折れず曲がらず良く斬れる

折れず曲がらず良く斬れる

2008.01.02
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 山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代の山陰地方の武将。出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。実名は幸盛(ゆきもり)、通称鹿介だが、講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之介(しかのすけ)なる誤った表記で知られる。幼名は甚次郎。「山陰の麒麟児」の異名を取る。

天正5年(1577年)、信長の命により羽柴秀吉の中国遠征が始まると、その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興を目指した。しかし、翌天正6年(1578年)に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍を引いたため、上月城は孤立し、「打倒尼子」の意気に燃える毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した。

 この時、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず、毛利氏に降った。しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡(岡山県高梁市)の阿井の渡しにて謀殺された。通説によれば、鹿介は尚も生き延びて、尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、鹿介は殺害されたと言われている。鹿介の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。

 殺害現場である現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流点付近の国道313号沿いに墓所はあるが、胴体は観泉寺前住珊牛和尚によって埋葬された胴塚が現在も観泉寺墓地に残っている。首級は備後国鞆の浦に在していた時の室町幕府15代将軍足利義昭や毛利輝元により実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った首塚が現在も残る(鞆の浦・静観寺山門前)。

 写真は岡山県高梁市にある鹿介の墓です。

画像 120 山中鹿之助の墓.jpg






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最終更新日  2008.01.03 11:19:30
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