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『曹洞宗山口県総合寺院名鑑』廃寺39 福泉庵(熊毛郡八代村:現周南市八代)沿革 山号不詳。本尊は薬師如来。本寺は太陽寺。永禄六年(一五六三)、太陽寺八世寶室永珍(一五六四寂)が建立し開山となった。熊毛郡八代村(現周南市八代)にあったが、明治初年に廃寺か。〔参考文献〕『注進案』7-74~75当家では、「福泉庵の住職がいなくなったため、ご本尊を本家が引き取り守っている」と伝えられている。勝手な想像だが、当時、すでに住職不在となっていた福泉庵を山野井本家が管理していたが、明治初期の神仏分離令の影響を受けて正式に廃寺とされたため、庵を解き、御本尊を本家に移したのではなかろうか。
2022.12.24
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『防長寺社由来』第ニ巻P302~303八代村 太陽寺脇観音外小社 《中略》一庵弐ケ所 内 壱ケ所 薬師堂 但、御蔵入御庄屋山野井嘉内存内有之、尤太陽寺末庵内ニ御座候 《中略》右何れも由来相知れ不申候事右の通御座候、以上 三月十九日 八代原村庄屋 源右衛門「存内」は長州藩における庄屋の支配管内を示す用語らしいので、「山野井嘉内」は蔵入地の庄屋であったものか。当該資料の提出年は不明であるが、熊毛宰判からの寺社由来提出は概ね元文~寛延年間が多い様子。
2022.12.24
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『防長風土注進案7熊毛宰判』から抜粋福泉庵桁行三間梁行三間茅葺本尊 薬師如来 脇立 不動 毘沙門本寺、當村太陽寺八世寶寶永珍和尚開基、永禄六年亥ノ三月建立、庵主山野井家開基也傳曰、當村山野井家元祖大織冠鎌足公ゟ四拾貮代之後胤、就中依命山野と改む、山野新兵衛尉盛兼代弘治元年卯年従元就公大内家ニ傳ふ雪舟等楊之墨書を給ふ 壹ニ月見の布袋 貮蘆ニ雁 三蓮ニ鷺 四ニ菊ニ雀 五ニ人物 六ニまつニ鳩 雪舟、備渓齋、諱ハ等楊、姓ハ小田、備中の國赤濱の人、幼年米元山寶福寺ニ居ス、其後入唐して帰朝之後防州山口大内義隆の館にあり、其後雲州尼子晴久の家ニ在と傳 永禄元年元就公ゟ後奈良院御宸筆の色紙を給ふ、其文ニ曰 關路雲 われもまたこえなんものかあしからや 關路の空の岑のしら雲 右色紙半分破滅と相見候事人皇百六代後奈良院永禄元年午の年と添書有之、永禄貮年盛兼故ありて御暇給り、依之防州熊毛郡八代村之内須の河内という所迄来り、此所ニおゐて乗馬相煩滞留保養を加るといへとも終に此所にて死す、黒キ鹿毛古今駿足也、則此所に埋めて椎の木を植置、忽此木に馬の尾生る事諸人の知る所也、依之馬塚荒神と崇奉りて牛馬の病あるときハ此神に祈り、此尾を守りと尊敬せは忽平癒霊験あらた也、後年此地ニ村々鎮守勧請し着の森といへとも元来馬森と称す、追年馬の霊出て種々妙薬の法を授く今山野井家嫡流相傳也、永禄四酉年八代村之内岡村といふ所へ住所を定、前名ニ依て山野井と再改す、山野井甚右衛門盛高代異霊の事ありて永禄六亥年池ヶ迫といふ所へ一庵建立、則當庵開山永珍和尚、其後宝暦十貮午年只今の地ニ再建、盛高ゟ五代之孫山野井瀬兵衛澤榮と名乗、村人俗ニ千石瀬兵衛と異名す、是千石の石高を持故也、六人子供ありて貮軒別家を建、三人に配地をして他家を相続せしむ、六男神田屯と名乗宍戸様御家人也、早世ニ依て配興之田畠を以庵禄とし、諸修復等仕来山野井三軒の位牌を建置、只今岡村と申所ニ有之候事福泉庵の記述中、脇立に「不動」「毘沙門」とあるが、いずれも現存。そういえば、以前、ご住職が法要に来宅された際、「薬師如来は健康の仏様。コロナ禍にあっても山野井家には薬師如来がおられる。しっかり手を合わせてお祈りなさい」と言われた。幸い、わが家では今のところ誰もコロナに感染していない。御利益にあやかっているのかも。上記をそのまま見れば、弘治元年(1555年)山野新兵衛盛兼は毛利元就に従って大内家に伝わる雪舟等楊の墨書を給わった(?)と読めてしまう気はするが、当然ながら当家にそんな高尚なものは現存しない。
2022.12.03
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