伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2023年05月29日
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「太平記」に朝廷に謀反を起こした藤原千方が立てこもったといわれる砦跡が柱状節理状の岩が屏風のように並んで窟となっている天然の要塞があります。
砦跡には千方将軍を「千方明神」として祀る小さな祠もあります。

高尾地区市民センターから出発した角にあるマップ看板、ここから距離約1,2kmですが登り坂ばかりでとてもそんな距離の疲れ方ではありませんでした。




舗装された道を登ると地道に入る看板があります、後から思うとこの舗装された道の方が脚にこたえました。




数百メートル行くと分かれ道があり日本遺産、忍の里 伊賀、甲賀 道標



千方窟への入口として千方明社の鳥居があります。



2015年に創設された制度、日本遺産に2017年に追加承認された、日本遺産
「忍びの里 伊賀、甲賀 リアル忍者を求めて」の看板


『太平記』によると、天智天皇の時代、時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき)です。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になります。
また、この四鬼は忍者の原型であるともされます。



千方城郭への東門跡看板
裏門とされていますので西に正門が在ったのでしょうか、そもそも城というイメージされるものではなくせいぜい砦跡とされるものでしょう。




千方窟の柱状節理群、この場所を砦として立て篭もり戦ったとされる場所です。

藤原千方は平将門討伐で功を成した藤原秀郷(ひでさと10世紀前半)の孫、という説があります、とすると、10世紀後半から11世紀前半の人ということになり、実在の人物となります。秀郷は近江三上山に潜む巨大な百足を退治する側の武将としても知られていますが、その孫であるはずの千方が、逆に退治される側の鬼に与した武将としてその名が知られています。




藤原千方達を退散させた紀朝雄(きのともお)の和歌が正面の岩に昭和四年(1929)に刻まれました。

紀朝雄が鬼たちに対して、たった一首の和歌を詠んだだけで、鬼たちを退散させたという、 その歌というのが、
「草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の 棲なるべし」
というもので、 直訳すれば、
「草も木も、全てこの世のものは天皇が治めているのだ。

ということでしょうか。





その脇に藤原千方を祀った祠。




大門跡とされる場所、やはり東を正門としていたようです。
しかし後年設定されたものでしょうから、日が登る東を正門、西を裏門とする定説に従ったのでしょう。
ここから柱状摂理群の上部に登りました。




因みに一緒に歩いていた女の人は厠(かわや)跡と読んでいました。





一番上部にこの看板があります。




風穴です。覗くと柱状摂理の上の切り込み状の六角形が見えます。


柱状節理はマグマが冷えて固まったものです。冷えて収縮する時、アルファベットの「Y」のような形の割れ目が出来、それぞれの割れ目がちょうど120度で交わり形成されるので六角形の柱が出来ることがほとんどです。
柱の直径は3メートルから数センチメートルまで様々で、高さは30メートルのものもあります。




この風穴がここから名張市まで通じていて、そこから奥伊勢での藤原千方伝説が遺ります。
しかしこの高尾地区の千方伝承会の方はこの地で亡くなった説を説かれていました。




「太平記」は軍紀物語としての側面があり藤原千方を天智天皇の時代(7世紀)の人とされている記述がありますが、
8世紀に記された日本書紀には記述がありません。やはり平安時代の11世紀の人だと思われます。

千方伝承会の方は藤原千方は重い課税を批判して朝廷と争ったとして朝敵とは着せられた汚名であるとされていました。





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Last updated  2023年05月29日 13時46分44秒
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