三河の住人の庵

三河の住人の庵

城跡めぐり



牧野城(豊川市牧野)

牧野城址.JPG牧野城土塁.JPG

牧野城は 四国から来た牧野氏が 応永の頃(1394~1427)に築いた城である。
牧野氏は この後 牧野成時(古白)のとき 瀬木城、一色城を経て 
今橋城(豊橋市吉田城)に精力を伸ばす。


一色城(豊川市牛久保)

一色城は 鎌倉公方(足利)の一族 一色時家が1439年築城した。
時家は 1477年 豪臣 波多野全慶に討たれた。
16年後1493年年 牧野成時(古白)が 全慶を討って一色城主となる。
一色城址は 今 大聖寺となっており 一色時家の墓はここにあるのだが
今川義元の胴塚の方が知られている。

義元胴塚.JPG一色時家墓.JPG

一色城の遺構は 大聖寺から 少し東に 土塁跡がある。
木柱に 一色城保障(カキアゲシロ)外塀と墨書してある。

一色城土塁.JPG

ここから 600mばかりの所、牛久保駅の踏み切りの南に行くと
牛久保城址碑がある。

牛久保城址.JPG

一色時家の墓の案内には 古白の次男 成勝にこの城を与えたとき 
一色城を改めて 牛久保城と呼んだと書いてある。

一色時家.JPG

古白は 今川方につき 1505年 今橋城を築城して勢を張ったが 
翌1506年 今川氏親により 攻められて死んでいる。

牛久保城は 牧野成時(古白)-成勝の傍系の 牧野成定が
2代城主となっている。

成定の孫 忠成は 越後長岡藩の城主となっている。

長岡藩には 参州牛久保の壁書18条が 代々伝えられている。
その第1条は「米百俵」で有名な 『常在戦場の四字』
長岡出身の 山本五十六の座右の銘でもある。

壁書には 
「武士の義理 士の一分と言ふ事」
「腰は不立とも一分を立よと言ふ事」
「士の魂は清水で洗えと言ふ事」
という言葉も見える。
三河武士の魂が幕末まで伝わったと言える。  

司馬遼太郎が 河合継之助生涯を書いた「峠」の舞台が 
幕末の長岡藩である。

さればこそという思いである。








© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: