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週末、お弁当などのおかずをまとめ作りしたり下ごしらえ。終わってホッとしてみれば・・我が指や爪の間が黒い!!あらっても取れないその正体・・ごぼうやにんじん、たまねぎやジャガイモ・・いろんな野菜や根菜類のアクでしょうな・・特にごぼうとか。はるか昔、私がまだ子供だった頃。ばあちゃんと一緒にお風呂に入って洗ってもらいつつ、ばあちゃんの手が汚いなぁ・・と。炊事やってる手を見ても、ばあちゃんと手をつないでも、ばあちゃんの手のその皺皺の間に刻まれたような黒いの。「ばあちゃん、よっく手洗え」とか言っていた私だったけれど。手も荒れてガサガサだったから、洗ってもらうときも、背中がかゆいとかいてもらう時も、ばあちゃんの手のガサガサが痛かったり。畑仕事やまき風呂炊き、それに炊事とか。いろんな仕事をやった手なんだなぁ・・人間の年輪。そんなことを思い出しました。私も手荒れでガサガサだったり、手の黒いのが取れないとき・・ばあちゃんを思い出して、これからも頑張ろうと思ったりします。
2010年12月06日
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私の顔、目の下にほくろがあります。会う人会う人が、このほくろを見て、「ヘンなの」って思ってるに違いない、と、中学生の頃からずっと気になっていました。自分で気がついたのがちょうど中学生だった。勉強もしないで、かみそりで産毛をそったり、足や腕の無駄毛をそったり、自分の部屋で、懇々とやっていました。それが、日々の日課。初めは、周りの人の「かわいい」と言う言葉に、素直に「こういう顔がかわいいって言うのか」と、まんざらでもなかった。でも、アイドルの載った雑誌を見てると、私ってブスだと思うし、クラスの子を見ても、自分の容姿がどうしても好きになれず、自分で自分を見ながら段々鬱になった私。「顔が大きい」「目がたれ目だと思う」「髪も嫌い」「どうしてこんな顔なの?」そう思いながら、顔の手入れをするうちに、衝動的に、嫌いな顔のほくろをかみそり(T字型じゃないやつ)で切っていました。ここも、そこも、嫌い。嫌だ。みんなはもっと細くてかわいいのに、私だけどうしてこんな顔なんだろう・・・とまじめに悩んで。「そうだ、整形手術というものがあって、ほくろくらい取れるって聞いたから、自分でも取れるかもしれない」という、危ないことを、本気で何の危険も疑いも感じず、やってしまいました。結果、傷だらけのほっぺたに、もっと目立つようになったほくろ・・血が止まっては切り、気が騒いでは切り、衝動的に髪の毛も修復不可能なショートカットに切っていました。髪を切った後はすっと気が治まるのですが、翌日、後悔の山。変な頭で学校に行くのは嫌だったけれど、一日で慣れてしまう。今度は、眉を切ってみる。次はまつげ。鼻毛なんてようやく見えるくらいだったのに、もうとっくに切っていたから、切るものがない。そうするとまた、ほくろと言うほくろを気になって傷つける。腕、足、首、顔、鏡で見えるところは全部切ってみた。今で言う自傷行為??切ると精神的に落ち着いて眠れる。というか、精神的に高ぶってるから、深夜のラジオで流れてくる歌を聞きながら、一人泣くだけ泣いた。そうして、疲れて眠りにつく。こんな青春時代を子供たちには送って欲しくないと思う。コンプレックスの塊は私だけで結構!!そういうことで、ナルといいたくなるほどに「自分大好き、自分かっこいい」と思い込んで生きているパパに出会い、こんな私でも褒めてくれた。そうか、もしかしたら、こういうタイプがいい人もいるのか。それは過去の幻。誰だって美男、美女の基準があって、それはほぼ同じく感じるもの。韓国映画だって、かっこいいと綺麗の基準も、ブ○イクの基準も一緒で、びっくりしたくらいだから。今?相変わらずのコンプレックスはあるんだけれど、直しもしないし、そういうもん、という、「寝るときはおやすみ」みたいなものになってしまった。時々、うっかり鏡で見た自分にびっくりしてしまう。不意の写真撮影を禁止している。お前は犯罪者か?と。芸能人ですか?と。若い頃傷つけた皮膚は、何とかつながり、今は小さな傷になって治まっている。何か、自傷行為を考えたくなったとき、この傷が、自分をいさめる。ケンカして相手に切りつけられた大きな傷を見せてくれたかつての恋人に、私のこの傷を見せてみたことがある。比べ物にならなかった。彼は自分を守った傷。私は自分をやっつけた傷。「ばかだな」と言う言葉で、たくさんの言葉は交わさなかったけれど、なんか恥ずかしくなって人に見せるの止めたもの。そんな、苦ーーい思い出。
2008年09月26日
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中学生の頃。幼稚園も一緒だった、友達、Tちゃん。部活も一緒になった。クラスは違ったから、部活が一緒になったのはたまたまだけど。2年生でクラス替えになり、Tちゃんと同じクラスになった。何時からか、Tちゃんは時々学校を休むようになった。初めのうちは風邪かな?腹痛かな?と思っていた。段々休む日が増えたのは3年生になってから。担任から、「Tに電話してくれ」と言われたことと、普段話しをしたい人が学校に来ない寂しさから、軽い気持ちで電話していた。「どうしたの?明日、学校これる?」「うーん、わかんない」そんな感じだったと思う。休みが多くなればなるほど気になる。時々は登校するんだけれど、早退することもある。休みが増えていく。「ねえ、Tちゃん。どうして休むの?何かあったの?誰かに何か言われたの?」一方的に聞く私に対し、Tちゃんは黙っていた。どうして何も答えられないんだろう?どうして何も言ってくれないの?自分では元気付けているつもりだけで、Tちゃんには負担だったのかもしれない。自分の子供が不登校になって始めて、仲のいい友達にも話せない何かがあったんだと思う。その後彼女は、休みながらも、一緒に卒業し、念願だった、「調理」の道に進むべく高校へ入った。私と学校は違ったけれど、時々会ったり、遊んだりしながらも付き合いは続いた。高校を途中で退学したと、当時付き合っていた私の彼から聞いた。彼を紹介してくれたのは、Tちゃんの彼で、ダブルデートもしていたし、私たちが何かあると、Tちゃんカップルに来てもらって話を聞いてもらったり。そんな付き合いでの、不意の退学にはびっくりした。これはきっと「二人が結婚するからに違いない」という勝手な憶測をまわりは立てていた。私もそう思った。でも、Tちゃんの彼が先に退学した後、彼女も退学したと言う。しかも二人、わかれてしまった。私たちも、私が短大に入ってしばらくたって、別れてしまった。別れた原因はいろいろありすぎて困っちゃうんだけど、彼の浮気と、お互いの気持ちのすれ違い。でも、決定的になったのは、私にほかに好きな人ができてしまったと言うこと。Tちゃんは心配してくれていたけれど、新しい出発を応援してくれた。それから就職した私。しばらくたって、私が結婚することが決まってから、彼女から電話があった。「おめでとう。どの彼と結婚かと思ってさ、びっくりした。でも、きっとmarchinは早く結婚すると思っていたよ。」しばらく話しをした後、私の出産を機会に、付き合いが途絶えてしまった。もしも今でも彼女と付き合いがあったら、「不登校になったときのこと」を聞いてみたかったかも。何があったのか、何を思っているのか。あの時は友達としての気持ち、今は、不登校児の母親の気持ちで。
2008年02月13日
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じいちゃんに聞きたかったこと。じいちゃんが死んだあと、みんなで遺品などの片づけをすることになりました。大人は、衣服やその他のものを。私と妹はナニをしたらいいかわからず、とりあえず、引き出しを開けてみました。何段もある、小物用の引き出し。「全部片付けていいよ」と言う大人たち。片付けるのはいいんだけど、もしも貴重品が出てきちゃったりしたらどうする?なんて要らぬ心配をしながら、妹と一段一段見て行きました。そこにはあってはならないものが!!じいちゃんの部屋には変なものがいっぱいです。それはわかっていますが。体が小さかったので「お前は目方が足らない」ということで、戦争に行く兵隊さんにはなれなかったという祖父。なのになぜか持っていた、鉄砲。「じさま、銃刀法違反だべな」「おらだが捕まっていらんねーべ(爆笑)」そういうことで、しかるべきところに届けてから処分したらしい。それになぜかあった、兵隊さんがかぶる帽子やヘルメット。「なんだて、じさま、兵隊にならんねっけがら、誰がらもらったんだが」「まず、共産党だ、自衛隊だて、わがんねじさまだったな」みんなで爆笑でした。私と妹が見つけたものは、疑問符でいっぱい、生きていたらじいちゃんにつかみかかるかも、と言うものが。分度器。コンパス。宿題だった頑張って書き上げたままの方眼紙のグラフ用紙。一色だけなくなって困った色鉛筆や、ぺん。あの時気に入っていて使ってたのに紛失した、風化した消しゴム。大好きだったおもちゃの偽真珠の首飾り・・・どうしてこんなものをじいちゃんが持っていたのか???私たちが学校に行くときに忘れたものを、一つ一つ引き出しにしまって封印してくれたか。一言、「忘れていったっけな」と言って渡してくれればいいものを!!妹24歳、私28歳。もう要らん。じいちゃん、もっともっと早く私たちに返してくれたらよかったんだ。姉妹でぶつぶつ言いながら、おじやおば、両親が見つけた「お宝」を見ながらニヤニヤしていた。ちなみに「お宝」と言うのは、父だったり、おじだったりの、通知表。おばは、「捨てでけろー」ひどい成績だったらしい。子供たちには、「お母さんは成績優秀で、こんなひどい成績取ったこと無い」「落ち着きが無いとか、忘れ物とか、お母さんはそんなことかかれたこと無かった」と言っていたらしいから、コレは子供に見せられぬ。「フーーン、お母さんの遺伝で私、忘れ物多くて頭悪いんだ」なんて開き直られたら困るってよ。どうでもいいものばかり出てきたじいちゃんの部屋。教育上よろしくない雑誌もあったり。わらいとなみだでおもいでになってしまったが。そんなことをふと思い出した。
2008年01月18日
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実家のじいちゃん。自分の息子や、孫を、つてで「自衛隊」に入隊させました。私が高校を卒業するとき、同い年の男子のいとこを、もうひとり学校をサボって留年し私たちと同じ年に卒業となった、「同級生だけど年上の男子のいとこ」を。二人とも喜んで、「おまいら、明日から修学旅行でも行くのか」って言うくらいテンション高い状態で、迷わず自衛隊に入った。つらい訓練。しかし、我が家に遊びに来た日、礼儀正しく、姿勢よく、「私は・・・・であります」「marchinさんは、学業はいかがですか?」「おじいさん、お元気で何よりであります」なんつってよ、おまい、わしのいとこじゃねーか。最近まで普通に馬鹿話した仲じゃねーか、って突っ込みたくなるほどに、すばらしいお人になりましたな。普通に、「んだ」「んだべ」なんて話してる私らが、すごく低レベルに感じたよ。作戦か?いとこよ・・・。なんつっても、公務員だもんね。給料は良かったらしく、寮に済んでたから、お金の使い道なんか無かったってよ。まあいい。じいちゃん。じいちゃんは、軍隊嫌い、戦争反対じゃなかったか?じいちゃんは、自らを「共産党派」だと言い、「赤旗」なる新聞を取っていたな。選挙ではいつも、「共産党」に投票してたな。少数派の共産党。「俺は共産党。共産党派で何が悪い」って言ってましたな。じゃ、その自衛隊入隊はナニ?私たち家族も、生協を利用しているから、軽い気持ちで共産党に投票したりはするんだけど、自衛隊はちょっと・・・確か、自衛隊は自民党・・・だったね。その矛盾は何ナノ?死んでしまった人に聞くわけには行かないよね。死ぬ前に、その矛盾を含めた「じいちゃんの不思議」を知っておきたかったよ。
2008年01月18日
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このごろの終業式、うちの子の場合、午前授業でお弁当持参なんです。一昔前、チロやチビタマが小学生だったときは、お昼なしでうちに帰ってきてから食べていました。午前授業と言っても3時間くらいで、「明日から休み!!」と言う嬉しい気持ちでふらふらしながら道草食って帰ってきてました。昼ごはんを食べたら遊びに行く、と言うのもお決まりで、のろのろ帰ってくる割にさっさとご飯食べて、疾風のように出かけていったもんです。オコジョは今日お弁当持参です。チロも高校の終業式なんですがやっぱりお弁当持って行きます。私が子供の頃は、終業式以外に授業はなかったし、早く帰ってきた記憶もあります。うちには誰もいなくて、自分で何とかしてご飯、食べていたり、祖父がラーメンを作ってくれたのに「モツ」や「牛筋」が入ってて、大人の味だったから飲み込めなかった記憶もあります。祖父は変わった人で、勉強家でした。今も思い出すのは、青海苔だけが入ったお好み焼きを作ってくれたり、蕎麦がきを作ってくれたり、ストーブの上でジャガイモを焼いてて食べさせてもらったことです。すずめを捕まえて焼き鳥にしていたこともありました。酔っ払いで、昼間から酒を飲んではふらふらしていました。近所で寄り合いがあると、立てなくなるほど飲んでは、そこのうちの人から「迎えに来て」と電話が来て、祖母と妹と一緒に迎えに行ったものです。妹はそんな祖父が大好きで、また祖父も妹は特別かわいがっていました。祖母は畑に行ったついでにお茶のみに行ったっきりなかなか帰ってこない人でした。車でも軽く20分かかるところに住むおじの家まで自転車で遊びに行ったっきり帰ってこなくて、夜遅く自転車で帰ってきたりもしました。畑で採ったという野菜は夕方持ってくると、もうヘナヘナしてて、「何で新鮮じゃないんだろう」とみんなで疑問に思ったりしました。普通はおばあちゃんがご飯作ってくれて、おやつ出してくれるんでしょうが、うちは祖父でした。おやつはあまり食べた記憶がなく、たまに祖父が機嫌がいいと50円とか100円とかくれたので、近所の店でお菓子を買ってきたこともありました。たまーにそんなことを思い出します。楽しかったんだか、暗かったんだか、???です。そんな話しをパパにすると、「楽しい子供だったんだなぁ」と言われますが。まったくー。他人事だな。もう冬休みに入るんですね。
2007年12月21日
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今も、何かを書くことは好きだが、昔はもっと好きだった。なんと言っても、学生。学生は、書くことが仕事みたいなものだから。漢字、英文字、数字、奇妙な絵、稚拙な文章・・・初恋、という実感がしたのは小学校5年生の時。他のクラスの男の子、活発でおもしろい。話すことさえ出来ない、彼を見てるだけの内気な私。出すことのないラブレターを書いたのが、思えば日記の始まりだった。ドラえもんのレターセットを買ってもらった。頑張って書いたラブレターは、何度も手直しした。書き終わっても、彼に渡すことなく、ランドセルに入れたまま。人に見られたら困るから、と、段々学校から遠のいていく。自宅の机だったり、引出しだったり。熱烈な愛の文章ではなかったけれど、人には見られたくなかった。そのうち、思いを便箋に書いてはしまう、を繰り返した。中学校に上がるまで、ノートに書いたり、「だれかにあてた」手紙を書いてはしまった。中学生になったら、便箋に書いてはしまうという、資源の無駄遣いを、もったいないと思い、あのときの思いはメモっておきたい、と思うようになった。いくつかの恋も覚えて、実ることはなかったけど、「あの時書いたラブレターの言葉はよかった」と、自分で見て恥ずかしながらも、「次に使おう」なんて思って。日記を書いている友達は多く、「思いのまま、人には言えない恥ずかしいことを書く」と言う人もあれば、「人に見られたときのことを考えて書く」と言うかっこいい、高度な考えの人もいて、私も真似した。でも、かっこよさと裏腹に、自分で書いても、暗号のようで、せっかちで「すぐ知りたい」、「ンモーイライラするー」な性格の私には合わなかったけど。何の事はない、今日の出来事だったり、今の目標だったり、友人関係、好きな人のこと、などなど・・それはそれは、愉快なことから悲しいことまで、バラエティーに富んだ、単なる暇人。勉強しないでサボる日はあっても、日記を書くことは欠かさなかった。ずっとずっと書いてきたから、パパと付き合ってからも交換日記をした。25を過ぎたパパに、ほぼ強制する形で。それは結婚してからも少し続いたけど、「直接話す」という合理的かつ、わかりやすい形になった。それからまた一人で日記を書いてきた。時々、パパに手紙を書くときはあった。話して感情的になるのがいやなとき、感謝を言葉で言うのだけでなくて書き残したい時。結婚する時持ってきた、私の日記帳。全て処分するつもりでいたのに、パパが「過去を捨てなくてもいいんじゃないか」と言った。どんな時があっても、今があるんだと。パパと出会う前のつらかったことは、今を静かに過ごすための通り道。過去の恋愛は、パパと会うまでの通り道。いやな人と会うことも、好きな人と会うことも、人生の中で決まっていたこと。・・・。なんて都合のいい、と思うかもしれない。でも、パパが言ったその言葉を、私は今も信じている。
2007年08月26日
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子供の頃は、私にとってお盆には、2通りあった。1つは私のうちでするお盆。うちは実家になっているから、父の兄弟一家がそれぞれ来た。父は5人兄弟。姉一人、妹二人、弟一人。父の姉妹たちは子供たちも含めた19人くらいいた。かわるがわるうちに来たり、うちに泊まっていったり。にぎやか、というよりうるさかった。遊び相手がいるのはいいが、穏やかな生活ができない。挙げ句、うちのお墓は大きな石だったから子供ながらに、引け目を感じた。前にお墓の件で書いたので、詳しくはそちらで。途中で母の実家へ里帰りする。実家と言っても車で10分くらいだから、何かあれば呼び出された。私がおさなかった頃は祖母が元気で、穏やかな夏をのびのび過ごしてきた。うちでは許されないことも、ここではよし、とされる。初孫だったから、祖父母にかわいがられて、日中一緒に遊んだ。夕方になると、浴衣を着せてもらい、お墓参りに行った。山のふもとの足場の悪いところを通っていくから、慣れない下駄が痛くて、祖母や父におぶってもらった。夕食後、みんなで花火をした。うちは住宅地にあるからできない打ち上げ花火もした。ご先祖様の写真や仏壇のある部屋で、布団をしいて眠るのが怖かった。お蔵もあったので、お蔵の二階で寝ることもあった。お蔵の階段が怖くて踏み外しそうになる。でも、涼しさはお蔵>仏間だった。網戸がないのと、階段がちょっと。それにお蔵は、子供の私には神秘すぎ。漬物が出てきたり、着物が出てきたり、米を持ってきて、母が「ギャー、虫」なんてこともあった。秘蔵の山ぶどう酒を密造してたり。祖父がいないなと思ったら、奥でひっそりと寝てたり。しかも、祖父のまくらは行くたびに違うし。そば殻だったはずが、畳のになってたり、石でできてたり、鼓だったり。朝は、私が好きだった「ハムかつ」か、ハムを出してくれた。叔母(母の弟のお嫁さん)が来るまでは、ハムかつは「魚屋さん」で買ってくれたけど、叔母が作ってくれるようになって、母にも「うちでも作って」とねだった覚えがある。叔母は上手なんだけど、母が作ると必ず衣がはげて見るも無残だった。それを叔母に言ったら、コツを教えてくれた。一緒に作って出来上がると、「marchinちゃんが作ったの~」ってほめてくれて、ますます叔母が好きだった。母の弟(叔父)にお嫁さんが来た時は、うれしかったな。普通の会社員のうちで育ったと言う若い叔母は、私を妹のようにかわいがってくれた。料理も教えてもらったし、流行ものを見せてもらった。叔母も里帰りしてしまうんだけど・・・叔父夫婦がいなくなると寂しかった。いとこもいないし、妹も小さかったから、遊び相手はいつも、叔父夫婦か祖父母。私が2~3年生の時、祖母が病気で倒れ、亡くなった。祖母がいない実家は日が当たらなくなったように見えた。祖父も遊んでくれなくなった。小さないとこはかわいいけれど、祖母の存在が大きすぎて、私は母の実家に行けなくなってしまった。子供時代を考えると、私がパパの実家と断絶中で、行かなくなったのは、子供たちに悪いなと思う。でも、パパや子供たちがそっちへ行くのは構わない。行かないの、私だけだから。
2007年08月16日
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保育園児が車の中に放置されたまま、熱中症になり死亡したニュース。やっぱり、どんな時でも点呼、または目測でもいいから、人数を数えないといけない。この時期の子供は車の中で眠ってしまったり、勝手にどこかへ行ったり、または送迎バスに間違って乗ったり、いろんなことが起きる。保育園で遊んでいるはずが、脱走し自宅へ帰ったなんてことも聞く。先生の目が行き届かないから、ということだけでは済まされない。遠いキオク。私がかつて子供だった頃。幼稚園が嫌いな子供だったから、登園を渋ったこともあった。でも、祖母や叔母に、バスに無理やり乗せられ、「いやだ」と言う搾り出すような泣き声もかき消されるくらいの勢いだったことを覚えている。幼稚園で会話することも、返事さえもできなかった。よくわからないけれど、「収容されている」ような気持ちでいた。時間になれば、バスが来る。自分の意思に反して、幼稚園へ運ばれる。ずっと泣いていた頃もあった。泣き疲れて周りを見れば、みんな何かやっている。泣く子は他にもいたから、先生も慣れていて、放って置かれる。何かあっても話すことができないまま、二年過ぎた。送迎バス。寿司詰めになるくらい、人が乗っていて、二人がけに三人、または四人座った。人が一人、二人と降りていけば、ゆったりしてくる。あの頃、ちょっとアバウト。私はバスに乗り遅れて、先生の車で送られたことが数回。ドンくさいと言えばドンくさい。バスはいつも同じコースが、決まった時間に帰るわけではなく、何かの都合で私たちは、時々遅いコースになった。そうすると、私たちは、時間がくるまで園庭で遊んだ。しばらくすると乗れるはずが、ずいぶん経って人が少なくなったことに気づく。一緒に遊んでいた友達と先生のところへ行くと、「まだ乗っていなかったの?」と、驚かれる。乗るはずだったバスにも確認。「あぁそう言えばmarchin乗ってない」と言う返事が、バスの無線から聞こえた。ある日、無事乗ったが、眠ってしまったらしい。気がつくと、幼稚園に近づき、先生しかいない。今日は降りそびれたことに気がつく。先生もびっくり。慌ててUターンし、個人的にバスで自宅へ送られた。祖母がとても怒っていて、先生が謝っていた。いつも一緒に降りる、頼みの綱のいとこがその日、休みだった。祖母もその時間、いつも降りる所にいなかった。昔のことだから、帰りのバスが来る時間は、あって、ないような、決まった時間ではなく、大なり小なりの時間のずれがあったという。ある日の帰り道、みんなでバスに乗ったまま、ある場所へ来ると止まった。先生が言った。「ちょっとご用事で、行ってきます。みんな静かにしていること」しばらく待った気がする。ずいぶん経って、先生が帰ってきた。何事もなかったように園児を届ける。私が降りたとき、祖母が、「ずいぶん遅かったな」と言った。「長い針が10の時、バスに乗ったの。途中で、○○に、ご用事で先生が降りて、待ってた」と言うと、「あぁ、先生お茶飲みしてきたな」と祖父が言った。そのときの私は、意味がわからなかったけれど、ずいぶん経って、小学生だった時、思い出してその意味を知った。先生たちは、送迎がてら、用事を済ませていたんだと。そこで少しお茶など飲みながら、談笑してきたんだと。今も思う。あの時代は、アバウトだった。それが当たり前だったのかは知らないが、それが許されていたのか。うちの子供たちが送迎バスに乗る時の点呼はいつも抜かりなく、乗り降りの時間は決まっていた。「バス時間は決まっています。待たせることのないように。」と言う決まりも、保護者には通知され、徹底した。もし、遅れることがあったら連絡網で知らされる。少しの遅れでも、先生は、「遅れてすみません」と頭を下げた。たくさん人がいるから、今日は忙しかったから、では済まされないと、常々先生は言った。このニュースは他人事じゃない。そう思って保育する幼稚園、保育園が増えることを願いたい。
2007年07月31日
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青春真っ只中だったあの頃。好きな人に影響される私だった。乗りたい車は赤だったけど、好きな人が濃紺の車に乗っていたら、私も濃紺。車を買うとき、彼に相談したら、「同じ色にしろよ」って言われて嬉しかった。寂しくても彼と同じ色の車で、頑張れる。タバコを吸う人が嫌いだったけど、好きな人がタバコを吸う人だったら、彼のために、私の禁煙車に灰皿を用意した。でも、彼のためだけの灰皿。他の人には使わせない。だって、忙しくて毎日は会えない彼の指紋がついてる。彼の痕跡を消したくなかった。彼に会えないとき、彼と同じタバコを吸ってみた。時々わかんなくなる彼の気持ちがわかるようになりたかった。タバコを吸わない彼は、タバコを吸う彼とは真逆な人だった。彼の気持ちはいつもストレートで、「わかんないよ」なんて悩んで涙することなんてなかった。いつも嫌になるくらい彼と過ごした。ハラハラするようなこともなかった。私に平和がやってきた。でも、平穏な毎日は退屈を呼んだ。私が波を起こしてはそのたびに、彼が言った。「わかんないよ」って。その、タバコを吸わない彼と生活して17年。相変わらず、彼は、「わかんないよ」って私に言うけど、すべてわかろうとすることが、無理なんだって。私も思いは変わるんだよ。今、相変わらず影響はある。私が好きなものを彼は知ろうとする。彼が好きなことを私もやってみる。ずっと一緒に暮らしてみて思う。いろいろあるけど、一番落ち着ける。相変わらず波を起こしては彼を困らせるけど、彼も慣れっこ。この波がないとつまらないはず。毎日暮らす相手が私じゃなきゃ、退屈でダメなはずだ。
2007年07月24日
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私の子供時代を語る上で欠かせないことを思い出した。うちでは物心ついたときには、犬と鶏を飼っていた。山形県はいくら田舎とはいえ、私の住む町は、あの牛を飼っているうちが廃業したらとたんに牧草地もなくなってしまい、一応住宅街になっていった。それでにぎやかになり、昔からいた人だけでなく、知らない都市から来た人も住むようになった。それでも我が家では、相変わらず鶏がいた。一羽だけの頃もあったが、ピーク時は5~6羽いた。毎日ではないが卵も産む鶏。あるときから祖父に「トトコ、卵をあっためているからヨ、採るな」と言われ、しばらくしたらヒナがいた。「ひよこ!」と期待した私が見たのは・・・微妙な鳥だった。そしてかわいかった時期が過ぎる。少しずつトサカが出て、声も変わって、体も変わった。一家5羽が赤茶けた「チャボ」と言う鶏でした。親鳥の、「コケコッコー」という、凛とした正統派の声がすばらしいお手本のはずだった。しかし、この子達は見た目に立派なトサカを持ちれっきとしたチャボになっているというのに何度鳴いても「コケーッ」「コケコー」「コケオッ・・カッ(声が裏返る)」・・・聞くに堪えない。結局このチャボたちがちゃんと親鳥のように鳴けるようになったか、記憶がない。高校生になった私のうちに、うちよりちょっと田舎に住む友達Nが遊びに来た。あちこち見たり、買物した時、「やっぱり町だね」と感心していたのに、我が家に来て鶏たちの鳴き声にびっくり。「marchinのうちって不思議。こんな街中で鶏なんていいの?うち田舎だけど、飼ってないよ。私今まで鶏って『コケコッコー』って鳴くと思ってた」「うーん。物心ついたときにはいたんだよね。今何代目の鶏かは知らないけど。こいつら下手でちゃんと鳴けないから私鳴き方教えてあげるんだけどそうすると『クーッ』ってひくの、鶏が」「近所の苦情来るでしょ?」「まあね。でもじいちゃん気にしないし、『そんなにうるさいなら鶏に言え』なんて言ったりするから、言いに来ても引っ越してきたばかりの人ぐらいだな」なんて会話になった。次の日Nが、学校で我が家の鶏話をしたおかげで、数日は友達やクラスの子がわざわざ見に来た。おかげで、「街中に住んでるのに養鶏場がある人」という誤報が流れたのだった。
2007年06月02日
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