ロシア/ロマノフ朝最後の皇帝・ニコライ2世とその家族
ニコライ2世の略歴
誕生:1868(慶応4)年5月6日:サンクト・ペテルブルクにて
姓名:ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
父:アレクサンドル3世
母:デンマ-ク公マリ-・ゾフィ-・フレデリ-ケ・ダクマ-ル(婚姻後、皇后マリヤ・フョ-ドロヴナ)
即位:1894(明治27)年10月20日、父アレクサンドル3世崩御により即位、その時26歳。
結婚:1894(同)年 即位後、ダルムシュタットのヘッセン大公の娘アリックス(婚姻後、皇后アレクサンドラ・フョ-ドロヴナ)と結婚。
1896(明治29)年5月14日・・・モスクワで載冠式が行われた。
その4日後(5/18)ホディンカ原で祝賀を受けたとき、民衆が押し合い、将棋倒しとなって約1000人以上の人命が失われたという。
退位:1917(大正6)3月2日。
崩御:1918(大正7)7月17日、ボリシェヴィキの銃殺部隊に銃殺さる。
年代の前後を許されたい![]()
上記は「新版」ロシアを知る事典より抜粋させていただきました(感謝)![]()
1891(明治24)5月11日・・・皇太子の時代、日本来訪の時、一巡査より斬りつけられる(大津事件)。
大津事件とは、
ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、軍艦7隻で日本に東游したロシア皇太子ニコライは琵琶湖遊覧の帰途、滋賀県大津町(現・大津市)で市中警衛中の滋賀県警巡査・津田三蔵にうしろから腰のサ-ベルで後頭部を二さん大刀ほど斬りつけられるという、ひとつ間違えば国益をも揺るがす事件が発生した。
その後始末として、滋賀県知事、滋賀県警部長が懲戒免官となった。
当の津田三蔵は、当年5月27日、無期徒刑の判決の宣告を受けた。
が、しかし、津田三蔵は、同年9月30日、釧路集治鑑にて肺炎により
病死した。
以上、新版「ロシアを知る事典」内、「大阪毎日新聞」明治24年5月11日付け朝刊より抜粋しました(感謝)![]()
即位後の対外は、
1895(明治28)・・・三国干渉に成功し、東清鉄道敷説権獲得、遼東半島租借など極東進出に積極的であったというが、義和団事件後、満州占領の継続によって日露間の危機を招き入れるかたちとなり、敗北へと進んだという。
1905(明治38)年・・・国会開設を約し、革命をかろうじておさえたが、
後、反動的なストルイビン時代を生んだという。
1917(大正6)2月の革命で退位、ロマノフ王朝は崩壊した。
外面的には、性格は弱く、治者としての器量に欠けるといわれているが
、内面的(家庭)には、生涯にわたって驚くほど几帳面に『日記』をつけていたという。
それも、ほとんど毎日、その日の重要(訪問者)と思うことはかかさず書いていた。
そのほか、
妻子の身辺についても愛情のこもった気配りがうかがえるという。
なお、
日記等を垣間見るには「ロマ-ノフ朝滅亡・革命期の政治の夢と個人苦闘」
マ-ク・スタインバ-グ/ヴラジ-ミル・フルスタリョ-フ=編。
川上洗=訳。
大月書店・1997年3月14日初版発行を参照されると良いのではとおもいます。
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