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ネット内を検索していて出てくる画像は X’masのイルミネーション、ケーキやプレゼントの品々。やたらと目に付どうでもいいものばかり。商品を売るための一大イベントとしか思えないクリスマス。プレゼントは自分のためにあるんじゃ。今年最後の締めくくり有馬記念の当たり馬券を!!神よどうか我に与え給え・アーメン~~~(笑)
2007/12/22
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今年一年お世話になった方々へ贈り物をして感謝の気持ちをあらわす 師走の風物詩・御歳暮。昔は分家から本家、職人の子方から親方へ など、目下の者から目上の者へ贈るのが一般的でした。現代のサラ リーマン社会でも部下から上司へ贈ったりしています。本来は年の瀬 の12月28日ごろに相手方に持参するものですが、現在ではデパート などの仲介で12月初旬でも贈られています。 お歳暮は正月に「年神」として先祖の霊を迎えるに当たって供物を供えたことに由来します。年越しに神棚のお札を取替え、玄関にしめ縄を 張り、門松を立てるのは、お正月に「年神」と呼ばれる神の来臨を願う 行為です。「年神」といっても日本人の心情的には先祖祖霊のことで この点は、お盆の霊迎えと同じです。床の間などへ鏡餅を供えるのも 神への供物とされています。 また、昔は釜戸やコンロに御幣を飾ったり、自家用車にしめ縄をつけたりする人もいました。これは万物に神が宿ると考えられた日本古来の アミニズム(精霊信仰)からきており、日本の神道の起源ともいわれて おります。 お正月は子供たちにとってもお年玉を貰える嬉しい行事。お年玉は 「年魂」=「年神の魂」から由来しており、新年に神への供物の餅 などを子供たちへ分け与えたことから始まったものとされています。 今でも地方では、新年の最初に村の家の子供たちに餅などを配る神事 が残っています。秋田の「なまはげ」などは逆に餅などを貰っていく こともあるそうですが、本来は子供たちの弱い魂に「年神」の強い 「年魂」を分け与え、元気をつけて新年を迎えさせる意味があったと 考えられ、子供たちは「年魂」を貰わないと年をとることが出来ない と言い伝えられている地方もあります。
2007/12/10
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『詩』という字は言べんに寺と書く。発音も『死』と同じ。これには 何か意味があるに違いないと、そんな思いで詩人の上田暇奈代さんが 劇場寺院「慶典院」(大阪市天王寺区)で月一回「詩の学校」を開い ている。墓地の中に入り身近に亡くなった人のことを詩に書き、それ を読む。泣いて読めなくなれば、泣き止むまでの時を静かに待つ。 死別の体験を持つ人、持たない人が一緒に時を過ごす行為が何より 尊いと実感できる、と上田さんはいう。 お寺の本堂は安置された阿弥陀如来像の前に黒い幕をひくと、劇場 に早変わりする。音響や照明の装置も完備し、劇団公演は年間40本 を超え、ライブや哲学カフェなど多彩な催しに年間約3万人も集まり 20代が目立つ。ここは『日本』若者が集まるお寺だ。 母体の浄土宗大蓮寺の住職、秋田光彦さんがこの寺を開いたのは ’97年。阪神大震災、オウム真理教、神戸の酒鬼薔薇事件などに 日本の宗教はどう答えていくのかが問われたからだ。21世紀のお寺 はNPO(非営利組織)と地域の若者たちに運営を委ね、「呼吸する お寺」をキャッチフレーズにした。 日本には7万を超える寺院があり、その中には紅葉狩りなどの観光や 葬儀を除くと専ら休眠状態のお寺が少なくない。しかし慶典院10周年 の記念誌を開くと、お寺は若者たちが自分探しをするための最適な 場所で、お寺を通して地域を元気ずける道筋が見えてくる。 師走に入りこの一年間を振り返ると、親子間で殺傷し、倫理観の崩れ を示す事件は後を絶たない。お寺にはサンスクリット語で「いのちを 光り輝かせるところ」という意味がある。全国各地にこんなお寺が 増えれば、日本は変るかも知れない。 『余禄』より
2007/12/06
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JAS法に定められた食品表示が間違っていたとして崎陽軒のシュウマイ 15000箱を自主回収廃棄処分にすると幹部が謝罪していた。 食品の内容はその量の多い順に表示するように定められている。 表示内容は豚肉・帆立貝となっていたが実際は豚肉・玉ねぎで帆立貝 は5番目だった。散々表示をだまして売っておいて今頃になって間違って いたというのは売るために意図的にやっていたとしか思えない。 崎陽軒のシュウマイは1度だけ買って食べたことがあったが不味かった ので二度と買って食べたことはないけど中には買う人達もいるのだから 廃棄処分にする代わりに欲しい人達に店頭で無料で配ればすぐに処分 できると思う。表示を誤魔化しただけで食べられない訳ではないのだから。 寧ろその方が良心的な対処方法ではないかと思う。 何かあるとすぐにどの業界も「右に習え」で廃棄処分にする幹部の人間 の頭の固さ。もっと独自な発想で対処することが出来ないのだろうか? 最近は特に食品の賞味期限の変更や内容物の誤魔化しなどが多すぎる。 消費者にとって調べる根拠が何もないのだから表示に頼るしかないが やたらと目に付く「無添加」も信用できたものではないと思う。 企業の利益追求優先主義で人間のモラルがどんどん欠乏してゆく昨今。崎陽軒のシュウマイの食材も農薬で汚染された中国産のものを使用しているのかも分からない。と同時に人の体内がどんどん汚染されてゆくのかと思うと末恐ろしい。
2007/11/29
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テレビの映像いっぱいに映しだされたもみじが美しい京都東福寺。 鎌倉時代に禅寺の一つとして建てられた境内には約2000本の もみじの木が深まる秋と共に美しい紅葉をかもし出している。 日中との気温差が著しいほど紅葉の色は美しくなる。 ちなみに今朝11月19日京都の朝の気温は4度。 北海道や東北地方の各地ではすでに冠雪、早くも冬の訪れ。 東京の今朝の気温は8度。今朝寒いので暖房をつけた。 『キリンさんも好きだけど♪~象さんはも~っと好き♪♪』 『暑いのも嫌いだけど!~寒いのは~も~っと嫌い!!』 『東福寺の歴史』 摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成しました。 工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。 延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
2007/11/19
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オーストリアのニコラウス・ゲイハルター監督が、約2年かけて取材・ 撮影した。作家性の強いTV映画やドキュメンタリーを得意としている 映像作家だ。 私たちの「いのち」と切り離せない「食料」を生み出している現場 の数々を描いたドキュメンタリー。野菜や果物だけでなく、家畜や 魚でさえも大規模な機械化で生産・管理せざるを得ない現実を全て に効率が必要とされている現代では、ひよこの飼育ひとつとっても 目を見張るものがある。野菜の栽培や収穫など、普段見ることの 出来ない食料生産現場の唖然とするような光景が淡々と続いていく。 時に目を覆いたくなるような映像もあり、改めていのちを 「いただく」ことについて考えさせられる秀作。 魚、野菜、果物、さらには牛、豚、鶏といった家畜が食材へと加工 されていく過程をひたすら淡々と映し出す。魚の内臓が一瞬にして ホースへと吸い取られ、無数のヒヨコがベルトコンベヤーで仕分け されていく。機会による効率化が徹底された工程は、恐ろしいようで 美しくもあり、まさに驚くべき光景の連続。 ゲイハルター監督はナレーションなどによる説明や批評を一切加えず まるでSF映画のような食の裏側の現実を提示する。食の安全性への 関心が高まっているこのご時世、必見の一作といえよう。 衛生的で効率最優先のの工場で動物がモノとして扱われ、生鮮食品が ”製造”される光景に違和感や嫌悪を感じても、この映画は動物の権利 擁護などとは無縁。現実を生々しく映し出して秀逸だ。 『コラム・シネマの週末より』 ★★★ 日本で廃棄処分にされる、レストラン・ホテル・その他食品業界の などの食べ残しが年間約1,140万トンに及ぶという。1日当た りに換算すると約600カロリー。日本では約7割が輸入食材に 頼っているのが現状。飽食の時代とは言え少し考え直す必要がある のではないだろうか・・・
2007/11/17
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小島よしお「そんなの関係ねぇ!」拝借競走馬「ソンナノカンケーネ」デビュー (J-CAST)記事写真 「オッパッピィー」は却下されたそうだ 大人気のお笑い芸人・小島よしおさんのギャグを馬名にした「ソンナノカンケーネ」が、2007年11月10日、東京競馬場(東京都府中市)の新馬戦(ダート1300メートル)でデビューすることになった。命名の理由は、話題を作り競馬人気を回復させるため。実は、名前を「ソンナノカンケーネェー オッパッピィー」で申請したのだが、却下されてしまったのだという。「オッパッピィー」まで付けるつもりだった 「ソンナノカンケーネ」は2歳の牡馬で、父はムーンバラッド、母はクラシーク。祖母のイントレピディティはイギリス「オークス」優勝馬という血統を継いでいる。オーナーはサンツェッペリンなどの競走馬を持つ加藤信之さんだ。 競走馬の育成牧場で加藤さんが社長を勤める「加藤ステーブル」の担当者はJ-CASTニュースに対し、「ソンナノカンケーネ」の命名は加藤社長の発案だとし、「子供さんから大人の方まで楽しんでいる小島さんのギャグを馬名にすれば、親しみやすいですし、メディアも注目します。名前が印刷された馬券は記念品にもなり、競馬人気の回復に繋がると考えたようです」 と話した。 馬名は9文字までと決まっているために「ソンナノカンケーネ」になったが、「ソンナノカンケーネェー オッパッピィー」まで、名前とは別でかまわないから表示できないか、とJRAと交渉したそうなのだが、却下されてしまったのだという。ちなみに、この名前を付けるにあたっては、小島さん本人や小島さんの所属事務所とは相談はしていないそうだ。「注目と実力が噛み合う馬といえます」 07年11月10日がデビュー戦になるわけだが、ギャグ全開の名前に反し、意外に実力があるらしい。「加藤ステーブル」の担当者は、「注目と実力が噛み合う馬といえます。名前で注目だけ集め、箸にも棒にも引っかからない実力では、それこそ笑いの種になってしまいますからね。ただ、デビュー戦は過酷なレースになりそうですから、願わくば怪我無く完走して欲しいと思っているんです」 と期待を込めた。ちなみに07年11月10日 東京競馬場の6レース新馬戦の結果は6着でした。もう少し頑張って5着になれば掲示板にのっかったのに~~獲得賞金:〇円「そんなの関係ねぇ!」
2007/11/11
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2005年米映画 アカデミー賞3部門受賞 ゴールデングローブ賞主要4部門 ヴェネツィア国際グランプリ《金獅子賞》 http://www.wisepolicy.com/brokebackmountain/top.html ★☆★ 1963年、ワイオーミング州ブローク バック・マウンテン。定職のない 当時20歳のイニスとジャックは羊牧場へ職を求めてやって来た。 ここで職を得てひと夏をすごすことになる。移ろいやすい大自然の中で 互いを助けあううちに、彼らの心の中に深い絆が生まれる。 それが、ごく自然に男同士の許されない関係へと変化していくのに それ程、時間は掛からなかった。 保守的な時代、閉鎖的な土地で、それぞれに伴侶を得、子供を授かり ながら、20年もの長きに亘って密かに愛を育んでゆくイニスとジャック。 しかし、やがて厳しい社会の現実が二人の関係に影を落とし始めて いく・・・・ ☆ 主人公イニスには過去の生い立ちの中でいくつかトラウマになること があって現実を素直に受け入れることが出来ない。ジャックから テキサスへ行って二人で小さな牧場経営を始めようと話を持ちかけ られるが断ってしまう。そして40歳になって自分の歩んできた 人生が取り返しのつかないことになってしまったのだと気がつくが 失ったもののすべては戻ってこない。人生半ばになって相変わらず 安定しない生活を続けるが、それ以上な不幸に直面する。。 人は誰でも自分の歩んできた人生を振り返ってみて、あの時、ああすれば よかったと心に引っかかるものが一つや二つそれ以上にあるもの 「過ぎ去った時を求めても去ってしまった過去は再び戻ることはない」 後に余韻の残るような映画でした。
2007/11/06
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↑☆☆☆☆コンタクトレンズなどしなくても美しいブルーアイ☆☆☆☆ ☆☆☆☆日本人が逆立ちしても叶わない本物のブルーアイ☆☆☆☆(テレビ一こまニュースより) 最近おしゃれ用コンタクトレンズによる眼球の損傷が多発している らしい。コンタクトレンズには二種類あって、一つは医療用で これはきちんとした眼科検査の後つけるので問題はないらしいが もう一つはおしゃれ用コンタクトレンズ。これは比較的安値で コンビになどでも手軽に買える。眼球の損傷で目が痛くなり 眼科に駆け込むのは殆どがこの手のタイプ。 眼科の眼視鏡検査によると、酷いのは目の中でレンズの色が剥げ落ち て粉になり、その粉が眼球を傷たり、レンズと眼球の間に隙間があったりして絶えずレンズが眼球の上を移動して眼球に傷をつける。放置しておくと失明する危険性があるという。 コンタクトレンズによる眼球損傷事故があまりに多くなっているため 政府が近い将来規制に乗り出すという。。「安物 買いの銭失い」でお金を損するだけならいいが目を失ったら取り返しがつかなくなる。おしゃれ用コンタクトレンズの装着は殆どが若い世代。先のある将来を一生失明して過ごすなどしたら残された人生は真っ暗闇になってしまう。
2007/10/29
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『アダムとイヴ』作品の主題は、旧約聖書創世記に記される最初の女性イヴが知恵の実を口にし、アダムにも勧める場面を描く≪原罪≫。最初の女性イヴから知恵の実を勧められるアダムはその後知恵の実を口にし、自身らが裸でいることを恥じ衣服を着るが父なる神との約束を反故したことから神の怒りを買い、楽園を追放されることになった。また旧約聖書ではイヴを誘惑した蛇を厳しく罰し、一生地を這わねば動けない姿にしたとされる。
2007/10/28
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聖エラスムスの殉教 (Le Martyre de Saint Erasme)1629年古典主義の大画家ニコラ・プッサン初期の代表作『聖エラスムスの殉教』。教皇庁の依頼によりサン・ピエトロ大聖堂祭壇画のひとつとして制作された本作は、元々イタリアバロック美術の巨匠ピエトロ・ダ・コルトーナに依頼予定であったが、同氏が聖秘蹟礼拝堂の祭壇画制作に携わることになった為、フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿の後押しで、当時、新鋭の画家のひとりであったニコラ・プッサンが制作を請け負うこととなり、描かれた作品である。本作に描かれる主題≪聖エラスムスの殉教≫とは、十四救難聖人のひとりで(初期キリスト教時代の)フォルミアエの司祭でもある聖エラスムスが、当時のローマ皇帝ディオクレティアヌスの迫害により、爪の指に錐を刺す、鉄板の上で焼かれる、煮油を浴びせられるなどの拷問を受けた後、腹を切り裂かれ巻轆轤(まきろくろ)、又は揚錨機(綱を巻き取る機械。ウィンドラスとも呼ばれる)で内臓を引きずり出され殉教したとされる伝説から描かれた作品である。
2007/10/24
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当時のイスラエルはローマに半植民地状態でした。 その為、かなり独立運動みたいなのが、強くなっていました。 その独立運動の指導者にバラバと言う人がいました。 バラバはローマ当局に逮捕されて処刑を待っているような状態でした。 ところがバラバを処刑すると、怒ったイスラエル人によって内乱が 起こる可能性がありました。 そこで、バラバを釈放する理由を考えた訳です。 当時の法律では、一人を処刑したら一人を恩赦するみたいなのが あって、そのためにイエスを逮捕して処刑したような感じです。 もっとも聖書はローマ人によって編纂されているので、都合の 悪いところはユダヤの民衆がイエスの死刑を望んだ、 ローマ総督はイエスを助けようとしたという事になっています けど・・・・。 絵画:レンブラント
2007/10/22
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絵画:バロッチ
2007/10/22
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ちなみに、ローマ総督はヨハネの処刑はローマに報告していたが、 イエスのことは何も報告していないかった。つまり、当時ヨハネは 大物預言者でしたが、イエスはその弟子の一人くらいにしか 思われていなかった訳です。 またイエス自身も、ユダヤ司祭を挑発して、自ら助かる道を閉ざして いますし。エルサレムに戻れば捕まる事も判っていました。 このへんはイエスの自殺的な動機があったと思われます。 師ヨハネが処刑され、弟子や信者のほとんどがイエスの元を去り、 最後まで残った弟子のユダには裏切られ、逮捕後は他の弟子は逃げ 出してしまいました。一番弟子のペテロにいたっては、3度も イエスなど知らないと言ってます。イエス最後の言葉とされる 「神よなぜわれを見捨てたもうか?」と言うのは本当の気持ちだった のではないでしょうか。
2007/10/22
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「雪の多い年は豊作」との諺がある。雷光を稲妻や稲光というのも稲の穂がその光によって実りを豊かにするという信仰があったからだ。かっては、稲田に落雷があると青竹を立てしめ縄を張るというしきたりもあった。科学的には空気中の放電により植物の肥料となる窒素化合物ができるというが古人がそれを知る筈がないし、雷で作柄が左右されたとも思えない。ただ一瞬の青白い光の中に稲穂の実りの秘密が隠れていると見た宗教的感覚は凄い。『今昔物語』には塔を壊した雷神をお坊さんが経を唱えて捕まえる話がある。泣いて許しを求めた雷はこの地に清水を沸き出させて天に昇る。この雷は童子の姿だったという。各地で相次ぐ落雷・集中豪雨・全国的な記録的猛暑となんとも荒々しい夏である。それをもたらした太平洋高気圧の異常な強さの原因として太平洋中央部の「エルニューニョ」もどきともいえる暖水塊の影響を指摘する見方もある。ちなみにペルー沖の暖水塊を指す本来のエルニューニョも、もとは神の子という意味だ。太平洋中央部の暖水の状態は今後も長期に亘って長く続き、場合によってはエルニューニョに発達する可能性があるという。激しい夏の天気も地球規模の"いたずら坊主"の仕業とあっては捕まえてお仕置きする訳にもいかない。寧ろお仕置きの必要なのは地球温暖化をもたらす人間の営みの方かもしれない。
2007/10/22
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1958年 フランス映画監督:ジャック・ベッケル主演:ジェラール・フイリップ アヌーク・エメ 一九一○年代のモンパルナス。貧窮の身を酒にまぎらせるモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の、孤独と病苦にさいなまれた姿がそこにはあった。かつて恋人だったロザリー(レア・パドヴァーニ)の酒場で酒をあおり、虚無的な心のいらだちをベアトリス(リリー・パルマー)の部屋で、荒々しい動作に示し、巷をさまよい歩く彼を、愛し力づけてくれるのは、同じアパートに住む画商スボロウスキー(ジェラール・セティ)だった。子供のように純な才能をもつ画家“モジ"の心を、同じ苦しい生活をしながらもスボロウスキーは認めていた。そうしたある日、モジリアニに新しい恋がめばえた。相手は画塾の生徒で、清純なジャンヌ・エビュテルヌ(アヌーク・エーメ)という若い女性だった。二人の心は結ばれ、彼女は家族を捨ててモジリアニのもとにくることを誓った。しかし、官吏の父はそれを許してくれはしなかった。傷心のモジリアニは、再び失意を酒におぼれさせる。極度の健康悪化におちいった身を、ロザリーの店のベッドに横たえるモジリアニを、スボロウスキーは南仏のニースに転地させた。輝く太陽と青い海のあるニース。そして、恋しいジャンヌの突然の出現。小康を得たモジリアニの、愛の生活と、平和な制作活動がはじまった。しかし、そのつかの間の日々の後にはまた、パリでの苦難の生活が待っていた。女パトロン、ベルト・ウェイルとスボロウスキーの尽力で開かれた個展の不評。彼の絵を商業ポスターの図案に使おうとしたアメリカの富豪。仕事に対する自信を失い、空腹と絶望にさいなまれたモジリアニは、妻との生活の糧を得るために、デッサンをもって街の酒場をさまよい歩いた末、警察病院で行路病者として死んだ。モジリアニの才能が、死後はじめて世に知られるであろうことを予測していた画商モレル(リノ・ヴァンチュラ)は、秘かに彼の死を見とどけると、何も知らぬジャンヌが残っている彼の部屋を訪れた。今は遺作となったモジリアニの数々の作品を、片はしから買いとろうとするモレルを前にジャンヌの目は泪にぬれていた。「彼はどんなに喜ぶでしょう……本当に長い間、あの人は認められなかったのですから……」と。 絵画:モジリアニ
2007/10/19
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平成11年9月11日ニューヨークのツインタワービル、高さ約400米南北のビルがジェット機の自爆テロにより一瞬のうちに崩落したと報じられ世界中にショックが走った。ジェット機激突後から巨大なビルの崩落までに要した時間は僅か10秒足らず。各メデァの報道により極悪なテロ事件として片付けられたようにみえたが、最近いくつかの疑問点が浮かび上がっているという。高層ビルの設計者によると、かってエンパイア・ステートビルで飛行機の激突事故があった為、それを踏まえて中心部には47本の頑丈な鋼鉄を使用し、外側のビルの四面にも同じく鋼鉄を使ってネット状に張り巡らせてあり飛行機の激突による火災発生時の温度が最高1000度になっても耐えうる鋼鉄(1500度)を使用してあると証言した。他国の高層ビルの火災事故を検証した結果大体鉄骨の部分は残っていたそうである。通常高層ビルの火災の燃焼時間は少なくて数時間、長くて20時間が過去の記録だそうでビルが一瞬にして僅か数秒で崩落してしまった例はないそうである。南北のツインタワー崩落後、最も遠い場所に位置していた北側の貿易センタービル47階建て7号棟が約6.5秒のうちに崩れ落ちてしまった。これら3棟の高層ビルの瓦礫が周囲に飛散していなかったことなどは、ビルの解体爆破後の現場と痕跡が非常によく似ていたそうである。もともとツインタワァーは港湾公団の所有管理下にあったが膨大な維持費が累積してラリイ・シルバースタイン(名前から推察するとユダヤ系米国人)という人物に譲渡してあった。同じく崩落した貿易センタービル7号棟もシルバースタインの所有。ビルが爆破される前の9月8,9日突然の停電により修復されるまでの間セキュリテーが稼動しなくなり誰でも自由にビルに出入りできる時間帯が続いた。ビル管理会社の作業員の証言によると7、8階のある部屋からコンクリートの壁を打ち砕く音が聞こえたそうである。ジェット機がビルに激突した部分が燃えている間、下の階層の何箇所からかアトランダムに白い煙が噴出していたこと確認されている。ジェット機自爆によるテロ事件として片ずけられていたツインタワービルに次々と新しい疑惑が浮かび上がってきているようで今後どのような事件に発展していくのかと思うとまるでノン・フィクションの小説のような気がする。(2日前のテレビで見た感想)
2007/10/15
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相変わらずたくさんの足跡が付く。足跡だけでは相手がみえないのでハンドル・ネームをクリックしてみると、その殆どが「日記はこれから書くところです。」と出て見えるのが画面いっぱいのアフリエートばかり。ここのブログはまさに広告お化けの集会所のようなところ!!!!
2007/10/15
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159×245cm | 油彩・板(画布) | ルーヴル美術館(パリ) ロッソ・フィオレンティーノがフランス国王フランソワ1世の招きにより1530年から過ごしたフォンテーヌブロー時代の代表作『ピエタ』。フランス大元帥アンヌ・ド・モンモランシーのために制作された本作は、磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸を抱き哀悼する姿≪ピエタ≫を描いたものである。 【死したイエスの亡骸】死したイエスの亡骸。フランス大元帥アンヌ・ド・モンモランシーの為に制作された本作は、磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸を抱き哀悼する姿≪ピエタ≫を描いたものであるが、制作年を画家の最晩年頃(1537-40年)とする説も唱えられている。
2007/10/14
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(Cristo motro e angeli)1527年133.4x104cm | Oil on panel | ボストン美術館 イタリアの優れた芸術家の生涯を綴ったヴァザーリの著書≪芸術家列伝≫によると、ローマ時代、トルナブオーリ司教のために描かれた作品とされるロッソ・フィオレンティーノの名作『死せるキリストと天使たち』。 【強い光で浮かび上がるキリスト】やわらかくも、強い光で浮かび上がるキリストの姿。このキリストの裸体の表現は、ミケランジェロの影響も幾つか認められており、細部に至るまで精密に描写されている。
2007/10/14
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(Laocoonte) 1610-1614年頃142×193cm | 油彩 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー エル・グレコ唯一の神話画となる『ラオコーン(ラオコオン)』。本作の主題はトロイア市の神官ラオコーンが、市を包囲するギリシア軍が残した、戦いの女神ミネルヴァへの捧げ物である木馬へ槍を投じたことで、息子達が大蛇に絞め殺される神話を描いた≪ラオコーン(ラオコオン)≫で、この場面では、大蛇に襲われる神官ラオコーンとその息子たちの、鬼気迫る迫真の姿が、エル・グレコ独特の世界観によって見事に表現されている。 【大蛇と格闘するラオコーンと息子たち】 大蛇と格闘するラオコーン(ラオコオン)と息子たち。独特の世界観と表現で描かれた本作は、エル・グレコの故郷であるギリシアの神話を描いたものであると同時に、現存するエル・グレコ作品の中で、唯一となる神話画としても有名。
2007/10/14
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(San Sebastian)1577-1578年頃191×152cm | Oil on canvas | バレンシア大聖堂 エル・グレコの代表的な聖人画のひとつ『聖セバスティアヌス』。エル・グレコの大きな特徴である極端に縦に伸びだ人体構造と、筆跡を残す独特な画風がよく示される本作は、三世紀後半に生まれた、杭に打ちつけられた後、矢を放たれた逸話でも有名な、聖ペトロ、聖パウロに続く三人目のローマ聖人≪聖セバスティアヌス≫を描いたもの。聖セバスティアヌスは古くより人気の高かった殉教聖人で、幾多の画家が描いてきた。
2007/10/14
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ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作『聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)』
2007/10/14
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ミケランジェロ作『自身の生皮を持つ聖バルトロマイ』
2007/10/12
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ミケランジェロ作『洗礼者聖ヨハネと諸聖人』
2007/10/12
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ミケランジェロ作『死者の魂を地獄へと渡すカロン』
2007/10/12
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ミケランジェロ作【地獄へと落とされる罪深き人間たち】
2007/10/11
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ミケランジェロ作『祝福され昇天してゆく者たち』
2007/10/11
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システィーナ礼拝堂天井画完成から24年後、教皇パウルス3世がミケランジェロに制作を依頼し制作された大作『最後の審判』。主題はその名の示すようキリストが再臨して人類を裁く教義≪最後の審判≫であるが、制作当初からスキャンダラスとして批判を受け、異教的であるという理由から画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラに依頼し裸体で描かれていた人物に衣服が描き加えられたのを始め、最終的には44箇所に及ぶ加筆がおこなわれた。
2007/10/11
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☆★☆禁断の果実を食べるアダムとイブ☆★☆ 絵画:ミケランジェロアダムとイヴがかじった禁断の木の実がりんごであるというのはウソ。人間の先祖アダムとイヴは、神様に「食べてはいけない」といわれていた禁断の果実を食べたため、エデンの園から追放された。一般的にこの果実をリンゴだと解釈している人は多いが、この話が記されている「旧約聖書」創世記 第3章には単に「善悪を知る木」とあるだけで、リンゴという記述はない。日本での名産地が青森や長野であることからも分かるようにリンゴは寒い地域の果物である。乾燥した気候のユダヤ周辺に当時リンゴの木は存在しないと推測されるため、「禁断の果実」がリンゴである可能性はない。実際は何の実だったのかは、原文で触れられていないため、憶測の域を出ないが、アダムとイヴが果実を食べた後、体の一部を隠したのがいちじくの葉だったことからいちじくの実という説、又は ぶどうではないかという説がある。では、なぜ原文では一言も特定されていない実の種類がりんごで定着しているのだろうか。これにはギリシャ・ローマ神話に登場する女神たちとりんごにまつわる伝説が要因になっているようだ。不和の女神エリスが、3人の女神へ黄金のリンゴを一つ「最も美しい女神へ」と送り、3人の女神たちがリンゴをめぐって争ったという話から「リンゴは災いを引き起こす果実」という解釈がされた。また性愛を司る女神ヴィーナスの象徴がリンゴであることから、リンゴを「性の象徴=禁断の果実」と結びつけたなど、諸説があある。
2007/10/10
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葛飾区柴又帝釈天の裏手あたりに江戸川が流れ近くに「矢切の渡し」がある。舟で渡しを渡った近くに伊藤左千夫の純愛小説で有名になった「野菊の墓」の背景となったところがある。『牛飼いが歌読むときに世の中の新しき歌大いにおこる』この近代短歌の名作で知られる伊藤左千夫は乳牛の牧場を営み牛を飼い、乳を搾りながら歌を詠み小説を書いていた。「野菊の墓」が雑誌「ホトトギス」に発表された時夏目漱石はそれを読んで感銘を受け「牛乳屋の主人の方が大学の講師より気韻があると思う」と評した。千葉県成東町(現在の九十九里市)の農家に元治元年(1864)生まれ明治18年(1885)21歳の時に上京し、神田、本郷、市ヶ谷の牧場を転々としながら働いた。修行を重ねた後、明治22年(1889)に独立し自分の牧場を持った。場所は現在の墨田区江東橋三丁目。JR錦糸町と堅川の間あたり。余談☆堅川ー故林家三平師匠の奥さんである蛯名加代子さんの出生地。第二次世界大戦で 空襲に遭いここで戦火を受けたと後日語っていた☆牧場を始めるに当たって左千夫は実家の成東から自分で牛をひいてきた。朝の二時から起きて乳を搾ることから始まり、一日18時間働いたという。家族を抱え大変な生活だったろう。その重労働から「野菊の墓」のような名作が生まれた。 この頃親しくなったのが正岡子規、子規に師事しその交流から「牛飼いが歌読むときに」が生まれた。牧場があった場所は堅川、大横川、十間川に囲まれ、そのためしばしば川の水が溢れ被害を受けた。特に明治43年(1910)の洪水は酷く牧場は大きな打撃を受けた。荒川放水路開削のきっかけとなった洪水である。そのため2年後には亀戸に牧場を移すことになった。大正二年(1913年)一家をあげてここに移ったが、心労が重なった為か移転して4ヶ月後に脳溢血のため亡くなった。50歳。墓は亀戸天神の東、普門院にある。『一部区報より抜粋』
2007/10/10
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マンション上階に住む幼児の走り回る足音で苦痛を受けたとして、東京都板橋区の男性が幼児の父親に240万円の賠償を求めた訴訟で、東京地裁は3日、36万円の支払いを命じた。中村也寸志裁判官は「足音は受忍限度を超えている」と述べた。『幼児のしつけを』男性は妻と6階建てマンションの一階に住んで居たが、幼児の家族が04年4月ごろに2階に引っ越してきてから、当時3~4歳の幼児が室内を走りまわる音に悩まされ、妻は不眠になった。男性は幼児の父親に抗議したが突っぱねられたため、騒音計で測定し50~60デシベルの音だったとして提訴した。 判決は足音がかなり大きく聞こえ、時には深夜まで及んでいたと認定。「父親は幼児をしつけるなど住まい方を工夫し、誠意ある対応を行うのが当然だった」と批判した。 幼児の家族は05年11月に退去している。『毎日新聞社会面記事より』★★★記事を読んで納得のいかないことがある。 先ず借りて側の弱者同士が争ったところで根本的な解決策にはならない。寧ろこの問題は貸す側、大家の責任だと思う。投資目的の粗製濫造のマンションを建て、ろくに防音対策もとられていない。果たして建築基準法に定められている床下から階下天井までの空間距離は満たされているのだろうか疑ってしまう。少なくとも防音シートを貼るなどして音を遮断しておけばこうした問題は起こらなかった筈である。いつまで経っても入居時に払う礼金制度というのが無くならない。入居して貰うのに何故礼金を払わなければいけないのか疑問の一つ。入居者が入れ替われば回転効率もよくなり礼金もその都度取れる。 だが、マンション経営は入居者が居なければ成り立っていかない。 少なくとも最低限の快適な居住空間を貸す側は整えるべきだと思う。
2007/10/05
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秋葉原に向かって両国橋を渡ると右手に柳橋があり神田川が隅田川へと合流している。左手に暫く歩くと新大橋があり橋と橋との間一帯に浜町の街が広がる。30年ぐらい前までは柳橋にはまだ黒塀で囲まれた粋な造りの割烹料理屋か芸者置屋風の家が点在していたが都市開発が進むに連れていつしか消えてなくなってしまった。今は狭い道を挟んだ両側に立ち並んでいるのはビルばかりで町の名前とはうらはらに昔の風情を感じさせる所はどこにも見当たらない。柳橋・浜町一帯を散策したのは遠い昔。古風な町の名前に惹かれて歩いてみたけれど浜町一帯は浅草橋、馬喰町と地続きのせいか織維関係の会社ビルばかりがやたらと目に付いた。 浮いた浮いたと浜町河岸に 浮かれ柳の恥ずかしさ 人目忍んで小船を出せば すねた夜風が邪魔をする。この唄が作られたころには隅田川にも葦が生い茂っていて浜町に河岸があったのだろうが日に日に変りゆく東京、レトロしているのは町名だけ。時代と共に街が進化してゆくのは致し方のない現実。
2007/10/04
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☆★★☆イメージ画像「戸田村にやってきたロシア兵」☆★★☆今から約150年以上も前、突如ロシアの帆船が伊豆の下田にやってきてその後停泊し続けた。船は砲艦も備え乗り組み員500人を擁する大きな帆船であった。当時はペリー提督が 下田にやってきて日米和親条約が結ばれた後でした。その後間もなく安政年間に下田地方に大きな地震と津波が起き漁船の悉くが大破または沈没してしまい、ロシアの帆船も大きな被害を受け航行できる状態ではなくなってしまった。当時の船の艦長プチャーチンは早速下田奉行所に救いを求めてきたが、和親条約のないロシア船の救助を幕府に陳情することは出来なかった。そこで、大破したロシア船を漁船を使って西伊豆の戸田(へだ)村まで曳航し、そこで修理することになったが、途中嵐に遇い沈没してしまった。幸い乗り組み員全員は救助され、一行500人は戸田村にある寺を宿泊施設として与えられた。当時の戸田村の人口は3000人、その中へ500人のロシア人が短期的に滞在することとなったが村人たちとのトラブルもなく、身振り手まねでで次第にお互いが打ち解け、心の絆が結ばれていった。かって日本での洋船技術はなく設計図を作るのに約50日間を要した。当初30人の船大工でとりかっかった帆船造りを倍に増やし長い月日を費やして漸く舟が完成し、今から152年まえの3月22日にプチャーチン艦長一行はロシアに向け出向した。約7ヶ月かけて無事ロシアに到着した。その後、プチャーチンから当時の金で500万円が送られてきた。その金で戸田村に資料博物館が建てられて今も当時の資料が其の侭陳列されているそうである。「私の魂は戸田村にある」と言い残してこの世を去ったプチャーチンの志は代々家族に受け継がれ、孫からひ孫、やしゃ孫になった現在までも必ず戸田村を訪れてきているそうです。これは人と人の絆が結んだ美談で、現在失われつつある心の問題を取り上げ、一石を投じるような話でした。
2007/09/23
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★★★イメージ画像「珊瑚礁の白骨化に愕然とする海洋探検隊員」★★★6月のあるテレビの1コマニュースによると、旧約聖書の中の「ダニエル書」の暗号解読をしたニュートンの記事が最近発見されたそうである。 「極悪な国々によって2060年に地球は終わりを告げる」と書かれた近い将来に起こり得る予言であって地球壊滅の時期に生き残っている人たちのことを考えるとぞっとする。地球温暖化の原因であるオゾンホール拡大も予測以上に進行速度をを速めていると謂われているし、一見海面からは美しく水をたたえた海も海洋の中の珊瑚や藻で形創られた森や山は、ところどころで禿山同然の様相を呈していて、海水温の上昇により珊瑚の白骨化状態が珊瑚礁の海洋のあちで見られるようになってしまっている。人間による自然環境破壊の仕返しが自然による災害としていま着々と進んでいる気がする。
2007/09/22
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9月16日は「国際オゾン層保護デー」です。1995年(平成7年)国連総会で「9月16日を国際オゾンデーとする」ことを決議。平成17年2月16日に京都議定書が発効し、地球温暖化防止対策としてCO2削減目標を割り当てられたが目標達成はおろか逆に削減目標を上回っている。オゾンホールの進行は予測した以上に拡大し続け地球の温暖化は毎年過酷になり続けているのが現状である。行政もせめて9月16日の「国際オゾン層保護デー」1日ぐらいは出来るだけガソリン排出量を減らし「出来れば車には乗らないようにしましょう」ぐらいの呼びかけをしたらどうかと思う。決議するだけで何も実行しないのは無意味なことだと思う。
2007/09/16
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女優・藤原記香がアフガニスタンやカンボジアの子供たちへの 教育事業支援などのため、ボランティア3団体に計1千万円を 寄付したことが分かった。著書「記香魂」の印税収入を寄付したもので、これによりカンボジアでの公立小学校建設が確定。 「記香魂」の発行元「幻冬舎」によれば、記香が寄付したのは JHP、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン、日本赤十字社の3団体。JHP代表で「3年B組金八先生」の脚本家で知られる小山内美江子さんによると記香からはライフワークの写真展を通じた 寄付金も既にあり、合わせた資金で10月末にプノンペンから 車で約3時間の場所に建設着工。 いわゆる箱物だけでなく衛生教育やピア二カなどの楽器やソフト面での支援にも充てられる。’93年から学校建設に尽力している小山内さんは「彼女は本気。そこが素敵で国連などの枠 にとらわれず、いきなりアフガンに行っちゃたりする。同じ 志を持ったイキのいい若い人が出てきて本当にうれしい」 と絶賛!!。 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンでも「藤原記香基金」と 題した図書施設や文具に寄付金が充てられる予定。 日赤では日本を始めアジア全域での自然災害による被災者救援 などに充てる。 ※「スポニチ記事より一部抜粋」 ☆☆☆ 愛の日、ヴァレンタイン・デーとは縁もゆかりもない義理チョコやホワイト・デーなどと称する(日本独特)日に一人一人が 僅かな寄付でもしたら恵まれない世界の貧しい子供たちや 自然環境保護にどれだけ役立てることができるのか個人の意識改革をして欲しいものだとヴァレンタイン・デーが近ずく度に 思う。
2007/09/11
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都会に生まれ育つと花の名前は知っていても実態と結びつかないことが多分にある。その一つ 古来から伝わる「ふじばかま」とは一体どんな色をしてどんな形をしているのか想像もつかない。花屋の店頭を見てもホームセンターのフラワーコーナーにも並べてあるのはその殆んどが洋花ばかり。。。《藤 袴》遠い昔。美しい姫が野辺をさまよい来てただ悲しみながら亡くなった。藤の蔓を晒して織った袴をつけたなきがらの脇には名の知れぬ草が生えていた。村人は姫を哀れんでその草を「藤袴」と呼ぶようになった。秋の七草の一つ「ふじばかま」を詠んだ紀貫之の歌《宿りせし人の形見が藤袴 忘られ難き香に匂いつつ》は、 室町時代の歌書によればこの物語が元になっているという。しかし物語りは花の名が面白いので作られたようで実際には花の形からついたらしい。歌のいう「忘られ難き香」とはこの草を生干しにした時にできるクマリンという成分で中国では「フジバカマ」は「ラン」と共に表されその香気が入浴や洗髪に使われた。日本でも古くは「蘭」をラニと読んでふじばかまを表している。気がつけば草木はすでに秋の気配が濃い。東京都葛飾区の水元さくら堤自然保護区域では先週あたりから「ふじばかま」が房状に密集した薄い紅紫色の花を見せている。河川敷などの開発でが姿を消し、東京で自生のフジバカマが見られるのはここだけだという。現在自生が確認されているのは宮城県から熊本県までの22都府県で計約6000個体という絶滅危惧種に指定されてから各地で保護活動が進められ、秋の七草では桔梗も絶滅危惧種とされている。やがては秋の五草になるというのも笑えない冗談だ。人知れぬ悲しみを抱き、野辺をさまよう姫の哀切が思い起こされる「藤袴」の運命である。☆一部「余禄」から抜粋・・
2007/09/05
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静かに音もなく訪れてきた九月の日扉を開けば外はもう秋の気配あの夏の強い日差しの光と陰はいつの間にか遠くへ去ってしまった。♪♪=☆♪♪=★♪♪=☆☆♪♪=★♪♪=☆ タイトルの「SeptemberSong」は往年の米映画「旅 愁」を思い出してつけたもの。振り返れば遠い昔の映画。タイトルに惹かれて入った古い映画専門の500円映画館。高校生の時代だった。主演はジョン・フオンテェーンとジョセフ・コットン。淡々とした流れの中で二人が繰り広げる大人の愛のメロドラマだった。妻子ある男に恋してしまった芸術家の彼女だったが恋人との愛の葛藤を断ち切って別れ去っててゆく。まだ嘴の黄色いヒヨコだった頃に観た映画で恋愛感情はよく分からなかったが彼女の美しさ、雰意気を持った女優さんだったことは心に強く印象付けられた。若かった頃のそんな映画も今観れば違った観方もできるだろうが。
2007/09/03
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『記事は怪談ー検索に拠るもの』応神天皇の八幡宮と並んで人が神になったとされる神社で大きな勢力を持つのは菅原道真の天満宮(天神様)です。数としては全国14000社ほどで神社数のランキングでは第4位になります。 菅原道真は宇多天皇に重用されました。当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使ったのです。 宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。所がこれが完全に裏目に出てしまいました。醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。 道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。なお道真が都を去る時自宅の梅の木を眺めてこのような歌を読んでいます。 東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。 ---------------------------------------------------------------------------さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。 そしてとうとう延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。 ---------------------------------------------------------------------------さてこのような騒ぎの中道真はどんどん神格化されていきます。柳田国男は人が神として祀られる第一の条件はその人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合であると言っていますが、そのまさに典型がここにあります。(柳田国男「人を神に祀る風習」) 味酒安行が祀った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えられました。そしてやがて都でも道真公を祀ろうとする動きが出て来ます。最初天慶5年(942)京都の多治比文子という人が「右近馬場に祠を建てよ」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどうにもならないため、仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立しました。ここで永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになったのです。一条天皇自身寛弘4年(1004)に行幸しています。
2007/08/18
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今月19日で消える。振り返ってみれば15年前、華々しく開店した生活創庫ユニー。当時下町のスーパーにしては高級感のある創りだった。天井が高く売り場スペースもゆったりしていた。通路も広くお気に入りのスーパーだった。建物は4階建てで透明ガラスのエレベーターからは外のの景色が見えエスカレータースペースも広かった。開店当時は週に一,二度行っていたがそのうち近くにライフが出来て足が遠のいてしまった。売り場スペースはライフの2倍以上あるし品揃えも豊富でライフにないものは必ず置いてあった。値段的にはライフと大同小異だから、どうしても距離的に近いライフに足が向くようになってしまった。そのうちユニーからさほど遠くないところへ巨大なイト-ヨーカドーが出来て、たまにユニーへ行ってもいつも閑散としていて客足は激減したようだった。店の名前もアピタイースト21店と変わってテナントの店舗も変えた。洋菓子店コージーコーナーが入り、めがねのパリ・ミキジュエリーショップマキ、新宿中村屋、山崎パンのビド・フランスなどなど。。。ケーキが食べたくなると、よくコージー・コーナーで買って序でにお買い物♪♪でもネックはやはりヨーカドーだったんでしょう。以前のように客足が戻ることはなかった。ユニーの横にホテル・オオクラ系の高層ホテルイースト21があるけどここはデズニ-ランドへゆく宿泊客が多いらしい。同じ敷地内にミスタードーナツがあったが閉店して今は寿司やになっている。通りを隔てた向こう側にファミレスのスカイラークがちょっときれいな創りにして開店したが1年ぐらいでえ閉店してしまった。たまに通りながらみてもいつも閑散としていた。現在は安いコーヒーショップベローチェが開店してにぎわっている。ユニーもヨーカドー、ジャスコ、ダイエイの次に来る全国規模4番目の規模なのにやはり客足がなければ累積赤字が膨れあがっていたのだろう。閉店の新聞広告が入ってから4,5回ユニーへ行ったが行くたびに開店当時のような賑やかさだった。30%、50%値引きというのが理由の一つだと思うけど、やはり閉店してしまうという名残惜しさから来る人たちもいるのだろうと思う。名古屋本拠地のユニーも関東では神奈川県の日吉市が残された一店舗になってしまう。「15年間の長い間のご愛顧ありがとうございました 」と書かれた店舗の文字も何となく寂しい。
2007/08/16
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ふだん壮健な人が病気になることを「鬼の霍乱(かくらん)」というが霍乱とは今の熱中症らしい。元気にスポーツをしていた人が突然、気分が悪くなったり意識障害を起こして死にいたるケースも少なくない。 江戸時代の人も霍乱を恐れたようで当時は夏になると暑気あたりの薬を売る「定斎屋(じょうさい)」という行商が町に現れた。漆塗りの薬箱を天びんで担ぎ呼び声の代わりに引き出しの金具を揺らして音を立てながら歩く。季語にもなった夏の風物詩だった。「昔時は照りつける中を笠一つかぶらず、定斎のききめはかくても霍乱にならぬとてそれで通した。つまり売り子は炎天下に頭をさらし、身をもって薬効をアピールしたそうだから商売も命がけだっただが熱中症は炎天下で運動する人だけが注意すればいいというものでもない。連日の猛暑では室内でも熱中症患者が相次ぎ、東京で87歳のお年寄りが亡くなっている。湿度が高く風の通らない室内では体に熱がこもりやすく、お年寄りと乳幼児は注意が必要だ。以前NHKの番組でテレビを集中して見ている若者とお年寄りの部屋の温度を徐々に上げる実験があった。若者は30度で暑さに気ずいたが高齢者は40度になっても気ずかない。気温の変化に気ずきに難く汗をかく機能も低下したところに高齢者の室内での危険が忍び寄ってくる。各地から記録的高温が伝えられる今年の夏である。だが老いも若きも備えあれば防げる熱中症である。「鬼の霍乱」などとかかってから驚くようなことのないようにしたい。★☆★暑い暑いと思っているうちに秋は音も無く静かに近ずいてきている。今日、昼間ふと外を見たら木の周りに何か小さなものが飛んでいた。よく見たら秋のとんぼ赤とんぼだった。まだ赤くはなかったけど暑い、暑いと言っていた夏も少しずつ終わりに近ずいているんだな。~~~
2007/08/15
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Apollinaire,1880-1918)の作品です。 Le pont Mirabeau ミラボー橋 Sous le pont Mirabeau coule la Seine. ミラボー橋の下をセーヌは流れる Et nos amours そして私たちの愛も Faut-il qu'il m'en souvienne 思い出さねばならないのか? La joie venait toujours apres la peine 悲しみの後に必ず喜びが来たことを Vienne la nuit sonne l'heure 夜が来て、鐘が鳴り Les jours s'en vont je demeure. 日々は去り、我は一人。 Les mains dans les mains 手に手を取り restons face a face 顔に顔を合わせ Tandis que sous le Pont 私たちの腕が作る橋の下を de nos bras passe 永遠の微笑みが流れる間に Des eternels regards l'onde si lasse 水は疲れていった Vienne la nuit sonne l'heure 夜が来て、鐘が鳴り Les jours s'en vont je demeure. 日々は去り、我は一人。 L'amour s'en va comme cette eau courante 愛は流れ行く水のように去っていく L'amour s'en va comme la vie est lente 愛は人生は遅すぎるかのように Et comme l'Esperance est violente そして望みは無理であるかのように 去っていく Vienne la nuit sonne l'heure 夜が来て、鐘が鳴り Les jours s'en vont je demeure. 日々は去り、我は一人。 Passent les jours et passent les semaines日々が去り、週が去って行くのに Ni temps passe 時は去らず Ni les amours reviennent 愛は戻らない Sous le pont Mirabeau coule la Seine ミラボー橋の下をセーヌは流れる Vienne la nuit sonne l'heure 夜が来て、鐘が鳴り Les jours s'en vont je demeure. 日々は去り、我は一人。
2007/08/13
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遠い過去1945(昭和20)年8月9日は長崎に原爆が投下された日。謂わば原爆被爆日である。なのに長崎原爆記念日とは何を記念するのだろうか。忌まわしい日を記念するなんて言葉の意味合いがちょっと違うんじゃないの。原爆被爆日なのだから、そう命名出来なかったのかと思うけど、当時占領下の日本ではアメリカの思惑に従ってそう出来なかったかどうか分からない。英語で言うMemorial Dayと日本語の記念日とは意味合いが少し違う気がする。ロシア語は知らないが例えばチェルノブイりの原発事故があった日をロシアでは記念日と呼んでいるとは思えない。いずれにせよ忘れてはならない長崎の原爆被爆日であることには間違いない。日本の狭い国土の中に55基もの原子力発電所がある。いつ原発事故が起きるか分からない。つい最近では新潟柏崎の原発洩れ事故があったばかりである。地震によるものだけど新聞記事で読むと管理もずさん。
2007/08/09
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いつも眺めるこの海 変わらない夕焼け窓辺に佇む僕だけが変わりゆくよ曲げなければ折れてしまう夢や 勇気だけじゃ飛べない空を知り悲しみをバネにして何のため強くなるんだ生きとし生けるものが幸せであるように降り注ぐ太陽はいつも笑っているから何かを犠牲にする平和も愛も意味がない生きているんじゃないだ 生かされている僕も君もこの花もずーっと・・・・・汚れなき青空はお金では買えない傷つけたこの大地 心は戻せない弱ければ成り立たない正義や愛だけじゃ救えない事を知り・・・・・・★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆TUBEの聴いたこともない、いつ頃の歌かもしらないこの歌詞の内容が目にとまった。人間の生ざまや地球環境に対する思いやりを感じる。歌詞を通して過ぎ去った時代にタイムスリップしてみる。当時から自然環境破壊や地球温暖化は着々と進み加速しそして現在、毎年各地で災害による被害を受けている。人為的な地球環境破壊によるしっぺ返しが除々に過酷になってきている。 この先20年、30年後の地球は一体どうなっているのだう。人間は愚かなピエロ。
2007/08/08
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今日始めて登録完了した。かなりの時間をかけて。最も手間取ったのはブログのURLだった。夜8時頃初めてすべて『このURLは既に使用されていますから使用できません。』と出た。時間を置いては何度も挑戦!!。漸く12時過ぎてから出来たが当てずっぽうでアルファベットを並べただけなんで忘れてしまいそうだ。取敢えずインフォからの引越し先が決まって一安心~~
2007/08/05
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