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日本で開催されたF1GPの結果をまとめました。
上位10位までの記録を掲載しています。
ただし、日本人ドライバーが参戦している場合は、参考としてその記録もあわせて掲載しています
2, 1990年~
1976年、初めてのF1GPが日本で開催されました。開催されたのは冨士スピードウェイ。当時は日本GPの名称は他のカテゴリーで使用されていたため、「F1選手権inジャパン」の名称が使用された。
当時はチームのスポット参戦も認められていたこともあり、日本からはコジマがフォードエンジンを搭載して、コジマKE007で長谷見昌弘が参戦。星野一義は旧型ティレル007フォードでF1スポット参戦している。また、高原敬武、桑島正美もそれぞれ参戦している、
レースは大雨の中開催され、チャンピオン争いをしていたニキ・ラウダが危険すぎるとして自らリタイアをする中、星野一義が一時3位を走行した。しかし、タイヤ交換の為ピットに戻った星野はリタイアせざるを得なかった。何と交換すべきタイヤが無かったのだ。リタイアを決めた後、星野はマシンから降りることも出来ないほど悔しさで涙したという。
レースはマリオ・アンドレッティが優勝。チャンピオンシップをリードしていたニキ・ラウダがリタイアを選択したため、ジェームス・ハントが逆転でチャンピオンを決めた
また、この年のティレルP34は六輪車という得意のスタイルで日本でも大きな人気を得た。
F-1日本グランプリ1977 |
ティレルP34 プラモデル |
名車「6輪たいれる」 ティレルP34 43分1 |
冨士のF1から10年。鈴鹿サーキットにF1マシンのエキゾースト・ノートが響き渡った。注目は、この年より日本人として初のフル参戦を果たした中嶋悟(ロータス・ホンダ)。そして、そのチームメイトであるアイルトン・セナ。また、ウィリアムズ・ホンダのピケとマンセルのチームメイト同士のチャンピオン争いも鈴鹿にマチコされていた。しかし初の日本GPでPPを獲得したのは、G.ベルガー(フェラーリ)。マンセルは予選で大クラッシュを喫し、その瞬間にピケが1987年のチャンピオンに決定した。
中嶋は走り慣れた鈴鹿で予選11位を獲得している。
決勝レースでも、ベルガーは終始トップを快走。日本のF1ファンにどの走りを強く印象づけた。中嶋悟も5位に入賞。しかも、トップと同一周回での入賞は参戦以来これが初めてのことだった。A.セナも予選7位から2位表彰台を獲得し、その実力を発揮した。
ホンダは87年までのウィリアムズから、マクラーレンへとエンジン供給チームを変更。それに伴い、セナもマクラーレンに移籍をした。マクラーレン・ホンダは鈴鹿に来るまで14戦を戦い、セナとチームメイトのプロストとで13勝をあげるという圧勝ぶり。セナとプロストのタイトル争いの決戦の場として鈴鹿にやってきた。
予選はセナ1位、プロスト2位を獲得。中嶋悟(ロータス・ホンダ)も6位グリッドを獲得している。
決勝ではセナと中嶋の二人がスタートに失敗、エンジンをストールさせてしまう。しかし、下り坂に助けられ共にエンジン始動に成功する。セナは中段から猛烈に追い上げ2位まで浮上、27周目に首位を走るプロストが周回遅れに詰まった隙をついて逆転、トップでチェッカーを受け、自身初のチャンピオンに輝いた。また、同時にホンダにとって母国での初の勝利をプレゼントした。
中嶋もスタートの出遅れを挽回したが、入賞まであと一歩の7位に入った。
ラング 1/12スケール マクラーレン ホンダ MP4/4 No.12/1988 A.セナ |
ミニチャンプス 1/43スケール ベネトン フォード B188 No.19/1988 A.ナニーニ |
ミニチャンプス 1/43スケール ベネトン フォード B188 No.20/1988 T.ブーツェン |