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鈴木藤三郎日めくりカレンダー 一覧1日 「こんな美しい音を出すこの土鈴の内部は、どんな素晴らしい仕掛けがしてあるのだろうか?」2日 「よし、製茶貿易をやろう!」「製茶思惑などというものは、儲けて喜んでいる一人の裏に、損して泣いている百人があるのを知らないか。」「このままでは養子の一生を狂わしてしまうかも知れない。本業に支障のきたさない範囲で、やらせてみよう。」3日 時は命だ。命は金では買えないのだ。4日 私が、学問をすることを許していただきたいのです。5日 私は豁然と悟った。今まで金さえ貯ればよしとしていた思想は全く誤りであった。報徳主義の甚だ大切なることを知ることができた。初めて人間の道を知ることを得た。6日 二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができる。7日 人間がこの世に生まれてきた以上職務本位とすることを知らねばならぬ。8日 何事をするにも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生まれたからには死ぬということである。9日 荒蕪の力をもって荒地を拓くという主義は、何の事業にも応用される。(「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」18頁)10日 人たる者は己れというものを虚にして、すべて世のため人のために勤むべきである。11日投機などということは人間のなすべきことではない(「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」37頁)12日菜の葉主義13日荒地の力をもって荒地を開くという主義は、何の事業にも応用することができる。14日すべての人が恐れて新事業に手を出さないとしたら、わが国の産業はとうてい発達の見込みはない。15日人は事業を計画するに、利益の割合を目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かない。事業が成るか否やを主眼とする。(「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」24頁)16日私一代にできなくとも(「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」30頁)17日報徳の教義は洋の東西、人種・宗教をとわない。18日二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。19日幼少より尊徳翁の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思うていたことは、泰西の偉大なる人物と、吾が尊徳翁とはドンナ差があるであろうかということであった。20日余は英国の偉大なる所以を事実によって教えられた。工業において英国は米国と同じくやはり大工場的で経営しているのであるが、ただ英国は二宮先生のいわゆる小より大に及んだものである。21日世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いん。22日23日彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見せり。24日至誠以て事に当たり、勤労以て業に服し、学理の活用、技術の熟練に専念し、分度以て質実なる人格を陶冶し、推譲以て逸材を養はん25日26日27日28日29日30日31日もう何もかもあの観音様にまかせればいいのだ。
2024.04.30
鈴木藤三郎報徳日めくり30日鈴木氏は、最後の失敗の原因について語っていうには、小名木川では、300万円の資本で、好評を博したのであったが、岩下清周氏がやって来て、君一個の事業として小資本でやるよりは、他の資本をも集めて、一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、そもそも失敗の原因であった。300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった。留岡幸助 「斯民」第8編第7号(大正2年10月1日) 真に惜むべき人 本会評議員家庭学校長 留岡幸助 ◎二宮翁50年記念会と鈴木氏 わたくしが鈴木氏と相知るに至ったのは、報徳の道を研究するに至ってから後の事です。ちょうど日露戦争後、戦後経営をいかにすべきかという問題が、官民有志の間に講究されつゝあった際、わたくしども同志の者は、これはどうしても道徳と経済の調和を図らなければならぬという事に一致し、さてその方法はいかにすべきかという事になったが、ちょうどその年は、報徳の教えを説いて、自らこれを実行し、その成績を挙げた二宮尊徳翁の50年忌辰(ねんきしん)に当るから、翁の記念祭をやろうという事になった。その時、これが協議にあずかったのは、内務省の有志を中心として、農商務、文部両省の有志、並びに大学教授や、民間有志等であった。この協議会は5,6回も開いたのであったが、事情あって思うように進行せぬ。かくて期日もだんだん迫って、わずかに1か月を余すに過ぎざるに至った。そこでわたくしはある日鈴木氏に電話をかけて話をしたところ、鈴木氏かは「どうかやってくれ」といわれるので、わたくしは費用の事をありていに答えたところ、「一体どのくらいかゝる予定です」と聞かれたから、わたくしは「多分5,600円もあったらできよう」と答えたところ、鈴木氏はカラカラと笑われて、「それでは自分が2,000円出そう」と言われた。これで金銭(かね)もできたので、遂に明治39年の11月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至ったのである。鈴木氏は、この2,000円の外にさらに1,000円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付したのであった。 ◎報徳会の大恩人 鈴木氏が報徳の教えを鼓吹するために尽されたことは、まことに多大なるものがあった。1万円を投じて野州今市の二宮神社内に報徳文庫を作り、相馬の二宮家に在る翁の遺著9千余巻を浄写せしめて、これを保存し翁の遺書の散逸を防ぎ、兼ねて篤志なる研究者の参考に資したごときは、最も推賞すべき事であろうと信ずる。 自分は日露戦争後、「報徳記」を英訳せしめたいという希望を持っておったが、これは2,500円くらいの経費を要する予定であった。鈴木氏もこの挙に賛成の意を表しておられたから、出金してくれといったならば、これも喜んで出されたことと思ったが、遂にそれには及ばずに沙汰止みとなったのであった。 また我が報徳会にとっては、実に大恩人であった。報徳会の今日あるを得た事は、鈴木氏の努力に真にすくなからざるものあるを信ずることであった。 ◎61歳より新生涯に入るの決心 鈴木氏は、東海道の佐野駅より数町(ちょう)離れた所に、130町歩の農園を作っておられたので、その所在地たる駿東郡の実業団体の牛耳を取っておられた。明治41年頃と思うが、私は招かれて、同農園へ行き、一泊して、農場を視察し、一緒に汽車に乗って帰京したことがあった。その際、公共事業の事について話がはずんだが、鈴木氏の言われるのに、「私は61歳になったら、実業界から退いて、報徳を中心として公益のためにこの身を捧げたいと思っている。その時はこの佐野の農場を本陣として、同志の人々のためにあすこを開放して、自由に来泊を請い、あすこから天下に呼号して打って出たいと思っている。」と熱心に語られたことでした。その時言われるのに、「今仮にその際、自分の財産が300万円であると仮定すれば、200万円を事業と子孫のために残し、自分は100万円を持って佐野に引っ込みたいと思う。」とのことでした。そこで予はいうのに「君が61歳以後の生涯のほうが、真正(ほんとう)の価値(ねうち)ある生涯であろうと思う。米を多く取ろうと思えば、稲を十分に生育せしめなければならぬ。今日の君の事業は、即ち稲を作って、収穫の準備をしておらるゝのである」といったことでした。 ◎慰問の夕 その後鈴木氏の大失敗の噂を耳にしたので、早速予はこれを訪問せんがため、黄昏時(たそがれどき)から自転車を飛ばして、小名木川の家を訪問したのである。時は一昨年も将に暮れんとする12月23日の晩の事でした。その時番頭が出て来て、「実は非常な場合でして、誰にも会われないのですが、あなたがいらっしゃったことを伝えますと、非常に喜ばれてお会いするとのことでした」といった。それから部屋に通ると、すぐに鈴木氏が出て来られ、老母(おばあさん)や、養子や、番頭まで出て来て、いろいろ精神上の話が出た。その時、鈴木氏がいうのに「昨日130万円の責任を引き受けて会社を出てしまった。自分はこれまで10年ごとに大失敗をして、今回で3回目である。これを航海に譬えると前2回は難破したのであったが、まだ船に乗っておったからよかったが、今回は船まで取られたのであるから、大いに弱った」と嘆息しておられたのであります。そこで自分がいうのに「それは君にも似合わぬ弱音を聞くものかな。一体これまでいろいろ専売権を得た発明は誰がしたのか、君の頭脳(あたま)がしたのではないか、すれば頭脳が残っておる間は大丈夫でないか」と励ましたことであった。 ◎失敗の原因について自ら語る 鈴木氏は、最後の失敗の原因について語っていうには、小名木川では、300万円の資本で、好評を博したのであったが、岩下清周氏がやって来て、君一個の事業として小資本でやるよりは、他の資本をも集めて、一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、そもそも失敗の原因であった。300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった。今度は実に地雷火にかゝったようなもので、粉微塵にされてしまった。これは青年実業家の好規鑑である。ただ遺憾に思うのは、鈴木は始めから山師であるという世評である。もし自分が真に山師であるならば、自分が最大の株主になるような事はしないはずであるといって、世評に対する不満の意を漏らしたのである。 ◎紛々たる世評を意とすることなかれ そこで自分はいうのに、それは君の平生にも似合わぬ繰言である。天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷(しゃしょく)のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。その際自分は、ちょっと横を見ると、老母が私を拝んでおるのが眼に入ったが、その当夜の光景は真に厳粛な光景で今もなお眼前に見るごとき心地するのである。 ◎精兵と傭兵 私は鈴木氏が、300万円の会社をば、一躍千万円にして失敗を招くに至った事は、実に鈴木氏の言のごとく、余程有益な教訓を後の事業家に与えておると思う。300万円にするには、一歩一歩成長したのであって、事務員のごときも、皆鈴木式に訓練された精兵であった。然るに一躍千万円に膨張したため、十分に人選する事もできず、いわば傭兵である。故に会社の利益等のことは毫も考えず、自己の利を図るに至った。そこで不正の行為が発覚して、免職になるものができる。そういう人は、腹立ちまぎれに、有る事、無い事を吹聴した。「サッカリン」を入れるという事も、これらの人々が、世間へ向って荒立てたためである。 ◎商略を誤る もう一つ鈴木氏が脆く倒れた原因は、従来は報徳の道に従って富を得、名を成したのであるが、今回の事業は報徳の道に反しておったからである。なぜなれば、鈴木の醤油が成功すれば、日本在来の醤油屋は倒れるか、少なくても弱くなる。即ちこれを敵に取っての事業であった。もしこれに反して、己れ立たんとすればまず人を立たせという風な実業であったならばよかったと思う。即ち専ら外国に売り弘めるというような方針をとっておったならば、かゝる脆き失敗は招かなかったかも知れぬと思う。鈴木氏が、今度は地雷火にかゝったので、全滅であるといったが、実にその風があった。 ◎捲土重来の意気(略) ◎真に惜しむべき人 予は多くの実業家を知っているが、あれほどの人物はあまり多く見ないのである。意志が強固で、勉強家で、発明の才があった。いくたび失敗してもこれに屈せずして再び崛起(くっき)するの気力は実に豪(えら)いものがあった。今一度回復したならば、ただに実業界のみならず、我が国の利益となったことが少なくないと思う。また報徳の教えからいっても実に惜しい人を失ったものであると追惜の情に堪えない次第である。※鈴木藤三郎氏は、「自分は全く報徳に遵守して栄え、これに背いて失敗した」と言ったが、その解釈は人により異なる。藤三郎本人は、留岡幸助氏に「300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった」と語っている。尊徳先生が「速やかならんと欲するなかれ。速やかならんと欲すれば大事を乱る」との遺言に背いたことのようにも思われる。留岡氏はそれに付け加えて、急速に資本を増加したのに、報徳の教えをよく知る人材の養成が間に合わず、解雇した人の恨みを買って罵詈雑言をあびせられたことを付け加えられている。岡田良平氏は、製糖業界と違って中小の醤油醸造業者を圧倒し敵ができたことを挙げられる。それが「いわゆる売って喜び、買って喜ぶ」という報徳の教えに背いたこととされる。
2024.04.30
鈴木藤三郎報徳日めくり29日どの点に最も感心したかと、どの点もない、一の欠点もない。全身悉く敬服すべき人物であった。君が発明の才に富んでいたことは勿論であるが、然しそれは君の人物に対しては一の余技に過ぎなかった。江原素六 「斯民」第8編第7号(大正2年10月1日) 最も尊敬したる人 貴族院議員 江原素六 ◎毫も欠点なき人 鈴木君が亡くなったそうだ。誠に惜しいことであった。自分は最も鈴木君を尊敬する者の一人であった。知っていたの何のでない。最も古くからの友人で、君も自分を信じてくれていたと思う。14日に遠州で本葬式があるそうだから、自分は是非会葬するつもり。行かなくっては心が済まぬ。森町へは浜松で下車するとよいかね。ナニ岡田君が行かれると、然らば電話で問い合わすとしよう。 どの点に最も感心したかと、どの点もない、一の欠点もない。全身悉く敬服すべき人物であった。自分は徹頭徹尾賞賛していたので、君が衆議院に出るとき、自分は極力運動をしたが、このくらい心持のよいことはなかった。世には表向き褒めておいても、しかしこういう欠点があるというようなこともあるが、自分の同君に対する推奨は、決してそんな類ではなかった。君が発明の才に富んでいたことは勿論であるが、然しそれは君の人物に対しては一の余技に過ぎなかった。 ◎醤油改良は最も必要 君は醤油事業で失敗したが、これは国家の経済から言って、最も必要なる事業である。今日の醤油は、非常に不経済なことをして造っている。醤油は元禄頃より始まったものでそれまでは味噌だけであったが、味噌は窒素分がそのままに在るが、醤油ではこれが無くなる。醤油を造るに沸騰せしめる。窒素は百度以上の熱に逢えば凝結する。そこで醤油の滋養分は粕の方に残って、空しく豚の食物となるか、肥料とするのである。然るに君の発明は、百度以下で沸騰せしめる方法であったから、これが出来れば豆麦の滋養分がそのままソックリ醤油に残る。この事が欧米に知られたならば、その醤油はどんなに歓迎されたか知れぬ。必定日本の一大輸出品となったであろう。故に予は君の醤油改良に対して、満腔の敬意を表した一人であったが、このことはだれかが、是非とも君の志を継いで完成せねばならぬと思う。 ◎器械仕事の注意点人間の手でする仕事を器械にかけると、その出来方が違ってくる。それは人間の仕事には手心があってそれぞれ都合よく、適応せしめることができるが、器械ではそれができぬ。千編一律、きまりきってゆかねばならぬ。自分の縁故の者に、一人で5反付き3台の織機を操縦する器械を発明したものがあるが、一人で3台使うときは立派にできる。それを30台40台と造って、大仕掛けにやった者は失敗した。醤油の醸造にもこの注意を要する。特に鈴木君の方法は、鉄の器械で塩味(えんみ)を扱うものであるから、鉄が酸化して酸味を発する点に、相当の防禦法を施すの必要があった。次に麹の製造である。何十石でも、平等に一様の度に一斉に発酵するようにせねばならぬ。そうせねば、たとえ小規模では成功しても大規模では失敗するようなことになる。自分はこの2点について、詳細なる意見をしたため、それを鈴木君に送っておいたが、どう間違ったか本人の手に届かなかった。君が失敗した醤油の改良は、最も必要の事柄であった。西洋にもソースはできる。ことに英国では好くできるが、皆滋養分が甚だ乏しい。故に鈴木君が企てた方法が完成されたならば、欧米人が大喜びでこれを賞用するに相違ない。※井口丑二氏が「斯民」に寄稿した「古今東西報徳千話」にこの江原素六氏の文章に触れている。「22 報徳と商工業 昔は遠州辺にて報徳商人というものありき。然るに近来は報徳といえば農民の信条、衰村興復の題目とのみ思わるるに至りぬ。この間において遠州出身の鈴木藤三郎氏、独り商工業界の大報徳家として世に知られしが、氏が一たび蹉跌したる後は、商工業者中また報徳を言う者無し。 この頃思いも寄らずも氏の逝去に逢いて、商工業と報徳との関係は、復いささか人の注意する所となりぬ。氏が失敗したるの言に曰く、『予は報徳にしたがいて成功し、報徳に背きて失敗したり』と、この語真なり。日本の商工実業者が、報徳の主義を守らざるために国家が損失しつつあること、いくばくなるやを知るべからざるなり。 一概に成功を賞し、失敗を貶(へん)する世人は、鈴木氏の心事についても、あるいは疑いをはさむ者ありしというが、その蓋棺(がいかん)の後、輿情(よじょう)は、皆深厚なる同情をもって満たされたり。中にも現代の君子人たる江原素六氏の氏を讃する、その言語の限りを尽くせり。曰く、徹頭徹尾欠点なき人、発明のごときは寧ろ余技のみと。鈴木氏の霊地下に聞いて、いかに歓喜し感謝することならん。」ああこの人を喪う 相田良雄(略) 最後の面会明治44年の天長節に、吉田忠雄氏が精養軒で、栢山の二宮家の娘と結婚の式を挙げた。その媒介者は留岡幸助氏であった。花嫁は鈴木君が学資を出して高等女学校を卒業させた関係上、この式に君の列席を求めた。その時君はかかる席に出たのはあれ以来始めてである。世間に非常な迷惑をかけたから、今そのお詫びに地獄回りをしておるが、今日はやむをえず出てきた。しかし喜んでいただきたいことには、乾燥器の発明ができた。これが成功すれば多少お詫びをすることができると思う。今一つは完全燃焼法の発明である。東京市中は、今に煤煙に閉ざされる。これを防ぐために発明した。この仕掛けによればカスで発散を完全に燃焼するのであるから、石炭の消費高が減ずる非常な利益である。在来のかまに僅かな工夫を加えればよい。現に2,3の会社に試みて好成績を示していると言われた。今から思えばこれが最後の面会であった。 精神まで挫折はしない醤油醸造会社に失敗して以来、これまで紳士生活をして来た君は、鉄工場で職工服を着けて職工に伍して大いに研鑽を積んだ。この一事既に常人の難しとするところである。当時君は非常に憔悴しておるという噂があったので、金原明善翁は、わざわざ君を小名木川に訪問して慰謝した。その際君は翁の親切に感涙を浮かべ、そしてこう言った。「人様に迷惑をかけて実に相済まぬが、事業家が事業に失敗するのは已むを得ぬことである。しかし決して精神まで挫折はしない。これから20年も若くなって社会にお詫びをせねばならぬ。自分が20年前に製糖業を始むるために上京した時の家がこの8畳の家である。この8畳におった昔に返ってやる積りだ。妙なるもので、気持ちを若くすれば肉体までも若くなるものか、14年以来正月の餅はほんの儀式に少しばかり口にした。寧ろない方を喜んだのが、本年の正月には、雑煮を3椀も替えた又30年以来できなかったシモヤケが、若い時のようにできた」と言ったら、金原翁は大層喜んで帰られたとのことであった。9月5日の朝、自分は新聞を見て大いに驚いた。早速小名木川の寓居に赴いて弔辞を述べた。石油船の待合所でも惜しいことをしたという人がある。又砂村の今日あるは鈴木君のお蔭である。砂村は恩人を失ったという人もある。なんと偉い人である。あの大名華族のような屋敷におった人が、我々の住むようなあばら屋に平気で住んでおられる。偉い人であったという人もあった。自分も4,5度君の屋敷を訪うたことがある。実に広壮な大名華族のごとき邸宅であった。それが今跡もなく草茫々としておるのを見て、真(しん)に感慨無量であった。君がこの光景を日夕目にしながら工場に通われた心事を思えば真に悲惨である。否これを見て心志を激励されたかと思えば、実に壮烈である。ああ今5年の寿命を君に捧げたかった。世に知られていないことであるが、鈴木藤三郎氏は、二宮尊徳の子孫にひそかに学資等援助していたように推測される。相田良雄氏の文に「花嫁は鈴木君が学士を出して高等女学校を卒業させた」とある。おそらく先師二宮尊徳の神徳にいささかでも報いたいと思ったゆえんであろうか。「鈴木藤三郎伝」(鈴木五郎)では「家庭生活では・・・畏敬するという形になってあらわれた。・・・相当な年配の社員達が呼び付けられて、激しい口調で頭から叱責されているところなど、時々かいま見るものだから、・・・子ども達はみんな、父はこわいものだと思っていた。」(176ページ)とあり、家庭や会社では厳格で畏怖すべき存在であったようである。 ただ、江原氏が「徹頭徹尾欠点なき人」と鈴木藤三郎逝去後捧げる言葉はまことにうるわしく思える。
2024.04.29
鈴木藤三郎報徳日めくり28日明治39年、二宮翁の50年祭を東京に催すや、君率先してその議に参加し、ついで我が報徳会の創立者の一人となりぬ。後、自ら巨費を投じて、報徳文庫を、野州今市に建設し、二宮翁の遺書万巻を納む。これより翁の遺教、ますます世に顕わるゝに至る。君の事業は永く天地の間に存して、君の志は千歳の下必ずこれを知る者あらん。岡田良平 「斯民」第8編第7号(大正2年10月1日) (34~55頁) 鈴木藤三郎氏の逝去鈴木藤三郎氏は大正2年9月4日午前2時に亡くなった。享年59歳、法名は報国院偉徳道勲居士。6日深川で仮葬式を行い、9月14日郷里の森町での本葬式が営まれた。森町における本葬式 氏の遺骸は、仮葬式後荼毘(だび)に付せられ、郷里なる静岡県周智郡、森町に送られ、9月14日を以て、いと丁重荘厳なる本葬式は行われたり。今その模様を略記せんに、同日自邸出棺前、大広間にて衆僧の読経あり。午後3時号鉦一打出入の人々先駆をなし、故勲4等鈴木藤三郎柩と大書したる銘旗1旗、次に岩下清周、福川忠平、三井物産会社、その他寄贈の造生花40余対、森町尋常高等小学校惣代、周智農林学校生徒これに次ぎ、親戚故旧会葬者粛々としてこれに随い、式場に向う。場は周智農林学校校庭を用い、正面には大導師日置黙禅老師を中心として、左右に20余名の衆僧着席す。葬列式場に着し席定まるや、会葬者の弔詞、導師の香語あり。次に近親故旧会葬者の焼香礼拝あり。午後5時半式全くおわる。当日会葬者千余名、みる者道に満ち、実に空前の盛儀なりき。会葬者の重なる者は、 中央報徳会代表者大日本報徳社長岡田良平、貴族院議員江原素六、松島千湖、藤田周智郡長、(以下略)にして、又弔電の重なる者は、 原敬、床次竹次郎、一木喜徳郎、岩下清周、秋野孝道(以下略)にして本会の弔詞左のごとし。 我が中央報徳会に、かつて久しく評議員として力を致されたる鈴木藤三郎君逝けり。君は遠州周智郡森町の人、少にして、つとに二宮尊徳翁の事に感じ、長じて、翁の教えを工業界に活用せんことを期せり。君人となり、明敏綿密にして最も発明創作の才に富み、つとに各種の器械を工夫して、内外の特許を得ること、200余種の多きに達し、我が国における発明界の第一人者を以て称せらる。初めその家業に因みて製糖の法を案出し、ついでこの器械を発明して、すなわち新製糖の業を東京に起こし、爾来連(つが)りに改良拡張して、大製糖会社の基を開く。我が国糖業の今日ある、君の企画経営に負う所少なからずという。後、醤油醸造の新法を発明し、既にして日本醤油会社の事あり。一たび蹉跌しては、自己の全財産を提供してその責に任じ、敢て逃避する所なし。而して発明起業の初志を固守し、更に勇を鼓して、発明部、水産部の事業を経営し、特に自ら煙酒を禁じて摂生に努め、最も勇猛精進して、私に捲土重来の日あらんことを期せしに、今や卒然としてこの事あり。何ぞ哀悼に禁うべけんや。 君、分度の余力をもって公共に尽くす所少からず。特に道徳経済との調和をもって任とし、明治39年、二宮翁の50年祭を東京に催すや、君率先してその議に参加し、ついで我が報徳会の創立者の一人となりぬ。後、自ら巨費を投じて、報徳文庫を、野州今市に建設し、二宮翁の遺書万巻を納む。これより翁の遺教、ますます世に顕わるゝに至る。而して今やその業独り存して、その人則ち亡し。ああ悲しいかな。 去冬以来、君が家不幸何ぞ頻繁なりしや。一月には、嗣子嘉一郎君病んで歿し、2月にはその経営したる農業に火あり。5月には、養大孺人(養母)に喪せり。君哀傷の故をもって志を緩めず。いよいよ発憤勉励してやまざりしに、この夏、たまたま病を感じ、終に癌腫の診断を受く。然れども意気毫もために沮喪せず、人事の限りを尽くさんことを期し、医の慰諭するをも聴かず、強いて請うて手術を受け、不幸これがために発熱して、終に起たず。時に大正2年9月4日、生まれし安政2年をへだつること50有9年なり。 君意志最も堅剛にして、成るに淫せず、敗るゝに荒まず、栄枯盛衰をもって動くなし。不幸中道にして病を得るや、不治の故をもって喪心せず、病苦をもって懊悩せず、堅忍確持、泰然として後事を区処し、もって最後の一呼吸に至る。偉丈夫に非らざるよりは、いずくんぞ能くこのごときを得んや。ただそれ窮通は命なり。寿夭は天なり。つとに天命に安んじて、人事を尽くせり。君の事業は永く天地の間に存して、君の志は千歳の下必ずこれを知る者あらん。君の英霊こいねがわくはもって瞑せよ。 大正2年9月6日 東京中央報徳会評議員総代 岡田良平
2024.04.28
鈴木藤三郎報徳日めくり27日人は社会より恩恵を受けているのであるから、是非ともこれに報いなければならぬと信じ、これに始めて私の主義が極って、明治10年1月1日からこの主義をやり通してきた。 「斯民」第3編第5号(明治41年7月7日) 「斯民」第3編第5号(明治41年7月7日)「一意専心主義」(抜粋) 鈴木藤三郎 (同26ページ)私は30年前すなわち22歳のとき、始めて報徳の教えを聞きまして大いに感動するところあり、爾来岡田良一郎先生を始め諸先輩について斯道(しどう)を研究し、始めて人生はかかるものであるかと悟って、富貴功名をば人生の目的と信じておった、従来の考えが間違っていることを知った。そこで人は社会より恩恵を受けているのであるから、是非ともこれに報いなければならぬと信じ、これに始めて私の主義が極って、明治10年1月1日からこの主義をやり通してきた。故に私はただ自分の職業に尽くさんとの念あるのみで、損をしたらどうとか何とかいう事を考えず、一意専心にやっている。成否は固より問う所ではない。尽くしただけは必ずその結果がある。私は初め遠州森町で製糖事業をやっておったが、後に東京へ出てきて両3年前やってきた。したがって農商務省の技師某君が私に向かって、製糖事業はなかなか困難なもので、僅かの経験くらいではとても成功できるものではない、政府の応援があってすら失敗するのであるから、個人の力でやろうというのは、あたかも夢を見るようなものであると忠告をしてくれました。その時私は答えて「ご厚意は有難いが私はそうは思わぬ。私はやれるだけやってみなければ断念ができぬ。香港でやれることが日本できないはずはない。私は生涯の事業としてやる。私は生涯の間にこの事業を完成して国家に結び付けるまでやれば善い」といいましたが、ちょうど51歳の時に予期しただけの事がまとまりました。それでございますから私は今日実は生まれ変わって来たのでございます。いつぞやも申し上げましたが、私が洋行した時などは言葉もできず、何もできない者が外国へ一人で行って何をしたかというお疑いもあったでしょうが、それもやはり今の筆法で、もうこの砂糖の事だけは見れば分かりますし、又砂糖に使う機械だけはやはり説明を聴かないでも見れば比較もできる。こういう念がありますから、私は一人で行って覚束ないながらも、用を終えて参りました。その時にも友人達はいろいろと差支えがあるだろうとか言って心配してくれましたが、前申しました一番初めの決心を持っておりましたから、いかなる困難があっても辞さない。又病気その他で死んでもよい。それで自分の本望は達したのである。いわゆる営業のためには無我になって、ただ一意専心尽くしたに過ぎぬのですが、それは私ができそうという考えを持っておったのでありませぬので、最初申し上げたこの報徳の大意を聴きまして、どうしても人はそれが当たり前である。そういうふうに心得ねばいかぬということを教えられまして、ただそれだけのことを私は今日に至るまで、営業に向かって努めているに過ぎぬのであります。
2024.04.27
鈴木藤三郎報徳日めくり26日人たる者は何はさておき、自己の職務を本位として、一生懸命に働かねばならぬ。これがすなわち報徳訓の義に適うものである。 「斯民」第2編第7号(明治40年10月7日)「職務本位」 鈴木藤三郎 (抜粋) 諸君私は二宮尊徳翁崇拝の一人であります。 私の演題は職務本位というのであります。 その主意は読んで字のごとく、人たるものは上は一国の帝王より、下は一家の下男下女に至るまで、職務を本位として誠心誠意、力のある限り、各自の職に尽くすべきものであるという意味であります。 まことに単純な事で、誰にも分ることでありますが、この単純な言葉の中に、報徳の訓え一切を包括している。また国の東西、人類の異同、男女の別を問わず、すべての人がこれを守るべき義務を自然に有するものと私は信じます。 なぜに人はことさら、職務を本位とせねばならぬかという、その理由に対する卑見をなるべく簡単に述べたいと思います。 元来私が始めて報徳の教えを信じましたのは、明治9年でありまして、それより以来先輩諸氏について、いささか研究致しました。その結果、私が、報徳を考えましたのがすなわち職務本位ということに帰着したのであります。 報徳訓は諸君の御熟知の通り。 父母の根元は天地の令命にあり 身体の根元は父母の生育にあり 子孫の相続は夫婦の丹精にあり 父母の富貴は祖先の勤功にあり 吾身の富貴は父母の積善にあり 子孫の富貴は自己の勤労にあり 身命の長養は衣食住の三つにあり 衣食住の三つは田畑山林にあり 田畑山林は人民の勤耕にあり 今年の衣食は昨年の産業にあり 来年の衣食は今年の艱難にあり 年年歳歳報徳を忘るべからずの12句でありますが、この句には過去現在未来を一貫し、道徳経済を一括して、最も深遠なる意味を包含せるものであります。 私は自分だけの卑見をもって、極めて簡単に、実用的に解釈をしたのであります。 今日世間に現存している人間はいかなる身分のものでも、天地の恵みと祖先の遺徳とによりて、現代の開明に浴しているのであります。すなわち学問でも、教育でも、政治でも、宗教でも、はた、農工商その他いやしくも人間社会における一切の事物は、ことごとく、我らの祖先が数千年前の有巣時代穴居時代より今日までに、経験工夫のかずかずを積みて遺されたる賜物であることは、誰人も熟知のことであります。然らば天地の恵みは申すまでもなく、祖先の遺徳の大なることは、到底言葉で言いあらわすことのできることではない。 故に人たるものはこの大恩徳を報いる心がけが必要であることを了知すると同時に、その実を挙げねばならぬ。これがすなわち報徳の行いである。然らばいかなることを為してこの大恩徳に報いることができるかと申せば、現代の我々は倍々勤労を積みて、人の幸福となるべきことを拓き、祖先の遺徳に加えてこれを後代に譲り、子々孫々、またかくのごとくにして、数百千代の後には、この世界をして、ついに円満無欠の楽土となすようにつとめること、これがすなわち右申す大恩徳に報いる所以でありまして、また、実に人間仲間に、一貫したる人生の大目的でなければならぬ。(ちょっと、ここにお断りしておきたいことは、私が今日いう祖先または子孫という語は、通常、血統の上より称する狭義のものではなく、我々より前の人は皆祖先、後に生まれ出ずべきものは、皆子孫とする広義の見解によるものであるということであります。) 人々がこの大目的を達せんとするには、もとより方法と手段とが必要でありますが、これはさほどにむずかしく考えるにも及ばぬ。人間仲間には古よりそれぞれ職務を分担するという最も便宜なる習慣が自然に成立しておりますから、人々が銘々にその職務を完全につとむるというだけの事であると私は存じます。なおこの意味を細説しますれば、およそ人として職務のないものはない。而してその職務というものは皆、直接自己のために勤めるように心得るものもありますが、その実は左様で無い。何の職務でも、自己のためには間接であって、まずもって、他人のために勤めることに事実がなっている。その証拠は一国の帝王は民を恵み、政治家は国のために政事を講じ、教育家は人の子弟を教え、医者は人の病気を治療し、実業家は需要者のために農工商の業をつとめ、車夫は客のために車をひき、下女は雇い主のために飯を焚き、その他一切の職務が、皆他人のためにつとめるようにできていることが、何と妙ではありませぬか。それ故に一般の人々が職業を本位として職務のためには、一切の私事を犠牲として、誠意専心、勤労をなすときは、自ら人間仲間に、一貫した前述の大目的に適うようになってくる。 職務を本位として勤労を尽すことが、人生に一貫したる大目的に適うが故に、自然の報酬としてあるいは立身出世をなし、あるいは富貴福徳を得、あるいは名誉尊敬をうけ、遂に万世に不朽の令名を伝えるなど、その形は種々かわるが、ともかくも、その人の勤労に対して、尊ぶべき報いが期せずして来ることは、古来の歴史に明らかなので、すなわちその勤労の副産物である。而してこれに反するものは、必ず人生の発展を害し、自己が一時、幸いなようでも、いつか知らず、自己もまた、必ず損害を受くることの例は、私がここに列挙しないでも、世間にいくらでもあることであります。要するに職務を本位として勤めるものは、自ら人生の大目的に適うて、自己の幸いは自然に期せずして来り、これに反するものはいつか反対の結果を受けることとなるのであります。されば人の踏むべき道の大本は、実にここにある。これ以外にことさら、人が善と称するものは皆この大本幹に付きたる枝や葉のごときものに過ぎないのである。 故に人たる者は何はさておき、自己の職務を本位として、一生懸命に働かねばならぬ。これがすなわち報徳訓の義に適うものであると私は考えまして、既に30年間、この主義をもって、馬車馬的に、一直線に進行して来たのであります。 なお一言、職務本位の主義を実行する上につきての心がけを申上げたいと思います。職務本位主義を実行しまするには、大いなる決心覚悟が必要であります。元来いずれの職務でも順境にのみ進行することは望みがたいことで、必ず逆境に立つ場合があるものと覚悟せねばなりませぬ。そこで逆境に処する工夫が最も必要であります。それには初めから大決心がなくてはならぬ。この大決心は一種の悟道より生ずるものであります。それですからこの悟道について、私が感じました要点を簡単に申し述べます。二宮翁夜話に「夫れ人、生れ出たる以上は死することあるは必定なり。長生と雖もど、百年を越ゆるは稀にして限のしれたる事なり。若死と云も、長寿と云も 実は毛弗の論なり。譬へば蝋燭に大中小あるに同じ。大蝋と雖も、火の付たる以上は、4時間か5時間なるべし。然れば人と生れ出たる上は必ず死するものと覚悟する時は一日活れば則ち一日の儲け、一年活れば一年の益なり。故に本来我身もなきもの、我家もなきものと覚悟すれば、跡は百事百般皆儲けなり。」云々とあります。これがすなわち私の申しまする悟道の法で、すなわち二宮翁の遺教であります。 なんと諸君、この道理は実に簡明で誰人にも解し得らるることではありませぬか。元来一度生じたものは3歳で死ぬも一生、50歳100歳で死ぬもまた一生であります。然れどもいつ死するということが、自分にもわかるものは天下にないのであります。それで「今日また今日と生活している限りは幸福であり、儲けである」 と覚悟し、いかなる逆境困難に出会いましても「もともと、死すべきものが生活している。その幸福に付帯せる年貢なり」と思えば、「いかなる困難でも、一切が丈けの知れたことである」と一大決心をなし、而して職務を本位として誠意専心勤勉するときは、最愉快にこの世に処することができる。この道理が会得せらるれば、胸中豁然として一点の汚物なきに至ること必定であります。されど、ただ了解せられたばかりで、実行が伴わねば何の用にも立たぬ。そこでなおこの上にも必要なものは強固なる意志であります。すべて人が一たび決心をした以上は永久かわらぬようにするのに、意志が強固でなければいけない。また善(すなわち人生終局の目的を達するためになること)と知りては直にこれを行い、悪(すなわち、人生終局の目的を達する妨害となること)と悟りては直にこれを去るということも、強固なる意志に基くのでありますから、強固なる意志を有するということも、また肝要なことであります。 今一応、概括して要点を申しますると、第一、人は人生に、一貫せる大目的を認めてそれを目標として進行すべきものなること。第二、この大目的を達する手段方法としては職務本位ということが必要であるということ。これが、今日の本論でありましたが、なお職務本位を実行しまするには、第一、死をも恐れず、艱苦にも堪うべき大悟道の必要なること。及び、いわゆる悟道の方法。第二、強固なる意志を有すべきこと。に論及したのであります。
2024.04.26
鈴木藤三郎報徳日めくり25日私はかつて欧米を漫遊し、その国の実業界の幾多の成功者を訪問し、親しくその事業を観察したとき、彼らが成功した要因はことごとく推譲にあることを発見した。いにしえの道を聞いても学んでも 身の行いにせずば益なし 予かって欧米を漫遊し、かの国実業界における幾多の成功者を訪問し親しくその事業を観察したるとき、彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見せり。彼に報徳の教えあるを聞かざれども、そのとる所の方針は、自然斯道(しどう)の肯綮(こうけい:物事の急所)にあたれり。故に欧米諸国の実業が、大なる発展をなせる所以のもの号も毫(ごう)もあやしむに足らざるなり。譲って今本邦の情況を見るに、日露戦勝の結果、東洋の平和は克復せられたりといえども、産業界の戦争に至りては将来一日も已む時なかるべし。されば本邦は、今後世界各国と競うて非常なる奮闘をなさざるべからず。これけだし人道本来の目的を達せんとする人類社会自然の趨勢なればなり。然り而して、今我が国の地理地勢を按じて、その天恵のいかんを察するに、位置は極東に在りて、地形は南北に長く、気候は温帯に属し、国土は四囲環海にして、良港良湾に富み、かつ人民の繁殖は極めて、盛んなり。故に農業林業産業に適するは、いうまでもなく、鉱物の利源またあえて少なしとせず、もしそれ製造工業に至りては、石灰の産出豊富なると、水力の便とはあいまちて、斯業経営に多大の便宜あり、また商業に至りては、僅かに一葦帯水を隔てゝ、彼岸に清、韓、満州の大陸あり、これすなわちその天恵の厚くして富源の大なる、本邦のごときは世界いまだかってその比を見ざる所なり。然るに我が国がこの天恵の大をもってして、今なお致富の域に達せざるものは何ぞや。けだし治者の富国策その富を得ざるによるべしといえども、しかも従来本邦の実業なるもの事業を経営するに当り、一定の方針を確立して牢固たる確信あるもの少なく、小成に安んじて、大成を期するもの乏しく、あるいは敗れあるいは興り、その状あたかも計画なくして大戦に臨むがごとく、これ本邦の生産業が今日に至るまで大なる発展をなさざる所以なり。かくのごとくんば、たとい多大の天恵ありといえども、将来における本邦実業の世界的発達を望むは、木によりて魚をもとむるがごとし。故に方今、我が国民にしていやしくも実業に従事するもの、よろしく目を大局に注ぎ、遺憾なく平和の戦闘準備を整え、この大敵に当りて必勝を制するの覚悟なかるべからず、これにおいてか実業の経営者たるものはその個人たると会社たるとを論ぜず、報徳の道を修養しよく本主体用の主旨を悟了しその精神を応用し満身の力を事業に集中して正々堂々この強大なる競争に当らざるべからず。およそ天下の事かくのごとくにして成らざるもの一としてあることなし。いわんや天恵の厚き我が国においておや。すなわちその結果小にしては、自家の繁栄、大にしては国力の増進、延(ひ)いて人類社会の幸福を進め、未来における全世界をして、財貨充満して泉のごとくならしめん。果して然らば人類何を苦んで利欲のため訴訟争闘を事とするの必要あらんや。例えば、水は人生一日も欠くべからざる物なれども、地球上至るところ、容易にこれを得るにより誰人もこれを得て徳とするもの、またこれを与えて恩とするもの無きがごとし。財貨もまた然り。この時に至り人類社会はいわゆる天国または極楽浄土、ないし黄金世界の理想的境域に達せしめ、もって人道本来の目的を円満に発展成就せしむること、あえて望みがたきにあらざるべし。時勢に感じていささか蕪言(乱雑で整っていない言葉)を陳し、大方識者の叱正を乞うとしか云う。 いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし
2024.04.25
鈴木藤三郎報徳日めくり24日糖業は糖業の力をもって開くという大道であると信じますこの大道に基づいて誠心誠意国家の一大事業とし、上は皇恩に報いたてまつり、あわせて先師二宮神霊の徳に報いようとするほか他にありません。凡俗の社会の通常の願いとは自ら守るべき基準を異にします。私は明治9年2月(23歳)始めて二宮尊徳翁の報徳の大道を拝聴しました。これより熱心に先輩について道を切実に求めました。そして翌明治10年1月1日をもって紀元として家事万端、報徳の道に準じて規則を立て、自ら行いを改め、そして先師の開国法則、すなわち荒地は荒地の力をもって開くとこの教えを法則とし、私の家業に応用し、実行する事5か年。ここにおいて大いに得るところがありました。まさしくこの法は一切の事業に応用できる大道であることを信じました。これから精糖業に志を立て、研究する事、数年。ようやく透明な氷砂糖を創造して営業しました。そして明治21年東京に転じ、更に精製糖を研究してまた一個の営業となすことができました。そして去る明治28年営業を挙げて株式会社としました。最初30万円から60万円とし、また本年更に200万円となりました。将来ますます順調に進捗して数百万千万円となるべき理由があります。これはすなわち糖業は糖業の力をもって開くという大道であると信じます。ですから天を仰ぎ地を伏しても恥じない自信を持っています。私は以前数金の資本で、今日ますます増加しても、全部この事業に投資するのは当然の道であって、将来ますますこの大道に基づいて誠心誠意国家の一大事業とし、上は皇恩に報いたてまつり、あわせて先師二宮神霊の徳に報いようとするほか他にありません。これによって先生が憶測されたような何万何十万何百万というような範囲の資産を築く凡俗の社会の通常の願いとは自ら守るべき基準を異にします。 (「遠州『森町報徳社』と報徳を伝道・実行した斯民」38頁) ☆鈴木藤三郎より岡田良一郎宛の書簡(意訳byGAIA 原文については、「地方史静岡」第7巻62~66頁を参照されたい。)拝啓 ますますご清適と大賀奉ります。先日来ご多忙中を顧みず、あえて再三東京に出られることを請求しましたのは止むを得ない事情がありましたが、あなた様が東京に出ることができないと再び申されました。最後に本月(明治32年10月)5日発のお手紙で、かねてから申し上げていた件について氷が解けるように解決するようにとご説示をいただきましたが、さる7日重役会の際に出席した諸氏に先日来あなた様へ往復した手紙及び最後の手紙まで一同に見せたところ、森氏を始め外の重役諸氏も例の件は氷解したことはもとより、お手紙のとおり相違がない旨名言しました。この上は私においてもあえて詮索する必要もないので、お手紙の余白に各重役捺印を得て、ひとまずこの事件は無事終局となりましたのでご安心ください。(略)以上のように地所問題で道理と利益を度外視するような状況となったのは、ひとえに情実にこだわり、是非を明らかに分かつことができなかったのは、会社のために痛嘆せざるを得ない。それだけでなくかえって野卑な管の穴から見るような憶測で、私が選んだ土地がいいと主張するのは私利を謀るものであるとし、また工事を急ぐのも当を得ないと非難して、公然とこのことを私に詰め寄るにあたっては言語同断、沙汰の限りと言わないわけにいかない。ここにおいてやむを得ず職責上、是非を論ずる必要に迫られて各重役にあてて私が土地を選んだ理由書並びに比較利害得失表を送って、あわせて数回書面で尊意をうかがった理由である。およそ人は自分の心で他人をなぞえる。燕雀(えんじゃく)何ぞ鴻鵠(こうこく)の心を知ろうか。それようやく利害得失を悟るときは光陰は人を待たず。いわゆる(六日の菖蒲十日の菊)そもそも私が糖業の前途は将来に多くの希望があり、国家の一大事業としよう、自他の公益を計ろうと望んだ主な次第はかって日本糖業論に愚意をあらかた記したところである。いかんせん事業は活物ではない、活物はただ人にあるだけである。この人というのは会社にあっては重役である、それはそのとおりであるが、この人が道理にかなっているかどうか明らかではない。玉石が交わり、条理が立たず。いたずらに情実にこだわり、凡情に流れ、ややもすれば事業の進行を滞らせるものであれば、どうして前述の抱負を実現することを望めようか。トウトウとした天下、この種の会社皆同じである。浮ついた薄っぺらな者たちの集合体で甲は乙を疑い、乙は丙を疑いいたずらに目の前の小利を争って識見全体に及ばないものは枚挙にいとまがない。孫子曰く、三軍の弊狐疑に生ずと。そのとおりである。己を知らず人を知らない近視眼的な俗輩と大事を共にすること私が快くしない所であって、更に理由を株主に述べて潔く退くことを決心しようとしたが、最後の尊諭によってこれまで述べてきたように全く氷解し終局を結びました。私もまたあえて憤りを遷さず事柄の理がひとたび判明するときには、既往の繰り言も詮のないものであるから、更に工事に着手して一日も早く落成を期することを任とし、ますます勇奮尽力しようと思います。幸いに尊台の心配なさらないように願います。まずは長々しく雑言はなはだ恐縮の至りです。もとより私が学問がなく、誠意を尽くすことができませんが、私のまごころのあるところを洞察くだされたくお願い申し上げます。 明治32年10月17日 鈴木藤三郎再拝 追伸昔、私が氷砂糖事業を東京に移そうと計画して先生に可否を問うたことがありました。一 先生は言われました。「お前の営業は現在1年の利益はどのくらいあるのか。」 「純益1,000円です。」と答えました。 先生は言われました。「それならお前が一生に何万円の財産を望むのか明らかに答えよ」このとき私は笑って答えませんでした。一 その後、東京に転地して3年後、先生が来訪されました。お酒を呈しました席上で先生は言われました。「先年お前が転地する際には前途を憂慮したが、今日ますます盛んであるのは幸いだ。そこでお前は何十万円の資産が欲しいのか。」(私は笑って答えませんでした。)先生はまた言われました。「しからば何百万円かのう?」一 明治28年営業を挙げて株式会社としました。先生は来臨されました。食事の際に先生はひとり言をされました。「お前のこれまでの経歴から前途を想像すれば10年後は砂糖王、その10年後には華族だのう、ワッハッハ」と。 以上は先生が以前戯れに私の希望を想像されたものですが、その推測はお考えの一端を伺うに足ります。しかし私はこれまで一度も前途の希望を答えた事がないのは他でもありません。ただ先生の私を見ることが、私の志と異なっているからです。しかし私もすでに不惑(40歳)を越えました。ですから今回ついでながら、いささか前途に期する抱負と希望をここに申し述べます。 そもそも私は明治9年2月(23歳)始めて二宮尊徳翁の報徳の大道を拝聴しました。これより熱心に先輩について道を切実に求めました。そして翌明治10年1月1日をもって紀元として家事万端、報徳の道に準じて規則を立て、自ら行いを改め、そして先師の開国法則、すなわち荒地は荒地の力をもって開くとこの教えを法則とし、私の家業に応用し、実行する事5か年。ここにおいて大いに得るところがありました。まさしくこの法は一切の事業に応用できる大道であることを信じました。これから精糖業に志を立て、研究する事、数年。ようやく透明な氷砂糖を創造して営業しました。そして明治21年東京に転じ、更に精製糖を研究してまた一個の営業となすことができました。そして去る明治28年営業を挙げて株式会社としました。最初30万円から60万円とし、また本年更に200万円となりました。将来ますます順調に進捗して数百万千万円となるべき理由があります。これはすなわち糖業は糖業の力をもって開くという大道であると信じます。ですから天を仰ぎ地を伏しても恥じない自信を持っています。私は以前数金の資本で、今日ますます増加しても、全部この事業に投資するのは当然の道であって、将来ますますこの大道に基づいて誠心誠意国家の一大事業とし、上は皇恩に報いたてまつり、あわせて先師二宮神霊の徳に報いようとするほか他にありません。これによって先生が憶測されたような何万何十万何百万というような範囲の資産を築く凡俗の社会の通常の願いとは自ら守るべき基準を異にします。願わくは私の心事をご了解されんことを。しかし生者は必ず死に、壮者は必ず老いるのが自然の定数ですから、ここに年令において範囲がなければなりません。すなわち私は以後20年間、享年65歳まで以上の方針をもって進行し、○○事業の大成を期しこの時になって一節を結ぶ予定です。この年に成否を問わず私は実業界の終わりとします。一 この時にどれほどの資産があったとしても多少を論じないでこれを3分し、その2分を子孫に譲りその1分を以て自分は出家し一半で一寺院を建立しなお一半は永代寺院の基本財産に備え政府に管理を頼んで、この利子で寺院の経費とし、自らここに住んで以後命のある限りは自費自弁、報徳のため放言することを世を終わるまでの希望とします。もし幸いにして資産が豊富なときは、寺院の建築は一切鉄骨とし、屋根は鋼板張りとし、門塀は石造で万世不朽のものとします。 寺号は放言寺 自ら称す放言居士謹んで白(もう)す明治32年10月17日 机下私の拙い絵を3枚添えて貴覧に申し上げます。御一笑くだされますように。
2024.04.24
鈴木藤三郎報徳日めくり23日およそ人は自己の心をもって他人を擬すと。燕雀いずくん鴻鵠の心を知らんや。 (「遠州『森町報徳社』と報徳を伝道・実行した斯民」38頁) ☆鈴木藤三郎より岡田良一郎宛の書簡本文(読みやすくするため漢字やカタカナをひらがなにするなどした。原文については、「地方史静岡」第7巻62~66頁を参照されたい。)拝啓 ますます御清適大賀奉り候 陳ぶれば過般中はご多忙も顧みず敢えて再三御出京を請求申し上げ候義は事情止むを得ざるの次第にござ候ところ、尊台ご多忙にして御出京成りがたき旨再応申し上げ越し、最後に本月5日発御書簡をもって兼ねて申し上げたる件につき、詳細氷訳の事由御説示に相成り候あいだ、この上は拙者においても敢えて詮索するの必要もこれ無きにつき、尊翰余白に各重役の捺印を得て、ひとまずこの事件は無事終局に相成り候あいだ憚りながら御放慮くださるべく候。本月7日重役会において社長より亀高村地所買約成立の報告あり。これは兼ねて拙子申し上げたる値段則ち2万5千円かつて決議の通り正統の買収にござ候。而して工事着手の相談致し候ところ、先頃中は拙者の工事急速を主張せし大いに非謗したる諸氏にして、かえって今日は一日も急速に落成を期さんため、相当の懸賞説を唱うる奇観を現したるは漸くにして急速の利益たる理由を悟了せられたるなれども、いわゆる(十日の菊)の感なきあたわずと雖も、とにかく会社のため賀すべき次第と存じ奉り候。 却説(話かわって)繰事ながら一条申上げ候。(以下 略)およそ人は自己の心をもって他人を擬すと。燕雀いずくん鴻鵠の心を知らんや。それ漸くにして利害損失を悟了するときは、光陰は人を待たず。いわゆる(六日の菖蒲十日の菊)(むいかのあやめとおかのきく:時機に遅れて役に立たないこと。5月5日の端午の節句に用いる菖蒲は6日では間に合わず、9月9日の重陽の節句に用いる菊は10日ではもう遅い。)それ我れ糖業の前途多望にして国家の一大事業たらしめ自他の公益を謀らんと欲する主旨はかつて日本糖業論に愚意を概述せしもいかんせん。事業は活物にあらず。活物はただ人にあるのみ。この人たるもの会社に有りては重役なり。それ然り。然りと雖もこの人にして理非不明・玉石混交・条理不立いたずらに情実拘泥、凡情に流れヤヤもすれば事業の進行を渋滞ならしむるものとせば、何をもって前途の抱負得て望むべけんや。滔々たる天下この種の会社皆然り。浮薄の徒、集合体にして甲は乙を疑い、乙は丙を狐疑し、いたずらに眼前の小利を争い、識見全体に及ばざるもの枚挙にイトマあらず。孫子曰く、三軍の弊狐疑に生ずと。むべなるかな。己を知らず人を知らざる近視的俗輩と大事を共にする事、愚拙の快とせざる処なるをもって、更に理由を株主に開陳して潔く決心する処あらんとせしも、最後の尊翰によりて首述のごとく全く氷解の実終局を結びたるをもって愚拙もまた氷解し、敢て憤りを遷さず。事理一たび判明するときは既往の繰事詮無きものなれば、更に工事に着手して一日も速やかに落成を期するをもって任とし、倍々勇奮尽力致さんとす。幸いに尊台御放慮あらん事を希う。先は長々しく雑言恐縮の至りに候。固より拙者の不文にして誠意を尽くすあたわずと雖も、希(こうねがわ)くは微衷のある処、御洞察下されたく候 頓首 明治32年10月17日 鈴木藤三郎 再拝 岡田良一郎様 貴下(手紙本文意訳)拝啓 ますますご清適と大賀奉ります。先日来ご多忙中を顧みず、あえて再三東京に出られることを請求しましたのは止むを得ない事情がありましたが、あなた様が東京に出ることができないと再び申されました。最後に本月(明治32年10月)5日発のお手紙で、かねてから申し上げていた件について氷が解けるように解決するようにとご説示をいただきましたが、さる7日重役会の際に出席した諸氏に先日来あなた様へ往復した手紙及び最後の手紙まで一同に見せたところ、森氏を始め外の重役諸氏も例の件は氷解したことはもとより、お手紙のとおり相違がない旨名言しました。この上は私においてもあえて詮索する必要もないので、お手紙の余白に各重役捺印を得て、ひとまずこの事件は無事終局となりましたのでご安心ください。 本月7日重役会において社長から亀高村の地所の売買契約書が成立したとの報告がありました。これはかねて私が申し上げた値段すなわち25,000円。かつて決議の適正の買収であり、工事着手の相談をしました。先頃までは私が工事を急いで行うべきだという主張をおおいに非難した諸氏もかえって今日は一日でもすぐにでも落成させるために懸賞を出そうと唱える奇観となったのは、ようやく急速な工場新設が利益であることが了解されたようだが、(10日の菊)時期を失する感がないわけではないが、会社のために喜んでいる次第です。さて繰り言になりますが、一件について申し上げます。最初私の案の方針で進行するときは現在既に工事が半ばを過ぎ本年中に落成できたでしょう。しかし9月9日の会議で突然神谷氏から甲地の案を提出されました。当時の重役諸氏は実地調査もせず、また工事の難易も考察しないで、みだりに値段が安い地と誤認して異口同音に是認しました。しかし私はもとからこの地があることを知っていないわけでなかったのが現在水田で工事が大変難しいこと、その上これを敷地にするのに数日月を要するだけでなく、莫大な費用がかかるため、かえって高い価格の地となってしまい落成の期日が数月を遅延することから生ずるところの損失は数万円と分かったため、あえてこれを進めなかった。たとえば機械と鉄材のようなもので、鉄は機械に比べて廉価ではあるが、工作を加えなければ用をなさない。また田地は価格は安いが土木工事を加えなければ敷地の用をなさない。ましてやその価格が安くなければなおさらである。しかし会議でこれをよいとした以上はやむを得ない。そしてこの買収を神谷氏に一任しようとするに際して、私は以前この地所の売り主が唱えるところが、25,000円であればこの金額を極度とすることを提案してこれに決定した。なお私は言葉をついで、もし売り主がこれより高値を唱えるときは、神谷氏はすぐに手を引くように。そうすれば必ず私からさきほど決議した金額以内で買収する胸算用があると言った。神谷氏以外の重役もこれを承諾した。しかるに9月12日に神谷氏からの通知で昨11日に右地所を28,000円で買収の契約の着手金として金2,000円を渡したと言う。これはあの時、私がこの買収の契約が先日の決議に矛盾するとして承諾を拒んだ理由でその不当なことを社長に迫った。それと同時に、一方持ち主に向かっては更に25,000円で買い受けるよう会社に相談するからと2,3日猶予するようにさせた。これは当該地所はまだ正当な売約がない証拠とし、更に25,000円で私から買収の手続きを行うよう決議をおこした。売り主に交渉した結果、神谷氏の方から破談を申し込んで、すぐに25,000円で買収すると約束した結果、これがまた売り主方の疑惑を生じて数日をいたずらに費やした。まさしくこれは前非を悔いないでかえって正を憾むという事情から生じた事は争うことができない。しかし私は、結局会社はこの決議の通り25,000円ですぐに買収すれば足りるとし、あえて是非を論じることをしなかった。むしろ最後には神谷氏に恥をかかせないようにすることに配慮した。さらに社長が大いに尽力の労を取られたと感謝し、10月4日になってようやく決議の価格と違わずに間違いなく正当の売買契約を締結した。もし私が最初に提出した案で決議していれば、8月7日総会後、ただちに進行し、地価は高値でも実際にはその実現は金に換算するときはかえって安く、さらに年賦で償却するに便利であって会社の計算上利益であった。加えて工事もすぐにできることから来期にはこの営業から得た利益等を計算する時は地価ぐらいは一期をまたずに消却することは計算上明白である。如何にせん、これを悟る者なく、かえって間違っていると認める。なんという嘆かわしいことではありませんか。また第二の地であっても前に述べたように神谷氏が決議を重んじて先方の値段が25,000円より高価であるときは、すぐに去って私に任せればその時すぐに買収することが容易であったから今日まで空しく日時を空費することもなかった。これを実行できなかったのは、これもまた第二の失策と言わなくて何と言おうか。以上のように地所問題で道理と利益を度外視するような状況となったのは、ひとえに情実にこだわり、是非を明らかに分かつことができなかったのは、会社のために痛嘆せざるを得ない。それだけでなくかえって野卑な管の穴から見るような憶測で、私が選んだ土地がいいと主張するのは私利を謀るものであるとし、また工事を急ぐのも当を得ないと非難して、公然とこのことを私に詰め寄るにあたっては言語同断、沙汰の限りと言わないわけにいかない。ここにおいてやむを得ず職責上、是非を論ずる必要に迫られて各重役にあてて私が土地を選んだ理由書並びに比較利害得失表を送って、あわせて数回書面で尊意をうかがった理由である。およそ人は自分の心で他人をなぞえます。「燕雀(えんじゃく)何ぞ鴻鵠(こうこく)の心を知ろうか。」それようやく利害得失を悟るときは、「光陰は人を待たず」。いわゆる「六日の菖蒲十日の菊」そもそも私が糖業の前途は将来に多くの希望があり、国家の一大事業としよう、自他の公益を計ろうと望んだ主な次第はかつて日本糖業論に愚意をあらかた記したところです。いかんせん事業は活物ではない、活物はただ人にあるだけです。この人というのは会社にあっては重役です、それはそのとおりですが、この人が道理にかなっているかどうかは明らかではない。玉石が交わり、条理が立たず。いたずらに情実にこだわり、凡情に流れ、ややもすれば事業の進行を滞らせるものであれば、どうして前述の抱負を実現することを望めましょうか。トウトウとした天下、この種の会社皆同じです。浮ついた薄っぺらな者たちの集合体で、甲は乙を疑い、乙は丙を疑い、いたずらに目の前の小利を争って、識見全体に及ばないものは枚挙にいとまがありません。孫子曰く、三軍の弊、狐疑に生ずと。そのとおりです。己を知らず人を知らない近視眼的な俗輩と大事を共にすることは私が快くしない所であって、更に理由を株主に述べて潔く退くことを決心しようとしましたが、最後のお手紙によってこれまで述べてきたように全く氷解し、終局を結びました。私もまたあえて憤りを遷さず、事柄の理がひとたび判明するときには、既往の繰り言も詮のないものですから、更に工事に着手して、一日も早く落成を期することを任とし、ますます勇奮尽力しようと思います。幸いに尊台がご心配なさらないように願うところです。まずは長々しく雑言、はなはだ恐縮の至りです。もとより私が学問がなく、誠意を尽くすことができませんが、私のまごころのあるところをご洞察くだされたくお願い申し上げます。 明治32年10月17日 鈴木藤三郎再拝
2024.04.23
鈴木藤三郎報徳日めくり22日世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いん 「私が事業を創始するについては、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の御歌に、 仮の身をもとの主に貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞというのがある。これは翁の根本主義を説明したもので、翁則ち神という大抱負を示したものである。我々の到底及ぶ所ではない。また翁のお歌に、 世の中に人の捨てざるなきものを 拾ひ集めて民に与へんというのがある。ある人は「捨てざるなきもの」というのが偉い。「捨てたるものを拾ふ」といえば、何人もするが、「捨てざるなきものを拾ふ」というのは、なかなかできがたいものであると言ったものがある。私はこれに倣うて、 世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いんと詠んだことがある。翁は「なきもの」といわれ、あらゆる事物に通じた意味を示されてあるが、私は「業」といい、事業だけの狭い意味にしたのである。世人の捨てない事業を開拓し改良して、些少なりとも国家に益したいという微意を現したものである。したがっていったん見込みをつけた事業に向かっては、40万円でも50万円でも必要に応じて投下することを厭わない。いやしくも国家のためになるべき事業であれば、資産はもちろん、借金してまでもやる覚悟である。その代わり、この事業で何のくらいの利益を得なければならぬとか、損をしてはならぬなどということを考えない。損得はまったくこれを別にし、事業にかかっては鉄砲玉のごとく邁進する。人は事業を計画するに、利益の割合ということを目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かぬ。事業が成るか否やというのを主眼としているのである。
2024.04.22
鈴木藤三郎報徳日めくり21日泰西人の事を為す猛志あり、堅行あり。博大なる精力を以て、絶えず力行し、黽勉(びんべん)し、一歩は一歩より一尺は一尺より、やがては山倒海立の偉業を企つの概がある。あたかも我が二宮尊徳翁の精神を学んで、その通りをするのではないかと思われるほどである。 「二宮翁と諸家」(留岡幸助編)から◎二宮先生と余が欧米観 その3 鈴木藤三郎▲ドイツ観 ドイツにおいて余はハノーバー府という都会を去ること約2里ばかりの処にある「ケールチング」工場を見舞うた。ここは「ケールチング」工場の職工を以て、実に500有余戸の一村落を形成しておる。ケールチングは当時64歳の矍鑠(かくしゃく)たる老人であったが、この翁の一生も優に立志篇中の材料を供給するに足るので、聞くところに由ると、彼は25歳まで鋳鉄職工であったが、その年「ケールチング」式暖房室機を発明して、財産を作り、遂に工場を起こして、今日では世界的にその工業を拡張し、万事よく整頓してほとんど間断する処を見出さないほどである。余はハノーバー府の旅館より通って1週間ばかりこの工場を視察したのであったが、ある日彼れ余に問うて曰く『君は欧米各国を歴遊して来たられたから、定めし見聞が広いであろう、余不幸未だ米国を見ず、我が工場また終(つい)に固陋の弊あるを免れざらん。乞う我が為めに我が工場の欠所を語れ』と。『余曰くなし、されどもし強いて言わば、余にただ一の疑問あり、貴場の盛大完備せる。これを英米の工場と比較して毫も遜色なし。ただ貴場の設計室極めて壮観を呈し、かつ聞く所によれば技師は31名の多数に上れり。けだし英米においてかつて見ざるの現象たり、知らずこれ何の故ぞ』と。彼拍手して曰く『善いかな言や、君の疑問まことに理りあり。されど我が工場に有給の技師は、たった一人である。その他は皆な工科大学卒業生が、実習の為めに来場せるものであって、彼らは自費自弁であるいは3年あるいは5年、実地の練習をここに試み、然る後他の工場より招聘し来たるを待っておるので、設計室のごときも余が国家に対する義務なりとして、多少装置を施せる次第である』と。総じてドイツにおいては工学士が大学卒業後、4,5年実地練習を試み、その上なお有給の技手となってから、特別なる功績あるにあらずんば容易に技師長となることが出来ないのである。即ち一人前の人物となるには、少なくとも大学卒業後10か年を要するので、余はケールチングが余に語る所、及びその実際の状態を見て、ドイツ工業の発展する所以、決して偶爾(ぐうじ)にあらざるを悟った。▲余の疑問 これを要するに、泰西人の事を為す猛志あり、堅行あり。博大なる精力を以て、絶えず力行し、黽勉(びんべん)し、一歩は一歩より一尺は一尺より、やがては山倒海立の偉業を企つの概がある。あたかも我が二宮尊徳翁の精神を学んで、その通りをするのではないかと思われるほどであるが、元より彼らが二宮翁の精神を学んだはずはない。然らば即ち彼らは如何なる精神を学んでここに至ったのであろうか。これ実に余が為めに大なる疑問である。 世の中は捨あじろ木の丈くらべ 夫是ともに長し短し 翁詠
2024.04.21
鈴木藤三郎報徳日めくり20日英国の万事はすべて二宮先生の小より大に及ぶ主義である。この主義を執って行くならば、日本の百事もまた敢えて英国を駕御し得ない理由はない。果然この一道の光明は、余を絶望の淵より救い上げた 「二宮翁と諸家」(留岡幸助編)から◎二宮先生と余が欧米観 その2 鈴木藤三郎▲英国観 米国においてほとんど絶望的の闇黒に蹴落とされた余は、英国において救い上げられて、ようやく一道の光明を仰ぎ見ることができた、と言ったばかりでは分からぬから、追々その理由を説くことにするが、さて余はリバプールからロンドンへ上って、まず奇異の感に打たれた。英国は米国と変わって家屋の多くは4,5階で、外見も所レンガも燻(くすぶ)っている。それはまだ良いが、世界第一の都会たるロンドンの市民が、ぐずぐずせるがごとき有様であるのには、むしろ一驚を喫せざるを得なかった。ところが英国市民の偉大な点は、実にその理論に潜んでいることを発見した。早い話が、家は燻っていても、内に入ると、グワンとしたもので、器物などは非常に良く行き届いている。いわば英国は正味の国で、単にそれが住宅の点において現れているのみならず、その産業を見ても、その工業を見ても、皆なその通りである。それから余はいささか考うる所があって、都会を去って、田舎に行かんと思い立ち、通弁を雇って北部スコットランドへ行き、そこに3か月ほど滞在した。その中に余は英国の偉大なる所以を事実によって教えられた。工業において英国は米国と同じくやはり大工場的で経営しているのであるが、ただ英国は二宮先生のいわゆる小より大に及んだものである。これを具体的にいうと、英国における多くの事業は初め一人が小さい規模で起して、それが次ぎの代には、父子合名会社となり、漸次大きくなって合資会社となり終には株式会社となったもので、たいてい30年40年と歳月を経たものである。建築もまたその通りで、一として歴史が残っていないものはない。その歴史が実に英国人の誇りで、互いに祖先の苦心経営を以て自家の光栄とするものである。▲「アームススツロング」会社 そのうちでもニューカッスルの「アームススツロング」会社は、最も明白にこの事実を説明している。該会社の壮大なることは、今更ら言わず。余は僅かに2日を該会社の視察に費やしたのみであったが、一つ不思議に思ったことは、事務所とも思ぼしき最も重要なる建物の傍らに、幅9間長さ約18間ばかりの古レンガ造りの工場があって、ここに鍛工細工の古びた道具が安置してある。余りに不思議に思って案内者に、なぜかくのごとき古びた家がこんなところに置いてあるのであるかと尋ねると、それは該会社に最も大切な所であると云う。その訳はコウである。昔アームススツロングが幼少の時、7ポンドの大砲を発明し、その採用を時の英国海軍省へ出願した。ところが海軍省ではオモチャ鉄砲なりとして試験もせずに却下してしまったけれども、アームススツロングは別に確信するところがあったから、重ねてこれを出願して、試験を受けた結果、その砲力はすこぶる偉大であることが分明し、遂に海軍御用を仰せ付けられ、それから、漸次工場を広めて、終に今日の隆運を見るに至った。この古びた家こそ実に彼が7ポンドの大砲を鋳造したところなれと云うので、今なお紀念の為めかく保存せられてあるのである。このほかかくのごとき事例は数多くあるが、余り長くなるから止めに致し、一つ農業において余の実見した事を語ろう。▲牧草青々 農業は、余の専門以外であるが、多少見聞したこともある。余がスコットランドを巡遊したのは、時あたかも初冬に際し、汽車に搭じて行く行く、丘陵起伏せる処に、一望の青色書けるがごとく、牛羊自在に或いは立ち或いは臥するを見た。余思へらく英国商工業の隆盛けだし偶然にあらず。見渡す処の原野丘陵、すべてこれ牧草にあらざるはなし、食すでに足る、国正に富まざるを得ない。すなわちこれを傍らの一英紳士に語ると、紳士答えて言うには、君まことに妙所を穿ち得た。けれども君はいまだ50年前においてこの原野が、ただ雑草茫々として荊棘(けいきょく)生い茂り、狐兎昼夜を分かたず跳躍したる状況を知るまい。それ幸いにして今日のごとくなる所以は、実に我ら先祖の丹精の結果であって、決して天然が恵与してくれたものばかりではないと。然らば即ち英国の牧草もまた実に歴史的に発達したものである。その農業の進歩せる元より怪しむに足りないではないか。しかしてその工業や農業の製産物が一にロンドンに輻輳せらるるのである。斯く観察しきたると、英京ロンドンの隆盛が天下に冠たる所以も、なるほどと合点せらるる訳で、初め米国を見て、とても日本などでは及びも付かないと失望した余も、英国の遣り方を見ては再び希望の蘇(よみがえ)った次第である。即ち英国の万事はすべて二宮先生の小より大に及ぶ主義である。この主義を執って行くならば、日本の百事もまた敢えて英国を駕御し得ない理由はない。果然この一道の光明は、余を絶望の淵より救い上げた所のものであった。▲英米の総合的観察 ところが、余が今までの英米観は、なお甚だ狭隘であった。これは英と別々に観察すればこそ、いろいろの迷いも生ずるなれ。試みにこれを総合して観察した時にはドーダ。英国がその漸進主義、その積小成大主義を以て蘊蓄した精力を、米国が 大気豪なる方針を以て発散しているものと併観すれば、何にも驚くべきほどの事もないではないか。英国は人種的に自ずから米国の基礎を作っている。その人種的性質は即ち小を積んで大を為すので、二宮翁の言を籍(か)って云うと、本を尊(たっと)んでこれを進化さすのである。これ実に天地の化育を賛するの途にして、併せてまた永遠に富強を致す方法である。
2024.04.20
鈴木藤三郎報徳日めくり19日幼少より尊徳翁の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思うていたことは、泰西の偉大なる人物と、吾が尊徳翁とはドンナ差があるであろうか。 「二宮翁と諸家」(留岡幸助編)から◎二宮先生と余が欧米観 鈴木藤三郎▲その目的 余は至って単純な目的を以て、即ち泰西製糖事業はドウいうふうに発展しておるかという極く単純な目的を以て洋行したものである。ただ幼少より尊徳翁の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思うていたことは、泰西の偉大なる人物と、吾が尊徳翁とはドンナ差があるであろうかということであった。未だ以て精密ということは出来ないが、兎も角余の管見する所に由ると、欧米において貧困より身を起し、終に偉大なる人物となった人の遣り方が、あたかも二宮翁と同一の思想を呼吸したものではなかろうとかと、コウいう感想を抱くこともしばしばあるので、余の欧米観もまた従って道徳を主として経済を説かれた二宮翁の流儀に傾かざるを得ないのである。▲その行程 これを詳しくいうと長くなるから、ザツということにするが、余は明治29年7月に横浜を出帆し、それからハワイを経由して米国に渡り、米国から英国、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダとの数か国を経めぐりて、帰りにはシカゴ、南洋、ジャバ、サイゴン、香港、福州、台湾等を順次歴訪して30年の5月に無事横浜に着した。▲米国観 米国に行って種々の工業を見たが、イヤお話にも杭にも懸からない、ただ驚嘆のみであった。至る所の工場は壮大を極め、その文明・器械を以て、その進取の猛志を以て、その偉大なる財力を以て、日に新しく計画し、組織して、3年以前のものは惜しげもなく打ち壊すという有様。なかなか以て想像どころのものではない。家屋は普通10階、高いのが20階30階、巍然(ぎぜん)として天空にそびえている。世界的に田舎漢たる余の目には、ただ驚嘆であった。これにおいて余は一の迷いを抱いた。かく物質的に偉大なる文明の現象を日本においても実現さすことができようか、かつ米国がすでにこの通りであるからには、その本国たる、英国、世界の富の中心ともいわるる英国においては果たしてドンナであろうかと。コウいう考えから、余の迷いは失望となり、心の中に一種寂しい愛国的感情を以て、余は米国を去って、英国に移った。
2024.04.19
鈴木藤三郎報徳日めくり18日研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。 (「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」14~15頁) 「実業の日本」明治40年1月1日号から ○神のごとき二宮先生 この書を読んで、私は豁然(かつぜん)として悟った。今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の甚だ大切なことを知ることができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時は僅かに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などを漁(あさ)り読み、23歳の時には夜学に通うて勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。「斯民」第1編第9号(明治39年12月23日)「荒地開発主義の実行」○私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。鈴木藤三郎は、報徳を知って研究すればするほど、二宮尊徳先生を人間以上の、神のように尊信するようになった。そして報徳を説く先生方に「二宮先生を古人に比べると、何人に当たると思われますか」と聞いてまわって、その人の意識のレベルと二宮尊徳の理解の程度をはかった。「鄭の子産にあたろうか」と答えた渡邊先生の回答には納得できなかった。この問答は、相馬藩の草野正辰が「古人に比すれば、太公望**にあたろう」と言ったことを踏まえている。相馬藩士は今の世に周を起した文王・武王を補佐した国師ともいうべき太公望にたとえたことを、草野老人も呆けたかと嘲笑した。しかし藤三郎はおそらくは二宮先生は太公望以上と信じたのである。神人と信じた。「願文」にある、「誠恐誠惶謹で二宮尊徳先生の神霊に白(もう)す」とは、まことに心からの表白であった。*子産(しさん、 - 紀元前522年)は、中国春秋時代の鄭に仕えた政治家。姓は姫、氏は国、諱は僑、字は子産。「公孫僑」とも呼ばれる。祖父は鄭の穆公、父は子国(公子発)、子は国参(子思)。弱小国の鄭を安定させる善政を行い、中国史上初の成文法を定めたとされる。**太公望 呂 尚(りょ しょう、Lü Shang)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師。丁公と邑姜の父、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。諡は太公。斉太公・姜太公の名でも呼ばれる。小竹史記では、諡を太公、名を望、字を尚としている。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。『史記』斉太公世家では、東シナ海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。周に仕える以前は殷の帝辛(紂王)に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌(後の文王)のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として西伯昌の子の姫発(後の武王)を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。営丘に赴任後、呂尚は隣接する萊の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河・穆陵・無棣に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えたという。呂尚が周の文王に仕えた経緯については、『史記』に逸話が紹介されている。文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 1]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、「太公望」と号した。
2024.04.18
17日報徳の教義は洋の東西を論ぜず人種宗教の如何を問はず古往今来幾千万歳を経るも凡そ世界に生存する人類に於て貴賎貧富男女老幼の別なく允に克く遵守せざる可からざる要道なり報徳の教えの内容は、洋の東西を論ぜず、人種や宗教を問わず、昔から今にいたるまで幾千万年を経ても、およそ世界に生存する人類において貴賎や貧富、男女や老幼の別なく、まことによく遵守しなければならない大切な教えである。 「報徳物語」(井口丑次著)第2編から 願文(がんもん)(原文はカタカナ、旧かな遣い)報徳社徒不肖藤三郎誠恐誠惶(せいきょうせいこう)謹(つつしん)で二宮尊徳先生の神霊に白(もう)す恭(うやうやし)く惟(おもんみ)れば先生畢生(ひっせい)唱道し給へる報徳の教義は洋の東西を論ぜず人種宗教の如何を問はず古往今来(こおうこんらい)幾千万歳を経るも凡そ世界に生存する人類に於て貴賎貧富男女老幼の別なく允(まこと)に克(よ)く遵守せざる可(べ)からざる要道にして若し之れ無くば人道廃頽(はいたい)して民衆安息すること能(あた)はざるなり先生の世に在(いま)すや憂国の至誠外に溢れ熱血の注ぐところ感奮興起せざる者なく済世恤民(さいせいじゅつみん)の良法諸州に亙(わた)って其効実に顕著なり而して其実践躬行(きゅうこう)の跡は歴々として先生の遺書に存し其書殆ど万巻を以て算す然りと雖も之を知る者多からず知らざれば行うこと能わず行わざれば世を済(すく)ひ民を理すること能はず是猶名玉を懐中に蔵するが如し豈(あに)痛惜せざるべけむや是を以て令孫尊親先生の允許(いんきょ)を得て之を謄写せしめ全部九千巻を得たり之を二千五百冊と為し文庫一宇(う)に収め併せて之を神社に奉納し衆庶の熟覧研究に備ふ将来幸に有志の士之を繙(ひもと)き明晰なる識見を以て先生の教旨を解釈し熱誠以て之を世に拡張し忍耐以て実践して息(や)まざらば民風頓(とみ)に興り富強期して埃(ま)つべし仰ぎ冀(こいねがは)くば先生が神霊の冥護に依り人類必至の要道たる報徳教義の広く天下に普及し真正なる文明の実を見るを得んことを不肖藤三郎誠恐頓首(とんしゅ)頓首敬て白(もう)す明治四十二年五月三十日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝<現代語訳 by GAIA> 願 文 報徳社徒、不肖藤三郎は誠に恐れ謹んで二宮尊徳先生の神のみたまに申し上げます。うやうやしく思いめぐらしますに、先生が一生涯、先だって説かれた報徳の教えの内容は、洋の東西を論ぜず、人種や宗教を問わず、昔から今にいたるまで幾千万年を経ても、およそ世界に生存する人類において貴賎や貧富、男女や老幼の別なく、まことによく遵守しなければならない大切な教えであって、もしこれが無ければ人道はすたれ衰えて民衆は何のわずらいもなく休むということはできないものです。先生がこの世にいましたときは、国を憂える至誠が外にあふれ、熱血のそそぐところには感動し奮い起たない者はなく、世を救い民をあわれむ良法が多くの州にわたってその功績は実に顕著でした。そしてその実践し自ら実行してきた事績は明らかであって先生の遺された書に存在し、その書はほぼ1万巻を数えます。しかしこれを知る者は多くはありません。知らなければ行うことができません。行わなければ世を救い民を利することができません。これはたとえば名高い玉を懐のなかにしまっておくようなものです。どうしてひどく嘆き悲しまないでいられましょうか。そこで尊徳先生の孫にあたる尊親先生のお許しを得て、これを書き写して全巻9千巻とすることができました。これを2,500冊とし、文庫一棟に収め、あわせてこれを神社に奉納して、一般の人々の熟覧・研究に備える。将来幸いに志のある有識者がこれをひもといて明晰な識見で先生の教えの内容を解釈し、熱情のこもった誠意でこれを世に拡張し、忍耐強く実行してやまなければ、一般民衆の風俗もにわかにおこり、経済的に豊かで勢力が強くなることが期待できます。仰ぎこいねがわくば先生の神のみたまが護りたまうことによって人類が必ず至るべき大切な道である報徳の教えの内容が広く世界に普及し、真実で正しい文明が実現することができますように。愚かなる藤三郎、まことに恐れぬかずいて敬って申し上げます明治42年5月30日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝
2024.04.17
鈴木藤三郎報徳日めくり16日私一代にできなくとも、次の代、またはその次の代には何とかなる。結局は社会の利益となる。(略)事業から得た資本を投じて全く損失したとて、私の目的は事業のためには達せられたもので、少しも惜しいとは思わない。こういう覚悟で資本を投ずるのである。 実業之日本明治41年10月10日号より。 「私が事業を創始し又は拡張するについては報徳の教えを遵奉しているので拠る所がある。法とし道とするものがある。私は、それによって進んでいる。・・・ただ二宮先生の教えに従い、事業は事業の力をもって興り拡張されるものであるということをかたく信じているから、事業から得たもの分度以外はいくらでも事業にかけてしまう。・・・私は最初砂糖事業を経営し、今は醤油と製塩をやっている。種類は異なっているが、事業という点から見れば同じことである。私は事業家である。事業を営むのが私の本分である。事業に資本を投じて損失したとしても、事業で得たものであれば少しも惜しいとは思わぬ。私の仕事はたとい不成功に終ったとするも、その研究は後の人が承継してやってくれる。私一代にできなくとも、次の代、またはその次の代には何とかなる。結局は社会の利益となる。目的理論はいつしか徹底する機会がある。この機会がありさえすれば、事業から得た資本を投じて全く損失したとて、私の目的は事業のためには達せられたもので、少しも惜しいとは思わない。こういう覚悟で資本を投ずるのである。・・・これは誰にでもできる。賢愚を問わずやりさえすれば必ずできる。私がこの大道に従い事業をすることができたのは自分に工夫したのではなく、一に先師二宮先生の賜である。」
2024.04.16
鈴木藤三郎報徳日めくり15日人は事業を計画するに、利益の割合を目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かない。事業が成るか否やを主眼とする。 世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いん世人の捨てない事業を開拓し改良して、些少なりとも国家に益したいという微意を現したものである。 鈴木製塩所について、明治42年3月7日に「実業之日本」都倉義一氏らが視察し、「世界無比の機械製塩を視る記」を寄稿。 ○ 氏は何故大胆に40万円の試験費を投じたるか鈴木氏は投資の理由をこう説明する。「私が事業を創始するについては、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の御歌に、 仮の身をもとの主に貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞというのがある。これは翁の根本主義を説明したもので、翁則ち神という大抱負を示したものである。我々の到底及ぶ所ではない。また翁のお歌に、 世の中に人の捨てざるなきものを 拾ひ集めて民に与へんというのがある。ある人は「捨てざるなきもの」というのが偉い。「捨てたるものを拾ふ」といえば、何人もするが、「捨てざるなきものを拾ふ」というのは、なかなかできがたいものであると言ったものがある。私はこれに倣うて、 世の中の人の捨てざるなき業を 開きはじめて国に報いんと詠んだことがある。翁は「なきもの」といわれ、あらゆる事物に通じた意味を示されてあるが、私は「業」といい、事業だけの狭い意味にしたのである。世人の捨てない事業を開拓し改良して、些少なりとも国家に益したいという微意を現したものである。したがっていったん見込みをつけた事業に向かっては、40万円でも50万円でも必要に応じて投下することを厭わない。いやしくも国家のためになるべき事業であれば、資産はもちろん、借金してまでもやる覚悟である。その代わり、この事業で何のくらいの利益を得なければならぬとか、損をしてはならぬなどということを考えない。損得はまったくこれを別にし、事業にかかっては鉄砲玉のごとく邁進する。人は事業を計画するに、利益の割合ということを目安とする。私は、利益の有無を眼中に置かぬ。事業が成るか否やというのを主眼としているのである。」氏はこの決心をもって事業を経営している。40万円の試験費を投じたことは、決して故なきにあらぬ。しかし今や試験完成し、設備さえ加えれば、人の捨てざるなき製塩事業で国に報い得ることができるに至ったのである。僕はこれを事業家の信条として、世人にすすめたいと思う。
2024.04.15
鈴木藤三郎報徳日めくり12日「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草(たばこ)の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」 「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際におりながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」「斯民」第1編第9号(明治39年12月23日)「荒地開発主義の実行」 鈴木藤三郎 より 難解の疑問 その頃、私にはなお一つ深き疑いを抱いておる問題がありました。それは二宮先生の置書の文の上に、「知足」と大きく書きまして、その下へ「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草(たばこ)の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」とあります。この幅は私も一つ持っておりますが、この文章の意味が不明なため、私はほとんど3か年の間この問題を諸方へかつぎあるきました。先輩の説も多くは承服することができず、二宮先生の教えの中にも、これを解くたよりを見出すことが出来なかったのであります。然るにある時、前に申した井平村の松島氏の宅に、遠譲社の大会がありました。福山翁のまだ生存中のことであります。私もかねてこの目的がありますので、新村氏の供をしてそれへ参りました。この道の羅漢たちが集まられて4,5日の間続けて報徳の道を講説研究するのであります。私は折を見てこの問題を出しますと、各先生それぞれお説がありましたが、どうも服し難い、多数の説はこれは身代の分度を指したものである、他を顧みるな、人を羨むなという意味だというような説であります。それでは人間というものは実につまらぬものだといわなければなりませぬ。この時の座長は、平岩佐兵衛氏でありましたが、最後にこの人に尋ねますと、平岩氏曰く「これはそんな形のものでは無い、つまり人の才智に各々分が有ることを意味するのである」この説は初耳でありましたけれども、私はそれでもやはり心服することが出来なかったのであります。 積極分度 平岩氏は私がこの問題を解くがために既に3年かかっていると聞いて、「そんならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人もともにこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのであります。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際におりながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を允可(いんか)せられたのであります。
2024.04.12
鈴木藤三郎報徳日めくり11日投機などということは人間のなすべきことではない。天下の人がことごとくこれに従事したならば世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも報徳の道を聴いた者のなすべき事でないのは明らかです。「斯民」第1編第9号(明治39年12月23日)「荒地開発主義の実行」 鈴木藤三郎 より 論客とあだ名せらるる所以 元来私は物に熱しやすき性質でありますから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風でありますから、人によるといやがります。熱心なのは良いがああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名をもらっておったのであります。 腑に落ちざる投機につきての説諭 かって相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でありました。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのであります。ある時2日ばかりの大会をした後、なお4,5日新村氏に逗留しておられる間の事であります。森町の報徳社員のうち某々の2名が、報徳では厳禁なる投機に手を出して、正に破産しかかっておるので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでありましたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席におりますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の2人は心服したようでありますが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのであります。」渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。 投機業は商道にあらず 私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかであります、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。 困った求道者 渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしなしばこんな議論を先輩に対して致しましたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でありました。
2024.04.11
鈴木藤三郎報徳日めくり10日 人たる者は己れというものを虚にして、すべて世のため人のために勤むべきである。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならない。この精神をもって、この荒地開拓法を、自分が実行してみたいという念いが、その時に起こりました。「斯民」第2編第10号(明治41年1月7日)<読みやすくするため漢字、ふりがな等改めた> 「報徳の精神」 鈴木藤三郎 (本稿は上野東京音楽学校の講堂に開催せられたる第1回報徳婦人会における鈴木評議員の講演を筆記したるものの概要なり。) 私は多年二宮尊徳翁を尊信する者でございます。今日この会を催しますにつきまして幹事諸君から何か話をせよとのお勧めを受けました。けれども私は元来こういう所で皆様にお話をするような身分でもございませぬので、強いてお断りをしておきましたが、どういう間違いかやはり私がお話をするようなことに通知をせられました。実は私もはなはだ迷惑なことで、また私の迷惑よりは聴衆諸君のご迷惑と思います。しかしながらいったんご通知をしたものであるし、簡単でもよいから何か出てご挨拶をするようにということでよんどころなくここへ出ました。 それで報徳の精神ということは前席に一木博士から懇々ご演説もございましたが、この二宮翁の教えは偉大なるもので、私のような無学短才の者が、その精神をお話することは固よりできませぬ。ことに私のは、はなはだ卑見であって間違ってもおりましょうが、ただ自分が多年信じておりまして、いささか短かい才をもって研究した。いわゆる自己流の法ではないかと思うことのみをつまみまして少しくお話を申上げます。 私は元来不幸に致しまして、若年より全く学問の素養がございませぬ。それで私がお話するのは自分のはなはだ拙い恥ずべきことをお話するのでございますが、私は18歳までは世の中のことは一向念頭にありませぬでした。世の中のことのみならず、自分ということについても何の頓着もない、はなはだ無事なことでございました。然るところ19歳の頃になりまして、どうも一体こうやってボンヤリただ動いておったところで仕方がない。何とか人と生まれたからには、どうか立身出世がしたい。マアこういう無法な考えが起こりました。その時、私は何も立身出世と申しましても、学問もなし知恵もなし。別にエライ者になるということは望みませなんだが、「仕方がない金持にでもなろう。金をこしらえた人は、自由に欲しい物を買い、立派な衣服を着たりいばったりする、どうか富者となりたい」。こういう単純な考えを始めて起こしました。それから富者になるには、何でも自分を土台にして己の益になることならば何でもするがよい。マアこういう単純ないわゆる我利我利亡者の考えで、4,5年の間はそういう滅茶苦茶の考えであちらこちらと飛び回りました。ところが明治8,9年の頃でございました。フトした機会でこの二宮翁の遺教たる報徳教ということを耳にしました。それから段々先輩についてこの報徳の教えを聴いてみました。そうすると私の従来是なりと考えていた主義は、はなはだ人道に背いている。で、まずこの報徳の精神を当時の先輩から聴きますと、「何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤むべきである」。まずちょっと申しますとそういうことでありました。そうすると私がこれまで「何でもすべて自分のために勤めるものである。自分のために働くものである。自分のためにするものである。すべて自己さえよければよい」と思っていたことはちょうど裏になる。けれども一概に私はそれをご尤もであると考えてそうするまでの勇気もありませなんだ。それから段々先輩諸氏につきまして、教えてもらいました。何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならぬのか、その所以が分らない。で段々研究して見ました。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。で、この身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着いたしたのでございます。 そのくらいな事では決してこれを解釈した訳ではございませんが、とにかくその当時私が思いましたのは、このごとくであります。それで私は然らば今後どうすればよいか、報徳ということの真の大義をやりたいものである。これはそうなくてはならぬというだけの考えは起こりましたけれども、さてこの報徳の道は前席にお話のあった通り、二宮翁の教えは実行を貴ぶ。ただその道理が分かって、それに感服したからとて、報徳という訳にはいかぬ。どうかそれを己れの身分相応に自分の執る仕事の上に、それを実行して行かねばならぬ。こういうことになって参りました。それで自ら行う時に至ってはどういうことにすればよいか。二宮先生は野州桜町に行かれた時に、小田原侯から用金をお遣わしになって、4千石の領地復興を命ぜられた。その時に二宮先生は「金は要らぬ。金は持っていかなくても、仕事は確かに引き受けてやる」と言われた。そうすると小田原侯が「今まで誰が行っても、しかも金を沢山入れてすら、興らなかったのである。それを金なしに、この荒蕪を興すというは、どういう訳か」とお尋ねになった。その時に二宮先生は「荒地は荒地の力を以て開きます」野州桜町なる4千石の領邑はほとんど荒地になっている。本当の貢のあるのは800俵ほかなかったという。それを興復するのは大事業である。然るに「決して金は要りませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力を以て興します。我が邦(くに)が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が邦は我が邦の力を以て開けたのである。で、この開闢元始の道に基いて、4,000石の興復をいたいますから、金は要りませぬ」というて家財諸道具売払帳という帳面もありますが、それはその時に先生が家財から垣根に至るまで、一切を売却しそれを資本として、あの事業をなされた。それから「荒地は荒地の力を以て開くだけでは分からない。その仕方はどういうふうにするのか」というて尋ねますと、まず始め元資金として仮にここに1円ある。その1円の金をもって、1反歩の荒地を開く。そうすると、たとえばそえから米が2俵取れる。その2俵取れた中の1俵を明年の開墾費に投じて、また1反歩の土地を開く。そうするとその翌年になると2反歩から得るものはすなわち4俵である。4俵得ればその中の2俵を開墾費に充てて、翌年開墾すると、今度は4反歩の開墾ができるというようなことで、いわゆる一木博士のいわれました、推譲を行うのでございます。そうして年々歳々このごとくして行くと、初め1円の金を元としたのも、61年目には非常に大きな開墾ができあがる。私はちょっと数字を記憶しませぬが、ほとんど日本全国の荒地を悉皆(しっかい)開くことができる。こういうことをば、ハッキリと数字に挙げて、教えにやっておったのでございます。私は岡田良一郎先生、その他先輩の方々につきて、そういうものの写本を見せていただき、またお話をも伺いました。それから自分が考えまするに、もし農業が本職ならば、直ちにそれを応用してもできたのでありますが、私は小さい町の町人でございました。別に田地を持ってもおりませず、また農業には少しも経験がありませぬ。これは農業のみではあるまい。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならぬ。この精神をもって、この法に基づいて、どうか自分が実行してみたいという念が、その時に起こりました。(以下略)
2024.04.10
鈴木藤三郎報徳日めくり9日 荒地の力を以て荒地を開くという主義は、何の事業にも応用される。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) ○次に家政経費調べをしたこれより先、私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己の身分相当に自分の執る仕事の上に実行して見たいと思った。それには、どうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の4千石の領地復興を命ぜられたとき「決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。で、この開闢元始の道に基いて4千石の復興を致しますから、金は決していりませぬ」とお答えをして、開墾ができあがったのである。これは農業であるが、しかし、天下の事業はすべてこの通りでなくてはなくてはならぬ。この精神をもってこの法に基いて、どうか自分も実行して見たいと思った。そこで、先生の4句の文に従い、晨(あした)には暁星をいただいて起き、終日仕事をして更に夜業までして三更深くまでも勤労し、自分の分を守り堅く無益の費用を省いて分度を立て、1年の利益があればこれを来年に送り、次年に送り、次年の製品を安く買っていわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。 ○調査の結果経費の2割を節約した私の家の経済は養父も別に心得なかったので、一切不明であった。そこで自分で調査してみると、家の経費が260円で、1ヶ年の売上金額が1,350円である。これで算用すると、現在の純益歩合が2割5分ということになる。しかし、菓子商で2割5分の利益は少し困難である。確実な計算とすれば2割であろうと思った。そうすれば、1ヶ年の得るところ200余円で、50円ばかりの不足となる。しかし、明治10年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず、入費も不整頓であるから、これを整理すればいくらかの節約ができるに相違ない。と思ったので、先生の仕法に基いた家政経済調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物、衣類等経費の項目がおよそ130余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと、欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々よりわけて、節約のできる経費がちょうど50円くらいあることが解った。 ○次に残した金で商品の価を安くした明治10年からは、新しい人間になったつもりである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とする」主義にのっとって、未明から夜半まで働いた。さて、その年の暮になって計算して見ると、1ヶ年の売上高が1,900円あまり、2,000円足らずで、経費は予算の通りであったから節約した50円の外に計算外の利益50円を得て、合わせて100円の金が残った。そこで翌年は、この金を250円とするには、すでにうち100円が手元にあるから差引150円を2,000円の売上金から残せばよいのである。2,000円に対する150円といえばざっと7分に当る。まず1割の利益を得ればよいというソロバンがたつ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることができる。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズッと増加して、第2年の終りに3,500円となった。従来の商いの口銭は、単に外々の同業者の振合いを見て競争に堪えられる限りいっぱいの値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちに殖え売上高が増加したのである。 ○5年間に売上高が10倍になったこの筆法で5か年間商業を続けたところが、第5年目には売上高が1万円、利益はわずかに5分取ってもたくさんになってきた。資本金も始めは260何円しかなかったのが、5年の終りには1,300何円となった。これで私は、荒蕪の力をもって荒地を拓くという主義は、何の事業にも応用される。天下これに由りて起こらぬ事業なしという先生の説に、一点の疑いもなくなった。その後、私はこの5ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう:この道)の泰斗(たいと:権威)として師事された人であるーの所に行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い人にも勧めたけれども、君のごとく荒蕪の主義を商業に応用したもののあるを聞かぬ。実に斯道の模範であると激賞された。(「実業之日本」明治40年1月1日号)「斯民」第1編第9号(明治39年12月23日)「荒地開発主義の実行」 自家の分度法を立てるこれより明治14年まで5ヶ年の間を第1期として、私が計画したのであります。その時の計画を申しますと、全体私の家の経済は、養父もその辺の心得は有りませぬために一切不明でありましたのを、自分で調査して見ますると、家の経費が260円で、1年の売上金高が1,350円でありました、これで算用すれば現在の純益歩合が判るのであります。これをこれまでの分度とすればどこまでも同じ事でだめでありますが、既に自分という一人の労働が新たに加わったのみならず、しかも入用は不整頓でありましてこれを整頓しますれば若干の節約ができます。これには二宮先生の仕法に基いた家政経済調と申す書類を、外から借りて参りまして、これを先例として、自分の家政を分析して見ますると、食物衣類等経費の種目が、およそ130有余種ありました。その中で是非とも欠くべからざるものと、欠いてもさまで苦にならぬものとを一々よりわけて、節約し得る種類の経費が、ざっと50円ほど有ることを知りました。この50円に自分の真面目なる勤労の結果を加えたものが、すなわち第一年度の余得であるのです。さて、その年の暮に計算をして見ますると、1ヶ年の売上金高は1,900円あまり、2,000円足らずで、ありまして、経費は予算の通りでありましたから節約をした50円の外になお50円、併せて100円の金が残りました。そこで翌年はこの金を250円にするには、うち100円は既に手にありますから、差引150円の金を2,000円の売上の中から残せばよいのです。2,000円に対する150円、ざっと7分にありますが、まず1割の余得をとればよいというソロバンを立てて、そのソロバンに合うだけに品物の値(ねうち)を安くしましたら、そのために売上高がずっと増加して、第2年目には3,500円となりました。これというのが以前は商いの口銭は、単に外々の同業者の振合を見まして、競争に堪うる限り、一杯の値(ねうち)で売っていたのを、私が荒地主義により分外を利用しました故に、安くしただけ得意が殖えたのであります。 荒地主義の実行この筆法で、5ヶ年間商業を続けたところが、第5年目には売上高が1万円、利益は僅かに5分取って沢山になって来ました。資本金も始めは260何円であったのが、5年の終りには1,300何円となったのであります。ここにおいて、私は荒地の力を以て荒地を開くという主義は、何の事業にも応用することが出来る。天下これに因りて起らぬ事業無しという先生の御説は、一点の疑いも無いと信じました。さて、私はこの5ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して、岡田良一郎氏の所に行き、始終の話をいたしましたところ、岡田さんも至極これを賛成せられまして、荒地主義をかくのごとく応用したのはお前が始めであろうと申されました。
2024.04.09
鈴木藤三郎報徳日めくり8日 何事をするにも元値を知ることが必要だ元値とは人は生まれたら死ぬということだ「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) ○人の元値を知れ 強固な意志を有する者も困難に堪え煩悶に忍ぶことができる。けれども、これは一種の我慢である。一定の程度に達すれば、制限を受くることを免れぬ。つまり普通の人は十まで忍ぶことができるが、意志の強固な人は十二とか十五まで忍ぶというに過ぎぬ。二十、三十、いくばくでもということはできぬ。しかし、道理に基いた意志は水火の中をも辞せぬ。いわんや困難辛苦をやである。いかなる所にまでも忍び達するのである。普通にいう困難ということは分かりきったことである。古来の人々が既に久しく出会って嘗め来った事柄である。別段に新しき困難の発明があるのではない。これは人がこの世に生まれて来れば免れざることで、七難九厄に会うのは当然のことである。聖賢とても免れざることである。何事をするにも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生まれたからは死すということである。必ず死ぬときまっているものは、いつ死んでも仕方がないのに、今日もまた生きているというのは儲けものである。その他百事百般皆もうけの上のもうけなりと一大覚悟さえすれば、一生涯に苦痛とすることはない。これが、報徳主義の活悟道であると思う。世間では悟道は3年も坐禅をするか、たくさん書見をせねばできぬようにいうが、そのようにむつかしいことなれば大道とはいえぬ、小路とでもいわねばならぬ。道路も大なるものは、老人子どもでも差支えなく行けるから大道路である。また修行せねば歩けぬ極小路というは糸の道である。これは熟練した軽業師でなければ行けぬ。(「実業之日本」明治40年1月1日号)「斯民」第2編第7号(明治40年10月7日)「職務本位」 鈴木藤三郎 (同13ページ)二宮翁夜話に「夫れ人、生れ出たる以上は死することあるは必定なり。長生と雖ども、百年を越ゆるは稀にして限りのしれたる事なり。若死と云も、長寿と云も 実は毛弗の論なり。譬へば蝋燭に大中小あるに同じ。大蝋と雖も、火の付たる以上は、4時間か5時間なるべし。然れば人と生れ出たる上は必ず死するものと覚悟する時は一日活れば則ち一日の儲け、一年活れば一年の益なり。故に本来我身もなきもの、我家もなきものと覚悟すれば、跡は百事百般皆儲けなり。云々」とあります。これがすなわち私の申しまする悟道の法で、すなわち二宮翁の遺教であります。 なんと諸君、この道理は実に簡明で誰人にも解し得らるることではありませぬか。元来一度生じたものは3歳で死ぬも一生、50歳100歳で死ぬもまた一生であります。然れどもいつ死するということが、自分にもわかるものは天下にないのであります。それで「今日また今日と生活している限りは幸福であり、儲けである」と覚悟し、いかなる逆境困難に出会いましても「もともと、死すべきものが生活している。その幸福に付帯せる年貢なり」と思えば、「いかなる困難でも、一切が丈けの知れたことである」と一大決心をなし、而して職務を本位として誠意専心勤勉するときは、最愉快にこの世に処することができる。この道理が会得せらるれば、胸中豁然として一点の汚物なきに至ること必定であります。されど、ただ了解せられたばかりで、実行が伴わねば何の用にも立たぬ。そこでなおこの上にも必要なものは強固なる意志であります。すべて人が一たび決心をした以上は永久かわらぬようにするのに、意志が強固でなければいけない。また善(すなわち人生終局の目的を達するためになること)と知りては直にこれを行い、悪(すなわち、人生終局の目的を達する妨害となること)と悟りては直にこれを去るということも、強固なる意志に基くのでありますから、強固なる意志を有するということも、また肝要なことであります。 以上申し述べたことは、私が平素の持論で、常に自ら遵奉していることでありまするが、今一応、概括して要点を申しますると、第一、 人は人生に、一貫せる大目的を認めてそれを目標として進行すべきものなること。第二、 この大目的を達する手段方法としては職務本位ということが必要であるということ。これが、今日の本論でありましたが、なお職務本位を実行しまするには、第一、死をも恐れず、艱苦にも堪うべき大悟道の必要なること。及び、いわゆる悟道の方法。第二、強固なる意志を有すべきこと。に論及したのであります。
2024.04.08
鈴木藤三郎報徳日めくり7日 今日世に現存する人間は、天地の恵みと祖先の遺徳によって現代の文明に浴している。人間社会の一切は、私たちの先人が今日まで、経験工夫のかずかずを積んで遺された賜物です。だから人はこの大恩徳に報いる心がけが必要であると同時にその実を挙げなければならない。これが報徳の行いです。私たちが職務を本位として勤労を尽すことが、人生に一貫した大目的に適うと考えています。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) ○人間の最大目的に直進せよ で、自分は己に多年の覚悟として守り、また青年の決心すべきものとして常にこういっているのである。人間は、その本分として皆尽くすべきだけの職務を持っている。国家社会の利益を増進するために、分業して相共に天地の秘を発(あば)くまでも勤勉すべきである。これがためには全力を発揮して勤めねばならぬ。もし職務のために死ぬことがあれば、これは名誉の戦死である。軍人が征戦に死ぬと異なることはない。己を棄てて全力を発揮すれば、目的を達すると共に立身や栄達はこれは副産物である。初めから目的物として望むべきことではない。人はこの職務ということを知り、これに全力を注がなくてはならぬ。知るということは表面のみではなく、これを明らめ尽して少しの遺憾なきに至らねばならぬ。世間では「知っている」というて、しかも実行の伴わぬものが多い。知っていれば行われなければならぬのである。それが実行せられぬのは、とりもなおさず真に知らぬのである。知っているというのは間違いである。人間がこの世に生まれてきた以上は、飽くまでもその職務本位とすることを知りおかねばならぬ。真の仕事はできぬのである。(「実業之日本」明治40年1月1日号)「斯民」第2編第7号(明治40年10月7日)「職務本位」 鈴木藤三郎 (同13ページ) 諸君私は二宮尊徳翁崇拝の一人であります。 私の演題は職務本位というのであります。この名目は固より私が工夫して勝手に付けたので、本来、人間に一貫せる大目的を達せんとする手段の標榜に過ぎませぬ。その主意は読んで字のごとく、人たるものは上は一国の帝王より、下は一家の下男下女に至るまで、職務を本位として誠心誠意、力のある限り、各自の職に尽くすべきものであるという意味であります。 まことに単純な事で、誰にも分ることでありますが、この単純な言葉の中に、報徳の訓え一切を包括している。また国の東西、人類の異同、男女の別を問わず、すべての人がこれを守るべき義務を自然に有するものと私は信じます。 よりて、これよりなぜに人はことさら、職務を本位とせねばならぬかという、その理由に対する卑見をなるべく簡単に述べたいと思います。 このように申しますれば、諸君は鈴木が報徳の道を離れて新説を立てると思召すかも知れませぬが、自分では決してさようなつもりではないのです。元来私が始めて報徳の教えを信じましたのは、明治9年でありまして、それより以来先輩諸氏について、いささか研究致しました。その結果、私が管見をもって、報徳を無造作に考えましたのがすなわち職務本位ということに帰着したのであります。報徳訓は諸君の御熟知の通り。 父母の根元は天地の令命にあり 身体の根元は父母の生育にあり 子孫の相続は夫婦の丹精にあり 父母の富貴は祖先の勤功にあり 吾身の富貴は父母の積善にあり 子孫の富貴は自己の勤労にあり 身命の長養は衣食住の三つにあり 衣食住の三つは田畑山林にあり 田畑山林は人民の勤耕にあり 今年の衣食は昨年の産業にあり 来年の衣食は今年の艱難にあり 年年歳歳報徳を忘るべからずの12句でありますが、この句には過去現在未来を一貫し、道徳経済を一括して、最も深遠なる意味を包含せるものであります。 (略) 今日はここに卑見を述べて、同志諸君の叱正を請うのであります。 さて、今日世間に現存している人間はいかなる身分のものでも、天地の恵みと祖先の遺徳とによりて、現代の開明に浴しているのであります。すなわち学問でも、教育でも、政治でも、宗教でも、はた、農工商その他いやしくも人間社会における一切の事物は、ことごとく、我らの祖先が数千年前の有巣時代穴居時代より今日までに、経験工夫のかずかずを積みて遺されたる賜物であることは、誰人も熟知のことであります。然らば天地の恵みは申すまでもなく、祖先の遺徳の大なることは、到底言葉で言いあらわすことのできることではない。 故に人たるものはこの大恩徳を報いる心がけが必要であることを了知すると同時に、その実を挙げねばならぬ。これがすなわち報徳の行いである。然らばいかなることを為してこの大恩徳に報いることができるかと申せば、現代の我々は倍々勤労を積みて、人の幸福となるべきことを拓き、祖先の遺徳に加えてこれを後代に譲り、子々孫々、またかくのごとくにして、数百千代の後には、この世界をして、ついに円満無欠の楽土となすようにつとめること、これがすなわち右申す大恩徳に報いる所以でありまして、また、実に人間仲間に、一貫したる人生の大目的でなければならぬ。(ちょっと、ここにお断りしておきたいことは、私が今日いう祖先または子孫という語は、通常、血統の上より称する狭義のものではなく、我々より前の人は皆祖先、後に生まれ出ずべきものは、皆子孫とする広義の見解によるものであるということであります。) 人々がこの大目的を達せんとするには、もとより方法と手段とが必要でありますが、これはさほどにむずかしく考えるにも及ばぬ。人間仲間には古よりそれぞれ職務を分担するという最も便宜なる習慣が自然に成立しておりますから、人々が銘々にその職務を完全につとむるというだけの事であると私は存じます。なおこの意味を細説しますれば、およそ人として職務のないものはない。而してその職務というものは皆、直接自己のために勤めるように心得るものもありますが、その実は左様で無い。何の職務でも、自己のためには間接であって、まずもって、他人のために勤めることに事実がなっている。その証拠は一国の帝王は民を恵み、政治家は国のために政事を講じ、教育家は人の子弟を教え、医者は人の病気を治療し、実業家は需要者のために農工商の業をつとめ、車夫は客のために車をひき、下女は雇い主のために飯を焚き、その他一切の職務が、皆他人のためにつとめるようにできていることが、何と妙ではありませぬか。それ故に一般の人々が職業を本位として職務のためには、一切の私事を犠牲として、誠意専心、勤労をなすときは、自ら人間仲間に、一貫した前述の大目的に適うようになってくる。 職務を本位として勤労を尽すことが、人生に一貫したる大目的に適うが故に、自然の報酬としてあるいは立身出世をなし、あるいは富貴福徳を得、あるいは名誉尊敬をうけ、遂に万世に不朽の令名を伝えるなど、その形は種々かわるが、ともかくも、その人の勤労に対して、尊ぶべき報いが期せずして来ることは、古来の歴史に明らかなので、すなわちその勤労の副産物である。而してこれに反するものは、必ず人生の発展を害し、自己が一時、幸いなようでも、いつか知らず、自己もまた、必ず損害を受くることの例は、私がここに列挙しないでも、世間にいくらでもあることであります。要するに職務を本位として勤めるものは、自ら人生の大目的に適うて、自己の幸いは自然に期せずして来り、これに反するものはいつか反対の結果を受けることとなるのであります。されば人の踏むべき道の大本は、実にここにある。これ以外にことさら、人が善と称するものは皆この大本幹に付きたる枝や葉のごときものに過ぎないのである。 故に人たる者は何はさておき、自己の職務を本位として、一生懸命に働かねばならぬ。これがすなわち報徳訓の義に適うものであると私は考えまして、既に30年間、この主義をもって、馬車馬的に、一直線に進行して来たのであります。しかしながら前にお断り申した通り浅学なる私の卑見でありますから、果して報徳の道に適うや否や。もし間違いならば、諸君のご叱正を得て速やかに改める覚悟であります。 なお一言、職務本位の主義を実行する上につきての心がけを申上げたいと思います。職務本位主義を実行しまするには、大いなる決心覚悟が必要であります。元来いずれの職務でも順境にのみ進行することは望みがたいことで、必ず逆境に立つ場合があるものと覚悟せねばなりませぬ。そこで逆境に処する工夫が最も必要であります。それには初めから大決心がなくてはならぬ。この大決心は一種の悟道より生ずるものであります。それですからこの悟道について、私が感じました要点を簡単に申し述べます。 悟道と申せば、すこぶる高尚なやかましい問題で、哲学か禅学を修めなければ、得ることのできぬように、むつかしくお考えになるお方もありましょうが、私の陳べまする悟道は、左様な高尚深遠なものではありませぬ。至極平易なもので誰にも直に了解のできる実用的悟道とでもいうべきものであります。二宮翁夜話に「夫れ人、生れ出たる以上は死することあるは必定なり。長生と雖もど、百年を越ゆるは稀にして限のしれたる事なり。若死と云も、長寿と云も 実は毛弗の論なり。譬へば蝋燭に大中小あるに同じ。大蝋と雖も、火の付たる以上は、4時間か5時間なるべし。然れば人と生れ出たる上は必ず死するものと覚悟する時は一日活れば則ち一日の儲け、一年活れば一年の益なり。故に本来我身もなきもの、我家もなきものと覚悟すれば、跡は百事百般皆儲けなり。云々」とあります。これがすなわち私の申しまする悟道の法で、すなわち二宮翁の遺教であります。 なんと諸君、この道理は実に簡明で誰人にも解し得らるることではありませぬか。元来一度生じたものは3歳で死ぬも一生、50歳100歳で死ぬもまた一生であります。然れどもいつ死するということが、自分にもわかるものは天下にないのであります。それで「今日また今日と生活している限りは幸福であり、儲けである」と覚悟し、いかなる逆境困難に出会いましても「もともと、死すべきものが生活している。その幸福に付帯せる年貢なり」と思えば、「いかなる困難でも、一切が丈けの知れたことである」と一大決心をなし、而して職務を本位として誠意専心勤勉するときは、最愉快にこの世に処することができる。この道理が会得せらるれば、胸中豁然として一点の汚物なきに至ること必定であります。されど、ただ了解せられたばかりで、実行が伴わねば何の用にも立たぬ。そこでなおこの上にも必要なものは強固なる意志であります。すべて人が一たび決心をした以上は永久かわらぬようにするのに、意志が強固でなければいけない。また善(すなわち人生終局の目的を達するためになること)と知りては直にこれを行い、悪(すなわち、人生終局の目的を達する妨害となること)と悟りては直にこれを去るということも、強固なる意志に基くのでありますから、強固なる意志を有するということも、また肝要なことであります。 以上申し述べたことは、私が平素の持論で、常に自ら遵奉していることでありまするが、今一応、概括して要点を申しますると、第一、 人は人生に、一貫せる大目的を認めてそれを目標として進行すべきものなること。第二、 この大目的を達する手段方法としては職務本位ということが必要であるということ。これが、今日の本論でありましたが、なお職務本位を実行しまするには、第一、死をも恐れず、艱苦にも堪うべき大悟道の必要なること。及び、いわゆる悟道の方法。第二、強固なる意志を有すべきこと。に論及したのであります。
2024.04.07
鈴木藤三郎報徳日めくり6日 二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができる。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) ○明治10年より再生す かく研究すればするほど過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治10年1月1日を紀元とし自分は全く生まれ変わりたるものとして新生活に入ることを決心し、今もなおその決心に随って続けて行っているつもりである。もとより他人から見たら間違っていることがあるかも知らねども、自分では報徳の教えに随って進み行っているつもりである。その後もなお書見は続け支那の経書は勿論、仏書も少しは読んで見たが、これは単に報徳主義を明らかにする道具に使われたもので、報徳主義の大切なことは依然として異ならぬ。否、むしろますますその光輝を発揮するように思われる。大工は曲尺(かねじゃく)一挺(ちょう)で9尺2間の小屋も建てれば、堂々たる大厦(たいか)高楼をも建てる。造り上げた物は大いに異なっているが、詮ずるところ、ただ曲尺一挺を使用したに過ぎぬのである。二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができると思う。(「実業之日本」明治40年1月1日号) 余が菓子商として5年間に売上高を10倍にしたる営業法 ○10年の元日から生まれ返って大奮発 私は不図(ふと)した機会で報徳教を耳にすることになった。そうすると、私が今まで是であると信じていた考えは甚だ人間に背いているということが解ったので、爾来45年間は必死になって報徳を研究した。元来私は物に熱しやすい性質であったから、自然人よりも多く疑問を抱き、まだ疑問が腑に落ちるまでどこでもうるさく尋ね、時には議論さえしたことも少なからぬ。報徳主義の人は謙譲の美徳を尊敬して、人と議論するなどということは少しもない。それを、私が目上の人であろうが、差閊(さしつかえ)あることがあるにも係わらずにやるので、自然私のことを「論客」と渾名(あだな)されるようになった。 当時、私は製茶の販売をやっていたので、相当に稼いではいたが、出盛りの時の外は用も少ないので朝寝をすることがある。養父は報徳主義をきいた人ではないが職業には熱心勤勉な方で、朝早く一仕事してからも、まだ私が寝ているのを見、私の枕元へ来て「なんだ、朝寝の報徳というがあるか」と責める。私も理論を研究している時である。なかなか口は達者なもので、即座に「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがあります。大工が板を削る前には必ず鉋(かんな)を磨いでからかかる。理髪屋が顔を剃るにも必ずその前にカミソリを磨(と)ぎます。それが物の順序というのです。諺にも寝勘弁というではありませんか。ひととおり将来の新計画を立てて段々に実行に着手する。私は大工が鉋を磨ぎ理髪屋がカミソリを磨いでると同じく、今は実行に着手する準備です。今は年の半ばですから、明年の1年1日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代わり来年からは、余り働き過ぎるなどとご心配をなさらぬようにして下さい」と言った。※二宮先生語録巻の3【185】孔子は「工(たくみ)その事を善くせんと欲するや、必ず先ずその器を利とす。この邦(くに)に居るや、その大夫の賢なる者につかえ、その士の仁なる者を友とす。」と(論語、衛霊公篇)といった。これを床屋や柴刈りにたとえると、床屋でも柴刈りでも仕事にかかるには、きっとまずカミソリをとぎ、鎌をとぐ。これは必然の道理だ。そして、床屋がカミソリをとぐには、きまってと石を用いる。こういうことを、「その大夫の賢なる者につかえ、その士の仁なる者を友とす。」と言うのである。 ○先づ買って来たのは目覚し時計 報徳の教えを聞いてから職業の大切なこと、人間に尊卑の区別あるは誠心の如何(いかん)によるので、その執る職業には少しも関係せぬことを悟ったので、今まで独立してやっていた製茶事業をやめて、再び家業の菓子製造に従事することにした。そして第一に朝は5時に起きることに決めた。しかし困ったことには、今まで朝寝の癖がついたのでなかなか目が覚めない。人に起してもらうのは嫌だし、何か機械的に自分で慣習を改める法はあるまいかと考えていた。その頃、目覚し時計というものがあるとは聞いていたが、まだ見た人も少ない。然るに浜松の宮代屋という小間物商が名古屋から買って来て持っていると聞いたので、無理に7円50銭かで譲ってもらい、いよいよ明治10年1月1日からこの目覚し時計で5時には必ず起きて仕事に着手した。今まで朝寝さえしたことのある私が、5時にはキチンと起き、しかも元日から仕事をするので、家の人はビックリしている。 ○次に家政経費調べをしたこれより先、私は報徳教を聞いてから、どうかこれを己の身分相当に自分の執る仕事の上に実行して見たいと思った。それには、どうすればよいか。二宮先生が小田原侯から野州桜町の4千石の領地復興を命ぜられたとき「決して金はいりませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力をもって興します。我が国が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力で開けたのである。で、この開闢元始の道に基いて4千石の復興を致しますから、金は決していりませぬ」とお答えをして、開墾ができあがったのである。これは農業であるが、しかし、天下の事業はすべてこの通りでなくてはなくてはならぬ。この精神をもってこの法に基いて、どうか自分も実行して見たいと思った。そこで、先生の4句の文に従い、晨(あした)には暁星をいただいて起き、終日仕事をして更に夜業までして三更深くまでも勤労し、自分の分を守り堅く無益の費用を省いて分度を立て、1年の利益があればこれを来年に送り、次年に送り、次年の製品を安く買っていわゆる推譲をしようと決心し、先ず毎年の経費を調査した。 ○調査の結果経費の2割を節約した私の家の経済は養父も別に心得なかったので、一切不明であった。そこで自分で調査してみると、家の経費が260円で、1ヶ年の売上金額が1,350円である。これで算用すると、現在の純益歩合が2割5分ということになる。しかし、菓子商で2割5分の利益は少し困難である。確実な計算とすれば2割であろうと思った。そうすれば、1ヶ年の得るところ200余円で、50円ばかりの不足となる。しかし、明治10年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず、入費も不整頓であるから、これを整理すればいくらかの節約ができるに相違ない。と思ったので、先生の仕法に基いた家政経済調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物、衣類等経費の項目がおよそ130余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと、欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々よりわけて、節約のできる経費がちょうど50円くらいあることが解った。 ○次に残した金で商品の価を安くした明治10年からは、新しい人間になったつもりである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とする」主義にのっとって、未明から夜半まで働いた。さて、その年の暮になって計算して見ると、1ヶ年の売上高が1,900円あまり、2,000円足らずで、経費は予算の通りであったから節約した50円の外に計算外の利益50円を得て、合わせて100円の金が残った。そこで翌年は、この金を250円とするには、すでにうち100円が手元にあるから差引150円を2,000円の売上金から残せばよいのである。2,000円に対する150円といえばざっと7分に当る。まず1割の利益を得ればよいというソロバンがたつ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることができる。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズッと増加して、第2年の終りに3,500円となった。従来の商いの口銭は、単に外々の同業者の振合いを見て競争に堪えられる限りいっぱいの値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちに殖え売上高が増加したのである。 ○5年間に売上高が10倍になったこの筆法で5か年間商業を続けたところが、第5年目には売上高が1万円、利益はわずかに5分取ってもたくさんになってきた。資本金も始めは260何円しかなかったのが、5年の終りには1,300何円となった。これで私は、荒蕪の力をもって荒地を拓くという主義は、何の事業にも応用される。天下これに由りて起こらぬ事業なしという先生の説に、一点の疑いもなくなった。その後、私はこの5ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう:この道)の泰斗(たいと:権威)として師事された人であるーの所に行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い人にも勧めたけれども、君のごとく荒蕪の主義を商業に応用したもののあるを聞かぬ。実に斯道の模範であると激賞された。 ○余が料理屋遊びの拒絶法5ヶ年の計画が予定通りに済んだので、私は砂糖事業に従事した。しかし、この5ヶ年の間、この主義を実行して行くには多少の障害となるものがあった。私の郷里では青年が料理屋に上るという悪風があって、私も以前には時々その交際をしたこともある。それで、いよいよ斯道を聞き新生涯を開こうとしたとき、どうしてもこの悪風は除かねばならぬと決心した。そのうちに旧友は例のごとく私を誘うて料理屋へ行こうという。一言ではねつけてしまえばそれまでであるが、罵言も受けるであろう。同郷とて商売の邪魔にもなろう。さりとてこれに応ずれば、当初の決心に背く。どうしたものであろうかと種々苦心の末、一策を案出した。誘引されるごとに容易に承諾して行く。そして種々な酒肴を持って来させ、費用が驚くほどかからせるようにした。鈴木が一緒だと費用がかかって困るということになり、数回で朋友も私を誘いに来なくなった。またこういう荒蕪の主義を実行するについては、帳簿の記入は綿密にしなくてはならぬ。記録の整頓と計算の正確とには最も注意して、一銭一厘といえども必ずこれを記帳することにした。ところが父は非常に酒が好きなので、私は毎晩晩酌を捧げてはいたが、父は私が一々それを記録するので心持がよくない。そんなことをして飲む酒は甘くない。汝の仕法のようなことをしなくても渡世は十分にできるといって承知してくれぬ。親のいうこと背くにも背かれず、といって一歩でも道に反したなら大害を醸すであろう。一時親の意を損したとしても、永久の計には換えられぬ。また父もたちまちに私の意をのみこんでくれるであろうと決心して、幾回となく報徳の道と仕法とを説明したので、後には父も私の真意を悟ってくれ、喜んで晩酌の杯を取るようになった。(「実業之日本」明治41年10月1日号)
2024.04.06
鈴木藤三郎報徳日めくり5日 私は豁然と悟った。今まで金さえ貯ればよしとしていた思想は全く誤りであった。報徳主義の甚だ大切なることを知ることができた。初めて人間の道を知ることを得た。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) 余の理想の人物○大いに金を貯めることとした お恥ずかしい話ですが、私は明治9年22歳になるまで理想などということは少しも持たなかった。その時までは、極めて単純の生活をしていたのである。8歳の時より12歳まで寺子屋に通学の時はいるも先生からほめられていたが、父はほめられるだけに心配して、菓子屋の子に学問は不必要だといって、13歳の春から家業を手伝い隔日に荷を持って近所に商っていた。私は勝気の性質として、朝は暗いうちに起きて夜の明けぬ前に12里くらいを歩かねば承知ができず、終日の奔走でくたびれたために夜明けて後に覚めるときは終日商いに出かけなかった。 この時までは頭はボンヤリとして運動する機械のようでいたが、19歳の時ふと思いついたことがある。自分は菓子の商いをしているが今後いかなるのであるか。近所の人を見れば旦那と尊ばれているが、菓子商いなどしていては、幾日たっても発達の見込みがない。旦那といわれる人は皆金を貯めた人であるから、自分も大いに金を作らねばならぬ。当時、製茶は横浜市場の主な輸出品で、遠州は茶の産地だけに私の郷里森町でも富者となった人は茶商人に多かったので、私も富者となるには茶商となるの外なしと決心し、父に相談したところ、茶商は10年くらいは小僧で見習いしなければならぬのに、中途から従事しても無駄であるというて最初は聴かなかったが、私の決心が固かったので幾らかの資本を他から借りてくれ、私は菓子商に関係なく独立して茶業に従事していた。最初の1年は見習いに過ぎなかったが、2年目からは各地方に出かけ四日市、豊橋等にまで行って買集め、これを横浜に送っていた。 ○初めて報徳主義を知る 茶の鑑定その他のことがひととおり了解せられ、相当の利益もあったが、22歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳翁の御説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、それは単に金をケチに貯めるとこととか、朝は早く起きるとかいうに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみると、すこぶる面白い。その大体は、こうである。 人は何故にこの世に生まれてきたのであるか。いかにして生くるのであるか。金銭も名誉もその目的とするものではない。人は国家社会のために、その利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを、今人は更に増殖してこれを後世子孫に伝えもって国家社会の利益を増進する。云い換えれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだ外に更に増して子孫に伝える。何事もせずして先人の事を後人に伝えるのは、恩義の賊である。されば人間は個々としては生まれたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人にてはできぬ、また一代二代にてできるものでない。すべての人間が、この目的に向って勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務となる。されば職務は人の賢愚不肖によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比ぶれば同一で、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾なく尽くして明らかならしむべきである。いわゆる天地の秘を発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣と異なる所謂(しょい)である。 この人生の大目的の一分を達するために各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益栄達を主としなくても、これらはその職務の遂行に伴うて自ら発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間に自(おのず)から自己も発達せられるという意味であった。 ○神のごとき二宮先生 この書を読んで、私は豁然(かつぜん)として悟った。今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の甚だ大切なことを知ることができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時は僅かに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などを漁(あさ)り読み、23歳の時には夜学に通うて勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。 ○明治10年より再生す かく研究すればするほど過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治10年1月1日を紀元とし自分は全く生まれ変わりたるものとして新生活に入ることを決心し、今もなおその決心に随って続けて行っているつもりである。もとより他人から見たら間違っていることがあるかも知らねども、自分では報徳の教えに随って進み行っているつもりである。その後もなお書見は続け支那の経書は勿論、仏書も少しは読んで見たが、これは単に報徳主義を明らかにする道具に使われたもので、報徳主義の大切なことは依然として異ならぬ。否、むしろますますその光輝を発揮するように思われる。大工は曲尺(かねじゃく)一挺(ちょう)で9尺2間の小屋も建てれば、堂々たる大厦(たいか)高楼をも建てる。造り上げた物は大いに異なっているが、詮ずるところ、ただ曲尺一挺を使用したに過ぎぬのである。二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができると思う。 ○人間の最大目的に直進せよ で、自分は己に多年の覚悟として守り、また青年の決心すべきものとして常にこういっているのである。人間は、その本分として皆尽くすべきだけの職務を持っている。国家社会の利益を増進するために、分業して相共に天地の秘を発(あば)くまでも勤勉すべきである。これがためには全力を発揮して勤めねばならぬ。もし職務のために死ぬことがあれば、これは名誉の戦死である。軍人が征戦に死ぬと異なることはない。己を棄てて全力を発揮すれば、目的を達すると共に立身や栄達はこれは副産物である。初めから目的物として望むべきことではない。人はこの職務ということを知り、これに全力を注がなくてはならぬ。知るということは表面のみではなく、これを明らめ尽して少しの遺憾なきに至らねばならぬ。世間では「知っている」というて、しかも実行の伴わぬものが多い。知っていれば行われなければならぬのである。それが実行せられぬのは、とりもなおさず真に知らぬのである。知っているというのは間違いである。人間がこの世に生まれてきた以上は、飽くまでもその職務本位とすることを知りおかねばならぬ。真の仕事はできぬのである。 ○人の元値を知れ 強固な意志を有する者も困難に堪え煩悶に忍ぶことができる。けれども、これは一種の我慢である。一定の程度に達すれば、制限を受くることを免れぬ。つまり普通の人は十まで忍ぶことができるが、意志の強固な人は十二とか十五まで忍ぶというに過ぎぬ。二十、三十、いくばくでもということはできぬ。しかし、道理に基いた意志は水火の中をも辞せぬ。いわんや困難辛苦をやである。いかなる所にまでも忍び達するのである。普通にいう困難ということは分かりきったことである。古来の人々が既に久しく出会って嘗め来った事柄である。別段に新しき困難の発明があるのではない。これは人がこの世に生まれて来れば免れざることで、七難九厄に会うのは当然のことである。聖賢とても免れざることである。何事をするにも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生まれたからは死すということである。必ず死ぬときまっているものは、いつ死んでも仕方がないのに、今日もまた、今日も生きているというのは儲けものである。その他百事百般皆もうけの上のもうけなりと一大覚悟さえすれば、一生涯に苦痛とすることはない。これが、報徳主義の活悟道であると思う。世間では悟道は3年も坐禅をするか、たくさん書見をせねばできぬようにいうが、そのようにむつかしいことなれば大道とはいえぬ、小路とでもいわねばならぬ。道路も大なるものは、老人子どもでも差支えなく行けるから大道路である。また修行せねば歩けぬ極小路というは糸の道である。これは熟練した軽業師でなければ行けぬ。(「実業之日本」明治40年1月1日号63~66頁)
2024.04.05
鈴木藤三郎報徳日めくり4日 「お父さん、私は製茶貿易は昨日限りやめました。今日から家業の方を手伝わせてもらいます。昼は家業に精出します。晩だけ学問させてください。」「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) 東海道を袋井まで来て、それから秋葉街道を北へ三里、水のきれいな太田川を渡るともう森町である。家では案外に早い帰宅を皆いぶかった。同じように茶の商売で横浜へ出かけている幾人かの人々も。まだ一人も帰ってはいないし、当分相場のあがりそうな見込みはないと便りが来たのも、ついこの間のことである。それに何やら様子が違う。そんな心配がみんなの心を暗くして、長の旅路の疲れをいたわる言葉にも舌の重い感があった。しかし、父はそんなことを気にもかけなかった。帰るなり帳場格子の所に座っている養父の前へ行って、「お父さん」と改まった調子で呼びかけた。家の者は、養母も妻も、やはり何かあったのだなと体中を耳にせずにはいられなかった。養父はタバコをすいながら、何をまた気まぐれ息子が言い出すかというような顔をしている。「お父さん、私は製茶貿易は昨日限りやめました。今日から、また家業の方を手伝わせてもらいます。」これには生来のんきな養父も、そうタバコばかりを吹かしてはいられなかった。「ほう、それは結構なことじゃ。わしはお前にそうしてもらいたいと思えばこそ、3年も前に隠居した訳なのだから・・・。」「それについて、たった一つお願いがあります。」「何かな、それは?」「私が、学問をすることを許して頂きたいのです。」「ほう、製茶貿易をやめて、今度は学問か?」相変わらず気まぐれだと思いながら、「それで、家業の方はどうするつもりかな?」「昼間は家業に精を出します。それで晩だけ学問させてください。」これを聞いて、養母も妻もホッとした。養父は、もともと菓子商に学問はいらぬという持説であったが、夜だけというのなら大して仕事の障りにもならないし、それに何よりそれで危険の多い製茶貿易をやめるというならおやすいことだと考えたので、「夜だけということなら差支えはなかろう」と許した。父はその許しを得ると、近くに住んでいる町の小学校の訓導の青木露生という先生がまことに篤実の人柄のように前から思っていたので、知人から父のために夜学の個人教授をしてくれるように頼んでもらった。ところが、その返事は意外であった。「あのくらいの年になって夜学をやろうなんて、それはとても続くものでじはない。前にも2,3そういって頼んだ人があったので引き受けたところが、勉強にはちょっとも来ないで、家の方は毎晩『夜学に行く行く』といって、トンでもない夜学に凝っていたのが最後にバレて、『こちらは先生を信じて、息子がお宅へ毎晩通っているものと心を許していたのにこんなことになって、あんまり先生も頼み甲斐がないではないか』と、ひどく親たちから逆恨みをされて閉口したことがあるから、もう中年者の夜学のお世話はマッピラご免だ。」と、とても承諾してくれないというのであった。 父は思いたったらなかなかそれくらいのことではヘコタレない、すぐに青木先生のところへ、今度は自分で押しかけて行った。先生の書斎には一人お客が見えていたが、それには構わず、父はなぜ自分が夜学を志すようになったかを、二宮翁の書物を見た時から始めて、今度横浜で決心するなり、時は命だ、命は金では買えないと、損得かまわず持荷を処分して汗ふく間も惜しんで帰って来たまでのことを、熱情をこめてつぶさに物語った。その熱心さに、先生よりは先にその座に居合わせた客の方が動かされて、一緒になって口添えしてくれたので、青木先生もようやく承諾された。 父の喜びは非常なものであった。しかし、これから家業の方もやってゆかねばならず、したがって一家の生活についても責任を負うことになるのであるから、いつまでも夜学に通うということも事情が許さない。それで、できるだけ速成に読み書き一通りを教えてもらうには、おおよそどのくらいの時間をかけたらよいかということを青木先生といろいろ研究した結果、まず9ヶ月でどうにかやれようという見込みがたったので、夜学の期間をこの10月から来年の6月までということにして、その間にできるだけ能率をあげるように細かいプランを立てて始めた。 この9ヶ月の間というものは、一日の家業を終ると夜学に行って、それから帰るとまた復習をし習字をして、一晩もかかしたことなく、毎晩12時前には寝たこともなかった。青木先生も父の熱心に心から感動して、実に親身になって教えてくれたので、この短い期間としては驚くほどの進歩が見られた。 翌10年の6月、予定以上の成績で課業を終ったので、父は形を改めて青木先生の所へ行って心から礼を述べた。先生も世話のし甲斐のあったことを真底から喜んでくれた。いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし
2024.04.04
鈴木藤三郎報徳日めくり3日 時は命だ。命は金では買えないのだ。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著)「時は金なり」といったのは、フランクリンである。新生アメリカの実利的な精神をあらわしている。「Time is money」は、フランクリン(18世紀)の文書により広められた。「時は金なりということを忘れてはならない。自らの労働により一日10シリングを稼げる者が、半日出歩いたり、何もせず怠(なま)けていたりしたら、その気晴らしや怠惰に6ペンスしか使わなかったとしても、それだけが唯一の出費と考えるべきではない。彼はさらに5シリングを使った、というよりむしろ捨てたのである」これに比べて、「時は命だ。命は金では買えないのだ」という鈴木藤三郎の言葉はもっと格調高く、そして切実さがある。そして藤三郎の偉大なところはそれを実行するところにある。いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし by鈴木藤三郎 父は、その正月に生家の太田家へ年始に行った。その時、そこに一冊の本があった。なに心なく開いてみた。1,2枚読んでゆくうちに、父の心はその本に全く引き付けられてしまった。その本を借りて家へ帰って、一息に読んだ。そして、外のにぎやかな追羽根の音も凧(たこ)のうなりも万歳(まんざい)の歌声も耳に入らぬくらいに夢中になって繰り返して読んだ。読みながら、眼からウロコが落ちたとパウロもいっているような気持になると同時に、自分の今まで立っていた立場が急に逆転したことを感じた。そして不意に眼の前に展開して来た今まで見たこともない輝かしい世界の荘厳さに打たれて、新しい瞳を見張らずにはいられなかった。それは何かまぶしすぎるようでもあった。今まで住み慣れた暗い世界の方が、淋しく頼りなくはあるけれども落着きがよいようにさえ思われた。けれど、その輝かしい世界の光の権威は、父に再び暗黒の世界を振返えることを許さなかったのだ。父は、それを光栄に思った。自分が日ごろ心の底で漠然とたずね求めていたものが、ハッキリとそこにあることを知った。武者ぶるいをしながらも、その方へひと向きに進まずにはいられなかった。父のそれからの一生の基本となった大きな動機を与えたこの本は、二宮尊徳翁の報徳の教えを書いた書物であった。もしその時、そこにその本がおいてなかったなら、父はらつ腕な製茶貿易商として終ったのかもしれないと思うと、神から見れば当然なことなのであろうが、人間の目からは偶然としか見えない運命の神秘さについて、いまさらに思わないわけにはゆかないのである。二宮尊徳翁は、天明7年7月23日(1787)に遠州から余り遠くない相模国足柄上郡栢山村(今の小田原市)に生まれられ、安政3年10月20日(1856)に歿せられたのであるから、当時は直弟子の人々も生存していた。それで報徳社の運動は、明治維新も一段落ついて、古い封建制度がすさまじい響きをたてて崩れ落ちた後に日本資本主義が勢いよく新しい芽を出しかけた風潮に乗って、活発な運動をこの地方で始めていたのであった。森町にも報徳社が設立されていて、社長の新村理三郎氏宅で毎月社中の集会があるということを知った父は、その日を待ちかねて出かけて行った。そして、書物ではまだ解りかねたいろいろの点についての詳しい教えを新村氏始め社中の先達の人々から聞き、これが日常の実生活の上に生きた指導をする教えであることを知ってますます深く信ずるようになるとともに、自分の今までの考え方が、この教えとは全く正反対であったことに寒中ながら冷や汗の流れる思いをしたのであった。そうなると、また自分の本当に得心のゆくまでは究め尽くさなければ気のすまぬ性格であるから、集会の日までは待ちきれないで出かけて行って、見当たり次第の先達(せんだつ)をつかまえて質問をする。腑(ふ)に落ちなければ落ちるまで議論をするという調子であった。本来報徳の人は謙譲の美徳を尊んで人と議論するというようなことはない。それを父は、目上の人であろうが、さしつかえのあるような事柄であろうが少しも仮借(かしゃく)もせずにやったので、たちまち「論客」というアダナを社中からつけられた。それくらい猛烈だったのである。菓子製造などは男子一生の仕事とするに足らない。実業家として功を立て名を成すには大金儲けのできるような事業でなければ、し甲斐がないと、無理やりに家業を棄てて、製茶貿易といえば聞えはいいが茶の思惑に走ったのである。それが今、二宮翁の遺された報徳訓には、「誠心をもって本となし、勤労をもって主となし、分度を立つるをもって体となし、推譲をもって用となす」とあって、人間の尊さは、まず第一に誠である、真心である。これさえあれば、仕事はなんであろうと大した違いはない。本当の貴さは、それに従事する人の心であって業ではないということを知らされて、今までの考えが迷いであったことがハッキリと解ったので、その夏ごろには、父は再び家業に帰ろうと決心をした。しかし、この両三年製茶貿易に従事して、既に仕入れた新茶も大分あるので、それを売ってしまわなければ止めるわけにもゆかない。そこで、父はその荷をもって横浜へ売りに出かけて行った。ところが、その時はあいにく茶の相場が非常に暴落していた時なので、諸国からこの港へ集まって来ていた製茶貿易商は、みんなこの地に滞在して相場のあがるのを待っていた。父もやむを得ず、やはりそうするより外に仕方がなかった。今までならば、こうした時には知合いの商人同士で碁か将棋でもやるとか、相場の予想や商売の自慢話をしあうとか、または近くへ見物にでも出かけるとかで、少しも退屈はしないのであったが、今度はそういう訳にはゆかない。うちに目覚めた道心にうながされて、一日も早く手持ちの茶を売って家業に帰りたいと思い立った矢先であるからジリジリせざるを得ない。ジリジリ焦っても相場はどうにもならない。前には。これも儲けのためと思って辛抱できたが、今度はそうして儲けることそのものに意義を見いだせなくなってしまったのだから、そのためにこうしていたずらに日を過ごしていることが目的のない生命の空費のように思われて、実に堪えられない感がしてきた。そうなことを開け放した宿の部屋の中で独りポツネンとかんがえこんでいると、フト近くで子どもが読本のおさらいをする声が高々と秋の空に響くように聞えてきた。それはなんだか、自分の思い切りの悪い態度を叱責する天の声のようにさえ思われる。自分が22歳になるまで、人生の目的は金儲けにあるもののように思いこんで平気でいたのは。小さい時から家業に没頭して、少しも読書するとか修養するとかいう機会がなかったからのことだ。現に最近まで同町内に報徳社があるということは薄々知りながら、報徳などというものは、朝早く起きたり、金をケチに溜めることだくらいに考えて、こんなに手近にありながら深く研究しようという気さえ起こさなかったのは、みんな文字の道から遠ざかってしまったからだ。このごろは文明開化の世の中になって来て、あんな子どもさえ一生懸命で勉強している。このままでいたならば自分は全くこれから先の長い生涯を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまうのだ。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。時は命だ。命は金では買えないのだ。そう考え出したら例の気性で、もう一刻もジッとしてはいられなくなった。立ち上がって単衣(ひとえ)の帯をしめ直すなり、父は表へ飛び出した。そして、取引先の問屋へ一直線に入っていった。父の勢いこんだ様子に、帳場机によりかかりながら鼻毛を抜いていた問屋の番頭さんは先ず驚いたが、今即座に持荷全部を買ってもらいたいう申出を聞いて、再び驚かれた。「それは、お引取りせぬこともありませぬが、せっかく今までご辛抱なさったのですから、もう少しお待ちになってはいかがですか。そのうち外国船が入港しましたら、きっと値が出るにきまっておりますから・・・」と親切にいってくれたが、そんな忠告は、もう父の耳には入らなかった。「いえ、どうしても、それまで待てない事情がありますので・・・」と無理に頼んで仕切ってもらった。 その金を懐にするなり宿をたった。鉄道は明治5年に東京横浜間が、同じく7年に大坂神戸間がようやく開通したばかりで、東海道は膝栗毛に鞭打つより外に仕方がなかった時代なので、もう9月とはいいながら残りの暑さに照りつけられて油汗を流しながら箱根八里の峠を越えて、松並木の長い長い東海道を一向に歩いたのであった。自分の1時間は、子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。そう思うと、汗をふく暇さえ惜しまれた。
2024.04.03
鈴木藤三郎報徳日めくり2日 「よし、製茶貿易をやろう!運命が温かい手を自分にさし伸ばしていてくれるかわからない。それは、やって見るより外に知りようはない。」「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) 鈴木藤三郎の年譜が6期に分れて記述されている。1期は「報徳」の教えを知るまでである。 年号(年齢) 鈴木藤三郎にかかわること 地図 社会のようす1855[安政2] 11月18日、森町本町に生まれる 1 1853年ペリーが 幼名は才助(父・太田文四郎、母ちゑ) 浦賀に来航1859[安政6] 鈴木伊三郎の養嗣子(家督相続をする養子) 2 (4歳) となる。<7~11歳まで寺子屋に通う。> 1867[慶応3] この年の初春から家業(菓子製造)に従事 1867豊田佐吉が (12歳) する。 生まれる。 1868明治維新1874[明治7] 家督を継ぎ藤三郎と改名。製茶貿易を始める。1876[明治9] 「報徳」の教えを知る。安間かん と結婚。 (21歳) (報徳館は明治26年建立・現在取り壊し) 3「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著) 父は8歳になると寺子屋にあげられた。その頃から、」また随分強情な子どもであった。思い立ったことは、どこまでもやり遂げるというその強情さは、近所隣りでも評判なくらいだった。こんなこともあった。ある時、養母から言いつけられて紺屋(こうや)へ使いに行った。頼んだ物は、まだできていなかった。「あさっていらっしゃい」と言われた。それで、翌々日また行った。ところが「紺屋(こうや)の明後日(あさって)」(約束の期限が当てにならないこと。紺屋は客に聞かれればいつも「明後日に染め上がる」と請け負うが、その日になればまた「明後日には」と言い抜けたことから。藍染めは天候に左右されるから、なかなか約束通りには仕上がらない)で、まだできていず、また「あさっていらっしゃい」だった。そこで憤然とした少年の父は、「もう、そんなにたびたび、お母さんに『まだできていません、まだできていません』という訳にはゆきません。できていなければ、できるまでここで待たせてもらいます」と入口の縁台に坐りこんで日が暮れても、どんなになだめても帰ろうとしない。これにはさすがの紺屋のおやじさんも閉口して、おかみさんを養母の所へあやまりにやって訳を話して、養母から帰るようにという使いをよこしてもらったので、ようやく父も帰ったという話もあるくらいである。なんでもやりかけたら自分で得心するまでは、いちずにそれを究めなければ承知しない。そして、どんなことでも在来のやり方を踏襲するのではなく、そこに新しい方法を工夫するというのが、生涯を通じての父の性格の大きな特長であった。「雀百まで踊り忘れず」というから、少年時代の父にも必ずこうした性癖は多分にあったと思われる。それであるから菓子製造でも行商でも、やりかけた以上はきっと熱心に色々工夫してやったに違いない。行商先でも見慣れぬ菓子を見かけると、すぐ手にとって割ってその製法を調べた。「どうも才さ(父の幼名才助)が来ると、店の菓子を割られるので困る」とよくいわれたという話が、現に今でも残っている。そのくらい少年時代から研究心は強かったのである。負け嫌いの父は、もとの寺子屋仲間などから自分が貧乏人の子であると馬鹿にされるのがヒドく嫌いだった。ハンテン股(もも)引きで菓子箱かついで行商に行く姿を、友だちに見られるのをイヤがるようになった。それで、朝は星があるうちに出かけ、夕方は月が出てから帰ってくるのが常になった。養父母は、少年の父が商売に身を入れるのを喜んだ。しかし、時々明るくなるまで寝すぎることがあると、その日はなんといっても一日行商に出なかった。そうした日には養父母たちは、ふだんあんなに稼ぎ手の父の気まぐれを、不思議がったものであった。こうしたことがたびたびあっても、とにかく、家業に精を出すとともに飴や菓子の製造も自分より遥かに上手にやる若い父を見て、老いの坂を登りかけた養父はすっかり安心したものであろうか、54歳の明治7年に、まだ20歳の父に家督を譲って隠居してしまった。父は戸主となると同時に、藤三郎と名を改めた。青年はとかく血気にはやりやすいものである。(略)遠江国は、昔から京都の宇治とともに茶の産地として有名である。宇治の茶は内地向きであるが、遠州の茶はこの頃から輸出向きとして大量に取引されていた。その頃、茶は生糸に継ぐ第2位の重要輸出品であったから、森町にもそうした製茶貿易に従事している人が幾人かいて、中には相当な成功者もあった。もちろん、まだ通信運輸の機関も倉庫設備も極度に不備な時代であったから、これは全く運を天に任せるような非常に投機的な事業であったが、それだけに一つ当ればすばらしい大儲けがあったし、そうした事業に従事している人々の生活は常に散っているように花々しく、なま木がくすぶっているような自分の生活にくらべて、本当に男らしい生きがいのある生活のように思われた。「よし、製茶貿易をやろう!古来から英雄豪傑と称えられている人は、必ず一生のうちに幾度か乾坤一擲(けんこんいってき)的な運命との格闘をして、みごとにこれに打ち勝った人である。いま製茶貿易の成功者とうたわれている人でも、智恵才覚で必ずしも自分の手の届かぬほどのところにいる人ばかりとも思われない。ひょっとして運命が、どんなに温かい手を自分にさし伸ばしていてくれるかも解らない。それは、やって見るより外に知りようはない。万一失敗しても、一生を駄菓子屋で終るよりはよいではないか!」 幾日かの思考の後に、そう決心がついた。心が決まったらすぐそれを実行に移す、誰がなんといおうとやり通す、これがやはり父の生涯を貫いての性癖であった。父はすぐ養父に自分の考えを述べて、その許しを乞うた。しかし、穏やかな宿場町の一介の菓子商として別に不足らしい心を起したこともなく年老いて来た養父に、父の気持が解ろうはずはなかった。『製茶思惑などというものは、儲けて喜んでいる一人の裏に、損して泣いている百人があるのを知らないか。お前のように無経験な若い者が、そんなものに手を出したら損するのは目に見えている。結局は、本業の方まで立ち行かないようにしてしまうのが落ちだ。飛んでもないことを考えるやつだ。』と父の申出は、たちまち養父に一蹴されてしまった。しかし、そのくらいのことでへこたれる父でもない。毎日毎日、根気よく父一流の理屈をたてて養父を説き伏せようとする。養父はまた若い者の屁理屈と、耳に入れようとしない。こうしたことがたび重なると、時には大きな声を出しあうようになる。今まで、まことに平穏であった家庭の中が烈風に吹きまくられるサバクの中のようになったばかりではなく、血気一途に思いこんだ志望を実現することのできない父は悶々の情にたえかねて、今まで働き手と評判をとった家業までも顧みないようになって来た。 父子相克のこの間にはさまって、一番苦労したのは養母のやすである。やすはどっちかといえばお人好しの夫伊三郎とは違って、中々男まさりの強い気性であった。それだけに父の強い性格に対しても、夫よりは理解があった。「このままでは貰い当てたと近隣の羨望の的になっている養子の一生を狂わしてしまうかも知れない。それはまた、自分達の晩年を路頭に迷わせる結果になる。結局同じことなら、今のうちにできるだけ本業に支障のきたさない範囲で、やらせてみるほうが利口である。やってみたら、若い者の一本気で思いつめている養子の気も、冷静に考え直す余裕もできてくるであろう」と思案した。それで極力夫を説いて、父の申出に同意させた。そして菓子商の方は元々どおり養父が受け持って、父には1年ほど知合いの製茶貿易をしている人につけて見習わした上で、他所からささやかな資本を借りてやって、その範囲でその商売に従事することを許した。 熱望をようやくかなえられた父は、手綱を放された奔馬のように巨富を得るという目的のためにはあらゆる権謀術数を弄し、奸計を廻らすことも辞せずに努めたつもりではあったが、もともとそうしたことは性格的に不適合である上に、資力は少なく無経験であったからなかなか思うような結果は得られなかった。 このようにして翌明治8年も父は焦燥のうちに過ぎた。(略) 家を外にしがちの息子には、女房でも持たせたら少しは落着くであろうかという考えは、今も昔も変わらない親心であるらしい。父の養父母も、またそれを考えた。この1,2年あれこれと探し求めたあげくに、同じ町の天ノ宮(あめのみや)という所に住む安間両助の次女かんという気立てのよい娘を橋渡ししてくれる人があったので、父にも勧めて貰うことになった。 明治9年1月15日に若い2人の結婚式は挙げられた。この時、藤三郎22歳、かん17歳であった。
2024.04.02
鈴木藤三郎報徳日めくりカレンダー1日 「こんな美しい音を出すこの土鈴の内部は、どんな素晴らしい仕掛けがしてあるのだろうか?」「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」(鈴木五郎著)鈴木五郎氏は鈴木藤三郎のご子息である。西田天香氏指導する一燈園生活に参加して無所有奉仕の生活を行っていた。昭和13年の春、作家の山本有三氏が一燈園を訪問した時、案内したのが五郎氏であった。案内の後、山本氏に問われるままに、一燈園入園の動機や亡き父(鈴木藤三郎)の思い出話をしたところ、山本氏はこれに非常な興味を持った。それでは記録してお手元に差上げましょうということで、記録を収集し綴ったのが「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」である。後に「鈴木藤三郎伝」として昭和31年に東洋経済新報社から改版して出版されている。きちんとした鈴木藤三郎伝は現在のところこの2冊しかない。これらは発明王としての側面は詳しいが、報徳との係わりについての記述が少ない。そこで「報徳記を読む会」では「報徳社徒 鈴木藤三郎という人」という報徳との関連の資料を一部収集した小冊子を作成した。今後、鈴木藤三郎の一次資料(日記・手紙等)に基く詳細な鈴木藤三郎伝が望まれる。 父(鈴木藤三郎)はこのように開国の気運が大波のようにわが国に襲いかかっている安政2年(1855)に静岡県周智郡森町に呱呱(ここ)の声をあげたのであったけれども、当時は、もとよりこの国内の大動揺が波及するにはあまりにも草深い遠州秋葉街道の一宿場、森の小商人の小せがれにすぎなかったのであるから、夏は前の太田川で水を浴びたり、秋は後ろの森山へ栗拾いに行ったりして事もなく幼い日を過ごしたのであった。 安政6年、父が5歳の3月5日に同じ森町中町の鈴木伊三郎(文政4年4月27日生、養母やす天保元年8月15日生)の養子として貰われた。養家も生家と同じように貧しい菓子商であった。 その頃のことである。ある時、父は向かいの小父さんから土産に一つの土鈴をもらった。貧しい家に生まれ、貧しい家に貰われてロクな玩具(おもちゃ)一つ持っていなかった幼い父には、それが飛び上がるほどに嬉しかった。ソッと耳のはたで振ってみると、コロコロというよい音がする。それは、春さきに田んぼでなくカエルの声よりももっと好い。まるで魂の上を柔らかい羽箒でなぜられてもしたようにウットリとせずにはいられないような音だった。幼い父は、幾度かその土鈴を振って、夢心地の快感にひたっていた。 しかし、やがて父の心の上に、晴れわたった青空の片隅にいつの間にか一片の雲がわき出るように一つの疑問が首をもたげてきた。それは、「こんな美しい音を出すこの土鈴の内部は、どんな素晴らしい仕掛けがしてあるのだろうか?」それを知りたいという好奇心である。父はその、土鈴の細く開いているワニ口に眼を押し付けて、息をこらして中をのぞいて見た。だが、中はまっくらでなんにも見えない。振っては中をのぞき、また振っては中をのぞき、そうしたムダな努力をどれだけ繰り返したことだろう。その努力がムダならムダなほど、父の好奇心は強まらないわけにはゆかなかった。青空のようだった幼い父の心は、今は、もうすっかり好奇心の雲でおおわれてしまった。 もうこの上は、この土鈴をこわして中の仕掛けを知るより外に方法はないという考えがフト浮かんだ。しかし、どうしてこの大切な土鈴をこわすというような馬鹿なことができよう。そんなことをしたら、この魂をくすぐられるような天来の妙音は永久に聞かれなくなってしまうではないか!そんなこと、考えただけでも魂が凍るようだ。父はその悪魔のようささやきのような考えを振り払うように身震いをして、てのひらの中の土鈴をシッカリと握りしめた。だが、その時は、もう悪魔のカギのような鋭い爪は父の心に深く突き刺さっていて、残酷なまでに幼い好奇心をかき立てていた。幾度かの躊躇の後で、死ぬような苦しい思いをしながら、とうとうその土鈴を割って仲の仕掛けを見ようとする決心をせずにはいられなくなってしまった。 父は軒先の雨落石の上に、その土鈴をおいた。そして、やや小さい石をさがして右手に持って振り上げた。もしその時、父の顔を見ていた人があったとしたら、幼児でもこんなに深刻な表情をする瞬間があるかと驚いたことであろう。やがて震えながら挙げられていた小さい手が、振りおろされた。それは父にとっては、自分の心臓を打ち砕くのと同じ努力であり苦痛であった。その手の下でガシャっというかすかな音がして、土鈴は幾つかの破片となって飛び散った。そしてそのカケラの間から豆粒ほどの小石がコロコロと転がり出した。それが、この神秘な音の唯一の種であった。それが幼い父が死ぬほどの思いをして探知しようとした仕掛けの全部であった。それを知った時に、父は始めて大きな声を放って泣いた。ケガでもしたかと、養母が驚いて駆け出して来たほどに大声で泣いた。それは悲しいばかりの、口惜しいばかりの涙ではなかった。むしろそれは大人が命がけの仕事をやりとげた後でひとり静かに流す涙、それに近い涙であった。 こんな好奇心は幼児の特色であり、誰でも幼い時に必ず一度や二度はやっていることではある。しかし、大人になってまでも記憶している者はほとんどない。父はこの自分の幼時の経験を、晩年になってからも昨日の印象のようにハッキリと子らに物語った。老年になっても記憶が消えないくらいに父のこうした探究心は、幼時から異常に強烈なものであったらしい。「三つ子の魂百までも」というが、このあらゆる事物に対する異常に強烈な探求心こそは、父の生涯を貫いての性格であった。
2024.04.01
真に惜むべき人 本会評議員家庭学校長 留岡幸助 ◎二宮翁50年記念会と鈴木氏 わたくしが鈴木氏と相知るに至ったのは、報徳の道を研究するに至ってから後の事です。ちょうど日露戦争後、戦後経営をいかにすべきかという問題が、官民有志の間に講究されつゝあった際、わたくしども同志の者は、これはどうしても道徳と経済の調和を図らなければならぬという事に一致し、さてその方法はいかにすべきかという事になったが、ちょうどその年は、報徳の教えを説いて、自らこれを実行し、その成績を挙げた二宮尊徳翁の50年忌辰(ねんきしん)に当るから、翁の記念祭をやろうという事になった。その時、これが協議にあずかったのは、内務省の有志を中心として、農商務、文部両省の有志、並びに大学教授や、民間有志等であった。この協議会は5,6回も開いたのであったが、事情あって思うように進行せぬ。かくて期日もだんだん迫って、わずかに1か月を余すに過ぎざるに至った。そこでわたくしはある日鈴木氏に電話をかけて話をしたところ、鈴木氏かは「どうかやってくれ」といわれるので、わたくしは費用の事をありていに答えたところ、「一体どのくらいかゝる予定です」と聞かれたから、わたくしは「多分5,600円もあったらできよう」と答えたところ、鈴木氏はカラカラと笑われて、「それでは自分が2,000円出そう」と言われた。これで金銭(かね)もできたので、遂に明治39年の11月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至ったのである。鈴木氏は、この2,000円の外にさらに1,000円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付したのであった。 ◎報徳会の大恩人 鈴木氏が報徳の教えを鼓吹するために尽されたことは、まことに多大なるものがあった。1万円を投じて野州今市の二宮神社内に報徳文庫を作り、相馬の二宮家に在る翁の遺著9千余巻を浄写せしめて、これを保存し翁の遺書の散逸を防ぎ、兼ねて篤志なる研究者の参考に資したごときは、最も推賞すべき事であろうと信ずる。 自分は日露戦争後、「報徳記」を英訳せしめたいという希望を持っておったが、これは2,500円くらいの経費を要する予定であった。鈴木氏もこの挙に賛成の意を表しておられたから、出金してくれといったならば、これも喜んで出されたことと思ったが、遂にそれには及ばずに沙汰止みとなったのであった。 また我が報徳会にとっては、実に大恩人であった。報徳会の今日あるを得た事は、鈴木氏の努力に真にすくなからざるものあるを信ずることであった。 ◎61歳より新生涯に入るの決心 鈴木氏は、東海道の佐野駅より数町(ちょう)離れた所に、130町歩の農園を作っておられたので、その所在地たる駿東郡の実業団体の牛耳を取っておられた。明治41年頃と思うが、私は招かれて、同農園へ行き、一泊して、農場を視察し、一緒に汽車に乗って帰京したことがあった。その際、公共事業の事について話がはずんだが、鈴木氏の言われるのに、「私は61歳になったら、実業界から退いて、報徳を中心として公益のためにこの身を捧げたいと思っている。その時はこの佐野の農場を本陣として、同志の人々のためにあすこを開放して、自由に来泊を請い、あすこから天下に呼号して打って出たいと思っている。」と熱心に語られたことでした。 その時言われるのに、「今仮にその際、自分の財産が300万円であると仮定すれば、200万円を事業と子孫のために残し、自分は100万円を持って佐野に引っ込みたいと思う。」とのことでした。そこで予はいうのに「君が61歳以後の生涯のほうが、真正(ほんとう)の価値(ねうち)ある生涯であろうと思う。米を多く取ろうと思えば、稲を十分に生育せしめなければならぬ。今日の君の事業は、即ち稲を作って、収穫の準備をしておらるゝのである」といったことでした。 ◎慰問の夕 その後鈴木氏の大失敗の噂を耳にしたので、早速予はこれを訪問せんがため、黄昏時(たそがれどき)から自転車を飛ばして、小名木川の家を訪問したのである。時は一昨年も将に暮れんとする12月23日の晩の事でした。その時番頭が出て来て、「実は非常な場合でして、誰にも会われないのですが、あなたがいらっしゃったことを伝えますと、非常に喜ばれてお会いするとのことでした」といった。それから部屋に通ると、すぐに鈴木氏が出て来られ、老母(おばあさん)や、養子や、番頭まで出て来て、いろいろ精神上の話が出た。その時、鈴木氏がいうのに「昨日130万円の責任を引き受けて会社を出てしまった。自分はこれまで10年ごとに大失敗をして、今回で3回目である。これを航海に譬えると前2回は難破したのであったが、まだ船に乗っておったからよかったが、今回は船まで取られたのであるから、大いに弱った」と嘆息しておられたのであります。そこで自分がいうのに「それは君にも似合わぬ弱音を聞くものかな。一体これまでいろいろ専売権を得た発明は誰がしたのか、君の頭脳(あたま)がしたのではないか、すれば頭脳が残っておる間は大丈夫でないか」と励ましたことであった。 ◎失敗の原因について自ら語る 鈴木氏は、最後の失敗の原因について語っていうには、小名木川では、300万円の資本で、好評を博したのであったが、岩下清周氏がやって来て、君一個の事業として小資本でやるよりは、他の資本をも集めて、一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、そもそも失敗の原因であった。300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった。今度は実に地雷火にかゝったようなもので、粉微塵にされてしまった。これは青年実業家の好規鑑である。ただ遺憾に思うのは、鈴木は始めから山師であるという世評である。もし自分が真に山師であるならば、自分が最大の株主になるような事はしないはずであるといって、世評に対する不満の意を漏らしたのである。 ◎紛々たる世評を意とすることなかれ そこで自分はいうのに、それは君の平生にも似合わぬ繰言である。天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷(しゃしょく)のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。 その際自分は、ちょっと横を見ると、老母が私を拝んでおるのが眼に入ったが、その当夜の光景は真に厳粛な光景で今もなお眼前に見るごとき心地するのである。 ◎精兵と傭兵 私は鈴木氏が、300万円の会社をば、一躍千万円にして失敗を招くに至った事は、実に鈴木氏の言のごとく、余程有益な教訓を後の事業家に与えておると思う。300万円にするには、一歩一歩成長したのであって、事務員のごときも、皆鈴木式に訓練された精兵であった。然るに一躍千万円に膨張したため、十分に人選する事もできず、いわば傭兵である。故に会社の利益等のことは毫も考えず、自己の利を図るに至った。そこで不正の行為が発覚して、免職になるものができる。そういう人は、腹立ちまぎれに、有る事、無い事を吹聴した。「サッカリン」を入れるという事も、これらの人々が、世間へ向って荒立てたためである。 ◎商略を誤る もう一つ鈴木氏が脆く倒れた原因は、従来は報徳の道に従って富を得、名を成したのであるが、今回の事業は報徳の道に反しておったからである。なぜなれば、鈴木の醤油が成功すれば、日本在来の醤油屋は倒れるか、少なくても弱くなる。即ちこれを敵に取っての事業であった。もしこれに反して、己れ立たんとすればまず人を立たせという風な実業であったならばよかったと思う。即ち専ら外国に売り弘めるというような方針をとっておったならば、かゝる脆き失敗は招かなかったかも知れぬと思う。鈴木氏が、今度は地雷火にかゝったので、全滅であるといったが、実にその風があった。 ◎捲土重来の意気 予が慰問した夜(よ)、鈴木氏の言われるのに、今から10年か15年かかったならば、また創痍を癒やすことができようと思う。目下、乾燥機器を発明したがその成績は大いによいから安心してくれとのことであった。その後わたくしは所用あって、新橋から地方へ行こうと思った際、偶然停車場で鈴木氏に邂逅した。その時、予は2等の切符を買っておったが、鈴木氏は3等の切符を持っておられた。そこでどうしたのであるかと聞いた所、二宮翁の分度法によって、回復するまでこれでやる決心であるということであった。予はこれを聞いて必ず氏が回復の期があることを信じておったのである。病中にも、もう一度好くなりたいということをしばしば言っておったが、これはその所期を遂げたいという熱望があったからであろうと推察する。 ◎真に惜しむべき人 予は多くの実業家を知っているが、あれほどの人物はあまり多く見ないのである。意志が強固で、勉強家で、発明の才があった。いくたび失敗してもこれに屈せずして再び崛起(くっき)するの気力は実に豪(えら)いものがあった。今一度回復したならば、ただに実業界のみならず、我が国の利益となったことが少なくないと思う。また報徳の教えからいっても実に惜しい人を失ったものであると追惜の情に堪えない次第である💛「クロムウェルは多年奸雄とされていた。ところがカーライルが雄勁なる筆をふるってクロムウェルは大忠臣でその身の毀誉を顧みなかったと冤罪をそそいだ 君も毀誉褒貶を眼中に置くな」と留岡幸助は鈴木藤三郎を慰めた私たち「二宮尊徳の会」がやっていることは、カーライルがクロムウェルの真の価値を世に示したように、鈴木藤三郎の真の偉大さを世に示すことにほかならない。森町のMさんが「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」第2集を作成したいという。すでに第1集、第3集は出版済みである。第2集は「鈴木藤三郎はいかにして遠州報徳の風土から出現したか」を扱う。「素晴らしい、ぜひお願いします。現在作成中の『現代語訳 安居院義道』など『報徳の師父』シリーズは鈴木藤三郎顕彰第2集の資料集にあたるものです」
2024.02.18
尊徳先生は『人道は、今日を明日に譲り、今年を来年に譲り、天の恵みを受けて地に施し、親の恵みを受けて子に施し、譲り譲って人道は立ち、世界は相続するのだ。』と言われています。つくづくと親の恩はありがたい。私たちが今ここにあるのは親や先祖のおかげ、その受けた恵みを子に返す。仕事で先輩に受けた恵みを後輩に返す、そういうことで世の中は回っている。鈴木藤三郎は、報徳を研究して分ったことは、人は生まれながらにして世の中の人の恩を受けてここにいる。大学者でも先人の学者の研究があって、始めてそれを発展できる。そうであるならば、その恩に報うために一生懸命働いて次の世代に何かしら付け加え残しておかねばならない、そういうふうに考え、それを実践した。自分は生まれながらにして、徳を受けている、だから生涯をかけてその徳を報いていかなければならない、それが報徳である、それを生涯実行する。すごいですよね。」■報徳秘稿【54】恐れても恐るべきは、受財の楽しみ。勤めても勤むべきは、苦しみの施財也。受財の楽しみは畜生の道也。苦しみの施財は人道の元也。夫れ、禽獣は奪を知りて譲をしらず。故に、開闢以来今に至て安堵の地なし。人道は大神宮以来、今日を明日に譲り、今年を来年に譲り、天の恵みを受けて地に施し、親の恵みを受けて子に施し、譲り譲りて人道立ち、世界相続をなす。元仁義と云い、礼譲と云う。皆己が手の向えたる時の名也。己が手前へ向かう時は、仁も仁にあらず。礼も礼にあらず。勤むべし。恐るべし。
2024.02.18
「分度推譲論」(「明石講演集」110~125ページ) 日本醤油醸造株式会社社長 鈴木藤三郎 ▲実業に応用せる分度推譲 私は今回この席に於いて御熱心なる諸君とお目に掛かることを得ましたのは、深く光栄と存ずる所であります。それで私はご挨拶かたがた、いささか所感を一言述べようと思います。私がお話致しますのは、分度推譲ということでございます。しかし昨日来諸先生から、報徳又は至誠勤労、分度推譲ということについては、懇々深遠なる御講演がありましたから、今更私がなおこの分度推譲論などとやかましいことをお話するようなことは、はなはだ柄にないことでございます。しかしながら私がことさらに分度推譲とここに掲げましたのは、ただこの分度推譲を実業上に応用致しまするには、どんなことであろうか。私がこれより述べんとしまするところは、この分度推譲を、商業工業の方面に応用をしますれば、かようなものではありますまいかという、ただ自分の推断に過ぎぬことでございます。それでこの問題に入らぬ先に、私は甚だおこがましいお恥ずかしいことでございまするが、一言最初に二宮尊徳先生の教えを信ずるになりました概略を申し上げまして、それからこの分度推譲ということを、いささか自分の本業に、応用と申すほどではございませんが、これを試みました積りでございますから、この事を申し上げたいと思うのであります。どうぞしばらく御清聴を願います。 ▲青年時代に於ける余の理想 私は甚だお恥ずかしいことでありますが、元来昔者で12,3歳までは、一向世間の事を知らぬでおりました。ただ夜が明ければ起きて働き、食っては寝るというだけのことで、何のこともございませなんだ。20歳頃から、少しく自分に欲が出来ました。どういう訳で欲が出来たかというと、どうも同じ人間でありながら、立派な風をしている人もある、又金を積んで大層威張っている人もあります。私も初めて金を貯めて富をなしたい、富をなして、その富が出来たならば、自分の好き勝手なことをしたいものであるということです。それはやや大人に成りかけたときに考えたことであります。それでこの富をなすということは、到底尋常一様のことではいけない。ただ働くくらいのことではいけない。何か深く研究して、余り類のないことをせんければならぬ。又自分が富を作るには、人はどうなろうと構わない、又構うておれない。なんでもかでも自分の利益であるならばよろしい、こういう覚悟でなければ到底富は作れないと、単純な考えを持っておりました。それから僅かな商売を始めまして、その方針でやっておりました。然るところ23歳の時に、始めてある機会からこの二宮尊徳翁の報徳という教えを先輩から聞きました。その頃私が思っていた考えは、人は専ら奪わねばならぬ、弱い者は突き倒しても、己れの利益になることならば何でも構わぬ、やっていかねば富は為せぬと、こう思っておりました。 ▲思想変遷の動機 ところが二宮翁の教えを聞きますと、人は専ら譲らねばいけない。奪う者は人ではない、奪う者は禽獣である。禽獣は己れのために奪い、人は他の為に専ら譲るべきものである。それでこれを推譲という。こういうことを聞きましたが、これが動機でございました。しかし動機というても、すぐに私は感服した訳ではない。まだ道理が分りませなんだ。しかし二宮尊徳先生は偉人であるということは聞いておりました。それで私よりズッと先輩で、嘉永年度から報徳のことを信じておった人がある。その人によく聞いて見ると、富を得られぬものは推譲をせよ。推譲をすれば、人を益し我も益するもので、富この中にありとこういうことでありましたから、それが動機となりまして、段々先輩についてこの報徳ということを聞いたのでございます。その当時は、ただいまのように報徳の書物がなかった。それでまず先輩について聞くより外に途(みち)がございません。それからアチラコチラの先輩諸氏について段々報徳の教えを聞きまして、しこうしてその結果、これはどうも尤もなことである。今まで自分が考えていたことは恥ずかしいことで、いかにも禽獣の道に近い。誠に危険なことであったとこう思いました。それから私は甚だふつつか者ではございまするが、今日に至るまでこの報徳ということはこれを宗教のように信じているのでございます。 ▲報徳教の体たる分度 その時、私が最も感じましたのは、分度推譲ということでございます。それは御承知のごとく、昨日諸先生の説かれました、至誠を以て本となし、勤労を以て主となし、分度を立つるを以て体となし、推譲を以て用となす。この四綱領が報徳の道になっております。然るところ至誠、勤労ということは、これは申すまでもなく、又二宮翁が申されぬでも、古来から充分に唱えられておりました。しかしながら私が研究したところでは、この分度を立て、推譲をするということは、これは二宮先生の独特の発明であると考えております。たとえ至誠勤労がありましても、この分度を立て推譲するということが、これに関連しませぬと、満足なる道とは申されません。それでいささかこの分度ということについて申し上げます。私が当時・・・・・・若いときに研究したことを申しますが、御承知のごとく、元来分度というと、聞きが悪い言葉で、分度を立てるなどということは、余り気の利いたことではないと思われる。そこでよく世間で報徳を研究なさらぬ方が、ただ一般に倹約ということと、報徳の分度ということを、ややもすれば混同いたしますが、この倹約貯蓄ということは、つまり度を立てる方でありはせぬかと思う。分度というときには、天分である。天分に応じて度を制する、これが分度ということになるそうでございます。人に応じて天分がございます。この天分についても種々なる疑問が百出ます。それでこの天分と申しましても、その天分がいつまでその人に分があるというような意味ではないようでございます。今日現在有りのまま、すなわち今日只今のところが、すなわち天分で、・・・それでその人が度を立てて推譲を専らにすれば、その天分は日々刻々よくなって来る。今日の天分は明日の天分とは違います。本年の天分は明年の天分とは違います。それで何によってこの天分のことが、二宮先生の教えであるかというと、「遊楽を分内にし、貧苦を分外に退けば、貧賤この内にあり。遊楽を分内に退け、貧苦を分外に進め富貴その内にあり」ということがいうてございます。遊楽すなわち遊び楽しむことが、自分の天分以外に進み、それから勤勉を知ることが天分以内に退くときには、いかなる富者でも貧賤に陥る。又いかなる貧者でお、遊楽を分内に退けて、遊ぶことを分内に縮め、それから働くことを分外に努めるときには富貴になるということでございます。でございますから、この天分なるものはその人によって自在に伸縮が出来ます。然らば分度を立てまするには、今日只今自分の身分に従って度を立てまするのが、すなわち分度であるということだそうです。しかしながら又そこに疑問が起こります。何が故に人は窮屈千万なる分度を立てねばならぬものであるか。もしこれがある人は分度を立ててやる。ある人は分度を立てなくてもよろしいという訳なれば、これを一般の道とは申されません。この勤労、分度、推譲ということは、何人でも行うべき大道であるとしてございます。大道なれば皆これによらなければならぬ。しこうすると何が故に人はこの窮屈なる分度によらねばならぬのであるか、こういうふうに段々詮索をして見ました。然るところこの分度ということは、すなわち一つの手段で、分度を立てるということは手段に過ぎぬと私は思う。これは何のために分度を立つるものであるかといいますと、人の最も慎まなければならぬ推譲を専ら行うと致しまするには、ぜひともその分度を立てなければならぬ。そこに至って分度が必要となって来るのであります。それでこの推譲を以て用となし、至誠を以て本となし、勤労を以て主となし、分度を立つるを以て体となすと四つに分かっております。 ▲報徳教の用たる推譲 又この推譲ということは、どうして人がせねばならぬか、なぜかくのごときし難いことをいたさねばならぬかというと、推譲をすると、他を益し自らを益するという、誠に両全のことであります。他を益し己れを益するということは、人として嫌う者はございません。まずこの分度を立てまするには、推譲は離るることが出来ない。こういうことをよく承知いたしませんと、分度を立てることが出来ません。それでこの推譲のことにつきまして、二宮先生のいわれていることがございます。『譲って益する、奪って損する』、又曰く『人間の他の動物と異なる所以は推譲にあり』と、こういうことが言うてある。動物は皆この手足が前へ掻くように出来ている、これは奪うことをする天然の形だそうで、人間の手はこの方へも来るが、向うへも押せる、これは推譲をせねばならぬように身体が出来ているのであると、こう二宮先生はいわれております。それで古来から譲るということの尊いことは、これは独り報徳の教えばかりでなく、全ての道において奨励しております。それで聞くところによると、支那古代の帝王は国を譲り、家来を譲り、又あぜを譲るというようなことが書いてあるそうでございます。こういう訳で、推譲の尊いことは外の道にもたくさんいうてございます。けれども推譲ということは、普通一般にいうところでは、人の偶々なすところを多く意味するようでございます。然るにこの二宮先生の教えられたるところの推譲ということは、偶々なすところの譲りではございません。明けても暮れても、人は生涯毎日譲りを離るることは出来ません。それで推し譲る、これを推譲というので、明けても暮れても毎日譲らなければならぬと、こういうのであります。余程普通一般に言い来ったところの譲りということとは力が強くなる。いかなる場合にも譲る、時々刻々譲をなさんなければならぬ、これがすなわち推譲ということになっております。 ▲推譲は誰にでも出来る それからこの分度を立てて推譲をなすということは、その当時の先輩が私共に教えまするのに、ある身代のある人があって、その人が善いことをなし、まず分度を立てて、しこうして余財を四方に推譲したと、こういう風に説いておりました。それでその分度を立てて推譲をなすということは、身分が中流以上の人でなくては出来ぬように聞いておりましたが、それはどうも私は尤もとは思えません。何となれば中流以上の人でなくては出来ぬということは、人の道とは申されません。人の道なるものは誰にでも行われなければならぬものであります。それで又一面には、この分度ということを立てるには、余程裕福な人か、あるいは借財が出来て、非常な危殆に陥ったときに、これを立てるのであると唱えられたのであります。然るところ段々この二宮先生の一二遺されましたことについて調べて見ますると、こういうことがございます。これはもう今日では皆様ご承知のことではありまするが、『荒地を開くに荒地の力を以てす』ということがいうてございます。それから『借財を済ますには借財を以てす』。これを段々考えて見ると、この荒地を開くに荒地の力を以てするということは、すなわちこの分度推譲を積極に行うところの意味であると、こう私は考えました。それから借財を済ますには借財を以てすということは、これは分度推譲を消極の方面に応用することであると思う。ここに於いて分度推譲を応用しまするには、積極の方面と、消極の方面との二つがあるとこう考えました。一家が倒れんとするというようなときには、この消極の方を以てする。それから開拓をなし、国を開き、荒地を開こうというようなときには、すなわちこの積極の方を以てする。そこでこの分度推譲を実業に応用しまするには、是非ともこの積極の方面を取らなければならぬと思います。この荒地を開くに荒地の力を以てするということは、誠に明らかな聖人の遺訓でございます。 ▲六十年間分度推譲の結果 そもそも初めに一反歩の土地を開くには、一反歩の土地を開くだけの資本が是非とも入用である。その資本を作らなければならぬ。初め一反歩を開きまするだけの資本があれば、他の一反の土地を開くには、その一反の土地から取上ぐる所の、収穫した米でする。その田地から得るところの米は、仮に一石得ると致しますると、この一石得たものを、このまま売ってしまいますれば、それ限りのことで、別に何も変ったことはありませんが、ここに於いて分度推譲ということを応用いたします。どういう風に応用しますかというと、まずこの取上げたところの土地を開いて、取上げたところの米を折半する。たとえば一石得たものならば、その五斗というものを、明年開墾する食費に当てる。これに分度を立てます。それからその残るところの半分の五斗はこれを分外として使わない、分度外である。この分度外の米を以て、又明年一反歩の土地を開く資とします。二年にして二反歩の土地が出来る。三年目には二石の米が取れる。一石は食料として残り、一石は明年に推譲してこれを開墾の資とする。そうすると四反歩の土地が出来て、四石の米が取れる。その二石を食料にして、半の二石を以て、又翌年の開墾費用に推譲する。こういうことを年々繰り返して行きますると、これを60年開墾して出来上がる土地は、24億4千4百3万4751町2反2畝19歩になります。その初めは僅かに3円もしくは5円の資本、それに分度推譲の法を実行しますると、僅か60年の後には、24億余町歩の田地が開ける。それは数字の明らかに示すところであります。それで兎も角分度推譲を実業に応用しまして、この所まで研究を致しましたから、開墾のことは誠に疑いなきところであります。 ▲余の実験 それでこれを他の実業に応用をしてこの通りに行かなければならぬことである。しかしながら未だ外の方面にこれを応用したということを聞きませんから、まず自分が一番これを実行をしてみたい。その結果はどういうことになるかとこう思いまして、それでその当時私は甚だお恥ずかしい身分で、駄菓子屋の製造販売を本職としておりました。その時にどうか自分は駄菓子を製造しているから、この駄菓子の営業の上に、この分度推譲を応用してみたい。これを応用すれば、効績があるであろうと、こういうことを考えました。それでその当時、私には養父がありました。それ以前の計算は審らかになっておりませんが、調べてみると甚だ小さなことでございます。一箇年にこの菓子の売上げ金高は1,350円、こういうことになっております。それから自分の暮しまする生活費用がいくら要るか、これを調べてみましたならば、ちょうど一箇年262円というものが要ります。しこうしますると、1,350円の売上げ総収入の内から、260何円という利益を収めていたことが確かめられました。すなわち約2割いくらという利益を得ておったことでございます。これに分度推譲をどういう風に応用すればよろしいか、まず分度を立てなくてはならぬ。一箇年1,350円という売上げがあるということが、その時の天分でありました。その天分によって、度を制しまするに、やはり260何円という生活費を使ってしまいますれば、いつまでもこの通りで、少しも変りません。ここに於いて、生活費の2割を減ずる必要があります。しこうせんければ、推譲することが出来ない。それから262円の生活費の内から、50円を減ずることにしました。ところがただ漠然50円を減じては、暮らしが付かない。そこで家計上必要なるものを書き立てて見ると、当時130種の品物が要る。130種なければ生活をすることが出来ない。その130種の内から、最も必要なもの、すなわちこれがなければ生きていられなぬというものを片っ端から書き抜きまして、これはなくても生きていられるというものだけを取って、しこうして減じて行きましたら、ちょうど50円減ずることが出来た。50円減じますると、212円ということになります。まず212円という予算を立てまして、それから5箇年間これを分度としました。しこうして五箇年間この法を実行して見まして、その成績はいかがであるかということをまず試験を致しました。それからただこの法のみではいけません。至誠、勤労ということも離るることが出来ませんので、明治10年1月1日を期限と致しまして、朝は5時に起き、夜は10時に寝る。これにも分度を極めまして、しこうしてこの一年を一生懸命に働きましたが、その一箇年末に計算をしてみたところが、幸にもその売り上げた金高というものが、以前より増して、2千円程になりました。それから得たところの純益から、経費212円を引いて、残り70円という純益金が増えた。それが残る訳でございます。1,350円を分度として置いて、2,000円に売上げが増えましたから、この金高に対する利益というものが増したのでございます。しこうするとその翌年は、70何円というものと、経費の外のから出しました50円と125円というものとは、これは分度外の金が出来た。その分度外の金を以て、明年販売するところの品物を安く買うということにした。昨年は2割の利益を取ったが、本年は1割半に利益を減ずることが出来ました。その年もやりましたら、2年目の販売高は、3,500円と増しました。しこうして又その年も200円の利益を得ることが出来た。しこうすると3年目には、又3,000幾円の内から200円を取り出しました。すなわち推譲を致しまして、この度は一割利益を取ればよろしいということになった。又物を安く買う、そういう仕方を年々やって来ましたから、分度がシッカリ立っております。それを明治10年から14年まで5年の間実行致しました。私は初めから、5年を一期としてやったので、その一期を調べてみまするというと、こういうことになる。売上金高12,000円、資本金は始めたときに260何円ございました。その260円の資本が、1,200円ということになった。この法を行わぬ前の売上高は、1,350円で、資本金は260円というのでありましたのが、この5年の後に調べて見たら、売上高が12,000円、資本金が1,200円ということになりました。これは初めから資本を増やそうというのではなく、分度をきめて、度を制し譲ってきたから、とうとう1,200円ということに繰り上がったのであります。▲製糖事業に応用せし結果 そこで私はいかにも二宮先生の教えは、その通りに行く訳である。僅かに菓子営業に応用して、5箇年やってみましても、歴然とその効が現れ、売上金高は約9倍となり、資本金が4倍以上にもなりました。誠に明らかなことであることが確かになった。私はこれで何の疑いのないものとなった。それからというものは、どうか自分も人間となって出てきた以上は、こんな事にこの道を使っていたところで、誠に社会に及ぼす利益は少ない。どうかこれを今少しく世の中にひろく行わるるところの事業に応用したいと、こういう考えが起こりましたのでございます。しかしながら自分は学問もなく知識もございませんから、それから段々選んだ中に、私はやはり子どもの時から菓子商に従事しておりましたから、砂糖ということに縁がございます。それでその当時我が国の状態をみますると、日本では外国から砂糖を輸入しておりまして、まだ日本で製糖という事業がない。これから段々国が開けて来るに随って、砂糖の消費が増すに違いない。さすれば将来この砂糖の輸入額はすこぶる大なるものである。どうかこの事業を一つ興して、この報徳の道を実行したならば、きっとこれは発達するに違いないと、こう考えまして、それから私は砂糖屋に転じたのでございます。その砂糖屋となりましてからのお話は、別に申すことはございませんが、二宮翁の分度推譲の道によって、一生懸命にやりました。又一つには私は生涯この砂糖屋となって、外国の輸入を防ぎ、どうか国家事業と目されるものにしたいというのが目的でありました。ところが生涯というてもまだ生きておりますが、人生五十年としますれば、まず最初の目的だけは達し得たのでございます。これは全く二宮先生の道のお蔭で、一は徳の力を占めたのでございます。こうなるともう私は死んでもよろしい身体で、生涯と思ったことが、もう済んでしまったのであります。それで今度は方向を変えて醤油屋になりました。甘い砂糖から、辛い醤油の方へ参りました。これもやはりこの法によって行けば、どんなことでも出来ようと自分は信じて疑わぬのでございます。 ▲総ての事業に有利なる方法 ただ今申したのは、自分の僅かの経歴を申し上げましたので甚だ恐れ入ったことでございまするが、兎に角私は、この分度推譲ということを研究致しまして、いささかこれが応用を自分の推断でしたというに過ぎぬのでございます。デありますから、今日この日本の経済状態をみましても、これは我々お互いが、将来我が国の富を作らなければならぬ。富を作らんと欲するには、どうしても商工業を盛んにしなければならぬ。こういうことは、ドナタも異議なく、一致をなさるところでございましょう。然るに富の根本は実業を発展させるにありというても、ただ実業を発展させるというのみでは、発展は覚束ない。これにはこうして発展して行かねばならぬとということがなくてはならぬ。この時にあたって、この報徳の分度推譲の法を、大なる事業、小なる事業、その事業の大小を問わず、一般の実業上に行いますれば、いかなる事業でも、発展しないということはない。故に欧米各国との商戦におきましても、決して負ける気遣いはない。実にこういう結構な、誠に近い、確かなる法がございますから、この確なるところの報徳の分度推譲法を、各方面の事業に応用致しましたならば、長の日月の間には、富を増すことは、実に易々たることでございましょうと、私は信じます。たとえばこれを商業に応用いたしますれば、商業に利益があり、農業に応用すれば、農業に利益はありますが、その利益を利益だけ消費してしまえば、何日まで経っても変わりはありません。然るところをそこに分度を立てまして、その分度外を専ら推譲して行きますれば、その営業は年々歳々繁昌するに相違ありません。又工業にしても、工業家がその工業から得るところの純益を、全然推譲せず、己れのものとして消費しますれば、これも少しも発展の余地はないのであります。然るに分度を立てて、しこうしてその余財を、職工の奨励とか、教育とか、器具器械の改良、その他すべてこれを行って、年々歳々推譲をして行きましたならば、いかなる工業でも発達するであろうと思います。農業家も、この分度推譲を行い、農業から得たところの利益は、分度を立て、分外を推譲したならば、発達するに違いないのであります。本年は豊作であって、収穫が多かったといって、外の事に使ってしまいます。多くはそうなるのであります。何事業をする人でも、大抵そうなりますが、幸いに利益が余計あったとすれば、それから得たところの利益を外の物に放資する、そういうことになったら、あるいは本が枯れてしまうかも知れない。それであるから、分度を立てまして、その余財を以て、今まで自分のなし来ったる職業に推譲して行く、これ取りも直さず、荒地を開くに荒地の力を以てするというので、年々余財を開墾の資に当てておりますれば、60年の後には、24億町歩という土地が出来るということになります。デありますから、何の職業にしても、その得たる利益、すなわち分度外のものを以て、その本業の本にこれを推譲して行きまする。農業でも、かくの如くにして行ったならば、よかろうと思います。又耕地整理のごときも、大変利益があるということは皆知っておりまするが、これもやはり、費用問題でありますから、容易に出来ません。けれども今より何十年前から、各地の農業家がこの分度推譲を行っておりましたならば、今ごろはチャンと耕地整理が出来ているかも知れない。金のやり場がないから耕地整理でもしなければならぬということになる。彼の畑のあぜも、切石で積むことが出来るかも知れないのであります。▲被雇者の分度推譲法 かように私が述べ来りますると、ある人は又こういう疑問を持つ人がありましょう。お前のいうような分度推譲は、一廉の事業をしている人とか、あるいは中流以上の人においては出来るけれども、真に無資産の者、何一つ持たぬものは出来ないと、こういう疑問がきっと起こります。しかしそれは確かに出来ます。又中産以上の人でなくして、何一つ身に持たない人は、分度推譲が行えないといたすと、この分度推譲は、大道ではないとこういわねばならぬ。それでこの身体を以て努める。自分は何も事業を企てておらない、職業もやっておらない、未だ人に使われている使用人である。この人は分度推譲をどういう風にしてやるかというと、その人は使われるということが、すなわち今日の天分である。その天分に従って度を制する、度を制するとはどういうことであるかというと、朝は6時に出て来い、晩は6時まで勤めよということが度であると、私はこう解釈を致します。しこうすると分度ということは、契約の上にチャンと出来ている。それから推譲は、どうしますかというと、その約束通りの時間に出て、約束通りの働きをして、約束通りの時間に帰れば、平々凡々である。約束時間、勤務時間の内に於いても、専ら推譲をいたし、身体を以て、又頭を以て推譲をする、約束以上のことをする。一生懸命に、定めた時間より早く出でて、遅くまで勤める、これが推譲である。すなわち精励という推譲をいたすのであります。この推譲を専らやっていれば、人が見ても見なくてもよろしい。別にそれを以て誉めてもらうとか、給料を上げて貰おうとかいうのではない。約束以外に推譲を致しておりましたならば、長い間には、願わずしてその人は立身をすることになる。又ごく身分の低いところの仕事をいたす人力車夫が、分度推譲を行うには、どうするかというと、お客と約束をしまして、五里の道を三時間で行けとか、どこそこまで何時間で行けといわれる。そうすると己れは人を車に乗せて引くというのが、天分である。その分に従って度を制する。何時間幾らでやるという、この契約は度でござます。その車夫は一生懸命に勉強しまして、3時間かかる所を2時間で行く、かくのごとくすると、車夫が一時間推譲をしたのであります。車夫が人の道として推譲をする。かくのごとくいたして年々歳々怠らなかったら、その車夫は長く車夫はしておりません。果たしてモット上流な仕事をするように、確かに人がしてくれます。これは疑いのないことであります。それであるから、世の中の、どんな稼業の人でも、どういう人でも、至誠、勤労、分度、推譲ということは、行わねばならぬことであって、而してこれを行いますればまず人を益して己を益するのであります。蒔いた種子が生える今日の世の中でありますから、もしこの世で蒔いた種子が生えず、水が上に流るるということにならぬ限りは、この至誠、勤労、分度、推譲は、何人がこれを行いましても、まず以て人を益し、社会を益し、己も益するということになるのは間違いないと、自分は信ずるのでございます。甚だお暑いのに長らく駄弁を弄しましてお気の毒でござました。
2024.02.13
創設者 校主 福川 泉吾 氏 鈴木藤三郎 氏 経営当事者 福川 忠平 氏私立周智農林学校 明治42年3月刊行 序 家厳老後の紀念として、曩(さき)に鈴木氏と謀りて共に本校を創設す。教育事業の困難にして、而もその効果の遅々たるのは予め期する所なりしが、幸いにして地方有志の甚大なる助力を受け、かつまた職員各その人を得て、校務日に挙がり月に進み、今や第一期の卒業生を出さむとするに当たり、先ず学事報告の編成れるを告ぐ。 創設年を閲(け)みする僅かに三百里の行程漸く半歩を進めたるのみ。今後なおますます努力しておれが完成を図り、以て創設当初の所期に沿わんと欲す。もしそれこの些々たる一小事が、誤って国家富強の動機を成すの一助ともなるあらば、洵(まこと)に望外の幸というべき也。 明治己酉歳(42年)3月 於東京品川寓居 福 川 忠 平 自序 予乏を本校々長に亨け、福川鈴木両大人の懇切なる指導と、地方有志の深厚なる同情と、かつまた熱心なる職員各位の補佐とにより、幸にその職責を全うすることを得て、今や第一回の卒業生を出し、同時に学事報告の刊行を見るに至れるは、深く感荷(かんか:恩を深く感ずること)に堪えざる所也。 想うに、本校は特殊の動機によりて創設せられたる特殊の実業学校にして、現時他にその類を見ざる所、而してかかる美挙は、将来各地において続々出現すべく、またまさに興らざるべからず事に属し、したがって本校の経営に関しては、その責任更に一層重かつ大なる責を覚ゆ。 近くは、備中倉敷の素封家大原孫三郎氏、巨万の財を抛って、地方公共の為農学校の経営を企画せりと聞き、予は氏に致すに、大要下の如き意を以てせり。 前略、兼て倉敷日曜講演と題せる冊子により、又内務省地方局編纂の「田園都市」により、常に地方公共の為御尽瘁の段具さに拝承、深く其篤志に敬意を払ひ居候処、去る一月十五日発行大阪朝日新聞に於て、今回更にまた私立大原農学校設立の御企画あるやに承知仕候。小生目下主宰に係る私立周智農林学校は、福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が推譲の一端として、地方公共の為設立せられたるものにして、此度御企画の大原農学校と其性質を等しうせるものに有之候。農学校の私立経営は、今日世に類例少なく、従って其方法手段等につきては、多大の注意と而も多くの忍耐とを要すべく、不幸其手段を誤り万失敗に帰することもあらんには、将来応に各地に興らざるべからざる之等の美挙に対して、甚だしき影響を及ぼすべきかと窃に愚考罷在候。されば小生が今日迄に得たる経験におり、相感じ候二三の事項を記して、此際御参考の資料に供するは、強(あなが)ち礼を失ふの挙に非ざるべく、且又斯る学校に在職せる者の、応に致すべき責任とも思はれ申候。先第一に、農学校経営の如きは極めて地味なる事柄にして、之を他の公共事業に比すれば、毫も派出々々しき所なく、時に或は其要不要をさへ感ぜらるゝ事なきにしも非ず候。蓋し農業教育は、其効果永遠に、而も隠約の間に収めらるべき者にして、他の事業とは自づから其性質を異にせるやに考へられ候。若し次に、農学校は、一方に於ては其地方の農事試験場たらんことを要し、且又卒業生の指導に全力を注ぎ、学校を中心としたる、特殊なる農会の経営を必要と致すべく候。若し思ひ茲(ここ)に到らずして事を興しなば、或は後に至りて失望の嘆なき能はざるべく候。斯の如きは万々御承知の儀とは存候へども、婆心逸し難く、先づ第一に相数へ申候。第二には、生徒募集の案外容易ならざる義に夫れ創立者と学校職員との関係は、同情と感謝との交換を以て終始すべく、其間毫も他の混じ入るを免さず。従って職員其人の人選は殊に注意を要すべく候。 (以下略)右に対して、農学士近藤万次郎氏は特に大原氏の依嘱を受け、去る二月十五日来校の上、本校経営上の実際に就きて周密なる調査を遂げられたり。想ふに大原農学校の創立を了して、世に類を同うせる二箇の私設農学校を見るも亦遠きに非ざるべし。本校第1回報告を刊行するに当り、大原農学校の創設を世に紹介し得たるは、深く歓喜に堪へざる所也。予は更に第二回報告刊行に際して、又新らしき私立農学校の創設を紹介し得るの光栄あらむ事を期す。 明治42年3月 静岡県私立周智農林学校長 山崎徳吉
2024.02.13
台湾の製糖業 日本精製糖会社専務取締役 鈴木藤三郎君談 (「太陽」明治34年6月5日第7巻第7号76~77ページ) 日清戦争の獲物として我国の領土に帰したる台湾は、製糖業に就ては現在及び将来に於て頗る有望なる有様であります。古来台湾には製糖のことは行はれてあったのであります。我国が戦勝の結果之を永久占領したるも、其一の理由は全く此の地に砂糖の産出がある為めであらふと思へます。然るに我国の之を占領したる以来、既に七年の星霜を経過したるも、政府は斯の製糖業の発達を扶くる為め、未だ何等の設備を運らさざるは、我国の為め長大息に堪へざる次第であります。 私は先年台湾の製糖業に就て、親しく実地の調査を為さむと欲し、台湾に渡航し諸々方々を歴遊致しました。そこで私の調査したる所によれば、台湾は気候と云ひ、地味と云ひ、彼の砂糖産地の本家本元たる布哇、及ジャワ其他南洋各地方と殆んど同一であって、毫も劣る所はないと信じます。故に其収穫も亦殆んど同等でなければならぬのであります。然るに事の実際は全く相反し、台湾に於ては一反歩僅かに五百斤内外の産出に過ぎざるが、南洋ジャワに於ては一反歩で千五百斤、布哇は殆んど二千斤内外の巨額に達するのであります。斯の如く其収穫に差額を生ずるは、全く気候の変動に因るのでもなければ、亦地味の関係に基くのでもありません。其の原因は第一製糖の方法が何れも旧来の方法を採用し居るので、極めて不完全なると。第二砂糖の原料たる甘蔗の種子の改良を為さざるとに因るのであります。彼の布哇、ジャワ等に於ては、糖分の沢山ある種子を精撰して播種致しますから、其収穫は中々多大なるものであるが、台湾は之に反して製糖の方法も不完全であれば、種子の精撰も致しませんから、其収穫の少なきは実に已むを得ざる次第であります。私は斯の事を普く内地人に吹聴して、其注意を喚起し、以て改良の運に導き台湾製糖業の発達隆盛を計らふと思います。 今や我国に於ては精製糖業は余程進歩したけれども、大体製糖業は未だ完全の域に達したりと云ふことが出来ません。製糖業現在の有様は、其原料を外国より輸入しなければならぬ、為めに大に不都合を来すことあるのみならず、製糖業の発達上不利益の地位に立ちて居ります。然るに今まで海外の輸入に仰ぎたる原料は、我が領土たる台湾に於て蕃殖することであるから、益々之を改良発達せしめて、原料を斯の地より供給せしめ、海外の輸入に仰がざることになさなければならぬと信じます。是を以て台湾総督府に於ても、努めて斯の方針を探り、其改良発達を企画して居ります。夫れ斯の如くなるを以て、台湾の製糖業を発達せしむることは、詰り内地の製糖業を発達せしめ、国利国益を増進せしむる所以であるから、台湾の製糖業は是非共発達せしめなければならぬと考を起し、私は台湾製糖会社の創立を企てました結果会社は今や略成立致しました。そこで斯の事業を成就するには、一層詳細に実際の調査が必要であるから私は重ねて台湾に渡航して視察を遂げました。そこで台湾県下に一ヶ月程滞在して、南は枋寮より北は塩水港の間を能々踏査致しました。然るに嘗つて想像せしよりも、意外に好結果を得ました。斯の地方は南北平均約三十余里、東西殆んど七八里の間、殆んど平原にして、地味は頗る肥沃、気候は暑くて例年恰かも三四月頃より降雨期となり、十月頃より普通の天気に回復するのであります。斯の気候の工合は頗る砂糖の栽培に適するので、甘蔗は例年三四月に頃に植付けて、九月頃まで成長し、十月頃に至りて収穫期になるのであるが故に、甘蔗を収穫して愈々製造期に達する時分には、降雨期は去つて天気快晴に赴き、亦水の必要がなくなるので、最も製糖に適する時期であるのであります。斯の如く天然的製糖に適当する地方にてありながら、現在其産出頃は一年全島を通じて、僅かに百六十万担に過ぎません。是れは前述の如く、全く栽培及び製造の方法が未だ幼稚の域を達せざるに基因するのであります。故に若し南洋地方及布哇に於て、西洋人が経営し居る如き改良進歩の機械、及び方法を以て其局に当ったならば、今日の五倍位の収穫は得らるるであらうと信じます。之に加ふるに諸所の原野を開墾せば、良畑と為すことが出来るので、之に甘蔗を栽培せば、単に台南県下にても確かに五百万担位の産額は得られるでありましょふ。そこで現在我国に於て砂糖の需要額は一年五百万担内外であります。因是観之台湾の製糖業を盛むにせば、単に台南一県下に於ける砂糖産額のみにても、日本全国一年間の需要額を供給することが出来ます。 惟ふに台湾全島の製糖業を充分に発達せしめたならば、現代我国に於ける需要額の二倍に達するは敢て疑を容れざるれることでありましょうふ。されば確実に其の方策を立て、着々之を遂行したならば、成効するのであるが、今日の有様にては、如何しても五六千万円位の大資本を必要とするのであります。之に加ふるに製糖業の発達を完成せしむるには、政府に於て須らく糖業政策を確立しなければなりません。即ち鋭意熱心に之を発達せしむる方策を講じなければならぬ。亦一般人民も熱心に斯業の進歩発達を企画せなければなりません。其方策として第一に南部の打狗港を修築して、完全なる商港と為すことが必要で、之れは是非其政府に於て行はなければなりません。第二に縦貫鉄道も其敷設工事は已に着手してあるも、未だ容易に全通の期に達せざるが故に、成るべく早く之を完成せしめなければなりません。斯の二つが最も必要であります。 然るに現今の政府当局者は計茲に出でずして、直接に砂糖に重税を賦課し、以て目前に数百万円の収入を得むが為め、将来有望なる砂糖業を犠牲に供し、之を発達せしめざるは我国家の為め実に慨嘆の至りであります。欧米諸国に於ては昔時砂糖と云ふものはありませぬ、故に已むなく東洋諸国より之を購買して居りました。そこで欧米諸国に於ては斯の如く有様にては国家の不利益なりと早くも着眼して、糖業政策を確立し、大に是れが発達奨励を計りたる結果、地味気候の関係から甘蔗の成長せざる地には、甜菜を植付け、続々其原料の供給を為したるが為めに、今日に於ては、是れまで蕃殖したる砂糖を其侭に放任し置きて顧みざりしが為め、砂糖の原料地でありながら、却て欧米諸国より輸入しなければならぬ有様になったのであります。然るに近眼者流は之を顧慮せずして、徒らに課税を断行し、其発達を障害せんとするは、実に憂慮に堪へざる次第であると云はなければならぬ。
2024.02.12
補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 248ページ 鈴木鉄工部は、明治24年(1891年)に、わずか3千円の資本で設立された当時は、3間に10間の長屋風な建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と2馬力のエンジンを備えたばかりであった。藤三郎は約20年に近い間、これから一文の配当も取らずに、利益があれば、それを事業に投じたので、一般に鉄工場の経営は困難しされていた時代であったのに、年々発展して、当時では敷地3,500坪、従業員400人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になっていた。これには、もっぱら次男の次郎を主事として当たらせていた。なお、近年しきりに発明をするようになってから、その事務一切を取扱わせるために、邸内に鈴木発明部を設けた。 ※鈴木鉄工部は、明治24年(1891)1月に長屋風の建物に創立された。藤三郎は約20年近く配当をとらず、利益があればそれを事業に投じて、敷地3,500坪、従業員400人を有する大鉄工所になった。発明部も設け、近代日本工業における一大人材供給源となった。後に荏原製作所の創設者となる畠山一清氏も大学卒業後、工場長として迎えられた。畠山氏はその自伝「熱と誠」において次のように述べる。「学校を卒業し、最初に就職したのが鈴木鉄工所という小さな会社だった。鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して『鈴木鉄工所』と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。『若い技師長さん』の私は、年配者にまじって一生懸命だった。私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと『人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり』というのが根本精神になっている。いいかえれば、『社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ』という論旨から成り立っている。・・・思えば鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっているのである。」また、月島機械株式会社初代社長の黒板伝作氏も、明治33年(1900)東京帝大工科大学機械科を卒業した後、鈴木鉄工部に勤めた。黒板氏は入社した鉄工部に5年近く関係し、強い慰留を辞して後に独立への道を歩み出し、明治38年(1906)東京月島機械製作所を創業した。「月島機械株式会社史」抜粋-黒板伝作- 昭和32年6月28日発行 黒板伝作氏は、長崎県東彼杵(そのぎ)郡西大村に黒板要平氏の次男として、明治9年6月金沢市に生まれた。要平氏は士族出身で、警察官出身で、折尾瀬(おりおぜ)村長を勤め、母親は小学校の裁縫の先生をしていた。黒板家では、兄勝美氏を東京帝国大学に学ばせていたので、伝作を上級学校に進学させる余裕は家になかった。黒板伝作氏は、大村中学4年を終えて小学校教員の試験を受け、中学校卒業とともに、折尾瀬小学校の准教員として教壇に立った。たまたま県視学が巡視の際に、秀才をこのまま朽ちらせるのは気の毒だ、幸い工業伝習所生徒募集中であるから県から推薦しようということになった。兄勝美氏に相談すると、せっかく学問するなら高等学校に進めと助言を受け、小学校教員を9月まで勤め、学資を貯めて熊本第五高等学校入学が決定した。第二部(工科)に進み、優秀な成績で卒業し、明治30年、東京帝国大学に入学し、工科大学機械工学科に席を置いた。在学中は三菱合資会社奨学貸費を受けていた。<「月島機械株式会社史」148~149ページ 「長崎日日新聞」昭和8年9月12日付の「黒板伝作君」>二学年に進んだ秋の某日、気持が悪かったので、講義の時間中フイと教室を飛び出して校庭の芝生に寝転んでいると雀が飛んできた。つれづれに苦しんでいた君が小石を拾ってポンと投げると見事にあたった。伝作君が死んだ雀をぶら下げて、投げたツブテがよくあたったものと感心しているのを見つけて、教務所の窓から声をかけたのが機械科主任真野文二博士だった。なぜ講義を受けないのかと叱られたが、正直な君は気持が悪い時はいつもサボっていることを告白した。真野教授は君のボロボロ洋服に尻切れ草履のみすぼらしい姿を見て「靴をはいたらよかろう」「はかなきゃならぬという規則がありますか」「そうハッキリした規則はないようじゃが、しかし見っともない」「靴を買う金があれば、本を買います」「それじゃあ、内職を世話しよう」と、真野教授の世話で、当時発明者としられていた鈴木藤三郎氏経営の鈴木鉄工所に行った。 <同著3ページ>明治33年7月、東京帝国大学工科大学機械科の第25回生、24名中の一人として卒業した。時に満24歳であった。当時最高学府を出た者は、官吏になるのが常識であったが、黒板氏はかねて学生時代に、鈴木鉄工部の支配人小野徳太郎氏に、機械の知識を教えていた縁故と、機械に対する執着から、卒業と同時に同鉄工部の技師として入社し、かたわら日本精製糖株式会社の器械嘱託技師をも勤めた。この間の事情については次のように伝えられている。「鈴木氏が専務たる日本精製糖の機械主任に聘用したいという話が持ち上がり、重役が会いたいというので出かけて、まず工場を見た上で話を決めようと提言したが、工場には秘密な部分があるので、社員でないと見せられないというので言われ、「入社して秘密を盗んで逃げ出したらどうするか」といってサッサと退却した。その率直なところがかえって好感をもって迎えられ、真野教授の口利きで、再度精製糖会社を訪問し、今度は工場を見せてもらったが、学校で教わったくらいでは実際の仕事は分かるものではないことが判ったくらいであった。そして学校卒業後、機械主任として入社することになり、200円前借して苦学生たちまち大尽となった。すると鈴木専務から鈴木鉄工所に入社を勧められ、製糖会社で機械の番をするより鉄工所で機械を作るほうが面白かろうと即座に承諾した。卒業式の翌日、鉄工所に顔を出すと、鈴木社長が卒業証書を持って来たかと訊くので、卒業証書を雇うのか、人を雇うのかと一本参り、かくて若い工学士は工場の人となり、一つには月給のため、二つには自分の将来のため、三つには世間のためと、三人前の勤めをする覚悟で真黒くなって働いた。(長崎日日新聞)最初は日本精製糖から話があって同社の器械主任として入社することに一応決まったが、その後同社の専務であった鈴木氏から同氏個人の経営になる鈴木鉄工部への入社を勧められ、学生時代から協力した関係もあり、かつ機械の製作に興味を持つ黒板氏としては『鈴木鉄工部』に入社を決定した。しかし鈴木氏と日本精製糖との密接な事業上の関係から、後に日本精製糖の嘱託も兼ねるに至った。明治35年2月5日付けの「技師、黒坂伝作、自今月俸金六拾五円ヲ給ス」という記録があるという。元来、鈴木藤三郎氏は事業家としても、また発明家としても世に知られた人で、日本で初めて氷砂糖の製造に成功し、精製糖、製塩、醤油、魚粉肥料、水産食料品等の発明に及び、またこれらに関する多くの事業をも経営した。特に精製糖については明治28年、英国ハーバー・エンヂニアー社から機械を購入して本邦唯一の精糖工場を経営し、かたわら農場までも開いていた事業家でもあった。日本精製糖株式会社は、明治22年6月、鈴木製糖部と称して鈴木藤三郎氏個人経営の、試験的精製糖工場であったが、明治28年12月、資本金30万円の株式会社となり、黒板氏が関係した当時は、鈴木氏は同社専務取締役兼技師長であった。
2023.08.27
有吉のお金発見 突撃!カネオくん で ふりかけ と フリーズドライ の特集を放映していた。ふりかけの売り上げ第一位は丸美屋の「のりたま」・ふりかけの誕生 熊本で薬剤師をしていた吉丸末吉さんが、いりこを丸ごと粉末にして味付けをした品を大正初期に考案したことが、ふりかけの元祖「御飯の友」の誕生だという。 当時は食糧不足でカルシウムが不足していたため、薬剤師という立場と知識からそれを解消すべく、栄養補助食品として考案された。魚嫌いの人にも受け入れられるよう、魚の臭いを消すための工夫がなされている。のりたま・1960年の発売から52年目を迎えた丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」がロングセラー商品になれたのは、消費者の嗜好(しこう)を意識した味を追求してきたからだ。「同じ味を貫くと消費者の味覚変化から、変えていないのに『変わった』と思われる。“変わらない味”と思われるには、常に時代に合った変化が必要になる」(吉田哲広報宣伝課課長)。味や食感のマイナーチェンジを繰り返し、消費者の嗜好と乖離(かいり)させないことで、いつの時代も変わらない味という「安心感」を与えた。「のりたま」は数あるふりかけ分野の中で、トップシェアの約8%(丸美屋推定)を占めている。 高品質のタンパク源を家庭で手軽に摂取できる商品を模索していた丸美屋食品工業の創業者・阿部末吉氏は、旅館の朝食では卵とのりの組み合わせが定番であることがヒントとなり、二つを組み合わせたふりかけの商品化を思いついた。 ふりかけにはパウダー状にした食材を一定程度の大きさにして流動性を持たせることが必要となる。阿部氏は食材単体をパウダー状に固めるだけではなく、砂糖や塩などの調味料を練り合わせた後に、メッシュ状の網目に原料を通過させ乾燥させる独自の造粒法を開発していた。培った技術やノウハウを応用し、小麦粉や砂糖、塩などを練り込んだ生地に生の卵を混ぜ込み熱風を注ぎ込む「熱風乾燥法」を採用。食材に選んだ卵をふりかけに合うような食感に粒子化する造粒技術は難しく「発売後もなかなか類似商品が出なかった」ほどで、「他社が簡単にはまねできない」サクサクした食感の卵を実現した。 “変わらないおいしさ”を追求するため、のりたまは時代のニーズに応じて味を変化させている。健康志向が高まると、1981年に塩分をカット。1996年には、さらに塩分を控え、同時に味の品質を落とさず向上させるように改良した。 消費者の嗜好調査から、のりたまに求めるのは「卵の味や存在感」ということが分かると、卵の種類を追加。従来の卵をベースに、マイクロウェーブ乾燥技術を応用し、少し大きめの卵の粒子を加えた。「基本の味を通常の卵粒子で表現し、大きめの卵で見た目の良さとサクサク感を強調させ、両方の卵で食感を引き立たせた」💛最新の乾燥技法による「卵の味や存在感」を味わうためにふりかけ「のりたま」を買ってきた。海外でもFURIKAKEは人気だという。ハワイではポップコーンにふりかけをかけることが当たり前という。ソフトクリームにも。ヨーロッパでもパスタや現地のフードにふりかける。なんでも合う。まさに Cool Japan!!「ごはんのおとも!ふりかけのお金のヒミツ」2023年2月18日キングオブごはんのおとも!「ふりかけ」のお金のヒミツに迫る!▽コメの消費が減る中、市場規模が拡大!焼肉味・カレー味・ケチャップ味まで登場!▽「ふりかけ」の進化は乾燥技術のおかげ!?国内売上1位のふりかけ工場に潜入!たまごを乾燥させる最強マシーン大公開▽実は今、海外でも「FURIKAKE」が大人気!▽お湯をかけるだけで料理が完成するフリーズドライのヒミツにも!☆日本で初めて乾燥技術を機械工業として完成したのは鈴木藤三郎である。魚を乾燥させて肥料にする工場を北海道に設立した。鈴木藤三郎の著「乾燥富国論」の題名のとおり、日本の乾燥技術は世界をリードしている。鈴木藤三郎の乾燥法発見の功績を忘れてはならない。藤三郎は、明治42年(1909)の暮れ以来、サッカリン事件の責を負って静岡県裾野の鈴木農場に引きこもって、日本醤油醸造会社の復活を祈った。しかし、そのかいもなく明治43年(1910)5月27日に尼崎工場が、天災ともいえる自然発火のために焼失してしまった。同社の再起は絶望となって、同僚の重役や株主や従業員はもとより、社会に与えたショックは非常なものだった。藤三郎としては、醤油会社は、販売網を封鎖されて経営的には失敗したが、醸造法そのものについては、今でも確信を持っている。それで、たとえ小規模にでもこれを継続して、決して確信もないものを、やたらに大げさに着手したものではないということを、実証したいと切望した。だが、醤油も塩も、その特許権は全財産とともに日本醤油醸造会社の整理のために提供したので、どうすることもできなかった。そこで藤三郎は、尼崎工場が焼失し、同社の再起が不可能なことを悟ると同時に、新たな発明に向かって努力を始めた。それは熱風乾燥機の発明だった。この年6月から、続々と特許権許可の出願がされ、熱風装置、乾燥装置をはじめ11件が、半年の間に特許となった。当時、藤三郎が描いた一つの絵が残っている。中央にいる一人の騎馬の鎧武者が、右からは長刀で切りつけられ、左からもまさに大刀を振るって切りかけようとされている中で、鞍に伏して手綱を整えている図である。『敵集撃中鞍に伏して手綱を整ふ 明治四十三年六月』と書いてある。醤油会社失敗の直後(尼崎工場の火災は同年5月27日深夜)の絵である。世間から藤三郎に対して、山師であるとか、向こう見ずの虚業家だとか、あらゆる非難攻撃が集中していた。この非難は、すべてそのまま甘受して、この罪に償うに足るだけの新しい貢献を、社会にするよりほかに自分の生きる道はないと、藤三郎は覚悟した。その時の感懐をこの一枚の絵に託したものであろう。この一小図絵の中に、彼の悲歎と同時に「手綱を整ふ」という文言に、不撓不屈の藤三郎の精神を顕しているようにも思える。藤三郎の真骨頂ともいえる。藤三郎の発明活動は翌明治44年(1911)に乾燥装置を中心として、1か年に実に41件を発明し特許を得た。この年の4月に、乾燥装置の発明と実験がひと通り完成したので、彼は『乾燥富国論』を著わして各方面に配付した。そして6月上旬に新聞、雑誌社の人々を上野の精養軒に招いて、その発表をした。「乾燥富国論」 鈴木藤三郎自序 予はさきに醤油醸造方法及びその装置を発明し、実験のため小規模の工場を設け、前後3年間実験を重ね、その結果の良好なることを確証したるをもって、去る明治40年同好の者とはかり、日本醤油醸造株式会社を創立し、予は資産を挙げてこれに投資し、200年来旧慣を墨守したる本邦醤油醸造界に一大革新をくわだてたり。以来、歳を閲する僅かに3年、事業未だその緒につかざるに、不幸営業上に一大蹉跌を生じ、製品の名声を失墜し、ために会社は120余万円の大損失を蒙るにいたれり。予はこの失敗が予の事業経営の方針を誤りたるに起因するものなることを反省し、明治42年12月全部の財産と醤油醸造に関する特許権とを同会社に提供し、同時に取締役社長の綬を解きてその職を辞せり。しかれども予の発明にかかる醤油醸造方法及びにその装置の能力に対しては、昔日の確信少しも衰えざるのみならず奮進の念さらに倍加しきたり。ことに会社の前途に関しては夙夜沈思、願くは身命をなげうって再び社業に従事し、粉骨砕心もって社運の挽回を図らんことを切望したるも、不幸にしてこの儀絶体に当事者の容れる所とならず。予が苦心をして空しく水泡に帰せしめたるは、まことに千秋の恨事といわざるべからず。かくのごときは畢竟皆、予の不徳非才のいたす所にして、今また誰をか恨み何をか憎まん。よって更に小規模の計画を立て、独力醸造を開始してその所信を貫かんと欲したるも、いかんせん、当時資産と特許権とは既に去って掌中一物ものこさず。手足皆縛の窮境に沈淪し、また策の出るべきを知らざりしなり。アア予は今回の面目ありてか、社会に立つことを得ん。空しく生を貪らんよりは、一死もって知己に報いるにしかざるを想い、実は心ひそかに決する所ありしなり。しかるに翻って再考すれば、およそ人窮地に陥って、死を決するは易く、生きて前過を償うの功を建つるは難し。難きを避けて、易きにつくは、古来志士の最も恥ずる所。しかして予もまた平生一介の志士を以て自任す。一死、決して知己に酬いるの道にあらざるを悟り、翻然としてその非を改め、むしろ進んで功を建て前過を償うの道を採らんことを誓えり。ここにおいてか、眼を転じて本邦産業界の現状を洞察するに、農林水産等各種の産業は政府の奨励民間有志の勧誘あいまって、発展の蹟大いに見るべきものありといえども、ひとりこれら生産業に必要欠くべからざる物品乾燥の方法に至っては、一般の知識今なお極めて幼稚の域にあるを認識せずんばあらず。よって予は更に深く日本における乾燥操作の現状を調査したるに、果然本邦の乾燥工業界は混沌として帰一する所を知らず。諸種の装置及び操作は内地式といわず外国式といわず、ともに杜撰にして理想をへただること遠く、かつ人工乾燥装置の普及せる範囲極めて狭し。したがって各種生産物の乾燥各方面において充分なるあたわず。ひいて品質に及ぼす傷害は非常に多大にして、これがため蒙る現時本邦の損害金額は全国を通じて一か年無慮1億円の巨額に上るのみならず、これを今日のままに放任するにおいては、将来の発展を得て望むことあたわざるの状態にあることを発見せり。しかしてこの欠陥を救済するの道は、完全なる人工乾燥装置の出現にまつより外に良策あること無し。よって予はこの点において心ひそかに本邦産業界に貢献する所あらんことを期し、深く乾燥の目的及び原理を研究したるに、たまたま乾燥の目的は予が30年来攻究を積みたる蒸発の目的と一致せることを悟了したるより、ますます自信を堅く、工夫を重ね研究を積みたる結果、斬新なる乾燥装置数件を発明したるをもって、直ちにその装置を制作し、しばしば実験を重ねて、その成績の好了なることを確めたり。時あたかも同情諸氏の懇切なる勧告をかたじけなくして、予は再び事業界の赤児として、社会にまみゆるの光栄を得、新生の元気鬱勃として禁ずるあたわず。今この発明を日本の産業界に提供するに際し、本邦における乾燥操作の現状及び将来に関していささか卑見を開陳し、このココの産声に題するに『乾燥富国論』の名をもってせり。大方の諸賢哺乳の恵垂れたまわば、幸また甚し。 明治44年1月 著者識
2023.02.19
「糖業礼賛」(宮川次郎)より 「橋仔頭観世音菩薩由来記」(1~4頁) 台湾製糖初代の社長は鈴木藤三郎という人である。台湾製糖の創立が明治33年だが、同人はその以前既に東京府の小名木川い製糖場を開設したというのだから、先覚も先覚、製糖業の大先覚者様々である。 その社長の下に山本悌二郎が支配人として台湾に来て、今の橋仔頭製糖所を開設した。もちろん鈴木社長もやって来ていた。 鈴木という人は非凡の才能があり、台湾製糖を退いてから色々の発明を天下に公にしたが、その中醤油の醸造会社1,000万円という大規模なものを創設したのである。 今でこそ1,000万円の会社はザラにあるが、当時では実に破天荒というに近く、しかもその会社は醤油醸造であったし、ことにその醤油は、鈴木新発明の速成醸造に係るのであるから、盛んに投機者流をうならせた。 けれどもそれが同氏挫折の大原因をなし、散々の悲境に立たなければならなくなって没落し、その後再興の機運いたらずして死んでしまった。 爾来糖業界の人―台湾製糖の人でもーの記憶から去って終わったほど、古い話になってしまった。 ところが鈴木氏の子息が、例の京都の一灯園に帰依したと見えて、台北は北投温泉の同じ一灯園宗松弁護士経営の上の湯に来て暮らしていたそうである。もちろん鈴木は自分の子に財産を残すべく、それほど順調の境涯で死んだはずはない。 人生達観すれば空々寂々、達観せずとも真に空虚だらけであるが、糖業界の先覚者の最後は、かくのごとくあまりにみじめであった。しかしただ一つ同人を偲ぶためには、真によい記念物が残されている。それは台湾の橋仔頭製糖所にある唐金の観世音菩薩の立像だ。 かつて鈴木が社長としておさまっていた頃、こういう殺伐な場所に暮らしている社員には、ぜひとも何か信仰の標的がなくりゃならない・・・というところから建立したという。 一説には信仰心を利用して、台湾の農民を引きつけようとした政治加味のものであったともいわれる。何にしても今もって100幾名かの観音講中があり、台湾人も時々参拝もするし、製糖工場の大煙突に登って避雷針のピカピカを盗む者はあっても、この観音様の額面にある金の星は盗む者がない。 まだ面白い事には、この観音様は東京の方に向いて建てられたのだそうだが、正確に測量すると少し片寄っている。しかしわざと直さないという話だが、それは確かに曲がったままがいい。曲がって建っていることもまた記念づける。 観音様は台石と共に1丈何尺、何でも古鏡を集めて東京で鋳造した3体の一つで、一体は自分の生まれ故郷に、一体はどこかの別荘に、一体は遠路はるばる台湾に運んで来たわけである。けだし鈴木氏は熱心な観音信者であったそうな。 鈴木という人はどんな人か知らない。醤油会社をアテていたらなら、今頃百万長者くらいでなく、千万長者になっていたかもしれない。しかし失敗に終わった彼であっても、当時観音を建立した事だけは、確かに人格的に成功である。 事業よりは心が貴い。橋仔頭製糖所員の御利益の有無は知らないが、永久に鈴木社長のその豊かなる情味を記念して可なりである。「橋仔頭の史蹟を見に」同書186~189頁 昭和2年3月22日、高雄州橋仔頭の台湾製糖会社橋仔頭製糖所へ行く。もうだいぶん気候が暖かだ。ここへ来たのは何年ぶりであろう。やはり10年以上になる。 史蹟保存物としての同製糖所を見ようとしたのが、視察の目的であった。古色を帯びている事務所に行って、所長金子善三郎君をお尋ねしたら白根君が出てくる。しばらくして金子所長の巨体が現れ、机を隔てて対談する。初対面だ。 そのうち屏東視察帰りの日本製糖の小野、土井両君がやって来て、はからずも同じ場所で逢う事になる。工場で佐竹宗助君にお目にかかる。 それから最も古い歴史のあるクラブへ行って談話し、今西裕一君が来て更に話に興が乗り、古い写真を拝見し、各所を見た上、更に墓地に詣でた。その時分はもう陽が薄かった。 クラブの前に建てられた観音像は高さ約4尺、立派な台石共に1丈何尺という立派なものだ。何によりも観音の出来がいい。額の金の星は何匁(もんめ)もあろうというものだ。工場の高い煙突の上の避雷針は盗む者があるが、流石(さすが)にこの金だけは盗まぬそうだ。現在の観音講信者は100名に及ぶという。何でも無縁の骨を埋めた上に建てたとも伝えられる。像はクラブに正比例した位置ではなく、少し曲げられて都の東京に向かせたものだ。正確に測定して見ると少し違っているが、わざと直さないでいるとの話だ。 クラブもだいぶん古色を帯びている。屋根に上がって見ると周囲に壁があり、銃口が開かれている。その銃口は反対に外に広く開いているのが面白い。地下室―土匪(どひ)襲来の時に女子供を隠す考えだったーは今、炭倉同様になっている。玄関の上の露台は大砲を据える考えだったそうだ。大砲といってももちろん野砲であろう。 工場はハワイの写真を見て、おおよその見当で設計したものらしいと想像されている。天井は余り高くなく、既に一部分は改造されて終わった。しかし台湾最古の新式工場として珍しいものである。土匪が大砲の窓口だと思い誤ったという丸窓を探して一つだけ発見した。屋根近くにある高い空気抜きがそれである。その丸窓は偶然の虚勢となって効能のあったのはあとで分かった事である。もちろん当時は樹木も今のようになく、あたかも城郭のごとくに遠望されたのであろう。 工場内に鈴木鉄工所(社長鈴木藤三郎氏の経営)の結晶缶は、おそらく台湾での好記念物であろう。グラスゴー製の1901年というのも珍しい。 なお土匪の防備上、工場敷地の周囲に築造したという土壁は、旧正門の向かって左に2,3間の長さで高さ2尺ほどに残っている。そこに草花が植えてあった。正門のレンガの柱には樹が遠慮もなく太い根を広げていた。会社では皆保存物として残している。こういう保存物は、それぞれ説明書の立て札をする方がいいと思う。 土壁を撤去して塹壕を掘ったというその溝のあるとはちょっと見当たらなかった。小流は敷地の片側をめぐり、敷地は小丘を占め、少しく要害の地と受け取れる。 それから軍隊の駐屯した長屋―壁が恐ろしく厚いーもチャンと今なお宿舎として利用されている。墓地における台湾製糖重役日比孝一氏の墓も最も悲しい記念物である。夜泊まれと無理にいうのをお断りし、心からなるご歓待に感謝して、橋仔頭駅まで送って頂いてお別れした。(昭和2年(1927)4月)
2023.02.18
明治中後期発明家伝34鈴木藤三郎は安政2年(1855)、現静岡県の古着屋の末子として生まれた。 はじめ太田才助といったが、やがて菓子屋の鈴木家の養子になり、駄菓子の行商や製造を手伝い、家業を継いだ。 子供の頃から才覚があり、明治6年18歳のときに、静岡で盛んだった茶業に転向して繁盛した。 明治9年、二宮尊徳の『富国捷径』を読んで感じるところがあり、家業の菓子屋に戻って、貯金をしながら、新しい菓子の製造に取り組むようになった。 当時の日本の菓子用砂糖は、精製の度合いが悪く、欧米からの輸入品に数段劣っていた。 とくに氷砂糖は、劣悪だった。 そこで藤三郎は、輸入品を上回る氷砂糖の製造法の研究をはじめた。 明治10年、22歳のときだった。 しかし、意外に困難で、何年たっても、欧米並の氷砂糖を作り出すことは出来なかった。 そんな藤三郎に、ある幸運が訪れた。 釜で砂糖を溶かして温めて結晶化しようと苦心していたのだが、あるとき、用事があって外出し、その間の事を家人に頼んでおいた。 ところが、家人はそれをすっかり忘れて、釜の蓋を閉じたまま温め続けていた。 帰った藤三郎は、怒って釜の蓋を開けてみたところ、予想外にも、純良な氷砂糖がいくつか釜の底に出来上がっていた。 明治16年、藤三郎28歳のときであった。 藤三郎は、明治21年に上京して氷糖工場を起工し、翌々年には、純白精製糖の製造に成功をおさめ、評判になり、販売を始めた。 そして短期間に、世間に普及して輸出品を駆逐し、ついには外国に輸出するまでになった。 鈴木藤三郎は、発明家であるとともに起業家でもあり、『日本精製糖会社』を設立して国産糖の普及に貢献したり、元老井上馨の依頼を受けて『台湾製糖会社』を設立して、政府の台湾政策に貢献したりした。 発明家としての藤三郎は、明治三十年代にはいると、砂糖精製そのものだけではなく、ボイラーや乾燥機など機械系統の発明や、醤油製造法の発明などにも情熱を燃やすようになった。 また同時に、明治36年の総選挙に立候補して、衆議院議員に当選した。 やがて前記企業の社長職を退くと、明治40年には、新しい企業として『日本醤油会社』を設立したが、これは失敗に終わった。 晩年になっても、北海道に水産工場、東京に澱粉製造所、静岡県に農園を設けるなど、起業家・発明家としての活動を続けた。 大正2年、58歳で没した。☆鈴木藤三郎は、『斯民』の創刊号(一九〇五年)に「報徳実業論」と題した論稿を寄せている。「道徳を経とし、経済を緯とし、興国安民の活訓を後世に垂れたる者は、二宮尊徳先生なり」という書き出しから始まり、「貧国強兵」の現状を克服するために、報徳実践が必要である旨を説く。そして報徳の教えは、「天徳、皇徳、親徳一切衆庶の徳に報いるに、おのれの徳行をもってするの義にして、その道たるや誠心をもって本と為し、勤労をもって主と為し、分度を立てるをもって体と為し、推譲をもって用と為す。これ報徳の本主体用として、まことにこの道の綱領たり」とまとめた。さらに、「実業の経営者たるものは、その個人たると会社たるとを論せず、報徳の道を修養し、よく本主体用の主旨を悟了し、その精神を応用し、満身の力を事業に集注して、正々堂々この強大なる競走に当らざるべからず」と述べる。
2023.02.08
台湾製糖発起人「台湾製糖株式会社史」より抜粋 その3第二章 当社の創立 第一節 当社創立の動機 第2節 創立発起人会と創立経過(76-92頁) 井上伯及び伊藤侯はまた華族、富豪間に於ける株式募集にも種々意を払われた。やがて総数2万株は宮内省始め、各株主によって引受けられ、証拠金(1株に付金5円)の払込も明治33年9月10日を以て結了した。第1回払込金は1株に付12円50銭即ち額面の4分の1、全徴収額25万円、取扱銀行は三井銀行本支店及び台湾銀行本支店としたが、払込期日たる明治33年10月20日までにこれを完了した。創立当時の株主は左記95名であった。 明治33年12月10日現在株主姓名表株数 住所 姓 名1,000株 東京 内蔵頭 1,500株 東京 三井物産合名会社750株 台湾 陳和中 550株 東京 子爵吉川経健 500株 同 子爵林 友幸500株 東京 原六郎 500株 同 田島信夫 500株 同 武智直道500株 同 長尾三十郎 500株 同 上田安三郎 500株 同 益田孝500株 大阪 藤田伝三郎 500株 東京 ロベルト ウオルカー アルウィン500株 東京 鈴木藤三郎 500株 大阪 住友吉左衛門 400株 東京 侯爵細川護成 400株 東京 内山直吉 400株 同 熊谷良三400株 同 末広常雄 300株 同 今村清之助 300株 同 吉川長三郎300株 同 子爵相馬順胤 300株 同 中村清蔵 250株 台湾 王 雪農200株 東京 石川栄昌 200株 横浜 渡邊福三郎 200株 東京 加藤正義200株 東京 鍋島喜八郎 200株 同 山本達雄 200株 同 伯爵松浦詮 200株 愛知県 小栗富治郎 200株 横浜 安部幸兵衛 200株 東京 青田鋼三200株 大阪 芦田順三郎 200株 東京 齋藤捨蔵 200株 同 志賀直温150株 同 因藤成光 150株 同 田中平八 150株 同 田中銀之助150株 横浜 増田増蔵 120株 東京 野呂世都 110株 同 鈴木嘉一郎100株 同 子爵稲葉正縄 100株 同 磯村音介 100株 同 浜口吉右衛門100株 同 子爵大久保忠一 100株 同 岡本貞烋 100株 同 岡村竹四郎100株 台湾 賀田金三郎 100株 東京 田村利貞 100株 同 高木兼寛100株 東京 高橋是清 100株 同 相馬永胤 100株 同 園田孝吉100株 同 津田静一 100株 同 根津嘉一郎 100株 同 中上川彦次郎100株 同 中尾十郎 100株 同 山本悌二郎 100株 同 松本直之100株 長崎 松田源五郎 100株 大阪 藤本清兵衛 100株 東京 小林弥兵衛100株 東京 阿部泰蔵 100株 同 佐野万次郎 100株 同 三野村利助100株 同 三島通良 100株 同 渋沢栄一 50株 横浜 岩崎次三郎50株 台湾 服部仁蔵 50株 東京 西尾純一 50株 同 加地匡郷50株 同 中村政次郎 50株 同 内垣末吉 50株 山口県 矢島作郎50株 横須賀 深井峯次郎 50株 静岡県 福川忠平 50株 東京 浅田正文50株 同 朝吹常吉 30株 同 横山六左衛門 30株 同 武智キク30株 静岡県 宮城仁平 20株 東京 八木俊一郎 20株 横浜 山田麟介20株 長崎 松尾長太郎 20株 神戸 呉 大五郎 20株 東京 阿部久三郎20株 同 望月久要 10株 同 池内聡一郎 10株 同 鳥羽権三郎10株 同 村松卯三郎 10株 同 遠藤雄吉 10株 同 遠藤省三10株 静岡県 縣 倍郎 計 2万株 95人 他方台湾総督府に対しては、明治33年6月30日付ヲ以て糖業御保護願を提出し、保護金の下付を願い出た。(87頁) 糖業御保護願台湾ノ地タルヤ糖業ヲ以テ世界ニ有名ナリト雖モ従来斯業ノ幼稚ナル蔗農ニ於テ一甲少ナクトモ拾五万斤以上ノ収穫アルヘキ地ニ於テ僅々四五万斤内外ノ収穫ヲ得ルヲ以テ満足シ而シテ其収穫甘蔗、茎ハ天然ニ九十パーセント以上ノ汁液ヲ有スルニモ不拘之ヨリ搾取スル処ノ粗糖僅カニ四十パーセントニ過キス且其品質粗悪ニシテ精糖ノ原料ニ適セサルヨリ価格極メテ低廉而モ生産費ハ太甚尠少ナラス為メニ該島天恵ノ特産業モ萎靡トシテ振ハサルノ現態ニ在リ国民ノ挙テ遺憾トスル所ニ有之候就テハ我々有志者相謀リ台湾製糖株式会社ヲ設立シ別紙目論見書並仮定款ノ通最新ノ器械ヲ応用シ粗糖製造業ニ従事シ併セテ蔗農ノ改良ヲ企テ内ハ以テ内地ノ需要ヲ充タシ外ハ以テ海外ニ輸出ノ途ヲ啓キ国家ノ一大富源ヲ開発致度存候然ルニ本業ハ創始ニ属シ営業上種々ノ困難ニ遭着スヘキハ勿論最初ヨリ内地ノ工業ニ於ケルカ如ク相当ノ収利ヲ見ルコトハ到底期待スヘカラサル所ニ有之候ニ就テハ特ニ斯業ノ基礎ヲ鞏固ナラシムル為メ当会社設立ノ上ハ左ノ通リ御保護願上度即チ一、明治参拾参年度ニ於テハ払込金弐拾万円迄ニ対シ保護金壱万弐千円也御下付被成下度事一、明治参拾四年度ヨリ明治参拾八年度ニ於ル五ヶ年間ハ払込金中五拾万円迄ニ対し保護金参万円宛御下付被成下度事 右何卒特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成下度此段奉願上候也 明治参拾参年六月三十日 台湾製糖株式会社発起人(氏名略) 台湾総督 男爵 児玉源太郎殿 (台湾の地は糖業で世界に有名であるが従来この産業は幼稚なサトウキビ農業であって一甲あたり少くとも15万斤以上の収穫があるべき地で僅か4,5万斤内外の収穫を得ることに満足している。しかもその収穫したなサトウキビの茎は天然に9-%以上の汁液を有しているにもかかわらずこれから搾汁する粗糖はわずか40%に過ぎない。更にその品質は粗悪で精糖の原料に適しないため、価格は極めて低廉で、しかも生産費は少なくない。このため台湾という島の天恵の特産業も次第に衰頽し振わないのが現状であり、国民がこぞって残念とするところである。ついては我々有志者が相談して台湾製糖株式会社を設立し別紙の目論見書並びに仮定款の通り最新の器械を応用して粗糖製造業に従事し、あわせてサトウキビ農業の改良をくわだて、内には内地の需要を充たし、外には海外へ輸出する道を開き、国家の一大富源を開発いたしたい。しかしながら本業は始めて興すことから営業上種々の困難にあうことは勿論、最初から内地の工業におけるような相当の収益を見ることは到底期待できない所である。ついては特にこの産業の基礎を強固とするために当会社設立の上は次の通り御保護をお願いたします。すなわち一、明治33年度においては払込金20万円までに対し保護金1万2千円を下付下されたきこと一、明治34年度から明治38年度における5か年間は払込金中50万円までに対し保護金3万円まで下付下されたきこと 右なにとぞ特別の御詮議をもって御許可下されたく、この段願い上げたてまつります 明治33年6月30日 台湾製糖株式会社発起人(氏名略) 台湾総督 男爵 児玉源太郎殿) 右願書に対しては、同年9月6日付を以て、命令条項を付して第一年度分1万2千円分を下付せらるる旨左記の如き通達があった。 指令第1781号 台湾製糖株式会社発起人 田島信夫外6名 明治33年6月30日付台湾製糖株式会社補助金下付ノ請願ニ対シ明治33年度ニ於テ金壱万弐千円ヲ下付候條別紙命令書通心得ヘシ 明治三十三年九月六日 台湾総督 男爵 児玉源太郎 台湾総督之印 第一条 会社成立シ事業ニ着手シタルトキハ本年度内ニ於テ金壱万弐千円ノ補助金ヲ下付ス 第二条 左ニ掲クル事項ハ速ニ台湾総督ニ届出ツヘシ 一 定款ヲ制定シ及変更シタルトキハ其年月日及条項 二 目論見書ノ事業計画ヲ変更シタルトキハ其条項 三 役員ノ就任又ハ解任アルタルトキハ其氏名 第三条 会社成立ノ日ヨリ明治三十四年三月三十一日ニ至ル事業ノ功程及之ニ要シタル費用ノ決算書ハ同年四月中ニ台湾総督ニ報告スヘシ 第四条 台湾総督ハ随時吏員ヲ派シ事業ノ実況ヲ査察セシムルコトアルヘシ 第五条 台湾総督ハ本命令ノ外必要ト認ムルトキハ随時特殊ノ命令ヲ発スルコトアルヘシ 第六条 台湾総督ノ発シタル命令ニ違背シタルトキハ補助金ノ下付ヲ廃止シ又ハ減額シ若クハ既ニ下付シタル補助金ノ全部又ハ一部ノ返納ヲ命スルコトアルヘシ 創立準備が着々進行すると共に予ての決定に基き鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治33年10月1日、新橋駅を出発し、3日神戸出帆、7日台北に到着、13日までに同地に滞在の上、総督初め諸官に面会して種々打合せをなし、同月14日基隆出帆、安平に上陸して16日台南到着、3日間同地に滞在の後、愈々実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出で、陳中和氏に面談した。陳氏は明治初年以来横浜に順和棧という店舗を開いて台湾糖を我が国に輸入していた台湾有数の糖商にて、後当社の大株主となった人である。次いで鳳山(現高雄州鳳山街)に至り、それより万丹、東港を経て、当時台南県中糖業地の南端に位する枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の諸所にある有望な大原野に就ては、特に注意して踏査検分した。即ち枋寮と石光見との間には蕃界に接して広漠たる原野があり、石光見より阿コウ街(現屏東市)付近にかけても亦大原野が横たわっている。この大原野を通過して阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越えて関帝廟に出で、一先づ台南に帰着したが、この工程に費した日時は2週間に及んだ。それより更に北上して、大目降(現新化街)、曾文渓を経て、布袋嘴に至った。布袋庄は糖業地ではないが、既に内地人経営の塩田があり、本島人を使役しているから、「参考として一応視察の必要があらう」との児玉総督の注意もあったため、特にこの地を検分したのであった。それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間11日を要し、前後を通じて24,5日間に亙る踏査に、一行の嘗めた苦心は実に容易ならざるものであった。 その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿コウ付近の大原野、即ち現在当社の阿コウ及び東港両製糖所区域たる万隆及び大●営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼を瞠(みは)らせるものがある。 以上の如き実地大調査を終へて、鈴木氏が帰京したのは明治33年12月2日であったが、山本悌二郎氏はなほ台湾に止り事業開始の準備を進めていた。
2023.01.28
「人生の王道」稲盛和夫 よりどんなことでも、まず強く「思う」ことからすべてが始まるのです。「そうありたい」「こうなりたい」という目標を高く掲げて強く思う。それも潜在意識に浸透するほど強く持続した願望でなければなりません。寝ても覚めても途切れることのないくらい、強いものであって、はじめて、実践の場で生かすことができるのです。鹿児島に古くから伝わる「島津いろは歌」という47首の歌があります。次のような一節から始まります。 いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひに せずば甲斐なし「先人の教えを聞き、その言葉を暗誦しても、それを実践することができなければ意味がないんだよ」☆2017年06月13日いにしへの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし鈴木藤三郎は『報徳実業論』(『斯民』明治39年4月26日)の最後を「いにしへの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし」という道歌を詠んでいる。ながい間、藤三郎の自作とばかり思っていたのだが、日新公いろは歌に本歌があると知った。日新(じっしん)公とは、戦国時代の伊作島津家(現在の日置市吹上地域の一部)の10代当主・島津忠良(1492~1568年)のことである。い いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなしろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは 高きいやしきは はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日と 学びをばせで☆2009年10月25日鈴木藤三郎報徳日めくり(発行 「報徳記を読む会」)25日いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし 予かって欧米を漫遊し、かの国実業界における幾多の成功者を訪問し親しくその事業を観察したるとき、彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見せり。彼に報徳の教えあるを聞かざれども、そのとる所の方針は、自然斯道(しどう)の肯綮(こうけい:物事の急所)にあたれり。故に欧米諸国の実業が、大なる発展をなせる所以のもの号も毫(ごう)もあやしむに足らざるなり。譲って今本邦の情況を見るに、日露戦勝の結果、東洋の平和は克復せられたりといえども、産業界の戦争に至りては将来一日も已む時なかるべし。されば本邦は、今後世界各国と競うて非常なる奮闘をなさざるべからず。これけだし人道本来の目的を達せんとする人類社会自然の趨勢なればなり。然り而して、今我が国の地理地勢を按じて、その天恵のいかんを察するに、位置は極東に在りて、地形は南北に長く、気候は温帯に属し、国土は四囲環海にして、良港良湾に富み、かつ人民の繁殖は極めて、盛んなり。故に農業林業産業に適するは、いうまでもなく、鉱物の利源またあえて少なしとせず、もしそれ製造工業に至りては、石灰の産出豊富なると、水力の便とはあいまちて、斯業経営に多大の便宜あり、また商業に至りては、僅かに一葦帯水を隔てゝ、彼岸に清、韓、満州の大陸あり、これすなわちその天恵の厚くして富源の大なる、本邦のごときは世界いまだかってその比を見ざる所なり。然るに我が国がこの天恵の大をもってして、今なお致富の域に達せざるものは何ぞや。けだし治者の富国策その富を得ざるによるべしといえども、しかも従来本邦の実業なるもの事業を経営するに当り、一定の方針を確立して牢固たる確信あるもの少なく、小成に安んじて、大成を期するもの乏しく、あるいは敗れあるいは興り、その状あたかも計画なくして大戦に臨むがごとく、これ本邦の生産業が今日に至るまで大なる発展をなさざる所以なり。かくのごとくんば、たとい多大の天恵ありといえども、将来における本邦実業の世界的発達を望むは、木によりて魚をもとむるがごとし。故に方今、我が国民にしていやしくも実業に従事するもの、よろしく目を大局に注ぎ、遺憾なく平和の戦闘準備を整え、この大敵に当りて必勝を制するの覚悟なかるべからず、これにおいてか実業の経営者たるものはその個人たると会社たるとを論ぜず、報徳の道を修養しよく本主体用の主旨を悟了しその精神を応用し満身の力を事業に集中して正々堂々この強大なる競争に当らざるべからず。およそ天下の事かくのごとくにして成らざるもの一としてあることなし。いわんや天恵の厚き我が国においておや。すなわちその結果小にしては、自家の繁栄、大にしては国力の増進、延(ひ)いて人類社会の幸福を進め、未来における全世界をして、財貨充満して泉のごとくならしめん。果して然らば人類何を苦んで利欲のため訴訟争闘を事とするの必要あらんや。例えば、水は人生一日も欠くべからざる物なれども、地球上至るところ、容易にこれを得るにより誰人もこれを得て徳とするもの、またこれを与えて恩とするもの無きがごとし。財貨もまた然り。この時に至り人類社会はいわゆる天国または極楽浄土、ないし黄金世界の理想的境域に達せしめ、もって人道本来の目的を円満に発展成就せしむること、あえて望みがたきにあらざるべし。時勢に感じていささか蕪言(乱雑で整っていない言葉)を陳し、大方識者の叱正を乞うとしか云う。 いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし
2023.01.21
鈴木藤三郎留岡幸助留岡幸助「鈴木さん、二宮尊徳翁の五十年忌辰(きしん)に当るから、翁の記念祭をやろうと思う」鈴木藤三郎「それは素晴らしい、どうかやってくれ」留岡「事情があって思うように進行しない」藤三郎「どういうわけか」留岡「ありていに言うとおかねがない」藤三郎「一体どのくらいかかる予定です」留岡「多分五、六百円もあったらできよう」藤三郎「ハッハッハ。それでは自分が二千円出そう」金銭(かね)もできたので、遂に明治三九年の一一月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至った。鈴木氏は、この二千円の外にさらに千円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付した。「真に惜むべき人」抜粋 本会評議員家庭学校長 留岡幸助 (「斯民」第八編第七号 大正二年十月一日) ◎二宮翁五十年記念会と鈴木藤三郎氏 わたくしが鈴木氏と相知るに至ったのは、報徳の道を研究するに至ってから後の事です。ちょうど日露戦争後、戦後経営をいかにすべきかという問題が、官民有志の間に講究されつつあった際、わたくしども同志の者は、これはどうしても道徳と経済の調和を図らなければならぬという事に一致し、さてその方法はいかにすべきかという事になったが、ちょうどその年は、報徳の教えを説いて、自らこれを実行し、その成績を挙げた二宮尊徳翁の五十年忌辰(きしん)に当るから、翁の記念祭をやろうという事になった。その時、これが協議にあずかったのは、内務省の有志を中心として、農商務、文部両省の有志、並びに大学教授や、民間有志等であった。この協議会は五、六回も開いたのであったが、事情あって思うように進行せぬ。かくて期日もだんだん迫って、わずかに一か月を余すに過ぎざるに至った。そこでわたくしは、ある日、鈴木氏に電話をかけて話をしたところ、鈴木氏が「どうかやってくれ」といわれるので、わたくしは費用の事をありていに答えたところ、「一体どのくらいかかる予定です」と聞かれたから、わたくしは「多分五、六百円もあったらできよう」と答えたところ、鈴木氏はカラカラと笑われて、「それでは自分が二千円出そう」と言われた。これで金銭(かね)もできたので、遂に明治三九年の一一月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至ったのである。鈴木氏は、この二千円の外にさらに千円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付したのであった。 ◎報徳会の大恩人 鈴木氏が報徳の教えを鼓吹するために尽されたことは、まことに多大なるものがあった。一万円を投じて野州今市の二宮神社内に報徳文庫を作り、相馬の二宮家に在る翁の遺著九千余巻を浄写せしめて、これを保存し翁の遺書の散逸を防ぎ、兼ねて篤志(とくし)なる研究者の参考に資したごときは、最も推賞すべき事であろうと信ずる。 自分は日露戦争後、「報徳記」を英訳せしめたいという希望を持っておったが、これは二千五百円くらいの経費を要する予定であった。鈴木氏もこの挙に賛成の意を表しておられたから、出金してくれといったならば、これも喜んで出されたことと思ったが、遂にそれには及ばずに沙汰止みとなったのであった。 また我が報徳会にとっては、実に大恩人であった。報徳会の今日あるを得た事は、鈴木氏の努力に真にすくなからざるものあるを信ずる。
2023.01.11
「訳注静岡県報徳社事蹟」を出版します。支援者 41人 残り 5日ここ数日支援がとまっている。共同編集者の「鈴木藤三郎顕彰会」のMさんに出版支援者の個人名の最後に「遠州アカデミー、大日本報徳社、西遠連合報徳社」の団体名を入れましょう。遠州アカデミーは「第9回報徳講座」のチラシの裏面に、大日本報徳社は「報徳」11月号にそれぞれクラウドファンディングの広報をいれてくれました。テーマが地味で支援がなかなか伸びなかったのをここまで押し上げていただいた力は大きい。また西遠連合報徳社は団体として多額の支援をいただきました。」「ありがとうございます。」今回、全国の報徳社に支援を呼びかけたが、報徳社として応じた社は稀であった。鈴木藤三郎の「報徳の精神」にいう。報徳の精神を当時の先輩(報徳の師父)から聴きますと、「何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤むべきである」東京小名木川の日本精製糖会社は遠江国報徳社員鈴木藤三郎の創立で、資本金二百万円を有する日本第一の精糖所です。鈴木藤三郎による特殊な発明は純白な氷砂糖です。始め藤三郎は資本金が少ない菓子商でしたが、森町報徳社に加入し商業の真理を悟って、いわゆる元値商いの法によって次第に商業が繁盛し、かたわら氷砂糖の製造に熱心に努めました。時に野州今市に二宮尊徳の法会があります。藤三郎はこれにおもむいた帰り道、宇都宮の旅宿において隣室に宿泊していた学生の化学談を聞いて、大いに悟るところがありました。これによって純白透明な氷砂糖を製造することができました。これから工場を改造し、大いにその業を拡張し、後に東京に移住して、遂に今日の大成をなすに至りました。藤三郎は氷砂糖製造を二宮神霊のたまものとし、厚く報徳の道を信じ、毎月一回報徳会を小名木川の自宅に開いて工場の役員を始めとし、職工等を集めて報徳談を行い、勤倹貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を職工に施したため、報徳の教えはその間に行われました。藤三郎は現在同会社の専務取締役で、資産は数万円に及びます。同志者の吉川長三郎もまた同社の取締として藤三郎と心を合わせて協力しています。吉川もまた遠江国報徳社の社員です。1「報徳の精神」 鈴木藤三郎(「斯民」第二編第十号13ページ)(上野東京音楽学校講堂で開催された第一回報徳婦人会の鈴木評議員の講演)私は多年二宮尊徳翁を尊信する者でございます。・・・・・・報徳の精神・・・・・・二宮翁の教えは偉大なもので私のような無学短才の者が、その精神をお話することはもとよりできません。ことに私のは、はなはだ卑見であって間違ってもおりましょうが、ただ自分が多年信じておりまして、いささか短い才をもって研究した。いわゆる自己流の法ではないかと思うことのみをつまみまして少しくお話を申上げます。私は若年より全く学問の素養がございません。それで私がお話するのは自分のはなはだ拙い恥ずべきことをお話するのでございますが、私は十八歳までは世の中のことは一向念頭にありませんでした。世の中のことのみならず、自分ということについても何の頓着もない、はなはだ無事なことでございました。然るところ十九歳の頃になりまして、どうも一体こうやってボンヤリただ動いておったところで仕方がない。何とか人と生まれたからには、どうか立身出世がしたい。マアこういう無法な考えが起こりました。その時、私は何も立身出世と申しましても、学問もなし知恵もなし。別にエライ者になるということは望みませなんだが、「仕方がない金持にでもなろう。金をこしらえた人は、自由に欲しい物を買い、立派な衣服を着たりいばったりする、どうか富者となりたい」。こういう単純な考えを始めて起こしました。それから富者になるには、何でも自分を土台にして己の益になることならば何でもするがよい。マアこういう単純ないわゆる我利我利亡者の考えで、四,五年の間はそういう滅茶苦茶の考えであちらこちらと飛び回りました。ところが明治八,九年の頃でございました。フトした機会でこの二宮翁の遺教たる報徳教ということを耳にしました。それから段々先輩についてこの報徳の教えを聴いてみました。そうすると私の従来是なりと考えていた主義は、はなはだ人道に背いている。で、まずこの報徳の精神を当時の先輩から聴きますと、「何人でも人たる者は己れというものは虚にして、そうしてすべて世のため人のために勤むべきである」。まずちょっと申しますとそういうことでありました。そうすると私がこれまで「何でもすべて自分のために勤めるものである。自分のために働くものである。自分のためにするものである。すべて自己さえよければよい」と思っていたことはちょうど裏になる。けれども一概に私はそれをご尤もであると考えてそうするまでの勇気もありませなんだ。それから段々先輩諸氏につきまして、教えてもらいました。何が為に人は己れを虚にして、世のため人のためにしなければならんのか、その所以が分らない。で段々研究して見ました。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日かくのごとくにしておられるのである。例えば大学者がここにできましても、先人から学問を遺されてなければ、学ぶことができない。その他すべて政治でも、実業でも、このごとくである。そういう訳で、どうしても人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けているのである。故にその恩に奉じなければならぬ。それが人の道である。ただ己れがためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならぬ。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人すべてどのような身分の高い人でも、それだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。で、この身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着いたしたのでございます。そのくらいな事では決してこれを解釈した訳ではございませんが、とにかくその当時私が思いましたのは、このごとくであります。それで私は然らば今後どうすればよいか、報徳ということの真の大義をやりたいものである。これはそうなくてはならぬというだけの考えは起こりましたけれども、さてこの報徳の道は前席にお話のあった通り、二宮翁の教えは実行を貴ぶ。ただその道理が分かって、それに感服したからとて、報徳という訳にはいかぬ。どうかそれを己れの身分相応に自分の執る仕事の上に、それを実行して行かねばならん。こういうことになって参りました。それで自ら行う時に至ってはどういうことにすればよいか。二宮先生は野州桜町に行かれた時に、小田原侯から用金をお遣わしになって、四千石の領地復興を命ぜられた。その時に二宮先生は「金は要らぬ。金は持っていかなくても、仕事は確かに引き受けてやる」と言われた。そうすると小田原侯が「今まで誰が行っても、しかも金を沢山入れてすら、興らなかったのである。それを金なしに、この荒蕪を興すというは、どういう訳か」とお尋ねになった。その時に二宮先生は「荒地は荒地の力を以て開きます」野州桜町なる四千石の領邑はほとんど荒地になっている。本当の貢のあるのは八百俵ほかなかったという。それを興復するのは大事業である。然るに「決して金は要りませぬ。この荒蕪を興すには、荒蕪の力を以て興します。我が邦(くに)が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が邦は我が邦の力を以て開けたのである。で、この開闢元始の道に基いて、四千石の興復をいたしますから、金は要りません」といって家財諸道具売払帳という帳面もありますが、それはその時に先生が家財から垣根に至るまで、一切を売却しそれを資本として、あの事業をなされた。それから「荒地は荒地の力を以て開くだけでは分からない。その仕方はどういうふうにするのか」というて尋ねますと、まず始め元資金として仮にここに一円ある。その一円の金をもって、一反歩の荒地を開く。そうすると、たとえばそれから米が二俵取れる。その二俵取れた中の一俵を明年の開墾費に投じて、また一反歩の土地を開く。そうするとその翌年になると2反歩から得るものはすなわち四俵である。四俵得ればその中の二俵を開墾費に充てて、翌年開墾すると、今度は四反歩の開墾ができるというようなことで、いわゆる一木博士のいわれました、推譲を行うのでございます。そうして年々歳々このごとくして行くと、初め一円の金を元としたのも、六十一年目には非常に大きな開墾ができあがる。私はちょっと数字を記憶しませぬが、ほとんど日本全国の荒地を悉皆(しっかい)開くことができる。こういうことをば、ハッキリと数字に挙げて、教えにやっておったのでございます。私は岡田良一郎先生、その他先輩の方々につきて、そういうものの写本を見せていただき、またお話をも伺いました。それから自分が考えますに、もし農業が本職ならば、直ちにそれを応用してもできたのでありますが、私は小さい町の町人でございました。別に田地を持ってもおりませず、また農業には少しも経験がありません。これは農業のみではあるまい。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならん。この精神をもって、この法に基づいて、どうか自分が実行してみたいという念が、その時に起こりました。その時私は親から受けました所の、小さな駄菓子屋をしておりましたので、まずもってこれに当ててやってみたいと思いまして、それから明治十年一月一日を紀元といたしましてどうか今後この教えに基づいてできる限り世の中に働いて見たいとこう思いました。それからただいま申した荒地開闢の方法を、まずその小さな菓子の事業に応用する積りで、十年から十四年までに至る五年間の予算を立てました。そうして一月1日から実行いたしました。そのことは細かに申すと長くなりますから申しませんが、五年の後、すなわち明治十四年の大晦日にどうなったかと申しますと、明治九年までは、わずか一年間の売上高が千三百五十円ほかない。そうして資本金が二百六十五円である。然るにその法を自分で極めてやった十四年の暮れまでには売上高が一万二千円余円になりました。そうして資本金が千三百五十円と増加いたしました。それで私はこれはよいと、こう思いましたけれども、これはただ自分の考えから、農業の方で明らかに計算してあることを、こういう仕事の方へ、私が変用したのでございますから、確かなるものではございませぬ。そこで先ずもってこれは先輩に鑑定を請うたがよいと思ったので、五年間の帳面を集めまして、岡田良一郎先生の所へ、年礼に参った時に、その訳を段々お話して、ご覧にいれましたところが、その時に岡田先生から「至極面白い。こういうふうに応用したのは、お前がまずともかくもここでは初めてである。この通りでよいから、折角やるがよい」というて、やや許可を得ました。それから私はその後段々砂糖をやりましたり、いろいろやりました。それですからすべて何事業でも、こういう報徳の心を心としまして、この方法に則ってやりましたならば、大きく申せば天下の事業、すべて成らざるものはないと、大いに私は信念を深くしました。それから世間様ではどう見られるか知りませぬが、私はともかく今日まで三十年間、まずその方針で参ったのでございます。これは私自身のはなはだ拙い事をもって、皆さんにご披露するようなことではなはだ恐縮でございますが、私は固より先刻申し上げる通り、何の素養のない者でございますから、ただ自分の工夫の少しばかり履んだことと、その当時考えましたことだけを、かいつまんで申し上げたわけでございます。 で、この報徳は、ひとり事業のみでございません。この精神を天下の政治に用いますれば、国家は富強になり、またこれをいずれの事業にでも用いて、この精神でもって活動しますれば、事として成らざることはないと思います。また一家内においても、この精神をもって行いましたならば一家和合して必ずその治まりはよいと思います。実にこの報徳は万能丸であります。二宮先生がいわれるに「我が道は神儒仏三味一粒丸であるから、この報徳という丸薬を服用する時は、いかなる困難もたちどころに免れる。いかなる貧賎も富貴に転ずる。いかなることでも、この報徳という丸薬を飲めば解決が付く」とこういわれております。但しこの丸薬ははなはだ飲みにくい。至ってまずい薬で、飲む時にはまず己に克って己を虚にして、強い決心をして飲まぬとまずくて飲めぬ。そこでとにかくこの丸薬を飲む人は少ないので困るが、これを飲めばいかなる病根でも絶つということを二宮翁がいわれたことを、先輩から聴いておりますが、どうかこのごとき妙薬でございますから、ご婦人方にも、少し苦いけれども、お用いになることを私はお願いいたしたいのでございます。あまり長くなりますから、これで終わりま
2022.11.20
鈴木藤三郎が創設した日本精製糖株式会社や鈴木鉄工所は、また日本の食品製造や機械工業の人材養成の場でもあった。特に有名なのは、株式会社荏原製作所の創業者 畠山一清氏である。株式会社荏原製作所 荏原創業者 畠山一清に「畠山は1906年に機械工学科をトップで卒業。帝大の銀時計なら三井・三菱でも引く手あまただが、あえて鈴木鉄工所に入社する。経営者の鈴木藤三郎は氷砂糖の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る技師長に初任給50円(現在の50万円以上)と高給で迎えられたが、輸出用の樽が洋上で次々と爆発し、これが内紛に発展して、1910年に倒産してしまう。」とある。その経緯は「熱と誠」に詳しい。月島機械を創業した黒板伝作氏もまた鈴木鉄工所の出身である。鈴木鉄工所から流れ出た人材の流れは、思ったより深く、藤三郎の報徳の精神とともに日本の工業界の底流に流れ込んでいるかもしれない。2006年03月01日月島今昔人ものがたり(6)「わが町内に月島工業の先駆者あり」(1)「月島機械の黒板伝作社長」月島の築島は明治も中頃に行われた。隅田川河口における近代的港湾施設の建設決定が遅れ、洪水対策としての隅田川浚渫事業が行われた。その浚渫土砂を持って築島が、港湾建設決定より一歩先じて実行された。それが月島の誕生である。 その月島の目的外ともいえる築島の結果は、近代工業の月島へと進行してゆくのである。進むべき道が定まった近代工業の町月島は、石川島造船所(現在の石川島播磨重工)を中心として、フロンティア精神の漲る人々が全国から集まって来た。そうした人々の中でも月島における立身出世の鑑として、月島の人々から尊ばれた人が、多く輩出した。 その出世した先輩達の中でも、代表的な人のうち三人の方が、わが月島四之部町会(現在は西地区と東地区に分かれる)の町内にいた。すなわち月島機械株式会社の黒板伝作社長、株式会社石井鉄工所の石井太吉社長、株式会社安藤鉄工所の安藤儀三社長である。 月島機械株式会社初代社長の黒板伝作氏は、明治9年(1876)に長崎県で生まれ、私立大村尋常中学校を卒業、熊本第五高等学校を修了し、明治33年(1900)7月東京帝大工科大学機械科を24歳で卒業した。 しかも、五高入学前に小学校教員を経験したり、東京帝大に入学した後も学費を補うために鈴木鉄工部でアルバイトをするなど、苦学力行をしたといわれる。 黒板氏の父親は警察官出身の村長ではあったが資産家ではなく、子息への学資の負担は十分に行えなかったといわれる。 東京帝大を卒業した人たちは、明治時代には日本を背負うという自負を持ち、周囲の人たちの期待を強く感じていた筈といわれ、本来国家を背負うためには官吏の道が早い筈である。 しかし当時は官吏としての技術者は冷遇されていたため、野心あるものは、民間から引く手あまたの技術者として、民間の工業界に飛び込んでいった。黒板伝作氏もそうしたなかの一人であったそうだ。 その黒板氏が乞われて選んだのは鈴木鉄工部であったが、その前に日本精製糖からの入社要請を承諾し、200円の前借をしていたといわれる。当時の労働者の平均年収は198円余であり、帝大出の工学士はかなり優遇されていた。 そうした状況で黒板氏は日本精製糖に入社をせず、その弟会社の機械メーカー鈴木鉄工部に入社した。それは製糖会社で機械の番をしているよりは、鉄工部で機械を作るほうが面白かったと、御自身が述べている。黒板氏の志向のあり方、考え方がよく解かるといわれている。 その黒板氏は入社した鉄工部に5年近く関係しただけで、独立への道を歩み出した。明治38年(1904)年東京月島機械製作所を創業し、黒板氏の工業活動が本格化した。の工場が異色の存在として注目されたのは、黒板氏の学者的性格と、経営上の採算をときには度外視するという、技術者としての研究熱心さからだといわれている。 その上、人を育てることへの努力傾注が、工場全体を職人気質で埋めず、欧風の学問に触れる機会を徒弟たちに与え、職人工場にとどまらない近代工場へと、自力で歩みはじめた。それが独力で近代的技能教育を志した点として、月島機械の特色であったという。 月島機械に給仕として入社し、独立して黒板氏とは盟友的存在といえる、安藤鉄工所社長の安藤儀三氏は、在社当時を次のように語っている。「事務所に隣接して黒板社長の私宅があって私宅には書生が4・5人いた。先生は34、5歳で工場を経営し、工場では小学出の徒弟等25・6名を養成しつ々、設計には大学、商工、工手学校の出身者を置き、夜学校に通学する者も数名居るという、前途洋々たる、宏壮の状態であった。その受注先も官庁の他に鉱山、化学、土建、発電会社、鉄道方面等多方面であった。青年には勉強の余暇を与える等の温情溢れるものがあった。人望も厚い人で、この社長の下で日夜働くことが、どれだけ良かったかわからない。」と語る。 また、「俺は人間を育ててやる、だから直ぐには駄目だが末には伸す積もりだ。」とも安藤氏は黒板氏を語っている。それを実証するのは、徒弟養成所(後の技能者養成所)であるといっている。 日本の近代大工場が、工場の設備や技術・技能体系、その管理体系を外から移植したり、国家的バックアップを受けて育って来たが、中小工場では、熟練職工を大工場から引き抜くとか、大工場に移植された技術や技能を模倣し、職人が自力で技術や技能を習得し、練り上げるほかなかったという。 その点月島機械のように、徒弟養成所により工場を組織化する政策を設けたことは、新しい考へ方と旧い考へ方の闘争を持ちながら、小学校卒の徒弟たちに、彼らが受けられなかった教育を補完したいという。 また新しい時代をひらき、創造的な人間になるためには堂々たる勉強が必要だと言い、黒板氏は自らもそう努めながら、人々にもその場と機会を用意したのだと言われている。その努力が月島機械の基礎を築き、現在の月島機械を作り上げたと言われ、月島の誇りとなっているのだと語られている。 月島の近代工業の一っ月島機械は、他の工場が環境公害の関係で、区外に転出してしまったなか、本社機能を残し現在も健在に営業を続けている。
2022.09.19
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