教師が人間として自立していることを 要求されるフィンランド
これは昨日の続きである。
昨日はフィンランドの教育改革全体をみたが、今回はその教育改革の実践者、教師についてみてみたい。
教育改革の中核メンバーであった、当時の教育大臣ヘイノネンは、壊滅的な打撃を受けた経済状態から国を立て直すには、どうすべきかについて次のように語っている。
「フィンランドは深刻な不況の真っ只中でした。失業率が大変高く、経済状態は非常に悪かったのです。財政支出を抑えなければなりませんでした。
わたしたちの問いは、どうすればこの不況から脱することが出来るかということでした。当時、決断したのは 投資
をするということで、争点はどこに投資すべきか。 企業に投資したとしても、その企業はいずれ他国に出て行ってしまうかもしれない。しかし、人という資源に投資した場合、その人はそこにとどまる可能性が高い
のです。
わたしは、不況から抜け出すには人という資源に投資するのが一番よい方法だと思いました。この戦略は成功しました。教育に投資したことで、研究開発も活発になり、情報通信という新たな産業が育ち、たくさんの雇用がうまれました。教育の力によって少しづつ不況から抜け出したのです。」
長い引用になったが、このように少ない税収をどこに集中して使うか、という発想のなかから始まった教育改革。
そして、その教育を担当する教師のレベルをあげるために、多大なお金と情熱が注がれている。
大学院修士号取得が小中高の教師の必須条件であることは昨日も書いたが、更に教育の中味を徹底して現場に任せる。現場の学校や地域に任せて、それぞれが責任持って地域の子供たちを育てるという重い責任を教師たちは負わされた。
国が関与する部分は最小限にとどめた。
学校に誰を教師として雇うかという権限までも与えられた。
あらゆる専門性をもったものが協働して、子供たちを教育し育てることが求められている。教科書さえどれを使うか個人の教師の裁量で決めることができる。使わなくともよい。
その代わり、教材研究に教師がかける時間は並ではない。そして、その授業がお互いに評価うけたり指導をうけたりと、研究して高める活動は日常的にもとめられる。
教師の高い能力、自立した人格がなければとてもやり遂げられない。
しかもチームとしてたえず協働の作業が要求される。
教師の人格も、社会でさまざまな体験を積んだ人が多く、子供たちにあの先生に学びたいという憧れや、自分の未来のモデルとして、教師から影響を受けている。
教師を採用する権限を持っている学校は、今学校にどんな人材が必要か、現実に見合った要求から非常に柔軟に採用している。正規の教師になるためには、定められた教職養成の大学で単位をとらなければいけないが、それを保障する制度があり、いつでも思い立った時に勉強することができる。しかも学費は無料なのだから、働きつつも意欲があれば学べるのである。
このような社会人として自立した、人間としてもそれなりに成熟した人たちが、教育をささえていることは素晴らしい。まさに子供たちに求められている人間像は、この教師たちのそれである。即ち、自分の足で立ち、問題を創造的に解決する能力を持った大人になることである。
「学ぶ力」を身につけることが教育の目標であるフィンランドの教師たちは、教師自身がたえず「学ぶ力」を試され続けている。
子どもがどう育っているか、何を身につけて成長しているか、日々その現実と厳しく向き合わざるを得ないのがフィンランドの教師たちであり、そこに教師としての魅力を感じている。やりがいを感じている。
フィンランドの教師の賃金は特別高いわけではない。EUの中で、ごく平均的な額である。しかし、そこに集まってくる人々はとても優秀な魅力的な人々である。
日本の教育、教師はどうか。
国が定めたカリキュラムどおりにやることが求められる。教科書も学校全員が同じ。しかもその教科書どおりを教えることが求められる。テストなどで、教科書のやり方を逸脱しておれば、答えが正解でも×となり減点される。
まさに、物言わぬ教師が求められてきた。物言わぬ子ども像が理想であった。
ただ、言われるとおりに暗記して回答する、正解率を競う。多く正解した人が点が良い、お利口な子として褒められる。
少なくと地方の公立学校の多くはこのようである。
私のところにも、学校とやり方を同じにして教えて欲しい言ってくる親さえいる。
学校の方法が唯一であり、絶対なのだ。
はみ出ることはイジメの対象なのである。
このような「お勉強」で育てられた大人たちは、もうすでに21世紀の変化についていけないで、路頭に迷っている。そのような親に育てられた若者たちもそうだ。
真に民主主義的な社会を作っていくためには、個人、個人の自立した活動が基礎になる。自主的に問題を解決しあう、協働の作業することなしにありえない。
そのような能力を育てることを抑圧しつづけてきたのが日本の戦後教育の歩みであった。経済が右上がりに成長し続けた社会では、このような人間が好都合であった。
しかし、このグローバル化した21世紀を生きていくためには、この人間像は克服されなければ生き延びれないところに来ているのが今ではないだろうか?
その意味でも、小さな国・フィンランドのこの試みは色々な意味で示唆に富み学ぶところ多い。
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