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「永平家訓抄話」澤木興道 4-13 世の中にはいいことさえすればいいといって、いいことがわかっておるように思っておる人がある。この間もわたしがあるところに行ったら、そこではわたしを招待するというので風呂を直してくれる人がいたそうだ。今時分のことじゃからだいぶ金がかかったらしい。山中じゃから材木は自分のところの材木であったかもしれんが、あったにしても金にすれば大したものであろう。ところが、わたしが行っておっても、肝腎な普請を寄付した人は仏法を聞きに来ないで、一番しまいに菓子箱一つ持ってきた。はたの人が「結構なお話じゃった。明日は午前と午後、それでしまいじゃからあなたもおいでになったらどうですか」というたら、「いや、わかっております。わたしは、いいことで、せんならんことは知っている。悪いことはせんから、何も聞かんでもいい」それはかつて村の要職を勤めたり、県会議員になったりしたその部落の利け役で、誰でも「へっ」という調子であつかっておった。もちろんこの寺の和尚も「へっ」といった具合だったに違いない。寺の和尚はお金をいつももらうものじゃから、もう何をいわれてもご無理ごもっとも、ところがその人の顔の勾配を見ても、いいことがいいとわかったような単純な顔である。いいことをしておるのだから、別に何も悪いことはせん、もう聞かなくてもわかっております・・・・・それがずいぶんあぶない話である。いいことというのが、どこからどこまでがいいのか、それがわからん。もっとも、仏教では妄想と仏性との距離を五十二段にもわけて説明しているくらいだから、ざっとものをいうてもらっては困る。 あるところの管長候補者、わしらより若いのじゃろう。五十か六十そこそこの人であるが、もちろん、悟っていることになっている。ところがその人は嫁さんがあっては、もし独身者が対立候補に現れた場合にはたいへんだとばかり、嫁さんのないことにしておかねばというので、嫁さんと子供をよそへあずけている。つまりご本人は独身になったことにして管長を待っておるわけである。第三者のわたしらからは、彼氏の心の中のたくらみが、あまりにも見えすぎて、むしろ滑稽といいたいところである。それでも本人は仏法をわかったつもりでいる。やはり、わからん者にはわからんものだと見える。 仏法の中には管長んあていうものはない。立候補までしてなるような地位もないのが仏法である。もしそんなものがあるとすると、それは人間の地位だけの話で、そんなことを望むような人には仏法は思いもよらんことだと申さねばならない。ちょっとしたところだが、仏法と妄想のとんでもないはきちがいをやるものである。妙なところで悪魔がすれ違う。だから仏魔同面というて、仏さまと同じ顔つきして悪魔が出て来る。また悪魔と同じ顔つきして仏さんが出て来ることもある。たとえば地蔵さんが罪人の裁判をする。そのときには閻魔さんとなる。片方では閻魔さんになって錫杖を持って食いつくような顔をして怒っているが、片方では地蔵さんとして助ける。同じ品物が、閻魔さんになったり、地蔵さんになったりする。そうするとこれが仏性か、これが妄想かということはざっとはいわれるものではない。悟ったという妄想もあるし、信心したという妄想もあり、あくびした仏性もあるかもしれん。ここに顕微鏡でも見えないような微妙な妄想と仏性との取り違えがある。仏者のもっとも用心しなければならない取り違いは「無始劫来生死の本、癡人喚んで本来人と作す」ということである。このあやまり、この鏡に照らしてあやまりを離れねばならん。こう道元禅師は結ばれるのである。(「永平家訓抄話」p.309-311)
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)1649年4月20日(金曜日)。中将クロムウェルはアイルランド出征を承諾し、ロンドン市は金を貸すこととなり、この日ホワイトホールに軍事会議が開かれて、出征すべき連隊の選定をした。祈祷して後、くじ引きということに定まり、その結果歩兵14箇連隊、騎兵14箇連隊、併せて28箇連隊が出征することになった。行くことにきまった連隊の士官は皆一様に喜んだが、兵卒はことごとくそうはゆかなかった。兵士はリルバーンらの鼓吹によりて過激な自由主義を抱き、新しき束縛の出現を面白からず思い、共和国に多大の注文をなしていたのである。4月26日(木曜日)。この夜フォーレーの連隊の間に一大騒動が起った。兵士のある者はいろいろな注文を提出して、不穏の行動に出て、旗手より軍旗を奪いなどした。大将フェアファクスと中将クロムウェルとは急行してこれを鎮め、15人を捕えて軍法会議に回し、5人は有罪に定められしもゆるされ、ロックシャーという者のみ翌朝パウル寺の墓地に射殺された。23歳の勇敢なる若者にして、7年間も従軍し、信仰も厚かったが、自由に対して熱烈なる渇仰心を抱き、神的黄金時代をあまり近く望み過ぎたのだ、あわれなるロックシャーよ!彼は群集の涙の中に倒れた。やがて次の週間が来た。月曜日彼の葬式は行われた。その葬式は実に非常なる同情の中に行われた。数千人がこの葬列に加わった。皆胸と帽子に濃緑色または黒色のリボンを着けていた。婦人の一隊が後に続いた。一列ウェストミンスターの墓地に到着するや、行列に加わるを不謹慎となした数千の人が更に加わった。この葬式をもって議会と軍隊とに対する反抗と見る人が多かった。また会葬者を「平等組」と呼んだ人もあった。しかし彼らは人の評などを耳にかけなかった。5月9日。リチャード・クロムウェルの結婚は無事に済んだ。リチャードの父はハイド公園で閲兵をしている。兵の中には濃緑色のリボンを着けている者もある。クロムウェルは熱心に彼らの誤謬について説いた。曰く、議会は今日までともかくも全力を尽くしたのである。「違反者」を罰してしまい、先日は自ら解散を議決して後の議会に道を開いた。貿易を保護し、強固なる海軍を得た。反乱者処罰について批難あるが、軍律にたえぬような者は軍人として不適当である。速やかに武器を捨てるがよい云々と。この説諭は大いに効果があって濃緑色のリボンは捨てられた。この閲兵は水曜日のことであったが、リルバーンらロンドン塔の捕囚は各々独房に入れられて、更に厳しき監視を加えられた。今や危機は来った。火はオクスフォード州、グロースター州、司令部のあるソオルスベリー市(ウィルツ州)等の隊伍の間に起り、四方八方に大火は天を焦がさんとしている。オクスフォード州においては大尉トムソンなる者が200の兵を率いて、「新しき束縛」と呼号し、「自由の完成」と叫び、ロックヤー等の復讐を望んだ。この仲間はその大佐より攻められて敗走してしまったが、トムソンは数人と共に逃れて、なお処々を徘徊す。ソオルズベリーにてもこれに応じて一千の兵は叛乱を企てフェアファクスとクロムウェルとはその鎮定に急遽出発した。中佐リルバーンの大いに活躍すべき時なんだが、堅い壁に囲まれていては何も出来ぬ。5月24日(月曜日)。日曜一日、2将軍は急行してソオルズベリーに向かい、叛徒はこれを聞いて北方バッキンガム州に向かって走り、またバーク州に向かって走り、2将軍は猛烈にこれをおうた。叛徒はウォンテージに走り、更にオクスフォード州を志して、流れを渡ってバオフォードに到着し、疲れ果てて眠りに入った。-2将軍は月曜日50マイルに近き長追いを為し、クロムウェルはその真夜中に叛徒に襲いかかった。-かくして彼は叛乱を平らげ、平等主義を砕いた。次は軍法会議という順序になる。5月17日(木曜日)。この日、バーフォードの墓地において、この叛乱に加わりし旗手トムソン(トムソン大尉の弟)は2人の伍長と共に銃殺された。トムソンは悔悟の意を表し、人民の祈祷を望んで潔く倒れた。伍長の一人は射手に「うて」と命令して決然として死んだ。もう一人の伍長はあくまでも確信のために死すという態度で、終りまで射手等の顔を眺め、ごうも恐怖の色を表さなかった。-こんなふうに彼らは死んだ。彼らの確信によれば英国自由のための勇者であった。誤れる伍長よ!さりながら誤れるチャールズ・スチュアートのためにも涙を惜しまざりし歴史は、これらあわれなる伍長のためにも一掬の涙を惜しまぬであろう。アーノルドよ、ロックヤーよ、その他英国自由のための誤れる殉教者よ、汝ら願わくは安らけく眠れよかし!第四番目に射殺さるべく現われたる旗手デーンは、悔悟の意志を表してフェアファクスより赦免され、ここにおいて銃殺は終わりを告げた。かくてクロムウェルは叛徒の中、処刑さるる事に定まれる者どもを寺院に集め、叱責し、説諭し、しかして特典をもって赦免する由を言い渡した。誤れる者どもよ。神の大命によるこの主義をこぼたんとするか、去れ。悔いよ。再びそむくなかれ。恐らくはより悪しき禍にあわんと。彼らは泣いて自己の連隊に戻り、快活にアイルランド進軍に加わった。-旗手トムソンの兄、大尉トムソンはあくまで叛乱の意志かたく、ついに一日逃れ去りて一小林に入り、おい迫る者に向かって発砲し、死すとも服従せずと叫んだ。が、ついに一伍長の7連発銃のためにたおれてしまった。これでこのおそろしき大火災もことごとく消えて一片の残火もなくなった。極端改革主義はなお200年も潜んでおらねばならぬ。「平等組」の主張は英国の政治または軍事の方面には無い。けれども心霊的方面にはたしかにある。もうセーント・ジョージ山に豆を植えたり、バーフォード付近を馬で駆け回ったりすることは止めたが、クエーカー派等の宗教的方面に姿を現わした。衒学者君は、昔クエーカー派等に対して寛容の行われなかったのを嘆くであろう。しかしもし彼がセント・ジョージ山に豆を植えたり、バーフォード辺を駆け回るのを見たならば、真面目な世において「確信」というものは、地上の静粛にして速やかなる実行を意味するものであろうと悟るであろう。〔5〕月の17日(木曜日)の夜、大将、中将及び重なる将校はオクスフォードに到着し、オールソールズ・コレッジに宿し、司令部をしばらくここに置くことにした。そしてすでに改革されたる大学より非常なる歓待を受け優遇にあずかった。ドクター、マスター、バチェラーなどという学位を多くの人が貰った。しかしアイルランドの模様を早く記さねばならぬ故、ここにオクスフォードの事はくわしく記すまい。この頃下院に感謝会あり。ロンドン市の感謝祭は7月7日(木曜日)に行われ、(全英国のそれは21日に挙行された)市は国会議員、将校士官、その他朝野の諸名士を招いて一大饗宴を催した。また400ポンドの金を市の貧民に与えて彼らをして鼓吹せしめた。-しかしアイルランドの方が忙しい故、これらの事は詳述しないことにしよう。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第93〔1649年〕3月25日、クロムウェルは大多忙の中に、メーヤー氏の親戚に託して短翰をメーヤー氏に送り、先方の申込みのほとんど全部を承諾した。大多忙中に書いた手紙とは一見してわかる。この手紙を持って行った親戚というのはバートン氏という人である。クロムウェルの総指揮官任命は議会においても承認され、その条件も定まったので、彼は大に忙しくなったのである。〔訳者曰く、この間に書翰あり。今述べし通りの趣意のものにて、ほとんど全部メイヤー氏に譲歩したというてもよいほどの点まで条件を改めて、その速やかなる同意を求め、結婚の早き成立を望んだものである。前の書翰を略せし関係上これをも略す。〕かかる間に、軍隊内の純自由派は、クロムウェル等が権勢の地に立ちて漸く専断の風あるを不快とし、これに反抗するの色を表わし始むるにいたった。中佐ジョン・リルバーシ等は小冊子などを配布して、英国が古い束縛断ち切って、また新しい束縛を得たのであると公言した。〔訳者註、なるほどこれは側面観として半面の真理を有する断定である。クロムウェル等はたしかにその形においては完全なる自由国を建てたのではない。自由とか不自由とか、圧制とか民権尊重とかいう問題は彼らの知らぬところである。彼らは私欲のための圧抑政治を破壊して神の政治を始めようとしたのである。そしてその理想を行うためには、必要の場合には自由をも与えるし、また専断政治をもするのである。この理想なくして、ただ自由のみを唯一の頼みとするものの、クロムウェル等に反対するのは当然である〕、ためにリルバーン及びその徒党のリチャード・オヴァートン、ウィリアム・オルウィン、トーマス・ブリンスは、間もなくロンドン塔へ監禁されてしまった。これは3月27日の事である。今や実に軍隊にもまた一般社会にも、はなはだ危険なるパンだねがあるのである。曰く、神の敵は滅ぼされ、重なる「違反者」は罰せられ、「敬神の党派」が勝ったのに、「神的黄金時代」はなぜ直ちに来ないのであるかと。彼らは革命の結果の自分等の思うようにならなかったのに悶えたのである。書翰第95 書翰第96〔訳者曰く、前者は4月6日付け、後者は4月15日の書翰である。ともに結婚事件に関するもので、ことに後者はすべての結婚条件に応ずるという趣意である。前同断の理由にて省く。なお曰く、訳者はこの辺においては余り書翰の訳を略し過ぎたように見えるが、これこの結婚事件の紛糾錯雑の中に入ることの、いささかの利なきを思うてのことである。〕クロムウェルがアイルランドに出発する前には、まだまだ処理すべき事が多かった。軍資金はいまだ調達されず、軍隊の組成にある困難があった。書翰第95の認められた翌週のこと、議会の委員(クロムウェルもサー・ハリー・ヴェーンもこの委員の一員であった)はロンドン市に行って、軍資として12万ポンドを貸すや否やを知らんとした。市会議事堂においてクロムウェルの説明あり。また討論あり。遂に市は軍資を貸そうということになった。さてこれで軍隊の組成ができると、すぐ出征するというわけだが-?-書翰第96飛んで、ここに子息リチャードの結婚は決定し、1649年5月1日に式が挙げられた。さてこの新夫婦の運命はいかに。リチャードはクロムウェルの死後、その後を襲うたが、たちまち退職のやむなきに会した。彼は1712年7月12日齢86にしてチェスハントに死し、妻は1676年1月5日ハースレーにて死して、その地に葬られた。妻は生家に帰っていたのである。1世紀の後、ハースレーのメーヤー家の邸宅は他人の手に帰したが、その時古い壁の間から金属のさびた棒を見出した。これは共和政府の大?(だいじ)であったとやら。 (2)平等組ドロシー・メーヤー嬢は婚姻の晴着を選択し、リチャード・クロムウェルは花のごとき新婚生活を夢見ている間に、リチャードの父及びその他のためには、公事に関する一のはなはだ目出たからぬ事件が発生して、直ちにその処分をせねばならなくなった。これは平等組(Levellers)と呼ぶ一味の連中についてである。前にも言った通り、1647年既に軍隊の中に叛乱を企つるものありて、政治上及び宗教上に完全なる自由を獲得して、速やかに地上の神的黄金時代を実現せざるべからずという理想を標榜した。叛徒の巨魁11人は軍職をはく奪されて軍法会議に回され、死刑の宣告を受け、その一人アーナルドは直ちに銃殺されて叛乱は一時鎮静した。その後の戦闘、「違反者」処分、自由共和国建設等は軍隊をして多忙ならしめた。然るに今や深き民政思想のパン種は再び発酵して恐るべき大混乱を起さんとす。平等組というもの、すなわちこれである。これカルヴィン的過激主義と称すべきもの、その出現は2世紀早すぎるのである。ホイットロックの著書などによりて当時のありさまを見ると、おおよそこんなふうである。ちょうどバートン氏が例の結婚事件について下手な尽力をしている頃、平等組がサレー州に起って山を掘って豆などを蒔いて騒いでいるという報知が参議院に達した。エヴェラートという者がその巨魁で自ら預言者と称し、ウィンスタンレーもまた巨魁の一人であった。仲間は30人であったが、間もなく4千になると号していた。彼らは人民の来投を求め衣食の供給を約した。しかしサレー州の白亜丘に新紀元を始めんとせしこれら狂妄の徒は、ついに捕えられてしまった。1649年4月20日、エヴェラートとウィンスタンレーは大将フェアファクスの前にいでて、自分等の行動を弁明した。エヴェラートはいうた。「自分はユダヤ人である。そして英国の有様を見るに、ウィリアム王の英国入以来、神の民〔英国人〕は、自分達の祖先がエジプトにて受けしよりもはなはだしき圧制暴虐を受け来った。しかし今救いの時は来た。神は人民を救い出して地の産物を十分に恵むべし。自分らは宇宙を原始の状態に戻さんとするもの、地の産を享受して万人ともに喜ぶ理想社会を造り、貧窮者に分ち与え、衣なき者には衣を与えんとす、自分らは人の財産に手をつくるを欲せず、ただ不毛の地を拓きて産を得んとするのである。しかし間もなく万人来り投じてその財産を提出し、ここに共産社会起るであろうと。これがこの連中の山を耕し始めた理由である。かくして新紀元を造ろうというのである。来り投ずる者には衣食を与えよう、金は要らぬ、武器をもって己をまもる要なし。政府には服従する。ただ近く来るべき機会を待ってさえいればよいというた。フェアファクスの前に引き出されて脱帽せぬ。理由を尋ねられたら、大将も同じ人類であるからと答えた。「敬(とうと)ぶべきひとはこれを敬べ」(ローマ書13章7節)という句の意味いかんと反問されると、かかる質問をなす者の口は閉さるべしと答えた。
2026.05.04
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替える4 婿入に貧家を選ばせる「二宮翁夜話」の著者である翁の高弟の一人で福住正兄翁は大磯在の片岡村の一男である。その父に当たる人は常々人を癒す医者はあるが、国を治す医者はないと言っていたが、後に二宮翁のあることを知って、この人こそ国を治す医者であるというので、遂に正兄翁を野州桜町に遣わして6年の間二宮翁に仕えさせた。 その時正兄翁はまだ政吉と呼ばれていた時で、小田原の辻村や小西などの素封家(そほうか)からと福住家の諸方から同時に養子に所望されたが、福住家はその時身代も衰えて借銭も多く極めて貧乏の家であった。それで翁にいずれへ養子に行ったらよかろうかと相談をしたら、翁の言われるのに、それは福住に行った方がよかろう。財産家へ養子に行ったらとても報徳はやれまい。そればかりでなく事によれば失敗するかも知れぬ。しかるに貧家ではそういう憂いがないからといって福住家へ行くことを賛成されたということである。正兄翁が身代の傾いたる福住家を今日のように箱根でも有数の温泉宿に回復されたのは正兄翁その人も偉かったに違いないが、二宮翁の眼識の高かったのはこれでもよく分かるのである。☆二宮翁夜話には、福住正兄が婿入りするにあたって、尊徳先生が教訓された言葉が記されている。正兄はそれを大事に胸奥にいれて、先生がいますかのように繰り返しその言葉を聞いていたに違いない。そんなふうに思える記録である。二宮翁夜話巻の2【36】私(福住正兄)が尊徳先生に帰国(小田原の温泉宿に養子となった)の暇乞いした。尊徳先生はおっしゃった、「二三男に生れる者が、他家の相続人となるというのは、則ち天命である。その身を天命として、養家に行って、その養家の身代を多少なりとも増やしたいと願うのは、人情であって、誰でも見える常の道理である。このほかにまた一つ見えがたい道理がある。他家を相続するべき道理で、他家へ養子にいく、往く時は、その家に勤むべき業がある、これを勤めるは天命通常の事である。その上に、また一段骨を折って、一層心を尽して、養父母を安んずるように、祖父母の気持ちに違わないようにと、心を用い力を尽す時には、養家において、気が安まるとか、よく行き届くとか、祖父母父母の心に、安心の場ができて養父母が歓びの心となる。これが養子である者の積徳の初めである。親を養うは子である者の常で、頑夫であっても、野人であっても養わない者はない。その養ううちに、少しでもよく父母が安心するように、気に入るようにと心力を尽す時は、父母は安心して百事をまかせるにいたる。これがその身の、この上もない徳である。養子である者が徳を積んだその報いといえよう。この理は凡人には見えがたい。これを農業の上にたとえてみると、米麦雑穀何であっても、肥しは二度やり、草は三度取るとか、およそ定まりはあっても、その外に一度も多く肥しをやり、草を取り、一途に作物の栄えのみを願って、作物の為に尽す時は、その培養のために作物が思うままに栄えるであろう。そして秋に熟するときに至るならば、願わなくても、収穫は多く、産出の多きことで自から家を潤す事は、しらずしらず疑いもないようなものだ。この理は人々家産を増殖したいと思うのと、同じ道理であるけれども、心ある者でなければ理解しがたい。これはいわゆる理解の難しい理である。【37】尊徳先生はまたおっしゃった。茶師利休の歌に「寒熱の地獄に通ふ茶柄杓も 心なければ苦しみもなし」といっている。この歌は未だ尽していない。 なぜかというと、その心は無心を尊ぶだけであり、人は無心であるだけでは、国家の用をなさないからだ。心とは我心の事である。ただ我を去るだけでは、未だ足りない。我を去ってその上に、一心をきっと定め、少しも心を動さないようにならなければ尊ぶに足りない。だから私は常にこの歌は未だ尽していないというのだ。今試しに詠み直してみよう。「茶柄杓のように心を定めなば 湯水の中も苦しみはなし」とすればよかろうか。 人は一心を決定し動かさないのを尊ぶ。富貴・安逸を好んで、貧賤・勤労をきらうのは、凡人の人情の常である。婿や嫁に来た者が養家にいるのは、夏火宅にいるようであり、冬寒野に出るようなもので、また実家に来たる時は、夏氷室(ひむろ)に入るようで、冬火宅に寄るようなものだ。この時その身に天命のある事をわきまえて、天命が安んずる理を悟って、養家は自分の家であるときっと定めて、心を動かさない事、不動尊の像のごとく、猛火で背を焼いても決して動くまいと決定し、養家のために心力を尽す時は、実家へ来ようと欲するともその暇はないであろう。このように励む時には、心力勤労も苦にはならないものである。これはただ我を去ろうと、一心の覚悟の決定が徹底するところにある。 農夫が、暑寒に田畑を耕し、風雨に山野を走りまわったり、車ひきの車を押し、米つきが米をつくようなものだ。他の慈眼をもって見るに時は、その勤苦は気の毒な限りだといっても、その身においては、普段から定めて、労動に安んじているから、苦には思わないのである。武士が戦場に出で、野にふし山にふして、君の馬前に命を捨てるのも、一心が決定すればこそできるのである。そうであれば人は天命をわきまえて天命に安んじ、我を去って一心を決定して、動かさないのを尊いとするのである。【38】尊徳先生はまたおっしゃった。「論語に大舜(たいしゅん)の政治を論じて、己れを恭(うやうや)しくして正しく南面するのみ、とある。なんじ(福住正兄)は国(小田原)に帰って温泉宿を職業としたら、また己れを恭しくして正しく温泉宿をするのみ と読んで、生涯忘れてはならない。このようにすれば利益が多いであろう。このようにすれば利徳があろうなどと、世の風潮に流されて、本業の本理を誤ってはならない。己れを恭しくするというのは、自分の身の品行を敬んで落とさないことをいう。その上にまた仕事の本理を誤らないで、正しく温泉宿をするのみ、正しく旅館を経営するのみと、しっかり心に定めて肝に銘じなさい。この道理は人々皆同じである。農家は己れを恭しくして、正しく農業をするのみ、商家は己れを恭くして、正しく商法をするのみ、工人は己を恭しくして、正しく工事をするのみ、このようであれば決して過ちはない。 南面するのみというのは、国政一途に心を傾けて、ほかの事を思わない、ほかの事をなさないことをいうのだ。ただ南を向いて座っているということではない。この理は深遠である。よくよく考えて、よく心得るがよい。身を修めるのも、家を斉えるも、国を治めるも、この一つにある。忘れてはならない、怠ってはならない。
2026.05.04
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第91〔訳者曰く、些事に関せしものなる故その説明とともにこれを略す。〕 この書翰をクロムウェルがしたためし前日、すなわち3月13日(火曜日)に、参議院において「アイルランドに出征すべき軍隊の組成」について相談があったが、もし指揮官の誰であるかが解れば、その組成も自らできるであろうという意見が提出された(多分フェアファクスの提案であろう)。中将クロムウェルが指揮官たるべしとは誰人も予想するところであった。 なおまた、この夕最高府の紳士2,3がホルボーンの小屋にジョン・ミルトン(*)を訪れたのを見た人もあったろう。若きサー・ハリー・ヴェーンもその中の一人であったらしい。これは政府よりある委嘱をミルトンにいたすためであって、この夕たしかにミルトンに面会することができた。 当時の公書にもこの事は載っているので、ミルトンを外国語掛りの書記官に採用せんとし、ヴェーン等はミルトンの意志を確かめて参議院に復命するために訪うたのである。ミルトンは突然この委嘱に会して承諾し、翌々日に正式に任用せられ、参議院に大満足を与えた。いな全国、全世界に満足を与えたのだ! さてこの書翰と同日にしたためた例の息子リチャードの結婚問題に関するものがある。メーヤー氏の方から何か財産問題等に対して面倒な条件を提出したので、これに対するクロムウェルの返翰である。まことにメーヤー氏という人もちょっと鋭い男らしい。しかし彼は自分よりはずうっと大きくて、しかも鈍(のろ)くはない男をあいてとして談判をしているというわけだ。 * ミルトンとはいかなる人か?カーライルが「全国、全世界に満足を与えたのだ!」と讃嘆してやまない ミルトンとはいかなる人か。「英米文学評伝叢書11」に MILTON がある。その「わかきミルトン」にいう。「Shellyは ホメロス 及び ダンテ に次いで『光の子ら』のうち第3位を占める者とたたえた大詩人」と。John Milton は 1608年12月9日ロンドンに生れた。ミルトンの祖父はオックスフォード付近に住んでいたローマ・カトリック教信者であった。父はプロテスタントとなったため勘当されて、ロンドンに出て、音楽好きな公証人として相当裕福な暮らしを立てた。ミルトンは幼くして秀で、神学者トーマス・ヤングについて学び、また父からも教えを受けた。「父は私が幼少の時から文学研究に向かわせてくれた。そして私の知識欲は飽く事を知らなかった。夜は12歳以降、真夜中にならないうちに書斎を出たり、床についたりすることはほとんどなかった」1625年にミルトンはケンブリッジのChrist's College に入学した。容姿の端麗さと素行の純潔さのために Lady of Christ's(クライスト学寮の淑女)というアダナが付けられた。 「将来讃嘆すべき事柄について筆をふるおうとする志をまげたくない人は、いやしくも自ら真の詩でなければならない」と公言していたという。 そして彼は後に「失楽園」を書して、世界の文豪の一人となった。書翰第92〔訳者曰く、この手紙は、メーヤー氏側より結婚条件として金銭問題その他に関する種々の注文があったのに対する不承諾の返事である。その委細は少しも我らの興趣を惹かぬことである故、末節だけを訳出する。〕貴兄よ、小生及び愚息に対するご好意、ご厚情については感謝の至りにこれ有り。ご息女の淑徳については、ただ他人の評によりて、遠隔のこの地より知るもののみなるが、小生はこれを感謝し、これを尊重いたしおる次第なり。かかる次第につき、小生は金銭問題において喜んで我が意を捨てて貴意に従いたるがごとく、他の諸点においても喜んでご承諾いたしたくは存ずれども、もし上述のごとく主張いたさざる時は、自己の理性にも友人の忠告にもはなはだしく違背することと相成れり。これ小生の堪えざるところなり。以上のごとく卑見を明らかにいたすに付き、なにとぞ愚息を使者として、ご意見ご決心のあるところを速やかにご報知くだされたく願いあげる。以上。ご令閨及びご息女、皆様によろしく1649年3月14日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルハースレーにある畏友リチャード・メーヤー様 この翌日すなわち15日(木曜日)に中将クロムウェルはアイルランド出征軍総指揮官に任命された。ミルトンが外国語書記官に任ぜられたと同日である。共に満足この上なき任命であった。
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第891649年2月19日(月曜日)に参議院はその第一会を開いてここに初めて成立し、政務の処理を開始した。クロムウェルが最初この参議院の仮議長を勤めたようである。定(き)まった議長を置くにも及ぶまいという事が議決されたが、間もなくその不便なることが解って、ブラッドショウが議長に任命された。さてクロムウェル家の結婚事件については、牧師スタビルトン氏がクロムウェルの子息リチャードを伴いてハースレーに赴き、メーヤー家にては極めて丁重に待遇し、ドロシー嬢は羞恥と微笑とをもってこれを迎え、結婚成立がはなはだ好望に見えたので、スタビルトンはその由をクロムウェルに報じた。それに対してのクロムウェルの手紙がこれである。貴君よ、小生はスタビルトン氏によりて貴翰に接し、また愚息が懇切なるご待遇にあずかり、かつご令嬢と接するの自由を与えられしことを知れり。ご令嬢の淑徳と信仰について充分の報告を受け、小生はなはだしくこの点に敬服仕るについては、小生自身としては一日も早く婚儀の成立せんことを渇望いたす。ただこの上は若き二人の決意いかんと、大能の摂理の中に事の両家に満足を与うるよう決し行くことのいかんに依れり。これがため小生自身貴家に参りたけれども、公事多端にしてあたわず。貴君の健康また小生を訪うに適せざる由伝聞いたせり。故にスラルビルトン氏に万事をいい含め置きたきにつき、充分同氏とご相談くだされたく、貴君と小生との会見はこの際はなはだ必要とは存ずれども、神これを許したまわざるにより、願わくはスタビルトン氏に充分のご信任を与えくだされたし。主その栄光とその僕(しもべ)等の安穏にまでこの事を導きたまわんことを祈る。1649年2月26日、ロンドンにて オリバー・クロムウェル畏友リチャード・メーヤー様書翰第901649年3月8日(木曜日)、僅かに議員60人を越えぬ議会において、ハミルトン公、ホランド伯、キャベル卿、ゴアリング卿、サー・ジョン・オーエンを殺すべきか、生かすべきかについて討論行われて、投票があった。彼らはすでに新高等法院において審問せられて、叛逆の罪ありと決定せられたのである。そこで議会は、彼らを処刑すべきか執行猶予にすべきかという決定をせねばならぬのである。ハミルトン、ホランド、キャベルの3人は少数の差をもって死刑と定められ、余は執行猶予の恩典に浴した。ゴアリングについては賛否同数であったが、議長レンサルが「生」と叫んだので死を免れた。さて、例の家族的小事件はどうなったであろうか。〔訳者曰く、原文ここにクロムウェルのメーヤー氏にあてたる手紙あれど、前翰とほとんど同一にしてただ事件の進捗を願いし短翰なる故省く〕9日の朝、動きやすきハミルトン、動きやすきホランドは、かつては議会最初の戦士たりしキャベル卿と共に、宮殿の庭において、あわれ断頭台の露と消えた。あわれなる公爵よ。これが実に公のすべての外交術の終局であった。彼の4万のスコットランド軍とご苦労なる進軍は、皆この一悲劇的終局に帰してしまった。ラナーク伯代ってスコットランドのハミルトン公となるであろう。願わくはよりよき運命の彼を待たんことを!ホランド伯もかつては人民の熱心な味方であったが、少し以前に急に王党に籍を変えたのである。憐れなる伯爵よ!キャベル卿の死に臨んでの態度は実に立派なものであった。彼は死の近づくを知らぬが如く、大胆と決意とを持して断頭台の上に終始した。その振舞は実にどこに風が吹くかというふうであった。-初めて議会に憂国論をなしたキャベル卿は、王党の一員と化してこのごとき死を遂げた。7年の間に一人の人にこの大変化あった。劇の序幕はその大詰めを知らなかった。この新高等法院というのは、この頃7つ、8つあったが、いわゆる立憲思想の人々にはだいぶ批難せられた。判事が証拠に反する判決を与えたと批難されたことはないが、しかし彼らは正しき判事ではなかった。議会の法律を善となし、すべて議会の意を行ったものである。数週後、例のベムブローグの泥酔大佐ボイヤーは、同じ仲間のパウエル、ローアンと共に軍法会議にて死罪に当るとの判決を受け、3人の1人が抽籤で死して他の2人が助かることとなったが、ボイヤーが籤に当ってコヴェント園において銃殺された。憐れなる迷妄のウェールズ人はかくして卒(おわ)った。上述のごとく「違反者」のおもなる者は処刑されてしまい、その余の末輩連は以後、従順なればゆるし置くということになって、議会の斧はまた用なきに至った。
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)クロムウェル伝 中巻 第5編 アイルランド出征 1649年-1650年 (1)書翰第87-第961649年1月30日午後、チャールズ王の処刑終わりて、命により守衛エドワード・デンデイはラッパ手騎兵等を従えて、チープサイドその他において、人々に聞えるよう明らかに公示して曰く、この英国において議会の権威に代らずして新王を立てんとするものあらば、叛逆者として死刑に処せらるべしと。その翌日ラッパ手がこの勤務のために各々10シリングの報酬を受けたということが記録にある。また各州知事、各町長等はこの公示を各々その地方においてなすべき命令を受けた。続いて議会の内外において国家鎮静を目的とした討論会、委員会、相談会などが処々に起こった。読者は次の2事業を知って思い半ばに過ぐるであろう。第一、議員トーマス・スコット少佐(この人のことは後に委し)が参議院法案というものを議会に提出した。これ参議院を起してこれを行政の主脳たらしめんとするものである。この参議院の会員41名は議会によりて選定され、その第一会は2月19日ダービーハウスに開かれた。ブラッドショウ、フェアファクス、クロムウェル、ホイットロック、ハリー・マートン、ラッドロー、小ヴェーン等はその議員となった。〔訳者曰く、上編33、34ページに国家参議会と記せしもその訳語妥当ならざる故、これを参議院と改む〕第二、そして遂に次のごとき大なる宣言が表われた。簡単にして直剛-正にスパルタ的というべきである。曰く、「議会は次の事を公示しまた実行す。英国及びその領土、属国の人民は今より以後、共和国又は自由国(Commonwealth or Free-state)を形づくるものたるべし。而して共和国又は自由国として支配せらるべし。-支配する者はこの国の最上権すなわち議会における人民の代表者、及び議会が人民の幸福のために任命したる将校と官吏にして、王及び上院は無し」と。-どんな改造や相談の行われたかは、読者の想像に任せて、ここには細説しないことにしよう。 不思議のようだが、かかる大なる国家的事件の合間に、次のような家庭的小事件が起こった。これはクロムウェル中将が、偶像的王政を崩して宗教的共和政を建つるに愡忙(そうぼう)たる間にも、長子リチャードが婚姻のことを心配した事で、このごとき小事もまた世に起こるだけの権利があるのだ。すなわちリチャード・クロムウェルは、1649年5月1日ハースレーにおいてドロシー・メーヤー嬢と結婚した。ドロシーの妹アンは、後間もなくパーク州プセーのジョン・ダンチ氏に嫁したが、このダンチ氏が後、クロムウェルの手紙17通を収集したので、次の10通はその中より載せたもの、残りの7通も後に掲げる。 書翰第87クロムウェルとメーヤー氏との間の子女の結婚については、初め大佐ノートンが口をきいたのであるが、一時中断した。ところがサウサムトンの牧師ロビンソン氏より再度の勧誘ありしに対して、クロムウェルは次の返翰を発した。貴君よ、ご親切なるご書面に接し感謝この事にこれ有り。該件については次のごとく隔意なく申し上げたし。大佐ノートンが小生とメーヤー氏との間に該件を提出されたるところ、当時メーヤー氏はある事情のために、心これに傾くあたわざるを確かめたるにより、ともかくも小生は神の摂理に信託して、そのままにいたし置けり。然るに今、貴君においてこの縁談の復活を計られて、お手紙下されるについては、小生は率直にお返事申し上げる。貴君がかの婦人〔訳者註メーヤー氏の娘〕の人格に関して保証いたされ、社会がメーヤー一家の信仰深きを称する上は、両家の満足するごとき条件をもって交渉の復活することは小生の喜ぶところなり。ただし小生は決定の早き方、両家のために好都合なるべく存ず。主、その栄光にまで万事を導かんことを祈る。小生はこの事に関して貴君のご加護を乞う。以上。1649年2月1日、ロンドンにて オリバー・クロムウェルサウサムトンの説教師愛友ロビンソン様 「2月1日」といえば木曜日である。王の処刑は火曜日であった。火曜の夜ハミルトン侯はウィンザーを逃れ出でたが、翌朝サウスワークで3人の騎兵に捕えられて再び議会に送還され、間もなく他の者と共に新高等法院の審問に付せられた。 書翰第88貴君よ、愚息とご令嬢とに関する提議の復活については、前々より聞くところあり。また今度ロビンソン氏よりの書面に接す。氏は今月5日付けの貴翰を封入して送られ、もって貴意のこの事の決了を喜ばるるにあるを知り得たり。依りて小生は愚息を貴家に送り、若き二人が会見せし上にて不承知にあらざる節は、神もし許したまわば、小生もまた、はなはだ事の決定を喜ぶとの由を伝えたく存ず。これについていかほどの自由を与えるかは、貴君の意志のままにお任せ申すべし。主その栄光にまで万事を導き行かんことを祈る。以上。1649年2月12日、ロンドンにて オリバー・クロムウェル畏友リチャード・メーヤー様 ☆クロムウェルの手紙では、息子の結婚問題でメーヤー氏とのやりとりが延々と続いていたがようやく決着に近づいたようだ。 世紀の偉人も、それを継ぐものが凡庸なために一代ないし数代限りになる事例が多い。後、クロムウェルは、死の前日後継者として三男のリチャードを指名した。 しかし、ヘーゲルが「歴史哲学」で「クロムウェルは統治の何であるかを心得た」(下巻p173)と評した「統治」の能力に欠いていた。 リチャードは辞表を出し、あえなくピューリタン革命は終わりを告げることになる。 1649年1月30日、霜が一面に降りた寒い朝であった。夜明けより2時間前に目覚めたチャールズは、召使いにふだんより厚着するからと命じた。「この寒さで私はきっと震えてしまうだろう。 それが見ている人には恐怖で震えてしまうだろうとうつるに違いない」と。10時頃チャールズはベッドルームから、ホワイトホールの宴会場と呼ばれている建物に連行された。そこで祈りのひとときを過したのち、午後1時半ころ建物の外側に設けられた処刑台のもとに引き出された。処刑台の周りは武装した兵隊が固めていた。イギリスの人民は、その歴史の中で、初めて国王の首をはねた。その後、このようなことは二度と起こっていない。処刑が終了したのは午後2時4分過ぎだった。 チャールズは国王としての毅然とした態度を崩さなかった。 そのころ、クロムウェルは会議を開いていて、「いったい神は何を考えておられるのか尋ねてみよう」という提案がなされ、長い祈祷の最中だったという。国王処刑の報告に接してクロムウェルは「諸君、神は国王が生きることを喜びたまわぬのだ」と言ったという。(「クロムウェル」今井宏著p139-141 )
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(14)書翰第24旧将職を退くに先立ち、オーラーはクロムウェル及びマシーと敵将ゴーリングを討つために西方に向かった。この征討軍の模様は次の手紙によりて少し知ることができる。効果を収めて今は終結に近づいている。エセックスに代った新総指揮官フェアファクスは4月中ウィンザーに在りて募兵訓練に力を注いだ。 書翰第24貴君よ、去る日曜日ソマーセット州ブルートンなるゴーリング将軍の本営をつきしところ、将軍は一戦にも及ばず退却致せり。されども騎兵の敵地に深入りすることを避け、またラパート親王の来投を気づかいて、追撃を控えたり。サー・リチャード・グリーンヴィルもゴーリングに合わせんとする模様にこれ有るゆえ、我らはひとまずシャフツベリーよりサリスベリーに背進致せり。聞けばラパート親王もマーシフィールドまで来たりしとか、もし敵連合して攻撃し来たらば一大事なり。退軍の恥辱に逢いてこの辺の友人に失望を与うることなからんため、援兵出動のほど切願致せり。まずは貴意を得たく、右申し進めるなり。以上。1645年4月9日、サウスベリーにて オリバー・クロムウェルウィンザーにあるサー・トマス・フェアファクス殿(大至急) (15)書翰第25-第27ラパート親王は戦わずして退き、大軍を抱えてウースターに陣し、オクスフォードの王及びその砲兵を迎え来らんため、2千人の一隊を守護兵として送った。両王国委員会はこの守護兵の攻撃をクロムウェルに命じた。クロムウェルは自己否定律に依りて軍職を退くべき事情に迫っていた故、フェアファクスに別辞を述べるためウィンザーに帰った処、翌朝この命令書に接したのである。クロムウェルは直ちにオクスフォード州に入り、4月24日イスリップ橋にこの守護兵を撃破した。 書翰第25これはこの戦闘の報告書である。閣下及び紳士諸君、御命令によりて進軍仕り、敵状を偵察し、終夜イスリップに我が兵を停め申せり。朝、敵の三隊合して来り攻む。すなわちフェアファクスの隊第一に戦いを開きて敵の一部を破り、やがて敵の全軍潰走し、我が軍は3、4マイル追撃致せり。敵死多数、捕虜200に近く、捕獲せし馬約400頭なり。敵兵の一部は、大佐ウィンデルバンクが約200の兵を以て守備せるブレジントンの堅塁に入り申す。余はウィンデルバンクと別紙条件を取り決め、彼らは武器弾薬軍馬を残して夜12時城を出でて走り申す。かくて城は事なく我が手に入り申す。すべてこれ神の恩恵なり。小生はこれより大なる恩恵にあずかりしことはあれど、これほど明らかなるものにはいまだ会せず。第一に神は求めざるに敵を出さしめ、第二に我らは塁を攻撃せんとせしに敵兵を無事に救い出したまえり。また敵塁堅にして味方に砲少なく奪取おぼつかなかりしに、我らがこれを占領し得たるも恩恵にてこれ有り。以上。1645年4月25日、ブレジントンにて オリバー・クロムウェル両王国委員会御中 書翰第26、第27 これよりクロムウェルは西進してラッドコットは橋に敵を破り、ますます敵を圧迫してその軍威を挙げたことは伝記にはあるが、彼の書翰にはない。ただフハリンドンの守備隊に2回投降誘書を送って成功しなかったが、その書2通が残っている。〔訳者曰く、これを略す〕 主将ロージャー・バーグス勧誘に応ぜざるに、たまたまウィンザーを出発せし軍リーディングに到着せし故、クロムウェルは囲いを解いて赴き会した。 (16)書翰第28 書翰第28に依ると、クロムウェルはこの頃(1645年6月)東部連合にあって、エライの防備等のため軍務を募っていたものと見える。自己否定律は彼の軍職を解いたわけであるが、しかし総指揮官フェアフェクスも両院議員も両王国委員も彼を除くことの不可なるを感じている。フェアファクス等は、クロムウェルを中将として騎兵総指揮官たらしめんことを議会に請願した。万人が彼を民軍に欠くべからざる良将と見た。当人のクロムウェルはいかんというに、悠揚として事件の進むままに任せた。〔訳者曰く、書翰第28は些事を記したもの故略す〕 (17)急信 フェアファクスは、その新軍を以てオクスフォードを囲んでいるが、あまりはかばかしい結果もない。チャールズ王は中部諸州の間にあって、一度レースターを攻撃したが(かくすればオクスフォードの包囲も自ら解けると思うていた)、今は進むとも退くともつかぬ有様に止まっている。しかし東部連合をつくらしい様子が見えるので、クロムウェルを含めるケンブリッジ委員会では防備の画策に腐心した。 今保存されている手紙はこの委員よりサフォークの代表者に送ったもので、速やかに騎兵をニューマーケットに送ることを依頼する文面である。かつ敵勢が東部連合の方に進軍し昨夜すでにハーバローのこなた3マイルに在ることを、追伸に知らせてある。なんでも余程急いでいるような文面で、6月6日ケンブリッジよりの発信である。 同時にフェアファクスにも至急来援をこうとの急信を発した。 (17)急信 フェアファクスは、その新軍を以てオクスフォードを囲んでいるが、あまりはかばかしい結果もない。チャールズ王は中部諸州の間にあって、一度レースターを攻撃したが(かくすればオクスフォードの包囲も自ら解けると思うていた)、今は進むとも退くともつかぬ有様に止まっている。しかし東部連合をつくらしい様子が見えるので、クロムウェルを含めるケンブリッジ委員会では防備の画策に腐心した。 今保存されている手紙はこの委員よりサフォークの代表者に送ったもので、速やかに騎兵をニューマーケットに送ることを依頼する文面である。かつ敵勢が東部連合の方に進軍し昨夜すでにハーバローのこなた3マイルに在ることを、追伸に知らせてある。なんでも余程急いでいるような文面で、6月6日ケンブリッジよりの発信である。 同時にフェアファクスにも至急来援をこうとの急信を発した。 (17)急信 フェアファクスは、その新軍を以てオクスフォードを囲んでいるが、あまりはかばかしい結果もない。チャールズ王は中部諸州の間にあって、一度レースターを攻撃したが(かくすればオクスフォードの包囲も自ら解けると思うていた)、今は進むとも退くともつかぬ有様に止まっている。しかし東部連合をつくらしい様子が見えるので、クロムウェルを含めるケンブリッジ委員会では防備の画策に腐心した。 今保存されている手紙はこの委員よりサフォークの代表者に送ったもので、速やかに騎兵をニューマーケットに送ることを依頼する文面である。かつ敵勢が東部連合の方に進軍し昨夜すでにハーバローのこなた3マイルに在ることを、追伸に知らせてある。なんでも余程急いでいるような文面で、6月6日ケンブリッジよりの発信である。 同時にフェアファクスにも至急来援をこうとの急信を発した。 (18)書翰第29 ネースビー ネースビーの小村は、今もなおノーサムトン州の西北境、一丘の上にある、レースター州のマーケット・ハーバローよりは7,8マイル隔たり、この町とデーヴントリーのちょうど中間にある、住民約8百、平和なる一古村である。 1645年6月14日チャールズ王がその最後の戦闘をなしたのはイングランドの中央なるこの高い沼地であった。王は新式軍を軽蔑しきって一撃の下に破らんとしたのであったが、かえって散々に破られてしまった。初めラパート親王は王軍の右翼を率いて突貫また突貫、民軍敗れて退き危機ここに迫った。時にクロムウェルは鉄騎を以て進んで敵の左翼を撃破した。彼は議会の命により2日前にこのところに来り会して味方の大歓迎を受け、今朝戦陣を敷いた処である。ラパート凱歌を揚げて帰り来たれば、意外にも王の歩兵は見る影もなく破られていた。驚いて直ちに麾下の騎兵を以てクロムウェルに対せしも、これまた潰乱の運に会した。クロムウェルはこれを追撃してハーバローを超えた。 敵と味方とは各々丘に陣して相対したのであった。この二の丘の間は広い高地で今「広沼」と呼ばれているが、戦闘はこの広野で行われたのであった。今日でも処々にその時の戦死者を埋めた塚のようなものがある。次の書翰はこの血戦の夕べ、クロムウェルのしたためたものである。 貴君よ、 貴命によりてこのことに当りたれば、神が貴下及び我らに賜わりし恩恵をご報告致すべし。 昨日王はハーバローに進み、我らはその後を逐(お)い、今日は両軍相近よりて会戦し、苦闘3時間にして、終に敵を破り、敵の戦死捕虜を合わせて5千人の多きに達せり。戦利品もおびただしくこれ有り。我らは追撃3マイルにしてハーバローに至り、更に9マイルを追いたり。 貴下よ、これ神の為し給いし処、栄光ただ一に彼に帰すべし。フェアファクス将軍は誠実熱誠、事に当り、また勇敢に振舞われたり。士卒もまた忠誠以て戦闘に従いたり。彼らは信ずるに足る者どもなれば、願わくはその勇気を挫き給うなかれ。彼らは良心の自由については神を信じ、国家の自由については貴下らを信じて、命を差し出したり。以上。1645年6月14日、ハーバローにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 「士卒もまた忠誠以て戦闘に従い・・・・・・」とは、いまだ誓約に署名しないもので、新式軍のだいぶを占めていたのである。これを議会の長老派は、「分派者」とか「再洗礼派」とか呼んで異端視していたので、クロムウェルはここにいささかその弁護をしたのである。もちろん彼とても秩序を好んで無秩序を嫌うものであったが、彼にとっては秩序というものは外形のことではなくて精神のことであった。すべてに同じ精神が充ち同じ血が通ってこそ、ここに秩序の整斉があるのである。同じ誓約書に名を連ねた者の間に秩序があるのではない。同じ生命の動いている者の間に整斉統合の実を見るのである。-クロムウェルはおのずからこの「分派者」の首領となった。 憐れなる王は甲地より乙地に、乙地より丙地に退却した。どうにかして兵を募ろうとあちらこちらとさまよったが、思うようにゆかなかった。漂浪10か月にして、馬丁に扮してニューアクのスコットランド人の方に逃れた。 新式軍は西南に進んで、間もなくロバート・ブレーク大佐(後のアドミラル・ブレーク)その他を救い、戦勝また戦勝、王軍をことごとく駆逐してこの戦乱の終末をつけた。 これより載する数通の書翰はこの間の事柄に関係しているのである。
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第86オランダ人ドリスラスという学者があって、この頃まで判士(軍法会議の検事)であったが、何かクロムウェルに位置の周旋を願った。それ故クロムウェルはこの大混乱の中なるにも係らず、ケームブリッジのトリニテー・ホテルの有力者に依頼状を送って、故ダック博士の後任として、そこの博士会の一イスを与えられることを頼んだ。〔訳者曰く、この書翰を略す。〕ドリスラスがダック博士の後任に選ばれたかいかんは尋ぬるに及ばぬ。彼は3週間後には「チャールズ王審問」の判士として用いられ、後間もなくそれがためにオランダのヘーグにて暗殺されてしまった。-それはともかく、旋風的大混乱はなお進む。 (5)死刑執行令状チャールズ・スチュアートの審問はここに詳述しない。その中に横たわる深き意味はここで窺うことすらできぬ。オリバー・クロムウェルは一回を除くの外、高等法院に出席し、フェアファクスは初めの一回出たのみである。ラドロー、ホォレー、オルトン等読者既知の人々も、1649年の1月という記憶すべき月中、高等法院に出席したのである。王は3度引き出されしも弁疏(べんそ)を拒み、その「神権」を確信してあくまで王の威厳と傲慢をもって振舞った。軽蔑的微笑をもらし、あるいは峻厳の顔付をした。-終りまで。まさかに彼らが刑の宣告を下そうとは信じなかった。されど王よ、誤まれり。彼らに敢行の決意そなわる。彼らは天の審判を行なわんとして、大能者の前に立つ者なり。いかで地の人、地の物を恐れんや。裁判長ブラッド・ジョーは厳として王にいうた。「貴下よ、貴下は抗論をなすを許されず、この法廷は充分の権能をそなう。何れの法廷とてもさように権能を問わるるを許されず」と。そしていうた。「書記よ、判決文を読め!」と。ああ終に判決は下されたのであった。而して1649年1月29日(月曜日)この峻厳なる執行令状は発せられた。オリバーの草したものではないが、オリバーの確信を能く表わすものである。 英国王チャールズ・スチュアートは叛逆その他の重罪をもって罪ありと定められ、去る土曜日、斬罪に処する旨の判決ありたり。而してその執行はなお残れり。故に明30日、午前10時より午後5時までの間において、ホワイトホール前の街路にて、その執行の充分に行われんことを貴下等に求む。この書はそれがための執行令状なり。かつ、すべての士官兵卒及び英国良民のこの事において貴下等を助けんことを求む。1649年1月29日 英国王チャールズ・スチュアート審判のための高等法院において トーマス・ブラッドショー トーマス・グレー(グロビー卿)オリバー・クロムウェル (その他56人)大佐フランシス・ハッカー殿大佐ハンクス殿中佐フェーヤー殿 その他「猛犬よりも狂暴獰猛(どうもう)なる怪物よ」と全世界はこれに対して批難叫号の声を発した。(幸いにも今日はごく微かになった)、近世の人はこの処刑の狂猛惨酷の極なるを感じ得ないのだが、当時にあっては実にしかく思われたのである。キリストの処刑よりも悪虐な事のごとくに思われた。今日ヨーロッパ中の国王が一時に斬殺されてセント・マーガレットの墓地に一団(ひとかたまり)に重ねられたとても、この事ほどには感触を起きぬであろう。実にかかる事のまたとありようはずがない。これは史上かつて一団の人が、明らかな自覚を持ち充分の熟慮をもってなしたる、最も大胆な行為である。著者はかつてある書でこういう記事を読んだ。昔、ある南海の島の女王がキリスト教信者となったが、彼女は直に人民を集めていうた。「あの燃ゆる山には神はおらぬ。あれはただの火山である。あの山には真の神はおらぬ。されば自分はあの山に登り、履物でも投げつけて、山を嘲って結果いかんを見よう」と。かくてこの女英雄は驚き恐るる民を率いて山に至り、この試験をなしたという話-この後、この島民の神観は更(あらた)まったということである。南海において偽の神を排せし勇者にも、北方にて偽の王朝を除きし勇者にも、それに大いなる名誉あれ!まことにこのレジサイヅ〔王を処刑せし人々〕の行為は、全世界の屈従主義に一大痛撃を加えたものである。屈従主義、偽信、外衣崇拝はこのためにいやすべからず衰え、而して今や瀕死の状態にある。かかる大行為は数千年の間は再び要せぬであろう。しかし新しき純偉人崇拝が起こって完成され、而してその再び堕落して屈従主義、外衣崇拝になる時はまたこれを要するのである。しかしそれは数千年後のことであろうか。 * * * * * *かくして第二内乱は終った。王の処刑、共和政(英国自由の保持者)、違反者の刑罰、虐政の磨滅、でき得べくば義勇真実の政府、少なくとも反屈従主義、反偽信、而して義勇真実を得んとの努力-これが第二内乱の始末であった。(*) 上 巻 終 *「歴史哲学」ヘーゲル 下巻p172-173イギリスにおいてもプロテスタント教会は戦争を通じて自身の確立を図らなければならなかった。その戦闘は国王に向けられた。というのは国王はカトリック教の中に絶対的恣意の原理が確証されているのを見てとって、ひそかにこれに心を寄せていたからである。国王はただ神に対してのみ頭を下げるのだという絶対王権説(王権神授説)に対して激昂した国民は立ち上がった(1641年)。外面的なカトリック教に対して内面性の原理は清教主義(ピューリタニズム)となって凝結し、そこでその絶頂に達したが、この内面性が客観世界に進出するとき、ある者は狂信的にまで高揚し、ある者は笑うべき愚劣な光景を現出した。この狂信者達は、僧院の狂信者と同様に、敬神の念一本で国家を統治しようとしたが、また兵士達にしてもその狂信ぶりは同様で、彼らも戦場で祈りながら人殺しをやって戦わなければならなかった。けれども、ここに一人の軍隊の指揮官が実権を握ることになり、統治をその手に収めてしまった。それというのも、国家には統治というものがなければならないからである。クロムウェル(Coromwell)は統治の何であるかを心得ていた。彼はこうして自ら支配者となって、あの祈祷の議会を解散(1653年)してしまった。〔自由共和国Commonwealthの時代、1649-60年〕だが、彼の死(1658年)とともに、その権力も失われ、再び旧の王朝〔スチュアート家のチャールズ2世〕が支配権を握った。・・・しかし、もしも憲法と法律とが真に永遠の法〔権利〕の上に建設されるべきだということになれば、安泰はただプロテスタント教の中にのみあるのであり、プロテスタントの原理の中でこそ合理性をもつ主観的自由も発達を遂げ得るのである。
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第84軍隊は25日(土曜日)にウィンザーに来り、同日クロムウェルはワイト島のハモンドにかの有名な手紙を出した。ハモンドはチャールズ王と例の無益な交渉についてだいぶん煩わされていたのであった。その前に、やはり同日にしたためた次の手紙を読んでもらいたい。クロムウェルが義のために幾度も政府請求したその一例である。すなわちハルの守衛(城将オヴァートン)がはなはだしく窮乏していた故、大蔵省の某局に訴えたのである。貴君よ、ハル城の窮乏はなはだしく兵は飢餓に瀕しおれば、もし至急の措置なき時は兵士の叛乱起こりて城の破滅を招くべし。国は当然彼らに軍資を支給すべきなれば、願わくは兄一臂の力を与えて、彼らの欠乏の補填を計られたし。城将も兄に願い申すべく、なにとぞ重大の事件として彼のために配慮なしくだされたく、小生もまた事態の大いに危険なるを感ずる故、熱誠をもって願い申す。以上。1648年11月25日、ノッチングレーにて オリバー・クロムウェルロンドンにある 畏友トーマス・セント・ニコラス様 ハル城は陥落しなかった。セント・ニコラスは大蔵省の有力なる官吏であって、早速金を送るよう尽力したと見える。-さていよいよロバート・ハモンドにあてた有名な手紙である。〔訳者曰く、この手紙を読む人は、ハモンドが議会の命に従うべきか、軍隊の味方たるべきかと思案しつつあったこと、すなわち長老・独立両派の間に狭(はさま)って困っていたことを知らねばならぬ。〕書翰第85親愛なるロビンよ、〔ロバートの略称〕ご芳墨拝誦、嬉しさの至りに絶えず。君が長く困難の下にありたるは小生の知るところ、されど君はそれがために損失を受くるにあらず、万事は最善のために働くものなり。君は小生の実験を求められしが、ご承知のごとく小生は依然として罪と死の肉体を有するもの、ただ我らの主イエス・キリストに頼りて、罪ありても罰せられぬを神に感謝し、救拯(きゅうじょう)を待つものなり。而してこの哀れなる状態にあるも、恩恵と霊の慰謝を得、毎日主をあがめ、肉を離れんとつとめおるものなり。有形的に大能の摂理は、いちじるしく我らの中に現われ、その大助によりて勝利を得。さればこの後もその援助をもって事を終わり得べきこと疑いこれ無し。さて貴君、目下の苦悩は、一には重荷を長く負いしにより、また一には貴君が友人に対する不満によることと、承知いたせり。己れの荷物を苦しと呼ぶなかれ。重しと叫ぶなかれ、天父これを負わせしなり。彼は重きと苦きとを君に課せしはずなし。彼は光明の父にして、すべての善かつ完(まった)き賜物は彼より来る。彼は困難、我らに臨む時、これを喜ぶべき事とせんことを我らに命じたまう。けだし困難は信仰と忍耐を鍛うる者にして、全くかつ備わりて欠くる処なからしむる者也。〔訳者曰く、ヤコブ書第1章を見よ〕親愛なるロビンよ、我らの推理は我らを欺き、我らをして「重し」「苦し」「楽し」「容易(たやす)し」といわしむ。ロバート・ハモンドがかつて不満のために軍隊を去りて、ワイト島の静穏を求めし時、果たしていくばくかこの嫌いあらざりしか。而して今にして、また重荷と友人の行動に対する不満のため、再び静穏を求めんとす。親愛なるロビンよ、求むべきは、神の聖意を知ることなり。神、君をかの地におらしめ、「また彼の人」〔チャールズ王〕を君の所に往かしめたる摂理の次第を探り、然る後、これら全てに高き貴き意味あるか無きかを三思せられよ。君の推理はこれを棄てて神の直示を祈れよ。神必ず示したまうべし。神は悪人を高めたまわず。彼らには平和なし。いな神が悪人を罰したまうことは神を恐るる者の確信するところ、我らはその実証をいくつも有しおり。願わくは君を教うるの霊を求めよ。これ知識正解の霊、明智強健の霊、神智敬虔の霊になり。貴君が友人の行動に対する不満はご尤もの事にて、小生ともて不満を感ぜざるにはあらず。されど、親しき友なる君に対して、我らは服従の義務あり。而して英国にありては議会に主権ある故、議会に従わざるべからず云々」と言いたまう。仰せのごとく主権は神の命なれども、政治上の各機関は人間の設くるところにして、各々分に応じて相当の制限あるべきはずなり。小生は有司がいかなる事をなしても、よろしとは思い申さず。また人民はいかなる政治にも服(したが)うべきものとは思い申さず。反抗の合理なる場合もありとは、万人の認むるところなり。果たして然らばご論の根底壊れ、従いてご立論も倒れ申さん。親愛なるロビンよ、多言を要せず、問題は全て簡単なり。曰く、我らの場合はかかる場合、なるかいかん?-これ真の問題なり。小生はこれに対して意見を申し上げず。ただ次の三事を篤とご熟考あらんことを切望す。第一、「人民の安寧が第一義なり」とは健全なる説ならざるか、これいかん。第二、王との目下の交渉は果してこの第一義を生むを得るか。これかえって戦争の成果を無にして、国を過去の悪に還らしむるものならざるか。第三、この軍隊こそある根拠の上に立ちて王と戦うべく神に起こされたる正しき一権力にあらざるか。而して一の主権の名に対抗せしごとく他の主権の名〔王に反抗せしごとく議会〕にも対抗するあたわざるか。されどかかる推論はいずれに定まるも、あるいはそれ愚ならん。ただこれらの中に含まれたる真理を行うこそ肝要なり。主、我らを教えたまえ。親しき友よ、我ら大能の摂理を見ん。摂理は何事かの意味を有す。統一あり終始一貫し、明瞭にして曇りなし、神の民(聖徒)に対する悪意は今、熾烈なれど、「彼ら哀れなる聖徒」が武器を執りて防禦にたえ、攻城に成功す。主の恵みまことに大なり。ああ、我らは行わざるべからず。万事を棄てんと神に頼りて決心するにあらずんば、いずくんぞ強健なる行為に出ずるを得ん。我らの情は動きやすくして頼むべからず。聖徒の心をこの決心にまで傾けさせたる(ことに軍隊においてはしかり)摂理のほどを考えられよ。我らの中にては一人の士官なりともかく決心せざるなし。〔訳者曰く、決心云々は聖意を行わんがために議会と王との姑息的妥協に猛烈に反対する決心をさしたようである〕而して我らにありては、これ長き忍耐の後の決定なり。我らの行動において我らの意志を造りたまいし神は、この事においても、また我らと共にあることを信じ申す。天性に背くも、安穏を失うも、敢て意とせず。困難道に横たわり、敵はこの世の権者より成り、皆、連合して我らに当らんも、我らは驚かず、ただ大いなる神を怖れ、その聖意に背かざらんことをのみ願いおり。我らの現状かくのごときなり。終わりに申し上げる。我らは北派軍にありて、主の導きたまう結果を待ちおり。既に抗議は議会に提出さる。この上は聖意のままに任せ申す。親愛なるロビンよ、人に警戒せよ、主を仰ぎ見よ。主をして君を導かしめよ。然らば主により、血肉に計らずして、主のため、主の民のために雄々しく働き得べし。君は、反対の起こるべきを知りて行動するをもって、やや神を試みるの類なるがごとく説けり。親愛なるロビンよ、神を試みるとは傲慢なる自負心か、弧疑による不信かに由りて起こるもの。イスラエルは荒野にてこの二種の試神をなして神意を傷め申す。困難の遭遇が神を試みる誘因にはあらずして、信念のできぬ中に、または信念なくして、行うことがそれなり。神、職分の実行を勧めたまう時、この勧めを心情に強く感ずるが信仰なり。而して困難大なれば、信仰ますます増すべし。実にたびたびの御摂理〔神の民の勝利〕こそ、聖徒をして神を信じて光明の前途を待望せしむるものならずや。小生もつまらぬ傍観者ながら、同じくこの待望の中に生き、洋々の前程を望むものなり。君を愛し、君が主の与えたまいし機会を失うを好まざるがため、一書したため申す。願わくは主、君の相談対手(あいて)たらんことを。以上。1648年11月25日、ポントフラクトに近きノッチングレーにおいて オリバー・クロムウェル大佐ロバート・ハモンド殿 オリバーの大いに愛せしこの青年将校ハモンド大佐はこの書翰をワイト島にて受取らなかった。彼はこの時、既に島におらなかった。〔11月〕27日(月曜日)、「抗議」提出者のユーアー大佐が新兵を率いて島に来り、ハモンドには、直ちにウィンザーの司令部に至るべしとの総督の命を伝えたのである。若きハモンドには遅疑の風ありて、現下この島にいるには不向きである。ユーアーは嵐狂い大雨沛然(はいぜん)たる火曜の夜、一隊の兵を率いて神速にニューポートの王の宿所を囲み、翌朝8時、王の寝所を叩きて、無言に而も厳然と、そのまま王をハースト城砦に運んだ。ハーストはワイト島の対岸、英国本土にある一小塁である。 ※「英国にありては議会に主権ある」は、ヘーゲルの「歴史哲学」の一節(岩波文庫下巻p204)を思い起こさせる。イギリス人はそう見ることを必ずしも好まないけれども〔王政だから〕、イギリスでは事実、議会が統治を行っている(Parlament regiert)
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第81ポントフラクトとその城将モリスについては、次の手紙が適切なる暗示である。この手紙はダービーハウス委員会にて読まれて、ある程度まで直ちに実現された。-もし充分に実行されたならばこのところの陥落はもっと早かったであろう。〔ダービーハウス委員会とは両王国委員会のことである〕諸卿及び紳士諸君、ここにくわしく事情を開陳することの極めて必要なるを感じるまま、一書差し上げ申す。これによって我らの請求の必ずしも不合理にあらざることを知られたし。諸卿よ、ポントフラクト城砦はこの3週間に220ないし40の肥牛と、これに応ずるだけの塩を給せられたること確実なり。これにて彼らは12か月間支えらるべし。かつ彼らは万難に屈せず、最後まで死守するとの決心をいたしおり、城は要害堅固にして水の供給便に、王国最強の一にてこれ有り。而してこの州ははなはだしく困窮しおりて、我が兵を宿すあたわず。我らに金あるとも糧食を供給しあたわざる有様なり。されば有形的材料にして充分に供給せられずば、この攻略はよほど長びくことと思われる。歩兵3個連隊のために、かつ時々起こるべき臨時の事件のために、軍資の送付願い上げる。また火薬500樽及び6個の好攻城砲(各300の砲丸を有する)等を速やかにハルに送りくだされたく願い上げる。かくまで願うは高価との思召しもあらんが、願わくはむしろ、そを経済的なりと判断せられよ。このままに城を敵手に置かんは不名誉なるのみならず、種々の危険起こるべければ、かえりて高き価を払うことに相成るべし。哀れなる兵士を野にさらし置きては、私一身としても不満足にこれ有り。諸君及び彼らに対する義務をも果さぬことに相成り、裸体をおおうべき靴、靴下、衣服はぜひぜひお急ぎ調いくだされたし。ここにこれらの事を訴え申す。諸君の決断と指揮とを待つ。以上。1648年11月15日、ポントフラクト付近のノッチングレーにて オリバー・クロムウェルダービーハウス委員会御中 これに対してとにかく至急の供給があった。「火薬500樽」の注文に対して250樽が送らるるというわけで、半ば要求が聞かれたのである。すべて注文については、このくらいの満足の予期さるるのが普通であろう。ポントクラクトは翌年の3月までは降らなかった。かかる間にワイト島ニューポートの王との協定は、何の決定にも至らぬ、40日はもう終った。議会は望み得ざる好果を望んで少しずつ日延べをする。長老派の多数を制する議会である故、かかる姑息手段を敢て取るのである。軍隊はセント・アルバンスよりこの有様を望み見て議会に抗議的請願を提出した。曰く、好果はかかる交渉に依りて得られず、自ら他に依る。すなわち違反者等〔王党〕-ことに再び戦乱の中に国民を投じたその首魁-を裁判すべしと、この事を請願した州、党派、議会の少数党、英国の少数党〔独立派〕は、いかなる困難あるも屈せずとて、この主張を固執した。 書翰第82〔略す〕 書翰第83クロムウェル麾下の全軍は「ニューポートの商議を中止すべし。正義の裁判をなして王国の鎮静を計るべし」という請願をフェアファクス総督に呈せんとし、その伝達をクロムウェルに乞うた。 貴兄よ、我が軍の士官は皆この哀れなる王国の苦難を深く憂え、違反者〔王党〕に対する正義の裁判を渇望いたしおり。而して小生も全くこれに同意せざるを得ず。これ神の顕示ならずや。いろいろ申し上ぐる必要これ無かるべく、神は大兄を教え、大兄をして神の栄光を顕さしむべし。ただこの請願の伝達を乞われるまま、職務としてお送り申し上げる。願わくは神、兄を動かし兄と共ならんことを切望の至りに堪えず。以上。1648年11月20日、ノッチングレーにて オリバー・クロムウェルセント・アルバンズにある大将フェアハクス卿殿 この手紙の日付と同日のこと、セント・アルバンズの議会軍本部は、同趣意の抗議を議会に提出して、速やかにかつまじめに考察してもらいたいと注文した。議会では、直にこれを審議しようか、しまいかという討論が始まり、27日に再討論することになっていた。25日には軍隊はウィンザーに移りて議会の様子を窺う、ニューポートの交渉は今にも絶えんとす。長老派的王党主義は、将に消えんとして、なお2日の命を有す。
2026.05.03
17クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第78〔訳者曰く、これは10月8日ダルハウジーよりの発信で、些細な事について下院議長に宛てた短翰である。省く。〕 書翰第79〔訳者曰く、前半スコットランド人との交渉の報告は重複にわたる故、略す。〕 ・・・・・・余は軍人としてこのところまで進み、尽すべきを尽したり。この上は神の栄光のため、国民の善のため、両王国及び世界の聖徒の奨励のために成るよう神が貴下等を導かんことを祈る。スコットランドにては、事は誠実の人のために、はなはだ好望にて、ハミルトン侯、ラウダーデール伯等偽宗教者の権威をふるいし時代よりは、善き英国の友たるべしと思われる。余は断言せんとす。かの徒党は虚偽の言い前をもって自国及び英国を危うくしたるのみならず、スコットランドを篤信正義の士が住むあたわざる地となせり。然れども軽んじ、または欺くあたわざる神、その聖名とその教えとを悪計画のために利用さるるを怒りたまう神は、この冒涜(ぼうとく)を懲らしたまう。されば余はかかる行動に出でて神をけがし、国を破らんとせし輩(やから)の、神のこの懲治に慄(おのの)いて悔いんことを心の底より望みおり。今日小生がこの言をあえてなすもの、必ずしもスコットランド国にある敵軍は皆既に解隊し、委員会はかの党派の者の議会に坐することに反対を声明し、先ごろ英国侵撃に反対せし者のみ代議士に選ばれ、新たに歩騎4千の一隊を挙げんといたしおり。小生及び士官等は、スコットランド委員会、エジンバラ市等よりさまざまの礼敬歓待にあずかる。これ我らに対しなされしことと思わず。貴下等の僕(しもべ)に対してなされしことと思えり。小生は今カーライルへ進みつつあり。余は機会を得てまたまた申し上ぐ。以上。1648年10月9日、ダルハウジーにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 クロムウェルは14日カーライルにありて、城の引き渡しを受け、この地方の万事を整理して後、直ちにヨーク州ポントフラクト城に進んだ。これはこの年の初めに攻撃されたが、頑強に抵抗した城で、なかなかの堅城である。(4)書翰第80-第86 ポントフラクト城の守備、名をモリスという。かつてストラフォード伯の僕(しもべ)たり。剽悍(ひょうかん)の男である。次掲はクロムウェル中将の勧降状である。 書翰第80貴下よ、この地の取戻しのためここに来りて、余は貴下が我が議会の用に、貴下の守営を余に引き渡さんことを勧め申す。然れば、貴下と共にある紳士及び軍人は、戦いしに勝る好条件を収め得べし。今日お返事を待つ。以上。1648年11月9日、ポントフラクトにて オリバー・クロムウェルポントフラクト城守将殿 城将モリスは固くこれを拒み、なお当分支えたが、終には頭首処を異にする運に会した。王党もこの頃は気違いじみた行動に出ずることを多く、暗殺などを大いにやるようになった。2週間ほど前のことであるが、一隊の兵はこのポントフラクト城を出でて仮装してドンカスターに至り、大佐レーンズバローをその宿所に襲って暗殺した。 ☆ニューモデル軍の誕生1643年の夏、重大な転機が生れた。大局的には議会軍が不利であった。議会にスコットランドから援軍を求めようとの声が強くなった。これに対してスコットランドが要求したのは、宗教的な同盟だった。イングランドの国教会の代わりに長老教会主義に立つ全国的な教会体制の樹立である。ここに長老派と独立派の議会内の抗争が生れる。いずれもその起源はエリザベス女王統治時代のピューリタンである。長老派はロンドンの大商人や貴族に支持者が多かった。この段階での実験を握っている。独立派は、各個教会の自主独立を主張し、他の教派に対しては幅広い寛容を主張した。長老派より経済的には下のレベルで、勃興しつつある農業・商業の担い手が主な支持者であった。さらにより過激な階級間の平等を主張する分離主義(ブラウン派)などセクトが内乱を通じて輩出した。独立派は長老派と分離主義の中間を主張した。長老派は国教会の下部組織は温存し、利用しようと考え、すべての社会秩序の破壊には反対した。革命が進展すれば、自分達の基盤が解体することになりかねない。そこで戦闘を終結させ、国王と和議しようと模索した。一方、セクトの立場では、自発的な結社として、組織の自主・独立のためにはあらゆる既存の血縁・地縁といった関係を断ち切る必要があり、行き着くところ、古い社会秩序の全面的解体を求めることになる。独立派は、内乱に勝利するためには、スコットランドの援助を必要であると判断したが、スコットランドからの長老主義的教会体制を求められて、独立派と結託して、国王軍と対決した。クロムウェルは独立派であったが、国王軍に完全に勝利するには諸セクトとの共同戦線を結ぶことが不可欠と判断し、ニュー・モデル軍の創設にあたって士官選抜にあたった。「仮に彼が再洗礼派であっても、公共のために奉仕できないことがあろうか。・・・国家に忠実であればそれで十分である」クロムウェルの軍隊は独立派とセクトとの共同戦線だった。1644年7月2日、ヨーク西方のマーストン・ムアで議会軍26,000人と国王軍17,000人の内乱の帰趨をかけた戦いが行われた。両軍とも歩兵を中心としてその両翼に騎兵を配置していた。クロムウェルは1,700の騎兵と1,000の竜騎兵を率いて議会軍の左翼にあった。両軍は相対したまま、日は暮れた。議会軍からは兵士たちの讃美歌が聞えた。国王軍は敵襲はないと考え、食事や露営の準備に忙しかった。しかし夕闇にまぎれて、クロムウェルの騎兵隊がまっさきに敵の右翼を襲った。国王軍は不意をつかれて第一軍は打ち破られたが、ラパート親王率いる騎兵隊は繁劇に出て、クロムウェルも負傷するなどあぶなかった。そこへレスリー軍がかけつけ、負傷したクロムウェルを救い出すとともに敵を追撃した。クロムウェルは激しい戦闘で散り散りになった兵を再集合させ、敵の左翼の騎兵隊に決戦をいどんだ。それは前進する敵軍を側面から攻撃するかっこうになり、短い時間でクロムウェル軍は勝利を得た。クロムウェルはさらに敵の中央に位置していたニューカスル軍を攻撃し、議会軍は完全な勝利を得る。 貴君よ、幸福にも患難にもわれらはすべての場合に神に感謝すべき者と存ず。まことに今回の勝利は開戦以来第一等のものにして、神が英国及び神の教会に下し給える大なる恩恵なり。これ実に神助による完全なる勝利なり。小生の指揮せし左翼は我らの騎兵にして、ラパート親王の騎兵を破り、また歩兵を破り、親王は2万の兵中4千を残すのみと相成れり。ああ栄光あれ、大能の神に。 神は貴兄の長子を召せり。砲弾に脚(あし)を破られ、やむを得ず切断せしところ、遂にこの世を去れり。 兄よ、小生もまた同一の試練に逢えり(原注、クロムウェルの子息は既に戦場の露となったと思われる)。然れども主は我ら生涯の希願なる来世の幸福に我が子を導き給いて小生を支え給う。ご子息もまた栄光に包まれて現世の労苦を免れり。ああ勇敢にして優雅なりし青年!主、願わくは兄に慰謝を与えんことを。ご子息は軍中にあって知人よりはいたく愛されしも、知る人は少なし。そは天の生活に適する貴い青年なりし故なり。ご子息今や天にあり。兄よ涙を拭き給え。小生は偽の語を連ぬるにあらず。これは疑いなき事実なり。兄はキリストの力により万事を為すを得。願わくは艱難にかち、主の我が国に賜いし大恩を思うて私の悲哀を忘れんことを。主、兄の力たらんことを。これ小生の希願なり。以上。 皆々様によろしく。1644年7月5日、ヨーク包囲軍にて オリバー・クロムウェル愛弟ヴァレンチン・オルトン大佐殿
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第76貴兄よ、先日のご命令拝受、充分これに従うよう努め申すべし。小生は下院に送りたる報告書の写しを封入いたしたれば、これにて事情を知られたし。スコットランド国の正しき党派と我らの間には充分の黙契これ有る間ご安心くだされたし。なにとぞサー・エー・ハスルリッジにベルウィクをかえりみるよう書き送りくだされたく、彼は守営に必要なる物一切をニューカッスルに持ちおり。これらの守営は供給乏しくこのままにては危険なり。願わくは至急この儀願い上げる。以上。1648年10月2日、ベルウィクにおいて オリバー・クロムウェルセント・アルバンズにある大将フェアハクス卿殿 ハスルリッジはニューカスルの守将で、北部地方での有力なる人物である。フェアファクスは東部諸州を経て。今セント・アルバンズにある。この地がこれよりある時期間、軍の司令部であった。 この週には、ワイト島において議会よりの委員と国王側との間に、はなはだ面白き談判が行われておった。島のニューポートにおいて毎日毎日まじめ腐った討議交渉が行われて40日以上にも及んだ。「長老派的王党主義」の最後の希望はこれにあったのだが、王にとってはどうしてどうして最後の希望処の話ではない。王はこの年の大失敗にもかかわらず、依然として神聖なる王権を有する国家の中心であると確信していた。それはともかく、幸いにもこの商議はチャールズ・スチュアート〔王〕との商議の最後であった。歴史はもうかかる商議には飽きた。何の結果をも生まぬ商議である。王は少しも正意なく、絶えず逃遁の工夫を懲らし、交渉はただ、うまくやって公衆に善き印象を与えるための芝居であると考えていた。この「40日間商議」というのはこんなものであった。歴史のページの上での麻痺である。 クロムウェルはエジンバラに進み、ホウィッガモア党の貴人名士の訪問する者多くあった。 クロムウェル中将は、彼のスコットランド国における処置を賛し、更にこれを奨励する議会からの書に接した。彼は次の書においてこの機を利用したわけである。書翰第77貴下等よ、貴下等がかの二城を引き渡し、その他すべてにおいて二国平和を念とせらるるは、小生の充分認むるところ、さればこの上とも正当なる請求に対しては応じたまうことと信じて疑わず。ご承知のごとく貴国の「害悪党」は英国との条約に反し、英国に敵意を表し、その一度政権を握るや、理不尽にも遂に侵入し来りて、無益の流血を両国の民に蒙らせ、禍を国に起こせり。神、大能のみ手をふるって彼らの企画を破壊したれども、なお貴国内にあり、彼らは両国の平和を破らんと虎視眈々機会をねらいおり。余はハミルトン軍の残部を滅すべき命令を受けおるものなるが、彼らは貴国に逃れて、なかには再挙の計をなす者もありと聞く。我が英国は、スコットランド王国が「害悪党」を制するあたわずしてその跋扈(ばっこ)に任せたるために非常の損害を受け、理由なき侵入に逢いて苦みたるものにこれ有り。されば諸君よ、余は自国議会の命を遂行せんがため、このたびの不義なる戦いに加わり、または同意したる人々を官職公職に置くことなきを、貴下等がスコットランド王国の名において保証せんことを、ここに請求せざるを得ず。これ余の請求し得る最小の保証なり。ここに余の英国上下両院より受けたる命令をお伝え申すべし。依りてもって英国がかの侵入に反対したるスコットランド人には好意を有することをご承知相成りたし。願わくは理由ある願いに対して満足を与えたまわんことを。以上。1648年10月5日、エジンバラにて オリバー・クロムウェルスコットランド王国委員御中 この公翰は、木曜日にエジンバラ市に開かれし議会に提出された。 ラウドン及びその与党よりは翌日承諾の返事来り、而してその翌日すなわち金曜日には事はうまく定まった。クロムウェル麾下の将ランバートは、「害悪党」を防ぐため、騎兵2か連隊をもって、ここの議院を護ることになった。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第76貴兄よ、先日のご命令拝受、充分これに従うよう努め申すべし。小生は下院に送りたる報告書の写しを封入いたしたれば、これにて事情を知られたし。スコットランド国の正しき党派と我らの間には充分の黙契これ有る間ご安心くだされたし。なにとぞサー・エー・ハスルリッジにベルウィクをかえりみるよう書き送りくだされたく、彼は守営に必要なる物一切をニューカッスルに持ちおり。これらの守営は供給乏しくこのままにては危険なり。願わくは至急この儀願い上げる。以上。1648年10月2日、ベルウィクにおいて オリバー・クロムウェルセント・アルバンズにある大将フェアハクス卿殿 ハスルリッジはニューカスルの守将で、北部地方での有力なる人物である。フェアファクスは東部諸州を経て。今セント・アルバンズにある。この地がこれよりある時期間、軍の司令部であった。 この週には、ワイト島において議会よりの委員と国王側との間に、はなはだ面白き談判が行われておった。島のニューポートにおいて毎日毎日まじめ腐った討議交渉が行われて40日以上にも及んだ。「長老派的王党主義」の最後の希望はこれにあったのだが、王にとってはどうしてどうして最後の希望処の話ではない。王はこの年の大失敗にもかかわらず、依然として神聖なる王権を有する国家の中心であると確信していた。それはともかく、幸いにもこの商議はチャールズ・スチュアート〔王〕との商議の最後であった。歴史はもうかかる商議には飽きた。何の結果をも生まぬ商議である。王は少しも正意なく、絶えず逃遁の工夫を懲らし、交渉はただ、うまくやって公衆に善き印象を与えるための芝居であると考えていた。この「40日間商議」というのはこんなものであった。歴史のページの上での麻痺である。 クロムウェルはエジンバラに進み、ホウィッガモア党の貴人名士の訪問する者多くあった。 クロムウェル中将は、彼のスコットランド国における処置を賛し、更にこれを奨励する議会からの書に接した。彼は次の書においてこの機を利用したわけである。書翰第77貴下等よ、貴下等がかの二城を引き渡し、その他すべてにおいて二国平和を念とせらるるは、小生の充分認むるところ、さればこの上とも正当なる請求に対しては応じたまうことと信じて疑わず。ご承知のごとく貴国の「害悪党」は英国との条約に反し、英国に敵意を表し、その一度政権を握るや、理不尽にも遂に侵入し来りて、無益の流血を両国の民に蒙らせ、禍を国に起こせり。神、大能のみ手をふるって彼らの企画を破壊したれども、なお貴国内にあり、彼らは両国の平和を破らんと虎視眈々機会をねらいおり。余はハミルトン軍の残部を滅すべき命令を受けおるものなるが、彼らは貴国に逃れて、なかには再挙の計をなす者もありと聞く。我が英国は、スコットランド王国が「害悪党」を制するあたわずしてその跋扈(ばっこ)に任せたるために非常の損害を受け、理由なき侵入に逢いて苦みたるものにこれ有り。されば諸君よ、余は自国議会の命を遂行せんがため、このたびの不義なる戦いに加わり、または同意したる人々を官職公職に置くことなきを、貴下等がスコットランド王国の名において保証せんことを、ここに請求せざるを得ず。これ余の請求し得る最小の保証なり。ここに余の英国上下両院より受けたる命令をお伝え申すべし。依りてもって英国がかの侵入に反対したるスコットランド人には好意を有することをご承知相成りたし。願わくは理由ある願いに対して満足を与えたまわんことを。以上。1648年10月5日、エジンバラにて オリバー・クロムウェルスコットランド王国委員御中 この公翰は、木曜日にエジンバラ市に開かれし議会に提出された。 ラウドン及びその与党よりは翌日承諾の返事来り、而してその翌日すなわち金曜日には事はうまく定まった。クロムウェル麾下の将ランバートは、「害悪党」を防ぐため、騎兵2か連隊をもって、ここの議院を護ることになった。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第74貴下よ、我が軍の中に2、3の奪掠事件ありたること、スコットランド国の住民には気の毒の至り、我らにとりては大なる心の痛みにこれ有り。余は鋭意、奪掠者の探究に従いて遺漏無きを期し、もって我らのかかる悪虐を嫌うことの顕われんことを願いおり。而して今日までの報告によるに犯人は我が諸連隊にあらずして、この地方にて始めて我が軍に加わりたる北部騎兵隊の中にあることと相わかり申す。余はすでにこれらの隊を英国に帰らしめ申す。残れる軍は純粋の我が軍のみなれば、士官等はかかる悪事の行われぬよう充分部下を警(いまし)めおり。誤解を防がんために事情を開陳いたしたる次第にこれ有り。以上。1648年9月21日、ノオハムにおいて オリバー・クロムウェルエジンバラにあるスコットランド国委員会御中 奪掠を働いた連隊はダーハムにて新たに募集されたもので、大佐レンの率いるところであった。クロムウェルはスコットランド国民の求めに応じて、奪われたる数頭の馬を返してやり、奪掠を働いた兵を除名した。また連隊長レンは見て見ぬ振りをし、奪掠者を寛恕したため、軍法会議に出でて陳述の終るまで職を止められ、その連隊はノオサム・バランドに帰ることを命ぜられた。クロムウェルのこの公平なる措置は、大いに人民の同感を買ったという話。この仕事をしたためた場所なるノオハムはトウィード河の南岸、ベルウィクよりは約7マイル上流にある。彼はその翌日モオジントンに直行して、いわゆる「有力なる人」〔訳者曰く、アーガイル侯、エルコー卿〕と会見したわけなのである。 ☆「クロムウェルーピューリタン革命の英雄」今井宏著 プロローグより1968年の初秋、著者はロンドンのケンジストン公園の一角にあるロンドン博物館を訪問した。そこはロンドンの歴史を遺物やパノラマで再現している。17世紀の陳列室には、クロムウェルの署名のある兵士のための携帯聖書や多くのメダル、文書、さらに国王チャールズ1世が処世された当日着用した衣類も色変わりした血のあともそのままに陳列されている。片隅にはクロムウェルの胸像が飾ってある。そのとき、幼稚園ぐらいの男の子が祖母と入ってきた。その子は、クロムウェルの胸像にかけよって、大声で叫んだ。「ぼく、この人よく知っているよ。イギリスの王様だったんだ」孫のあとを追ってきた老婆は、ありありと当惑の色を浮かべて「違うよ、坊や。王様のふりをしただけよ」統一王国がこの地に形成されて千年以上の歴史を持つイングランドの君主制が10年とはいえ、中断を余儀無くされたことがあった。中断されただけでなく、ときの国王チャールズ1世が裁判にかけられ、衆人環視のなかで処刑された。この事件の与えた衝撃は大きかった。この国王処刑をクライマックスにヨーロッパの弱小国であったイギリスは「最初の工業国家」となり植民地帝国への一歩を歩みを踏み出す。フランスの啓蒙思想は、17世紀の動乱の結果、イギリスで達成された立憲制と宗教的寛容の体制を讃美し、それを自分達の国の旧体制(アンシャン・レジーム)批判の武器に用いた。17世紀中葉のクロムウェルが率いたピューリタン革命が一大転換点となったのである。この動乱の中から一人の人物が現れて、優れた指導者となり、あの博物館の幼児が発言したように「王様」と見誤れる地位についたという史実は消し去ることはできない。書翰第75〔訳者曰く、これは事の経過を下院に報知したものであって、前半は、上来記せしところの経過及びその後のアイガイル侯等との交渉の叙説であるが、あまり複雑かつ無味なる故、省く。〕・・・・・・9月29日ラナーク公等スコットランド国委員よりベルウィクの城将にあて、町より退出すべしとの命令来りしかば、9月30日城将は守兵とともに城を去れり。余は町に入り、イングランド国のための守備隊を備える。城将は己れと共に城に在りしイングランド人のために投降規約取り結びを欲せしも、余はこれに従わず、さればこれらイングランド人の処置は貴議会の権内にこれ有り。カーライル城を受取るためには、大佐ブライト等をのこせり。スコットランドの2党間に一の約定成り立ち、いよいよすべての隊を解散することに相成りおり。ベルウィクの守備兵としては、歩兵の1か連隊を止めたるが、騎兵の1か連隊をも加うるはずにこれ有り。糧食の供給については、充分のご配慮を願いたく、またニューカッスルより砲銃弾薬を送り来るようサー・アーサー・ハスルリッジにご命令なしくだされたく願い上ぐ。これらすべての神の恩恵が信頼と感謝の因となり、かつ神の栄光とこの憐れなる王国の益を増さんことこそ、望ましき限りなり。以上。1648年10月2日、ベルウィクにおいて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 ☆1625年 チャールズ1世即位 1628年 チャールズ国王第3議会召集 クロムウェル議員となる。 5月「権利の請願」提出 1629年 チャールズ国王、議会解散 1637年 ハムデン船舶税拒否、国民盟約締結 1640年 4月 短期議会 11月長期議会 12月根こそぎ請願 1641年 11月22日大抗議文採択 1642年 1月、国王5議員を逮捕しようとして失敗、ロンドンを退去 8月 国王ノッティンガムで挙兵(第1次内乱) 10月23日 エッジヒルの戦い 11月 国王軍ロンドンに迫る 12月 東部連合軍結成 1643年5月13日 グランサムの戦い 10月21日 ウィンチビーの戦い 1644年1月 クロムウェル、東部連合軍副司令官となる。 7月2日 マーストン・ムアの戦い 1645年2月 ニューモデル軍誕生 4月 辞退条例成立 6月14日 ネーズビーの戦い 1646年4月 国王スコットランド軍に投降 6月 第一次内乱終る 1647年6月4日 国王逮捕 11月11日 国王ワイト島に逃亡1648年 1月3日 国王との交渉打ち切り決議 4月 第二次内乱始まる 8月17日プレストンの戦い、同月末第二次内乱終る。手紙75はこの頃書かれた。クロムウェルは29歳の時、議員に選出された。その後内乱のなかで軍の指導者としての地位を確立していく。1642年8月43歳のとき、ケンブリッジ大学が国王の求めに応じて現金と貴金属を提供しようとしているという噂に接し、自ら町の武器庫を占領し、現金・貴金属の差し押さえに成功する。「私は不思議な力によって高いところに持ち上げられているようにさえ感じる。それがなぜだか私にはいえない。夜も昼も、私は大きな仕事のほうへ押しやられていく」と述懐した。11月23日エッジヒルの戦いで国王の甥リュパート親王の率いる騎兵隊に議会軍は苦戦をしいられる。議会軍は苦戦をしいられたが、国王の歩兵部隊をたたいて騎兵隊は引き返し、戦闘は翌日に持ち越される。この間、議会軍にハムデンの騎兵隊が援軍として到着した。国王軍の目標はロンドンにあり、10月29日にはオクスフォードを陥落させ、ロンドンに迫る勢いを示したが、ロンドンの民衆は議会軍を支持し、ざんごうを掘り、2万4千人の義勇兵が組織された。国王軍はこの情勢に攻撃をしかけることができず、退却した。クロムウェルは議会軍のエシックス伯のもとでエッジヒルの戦いに参加し、議会軍の敗北を防ぐ殊勲をあげた。戦闘が終った後、彼は言った。「われわれの軍隊は、よぼよぼの召使や、酒場のウェイターという連中だ。・・・われわれは精神を持った人達を集めなければならない。」1642年暮れに東部連合が組織され、クロムウェルは大佐の資格で参加した。「いまや(1643年)イングランドのすべての州は傍観を許されなかった。内乱という悲劇が演じられた。例外は東部連合諸州で、そこではオリバー・クロムウェルの骨身を惜しまない活動が国王のたくらみを阻止した」と当時の一婦人の手紙に記されるくらいにクロムウェルの台頭がはじまった。クロムウェル率いる部隊は厳格な規律で知られ、5月13日にはグランサムで2倍の兵力を持つ国王軍を打ち破った。「クロムウェルの軍隊に優れている点があるとすれば、敗北しちりじりになっても、すぐ集合し、新しい命令が出るまで整列し続ける点である」と国王軍のクラレンドルは「大反乱の歴史」で書いた。国王軍の騎兵は、敵の隊列深くつっこんで後陣の補給部隊の物資を略奪するという戦術だったが、クロムウェルの戦術は、攻撃にあたって戦列をくずさずに完全に一隊となって密集した騎兵隊の集団行動で左右、背後から攻撃を加えた。それには指揮官の指揮に応ずることのできる厳しい規律と訓練を持った部隊が必要だった。1644年1月にはクロムウェルは東部連合軍の副司令官となる。クロムウェル45歳である。「クロムウェルは信仰の厚い人を自分の部隊に入れるよう特別に注意を払った。・・・そして当時の兵隊につきものの無秩序、上官に対する反抗、掠奪といった軍隊に対する苦情の種を避けた。こうして彼は予想以上の成功を早めた」と従軍牧師バクスターは記す。クロムウェルの強調した「精神」こそピューリタニズムの信仰にほかならなかった。クロムウェルの兵士たちは「兵士のための携帯聖書」をポケットにおさめて戦場にのぞんだ。さらに「兵士たちの問答」というパンフレットも作られた。1 私は戦う。国王をカトリックの手から救い出すために2 私は戦う。わが国の法律と自由のために。3 私は戦う。われわれの議会を守り抜くために。4 私は戦う。真実のプロテスタントの信仰を守るために。・・・そして、クロムウェルの騎兵隊は讃美歌を歌いながら国王軍に対して馬を進めた。 神はわれらに名誉を与え 聖者は進軍す 剣は鋭く 矢ははやく バビロンをうちこわすために 「彼らはみな正直でまじめなクリスチャンです」とクロムウェルは手紙に綴った。 クロムウェルは国王軍と対決するため、議会軍の結集を望み、「仮に彼が再洗礼派であっても公共のために奉仕できないことがあろうか」と能力による選抜することを貫いた。1644年7月2日マーストン・ムアの戦いが起こった。前年9月に議会軍はスコットランドと「厳粛な同盟と契約」を結び、国王軍に共同戦線を組んだ。2万6千の議会軍と1万7千の国王軍は向き合っていた。クロムウェルの名前はすでに知れ渡り、リュパート親王は捕虜に「クロムウェルは来ているのか」と尋ねた。クロムウェルは1,700の騎兵と1,000の竜騎兵(小銃を持った騎馬歩兵)を率いて議会軍左翼にあった。夕闇にまぎれ、クロムウェルの騎兵隊は今日は敵襲がないと油断していた国王軍に襲い掛かった。国王軍は総崩れになったが、リュパート親王の抵抗も激しくクロムウェルも首に負傷を負った。激しい戦いで議会軍も苦境に陥っていた。右翼のフェアファクスの騎兵隊も敵の騎兵に痛めつけられ、レヴェンの歩兵隊も敗北を喫していた。議会軍で成功したのはクロムウェルの騎兵隊と歩兵隊だけだった。クロムウェルは決断し、前進する国王軍の側面を攻撃し、さらに敵陣中央のニューカッスル軍に攻撃をしかけた。味方の騎兵の援助を得られないニューカッスル軍は壊滅的な打撃をこうむり、最終的に議会軍は勝利する。戦闘が終って、国王軍のリュパート親王はクロムウェルを「アイアンサイズ」と読んだ。クロムウェルの部隊が「鉄のような側面」を持っているという意味だが、のちにクロムウェルの騎兵を「鉄騎兵」と呼ぶようになる。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第69フェアファクスはコルチェスターにあり、クロムウェルは今はベルウィク州に入り、敵将モンローの兵は既にトウィード河を過ぎてしまった。少佐コーエル、ブレストンに死して、寡婦の哀求あり、よりてこの手紙が出された。貴兄よ、コーエル少佐死して、その妻来り哀泣し、また哀訴いたせり。少佐は正直にして貴き人、貴兄及び国家のため尽くして死す。ロンドンの大商人なりしを愛国のためこれを棄て、国のために財を費やせり。彼は多額の払残金を受くべきはずなり。妻と三児あり。目下窮乏す。臨終に際しての少佐の遺言もあり。未亡人大兄を訪わば、よろしくお取計いくだされたし。唐突無礼の段、おゆるしくだされたし。以上。1648年9月11日、アルンウィクにて オリバー・クロムウェル議会軍総督フェアファクス卿殿翌年6月この未亡人は未払金の交付を得た。彼女が唯一の希望達せられしか。憐れなる婦人よ。 書翰第70〔これはベルウィクの城将に降伏を勧告した書翰であるが、別段のこともない故略す。〕書翰第71〔クロムウェルはスコットランドのアーガイル侯その他にスコットランド侵入の理由をのべしむべく、ブライト大佐等を遺した。この書翰は9月16日ベルウィク付近にてしたためて軍使に持たせてやったものである。ただブライト大佐等を遺すということを記したものである故略す。〕 書翰第72貴下よ、スコットランドの国境に迫る故、その理由を開陳いたすべし。誓約に反し、両国親交のすべての約に反して、ハミルトン公が英国に侵入したるは、ご承知のごとくなり。貴国の公表したる宣言とは一致せざれど、英国議会はハミルトン軍をもって英国の敵と判断いたし申す。小官は正義公道の敵を破るために進軍つかまつり、而して神がプレストン会戦において、いかに不義を罰したまいしかはご承知のところなり。不義の師を起こして正しき判官〔神〕に訴うることのいかに危険なるぞよ!神のこのたびの裁判は貴下等を戒むるものにこれ有り。求むる所はベルウィク、カ-ライルの両地の守営を引き渡すことなり。貴下等これを拒む時は神に訴え、神の助を乞うのほか道なし。我らは貴国無辜(むこ)なる民に害を加うるの意、少しもこれ無し。ただ事の主導者を目指し申す。人民に悪意なきこと、多くの捕虜の告白により明らかなり。貴答を待つ。以上1648年9月16日、ベルウィク付近にて オリバー・クロムウェルスコットランド国委員会御中 書翰第73貴下よ、9月15日付けご発送の手紙その他によりて、貴下等の意志のかの2市(ベルウィクとカーライル)を引渡し、かつ英国・スコットランド国両国の結合を維持せんと欲するにあるを知り申せり。また貴下等が両国平和の敵と相納(い)れざるの位置に立つことも明瞭となり、これ一に神の貴下等に賜いし恩恵なりと感謝し、またスコットランド国の政治の、神を讃め民を愛する人々の手中にありて改善せんとしつつあるを欣(よろこ)び申す。想うに両国において「神と善との敵」(王党を指す)が崛起して、あれほどの暴威を振いたるは、両国の士をして結合一致の必要を悟らしめんとの摂理ならん。されば近時の我らの勝利は神の栄光赫々たるご所業にして、両国にある我らの敵を縮めたると同時に、両国神民の結合を促すものたらんこと切望の極みなり。我らこの目的のために大能の援助を仰ぎて全力を尽くさんと志しおり。我が軍のハミルトン公を破るや、本国より一の命令に接し申す。曰く、再起の見込みなきまでに敵を討てと。また曰く、ベルウィク、カーライル両守営を降せと。而して敵はスコットランド国より充分の後援を得、なお勢威を有して志を変ぜず。貴下等の両国平和のための勧告もその用うるところとならざる状態にあることご承知のごとくなり。然るところ、今回南方に敵を追いつつありし、我が軍の4か連隊来り会したるをもって、我らは全軍ともにスコットランドに侵入することに決定つかまつる。これ我らを遣わしたる者の命令にも適(かな)い、また貴下等をたすくるに更に好都合なる位置に入ることに成るがためなり。神恩により両国共通の敵は間もなく貴下等に従うべく、我らはかの2守営を得んために好適の手段に出ずべし。また敵が貴下等の提言に応じたりとの御報に接し、守営が我らに引き渡されし暁には、我らは即刻貴国を去り申すべし。貴下もし我らの進軍のなお速やかならんを願わばその旨申し来られたく、我らはこれに従い申すべし。また事の現状お知らせくだされたし。上述は軍議の結果のまま申し上げし次第にてこれ有り。以上。1648年9月18日、チェスウィクにて オリバー・クロムウェルスコットランド大法官ラウドン伯爵殿その他英国侵撃に反対せし貴人紳士諸君 チェスウィクはこの頃クロムウェルの司令部のあった場所で、ベルウィクの3、4里南方、トウィード河の南岸(英国側)にある。クロムウェルの軍の一部は、この翌日すなわち9月19日に河を越えた。別働隊ともいうべき一か連隊は前日すでに命令なしに河を渡って進んだ。スコットランド国にてはハミルトンの反対党はホウィッガモア党と呼ばれて全党クロムウェルの方に傾いておった。傾いておったが嫌々ながらのことで、できるならばイエスともノーとを同時に言いたいという態度を示した。 アーガイル、ラウンドンはこの党派の首領株であって、この手紙に対する返簡を送り来ったが、ここに掲げるには及ぶまい。この際、この連中について長談義などをしてはおられぬ。なんでもこの返簡は「御書の趣、正に承諾す。有力なる人を両塁に送りたれば、両守備隊は直ちにその言に従うと思う」というような趣意である。有力なる人とは、アーガイル侯、エルコー卿であって、9月22日来たって、モオジントンにクロムウェルと会見し、その夜ベルウィクにいたって勧降した。守備隊は不得要領にぐずぐずしている。クロムウェルはいつでも包囲攻撃のできる準備をしている。この頃クロムウェルは全軍に告示を発して、奪掠をなしたる兵ある時は軍議にかけて死をもってこれを罰すべき由を知らせた。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第68もう一つ私信がある。ホワートン卿にあてたもので、嫡男の誕生を祝うた手紙と見えるが、このたびの戦勝についての神に対する感謝の念が溢れている。このホワートン卿という人もやはりダービーハウス委員会の一人である。そして熱心な清教徒で、議会党の人である。卿よ、ご承知のごとく筆不精(ぶしょう)の小生のことながら、寸簡呈し申す。やがてご面晤(めんご)の機を与えられし節申し上げたきが、我ら、我らの神を思うに、そもそも我らは何者ぞや、おお賎しめられ嘲らるる聖徒全体に対しての彼の慈愛よ!彼らをしてその嘲笑を続けしめよ。我ら皆聖徒にてありたし!神は知りたまう。我らの最優者も弱き聖徒たるに過ぎず。弱けれど、聖徒なり。羊ならずとも羔(こひつじ)なり。されば食養を要す。我らは日々霊の糧(かて)を賜りおり。この後もまた然るべし。外的恩恵を通じて信仰、忍耐、愛、希望等は全うさるべし。然り、キリスト宿りて我らのうちに完全なる人を起すべし。外的、内的と区別すとも、区別は実はその人によるべく、俗人には外的と見ゆか。貴兄の受けし特別のなる恩恵を祝す。いたずらに生まれし児の出世を願うなく、すべてを天父に任ぜられんことを切望いたせり。皆々様によろしく。以上。1648年9月2日、ナンスバローにおいて オリバー・クロムウェルホワートン卿殿かくて敵将モンローはアブルピーにあり、クロムウェルは敵を追うて次第に北進し、各処の残兵を撃破してベルウィクの方向へ進み、敵は急速力をもってスコットランドに帰り着いた。9月8日クロムウェルはダーハムにありて、敵将モンローを威嚇しつつ次の公示をなした。公示ハミルトン麾下(きか)のスコットランド軍、神助による議会軍に破られ、捕虜数千を数う。然るにその数の多きと収容所の欠乏とは自ら彼らの逃亡を便ならしめ、国内処々に潜む者多し。かかるスコットランド人を捕えて、係りの士官に引渡さば、我が国のため功績を立てたるわけなり。係りの士官を見出さぬ時は委員会、守備隊長等に引渡されたし。委員会、守備隊長等はかかる場合には、逃亡捕虜を確保せられたし。反抗する者は殺すも可なり。されど従順なる者を虐遇するなかれ。1648年9月8日、ダーハムにて オリバー・クロムウェル *イザヤ書第8章8:1主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。8:2そこで、わたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた。8:3わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。8:4それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。8:5主はまた重ねてわたしに言われた、8:6「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。8:7それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、8:8ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。8:9もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。遠き国々のものよ、耳を傾けよ。腰に帯して、驚きあわてよ。腰に帯して、驚きあわてよ。8:10ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。8:11主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、8:12「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。8:13あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。8:14主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。8:15多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。8:16わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。8:17主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。8:18見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである8:19人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。8:20ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。8:21彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。8:22また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 書翰第68もう一つ私信がある。ホワートン卿にあてたもので、嫡男の誕生を祝うた手紙と見えるが、このたびの戦勝についての神に対する感謝の念が溢れている。このホワートン卿という人もやはりダービーハウス委員会の一人である。そして熱心な清教徒で、議会党の人である。卿よ、ご承知のごとく筆不精(ぶしょう)の小生のことながら、寸簡呈し申す。やがてご面晤(めんご)の機を与えられし節申し上げたきが、我ら、我らの神を思うに、そもそも我らは何者ぞや、おお賎しめられ嘲らるる聖徒全体に対しての彼の慈愛よ!彼らをしてその嘲笑を続けしめよ。我ら皆聖徒にてありたし!神は知りたまう。我らの最優者も弱き聖徒たるに過ぎず。弱けれど、聖徒なり。羊ならずとも羔(こひつじ)なり。されば食養を要す。我らは日々霊の糧(かて)を賜りおり。この後もまた然るべし。外的恩恵を通じて信仰、忍耐、愛、希望等は全うさるべし。然り、キリスト宿りて我らのうちに完全なる人を起すべし。外的、内的と区別すとも、区別は実はその人によるべく、俗人には外的と見ゆか。貴兄の受けし特別のなる恩恵を祝す。いたずらに生まれし児の出世を願うなく、すべてを天父に任ぜられんことを切望いたせり。皆々様によろしく。以上。1648年9月2日、ナンスバローにおいて オリバー・クロムウェルホワートン卿殿かくて敵将モンローはアブルピーにあり、クロムウェルは敵を追うて次第に北進し、各処の残兵を撃破してベルウィクの方向へ進み、敵は急速力をもってスコットランドに帰り着いた。9月8日クロムウェルはダーハムにありて、敵将モンローを威嚇しつつ次の公示をなした。公示ハミルトン麾下(きか)のスコットランド軍、神助による議会軍に破られ、捕虜数千を数う。然るにその数の多きと収容所の欠乏とは自ら彼らの逃亡を便ならしめ、国内処々に潜む者多し。かかるスコットランド人を捕えて、係りの士官に引渡さば、我が国のため功績を立てたるわけなり。係りの士官を見出さぬ時は委員会、守備隊長等に引渡されたし。委員会、守備隊長等はかかる場合には、逃亡捕虜を確保せられたし。反抗する者は殺すも可なり。されど従順なる者を虐遇するなかれ。1648年9月8日、ダーハムにて オリバー・クロムウェル *イザヤ書第8章8:1主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。8:2そこで、わたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた。8:3わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。8:4それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。8:5主はまた重ねてわたしに言われた、8:6「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。8:7それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、8:8ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。8:9もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。遠き国々のものよ、耳を傾けよ。腰に帯して、驚きあわてよ。腰に帯して、驚きあわてよ。8:10ともに計れ、しかし、成らない。言葉を出せ、しかし、行われない。神がわれわれと共におられるからである。8:11主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、8:12「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。8:13あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。8:14主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。8:15多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。8:16わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。8:17主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。8:18見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである8:19人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。8:20ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。8:21彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。8:22また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第59これはこの包囲中にクロムウェルの発した第一の書翰である。貴下よ、ここにペムプロークの戦況をお知らせ申すべし。敵は著しく糧食の欠乏を感じ始め、2週間経なば餓死すべきこと、ほとんど疑いこれ無し。聞く所に依れば、敵兵は2、3将校のためにこの境遇に陥りしを恨みて、4、5日中に主将ポイアーの首を斬りて我が軍に降るべしとのことなり。いまだ砲と弾薬到着せず困却いたせし。10日ほど前、敵を攻めしもハシゴ短きに過ぎて、乗り入れること叶わず。我らに4、5の死者ありしが、敵にはなお多くありしよりようなり。我らは2週間以内に町を占領するを得べく、然る上は城も直に手に入り申すべし。彼らの糧食はほとんど尽きんといたしおり。ケントにおける御勝報に接し、主の恩恵をおもうて感謝と喜悦に溢れ申す。・・・・・・小生は14日以内に飢餓のために敵の降ることを確信致しおり。以上。1648年6月14日、ペムプロープ包囲軍 オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 たしかに14日以内に攻撃を加え、そしてちょっと有望らしい結果もあったが、だいたいにおいて失敗に終わってしまった。 書翰第60〔省く〕 書翰第61クロムウェルがロンドンを去りて後、市は上へ下へと騒擾した。横逆の事起こり横逆の人、生じた。書翰第59に記してある「ケントにおける勝報云々」は次のごとくにして起こったのである。5月16日。有名な「サレー請願」というものが起こった。すなわち王と平和を結ぶべしということを唱えてサレーよりたくさんの人民が騎馬でやってきた。彼らは議会の守備兵と衝突して互いに剣を抜きて戦い、終わりに怒って郷里(くに)に帰った。かくて処々にロンドン市の長老派と相応ずる兵が起こった。フェアファクスは騒擾を鎮むるために病をおかして馬に乗った。7月1日。フェアファクスは叛乱の中心点に進んでこれをメードストンに撃破した。残余の敵は数日の後、エセクス州のコルチェスターに集り、フェアファクスは敵の頑強なる抵抗を受けつつ、今これを包囲している最中である。ケントにおける勝利というのはこの叛乱についていうのである。議会軍の将ラムパートは北方にあって、スコットランド兵の来襲を待っている、あちらこちらで王軍が起こって次第に勢威を振るいつつある。さればクロムウェルは一刻も早くペムプロークを陥(おと)さねばならぬのであるが、敵将ボイヤー頑強にして降らず。クロムウェルは砲兵及び軍資の欠乏のため、やや攻めあぐんでいるありさまである。 貴兄よ、小生は、数日前北方に向かって騎兵及びドラグーナーズを送り申す。送りしは騎兵の隊4、ドラグーナーズの隊2なり。小生は各大佐と相談の結果、これより以上送ることあたわずと決定いたせり。当地の敵は実にお話しにならぬほど、頑強にて、いよいよの最後まで固守せんといたしおり。我が軍が当地の包囲を開始せし以来、各地に叛乱もあり、国の貧なるため、我らは食糧を購う資もなく、パンと水のみにて暮らしおるありさまにてこれ有り。今日まで無事に支えおること、偏えに神恩に依れり。我らの砲を積める舟は風の向き悪きため来らず、されば我らは敵城を撃つべき適当の武器を欠きて、ただ「兵糧攻め」をいたしおる始末なり。さりながら敵の弱りきりて降るも、もはや数日の後なるべく、とにかく最上の時機に起こるべきものと信じおれり。神、貴兄の努力を祝福したまう由、欣喜の至りなり。小生は国民全部、我が民軍全部がこの際における神意と自己の職分とを認めんことを祈り申せり。この王国の人民がなお怒りの目的物たることはあらざるべく、また束縛圧制の下に呻吟することも神なしたまわずと存ず。近頃起こりしすべてのことは、彼のミデアンの日(*)におけるごとく〔士師記第6章参照〕圧虐者を砕く神の大能の発現にこれ有り。神は彼の日と等しく今もなお己れの民を救いて敵を滅すものなり。神、大兄を祝福し、恩恵を増し加え、心を正しく保ちたまう。大兄「この世の人」の気に入るところたらずとも、神の目には貴き人たるべく彼は兄の角(つの)また楯(たて)たるべし。以上。1648年6月28日、ペンプローク包囲軍 オリバー・クロムウェル議会軍総督トーマス・フェアファクス卿殿*イスラエルの民が、ミディアン人による略奪に苦しんだとき、神はギデオンを通して介入しイスラエルに勝利をもたらす(士師記6-8章)、この日をイザヤは「ミディアンの日」と呼ぶ。(2)書翰第63-第66プレストンの会戦プレストンの会戦は3日間続き、舞台は湿潤なるランカ州の幾マイルにわたった。実に広き、また混みいった戦いであった。クロムウェルはリブル河の谷を下りて、敵将ハミルトンの兵が雑然としてプレストンを北方に進み行くを発見し、人数は少ないけれど、敏捷堅固の軍をもって、敵勢を衝(つ)きてこれを中断し、半(なかば)を北に半を南に撃破して世にも稀なる大勝利を得たのである。この戦いの実験記としてはクロムウェルの2つの書翰の外に3つ記事がある。これらを参照して見るとこの極めて重大なる会戦のありさまが髣髴(ほうふつ)として眼に迫るのである。 スコットランド軍に従いしサー・ジェームズ・ターナー記していう。『我らの間に、ランカ州に入ろうかヨーク州に進もうか、あるいは他の州に入ろうかという問題が起こった。各人の意見が一致しなかったが、自分はヨーク州が充分に訓練を経ている立派な議会軍と戦うには、敵に多くの利便を与うるランカ州よりもヨーク州の方がよいと思ったからである。しかしハミルトン公はランカ州進入を選び、固く取って動かなかったため、遂にそう定まったのであるが、この道を取って我らは破滅に至ったのである。』『我らの進軍は雨と嵐のためにいたく困難であった。サー・マーマジュークはいつも先鋒を承っておって、敵の動静を探りつつ進んだのであるが、何の不幸か我が軍は不用意に敵の来襲を食ったのである。実に我らは緩怠な列をなしておったので、左翼は右翼の様子を知らず、先鋒と殿軍(しんがり)とは2、30マイルも離れていた。クロムウェルの側面攻撃を受くる軍隊としては、余りにも締りのなき行軍であった。』『1648年8月16日(水曜日)ハミルトン公は歩兵の本隊を率いてプレストンに到着した。』と。 この翌朝、クロムウェルの軍はハミルトンの軍を襲ったのである。ハミルトンは議会軍に襲われたとは知るものの、これがクロムウェルの軍なりとは一日中知らなかった。この夜更けてクロムウェルは急ぎ左の手紙を書いた。 書翰第63紳士諸君、神は今日我が軍をして敵を破らしめ、もってその大能を示したまう。我らは昨夜ストーニーハーストに宿り、今朝は敵に会せんと欲して早くプレストンに向かって進み申す。我らがプレストンを去る4マイルの所に進みしに我が軍の決死隊は既に敵と銃火を交え、我が全軍は進んで敵を衝(つ)き申す。かくて3、4時間の激戦の後、神、我らに勝利を賜る。貴州の兵の力、また甚だ大なるものこれ有り。我らはこの機に乗じ、神助により、さらに敵軍の覆滅を期し申すべし。敵の死傷捕虜を数えるいとまもなく、今詳細に報告いたしかねる。とにかく捕虜多く、死者多く、敵将は散乱せりと申し得べし。この報知により事の状態は諸君に明らかならんと存ず。我らはこの勝利をして有終の美あらしめざるべからざれば、貴州における募兵の儀なにとぞ願い申す。諸君にして諸君の責任を果したまわば、彼らの全滅期して待つべし。1648年8月17日、プレストンにて オリバー・クロムウェルマンチェスターにあるランカ州委員会御中 書翰第64貴下よ、この地方において、我らに勝利を与えたる神の恩恵を伝えんため、小生はこの紳士(ペリー少佐)をやれり。〔訳者曰く、この間に3日間にわたれる戦いの詳報あり。今是を略す。その要点をいえば、敵は3倍に近かったが、クロムウェル軍のために全く覆滅されてしまった。戦闘は3日間にわたり、30マイルに及んだ。2つに分かれたるハミルトン軍は、3日間ただ逐われどおしに逐われ、敗(ま)けたいだけ敗けた。敵の死傷捕虜無数にして残軍は全く散乱して姿を止めぬことになってしまった。〕これ神の貴下に与えたる成功の詳報にて、目下多用、辛くこれだけ記したるわけなり。されど神助多かりし故、これより短く記すわけに参らず。さりとてこれより詳(つまび)らかに記さんは人間の誇りの入ることとなるべし。ただ一事申しあげたきは、敵と味方の人数の大いなる相違にて、これを知らば誰人も神の援助を信じ申さんか。敵は総勢2万1千にして武具も立派に、戦闘ごとに2、3時間は争い申す。議会軍〔クロムウェルの軍〕は8千5百なり。而して敵の死者2千、捕虜8、9千を数えたるありさまなり。貴下よ、これ神の所為に外ならず。今日は神のみ高めらるる日なり。この世のものが高められなば、神これを引きおろしたまうべし。されば小生は貴下及びすべて神を認める人々の、神を崇め、神の愛する民を憎まざらんことを祈るほかこれ無し。かつまた貴下が職責を尽し、国家の平和昌福を求め、もって主の業をなすの勇猛心を起こされんことを。及び平和の人をたすけ、国賊輩を速やかに滅ぼさんことを祈り申す。然らば神は貴下を恵み、善人は貴下に興し、国は貴下によりて、幸福を得べし。これ小生の切願するところなり。以上。1648年8月20日、ウェリントンにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 大成功の報知をもたらしたる少佐ペリーは200ポンドを与えられ、大尉エドワード・セクスピーは100ポンドを与えられた。「国内全般は感謝の一日を守るべし」との令は発せられ、感謝すべき条目の表は各処の人1万人に配布せられた。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第59これはこの包囲中にクロムウェルの発した第一の書翰である。貴下よ、ここにペムプロークの戦況をお知らせ申すべし。敵は著しく糧食の欠乏を感じ始め、2週間経なば餓死すべきこと、ほとんど疑いこれ無し。聞く所に依れば、敵兵は2、3将校のためにこの境遇に陥りしを恨みて、4、5日中に主将ポイアーの首を斬りて我が軍に降るべしとのことなり。いまだ砲と弾薬到着せず困却いたせし。10日ほど前、敵を攻めしもハシゴ短きに過ぎて、乗り入れること叶わず。我らに4、5の死者ありしが、敵にはなお多くありしよりようなり。我らは2週間以内に町を占領するを得べく、然る上は城も直に手に入り申すべし。彼らの糧食はほとんど尽きんといたしおり。ケントにおける御勝報に接し、主の恩恵をおもうて感謝と喜悦に溢れ申す。・・・・・・小生は14日以内に飢餓のために敵の降ることを確信致しおり。以上。1648年6月14日、ペムプロープ包囲軍 オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 たしかに14日以内に攻撃を加え、そしてちょっと有望らしい結果もあったが、だいたいにおいて失敗に終わってしまった。 書翰第60〔省く〕 書翰第61クロムウェルがロンドンを去りて後、市は上へ下へと騒擾した。横逆の事起こり横逆の人、生じた。書翰第59に記してある「ケントにおける勝報云々」は次のごとくにして起こったのである。5月16日。有名な「サレー請願」というものが起こった。すなわち王と平和を結ぶべしということを唱えてサレーよりたくさんの人民が騎馬でやってきた。彼らは議会の守備兵と衝突して互いに剣を抜きて戦い、終わりに怒って郷里(くに)に帰った。かくて処々にロンドン市の長老派と相応ずる兵が起こった。フェアファクスは騒擾を鎮むるために病をおかして馬に乗った。7月1日。フェアファクスは叛乱の中心点に進んでこれをメードストンに撃破した。残余の敵は数日の後、エセクス州のコルチェスターに集り、フェアファクスは敵の頑強なる抵抗を受けつつ、今これを包囲している最中である。ケントにおける勝利というのはこの叛乱についていうのである。議会軍の将ラムパートは北方にあって、スコットランド兵の来襲を待っている、あちらこちらで王軍が起こって次第に勢威を振るいつつある。さればクロムウェルは一刻も早くペムプロークを陥(おと)さねばならぬのであるが、敵将ボイヤー頑強にして降らず。クロムウェルは砲兵及び軍資の欠乏のため、やや攻めあぐんでいるありさまである。 貴兄よ、小生は、数日前北方に向かって騎兵及びドラグーナーズを送り申す。送りしは騎兵の隊4、ドラグーナーズの隊2なり。小生は各大佐と相談の結果、これより以上送ることあたわずと決定いたせり。当地の敵は実にお話しにならぬほど、頑強にて、いよいよの最後まで固守せんといたしおり。我が軍が当地の包囲を開始せし以来、各地に叛乱もあり、国の貧なるため、我らは食糧を購う資もなく、パンと水のみにて暮らしおるありさまにてこれ有り。今日まで無事に支えおること、偏えに神恩に依れり。我らの砲を積める舟は風の向き悪きため来らず、されば我らは敵城を撃つべき適当の武器を欠きて、ただ「兵糧攻め」をいたしおる始末なり。さりながら敵の弱りきりて降るも、もはや数日の後なるべく、とにかく最上の時機に起こるべきものと信じおれり。神、貴兄の努力を祝福したまう由、欣喜の至りなり。小生は国民全部、我が民軍全部がこの際における神意と自己の職分とを認めんことを祈り申せり。この王国の人民がなお怒りの目的物たることはあらざるべく、また束縛圧制の下に呻吟することも神なしたまわずと存ず。近頃起こりしすべてのことは、彼のミデアンの日(*)におけるごとく〔士師記第6章参照〕圧虐者を砕く神の大能の発現にこれ有り。神は彼の日と等しく今もなお己れの民を救いて敵を滅すものなり。神、大兄を祝福し、恩恵を増し加え、心を正しく保ちたまう。大兄「この世の人」の気に入るところたらずとも、神の目には貴き人たるべく彼は兄の角(つの)また楯(たて)たるべし。以上。1648年6月28日、ペンプローク包囲軍 オリバー・クロムウェル議会軍総督トーマス・フェアファクス卿殿*イスラエルの民が、ミディアン人による略奪に苦しんだとき、神はギデオンを通して介入しイスラエルに勝利をもたらす(士師記6-8章)、この日をイザヤは「ミディアンの日」と呼ぶ。(2)書翰第63-第66プレストンの会戦プレストンの会戦は3日間続き、舞台は湿潤なるランカ州の幾マイルにわたった。実に広き、また混みいった戦いであった。クロムウェルはリブル河の谷を下りて、敵将ハミルトンの兵が雑然としてプレストンを北方に進み行くを発見し、人数は少ないけれど、敏捷堅固の軍をもって、敵勢を衝(つ)きてこれを中断し、半(なかば)を北に半を南に撃破して世にも稀なる大勝利を得たのである。この戦いの実験記としてはクロムウェルの2つの書翰の外に3つ記事がある。これらを参照して見るとこの極めて重大なる会戦のありさまが髣髴(ほうふつ)として眼に迫るのである。 スコットランド軍に従いしサー・ジェームズ・ターナー記していう。『我らの間に、ランカ州に入ろうかヨーク州に進もうか、あるいは他の州に入ろうかという問題が起こった。各人の意見が一致しなかったが、自分はヨーク州が充分に訓練を経ている立派な議会軍と戦うには、敵に多くの利便を与うるランカ州よりもヨーク州の方がよいと思ったからである。しかしハミルトン公はランカ州進入を選び、固く取って動かなかったため、遂にそう定まったのであるが、この道を取って我らは破滅に至ったのである。』『我らの進軍は雨と嵐のためにいたく困難であった。サー・マーマジュークはいつも先鋒を承っておって、敵の動静を探りつつ進んだのであるが、何の不幸か我が軍は不用意に敵の来襲を食ったのである。実に我らは緩怠な列をなしておったので、左翼は右翼の様子を知らず、先鋒と殿軍(しんがり)とは2、30マイルも離れていた。クロムウェルの側面攻撃を受くる軍隊としては、余りにも締りのなき行軍であった。』『1648年8月16日(水曜日)ハミルトン公は歩兵の本隊を率いてプレストンに到着した。』と。 この翌朝、クロムウェルの軍はハミルトンの軍を襲ったのである。ハミルトンは議会軍に襲われたとは知るものの、これがクロムウェルの軍なりとは一日中知らなかった。この夜更けてクロムウェルは急ぎ左の手紙を書いた。 書翰第63紳士諸君、神は今日我が軍をして敵を破らしめ、もってその大能を示したまう。我らは昨夜ストーニーハーストに宿り、今朝は敵に会せんと欲して早くプレストンに向かって進み申す。我らがプレストンを去る4マイルの所に進みしに我が軍の決死隊は既に敵と銃火を交え、我が全軍は進んで敵を衝(つ)き申す。かくて3、4時間の激戦の後、神、我らに勝利を賜る。貴州の兵の力、また甚だ大なるものこれ有り。我らはこの機に乗じ、神助により、さらに敵軍の覆滅を期し申すべし。敵の死傷捕虜を数えるいとまもなく、今詳細に報告いたしかねる。とにかく捕虜多く、死者多く、敵将は散乱せりと申し得べし。この報知により事の状態は諸君に明らかならんと存ず。我らはこの勝利をして有終の美あらしめざるべからざれば、貴州における募兵の儀なにとぞ願い申す。諸君にして諸君の責任を果したまわば、彼らの全滅期して待つべし。1648年8月17日、プレストンにて オリバー・クロムウェルマンチェスターにあるランカ州委員会御中 書翰第64貴下よ、この地方において、我らに勝利を与えたる神の恩恵を伝えんため、小生はこの紳士(ペリー少佐)をやれり。〔訳者曰く、この間に3日間にわたれる戦いの詳報あり。今是を略す。その要点をいえば、敵は3倍に近かったが、クロムウェル軍のために全く覆滅されてしまった。戦闘は3日間にわたり、30マイルに及んだ。2つに分かれたるハミルトン軍は、3日間ただ逐われどおしに逐われ、敗(ま)けたいだけ敗けた。敵の死傷捕虜無数にして残軍は全く散乱して姿を止めぬことになってしまった。〕これ神の貴下に与えたる成功の詳報にて、目下多用、辛くこれだけ記したるわけなり。されど神助多かりし故、これより短く記すわけに参らず。さりとてこれより詳(つまび)らかに記さんは人間の誇りの入ることとなるべし。ただ一事申しあげたきは、敵と味方の人数の大いなる相違にて、これを知らば誰人も神の援助を信じ申さんか。敵は総勢2万1千にして武具も立派に、戦闘ごとに2、3時間は争い申す。議会軍〔クロムウェルの軍〕は8千5百なり。而して敵の死者2千、捕虜8、9千を数えたるありさまなり。貴下よ、これ神の所為に外ならず。今日は神のみ高めらるる日なり。この世のものが高められなば、神これを引きおろしたまうべし。されば小生は貴下及びすべて神を認める人々の、神を崇め、神の愛する民を憎まざらんことを祈るほかこれ無し。かつまた貴下が職責を尽し、国家の平和昌福を求め、もって主の業をなすの勇猛心を起こされんことを。及び平和の人をたすけ、国賊輩を速やかに滅ぼさんことを祈り申す。然らば神は貴下を恵み、善人は貴下に興し、国は貴下によりて、幸福を得べし。これ小生の切願するところなり。以上。1648年8月20日、ウェリントンにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 大成功の報知をもたらしたる少佐ペリーは200ポンドを与えられ、大尉エドワード・セクスピーは100ポンドを与えられた。「国内全般は感謝の一日を守るべし」との令は発せられ、感謝すべき条目の表は各処の人1万人に配布せられた。書翰第65次の2つの手紙は共に匆忙(そうぼう)の間に筆を取ったもので、これでブレストン戦闘に関することは終わりを告げるのである。紳士諸君、我らは軍馬の全く疲るるまで敵を追究し、敵の歩兵はことごとく死し、傷つき、捕えられ、ハミルトン公は残存せる僅少の騎兵と共にデュミヤーの森林に逃げ入り申す。敵の困憊(こんぱい)と混乱ははなはだしく、我らの騎兵にして走るを得ば、たちまち彼ら悉皆(のこらず)を捕え得べし。されど我ら疲れはてて、ただ敵の跡を追うて歩むのみなり。されば願わくは貴州付近の兵を挙げて来り、大いに彼らを追わんことを切望いたせり。もし5百の新騎兵と5百の新歩兵あらば、小生は誓って敵を全滅いたすべし。我らは数限りなく殺し申す。プレストンとウォリントンとの大戦闘においての外、30マイル間敵を追いつつ剣を加え申せり。敵は2万4千にして、我が軍は9千以下なり。まことに光栄ある日-神は英国をして彼の慈悲に応えしめたまえり。願わくは各地兵を起こして敵を追わんことを。至嘱至嘱。1648年8月20日、ウェリントンにて オリバー・クロムウェルヨーク州委員御中 書翰第66紳士諸君、聞くところによれば、ハミルトン公は敗残の騎兵を率いてポンテフラクトに進みおるとのこと。多分その地に宿すべし。ランパート少将は大軍をもって彼を追跡いたしおり。願わくは速やかに兵を集めて赴き、ラムパートの軍に加わらんことを切望いたせり。以上。1648年8月23日、ワイガンにて オリバー・クロムウェルヨーク州委員御中 25日(金曜日)に、スタンフォード州アトクセターにおいて、ハミルトンは議会軍の包囲に陥り、味方の叛乱に遇い、弱り果てて遂に降伏した。後、公は断頭台の露と消えた。実に不幸中の不幸なる人!才幹あって、而も一事にも成功せぬ人の類いであった。頑強なる抵抗をなしたコルチェスター城も遂に議会軍に降り(8月28日)、その2将は即座に死刑に処せられ、他の2人も議会にて審問を受け、その一人は頭を失った。ダウンズにあったラパート親王はたちまちオランダに逃れ去った。第二内乱はプレストンで背骨を折られて、たちまちおしまいとなってしまう。もう消滅したも同様である。敗亡の報、一度スコットランドに伝わるや、青年子弟はまた起って軍隊を興し、デーヴィッド・レスレーをもって将となした。エジンバラ城には老雄リーヴンあり、ハミルトンの残兵現わるれば直ちにこれを砲撃した。クロムウェルは北方に進み、遂にエジンバラにいたり、現下の状態を正しうせんとする。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)書翰第50港は皆閉ざされ、船舶はことごとく出港を停止された。旧記によると、ホーレー大佐は〔11月〕13日に議会へ呼び出されて調べられた時、事の顛末をつまびらかに述べて、かつクロムウェルから受け取った手紙を差し出した。その手紙というのはこれである。親しき従弟ホーレーよ、陛下のお体を害さんとの陰謀ある由、噂さに聞きたり。されば貴君の守備隊の監督を怠らぬよう願い申す。もし暗殺等のことあらば、そは最も恐ろしき事と申すべく・・・・・・。1647年11月、プトニーにおいて オリバー・クロムウェルハムトン宮殿にある愛する従弟ホーレー大佐殿 ホーレーを従弟というのは、彼はクロムウェルの叔母フランシスの子であるからである。11月15日、ワイト島の守将ロバート・ハモンド大佐から、王がワイト島に来たという報知があった。王は宮殿を出たものの、外(ほか)に行くところもなくて、やむなくこの島に上陸したのである。ハモンド大佐は命によりて、直ちに王をカリスプルク城に監禁した。同じ15日に平等党の集会が某所にあるを聞いて、クロムウェル等はそこにいたり、その頭株11人を捕えて軍法会議を開き、うち3人を有罪と定め、そして3人のうち1人がくじ引きで銃殺された。クロムウェルはこの頃は王との協定を結んで国の平和を計ろうと努めていたので、勢い平等党の陰謀を抑える必要があったのである。この頃軍隊の本営はウィンザーに移る。 書翰第51〔略す〕 書翰第52ワイト島守将ロバート・ハモンドは歩兵大佐で年少有為の人物であった。グロースターで大尉たりし時、少佐グレーの虚言を怒って決闘してこれを殺し、審問を受けたが、敵の罪も大なりしため赦され、後大佐に昇進して名ある武夫(もののふ)となった。叔父のトーマス・ハモンドは砲兵中将にしてその民主主義において極めて固く、叔姪相共に民軍のために奮闘したのであった。もう一人の叔父に博士(ドクター)ヘンロー・ハモンドという王党の名士があった。このヘンリーは宮殿の牧師として王の寵臣の一人であって、先ごろハムトン宮にて、甥のロバートを王に、民党ではあるが、今はむしろ王党主義に近い者として紹介した。王がロバート・ハモンドに投じたのはこの事があったためであろう。ロバート大佐はプトニー軍儀のややともすれば過激主義に訴える方に傾くのを嫌って、辺地の守将たる閑職に喜び転じたのであるが、今や図らずも王の来たるに会して、更に大なる紛糾の中に投ずることとなった。彼は王の来るに会して、王を擁して起たんか、またはあくまで民党のために忠誠たらんかと大いに迷った。しかし彼はこの一大誘惑にかちて前述のごとく計ることができた。この書翰はクロムウェルからロバート・ハモンド大佐におくったものである。親愛なるロビンよ、神の処置したもうところ皆良し、紛糾の中にありしも、栄光その中より現れ申し、小生は貴君とともに、また貴君のために主を讃美いたす。まことに今回の貴君の行動は神の名とみ教えに大いなる名誉を付け加えり。親愛なる、ロビンよ。このたびの事たる、実にこの哀れなる王国と我らすべてとに対しての大恩恵にてこれ有り。下院は主のなすところとスコットランド人のなすところの真意が今度はだいぶよくわかりし様子なり。貴君もし敵の狡計を見るべき材料を得し時は、願わくは知らせたまえ。これ大いに役立ち申すべし。下院は今日、左の事項を決定いたしたり。(1)下院はもはや王と交渉せざること、(2)上下両院の許可なくしては、王に願い事をなしえざること、而してこれに背く者は背反者と見らるべきこと、(3)王より物を貰わぬこと、(4)議員にして両王国委員会に連なる者は、在来イングランドとスコットランドを代表せしを、以後はイングランドとアイルランドを代表すること等 なり。貴君の目下の兵力いかん。もし増援を要するならば、申し来られたし。ワイト島をよく守備するは最も必要なりと思へり。然る上は、王を置く処として他に類なき良所たるべし。以上。1648年1月3日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルワイト島守将ロバート・ハモンド大佐殿 書翰第53〔略す〕 書翰第54この頃、クロムウェルは重い病気にかかり、その回復した時、フェアファクスに次の手紙を送った。 貴兄よ、神は小生の危険なる病を癒したまう。病の来訪はたしかに天父の慈愛なり。復活せし主に信頼し、肉に頼ることなからしめんために、小生は死の宣告を受けたるなり。日々死するは幸福なり。現世に何の貴むべき事かあらん。肉の人、肉の事、いかに大なるも無なり、空なり。つらつら思いめぐらすに、主を愛し、かつ主の憐れなる民(中以下の人民)のために計り共に苦しむことこそ唯一の善なり。而してかかる人は、主より大恩恵を得たるにてこれ有り。これに従事して撓まずば復活の光栄にあずかるべし。先日のご来書にて大兄のご友愛に今さら感泣いたせり。幾重にもお礼申しあげり。なにとぞ奥様にもよろしくご鳳声くだされたく、小生は彼女の幸福と堅信とを祈るものなり。以上。1648年3月7日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルウィンザーにある議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 書翰第55スコットランドにおいては、ハミルトン公を首領と戴く王党の一隊が勢威を張っているとの報知が、クロムウェルのもとに来た。これは、軍勢を充分得て後、クロムウェル等の独立軍を破って王を救わんと計画した一派である。牧師スティーブン・マーシャルがこれを知らせたのだ。〔訳者曰く、この一党を独立派はthe Malignanntsまたはthe Malignant Partyと呼んだ、害悪党の意である〕〔前略〕北方よりの新報は極めて少なし、ただかの害悪党のスコットランド議会に跋扈(ばっこ)するあるのみなり。彼らは王のための挙戦を熱望せるも、僧侶連はこれに反対いたしおる由、マーシャル氏の帰国しての話にこれ有り。また同一趣旨の報知多し。この危険委員会(スコットランド議会)においてはは、一人の正しき議員に対して2人の害悪党員ある程の割合なり。彼らは4万人の募兵を決議せし由なれどもいかにや。奥様によろしく願い上ぐ。以上1648年3月28日、ファーンハムにて オリバー・クロムウェル尊き友なるリチャード・ノートン大佐殿 クロムウェルは軍事上の用事にてファーンハイムに来ていたのであろうが、とにかくケント州はこの頃、危険状態にあったので、数週の後「4万人の募兵」が確実となるや、他の多くの場所と共に公然議会に対して叛旗をひるがえしたのである。 この頃は、議会の出席者は大いに減少した。200より70に落ちた。議会の仕事は、ワイト島のチャールズ王との、解決のつきそうもない交渉であって、万事は未決の状態にあって、前程も明らかならず、腰弱な議員は選挙区へ帰って形勢観望と出かけた。 書翰第56〔略す〕 書翰第57親しきロビンよ、王は逃亡を企てて成らざりしとの報知、ある人のもとに来り申せり。王は窓より出で絹ひもにすがって降りんとしも、胸広くしてあたわざりしとのこと、2週間ほど前の暗夜のことなり。貴君のところにおる一紳士が王の逃亡を導き、守護隊はその夜、酒を持ちおりしとのことなり。王の傍らにいる大尉チタスらは信用しがたき人物なりと聞き申す。王を導き出せし紳士はフィアプレースにて、その他クレセント、バローエズ、チタス等疑わし。逃亡を試みしは3月20日のことにてこれ有り。以上。1648年4月6日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルワイト島守将ロバート・ハモンド殿 王は議会と講和する心なく、再び兵を挙げんと計りつつあったのである。それ故逃亡を企てたのであるが、ハモンド大佐は警戒をおさおさ怠らなかった。チタス、ジェームズ・ハリントン、トーマス・ハバート等は王の看守者として議会より命ぜられた人々であるが、皆多少王に同情を有しておったのである。ハモンド大佐の叔父の宮廷教師は、あまり王の贔屓(ひいき)をするために既に去年のクリスマス頃、島からおわれた。 書翰第58〔略す〕
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (4)書翰第45-第58ここに集むる14の書翰は、この頃から第2内乱時代に至る経過をおぼろ気ながらも示すものである。第二内乱時代とは王がハムトン宮殿より遁走して軍隊の手を離れ、ためにまたまた内乱の破裂した時代である。 書翰第45〔略す〕 書翰第46オーモンド侯というのは誠実堅忍にして活動力あり才幹あり、王のためにアイルランドで兵を挙げて大いに努めた人である。彼は少しでも希望の片影のある間は骨を折ったが、1647年の春には味方も残り少なく、アイルランドの法王党と結ばんとの計画も破れて、遂にダブリン及びその他を議会に開け渡すことにした。協定終り、近頃チェスターの城将となったマイケル・ジョンズ大佐が議会軍を率いて、議会の委員と共に6月7日来着して開城は無事に行われ、オーモンドはイングランドに退いた。ジョンズは叛徒と戦って、8月8日ダンカン丘にこれを破った。クロムウェルは次の手紙を送った。 貴君よ、我らは同一主義において相一致するものなれば、神が貴君によりて為したまいしご処分について、共に感謝のほかこれ無し。我らはイングランドにおいてもアイルランドにおいても、今日まで我らの企画を導きたまいし大愛の援助を得しもの、すべての栄光を神に帰し、彼より受けしところを彼のためにのみ改善すべきことと愚考つかまつる。今や我らの真精神を了解せざる人々は、我らの行為について疑いを抱けども、神はやがてこの疑いの雲霧を払いて、我らが神の栄光と国民の利とをのみ計る誠実を世に示し下さるべし。貴君は神の器(うつわ)なれば、我らはいつにても、貴君に対して適当の敬意を表するものなり。もし小生の微力を要とする場合これ有らば、小生は早速ご用に応じ申さん。以上。1647年9月14日、プトニーにおいて オリバー・クロムウェルダブリン城将レーンスターの全軍総指揮官ジョーンズ大佐殿 このマイケル・ジョーンズ大佐はアイルランドで外にも軍功を表し、1649年にはオリバーを迎え入れたが、後間もなく熱病にたおれた。このアイルランドの戦役の中に、ジョージ・モンク大佐が加わっていた。彼はもと王党の将で3年前捕虜となってアイルランドからロンドン塔へ移された人であるが、王軍に望みを断って遂に民党の人となったのである。 書翰第47〔この書簡は略す〕この書翰のなかに「小生は一日も議会を欠席すること能わず。小生の出席は甚だ必要にこれ有り」とあるが、この10月の頃は、まことにそうであったのである。いろいろ定むべき事のあった中にも、王との最後の協定を是非しなくてはならなかった(普通の手段でできるならば)、軍隊の方の議論もなお存しており、プトニーには時々軍事会議があり、彼は非常に多忙であった。 書翰第48貴兄よ、ハルにおいては、守備隊の将卒等町民と共に現守備に不満足を表し、閣下の代理者としてオヴァートン大佐を送られんことを熱望いたしおり。されば小生は大兄が大佐とご相談の上、熟考せられんことを願いたく、而して彼らの注文に応ぜられんことを希望いたせり。そうそう1647年10月22日、プトニーにおいて オリバー・クロムウェル議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 ハルの守将は名義上サー・トーマス・フェアファクスであるのだが、彼は某を代理者としてここへ遣っておいたのである。この某は不評判であったのだ。そしてこの要求通りオヴァートン大佐はハルの守将に任ぜられた。そしてながくこの職に留まってクロムウェル及びその主義のために忠実であった。この手紙は王がハムトン宮を逃れ出た3週間前のことであった。 書翰第49王との交渉はさまざまの形において行われ、エストミンスタの議会もプトニーの軍隊議会も、また英国の全人民も熱心に討究し、熱心にその結果を待ち、すべてが一の事にまじめなりしに、ただ一人王のみは不まじめであって交渉は成立しない。クロムウェル等おもなる将校は、軍人の疑いを慮って、もう暫くハムトン宮殿に王を訪わぬ。そして事を議会に任せてしまった。軍隊にては、王の意志がもう明らかになったため、よろしく王を罰すべしと唱うる「平等党」Levelling Party が起こって、流血の惨を起こした平和の撹乱者(王党を指す)のおもなる者が既に罰せられた以上は、よろしくその首魁〔王を指す〕をも処罰すべしと激語した。これは極めてまじめな人々で、王衣に包まれている人を神に対して責任ある一人間としか認めなかった。ホーレー大佐と議会の委員とが王を護っていた。1647年11月11日午後9時、王はハムトン宮を逃れた。クロムウェルはプトニーの本営にあって、その夜、この報知に驚かされて即刻ハムトン宮にいたり、その夜12時下院議長レンサルにあて、王の逃遁を報じた。その報告書は次のごとくであって、翌日下院において読まれたのである。ただしこの書翰は断片的にのこっているのである。貴下よ、・・・・・・陛下・・・・・・9時に・・・・・・姿を隠せり。陛下が夕食に出て来らざるため、委員諸氏とホーレー大佐とその室に入りしも姿見えず。水岸のほうに逃れ去りたる様子なり。応接間には2、3の書翰残りおり。これは陛下の自筆にて、その一は護衛の委員諸氏を通じて両院に致さんとするものなり。すなわち別紙はそれなり。1647年11月11日夜11時、ハムトン宮殿において オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 王のこの手紙はここへ載せぬが、自分に加えられた拘束無礼をつぶやき、人民の王に対する服従の近時の減退を嘆き、もし「彼らが正気に帰るならば、自分は早速隠退の場所を出でて、いつにても国父たらん」などいうことを、いかにも王様らしき口吻で述べてある。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (3)軍隊の公書現存せる次の書翰は6ヶ月後のであって、この重大なる議会と軍隊との紛乱中の経過が、彼の筆によりてその真相を明らかにせられないのは実に遺憾の至りである。勿論この間に彼が書翰を書かなかったわけではないが、惜しいことにこの6ヶ月の間のが残っておらないのである。それ故吾人は6ヶ月後、独立派が長老派を圧して彼がその首領である時に、彼とあうことにしよう。ただし、ここに一の公文があるが、自分は内的証拠によりてこれをクロムウェルの作と見なすものである。ロンドン市と軍隊との争いは長老派と独立派の衝突となり、議会も国内も両派に二分するに至った事の成行は、甚だ朧気(おぼろげ)であるので、読者は推測を下さねばならぬ。物語や歴史は当てにならぬ。近世の読者は、この争いにおいては敵味方とも(殊に軍隊側は)高き信仰に動かされていた者であることを信ぜねばならぬ。この信仰というものが最も重大なる要素であって、外の要素や感情は隠れてしまった。近世の読者がフランス革命を想い起して、この英国17世紀の争いをヂロンド党と山岳党との争隙に比するかもしれぬ大いに違っている。場合も大いに違うし、イギリス人とフランス人との相違も著しい。またイエス・キリストを信ずる者とジャン・ジャック・ルソーを信ずる者との相違は更に著しいというべきである。「公書」の意味が解るためには、も少し記さねばならぬ。 1647年の始め、あるいはもっと前から、軍隊をいかに処分すべきかが一問題であった。2、3万人の軍隊である故、経費も多分にかかり、かつ平和になった今日、軍隊の必要も少ない。その上軍隊の中には例の「誓約(カペナント)」に加わらぬものがたくさんいる。いわゆる異端の漸く起こりつつありし当時、この点は最も重要のこととなった。 3月の初め、軍隊を切に要するアイルランドに1万2千の兵をおくり、他は解散することに辛うじて定まったが、軍隊は、給料の支払い及び今までと同一の指揮官の下にアイルランドに赴くこと等、正当な要求を為した。旧式軍の連隊長等を領袖とせる議会の長老派は、当然この戦勝の軍隊を好まなかった。デンジル・ホールズ、サー・ウィリアム・オーラー等エセックスの下に将官又は佐官として不成功であった連中は何れも長老主義を抱持して軍隊を嫉視し、これを倒さんと苦心した。彼らは、軍隊よりかかる要求を為せし者を、「国の敵、平和の撹乱者」と呼んだ。あまり倨傲の批難であって、軍隊側のゆるしあたわざるところである。-3月の末までこのままであった。 4月の終り頃まで、両者の間の交渉やら何やらの紛難を通って、事件はあまり発展せぬ。 王との交渉も行われているのだが、王の執拗は依然たるもので、何らの効果をもみない。クロムウェルは議員として事件の経過を静かに見ているありさまであったが、独立派からはますます重んぜらるるに至った。当時議会に権力を有していたオーラー及びその徒はロンドン市のための新軍令を通過させ、ロンドンの兵は全く長老派なる士官の指揮下に立つことになった。 5月8日。クロムウェルを頭とした委員がサフロンオルデルの軍隊に談判に行って、2週間後、成案らしいものを携えて帰り、議会で大いに歓迎された。そこでいよいよ上下両院より代表者を選んでこの成案の実行のためサフロンオルデンにのこした。 5月28日。到着して見たが、やはり行き違いがあってはうまくゆかぬ、かなたこなたの屯所に騒擾が起こる。 6月4日及び5日。全軍の大会合がニュー・マッケットの付近なるケントフォードの荒野に開かれた。2日前、すなわち6月2日には、500の騎兵がオックスフォードを出でてホームビー城に赴き、王を連れ出した。モンラーグ大佐はヒンチンブルックに王を歓待し、フォーレー大佐はフェアファクスの命によりて王と談判したが、一向埒(らち)が明かなかった。争いは経済的より政治的に進み、ロンドン・ウェストミンスターの議会と相対して、東部地方の軍隊会議があることになり、両者対抗の形を明らかにした。 6月7日(月曜日)。軍人はすべて議会を去りて軍隊に行くことを命ぜられたが、クロムウェルはすでに命令に先立って行っていた。議会は特に交渉委員をやり来たらんとし、軍隊は大会合を開き、また祈祷のために一日が費やさるるなどいう今日においては考え難い事をした。 交渉は破れ、軍隊は進んでロンドンに近く屯し、市長等に向かって公書を送った。この公書はどうもクロムウェルの起草したものとしか思えぬ。彼が大至急に書いたもので粗雑の感はあるが、彼の強い精神がその中にあるように見える。 紳士諸君、我らの今日までしばしば為したる希求は、要するに軍人としての正当なる要求の満足、及び軍隊を覆滅せんために悪計をめぐらしたる人々の所罰に外ならず。我らの受けし損害、我ら一身の事ならば忍ぶべきも、事、議会と人民との不利に帰すれば黙すあたわず。かつ彼ら(原註、議会長老派の領袖)は自己の希求を達し、我らの正当なる要求を斥けんためには再び戦乱を見るも厭わずとなす。彼らは忠実善良を装うて、ロンドン市民をして彼らの企画に加わらしめんと計る。而して彼らはこの企画に熱心なれば、既にロンドン市民にしてこれにまきこまれしもの多からん。我らは、議会が戦争の前になしたる宣言(この宣言こそ我らの友人を戦場に奮闘又は戦死せしめしものなれ)に従いて、国の平和と臣民の自由の確定されんことを願う。これ英国人として我らの固守するところなり。今や神恩によりて戦乱終りたれば、我らはめでたき確定を要求するの権利あると同時にまた、将卒の給料及びその他の利便の解散せらるるは、心ある人士の憂うるものなることをも知る。我らは政府の変更を望むものにあらず。長老派の政治なりとてこれに干渉せんとするものにあらず。また放縦なる自由を実現せんとする者にあらず。ただ我らは確定を欲するのみ。而して一度確定来たらんか、ただ黙して従わんのみ。また善良なる人民が自由と希望とを得んことを願う。これ真の国政に適い、かつ正義に応ずるものなり。我らは以上の希求を抱きて諸君の市に近づきつつあり。他意あるにあらず。もし諸君にして、かの徒を助けて我らの正当なる願いを拝せんとせばいざ知らず。然らば我らの兵士は毫も敵意なし。我らはただ万事の善き確定を願うのみ。もしこの事一度成らば、我らは解隊するか、あるいはアイルランドに赴くべし。諸君は市の富裕が我らの飢えたる兵士を掠奪に誘うと思わんも、これ彼らの為さざるところにして、また我らの許さざるところなり。彼らは諸君の冨を望むものにあらず。諸君と彼らとを共通の幸福に導きゆく事を望むなり。彼らがこれを達せんため、諸君が彼らのために議会に嘆願せんこそ望ましけれ。されど諸君もし我らがこの正しき企画に反対して武器を執らんか、この大市街にいかなる破滅が降りかかるとも我らはそが責めを負わざるなり。1647年6月10日、ローイストンにて トーマス・フェアファクス ヘンリ・アイアトン オリバー・クロムウェル ロバート・リルバーン ロバート・ハモンド ジョン・デスバロー トーマス・ハモンド トーマス・レーンズバロー ハードレス・オーラー ジョン・ラムバート ナサニエル・リッチ トーマス・ハリスン トーマス・ブライドロンドン市長殿ロンドン市参事会御中ロンドン市会御中 この公開状は翌日下院にて読まれ、感動を与えた。6月16日軍隊は議会にホールズ、オーラー等11人の議員の審問を要求した。この11人が目下の紛糾の原動者である故、よろしく当分の間、出席を拒絶すべしという注文である。(この11人は長老派の領袖である故、これを逐わんと計ったのである。すなわち軍隊はそろそろ高圧手段を取り出したのである)。彼らは異議を唱えたが、終に退くことになった。フランスへ逃れた。深く隠れた。-もしそうしないとロンドン塔へ送られたのだ。この頃の6週間のありさまは読者よろしく想像するがよい。軍隊は議会が要求を聞かぬ時は近よって脅かし、聞かるると遠くに離れた。ために議会との交渉はうまく行った。市民はしばしば戸を閉じて青い顔をしなくてはならなかった。しかし実際の危害は受けはせぬ。王はやはり軍隊の監視の中にあって、王者としての待遇を受けている。そして例の陰謀を行わんとあせっていた。7月の末には交渉はたいていまとまり、例の議員はもうおらぬし、ロンドン新兵令(5月4日長老派の作ったもので、フェアファクス等の軍隊に対抗するために、ロンドンにて募兵せんとするもの)は廃せられた。議会の独立派は長老派とほぼ同一の議員を有することになり、後者は11人の主導者を失って大いに萎縮し、万事は好都合に定まらんとしつつあった。ところが時あたかもロンドン市民は両党に別れ、長老派は大多数にして非常の騒擾をひき起こした。7月26日。ロンドンの青年や徒弟が大挙して大騒ぎしながら議会に押し寄せて要求をした。その要求は、11人の議員のよびかえさるること、及びロンドン新兵令の廃棄せられざること等であった。この騒擾のため、金曜日まで会議が延期された。(この日は月曜日であった)。金曜日には両院の議長と多数の議員は姿を隠してしまい、ベッドフォードの軍隊はロンドン市に向かって急進した。さきに逐(お)われた11人の議員は突然議会に現れて、残留せる議員と共に議長を選び、至急に市において新兵を募集し、独立派の軍隊と戦わんと計った。けれども戦いに勝てるはずがなく、独立軍は次第にロンドンに迫り、8月3日には長老派は和議を乞うこととなり、独立軍は凱歌を奏して市に入り来り、プトニーに司令部を置き、ハムトン宮殿に王を入れた。かかるありさまで、長い紛争も独立派の勝利となり、フェアファクスの副将にして事実上の大将なるクロムウェルはこれより漸く多事ならんとした。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 第3編 第二内乱の記 1646年-1648年 (1)書翰第36-第42 王を征服することも困難であったが、王と講和の協定をすることはなお困難である。スコットランド人は王を迎えて、もし王にして誓約に署名し長老派の信仰を允許するならば、スコットランド兵は王のために最後まで戦うと言い出し、またはイングランドの長老派も信仰の認許を王に願った。しかし無効であった。王はオクスフォードを出ずる前。密かにロンドンに上って、長老派と独立派かどちらかを自分の味方に引き入れて両党をして相争い相滅せしめた上で王位に上ろうと計画したくらいの人物、なかなか一筋縄でゆかぬ。人民もなお王を尊敬している。-ああ陰詐、頑冥、盲昧はやがて亡びねばならぬ。 次の7の書翰はこの頃の面倒な種々の交渉の有様を伝えるものである。スコットランド人との交渉、王との交渉、その他公私の交渉-その結果スコットランド人は王を残して国に帰り、議会は王をノーサムトン州ホルムビー城に厚き待遇の下に監禁した。 書翰第36、第37〔訳者曰く、この二つは共に些事に関しての書翰である故略す〕 1646年7月24日、スコットランド国と議会の連合委員会はニューカスルの王に「建言」〔訳者注、前ページのことを指すのであろう〕をなし、可否の答えを待った。勿論「イエス」と答えらるることを熱望していた。大法官ラウドンは、陛下にしてこれを許さざれば全英国は背きて陛下を除く覚悟であるとまで極言した。王は8月1日「ノー」と返事をした。 書翰第38 8月10日。王を訪うた議会の委員は3人のスコットランド委員と共に前後策を講ずるために帰ってきた。この中にはスコットランド国の大法官ラウドンといって、この頃活躍した人たちの一人もいた。フェアファクスは秘書役のジョン・ラッシワスとバスに滞在していた。貴兄よ、貴兄がラグラントよりバスに帰りし由、伝聞致すまま、この書翰差し上げる。王に遺したる我らの委員は、今夕ロンドンに帰着なし、小生がその二人と語りて概要を知りたるところによれば、スコットランド人は我らの諸市(まちまち)を明け渡してイングランド以外に出でんとの志向を有しおり。願わくはジョン・ラッシワスを我らに遺し給わんことを。彼の幇助は大いに歓迎する所なり。貴兄よ、なにとぞ小生を棄て給うなかれ。まことに、小生ほど貴兄を愛敬する者は他にあらず。小生は貴兄及びご家族のため毎日祈りおり。貴兄の今日までのご厚情は小生の忘るるあたわざるところなり。以上。ベージングの吉報をここに報告するを得ること、ただただ感謝の外ござなし。我が軍は今 1646年8月10日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルサー・トーマス・フェアファクス将軍殿 書翰第39ラッシハウス君、小生は永らく職を欠きおるリルバーン少佐のために、ご同情を願えり。君、願わくは将軍〔フェアファクス〕に勧めて少佐のため計る所あらしめ給え。適当の位置を得ば、少佐の歓喜大なるべし。彼の正直と勇敢とは将軍も君もよく知るところ、小生の細説を要せずと存ずる。以上。1646年8月26日、下院において オリバー・クロムウェルバスにある将軍の秘書ジョン・ラッシウス様 書翰第40〔略す〕 書翰第41今は兵站総監たるアイヤトン大佐が7月15日、クロムウェルの娘ブリジェットをめとったことは前述のとおりである。アイヤトンは文武兼備の穎才(えいさい)である。オクスフォード大学出身の学士であるが、次第にのぼって今は騎兵大佐となり、また間もなく下院議員ともなる。東部連合以来クロムウェル中将の知己である。親しき娘よ。余は御身の良人(おっと)に書かず、これ一には彼が長文句を以て余の短簡に答えんとて夜をふかさんことを恐れ、また一には今その気になれぬためなり。エライに在る御身の友〔クロムウェルの家族を指す〕は皆健全なり。御身の妹クレイポールは今、心に苦悩を感じつつあり。すなわち己れの罪に泣きつつありて、ために真理の探究をなしおれり。かく探究者たるは発見者たる前段にて、謙遜なる探究者は終には発見者たるべし。幸いなる探究者。幸いなる発見者!誰か己れの罪悪虚妄を感ぜずして、主の恩恵を味わいしものあらんや。また一たび主の恩恵を味わいしものにして、いかで完璧を願うの希欲を断たんや、愛する娘よ、押し進め、良人のためまたは何物のためなりとも、キリストに向かう御身の愛情を冷やすなかれ。いな良人ありてますますキリストを慕うものとなれ。御身の良人の中にあるキリストの姿こそ最も愛すべき価値あるものなり。これを見、これを最も愛し、これを愛の中心とせよ。余は御身ら夫妻のために祈る。余のためにもまた祈り下されたし。以上。1646年10月25日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルコーンベリーの将軍陣営にある我が愛娘ブリヂェット・アイヤトンへ 「御身の妹クレイポール」とあるが、クレイポールはブリジェットより若きこと5歳で、姉妹ともにこの春に婚嫁したのである。「エライに在る御身の友」とあるのは、当時クロムウェル一家はエライにおったので、後間もなく一同ロンドンに移転した。 書翰第42議会とスコットランド人とのこみ入った交渉は大事件であったが、辛うじて終った。かくてスコットランド軍は国に帰り、王は議会の権内に落ちた。12月21日(月曜)にこれがほぼ終り、オリバーはそのために忙しき一日を下院におくった後、フェアファクスにこの手紙を書いたのである。12月19日にロンドン市民は請願書を提出して、軍費の負担の過重及びその他を理由として、速やかに軍隊を解散し、王と和議を結ばんことを願った。これはこの以後に起こる市と軍隊との争い、長老派と独立派との衝突(この問題についての)の第一声であった。市民の騒擾は次第に甚だしくなりつつあった。 貴兄よ、我らは市より長き請願書を得。この請願書の内容によって、目今の人心いかん。また人のたのむに足るか否かは充分に知られ得べし。されど神は天にあり。彼はその聖旨を行い給う。人の計画または憤怒はいかにもあれ、神の意のみは立ちて倒れず、これ我らの慰謝なり。スコットランド人との関係事件はほぼ結了致せり。協約履行のため委員の速やかに遣わさるることと信ず。以上。1646年12月21日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェル議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 (2)書翰第43、第44この頃の形勢を一言にしていえば、兵乱終って内訌ようやく起こるというありさまであった。ロンドン市民及び議会に勢力ある長老派と、軍隊を根拠とせるクロムウェル等の独立派とは、各々保守と進歩=姑息と決断=を代表して相争った。すなわち甲は王政を復活して自由を確保し得べしと信じてこれを行わんとし、乙は自由を獲得せんがためには飽くまで王政を覆えさざるべからずとなした。かくて長老派と独立派の争いは種々の形においてあらわれた。次の手紙はエセックス州に大軍を擁して屯(とむろ)しているフェアファクスに送ったものである。 書翰第43貴兄よ、人心今日のごとく荒(すさ)みおるは、いまだあらざりしところなり。されど悪魔の勢力は少日にして落つ。故に我ら精神の確立不動こそ望まし。キリストの誠直、智慧、忍耐はよく目下の困難に勝ち得べし。神、過去におけるがごとく、大兄の精神を支えんこと、小生の切に祈るところなり。以上。1647年3月11日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェルサフロンオルデルにある議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 書翰第44この頃、軍事委員会からフェアファクスの方へある命令が下ったが、その意味は、下院はフェアファクスが自己の軍にロンドン市の25マイル以外に屯(とむろ)すべき命令を発したことを認(したため)るが、軍勢の中には25マイル以内に入るものもあるようである故、一層厳にこの制限を励行してもらいたいというのである。貴兄よ、別紙命令書に接し、侯が、軍事委員会より同一意味の伝達がこの手紙の到着前、大兄の手に届きしならんと思う。小生もこの25マイルの間隔厳守は然るべきことにして、これに背きしものは不都合なりと存ず。まずは右まで。以上。1647年3月19日、ロンドンにおいて オリバー・クロムウェル議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 議会と軍隊との衝突は既に始まったので、「25マイルの間隔厳守」などいう色々の命令が発せられたが、軍隊の方ではあまり忠実に従いもしなかった。長老派の企画は着々として行われんとし、5月20日にはロンドンにその派の大会が開かれ、ランカ州においても長老派の所為は漸く勢いを得んとしておった。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(19)書翰第30 クラブ党 ネースビーの後、西南地方に王はなお、かなりの軍勢を擁しておったので、民軍は次第に王軍を圧迫しつつ進んだが、ここに一つの障害があらわれた。それはこの地方の人民が王党に扇動されて、王軍及び民軍の劫掠を防ぐという理由の下に、武器を擁して多数で党を造ったことである。これをクラブ党(the Clubmen)と称するのは、クラブは棍棒の意であって、彼らが棍棒を武器として携えた故である。 これを破るのは易いけれども、それは策の得たるものではない、それ故クロムウェル等はよく利害を説いて聞かせ、その誤解を解き、生命財産の安全を誓って、遂にこれを解隊させた。そして第一部隊を逐い散らして300人ほどを捕虜にした。この障害除かれて後、新式議会軍の勢いは破竹のごとくであった。 書翰第30は、彼が8月4日シャフツベリーからシャーボーンのフェアファクス将軍にあてて、クラブ党事件の顛末を報告したものである。〔訳者曰く、これを略す〕 王党は人民を扇動してイングランド全国にクラブ党を起こそうとしたが、今は無効に終ってしまった。議会軍は鋒(ほこ)を北に転じてブリストルに向かった。ここにはラパート親王が全力をあげて防禦工事を施していた。 (20)書翰第31 ブリストルの襲撃 9月21日(安息日)に議会の命に出て、クロムウェルから来たブリストル占領の報告書がロンドンの各教会において読まれ、大能者(神)に対する感謝の声は高く挙がった。 貴君よ、 フェアファクス将軍の命によりここにブリストル占領の報告を呈す。 シャーボーンの事終わりし後、我らは西部に進入すべきか、あるいはブリストルをつくべきかを暫く軍議をこらせしが、種々利害を攻究せし上、ブリストル攻撃と決す。かくてブリストルに達し、激戦奮闘ようやくにして敵塁近く押し寄す・・・・・・然るに敵は市の3か所に火を放ち我らはこれを消すあたわず、大なる困惑を感じ、有名なる市の全部灰燼(かいじん)に帰するなきかと気遣えり。而してこの悲愴の光景を眺めつつ、いかにして進撃すべきかを審議いたしおるところ、敵将ラパート親王は我がフェアファクス将軍まで開城の意を表して協定を求め来る。将軍これに応じ、モンラーグ、レーンズバロー、ピカリソングの3大佐を派して談判の任に当たらしめ、遂に別紙の協定を結べり。その実行のために将軍は人質を交換す。木曜日午後2時頃親王は協定に応じて城を出て、オクスフォードに進む。大砲140門、火薬箱百、小銃2、3千挺-これ我が軍の鹵獲品(りかくひん)なり。市長の語る所によれば、敵は歩兵2,500、騎兵1,000とより成り、外に市の民兵と予備兵1,000(あるいは1,500)とを有しおりし由にて、我が軍は疾病の流行地に来りしなれど、一人としてこれに犯されしものなく、戦闘に死せしものも200を超え申さず。これすべて神の為し給いしところに外ならずとは、この報告を読む人の認むるところなるべく、しか認めざる人は無神論者にこれ有るべし。この役(えき)に働きし我が勇士が諸君に願うところは、すべての讃(ほまれ)を神に帰して己らの称賛せられざらんことなり。神の栄光と国の益とのために使役さるることが彼らの希望なり。信仰と祈祷とがこの市を占領せしなりとは彼らの信ずるところ、また全英国の神に倚(よ)り頼むものの信ずるところなり。我らはただ神の讃(ほ)められんことをのみ願う。すべての称賛は彼に帰すべきものにこそ、長老派も独立派もここに同一の信と祈の精神を持し、ここに相一致し、異なる所なし。もし然らずば禍いなり。信ずる者は真の一致結合を持し、その内的霊的にして相結びてキリストを首とするが故に最も美しきわけなり。キリスト信者は相結合して、良心の許す限りにおいて平和のため、つとむるを得べし。同胞には、精神上の事については光明及び理性以外には何ら強制を加えるを望まず。その他の事については神武力を議会の手中に置けり。これ悪者の恐るるところ、善者の褒(ほ)むるところなり。これを諸君の手より奪わんとするものあらば、その成功せざらんことを望めり。神この力を諸君の手に長く置かんこと、これ小生の祈願なり。以上。 1645年9月24日、ブリストルにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 もし近世の読者にしてこの書中にあらわれたる信念を偽善と思わば、それこそ根本的の間違いである。余は以て近世の読者に忠告す。諸君はここにクロムウェルが真実を語れることを信ぜよ、かつ諸君もまたかかる言を発する人となれと。 (21)書翰第32-第35議会軍は南部に残留している王党勢を討つため、ブリストルより南方に向かった。王軍の残将サー・ラルフ・ホブトンは至る処に頑強の抵抗をなし、七転八起よく努めたが、諸市諸域相ついで陥り、終にコーンオルに窘迫(きんぱく)せられ、翌年降伏して海外に逃れた。サー・ラルフは王軍諸将中随一の人物で、敵味方ともに畏敬した。-彼は再び英国には帰り来たらず清節を持して海外に客死した。次の三の書翰はこの間の消息を示すものである。彼は各処に転戦して多くの城砦を取り、終に王軍を剿滅(しょうめつ)した。 書翰第32 貴下よ、 我らは9月28日の安息日にウィンチェスターに来り、城将と暫く押し合いし後、町に入る。余は敵に勧降致せしも敵応ぜず、因りて戦陣を敷き、一砲撃の後また投降をすすめしもまた拒まる。更に攻撃の準備を整え、月曜の朝を以て猛襲せんと企つ。日曜の夜10時頃城将は降伏を申し来る。因りて条件を協定して降伏を許す。ここにまた新たなる恩恵の加えられたり。神は貴下を扶(たす)くるに倦(う)み申さず。貴下の兵に難事を為す勇気を与え、敵に降伏の心を起さしめること、まことに神の恩寵、貴下に豊かなるを覚えり。かつ敵塁には兵数多く、兵糧弾薬兵器豊かにして、実に堅塁と称すべきものにこれ有り。もし強襲して奪取せんとせば多大の犠牲を払いしことと存ず。然るに僅々12人を失いてこの域を占領し得しこと偏に神の恩恵にこれ有り。神のみが讃称を受くべきにてこれ有り。以上。 1645年10月6日、ウィンチェスターにて オリバー・クロムウェル議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 この時議会軍の兵の中、投降協定に反して奪掠をしたものがある由を、敵の捕虜が告げた。クロムウェルは己れの部下の中、6人を有罪と定め、くじ引きでその中の一人を絞殺し、他の5人を知事の処分に任せるためオクスフォードに送った。オクスフォード知事はクロムウェルの高潔を賞揚して5人の兵を送り還した。 書翰第33 ハムブ州のベージングストークに近く一城址があるが、これはベージング城と称して、かの頃に官軍の堅城として長らく議会軍の妨害をしたものである。ニューベリーのデニントン城と共にガンとして降らず、殊にベージング城は4年間堅守して幾回か攻められても陥らぬ。民党の方では何でもかんでもこの城を取らねばならぬと息巻いた。クロムウェルはありたけの砲兵を集めて猛烈に砲撃し、遂に城壁を破りて一大強襲を企てた。 貴君よ、 ベージングの吉報をここに報告するを得ること、ただただ感謝の外ござなし。我が軍は今朝6時4発の砲声を合図として大突進を行い、兵士は勇猛快活に進撃し、我らは多大の損失を受くることなくして、終に城を奪取したり。 我が損害は数うるに足らず、敵の多数は我が剣下に倒れ、他はたいてい捕虜となる。中にウィンチェスター侯、サー・ロバート・ピークその他士官多く、分捕り品は大砲10門、弾薬夥多(かた)にこれ有り。士気倍旧の勢いなり。小生は猶予せず、明日西方に進み、精励以て遠征のことに当るべく、この際新兵の募集及び軍費の送致を要す。ハモンド大佐を送る。大佐は過って敵に捕らえられしが、神の恩恵により再び我らに加わるを得。これらの事ただ感謝の外これ無く、神は我らに充ち溢るる愛を注ぎ、終には正義が克(か)ちて平和の世と相成るべく、我が哀れなる国にも幸福増進の恩恵これ有るべし。小生また忠良以て国と諸君とに尽すべし。以上。 1645年10月14日、ベージングストークにて オリバー・クロムウェル下院議長レンサル殿 この手紙は翌日各教会にて披露され、感謝の祈祷は捧げられた。 書翰第34〔訳者曰く、これも右の西方征討中の書翰で小事件の報告である故略す〕 書翰第35 貴君よ、ラングフォード城進撃は昨夜行われ、而して今日到着、直に降伏を勧め、注文に応じて中佐ヒューソン及び少佐ケルシーを遣わし、別紙の如き投降協定を結べり。フェアファクス将軍はコラムトンまで進みおる由にて、歩兵を将軍に増援すること願わしき至りなり。以上。 1645年10月17日(夜12時)、サリスペリーにおいて オリバー・クロムウェル下院議長ウィルアム・レンサル殿 ベージリングは灰燼となり、ラングフォードも陥り、今はデニントン城の攻撃を開始すべきか否かという場合になった。 デニントンは翌年の春(1646年4月1日)副将ダルピヤ大佐に降った。この大佐は兵学においてはクロムウェルの先生で、鉄騎兵の訓練についてはクロムウェルを輔(たす)けて力あった人である。クロムウェルはこれよりさき、フェアファクスに合し、この冬中、戦乱の平定するまで彼を輔(たす)けた。 この頃、王は残兵を以て何か一仕事しようと企てたが、たちまち失敗してオクスフォードに戻った。 前述の通り、ホブトンは3月14日コーンオルにて民軍に降ったが、敵の驍将サー・ジェーコブ・アストレーもまた敗れて最後に投降した。 4月27日(1646年)に王は姿を変えてオクスフォードを逃れ、遂にスコットランド軍に入った。この2、3日前クロムウェルは凱旋して議員の職に復した。なお残留せるかなたこなたの城の攻略、または投降の記事は一々載せきれぬ。ただ次の事だけ記そう。 王軍の根拠地にて最も堅実なりし彼オクスフォードも5月1日にはフェアファクスに囲まれた。しかし大勢既に定まった今日である故、戦闘は少なく、投降協定に手間取ったが、7月20日遂に最後の調印終り、ラパート、モーリス両親王は城を棄てて海岸指して走り、また数千の官兵も皆通行券を与えられて城は悉く降った。ラグラント城の頑強なる侯爵も8月下旬には城を明け渡し、ここに第一内乱は全く平定して、残火を止めざるを至った。 オクスフォード陥落の少し前、フェアファクスの兵站総監アイヤトン将軍はクロムウェルの娘ブリジェットと結婚した。 王党議員を失った議会はその補欠をすることとなり、選ばれた新議員は230人で皆清教徒であり、かつその多くは独立派(インデペンデント)であった。その中にはブレーク大佐(後にアドミラル)がいた。フェアファクスも2年後には議会に入った。クロムウェル伝の上巻 終り
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(19)書翰第30 クラブ党 ネースビーの後、西南地方に王はなお、かなりの軍勢を擁しておったので、民軍は次第に王軍を圧迫しつつ進んだが、ここに一つの障害があらわれた。それはこの地方の人民が王党に扇動されて、王軍及び民軍の劫掠を防ぐという理由の下に、武器を擁して多数で党を造ったことである。これをクラブ党(the Clubmen)と称するのは、クラブは棍棒の意であって、彼らが棍棒を武器として携えた故である。 これを破るのは易いけれども、それは策の得たるものではない、それ故クロムウェル等はよく利害を説いて聞かせ、その誤解を解き、生命財産の安全を誓って、遂にこれを解隊させた。そして第一部隊を逐い散らして300人ほどを捕虜にした。この障害除かれて後、新式議会軍の勢いは破竹のごとくであった。 書翰第30は、彼が8月4日シャフツベリーからシャーボーンのフェアファクス将軍にあてて、クラブ党事件の顛末を報告したものである。〔訳者曰く、これを略す〕 王党は人民を扇動してイングランド全国にクラブ党を起こそうとしたが、今は無効に終ってしまった。議会軍は鋒(ほこ)を北に転じてブリストルに向かった。ここにはラパート親王が全力をあげて防禦工事を施していた。 (20)書翰第31 ブリストルの襲撃 9月21日(安息日)に議会の命に出て、クロムウェルから来たブリストル占領の報告書がロンドンの各教会において読まれ、大能者(神)に対する感謝の声は高く挙がった。 貴君よ、 フェアファクス将軍の命によりここにブリストル占領の報告を呈す。 シャーボーンの事終わりし後、我らは西部に進入すべきか、あるいはブリストルをつくべきかを暫く軍議をこらせしが、種々利害を攻究せし上、ブリストル攻撃と決す。かくてブリストルに達し、激戦奮闘ようやくにして敵塁近く押し寄す・・・・・・然るに敵は市の3か所に火を放ち我らはこれを消すあたわず、大なる困惑を感じ、有名なる市の全部灰燼(かいじん)に帰するなきかと気遣えり。而してこの悲愴の光景を眺めつつ、いかにして進撃すべきかを審議いたしおるところ、敵将ラパート親王は我がフェアファクス将軍まで開城の意を表して協定を求め来る。将軍これに応じ、モンラーグ、レーンズバロー、ピカリソングの3大佐を派して談判の任に当たらしめ、遂に別紙の協定を結べり。その実行のために将軍は人質を交換す。木曜日午後2時頃親王は協定に応じて城を出て、オクスフォードに進む。大砲140門、火薬箱百、小銃2、3千挺-これ我が軍の鹵獲品(りかくひん)なり。市長の語る所によれば、敵は歩兵2,500、騎兵1,000とより成り、外に市の民兵と予備兵1,000(あるいは1,500)とを有しおりし由にて、我が軍は疾病の流行地に来りしなれど、一人としてこれに犯されしものなく、戦闘に死せしものも200を超え申さず。これすべて神の為し給いしところに外ならずとは、この報告を読む人の認むるところなるべく、しか認めざる人は無神論者にこれ有るべし。この役(えき)に働きし我が勇士が諸君に願うところは、すべての讃(ほまれ)を神に帰して己らの称賛せられざらんことなり。神の栄光と国の益とのために使役さるることが彼らの希望なり。信仰と祈祷とがこの市を占領せしなりとは彼らの信ずるところ、また全英国の神に倚(よ)り頼むものの信ずるところなり。我らはただ神の讃(ほ)められんことをのみ願う。すべての称賛は彼に帰すべきものにこそ、長老派も独立派もここに同一の信と祈の精神を持し、ここに相一致し、異なる所なし。もし然らずば禍いなり。信ずる者は真の一致結合を持し、その内的霊的にして相結びてキリストを首とするが故に最も美しきわけなり。キリスト信者は相結合して、良心の許す限りにおいて平和のため、つとむるを得べし。同胞には、精神上の事については光明及び理性以外には何ら強制を加えるを望まず。その他の事については神武力を議会の手中に置けり。これ悪者の恐るるところ、善者の褒(ほ)むるところなり。これを諸君の手より奪わんとするものあらば、その成功せざらんことを望めり。神この力を諸君の手に長く置かんこと、これ小生の祈願なり。以上。 1645年9月24日、ブリストルにて オリバー・クロムウェル下院議長ウィリアム・レンサル殿 もし近世の読者にしてこの書中にあらわれたる信念を偽善と思わば、それこそ根本的の間違いである。余は以て近世の読者に忠告す。諸君はここにクロムウェルが真実を語れることを信ぜよ、かつ諸君もまたかかる言を発する人となれと。 (21)書翰第32-第35議会軍は南部に残留している王党勢を討つため、ブリストルより南方に向かった。王軍の残将サー・ラルフ・ホブトンは至る処に頑強の抵抗をなし、七転八起よく努めたが、諸市諸域相ついで陥り、終にコーンオルに窘迫(きんぱく)せられ、翌年降伏して海外に逃れた。サー・ラルフは王軍諸将中随一の人物で、敵味方ともに畏敬した。-彼は再び英国には帰り来たらず清節を持して海外に客死した。次の三の書翰はこの間の消息を示すものである。彼は各処に転戦して多くの城砦を取り、終に王軍を剿滅(しょうめつ)した。 書翰第32 貴下よ、 我らは9月28日の安息日にウィンチェスターに来り、城将と暫く押し合いし後、町に入る。余は敵に勧降致せしも敵応ぜず、因りて戦陣を敷き、一砲撃の後また投降をすすめしもまた拒まる。更に攻撃の準備を整え、月曜の朝を以て猛襲せんと企つ。日曜の夜10時頃城将は降伏を申し来る。因りて条件を協定して降伏を許す。ここにまた新たなる恩恵の加えられたり。神は貴下を扶(たす)くるに倦(う)み申さず。貴下の兵に難事を為す勇気を与え、敵に降伏の心を起さしめること、まことに神の恩寵、貴下に豊かなるを覚えり。かつ敵塁には兵数多く、兵糧弾薬兵器豊かにして、実に堅塁と称すべきものにこれ有り。もし強襲して奪取せんとせば多大の犠牲を払いしことと存ず。然るに僅々12人を失いてこの域を占領し得しこと偏に神の恩恵にこれ有り。神のみが讃称を受くべきにてこれ有り。以上。 1645年10月6日、ウィンチェスターにて オリバー・クロムウェル議会軍総督サー・トーマス・フェアファクス殿 この時議会軍の兵の中、投降協定に反して奪掠をしたものがある由を、敵の捕虜が告げた。クロムウェルは己れの部下の中、6人を有罪と定め、くじ引きでその中の一人を絞殺し、他の5人を知事の処分に任せるためオクスフォードに送った。オクスフォード知事はクロムウェルの高潔を賞揚して5人の兵を送り還した。 書翰第33 ハムブ州のベージングストークに近く一城址があるが、これはベージング城と称して、かの頃に官軍の堅城として長らく議会軍の妨害をしたものである。ニューベリーのデニントン城と共にガンとして降らず、殊にベージング城は4年間堅守して幾回か攻められても陥らぬ。民党の方では何でもかんでもこの城を取らねばならぬと息巻いた。クロムウェルはありたけの砲兵を集めて猛烈に砲撃し、遂に城壁を破りて一大強襲を企てた。 貴君よ、 ベージングの吉報をここに報告するを得ること、ただただ感謝の外ござなし。我が軍は今朝6時4発の砲声を合図として大突進を行い、兵士は勇猛快活に進撃し、我らは多大の損失を受くることなくして、終に城を奪取したり。 我が損害は数うるに足らず、敵の多数は我が剣下に倒れ、他はたいてい捕虜となる。中にウィンチェスター侯、サー・ロバート・ピークその他士官多く、分捕り品は大砲10門、弾薬夥多(かた)にこれ有り。士気倍旧の勢いなり。小生は猶予せず、明日西方に進み、精励以て遠征のことに当るべく、この際新兵の募集及び軍費の送致を要す。ハモンド大佐を送る。大佐は過って敵に捕らえられしが、神の恩恵により再び我らに加わるを得。これらの事ただ感謝の外これ無く、神は我らに充ち溢るる愛を注ぎ、終には正義が克(か)ちて平和の世と相成るべく、我が哀れなる国にも幸福増進の恩恵これ有るべし。小生また忠良以て国と諸君とに尽すべし。以上。 1645年10月14日、ベージングストークにて オリバー・クロムウェル下院議長レンサル殿 この手紙は翌日各教会にて披露され、感謝の祈祷は捧げられた。 書翰第34〔訳者曰く、これも右の西方征討中の書翰で小事件の報告である故略す〕 書翰第35 貴君よ、ラングフォード城進撃は昨夜行われ、而して今日到着、直に降伏を勧め、注文に応じて中佐ヒューソン及び少佐ケルシーを遣わし、別紙の如き投降協定を結べり。フェアファクス将軍はコラムトンまで進みおる由にて、歩兵を将軍に増援すること願わしき至りなり。以上。 1645年10月17日(夜12時)、サリスペリーにおいて オリバー・クロムウェル下院議長ウィルアム・レンサル殿 ベージリングは灰燼となり、ラングフォードも陥り、今はデニントン城の攻撃を開始すべきか否かという場合になった。 デニントンは翌年の春(1646年4月1日)副将ダルピヤ大佐に降った。この大佐は兵学においてはクロムウェルの先生で、鉄騎兵の訓練についてはクロムウェルを輔(たす)けて力あった人である。クロムウェルはこれよりさき、フェアファクスに合し、この冬中、戦乱の平定するまで彼を輔(たす)けた。 この頃、王は残兵を以て何か一仕事しようと企てたが、たちまち失敗してオクスフォードに戻った。 前述の通り、ホブトンは3月14日コーンオルにて民軍に降ったが、敵の驍将サー・ジェーコブ・アストレーもまた敗れて最後に投降した。 4月27日(1646年)に王は姿を変えてオクスフォードを逃れ、遂にスコットランド軍に入った。この2、3日前クロムウェルは凱旋して議員の職に復した。なお残留せるかなたこなたの城の攻略、または投降の記事は一々載せきれぬ。ただ次の事だけ記そう。 王軍の根拠地にて最も堅実なりし彼オクスフォードも5月1日にはフェアファクスに囲まれた。しかし大勢既に定まった今日である故、戦闘は少なく、投降協定に手間取ったが、7月20日遂に最後の調印終り、ラパート、モーリス両親王は城を棄てて海岸指して走り、また数千の官兵も皆通行券を与えられて城は悉く降った。ラグラント城の頑強なる侯爵も8月下旬には城を明け渡し、ここに第一内乱は全く平定して、残火を止めざるを至った。 オクスフォード陥落の少し前、フェアファクスの兵站総監アイヤトン将軍はクロムウェルの娘ブリジェットと結婚した。 王党議員を失った議会はその補欠をすることとなり、選ばれた新議員は230人で皆清教徒であり、かつその多くは独立派(インデペンデント)であった。その中にはブレーク大佐(後にアドミラル)がいた。フェアファクスも2年後には議会に入った。クロムウェル伝の上巻 終り
2026.05.03
「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録- 若槻礼次郎」講談社学術文庫155-41ページ 脱税を防ぐ その頃日糖(大日本製糖会社)疑獄事件が起こり、これがため私の友人で社長の酒匂常明が自殺し、政界に大きな波乱をまき起こした。大日本製糖会社というのは、日本で砂糖を精製するために一番初めに作られた大会社で、なかなか盛んにやっておった。社長の鈴木藤三郎は、そういう事業には極めて堪能な人であった。しかしその会社は、巧みに砂糖税を脱税しているという評判があったので、税務管理はしきりに目を光らしているけれども、なかなか見つからない。多分夜中にやるだろうというので、深川の先にあった会社の工場の周囲を、夜通し税務官吏が張り番した。それがどうもあんまりひどいというので、三井銀行の早川千吉郎君は、元大蔵省の役人でよく知っているので、それがやってきて、あれでは事業会社がまるで監獄のようであり、税務官吏に取り囲まれているというのは、なんとしてもみっともよくない。会社の方もよく注意させるから、監獄扱いだけは止めてほしいという。そしてあの会社には、渋沢翁(栄一)が深い関係があるから、渋沢から口をきいてもらって、脱税などさせないようにするという話であった。それでこちらもいろいろと研究して、歩留まり検査ということを始めた。それは要するに、原料糖を百斤使えば、これから精製された砂糖が何斤かは必ず出る。これが欠けたら脱税したに脱税したに相違ない。ここまで出せば脱税せんで真面目にやったものだという、歩留まりの率を97パーセントか98パーセントか、その割合で認めることにした。そうすれば原料は外国から、輸入したもので、これはすぐ調べがつく、あとは一々砂糖を検査しなくても、その90何パーセントが精糖ということで、簡単に税金が取れる。従って会社も監獄扱いをされないで、脱税問題は収まった。 これと前後して、どういう事情か知らんが、鈴木が社長を辞めた。渋沢翁の意見で後任は政府の信用のある人がいいということで、大蔵省へ行ってきた。私はそれには関係しなかったが、阪谷(芳郎)さんは渋沢の婿なので、いろいろ物色して、農商務省の農務局長をしていた酒匂を推薦したらしい。酒匂は永いこと農務局長をしており、北海道出の農学士で砂糖のことも詳しい。それに極めて真面目な人で、かつて西園寺公の満州旅行の際、私は彼といっしょの部屋に泊り、いっしょに酒を飲み、いっしょに冗談をいったりして、よく知ってる仲なので、私はいい社長が出来たことを喜んだ。鈴木藤三郎が日本精製糖会社を辞めた次第については、藤三郎伝にもあるが、その次第は十分解明されていない。藤三郎自身もわが子を育てるように成長させた会社を辞任した次第も説明しておらず、また結局追い出した張本人といわれる磯村・秋山といった関係者もこれといった記録がない。「磯村音助翁伝」では、「鈴木氏は斯業の先覚者であり、また実際家としても一つの特長をそなえているけれども、事業家として所信と操守に乏しい故か、とにかく財閥派の指頭に弄(ろう)せられる嫌いがあった。ここにおいて音助翁は、一国の産業を一財閥の私利の具となすを欲せず、また密かに糖業国策の私案を抱いていたので、公明正大の見地に立って同志を求め、正々堂々と5か条の案を主張したのである」(71~72頁)と磯村氏の活動を正当化している。更に編者は註で「鈴木専務の時期尚早論は、日本精製糖の経営を主体として起算せる定見でもなく、また本邦糖業政策に論拠を置く考慮ではなかったと思われる。・・・鈴木氏は事業の根底に所信を欠き、徒に金権に魅惑追従してその奸策に弄せられ、出所進退を誤まったのである。・・・鈴木氏は、創立以来台湾製糖の社長たりしも永続きせず間もなく社外に逐われてしまった。勿論糖界に再起するあたわず、後に醤油会社を起し、・・・これも大失敗して気の毒にも窮巷して終った」とまで酷評している。磯村音助氏を擁護するあまりというべきか。 磯村氏は日本精製糖会社に揖取素彦の推薦で支配人心得として明治30年3月に入社した。福川泉吾氏は岳父(泉吾の次女・於夏を後添えとした)にあたる。藤三郎と同列の経営陣が辞任した後、磯村氏が専務取締役、常務取締役に秋山一裕、取締役に伊藤茂七、馬越恭平らが名前を連ねるなかで、監査役として福川忠平氏(泉吾氏の子息)が名前を連ねているのは磯村氏と親戚にあたることも影響しているのもしれない。社長には農商務省農務局長酒匂常明氏を迎え、明治39年11月、大阪の日本製糖株式会社と合併し、大日本製糖株式会社となった。その後、磯村氏は砂糖関税改正や製糖官営を目論んで大買収を行い、日糖事件をひき起こし、社長の酒匂常明氏はピストル自殺し、磯村専務、秋山常務は入獄することになります。大日本製糖会社は、その後藤山雷太氏が社長に就任し、負債等を整理して隆盛へと向かう。磯村氏は出獄後、東洋曹達、保土ヶ谷曹達の設立に参画し、保土ヶ谷曹達社長を勤めた。鈴木藤三郎氏が日本精製糖会社の退社が余儀無くなった次第、及びおそらくはその折、行動をともにした森町出身者はどうなったのであろうか。 前にいった歩留まり検査について後日談があるから、ここで一言しておこう。その後砂糖会社がいろいろ出来た。明治製糖会社もその一つである。そしてどの会社に対しても、大蔵省はこの歩留まりで税を取っていた。ところが今から十年ばかり前と思うが、明治製糖はこの90何パーセントかの歩留まり以上に砂糖を作り、それは明らかに脱税だということで、だれかが告発した。それを検事局が取りあげて、会社の重役を牢に入れた結局起訴されたかどうか覚えておらんが、長い間拘留された。私の方からいえば、大蔵省が行政上の便法として、歩留まりでいいとし、それが数十年も慣行されていたものを、突然脱税だといって、逮捕するなどということは、ずいぶん無理な話だと思った。 疑獄のあと始末 酒匂が日糖の社長になって間もなく、私は財政委員になってヨーロッパへ行った。その後会社はますます盛んで、大阪や門司の会社を買収合併して、全国の砂糖会社を一つにしてしまった。こうなると欲が出るものとみえて、これを官営にし、政府に買い上げてもらえば、大いに儲かるというので、重役たちは多数の議員に金を贈り、砂糖官営案を議会に出させる運動をした。一年あまりで私がロンドンから帰った。そのころ贈賄が暴露して、大疑獄事件となり、日糖の重役たちは検挙せられ、関係した議員も続々拘引された。もちろんこのことは酒匂の発意でないことは、今なお私は信じているが、正直な彼は責任を負って自決してしまった。 大風一過、さすがの大日本製糖も、こうなると会社の信用も墜(お)ち、経理の内情が暴露し、危険信号を出すようになった。合併した会社の買収金も、全部支払われていない。三井銀行や三菱銀行から大分金を借りているのが、期限が迫っている。どこの銀行も、会社が怪しいとなると、金を引き揚げようとする。これは商売の常道である。いよいよ会社は風前の灯火となった。 鈴木藤三郎伝 精製糖事業が有利だと見ると、明治30年(1897年)には大阪に、松本重太郎などが日本精製糖株式会社を起し、明治36年(1903年)には九州大里に、神戸の鈴木商店が大里製糖所を建てて、激しい競争を始めて互いに苦しんでいた。 日本精製糖会社でも、まだ若くて血気にはやった支配人の磯村音介、参事の秋山一裕などは、藤三郎が台湾製糖会社の経営に続いて、日露戦役の非常時局の必要から醤油エキスや醤油促成醸造や製塩法の発明に没頭しているすきに、大阪の伊藤茂七などと気脈を通じて、東京、大阪両製糖会社と大里製糖所を合同して、一挙に独占的地位を獲得しようという急進主義を高唱した。そして、株主中の同志を糾合した有志団体を組織して、次の5か条の実行条件を掲げて、社長の藤三郎に迫った。一、内に競争を止め、外に進行せんが為、内地、台湾における既設製糖会社と一大合同を計画する事二、精製糖原料供給の為、台南に一大工場を新設する事三、清国における販路拡張の為、同国適当の地に一大工場を新設する事四、以上の計画を実行せんが為、必要に応じ現在未払込金100万円を払い込ましむる事五、なお必要に応じ更に資本金を増加して800万円ないし1,000万円とする事この実行条件で迫られたときは、もう有志団体の株数が藤三郎らの勢力を凌いでいたから、藤三郎は明治39年(1906年)7月10日に臨時総会を招集して、右の条件の実行は時機が早すぎるという理由で、後事を有志団体に託して、自分から辞任を申し出て、同列の重役とともに退場してしまった。これで藤三郎は会社組織に変更してからでも10年余り、郷里時代から数えれば30年間も育ててきた、わが子にも等しい日本精製糖会社と、全く絶縁してしまった。そして、終生戻らなかった。同じ重役達の間でも、藤三郎の態度が、あまりにアッサリしているのを、不思議がる者さえあった。しかし、藤三郎の心のうちには、こうした野心家達と事業をともにすることは、とうてい不可能であると見切りをつけたからであることはもちろんであるが、その反面には、前年、台湾製糖会社の社長を辞したと同じような理由がある。それはもはやだれにでも経営できるこの事業は希望者に任せて、自分は製塩法や醤油醸造法の改革に専心して、発明の才能を与え給うた天意に随順したいという使命感に、強く促されていたからであった。だが、この会社乗取りの陰謀をたくらんだ張本人の磯村も秋山も、数年前に藤三郎が入社させた人人であった。いわば、飼犬に手を噛まれた訳である。これも、藤三郎が前に述べたような理由で、とかく日本精製糖会社のほうが留守がちになっていた所に、会社創立以来の社長であった長尾三十郎が、3年余り前に辞職していた上に、また、創立以来の常務取締役として、藤三郎がもっとも信頼していた吉川長三郎が、心臓病で、この1年余り前から病床の人となっていた。これらのことが重なって、磯村などの乗ずる十分な機会を作ったのであった。日本精製糖会社の有志団体が新たに選出した取締役会では、磯村は専務、秋山は常務に任じて中堅となり、別に渋沢栄一を相談役に推戴し、間もなく当時、農商務省の農務局長であった農学博士酒匂常明(さこうじょうめい)を社長に擁立した。そして、その年の11月に大阪の日本製糖株式会社と合併すると同時に、資本金を一躍1,200万円に増額して、大日本製糖株式会社と改称した。同社は、その後、わずか1年半ほどのうちに、600万円で大里製糖所を買収したり、砂糖関税改正や製糖官営をもくろんで、代議士20数名の大買収を行ったり、無謀な積極政策に猪突したのであった。その結果、当時、政界未曽有といわれた大疑獄である日糖事件を惹起し、4百数十万円の欠損を暴露して、社長酒匂常明は悲惨なピストル自殺を遂げ、専務磯村、常務秋山なども4か年の刑期で入獄した。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (13)3回の演説 自己否定律次の6か月間は、上下両院その他で時々大討論があって、新気運発展の準備時代、計画時代であったが、その結果、有名な「自己否定律」や「新式軍隊」の出現となって、これが議会の仕事に一新期を画した。次の3個の演説の断片はこの頃の模様を伝える。 これよりさき、エセックスとオーラーは、ロンドン人の激励によりて、第3回目、もしくは第4回目の出師をして、西部征服にいったけれども敗軍に終ってしまった。この2将軍は意見が合わないで、エセックスは左に折れ、オーラーは右に別れたが、はかばかしい戦勝もなかった。エセックスの軍は王軍の追うところとなり、オーラーはロンドンの方へさまよい帰って、士卒、日に離散し去った。エセックスはコーンオールまで圧迫されて、しばしば小競合(こぜりあい)にやぶれ、終に自分は舟でプリマスに逃れた。残された軍隊のうち、騎兵は血路を開いて帰り、歩兵は武器を棄てて王軍に降るという有様、これは1644年9月1日のことで、マーストン沼野の戦いの2か月後である。 然るに議会はエセックスとオーラーに兵を補い、これにマンチェスター(クロムウェルその副将なり)を加えて、3軍隊を連合せしめた。そして王はオクスフォードに凱旋せんとして、ニューベリーにおいて、この議会軍に支えられ、4時間の混戦の後、負けたけれども、うまく逃げ帰った。マンチェスターはクロムウェルに励まされたけれども、これを追撃しなかった。その他彼はクロムウェルの言を用いず、常に退譲的態度に出でた。 それ故、二人の間には葛藤が起こった。そしてマンチェスターの率いる長老派とクロムウェルに従う独立派とは相反目した。クロムウェル等積極派は、エセックス、マンチェスター等貴族党の自己の生命財産を惜しんで、勇気乏しく、到底民党の主義を貫くものでないことを悟った。かくて6か月の紛糾起こる。 第一の演説 1644年11月25日、月曜日、下院において中将クロムウェル、マンチェスター伯を攻撃せし演説の要旨。伯は戦いを好まず、剣に訴えて飽くまで目的を達するの意なく、当に姑息(こそく)の平和を願っています。このことは事実上に現れていて疑うことはできません。ヨーク占領以来、味方の利となるべき事をことごとく拒み、大切の機会を絶えず失いました。-ことにデニントン城において。伯は敵に利益を与えるような位置に味方を導き入れました。すなわちこれは、参謀会議に背き、両王国委員会の命令に反し、自分勝手にしたことであります。 この猛撃に対して、マンチェスター伯は1週間の後、激しき反駁をした。そのなかにはクロムウェルの人物を攻撃する一節もある。 第二の演説 12月9日(水曜日)、下院において大委員会あり、エセックスやマンチェスターを穏やかに罷免する方法を研究せんとするわけで、第一に沈黙を破ったクロムウェルの演説の要旨。目下の重大なる問題は、戦争の長びきしために流血瀕死の境にある国民を救うことであります。我らがますます猛烈有効に戦闘を進めぬ時は、国民は我らに倦(あ)き、議会を嫌うに至ります。今や我らの敵は申します。初め味方なりし人々も申します。「両院の議員は地位威権兵力を有する故、戦争の早く終ってこれを失うことを恐れて、戦いを長引かせているのである」と。私は議員にして指揮官たる人々の価値を認めるものでありますが、個々の人のことは別として、大体から私の意見を正直に申しますと、もし軍隊の組織を改め、さかんに戦いを進めぬ時は、人民は戦いに飽いて、終には不名誉の和睦をすることになるだろうと思います。私はここに総指揮官諸氏の過失を言おうとするものではありません。私自身が過失に充ちたものであります。ただ最も必要なのは、改革を計ることであります。我が両院議員の母国のために忠良熱誠なる、公のために私欲を制し、この重大事に関しての議会の決議を自己に取っての不名誉と思うことなきを信じます。 第三の演説 右と同日、討論の末尾に中将クロムウェルの演説せし要旨。議長閣下、私の兵卒は私のために戦わず、諸君のために戦うものであります。すなわち主義のために生死するものであります。もし他の人々もこの心を持ったならば、事の成功は易々たるもので、少しも怖るる所ありません。この日、ザウチテート氏「自己否定律」を出し、2,3日を経て下院を通過し、後、辛うじて上院を通過した。この法案中の最重要な条文の一は、宗教信者がまず最初に誓約に加わらないでも、軍隊に入ることができるというのである。〔訳者曰く、代議士の職にある者は軍隊に入るあたわずというのもこの律の一か条であって、つまりエセックス等を排するためである〕新式軍隊案も定まった。エセックスは年金を受けることになって退職し、マンチェスターは両王国委員会に去り、新軍ここに現れて新気運の発展となった。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) (11)書翰第21 マーストン沼野 1644年6月下旬ラパート親王、剽悍なる二万の兵を率いてランカ州より来ってニューカスル侯を救わんとす。ニューカスルは議会党連合軍の包囲中にヨークに在ったこと前節の終りに述べた通りである。議会軍の諸将はマーストン沼野に退いてラパートを遊撃せんとした、ラパートはニューカスルを救い、共に議会党すなわち円顱党に向かった。7月2日両軍マーストン沼野に会し、午後7時より激戦3時間の後、王党軍の敗となった。 この戦いは惨憺(さんたん)腥羶(せいせん)を極め、屍(しかばね)積みて山をなし鮮血流れて海となり、その天地を動かし山岳を奮うの状、この革命戦中の第一と称せられた、死屍の戦場に横たわりしもの、実に4,150。 午後5時、両軍一濠を隔てて相対し、緩慢なる砲火の交換をなすこと1時間半、決戦は明日に延びるかと思われた。然るにたまたま流弾飛来してクロムウェルの甥をたおすや、彼の憤激は絶頂に達し、遂に大決戦は開かれた。今日まで戦って勝たざることのなかったラパート親王も初めてクロムウェル鉄騎の味をなめた。 貴君よ、幸福にも患難にもわれらはすべての場合に神に感謝すべき者と存ず。まことに今回の勝利は開戦以来第一等のものにして、神が英国及び神の教会に下し給える大なる恩恵なり。これ実に神助による完全なる勝利なり。小生の指揮せし左翼は我らの騎兵にして、ラパート親王の騎兵を破り、また歩兵を破り、親王は2万の兵中4千を残すのみと相成れり。ああ栄光あれ、大能の神に。 神は貴兄の長子を召せり。砲弾に脚(あし)を破られ、やむを得ず切断せしところ、遂にこの世を去れり。 兄よ、小生もまた同一の試練に逢えり(原注、クロムウェルの子息は既に戦場の露となったと思われる)。然れども主は我ら生涯の希願なる来世の幸福に我が子を導き給いて小生を支え給う。ご子息もまた栄光に包まれて現世の労苦を免れり。ああ勇敢にして優雅なりし青年!主、願わくは兄に慰謝を与えんことを。ご子息は軍中にあって知人よりはいたく愛されしも、知る人は少なし。そは天の生活に適する貴い青年なりし故なり。ご子息今や天にあり。兄よ涙を拭き給え。小生は偽の語を連ぬるにあらず。これは疑いなき事実なり。兄はキリストの力により万事を為すを得。願わくは艱難にかち、主の我が国に賜いし大恩を思うて私の悲哀を忘れんことを。主、兄の力たらんことを。これ小生の希願なり。以上。 皆々様によろしく。1644年7月5日、ヨーク包囲軍にて オリバー・クロムウェル愛弟ヴァレンチン・オルトン大佐殿 ヴァレンチン・オルトンは当時知名の士で、ハンチンドン州の委員であり、革命戦の開始以来大佐であった。クロムウェル家との間に長らく親交があり、クロムウェルの妹がこのオルトンに嫁したので、これが戦死した青年の母である。 オルトン大佐はこのごろ主に議会に出ていたようである。 ヨークは数日にしておちいり、ラパート親王はランカ州に逃れ、更に南してシロップ州に入り、兵を募らんとした。ニューカスル侯は海を超えて退いた。スコットランド兵は北行して堅塁ニューカスル城を囲み、10月に陥れた。 (12)書翰第22、第23 クロムウェル中将は軍と共に今、東部連合に帰った。書翰第22及び第23は共にリンカン州より発したものである。 書翰第22〔略す〕書翰第23 クロムウェル中将は東部連合の騎兵を擁しておって、もし歩兵の隊がまとまれば、直ちに中将エセックスを救うために西方に向かったであろう。オルトンはできるだけ急ぐがよかろうと申し来ったらしい。クロムウェルはグズグズしていておるのは嫌いであるが、何分東部連合内に相変わらずの紛糾があって兵を動かすことができぬ。 貴君よ、小生は西部にある議会軍の窮状を憂えおることは人後に落ちざる積りにて、もし羽あらば飛んで参りたく存じおり。もし主、許し給い、歩兵また整わば直ちに出発いたすべし。実にこの儀は最も重要のことにして、他の件々は暫く投げ棄つべきことと存ず。国民は、我らが窮乏中にも内訌なくして国に尽さんよう留意して貰いたし。我らは目下の甚だしき窮厄を忘れ、我らの上に加えらるる誹謗讒謗(ひぼうざんぼう)を一切神に任せ奉らん心なり。神はやがて、我らが神の栄光を学び、議会の自由を尊重する者なることを、世に知らしむべし。この栄光と自由とのために我らは私利を棄てて一様に働くものなり。 我らの兵は為すべき仕事ある時に最も快活なり。主は我らの力にして、我らの希望は悉く彼の中にあり。我らのために祈れ。諸友によろしく御鶴声くだされたく、小生は彼らの祈りを切願致せり。主、貴兄を恵まんことを。 我らの中に怠慢者あり。我ら全部が自己を愛惜すること、も少し小なれば、万事は軽車の峻坂を走るが如く進むべし。我らの中ある者〔訳者注:自己の手兵を指す〕は奪掠等の悪事を憎むがため、「偽善」または「暴力を以て宗見を維持す」等の嫌うべき批評を加え、かく小生は紛糾の中におりて、ご無沙汰に打ち過ぎ申せり。困厄の間に在りて、友人に心の底を打ち明くるは、少しく安慰を得る所以なり。以上。1644年9月6日、スリーフォードにて オリバー・クロムウェルロンドンにあるヴァレンチン・オルトン大佐殿
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(9)ウィンズビーの戦いハルは敵の包囲中にあるが、マンチェスター伯の歩兵はボストン地方にクロムウェル、フェアファクスと合し、ここにウィンズビーの戦いが開かれた。この戦いは王党をリンカン州外に駆逐したもので、時局に重大な影響を与えた。ここにヴィカーズという人の書いた奮戦記を引用しよう。ウィンズビーはホーンキャスルの付近、高原の一小邑である。次に記すヴィカーズの物語はおおげさな書きぶりで、あまり感心せぬが、とにかく載せよう。「夜中(1643年10月10日火曜日)我らはある場所に馬を集めた。翌朝マンチェスター伯は、歩騎とともに全軍ボリンブローグ丘に集るべき命令を発した。ここに敵をむかえ討とうとするのである。しかし大佐クロムウェルは3日間の行軍につかれ果てたる兵をもって開戦することを好まなかった。この朝敵騎もまた一所に集合した。その数は我に倍す。敵の標語はかつて民軍にたおされたキャヴェンディッシ〔訳者注、復讐をなすつもりなり〕我の標語は宗教、敵も味方も互いの近接を知らず、12時頃我らは進軍し、一マイルにして敵を認めた。我らは手の舞い足の踏むところを知らず、讃美歌を高唱し、感謝しつつ進む。ヴァーミュイデンは決死隊を率い、クロムウェルは前軍に将とし、サー・トーマス・フェアファクスはこれに続いた。両軍イクスピーという町で出逢った(ヴィカーズ君よ、ウィンスピーという村だよ)。「クロムウェルは勇敢直往、敵の一斉射撃の後、驀然(ばくぜん)として殺到した。しかし敵もさる者、すばやく第二の射撃をなし、クロムウェルの馬倒れ、彼は直に立ち上がりしも敵士のためにつき倒さる。されど兵の馬を得て再び馬上の人となった。勇猛果断の第一攻撃はいたく功を奏し、敵は第二の攻撃に堪えしも遂に潰えてその第二軍に乱れ退き、全軍ために潰乱し、敵は散々の目に逢って退却し」、死傷捕虜等多くを数えた。味方は追撃してホーンキャッスルまで至り、マンチェスター伯麾下の歩兵は手を出す機会もなかった。この日ハルにおいても議会軍の総突出あり。終日入り乱れて戦い、包囲軍の将ニューカスルは地を失い、人を失い、兵器を失い、夜、囲みを解いて走った。-翌朝、町民は敵の隻影をも認めなかった。 1643年10月11日のウィンスビーの戦い(またはホーンキャスルの戦い)は上述のごとくである。これでリンカン州もまた「法王軍」の姿を見なくなった。(西部の州境の数市を除く外は)。 (10)書翰第19、第201644年1月にはクロムウェルはエライの知事として暫時この市に滞在し、政治及び軍事に当った。この間に一日エライ大寺院に姿を表したことがある。事情はこうである。議会は教会の楽隊その他有害無効の儀式設備等を廃すべき命令をしばしば発した。地方の事情等により徐々にこれを実行すべきもので、僧侶その他関係の役人のなすべきことであった。もし彼らがこれを為さぬ時は、通過の軍隊が清教的人民の後ろ盾によりどんどんやったのである。-その遣り方は必ずしも温順とは限らなかった。どうも人のシャツを剥ぐ時に、その人を怒らせぬようには出来ぬと同様である。エライ大寺院はまだ見逃されていた。エライ市は奸悪な僧侶に困っていたので、ヒッチ氏などはクロムウェルの眼の下で、まだ礼拝に楽隊を用いていた。 書翰第19ヒッチ氏よ、士卒達が寺院を改革せんとして乱暴の処置に出ずるやも知れざるにつき、無益有害なる楽隊を廃せんことを願えり。余は貴下が民衆に聖書を講ぜんことを勧告致しおり。なお説教の多きことをも望む。以上。1644年1月10日、エライにて オリバー・クロムウェルエライにある 僧ヒッチ様 1月19日、(金曜日)。スコットランド人は総勢2万1千人を以てベルウィックよりイングランドに入った。水曜日には満目?々(かいかい)たる白雪に膝を没してダンバーを去ったのである。これを率いるものは老将レスレー。5月彼らはハムバー河を渡って来たクロムウェル、フェヤファクスと合してマンチェスター市を占領し敵将ニューカスルをヨークに囲んだ。この1月の22日には、今は中将にしてマンチェスター伯の副将たるクロムウェルは、暫時議会に現れて、ウィロビー卿の無能にしてリンカン州の不利益となるを論じ、マンチェスター卿を以てこれに代うべきことを発議して直に可決、実行された。この交代の効果は十分あった。 書翰第202月にはクロムウェルはグロースターにあって処々の要地を陥れたが、この遠征にクローフォード少将も加わった。彼はこのクローフォードをヒルスデン付近に残したが、次の手紙はこの少将に送ったものである。この手紙のパッカー中佐という人は、思うにこの遠征中クローフォード少将の怒りに触れてこの頃ケンブリッジに留まっていたのであろう。マンチェスター卿は議会の委任を受けてケンブリッジの大学を改革するために来ているけれども、非常に多忙であって、パッカーの弁疏を聴く時がない。貴君よ。貴君がパッカー中佐についてマンチェスター卿に上申したる事件については、一度パッカー中佐の弁疏を聴くべきはずのものなれども、卿は非常に多忙なれば、中佐はなおこの地に止まらねばならず。中佐は職を曠(むなし)うしてこの地にあるをいたく悲しみ、小生は速やかに貴下の許に行かんことを勧告致せり。味方に忠実にして貴下の片腕たるべきこの人を排するは何とも解し難きことなり。放肆(ほうし)の徒と謹直の士とは混同すべきものにあらずと愚考つかまつる。彼は「再洗礼派なり」との御批難なるが、よし然りとするもこの事実は彼が味方のために尽すことを妨ぐべきものなるか。また「彼は軽挙妄動す」との御批難なるも、なるほどある点についてはさることもあるいはこれ有るべきが、由来我らは皆人間の弱点を有するものならずや、いわゆる「軽挙の人」といえども、親切に取扱う時は、大いなる扶助力(ちから)となるものなり。貴下よ、国が士を選ぶ場合も、忠実に尽す人でありさえすればよろしく、その持説いかんは問う必要これ無し。説を異にする人を容るる度量のあらんことを願う。以上。1644年3月10日、エライにて オリバー・クロムウェル少将クローフォード殿 この鋭い手紙のために、中佐は再び職に入ったようである。果たして彼は後、大佐として名声を揚げた。中将クロムウェルは独立派とか再洗礼派とかいった変った宗派に対してあまり寛容に過ぎるという批難があったらしい。彼は「神を怖るる人」なら誰でもよいという態度を示した。この点は長老派に属する者は勿論、スコットランド人たるクローフォード及びマンチェスター伯も嫌っていた。スコットランド委員と共に来ておった僧ベーリー氏は、6か月の後こういうものを書いた。「マンチェスター伯は温厚な善い人で、クロムウェルが全軍を指揮するままに任せておく。クロムウェルは賢明で、活動力に冨み、信仰強く人物堅固として一般に愛せられている。しかし有名な独立派でまた異宗派の保護者である。近頃は我が国人のクローフォードがマンチェスターと心を合わせて、異宗反対の気勢大いに揚っている」と。〔訳者注:スコットランド委員はスコットランド議会の代表者にてスコットランド軍と共に来たのである〕哀れにもクローフォードは後レスター麾下のスコットランド軍に合し、1645年ヘレフォードの囲みにたおれた。多分勇ましく死んだことであろう。この頃、有名な「アクスブリチの商議」があって、両党の間に講和談判が行われたが、勿論無益の談義であった。議式に呑まれている王が長老派的新教を解しようはずがない。どうせ戦わねばならぬ処に来ているのだ。王はアイルランドに法王党を起らしめたけれど、この軍隊はたちまち奪掠の一隊となってしまった。さてリンカン州の西部諸邑は皆手に入ったので、マンチェスターはクロムウェル、フェアファクスと共にハンバー河をわたって、スコットランド兵と合してヨークを囲んだ。さあこれからマーストン沼野の戦いに移る。
2026.05.03
「永平家訓抄話」澤木興道 4-12 尚書は尚書で、今上ではない。つまり識神を認めて、あやまって本来人とするようなあやまりはしないですむようになるわけである。そしてまた「又、妄想佛性の錯りを離る」妄想と仏性との取り間違いをしなくなるのである。 仏性というものはどういうもので、妄想というものはどういうものか、そこにあやまちが起こるわけである。念仏申せばだれでも後生願いかと思うと、そんな阿呆なことはない。大正の末ごろに、共産主義者がどこやらで密会をやって、終電ごろに散会して終電に乗る。みな数珠を持って念仏をして、「結構なご法話でございましたな、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・」といったようなことをいって、カムフラージをやっていたそうである。この念仏は天竺徳兵衛ならドンドロンであろうけれども、ドンドロンのかわりに念仏を申す。だから念仏ならどれでも一緒というのではない。共産主義者の密会ではドンドロンの忍術のかわりが念仏である。 そこまでいってしまえばわかろう。坊さんは線香の長さだけ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、職業的な俊勝げな顔をしてやっている。これではお布施のメーターではあるが、念仏をしているとは義理にもいえない。だから、小僧にはそれが苦行であろうし、和尚はそれが商売であろう。そうすると、そこでは極楽と何の関係もない。そこをよくよりわけをしておかんと、妄想と仏性とがわからなくなって来る。 わたしは坐禅の宣伝係ではないが、坐禅にも地獄禅というのがあって、坐禅くらいつらいことはないというようなことをいうものがある。また何くそッというて坐禅をする、修羅禅というものもある。何やら悟りが欲しさにやるものがある、こんなのは、餓鬼道禅といわなければならない。坐ったらもう鶏のけつみたいな目をして、あの世もこの世も分らんような顔をしているのなどは、これは正しく畜生禅である。だから煩悩を滅して、清浄になろうと思ってやる声聞禅、縁覚禅もあるわけである。そんなものでない仏性ばかりの世界が坐禅である。 仏性ばかりになるまでは、みな妄想が加わっておる。だからこのしぶとい妄想には、五十二段の段階もあるわけで、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、声聞、縁覚、菩薩の段階がそれである。(「永平家訓抄話」p.307-309)
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(8)書翰第16-第18 クロムウェルがゲーンズバローの攻撃をやっておった頃、議会の方ではクロムウェルをエライの知事に選ぼうと投票をしていた。エライは軍事上重要の位置であるが、僧侶の腐敗と民兵の無力とのために、危境に立っていた。それ故クロムウェルにこの地を委任しようとしたのである。彼の家族はエライにいたらしい。東部連合の外は議会党の形成はこの夏、甚だ振わなかった。ブリストルを失い、西南地方北部地方に根拠地を失い、エセクスの軍は分散してしまった。然るに王軍の方は隆々の勢威を極め、進んでグロースターを取ろうとした。議会はスコットランド人の援助を乞うた。スコットランド人は条件によっては助けるであろう。かかる悲境の下に、キムボルトン(この頃マンチェスター伯となる)が東部連合の軍総指揮官となったのは勇者の振る舞いであった。彼は新たに軍勢を増し、クロムウェルはその4騎兵連隊の一の長となった。後に出るノートン大佐もその一の長である。かくてマンチャスター麾下(きか)の軍の勢威ようやく盛んならんとしている。さてクロムウェルの部下はいわゆる鉄騎(Ironsides)として有名なものであるが、この鉄騎の養成はいつごろ始まったかよくわからぬ。とにかく悪しきを斥け、良きを採るという風で次第に改善したものと思われる。もちろん略奪、飲酒、無規律、不敬虔を厳禁し、次第に練り上げたのであろう。そしてクロムウェルがマンチェスター伯の次位に立った今度、また軍を新たにして、充分立派な鉄騎隊がいよいよ成り立ったのであろう。彼らは神のほか何物も恐れぬ兵士であった。 1643年 8月21日。王軍グロースターを攻囲して、ロンドンは上を下への大騒ぎ、エセクスに兵を与えて、一隊を組織し直に救援に向かわしめた。彼は26日に出発し西へ西へと雨をおかして進み、9月5日の夜、グロースター市民は救援隊の篝火(かかりび)をみて雀躍した。王は退いた。目的を達したエセクスはロンドンに帰らんとし、1643年9月20日パーク州ニューベリーにおいて王軍と戦う。これ第一ニューベリー戦役である。この役勝利はエセクスを見舞うた、彼としては第一等の大出来であった。 書翰第16 紳士諸君、私は諸兄のサフォークにおけるご助力の結果を聴かんため既に2日間ケンブリッジに滞在致しおり。攻撃の日は近けれど御地よりの歩兵は少なし。馬を急ぎ送りくだされたく、すべて数時間のお骨折りにて事足るべし。騎兵及びその隊長の人選に御注意くだされたく、正直者の少数は徒(いたず)らなる多人数に勝る。隊長にして高潔の清士ならば部下にも自ら誠実の士集まるべし。王は西方において勢威を張れおれり。もし諸君にして敵の一軍を破らば、ただに名誉を博するのみならず、我らの事業に大利便を与え申すべし。神は余の「少数者」に名誉を賜われり。願わくは我らをしてこれを持続せしめよ。小生は諸君のいう「紳士」よりも、寧ろ粗野にして何のために戦うかを知る隊長を要す。マーチャリー氏は誠実の士を従えるほどの徳望を有する人。願う、氏を用いんことを。忠良の士を用うるは大いなる利益にこれ有り。東部連合より3千ポンドを出金すべき命令これ有る間、ご尽力のほど偏えに願い上げり。以上。 1643年9月-日、ケンブリッジにおいてオリバー・クロムウェルサー・ウィルヤム・スプリング殿 モーリス・パロー殿 この書翰の日付はないが、9月の上旬らしく想像される。「少数者」とは後に鉄騎と呼ばれたもので、精悍敏捷の兵である。しかし募兵の困難はこの手紙でよくわかる。スプリングとバローとはサフォーク委員会の頭首である。マージャリーのことはよくわからぬ。 書翰第17 募兵はうまく行かぬ。事はますます非。金は乏しいーただここに鉄騎の面影を知る最初の材料がある。 貴君よ。我が隊の窮境甚だしきまま、やむを得ず金銭問題を以て兄を煩わせり。私は今ハル付近の敵を攻撃せん準備中なり。我が隊は日々兵員を増せり。実に良軍隊にして、貴兄にしてこれを看(み)ば必ず賞せらるるならん。彼らは「再洗礼派」の徒にあらず。誠直真実のキリスト信徒なり。彼らは卒(そつ)たることを喜びおり。小生は私のためを願う所なし。されど今まで公事に費やせし所多くして、到底自力を以 て我が隊を支うること能わず。されば貴兄の御迷惑を願う。士卒の忍耐力も大なれど、これの尽きざるよう御注意くだされたし。願わくは貴君の真友のために祈り賜われよ。 1643年9月11日、東部連合にてオリバー・クロムウェルリンカン法律協会にある オリバー・セント・ジョン様追伸、マンチェスター卿の募りたる歩騎兵の維持法これ無し。軍費の調達をなし得る将校もなく、幇助来らずば解隊の外、道なし。弱き忠言と弱き行動とは万事(すべて)を無にす。神助なくば万事休すべし。 東部連合も敵勢の猖獗(しょうけつ)と精力の欠乏の故をもって、今や危ぶむべき位置に立っているのである。9月25日(月曜日)。下院及び僧侶会議はスコットランドより援軍を得る条件の下に、エストミンスターのマーガレット教会において「厳粛なる同盟及び誓約」(往年のスコットランド国の誓約(カヴェナント)を少しく改訂したもの)なるをなした。全議会党は警吏、鼓手に至るまで署名した、実に厳粛なる一大誓約であって、饒舌浮薄の末世の我らには、その偉大を想像するだもできぬ。 書翰第18この誓約に署名した人名の中にクロムウェルをも入れるけれど、この手紙その他によりてその誤謬なることがわかる。思うにオリバー・クロムウェルは当時署名などをするよりももっと重大な仕事があった故、わざわざロンドンまで来たはずはない。多分再び議会に座した時までは署名しなかったであろう。9月26日(火曜日)。ウィロビー卿とクロムウェル大佐はフェアファクス卿と打合せをするためハルに来って即日帰った。同日フェアファクス卿は子息サー・トーマス・フェアファクスに20隊の騎兵を与えてハムバー河を横ぎってリンカン州のクロムウェルの軍に合せしめた。これはニューカスル侯がハルのフェアファクス卿を囲むことますます固きにより、危うきをおかして騎兵全部をハムバー河に浮かべたのであった。勇敢なるサー・トーマス・フェアファクスは遂に進んでリンカン州の安全な地点に入った。そしてそこで募兵、訓練、戦闘を続けた。紳士諸君、神のお導きにより、サー・トーマス・フェアファクスは騎兵を率いてハルより来着致せり。王党のリンカン州騎兵はそのハムバー河よりの上陸を遮(さえぎ)らんとせしも、我が軍の出援するや、たちまち退却致したり。我らはホランドに向いて進めり。然るにホランド付近まで来たって、多大の兵力を増したる敵のむかえうつ所となりしも、神の恩恵によりて敗滅を免れ、隊伍整然として無事背進致せり。損害と申してはほとんど無く、ただ神の恩寵の大なるに感泣するのみなり。願わくはこれによりて神愛を認め、貴州にて無事に困(くるし)める兵をお送り越し下されたし。ことにマージャリー大尉の隊の来援を切に願えり。諸君が小なる理由の下にマージャリー大尉及びその士官を留むるはいかがか。諸兄が、公事のためには命をも惜しまず悪人の誤解をも意とせざる勇士を冷遇するはその意を得ず。もし彼らを持て余し給うならば、願わくは悉皆(のこらず)小生までお送りくだされたし。私は歓んで迎え申すべし。もし彼らが諸兄のために戦い、諸兄が「誠直」と信じおる人々よりも困苦に堪える節は、願わくは彼らに誠直の形容詞を与え給わんことを。ジョンソン大尉の下にある貴州よりの軍人は貴州民のために益をなす人々にはあらず。給料を十分に取れども動(やや)もすれば背反の傾向を表し、小生は大いに困難致しおり。凡庸の徒が騎兵の隊長たるは不合理の甚だしきものなり。門地あり、名声ある人物のこの挙に応じたるは喜ばしけれど、彼らの未だに来着せざるはいかん。誰が彼らを阻止せしか。もとより凡庸の徒も無きには勝れど、堅忍忠良の士こそ最も望ましく、マージャリー以下の人々必ず堅忍忠良の士なるべく、もし小生にて諸兄の恩顧を受くる値、少しにてもこれ有らば、なにとぞ彼らをご派遣相成りたく切望致す。暫時にして諸兄は彼らの功績を認(したた)め得べし。諸君が与え得るだけの武器を彼らにお与えくだされたく願う。今日までの諸君の御厚情感謝の辞これ無し。以後これに背(そむ)かざるよう死力もって事に当るべし。以上。 1643年9月28日、リンカン州ホランドにてオリバー・クロムウェルサー・ウィリアム・スプリング殿バロウ殿 近頃、リンレジスを取りかえしたマンチャスター伯は、しきりに此処彼処の小砦を取り戻して、リンカン州の南部に侵入し来った敵を追い払っている。これがうまく行って、伯の歩兵がクロムウェル、フェアファクスの騎兵と合した場合には、中部地方においても勢威を揮うであろう。
2026.05.03
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替える3 子供の仕付け方野州桜町で二宮先生が家屋を新築されたことがあって、その時先生の一子、弥太郎というのが5、6歳で、大変ないたずら者であり、乳母(うば)などはずいぶん困ったということである。ちょうど廊下の突き当たりに壁を塗るばかりになってあるところを、無理に通りたいと言い出してひどく困らされたという。二宮先生はこれを見られて、すぐ大工に言いつけ、今にも壁を付けんとするところを打ち壊わさせて、弥太郎の言うとおりに、そこを通り抜けさせた。それから後で二度とこのような所を通るのではないと、懇々とさとされたということである。これは酒匂村の酒井儀左衛門という、その時弥太郎の守(もり)をしていた老人の話である。☆二宮尊徳先生は子供にはやさしかった。「可愛くば五つ教えて三つほめ二つ叱って良き人にせよ」という道歌があるという。二宮翁逸話ではこのようなエピソードも伝える。「神奈川県中郡土沢の小字(こあざ)の枇杷(びわ)というところがある。そこに原小太郎という、その辺りでの豪農があるが、この原という人はそこの報徳社の社長をしており、その一家はこぞって報徳を唱え、実践躬行につとめている。この家の老婆いわ子刀自(とじ)は、もう81歳になる人であるが、二宮翁に可愛がられた人であるということを聞いたから、余(留岡幸助)は二宮翁の肖像を色々持ち行きて、いずれが一番よく似ているか尋ねたことがある。このおばあさんは福住正兄翁の令妹であって、非常に丈夫で物覚えのよい方であるから種々のことを話された。そのとき余は、何か二宮先生のことについて頭に残っていることはありませんかと尋ねたら、「さようです、私が12,3歳のころでした、二宮先生がご入来になる頃はいつも草鞋(わらじ)をはいて来られるので、まず縁側に腰をかけ、それから足を洗って上がられるのが常でありました。それで私の家では、その上がられる前に饅頭(まんじゅう)とか菓子とかを縁側へ持っていって、さぞお疲れでしょうと言ってさしだすのですが、これが私の役になっておりました。すると先生は私にきっと何か取ってくだされるのです。だから先生が来られると聞くと、私はあわてて逃げ込んで奥の間の障子の間からすき見をしたものです。すると先生は障子のかげに私を見られて、ちょっと来いと呼ばれる。私はただ恥ずかしいので逃げようとすると、親が無理に引っ張って先生の前に連れて行く。そうすると先生は、ご自身が召し上がる前に、『これはお初穂だからお前にやる』と言うて、いつでもくださったものです。」と。
2026.05.03
18クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(6)書翰第12-第15 7月の27日頃クロムウェル大佐がスタムフォードを占領したという報知がロンドンに着いた。またバーレーハウスに敵を攻撃してこれを占拠した。 然るに他方においてはゲーンズバローは王軍の包囲を受けていた。次の手紙はウィロビー卿に関し、またゲーンズバローの救援に関してサフォーク州委員にあててしたためたものである。 書翰第12紳士諸君、諸君がこの大主義のために勇進するのを思うては、奨励の語を呈しようという願い、切なり。まことに恩恵の神は我らを激励致しおり。願わくは恩恵が絶えぬよう努められよ。恩恵は、良き時に下って、「起って為せ。われ汝の味方となり、汝を助けん」との大命を伝う。我らの罪悪遅緩のほかに恐るべきもの無し。主、ゲーンスバローにて大勝を我らに与え給う。バーレーハウス占領後、小生はグランタムに進軍し、ノチンガムの騎兵、リンカン州の兵と合して、全軍粛々ゲーンズバローに進発いたせり。ゲーンズバローの1マイル半手前にて百騎の敵兵に会したるも、わが軍のドラグーナはこれを撃退いたせり。進んで一峻丘に至り、支える騎兵をしりぞけて頂点に達せり。これは先鋒のリンカン州兵の働きなり。いただきにて下瞰すれば小銃の弾着距離以内に敵騎の大なる隊あり。その後には一連隊ほどの騎兵の予備隊あり。敵は我が軍のいまだ整頓せざるに乗じてバクゼンとして迫り来たり、我らはこれに対し(小生は右翼隊を率う)混戦の後、敵の少しひるむをみて、我が軍は進んでこれを追い立て、追撃すること5,6マイルに及べり。しかるに敵の後備隊はなお厳然として備えおれり。されば小生はホーレー少佐を追撃より呼び戻し3隊合してこれに当たれり。敵将はキャヴィンディッツン将軍にて半分をもってリンカン州兵に対し、半をもって小生の軍に当たれり。(この外はすべて追撃軍に加われり)。リンカン州兵の敗走したるを見て、小生は突然敵の後部に肉薄せしに、敵は驚いて、たちまち退却し、小生はこれを逐うて丘下に至れり。将軍は一部の兵と共に沼地に陥りたるを我が中尉追って刺殺し、敵騎は全部退却いたせり。 我らはこの大勝の後、ゲーンズバローの町を救へり。然るに1マイル彼方に6隊の騎兵及び一隊300人の歩兵あるを聞き、ウィロビー卿の歩兵400を乞い受けて、共にこの敵の2、3隊を破り、逐うて丘上に至れば、驚くべし。ニューカスル侯の一連隊があり。我が軍、苦闘の後、遂に潰(つい)え申せり。騎兵は一騎をも失わずして退却せり。この退却は、実に神助によれり。ホーレー少佐の退軍における沈勇なる行動は紳士たり。またキリスト信者たるに恥じず。事情右のごとく、諸君もし2千の歩兵を募ってたすけ給わば、ニューカスルの軍を破りて、神の助けにより町を救い得べし。もとより難事なれど、必要やむを得ざることなり。神願わくは諸君を導かんことを。以上。 1643年7月31日、ハンチンドンにて オリバー・クロムウェル サー・エドマンド・ベークン殿 サー・ウィリアム・スプリング殿 サー・トーマス・バーナディストン殿 モーリス・バロー殿 小丘2つこの書簡に出ているが、これはゲーンズバークに行けば、今日でも、あるはずだが、一方の丘は判然とせぬ。 キャヴィンディッシュ将軍はニューカスルの従弟で23歳の立派な青年であった。戦士を悲しむものは多かった。これはクロムウェルの名を広くした第一の事件であった。「彼は自己の敵となればこの立派な人をも敢えて殺す」と。 書翰第13 貴君よ小生は御地青年少女の厚情を知り、神を讃美するの外lこれ無し。ご企画は賛成の至りなれど、ただ「歩兵隊」が騎兵隊とならば、味方のため数倍の力と相成るべし。殊に兵士が正直敬虔な士なれば、層一層の力なり。貴兄はその240ポンドをもって短銃及び鞍を求めらるべく、小生は80頭の馬を準備し、小銃の購求は州に譲りてはいかがなりや。願わくは正直敬虔な人を募り下されたく、これを小生の連隊に加え申すべく、また士官の選択は大能の御手に任せ申さん、以上。1643年8月2日、ハンチンドンにてオリバー・クロムウェル何 某殿 青年少女が献金してこの金を造ったのであろう。ああ美しい青年の心事ではないか。この一小事また大いに主義の援助となるのである。ああ純粋なる福音のため、英国の自由のため、誰か力を添えんとはせざる。クロムウェルは故郷にあって、この計画を聞き、右の忠言をしたのである。名宛人は分からぬが、たぶんこの青年少女の会の長であろう。土地はどことも不明である。この人の企てたこの事はどうなったか分からぬが、その精神は今にのこり、また永久にのこるであろう。 書翰14ウィロービー卿はニューカスル卿にかなわず、ゲーンズバローも取り返され、リンカンも取られた。援兵なくばすべて敗滅してしまう。ウィロービー卿はクロムウェルに窮状を知らしてきた。これを封入してクロムウェルはケンブリッジの委員に手紙を送った。ウィロービー卿の書翰は左の通り。 貴君よゲーンズスバロー後、意気阻喪、我が兵は大部分逃遁つかまつる。やむなくリンカンをも退き、今はボストンにあり。我が軍微力、増援なくば、また退却の運命に陥るべし。総督の命のごとく、諸隊一に会して、ニューカスル卿に当たるほか、策はなかるべし。守兵少なきボストンは敵手に陥いるのほかなく、然れば敵はたちまちノーフォーク、サフォークに入るべく、貴下の東部連合にとって由々しき大事なりと存ず。これにて筆を止め申すべく、願わくは貴下の迅速なる処置を取られることを、以上。1643年8月5日、ボストンにて フランシス・ウィロビーハンチンドンにあるクロムウェル殿 この書簡を封入してクロムウェルは次の手紙を出した。 紳士諸君、封入の書により、諸兄らの事業の窮境にあるを知られたし。もはや論議の時期を過ぎ申せり。ただ起って全力を尽くすべきのみ。諸隊を集めてハンチンドンに送り、義勇兵を起こし、馬の準備を急ぐこと切望の至りなり。この手紙を速やかにノーフォーク、サフォーク、エセクスに送りくだされたし。願わくは神速精励なれ。我らの歩兵はほとんど全部スタムフォードを去り、我が騎兵隊(兵数多し)のほか敵を食い止めるものはこれ無し。願わくは急速に行動せんことを。方法をゆるがせにせざらんことを。以上。1643年8月6日、ハンチンドンにてオリバー・クロムウェルケンブリッジの委員諸君 書翰第15この書翰もケンブリッジの委員へあてたもので、8月8日ピーターバローより発したのである。スタムフォードを退却する事情に陥ったことを告げ、敵のますます優勢なることを語り、援兵を送らんことを依頼した手紙である。また末尾には軍費の欠乏をも訴えて「諸兄のため死を厭わざる者どもを飢餓に陥(おとしい)るるなかれ」と言うてある。〔訳者曰く、書面の訳述を略す〕。議会党の兵はすべて不利に立つ。サー・ウィリアム・オーラは3週間前、ランスダウンの野にさんざんに破られ、フェアファクス兄弟も敗れ、5月の末にスタンフォード伯は西南地方に敗れ、ブリストルは今、突然敵の雄将ラパート親王の手に落ちた。
2026.05.02
(2)書翰第4この書翰の名宛人ロバート・バーナードは前にもちょっと出たが、クロムウェルと共にハンチンドンの保安委員になった男、クロムウェルとは政見を異にした。当時にあっては政見の相違はすなわち信仰の相違であった。 バーナード君よ 我が部下の中尉が士卒を率いて貴邸を捜索したる真実なり。これ貴兄が議会の所為を妨げ、平和攪乱者を援け、異図を有する徒に与(くみ)するが故なり。兄よ、兄はまことに用心深し。されどあまりそれにて安心し給うなかれ。怜悧はあるいは兄を誤らんもあるが、誠直は兄を誤ることこれ無し。小生は兄と意見も行動も変わらんことを偏に願えり。小生はただ悪を妨げんために来たりし者、決して人を害するためにあらず。さりながら兄の行動いかんによりては、やむを得ず公義に訴えて兄を敵とせざるべからず。ただその然らざることをのみ祈る。兄の才能が彼に向かわずしてこれに向わんことを祈る。以上。 1643年1月23日、ハンチンドンにて オリバー・クロムウェル 信友 ロバート・バーナード様 この頃クロムウェルは郷里にあって東部連合のために熱心奔走し、ひたすら民党のために尽くし、王党の事業をくじかんと努力していた。この家宅捜索に対して「理不尽の処置」とのバーナードの抗議を受けて、クロムウェルはこのように特徴のある返答をしたのである。 クロムウェルが大尉から大佐にのぼったのは確かにこの頃のことである。東部連合において、己れの主義を以て作りたる騎兵連隊の長となったのである。 (3)書翰第5 1643年2月末、クロムウェル大佐はケンブリッジにあり、たまたまカブル卿大軍を率いて来り侵さんとし警報頻(しき)りに飛んだ。敵将ラパート親王の軍と等しく奪略荒盗をほしいままにすることであろう。東部連合は中心人物クロムウェルの活動により、1万2千の兵を以てこれに備えしに、カブル卿は早くも逃げ去ってしまった。この男も元は議会の勇将であったのに、華族にされてたちまち王党になってしまったのだ。 東部連合は将来に備うるためケンブリッジに守備隊を設け、町の防衛を固うした。これは1643年の春まだ浅い頃のことで、クロムウェル以下多忙を極めた。 この頃クロムウェル、トーマス・マーチン等8人の名を以てフェン・ドレイトン村民に送った文書がある。それは防衛のためにケンブリッジの町に防御工事を施す必要のあること、願わくは州のためにこの大事業に献金せられたきこと、かつこの工事の善事業であることなどを記したものである。日付は1643年3月8日となっている。 以来ケンブリッジは東部連合の中心地となった。守備隊長はクック大佐であったが、実はクロムウェル大佐が万事の先導者であって、東奔西走、すべての事に当たったのである。次に掲ぐる書翰はこの頃書かれたものである。 紳士諸君金銭問題という面白からぬ問題について、毎度諸兄を煩わすはお気の毒なり。さりながらネルソン大尉には金の欠乏のために弾薬も十分でならぬほどの窮境におり、かくてはノーフォックのためのこの仕事の失敗せんこと必定なり。私は彼の勇気を沮喪せんことを恐る。願わくは彼を思い、また民党を思い給え。これ貴きことならずや。されば応分のご助力をノーフォークに致し給わんことをひとえに願えり。彼は一日も軍隊の費にたえぬ境遇の下におる。以上。 1643年3月10日ケンブリッジにて オリバー・クロムウェル サフォーク州の代表士官諸君追伸、私もまた諸兄を助けよう。御指揮の下に主のたすけをもって我らは速やかにこれらの事件の結末を付けよう。ネルソン大尉は100ポンドを得たように文書に記してある。 (4)ローエストフ 前の手紙に「ノーフォックのための仕事」と記してあるのは多分裏切者に関することであろう。裏切が2、3はあったので、クロムウェルは温言以て鎮撫をはかり、聴かずんば強圧を以て粉砕した。次はその一例。 1643年3月13日(月曜日)にハーツ州の知事トーマス・コニピーは下院で訊問された。それは民党に背く手段で出でて、たちまちクロムウェル大佐に捕らえられたのであった。彼はロンドン塔に送られた。なお一つ次の例がある。これが前の手紙にあった「これらの事件の結末」であった。 これはジョン・コリーという人の書翰によりてわかったので、クロムウェルがローエストフ町に行って18人の王党を捕らえたことの有様が記してある。 これがクロムウェルの属していた東部連合の中の最後の忠君的企画であった。この東部連合にはハンチンドン州は既に加盟し、又リンカン州もクロムウェルの助力でよりて困難を排して、9月には加入した。以後は「7州連合」と呼ばれ、あるいは単に「連合」といえばこの連合のことであった。そして勇進よろしきに適う一人物を中心としていたため、その連合地域には一歩も敵を入れなかった。(5)書翰第6-第8 1643年の両党抗争の中心点は極西南部(サー・ラルフ・ポプトンとスタムフォード伯と戦う)と、北部主としてヨーク州(ニューカッスル伯とフェアファックス卿と戦う)とであった。たとえていえばこの2点においてはエンエンたる猛火が天を焦がす有様、その余の地方でも黒い煙がモウモウと渦巻きたって今にもぱっと燃え上がるばかりである。 総督のエセクス卿は精鋭を率いてウィンザーに陣を張っているが、王がオクスフォードにいて、議会と協定を計っているので、全く無為に日を送っている。もう妥協や談判などはいくらしたって駄目なのだ。人民は争乱と困窮の中にいる。時々王の本営からは敏捷なラパート親王が飛び出して略奪をしたり破壊したり放火をやったりする。ハムデン大佐等は怒って総督に迫ったけれども、エクセスはなかなか動かない。 このごたごたの中に残ったクロムウェルの手紙が3つある。東部連合におけるオリバーの面影がこれによって少しわかる。 書翰第6エセックス州においては、コルチェスタ町はラングレーを隊長として一隊の兵をケンブリッジに送った。けれどもこれに伴う軍費が十分でなかった。クロムウェルはどうかしなければならぬ。紳士諸君貴殿らの町民のケンブリッジに下り来たしや、ラングレー大尉は部下を指揮する方法を知 らずとて、小生に適当なる隊長を任命せんことをご依嘱相成る。即ちこの手紙の持参者ドッズワース大尉こそはその人にして、正直、敬虔、勇猛の士なり。彼は部下の訓練に効果を収めたれども、不幸にして給料を受けず、また士卒に払うべき金もとうの昔になくなりおり。彼は慎重と美しき振る舞いと借金とにより、部下を治めおれども、もはやこれもダメとなり、このままにては部下はたちまち離散いたすべし。かくては残念の至りなり。(彼らは他に劣らぬ良き中隊となりしものなり)、かつ今や大いに彼らを要する時なり。小生は総督より事の結末をつけるため、軍勢を率いて進軍すべしとの特別命令を受けたりーすべてのたすけは神より来る。神もし助けなば、この願いを達するは易々たるものなり。されば願わくは、この大尉と貴地より来りし兵卒とについて熟慮せられ、適当の処置に井出られんことを懇願つかまつる。以上。 1643年3月23日、ケンブリッジにて オリバー・クロムウェル コルチェスターの町長その他諸君 ドッズワース大尉に託してこの頃一種の大計画があったのだが、それはそのままに済んでしまった。が、ちょっと面白い。ラパート親王が大軍でエルズバリ町まで出てきたという報を得て、議会では速やかにこれを撃破すべしという熱烈な声が起こり、エクセス卿が東部連合などの援助によって、ウィンザーから大挙オクスフォードまで押しかけるというような計画が起こったらしい。 この企画はすぐ潰れてしまったけれど、ハムデンなどがかかる企画を抱きかつやや実行の端をなしたことは明らかである。前節のことは当時の記録にあるのだが、これと、クロムウェルの手紙にある「特別命令云々」の処と合せて証拠になっている。 書翰第7 ここに一隊の略奪者が北より下り来たって東部連合を脅かさんとした。奪略者はカムデン党と呼んでカムデン子爵とかいう者を首領とした。この書簡の宛先のサー・ジョン・バーゴインはベッドフォード州の委員会長である。貴君よ、略奪者は近寄れり。この大事に当たりドラグーナーズ〔訳者注、一種の騎兵〕を多少なりとも送って我らを助けくだされば幸甚なり。我らは戦いに堪える騎兵の隊6、7を有しおり。かかる暴動は早く抑えるを可と致せり。何程かを幇助に送りくだされば、一刻も早からんことを願う。以上。 1643年4月10日、ハンチンドンにて。 オリバー・クロムウェル サー・ジョン・バーゴイン従男爵殿 これよりさき、議会はリンカン州の隊長としてウィロビー卿を任じたけれども、カムデン党や敵軍が処々に勢威を張っていて、まだ根拠地の一つも手に入らぬ有様である。これから以下12ヶ月の間は、クロムウェルがリンカン州の敵軍掃討に努めた時日であった。 書翰第8〔訳者曰く、重要でない故略す〕
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)第2編1642年1月4日。王は危急のようやく来らんとするを悟り、火の元を取り除くにしかずとて、反乱者の名を以て氏下院議員ピム、ハムデン、ハゼルリック、ホウルズ、ストロウド、及び上院議員キムボルトン卿を捕らえようとした。すなわち1月4日500人の暴慢の徒(兵)を率いて下院に侵入した。兵士は獲物はいずこと眼をみはった。ああこれは、このあわれな王のとった自殺的手段であった。5人は既に警報に接してロンドン市中に逃れ去って、議会もまた「武装的暴虐を避けるため」市に退いた。全市より、否全国から「国法違反」との非難はゴウゴウとして湧き起こった。王既かくのごとし。国民が義勇軍を挙げて己れを護らうとするまたやむを得ないではないか。 1月10日。全市は怒って武器を以て起ち、ピム等5人の議員を護衛して議会に至らんとし、王は恐れてその前日宮殿を棄てて走った。 3月9日。王は皇后をオランダに避けしめ、かつそこにて宝石を抵当として武器を得んと計り、自分は北に走った。議会は書を飛ばして国民軍を挙ぐる権利を得んことを再三乞う。王は「ノー」とこれを峻拒し、19日にはヨークまで逃れた。 かくて英国は王党、民党と二分した。王はあらゆる策を用いて軍費を得、軍を起さんとし、議会もまた国民軍を募り、馬や金属の収集につとめた。集まる金属の数は計り難く、またロンドンだけで一日に4千人の兵をえたこともある。思い見よ。この民党の優勢を。今や英国民は一人残らず甲か乙かに従わねばならぬ時となった。暗雲モウモウたり、前途果たしていかん。この頃のオリバーの動静いかん。2月7日。ある記録によれば、クロムウェルは民党に300ポンドを差し出した。これはアイルランドの反逆を鎮め、各地の新教徒を救うためであった。ある書には、500ポンドと記してある。クロムウェルはこの頃より次第にその活動を増し、四方に奔走し、熱心民のために計った。7月15日。ある書によると、クロムウェルは「ケンブリッジの町民に2中隊の義勇兵を起こして町を防ぐことを許すべし」との動議を出し、また武器をケンブリッジ州に送った。彼は既に良心の応諾を経て王に背き、財産生命を賭して敢えて悔いないのである。8月15日。クロムウェルはケンブリッジの城中の火薬庫を押さえ、大学が2万ポンドを王軍に送るのを妨げたそうである。彼は既に独りケンブリッジ州に行き、その民党の仕事を指図していた。 騒動はますます大きくなった。各州、各市、各村、各寺院-人の団体は2つに別れ、全英国は2つに別れ、剣戟によりて事局を解決せんとした。 9月14日。議会軍はエセクス伯を総督とし、奸臣を除きて王を正路に導くために戦うと宣す。60人宛の中隊75を編制し、クロムウェルは第67中隊の隊長となった。議員は士官と化した。ハムデンもまた大佐となって士卒を訓練した。クロムウェルの長男オリバー・クロムウェル(父と同名)も第8中隊の旗手に任ぜられた。彼既に20歳の少壮児、「汝オリバーよ、汝もまた既に剣を振るうに適す。このたびの戦いこそ神の戦いにして、戦うべき値あり、汝もまた来れよ」と。ああ43歳の着実温和なる農民は剣を手にして、この世の権勢と戦わんとするのである。10月23日(日曜日)。両軍ウェリック州の南端キーントン付近に戦う。これをエッジヒルの戦い又はキーントンの戦いという。クロムウェル大尉も出陣して職責を尽くした。この戦いは勝敗未定で終わった。戦後クロムウェルはハムデンに「小僧や職人の軍隊を以て上流人士の軍と戦いを続けることはむずかしい故、これからは信者の軍隊を造らなねばならぬ」と語ったが、彼は次第にこれをなさんとつとめた。 この冬、王軍に対する防衛のために「州の連合」が起こり、処々に数州が連合した。それが4,5ある中にも、ノーフォーク、ケンブリッジ等5州から成る「東部連合」には、グレー卿を指揮官とし、クロムウェルは卿の下にいた。外の連合は中心的人物の欠乏から数か月で瓦解したが、この東部連合のみはますます勢威を増して、よく連合地域を防ぎ、一歩も敵を入れなかった。1642年1月4日。王は危急のようやく来らんとするを悟り、火の元を取り除くにしかずとて、反乱者の名を以て氏下院議員ピム、ハムデン、ハゼルリック、ホウルズ、ストロウド、及び上院議員キムボルトン卿を捕らえようとした。すなわち1月4日500人の暴慢の徒(兵)を率いて下院に侵入した。兵士は獲物はいずこと眼をみはった。ああこれは、このあわれな王のとった自殺的手段であった。5人は既に警報に接してロンドン市中に逃れ去って、議会もまた「武装的暴虐を避けるため」市に退いた。全市より、否全国から「国法違反」との非難はゴウゴウとして湧き起こった。王既かくのごとし。国民が義勇軍を挙げて己れを護らうとするまたやむを得ないではないか。 1月10日。全市は怒って武器を以て起ち、ピム等5人の議員を護衛して議会に至らんとし、王は恐れてその前日宮殿を棄てて走った。 3月9日。王は皇后をオランダに避けしめ、かつそこにて宝石を抵当として武器を得んと計り、自分は北に走った。議会は書を飛ばして国民軍を挙ぐる権利を得んことを再三乞う。王は「ノー」とこれを峻拒し、19日にはヨークまで逃れた。 かくて英国は王党、民党と二分した。王はあらゆる策を用いて軍費を得、軍を起さんとし、議会もまた国民軍を募り、馬や金属の収集につとめた。集まる金属の数は計り難く、またロンドンだけで一日に4千人の兵をえたこともある。思い見よ。この民党の優勢を。今や英国民は一人残らず甲か乙かに従わねばならぬ時となった。暗雲モウモウたり、前途果たしていかん。この頃のオリバーの動静いかん。2月7日。ある記録によれば、クロムウェルは民党に300ポンドを差し出した。これはアイルランドの反逆を鎮め、各地の新教徒を救うためであった。ある書には、500ポンドと記してある。クロムウェルはこの頃より次第にその活動を増し、四方に奔走し、熱心民のために計った。7月15日。ある書によると、クロムウェルは「ケンブリッジの町民に2中隊の義勇兵を起こして町を防ぐことを許すべし」との動議を出し、また武器をケンブリッジ州に送った。彼は既に良心の応諾を経て王に背き、財産生命を賭して敢えて悔いないのである。8月15日。クロムウェルはケンブリッジの城中の火薬庫を押さえ、大学が2万ポンドを王軍に送るのを妨げたそうである。彼は既に独りケンブリッジ州に行き、その民党の仕事を指図していた。 騒動はますます大きくなった。各州、各市、各村、各寺院-人の団体は2つに別れ、全英国は2つに別れ、剣戟によりて事局を解決せんとした。 9月14日。議会軍はエセクス伯を総督とし、奸臣を除きて王を正路に導くために戦うと宣す。60人宛の中隊75を編制し、クロムウェルは第67中隊の隊長となった。議員は士官と化した。ハムデンもまた大佐となって士卒を訓練した。クロムウェルの長男オリバー・クロムウェル(父と同名)も第8中隊の旗手に任ぜられた。彼既に20歳の少壮児、「汝オリバーよ、汝もまた既に剣を振るうに適す。このたびの戦いこそ神の戦いにして、戦うべき値あり、汝もまた来れよ」と。ああ43歳の着実温和なる農民は剣を手にして、この世の権勢と戦わんとするのである。10月23日(日曜日)。両軍ウェリック州の南端キーントン付近に戦う。これをエッジヒルの戦い又はキーントンの戦いという。クロムウェル大尉も出陣して職責を尽くした。この戦いは勝敗未定で終わった。戦後クロムウェルはハムデンに「小僧や職人の軍隊を以て上流人士の軍と戦いを続けることはむずかしい故、これからは信者の軍隊を造らなねばならぬ」と語ったが、彼は次第にこれをなさんとつとめた。 この冬、王軍に対する防衛のために「州の連合」が起こり、処々に数州が連合した。それが4,5ある中にも、ノーフォーク、ケンブリッジ等5州から成る「東部連合」には、グレー卿を指揮官とし、クロムウェルは卿の下にいた。外の連合は中心的人物の欠乏から数か月で瓦解したが、この東部連合のみはますます勢威を増して、よく連合地域を防ぎ、一歩も敵を入れなかった。
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(3)2年間次の2年間の手紙は現存せぬ故、年代記を記す。 1639年5月-7月。スコットランド人は厳粛なる誓約書(カヴェナント)を造って、正に公然反抗した故、彼らを誓約派(Covenannters)と称す。王は彼らを懲らさんため議会の協賛もなく勝手に軍隊を派して、1639年5月8日にはニューカッスルに達した。スコットランド人は義兵を以てこれに応じ、ダンスローに占(とむろ)したが、ひとまず休戦することになって、ほぼ軍を解いた。 1640年勿論休戦は永く続かぬ。王はスコットランド人の宣言書を焼き、再び征伐の師を起さんとし、軍資を得るために議会の召集を命じた。議会の永久中絶を覚悟していた英国民は驚きかつ喜んだ。オリバー・クロムウェルはケーム・ブリッジを代表して議会に臨んだが、議会は王の軍資供給に早速には賛成せぬため、5月5日、3週間にして解散された。史家は短期議会という。王は公債強制等種々の手段で軍費を作り、スコットランドの国境に王軍を派遣した。とても勝てそうにない軍隊である。兵士は途中で士官に背いてこれを殺したり、清教徒の牧師に会うと万歳を三唱したりする。心は王を離れているのである。スコットランド軍も進撃を開始し、8月20日にはトウィード川を渡った。一様の制服に身を固め、王に陳情しようと叫んで勢い猛く進んだ。8月28日。両軍はニューカッスル辺に戦って、王軍たちまち潰(つい)え、かくて戦いは終った。スコットランド人は温順懇篤にして、イングランドにおける「福音を愛する兄弟」に宣言を発して友愛を示し、全ノオサムバランド、ダーハムを占領し、1年間この辺に滞留した。全英国の清教徒は彼らを救助者と仰いだ。王は困窮して「貴族会議」を召集した。貴族は議会召集を請願した。ロンドン市もこれを請願し、その許可がされるに及んで、初めて20万ポンドの金を王に貸与した。かくてようやくスコットランド軍と講話を結んだ。1640年11月3日開会せし議会は長期議会の名で史上有名となった。オリバー・クロムウェルはまたケームブリッジ町を代表する議員に選ばれた。(4)書翰第三〔訳者曰く、これは短い書翰で、重要な関係を持っておらぬ故、その説明と共に略す〕(5)長期議会長期議会最初の23か月のクロムウェルが行動については十分に知ることができぬ。これ英国にとっても、彼にとっても、心労、努力、希望、恐怖、変転の時であったのである。この間に彼の遺したものとては、上の一小書翰あるのみである。よりて当時の彼の面目を彷彿する便りにもと、次の二の引用をする。デューエス氏は1640年11月9日(月曜日)の開議(6日目)について記しておる。「クロムウェル氏ハジョン・リルバーンのために請願の演説をした」と。リルバーン氏は彼のプリンの書生であって、やはり己れの師同様政府に迫害されたものである。これに関連してサー・フィリップ・ウォリクの文を引こう。ウォリクいう「私がクロムウェルをみたのは議会の初めであった。時に、私は服装を以て人の値を定むる延臣の数に洩れず、自分を閑雅な青年紳士と思っていた。ある朝、美々しく装って議会に臨むと、一人の紳士が演説していた。田舎の仕立屋の造った質素な服の汚じみているのを着て、背(せい)はかなりあって、顔は赤く肥り、声は鈍く乱調であったが、弁には燃ゆるような熱があった、・・・・・・こんなつまらぬ男に議員が大分傾聴しているのを見て、議会に対する尊敬心が大いに減った」と、クロムウェルはこんな風であったのだ。後、クラレンドン卿となったハイド氏の伝記に次の一節がある。これはハイド氏を議長とするある委員会の有様である。何か農民が非道の処置を受けたとて請願して来た事に関する委員会である。「クロムウェルは請願者や証人の言を熱情を以て敷衍して頻りにその肩を持った。請願者や証人は朴訥な田舎者で、反対側の弁護士や証人の口述中、時々罵ったり喚(わめ)いたりするので、ハイド氏は大声これを叱咤して沈黙させようとした。ところが、クロムウェルは猛然と立って、不公平の故を以て議長を攻撃した。議長は委員全体に議(はか)った所、皆議長の処置を正当と認めた。ここにおいてクロムウェルはますます激した。反対側の者が極めて謙遜の態度を以て事件を説明するや、クロムウェル氏は租望の態度で暴言を以てこれに応じた。要するに彼の態度言語は乱暴無礼であった」云々と。クロムウェルは彼の農夫等の非道な目に逢ったのを知っている故、憤を発したのである。彼が素朴の熱誠はある場合には乱暴とも見えたろう。1641年7月の初旬にこの事件が起こったのだ。クロムウェルの次の書翰となると議会の討論ではなくて剣戟の争いを示す。国はもう二つに分かれた。議論は槍と銃丸(たま)を以てされた。
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)(2)書翰第二クロムウェルはエライに移転して伯父の業を継いだ。やはり農業である。後、1647年頃長期議会が容易に終わりそうもないので、家族一同ロンドンに移転することに決したが、その時までエライに住居したのである。彼の母もエライ(自分の故郷)の家に同居した。エライの家は今でものこっている。セント・メリー寺院の傍らに立つ老屋である。今年(1845年)はビール店になっている。広大な邸宅ではないが、3,4百年前は、楽々と一家族で住むことができたろう。二階建てで、窓多く、煙突や破風は不格好(ぶかっこう)である。勿論彼の母はこの家で生まれたことであろう。 クロムウェルの第二の現存せる手紙は、1638年10月エライでしたためたのである。さてわれらの筆はまた歴史を記す。1637年6月30日、3人の人がロンドンで首かせ(Pillory)にかけられて、さらし者にされた上、耳をきり取られ、頬にS.L.(Seditious Libeller動乱を起こす誹謗者)と焼印をされた。これはバリスターのウィリアム・プリン(※)、医者のジョン・バストウィク、牧師のヘンリ・バートンである。 ※1634年、清教徒のパンフレット作家ウィリアム・プリンは、著作中で王と王妃を中傷したかどでロンドン塔に1年間拘留された後、星室裁判所によって「日を替えて首かせ台に二度かけ、各執行時に片方ずつ耳を切り落とせ」という判決を受けた。その後プリンは監獄の中でも執筆を続け、1637年に他の作家らとともに再び首かせ刑に処された。このときは、もう失うべき耳がなかったため、両頬に S と L (sedious libellerの頭文字)の焼き印を押されている。 彼らは新信仰の戦士で、ローマ教に反対し大監督ロオドを排撃したため、官僧の怒りに触れたのである。プリンは耳を切られたというよりはむしろノコギリでひかれたのである。その時彼は叫んだ。「斬れ、裂け、余は汝を恐れぬ。余は地獄の火を恐れる。汝を恐れぬ」と。清教徒の熱情は次第に高まった。7月23日には、エジンバラの教会で、大監督ロオドに任命されたある牧師が、ロオドの定めた祈祷書によって儀式をやろうとした時、ジェニー・ゲッズという婦人はイスかなにかを牧師に投げつけた。ために満場の騒擾は言語に絶し、礼拝を続けることができなかった。ここにおいて、30年間忍耐したスコットランドは奮然として起(た)った。否全英国が起ったのだ。かくてチャールズ王以下いくたの頭は終に地に落ちたのだ。1638年10月クロムウェルがこの手紙をエライで書いていた頃は、スコットランド人は誓約書(カヴェナント)に署名し、翌月グラスゴウで開くべき大総会の準備に全力を尽くしていた。上述のエジンバラの騒ぎのあった1637年の末には、ハムデン事件が英国の世論の焦点となった。ハムデンの船舶税納入拒絶の裁判が11月6日から始まったのである。セント・ジョン氏は3日間にわたる大弁護をなし、続いてホルボウルもまた3日間雄弁を振るった。反対側の弁護士も弁じ、裁判官も論告し、公判は24日間続いた。人々は鳴りをひそめて事件の結果を待ったが、遂に翌年4月判決下り、ハムデンの敗に帰した。この事件が天下の注意をひいている間に、クロムウェルの土地にも一州の注意の焦点となった事件が起こった。それは排水工事のことで、ハンチンドン付近一帯は「沼地(フェンズ)」と呼ばれているほど、湿潤な、沼の多い土地である故、オーズ河の流れを20マイルもまっしぐらに海に落として、河水の遅滞を防ぎ雨期の氾濫を避けようとの工事である。ところがこの工事の進行中何か政府の無法な要求があったため、クロムウェルは奮然起ってこれに抗したのである。彼は静かで穏やかな農民であるが、あまりの非道には黙っていられない男である。彼は排水工事には大賛成であったが、かかる事情の下に、やむなく、中止することにしたのである。この事件で、主導者の位置に立ったため、「沼地(フェンズ)の殿様」という異名を頂戴した。 故郷には地方の騒擾あり、外には英国の大騒擾があるに際し、クロムウェルは1638年エセックスのウィルアム・マシャム氏方にいる親戚セント・ジョン夫人に次の手紙を送った。サー・ウィリアム・マシャムは清教徒で、政治上に活動し、遂にクロムウェルの下に大官となった人。その家は今はのこっておらぬ。まずこの手紙が同家を記念する材料となるくらいのものである。私はこの書翰の綴字法を現時のにあらためた故、読者も現今のように思って読んでください。セント・ジョンはハムデン事件の有名な弁護士、その夫人がクロムウェルの従妹(いとこ)に当るのである。すなわち伯父ヘンリーの娘である。多分夫婦でこの家を訪問中であったのであろう。 親愛なる従妹(いとこ)よ。 愚鈍剪劣の私に対して変わらぬ愛情を寄せ給うこと、ただただ感謝の至りです。 主の我が霊魂のために慮り給うこと大なるは私の確信するところ、将来もまたかかるべし。神は水なき荒野に泉を湧かし給うもの、私の遅足昏迷なるも、決して棄つること無かるべし。遅くも主は私を幕屋まで招くと信じます。ああ我が霊と我が体とは既に安んじ、神の栄えを表わさんには、働くもよし苦しむもよし、常に歓喜に溢れています。 思えば私ほど神のために尽さざるべからざるものはあらず。過ぐる恩寵は数えがたく、来む愛燐も少なくはなし。主は御子キリストの中に我を受け入れ、光明の中に歩ましま給う。我らの暗きを輝かすのは彼なり。我のごとき暗黒なる心を照らし給う主の有難さよ。御身の知り給うごとく我は暗黒を愛せし者、罪人のかしらなりき。しかるに主は慈悲を垂れ給いぬ。ああ大なる愛よ。願わくは主を讃美し、「善きわざを始めし者これを主イエスキリストの日までに全う」せんことを祈られたし。マシャム家の人々に御鶴声を乞う。御愛情のほど、有難くまた我が息子もお蔭にて健在なりと。願わくは我が息子のために祈りまた教え給え。御良人へも御子様へもよろしく。いよいよ擱筆致すべく、主御身と共にあらんことを祈る。以上。1638年10月13日、エライにてオリバー・クロムウェル エセックス、サー・ウィルアム・マシャム方 愛する従妹、セント・ジョン夫人様 「私の息子」というのはディックであったらしく察せられる。クロムウェルがこの書翰を発する少し前、ディックをフェルステッドの学校へ連れて行き、この家へも立寄って人々に会ったらしく思う。しかし、今や時の流れに洗い流されてサー・ウィルアムもセント・ジョン夫人も皆過去の人となってしまった。すべて消えてしまったー齢(とし)老いしナイチンゲールの歌のごとく、古バラの香のごとく。ああ死よ、ああ時よ!マーク・ノーブルは、この手紙でクロムウェルの若い時、素行修まらなかったことが解るなどと言っている。ああ心霊の苦闘を知らぬ憐れな男の誤解にも困ったものである。近世の読者よ、願わくはこの書簡を精読して了解せんとつとめよ。ここに人が霊魂を有せしこと。神と共に歩みしことの証(あかし)がある。彼は「上へ召して賜う所の褒美を得ようと標準(めあて)に向いて進」んだのである。一度神の道に従う、苦闘・窮乏何かあらん。恩恵既に足る。ただ己れを殺して神の許(もと)に投ずる。生くるも死ぬるも主の思いままである。これがクロムウェルの信仰であった。読者よ、かかる経験を有するか。もし有せずば、現世(このよ)の行路は平安ならんも、天の光を宿すことはできぬ。天の光を放つことはできぬ。
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)第一編 第一内乱以前の記(一) 書翰第1(二) 書翰第2(三) 2年間(四) 書翰第3(五) 長期議会第二編 第一内乱の記(一) 前記(二) 書翰第4(三) 書翰第5(四) ローエストフ(五) 書翰第6-第8(六) 書翰第9-第11(七) 書翰第12-第15(八) 書翰第16-第18(九) インスピーの戦(一〇) 書翰第19、第20(一一) 書翰第21(マーストン沼野)(一二) 書翰第22、第23(一三) 3回の演説(一四) 書翰第24(一五) 書翰第25-第27(一六) 書翰第28(一七) 急信(一八) 書翰第29(ネースピー)(一九) 書翰第30(クラブ党)(二〇) 書翰第31(ブリストルの襲撃)(二一) 書翰第32-第35第三編 第二内乱以前の記(一) 書翰第36-第42(二) 書翰第43、第44(三) 軍隊の公書(四) 書翰第45-第58(五) 祈祷会第四編 第二内乱の記(一) 書翰第59-第62(二) 書翰第63-第66(ブレストンの会戦)(三) 書翰第67-第79(四) 書翰第80-第86(五) 死刑執行令状 第1編 第一内乱以前の記 1636年-1642年(1)書翰第一序説にも出た通り、セント・アイブズはオーズ河の左岸、広漠たる平原の中に立ち、家畜市場として古より今に至るまで有名である。1636年1月11日付けのクロムウェルの書翰がここで書かれたのである。オリバー・クロムウェルは5年間、農業牧畜をこの町で営んだ。彼の遺跡というてはほとんど無い。その耕作した土地のどの辺であるかは、記録によりておおよそは分かる。すなわち町の東南端(低い方)の低い湿々(じめじめ)した平地である。かたわらの大きな穀倉をクロムウェルのものというのはどうも嘘らしい。町の東端に「クロムウェルの住家」と言われている邸宅があって、今日住民はこれが説教する室であったなどと旅人に話すけれども、これも真実とは思えぬ。これはこの町の大地主の家であったのだ。かつ1世紀くらい以前に建てたものらしい。この家の土地を借りて彼は耕したのである。とにかく彼はここに耕し、畜(か)い、また歩みながら、高遠な思念に首をうなだれたこともあろう。次の書翰は英国博物館に保存してあったのを、ハリス氏の著書に写し取ったもので、これがセント・アイブズ時代の彼に関する唯一の材料である。外にも種々遺物があるなど伝説はあるが、実は無い。またクロムウェルの言行について所伝(いいつたえ)があるけれど、信ずるに足らぬ。〔畔上訳は手紙で候文など江戸時代の手紙の書式によっているがここでは改める〕ストーリ君よ、貴兄等同志が人々に霊魂の糧(かて)を得しめんと尽力致されていること(清教徒が献金して講師(レクチャー)に真実の信仰を説教させたこと)は、まことに美事とと存じます。病院・殿堂の建設も敬虔な事業でするが、霊の糧を給し、霊の殿堂を建設する方、真の敬虔と存ぜられます。兄が我が州に講師(レクチャー)の出張を計られしは疑いもなくかかる事業の一にして、講師エルス氏が来着後、主は彼によりて我らの薄弱(よわき)を扶(たす)けられました。今はただ主が兄らをしてこの事を続けしめんことをのみ祈願いたします。今日、神の敵、真理の破壊者が周章狼狽これを鎮圧しようとする時、この講座を中止せらるるのは実に遺憾です。願わくは兄が中止の原因とならざらんことを。兄よ、講師に給料を払わざるは、すなわち講義の中絶する所以です。誰が自費を以て戦場に臨むべきや。願わくはイエス・キリストのために送金を乞う。さらば神の忠僕等は兄の祝福を祈るべく、私もまた然るべし。以上。1636年1月11日、セント・アイブズにおいてオリバー・クロムウェル ロンドンにある 親友ストーリ様 ストーリ氏はクロムウェルと同州の人らしく、ロンドンに出でて、実業に成功し、清教主義を奉じた人であった。 ストーリ氏が醵金者の重なる人であったことは、外に記録はないが、この書翰によってわかる。 ハンチンドンにエルス氏の講義のあったことはたしかであるけれど、政府の方はかかる新思潮の鎮圧を計ったこととて、1636年にはもう講座はなかったと思われる。エルス氏のことは一向分からぬが、巡回講師であって一地方に限られた講師ではなかったとも想像される。 この手紙の応答(こたえ)はあったかどうか知らぬが、当時ロオド監督の威権はようやく強く、ストーリ氏等は罰金など課せられて大分金を失った故、講義は間もなく中絶し、もはや大監督様にご迷惑をかけないようになったろう。 マーク・ノーブル君は、この書翰をもって、クロムウェルがこの時、既にいかに宗教的熱信家なりしかを証するものとしているが、お説の通り、彼は不思議なキリスト教熱信家の一人であったのだ。ノーブル君よ、ちょうど君が満腹さすべき胃袋の存在を信ずる通り、彼らは救わるべき霊魂の存在を信じ、それについて配慮したのである。 クロムウェルのセント・アイブズ時代のことは読者の想像に任せよう。材料はこの手紙のほかにないのである。一言でいえば勤勉の作業、永遠の沈思(おもい)-これが彼の平生であったろう。 子どもは6人あった。4人の男児と2人の女児と。すなわちロバート、オリバー、ブリジット、リチャード、ヘンリ、エリザベスと呼ぶ。ロバートとオリバーはこの頃既に通学していたであろう。 この頃は母の兄サー・オリバーはエライで病床に横たわり、1月(クロムウェルがこの手紙を書いたのも1月)に財産の大部分をクロムウェルに譲るとの遺言状をしたため、30日に長逝した。 また面白いことに、クロムウェルがこの書翰をしたためた同日に、ジョン・ハムデンの住んでいる村に2人の税務官吏が来て、村人を集め、船舶税を賦課した。抑えに抑えし義人の憤りはボツ然として発し、ここにハムデンはこの船舶税納入を拒んだのである。
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行) 第2章 オリバーの伝記 私の仕事というのはオリバー・クロムウェルの手紙と演説とを順序正しく収集するということである。小事業であるが有用な事業であろう。少なくとも後に出る好い伝記の予備ともなろうか。 自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。すなわちクロムウェルは清教徒革命の中心人物であって、彼がいなかったならば清教徒革命は世界史に一期を画する大事件にはならなかったであろうということ。もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということこの二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとほか思えない。 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言い表わそうと努めたのである。それ故その言葉を知るは彼の事件の精神を知る所以である。願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。かの清教徒事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。 在来のクロムウェル伝について言うのはあまり利益もないと思う。その多くは、偉人伝中においては、その馬鹿馬鹿しさ加減において群を抜いているという代物(しろもの)である。忘れさってよい書物である。葬ってしまうのがむしろ慈善である。マーク・ノーブルは「最初のクロムウェル伝記」を6つばかり挙げたけれども、その6つの伝はいずれも読む価値のないものである。クロムウェルを批難する伝はたくさんあるが、その拠り所はジェームズ・ヒースの「叛臣クロムウェルの生涯と死」という書である。これはつまらぬ書物である。このヒースという男はただ小冊子ばかり著していた憐れな文士であった。彼はまた「内乱の歴史」というものを著しているが、やはりくだらぬ書物である。近世の伝記でマーク・ノーブルのは独創的といえばいえようか。クロムウェルに関するいろいろの材料をごとごと集めてあって、くだらぬ考証のような所もだいぶんあるが、少しは価値のあるものもあろう。が、ノーブルは判断力洞察力に乏しく、多くの誤謬に陥っている。この書は伝記ではなくて、むしろクロムウェル字典である。何でもかんでも、ごとごた集めたものである。しかし、その後のクロムウェルに関する著述は、皆材料をここから引き出したのである。ノーブルはまた「レジサイズの伝」〔訳者注、レジサイズRegicidesとは弑逆者の義でチャールズ一世に死刑の宣告を与えし人々をいう〕を著しているが、これはますます拙い書物である。ノーブルの意見は中立であって、前後矛盾の所も多いが、まあクロムウェルをやや良く見たものといわれる。ノーブルの書は1787年の出版であるが、これを1663年のヒースの書に比すると面白い。クロムウェルの真相が、次第次第に一般人士に明らかになり来ったことがわかる。1698年、ある無名の人が初めてクロムウェルを良く見る意見を発表し、その後バンクスという人が、さらに良く見る意見を発表した。しかしいずれも良い書物ではない。クロムウェルの朝廷に仕えたジョン・メードソンの人に送った手紙はクロムウェルを知る材料になる。これは1659年の日付であって、1742年に印刷されたもの、この人は善人であってクロムウェルに忠実であった。この手紙はかの17世紀の事件に光を投じ、またクロムウェルの人物をよく描き出してある。また官内官吏のハーヴェーは1659年に小冊子を著したが、これはメードソンのよりも確実で趣味がある。右の二は断片ながらかえって堂々たる伝記に勝る。ノーブルが監督ギブソンの著とした匿名のクロムウェル伝が一つある。これは本当はキムバーという人の著で1724年の出版である。この人は中立的立場(ややクロムウェル側に傾いている)を取って、種々の材料を集めてあるが、肝心なクロムウェルの人格は一向あらわれておらぬ、また不正確な点も多い。最後としてジョン・フォスターの1840年に出版した「共和政時代の政治家」という書を挙げよう。この書を挙げよう。この書も古い書物から寄せ集めたものであるが、新意見がないでもない。 オリバー・クロムウェルを知るには従来の文書はすべて役に立たない。そこで私は彼の書簡と演説とを集めて、その人物を知ろうと企てる。その残っている最初の書簡の年代より以前の彼の生涯を少し記しておこう。第3章 クロムウェルの一族 後年英国共和政の守護官(プロテクター)となったオリバー・クロムウェルは、1599年4月25日ハンチンドンに生まれ、その29日に洗礼を受けた。 その家は土地の農家である。父はロバート・クロムウェルと呼んでナイトの家から出た人、母はエリザベス・スチュワードと呼んでエライの農家の女でその兄はナイトであった。エリザベスは始めイリアム・ラインという人に嫁して、寡婦となったのを、1591年ロバートが娶ったのである。オリバーは夫妻の間の第5子で次男だった。兄弟は10人あったが7人だけ生育し、兄が死んでオリバーは独り息子となった。 ノーブル先生の書物などによると、母のエリザベスはたしかにスチュアート王家の系統を引いているそうである。なんでも面倒臭い考証のようなことをたくさんしているが、このエリザベスは王チャールス・スチュアートとだいぶん遠い親戚になるという結論を下している。この夫妻は土地を所有しておって、農業に従事し、収入は年300ポンドあった。今の千ポンドくらいに当る。まあ裕福な生計である。本家(父及び兄)は近くのヒンチンブルックに住んでいたが、そこに立派な邸宅を造った。この邸宅はオーズ河の左岸緑樹うっそうとした間に立つ美しい建物で今日もほとんど昔のままにのこっていて、クロムウェルの肖像等19世紀及びそれ以後の史料たるべきものが保存してある。 ハンチンドンはオーズ河の左岸に横たわっている都会で、真ん中に一つの立派な街路があるが、これが主たるものである。寺は2つある。郊外には田畑沼地などが広く延びている。オリバーはここでその若い時代を過ごしたのである。 その家は今もハンチンドンの住民は皆知っている。しかし既に2回建て直したおので、当時の遺跡は知る由もない。町の北部に立ち、街路の左側すなわちオーズ河へ近い方にある。ロバート・クロムウェルは酒の醸造をやったという伝説があるそうだが、よくは解らぬ。とにかく田畑を耕して穀物を刈ったことは事実で、それを麦のまま市場へ送ったか、モヤシとして送ったかは、どうでもよい話である。ロバート・クロムウェルは田舎の紳士として相当に活動して、公共事業にも関係し、若い時は一度代議士にも選ばれた。とにかく賢い。信心深い。真面目な、しっかりした人で、謙遜な男らしい生涯を送ったのである。ハンチンドンブリックのナイトの外にも親戚がたくさんあって、皆立派な生計(くらし)をしていた。だから、オリバーは貧窮であったという伝説は全く根もないことで、中流の生計を営んでいた一族に属していたのである。 1616年 1616年4月23日オリバーはケンブリッジ大学のシドニー・サセクス・カレッジに入る。このことは学校の記録に残っている。 ちょうどこの時シェークスピアは世を辞した。されば英国第一の世界的大事件、すなわちシェークスピアの文学が終わり、第二の世界的大事件すなわちクロムウェルの武装的悪魔征服は始まりつつあったのである。 シドニー・サクセス・コレッジのクロムウェルの先生は、リチャード・ハウレットという人で、厳格真率な昔風の清教徒であった。くわしいことは一向わからないが、リチャード・ハウレットは、全力を尽して、オリバー等の少年を教育したのである。ただし、どんな方法でどんなふうの教育をなし、どんな結果を生んだかは少しも解らないのである。書物は汗牛充棟もただならざるに、事は多く不明になるものである。 1617年 1617年3月、ヒンチンブルックは再び王の訪う所となった。しかしサー・オリバー・クロムウェルの財産は少しく傾いていた故、王は前ほどには歓待されなかったであろう。ハンチンドンの方では、ロバート・クロムウェルは病床にあって王の御通過などには無頓着であった。これは、ジェームズ王が、自分の任命した監督(僧正)等の権力を強めるためのスコットランド訪問の途中であった。監督等は、人民からだいぶん軽んぜられていたのである。供奉員の博士ロオドの記事に面白いところがある。すなわちスコットランドには袈裟もなく、祭壇もなく、儀式がない、全く無宗教であると記してある。儀式がなければ宗教が無いのだと思っている。王の一行がスコットランドを巡回している間に、ロバート・クロムウェルが世を去った。7月の末であった。父を失ったオリバーは、同じ年にエライの祖父をも失った。クロムウェルの母は、夫と親とに一年の中に別れたのである。我がオリバー・クロムウェルは、18歳で父の後を継ぐようになった。くわしいことはやはりわからぬけれども、たしかにケームブリッジを永久に去って、一家の主として適当なるように至急準備にかかった。数か月の後、ロンドンへ法律の研究に行ったという伝説は間違ってはおらぬようである。けれども、ノーブルのいう弁護士になるための法律協会に入ったということは、根拠のない説で、ただ、田舎の紳士としての仕事に必要な法律知識を得るために、誰か博学の法律家の事務所に入ったものらしい。ロンドン滞在中、彼がトバク・遊楽等にふけり、放肆(ほうし)の生活を送ったという説は例のヒースから出たのであって、信ずるに足らぬ、彼が法律研究のためにロンドンにおったことだけは、確かであるが、その詳細は少しも解らぬのである。それ故、敵も味方も、放肆生活云々の事を、肯定もできねば否定もできぬ。 1618年 1618年10月29日の朝、クロムウェルは多分サー・オータ・ローレーを断頭台の上にみたであろう。ローレーは当時の大人物であったが、ちょっとしたことのためスペイン王の怒りに触れ、そのためにジェームズ王から死刑の宣告を受けた。午前8時ウンカのような観衆の中に立って白髪頭のローレーは言った。「どうか早くしてくれ。4,5分たつと病苦が起こるから(心臓が悪かった)その前に殺してくれ。恐怖のために震えたと言われても残念ゆえ」と。 この頃、オリバーがロンドン在住のサー・ジェームズ・プアチャを時々訪問したことは明らかである。この人はナイトで裕福に暮らし、数人の娘を持っておった。その中のエリザベスという娘がオリバーの心を惹いた。1620年 ロンドンのセント・ジャイルス寺院の1620年8月の「婚姻表」に 22日オリバー・クロムウェル、エリザベス・プアチャと婚姻す。と記してある。ついでながら同じ寺院の「埋葬表」には1674年11月12日の所に。クロムウェルの補助者であるミルトンの名がある。 オリバーは結婚の日に21年4ヶ月であった。すでに法律研究を終え、新婦と共に母のものに帰った。姉妹はたいてい嫁してしまって、オリバーは賢母と良妻にたすけられ、無経験の少年とはいいながら熱心に家事の管理をしたことであろう。 以後10年間の生涯は隠れているが、父と同じような田舎百姓の生活を送ったことは想像が出来る。1621年長男ロバートが生まれ、1623年次男オリバーが生まれた。この2人の子息のこの先は一向解らぬ。 1616年 1616年4月23日オリバーはケンブリッジ大学のシドニー・サセクス・カレッジに入る。このことは学校の記録に残っている。 ちょうどこの時シェークスピアは世を辞した。されば英国第一の世界的大事件、すなわちシェークスピアの文学が終わり、第二の世界的大事件すなわちクロムウェルの武装的悪魔征服は始まりつつあったのである。 シドニー・サクセス・コレッジのクロムウェルの先生は、リチャード・ハウレットという人で、厳格真率な昔風の清教徒であった。くわしいことは一向わからないが、リチャード・ハウレットは、全力を尽して、オリバー等の少年を教育したのである。ただし、どんな方法でどんなふうの教育をなし、どんな結果を生んだかは少しも解らないのである。書物は汗牛充棟もただならざるに、事は多く不明になるものである。 1617年 1617年3月、ヒンチンブルックは再び王の訪う所となった。しかしサー・オリバー・クロムウェルの財産は少しく傾いていた故、王は前ほどには歓待されなかったであろう。ハンチンドンの方では、ロバート・クロムウェルは病床にあって王の御通過などには無頓着であった。これは、ジェームズ王が、自分の任命した監督(僧正)等の権力を強めるためのスコットランド訪問の途中であった。監督等は、人民からだいぶん軽んぜられていたのである。供奉員の博士ロオドの記事に面白いところがある。すなわちスコットランドには袈裟もなく、祭壇もなく、儀式がない、全く無宗教であると記してある。儀式がなければ宗教が無いのだと思っている。王の一行がスコットランドを巡回している間に、ロバート・クロムウェルが世を去った。7月の末であった。父を失ったオリバーは、同じ年にエライの祖父をも失った。クロムウェルの母は、夫と親とに一年の中に別れたのである。我がオリバー・クロムウェルは、18歳で父の後を継ぐようになった。くわしいことはやはりわからぬけれども、たしかにケームブリッジを永久に去って、一家の主として適当なるように至急準備にかかった。数か月の後、ロンドンへ法律の研究に行ったという伝説は間違ってはおらぬようである。けれども、ノーブルのいう弁護士になるための法律協会に入ったということは、根拠のない説で、ただ、田舎の紳士としての仕事に必要な法律知識を得るために、誰か博学の法律家の事務所に入ったものらしい。ロンドン滞在中、彼がトバク・遊楽等にふけり、放肆(ほうし)の生活を送ったという説は例のヒースから出たのであって、信ずるに足らぬ、彼が法律研究のためにロンドンにおったことだけは、確かであるが、その詳細は少しも解らぬのである。それ故、敵も味方も、放肆生活云々の事を、肯定もできねば否定もできぬ。 1618年 1618年10月29日の朝、クロムウェルは多分サー・オータ・ローレーを断頭台の上にみたであろう。ローレーは当時の大人物であったが、ちょっとしたことのためスペイン王の怒りに触れ、そのためにジェームズ王から死刑の宣告を受けた。午前8時ウンカのような観衆の中に立って白髪頭のローレーは言った。「どうか早くしてくれ。4,5分たつと病苦が起こるから(心臓が悪かった)その前に殺してくれ。恐怖のために震えたと言われても残念ゆえ」と。 この頃、オリバーがロンドン在住のサー・ジェームズ・プアチャを時々訪問したことは明らかである。この人はナイトで裕福に暮らし、数人の娘を持っておった。その中のエリザベスという娘がオリバーの心を惹いた。 1620年 ロンドンのセント・ジャイルス寺院の1620年8月の「婚姻表」に 22日オリバー・クロムウェル、エリザベス・プアチャと婚姻す。と記してある。ついでながら同じ寺院の「埋葬表」には1674年11月12日の所に。クロムウェルの補助者であるミルトンの名がある。 オリバーは結婚の日に21年4ヶ月であった。すでに法律研究を終え、新婦と共に母のものに帰った。姉妹はたいてい嫁してしまって、オリバーは賢母と良妻にたすけられ、無経験の少年とはいいながら熱心に家事の管理をしたことであろう。 以後10年間の生涯は隠れているが、父と同じような田舎百姓の生活を送ったことは想像が出来る。1621年長男ロバートが生まれ、1623年次男オリバーが生まれた。この2人の子息のこの先は一向解らぬ。 1623年1623年10月皇太子チャールズがスペイン訪問を終えて帰国したので、英国民は提灯行列などをやって祝意を表した。ハンチンドンにおいてもそうであったろう。これはジェームズ王がチャールズのためにスペインあたりの皇女をめとる下心であったのだが、その事がなかったのは大いに喜ぶべきことであった。当時のスペインは法王党の味方であったために、英国人の精神とは全く相容れないものであった。ジェームズ王の傾向は英国人の無言の精神とは二つに別れ、各々別の路を進み、その間隔は次第にひろくなった。この頃クロムウェルは憂鬱症にかかった。医師シムコット氏は「夜中に迎えが来たことが時々あった」と語ったという。大人物が生死の大問題に触れた時は皆こんなふうになるものである。永久の真理が来たって心を開き、天来の光明が下って、霊を輝かさないのでなければ、回復しない病気である。しかし暗中にあって失望すべきではない。懊悩が大きければ、後の安心もまた大きい。モウモウたる黒煙もやがてコウコウたる炎となって天の光と輝くのである。勇め我が友!されば、クロムウェルがカルビン主義のキリスト教を信ずるに至ったのはこの頃であろう。即ち彼はここに確固とした信念を得て、永遠の死を免れたのである。これは彼の生涯の重大な時期である。これがないならば清教徒の革命はなかったのである。彼が悪魔に仕えないで神に従う決心を起こしてから、彼の前途はもう定まったのである。善悪の区別の時空を貫くこと、それが形に現れて天国地獄となることーこれがかの清教時代の根本信仰であったのである。これが彼らの事業を偉大にし高貴にしたのである。かくてクロムウェルは「安息日だけのキリスト教信者」ではなくて、毎日、至るところでクリスチャンであったのである。 1624年 清教主義は次第に力を増して、真面目な平民は次第に多くこれに従った。この頃ブレストン博士という清教主義の有名な教育家の主唱で、寄付金を集めて、国内の説教者の不足を補う運動が始まり、その結果「講師(レクチャー)」という一種の伝道師が非常の人数に達した。時に例のロウド博士はこれを禁じて、清教主義に圧迫を加えた。クロムウェルも寄付者の一人で、その郷里で熱心に尽したものと察せらるる。 クロムウェルは清教主義のために尽したが、この頃は誠実真摯の中流社会の人は多く清教徒であって、英国のまじめなる人士はほとんど皆、清教主義の傘下に集まったのである。そして我がクロムウェルは熱心、勇敢、聡明の故をもって、周囲の清教徒の一団から重んぜられていた。 1625年 ジェームズ王は死に、チャールズ1世が即位す。マーク・ノーブルは1625年のチャールズ王第一議会にクロムウェルの議員として出席したことを記しているが、これは全くの誤謬である。伯父のサー・オリバーが出たのである。 1626年 この年クロムウェルがある人に送った手紙があるのだが、この手紙は保存してあったのを盗まれてしまった。第一の現存する手紙はなお9年後であるため、この年代記もあと9年続けねばならぬ。 1627年1627年7月20日ヒンデンブルックはクロムウェル家(本家)の手を離れて、モンテーグ家の手に渡り、サー・オリバー・クロムウェル(クロムウェルの伯父)はラムシーという所に隠退してしまった。彼は王党の味方として種々有形的に力を尽し、ついに財を失ったのである。後年議会軍の大尉オリバー・クロムウェルが家宅捜索に来たというのはこのラムシーの伯父の家であった。それは伯父は王党の人、武器・弾薬等を貯えて王に贈っては困るという理由で、武器弾薬等を没収するためであった。その時クロムウェルが伯父に対して無礼の振舞い多かったなどという古書の記事は信じ難い。もちろんクロムウェルの部下は厳しく武器を探したろうけれども、クロムウェルは恭しく伯父と語を交えていたに相違ない。またこの頃、エライの伯父サー・トーマス・ステワードが発狂した故、後見人を置いて管理することを許して貰いたいという訴訟を、クロムウェル等が提出したという話が、ある書に載っている。ところが数年後にサー・トーマスは遺書を認めてオリバー・クロムウェルに莫大の資産を残した。これほどの間柄であったのだから、訴訟云々の話は誤謬であろう。 1628年 サー・オリバー・クロムウェル議会を退きて後、我がオリバー・クロムウェル議会に入る。これは1628年3月17日で、チャールズ王第三議会であった。 躁急〔いらだち急ぎ〕激怒、たちまち二の議会を解散したチャールズ王も歳入の路に苦しみ、サー・ロバート・コットンの言を用いて議会を召集したのであった。この議会は1か年続いた有名な議会で、エントワース、ハムデン、セルデン、ピム、ホールズ等の諸名士を含んでいた。 王は一所懸命に自分の性急・執拗を制し、どうにかしてうまく調和して議事を進行させようと努めた。しかし、これはできない話である。この議会には清教主義の精神が磅?(ほうはく:広がり満ちあふれるさま)としてみなぎり、不義・偽善と戦うという熱情溢れ、到底帝王神権説を抱く暴王、偽宗教の魁首(かいしゅ)とは一致することは出来なかった。17世紀の英国紳士は衷情から神を信じておったのだ。今日のような粧飾的信仰ではない。そのため父王に流風にならうチャールズ王と真理の味方たる英国とは、もはやいやすべくもあらぬ程離隔したのである。 これは有名な権利の請願(Petition of Right)を通過して、王の裁可を要求し、人民の権利を増した議会である。種々の点より見て、この議会ほど立派なものは前後になく、将来もあろうとは思われぬ。悪を懲らし善を勧め、王侯貴族に反対すと雖も、その態度は静粛温雅にして、衷(うち)に決心を蔵す。まことに勇敢真実なる400人の一団であった。 議員の一人トーマス・アリュアドが人に送った書翰は会議の有様をよく示す材料であるが、その書簡の内容中2,3注意すべき点をあげると、 一、 国内の困難を指摘して王に忠告的上奏案を奉るという動議の提出されたこと。 一、 弁士がたいてい流涕潜々(さめざめ)として演説したこと。 一、 国家困難の原因をすべて王の寵臣バッキンガム公に帰しこれを攻撃したこと。 一、 王がいろいろに議事に干渉すること。等である。なぜ堂々たる6尺の丈夫が小娘のように涕泣したか。これは近頃の紳士諸君には到底わからぬ所である。弾薬帯の代りに聖書を腰に結びつけて考えて見るがよかろう。 議会は王の怒りに触れて10月まで閉会を命ぜられた。ところが実際は1月まで開かれなかった。クロムウェルはもちろん郷里に帰って農業に従事した。 閉会は6月26日のこと。ところが8月下旬になって一日、退職中尉のジョン・フェルトンという真面目な沈鬱な男がロンドンの東部を歩いていた。彼はバッキンガム公という悪人が政府の首に立って横暴圧政の政治を行っていることを憤慨しつつ歩いていた。彼はたまたま刃物屋の前を通った。1シリングの大ナイフを買った。そしてポーツマウスへ行って公爵を刺し殺した。 刺客は死刑に処せられた。死ぬ前に殺人の罪を悔やんだという話。 1629年 1月議会開かれ、クロムウェルはまたロンドンに上がった。 この議会は短かったけれども力あった。これよりさき、チャールズ王は議会を無視して勝手に関税を課し、「権利の請願」の明文に背き、関税を不当として払わぬ商人を獄に投ずる等ますます暴虐を極めた。 宗教上においても高僧の間に色々の悪事があったので、議会は自ら宗教会議と化して論議した。クロムウェルが処女演説をしたのはこの時であった。すなわち1629年2月11日のこと。この演説の一部が歴史にのこっている。 本員はビアド博士(訳者注、クロムウェルの旧師)から聞いたが、アラブラスター博士はボウルズクロスで純然たる法王主義の説教をなし、しかもこれはウィンチャスタの監督ネール博士の命令に出でたという話である。メーンエアリングも前議会で批難されたにも係らず、やはりネール博士のために位置を高められた。かかる有様ではこの後どうなることでありましょう。 ここにおいて、議会はネール、ロオド2監督を弾劾しようとし、ビアド博士を証人として喚(よ)ぼうとした。俄然王は干渉した。議長フィンチは延臣で、王の意志を奉じて、王命なりとてしばしば議事を延期し、血気の議員から責められれば泣き出すという始末。年少気鋭のホウルズ氏等遂にたまりかねて、ある日議長の議事延期を命じて去ろうとするを、疾風のごとく壇上に馳せ上って議長席に押さえつけて動かせず、議場は喧々囂々(けんけんごうごう)空前の活劇を呈す。官吏延臣は「放せ」「放せ」と怒号する。ホウルズは敢然として答う。「否、議員の去るまでは放さぬ」と。議会は戸を閉じ、議長を押さえつけたまま、3か条の重要な決議を急速力に通過せしめ、王兵の至らぬ中に散会した。ホウルズ、エリオット等の諸名士はそのため投ぜられた。ことにエリオットは無期徒刑に処せられてロンドン塔に悲惨な獄死を遂げた。 これは1629年3月2日の出来事、クロムウェルは直ちに帰郷し、陛下は直ちに議会解散の勅令を発した。 王は11年以上議会なくして国を治め、種々に工夫に依りて税を取りたてて国用及び私用に充てた。形式的宗教家はロオト監督(大監督か?)を張本として、くだらぬ儀式的事業を起した。英国民が生活の苦、心霊の悩み、我々の想像を絶するに至り、ただ沈黙の中に忍んで慈愛深き上帝に祈った。それゆえ国王と国民との乖離はますます甚だしくなった。 1630年 1630年7月8日クロムウェルは旧師トーマス・ビアド博士、及びロバート・バーナド氏と共にハンチンドンの保安役員に任ぜられた。 1631年 オリバーは農事の拡張を計るため、ハンチンドンの不動産の全部又は一部を売って、オウズ河を下る5マイルのセント・アイヴズに地を借りた。しかし、母は依然としてハンチンドンに止まっていた。 彼は1636年の夏頃までアイヴズで働いた。勿論時々ハンチンドンの母の方へ見回りに行った。出でては農牧に従事し、〔家に〕入っては聖書等を読み、祈祷し、瞑想し、時に歓び、時に憂えー極めて真面目なる農人の生活を送った。時には例の悒欝(ゆううつ)病に犯されたであろう。そして遂に真の救済を受けたであろう。彼はこの世においてなすべき大なる使命があったが、その大使命、大事業もこの宗教的信仰の獲得に比すれば実に小事件というべきである。 クロムウェルの借りた土地は今でも解っている。しかし「クロムウェルの家」とか「クロムウェルの穀倉」とかいうのは疑しいものである。けれどもアイヴズ時代の手紙が一つのこっている。これが現存せる書簡の第一であるゆえ、もうそろそろこの年代記をやめて書簡を掲げることにしよう。 1632年1632年1月第7子生れしも間もなく死し、残りし6人の中1人も夭逝した。 1633年1633年5月、チャールズ王は例の行列を造って、スコットランドへ行く途中、ハンチンドン州を過(よぎ)った。表面はスコットランド王としての戴冠式のためであるが、実は父王のスコットランド行きと同じ目的であった。ところが父王よりもなお甚だしい失敗に終わった。例のとおり近々大監督に出世しようというロオド大先生も随行した。とにかく忙しい夏の農事の邪魔をだいぶんした。 1634年クロムウェルのアイヴズ時代の第3年目となる1634年の暮れに、有名な船舶税〔訳者曰、「時勢及び生涯」に出ず〕が創始された。これは検事総長ノイの最後の悪事業であった。この男は始終むずかしい面(つら)をしているイヤな奴で、かつては議会の愛国者であったが、検事総長となると王に忠義を尽くし出した。船舶税の発布された時は、彼はもうこの世の人ではなかった。ところで、クロムウェルの親戚ハムデンは断然船舶税を払うことを拒絶した。年代記はここで終わる。
2026.05.02
クロムウェル伝 畔上賢造訳述(大正2年発行)第5章 オリバーの書翰及び演説 オリバーの書翰及び演説はあるいは印刷され、あるいは原稿として処々に蔵されている。そして大抵は印刷されているのだが、恐らくは読んで了解した人はなかろう。かく申す著者のごときも了解したことはない。昔の綴りのままで印刷の間違いなど多く、到底分からぬ代物(しろもの)である。その演説集も沢山あるが、過去200年の間、(はなはだ有難くないが)読んだものは私ばかりであろう。 しかし、この文書は残っておって、確かに17世紀を知る立派な材料である故、私はこれを修理し、整頓し、訂正し、組織して、人の了解できるものとしたいのである。これは良い歴史的研究であろう。 それ故、できるだけこれを収集し、いささか注釈を加えて世に出すのが、この著述の目的である。私は信ずる。忍耐深き読者は必ずこの書簡によりて、オリバー・クロムウェルの高貴な人物を彷彿(ほうふつ)しうるであろうと。すべて各時代の人物と呼ばれた人々の言葉は何らかの益になる。英国を愛する人よ。願わくは過去の愛国者の言葉を少しく味わってくれ。少しは利益があるであろう。 その言は甚だ朦朧(もうろう)たるものである。しかしクロムウェルが自己の思想・感情を最もよく表明したものであることは疑いない。かつては燃える炎、人生共通のかがり火であり、光明であった。昼間は暗い燃えさしでも夜は光を放つもの、この文書もまた17世紀という暗黒を照らす光である。これによりて当時の精神を少しく知ることができると思う。 勿論文士ならぬ彼の手紙であるから、文学的に立派なものではない。彼の大革命中に、なすべき処置、執るべき手段等について記した事務上の書翰である故、たとえ不明な点や修辞の拙さがあっても、その割合には良く書かれてあると私は云う。彼の為すべき真の処置いかんーこれがこの手紙にはよく出ている。それ故素朴の語の裏に一種の高大なる「沈黙の叡智」が閃(ひらめ)いている。語より偉い精神が生動している。雄弁を以て表わさねばならぬような智は小智である。詩を云うではなく、詩を為す人が詩人である。雄弁なき勇気・信念は勇気・信念なき雄弁に遙かに勝る。 私はこれらの書翰を集めて、種々に修理を加えて現今の読書に解りよいようにした。勿論原意を損せざるよう充分つとめ、なるべく原文のままにするようにした。ただ文字の綴りや句読段落等をわかりよくしたまでである。 もっとも偶然残存したこれらの文書だけで、全く暗黒不明となってしまった17世紀を充分に了解することはできない。が、とにかく次第に、17世紀が生きた事実としてかつて在ったこと、ただ空しき懐疑主義や衒学流の形式的世界でなかったこと、頬には色あり、心には勇猛心あり、手には剣があった時代であることなどがわかるであろう。言ってしまえばこれだけのことであるが、この事が実際的には非常な大事件を表しており、これによりて万事が定まるのである。 次の二つの注意を与えさして貰いたい。これは当時の事を知る便りともなろう。 第一の注意。17世紀の清教徒というのは狂気じみた迷信家の寄り集まりで、その首領は愚民を欺いたよこしまな考えの悪賢い人物であるという一般社会の判定を棄ててもらいたい。彼らは真面目に人生と世界とを考えた人々、その狂気のように見えるはその熱心である。マキャベリ主義とか偽信とか官僚的高言などは、後世にはあっても当時はあまりなかったのである。心にもないことを公言するために舌を動かすなどとは当時の人は夢にも知らないところだった。ロード大監督のような男でも、思ったとおりに実行したので、その点は正直者である。どうか偽信とか欺瞞とかいう形容詞を清教徒に付ける俗見を棄ててもらいたい。そうすると、ここに「神の信仰」の上に立つ実際世界(すなわち17世紀の彼の事業)を見ることができる。こういうものはそれ以前にはよくあったが、その後は無い。すなわち英国清教主義はその最後の表明であったのだ。 第二の注意。当時の改革党(清教徒)の獲得した政治上の特権が彼らの活動した目的であると想像しないことを望む。彼らはもっと深いところから動かされて活動したので、その特権の獲得や社会の改善は自ら起こった副産物とすべきものである。実に清教改革者は神聖な目的を抱いていた。神国を地上に建てようという大なる目的。神法をして地上を支配せしめようという大なる祈願に動かされていた。みこころの天に成るごとく地にも成させ給えーかく祈って戦った。実にすべての善事の根源なる神国の到来を目的としたのである。 近世の「改革」というやつは大分妙なものである故、読者はこの改革家という者とクロムウェル、ピム等を混同しないことが肝心である。クロムウェル等は王党からは悪魔のように見られたものだが、後の史家はなおさら悪い者にしている。余程注意して見ねばならぬ。「ナアに、今も昔も変わぬ、世の中はいつも同じものだ」という人があろう。ちょっと表面上からはこれが真理のようであるが、実は、世の中の真相は変わっているのである。勿論何の時代にも悪人、卑怯者、悪賢い者は無数に住んでいる。ただ問題は、このような悪人輩が押さえつけられて屈服しているか、又は上に立って威張って我がままを振舞っているかにある。これによって時代に二つの区別があるのである。 読者よ、各時代は互いに大いに異なる。宇宙の高と深とを知らず、自信なく、確信なく、他人によりて動き、所伝に従って歩み、形式習俗の下に圧せられ、一も独創なく、ただ無限の貪欲と消化力とを持つのみの無数の愚かな俗衆の時代は沢山あった。これは非義勇時代であって、速やかに史上から消え去る。紛々たる当時の習俗今いずこにあるぞ。 ああ読者よ。狡徒〔悪賢い人間〕は数多し。ヒロイズムの時代とはかかる徒輩と戦い、その倒るるまで戦い、決して和睦せず休戦せず、上帝に訴えて彼らを懲らさんとする時代である。
2026.05.02
クロムエル伝 上巻 カーライル原著 畔上謙造訳述(以下「クロムウェル」とする) 序説 第1章 衒学(学問・知識をひけらかす)者の愚 英国民がその第17世紀の歴史を真に理解することは容易に出来ないと思われる。まことに我々は17世紀及びその前の世紀において英国人を導いた精神より遙かに隔たってしまった。実に我らは遠くさまよってしまった。どうにかして元にかえらなければならない。17世紀の精神は現代の紛々とした思想とはまるで違う。これは最後の「神の治世」、最後の確信、最後の真実であって、その後は「悪魔の治世」。偽善横行、形式がはびこる世である。ああ我々の真面目に考えるべきことではないか。ああ出でよ。当時の清教徒の歴史!! ある文士が言う。「17世紀の事業は有史以来最上のヒロイズムであるが、人間の愚かさはその真相を滅茶苦茶にしてしまった。一つは当時の精神が分らないため、一つは記録の整っていないため、現代人にはこのヒロイズムが理解されない。その当時の記録は混雑を極めたままになっていて未だに整頓されない。物好きな人がひねくってみるくらいである。 これら古い記録は、とにかく元来はようやく真面目に編集されたものであったが、人間の愚かなる改訂をしばしば経て、今日はモウロウを極めてしまった。真面目な目的には何の役にも立たない有様で、むしろ無い方がよいくらいである。」 文士はなお言う。「我々は自国の偉人を皆こんなことにしてしまうのである。わけの分からない所へ追い込んでしまうのである。誠に結構な天国である!混沌とした国、端から端まで真っ暗な国、中に住む者は衒学者、世俗の好事家、妖怪、バケモノの類いである。クロムウェル及びその清教徒の時代はこの中にあって、我々からは見えない。」「衒学者にはこれで面白かろうが、まじめに、熱心に祖先の面影をうかがおうとするわれらには困ったものであるーああ衒学者諸君、くだらぬ懐疑説や哲学などは引っ込めて、その代わりにかの沢山の記録を整理しておいたならば、人々のためになったろうに」と。 まことにそうである。さて今日われわれが17世紀を理解し得ぬ原因はどこにあるのか、それは昔の人の心にあったキリスト教的信念が今の人にないからである。今あるのは真の信念ではなくそのニセモノである。偽信である。偽信などならば、いっそ無いほうが遥かによいのである。宇宙、人生の神聖は消えてしまった。勿論昔のままの信仰は口より口に伝えられているが、厳粛なる神命とはされずして、ただ表面(うわべ)を飾る装飾物にされている。今日のキリスト教というものはすべてこれである。それ故、真の信仰から出た17世紀の歴史の解らぬのは当然である。 かの文士はなお言う。「印刷術も知らない国民が、歌謡や記念碑などによって立派に昔の事件を伝えたことがある。少なくとも昔の義勇事がそのまま遺って、理解されて今人の刺激になっている。その形は死んでも精神は立派に遺っている。今でも輝いている。歌になり詩になる。ちょうど英国民とは反対である。さらば人間の記録というものはかえって事件を暗中に葬るものであろうか。」「ギリシャ国民には活きたイリアッド(ホーマーの)があるのに、我々にあるクロムウェルに関する記録は死んでいる。何たる大なる相違ぞ。我々の印刷物は沈黙以上の力を持っているとみえて、立派な事件を殺してしまう、神聖なる英雄の事業を暗中に葬りさる大天才-これは英国民の特色といえる。」「まことに、英国の過去の歴史は暗澹たる迷宮であって、これによって見れば英国民は一つも勇敢なことをなしたことのない国民である。人間が書いた歴史ではなく、夜鬼の書いた歴史のようである。英国民といえば決して他国民に劣らぬ、いな有史以来最勇敢の国民であろうーけれども惜しいことに「言葉の痴呆」<叙述の拙劣>もまた第一等である。詩人シルレルは言った。 痴呆には神様も適(かな)わないと、困ったものである」と。 けれども歴史というものはたいていこんなものである。これ痴呆のためのみでない、また運命のしからしめる処である。元来、人間の歴史は迷宮である、混沌である、ちょうど大きな藪のようなもので、今の青い葉の下に無数の草木が枯死しておって、常に新陳代謝する、つまり完全な歴史はないのである。これは有り得べからざるものである。過去の世紀はすべて朽ち去った、歴史家に眼識あり精神あれば。歴史も完全なのである。現在は過去の蓄積である。真の歴史学(衒学者と真史家との別)は、今、葉を出し、花を開いている樹と、もう枯れてしまった樹とを識別することである。忘るべきものは忘れ去り、覚えるべきものは覚えることである。これがうまくゆき、国民の精神が立派で真摯であれば真歴史出で、然れざれば偽の歴史が出る、詩人僧侶が無益の議論や形式に走る今日、衒学者に至ってはますます甚だしい、歴史の迷宮年一年に暗黒を増し、高貴なるヒロイズムは衒学者の手に委ねられて、遂に暗中に葬られるのか。しかしわたしの云うべきことはこうであった。-ピューリタニズム(清教主義)は19世紀のものでなく、17世紀のものである。それゆえ、今の人にわからぬのである。かつては天の命として貴まれ読まれた文書も、今の人にとっては不可解の謎の語である。現代人はそれを読むに堪えぬのである。清教主義は全く不明になってしまった。その熱烈なる説教、祈祷、文章も力を失ってしまった。ああ人間の言説も、永遠の真理に触れずんばすべて消え去る。人界の事、何物か然らざらん。この世の紛々たる流俗のごとき、たちまち消え去るものである。清教徒の時代は消え去ったのみならず、全くわたしたちの心に反響を起こさぬ、その精神は不朽であるべきはずであるのに消え失せてしまった。かの文士の語をなお記そう。言う。「たしかに17世紀の事件はヒロイズム(義勇事)であってその精神は永久の真である。実に我が英国の土地に英雄があったのである。その英雄は、神の正義がこの世を支配せること、神の味方として戦うは善にして、悪魔の味方になるは悪なることを知っていた。清教主義は人間の最貴最高なるヒロイズムであった。ただ不幸にして衒学者諸君には解らぬのである。天来の光輝も彼らにとっては無意味なのである。彼らは天来の光明には堪えぬのである。ああ偉いかな衒学者諸君!」 かくてかの文士は、過去の事件の真相が次第に消え去って混沌暗黒の中に没し去るを悲しんでいる。 しかり、過去のヒロイズムを復活するはなかなか容易のことではない。気短かの我が友(かの文士)がだいぶん沮喪しているのももっともである。 しかしまあ、この辺でほとんど望みのない仕事に従事している我が友と別れよう。どうかもっと忍耐深くして予期以上の成功を収めんことを祈る。さてそこで今度は自分の小さい計画に移ろう。
2026.05.02
クロムエル伝 上巻 カーライル原著 畔上謙造訳述(以下「クロムウェル」とする) 序説 第1章 衒学(学問・知識をひけらかす)者の愚 英国民がその第17世紀の歴史を真に理解することは容易に出来ないと思われる。まことに我々は17世紀及びその前の世紀において英国人を導いた精神より遙かに隔たってしまった。実に我らは遠くさまよってしまった。どうにかして元にかえらなければならない。17世紀の精神は現代の紛々とした思想とはまるで違う。これは最後の「神の治世」、最後の確信、最後の真実であって、その後は「悪魔の治世」。偽善横行、形式がはびこる世である。ああ我々の真面目に考えるべきことではないか。ああ出でよ。当時の清教徒の歴史!! ある文士が言う。「17世紀の事業は有史以来最上のヒロイズムであるが、人間の愚かさはその真相を滅茶苦茶にしてしまった。一つは当時の精神が分らないため、一つは記録の整っていないため、現代人にはこのヒロイズムが理解されない。その当時の記録は混雑を極めたままになっていて未だに整頓されない。物好きな人がひねくってみるくらいである。 これら古い記録は、とにかく元来はようやく真面目に編集されたものであったが、人間の愚かなる改訂をしばしば経て、今日はモウロウを極めてしまった。真面目な目的には何の役にも立たない有様で、むしろ無い方がよいくらいである。」 文士はなお言う。「我々は自国の偉人を皆こんなことにしてしまうのである。わけの分からない所へ追い込んでしまうのである。誠に結構な天国である!混沌とした国、端から端まで真っ暗な国、中に住む者は衒学者、世俗の好事家、妖怪、バケモノの類いである。クロムウェル及びその清教徒の時代はこの中にあって、我々からは見えない。」「衒学者にはこれで面白かろうが、まじめに、熱心に祖先の面影をうかがおうとするわれらには困ったものであるーああ衒学者諸君、くだらぬ懐疑説や哲学などは引っ込めて、その代わりにかの沢山の記録を整理しておいたならば、人々のためになったろうに」と。 まことにそうである。さて今日われわれが17世紀を理解し得ぬ原因はどこにあるのか、それは昔の人の心にあったキリスト教的信念が今の人にないからである。今あるのは真の信念ではなくそのニセモノである。偽信である。偽信などならば、いっそ無いほうが遥かによいのである。宇宙、人生の神聖は消えてしまった。勿論昔のままの信仰は口より口に伝えられているが、厳粛なる神命とはされずして、ただ表面(うわべ)を飾る装飾物にされている。今日のキリスト教というものはすべてこれである。それ故、真の信仰から出た17世紀の歴史の解らぬのは当然である。 かの文士はなお言う。「印刷術も知らない国民が、歌謡や記念碑などによって立派に昔の事件を伝えたことがある。少なくとも昔の義勇事がそのまま遺って、理解されて今人の刺激になっている。その形は死んでも精神は立派に遺っている。今でも輝いている。歌になり詩になる。ちょうど英国民とは反対である。さらば人間の記録というものはかえって事件を暗中に葬るものであろうか。」「ギリシャ国民には活きたイリアッド(ホーマーの)があるのに、我々にあるクロムウェルに関する記録は死んでいる。何たる大なる相違ぞ。我々の印刷物は沈黙以上の力を持っているとみえて、立派な事件を殺してしまう、神聖なる英雄の事業を暗中に葬りさる大天才-これは英国民の特色といえる。」「まことに、英国の過去の歴史は暗澹たる迷宮であって、これによって見れば英国民は一つも勇敢なことをなしたことのない国民である。人間が書いた歴史ではなく、夜鬼の書いた歴史のようである。英国民といえば決して他国民に劣らぬ、いな有史以来最勇敢の国民であろうーけれども惜しいことに「言葉の痴呆」<叙述の拙劣>もまた第一等である。詩人シルレルは言った。 痴呆には神様も適(かな)わないと、困ったものである」と。 けれども歴史というものはたいていこんなものである。これ痴呆のためのみでない、また運命のしからしめる処である。元来、人間の歴史は迷宮である、混沌である、ちょうど大きな藪のようなもので、今の青い葉の下に無数の草木が枯死しておって、常に新陳代謝する、つまり完全な歴史はないのである。これは有り得べからざるものである。過去の世紀はすべて朽ち去った、歴史家に眼識あり精神あれば。歴史も完全なのである。現在は過去の蓄積である。真の歴史学(衒学者と真史家との別)は、今、葉を出し、花を開いている樹と、もう枯れてしまった樹とを識別することである。忘るべきものは忘れ去り、覚えるべきものは覚えることである。これがうまくゆき、国民の精神が立派で真摯であれば真歴史出で、然れざれば偽の歴史が出る、詩人僧侶が無益の議論や形式に走る今日、衒学者に至ってはますます甚だしい、歴史の迷宮年一年に暗黒を増し、高貴なるヒロイズムは衒学者の手に委ねられて、遂に暗中に葬られるのか。しかしわたしの云うべきことはこうであった。-ピューリタニズム(清教主義)は19世紀のものでなく、17世紀のものである。それゆえ、今の人にわからぬのである。かつては天の命として貴まれ読まれた文書も、今の人にとっては不可解の謎の語である。現代人はそれを読むに堪えぬのである。清教主義は全く不明になってしまった。その熱烈なる説教、祈祷、文章も力を失ってしまった。ああ人間の言説も、永遠の真理に触れずんばすべて消え去る。人界の事、何物か然らざらん。この世の紛々たる流俗のごとき、たちまち消え去るものである。清教徒の時代は消え去ったのみならず、全くわたしたちの心に反響を起こさぬ、その精神は不朽であるべきはずであるのに消え失せてしまった。かの文士の語をなお記そう。言う。「たしかに17世紀の事件はヒロイズム(義勇事)であってその精神は永久の真である。実に我が英国の土地に英雄があったのである。その英雄は、神の正義がこの世を支配せること、神の味方として戦うは善にして、悪魔の味方になるは悪なることを知っていた。清教主義は人間の最貴最高なるヒロイズムであった。ただ不幸にして衒学者諸君には解らぬのである。天来の光輝も彼らにとっては無意味なのである。彼らは天来の光明には堪えぬのである。ああ偉いかな衒学者諸君!」 かくてかの文士は、過去の事件の真相が次第に消え去って混沌暗黒の中に没し去るを悲しんでいる。 しかり、過去のヒロイズムを復活するはなかなか容易のことではない。気短かの我が友(かの文士)がだいぶん沮喪しているのももっともである。 しかしまあ、この辺でほとんど望みのない仕事に従事している我が友と別れよう。どうかもっと忍耐深くして予期以上の成功を収めんことを祈る。さてそこで今度は自分の小さい計画に移ろう。
2026.05.02
クロムヱル伝[第1冊]上巻 第1章 衒学(学問・知識をひけらかす)者の愚 英国民がその第17世紀の歴史を真に理解することは容易に出来ないと思われる。まことに我々は17世紀及びその前の世紀において英国人を導いた精神より遙かに隔たってしまった。実に我らは遠くさまよってしまった。どうにかして元にかえらなければならない。17世紀の精神は現代の紛々とした思想とはまるで違う。これは最後の「神の治世」、最後の確信、最後の真実であって、その後は「悪魔の治世」。偽善横行、形式がはびこる世である。ああ我々の真面目に考えるべきことではないか。ああ出でよ。当時の清教徒の歴史!! ある文士(カーライル自身)が言う。「17世紀の事業は有史以来最上のヒロイズムであるが、人間の愚かさはその真相を滅茶苦茶にしてしまった。一つは当時の精神が分らないため、一つは記録の整っていないため、現代人にはこのヒロイズムが理解されない。その当時の記録は混雑を極めたままになっていて未だに整頓されない。物好きな人がひねくってみるくらいである。 これら古い記録は、とにかく元来はようやく真面目に編集されたものであったが、人間の愚かなる改訂をしばしば経て、今日はモウロウを極めてしまった。真面目な目的には何の役にも立たない有様で、むしろ無い方がよいくらいである。」 文士はなお言う。「我々は自国の偉人を皆こんなことにしてしまうのである。わけの分からない所へ追い込んでしまうのである。誠に結構な天国である!混沌とした国、端から端まで真っ暗な国、中に住む者は衒学者、世俗の好事家、妖怪、バケモノの類いである。クロムウェル及びその清教徒の時代はこの中にあって、我々からは見えない。」 (中略 どうもカーライルの文章は同時代人への罵詈雑言や皮肉が多すぎる嫌いがあるので、本ブログでは全カットすることとする。詳しくは クロムウェル伝 を参照されたい。) しかしまあ、この辺でほとんど望みのない仕事に従事している我が友(ある文士)と別れよう。どうかもっと忍耐深くして予期以上の成功を収めんことを祈る。さてそこで今度は自分の小さい計画に移ろう。 第2章 オリバーの伝記 私の仕事というのはオリバー・クロムウェルの手紙と演説とを順序正しく収集するということである。小事業であるが有用な事業であろう。少なくとも後に出る好い伝記の予備ともなろうか。 自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。すなわちクロムウェルは清教徒革命の中心人物であって、彼がいなかったならば清教徒革命は世界史に一期を画する大事件にはなたなかったであろうということ。もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということこの二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとほか思えない。 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言い表わそうと努めたのである。それ故その言葉を知るは彼の事件の精神を知る所以である。願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。かの清教徒事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。 在来のクロムウェル伝について(略) オリバー・クロムウェルを知るには従来の文書はすべて役に立たない。そこで私は彼の書簡と演説とを集めて、その人物を知ろうと企てた。その最初の書簡の年代より以前の彼の生涯を少し記しておこう。
2026.05.02
クロムヱル伝[第1冊]上巻 時勢及び生涯ここにクロムウェル時代の時勢と彼の公の生涯とを併せて説いて、本書解読の準備知識としよう。詳しいことは本文にあるので、わざわざこんな叙述をする必要はないようであるが、カーライルのクロムウェル伝は、読者にその時代の歴史的知識がありことを予想して書いてあるので、分かりにくい点もあろうかと、訳者の老婆心から、又一つには背景的な記述の必要も少しはあるだろうと思って、これをなすのである。なおこの記述は至極簡単なものであるが、これで我慢してもらいたい。なお又この記述と本文中の記述と重複するところもあるが、これは普通の歴史の立場から見たもの、彼はカーライルの眼で見たもとであるという違いがある。 ジェームス1世の治世(1603年-1625年)光輝くエリザベス治世が終わりを告げ、1603年スチュアート家のジェームズ1世が即位して、イングランドとスコットランドと結んで大ブリテン国を造り、議会だけは両国おのおの有することになった。ジェームス1世は臆病で愚かで圧政的な王であった。女性的なために平和を好み、その治世には重大な戦争は起こらなかった。前のエリザベス女王が「エリザベス王」と呼ばれたのとちょうど正反対に、ジェームス王は「ジェームス女王」とアダナされた。王は「帝王神権説」を固く信じていて、世襲の王者は神に膏(あぶら)を注がれて立てられたもので、その権利は無限絶大であって、人民の疑いやまた人民の限る範囲に属しないとした。彼は言った。「神が行う所をかれこれ言うことは不信・冒涜であるように、王の行うところを臣下が色々批評するのは王を軽蔑する行為である」と、そして人民の多数もまたこの帝王神権説を信じて無茶苦茶な忠君思想を抱いて、人民の権利などいうことは少しも思想の中になかった。即位の時、王のいとこのアラベラ・スチュアートを王位につけようとする陰謀があったが、エリザベス時代の名臣サー・ヲーター・ローレーはこれに関与したという理由のない嫌疑で、ロンドン塔に監禁の身となった(十数年の後、彼は断頭台の露と化した)。1605年には有名な火薬陰謀(Gunpowder plot)が起こった。これはローマカトリック信徒のフォークス等の陰謀で、宗教上に関する王の処置に不満を抱き、議院の床下に爆薬物を敷いて、開院式に王が臨んだ所を貴族・大臣・議員等と共に殺害しようとしたのである。これは実行されない前に露見してしまった。王の時代は英国植民の端緒を開いた時であって、かの清教徒の一隊が自由信仰の国にあこがれて北米ニューイングランドに渡ったのもこの頃のことである。帝王神権説を抱く王と人民の代表者である議会(ことに下院)とあいいれないのは当然である。王は幾度も幾度も下院を解散した。両者の争いの中心点は立法課税に関する王の権力の制限及び下院の特権や権限の性質及び範囲であった。ジェームス王は自分の権力が無限であるかのように振る舞った。王は議会の協賛を経ないで、布告の名をもって法令を発布し、これに背くものには罰を課し、勝手に関税を高めて王の収益を増すなどした。これに対して下院は非立憲の理由をもって種々に反対した。下院の権限としては、種々ある中にも、下院においては国民の幸福のためには拘束も入牢の心配もなく、自由自在に議論をなすことのできる特権、すなわち議会における言論の自由を求めたのである。これに対して王は、議員の権利なるものは国王より付与したもので、穏当の議論を行う中はこの特権を与えて置くが、不穏の言動に出た時は、王はただちに議員よりこの権利を奪ってよいのであると主張した。1621年、下院は王の討議を禁じたある国事の攻究をあえて行い、王は叱責的態度で極めて明らかに下院の権利の否定をした。議員等は大いに怒ってその議事録に「大抗議」を発表して議会の権利を主張し、国家の事は一つとして議会の討論にのせえないものはないと説いた。王はこれを聞いて議事録を取り寄せてそのページを手づから寸断し、怒って議会に停会を命じ議員の5,6名を牢獄に投じたーああ帝王神権と自由民権、この二つはどちらか一方が消え失せるまでは争わなければならない運命を持つものである。ジェームズ1世は22年間イングランド・スコットランド両国の王であった後、1625年世を去った。ヒュームは言った。「彼ほど帝王の絶対権を強く信じていた王もかつていないが、又彼ほどこの権を支えるのに不適任な王もかつてなかった。」ェームス王は自分の権力が無限であるかのように振る舞った。王は議会の協賛を経ないで、布告の名をもって法令を発布し、これに背くものには罰を課し、勝手に関税を高めて王の収益を増すなどした。これに対して下院は非立憲の理由をもって種々に反対した。下院の権限としては、種々ある中にも、下院においては国民の幸福のためには拘束も入牢の心配もなく、自由自在に議論をなすことのできる特権、すなわち議会における言論の自由を求めたのである。これに対して王は、議員の権利なるものは国王より付与したもので、穏当の議論を行う中はこの特権を与えて置くが、不穏の言動に出た時は、王はただちに議員よりこの権利を奪ってよいのであると主張した。1621年、下院は王の討議を禁じたある国事の攻究をあえて行い、王は叱責的態度で極めて明らかに下院の権利の否定をした。議員等は大いに怒ってその議事録に「大抗議」を発表して議会の権利を主張し、国家の事は一つとして議会の討論にのせえないものはないと説いた。王はこれを聞いて議事録を取り寄せてそのページを手づから寸断し、怒って議会に停会を命じ議員の5,6名を牢獄に投じたーああ帝王神権と自由民権、この二つはどちらか一方が消え失せるまでは争わなければならない運命を持つものである。ジェームズ1世は22年間イングランド・スコットランド両国の王であった後、1625年世を去った。ヒュームは言った。「彼ほど帝王の絶対権を強く信じていた王もかつていないが、又彼ほどこの権を支えるのに不適任な王もかつてなかった。」チャールズ1世の治世(1625年-1649年)チャールズ1世は父ジェームズと等しく帝王神権説を抱いて君臨した。これでは下院との争いは続かざるをえない。彼の治世の第一議会はたちまち解散され、第二議会もまた国内が紛糾した大元として王の寵臣バッキンガム公を弾劾(だんがい)したため、たちまち王から解散を命じられた。王は議会なしに治め、国費を増やそうと努めたが、どうしてもうまく行かないため、また議会を召集することにした。この第3議会は王が「権利の請願」を許せば補助金を政府に納めようと言い出した。この「権利の請願」というのは、かの大憲章(マグナカルタ:英国の憲法)等の中に既に保証された英国人民の権利を新たに確保したいというだけのものであった。すなわち当然人民の受けるべき権利が近来受け入れられないため、更に確認を欲したのである。さらに次の4つの事項の禁止を求めた。(1)議会の協賛なしに政府が租税や公債によって歳入の増加を計ること。(2)専断的な投獄。(3)私人の家に兵士が集ること。(4)陪審員なしの審問。チャールズ王は渋々ながらこの請願に許しを与えたが、その条項を破ることくらいは平気であった。しかし、とにかくこれは人民の権利をますます明らかにしたという点においてはなはだ価値の有るものである。1629年から1640年まで王は議会なしに国を治め、「権利の請願」の条項などには眼もくれず、勝手な租税や公債を起こして金を得、立憲君主国は名のみであって、専制王国の圧制的なものが北海に現出することになった。愚かなチャールズ王にはただ一人ではこれだけの高圧的な態度は取れなかった。バッキンガム公はすでに刺客の手で死んでいたが、王を補佐した2人の悪者がいる。すなわちトーマス・エントワスは内治において王を補佐し、王の権限を絶対的にし人民の自由を奪うことに骨を折り、ロオドはカンタベリーの大監督に任命されて、自由の信仰を抑圧し、王を以て英国宗教の頭首とし抑圧的な信条を人民に強制することに力を尽した。2人共に悪辣な官僚党の圧政家であった。ことに宗教家の名をかぶっているロオドの卑劣な心ははなはだ憎むべきで、カーライルが幾度も彼を罵倒したのは無理もないことである。船舶税は王の悪税のいちじるしいものである。これは、昔、国難があった際に港や海に面した州に船舶又はその材料を献上させたことにならって、全国一般に船舶建造を名目として課税したのである。この非道な税を納入することを拒否した者の中にジャン・ハムデンという田舎紳士があった。事件は法廷の裁判に移ったが、ついにハムデンの負けとなった。ハムデンはオリバー・クロムウェルの親戚である。政治上、宗教上、王の圧制は極限に達し、神聖な司法もまた誤りを正す力はない。幾千の人は海を渡って新世界に自由の郷土を求めた。彼らは必ずしも君主に忠でなく愛国者でない民ではない。しかし信教の自由を何よりも尊んだために、愛する故郷がその敵となった以上は、やむを得ず広い世界に自由の地を求めることにしたのである。勇ましく又悲しい覚悟ではないか。人間(じんかん)到る処青山あり。我ら広い世界を思わざるを得ないものである。王はスコットランドの長老派信者(プレスビデリアン)にイングランドの礼拝式を強制しようとした。彼らはこれを法王主義の復活として、盛大に反抗した。貴族も農夫も皆、宗教の革新のために最後まで争うという誓約(カペナント)をした。以後、彼らを誓約派(Covenannters)と呼ぶ。時に1638年であった。王はこれを鎮圧しようとし、スコットランド人は兵により争うとした。このため王は軍資金を得るために議会を召集したが、下院は国憂について討論するだけだったのでこれを解散した。これを短期議会という。ところがスコットランド兵は国境に迫り王の国庫は乏しかったため、また議会を召集した。この議会はいわゆる「長期議会」で1640年から12年以上続いた。下院議員はたいてい真摯で熱烈な人々で飽くまで王の圧制に反対しようとしていた。そしてまず王の寵臣ストラフォード伯爵(エントワス)、ロウド大僧正の2人を弾劾して断頭台に挙げ、3か所の悪裁判所を廃止し、非立憲的な解散の予防として議会自らの決議によらなくては解散できないと議決した。王はハムデン、ピムなど下院のおもな議員5名を捕えて下院を威嚇しようと、兵で下院に臨んだため、人民の非常な激昂を招いて、積年の不満はここに爆発してロンドン市民は武器をもって立ち上がり議員を保護するという騒ぎになった。王は高圧的な方法が失敗したことに驚いて宮廷を棄ててヨークに逃れ去った。これは1642年1月10日のことであり、これが内乱の端緒である。 内 乱(1642年-1649年)1642年8月22日王はノッテンガムに王旗を立てて忠君の士を全国より招いた。今は国は王党、民党(又は議会党)の2つに分かれて争うこととなった。貴族、富豪、僧侶はたいてい王党にくみし、平民はおおむね民党に属した。既成教会に忠実なもの、旧教的なものは王党に属し、清教徒(Puritanns)は民党に属した。王党と民党の争いは貴族と平民の争いであった。圧制と自由との衝突であった。民党のことを又円頂党とも呼んだ。後民党は2つに別れた。清教徒の中にも長老派的な脈を引くものとそうでないものがあったため、長老派、独立派の2つに別れたのである。戦うこと3年互いに勝敗があったが、ここに議会党の士官の中にオリバー・クロムウェルという一人の偉大な人物が現れた。彼は元来農業の人であったが、国難は彼の大きな才能をひろげ、騎兵の連隊長として勇名を馳せた。彼の兵は鉄騎隊と称せられて、皆信仰の篤い士、品行の厳正で名高かった。戦場に臨むや讃美歌を以て軍歌に代え、この連隊だけは戦って勝たないことはない有様であった。議会党の中、長老派は王に制限を加えて王政を復活しようとし、独立派は共和政を建設しなければ国の病を根本的に治療することができないとした。議会軍の将官はたいてい貴族であって長老派に属していたが、内乱の第3年目頃に独立派より因循姑息であると批難を受けた。長老派は王軍を撃破しつくしては王政の転覆を惹き起こすとして、退き譲るような態度を取ったのである。長老派は独立派から見れば「半王党」であった。独立派は、長老派の将官の下に軍が置かれる間は大事を行うことはできないとし、何とかしてこれらの将官を除きたいと思った。しかし公然と2派が争っては議会軍内部の争いとなり勢力が弱まるため、ここに一策を考えて「すべて議員は軍隊に位置を占めてはならない」という「自己否定律」を議会に提出してうまく通過し、そのためエクセス伯爵等の将官は軍隊を退く事となった。こうして長老派を除いた後の軍隊は全く独立派の手に帰し、サー・トマス・エアファックスを総司令官に戴き、クロムウェルは中将としてその次の位に立った。しかし実際は彼が独立派の頭首だった。(自己否定律によれば、当時議員であったクロムウェルは当然軍隊を退くべきで、彼はいったん退いたけれども、彼がいなくてはこの独立戦争を戦うことができないため、除外例として軍に入ることになった。) クロムウェルは直ちに自分の鉄騎隊にならって全軍の改造を計った。今や議会軍は誠実・熱烈・篤信の清教徒2万を以て限られ、祈祷を行い、讃美歌を唱えて戦場に出た。実に宗教的熱情のみの上に立つ軍であった。上はクロムウェルより、下は最低の兵卒に至るまで、神の名によりて、教会と国家とにあるすべての圧制を打ち砕かんと決心していた。 さて第一内乱、第二内乱とあって、全く議会軍の勝利となってしまった。これはあ648年のことである。 王は監禁されていたが、議会は長老派の方が多数を占めていたため、王と交渉して王政の持続を計ろうとした。もちろん王権にある制限を付してのことである。しかし王は王党の再び決起して議会軍を破ることを夢想して、誠意を以てこの交渉に当らなかった。国内は今紛々として蜂の巣を壊したような騒ぎとなった。どうすれば決着がつくのかわからない。かつ王党の余燼がいたるところに再燃しようとする有様である。グズグズしていると国はまた兵乱の巷(ちまた)となって折角得た自由の勝利も空しくなる。ここにおいてクロムウェル等独立派は高圧的手段を以て禍根を絶とうと決心した。 このようにしてまず「プライドの掃じょう」というものが起こった。プライド大佐が兵力をもって長老派議員を議会より追い出してしまったのである。このようにして下院議員は100名以下となり全部独立派となった。次に下院は王の審問を決議し高等法院を組織してチャールズ王を審問し、ついに死刑の宣告を下し数日にして王の頭は地に落ちた。時に1649年1月30日であった。 共 和 政(1649年-1660年) 下院は王政を覆し上院を閉じて共和政を創始し、行政の権限は41名より成る「国家参事会」の手に帰した。ブラッドショーがこの参事会の長であったが、実権はクロムウェルにあった。 共和政は初めより種々の困難に会った。チャールズの処刑は反感をひき起こし、ロシア、フランス、オランダはイングランドと交わることを欲せず、スコットランド人は元来自国の王であるチャールズの非業の最期を悲しんで、その王子を大ブリテン国の王位につけることを要求し、アイルランドもこれに賛成して、オランダは外からこれを助けようとした。イングランド内にも王党の残灰は盛んに燃えつつあった。 共和政府はまずアイルランドを討とうと資し、クロムウェルは征伐に出て、王党の軍勢を撃破し、更に国家参事会からの命令によってスコットランドに転戦し、1650年ダンバーにスコットランド軍を蹴散らして信仰的勝利を示し、翌年同日ウースターにまた大勝し、全スコットランドは共和政府に服して、王子チャールズは海をわたってノルマンディーに逃れ去った。 共和政府はオランダと結んで国勢を強めようとしたが、オランダが応じないため、航海条例を発布してオランダを苦しめ(この条例は外国が自国以外の産物をイングランドに輸入することを禁じたもので、当時諸外国の物産を輸入していたオランダを苦しめるためのものである)、二国は戦端を開いたが、戦争は海戦で、イギリスの水軍提督ブレーク大将が勇名をはせたが、1654年に二国は和睦した。 議会解散後、156人の熱心な信者だけから成る新議会が召集されて、議会は聖書解釈や祈祷に多くの時を費やしたが、数か月の後、自ら全ての権利をクロムウェルに譲って解散してしまった。間もなく士官の参事会は国の無政府状態に陥ることを恐れて、クロムウェルに「共和政守護官」の名称を占めんことを勧め、偉大な人物の独裁政治によって国家の危機を救おうと望んだ。 共和政守護官としての彼のやり方は非常に圧制的であった。神の命令と信ずることをドシドシ実行したから、圧制といえば圧制なのである。議会は勝手に解散され、召集され、軍隊で国を治めるような有様で、法王党、王党は非常に迫害を受け、新聞は厳しい監視を受けた。そのアイルランドの王党に対する処置は非常に残虐なものであった。数千人は殺され、数千人は奴隷として西インドに送られ、4万人は海外に自由を求めた。 クロムウェルの高圧政治は国家を鎮静すると共に外国の畏怖を受けて、今や英国はヘンリー8世、エリザベス時代以後最強の勢いに達し、スペインのごう慢を挫いてジャマイカを奪い、法王に迫って新教徒の圧迫を止めさせた。 しかしながら、神の政治を行おうという誠意による彼の政治も、あまりの圧制果断に次第に破綻がいろいろな方面に出て来た。彼の目的は至善であったが方法は必ずしもそうではなかった。多年の労苦と心痛は彼の健康を損じて、共和政の暗澹とした前途は彼の心を弱らせ、熱病におかされるところとなって、1658年9月3日ダンバー及びウースターの大勝の記念日に、彼の英魂はついに永久に地を去った。最後の言葉に言う。「我が業はすでに終れり。されどこの後も神は彼の民と共にいたまうことならん」と。時あたかも大暴風雨の日であった。 クロムウェルは死ぬ前に、その子リチャードを自分の後継者とした。しかし父の正反対の性質をもって生まれたリチャードは、父ですら負い悩んだ重荷を負うことのできる人物ではない。数か月職にあった後、軍隊の請求のまま職を去って、田園で余生を送った。 国民はクロムウェルの共和政の欠陥だけを見てこれに飽きたので、たちまち王政復古の熱情を高め、チャールズはオランダから迎えられてチャールズ2世として王位に即位した。かつてはスチュアート家の暗愚政治を蛇蝎視して共和政の建設に狂喜した国民は、わずかに十余年でこのスチュアート家の一弱子を非常な熱情で歓迎し崇拝した。実にたのむことのできないのは確信なく節操のない無知の民衆である。 このようにクロムウェルが心血を注いだ事業も失敗に帰したようであるが、英国の基礎を固めた功績以外に近世において自由民権の大根源を作ったものであって、後のフランス革命もアメリカ独立も19世紀の民主的大運動も皆脈流を彼にひいているのである。その神の政治を地に行おうとする大確信と大勇気は、千歳の下、意気地のない男を起たせる。彼に欠点はあったけれども、彼の大なる精神に至りては驚嘆のほかない。 今やずる賢く言葉巧みで心に誠実さがない人々が天下に横行し、確信が地に空しい。我らは第17世紀の英国史に「大信念の人」クロムウェルを偲ぶものである。
2026.05.02
クロムヱル伝[第1冊]上巻ここに内村鑑三氏の論文をその著『よろづ短言』より転載す。これ本書の了解に資せんがためである。 余が学びし二大政治書(略) その二、カーライルのクロムエル伝「雑誌の雑誌」記者ステッド氏曰く「余を利益せし書は第一にキリスト教の聖書なり、第二にカーライルの著コロムウェル伝なり、第三に米国詩人ローエルの詩集なり」と。しかしてステッド氏と同一の経験を持ちしものは他にも多からん。 今日まで地上に顕れし最も大なる国家は英国なり。しかして英国の二大政治家とは一はエリザベス女王にして、他の者はオリバー・コロムウェルなり。二者共に政治を学ばざる天然的政治家なり。政治の術、豈これを政治書においてのみ学ぶべきものならんや。 カーライルの「コロムウェル伝」は彼の50歳の時の作なり。これ実に彼の著述中最も大なるものなり。「フランス革命史」はそのドラマ的修飾において、「フレデリック大王伝」はその歴史的考証においてこれに優る所あらん。然れどもカーライルの精神はすべて彼のコロムウェル伝に籠れりといわざるべからず。彼の崇敬を呈せし人、彼が真誠に崇拝せし人はオリバー・コロムウェルその人なりし。 250年間大逆無道の臣として英国人の脳裏に存在せしこの人を恥辱の墓の底より発掘し来り、彼を英国第一の愛国者として、再び世界に紹介せし歴史家カーライルの功は偉大なるかな。余はおもう、もしカーライルがコロムウェル伝を以て彼の著述事業を中止せしならば彼は益のみを後世に遺して害を伝えざりしならんと。彼のフレデリック伝はあらずもがな。彼の「末世の冊子」は彼の公にすべからざりしものならん。彼の英雄崇拝論は多くの不健全なる思想を青年に供し、ことにその我が日本に伝わりてより以来、この書により生涯を誤りし青年少なしとせず。これカーライルの不平時代に成り書にして、これを読んで多少不平病に侵されざる者なし。 然れどもコロムウェル伝に至ては全く然らず。これカーライル氏の「愛の著述」なりという、彼をしてこの書をなさしめし動機は彼の母より受けしものなりという。彼女の深き宗教心と強健なる常識とはこの誤解されし偉人において真正のキリスト教的ヒーローを発見せり。しかして彼の幼時において彼女より注入されしこの思想はこの大著述となりて世に現れしなり。カーライルのコロムウェル伝は実に一平民が一大平民を弁護せし書なり。 オリバー・コロムウェル、彼は英国セントアイブスの一農夫なりし。家は富めりとは称すべからざりしも、さりとて貧しからざりき。畜類の飼育を以て業とし、大いにその道に熟達せりという。歳20にして結婚し、清き幸福なるホームを作るを以て彼の唯一の目的となせり。かくて彼は政治家に成るの必要なく、またその野心もなかりしなり。彼は心に神を拝し、手に正業を取り、以てこの曲がれる世にあって罪なき生涯を送らんとせり。 彼が政治に入りしは40歳の時なりし。しかも彼は大政治家となりて名誉を天下に博せんとて政治に入らざりしなり。彼は時の圧制を憤慨せり。ことに彼と同郷の人なるジョン・ブラインなる者が治安妨害的文書を頒布せりとて獄に投ぜられしを憤り、彼のために弁ぜんとて国会に入りしという。茅屋の下にて在て静かなる生涯を送らんと企てし彼れコロムウェルは人類的観念に迫られて止むを得ず国会議員と成れり。 然れども彼に政略なるもの一つもあらざりしなり。ありのままなる実に彼のごときはあらざりし。彼に丈夫の勇気ありて、また処女のそれのごとき涙と愛情とありし。敵と戦いてかつて敗を取りし事なき彼は友人の反逆に会しては悲歎痛哭に憂き日月を送れり。朝にダンバーに敵の大軍を敗(やぶ)って夕に家郷の妻女に送るに心情溢るるばかりの恋文を以てせり。人は彼を以て大偽善者なりとみなせり。然れども彼は偽善者にはあらざりしなり。彼は余りに感情の人なりしなり。故に彼は偽善者のごとくに見えしのみ。 彼の政策とは何ぞ。他なし。英国を以て地上における天国となし、終に英国をとおして全世界を天国と成さんとするにありき。故に俗人の眼を以て評すれば彼の行為は狂的なりしなり。彼はなし得べからざる事をなさんとせり。しかも彼はこれをなし得べからずとは信ぜざりしなり。彼はもし英国人にしてことごとく彼の信仰を懐きなば英国を以て真正の聖人国となし得べしと確信せり。しかしてミルトンは彼の書記官として彼のこの偉想を賛し、ブレークは彼の海軍を指揮して海上に彼のこの理想を実にせんとせり。世の智者はいう「幸福なるは無学なり」と。特別に政治学を究めざりしコロムウェルと彼の補助者とはこのイムポスビリチーを実行せんとせり。政治家の手を束ね彼の足を縛るものにして実に彼の政治学のごときはあらざるなり。「正しかれ、しかして懼(おそ)るるなかれ」。正義に因りて進む、大国何か懼るるに足らん。コロムウェル時代の英国はヨーロッパ第三等国に上らざりし。第一等国はスペインにして、フランスとオーストリアとはこれに次ぎ、オランダ、また新たに勢力を得たり。イギリスと対比すべき国とては北欧のスウェーデンかドイツ連邦の一二に止まりしなり。然れどもコロムウェルその主権を握りてよりイギリスは一躍してヨーロッパ大強国の一として算(かぞ)えらるるに至れり。意志と信仰とに富める一偉人の勢力もまた大ならずや。 時の大強国はすべてカトリック国なりし。しかして英国は新教国にしてコロムウェルは新教徒中の新教徒たりし。しかして彼は強国に媚びんために彼の信仰を曲げんとはなさざりし。否、彼は彼の信仰に基きて、弱き新教国を統一して強きカトリック国を挫かんとせり。彼の外交政略なるものはただこの一事に存せり。彼が提督ブレークをして海上にスペインの船舶を捕獲せしめ、西インドにその領土をもとめ、テスリフ島にその海軍を殲さしめしは皆「大教敵スペイン」を挫かんとの方法に外ならざりし。彼がサボイ山中にある新教徒の虐殺を聞くや、直にフランスに通牒して無辜(むこ)の血を償わせしも、また彼のこの信仰に基けり。彼は小にして新教国なるスウェーデンと同盟して大にして旧教国なるスペインに当らんとせり。彼の宗教的信仰は吾人の問うべきところにあらず。然れども彼の勇気と大胆とに至りては実に余輩の嘆賞して措くあたわざる所なり。 進歩的保守家、ハンガリーの愛国者ルイ・コスートのごとき人、米国のワシントンのごとき人、然りリンカーンのごとき、グラッドストンのごとき人、彼らは皆はなはだしく国人に誤解された人なり。しかしてコロムウェルはその最もはなはだしき者なり。彼の情性に貴族的分子ありたると同時にまた平民的分子ありたり。彼は天稟(てんぴん)の貴族が平民として生まれ来たりし者なり。彼の同情は平民にありし。然れども彼の平民なるものは凡俗の謂(いい)にはあらざりし。彼の平民とは彼並びに彼の書記生たりしジョン・ミルトンのごとき者なりし。すなわち人たるの品性を具え、位階と勲章によらずして高貴なる人なりし。彼がついに彼の国人の棄つる所となりしはまた故なきにあらず。世の平民は多数者にして貴族は少数者なりと思う者は誤れり。貴族は実に多数者にして平民は実に少数者なり。世にいわゆる平民なる者は実は貴族にして、彼らが平民的運動なるものを起こす所以のものは彼らが現在の貴族に代わりて自ら貴族と成らんがためなり。近くは東洋日本国の維新歴史においてこの事実を目撃するを得ん。薩長の族(やから)にして名なく位なき者、民の声なればとて四民平等を主張し、時の政府を倒し、しかして自身権威の位置に立つや直に新華族の制度を定め己れ自ら貴族となりて天下に臨む。彼らは昨日の平民にして今日の貴族なり。40年前の伊藤博文侯は渺(びょう)たる一平民にしてまた平民主義を唱え、時の貴族制度を憤りし者なり。今の平民主義者また然らざらんや。今の民間の政治家なる者も、一朝勢力の人となれば、直に貴族の中に列せん事を願う。彼らは貴族を嫌うにあらず。彼らは貴族を嫌うと称するのみ。彼らは実は生来の貴族にして、貴族たらんと欲して政海に乗り出せし者なり。言を休めよ。日本国の貴族は3千人にしてその平民は4千万人なりと。その平民4千万人の最大多数は貴族根性を以て生まれ来たりし者にして、彼らは機会あれば貴族たるを辞せざる者なり。吾人少しく歴史をひもときし者は彼らの平民主義なるものに欺かるべきにあらず。平民は平民を迫害す。これ隠語のごとく見えて実は明白なる事実なり。英国がついにコロムウェルを嫌悪するに至りしは、彼れコロムウェルは余りにまじめなる平民なりしが故なり。彼らは彼が少しく殿様然として天下に臨み、少しく国民の弱点に乗じその名誉心を充たし、その利欲心を満足せんことを求めたり。然れどもコロムウェルは厳として彼の平民的態度を守りたり。故に彼らはついに大偽善者として彼を記憶の外に葬り去らんとせり。彼らは再び彼のごとき政治家をもたざらん事を望めり。彼らはコロムウェルに勝り暗主チャーレス第2世を愛したり。然れども少数なりといえどもこの宇宙は平民の属(もの)なり。コロムウェルは死後300年の今日英国人の理想的政治家となれり。彼の肖像は今は英国国会議場の前に建てられたり。「コロムウェル再び出でよ」とは今は英国人の声となれり。英国永久の光栄はコロムウェルの理想を実行するにありとはその多数の政治家の所信となれり。「コロムウェル出でよ」。英国においてのみならず、支那においても、朝鮮においても、ビルマにおいても、ベトナムにおいても、すべて腐敗せる政治家の横行する国はコロムウェルの現出を要す。上、貴族を挫き、下、衆愚を抑え、少数者なる平民の勢力を地上に扶植せんためには、コロムウェルは幾回かこの世に来たらざるべからず。カーライルのコロムウェル伝はかくのごとき事を教うる書なり。(明治33年12月稿)
2026.05.02

クロムヱル伝[第1冊]上巻標題目次序言著作の事情及び精神時勢及び生涯序説第一章 衒学者の愚第二章 オリバーの伝記第三章 クロムヱルの一族第四章 オリバーの経歴第五章 オリバーの書翰及び演説第一編 第一内乱以前の記(一) 書翰第一(二) 書翰第二(三) 二年間(四) 書翰第三(五) 長期議会第二編 第一内乱の記(一) 前記(二) 書翰第四(三) 書翰第五(四) ローヱストフ(五) 書翰第六-第八(六) 書翰第九-第十一(七) 書翰第十二-第十五(八) 書翰第十六-第十八(九) 井ンスピーの戦(一〇) 書翰第十九、第二十(一一) 書翰第廿一(マーストン沼野)(一二) 書翰第廿二、第廿三(一三) 三回の演説(一四) 書翰第廿四(一五) 書翰第廿五-第廿七(一六) 書翰第廿八(一七) 急信(一八) 書翰第廿九(ネースピー)(一九) 書翰第三十(クラブ党)(二〇) 書翰第卅一(ブリストルの襲撃)(二一) 書翰第卅二-第卅五第三編 第二内乱以前の記(一) 書翰第卅六-第四十二(二) 書翰第四十三、第四十四(三) 軍隊の公書(四) 書翰第四十五-第五十八(五) 祈祷会第四編 第二内乱の記(一) 書翰第五十九-第六十二(二) 書翰第六十三-第六十六(ブレストンの會戰)(三) 書翰第六十七-第七十九(四) 書翰第八十-第八十六(五) 死刑執行礼状序言一、本書は英国文豪、カーライルが心血をそそいで成した『クロムエルの書簡及び演説』の翻訳である。もしこの不完全な訳書によって、カーライル先生が見た偉人クロムエルの精神の一端だけでも伝えることができれば、訳者の望みは尽きたのである。一、本書は原書の完訳ではない。厖大な大冊を一々ていねいに逐字翻訳にすることは訳者の精力のたえないところである。そのため訳者は、専ら原文の精神のあるところに着目してこれを伝えることに骨を折り、肝要でない部分は思い切って省略した。したがってある箇所は極めてていねいに逐字的に訳し、ある箇所はその大意を訳し、ある箇所は全部省くということになったのである。しかし、原著者の精神のあるところは余さず伝えたつもりである。ただ筆力が原意に添わない点は慚愧のほかない。一、巻頭に載せたところの「著作の事情」、「時勢及び生涯」、及び巻末に付したところの「クロムエル年譜」は訳者の作ったものである。これは皆本文の意味を得ることを容易にしようとのささやかな思いによるものである。特に「時勢及び生涯」の熟読は訳者が希望してやまないところである。本書を読む人の17世紀イギリス史の知識を備えることは訳者の切望するところである。一、本書を読む人が良好なる英国地図を友とされたならば、興味は数倍を増すことであろう。一、終わりに臨んで訳者は、日本におけるカーライルの弟子である恩師内村鑑三先生が、本訳書の成るについて与えられた指導と奨励、及びその文を巻頭に転載することを許していただいた厚意を心から感謝する。 1913年1月 訳者(畔上賢造)識著作の事情及び精神 カーライルの『クロムエルの書簡及び演説』(Oliver Cromwell's Letters And Speeches.)は、1845年すなわち彼が50歳の時に出版されたものである。この書が一度出るや、たちまち二版、三版を重ね、著者カーライルの名は全イギリスにかまびすしく、青年有為の士の彼を称賛(アドマイド)するもの多く、彼と共に肩をならべるに足る思想家ラスキン、及び彼の忠実な弟子歴史家フルードのごときも、彼の膝下に走って教えをこうたのである。(略) 5年前の作『英雄崇拝論』で彼はクロムエルを論じて真実義勇の士、信仰の偉人としているが、その後材料を収集して、更にこの信ずるところを事実的に証明しようとの企画をなし、1841年よりこの事に従ったのである。イギリス内のクロムエルの古跡を歴訪し、ベルギーまでも行き、またあまねくクロムエルが書簡と演説筆記を集めこれを訂正し、整理し、生命を与え、秩序を与え、説明を加えて足らざるを補い、一貫の精神を全編に与え、このようにして4年の苦い努力の後、ここに生命のハツラツとして躍動したクロムエル伝が世に出たわけなのである。この仕事が困難であることは、さすがの彼もしばしばこのような難事に当たったことを後悔し、幾度も筆を棄てて長い溜息をしたほどである。 カーライルのこの書は、クロムエルが、神の国を地上に造らんことを目的とした正義篤信の士であることを明らかにするため、材料によって論証したものである。カーライル以前は、クロムエルに対する世の批評は区々として一定せず、あるいはこれを逆賊叛臣とするものあり、あるいは中立的態度を持するあり、あるいは多少の同情を持つものあった。要するにクロムエルの人物は雲霧の中にあるようで、これを極めて明瞭に描述した人はいなかったのである。カーライルが初めて否定すべからざる材料をひっさげきたって、クロムエルの真精神を発揮し、真英雄のために熱烈な弁護の筆を執ったのである。17世紀のクロムエルが剣の革命は19世紀におけるカーライルの筆の革命である。二人は共に真実(Veracity)をこの世に建てんとする者、ただ、一人は剣により、一人は筆によった相違があるばかりである。そのためカーライルの「クロムエル伝」によりて、我らはクロムエルの精神を知ると共に、カーライルの精神の心血的表現を観て取ることができるのである。この訳書を読む人はこの事を忘れてはならない。
2026.05.02
「砂糖の一生」上巻78~80ページに1970年に筧氏が発表された「恩讐の彼方、マックラリー少佐一行」というエッセイがあり、それによると昭和20年終戦の年の秋、アメリカ軍の将校がTS(台湾製糖株式会社)本社を訪問してきた。マックラリー少佐ほか少人数で、筧氏は工場技師とともに砂糖工場、酒精工場を案内させ、研究所の応接室で応接した。少佐らは「実に見事に爆撃したものだ。われわれの爆破作業のなかでこれほど理想的に計画どおり完全に行われたものはない。今までの調査のなかでナンバーワンだな」とささやきあったという。「昭和20年6月30日、本社と両工場の爆撃を敢行した編隊長以下の一行であった」とある。すなわち少なくとも屏東の本社はこの爆撃でほぼ完全に破壊されたことがうかがわれる。 観音像が黒く塗装されたのもこの爆撃から標的とされることを免れるためだという。「砂糖の一生」82~84ページ 台糖(新TS)の陣痛を語る第二次大戦の終結の年の翌年〔1946〕四月現地責任代表者筧氏は台湾から広島大竹港から東京まで満員電車で直行した。中国人の接収委員長から「上京用務済み次第必ず帰台する条件付き」で中国側の許可を受け高雄港から出航した。上京の目的は 1 引揚げ社員の日本での就職 2 TSの糖業復帰だった。しかし製糖、精製糖いずれも不許可で、倉庫営業所を神戸の旧砂糖倉庫において認められただけで、薪や炭の倉庫業から事業を始めた。日本(台湾)糖業、最後の三日間 1900年、台湾製糖株式会社創立とともに産声をあげた、台湾糖業は100万トン自給自産の目標を達成した。しかし第二次大戦によって無残にも玉音放送で最後の三日間を壊滅した。最後の台湾総督兼軍司令官安藤将軍は、アメリカ軍の台湾上陸を阻止し、台湾島および祖国本土を固守する方策として最後の作戦を立案しその実行を決意した。それは台湾製糖を活用すること、すなわち工業力を利用し軍事用燃料を提供、農業、工場、鉄道輸送力の強化、高砂族の山岳戦などである。そのため台湾に残存した、台湾製糖、明治、大日本、塩水港を一社に統合する案を立てた。筧社長は強硬に反対し、4社存続のままで軍の要求にこたえると主張し、その結果4社の機動的輸送力を活用し、軍民官が結集した「台湾糖業運営会」を組織することになった。会長は総督、総務長官の判定で筧氏に決定した。その通達があったのが終戦の日8月15日のわずか3日前だった。昭和20年8月15日正午、古亭庄の旧台北大学跡の総督公室に呼ばれた。糖業連合会支部長、4製糖会社代表、総督府殖産局長、軍首脳が一緒だった。そこで「玉音放送」を聴いて、その一瞬、台湾糖業連合会は勿論、万事壊滅に帰した。別室において蒋介石政府に対する4社の接収引継の協議に変わってしまった。安藤総督は一人自害し、筧氏も戦犯としての処刑を覚悟したが、蒋介石の好意により南京裁判は免れた。「砂糖の一生」下巻87~88忘れられぬ〔1945年〕6月30日 目標の重大性によって敵の爆撃は大規模であり慎重である。台湾の都市で見れば台北、工場で見ればわが阿?工場がまさにその例だ。6月30日、わが本社事務所、砂糖、酒精両工場の爆撃は今までの他の工場と全く構想を異にする。その日8時半よりP38が2機何回となくわが社の上空を旋回し、またB24、B23が先駆となって爆弾を投下し、再び戦果を確認するため旋回を繰り返した。10時20分B24が4機5機5機の三回、B29の2機の第4回で各隊ただ1回の集中全弾投下を行って南方に退去した。20キロないし500キロの爆弾だけ約500~600発を東は阿?事務所、用度倉庫の線、西は万丹道路、南は瑞竹鉄道事務所、北は一条通りこの長方形面積約4万坪の地域に投下した。この日の被害は甚大で、本社、阿?両事務所は全壊、第一、第二両工場大破大焼、再興すこぶる困難。死者12名、負傷者約20名。死者は1名を除き他はみな防空壕内であった。「砂糖の一生」下巻317~320ページ引揚船、団長の苦悩終戦の翌年〔1946〕(3月末)高雄港から、アメリカ軍用船に割り当てられた約千人の一員として乗り込んで、日本へ引き揚げた。上陸地は広島県大竹港だった。乗組員の編成は、高雄州の旗尾街、 東市中の人々と、台湾製糖社宅在住の三部隊混成だった。筧氏は団長となった。高雄埠頭倉庫のコンクルートの床にゴロ寝して出航を待った。船倉では畳一枚くらいの広さの鉄板に男女7人を割り当てられ、3日間雑魚寝した。船中では、お産あり、病死あり、筧氏は団長として船中死亡者の水葬に立ち会った。大竹港に上陸手続きをすませて、立錐の余地のない列車で立ちん棒で東京に向かった。 319ページ6行目TS社台湾所在全財産を蒋介石政権の接収委員に情冊として引渡しを完了した。国民政府の指定するメンバーのみを残留(事実上約1年内外)そ引き揚げた。 後記で筧氏は「台湾在住35年、TS幹部・役員在勤30年だったので、蒋介石政権派遣の接収委員から私有財産に期待をかけられた・・・ところが社宅、会社の帳簿、銀行等調査しても皆無に等しく、接収情冊には家具の一部(タンス等はアメリカ軍により爆破)のみ。接収委員は筧氏の初期引揚船乗込を許可せず、「こんなはずはない。どこかに隠匿しているに違いない」と各方面を調査した。その間、台北の国民政府本部と話し合い、一応帰国の上、社用を果たし直ちに再度台湾に帰る誓約を交わし引揚げが許された。日本帰国後、再度台湾に帰るに及ばずとTS接収委員から通報があった。「土と人と砂糖の一生」下巻53~140ページ百日百言抜粋 第2日 わが社の職場における重傷死に対し特別弔慰金として二千円を贈呈した。(1944年11月23日) 第4日 昭和19年12月10日、台湾製糖株式会社創立45周年記念日に当り、私(筧氏)は今更のごとく改めて我が社に敬愛の意を表するのである。 我が社は領台当時、国策上より誕生し宮内省の御持株をうけ、質実剛健、積極運営、自作農、家族主義、派閥皆無、内台協調、道義立脚、歴史尊重等の社是社風・・・ 日本糖業発祥の地、橋子頭、瑞竹の里屏東に因縁を深め、・・・私の公私の一生を幸福な感謝の信仰生活に終始せしめるものである。(1944年12月10日) 従業員各位に望む(第15日) 決戦下のわが社経営要綱については戦局が苛烈緊迫するに従い一層全力を傾倒せざるべからず。・・・ 然るに最近敵機の来襲投弾等頻発し、かつ盲爆を重ぬるに至りては、・・・ 客年より工場に農場に鉄道に諸建物にあるいは製品資材に連日大小の被害を続出するのみならず、尊き人命犠牲を生むに及んでは、・・・ 曽文渓以南に集中して広大なる自作園と多数の工場、鉄道を所有するわが社が、その蔗園(さとうきび畑)内に飛行場またはこれに随伴せる諸施設を抱擁しその建物に皇軍の駐屯するは当然、かつ吾人の光栄とする所にして・・・敵の空襲が熾烈を極むるも、当然かつ甘受せざるべからず。・・・ 昭和20年2月22日 筧 専務取締役 我が家の受爆記(第32日) 昭和20年4月26日正午前後、私の最も住み慣れた屏東の住宅が遂に敵機の爆破するところとなった。・・・(1945年4月29日、帰社当夜新居宅にて)
2026.05.02
「永平家訓抄話」澤木興道 4-11「癡人、喚て本来人と作す」ここでは、仏法の理に暗い者を癡というのである。仏法の真実を知らんものは、わたしが日露戦争で弾丸にあたったけれども、生きてもどったらいかにもわかったように、あなたは仏様のお蔭で命が助かったのだと、いって聞かせたものがいたので恐縮した。何が仏様のお蔭か、そんな阿呆なことがあるものか。ところが宗教にちょっと首を突っ込んだ生半尺なものは、よくそれをいうものである。 この春、カミュの『ペスト』という小説を読んだが、その中に神父様が演説をやって、神様を信じていないあなたのかどには悪魔が待っておりますと、眼で見てきたようなでたらめをいう。そして神様を信ぜよというのである。まあよくこんな、いい加減なことをいったものだ。ところが、その神父様がしまいにちゃんとそのペストに罹る。カミュはまことによく皮肉っていて、おもしろかった。だから、いつも、われわれは、よく冷水で顔を洗うて目を覚まさなければならん。「癡人、喚て本来人と作す」この癡人が喚ぶ、本来人ともあの神父のでたらめな悪魔ぐらいのもので、いくら本来人と声を大きくわめいても、妄想だけのことでなんでもない。正法の真実理を明らめ、そこから、さらに見直して見なければ、本来人ということはいえるものではない。 これから下が道元禅師のお言葉。「此の頌は乃ち後學晩進の明鑒なり」この長沙景岑禅師の頌は後世のわれわれ、またあとから進んで来る者に対する明鑒であり、いつもわれわれの日常をこの鏡に照らして見なければ正しい生活は望まれない。 どうでもこうでも、今日われわれのせねばならんことは、最初にあったように「見解須らく正なるべし」ということである。正しい見解をもって仏道はこう、仏道でないものはこう、これのよりわけが大事である。そこで「古を照らし、今を照らし」この頌によって古にどれだけのあやまりがあるか、また今の人にどれだけのあやまりがあるか、また邪見ということは、どこからどこまでが邪見かを見きわめをつけなければならない。だから「邪を照らし、正を照らす」といわれるのである。正見ということは、どういうのが仏法であるか、仏法でないかを、明らかにせねばならん。「若し、這箇の明鑒を拈じ得ば」拈ずるということはつまむということで、つまり、この長沙和尚の真意をつまみ得るならば「乃ち、尚書を喚びて、今上と作すの錯りを離る」というのである。(「永平家訓抄話」p.306-307)
2026.05.02
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替える2 他人の慈善と組合の慈善二宮先生は平生陰徳を施すことをもってその心がけとせられたから、一個人で慈善をすることは嫌われ、報徳社のような組合で慈善をするほうがよいと常に教えられた。それは一個人で慈善をすれば自然恩を着せるようなことがあるが、団体でやればその嫌いは少ないから組合で慈善をすると自ずから陰徳を人に施すことになるからである。「報徳教聞書」【18】予(鵜沢作右衛門)問う。野州(栃木県)へ公用で出張した時、夏の暑さがひどく、湿り気がなく、旱魃(かんばつ)で人々が難渋しておりました。田畑の作物も枯れて痛んできたそんな時に、夕立が降ってきてまいりまして、「これでこそ作物が皆よく成長できますね」と二宮に問いかけました。二宮が答えますに「この湿り気にも、善し悪(あ)しはあるものです。その見どころを申しますと、作物のうちにも豆などを蒔きつけ、雑草をとって、よくよく手入れをいたして、湿りを祈っているほどの農業に精出している人の畑などには、即座に雨露の恵みを受けて、作物も育つものです。また同じ日、時刻に豆を蒔きつけて、ロクロク手入れもいたさないで、草も生え放題にそのままにしておいたならば、同じ日よりにあえば、豆はかなり生長するように見えますけれども、雨露の恵みは雑草のほうへ回り、いろいろの草が生長して、つまりは豆のほうはかえって枯れるようなことになります。 これは人にとってみても同じことで、いつもは人並みの暮らしをしていても、祖先を敬い、父母を大事にし、仕事に励み、人助けなど陰徳を積んでいれば、幸福になり、たとえば宝くじが当たっても、それだけの融通ともなり、繁栄の基礎にもなります。 ところが人によっては心に悪心を持って、金銭を借用しても返済もしない、何事によらず自分勝手で、嘘をつき隠し事をしているようであれば、平日は目立たなくても、何か宝くじにあたるなど福がまいこんできても、いろんなところから借金の返済の催促を受け、せっかくの金もつまらないことに使いつくすなどということになりかねません。世間で『宝くじに当たって首くくり』と俗にいうのがこれです。」○文政12年2月吉日付け母の実家の当主、川久保太兵衛にあてた手紙より(佐々井典比古氏現代文訳「尊徳の裾野」269ページより)このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、はなはだ困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのはいま私はかたじけなくもご城主(大久保忠真侯)の命によって、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高4146万石余、宇津ハン之助様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政4年には収納が米1005俵余、畑方金127両余と、わずか1000石相当にしかならず、ご勤仕もできないありさまとなったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられたのだ。そこで文政5年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が1900俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母のたまものであって、全くわが身ではなく、父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように、人生、孝行より大事なものはない が、では、何をしたら孝行になるのか?このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それはほかでもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち 奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天のにくみを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑山林家株財宝衣食を天から受け得たいと願うならば、身をちぢめ、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天のお恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政11年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家(やまが)へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買い入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
2026.05.02
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