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脚光浴びる金ヶ崎
敦賀の金ヶ崎は、 NHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊が出世の第一歩を踏み出したところ
( 2月22日の日記
参照)といわれ、放映以来たくさんの観光客が訪れているそうですが、ここは南北朝時代だけでなく、戦国時代にも「金ヶ崎の戦い」があったところです。織田信長が朝倉氏の支城、金ヶ崎城を攻めた時、浅井・朝倉両軍に挟まれ窮地に陥るものの、お市の方が、小豆を入れ両端を紐で縛った袋を届けて挟み撃ちを知らせ、信長の窮地を救ったという伝説は、この金ヶ崎での出来事です。
灯明寺畷で戦没する2年ほど前、新田義貞、金ヶ崎城に入城
ところで、灯明寺畷(福井市新田塚)の藤島の戦い(
8月29日の日記
参照)で戦没した新田義貞ですが
新田軍の越前下向、足利方の糧道ふさぐ狙い
新田義貞越前下向の狙いについて福井県の歴史散歩は 、南朝方が湊川合戦(兵庫県)で足利尊氏に破れると、後醍醐天皇は南朝方の勢力回復を図るため、、敦賀津を拠点に日本海の制海権を握って、北陸山陰道から足利方への糧道をふさぐことを考えた。そして、延元元年(1336)、新天皇の恒良親王と、皇子の尊敬親王を奉じて、北国に勢力をもつ新田義貞ら一族武将1000騎を敦賀に下向させた、としています。
足利方の総攻撃受け、極限状態の中で金ヶ崎城落城
福井県の歴史散歩、敦賀市史などによると
、
金ヶ崎城に入城した義貞軍は、その後約半年間篭城、北朝方の足利軍と戦っていたのですが、翌二年3月6日に足利方の総攻撃を受け、遂に金ヶ崎城は落城しました。この戦いで尊良親王と、義貞の嫡子・新田義顕が自害したほか、将士300余名が亡くなり、恒良親王も逃げる途中捕らえられて京都へ送られました。
義貞、落城直前に杣山城へ外出、難逃れる
ただ義貞らは、金ヶ崎城落城1か月ほど前、兵糧を確保するため城を抜け出し、約20キロ北東にある杣山城(南越前町)に出かけていたことから、難を逃れました。杣山城に出かけたことについては、金ヶ崎城の四方が足利方の大軍に囲まれていたことから、杣山城から打って出て、後方から足利方を撹乱することを考えていたともいわれています。
金ヶ崎城落城後、体制を立て直した義貞軍は、、府中(越前市)を攻め落とし、北朝方の越前守護・斯波高経を足羽城(諸説あり 8月31日の日記
参照)に追い込みました。そして、義貞が戦没した藤島の戦い( 8月29日の日記
参照)へと続くのです。

金崎宮では、例年桜の咲く頃、恋心を『桜の小枝』に託す「花換祭」( 4月12日の日記 参照)が行われ、大勢の花見客で賑います。金ヶ崎に関心のある方は、 この頃に、金ヶ崎古戦場巡りを計画されてはいかがでしょうか 。
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