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【見た日:2021年(令和3年)7月7日(水)】 職員室に津波が押し寄せた午後3時37分で時計が止まった ※ 震災遺構浪江町立請戸小学校跡地 〈震災遺構浪江町立請戸小学校跡地:福島県浪江町請戸持平56〉
2021年07月07日
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【見た日:2021年(令和3年)7月7日(水)】 大津波のあと ※ Old Site of Cemetery 墓地 〈Old Site of Cemetery 墓地:福島県浪江町請戸南久保25〉
2021年07月07日
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【見たた日:2021年(令和3年)6月22日(火)】 江戸川の流山橋の少し上流に旧流山橋の橋脚が見えます。 さらにその奥には「三郷流山橋(仮称)」も見えました。
2021年06月22日
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【発見日:2021年(令和3年)5月23日(日)】 発見しました。 感動しました。 ※ 増林村大字増森常〇委員之印
2021年05月23日
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【発見日:2021年(令和3年)5月23日(日)】 発見しました。 感動しました。 ※ 越谷市大字増森区長之印
2021年05月23日
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【発見日:2021年(令和3年)5月23日(日)】 やっと、神棚の掃除をしたら こんなの出てきました。
2021年05月23日
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【見た日:2021年(令和3年)4月27日(火)】 ※ 公式HPより 越谷ロータリークラブ創立60周年記念事業『三ノ宮卯之助の碑』除幕式が執り行われました。 三ノ宮卯之助は江戸時代に実在した、武蔵国岩槻領三野宮村(現在の越谷市)出身で日本一の力持ちです。 〈三ノ宮卯之助の碑:埼玉県越谷市越ヶ谷4-1-1〉
2021年04月27日
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【発見日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 自転車で吉川市の先頭に行く途中で発見! 中島橋の隣に、荒川橋とは? 昭和五年五月竣功って書いてある。 また、調べてみよう。 ※ 荒川橋の名残? 8月7日現在、何もなくなりました。 〈荒川橋?:埼玉県越谷市中島付近〉
2021年04月24日
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【訪問日:2021(令和3)年2月3日(水)】※ 公式HPより 愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。 その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。 時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。 折りしも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。 しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。 下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。 家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。「あの者は誰だ」 近習の臣に知る者はありません。 「おそれながら」 「おう」 「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」 「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」 平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。 平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。 この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、 「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。 〈愛宕神社:東京都港区愛宕1-5-3〉
2021年02月03日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】〈吉原弁財天本宮/新吉原花園池(弁天池)跡:東京都台東区千束3-22〉
2020年11月16日
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【見た日:2020(令和2)年11月16日(月)】〈新吉原遊郭 見返り柳:東京都台東区千束4-10-8〉
2020年11月16日
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【見た日 2020(令和2)年10月4日(日)】※ 青い目の人形 妹サラ
2020年10月04日
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【見た日 2020(令和2)年10月4日(日)】※ 八王子市立第八小学校ホームページより 青い目の人形とは昭和2年「世界の平和は子供から」というスローガンのもと、アメリカの子供たちから日本に贈られた約13,000体(12,739体と公表されている)の人形である。元来、英語では「Friendship Doll」と呼ばれ、これを訳して日本では「友情人形」とも称される。この友情人形を指して、青い目の人形と置き換えられた呼称が現在では広く定着している※ 青い目の人形 ワーテラ・ヘズ
2020年10月04日
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【訪問日:2020(令和2)年9月27日(日)】※ 市公式HPより 日枝社の参道脇にあり、その神木とされています。高さ20メートル、幹まわり9.4メートル、根まわり15.3メートル(県指定時)。幹の中央部は空洞化していますが、樹勢は旺盛で、枝は四方に広がっています。その幹は、地上約3.5メートルのところで6本の大枝に分かれています。 樹幹の太さでは県内のケヤキで最大といわれ(『巨樹・巨木の調査報告』環境庁、1991年)、人魚の肉を食べて800歳まで生きた八百比丘尼(やおびくに)が植えたという伝説も残る県内有数の巨木です。〈県指定 天然記念物 大久保の大ケヤキ:埼玉県さいたま市桜区大字大久保領家433)〉
2020年09月27日
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【訪問日:2020(令和2)年9月27日(日)】※ 市公式HPより 春日氏は中世以来、足利・上杉・岩槻太田・後北条氏の家臣として活躍し、江戸時代、中野田村300石を含む2,750石を与えられた旗本です。以降、江戸時代を通じ春日氏が代々中野田村を治めました。 また、大泉院や明照寺を開基したとされ、春日氏本家の墓が、大泉院に4基、明照寺に19基あります。〈市指定 史跡 春日氏一族の墓:曹洞宗 大覚寺 埼玉県さいたま市桜区大字大久保領家363〉
2020年09月27日
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【訪問日:2020(令和2)年9月27日(日)】※ 市公式HPより 市内西部、鴨川流域に位置する「大久保古墳群」のひとつ、鴨川の西岸、荒川の自然堤防上の民家の敷地内にあります。明治・大正期に前方部が削られてしまったため、後方部が残されているだけです。後方部の径は35メートル、高さは6メートルを測ります。前方後円墳と考えられてきましたが、近年、前方後方墳の可能性が論じられています。〈市指定 史跡 塚山古墳:埼玉県さいたま市桜区〉
2020年09月27日
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【訪問日:2020(令和2)年9月27日(日)】※ 市公式HPより 市内西部、鴨川流域に位置する「大久保古墳群」のひとつで、塚山古墳の南西に位置します。民家の屋敷内にあり、東側が削られていますが、直径16メートル、高さ3メートルの円墳です。古墳の周辺から円筒埴輪の破片が採集されていることから、6世紀に造られた古墳であると考えられています。〈神明寺古墳:埼玉県さいたま市桜区大字塚本246〉
2020年09月27日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 公式HPより 幕府が水戸街道を整備すると、松戸と小金は宿場町として繁栄します。現在の松戸郵便局の辺りには、大名などの宿泊施設である本陣や脇本陣がありました。旧本陣は幕末の火災で焼失し、直後に再建されましたが平成16年に取り壊されました。
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 市公式HPより 国道6号の脇に位置する浅間神社は、山岳信仰の神社として富士山を祀っている。この神社が所在する台地は、標高28mの独立した台地で、参道斜面を除けば20度以上の急斜面で囲まれている。南側を国道6号が、北側をJR常磐線が走る市街地だが、神社の中に入ると生い茂る極相林の樹木によって周囲の景色は遮断され、まったく別の世界が広がる。 この台地は低地に囲まれ、独立しており、植生は方位によって異なる。高木は、南東面で常緑樹であるタブノキ、ヤブニッケイが優占するが、北東面、北西面では落葉樹であるムクノキが優占し、これにヤブニッケイが混ざる。林の下層ではヤブニッケイやアオキが多く生育しており、林全体としては常緑樹に囲まれうっそうとしている。 タブノキ林は海岸に多い林として知られているが、内陸であっても湿潤な環境では成立する。浅間神社の森はその典型であり、学術的に貴重である。また、ここは、開発が著しい市街地に存在する極相林であり、人々の信仰によって育まれた、地域にとっても重要な場所である。※ 県指定天然記念物 浅間神社の極相林〈県指定天然記念物 浅間神社の極相林:千葉県松戸市小山664-1(浅間神社)〉
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 市公式HPより 「皇国ノ興廃此ノ一戦」の日本海海戦の一か月前、徳川慶喜公爵は、四男厚男爵、女婿徳川達道伯爵と、燕尾服で正装、三つ葵五つ紋和服で正装の舎弟徳川昭武と、戸定邸の丘下の松龍時に、日露戦争戦勝祈願に参拝した。 昭和の経済成長期には魚が棲めないほど汚れていたが、平成になって水質が改善がされ多彩な生き物が見られるようになりました。 かつて、徳川慶喜公が写真撮影されたポイントに立って見ると、今でも、歴史の面影が感じられる。※ あなたも慶喜公気分
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 県公式HPより 明治31年に建設された3連アーチの煉瓦(れんが)造水門で、千葉県内で現存する煉瓦造水門の中で最も古く、歴史的価値のある構造物である。 小山樋門は、明治31年(1898年)に松戸市内を流れる坂川に、江戸川からの逆流防止のため建設された3連アーチの煉瓦造水門です。千葉県内で現存する煉瓦造水門の中で最も古く、歴史的価値のある構造物であり、建設から100年以上たった現在にその姿を残しています。現在は治水対策が進み、水門として使用されていませんが、県道松戸野田線の道路橋(小山樋門橋)として利用されており、路線バスが通行するなど、住民生活を支える重要な施設として、その役割を果たしています。※ 小山樋門(千葉県松戸市)〈小山樋門:千葉県松戸市小山地先〉
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】こりゃ知らなんだ。googleマップすごい。※ 市公式HPより 江戸時代には、川を使った水運が栄えました。銚子沖でとれた魚は、夕刻に銚子を出発し、翌朝に布佐河岸で陸上げされ、金ヶ作を通り松戸河岸まで馬で運ばれました。そして、再び、船で行徳を経て夕方から夜に日本橋に着き、翌朝のせりにだされました。この陸送路を鮮魚街道(なまみち)といいました。※ 生街道(鮮魚街道)(千葉県松戸市)
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 市公式HPより 旧徳川家松戸戸定邸は、明治17年(1884年)4月に前水戸徳川家当主・徳川昭武(あきたけ)が中心となり建てた大規模和式住宅で、明治前期の上流住宅の指標となるものとして、その歴史的価値が高く評価され、平成18年7月5日に国の重要文化財に指定されました。〈国指定重要文化財 戸定邸:千葉県松戸市松戸642の1 戸定が丘歴史公園〉
2020年09月17日
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【行った日 2020(令和2)年8月12日(水)】※ 公式HPより 古墳時代前期の遺跡 櫻木神社境内一円は「古墳時代前期の遺跡」です。 特に、祭祀に関連する遺物が多く出土しています。 硬玉製勾玉・管玉・台形様石製品・剣先様装飾品・半円状石製品・玉杖などが出土しています。 また、これらの石製品には未製品や制作途中で破損したものも多く、制作過程でできる石のかけらも多く、石製品生産工房址の存在が推測されます。他に先土器時代の有舌尖頭器や縄文時代の土器、石器類も出土しています。〈桜台遺跡 櫻木神社:千葉県野田市桜台210〉
2020年08月12日
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【見た日 2020(令和2)年8月12日(水)】※ 市公式HPより 野田で醤油作りが始まったのは、伝承によれば永禄年間(1558から70)に飯田市郎兵衛の先祖が甲斐武田氏に溜(豆油)醤油を納め、川中島御用溜醤油と称したとされていることから、野田市において最も古い醤油醸造は飯田家と言われております。 その旧飯田家の工場跡(亀屋蔵)に記念碑が残されています。 しかし、近世の野田の醤油が商品化されはじめるのは、寛文元年(1661)に髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始してからと考えられます。 本町通りから少し奥まった所に立てられています。 昭和46年に野田市の『史跡』に指定されました。※ 醤油発祥の地〈醤油発祥の地:千葉県野田市野田688-10〉
2020年08月12日
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【見た日:2017年(平成29年)7月16日(日)】 ※ 公式HPより 400年以上前から伝わる、家内安全・五穀豊穣を祈る舞 下間久里の獅子舞は、1594年(文禄3年)に京都から伝わったとされ、昭和54年に埼玉県の無形民俗文化財に指定されました。雨下無双角兵衛流とも呼ばれ、埼玉県東部や千葉県西部の獅子舞行事の源流とされており、春日部市や千葉県野田市に伝わったとされる記録も残っています。 現在は毎年7月中の日曜日に行われ、神社で獅子舞が奉納された後、家内安全や五穀豊穣を祈願し、丸一日かけて地域の家々を回ります。 ※ 埼玉県無形民俗文化財 下間久里の獅子舞
2020年07月16日
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【訪問日 2020(令和2)年7月14日(火)】 こういうの、大好物です。〈道の駅川口 あんぎょう:埼玉県川口市安行領家844-2〉
2020年07月14日
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【訪問日:2016年(平成28年)7月11日(月)】 ※ 公式HPより 東京港修築計画に基づいて架けられた勝鬨橋は、当時国家的イベントとして予定されていた万国博覧会へのメインゲートとしても利用するために、当時の最先端技術の粋を集めて建造されました。万博自体は戦争の激化により中止となりましたが、勝鬨橋は昭和15年6月14日に完成しました。 中央が開閉する勝鬨橋は、完成当時は跳開橋として東洋一の規模を誇っていましたが、隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年11月29日の開閉を最後に、現在では開かずの橋となっています。 ※ 勝鬨橋 〈勝鬨橋:東京都中央区築地中央区築地6-19-20〉
2020年07月11日
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【訪問日:2020(令和2)年3月21日(土)】※ 越谷市教育委員会「越谷市の文化財」より 浄土宗大松清浄院は、その由緒書によると開山僧賢真が嘉暦元年(1326)の伝寂を伝える古刹です。開山塚と称される平面円形の墳墓があり、ここには、嘉禄元年(1225)銘の板碑があったといいます(現在不明)。 この墳丘は砂土であったため、空気が入り埋葬者の姿や形はことごとく土に化し、誰であるか識別できませんでしたが、開山塚と称されていることから開山僧賢真上人の墳墓であるともみられます。開山塚の高さは1.8m、東西13.5m、南北13mで、もとは竹や雑木に覆われていました。 出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」〈清浄院:埼玉県越谷市大松60〉
2020年03月21日
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【見た日:2020(令和2)年3月15日(日)】 お菓子(くわいサブレ)の包み紙。 千菱さん、渋いです。
2020年03月15日
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【見た日:2020(令和2)年3月7日(土)】 珍しいもの発見〈武蔵第六天神社:埼玉県さいたま市岩槻区大戸1752〉
2020年03月07日
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【訪問日:2020(令和2)年2月9日(日)】 2020年3月で取り壊しになるようです。〈ナカギンザセブン:埼玉県さいたま市浦和区高砂〉
2020年02月09日
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【訪問日:2020(令和2)年2月9日(日)】 2回目の訪問〈浦和一女発祥の地:埼玉県さいたま市浦和区常盤〉
2020年02月09日
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【訪問日:2020(令和2)年2月9日(日)】※ 市公式HPより 中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所です。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていました。始まりは定かではありませんが、戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいます。市神と定杭を残す市場跡は、全国的にも例が少なく、近世の商業史を知る上で貴重なものです。〈浦和市指定史跡 浦和宿二・七市場跡:埼玉県さいたま市浦和区浦和区常盤1-5-19〉
2020年02月09日
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【見た日:2020(令和2)年2月1日(土)】 この辺りを、昭和22年に開拓したとのこと〈開拓之碑:埼玉県所沢市美原〉
2020年02月01日
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【みた日:2020(令和2)年1月12日(日)】 明治に成田山門前から宗吾間を結んでいた、千葉県で初めて走った電車「成宗電車」の跡※ 電車道※ 成宗電車第2トンネルから成宗電車第1トンネルを望む
2020年01月12日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 市公式HPより 白山中学校の南側、手賀沼を見下ろす台地上縁辺に位置しています。かつて6基の古墳が展開しており、1978年(昭和53年)にこのうち4基(3~6号墳)を調査し、古墳時代終末期(7世紀初頭)のダルマ型墳であることを確認しました。2014年(平成26年)に1号墳の調査を行い、全長35メートルのダルマ型墳であることを確認しました。横穴式石室からは大和王権とのつながりが指摘される「頭椎大刀 かぶつちのたち 」1本、このほかに大刀3本、鉄鏃約120本など多数の遺物が出土しました。現在、2号墳のみ根戸古墳公園内根戸古墳公園内に残っています。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 市公式HPより 武者小路実篤は白樺派の創設者。1916(大正5)年から1918(大正7)年まで居住。志賀直裁や柳宗悦と交流。ここで『日本武尊』『AとB』などを執筆。「新しき村」の建設を唱え、宮崎県木城村へ移る。 白樺派の文人である武者小路実篤は1916(大正5)年、もとは志賀が購入した土地に移り住みました。 我孫子では志賀や柳と交流し創作活動に励み、1918(大正7)年にかねてより構想していた「新しき村」の実現のため宮崎へと旅立ちました。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 三樹荘跡脇にはハケ道へと続く天神坂があります。 名前の由来はこの地に天神様があった事から。 平らな石と丸石を組み合わせた美しい石段は、木々に囲まれ緑のトンネルの様。 坂の途中には由来と短歌が記された石碑が埋め込まれています。 短い坂ですがちょっとした非日常を味わえます。 木々の合間を通るこの坂は風光明媚な手賀沼への続く道でした。文人たちは、自分たちがよく集まっていた三樹荘から沼へと下っていくこの坂をこよなく愛したそうです。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 市公式HPより 柳宗悦(やなぎむねよし)の邸宅跡で、邸内の椎の三大木が居宅名の由来。居住は1914(大正3)年から1921(大正10)年。民芸運動の始祖・宗教哲学者。兼子(かねこ)夫人は声楽家。イギリスの陶芸家バーナード・リーチが邸内の窯(かま)で作陶。後に陶芸家河村蜻山(せいざん)も居住。敷地内は非公開。 彼が我孫子に居を構えると、それに続く形で白樺派の文人達が我孫子に集いました。 三樹荘の名前の由来は、智・財・寿を表すと地元で信奉されていた三本のシイの古木にちなみ嘉納治五郎が名付けました。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 市公式HPより 杉村廣太郎(楚人冠(そじんかん))住居跡。朝日新聞社幹部。記者・随筆家。俳句の結社 湖畔吟社(こはんぎんしゃ)を主宰。唱歌「牧場の朝」を作詞。1924(大正13)年から1945(昭和20)年没まで在住。河村蜻山作陶の楚人冠句碑がたつ。 明治から昭和にかけて活躍した国際的ジャーナリスト杉村楚人冠(本名:杉村広太郎)の邸宅を記念館として公開しています。元々は別荘でしたが、関東大震災の後、楚人冠は家族とともに我孫子に移住し、亡くなるまでこの地で過ごしました。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 講道館柔道を興す。東京高等師範学校長。明治の末に、天神山に別荘を構える。甥の柳宗悦(やなぎむねよし)を我孫子へ招く。IOC委員となり、1940(昭和15)年開催のオリンピックを東京に誘致するが、戦争で中止。白山に嘉納後楽農園を開く。 講道館柔道の創始者であり、教育者でもあった嘉納治五郎が1911〈明治44)年に設けた別荘跡地です。 嘉納は、我孫子に甥の柳宗悦を招き、それによって我孫子には文人たちが集うようになりました。 また、白山一丁目付近に広大な土地を購入し、嘉納後楽農園を開きました。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 子の神大黒天への入口。 寛政元(1789)年建立。子の神大黒天の参道「子の神道」の分岐点を示す。※ 子ノ神道標(従是子神道)
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 江戸時代、小熊家は我孫子宿の問屋兼名主。1831(天保2)年建築で茅葺屋根の母屋。1665(寛文5)年以来の我孫子宿の人別帳、年貢などの古文書を保存。湖畔吟社の句会会場だった。敷地内は非公開。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】 ※ 県公式HPより 我孫子市寿1丁目、旧水戸街道沿いに我孫子本陣跡の碑がある。また近くに茅葺き屋敷の脇本陣跡(非公開)がある。 江戸時代に整備された街道のうち、江戸と水戸を繋ぐ水戸街道の宿場の一つとして我孫子は大変栄えました。宿場には一般の旅行者が泊まる旅籠や位の高い武士が泊まる本陣などが立ち並んでいました。
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 市公式HPより 柔道家で教育者の嘉納治五郎は1911(明治44)年に我孫子市緑に別荘を設けた。理想の学園を作る構想を持ち、白山1丁目付近に大規模な土地を取得するが、学園の設置はうまくいかず、その場所に嘉納後楽農園と呼ばれる農園を作った。 1938(昭和13)年嘉納の死後農園は売却されますが、後にこの場所が我孫子の初期の分譲住宅地になり、多くの人が我孫子に移り住みました。〈嘉納後楽農園跡:千葉県我孫子市白山〉
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月21日(土)】※ 飯泉喜雄氏は「鉄道なくして町の発展無し」と信じ駅誘致に奔走資材を投じて駅用地を無償提供し明治29年我孫子駅開設に成功した。 さらに我孫子町千葉県議会議員をつとめ地域の発展に尽力した。 以来この町は成田線の開通生糸工場進出白樺派文人の往来など発展の道をたどる。氏は激務と心労のため38歳で病没した。 私たちは氏の先見の明と奉仕の精神に満腔の謝意を捧げ今こそ町を愛する精神を奮い起こそう。 平成15年5月 飯泉喜雄顕彰碑建設の会 協力者 壱千参百余名 日本鉄道会社に我孫子駅用地を無償提供して土浦線(現JR常磐線)を誘致した。明治29(1896)年12月開通。 この顕彰碑は開通時に投入された蒸気機関車6600型を模した。※ けやきプラザ※ 手賀沼方面※ 取手方面※ 柏方面
2019年12月21日
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【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】
2019年12月15日
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【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】 安産の仏様
2019年12月15日
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【訪問日:2019(令和元)年12月15日(日)】※ 旧増林村の煉瓦工場のレンガ
2019年12月15日
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