伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2020年09月16日
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町井砦跡に移したといわれる桶子神社(おけごじんじゃ) 伊賀市木興町

天正九年(1581)九月七日織田勢伊賀に乱入して三日目
現在の伊賀上野公園内の平楽寺で伊賀の百田藤兵衛らは蒲生氏郷勢と壮絶に戦い一時間余りで火を
つけられる、突出した者鉄砲で倒れ、負傷し戦えぬ者は焼け死んだ。
僧侶も宿坊三十六諸堂焼け、法師184人計七百人首を切られた。
その夜、堀秀政、竹島館(大野木)に陣、島ヶ原の富岡忠兵衛に木興の町井左馬允を討つように命じる。
(島ヶ原は抵抗せず攻められない約束を織田勢と交わしていた。
しかしその替わりに町井左馬允の弟子の富岡忠兵衛に左馬允を打つよう命じた)




木興の町井左馬允宅を島ヶ原の弟子、富岡忠兵衛が取り囲み降伏するよう説得したが受入れず、
忠兵衛、仕方なく火をつける。

左馬允夫婦、長男、貞光、他一族郎党、五十余名、居城木興城に籠城し「木興のなで切り」
と言われる討死を遂げる。

この時次男の町井清兵衛(18歳)すでに長田の比自山に籠り戦っていた。






同じ木興町に不動明王参道の石碑があり、この上にある石碑が町井家顕彰碑



右側が木興町井家顕彰碑
その左側の小さい方が町井刑部石碑

木興町井家顕彰碑 台水先生語碑
男兒不能弃儒如子雲
(未熟な男子儒学すてることできず、子雲のごとし(揚子雲、中国前漢時代末期の文人・学者))

(また筆書をやめること仲升(班超のあざな)のごとし
燕頷投筆(えんがんとうひつ) - 班超の決意のように(仕事の筆書を辞め、武功の決意により、のちに武将になったという故事から)、大きな決意をすることをたとえる四字熟語。)





町井刑部石碑全文
町井刑部少輔貞之新田義貞七世之孫
而伊州木興城主也織田信長之来攻也

然遂屈力落城与長子貞光灰一属郎党
五拾有余名自殺干此時天正九月
廿三日也此塔及石像為其遺跡然倶無
題字恐其久弗可識人或岩慢之故勤諸在
為誌云

 大正五年三月七日
    新田義貞十八世孫
      町井重三郎義方読


町井刑部は清兵衛か子孫だと思われる。
その子孫は枅川の町井家で現在主家と書院は文化財に指定されている。



その文化財の枅川、町井家主家
江戸時代中期(1744年)には珍しい瓦屋根
次男貞信筋が天和二年(1682)には枅川に移り大庄屋になり、文政元年(1818)には藤堂藩の無足人に取り立てられた。町井治太夫と思われる。
子息が、町井治(台水)
三男が津移封入封藤堂藩に召し抱えられたという説がある。





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Last updated  2023年12月06日 15時17分01秒
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