不明である。これもアカウント搾取がねらいである。欲にかられると引っかかってしまう。 さらにアマゾンから「不正ログインがあった」。登録情報の再提出せよとの命令である。提出しない場合はアカウントを抹消するという脅し。これも詐欺メールであろう。 新聞に大手宅配評者を装ったフィッシング詐欺というのが出ていた。「宛先不明の為(ため)持ち帰りました」。通信販売で物を買った覚えのある時、ひっかかりやすい。銀行口座やパスワードの入力を求められたら、「あやしい」と思うべきだ。後で大変な苦労を背負うことになる。 この手のメールは受信拒否リストに入れるべし。何回も来るからだ。
2023.09.24
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樋口一葉といえば、若くして亡くなり、「たけくらべ」を書いた人ぐらいしか思い浮かばない。しかし、いざ読むとなると、これは古文だろうとお手上げになってしまう。ちょっと冒険だが図書館で「全集樋口一葉」の第三巻・日記編を借り出した。小学館版である。樋口一葉の全集は筑摩書房版があるが、こちらは研究者向けで注釈が全然入ってない。小学館版は注釈が入っているので、じっくり読めば話の筋がわかる。小さい字でびっしり詰まっている。一葉は二十二編の作品を書いているが、日記の方が分量が多い感じがする。日記は日付が入った、文字通り日記だが、日をまたいで書いたり、随想だったり、日によって分量はまちまちである。この日記は一葉の文章練習のために書かれているようである。自伝にもなっているし、文学作品としても通用する。自分が一葉になったような感じで一葉の日常生活を体験することになる。 一葉の簡単なプリフィールを書いておく。本名は夏子、あるいは「なつ」である。明治5年3月25日、現在の東京日比谷シティーのあたりで生まれた。転居が多く、神田周辺を転々としている。地方に旅行したことはない。純粋の東京人である。和歌、文章、書に優れ、いわゆる三舟(さんしゅう)の才と呼ばれる。明治29年11月23日、病で亡くなる。25歳。25歳は数え年で、満年齢では24歳である。晩年の「奇跡の14カ月」と言われる期間に文学史上傑作作品が集中的に書かれている。普通の読者はこの期間の「たけくらべ」、「にごりえ」、「大つごもり」などを読んで終わりになってしまう。 日記を読んで行くと、どうして文学者になっていったか、どんな勉強をしたかがわかってくる。ここが読みどころである。小学館版は住んだ所で日記が区分されている。本郷菊坂町が「よもぎふ」、下谷龍泉寺町が「塵の中」、本郷丸山福山町が「水の上」である。「よもぎふ」の「しのぶぐさ」と題された明治25年8月22日の項に次の歌が書かれている。 なみ風のありもあらずも一葉のふねのうきよ也(なり)けり この歌の「一葉」は「ひとは」と読んで、筆名の由来が舟のイメージから来ていることがわかる。自分の人生は波にゆらめく、葉っぱのような舟だという和歌である。 小学館版は、萩の舎(はぎのや)の歌会や半井桃水(なからいとうすい)との出会いから始まるので、この前史が分からないと、何のことかと霧の中に入ってしまう。一葉は明治16年青海小学校を卒業したが、ここで学校歴は切れてしまう。母親の「女子は裁縫、家事をやればいい。学問は必要ない」という意見で裁縫を習いに行かせられる。これは母親の特異な意見ではなく、当時の国民は多く、こうした考えを持っていた。一葉の勉強好きを見ていた父親は、和歌の通信教育をやっていた人を紹介し、本も買い与えていた。しかし通信教育の先生が亡くなり、行き詰ってしまう。父親も努力して中島歌子の歌塾「萩の舎」を見つける。萩の舎は上流階級のお嬢さんの通う所で一葉にとっては苦しい所だった。しかし一葉は平民組の2人の友達を見つけた。歌会はきらびやかな着物を見せる場所になっていたが、一葉は親が作った「古ごろも」を着ていかざるを得なかった。しかし歌ではトップの評点をもらうことが出来た。 萩の舎という歌塾では、どんな学習をしていたか。稽古日には二題の歌題が出され、その場で即興で二首、計四首提出する。それを中島歌子が添削する。その他に古典文学の学習がある。これは古来、和歌を詠むためには必須である。古今和歌集、伊勢物語、源氏物語、枕草子、徒然草、その他の歌集である。大抵、講義ではその一部の解説になるが、自分で読むことが基本である。本を入手することも大変であるが、この当時、父が存命だったので、かつ理解があったのだろう。父が買い与えた。どんなテキストかについては塩田良平「樋口一葉研究」にその一覧が掲載されている。現代の大学国文科の学生でも、こんなに読んではいないだろうという分量である。これらの一葉蔵書は山梨県立文学館に保存されている。現物をご覧になったら圧倒されるだろう。一読で終わりということはない。一葉の場合は何度も繰り返し読んでいる。血肉化されているのは、日記や作品を読んでいると、源氏のあの場面の言葉だろう、兼好法師のあの有名な言い回しだろう、というのがわかる。皮肉なことに、これが現代の読者にとって壁になる。古典の知識がないと、言葉の裏側がわからなくなる。解説や注釈が補ってくれるので、面倒でも参照する必要がある。 萩の舎の先輩である田辺龍子が書いた「藪の鶯(やぶのうぐいす)」という小説を読んで、自分にも書けると思った。そして、これでお金を稼げる。小説執筆の指導を半井桃水にお願いしようと決めた。半井は朝日新聞記者だ。しかしいきなり新聞記者に指導を仰ぐとは大胆である。初対面の場面が「若葉かげ」に書いてある。野々宮きく子の紹介とある。きく子は一葉の妹の邦子の友人で裁縫の稽古で知り合った。きく子は桃水の妹の幸子と同級生だった。こうしたつながりが一葉と桃水を結び付けた。桃水の指導は実際的だった。当時の一葉の文章は古典の文章を折り込む和文調だった。「多くの人が読むものなので、もう少し俗調に」ということだった。新聞記者の文章術を教えた。全体の構成やら謎がだんだん明らかになるというようなテクニックなども伝授された。 萩の舎の指導とまったく違う。指導を受けるために、一葉は短編を5~6編書いて持って行った。先生に見てもらうという意識は執筆の原動力になる。夜遅くまで書いていて、家族のものに「早く寝なさい」と注意されるほどだ。やっかみ半分だろう。萩の舎からは桃水の指導にクレームがつく。さらに桃水には女がいるという噂を流される。ここで一葉は萩の舎の組織の問題点に気づくが、桃水との関係を断絶するという判断をするが、萩の舎との縁を切らないほうがいいと考えた。桃水との関係を表面上、断絶したが、心のなかは切れていなかった。桃水は一葉の秀作を載せた雑誌を創刊する。これは残念ながら3号雑誌に終わったが、自分の作品が活字になったということが励みになった。一葉の心に恋が芽生えた。上流階級の夫人の集まりとジャーナリズムで仕事をしている人たちの違いもわかった。桃水は「奇跡の14カ月」に切っ掛けとなる博文館とのつながりを作っている。 父親が亡くなり、女戸主となった一葉は商売を始めることを考えた。「塵の中」は下谷龍泉寺での生活である。駄菓子や小間物を扱う小さな店を始めた。悪場所吉原の近くで、付近の人は、ほとんど吉原に関係する人たちで、貧民街である。萩の舎の上流階級の人たちと全く違う人たちである。ここが一葉の文学を作った。商品の仕入れで商売をしている人とも付き合った。普通の人は吉原の中へ入ることができない。しかしお店にくる客は関係者で、その人たちの会話から吉原の中を窺い知ることが出来る。聖職者と思われる坊さんの生臭い状況も知る。「たけくらべ」は、こうした観察から生まれた。登場人物は子どもばかり。普通は児童文学になってしまうが、一葉の筆は大人の読み物に転換してしまう。日記には図書館通いが随分出てくる。上野の東京図書館。女の人はほとんど来ていない。周りは男ばかりである。帰りに「おねいちゃん、こっち向いて」と悪ガキにからかわれる場面もある。家にない「大和物語」など借り出し、読んでいる。店に「文学界」編集部の平田禿木(とくぼく)が訪れる。 「塵の中」の大きな比重を占めているのが天啓顕真術会の久佐賀義孝との出会いである。占いや人生指南、相場の指導などを行う、怪しい人物との出会いである。ルポルタージュのようになっており、お金を借りるとか人生指南より、一葉は突撃取材のような感じである。新興宗教の祖師のような言動である。これが記録されている。久佐賀は一葉に「俺の妾になれ」とせまって来る。一葉は「こんなバカ男」と軽くいなしてしまう。これは一葉の作品として出てないが、日記に書きつけられている。一つの作品ととらえてもいい。こういう人物は結構多い。聖をまとった俗物である。 今年から放送大学の島内裕子教授が「樋口一葉の世界」という講義が始まった。島内教授は「徒然草」の権威である。樋口一葉は「徒然草」の文章を暗記するぐらい読んでいた。授業では一葉の作品に兼好の言葉が反映していることが指摘される。日記をもとに一葉の人生と作品が、どのように結びついているかが明らかにされる。「徒然草」研究から「連続読み」という方法論をつかみ、一葉の作品にも連続読みが有効なことが述べられる。連続読みとは要するに全部読むということである。「徒然草」などは、普通部分的な段落を読んでおしまいになるが、典型は受験参考書のように試験によく出る段落を集中的に読む習慣になっている。それでは兼好の考え方はよくわからない。一葉の場合も同じで、授業では初期に習作段階の作品から紹介される。「奇跡の14カ月」はどのように生み出されたか。「徒然草」も読まなくてはいけない、と感じる授業である。 参考「樋口一葉全集」筑摩書房「全集樋口一葉」小学館新日本古典文学大系明治編「樋口一葉」岩波書店日本近代文学大系「樋口一葉」角川書店「樋口一葉研究」塩田良平、中央公論社「時代と女と樋口一葉」菅聡子、NHK出版「姉の力樋口一葉」関礼子、筑摩書房幸田弘子朗読「にごりえ、たけくらべ」新潮カセットブック 放送大学はBS531のラジオ放送で無料で聞ける。放送時間はホームページで。10月第一週から始まる。テキストはネットで購入。タイトルは「樋口一葉の世界」島内裕子
2023.08.27
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病院に入院することがあった。医師の診断、看護士の処置といっても、本当に短時間である。暇を持て余す。多くの人はテレビカードを入手して、備え付けのテレビを見ている。千円のカードは時間制限があり、24時間くらい、カードによっては12時間くらいで切れてしまう。大きな病院には大抵販売所があり、小型ラジオが販売されている。ドラッグストアにもラジオが置いてある。千円~二千円くらいである。単4電池で50時間くらい聞ける。イヤホンはついているが、電池は別売りである。 現在販売されているラジオは「ワイドFM]の表示がついている。ワイドFMとは何か。病院は鉄筋コンクリートのビルで、ほとんどAM放送は視聴できない。近くに放送局があれば視聴できるが、NHKを含め雑音がひどい。90MH(メガヘルツ)周辺にAM放送局が集まっており、FMのそこらに合わせると、FMでAM放送がクリアに聞くことができる。マンションや鉄筋のご自宅にお住いの方は試してみてほしい。日頃はテレビばかり見ている人もラジオの面白さに気付くかもしれない。 ラジオは自動車の運転する人が聞く割合が多いので、やたらと交通情報が入る。宣伝も特定の会社の物が繰り返しはいるのでちょっとわずらわしい。朝は高齢者が多く聞いているようで、高齢者向けの健康番組が多い。基本的にはニュース、その日の新聞で大きく扱われている記事の紹介で、世の中で起こっていることがわかる。昼間はほとんどがタレントの雑談で、中身はない。しかし、この雑談もつい聞いてしまうほど、面白いものがある。話術のあるタレントは雑談もうまい。個人的話題などは、そのタレントに興味をもっている人には聞く価値があろうが、どうでもいい話なので、別の局へ移動してしまう。最近はインターネットラジオで関東の人が関西のラジオへアクセスできるようになっている。関西のタレントの雑談は面白く、2時間の番組でも聞かされてしまう。これは話術である。視聴者のリクエストの音楽をかけるのが基本だが、リクエストに応えないで話だけで2時間がすぎてしまう番組もある。「今日は1曲しか欠けられなかったけど、次回はお応えしますね」という類で、次回も話が延々と続く。それでも聞かされてしまう。関東でもこういう番組があるかもしれないので探してほしい。 ちょっと偏っているが、民放の番組を紹介しよう。TBSラジオは朝の5時から「生島ヒロシの…」から始まる。これは月から金で、土曜、日曜は別番組である。6時半から「森本毅郎スタンバイ」、ここに遠藤泰子さんが登場している。あの永六輔さんのお相手をしていたアナウンサーである。もうベテランの域になっており、六輔さん当時の初々しさは消えている。声も張りがあり、重量感もでている。午後3時30分から「荻上チキのセッション」がある。これは聞きごたえのある時事番組で、政治の裏側を深堀している。 文化放送は5時から「おはよう寺ちゃん」。寺島尚正がキャスターで、こちらも重要ニュースの紹介で、声が聞きやすい。土曜、日曜に宗教番組があるのも特徴。土曜の朝6時に「あなたのそばに歎異抄」、日曜にはキリスト教、日曜朝6時5分から「幸福の科学」という新興宗教、6時20分から鎌田實の「日曜はがんばらない」という健康番組。6時45分から「北方謙三のラジオドラマ三国志」などがある。 ニッポン放送は政治的には保守的傾向の強い番組が多い。高齢者向けということか。8時から春風亭一之介。話術のベテランの登場。朝から落語である。続いて高田文夫、中川家、有働由美子等話術の大家がせいぞろいである。 ラジオ日本は演歌、歌謡曲が徹底している。朝の5時30分から「えんか侍」。午後3時から「「夏木ゆたかのホット歌謡曲」。夏木の司会は名調子である。歌謡曲より夏木のしゃべくりが堪能できる。土曜、日曜は競馬、プロ野球である。 NHKFMは朝6時から「基礎英語」。AMが聞きづらい人にはFMで。7時30分から「ラジオ英会話」「ビジネス英語」が来る。 視覚障害、弱視の方向けにTBSラジオは点字番組表を頒布している。拡大文字も付いているので小さい文字が見にくくなった人にも便利。この番組表をご要望の方は、〒107-8001 TBSラジオ編成部「点字タイムテーブル」係まで。 郵便番号、住所、氏名は必ずお書き添えください。
2023.07.23
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1946年(昭和21)シンガポールから帰還した小津は野田市に疎開していた母の元に落ち着いた。5年に空白を経て発表された「長屋紳士録」、「風の中の牝鶏」評価されなかったが、小津の人間観、社会観が表現されているとされ、再評価されている。野田市から大船撮影所まで遠かったので、脚本執筆、その他の生活の拠点担ったのが茅ケ崎館という旅館だ。中二階角部屋の「二番」が小津や脚本家の野田の部屋だ。ここで七輪、火鉢、タンス、食器を持ち込み、自炊して、煙草、洋酒が用意され、朝は海岸まで散歩、こんな生活の中から映画のテーマが浮かんできた。海岸付近は「戸田家の兄妹」「晩春」「麦秋」「早春」のロケ地になっている。 1953年公開の「東京物語」は小津の代表作だ。前回紹介した「大全集」というDVDにも入っているし、DVDを貸しているお店もあるので、ぜひ見てほしい。 紀子(原節子)が中心の物語。「晩春」、「麦秋」も名前は同じ紀子だった。「東京物語」では義父母につくす未亡人だ。戦争で夫の昌二を失って、8年がたっている。小さな会社で事務員として働いている。昌二と暮らしていた長屋のようなアパートで独り暮らし。そこへ尾道から昌二の両親(笠智衆、東山千恵子)が訪ねてくる。子どもたちを訪ねて東京に来るが、子どもたちは妙に冷たい。医者や美容師になって東京で暮らしているが、生活の余裕がない。その中で両親にとって他人である紀子だけが、まともな接待をする。紀子は会社を休んで、両親を東京見物のバスに乗る。紀子の部屋には何もない。食べ物、酒を隣の住人に借りに行く。事務員として働いているのに、不思議に感じる場面だ。 美容師の杉村春子は両親を熱海へ追いやる。熱海は俗物の巣窟だ。夜中まで麻雀の音で騒がしく、ネオンが光り、ゆっくりと寝てもいられない。二人は防波堤の上でゆっくりする。とみ演ずる東山は防波堤の上で、クラっとする。とみの運命を、ここでチラリと出す。とみは紀子に再婚を勧めるが、紀子は取り合わない。老夫婦は尾道へ帰るが、とみが急死する。葬儀の場面で美容師の杉村春子は本音の欲望を露骨に表現する。「お母さんの形見をいただいていくわ」、と。東京人は日々の生活で精いっぱいなのだ。そして欲望だけが極端に大きくなっている。紀子は、欲望のままに生きていけないことを、自分の偽善と気付いている。「あたし狡いんです」というセリフにはそんな意味がある。しかし紀子には愛がある。まごころで両親に接している。 東京人、すなわち近代人と大きく捉えてもいい。それに対する反近代人(尾道の老夫婦)の人間観が対照的に描かれている。小津は、これを善悪で判断しないで、淡々と、そのまま流れるように提示する。判断は観客にまかせる。 とみ(母、東山千恵子)の葬儀が終わり、東京へ帰る紀子に周吉(父、笠智衆)は再婚をすすめる言葉は、 「やっぱりこのままではいけんよ。何にも気兼ねはないけ。ええとこがあったら、いつでもお嫁にいっておくれ。もう昌二のこたあ忘れてもろうてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、かえってこっちが心苦しゅうなる。…こまるんじゃ」 自分が独り身になることを忘れて、他人のことを気遣っている。しかし不思議な安心感に支えられている。隣のおばさんが窓から顔を出し、「おさびしゅう、なられましたね」と声をかけてくれるコミュニティーが尾道には残っている。 先月(令和5年5月20日)の朝日新聞夕刊に、こんな記事が出ていた。「カンヌ映画祭で小津監督2作品上映ーー フランスで開催中の第76回カンヌ国際映画祭で18日夕、小津安二郎監督の「長屋紳士録」(松竹、1947年)と「宗方姉妹」(新東宝、50年)のデジタル修復版が上映された。今年は小津監督の生誕120年、没後60年にあたる。「長屋紳士録」は戦災孤児を引き取って世話を焼く長屋の温かな人々を描いた。「宗方姉妹」は古風な姉と勝気な妹を通じ、戦後日本で変容していく家族の在り方を描いた」 おわび入院治療のため、ブログ更新が遅れたことをおわびします。R5.5.28
2023.06.25
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小津映画の特徴はタイトルバックの布地模様だ。これはドンロゴスというもので、コーヒーの豆を入れる麻袋だ。日本人の日常生活をテーマとする象徴的に使っているのであろう。神奈川近代文学館では5月28日まで「小津安二郎展」が開かれている。文学館と映画監督の取り合わせは不思議に思うが、小津と文学の関係は深い。展示内容をみると、それがわかる。 驚くのは会場入り口である。外国へ来たかの印象である。小津がいかに世界的な映画監督であるかの展示である。小津の一番有名な映画「東京物語」の海外版ポスターは「TOKYO STORY」はオーストラリアとニュージランドでDVD発売のプロモーションで使われた。「秋刀魚の味」、「小早川家の秋」はフランスで上映された時のタイトルはフランス語になっている。「父ありき」はカンヌ、「東京暮色」はベルリン、「風の中の牝鶏(めんどり)」はヴェネチアの、それぞれ国際映画祭で使われたもののようだ。入口には英語の展覧会解説が用意されている。展覧会冒頭部分を英訳したもので、写してみると、「World's OZU」という見出しの次に、「Yasujiro Ozu once told his cameraman Yuharu Atsuta,"Someday,foreigners will understand my films",and that someday is probably now.(訳:小津安二郎はかつてカメラマンの厚田雄春(あつたゆうはる)に語った。「いつか外国の人が僕の映画を理解するだろう」と。そしてそのいつかはたぶん今なのだ」 黒沢明や溝口健二が国際的に高い評価を得ていたが、小津安二郎はあまりに日本的という理由で海外への進出は遅れた。小津の没後50年を経た2012年(平成24年)、「東京物語」が映画史上第1位になった。英国映画協会は10年に1度映画史上最高の映画を決めており、映画監督による投票で第1位、批評家による投票で第3位になった。小津がカメラマンに語った言葉が現実になった。 会場へ入って見よう。まず特異なカメラが展示されている。今ではテレビカメラはテレビでよく見かけるが、映画撮影用のカメラは撮影所見学以外で見ることはほとんどない。ずいぶん背の低いカメラだ。これを小津は愛用していた。このカメラで小津のローポジション画角が生み出された。ミッチェル撮影機というもので戦後松竹で使われていた1台だ。なぜ、このカメラを使ったか。この後、見てゆく展示の中に小津の言葉が出てくる。「カメラを低く置いたアングルを多く使うのは、畳の上で暮らしている日本人の視線にふさわしいもの…これは個人の好みの問題ですが」 小津は1903年(明治36)東京深川で生まれた。9歳の時、父の故郷の三重県松坂に引っ越した。柔道好きの暴れん坊だった。学校はあまり好きでなかったようだ。大学受験は何回も落ちた。学校に行かず活動写真に夢中になった。父には映画の道に進むことを話せず、小学校の代用教員になったりした。両親は映画監督になることは反対したが、決心は揺るがず、松竹キネマ蒲田撮影所に入社することになった。撮影部助手になった。反骨精神とユーモアを解した小津は城戸四郎所長に見いだされ監督に昇進。第1作は時代劇「懺悔の刃」だったが、以後19本のサイレント映画を撮ったが、現在、これらのフイルムはほとんど残っていない。文学館で最近、発見された「突貫小僧」、「和製喧嘩友達」の活弁付き無声映画上映会が行われる。5月13日、午後2時から。文学館へ電話申し込み(045-622-6666)かホームページからの申し込みフォームで。弁士は澤登翠(さわとみどり)。澤登は法政大学文学部哲学科卒業という異色の弁士。 1931年、満州事変勃発。小津に召集令状が届いた。1年10カ月、中国戦線にいた。1933年、除隊後、日活の山中貞夫と京都で出会う。付近に騒音のある蒲田撮影所はトーキーの撮影に適さず、1936年大船に撮影所を竣工した。1937年、東京竹橋の歩兵連隊に入隊。上海から各地を転戦した。 ここで小津映画のいくつかを紹介する。「晩春」は鎌倉で一人娘(原節子)と暮らす大学教授(笠智衆)。妻を早く亡くした父が心配で結婚をためらってる。父は一計を案じ、京都への旅を決断する。ある旅館で父は娘に結婚の意義を説得する。ここの説得の言葉がすばらしい。独身で生きようとする娘に結婚を決断させる論理は見事だ。これだけのセリフを創り出した小津は独身で通した。晩年は母と一緒に暮らした。「麦秋」も同じような設定である。結婚に興味のない娘は会社に勤め秘書として生きている。この映画は二つの場面が対照的に描かれる。会社が入っているビルの窓と鎌倉の静かな露地から入る家の玄関。料亭と普通の家の茶の間や二階。二つの画面をぶつけるのは俳句の二物衝突という手法だ。風鈴の映像から家庭の中へ、という場面設定の繰り返し現れる。「風鈴や茶の間の中のなんとやら」という映像展開だ。最後に縁談話が次々ともたらされる。さて次回は小津の戦後復帰と小津最大の傑作「東京物語」を取り上げる予定だ。 小津安二郎に関する参考文献「小津安二郎の芸術」佐藤忠男(朝日選書上下2巻)「監督小津安二郎」蓮實重彦(ちくま学芸文庫)「小津ごのみ」中野翠(ちくま文庫)「小津安二郎の美学」ドナルド・リチー(フイルムアート社) DVD「小津安二郎大全集」(株コスミック出版、大きな新聞広告を出す「映像と音の友社」で入手可能、1980円)
2023.05.07
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今年のNHK大河は「どうする家康」である。様々な苦難に家康は、どう対処したか、というテーマであることがタイトルからわかる。信長、秀吉が人気があったが、さて徳川家康とは、どんな人だったか。小説では山岡荘八の「徳川家康」というのがあったが、これは大長編でとても読み切れない。大河のおかげで書店には、柳の下のドジョウ本が多く並んでいる。会社の経営者が組織運営の要を学ぶ目的で読まれているようである。 まず第一に磯田道史の「徳川家康弱者の戦略」(文春新書)が多くの人が手に取るようである。この本は「家康の歴史の細部を学ぶ本ではなく家康の後姿から、今を生きる人々が何かを得られる本」と書いているように人生教訓本だ。家康の伝記的流れは無視しているので、ある程度家康の戦史を知っている人にとっては面白いかもしれない。 本郷和人の「徳川家康という人」(河出新書)は、帯に「家康はこうした!」と大河の「どうする家康」に応答するような、ドジョウ本である。本郷先生に5~6時間話させて、書き起こしたような内容である。最後のページに編集協力者という影武者の名前が入っている。これも家康の伝記的流れを知ってないと、分からなくなる雑学的内容である。本郷先生の吠えるような口調を味わいたい人には面白いだろう。 もう少しまともに家康史を知りたい人には、二木謙一「徳川家康」(ちくま新書)がある。もう一つ、松本清張が子ども向けに書いた「徳川家康」(講談社火の鳥伝記文庫)が非常にわかりやすい。大人向けの文庫本もあるようだが、入手したのは子供向けだった。といってもこれは清張史観が出ている。二木、清張本は家康の誕生からその死まで描かれている。歴史本で分かりずらいのは、今川義元に人質になるところだ。なぜ竹千代(家康の幼名)は人質になったか。現代では人質は犯罪だが、戦国時代は戦略の一つだった。自分の子供や家族を相手に預け、裏切らないことの保証にするのである。 ここで、二木、清張本を参考に家康の誕生からその死まで略記しておこう。戦記、戦闘場面は他の本を参照のこと。 名古屋から東海道を東京方面へ15㎞のところに岡崎市がある。1542年、家康は岡崎城で生まれた。父は松平広忠、三河の小大名だった。三河は今の愛知県の東半分の領域だった。三河の東は今川義元という大名がおり、西の方には織田信秀という強い大名がいた。信秀の子供が信長だ。松平家は、この今川、織田に挟まれて、いつもびくびくしていた。朝廷は京都にあった。朝廷から位をもらい、日本を統一することが、当時の武将の夢だった。上杉謙信、武田信玄、北条氏康が京都へ上ろうと競っていた。今川義元は京都へ行きたかったが、途中に織田信秀がおり、これを倒さないと京都へ上れない。松平家は義元を頼った。織田が攻めてきたとき、戦闘の加勢を求めたのだ。 家康の幼い時の名前は竹千代と言った。母は水野忠政の娘で於大の方(おだいのかた)で竹千代は3歳まで岡崎城で育てられた。於大の方の兄が織田方についた。広忠は今川義元から疑われると思い、妻を離縁した。竹千代の母は水野家に戻った。松平家の家来の中でも織田派と今川派に割れて争いがあった。1547年、織田信秀が三河に攻め込んできた。広忠は驚いて今川義元に使いを出した。「織田が攻めてきたので軍勢を出してください」。この頼みに義元はずるい笑いが浮かんだ。「お頼みは伺ったが、ただでは兵は出せない。いつ織田へ寝返るか分からない。ご子息の竹千代を人質に出しなさい。そうしたら加勢にまいろう」と広忠殿に伝えよと使いに言った。 竹千代は3歳で母に分かれ、6歳で父と別れねばならなかった。後に広忠は暗殺され、これが永遠の別れとなった。広忠は、これより前に二度目の妻に戸田康光の娘をもらった。戸田康光自身は織田信秀側に与(くみ)していた。このことを広忠はまったく知らない。竹千代は義元の領地の駿府へ護送されるとき、戸田側に拉致され、信秀側に連れていかれる。戸田は金銭で信秀に売り渡した。広忠は子供が人質にとられても義元を裏切ることができなかった。まもなく広忠暗殺という事件がおこる。広忠の死の二日前に織田信秀も病で死んだことが伝わる。義元はこれを聞いて軍勢を安祥(あんじょう、現在の安城市)に差し向けた。安祥には織田信弘という信長の兄がいた。たちまち安祥を攻め落とし、信弘を虜にしてしまう。今川は竹千代と交換に信弘を返すという条件を出す。竹千代は岡崎へ帰ることはできず、駿府へ人質の身の上で移送される。駿府は今の静岡市である。ここで竹千代は19歳まで人質生活という青春時代を過ごす。1555年、竹千代は14歳で元服した。義元の名前の一字をもらって元信と名を改めた。ここで故郷の岡崎へ一時帰ることを許された。元信はふたたび駿府へもどった。このとき祖父の清康から一字もらい、元康と名を改めた。西の尾張では織田信秀が死んだあと信長が後を継いだ。信長はバカ殿様という噂がとんでいたが、尾張を平定し三河にも手を出すようになっていた。義元は織田攻めを決意し、元康(後の家康)にその大将をつとめさした。初陣である。信長がたの寺部城をたちまち落としてしまった。 1560年、信長を攻めるため、今川義元は大軍を率いて西三河から尾張に入った。丸根、鷲津の織田の出城を攻め落とした。義元は元康に大高城を守っているようにと休息を言いつけた。義元は二つの城を落として意気揚々である。「信長の首をとろうぞ」と上機嫌で桶狭間に宿営した。一方の信長は清州城にいた。信長はバカのふりをしていたが近隣領主を油断させる芝居だった。義元が桶狭間に留まっているのを聞き「しめた。勝ちはこっちのものだ」と心の中で思った。夜が明ける頃、信長は立ち上がって、よく通る声で謡曲の「敦盛」を舞った。「人間五十年。下天(げてん)の内を比べれば、夢まぼろしのごとくなり…」とおわるやいなや「具足をもて。目指すは桶狭間だ」と馬に乗って走りだした。桶狭間を見下ろす山に登って様子を窺った。「ものども、かかれ」と大声をあげ、槍を取って義元の陣に馬で駆け下りた。今川勢は慌てふためいた。義元は防戦したが、その場で殺された。その日の夕方、義元戦死の報は大高城に居た元康の下に届いたが信じられなかった。 桶狭間までの略史だ。次に紹介する本は専門書で、少し難しい。研究者向けだ。 柴裕之著「青年家康ー松平元康の実像」(角川選書)柴はNHK大河の時代考証を努める東洋大学講師。現在の家康の人間像は家康が天下人となるのを必然と捉えた松平・徳川中心史観で捉えらていると批判し、戦国大名と国衆の関係をとうして捉えるという提起をしている。前半は安城松平家の内紛が述べられ、竹千代誕生は第2章の中ばになる。歴史の流れは桶狭間までである。 「定本徳川家康」本多隆成(吉川弘文館)著者は放送大学静岡学習センター所長。大阪大学史学科卒業。静岡大学で講師をしていた。静岡にこだわりがあるようだ。家康研究の拠点にされている。A、B、Cと学説を並べ、自分はCの学説が正しいと述べていくスタイルで家康の行動を書き表していく。東海地域にこだわっている。江戸期については割愛したと「はじめに」で述べている。 「人物叢書 徳川家康」(吉川弘文館)。藤井譲治京都大学名誉教授の本は古文書・古記録によって家康の人物像を描くという本格物。読むのは相当むずかしい。磯田が本冒頭で批判した「木を見て森を見ず」というのは、この本のことだろう。素人は森の中で迷子になってしまう。木と森、両方をバランスよく読むことが肝心。
2023.04.09
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昨年8月、ある病気にかかり10日ほど大きな病院に入院した。コロナ禍で入院手続きは厳格だった。コロナ病棟と一般病棟のどちらに行くか病院のチェックは何重にも行われた。相部屋だった。そこは健康だった人が突然の病気で修羅場に置かれる現場だった。相部屋は私を含め4人。ほとんど中高年である。一人は寝たきりの状態で大小便たれ流し、病因はわからない。便所に行けない苦しみとはどんなことか。オムツ交換を日に何回か行う。夜中の2時に行うこともある。別の一人は建設現場を統括する棟梁のようで脳溢血に見舞われたようだ。病院はスマホ持ち込み禁止になっているが、夜中に呼び出し音がピーピー鳴っている。看護師が気付いていたようで、翌日別部屋に移動になった。 もう一人は難病で、看護師は関西の大学病院に情報の提供と対処のアドバイスを頼んでいた。大学病院にはこの難病を研究している専門家がいるのであろう。ベットの周りはカーテンで仕切られて顔はみえないが、話し声は筒抜けである。働き盛りの50代で病気を抱えて、どのように会社勤めをするか。カウンセリングの専門家をまじえての相談がおこなわれていた。 中高年は、ある日、突然、病に襲われることがある。日々健康に過ごせるということが、どんなに素晴らしいことかを思い知らされた。さらに病院の看護師の仕事がいかに過酷かを知った。夜中の2時、4時に点滴交換、トイレの手伝い、尿瓶(しびん)の処理、病気の急変、ゆっくり寝ていられない。 こうした看護士養成、看護士の再学習のための科目が放送大学にある。一般の人は科目一覧を見ても見過ごしてしまうだろうが、中高年の人にもぜひ聴講してほしい科目だ。いきいきと健康に過ごすにはどうしたらいいかが、この科目のテーマだ。実際的、実用的内容ではない。大学の授業なので「理論」が延々と論じられる。難しい内容である。教授は少しでも分かりやすくするための工夫も施されている。根気よく内容を追っていけば理解可能である。そのためテキストは絶対入手する必要がある。人生をこう生きれば楽に楽しく過ごせるかというアイデアも盛り込まれている。 その科目は「健康への力の探求」である。放送大学の戸ケ里教授のほか、聖路加国際大学、横浜市立大学、東京大学医学部の教授の講義という多編成である。 まず、病気とは何か。病気に対する英語は分析的に分けられている。disease,illness,sicknessである。これを日本語で区別すると、ディヅーイズは医学的診断のある「疾病(しっぺい)」、イルネスは本人がそれをどう感じているか、受け止めているかという「病い(やまい)」、シックネスは周囲や社会がどのようにみなしているかという「病気」である。医学的な解明が途上な、先の病院での難病などは「疾病」になっていない。しかし本人が感じているので「病い」である。慢性疲労症候群などは「怠けている」と周囲や社会が差別感情をわかせる「病気」である。日本語で表現するには限界がある。残念ながら、この違いを表す日本語がないのである。疾病、病い、病気と言っても、違いがはっきりしない。 ここでは、この授業の要点のみ紹介する。第1回目は授業全体の概要である。そもそも「健康」とは何かが述べられる。授業の本題は健康へのキーワードがSOCであると紹介される。SOCとは何か、がポイントである。これがわからないと授業全体が理解できなくなる。イスラエルの健康社会学者のアントノフスキーが発見した概念で健康増進、健康を創り出す元になるものである。基本的解説が2回から5回の3回くらい費やして解説される。SOCは英語のsense of coherenceの頭文字をとった略語で、首尾一貫感覚と訳されている。これだけでは何のことか、さっぱりわからないが、病気などの困難に直面したとき、色々な情報や社会資源(病院、医者、看護士、薬剤師)を利用し、病気に対処する力のことである。色々な情報と言ったが、これも自分にとって必要な情報は何かを判断する力が必要である。これがもう一つのテーマである。ヘルスリテラシーをどのように養うか。職業としての看護をする人にとって必須の知識である。 中高年の人が良く見るBSテレビには健康情報があふれている。肩が痛い、腰が痛い時には、このサプリ。便が出やすくなるお茶、血圧を下げるコーヒー、視力が回復する薬、腰痛には薬湯。電話をかけると随分高いものばかりである。本当に効果があるか不明の物ばかりである。効果がなくても文句は言えない。必ず「私はこれで治りました」というコメントが挟まれる。お金をもらって言わされてるのではと疑われる。こういう情報をどう判断するかがヘルスリテラシーである。授業では、こうした情報への判断基準が示される。中高年の病気がちの人にとって重要情報である。ちなみに便秘のとき、医者は便秘の状態によって異なる薬を処方する。お茶を飲めとは言わない。便を柔らかくする薬、強制的に便を出す薬、コロコロ便の場合と症状によって使い分ける。保険が効く薬なので安い。 戸ケ里教授の話は理論なので理解するには難しいが、まとめとしてライターの河合薫さんの講演がさしはさまれる。やはりSOCを学んだ方らしくフィールドワークで各界の働く人600人に健康についてのインタビューした内容で、SOCの具体例が紹介される。この話は非常にわかりやすく理論の実際の適応例になっている。改めて戸ケ里理論を読み直すと、なるほどと合点がいくことになる。 テキストはアマゾンでも入手可能で、ラジオで聞ける(放送大学のラジオはBSテレビに入っている。)放送大学選科で1科目登録でインターネットで何回でも授業が聞ける。 以下のURLは「健康を決める力」は補助教材で提供されている。分量も相当あるので、時間があるとき、ゆっくりお読みください。これをテキストとしてもいい(大学テキストと重複箇所もある)。アメリカの健康判断情報も翻訳されて読める。 健康を決める力http://www.healthliteracy.jp/
2023.03.19
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漢文や古典文法をゼロから学ぼうと考えている方はいらっしゃいませんか。最近はパソコンで文章を読む方が多いと思いますが、きちんと読めているでしょうか。手紙を書こうと思っても漢字が書けなくなっていることに気付いている人も多いでしょう。情報だけ受け取ればいい。新聞もインターネットで読む。SNSはほとんど短文で書かれ、忙しい現代人には便利です。しかし思考はほとんど働かない。 ちょっと難しい文章は読めなくなっている。大学のテキストも目を通すだけで中身はわからない。ガックリくると思っている方、改めて日本語の読みを訓練されてはいかがでしょうか。そんな時、便利、無料の学習方法があります。NHKの通信高校で「言語文化」という科目があります。テキストを購入する必要がありますが、授業はラジオ、インターネットのホームページで無料で学べます。 中高年世代には「言語文化」という科目はなかったはずです。最近の高校生の国語力の低下という社会状況を反映して、こういう科目が生まれたのでしょう。われら中高年も同じ状況です。学校を卒業して40年、50年、毎日決まりきったルーティーン作業をして生活してくると深く考えるということをしなくなる。歴史の本を読んでいて、漢文がでてくると飛ばして読んでいる。諦めてしまう。著者がなぜ、ここで漢文の引用文を置いているか考えない。意図が見えない。たちまち文章の要旨がわからなくなる。 この科目の教科書は、東京書籍「新編言語文化」です。学習書、いわゆる虎の巻は必要ないです。教科書に漢文の読みが入っている。ホームページ参照でもいい。教科書の入手は近くの本屋に注文すれば入手可能です。ホームページに教科書を取り扱う書店名が県別に記載されている。丸善は教科書の取り扱いはしていない。面倒くさければ、アマゾンでも入手可能です。出版会社に気を付けてください。 「言語文化」は主に現代文、古文、漢文がメインで、一流の高校教師、大学教授が講師になっている。現代文では随筆、詩歌、小説を扱い、古文では古典文法、漢文は渡辺恭子先生の熱血講義が聞きものです。渡辺先生の漢文では初歩の初歩から漢文の読み方指導で3回目くらいから漢文が読めるようになる。最後が「三国志」になり、これがなかなか難しい。「三国志」は中国の3世紀の魏・蜀・呉が争う三国時代の話だ。「三国志」は陳寿が書いた歴史書で魏を正統としている。後に「三国志演義」という歴史小説が現れる。主人公の曹操は悪漢として描かれる。正史の「三国志」では時代の変革者として描かれ、「演義」とは逆になっている。日本の「三国志」は、ほとんど「演義」を翻案したものである。吉川英治や、最近では若者はゲーム、マンガで読まれている。横浜や長崎にある関帝廟は関羽を祀ったもので、「三国志」関連の寺である。 古典文法は体系的なものでなく、古文読解のなかで説明されるので具体的でわかりやすい。たとえば助詞の「ぬ」の意味の区別は徒然草189段の文章「思ひ寄らぬ道ばかりはかなひぬ」の「寄らぬ」は打消しで、「思い寄らない」の意味、最後の「かなひぬ」は完了で「かなった」の意味になる。この区別はどう判断するか。「ぬ」の前の言葉が未然の場合は、打消しになり、連用の場合は完了になる。「寄ら」は未然で、「かなひ」は連用である。これはもちろん用言の活用があるということ知ってないと判断できない。活用は別の古文で説明されている。俳句や短歌を創作する人にとっては必ず知っておかないといけない「ぬ」の区別である。 現代文でも「読める」と思っていると流して読んでいると全く「読めて」いないことに気付かされる。芥川の「羅生門」での主人公の心理の動きが表現されていて、物語として読んでいると気付きにくい。芥川はどういう表現、道具を使って書き分けているか。ここの所が「読む」行為の醍醐味で、対人関係でも社会対応にしても「読む」行為をしているわけで、大げさに言うと人生を左右するものである。 現代詩は多くの人は、ほとんど読まないが、高村光太郎、佐藤春夫、吉野弘の詩を教材に解説される。教科書には「詩の読み方」という解説があり、さらに勉強したい人に、茨木のり子の「詩のこころを読む」(岩波書店)という参考文献が紹介されている。 「言語文化」という科目は日本語の読みを一つの技術として修得するねらいがあるようである。 (参考)教科書は必ず指定のものを購入。ホームページ参照。教科書は常に更新されている。学年更新時(3月、4月)は要注意である。先日には地図帳の大量校正ミスが発生し、ニュースになった。
2023.02.26
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奈良大学の通信教育の学生募集の資料が届いた。昨年の3月に資料請求したが、ちょっと自分には無理とあきらめた。今度のは過去に資料請求した者に再度送られたものだ。あきらめた理由と応募する方のために概要を紹介する。本ブログは基本的にお金をかけないで生涯学習を続ける趣旨で作っているので、かなりの費用が掛かるものは除外している。奈良大学の場合、学費は年間19万円になっているが、選考料、入学金、スクーリング等入れると4年間で1030000円、2年間で479000円かかる。大学、短期大学卒業者は原則3年次編入になるので2年間で卒業になる。奈良大学は奈良にあるので関東地方、東北、北海道の方は交通費、宿泊費もかかるのは当然だ(総費用は表示学費の倍はかかる。以下の京都芸大も同じと考えておこう)。 奈良で歴史を学ぶのは非常に魅力的だ。関西を旅行する時、大抵は京都を選び、奈良は二の次になりやすい。しかし奈良は日本の原点になるような史跡や寺が多く、スクーリングの帰りに見学する機会が多くなる。またスクーリングでは現地訪問があり、専門家の話も聞ける。奈良大学で歴史を学ぼうと考える人は、多くがこんな所にひかれるのではと思う。 資料を読んで行くと、費用以外に難しい所があるのに気付いた。授業はテキストを読むという古典的なスタイルである。2023年3月まではコロナ禍でスクーリングと試験は在宅で行っていたが、4月以降はスクーリングは対面になる予定だ。在宅というのはインターネット受験か試験用紙を送って来るのかは不明である。今は、ほとんどの大学は大教室授業はインターネット受講になっている。グループワーク、実験や語学などは面接授業で、どちらを選ぶかは学生側が決める。奈良大学は資料で見る限りオンライン授業はないようだ。 資料の中に文化財学と歴史学はどのように違うかのコラムがあった。この二つの違いは扱う資料(史料)の違いだという説明があった。文化財学の場合、考古資料や美術資料などモノが研究対象であり、歴史学は文字をともなう資料が研究対象になるという説明が書かれている。どんなことを学ぶのか科目が一覧されている。この科目一覧は独学で学ぶ人にとって非常に参考になる。文化財学の場合は資料をどのように扱うかが主要テーマになり、歴史学の場合は資料をどう読むかがテーマになる。仏教については「仏教考古学」という科目があるが、「仏教学」「宗教学」の科目はない。坊さん養成所ではないということか。教養科目に「人間論」という科目があるが、倫理、哲学、宗教を含めた科目なのかもしれない。ちょっと意味不明の科目だ。 驚くのは「考古学」のテキストが放送大学のものと同じであることだ。放送大学の「考古学」は奈良大学の教授が担当していた。テレビ授業で、発掘現場や掘り出された史料を実際に見るという所に重点を置いたものだ。放送大学はテレビで無料で聴取できるので、この講義はテレビで見ることができる。 奈良大学にはテレビで有名な千田嘉博教授がいる。ところが専門の「城学」という科目はない。考古学に所属されている。 読売新聞に歌手の橋幸夫さん(79歳)が京都芸術大学の通信教育で書画コースで昨年から学んでいるという記事が出ていた。書道を学問的に学ぶというのである。こちらは完全オンラインである。近所の書道塾で子どもと一緒に学ぶのとは違う。芸術としての書道である。書道の歴史から構図論、空間論、余白論等の芸としての書道である。京都芸大にはもちろん「歴史」もある。「歴史遺産」という科名になっている。こちらはオンラインで受講できる。仮受講でもすばらしいオンライン授業を視聴できる。試してみる価値がある。もちろん無料である(資料請求が必要)。芸術方面に関心のある方はぜひ試してみてください。京都芸大はネットで検索してください。関東地方の方は東京にも校舎があり、スクーリングが受講できる。奈良大学の方は博物館学芸員という職業を得るための学問であり、京都芸大は芸を極めるというプロフェッショナル養成が目玉のような気がする。橋幸夫さんは卒業時、個展を開くことが目標と語っている。歌の芸と書の芸を極めるという中高年にとっては最高の人生である。 奈良大学の出願期限は4月入学の場合、3月3日締め切りである。 奈良の歴史を詳しく知りたい方は「奈良観光ガイド」で検索すると有料、無料のガイドが出てくる。ガイドの質については人柄によるので有料、無料は判断の基準にならない。もちろん奈良へ旅行する場合、関連書を読み漁ることが重要だ。あくまでもガイドはガイドだ。大学の学問の代わりにはならない。 奈良大学通信教育部事務室TEL 0742-41-9564FAX 0742-41-9604受付時間 平日:9時~16:30 土曜日:9時~12時
2023.02.05
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昨年(2022年)、森鴎外は生誕160年、没後100年に当たっていた。1862年に生まれ、1922年に亡くなった。様々な記念行事が行われていた。2023年1月29日まで、東京文京区立森鴎外記念館では特別展「鴎外遺産」が開催されている。ここでは昨年発行された岩波新書「森鴎外ー学芸の散歩者」(中島国彦著、岩波書店)と1992年発行の「鴎外 森林太郎」(山崎國紀著、人文書院)を参考に森鴎外(林太郎は本名)の人生をたどってみる。鴎外を読むときの参考にしていただきたい。 鴎外は各社文庫本で多く出されている。多分、数ページ読むだけで「これは読めない」と思うはずである。明治の文学であり、語彙が難しい、やたらとドイツ語、英語の言語が出てくる、初期の作品は文語であり、古文を読んでいるという感じがする。文庫でも難しい語彙やドイツ語については注が施されているが、巻末にまとめられているため、わずらわしくなってしまう。筑摩書房「明治の文学14巻、森鴎外」はページの下に注がほどこされ、文章を読みながら参照できる。鴎外の小説でビックリするのは、タイトルが外国語になっているものがある。「ヰタ・セクスアリス」、「カズイスチカ」等である。前者はラテン語で性的生活、後者はラテン語で臨床記録の意味である。なんとなく、俺はこんな言葉を知ってるんだぞ、というような嫌味を感じるが、ここのところは「ああ、そうですか」と流して読んで行こう。 岩波の中島国彦さんは早稲田大学教授である。この本は大学の国文学の授業のようで、鴎外の文学の概要が書かれている。鴎外の全体を把握するのに最適だ。帯の宣伝文句に「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない」と書かれている。これは現在進行の政府の学術会議への介入に対する批判になっている。帯は編集者が作っているのだが、これは実は、鴎外の文章で、この本の最後の方に書かれている。100年前に書かれた警句が現在の状況を照らしている。鴎外がなぜ、こうした警句を書いたかに注目して本書を読んで行くと単純な体制内文学者という批判は的外れであることがわかる。 山崎國紀さんの本は、さらに突っ込んだ本で鴎外文学の核心にあるものを暴いている。山崎さんは立命館大学卒業後、花園大学で近代文学を教授している。大岡昇平、中野重治等の鴎外に対するイデオロギー的批判がいかにうすっぺたいものか論じられている。大岡、中野の鴎外論では、政府官僚のトップに立った鴎外が有名な遺書に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と書いた真意を理解できないだろう。普通は「〇〇省〇〇局局長」という職名を誇らしく書くところだ。 森鴎外とは何者か、どんな人生を歩んできたかをたどって見ないことには複雑な精神内容をもつ文学者を理解できないだろう。鴎外が生まれたのは島根県津和野(つわの)。昔は石見国(いわみこく)と言った。この町は観光名所として多くの旅人を迎えている城下町である。小京都とも言われる。藩主が建てた藩校養老館が復元されている。森林太郎の生家、森鴎外記念館もある。観光客がほとんど行かない乙女峠は鴎外を勉強する人にとって重要な所だ。行かれる方は観光案内所で地図をもらい、足を延ばしてもらいたい。駅から徒歩10分ほどだ。津和野藩が預かっていた隠れキリシタンを新政府の方針で弾圧、27名を殉教させてしまう出来事が起きた場所だ。昭和26年にマリア聖堂が建てられている。鴎外は、この出来事にはまったく触れていない。ここにも鴎外の複雑な精神の葛藤があった。 林太郎が養老館に通い始めたのは7歳の時だ。倫理道徳の教科書「童蒙入学門」の筆者から始めた。この写本が先の記念館に収められている。内容理解はともかく、しっかりした書跡でただしく写されている。岩波新書には写真版が出ているが記念館へ行かれる方は本物を目に焼き付けてほしい。漢字の字形がきちんと捉えられている。子どもの字とは思えない。明治の初期は現代のように本は簡単に入手できない。写本として自分の本にしなければならない。雑誌も絵本もない中で、百人一首や浄瑠璃本、謡曲の筋書きなどを見て文字を覚えた。明治5年、林太郎は父に連れられ東京に出た。落ち着き先は向島の亀井家の下屋敷。まもなく医学校に進学するためにドイツ語を学ぶ本郷壱岐坂の進文学舎に通う。この時、鴎外は西周(あまね)の家に下宿していた。 明治7年、第一大学区医学校に入学。この学校は後に東京医学校→帝国大学医学部になる。東京医学校の時には寄宿舎が整備され、鴎外はここで何人かの友人を得た。明治14年、東京大学医学部を卒業した。友人の小池正直が林太郎の事を心配し、陸軍軍医本部次長に手紙を書き、陸軍入りを依頼してくれた。これが功を奏し東京陸軍病院での職を得られた。林太郎は徴兵検査のために各地に出張し、公務をこなした。明治17年、ドイツへの留学の命が下りた。 ヨーロッパ各地をめぐり、先進の衛生学を学び、ナウマンとの論争があり、明治21年帰国。ここから軍務と同時に文学活動が開始される。ドイツ3部作と言われる「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」が生み出される。帰国と同時に、林太郎を追って、一人の女性が横浜へ着いた。エリーゼ・ヴィゲルト、当時21歳である。これが「舞姫」と同じ状況になった。エリーゼに対する日本側の対応は冷たかった。35日後、エリーゼは寂しく横浜港から離れていった。「舞姫」ではエリスになっている。エリス=エリーゼとして考えると鴎外にとってエリーゼは、どういう女性であったか。鴎外の妹の小金井喜美子は単なる「行きずりの女」と書いたが、これは家族エゴであり、鴎外の権威を守ろうとしたというのが山崎教授の見解だ。ここからエリーゼ論が展開される。軍務と家族との葛藤が鴎外文学を育んだということになる。 中島教授の本では、ここから鴎外概論である。各小説の梗概、鴎外が明治文学興隆にはたした役割、なぜ歴史・史伝小説を書くようになったか等が論じられる。ポイントのみの紹介になるが、たとえば「青年」という小説は地方から東京に出てきた青年小泉純一の東京彷徨記である。純一は「東京方眼図」という地図を持っていた。縦、横に線が引かれて、縦が「一」、「二」と番号が振られ、横には「い」、「ろ」と番号が振られ、その方眼の位置で住所の場所がわかるというものである。現代の地図は多く、この方式で位置がわかるようになっている。ヨーロッパの大都市の地図には、この方式が取られ、鴎外がこの方式を紹介した。純一はこの地図を持つことで、東京には詳しく、行ったことのないところでも自由に歩ける。個性的な人物との出会いももたらされる。この小説のポイントはお雪と妖艶な坂井夫人の目の表現であると中島教授の教示である。 中島教授は永井荷風の鴎外認識を示す印象的文章を、この本の冒頭と最後に引用してる。冒頭部の「鴎外先生」は、 「先生は「社会」と云ふ窮屈な室を出て、「科学」と云ふ鉄の門を後にして、決して躓(つまず)いた事のない、極めて規則正しい、寛闊(かんかつ)な歩調で、独り静に芸術の庭を散歩する」 「鴎外の本質をしっかり凝視し、過不足がない」と評する。最後のものは、「文学」1939年6月号の「鴎外全集を読む」から、 「文学者になろうと思ったら大学などに入る必要はない。鴎外全集と言海とを毎日時間を決めて三四年繰り返し読めばいいと思っております。」 大学教授の中島先生は、すかさず「鴎外全集と言海のみを読んでいれば文学者になれるわけではない。言葉を駆使する能力と鴎外の備えていた見識と感受性を読み取ることが大事である」とコメントしている。荷風の表現を文字通り実践した文学者がいた。松本清張である。清張は朝日新聞西部本社での版下係だった時、給料が安かったので小倉図書館で鴎外全集を耽読していた。鴎外の「独身」をモチーフにして、「或る「小倉日記」伝」を書き、芥川賞を受賞、作家デビューした。小倉の脳性マヒの若者が小倉時代の鴎外の足跡を調べようとする物語である。清張は脳性マヒの病状をよく調べている。モデルとなった本人にも会っている。小説では実在の人物より障がいを少し重めに設定されている。「独身」に「伝便屋(でんびんや)」という職業が出てくる。「独身」は筑摩の「明治の文学14巻 森 鴎外」に掲載されている。 鴎外を読むと日本語の語彙の豊かさに驚かされる。ボキャ貧の私には知らない語彙ばかりである。こんな言葉があるのかと広辞苑で調べるとちゃんとある。英文解釈ならぬ、日文解釈のつもりで読んで行くとボキャ貧はすぐ治る。日常会話に使えるわけではないが。 次回更新は2月5日予定。
2023.01.08
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政府が昨年からマイナンバーカード普及のため始めた事業がマイナポイントを付与するという特典だ。カードを取得するには面倒、利用方法がわからないなど、国民の半分にソッポを向かれている。そのためカードに健康保険や運転免許などの機能を加えようと考えられている。 マイナポイントもITに弱い高齢者には壁が高すぎる。マイナンバーカードの申請も今月12月末(令和4年、延長されるかも)までとなっており、いよいよ高齢者には無用のものになりつつある。制度設計が若い人中心になされており、高齢者への広報はほとんどない。マイナポイントの申請もスマホやパソコンで行うというものだ。役所でカード申請時に役所の人にポイント申請も同時に頼むことも可能だ。スマホやパソコンを持ってない人は、この方法しかない。誤解しやすいのがポイントはマイナンバーカードに付与されるわけではない、という点だ。お使いの決済カード(楽天カードやアマゾンカード、スイカ等)に付けられる。 ここではマイナンバーカードをすでに取得した人が、どうやってマイナポイントをゲットできるかを説明する。スマホ操作が不得手の人に裏道、虎の巻もお伝えする。うまくやると20000ポイント(円)、家族4人の場合は、80000ポイント(円)が転がり込む。物価高、年金縮小の時代、ぜひチャレンジしてもらいたい。国民全員が対象なので赤ちゃんも含まれる。 マイナポイントの申請は3つの方法、場所がある。スマートフォン、パソコン、市町村の窓口である。スマートフォンはまずアプリ(マイナポイントアプリ)をダウンロードする。マイナンバーカード申請時に設定したパスワードを入力。マイナンバーカードの読み取りする。これはお持ちのスマホによって方法が違うので、それぞれに従う。《読み取れない場合》のガイドを参照する。申し込み可能なキャンペーンは3つある。カードの新規取得で5000ポイント、健康保険証として申し込みで7500ポイント、公金受け取り口座の登録で7500ポイント。すべて申し込めば20000ポイントになる。次に決済サービスの選択になる。これは日頃よく使うカードを選択する。次が決済サービスのID,セキュリティコード、電話番号の入力がもとめられる。これは固定電話ではなく、スマホの番号だ。健康保険は「上記の文章に同意する」でOKだ。マイナンバーカードで保険証として通用する病院は少ないので、従来の保険証を病院へは持っていく。ここは7500ポイント取得するためだけである。公金受け取り口座の入力は注意が必要だ。情報流失の可能性を考えるべきだ。政府事業なのでトラブルがあった場合、補償があるだろうが、ダミーの銀行口座を作って置き、その口座番号を入れるという方法も考えられる。新規取得の5000ポイントというのは、払い込み、チャージした時点で入って来るということに気を付ける。保険証、公金受け取りは何もする必要はなく、自動的に入る(これは2~3日かかる。チャージ、または支払い時、カードを使用した時点になる)。 以上のスマホの手続きは、スマホに相当慣れてないと、難しいし、時間もかかる。ここで裏道はお使いのスマホの営業所の職員に手伝ってもらう方法だ。20分くらいで終わってしまう。パスワード、マイナンバーカード、スマホの電話番号、メール、銀行口座の番号を忘れずに。 パソコンで行う場合は、カードリーダーという機器が必要だ。昨年第一弾で5000ポイント取得した方は除外されるが、健康保険、公金受け取り口座の登録は可能だ。 2023年2月で、この事業は終了とされているが、延長されるかもしれない。申請はお早めに。
2022.12.18
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2025年には段階の世代が75歳以上になり、高齢者問題が本格化する。同時に現役世代が減少し、高齢者が増加する。介護が必要になる可能性がある。現在、親の介護や認知症で困っている方もいるかもしれない。聖マリアンナ医科大学公開講座で「介護保険制度について」というオンデマンド講座があった。ソーシャルワーカーの井上絵里さんの講義の要旨を紹介する。講義のすべてではないことをお断りしておく。この講義は令和4年11月からのもので、検索時期によっては削除されているかもしれない。 介護の問題は一人で悩まないで、以下の相談機関に相談すると様々な情報を与えてくれる。 市町村高齢者支援担当地域みまもり支援センター地域包括支援センター社会福祉協議会認知症疾患医療センター医療機関の相談室 突然の病気で入院、生活、その他の心配事がある場合、病院には医療ソーシャルワーカー(MSW)がいる。社会福祉の立場から心理・社会的問題の解決、調整を行う専門職である。患者支援室、相談室などという部署にいる。病院や役所に相談するのは気が重いという方は地域包括支援センターという相談場所がある。このセンターは市区町村から委託を受けた公的な相談室です。高齢者の地域サポートを総合的に行っている機関です。お住まいの住所によって担当センターが決められているので確認が必要である。 介護保険制度とは、介護を必要とする方に費用を給付し、サービスを受けられるようサポートする保険です。保険ですから、皆で費用を出し、必要な家族給付する仕組みです。財源の半分は税金、半分は保険者が費用を負担する保険料でまかなわれます。40歳から保険料の支払いが義務付けられており、65歳以上の人は年金から天引きされている。 介護保険を利用できるのは65歳以上の第1号被保険者と40歳から65歳の第2号被保険者に分けられます。第2号被保険者というのは特定の16の疾病が原因で要介護状態になった人に限られる。16の疾病というのは、ガン、リウマチ等である。 介護保険の申請の流れは3段階あり、1 申請する2 認定調査3 結果通知 介護認定がでたら、4 ケア・マネージャーを探し、ケア・プランを決定する5 介護サービスが開始される という流れがあることを理解する。 申請方法をもう少し詳しく説明する。介護保険の利用を希望する場合、本人や家族が市区町村の高齢福祉課の窓口に行き、申請する。地域包括支援センターで手続きを代行している場合もある。申請時、介護保険証、マイナンバー(健康保険証等の本人確認ができるもの)、印鑑を持っていく。申請には医学的見解も必要です。役所から主治医意見の記載が求められる。申請書に主治医の名前を記すところがあるので、あらかじめかかり付け医、日常かかっている医者の名前を確認しておくことがポイントである。複数医者にかかっている人は、自分のことをよく知っている医者がいいだろう。医者によっては介護保険について、認識がない場合、適当に書かれてしまうことがある。地域包括支援センターにもケア・マネがおり、地域の医者のうわさ、性格など教えてもらえる。こういう情報は自分が医者にかかるとき重大な意味を持つので必ず聞いておく。 介護保険は、ともかく申請しないと始まらない。申請すると、介護サービスがどの程度必要かという調査が行われる。自宅や病院に調査員が来る。全国共通の調査票に基づいて調査が行われる。身体動作や認知機能についての質問がある。ここでの重要なことは、本人が張り切って、頑張ってしまう傾向があることである。すると軽い程度に認定されてしまう。家族が立ち会って、いつもと違うと判断された場合、調査員が帰り際に日常の様子を伝えることが重要である。ありのままを伝えることである。 調査の結果は1~2か月後。郵送で介護保険証が届く。認定には有効期限があり、認定証に記載されている。暫定の書類でサービスをうけることができる。認定に不満があるときは再診査請求ができる。くわしくは包括支援センターへ。 要介護度とは認定区分のことをいう。要支援1~2、要介護1~5に分けられる。数字が大きいほど「重い」ということになる。結果が届いたらケア・マネージャーを探す。これも包括支援センターに相談。ケアマネは介護サポートの相談役。 サービスの内容は施設サービスと在宅サービスの2つに分けられる。在宅サービスには全国共通の居宅サービスと地域密着サービスがある。自宅で受けるサービスは訪問、通所、短期入所があり、これらを組み合わせる。これら3つを一つの事業所で行っている所もある。在宅医療は、医師、看護師、歯科医師が自宅へ訪問して診療する。薬局も連携する。 介護保険でまかなえない、見守り、生きがい支援を行う民間NPOもある。非該当になった場合、高齢者支援事業を行政が行っている。筋力向上や低栄養の予防である。 介護サービスの費用は1~3割が自己負担になる。負担割合は所得によって異なる。介護度に応じた限度額があり、この限度の範囲内でプランが立てられる。多くのサービスを受けると当然費用が多くかかるので注意が必要だ。 介護保険は3年ごとに改訂される。上記の内容は令和4年のものです。 聖マリアンナ医科大学医学に関する講座あり。https://www.marianna-u.ac.jp/
2022.11.27
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以前、本ブログでは佐倉市の提供する体操を紹介した。順天堂大学監修のもので、大学の公開講座から発展したものだった。4つの体操と佐倉市の風景を楽しみながら行う体操だった。各地域で、このようなオリジナル体操が作られていると思うので、自治体のホームページで探してもらいたい。川崎市川崎区で作られた「ほほえみ元気体操」を紹介する。これは佐倉市のものより、少しきついもので、病後のかたは避けたほうがいいだろう。時間は15分である。 コロナの状況下、ますます身体を動かす機会が減っている。人との出会いも難しい。新聞にスポーツ庁の行った2021年度体力・運動能力調査の結果が掲載されていた。65歳以上の高齢者の体力が低下傾向のあるという結果だった。5万人近くの人からデータを集め、握力、上体起こしの結果を点数化した。周1日以上運動している人の割合も減った。順天堂大学の公開講座では、運動をしていないとどうなるかを調査に基づいて報告するものだった(この講座は現在も公開されている)。体力アップにはどんな意味があるか。興味ある方はぜひ見てほしい。体操することの理論的説得は強力だ。 以下のURLは指導者の掛け声が入っているバージョンである。その他にも様々なバージョンがあり、慣れたら他のバージョンも試みたい。座位編、立位、足腰らくらく、ラップバージョンがある。川崎区内の高齢者施設で行われているようだが、ネット環境があれば居住場所は関係ない。ラジオ体操よりきつい。基本は無理しない。途中でやめてもいい。習慣にする(お気に入りに登録)。毎日から週1回とご自分で選択ください。 ほほえみ元気体操(音声あり)https://www.youtube.com/watch?v=uCkW9loYdDM
2022.11.06
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前回、森下典子さんの「日日是好日」を紹介した。非常にわかりやすい茶道入門書だった。今回はやはり茶道の本の古典、岡倉天心の「茶の本」に挑戦する。元々は英語の本である。天心は日本文化を外国の人に紹介するため、「茶道」を具体例として英語で書いた。欧米人には「茶の本」は知られていたが、英語で書かれたため、日本人には知られていなかった。「The Book of Tea(茶の本)」が出たのが1906年、23年遅れて、1929年に岩波文庫に入った。訳者は村岡博である。 ここでは岩波文庫の村岡訳を読んでいくが、この日本語がむずかしい。一読では理解不能だろう。サブテキストとして、天心の英文に対訳をつけた講談社のバイリンガルブックスの「対訳茶の本」を参考書にする。浅野晃という文芸評論家が日本語にしている。現代人には、こちらの方が理解しやすいだろう。 先にも書いたが「茶の本」は、単純な茶道の入門書ではない。欧米人にむけて日本文化を紹介するものである。似たものに新渡戸稲造の「武士道」等がある。ここでは全7章の主要ポイントを紹介する。これは、あくまでも私的なもので正解ではないことをお断りしておく。本ブログ読者が「茶の本」を読むときの参考にしていただければ幸いである。 まず岡倉天心とは何者か。天心は1862年(文久2)横浜で生まれた。開港記念館の近くに碑が建っている。自宅の角の蔵で生まれたので角蔵と名付けられた。天心はそのことを嫌い大学に通う頃、覚三と名を改めた。母が急逝した後、横浜の長延寺に預けられた。長延寺は開港時、オランダ領事館になっていた。住職の玄導和尚から漢学の基礎を習った。「大学」、「論語」、「中庸」、「孟子」がテキストだった。それ以前に7歳ごろから山下町の高島学校でジョンバクドという宣教師から英語を習っていた。西洋人を顧客とする店の必要性から父親が勧めた。英語と漢学という組み合わせが後の天心の思想を作った。その他に南画、漢詩、琴も身につけた。そして茶道は正阿弥から学んだ。 廃藩置県後、天心の店石川屋は店を閉じた。1875年(明治8)、天心は開成学校、後の東京大学に入学する。ここでアーネスト・フェノロサと出会う。フェノロサは日本の芸術に興味を持っていた。天心は大学卒業後、文部省に就職する。文部省在任時、日本の古社寺の仏像の保存の仕事に従事する。ここでの大きな仕事は法隆寺夢殿の秘仏とされていた救世観音の扉を開けさせたことだ。(評伝に大岡信「岡倉天心」(朝日新聞社)、松本清張「岡倉天心」(新潮社)などがある。天心の評伝は、家族の書いたものがメインになるが、ここでは大岡版と清張版を紹介しておく。清張は天心のブラックな面に焦点を当てる。天心酔心者にとっては気味の悪いものであるが、偉人といわれる人物の“ダメ”なところを暴露する。清張ならではの視点)。 「茶の本」は全7章に構成されている。第1章「人情の碗」は「茶は薬用として始まり後飲料となる。」から始まる。15世紀に日本はこれを審美的宗教、すなわち茶道にまで高めた。「審美」とは森鴎外の訳語で、現在で言えば美学のことだろう。茶道はアジアの儀式だが、西洋人も喫茶の習慣は受け入れてしまった。茶道の要諦は「不完全なもの」を崇拝することであり、「美を見出さんがために美を隠す術である」と意味深長な表現をしている。これは主体の側が積極的に参加して「完全」を目指し、「美を掘り起こす」べきということかもしれない。 第2章「茶の諸流」では、茶の気高い味を出すには名人が必要と打ち出す。8世紀中葉の陸羽をもって茶道の鼻祖とする。彼の著作「茶経」で茶道を組織立てた。宋代に抹茶が流行した。茶の葉を臼で挽いて細かい粉にし、湯に入れて竹製の小箒でまぜる。茶は風流な遊びではなく、自性領解(本来の自己とはなにかの追及か)の一つの方法になった。これが禅の儀式に取り入れられ、15世紀に日本の茶の湯になった。また茶道は道教の仮の姿でもあった。 第3章「道教と禅道」。道教とは、儒教、仏教と並ぶ中国の古い宗教である。道教の始祖老子は茶の沿革と関連がある。ここで天心は、自分の英文の著作が日本語に翻訳されるだろうと意識した文章がある。「翻訳は常に反逆であって、よい翻訳であっても、錦の裏を見るに過ぎない」と言っている。英文で書かれたものを日本語にするのは、錦の表を見ることはできない、と言ってる。「道教がアジア人の生活に対してなした主な貢献は美学の領域である。シナの歴史家は道教のことを「処世術」と呼んでいる。…人生の術はわれらの環境に対して絶えず按排するにある。道教は浮世をこんなものとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なってこの憂き世の中にも美を見出そうと努めている。」 分かりずらい文章だが、この「按排」を「対訳茶の本」で英文を見てみると「Adjustment」となっている。英和辞典で調べると「調整、順応」という意味である。人生とは適応していく術ということを言ってるようだ。「物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わずに他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である」。このことを老子は「虚」という隠喩で説明した。禅は道教の教えを強調している。茶道の理想は禅から出た。 第4章「茶室」。茶室は単なる茅屋にすぎない。数寄屋は「好き家」であり、「空き屋」である。故意に何かを仕上げずに、想像の働きによって完成させる。茶室の広さは15世紀の紹鴎によって定められた。茶室は本体の他に、水屋(茶器をそろえておく場所)、待合(まちあい、客が茶室に入る前に待っている場所)、露地(茶室と待合を連絡する小道)からなっている。露地は黙想の第一段階、すなわち自己照明に達する通路を意味する。高さ三尺の入口、にじり口は人に謙譲を教え込む装置だ。茶室は空虚そのもので、その不完全さは心の中で完全さを求める人によってのみ「真の美」を見出される。 第5章「芸術鑑賞」。ここでは伯牙という琴の名手の話から、芸術鑑賞の極意を説明する。芸術鑑賞必要な心の交通は互譲の精神による。小堀遠州は「偉大な絵画に接するには王侯に接するごとく、身を低うして息を殺し一言一句も聞き漏らさじと待っていなければならない。」と言った。 第6章「花」。「原始時代の人はその恋人に花輪をささげると、それによって獣性を脱した。粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要なものの微妙な用途を認めたとき、彼は芸術の国に入ったのである。」花や木に対して日本人の美意識と西洋人のそれとの違いを指摘する。茶や花の宗匠は宗教的な尊敬を以て花を見ている。花道が生まれたのは15世紀で相阿弥が大家の一人だった。池坊の家元専能も門人の一人だった。 第7章「茶の宗匠」。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、芸術から生きた力を生み出す人々のみに可能なのである。着物の恰好、色彩、身体の均衡や歩行の様子など全て芸術的人格の表現である。最後に利休と秀吉の関係に及び、利休の清浄無垢な死に装束で「茶の本」は終わる。 若松英輔の「岡倉天心『茶の本』を読む」(岩波現代文庫)は、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ、内村鑑三、井筒俊彦、九鬼周造との接点を探りながら「茶の本」の東洋に美の本質に迫っている。興味ある方は、この本でさらに追及を。
2022.10.16
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森下典子さんの「日々是好日」(新潮文庫)は文章が分かりやすいし、茶道入門書としては第一級である。単なる茶道入門にはなっていない。副題が「「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」となっているように、幸福論、生き方論、芸道論になっている。映画にもなっているので映画を見た方がいるかもしれない。ここでは文庫本をもとに書いていく。 森下さんは横浜市生まれ、日本女子大国文卒業後、週刊朝日などでフリーライターとして生活されてきた。文章修業は、ここでされたのだろう。週刊誌の文章は、一読でわかることが要求される。社の専属ではなく、フリーの場合は非常に厳しく当たられる。編集長から何回やり直しを命じられたろう。丁寧な編集長の場合、問題点は赤線などで示されるが、普通は全面的やり直しである。どこをどう直すかは自分で考えなくてはならない。テーマを変えるか、部分的修正でいいか。なかなか判断がつかない。こうした編集長との対決で文章力が鍛えられる。週刊誌フリーライターがまずテーマにしないだろう「茶道」について書いている。 ライターとして活動されながら森下さんは茶道を25年も続けられた。先生から教授資格をいただくほどのベテランである。普通はベテランとして文章を書いてしまうが、20歳の女子大生が茶道を始めるところから始める。なんにも分からない素人、この本のタイトルの「日々是好日」という漢字が読めない、普通の女の子という設定である。「にちにちこれこうじつ」と読み、毎日がいい日という意味だろう。表面的な意味はそうなのだが、25年を経て、この本の最後で体験的な、禅の悟りのような意味があることが明かされる。これをさらっと明快な文章で書かれている。なんともすごい文庫本である。 「まえがき」が秀逸である。フェリーニ監督の「道」という映画が最初はさっぱり分からなかった。二度、三度見ていくうちに涙を流すほどのすごい映画だとわかってきた。世の中には「すぐわかるもの」と「すぐにわからないもの」がある。お茶は、このうちの「すぐわからないもの」に入るというのが森下さんの前ふりで、本文に入っていく。「わからない」と思って諦めてしまう、のはなんとももったいないことなのだ。 森下さん、これ以降は「典(のり)ちゃん」と呼ばせてもらう。典ちゃんのお母さんもすごい眼を持っている人で、近所の「武田のおばさん」のお辞儀の仕方が違うと言われて、家から10分の、その家にお茶を習いに行くところから始まる。どういうお辞儀なのか。こう言われると、テレビドラマの出演者のお辞儀が気になってしまう。 「武田のおばさん」は、生まれも育ちも横浜の下町。ハマっ子である。30過ぎまで勤めていたが、専業主婦になった。周りとのお付き合いはするが、ベタベタ連なって行動することはない。用事が済むと「お先に」とサッと別れる。武田のおばちゃんは若い時からお茶を習っていて先生の看板を持っていた。母から「あんた、お茶習ったら」と進められて、いとこのミチコと一緒に通うようになる。典ちゃん大学生、20歳の春の事だった。 「武田のおばさん」は近所の数人の奥さんたちに水曜日の午後にお茶を教えていたが、典ちゃんとミチコは大学生だったので、土曜日の午後にお稽古をしてくれることになった。教室は8帖の日本間、床の間には長い掛け軸がかかっていた。長押にも横長の額が掲げられていた。額には「日日是好日」、掛け軸には「葉々(ようよう)、清風(せいふう)を起こす」と書いてあると、おばさんは説明された。まず、最初は「帛紗(ふくさ)さばき」である。フクサはハンケチくらいの大きさで、おばさんは三角にして、先端を帯に挟み込んだ。それを帯から抜き取り、右手で端をつまみ上げ、左手でもう片方をもって、布を少したるませて、左右にピンと引っ張った。布が「パン」と鳴った。これを「ちり打ち」という。 続けて、おばさんは茶碗蒸しの蓋付き椀のような形の漆器を手に乗せてきた。「これが、お茶を入れる「ナツメ」よ」。中からウグイス色の粉が現れた。帛紗で棗(ナツメ)を拭き清める。「今日は最初の日だから、お茶をご馳走します」と言って銘々皿に乗せたお饅頭を持って来た。これは「あやめ饅頭」と言って、五月の節句に使うようだ。 二回目の稽古ではシャカシャカかき回す泡だて器である「茶筅(ちゃせん)」が出た。次々と茶道特有の道具が出てくる。「茶巾(ちゃきん)」、「水屋(みずや)」、「水差(みずさし)」。典ちゃんはここらで、学校とは違う茶道の教育システムに気付く。理解や理屈とは関係なく、体で覚えていく。何回も同じことを繰り返し、手が自然に動くようになるまで、まさにトレーニングだ。「武田のおばさん」は「武田先生」になった。そのすごさが分かってきた。メモは駄目。頭で覚えちゃ駄目。完全に学校の先生とは違う。15回でも25回でも繰り返す。その都度、武田先生は指示を出す。「手が違うでしょ」。 生徒はどんどん入れ替わってゆく。ミチコも結婚して止めてしまった。芸道の世界は深まってゆくが卒業ということがない。次から次へと新しいことが出てくる。典ちゃんは鋭い眼で、奥義は「人の動きを見る」ということを発見してゆく。先生はもちろん、学んでいるお仲間の手筋、足の動かし方を見ていて、自分のものに取り込んでゆく。それが奥義だ。 「頭を下げる」の意味がわかった。心が形になっているのが「おじぎ」だった。イヤイヤながら行くお稽古でも、不思議とスペシャルが待っていた。それは和菓子の世界だ。シュークリームとケーキしか知らない20代の女性にとって和菓子はまったく知られていない。ある時、「初がつお」という和菓子が出た。刺身のことかと思った。抹茶と刺身の組み合わせは変だ。「初かつお」とは、名古屋の美濃忠制作のお菓子だ。一切れを懐紙に取ると、桃色の断面に縞模様が入っている。まさに「初がつお」の切り身だ。先生は稽古の日に日本橋や鎌倉の和菓子店に買い出しに出かけていた。地方のものはお取り寄せだった。床の間には必ず花が飾られていた。先生は雑草の花の名前も知っていた。「その筆みたいなものは「くがい草」、ピンクのは「姫子百合(ひめさゆり)」、それと「縞葦(しまあし)」。こういう花を「茶花」という。先生は庭に栽培していた。普通には「茶花」は見えない。どれが、その花かわからない。しばらくすると家の近所にたくさん咲いているのが分かるようになる。 お茶をやっていると五感が研ぎ澄まされていく。「お湯」と「水」の注ぐ音が違うことに気づく。雨の匂いに気づく。日本には二十四節気という季節の区切りがある。普段は気づかないが、15日ごとに季節は変わっていく。そのすべてに名前が付いている。お茶をたてる時、その時の節気が意識されている。現在、茶道の世界は女の世界だが、元々は男の世界だった。利休の時代は、武士が戦いの中の一服だった。茶室は「にじり口」という小さな入口から入る。刀という武器は持ち込まれなかった。 この本では、典ちゃんはお金のことは触れていない。費用がずいぶんかかるように思えるが、典ちゃんからすれば、茶道にはお金以上のものがあるということだろう。 参考 森下典子「日々是好日」新潮文庫
2022.09.25
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8月上旬の暑い日に熱中症になった。熱中症はマスコミではポピュラーな病気で、小学生何人かが運動場で熱中症になり、救急車で運ばれた、というニュースがよく出る。その後の症状については、記者はあまり追及しないようで、ほとんどの人はすぐ治ると思っている。体験しないと分からないことで、その後について書いておきたい。熱中症とは何かについては、よくわからない。熱射病とはちがうのか。 とにかく体温が上がってしまう状態だ。私の場合、病院では39度といわれた。ふらふらした状態で発熱外来へ行った。ここでは早速コロナチェックが行われた。棒状検診器が鼻に入れられた。陰性だった。自動的に熱中症になった。1時間の点滴が行われた。後は熱と痛みを取る薬と胃腸薬をもらって、家に帰りついた。薬を飲んで寝た。この後が熱中症の本番だった。薬のせいか、やたらとトイレに行くようになった。ところが布団から起きて立ち上がろうとすると、立てない。足がくずれてしまう。柱に手をかけ、体を持ち上げようとするが、足に力が入らず、床に倒れてしまう。脱力症の薬はもらってない。何回も床に叩きつけられながら、ようやくトイレに行った。膀胱も緩んでいるようで、失禁状態だ。これが熱中症の正体だ。2~3日すると、回復した。 熱中症は回復したが、右足下腿が赤くむくむ状態になった。熱もあり、痛みもある。最初は熱中症が足に来たのかと思った。皮膚科に行った。ここでもコロナチェックが行われた。「ホーソーエンです。即入院です」。何のことか、よくわからない。「紹介状を書きますから、まっすぐ病院へ行ってください」。コロナ患者や一般の病人が入院できない状態であるとニュースで知っていたので、まさか入院できるとは思わなかった。 ホーソーエンとは漢字で書くと「蜂巣炎(ほーそーえん)」、また別名「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」という難しい漢字である。ここでは蜂巣炎で統一する。刺し傷、熱傷、水虫などの皮膚の病気でおきる小さな傷から細菌が入り、皮膚に赤み、痛み、圧痛が出る。主に足に出るが、人によっては顔に出ることもある。そのままにしておくと、菌が奥の方に入り、手術が必要になる。できるだけ早く皮膚科へいくことだ。近くに皮膚科がなければ内科でもいい。大きい病院に紹介状を書いてくれるはずだ。現在のコロナ禍では難しいかもしれない。私の場合、一か所断られ、二か所目で入院可能な病院が見つかった。血液検査で症状の重態度が判定される。病院入院時はコロナチェックが厳正に行われる。偶然にも個室があてがわれた。病院はコロナ病棟と一般病棟が分けられていた。 治療は点滴である。5時間おきに行われる。夜も10時、3時とゆっくり寝ていられない。4日目くらいに足の赤みが半分消えて、退院である。後は薬物治療である。入院時、何も考えていなかった。入院では何が必要か。パジャマとかは病院で貸し出してくれる。緊急入院のときは、何も考えられない。家族の方がいれば、本やら歯磨きやらを届けてもらうこともありだ。単独の場合は、二日くらい病院のあてがいで我慢するより仕方ない。余裕ができたら、看護士の人に病院のコンビニで買ってきてもらうことも可能だ。問題はスリッパだ。医者は「病院の床はきれいになっているようだが、雑菌の集積場だ」、と言われ、慌てた。裸足で病室を動いていた。病院ではペタペタスリッパは転倒の可能性があるので、禁止にされている。転倒防止の特殊なスリッパを推奨された。機械類が入っている病室はスマホが禁止されていることがある。電波が影響するらしい。 熱中症の脱力症状が出た場合、フローリング、板状の廊下の場合、倒れたときが危険である。マットや毛布を敷いておく方法もある。
2022.09.04
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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(脚本・三谷幸喜)が人気である。半分が終わり、なんだかよくわからなくなった、という人はいないだろうか。1回見逃したり、家事等で、ちょっと見の場合、筋や人間関係がわからなくなる。本屋には、ドジョウの下の関連本が並んでいるが、どれを読んでいいかわからない。新書版を買って来たが、ドラマ以上にわからない。専門的すぎる。諦めた、という人向けにダイジェストにまとめた。その後に、突っ込んでみたい人向けにプラスアルファー情報を加えた(後半)。 頼朝は有名だが、それ以降の「鎌倉時代」は、あまり知られていない。それは、なぜか。このドラマの中心は頼朝が落馬して亡くなった後が、ポイントになる。「鎌倉殿」とは頼朝、頼家、実朝、義時などのリーダーという意味だ。この言葉はこの時代から使われていたようだ。「13人」とは頼朝死後の御家人たち13人の合議制という体制のことを指す。ここからは「史伝北条義時」(小学館)という本を書いた山本みなみさんを案内役に進める。山本さんは京都大学を卒業されて、鎌倉歴史文化交流館の学芸員をされている。この本は義時の生涯を絵巻物のように描いている。わかりやすい上に図版、写真がオールカラーである。大型書店ではなかなか見つけにくいので、ネット書店で探すのが早い。 鎌倉歴史文化交流館は平成29年に開館した博物館で、ほとんど知られてなかったが、大河ドラマで急にクローズアップされた。ちなみにNHKの大河館は八幡宮境内の美術館のあたりにある。交流館はパネル展示で、ドラマチックな演出はされてないので、ガックリくるが、個人の住宅を博物館にしたものなので、鎌倉の金満家がどんな生活をしていたかがわかるところが面白い。特殊なエレベータなどがあり、アクセスビリティは抜群である。庭が鎌倉らしさを感じさせる。やぐら等が残されている。展示より庭に注目して訪問してみよう。山本さんの本では義時の生涯を通して、鎌倉の都市としての成り立ちが立体的に見えてくる。 義時は、ほとんど注目されてこなかった。時の天皇を拉致して、島流しにした。保守的な歴史家にとってとんでもない不忠もの、極悪人として、歴史に名をとどめてはいけない人物だった。戦前の国定教科書では、そういう扱いだった。歴史の先生は、鎌倉時代後半の歴史はとばして、いきなり江戸時代の話になってしまう。これが鎌倉がよくわからない原因だった。三谷幸喜は、この辺りを見て国営放送NHKでドラマにする意義があると狙ったのであろう。江戸の武家体制は義時が作ったというのが山本さんの見方だ。 鎌倉時代の歴史書として「吾妻鏡」があるが、山本さんは「これは北条側にたっての歴史書なので、「明月記」、「愚菅抄」を素材とし、「吾妻鏡」に書いてないことに注意して、この時代の政治過程を論じたい」と序文で書かれている。 北条義時は、父時政の二男として長寛元年(1163)に生まれた。姉は6歳年上の(北条)政子である。義時が青年期を過ごしたのは伊豆田方郡北条(静岡県伊豆の国市)で伊豆半島の付け根に当たる。平治2年(1160)、平治の乱で敗れた頼朝は、ここ伊豆に流され、20年に及ぶ流人生活を送る。父の義朝は京都から逃亡中に殺害された。頼朝は父とはぐれ、東国を目指したが、途中で平家側に捕縛され、京都へ連行される。しかし池禅尼(清盛の継母)の嘆願によって命を助けられ、伊豆へ流された。安元2年(1176)、頼朝と政子は恋仲になり、駆け落ちして結ばれる。政子が妊娠している時、頼朝は亀の前という女性と親密になった。このことを知った政子は亀の前の住む家を破壊させた。これは「うわなり(後妻)打ち」という当時の風習であった。「これは政子の特異な性格と考えることはできない」と山本さんは言う。一方、これが政子が「悪女」と呼ばれる原因となる。 治承4年(1180)8月、頼朝挙兵。伊豆の目代山木兼隆(かねたか)を血祭りにし、石橋山(小田原市)で大庭景親(おおばかげちか)と激突。頼朝は敗北、箱根山中に逃げ込む。その後、安房(千葉県)に渡海、房総半島を北上し、江戸(東京)は無視、相模国鎌倉へ入り、邸宅を構える。義時は平家追討、奥州合戦に参戦、頼朝の側近になってゆく。建久3年、次男の実朝誕生。建久10年(1199)、頼朝が急逝。病死であったようだ(大河では落馬として描かれた)。二台目将軍に就任した頼家は「吾妻鏡」では無能な人物として描かれる。しかし頼朝の政治方針を意欲的に継承したという評価もある。頼家を補佐するために案出されたのが、13人の合議制であった。この構成員は京下りの官僚と東国武士の2つのグループに分かれる。京下りの官僚は文筆能力に秀でた人たちである。 頼朝没後、最初の内紛が梶原景時の追放である。結城明光のつぶやきを義時の妹阿波局が謀反の証拠と景時が頼家に讒言したと告げてきた。頼家はこのトラブルを抑えられなかった。景時は京都へ行く途中、追手に襲われた。 頼家が重病になり、危篤状態になると次の将軍(つまり鎌倉殿)を誰にするかで争いが起こる。頼家の息子一幡(いちまん)を推す比企(ひき)氏と実朝を推す北条氏が対立する。義時は実家と嫁の姫の前の出身の義理の実家との板挟みの状態になる。父の時政が比企能員を自邸へ呼び出し、誅殺。一気に比企一族を攻め滅ぼす。これで義時は姫の前と離婚する。 比企氏滅亡後、実朝が将軍となり、祖父の時政が後見役として政治の実権をにぎる。元久元年(1204)、実朝と坊門信清の娘との婚姻が進められた。貴族の娘との婚姻によって実朝の権威を高めようとしたと山本さんは考える。実朝の正妻を迎えに京都へ出た畠山重保と平賀朝雅が酒席の場で口論が起こり、畠山重忠追討のきっかけとなった。このあたりはほとんど冷静な話し合いは行われない。13人の合議制は破綻している。重忠問題から義時は父の時政と対立する。実朝の命令として時政に隠退を迫る。元久2年、時政は出家し、伊豆に隠退した。この年、17歳になった実朝は疱瘡に感染した。疱瘡は今の天然痘で死亡率の高い病気である。実朝は、病気療養中に和歌の勉強に熱中した。「金槐和歌集」という歌集まで作っている。 政子・義時が政治の実権を握るが、御家人の和田義盛と対立し、鎌倉市内で市街戦が繰り広げられた。泉親衡(ちかひら)が頼家の遺児公暁の擁立と義時暗殺を企てていることが発覚。その関係者に和田義盛の親族が含まれていた。義盛は百五十騎を率いて御所を襲った。火を放った。御所は灰燼に帰した。実朝、義時は御所の背後の法華堂に逃れた。これを和田合戦という。現在の北鎌倉一帯は山内荘といい、和田方に味方した土肥氏の所領。合戦の後、北条のものになり、後に建長寺、円覚寺等の鎌倉を代表する大寺院が建立される。 承久元年1月27日、雪が降る鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式の最中に将軍実朝の暗殺という事件が起きた。殺害者は頼家の遺児公暁(くぎょう)である。公暁は自分こそ次の将軍と考えたが、三浦義村の邸で討ち取られた。実朝を失ったことは義時最大の失敗だった。 実朝の死は、次々と乱を引き起こす。最大のものは、承久3年(1221)の承久の乱である。京都の後鳥羽院は義時追討の宣旨を発する。鎌倉武士は動揺したが、政子は武士の結束をねらった一大スピーチを行った。「それぞれ心を一つにして聞きなさい。これは私の最後の詞(ことば)です。亡き頼朝様は頼義、頼家という清和源氏栄光の先祖の跡を継ぎ、東国武士を育むために、所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した。その恩は須弥山より高く、恩に報いたいという思いは大海より深いはずである。後鳥羽院は天に背き、道義にもとる武芸を誇って追討の宣旨を下した。恩を知り名声が失われるのを恐れる者は、藤原秀康・三浦を捕らえて名を立てようと思うはずである」。この演説は御家人たちの胸を打った。義時の軍勢は3手に分かれて京都へ向かった。後鳥羽院は院宣の撤回を申し出たが、院側の敗北は決定していた。後鳥羽院は出家して隠岐に流された。幕府側は治天の君の権限を奪ってしまった。 承久の乱から3年後、義時はこの世を去る。凶年62。義時の評価は様々である。日蓮の「国王」から白石の「日本一の小物。実朝暗殺の首謀者」。国定教科書「不義・不忠の人」。山本さんは、本の最後で、こういう評価をずらっと並べて、意外な人物の評価を書き入れている。「水戸黄門」の助さん、格さんで有名になった格さんの安積澹泊(あさかたんぱく、通称覚兵衛)の評価である。興味深いところであり、よく調べたと思う。ここは「史伝北条義時」(小学館)を読んで確認してもらおう。鎌倉が現代のように有名な観光地になったのも、黄門さんの調査のお陰だった、という事実。これでは鎌倉市民は水戸に足を向けて寝られない。 元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡。この後、北条早雲が玉縄城を築いて鎌倉周辺を収める。
2022.08.14
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エッセイストの岸本葉子さんの講演を聞いた。コロナ禍では講演会は遠慮してきた。久しぶりである。岸本さんは知的な、かわいらしい女性である。開口一番「私は61歳になりました」といわれてビックリした。女性の年齢をばらすのは違反であるが、本人が自分で言われたのだから、お許しいただこう。 東京大学卒業後、会社勤め、その後、中国に留学。執筆活動に入った。NHKラジオ深夜便や俳句番組の司会、普通のエッセイ他に俳句の本を多数出版されている。講演のテーマは、一人で過ごす時間をどう使うか、である。一日の中でやることは沢山ある。仕事、家事、介護、買い物。こういう用事以外の時間をどう過ごすか、である。岸本さんは「書く」ことを勧める。ここで「書く」は創作ではない。あえて言えば記録である。買って来たもののリスト、これから買う予定のメモ、在庫のリストである。書くことで「知る」→「把握する」→「安心する」。すると心が安定し、落ち着く、という。 これを発展させると、ひとりで認知行動療法(下記参考)ができる。体調不良や孤独、他人との交流での困りごと。これも「書く」ことで、心を安定させることができる。精神科の医師は日記を書くことを勧めるが、これは日々の行動の記録になる。どういう行動をすると不安になるか。不安の程度を1から100のメモリをつけて測定してみる。不安になる行動は極力避けると、不安は消えていく。これも「書く」ことで「知る」→「把握する」→「安心する」という原理だ。 こういうことをノートにした本があるらしい。そういう本を使ってもいいが、ここでは「書く」ことのリスト(項目)を紹介する。〇出来事、状況〇その時の気分、感情、強さ〇その時、どんな考えが浮かんだか〇その考えを裏付ける事実はなにか〇その考えを否定する事実はないか〇別の考えはないか こういうことを書いていくが、これには「答え」はない。万人共通の答えはない。これを1週間続けていくと、自分のクセ、思考パターンが見えてくる。自分の傾向を「知る」ことで、自分の思考をコントロールすることが出来るようになる。 「書く」ことで多様なつながりが見えてくる。すると別のつながりを見つけることが可能になる。つながりが見えるのは論理の力。この「書く」ことはパソコンでやらないほうがいい。「紙」の上がいい。訂正する時は二重線で消す。紙は、この消した後が残る。しばらくすると消す前が良かったと思える時がある。パソコンの上書き保存では消す前の状態が無くなってしまう。考えていく論理の流れを視覚化、見える化することが重要だ。ここで「考えを深める」という次のステップに進める。 毎日、色んなことが頭に浮かんだり、消えたりしているが、これを文字として定着しておかないと、結局、雲散霧消してしまう。 アメリカのJ.ペネガーという心理学者が開発した「エクスクプレシブ・ライティング」という書く技法がある。「筆記開示」という日本語訳になっているが、心の動揺に対処する方法として開発された。1日20分、4日続けて、自分の出来事を書いていく。出来事が毎日、同じでもいい。これも「書く」ことの効用、原理は岸本さんの話のなかに示されている。 (参考)認知行動療法は、アメリカの精神科医ベックがうつ病障がいに対する精神療法として開発したもの。人間の情緒が認知のあり方の影響を強く受けることに注目して認知や行動に働きかけて心を軽くしたり問題解決する心理療法。普通、専門家の指導のもとに行われるが、岸本さんは自分で、家庭で行う方法として「書く」というテクニックを提案されている。ご自分で研究してみたい方は、熊野宏昭著「新世代の認知行動療法」(日本評論社)という専門書がある。 岸本葉子の本「ひとり老後、賢く楽しむ」(文響社)「二人の親を見送って」(中公文庫)「ちょっと早めの老い支度」(角川文庫)「〇×(まるばつ)で鍛える句会の練習帳」(NHK出版)先生は井上弘美という添削が上手な俳人。初級、中級、上級のコース別の句会が用意されている。岸本は俳句愛好家という立場で参加。
2022.07.24
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家の前の道路で車に乗った男から「屋根が壊れてますよ」と声をかけられた。しばらくして、玄関に突然訪ねてきた男が「屋根が壊れてます。修理しましょうか」と同じようなことを言われた。外へ出て、屋根の方を見てみるが、問題がありそうには見えない。その後も何人もの男に同じような声をかけられた。コロナ禍で仕事が少なくなった業者の新商売のようである。 市内のバリアフリー専門の工務店に相談してみた。即座に「ああ、それは詐欺ですよ。うちにも5件くらい相談が来てますが、全部調べてみました。なんの問題はありませんでした。不安をあおることが狙いです。絶対契約してはいけません。下手に屋根の上へ上げると、屋根を壊して、携帯で写真を撮り、それを見せて修理契約を取ろうとします。法外な請求書を突きつけられます。絶対ダメですよ」かつて白アリをまいて、駆除するという白アリ業者が話題になったが、屋根壊しの屋根修理業者の蔓延である。 テレビの宣伝で「古い着物を買い取ります」や電話で「不要な古物買い取りますよ」という新商売も出てきた。断捨離とかいう新語であおる不思議な流行である。これも着物や古物が目的ではなく、家の中の宝飾物が狙いである。家の座敷に業者を上げてはいけない。不必要なものは玄関で取引する。座敷に上げると、次々と要求を出してくる。「他に要らないものはないですか。使わない指輪とか、貴金属とか」。これが本命の目的で、査定と称して、1000円、1200円とかの最低の値段をつけて、持ち去っていく。契約書と称するものを置いていくので、後から警察へ行っても、相手にしてくれない。気を付けなければならないのは、家の取引だ。大きい金額が動くので、電話営業は無視することだ。大抵甘い誘い文句で引っかけてくる。「従業員の社宅を探しております。空いているお部屋はありませんか」。ここで「部屋が空いている」なんて言うと、家に乗り込んでくる。社宅の話なんか口述で、家そのものの不動産を叩き落すという営業だ。行政の審査の裏をかいているので、行政相談をしても解決にならない。 屋根の修理、トイレの水漏れ、下水の詰まり、リフォーム等の問題は、行政の「指定業者」に頼んだ方が安全である。指定業者はお住まいの行政のホームページに出ている。研修や定期的なチェックが入っており、問題が生じると「指定業者」から外される。 最近のマスコミのニュースでは「レスキュー商法」というのが流行っているという。下水、トイレの水漏れ、鍵の修理(鍵が開かない、鍵を部屋に置いてきた等)緊急事態での修理依頼で高価格請求を出すという商法だ。ネット広告やポストに投げ込まれる広告チラシ、カードなどは危険だ。 また中高年ねらいのリバースモゲージという自宅を抵当に金を貸す商法も慎重に対処すべきだ。テレビで宣伝しているので安全と思いがちだが、トラブルも多い。テレビ局は広告提供の客なので、その問題点の追及は、ほとんどしていない。中高年に馴染みのないカタカナ表記が落とし穴である。 残念ながら、上記のトラブルに合ってしまった方は、消費者ホットラインに相談を。消費者ホットラインの電話は、「188」です。契約、悪質商法、製品・食品の事故についての相談を受け付けています。専門家のアドバイスを参考に対処してください。
2022.07.10
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