伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2015年11月28日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
rblog-20151128134322-00.jpg



先日の「藤堂高清の墓はどこに」のブログを見た同じ会員の方から、こんな資料が
あると教えてもらいました。それが「伊賀緑ヶ丘地誌」というものでそこに
2.上野城代藤堂出雲高清
のページがありましたのでそれを載せてみます。

 藤堂出雲高清は、天正13(1585)年、但馬において藤堂虎高の第三子として生まれる。
高清は、藩祖藤堂高虎の異母弟で、幼名は高虎と同じく与右衛門と称した。
 大阪夏の陣に、高清は上野城、弟藤堂内匠正高は名張城(他の文書では逆のことが多い)
の留守居を命じられたが、正高と共に城を抜け出して八尾へ出陣、首級を獲るなどの武功を

岸田庄右衛門(覚兵衛)が鎮圧するという事件が起こった。
 高虎は戦場に参加、武功をあげたとはいえ戦命に背いた高清・正高に対して蟄居を命じた。
 高虎は元和5(1619)年、高清の蟄居を許して七千石を与えて上野城代とした。
 高清は上野城代として伊賀一国を統治、上野城の筒井時代の本丸の御殿を引き継ぎ伊賀の
司政の基礎を固めた。
 下屋敷は、万町(元、旭ダイヤモンド三重工場の地)に置いた。
 寛永17(1640)8月15日、上野城代職22年、56才の生涯を閉じた。
 高清は、上野の町を愛し生前から遺骸は、上野の郊外に葬ることを願っていたので、長者
屋敷に葬られることになった。
 法号南照院殿月山道桂居士、出雲墓と呼ばれた遺構は昭和19(1944)年5月、伊賀海軍航空
基地のため、石碑は神道墓地(緑ヶ丘南町)へ渡辺高之助家(1827年時城和奉行)の石碑と共に移転されている。

 高清の子孫は藤堂家家譜のごとく、津藩主や久居藩主を継ぎ、また、上野城代藤堂采女家
も継いでいる。

以上です。
長者屋敷は国分寺跡ですが当時は地名で今の緑ヶ丘と西明寺の西明寺側、名阪国道の西北の
工場地にあったようです。
rblog-20151128142938-00.jpg


神道墓地は、今は安立寺の墓地にもなっている伊賀白鳳高校の裏側に在りますが昭和16年の
墓配置図に掲載されているので移転自体はもっと以前だったようです。

rblog-20151128142938-01.jpg

その出雲墓配置図を頼りに石碑を探したのですが中央に道が出来ていて方向感覚が定まらず
一度通り過ぎてから見つけました。
南に追いやられ向きも北向きに変えられていました、遺体、遺骨は移転していないのでしょう
がなにか侘しくなりました。


rblog-20151129214020-00.jpg
石碑碑文 月山 藤堂 問碣   玄孫高周建

藤堂高周 高清の玄孫高武の第十子 1776年時出雲家7代当主





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016年01月14日 13時16分28秒
コメント(1) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


Re:❗追記 藤堂高清の墓はどこに(11/28)  
ごんのすけ さん

良かったら教えて下さい。
「石碑は神道墓地(緑ヶ丘南町)へ渡辺高之助家(1827年時城和奉行)の石碑と共に移転されている。」とありますが、高之介の墓も近くにあるのでしょうか。
おそらくその墓は、渡辺高之介家二代目の重のもので、彼は71歳で死去し、「上野城外長者屋敷之原」に埋葬されたとあります。 (2018年09月16日 22時29分40秒)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: