YOSSY’S DIARY

YOSSY’S DIARY

2007年07月19日
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うちの塾をスタートしたのが昭和63年だから、現在の中3がちょうど記念すべき第20期生ということになる。
千葉の塾組合も同じ年にできたのだが、こちらは数えでみるので「二十周年記念」の年にあたる。
塾は満でみるので、来年度が「二十周年記念」ということなる。

正直、「えっ、もう二十年もたってしまったのか・・・」という感じだ。

大学院を出て1年間内房の塾に契約社員として働いた。
教員採用試験を受けようと思っていたのである。
が、塾に仕事が俄然面白くなってしまい、そのままずるずると二十年。

はじめ、今の塾とはちょっと離れた場所に十五坪のプレハブを建てて塾をはじめた。
トイレがなかったので、ニッケンから仮設トイレをレンタルで借りて、教室の横においた。


1年間勤めた塾を反面材料として、同期だったH先生と二人ではじめた。
三月に「できない子集まれ!」とまいた新聞折込チラシ1万枚で、集まった生徒は中3が一人、中2が二人の合計わずか三人だけだった。

それでも僕らには夢があった。
僕らは、教室をたくさん展開する大手塾に育て上げるつもりはさらさらなかった。
1つの教室で、じっくりと勉強を苦手にしている子に、自信をもたせてやりたかった。
当時、「教育技術の法則化運動」というのが流行っていた。
主宰する向山さんの「跳び箱は誰でも飛ばさせられる」という本は感動した。
「これだっ!」と思った。
「数学は誰でも得意にできる」「英語は誰でもできるようになる」・・・、そういうしっかりしたスキルを子どもたちに伝えられれば、跳び箱が飛べなくて体育が苦手な子がいなくなったように、勉強が苦手で劣等感をもつ子も失くすことができる、と思った。

だから、ちょっと勉強ができるようになると
「お前はもう塾やめて、自分で勉強したら?」


そこで、当初は考えていなかった中位・上位の子への指導も真剣に考えなくてはいけなくなった。
教室ははじめから2部屋用意して、学力別に指導はできるようにしてあったが。

塾に見学に来た子に
「○○くんの通っている塾ではレベルが低くてイヤだ」
と断られたこともあったし、

というお母さんもいた。
僕は、その生徒とまだ会ってもいないのに、そんな約束はできない・・・というほかなかった。

第1期生は受験時期を迎えた昭和64年はしかし、数週間で平成元年になった。
つまり、平成の年号と生徒の期数がくしくも一致することになった。
期末の生徒数は三十名に増えていた。
近くにはN塾とD塾という二つの塾があり、塾の前にはたくさんの自転車がとまっていた。
心底羨ましかった。
徹底して分かりやすい授業のために、プリントなど教材づくりにも精を出した。
シャープの書院というワープロも使っていたけど、手書きのプリントもまだ多かった。
近くの中学校は1学年8クラス360人ほどの生徒がいた。
わが塾の第1期生十五名。
今でも、ひとりひとりの顔が目にうかぶ。

塾は卒業生が出ると、すぐに新学期なのだが、第1期生が塾を去ったあとは猛烈な喪失感で1週間ほど脱力してしまっていた。





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最終更新日  2007年07月19日 10時42分49秒
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