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らんまん寿恵子が差配人のりんとの会話で、ご近所の助け合い、共助の起源について考える。「手かけてる分、自分の町だって思うよね」と地元への愛着が鍵を握ると気付いた。では、今いるところが助け合いのない場所だったら? 妄想すること(動画)りん「まず妄想を話し合うこと」寿恵子「妄想?」りん「好き勝手なことを妄想するんだよ。元気が出たら、やれそうなことを一つずつ。」「思い浮かべてごらん。例えば、北海道の開拓地に一人で行ったらって。そしたら、もう荒野を見るだけで絶望だろ?」寿恵子「なるほど、妄想か・・・」寿恵子「もう駄目。荒野が広がってる。荒れ果てている。」りん「でも誰かがいるならさ、寒さに震えながら、好き勝手妄想するんだよ。何があれば幸せになれるかって」明治30年(1897年)11月、万太郎と虎鉄が東北への採集旅行から帰京。夜、万太郎「わしはまだ寝とうない。何せ2カ月ぶりの寿恵ちゃんじゃ」。万太郎「身近な植物をよう観察したら面白いき」「いや~観察すればするほどますます面白いきのう」寿恵子「観察…」(回顧)竹雄が「まず周りをよう見て。この山は尾根か斜面か。林の中か開けた場所か」寿恵子「そっか…横倉山だ」「歩いて観察して…万太郎さんならきっとそうする。行こう。渋谷が、私の横倉山になるまで」寿恵子は商いの話を切り出し、万太郎に「歩いて、観察して、私、この街が好きになりました」『現代語 安居院義道』あとがき抜粋注目すべきは、同時代人の証言ともみなすことができる「横曽根村仮趣法帳」2 に「十日町市場庄七と出会い、話のうちに『二宮先生様の大名を承り、善道の大意を蒙りたき義、八か年以前より心がけ候』処、幸いに庄七去る寅(天保十三年)の六月野州御陣屋へ罷り越し候て、小田原領中沼村伝蔵殿取次を以て先生様へ相願い一家取直し相続その外いろいろご理解承り恐れ入り感服仕り候て七月二六日まで逗留致し同日御いとま申し上げ帰国」とあります。 通説では、庄七は婿入先の磯屋の財産を米相場で蕩尽しそれを取り戻すため、無利息貸付金を金次郎から借りるため桜町陣屋に赴き、金次郎には直接面会できず、下働きとして働き、帰国したとされています。 しかし、「横曽根村仮趣法帳」を素直に読むならば、庄七は桜町陣屋に赴く八か年以前に二宮金次郎の大名を聞いていた、そして報徳の教えの大意を直接聞きたいと念願していたことになります。 庄七の実家である神成家は蓑毛の大山御師で、蓑毛御師はおおむね現在の静岡県の駿東郡、駿河国、伊豆国に大山講を布教し組織させていました3 。庄七もおそらく中年で磯屋に婿入りするまで、実父実兄と共に同地域を廻っていたものと思われます。そして駿東郡は江戸時代末期、小田原領であり、天保の大飢饉の時に、藩主大久保忠直の依頼を受けて、二宮金次郎自らが御殿場地方に出向き報徳の教えを説くと共に飢饉の応急仕法を実施した地域でした。庄七が亡くなった時の所持品の記録には「御殿場村御趣法文面の写」、「西大井村藤曲村御仕法一件の写」という駿東郡地域の仕法書があります。これは庄七が大山御師として廻っていた頃に、御殿場方面で「二宮先生は生れながらにして三世を貫通す、神知と云つべし」4 という高名を聞くとともに、また御殿場村や藤曲村の仕法書等を書写していたものと考えられます。すなわち桜町陣屋に出向く前に庄七は報徳に関する十分な知識と学ぶ意欲があり「一家取直し相続その外いろいろご理解承り恐れ入り感服仕り」、桜町の陣屋日誌には登場しませんが、金次郎本人またはその門弟から教えを受け、金次郎の教えに感服し故郷に帰郷してから、元値商いを実施し自得すると共に横曽根村の庄兵衛の依頼を受けて一村仕法を実践に移したのではないか。そのように思われてなりません。だからこそ庄七は天保十四年二月から十月まで月三回ほど村人に報徳について詳しく説諭した後に、村民全員が感服し了承してから、報徳仕法を実施させることができたのです。この自家と一村仕法の体験があったからこそ「二人から一村へ、一村から郡国へ、郡国から全国へ」と報徳の教えを布教したいと念願して故郷を離れたように思われます。💛妄想してみましょう。安居院庄七が御殿場地方を檀家廻りしていたときに御殿場村や藤曲村の仕法書に出会い、いずれの後書きにも、相馬藩家老草野正辰が二宮金次郎を「神知」を持つと賛嘆していたことを知り、大山講の講元の一員として、敬神家である庄七が感激し、ぜひ二宮金次郎にお会いしたいと念願していたところを(^^)
2023.10.29
らんまん:クララ先生が寿恵子に最後のレッスン「生きなさい、愛のために」 「さすがです!」とトレンド入り6月14日放送第53回寿恵子は、万太郎から贈られたバラの絵を破ろうとするが、破ることができない。ダンスのレッスンで、クララのハンカチにバラの刺しゅうが入っているのに気づいた寿恵子は、万太郎が描いたバラの絵をクララに見せる。すると、クララは「これは私のバラ。思い出すわ、私の庭。私の愛する人を」と思いをはせる。そこに高藤が突然部屋に入ってきて、「ダンスの練習が終わったら私の部屋に来てくれるか。これから白川様がお見えになる」と一方的に伝え、「ははは」と高笑いしながら出て行った。高藤を見送ったあと、バラの絵を見ながら切ない表情をしている寿恵子に気づいたクララは、「寿恵子、愛する人ががいるんじゃない?」と英語で尋ねるが、「ごめんなさい、英語が分からなくて」と寿恵子は戸惑った様子で答える。するとクララは「寿恵子、これが最後のレッスンよ」といい、「Live for Love(生きなさい、愛のために) 心のままに」と伝え、寿恵子は目を潤ませながら、「はいクララ先生」と返事をした。「らんまん」脚本・長田育恵氏 浜辺美波を絶賛!ダンス練習「寿恵子トライ!」のアドリブに感動「運命的」2023年9月7日 長田氏が「誰にも言っていませんでしたが、凄く感動しました」と明かした浜辺のアドリブは第48回(6月7日)、寿恵子がクララ先生(アナンダ・ジェイコブズ)からダンスの基礎を教わるシーン。クララが「レッスン2。美しさは心と身体を鍛えて作られるの。(腕立て伏せの姿勢キープを)やってみて、寿恵子」と床に手を付けると、寿恵子は驚き、困惑しながらも「トライ…寿恵子、トライ!」と挑戦した。 「クララ先生の『キープ』を寿恵子が復唱して筋トレを頑張ると書いたんですけど、『寿恵子、トライ!』は浜辺さんのアドリブ。あれが寿恵子というキャラクターの産声になったのと同時に、作品全編を通しての寿恵子のテーマを自ら口にしたと感じました。図鑑完成まで、寿恵子の大冒険はまさに『寿恵子、トライ』の連続。期せずして、あの段階で浜辺さんがおっしゃったのが運命的で、映像を見て1人で感動していました」💛『寿恵子、トライ』の名前の部分をね、自分の名前に言い換えるとね、自分に対する励ましとなるんだよと職場で女性の職員二人にやってみせる。「〇〇、トライ!」すると二人とも爆笑(^^)*プランク1.両ひじと両ひざを床につける。2.両ひざを伸ばして、30秒間静止する。両肘と前腕でしっかりと床を押し込むように意識するのがコツ。■ポイント30秒/1セットを1日2セット実施が目安背筋を伸ばし、体全体が一直線になるようにする顔は上げ、自然に斜め前を向く。頚椎に負担がかかるので顎は上げすぎないように注意
2023.10.07
長田育恵が語る「らんまん」を書き終えての思い「最後は『継承』がキーワードに」“朝ドラ”「らんまん」脚本・長田育恵インタビュー――脚本を書き終えられての率直なお気持ちをお聞かせください。本当にホッとしています。無事にやり遂げられて良かったというのが、いちばんの思いです。“朝ドラ”を執筆する重圧はありました。私は、電車などの自分の意思で出ることができない場所にいると、パニック症の症状が出るのですが、“朝ドラ”の話をいただいて家に帰るとこのパニック症の症状が出てしまって。“朝ドラ”の脚本執筆が始まったら、終わるまで出ることができない「密室空間」に閉じ込められてしまうように感じたんです。ただ執筆を進めていくと、自分には向いている仕事だと考えるようになりました。もちろん年間を通して締め切りがあること、放送が始まると視聴者の方の反応が聞こえてくるなど、物理的なプレッシャーはありました。けれどそれ以上に、「らんまん」の物語、登場人物の動きを考えるのが楽しくて。丁寧に物語を紡ぐ時間をいただけることは、とても幸せなこと。本当に貴重な機会をいただきました。――視聴者からのたくさんの応援の声を、長田さんはどのように受け止めていましたか。8月中旬まで執筆を続けていたので、視聴者の方の反応をうれしく思うと同時に、ますます頑張らないといけないという思いも新たにしていました(笑)。ネットの意見に対する恐怖心は正直ありましたが、脚本に込めた思いをくみ取ってくださったり、小道具など細かいところにまで注目してくださったりなど、熱量を持って「らんまん」を視聴してくださる方が多く、とても感動しています。私は、「明日、また続きを読めることができる」というワクワクした思いから、物語を好きになりました。ですので、「明日も『らんまん』を見るのが楽しみです」という声をいただいたことが、本当にうれしくて。「らんまん」の物語を受け取ってくださってありがとうございます。――「らんまん」という作品を通して描きたかったことをお教えください。牧野富太郎の偉人伝を描くのではなく、草花を一生涯愛した主人公を「広場」に見立て、彼のもとに集まる人々やその関係性を深く掘り下げ、皆の人生が咲き誇るさまを描きたかったので、牧野富太郎とはまったく違う人物として、万太郎をつくりあげています。万太郎は、らんまんさと孤独をあわせもつキャラクターです。日本の植物図鑑を完成させるといういばらの道を進むことを決断した以上、弱音を吐くことが許されない孤高な人物。だからこそ、人とつながることのいとおしさを誰よりも痛感しています。そんな難役を、神木さんはしっかり体現されていて、本当にすてきな俳優さんだと改めて実感しています。セリフがないシーンの演技もすばらしいんです。田邊教授と決裂した後の万太郎の表情を見たときには、彼は唯一無二の俳優さんだと感じ入りました。寿恵子は、大変な道を歩む万太郎を、太陽のように導くりりしい“ヒーロー”です。母は元柳橋の有名芸者で、武家の生まれと、もともとスケールの大きい女性ではありますが、常に明るく生きています。「らんまん」は、すべての植物がそれぞれありのまま咲き誇るように、自分が選んだ人生に胸を張って生きていく人たちの物語。ですので、寿恵子に少しでも「自分は誰かに損なわれているのではないか」という空気感があると、物語としてまったくみられなくなってしまいますが、浜辺さんが勇敢な寿恵子を見事に演じられているので、悲壮感はまったく感じません。寿恵子を演じるうえでこれ以上ない俳優さんです。――特に、印象深いシーンや愛着のあるキャラクターはいますか。どの人物、どのシーンにも愛着があって、本当に全部好きなので、難しいですね…。台本から映像へと作り上げる過程のなかで、演者・スタッフの皆さんから、たくさんの愛情をいただいている作品だと感じています。そのなかでも、台本で「(ズギャン)!」としていたところを、神木さんがそのままセリフとして発したことには驚きましたね。神木さんのおかげで、とてもチャーミングな場面になりましたし、その後の放送回で、竹雄も「ズギャン!」と言っていて(笑)。演者・スタッフの皆さんが、工夫を凝らして、アウトプットしてくださっているのがうれしいです。アドリブで感動したシーンがもう一つあります。それは、寿恵子が、舞踏練習会の発足式でダンスを披露するための練習の一環で、筋トレに挑戦しようとする場面。浜辺さんがアドリブで「寿恵子、トライ!」とおっしゃって。寿恵子は、最後の最後までトライの連続なんです。「らんまん」での寿恵子のテーマを、浜辺さんがみずから発してくださったことに感激しました。物語においては、名前を呼び合うことも大事にしています。万太郎と竹雄が主従の関係を解消するというので2人で名前を呼び合うところだとか、田邊(要潤)の遺言にあった「Mr.Makino」の響きだったり、俳優のみなさんはその辺を一緒に大事にしてくれていてありがたいなと思っています。――完成映像や視聴者の反応で、当初の構想から変化した展開はありますか。視聴者の反応を受けて再登場するのが、早川逸馬です。どこかで再登場させられたら、とはもともと考えていたのですが、「逸馬さんの安否を知りたい」という声を視聴者の方から多くいただいて、しっかり登場させたいと思いました。また、完成映像を見てから、キャラクターの肉付けを深めることが多くあります。例えば、藤丸の初登場シーンは、私が想像していた以上に、藤丸とウサギの距離感が近くて驚きましたが(笑)、密にウサギとコミュケーションをとる藤丸の様子から、彼の繊細さと優しさが浮かびあがってきまして。その後、つわりのひどい寿恵子に、藤丸が揚げ芋を作るシーンがありましたが、これは初登場シーンの映像を見てから書いたものです。藤丸だったらこういう行動をとるだろうなというのが、映像を見ることでより鮮明になってきたんです。そういった肉付けが、全てのキャラクターにおいて発生しています。――神木隆之介さん、浜辺美波さんの演技をどのようにご覧になっていますか?神木さんは唯一無二の方だなと思います。朝ドラの主人公として最高に難しい役を素晴らしいコントロールで演じきっていただいている。裏表がない神木さんでなければ成立しない主人公を演じていただいていると痛感しています。神木さんはセリフのないシーンの演技力も素晴らしくて、万太郎が大学を追放されて、田邊邸で話が決裂した後の回は、台本を書くのも難しかった場所なんですけれども、神木さんは表情や眼差しといった言葉ではない部分で彼の心情を表現してくれました。実はこの万太郎という人物は“らんまん”でありつつも、壮絶に孤高な主人公でもあって。孤高だからこそ繋がり合う愛おしさだったり、切なさを誰よりも痛感しているキャラクターなんです。自分の選択に対して弱音を吐くことを許されてはいないけれど、その分、この世界の美しさや優しさも知っている。神木さんは、万太郎の弱さや気高さも体現してくださっています。寿恵子さんは逆に、平たい言い方で言ってしまうとヒーローだと思うんですね。孤高の道を歩む万太郎に対して、太陽のような、導き手のような、凛々しくて、それこそ八犬士のような(笑)。「寿恵子、トライ!」を続けていくスケール感。バイタリティ。無限の可能性。寿恵子さんの明るい勇敢さに全く悲壮感が漂っていないところは、まさに浜辺さんが演じてくださるからこそ。この物語は全ての植物がそれぞれありのままに咲き誇るように、自分で選んだ生き方、自らの生を咲き誇っていこうとしている人たちの物語なので、寿恵子は寿恵子の自己実現のために万太郎というパートナーを選んでいるんです。万太郎と共に生きるからこそ、あの時代において大輪の花を咲かせることができた。浜辺さんの笑顔があるからこそ、寿恵子の人生もまた、喜びに満ちた、輝けるものだったと信じることができるんです。――週タイトルはすべて植物の名前となっていますが、それぞれどのような思いを込められていますか。放送が終わって作品を振り返ったとき、「植物図鑑」のようになっていたらと考えていたので、週タイトルを植物の名前にすることは、最初から決めていました。植物の取り上げ方は、パターンがいくつかあります。ひとつは、登場人物と強く結びつきのある植物です。例えば、第1週の「バイカオウレン」は万太郎の母・ヒサがいちばん好きな植物で、第5週の「キツネノカミソリ」は、万太郎が「逸馬さんのようじゃ」とつぶやいたように、逸馬を思い起こさせる鮮やかな植物と、万太郎とキーパーソンをつなぐ植物をタイトルに採用しています。また、第17週の「ムジナモ」や第20週の「キレンゲショウマ」など、日本植物学の業績の中で外せない植物をタイトルにしているものもあります。ただここでは業績が物語のメインにならないように、人間関係をしっかり描き切ることを大切にしています。そのほか、「この文脈で登場させるのにふさわしい植物は何か」を植物考証チームに相談して、生まれたものもあります。例えば、第18週「ヒメスミレ」では、「万太郎が暮らす長屋にも生息していて、小さな子どもの目線で咲く植物」を出したいと思い、植物考証チームに相談して最終的にヒメスミレを選択しました。――最終週についての見どころ、そして視聴者へのメッセージをお願いします。最終週は私の中で割と最初から決めていた仕掛けがありまして、その仕掛けがある以上、万太郎は何歳であっても構わないというのがあるんですよね(笑)。最終週は「継承」が大きなキーワードになっています。牧野富太郎さんが生涯をかけて集めた標本の点数は40万点以上あるんですけれども、その40万点が資料として活用されなければ標本は生きることにはならないんですね。この40万点を活用させたところから初めて、牧野富太郎コレクションを元に、世界各国と貴重な標本の交換ができるようになりましたし、日本の植物分類学の基盤として今現在でも、絶滅した植物を辿ることもできる大きなソースになっている。そのソースを後の世の人たちにどう見せていくのかが大きなテーマになっていて、万太郎が図鑑を作ろうと頑張り続けるのも、後世の人たちに手渡すために今この人生を使って頑張り抜いているということがあります。植物が種を残して次にまた花を咲かせていくように、次の世代に残すということをコンセプトに考えていました。万太郎の“開花”の時期はやがて終わり、今度は後にどういう実を残すかというターンになっていきますが、開花が終わった後の万太郎の生き様を楽しみにしていただきたいと思います。この『らんまん』という物語は、槙野万太郎が生きとし生けるもの全てのありのままの特性を見つめ、その特性を愛し抜くということが全編にわたって貫かれています。万太郎と寿恵子、周りの登場人物たち、それぞれの冒険はもう少し続くことになるので、皆の人生が咲き誇る物語、その行方を楽しみに見守っていてもらえたらと思います。――ネットワークといった部分は現代的な要素とも言えますよね。長田:モデルとした牧野富太郎さんの根幹の部分です。植物学の分野では富太郎さんが初めてネットワークの力を意識した人だったと思うんです。本能的に繋がり合う力を分かっていて、新聞広告などのメディアも使って門戸を開きました。相手の身分や年齢、性別を問わず、手紙を送ってくれた一人ひとりと双方に対等の関係を結び、丁寧に植物学の種を植えていった。日本全国規模のネットワークを手に入れて、植物学の力と成していく。素晴らしいアイディアだと思います。富太郎さんという存在がいたからこそ、今私たちが普通に身近な植物を愛する、その考え方自体が浸透したんです。
2023.09.29
どうか どうか どうか どうか図鑑を作るのに一人では手が足りない植物画を描くのを手伝ってほしい万太郎「この膨大な項目、一人では植物画を描き切れません。どうかあなたのお力を貸してくださいませんか?」野宮「まさか君に植物画を頼まれるなんて……。この上ない誉れだ」藤丸 菌の事なら僕に任せて*波多野を演じる俳優前原滉「これ(藤丸の帽子)はちょっと心もとなくなった毛を藤丸が一生懸命にかくすためのボウシです」「それをにおわすっていうのを無理やり色んな場面でやったのですが全部カットされてます」「スエコザサ」(第129回)に、ムロツヨシが出演*ムロが演じるのは、過去に万太郎と岩手の植物採集の会で知り合った理科教師・小畠の役。ワカメや藻に詳しく、万太郎の図鑑作りを手伝うため参上。一緒に並ぶのは熊本から駆け付けた理科教師の鳥羽(杉本凌士)**。*朝の情報番組「あさイチ」恒例の“朝ドラ受け”で、ムロの出演について博多華丸「ぜったい(隣のスタジオで撮影している)大河のついでですって。『家康がちょっと早めに終わったから』みたいな…」ムロ「華丸さーん、ついでじゃないんですよー笑」ムロ「普段は『らんまん』の隣のスタジオで撮ってる役者でございまして、昔から友達である神木くんと、さりげなく出られたら、大河のほうも朝ドラのほうも盛り上がるかなと、作品に迷惑にならないような出方があるといいねと、話していたのが今日叶いました」「大河ドラマ『どうする家康』の緊張感とはまた違うバランスの作品で、撮影中は万太郎役の神木くんがすごく優しい顔で包み込んでくれて、僕も仲間に加われたような、うらやましい気持ちになりました。さりげなく出させていただければと思っていましたが、真正面から撮っていただくカットもあり本当にうれしかったです。最後に、きょうも良き朝ごはんを! ありがとうございました」**杉本凌士 俳優、脚本家、演出家。熊本県人吉市出身。劇団男魂(メンソウル)代表大河ドラマ(NHK)毛利元就(1997年) - 侍者 役花燃ゆ(2015年) - 役人 役おんな城主 直虎(2017年)麒麟がくる(2020年)連続テレビ小説(NHK)とと姉ちゃん 第79話(2016年)なつぞら(2019年)エール 第78・79・89話(2020年) ‐ 特高 役らんまん 第129回(2023年) ‐ 鳥羽 役佑一郎 「教授会じゃ、相当煙たがれたが」「この先は、生涯ただのエンジニアや」万太郎「それでこそ、我ら名教館門下じゃ」佑一郎 「ほんなら、わしら、やっと、おんなじ道を行けるの」「そうか急いじょるか」「索引はわしが手伝おう」名教館以来の仲じゃき佑一郎 「教え子らがしっかり育ってきたから、墨田川や永代橋に続いて現在工事している清洲橋も強くて美しい橋になる、」*広瀬佑一郎を演じた中村蒼「様々な土地で経験を積んだ佑一郎は理想と現実の違いに打ちひしがられながらも初心を忘れる事なく道なき道を進んでいく逞しい人間でした。万太郎と進む道は違えど同じ山の頂上を目指す2人の関係はとても素敵でそんな佑一郎を演じられて幸せでした。」💛望むらくは パナマ運河建設に日本人としてたった一人従事した青山士や台湾で烏頭山ダムを作り広大な沃地を開いた八田與一など世界に羽ばたくエンジニアも出てきていると廣井勇の弟子達の名前も出して欲しかったな^_^
2023.09.28
NHK朝ドラ「らんまん」波多野役・前原滉「大好きなシーンです。」 万太郎を説得する場面前原は「本編ではきっと時間の都合もありカットになってるのですが、『理学博士になるんだ、槙野万太郎!植物学に尽くしたいんだろう?だったら骨の髄まで尽くしなよ』という台詞があり、長田さんの書く言葉に痺れました。大好きなシーンです。(秘密の話ですよこれ)」と、脚本を務める長田育恵氏の台本に感銘を受けたことを明かし、波多野が万太郎を説得するシーンの公式Xを引用した。この日の放送では、波多野から理学博士の話を聞いた万太郎はいったん躊躇する。「理学博士ゆうたち、そのわしにとったら、田邊さんと伊藤圭介翁じゃ。そのような方と…」波多野「傲慢だよ。槙野万太郎は自分の意志でここまで来たと思っているんでしょ?槙野万太郎がここにいるのは、時代なのか摂理なのか…そういうものに呼ばれてここにいるんだ」「理学博士になるんだ、槙野万太郎!」寿恵子「万太郎さん、勘違いしてます。図鑑を成し遂げてから? そんなの遅いですよ! 先に理学博士になったら売れるじゃないですか! 理学博士が満を持して植物図鑑を出すとなったら、売れに売れて売り切れご免の大増刷ですよ!」「万太郎さん、理学博士になってください。そしたらこの国の植物学に、あなたの名前が刻まれるでしょ? あなたの名前が永遠に」万太郎「波多野…改めて理学博士の推薦、謹んでお願いいたします」寿恵子とともに頭を下げるというシーンが描かれた。博士号授与式のシーンは、小石川植物園で撮影が行われた授与式に臨んだ万太郎。自宅を出る時は何も着けていなかった胸に、授与式では黄色く可憐な花があしらわれていた。「万太郎が着けていた花はおそらく女郎花(おみなえし)。秋の七草として古来から親しまれており、万葉集にも山上憶良が詠んだ秋の七草の歌が二首収められています。それゆえ、この女郎花は理学博士に推挙してくれた徳永名誉教授への感謝を示しているのではないでしょうか」(テレビ誌ライター)万太郎「あらゆる命には限りがある。植物にも人にも。ほんじゃき、出会えたことが奇跡で、今、生きることは、愛おしうて仕方ない」「改めまして、どんな時も、わたくしをそばで支えてくれた妻と、皆様方に感謝申し上げます」女郎花の花言葉は「優しさ」や「親切」、そして「美人」万太郎は授与式に臨む前に寿恵子に声をかけている。「今日もきれいじゃの。寿恵ちゃん」
2023.09.27
<らんまん>波多野&藤丸が“可愛い”おじいちゃんに! 変わらない“イチャコラ”シーンも登場9/26(火)昭和2(1927)年の夏。波多野は「帝国学士院会員」となった。藤丸「悪いねえ、車を出していただいて」藤丸がモーツアルトみたいな髪型にベレー帽 藤丸は、竹雄(志尊淳さん)と綾(佐久間綾さん)も元気だと告げる。「沼津も大震災からやっと立て直せて。今年はちゃんと仕込めてる。醸造協会から清酒酵母も分けてもらったしね」藤丸「俺は遅ればせながら、波多野の祝いに上京しまして」波多野「わざわざいいのに」藤丸「どうせならみんなで宴会したいでしょ?」沼津名物 ひものと黒はんぺん万太郎「ほんなら改めて。波多野、帝国学士院の会員選任。おめでとうございます」波多野「僕は万さんに用があって来たんだよ」「理学博士にならない?」💛藤丸さん、白髪がすっかり増えて天然パーマの髪型が、モーツアルトみたい藤丸のモデルは、市川延次郎(後に田中と改姓)だと考えられている。「私の下宿によく遊びにきた友人に、市川延次郎と染谷徳五郎という二人の男がいた。共に東京大学の植物学教室の選科の学生だった。(中略)市川延次郎の家は、千住大橋にあり、酒店だったが、私はよく市川の家に遊びに出かけて、一緒に好物のスキヤキをつついたものだ。ある時、市川、染谷、私の三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになった」田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した1892年から名古屋の愛知県桑樹萎縮病試験委員などを務め植物病理学の分野で働いた。1897年から一年間、ドイツのミュンヘン大学に私費留学し、酵母の研究などもした。1898年から1899年まで東京帝国大学理科大学の講師を務める。1903年、桑樹萎縮病調査会が廃止された後は適当な就職口もなく、晩年には妻も亡くす。その後精神病を患い、1905年に精神病院で没した。史実の延次郎は、1905年(明治38年)に亡くなっている。波多野のモデルとされる池野成一郎が帝国学士院会員となったのは、昭和2年(1927年)。実に20年以上も前に田中 延次郎は亡くなっている。愛されキャラの藤丸は視聴者の期待に応え、生きながらえ、今や「おじいちゃん天使」のごとくに降臨して飛び回る
2023.09.27
らんまん最終週の驚くべき仕掛けその一 松坂慶子さんが亡き牧野博士の娘・千鶴として再登場した「父の生前には、ここにももう大勢お客様がいらして。誰か来たらあっという間に植物の研究会になってしまうんです。父は危篤になったときでさえ、うわごとで『バイカオウレンは咲いたか?』って。そこの縁側から出て、いつまでも庭にいましたよ」「あなたにお願いしたいのは父の遺品整理の手伝いなんです。」都立大学に万太郎の収集した約40万点もの標本を寄贈するための資料整理のバイトに応募した娘さんは「こんな重大な仕事、とても……」断り、帰ろうとする。千鶴はがっかりする。スエコザサをみて引き返すまるで寿恵子から頼まれたように妄想 寿恵子も最終降臨かもらんまん 最終週の驚くべき仕掛けその2らんまんの語りを務める宮崎あおいさんが、藤平紀子役でサプライズ出演『篤姫』を熱演した篤姫と滝川の二人が時空を越えて再会^_^語り「昭和33年(1958年)の夏、私は初めてそのお屋敷を訪ねました」の語りから本編登場💛ということは、実はここからが物語の始まりで、ある意味、循環の構造を持っている。次世代に万太郎夫妻の偉業を伝えるという使命をもって次の方に渡すお手伝い、私もしなくちゃ紀子「この標本、守ってきたってことですよね? 関東大震災、それから……空襲も」「それを考えたら、私、帰れません。私も戦争を生き抜きました。次の方に渡すお手伝い、私もしなくちゃ」💛これはドラマ視聴者への呼びかけでもある。「次の世代に先人の果たした偉業(植物分類学における万太郎の偉業だけでなく)を伝えてくださいね」長田氏はシナリオハンティング中に受けた驚きを明かした。「関東大震災の大火災、さらには第2次世界大戦の東京大空襲の間も、40万点という途方もない数の標本を、富太郎さん、ご家族、周りの方々が守り抜いたのだという事実を知って、本当に衝撃的でした。戦後、40万点の標本を初めて目にした人たちも、きっと私と同じように驚いたと思うんです。そして、大空襲から命懸けで守った人たちがいるなら、戦争で生き残った自分たちも次の世代に残さなきゃいけない。自然と使命感に駆られたんじゃないかと思ったんです」「まず、牧野家から都立大学に移すまでにも大きな苦労がありました。そして、大学に収蔵されてからも20年以上の長きにわたる地道な整理作業によって、標本が活用されたからこそ、牧野富太郎は世界の牧野博士となり得たのです。この牧野コレクションを基に、各国の貴重な標本と交換したり、絶滅した植物も調査できたりと、植物分類学の基盤となってきました。この、標本を整理して、活用できる形で後世にバトンを渡そうと尽力した人たち(劇中は宮崎演じる紀子)のことは、絶対に盛り込みたいと思っていました」💛細かい仕掛けも目立った。屋敷に入る紀子を出迎える 二匹の夫婦ガエル「とても無理です」と帰ろうとする紀子の目に入るスエコザサらんまん最終回(130話)「おまん、誰じゃ。アズマザザに似ちゅうけど、どこか違う。」「ササ・スエコアーナ・マキノ」「新婚の頃、寿恵ちゃんの寝顔を見つめていたことがあった。すべてが愛らしく、いとおしかった。じゃから、新種のササに寿恵ちゃんの名を永久に残そうと決めたんじゃ」第1話(4月3日放送)での宮崎の最初の語り植物採集中に初めて見る花を発見して「おまん、誰じゃ」と感激する万太郎「彼の名は槙野万太郎。幕末から昭和へと移り変わる時代の中を、ただ植物を愛し、天真らんまんに駆け抜けました」💛こうして物語は永遠にらせん状に循環しながら、次の世代に受け継がれる(^^)
2023.09.25
<らんまん>田中哲司“徳永教授”トレンド入り 人柄にじむ別れに視聴者も感涙「これこそ徳永教授」らんまんでは、徳永教授は万太郎を庇護する役割を与えている。国の政策によって失われようとしている紀州熊野の森と植物たちを守りたい万太郎が、大学を去る。(富太郎は神社合祀令に反対し辞表を提出するなどしていない)万太郎「熊野の神社の森のフローラが、伐採でこれだけ失われようとしています」「あした以降『日本植物志図譜』とそして紀州熊野のフローラを各所に送り始めます。これは大学には関わりはありません。私一人の行動です。教授、私の勝手をお許しください」徳永教授「本当にいいのか? 合祀(ごうし)令から目を背ければいい。植物学者として働きたいなら今は満州がある!」万太郎「私は……もう決めました。私に声をかけていただき、ありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」徳永教授「この雪の 消(け)残る時に いざ行かな」万太郎「山橘(やまたちばな)の 実の照るも見む」徳永教授「よく描けてる。こんな植物画、お前だけだ」実際の牧野富太郎自伝ではモデルの松村任三氏に関する記述とは違う。『日本植物志』に対する「松村任三博士の絶讃」と「東京帝国大学植物学教室助手採用」以外はほぼ松村教授への悪口雑言、恨みつらみである。脚本家の長田さんが朝ドラにふさわしい、生来の悪人を登場させず、きれいな別れ方、希望のある場面に昇華し、処理されていることがわかり、印象深い。『日本植物志』に対する松村任三博士の絶讃『日本植物志』第一巻第一集が出たのは、明治二十一年十一月であったが、当時大学の助教授であった松村任三先生は、私のこの出版を非常に讃め称えてくれ、私のために特に批評の筆をとられ、その中には、「余は今日只今、日本帝国内に、本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ」の句さえあった。 松村先生は、当時独逸ドイツから帰朝されたばかりで専ら植物解剖学を専攻され、分類学はまだやっておられなかった。月俸十五円の大学助手 矢田部先生罷職の事があった直後、大学の松村任三先生から郷里の私のところへ手紙で、「大学へ入れてやるから至急上京しろ」といってきた。私は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」と書いて返信し、明治二十六年一月上京した。やがて私は、東京帝国大学助手に任ぜられ、月俸十五円の辞令をうけた。 大学へ奉職するようになった頃には、家の財産も殆ほとんど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚おうように育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた。 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾新あらた先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。松村任三博士との離けいり その頃から松村任三先生は次第に私に好意を示されなくなった。その原因は、私が植物学雑誌に植物名を屡々しばしば発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の植物名と牴触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌に余り書いてはいかんといわれた。またある人の助言で松村先生も対抗的に、植物学雑誌に琉球の植物のことなど盛んに書かれたりした。このように松村先生は、学問上からも、感情上からも、私に圧迫を加えるようになった。 ……私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではなし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏の忌諱ききにふれた。松村氏は元来好い人ではあるが、狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁談のことが成就しなかったので、それでも大分感情を害したことなどあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に向かって私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。……『大日本植物志』は余り大きすぎて持運びが不便だとか、文章が牛の小便のように長たらしいから、縮めねばいかんとかいわれた。そのうち、松村先生は『大日本植物志』を牧野以外の者にも書かすといい出した。私は『大日本植物志』は元来私一人のために出来たものなので、総長に相談したところ、それは牧野一人の仕事だといわれたので、松村先生の言を聴かなかった。『大日本植物志』は第四集迄出たが、四囲の情勢が極めて面白くなくなったので、中絶するの止むなきに至った。 教室の人々の態度は、極めて冷淡なもので『大日本植物志』の中絶を秘かに喜んでいる風にさえ見えた。『大日本植物志』の如く、綿密な図を画いたものは、斯界しかいにも少ないから、日本の学界の光を世界に示すものになったと思っている。あの位の仕事は、なかなか出来る人は少ないと自負している。今では、私ももう余りに年老いて、もう再び同様のものを打建る気力はないが『大日本植物志』こそ私の腕の記念碑であると私は考え、自ら慰めている次第である。圧迫の手が下る その前から「植物学雑誌」というのがあって、これははじめ私共がこしらえて今でも続いているが、その雑誌へ私は日本植物の研究の結果を続々発表していた。これがどうも松村教授の気に入らなかったと見える。なおお話せねばならぬことは、私が専門にしているのは分類学なので、松村氏の専門も矢張り分類学で、つまり同じような事を研究していたのである。それを私は誰だれ憚はばからずドシドシ雑誌に発表したので、どうも松村氏は面白くない、つまり嫉妬であろう。ある時、「君はあの雑誌へ盛んに出すようだが、もう少し自重して出さぬようにしたらどうだ」 松村氏からこういわれたことがある。しかし私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏の忌諱ききにふれた、松村氏は元来好い人ではあるが、どうも少し狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁組の事が成就しなかったのでそれでも大分感情を害した事などあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に対して私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。これが十年、二十年、三十年と続いたのだから、私の苦難は一通りではなかった。 何よりも私の困ったのは、給料のあげて貰えぬ事であった。浜尾さんの親切で、せっかく仕事が与えられ、従って給料もあげてもらう筈であったが、当の松村教授がこんな訳で前にも記した『大日本植物志』の第一冊が出版せられても一向に給料をあげてくれない。 前に述べたように一度借金の整理はしていただいたけれども、給料があがらぬ以上依然として生活に困るのは当然である。僅か十五円偶たまにあがれば二十円で子供が五人六人となる私共では到底生活は出来ない。そのうちには、また子供が生まれるとか、病気に罹かかるとか、死ぬとか、妻が入院するとか、失費は重なる。子供が多ければ、自然家も大きいのが必要になる。それに私は非常に沢山の植物標品を有もっていて、これがために余計な室が二つ位もいる。書物が好きでこれもかなり有っている。そんな訳で、不相応に大きな家が必要だった。「牧野は学校から貰うのは家賃位しか無いのに、ああいう大きな家にいるのは贅沢だ」 そういって攻撃されたりしたが、これも贅沢どころかやむなくそうしていたのだ。こんな風でまた借金が殖えて来た。金を借りるといっても、各々の仲間にそんな親切な人は少ないから、どうしても高い利子の金を金貸しから借りる。このために私が困ったことは、実に言うに忍びないものがある。 当時の学長は箕作佳吉先生で、松村氏が私へ対する内情をよく知っておられたので、松村氏が私を密かに罷免しようとしても、箕作先生のいる間はその陰謀が達せられなかった。ところが学長が替って、他の科の人がなった時に、この方は私の事をよく知らないので、とうとう松村氏の言を聴いて私を罷職にしてしまった。しかしこれを聞くと、皆が承知しない。「牧野を罷めさせることはない。そんな事をしては教室が不自由で困る、また教室の秩序も乱れる」 こういって反対をした。それ程私は教室では重宝がられていたものと見える。この反対運動がやかましくなって、今度は私を講師という事にして、また学校へ入れる事になった。以来ずっとこれが今日まで続いているわけである。 これは後の話であるが、停年制のために松村氏が学校を退いた。その時にある新聞に、「私がどうでもやめねばならぬとすれば、牧野も罷めさせておいて、私はやめる」 松村氏の言として、こんな事が書いてあった。真か偽か知らぬが、とにかく松村氏が私に敵意を持っておったという事は、なかなか深刻なもので、且つ連続的なものであった。しかし松村氏もとうとう私を自由に処分する事は出来ないで、却って講師にしなければならなかったというのは、全く松村氏の面目が潰れたといってよいわけになる。学内事情 これは昭和十四年七月二十五日「東京朝日」に掲載されたものである。四十七年勤めて月給七十五円 東大を追われた牧野博士 深刻な学内事情の真相をあばく わが植物学界の国宝的存在牧野富太郎博士が四十七年間即ち半世紀の長きにわたって奉職していたその東大の植物学教室から今度追われる如く、或あるいは自ら追ん出る如くにして、老の身を教壇から退かなければならなかったというニュースほど、このごろの学界に様々の話題と深刻な疑問を投げかけたものはない。記者はその間のいきさつ或はその背後にある大学の内部事情、学閥などについて知り合の或学界通B君にくわしく質問して見たから読者諸君の御参考のために以下問答体でその話をなるべく正直に御紹介しよう。Aはむろん質問者たる記者である。 A さっそくながら今度の牧野博士事件についての真相を聞かせてもらいたいね。一体博士はなぜ辞表を出したんだ? B それは、ちょっと簡単に言えないね。博士ももう七十八歳の高齢だ。したがって後進に道をゆずるため、去年頃から適当な機会に大学を辞めるだろう、というような噂は一般にあったし、実際は博士自身にさえその腹はあったらしいんだ。 A それにしては新聞で見ると、今度という今度は、博士も大分怒って辞表を出したらしい形跡じゃないか? B まあ待て待て、先を急ぐなよ。むろん、今度の場合は、さしも平常はのんき一本槍で通って来た牧野先生も、カンカンに怒ったんだよ。それもぼくから言わせれば無理のない話だ。なぜって新聞にもちょっと出たから、君も大体知っているだろうが、五月の或る日のことだ。あの東大泉の雑木林の中の博士の陋屋ろうおくへ、はるばると東武電車に乗って東大理学部長寺沢寛一先生の代理なる者が、博士に面会にやって来たんだよ。それで博士が、ていちょうに上げて見ると、それが何と理学部植物学教室のただの事務員(著者註、この時使いしたのは植物学教室の助手M・Sの二氏であった)なんだ。そして何を言い出すかと思うと、あの無邪気でのんきな老先生に向って、先生は、もう、先日来、適当の機会に辞表を出したいと言っておられたが、大学でも待っているから、早い方がいい、今日辞表を出してくれないか、という主旨の申込みなんだ。 しかもその間には、七十八歳の高齢の博士に対して、ずいぶん、失礼な言辞があったらしい。それで、さしも日頃のんきな老先生も、カンカンになって、その無礼に対し怒り出し、また博士の家のおとなしいお嬢さんも、となりの部屋でただ聞いているには忍びなくなって飛び出し“何という失礼なことをあなたは老人になさるんです! お帰りなさい、お帰りなさい!”と、とうとう大声で泣き出してしまったという秘話まであるんだ。そこで、若い事務員は、ほうほうの態ていたらくで、大学へ逃げ帰ったんだが、一本気の牧野先生は、もう腹の虫がおさまらないで、サッサと辞表を提出してしまったんだ。博士も先日東大で発表したように、どうせ、もう大学を辞めてもいいと思っていたし、御自身は大学に対しては、ちっとも未練はなかったんだよ。ただ同じ辞めるにしても、大学がもっと博士に礼儀をつくしてくれればよかったんだね。 のみならず、博士が辞職の決意をして大学へあいさつに行くと、当の理学部長の寺沢寛一先生は、肝心の事務員事件をあまり御存知ないらしいんだ。それでとうとうこの事件は植物学の某教授の博士追出し策に過ぎない、という疑惑がようやく濃厚になり、世間でもその教授に対して“忘恩教授”などと陰口をきくようになったんだよ。 A それにしても、だいたい大学講師の停年はいくつなんだい? B 冗談言っちゃいけない。ただのはかない嘱託にすぎない大学講師なんかに停年なんかあるものか。強いて言えば講師は毎年毎年その三月には停年(?)なんだ。というのは原則として講師は一年単位の臨時やといだからね。停年制のあるのは教授、助教授、さては助手など東京帝国大学官制第一条に、ちゃんと明記されている官吏だけなんだよ。講師については、帝国大学令第四条に「必要アル場合ニ於テハ帝国大学総長ハ講師ヲ嘱託スルコトヲ得」と規定されてあるだけなんで、そもそもの初めをいえば講師なんか、大学になくたってちっともおかしくはない存在なんだ。 A それで実際の待遇の差はどうなんだ。 B 官吏たる助教授、教授などは元来、そうとうの実質上、待遇を受けている。それに各学部で定員がちゃんと治まっているから、うかつに教授に長生きされると、その下の助教授などは全くの万年助教授で一生浮かばれんことになる。それで停年制というのが出来上ったのだが、その代り停年で辞めるような連中には、ちゃんと恩給がついていて、老後の生活は保証されているんだ。ところが講師の場合だが、いいかい? さっき言った毎年毎年辞令の出るような講師の俸給は、元来、毎週その講師が受け持たされている、たとえば毎週一時間の講義をする講師の年俸は大体百五十円から、二百円、二時間講義をするものはその二倍の三百円から四百円という風に、慣習的に相場がきまっているんだ。だから一時間講義をする先生は、月割にすれば、たった十二三円の月給取りという勘定になる。ふつうの講師は毎週二時間から四時間だから、その中をとれば月給は大たい三十八円というわけさ。ところがわが牧野老先生は、本年七十八歳、四十七年間もの長い間講師を勤めあげた甲斐があって、講師としては最高の月給取りなんだが、それが先日来、問題の月給七十五円なんだ。これは大学講師としては異例の異例と言っていいくらいの高給取りなんだが、他方官吏たる職員の場合を考えると、七十五円なんて端っ葉は、学校出たてのホヤホヤ二十代の青二才のような助手でも立派にとる俸給に過ぎない。だから大学講師としてつづける限り、先生が百歳まで長生きをなきろうと、百円のサラリーマンにはなかなか及びもつかない待遇しか、大学から受けられんわけさ。 A なる程、それなら牧野博士のような大学者を大学では、なぜ、そんな半世紀もの長い間単なる講師として放任して置いたんだ。博士は一体それで生活できたのかい。また、博士は大学から見れば、ほんとの学者じゃないとでもいうのかい。 B 博士が学者じゃないとバカなことは冗談にも言い給うな。この点では本職の大学がやはり、博士の博い学殖を一番知っていることだろう。なぜって、明治のころ、わが国の植物学者が、植物を採集して来ては、それを自分で学名がつけられないので、標本を一々外国に送っては、向うの先生に学名をつけてもらっていたころ、牧野博士が出現して、はじめて独力で、どしどし新学名をつけられ、後世の学者はそれを真似るようになったんだし、現に、いま六千種からある日本の植物のうち、千五百種以上の学名は、博士がたった一人で名づけ親になっているといわれているんだからね。また、ドイツの故エングラー博士、アメリカのベイリー博士などの世界的学者が、日本の植物学者に頭を下げたのは、ただ、わが牧野老先生だけだったんだからね。そんじょ、そこいらの自称学者先生とは、桁けたちがいの大学者なんだ。三宅驥一博士はかつて、牧野博士のことを「百年に一度出るか出ないかの大学者」とまで折り紙をつけて激賞されたんだ。事実、博士に一目にらまれると日本のどんな地方の植物でも、それが草の切れっぱし、葉の一片はおろかなこと、あの識別のもっとも至難とされているところの、ただの芽生えがあっただけで、その植物が何科の植物で、どんな性質のものか、いっぺんで正体が暴露されてしまうというんだから、俗な表現だが、まったく天才というのほかないよ。……
2023.09.20
らんまん で 関東大震災 の模様が放映される。「天災は忘れた頃にやってくる」というから、こうして警告することは有益かもしれない。大震災 震災の時は渋谷の荒木山にいた。私は元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりもこれを心ゆく迄味わったといった方がよい。当時私は猿又一つで標品を見ていたが、坐りながらその揺れ具合を見ていた。そのうち隣家の石垣が崩れ出したのを見て家が潰れては大変と庭に出て、庭の木につかまっていた。妻や娘達は、家の中にいて出て来なかった。家は幸いにして多少の瓦が落ちた程度だった。余震が恐いといって皆庭に筵むしろを敷いて夜を明したが、私だけは家の中にいて揺れるのを楽しんでいた。後に振幅が四寸もあったと聴き、庭の木につかまっていてその具合を見損ったことを残念に思っている。その揺っている間は八畳座敷の中央で、どんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ座っていて、ただその仕舞際しまいぎわにチョット庭に出たら地震がすんだので、どうも呆気あっけない気がした。その震い方を味わいつつあった時、家のギシギシと動く騒がしさに気を取られそれを見ていたので、体に感じた肝腎要めの揺れ方がどうも今はっきり記憶していない。何といっても地が四五寸もの間左右に急激に揺れたのだから、その揺れ方を確しっかと覚えていなければならん筈だのに、それを左程さほど覚えていないのがとても残念でたまらない……もう一度生きているうちにああいう地震に遇えないものかと思っている。 震災では「植物研究雑誌」第三巻第一号を全部焼いてしまった。残ったのは見本刷七部のみであった。震災後二年ばかりして、渋谷から石神井しゃくじい公園附近の大泉に転居した。標品を火災その他から護るためには、郊外の方が安全だと思ったからである。
2023.09.20
万太郎夫婦の次女・千歳が虎鉄が結婚した。千歳は黒とオレンジの華やかな着物を着て、家族で記念撮影した。放送終了後、公式X(旧ツイッター)では「千歳が来ていた着物は、母・寿恵子が結婚式で着ていた着物と同じもの。みなさん、気がつきましたか?」「お二人ともとてもお似合いですね!」
2023.09.19
らんまん:「そんな若じゃき、わしは愛した」 竹雄の告白に「涙腺崩壊」「万竹コンビが大好き」の声沼津の酒蔵を購入した竹雄は、万太郎との別れの前に、長屋を訪れる。「ツチトリモチ」という貴重な植物を竹雄に見せる。万太郎「和歌山にある神社の森で見つけたがじゃ。年が明けたらその森は、伐採されてしまうらしい。わしは、神社の森の植物は一つ残らず描き留めてきた。それを大学に提出する」竹雄「平気かえ? 国の旗振りの神社合祀(ごうし)令じゃろ?」「勝手に大学に押しかけて、通わせてくださいゆうて。今度は自分で出ていきます、ゆうがか? わがままがすぎるじゃろう。天下の東京帝国大学相手に」「いくつになっても、子供っぽうて。そんでも、金色の道を貫くためながじゃろ?」 「小さい神様が消えていくゆうがを見逃すより 手を差し伸べるおまんがえい」「峰屋の若旦那はダメ若じゃったけんど、ほんでも、いつじゃち強さと優しさが本気じゃった。そんな若じゃき、わしは愛したがじゃ」💛これは最終回あたりで蘭光先生が夢か幻影の中で出現し、「金色の道をよく貫いた」とほめる伏線かもそしてその時、亡き寿恵子と園子ちゃんが「お父ちゃん長い事ご苦労様」と迎えに来たりして(^^)大震災 震災の時は渋谷の荒木山にいた。私は元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりもこれを心ゆく迄味わったといった方がよい。当時私は猿又一つで標品を見ていたが、坐りながらその揺れ具合を見ていた。そのうち隣家の石垣が崩れ出したのを見て家が潰れては大変と庭に出て、庭の木につかまっていた。妻や娘達は、家の中にいて出て来なかった。家は幸いにして多少の瓦が落ちた程度だった。余震が恐いといって皆庭に筵むしろを敷いて夜を明したが、私だけは家の中にいて揺れるのを楽しんでいた。後に振幅が四寸もあったと聴き、庭の木につかまっていてその具合を見損ったことを残念に思っている。その揺っている間は八畳座敷の中央で、どんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ座っていて、ただその仕舞際しまいぎわにチョット庭に出たら地震がすんだので、どうも呆気あっけない気がした。その震い方を味わいつつあった時、家のギシギシと動く騒がしさに気を取られそれを見ていたので、体に感じた肝腎要めの揺れ方がどうも今はっきり記憶していない。何といっても地が四五寸もの間左右に急激に揺れたのだから、その揺れ方を確しっかと覚えていなければならん筈だのに、それを左程さほど覚えていないのがとても残念でたまらない……もう一度生きているうちにああいう地震に遇えないものかと思っている。 震災では「植物研究雑誌」第三巻第一号を全部焼いてしまった。残ったのは見本刷七部のみであった。震災後二年ばかりして、渋谷から石神井しゃくじい公園附近の大泉に転居した。標品を火災その他から護るためには、郊外の方が安全だと思ったからである。妻の死と「すえこざさ」の命名 昭和三年二月二十三日、五十五歳で妻寿衛子すえこは永眠した。病原不明の死だった。病原不明では治療のしようもなかった。世間には他にも同じ病の人もあることと思い、その患部を大学へ差上げるからそれを研究してくれと大学へ贈った。 妻が重態の時、仙台からもってきた笹に新種があったので、私はこれに「すえこざさ」と命名し、「ササ・スエコヤナ」なる学名を附して発表し、その名は永久に残ることとなった。この笹は、他の笹とはかなり異なるものである。私は「すえこざさ」を妻の墓に植えてやろうと思い、庭に移植して置いたが、それが今ではよく繁茂している。亡き妻を想う 私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃――私がまだ二十七、八ママ歳の青年の頃でした。寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。 青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。仲人は石版印刷屋の親爺――というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。 当時私は麹町三番町にあった同郷出身の若藤宗則という人の家の二階を間借していたのだが、こうして恋女房を得たのだから早速そこを引き揚げて根岸の御院殿跡にあった村岡という人の離れ屋を借り、ここで夫婦差し向いの愛の巣を営んだ。そうして私にはまだ多少の財産が残っていたので始終大学へ行って植物の研究をしていたが、翌二十四年ごろからはその若干の私の財産も残り少なになってしまったのです。そこで二十四年から二十五年にかけて家政整理のために一たん帰郷したが、私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。 ところで私の宅ではそれから殆ど毎年のように次ぎ次ぎと子どもが生れる。月給は十五円でとてもやりきれぬし、そうむやみに他人が金を貸してくれる訳もなく、ついやむなく高利貸から借金をしたが、これが僅か二、三年の間に忽ち二千円を突破してしまったのです。そこで同郷の土方寧博士や田中光顕伯が大変心配して下さって借金整理に当たることになり、田中伯の斡旋で三菱の岩崎が乗り出してくれてともかく二千円の借金を綺麗に払って下さったのです。それから土方博士が当時の浜尾東大総長に私を紹介してくれ、そこで浜尾総長が非常に心配して下され、総長の好意で私が『大日本植物志』の編纂に従事することになった。つまりただの助手では俸給が決まっていてなかなか上るものではないが、こういう特別の仕事をすれば私の収入もふやすことが出来よう、という浜尾総長の御厚意からであったが、この私の大事業に対して当時の植物学の主任教授松村博士がどういう訳かいろいろな妨害をされた。のち故あってせっかくの『大日本植物志』も第四集のまま中止することとなったのです。従ってまた私の収入はビタ一文もふえなくなってしまったので、そこで私は生活上止むを得ず、私の苦心して採集した標本の一部を学校へ売ってみたり、書物を書いたりして生活上の赤字はどうしても私の腕で補ってゆかねばならなかったのです。ところが子沢山、結局しまいには十三人もの子どもが出来てしまったので私の家の生活が、月給十五円から二十五円(十三人目の子供が出来た時の俸給が二十円から二十五円でした)ぐらいの俸給と、私の痩腕による副収入とではとてもやってゆけるものではなく、また忽ち各方面の借金また借金がふえてその後長いこと私は苦しまねばならなかったのです。 その時丁度天の使のように私の眼の前に現れて来て下さったのが、当時某新聞社の記者をしていた農学士の渡辺忠吾君――一時京都の農学校の校長をしていて今は確か帝国農会の理事か何かしているはずです――でした。この渡辺君が非常に私に同情してくれて「こんな窮状にあることは思い切って世の中へ発表した方がいいでしょう。きっと何かお役にたつこともあるかも知れないから」と極力すすめ、かつは私を激励してくれたので、私もとうとうこの時はじめてわが生活の内容を世間に発表してしまったのです。すると早速私を救済しよう、という人が二人出て来ました。一人は久原房之助氏、他の一人はまだ京大の学生であって、後の実業家池長孟氏であった。そこで渡辺君の勤め先の新聞社の斡旋で結局池長さんが私の負債を払ってくれることになり、これを綺麗に清算してくれた上で神戸に池長植物研究所をつくられたのです。それのみならず当時池長さんは月々若干の生活の補助を私にして下さったのであり、私にとって終生忘れることの出来ない恩人になっています。畢竟ひっきょう右の池長植物研究所の名も実は牧野植物研究所とすべきであったが、私は池長氏に感謝の実意を捧ぐるためにその研究所に池長の姓を冠したのでした。 さて私はここで話を最初にもどして、死んだ家内の話を申し上げて見たい。何故ならば私が終生植物の研究に身を委ねることの出来たのは何といっても、亡妻寿衛子のお蔭が多分にあり、彼女のこの大きな激励と内助がなかったら、私は困難な生活の上で行き詰って仕舞ったか、あるいは止むを得ず商売換えでもしていたかも知れませんが、今日思い返して見てもよくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがあります。それほど妻は私に尽してくれたのです。債権者が来てもきっと妻が何とか口実をつけて追っ払ってくれたのでした。いつだったか寿衛子が何人目かのお産をしてまだ三日目なのにもう起きて遠い路を歩き債権者に断わりに行ってくれたことなどは、その後何度思い出しても私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出て来て困ることがあります。実際そんな時でさえ私は奥の部屋でただ好きな植物の標本いじりをやっていることの出来たのは、全く妻の賜であったのです。 寿衛子は平常、私のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談にいっていましたが、それはほんとうに内心そう思っていたのでしょう、何しろ私は上述のような次第でいくら借金が殖えて来ても、植物の研究にばかり毎日夢中になっていて、家計の方面では何時も不如意勝ちで、長年の間妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです。 大正の半ばすぎでした。上述のような次第でいろいろ経済上の難局にばかり直面し、幸いその都度つど、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてようやく通りぬけては来たものの、結局私たちは多人数の家族をかかえて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやってゆけそうにないが、一度は本郷の竜岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英断でやり出したのが意外な待合まちあいなのです。 これは私たちとしては随分思い切ったことであり、私が世間へ公表するのはこれがはじめてですが、妻ははじめたった三円の資金しかなかったに拘わらずこれでもって渋谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって“いまむら”という待合をはじめたのです。私たちとはもとより別居ですが、これがうまく流行はやって土地で二流ぐらいまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、矢張り素人のこととてこれも長くは続かず、終わりにはとうとう悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉じてしまいましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので「大学の先生のくせに待合をやるとは怪けしからん」などと私はさんざん大学方面で悪口をいわれたものでした。しかし私たちには全く疚やましい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が独力で私たちの生活のために待合を営業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大学その他へこの点で、何等迷惑をかけたことは毫ごうもなかったといってよいのです。それゆえに時の五島理学部長もその辺よく了解し且つ同情していて下されたのです。 こうしてとにかく一時待合までやって漸く凌いで来たのち、妻は私に目下私たちの住んでいるこの東大泉の家をつくる計画を立ててくれたのです。妻の意見では都会などでは火事が多いから、せっかく私の苦心の採集になる植物の標本などもいつ一片の灰となってしまうか判らない。どうしても絶対に火事の危険性のないところというので、この東大泉の田舎の雑木林のまん中に小さな一軒家を建ててわれわれの永遠の棲家としたのです。そうしてゆくゆくの将来は、きっとこの家の標本館を中心に東大泉に一つの植物園を拵こしらえて見せよう、というのが妻の理想で私も大いに張り切り、いよいよ植物の採集にも熱中したのですが、これもとうとう妻の果敢はかない夢となってしまいました。この家が出来て喜ぶ間もなく、すなわち昭和三年に妻はとうとう病気で大学の青山外科で歿くなってしまったからです。享年五十五でした。妻の墓はいま下谷谷中の天王寺墓地にあり、その墓碑の表面には私の咏んだ句が二つ亡妻への長とこしなえの感謝として深く深く刻んであります。家守りし妻の恵みやわが学び世の中のあらん限りやスエコ笹 この“スエコ笹”は当時竹の研究に凝こっており、ちょうど仙台で笹の新種を発見してそれを持って来ていた際なので、早速亡妻寿衛子の名をこの笹に命名して永の記念としたのでした。この笹はいまだにわが東大泉の家の庭にありますが、いずれ天王寺の墓碑の傍に移植しようと思っています。 終わりに臨んで私は私の約半世紀も勤め上げた大学側からは、終始いろいろの堪えられぬような学問的圧迫でいじめられ通しでやって来ました。しかし今日私の心境はむしろ淡々としていてこんなつまらぬことは問題にしていません。由来学者とはいうものの、案に相違した偏狭な、そして嫉妬深い人物が現実には往々にしてあることは、遺憾ながら止むを得ません。しかし私は大学ではうんと圧迫された代わりに、非常に幸運なことには世の中の既知、未知の方々から却って非常なる同情を寄せられたことです。 私は幸い七十八歳の今日でも健康には頗すこぶる恵まれていますから、これからの余生をただひたすらわが植物学の研究に委ねて、少しでもわが植物学界のために貢献出来れば、と念じているばかりです。大学を辞す 昭和十四年の春、私は思い出深い東京帝国大学理学部植物学教室を去ることになった。私はもう年も七十八歳にもなったので、後進に途を開くため、大学講師を辞任するの意はかねて抱いていたのであったが、辞めるについて少なからず不愉快な曲折があったことは遺憾であった。私は今改めてそれについて語ろうとは思わないが、何十年も恩を受けた師に対しては、相当の礼儀を尽すべきが人の道だろうと思う。権力に名をかり一事務員を遣つかわして執達吏の如き態度で私に辞表提出を強要するが如きことは、許すべからざる無礼であると私は思う。辞める時の私の月給は七十五円であったが、このことは相当世間の人を驚かしたようだ。 私は大学を辞めても植物の研究を止めるわけではないから、その点は少しも変りはないわけである。「朝な夕なに草木を友にすれば淋しいひまもない」 というのが私の気持である。私と大学 昭和十四年から凡およそ五十二年程前の明治二十年頃に民間の一書生であった私は、時々否な殆ど不断に東京大学理科大学、すなわち今の東京帝国大学理学部の植物学教室へ通っていた。がしかし大学とは公に於て何の関係もなく、これは当時植物学の教授であった理学博士矢田部良吉先生の許しを得てであったが、先生達はじめ学生諸君までも非常に私を好遇してくれたのである。教室の書物も自由に閲覧してよい、標本も勝手に見てよいとマルデ在学の学生と同様に待遇してくれた。その時分はいわゆる青長屋時代であった。私はこれがため大変に喜んで自由に同教室に出入して大いにわが知識の蓄積に努め、また新たに種々と植物を研究して日を送った。そこでつらつら私の思ったには、従来わが国にまだ一つの完全した日本の植物志すなわちフロラが無い、これは国の面目としても確かに一つの大欠点であるから、それは是非ともわれら植物分類研究者の手に依てその完成を理想として、新たに作りはじめねばならんと痛感したもんだから、私は早速にそれに着手し、その業をはじめる事に決心した。それにはどうしても図が入用であるのだが、今それを描く自信はあるからそれは敢えて心配は無いが、しかしこれを印刷せねばならんから、その印刷術も一ひト通りは心得ておかねば不自由ダと思い、そこで神田錦町にあった一ひとつの石版印刷屋で一年程その印刷術稽古をした。そしていよいよ『日本植物志』を世に出す準備を整えた。その時私の考えではおよそ植物を知るにはその文章も無論必要だが、図は早解りがする。故にとりあえずその図を先きに出し、その文章を後廻しにする事にして、断然実行に移す事となり、まずその書名を『日本植物志図篇』と定めた。これは『日本植物志』の図の部の意味である。そしていよいよその第一巻第一集を自費を以て印刷し、これを当時の神田裏神保町にあった書肆敬業社をして発売せしめたが、それが明治二十一年十一月十二日で今から大分前の事であった。その書名は前記の通りであったが、これを欧文で記すると Illustrations of the Flora of Japan, to serve as an Atlas to the Nippon-Shokubutsushi であった。助教授であった村松任三氏は大変にこれを賞讃してくれて「余ハ今日只今日本帝国内ニ本邦植物図志ヲ著スベキ人ハ牧野富太郎氏一人アルノミ……本邦所産ノ植物ヲ全璧センノ責任ヲ氏ニ負ハシメントスルモノナリ」と当時の「植物学雑誌」第二十二号の誌上へ書かれた。 それが明治二十三年三月二十五日発行の第六集まで順調に進んだ時であった。ここに突然私に取っては一つの悲むべき事件が発生した。それは教授の矢田部氏が何の感ずる所があってか知らんが、殆ど上の私の著書と同じような日本植物の書物を書く事を企てた。そこで私に向こうて宣告するに今後は教室の書物も標本も一切私に見せないとの事を以てした。私はこの意外な拒絶に遭ってヒタと困った! 早速に矢田部氏の富士見町の宅を訪問して氏に面会し、私の意見を陳述しまた懇願して見た。すなわちその意見というのは第一は先輩は後輩を引き立つべき義務のある事、第二は今日植物学者は極めて寡すくないから一人でもそれを排斥すれば学界が損をし植物学の進歩を弱める事、第三は矢張り相変らず書物標本を見せて貰いたき事、この三つを以て折衝してみたが氏は強情にも頑としてそれを聴き入れなかった。その時は丁度私が東京近郊で世界に珍しい食虫植物のムジナモ(Aldrovanda vesiculosa L.)を発見した際なので、私は止むを得ずこれを駒場の農科大学へ持って行ってそこでそれを写生し、完全なその詳図が出来た。この図の中にある花などの部分はその後独逸ドイツの植物書にも転載せられたものである。 私は矢田部教授の無情な仕打ちに憤懣し、しかる上は矢田部を向うへ廻してこれに対抗し大いに我が著書を進捗しんちょくさすべしと決意し、そこではじめて多数の新種植物へ学名をつけ、欧文の記載を添え、続々とこれを書中に載せ、上の『日本植物志図篇』を続刊した。当時私の感じでは今仮りにこれを相撲に喩うればそれは丁度大関と褌担ぎのようなもの、すなわち矢田部は、大関、私は褌担ぎでその取組みは甚だ面白く真に対抗し甲斐があるので大いにヤルべしという事になり、そこは私は土佐の生まれだけあって、その鼻息が頗る荒らかった。一方では杉浦重剛先生または菊池大麓先生など、それは矢田部が怪けしからんと大いに孤立せる私に同情を寄せられ、殊にその頃発行になっていた「亜細亜」という雑誌へ杉浦先生の意を承うけて大いに私のために書いて声援して下さった。 丁度その時である。イッソ私は、私をよく識ってくれている日本植物研究者のマキシモヴィッチ氏の許に行かんと企て、これを露国の同氏に紹介した。同氏も大変喜んでくれたのであったが、その刹那同氏は不幸にも流感で歿したので、私は遂にその行をはたさなかったが、その時に「所感」と題して私の作った拙い詩があるからオ目に掛けます。専攻斯学願樹功、微躯聊期報国忠、人間万事不如意、一身長在轗軻中、泰西頼見義侠人、憐我衷情傾意待、故国難去幾踟、決然欲遠航西海、一夜風急雨※[#「黯のへん+(西/土)」、U+9EEB、113-8]※[#「黯のへん+(西/土)」、U+9EEB、113-8]、義人溘焉逝不還、忽長隔幽明路、天外伝訃涙潸潸、生前不逢音容絶、胸中鬱勃向誰説、天地茫茫知己無、今対遺影感転切 明治二十四年十月遂に上の図篇が第十一集に達し、これを発行した時、私の郷里土佐国佐川町に残してあったわが家(酒造家)の始末をつけねばならぬ事が起ったので、仕方なく右の出版事業をそのまま擲なげうっておいて、匆々そうそう東京を出発する用意をし、間も無く再び東京へ出て来るから、今度出て来たが最後、大いに矢田部に対抗して奮闘すべく意気込んで国へ帰った。すなわちそれが右二十四年の秋も半ばを過ぎた紅葉の時節であった。 国に帰った後で、一つの驚くべき一事件が大学に突発した。それは矢田部教授が突然大学を罷職になった事である。同教授のこの罷職は何も私とのイキサツの結果では無論なく、これは他に大きな原因があって、ツマリ同じ大学の有力者との勢力争いで遂に矢田部教授が負けたのである。それには彼の鹿鳴館時代、一ツ橋高等女学校に於ける彼の行為も大分その遠因を成しているらしく思われる。 越えて明治二十五年になった。月も日も忘れたが、大学から一つの書面が私の郷里に届き私の手に入った。披ひらいて見ると君を大学へ採用するから来いとの事が書いてあった。大抵の人ならこんな書面に接したら飛び立つように喜ぶであろうが、私はそう嬉しいようにも感じ無くアアそうかという位の気持ちであった。そこで早速返事を認めて、只今我が家を整理中だからそれが済んだら上京して御世話になりますと挨拶をしておいた。 翌明治二十六年一月になって私の長女が東京で病死したので急遽私は上京した。大学の方はどう成っているか知らんと聴いて見たら、地位がそのまま空けてあるからいつからでも這入はいれという事で、私は遂に民間から入って大学の人となり、助手を拝命して植物学教室に勤務し、毎月月給を大枚十五円ずつ有難く頂戴したが、これは一面からいうと実は芸が身を助ける不仕合せでもあったのである。 実は私は大学へ勤める迄は、私の覚えていない程早く死んだ親から遺された財産があって、何の苦労も無くノンビリと一人で来たのである。が丁度大学へ入った時分にそれが全く尽きて仕舞った。それは大抵皆なわが学問に入れあげたからであったが、そこは鷹揚な坊チャン育ちの私には金の使い方が確かにマズク、今でもよく牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある。 惟おもうて見れば誠に不思議なもので小学校も半分しかやらず、その後何処の学校へも這入らず、何の学歴も持たぬ私がポッカリ民間から最高学府の大学助手になり、講師になり、後には遂に博士の学位迄も頂戴したとは実にウソのようなマコトで実に世は様々、何がどうなるか判ったもんでは無い。 ダガ、昨日まで暖飽だんぽうな生活をして来た私が遽にわかに毎月十五円とは、これには弱った。何分足りない、足りなきゃ借金が出来る、それから段々子供が生まれだし、驚く勿なかれ後には遂に十三人に及んだ。そして割合に給料があがらない。サア事ダ、私の多事多難はこれがスタートして、それからが波瀾重畳、具つぶさに辛酸を嘗なめた幾十年を大学で過ごした。その間また断えず主任教授の理不尽な圧迫が学閥なき私に加えられたので、今日その当時を回想すると面白かったとは冗戯じょうだん半分いえない事も無いでは無いが、しかし誠に閉口した。がそれでも上に媚びて給料の一円もあげて貰いたいと女々めめしく勝手口から泣き込んで歎願に及んだ事は一度も無く、そんな事は苟いやしくも男子のする事では無いと一度も落胆はしなかった。そしてこんな勢いの不利な場合は幾らあせっても仕方が無いから、そんな時は黙ってウント勉強し潜勢力を養い、他日の風雲に備うる覚悟をするのが最も賢明であると信じ、私は何の不平も口にせずただ黙々として研究に没頭し、多くの論文を作ってみたが、この研究こそ他日端なく私の学位論文となったものである。 紆余曲折あるこんな空気の中に長くおりながら、何の学閥も無き身を以て明治二十六年就職以来今日まで実に四十七年の歳月が流れたのである。こんな永い間敢て薄給を物ともせず厭な顔一つも見せずに何時もニコニコと平気で在職していた事は大学としても珍しいことであろうし、また本人の年からいっても七十八歳とはこれもまた他に類の無い事であろう。そこで私の感ずる事はなるべく足許の明るいうちにこの古巣を去りたい事で、去年からそれを希望し、今年三月を限りとし、「長く通した我儘わがまま気儘最早や年貢の納め時」の歌を唄いつつこの大学の名物男(これは他からの讃辞であって自分は何んとも思っていない)またはいわゆる植物の牧野サン(これも人がよくそういっている)が、この思い出深い植物学教室にオ暇乞いとまごいをするのである。 大学を出て何処へ行く? モウよい年だから隠居する? トボケタこと言うナイ、われらの研究はマダ終わっていないで尚前途遼遠ダ。マダ自分へ課せられた使命ははたされていないから、これから足腰の達者な間はこの闊ひろい天然の研究場で馳駆ちくし、出来るだけ学問へ貢献するのダ。幸い若い時分から身体に何の故障も無く頗る健康に恵まれているので、その辺は敢て心配無用ダ。私の脈は柔かく血圧は低く、エヘン元気の電池であるアソコも衰えていなく、そして酒も呑まず煙草も吸わぬからまず長命は請合いダと信じている。マア死ぬまで活動するのが私の勤めサ。「薬もて補うことをつゆだにもわれは思わずきょうの健やか」これなら大丈夫でしょう。 言い漏したが前の『日本植物志図篇』の書はその後どうなっタ? それは私の環境が変わったのでアレはまずその第十一集で打切り(十二集分の図は出来ていたけれど)、後に当時の浜尾総長の意を体して大学で私が『大日本植物志』の大著に従事していたが、ある事情の下にそれは第四集で中止した。これはわが国植物書中の最も精緻を極めたものであるので、その中止はわが学界のためにこの上も無い損失であった。著者であった私としては、マー私の手腕の如何なる〔も〕のであったかの証拠を示した記念碑を建てて貰ったのダト思えば多少自ら慰むるところがないでもない。 以上は頗るダラシの無い事を長々と書き連ねましたので、筆を擱おいたあと私は恐れ縮こまっています。ながく住みしかびの古屋をあとにして 気の清すむ野辺にわれは呼吸いきせむ神木「撮影は先日終了いたしました。第1週からはじまって、幼少期から槙野万太郎という一人の人物の人生を描いて、生きてきました。放送があと2週と少しなんだというさみしさもありつつ、最後までみなさんに届けられるような、みなさんの中に残る作品であったらいいなという思いが、終わりに近づくにつれて強くなっています」浜辺「ちょうど放送されている回では女将として生き生きと、万太郎とは別の生活も始まっています。子どもたちも大きくなってきて、ここから終盤に向けて寿恵子もまた歩みを進めていくところです。皆様に終わったら寂しいと思ってもらえるような、そんな物語になっていけばいいなと、毎日放送を楽しみに見ております」神木「福原さんが撮影を終わられていて僕は撮影が折り返しの時期でした。撮影中の自分が、撮り終えた方から受け取るバトンというので、当時は遠い未来だなという感じがしました。このターンに自分がなるとは……あんまり実感はないです。趣里さんには『本当に撮影頑張って! 応援してます!』という気持ちを込めて渡させていただきます」浜辺「私は途中参加だったので、趣里さんの大変さは私の何倍にも及ぶのだろうなと思います。なので、応援の気持ちと何よりもご健康、そして笑顔をたくさん浮かべられる現場であることを切に願い、お渡しさせていただきます」趣里「『ほんまおおきに!』このお二人の本当に素敵なメッセージを胸にあと半年走り続けたいと思います。皆さんと力を合わせて“ズキズキワクワク”した朝をみなさんに届けられるようにまずは自分が幸せにハッピーに頑張りたいと思います」
2023.09.16
「らんまん」大発見の元画工・野宮が辞表の理不尽理由 ネットも心配「辞めないで」【ネタバレ】9/5(火) 9月5日に放送されたNHK連続テレビ小説「らんまん」では、イチョウの大発見をしたはずの元画工の野宮(亀田佳明)が大学に辞表を出すことが判明。波多野(前原滉)が万太郎(神木隆之介)に、野宮が辞表を出すらしいと打ち明ける。波多野「僕らの発見は間違いなく大発見だった。けど、世界から相当疑われた」万太郎「ほんじゃき、波多野はようけ論文を書いたじゃろうが」波多野「世界から疑われるのはいい」「本当にひどいのはこの日本国内だった。第一発見者が元画工、認めないって…」「ぼくが研究してお膳立てして、たまたま(顕微鏡を)のぞいただけだろうって。外国向けの論文を書いたのも僕だから、僕1人の功績にしろって」「野宮さんを第一発見者として認めないのは僕が許さない」波多野は農科大学の教授に任命され、それを受けた。「結局僕は、野宮さんを見捨てたんだ」波多野のモデルは、池野成一郎博士野宮のモデルは、平瀬作五郎(ひらせ・さくごろう)氏平野氏はいちょうの精子を、池野氏はソテツの精子を発見し論文では発表した。裸子植物の花粉は胚珠にもたらされてから数ヵ月間は花粉室にとどまり,やがて花粉管を伸ばす。裸子植物のうち,イチョウやソテツの花粉管に精子が形成されることを最初に確かめたのはそれぞれ平瀬作五郎と池野成一郎で,これは明治時代における日本の植物学が世界的な発見をした最初のものであった。*平瀬作五郎1888年、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室に画工として勤務、1890年技手となる。主として図画を描いていたが、植物学に興味をいだき、1893年、イチョウの研究を始める。1894年1月に最初の論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を「植物学雑誌」に発表、1896年にはイチョウの精子を世界ではじめてプレパラートで確認した。平瀬作五郎によるイチョウの精子の発見は、池野成一郎によるソテツの精子の発見に先立つ1894年1月であると言われている。平瀬は、寄生虫かと思って当時助教授だった池野成一郎に見せたが、池野は一目見るなり「精子だ」と直感したという。その後1896年9月9日に「花粉管端より躍然精虫の遊動して活発に転々突進する状況を目撃」し、10月には「いてふノ精虫に就テ」という論文を発表している。これが世界で初めての裸子植物における精子の発見となり、池野成一郎によるソテツの精子の発見と合わせて、日本人による植物学への最も輝かしい貢献となった。平瀬作五郎は、その後1年して彦根中学へ転出し、一時は研究も断念、不幸な時期を体験している。しかし1912年、恩師ともいえる池野成一郎とともに、それぞれイチョウとソテツの精子の発見を高く評価されて、帝国学士院恩賜賞を授与された。ほとんど学歴のない平瀬に恩賜賞が授与される、というのは異例のことであった。もっともはじめは平瀬作五郎の授与は予定されていなかったらしく、「平瀬が貰わないのなら、私も断わる」と池野成一郎がいうので、2人受賞になったという。後半生は、花園中学校で教鞭をとったが、1924年、肝硬変で退職、1925年、京都市右京区御室の自宅で永眠。池野成一郎博士との親交 池野成一郎君は明治二十三年東大の植物学教室を卒業したが、私は彼とは極めて親しく交際した。池野と私とは、自然に気が合っていたというのか親友の間柄であった。東京郊外への採集にも二人で屡々出掛けた。アズマツメクサは、明治二十一年日本に産することが、はじめて判った植物だが、これも私と池野とが大箕谷おおみや八幡下の田圃たんぼで一緒に発見したものだ。池野は非常に学問の出来る秀でた頭脳の持主で、かの世界的発見たるソテツの精虫の発見などは、あまりにも有名な業蹟である。平瀬作五郎のイチョウの精虫発見なども池野に負うところが少なくない。 池野は、はじめから私に対し人一倍親切であったし、私も池野に最も親しみを感じていた。『日本植物志』の刊行に際しても、また矢田部教授の圧迫を受けた時も、私は同君の大いなる助力を受けた。池野の友誼は私の忘れ得ないものだ。 大学卒業後、池野は滅多に植物学教室へ見えなかったが、たまには来た。私は他から「僕は牧野君がいるからそれで行くのだ」といっていたと聞き、この上もなく嬉しく感じた。池野が夏に私の家へ訪ねて来ることがあると、早速上衣を脱ぎ、両足を高く床柱へもたせ、頭を下にし体を倒さかさまにして話をしたりしたものだ。こんな無遠慮なことが平気な程二人は親しかったのだ。青山練兵場の「なんじゃもんじゃ」 池野がまだ学生の頃、青山練兵場のナンジャモンジャの木(この木は本名をヒトツバタゴという)の花を採ろうと話し合い、夜中に採集を強行した事があった。樹が高くてとれないので一人の人力車夫を傭うてきて、樹に登らせ、その花枝を折らせた。夜中で人が見ていないから自由に採れたし、練兵場も荒れていて、この樹も後年のように大事がられなかったので、採集に成功したわけである。それに学術資料を採るのだから、そう罪にはなるまいと考えた。この時の花の標品が今なお私のハァバリウムの中に保存されているが、ナンジャモンジャの木は寿命が尽きて、数年前には枯れてしまったので、今では当時の標品がまたと得難き記念標品となっている。また当時本郷の春木町に、梅月という菓子屋があって、ドウランと呼ぶ栗饅頭式の菓子を売っていた。形が煙草入れの胴籃どうらん見たようで、この名があったのだが、大層うまかったので、池野と二人で度々食いに行ったものである。
2023.09.05
らんまん:8月30日 第108回 寿恵子がピストルの代わりに持たせたもの寿恵子がピストルの代わりに持たせたものそれは「日本植物志図譜」だった。すごい、てっきりなき軍人のお父さんの形見の品かと思ったら「ペンは剣よりも強し」そのものだった。植物学者の里中や、実業家・岩崎からの推薦で、万太郎は学術研究員として台湾へ行くこととなった。陸軍大佐・恩田から護衛用にピストルの購入を命じられるが、万太郎は納得できない。徳永教授からは帝国大学の人間としていくことを自覚するよう注意を受ける。万太郎から話を聞いた寿恵子は、ピストルの代わりに「日本植物志図譜」をお守りに持たせ、台湾へと見送るのだった。里中「岩崎さんからも槙野君を調査団の一員にと推薦いただいているし・・・」徳永「なんでお前が岩崎さんを知っているんだ」万太郎「岩崎さんから支援をいただきましたし」徳永「なんで岩崎さんがお前を支援するんだ」と驚愕するあたりが面白かった(^^)底知れぬ万太郎の人間関係への畏怖里中「槙野君、世の中が変わったねえ」「戦争による好景気。研究予算が増えるのはありがたいが、その分『国のために働け』と言われ続ける」「どうする? 槙野君。降りてもいいよ」「だが……私は君を選びたい。どうかね?」後に徳永教授との対立があらわになるときに、そうした帝国大学学長、理学部校長などの人間関係に守られて徳永教授は万太郎を非職に追い込めなくなる・それにしても、準備期間が短すぎて、現地の言葉を習得できない。・国益になる植物を見つけるより、台湾に自生する草花を見てみたいとゴネ気味に言い放つ万太郎にいらだつ面々恩田「こいは国力増強のための調査ですばい。 国益となる植物ば、しっかり調査してくんさいよ」徳永「軍人に決して逆らうな」と助言万太郎は全くおかまいなく、学びたての台湾語でコミュニケートとろうとする。「草花も現地の言葉で読みかけないといかん」現地案内人・陳志明(ちんしめい、朝井大智)朝井大智は、父に台湾人、母に日本人を持つ37歳。2019年から日本での活動を開始し、TBS系「最愛」(2021年)や「クロサギ」(22年)など数多く出演している。また、今年7月に放送されたフジテレビ系「突然ですが占ってもいいですか?」にゲスト出演した際には自身のルーツを告白。台湾五大財閥「霧峰林家(むほうりんけ)」の子孫であることを明かした。「らんまん」の公式SNS「陳志明を演じるのは、台湾にルーツがある朝井大智さん。お二人の台湾語での会話は見事でしたね!」
2023.08.30
中川大志がらんまんに、親友・神木と共演「断る理由ない」2023.8.23中川が演じるのは、おじの莫大な資産を継いで資産家となった青年・永守徹。万太郎に図鑑発刊のための費用を支援したいと申し出る重要な役どころ中川「神木くんから名前が挙がっていると聞きました。断る理由はありませんでした。神木くんと、浜辺美波ちゃんと久々にお芝居できると、浮かれておりましたが、撮影はここ最近では、信じられないほど緊張しました(笑)。突然現れた永守徹という男が、万太郎のその先に向けて、何かバトンを渡すことができればと思います。どうかお楽しみに」SNS「神木くんが中川大志さんをオファーしたとか胸熱」「どんな掛け合いになるのか今から楽しみ」💛日本の国は子役が大成する国?鎌倉殿で金剛役の 森優里都さんは らんまん 万太郎の幼年期を演じる視聴者は浅田舞さん同様に近所のおじさんおばさん目線でなじんだ子役のしっかりした演技をめでるのであろうか?
2023.08.30
NHK朝ドラ「らんまん」寿恵子(浜辺美波)、熱演!〝講談師〟パフォーマンスにSNS「寿恵子劇場!!」「爆誕」「超有能」らんまん 寿恵子「里見八犬伝」の講談を演じる陸軍のメンバーを前に、寿恵子「おねえ様方はただいま向かっております。お待ちの間、私がお話を」「皆様、英雄のお話はお好きでしょうか?」八犬士・犬塚信乃と犬飼現八が出会う「里見八犬伝」の名場面「芳流閣の決闘」を講談師の如く披露。寿恵子「その時、犬塚信乃は現八のあまりの強さに、『いや、これは侮りがたし』と勇気、いや増して大太刀を振りかぶった~。ガキ~ン、ガキン!ぶつかり合う大太刀に火花が散る~!戦いは2匹の虎が風を巻き起こし、2匹の竜が雲を呼ぶような、激しく熱い命のやり取り~!」当初は「芸者はまだか」「早く連れてこい」とイライラしていた面々も、聞いてる間に身を乗り出し、「おい続きは?」「続き!」寿恵子「続きは馬琴先生で。フフフ…」*南総里見八犬伝 「芳流閣の決闘」古河城芳流閣の決闘。犬塚信乃が名刀・村雨丸を初代古河公方の足利成氏に献上するために古河城を訪れる。ところが敵のスパイと疑われ、命を狙われることに。成氏側は武芸に優れた信乃にてこずり、長十手の名人・犬飼現八を送り出す。2人は義兄弟とは知らず3層目の瓦屋根の上で戦い、決着が付かないまま利根川に落ちる。曲亭馬琴「南総里見八犬伝より 芳流閣の決闘」(ラジオドラマ)
2023.08.29
<らんまん>大窪、万太郎に“愛”の「バ~カ」 「再登場希望」「愛ある言動に泣けた」8/29(火)8月29日放送 大学を去ることとなった大窪(今野浩喜さん)の“愛ある言動”が話題大窪「来年、細田(渋谷謙人さん)がドイツから戻ってくる。やつも最新の植物生理学を持ち帰ってくる。俺は、非職だと」大窪「たまたまここに就職先があったってだけで……何年ムダにしちまったんだ」万太郎は共に研究をし、学名を共同でつけた「ヤマトグサ」の話を持ち出す大窪「ヤマトグサなんて世の中誰も知らねえんだよ! あんなひょろっちくて……可愛いだけの!」「昔、言ってたよな? 一生をささげることで植物学に恩返ししたいって。あれ考えてみりゃ傲慢の極みだな。いつまでもてめえが役に立つとか」万太郎「わしはそのために頑張りますき」大窪「せいぜい勘違いしてろや。バ~カ」SNS「大窪さんの愛ある言動に泣けました」「こんな愛のある『バーカ』を知りません」「悪態の裏にある相手を思う気持ちがにじみ出る演技でした」「そこに愛があった(涙)」「あんなひょろっちくて、かわいいだけの…」大窪「何か期待でもしてたのか。金につられて戻ってきやがってよ。たかが月給15円じゃねえか」「おまえ見てると、こっちまで悲しくなってくる! ただ尻尾振って標本採ってくるだけの犬じゃねえか。今なら遅くない。辞めろよ」万太郎は「辞めない」大窪「古いんだよ、おまえは!地べた這いずる植物学なんぞ、終わったんだ。手間だけ掛かって、見栄えもしない。見向きもされない」「本当に、人がせっかく忠告してやったのによ。俺は切られたよ」*大窪のモデルは大久保三郎さん大久保 三郎(おおくぼ さぶろう)は1857年6月14日(安政4年5月23日)生まれ。旗本で明治維新後は東京府知事になった子爵・大久保一翁の息子。大久保一翁は同じ幕臣の勝新太郎とも交流があった。1871年(明治4年)。アメリカ合衆国のミシガン大学に留学。植物学を学んだ。その後、イギリスに留学。帰国後は内務省に勤務。その後は東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調を務め、伊豆諸島、小笠原諸島の植物の研究を行う。1883年(明治16年)助教授に昇進。矢田部良吉のもとで働き。矢田部を補佐して標本施設拡充に貢献。1884年(明治17年)牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りするようになる。1887年(明治20年)。伊豆諸島を調査。この年、牧野富太郎たちとともに「植物学雑誌」を創刊。大久保 三郎は創刊号に巻頭の「本会略史」と「まめづたらん」の記事を書く。1887年(明治20年)。牧野富太郎は採取した植物に「ヤマトグサ」の和名を付けて「植物学雑誌」に発表。このとき大久保三郎との連名で発表。・明治二十四年(一八九一)八月、松村任三教授、佐々木忠二郎助教授、石川千代松教授、飯島魁教授、斎田功太郎(大学院)らに理学博士の学位が授与された。こうしたなか、取り残されたように大久保三郎は相変わらず助教授のままだった。・明治二十四年(一八九一)三月、日本の植物学を開拓・リードしてきた矢田部良吉が四十一歳で植物学教室を去った。代わって松村任三教授が同年四月一日「帝国大学植物園管理を命ず」の辞令を受け、矢田部に次ぐ二代目の植物学教室主任となった。・明治二十四年(一八九一)七月、大学院生だった三好学が選ばれてドイツ留学を命じられる。この件について『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』は「矢田部教授の後継者としての黙約ありしものの如し」と書いており、実際、三好は明治二十八年(一八九五)四月に帰国すると、五月には教授に任命されている。この間の事情について『東京帝国大学五十年史』はいう。つまり、植物学は「植物分類学」と「植物生理学」に分かれているが、本来、それぞれ専任の教授が必要である。現在は松村教授が一人で兼任しているが植物調査や実験に要する時間も多い。「植物分類学」および「植物生理学」を専門教授に任せるために、専任教授を一人増やす必要がある。だから、一人を海外に留学させ、帰国したら教授にする、と。矢田部良吉が東大を去った後。矢田部に近い人達は東大を去った。大久保三郎も矢田部との関係で東大を去ったと考えられている。・明治二十五年(一八九二)から二十八年まで学生だった市村塘が、この頃のことについて次のように書いている。「植物学では先生は松村教授、大久保助教授だけで、松村先生の講義は Wiesner-Botanikをお読みになる位、大久保先生は実験室へチョイチョイお顔を御出しになる程度のものであった」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「在学当時の追想」市村塘)・明治二十八年(一八九五)四月二〇日、三好学の教授就任に先立ち、三郎は文部大臣の名によって理科大学助教授を非職を命じられた。地位はそのままで職を免ぜられる、いわゆる休職扱いである。・東京大学名誉教授の長田敏行は、三郎の非職を「矢田部関係者の一掃」の一環として見ているようだ。日本植物学会ホームページに掲載されている『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』に、その根拠が述べられている。 長田によると平瀬作五郎は安政三年(一八五六)福井県生まれ。図画教員として各地を転々としていたが明治二十一年(一八八八)、理科大学時代の東京大学に画工として奉職した。きっかけは矢田部良吉と一緒に米国留学した中井誠太郎とのつながりで、平瀬の画力を見込んだ中井が彼を矢田部に紹介したのが縁だという。生まれつき器用で研究熱心な平瀬は植物学に興味をもち、それが認められて明治二十三年(一八九〇)に植物学教室の助手となった。そして、明治二十七年(一八九四)にイチョウの精子の発見という世界的大発見をなし遂げる。にもかかわらず、その翌年に東京大学を辞めて彦根中学に移ってしまうのである。 長田は、「この顛末には、帝國大学を発足させ、明治の教育行政に大きく腕を振るった森有礼が暗殺されて帝国大学内の力関係が変わったため」とし、矢田部に対して動物学教授の箕作佳吉および総長菊池大麓(箕作と菊地は実の兄弟)が仕掛けたものと見ている。さらに、「長年の朋友堀(中井)誠太郎は、矢田部に殉じてというより、大いに抗議して非職となり、山口県の農学校の教員になった」と書いている。さらに、「この間に助教授大久保三郎も非職となっており、この関連で平瀬作五郎も退職したのであろうと推定される。これで矢田部の関係者は一掃ということになる」と結論づけている。 すなわち、矢田部良吉、中井誠太郎、平瀬作五郎、大久保三郎には矢田部派とでもいうべきつながりがあり、矢田部がターゲットにされたせいでそのシンパも追いやられた、という推測である。1895年(明治28年)に高等師範学校の教授になり、中学用の植物学教科書の編集などを行うが以後は教育者としての活動が中心になり、論文を書くこともなくなる。1914年(大正3年)5月23日に死去。
2023.08.29
浜辺美波の“すえちゃん”「らんまん」での主人公を食う大活躍にNHK朝ドラファンが大喝采8/27(日) 主人公の植物学者・槙野万太郎の生活力ゼロ・植物バカぶりも見飽きてきたみえ「よくもおめおめと顔出せたもんだね。人が架けてやった金ピカのハシゴ無下にして。玉の輿どころか、泥舟に乗り込んで。あんたみたいなアンポンタンはね、東京中、いや日ノ本中探したっていやしないんだからね!」「みみっちく期日延ばして、また借りて。どん詰まりじゃないの」「高藤様を捨てても、そういうダメ男を選ぶ。あんた、覚悟があって一緒になったんだろ」「壮大なバカ。あんたもよ。2人揃って想像を絶するバカ。金にならないんでしょ」りん「あんた! 草花でしか役に立たないんだからさ! 今、万ちゃんの土俵が来たじゃないのさ!」SNS「りんさんの万太郎評『草花でしか役に立たないんだから!』は総意」「みんなが思ってたことをズバッと言うりんさん大好き」万太郎「草花に優劣をつけるがは性に合わんけんど…それが…金になるがやったら」「今まで金のこと任せっきりですまんかった!わしにできることがあったら、何でもやるき」我らの万ちゃんは、自分にできることはやると、寿恵子のためにのじぎくを採集する。「明るくて痛快な寿恵子は、見ていて朝から気持ちがいいですよね。頑張り屋のヒロインは朝ドラの定番で、ラスト1カ月は寿恵ちゃんが主人公のらんまんスピンオフ。美人なだけかと思われていた浜辺の、表情豊かな演技も拾い物です。夫が弱気になると叱るように睨み、一転してニコッと満面の笑みで励ます。納得できないことには口をへの字に曲げ、時には目をむいて啖呵も切る。喚いたり大泣きしたりが熱演だと勘違いしている若手が多い中で、ドラマ関係者の評価は高いですね。若いころの浅丘ルリ子といったところかな」(放送作家)むしろ「細腕繁盛記」?細うで繁盛記近畿地区では最高視聴率38.0%を記録した。細うで繁盛記 初回と最終回オープニングで「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」という主人公・加代役の新珠三千代のナレーションが入った。正子役の冨士眞奈美は牛乳瓶の底のような近眼鏡をかけ、「ちょっくら! 加代、おみゃーの出る幕じゃあ にゃーズラよ!」「加代!おみゃーの言うとおりにゃさせにゃーで!」「犬にやる飯はあってもおみゃーにやる飯はにゃーだで!」とヒール(憎まれ)役を好演して、視聴者に強烈な印象を与えた。大阪生まれの加代が、伊豆・熱川温泉の老舗旅館「山水館」の元に嫁ぎ、旅館を盛り立てていく物語。大阪の料亭南地楼の孫娘加代は「こいさん」と呼ばれ、その時々に祖母ゆうから大阪商人の心構えを聞かされていた。そして、若い板前清さんにほのかな恋心をいだいていた。しかし、終戦後南地楼は没落し、加代は騙されるようにして伊豆熱川の小さな旅館山水館の正吾の元に嫁ぐ。熱川の旅館は伝統的な営業方針を守ろうとする福原屋派と、新しい時代の温泉ホテルへ変わろうとする大西館派に分かれていた。山水館は福原屋についていた。結婚初夜、夫正吾は戦傷のため男としての努めを果たせない身体であることが分かる。加代は山水館をもり立てて大きな旅館にすることを夢見る。復員してきたかつての恋人清二、南地楼の番頭の善三、仲居のお多福が加代の元に次々に集まってきた。しかし、伝統的な商売を続けていこうとする義父、正吾、正子はことごとく加代の夢の実現の邪魔をする。ただ一人、義妹の春江だけが加代の味方となった。戦後の復興期の中で徐々に温泉地への客が増え始めていた。加代はその商機をのがさず、新しいアイデアと温かい心遣いで徐々に客を増やし続けていく。そして十数年、山水館は熱川でも指折りの大旅館に成長する。加代は夫とは言えない夫である正吾に操をたて(それは山水館の女将の立場を確保するためでもあるが)、恋心を抱く清二とは結ばれようとはしなかった。義妹の春江が清二と結婚したいと申し出た時にそれを許し、正吾の妻、山水館の女将であり続けた。
2023.08.27
料亭「巳佐登」の仲居頭・マサ(原扶貴子さん)仲居頭・マサ役の原扶貴子さん、かなりの手練れという感じおかみさんやお客さんに対するにこやかな顔と寿恵子に対する厳しい表情が一瞬で変化する。みえ「うちの仲居頭のおマサさんだよ」マサ「おかみさんの姪御さんですね。よろしく、お寿恵ちゃん」と優しくほほ笑む「でしゃばるんじゃないよ!」と岩崎を迎える前に寿恵子をきつく制する。寿恵子が岩崎弥之助に土佐の方ですか?と質問しておおそうじゃわしを知らんかったかと答えたと聞いてマサ「あんた! 岩崎弥之助様だよ! 弥太郎様の弟!」寿恵子「あの岩崎様!?」マサ「弥太郎様が亡くなって、今は財閥を弥之助様が継いでらっしゃる。口がさけても『知らない』なんて言うもんじゃないよ!」と叱責する。岩崎弥之助を囲んだ席では、岩崎お気に入りの芸者・菊千代が優美な舞を披露した。菊千代役の華優希は元宝塚歌劇団花組のトップ娘役で、2021年に退団。2017年はいからさんが通る で 花村紅緒を演じ、2017年度新人賞
2023.08.27
みえ「玉の輿どころか、泥舟に乗り込んで東京中みてもあんたみたいな あんぽんたん いないよ」みえ「借金いくらあるの?」寿恵子「500円です」みえ「みみっちく期日伸ばして、また借りて。どん詰まりじゃないの」「腹立たしいのはね、寿恵ちゃん。あんたが甘すぎるってこと。子育て? 内職? 大変でしたって? ちゃんちゃらおかしい。借金、膨らんでんじゃないのさ。覚悟があって一緒になったんだろ?」寿恵子「なにもって…」みえ「子育て、内職、大変でしたって?ちゃんちゃらおかしい。借金膨らんでるじゃない」寿恵子「今をしのげば必ず先がある。うちの人はきっと、大成する人なんです」」「一生をかけてこの国の植物が全部載った図鑑を作ろうとしている。その図鑑を私も見てみたい」みえ「は?なにそれ。壮大なバカ。2人そろって想像を絶するバカ。金にならないんでしょ?」牧野万太郎自伝執達吏の差押、家主の追立 大学の助手時代初給十五円を得ていたが、何せ、如何いかに物価が安い時代とはいえ、一家の食費にも足りない有様だった。月給の上らないのに引換え、子供は次々に生れ、十三人も出来た。財産は費いはたし一文の貯えもない状態だったので、食うために仕方なく借金もしなくてはならず、毎月そちこちと借りるうちに、利子はかさんでくる。そのうちに執達吏に見舞われ、私の神聖なる研究室を蹂躙じゅうりんされたことも一度や二度ではなかった。積上げた夥おびただしい標品、書籍の間に坐して茫然として彼等の所業を見守るばかりであった。一度などは、遂に家財道具が競売に付されてしまい、翌日知人の間で工面した金で、やっと取戻したこともあった。 家賃も滞りがちで、立退きを命ぜられ、引越しを余儀なくされたことも屡々しばしばであった。何しろ親子十五人の大家族だから、二間まや三間の小さな家に住むわけにもゆかず、その上、標品を蔵しまうに少なくとも八畳二間が必要ときているので、なかなか適当な家が見つからず、その度たびに困惑して探し歩いた。
2023.08.23
『らんまん』田邊彰久は朝ドラ史に残る人物に 要潤が演じきった“もうひとりの主人公”「旦那様ね、生きようとされていたんです。私と、子供たちと、そしてこの子と。これから思う存分、生きようとされていたんです」2023.07.28『らんまん』“厳しい現実”はどう描かれる? 後半のポイントを制作統括に聞くQ魅力的なキャラクターというのは長田さんの脚本時点からすでに描かれているものなのでしょうか?松川:史実はあるのですが、キャラクターが予想以上に膨らんでいるのは確かです。キャスティングによってさらに長田さんを刺激しているのかもしれないですね。波多野(前原滉)、藤丸(前原瑞樹)、丈之助(山脇辰哉)とか。キャラとして成長していっているのは、芝居をしている役者さんを見ているからじゃないですかね。野宮を演じてもらっている亀田佳明さんは、長田さんから直々に会ってほしいと言われ、長田さんのお気に入りの役者さんなんだろうなと思います。Q要潤さん演じる田邊教授の今後についても教えてください。松川:田邊にのモデルとしている人物は牧野富太郎さんの伝記では悪役として描かれている人なんです。最初は可愛がっていたのに富太郎さんをクビにする。でも、調べていくと、どうやらそうじゃないみたいで、人によってはむしろ富太郎さんの方がやりたい放題やっていて、田邊のモデルの方が真っ当であるというか、人間にはいろんな面があって、田邊には田邊なりの熱狂がある。そこは今後描かれていくので、今は“悪役”だと思われているとしたら汚名返上していくところがありつつ。誰も悪くはないんだけど、出会ってしまった運命というか、勧善懲悪ではない、複雑な人間模様に展開していきます。Q牧野富太郎氏の史実通りだと、万太郎には今後厳しい現実が待ち受けています。松川:悩ましいところではあって、第14週から第16週までが万太郎が世界的な新種を発見し、業績を上げ、子供も産まれたりして家庭もハッピーで、対比して田邊がどんどん落ちていき、格差が開いていって、第17週の最後で田邊が万太郎を破門します。富太郎さんも東大を出入り禁止になってからが本当の不幸の始まりで、悲劇が訪れていきます。これから寿恵子が落ち込む展開があって、そこでは容赦無く深い悲しみを描いていて、そこは覚悟を持って役者も演出も臨んでくれています。『らんまん』の前半とは違ったフェーズに入っていきますね。Q牧野富太郎氏の多大な借金問題は朝ドラとしてどのように描いていこうと考えていますか?松川:万太郎と富太郎さんのキャラクターの違いを意識しながら人物造形をやってきた中で、我々の万太郎は周りに迷惑をかけながら借金をするような人ではないなと思っています。もちろん史実は把握をしながら、どうしてもというところは借金をするんですけど、単位は違います。今後は史実通りに、寿恵子が待合を開くという行動に出るんですけど、それを借金を返すということにすると犠牲になった女性という感じになると思うんですね。お金のために新規事業を立ち上げたことは史実かもしれないですけど、我々の寿恵子は夫の夢を叶えるために、むしろそこは自由に研究をしてほしいという前向きな投資をするというような感じです。Q最終局面に向けての長田さんの脚本はいかがですか?松川:日本中の植物を明らかにして図鑑を作るというところから始まっているので、そこは納得のいく植物図鑑を発刊するというところがゴールになりますよね。寿恵子は万太郎よりも先に亡くなりますが、その図鑑の完成に間に合ったのかどうかというところはどうするかまだ分からないです。寿恵子としては万太郎の図鑑を作るという夢と一緒になって冒険をしたいというモチベーションがあり、寿恵子自身にも野望があってそれを叶えるという夢に向かって、2人が並走していくのが最後の局面になります。Qクライマックスに向けての今後の見どころを教えてください。松川:寺田心くんが演じる山元虎鉄という高知の遍路宿「角屋」の息子で、万太郎がヤッコソウを発見する時に案内してくれる少年なんですけど、そこから10年後に上京してきて万太郎の助手になり長屋に住むことになります。心くんが演じるのは虎鉄の中学生時代で、その先を演じる役者さんはまだ発表できないんですけど、その彼とは第2週目の蘭公先生と少年だった万太郎のような関係性で、今度は万太郎が先生の立場になって若者に植物学を教えていく。物語は新しいフェーズに入っていきます。
2023.08.23
岩崎彌之助岩崎彌之助は嘉永4(1851)年、兄・彌太郎と16歳違いで岩崎家の次男に生まれました。初の男兄弟に喜んだ彌太郎から格別に可愛がられて育ち21歳のとき米国へ留学。日本人のいないコネチカット州の小さな全寮制の学校で17カ月間、英語を、ピューリタン精神を、そして民主主義の何たるかを学んだと言われています。明治6(1873)年、父・彌次郎の死によって22歳で帰国すると彌太郎を助けるため三菱商会に入社。高島炭坑買い取りでは経営の引き受けに消極的だった彌太郎に対し、彌之助が積極的な姿勢を取ることで契約成立。やがて三菱の主力事業へと成長しました。明治18(1885)年、彌太郎の死去とともに社長に就任した彌之助は、海運業を切り離して三菱社を発足。事業の柱を海から陸へと移し、諸事業を多角的に展開してゆきます。明治23(1890)年には政府に請われて官有地だった丸の内と神田三崎町の土地、合わせて約10万7千坪を一括買取。丸の内に洋風建築の一大ビジネスセンターを誕生させます。明治27(1894)年、彌太郎の長男・久彌に社長を譲ると、自らは若き社長を支える相談役に就任。2年後、日銀総裁に就任した彌之助は金本位制を採用し日本の金融システムの確立に貢献しました。51歳で欧州、米国を9カ月にわたり歴訪。明治41(1908)年、57歳を迎える年に、三菱グループの骨格をつくった彌之助は永眠しました。・牧野富太郎は、月給一五円だった頃、二千円という借金を負っていたことがある。このとき、借金を「奇麗に払って下さった」のは三菱だったが、それを斡旋したのは、佐川の先輩・田中光顕の斡旋だった(牧野『自叙伝』)執達吏の差押、家主の追立 大学の助手時代初給十五円を得ていたが、何せ、如何いかに物価が安い時代とはいえ、一家の食費にも足りない有様だった。月給の上らないのに引換え、子供は次々に生れ、十三人も出来た。財産は費いはたし一文の貯えもない状態だったので、食うために仕方なく借金もしなくてはならず、毎月そちこちと借りるうちに、利子はかさんでくる。そのうちに執達吏に見舞われ、私の神聖なる研究室を蹂躙じゅうりんされたことも一度や二度ではなかった。積上げた夥おびただしい標品、書籍の間に坐して茫然として彼等の所業を見守るばかりであった。一度などは、遂に家財道具が競売に付されてしまい、翌日知人の間で工面した金で、やっと取戻したこともあった。 家賃も滞りがちで、立退きを命ぜられ、引越しを余儀なくされたことも屡々しばしばであった。何しろ親子十五人の大家族だから、二間まや三間の小さな家に住むわけにもゆかず、その上、標品を蔵しまうに少なくとも八畳二間が必要ときているので、なかなか適当な家が見つからず、その度たびに困惑して探し歩いた。私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。 ところで私の宅ではそれから殆ど毎年のように次ぎ次ぎと子どもが生れる。月給は十五円でとてもやりきれぬし、そうむやみに他人が金を貸してくれる訳もなく、ついやむなく高利貸から借金をしたが、これが僅か二、三年の間に忽ち二千円を突破してしまったのです。そこで同郷の土方寧博士や田中光顕伯が大変心配して下さって借金整理に当たることになり、田中伯の斡旋で三菱の岩崎が乗り出してくれてともかく二千円の借金を綺麗に払って下さったのです。
2023.08.19
教授 「直に誕生日だろう。何か欲しいものはあるか?」聡子 「ではおねだりしてもいいですか一日だけあなたを下さい子供達が海を見たいと申しております。お忙しいのは承知しておりますが…」田邊教授「いいなあ。海か。私も久しく行ってない。行こう、みんなで」田邊教授は大学から非職の通告ワア、教授は海で亡くなるんだよフラグが立った!どうして?泳いでいて鎌倉の海で牧野富太郎自伝矢田部教授の罷免矢田部教授罷職事件が起っていた。 大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷職にしたのである。その原因は、菊池大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる。 大学教授を罷職にされた矢田部良吉先生は、木から落ちた猿も同然で、憤慨してもどうにも仕方なかった。私は学問上の競争対手(あいて)としての矢田部教授を失ったわけである。 矢田部先生罷職の遠因は、色々伝えられているが、先生は前に森有礼(ありのり)に伴われ外遊した事もあり、中々の西洋かぶれで、鹿鳴館にダンスに熱中したり、先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校で教え子を妻君に迎えたり、「国の基」という雑誌に「良人(おっと)を選ぶには、よろしく理学士か、教育者でなければいかん」と書いて物議を醸かもしたりした。当時の「毎日新聞」には矢田部先生をモデルとした小説が連載され、図まで入っていた。 矢田部先生は、伊豆韮山(にらやま)の人で、父君は江川太郎左衛門に仕えた人であった。令息は今日音楽界に活躍しておられる矢田部勁吉(けいきち)氏である。 矢田部先生は罷職後も植物志を続けねばいかんといい、教室に出てきて『日本植物図解』を三冊出版されたが、後は出なかった。また先生歿後『日本植物編』が一冊出版された。矢田部先生は、大学を退かれて後、高等師範学校の校長になり、鎌倉で水泳中溺死し非業の最期を遂げられた。*「フラグ」とは、flag(旗)ではなく、“伏線・予測”の意味ゲームの展開について、エンディングに至るまでに定められた、あらゆる条件のことを「フラグ」と呼んだのがはじまり。今ではインターネット掲示板からアニメ・漫画などのストーリー展開を話題にする際、さらには日常のあらゆるシーンでも幅広く用いられる。コンピュータ用語としての「フラグ」は、「設定した条件の成立を決める変数」を意味する。「特定の動作をさせる条件付け」あるいは「特定の動作の発生条件が確定したこと」を意味する言葉。この「条件の成立を決める変数」を記録することを「フラグを立てる」という。「フラグ回収」とは、これまでのストーリー展開における”伏線が回収されること”を意味する。「フラグを立てる」は、”分岐となる条件を記録する”という意味だったが、会話表現としては「(~するための)条件がそろう」という意味で使用される。教授が海に行く、しかも大学から突然の非職の通知を受けとり、次期教授となる徳永氏が留学から帰国したということは、田邊教授がストーリーから退場する条件がそろうということを意味する。
2023.08.18
朝ドラ「らんまん」衝撃で荒れる田邊を妻の聡子がたしなめる「強くなった」「聡子の乱」と反響田邊教授の元に突如、女学校廃止の知らせが届き、田邊は衝撃を受ける。酒を飲んで荒れる田邊「おい、持って来い」聡子「旦那様、これ以上は……」田邊「いいから持ってこい! 」「私だけじゃない。 森さんの志までが……」聡子「なおのこと、お持ちできません」SNS「おっ!聡子ちゃん。強めに言えるようになったな」「聡子の乱」「聡子さん、強くなったね」💛らんまんはメインでないサブの人たちに実際に生きている人格を与える。市井の人間の生きる悩み、葛藤、奮闘そして悦び脚本の長田さんは井上やすしさんの最後の研修生だった。「研修生生活」の最後の日、井上さんから言われた。「今日一日を、あなた自身の心の力で、良い方向に向かわせなさい」サブのキャラクターを生き生きと描いた上で、今日一日を、それぞれのキャラクターがそれぞれ自身の心の力で、良い方向に向かう姿を描くそれは視聴者に深い共感と感動とそして 生きる勇気を与える・大学では、田邊教授は美作教授から懇親会で途中退席したことを指摘される。東京帝国大学の総長は、美作教授の実の兄である。史実を踏まえると、総長と美作教授(箕作 佳吉(みつくり かきち)教授)が後に東京大学植物学教室に万太郎を呼び戻す。 らんまんでは、田邊教授に散々悪態・嫌味をついて好印象を持たれなかった美作教授とこれまで出演していない総長が、万太郎の恩人として立ち現れるというキャラの転換が行われる。 史実では 牧野富太郎は箕作教授に感謝して、学名を献上する。Scirpus mitsukurianus Scirpusはイグサまたはそれに似た植物のラテン名を転用したもの。 種小名のmitsukurianusは明治初期の 動物学者箕作佳吉の事で命名者の牧野富太郎の献名。💛「私(牧野富太郎)は矢田部教授の無情な仕打ちに憤懣し、しかる上は矢田部を向うへ廻してこれに対抗し大いに我が著書を進捗さすべしと決意し、そこではじめて多数の新種植物へ学名をつけ、欧文の記載を添え、続々とこれを書中に載せ、上の『日本植物志図篇』を続刊した。」とある。「汝を迫害する者のために祈れ」で、牧野富太郎博士が、矢田部教授の最初の厚情に想いを致し、矢田部教授にも「感謝」して学名を献上をしていれば、富太郎の苦難の道、いばらの道もまた違うものになっていったのかも。らんまんでは 教授に聡子という妻を配することによって「田邊教授自身の心の力で、良い方向に向かわせる」姿を見せる。深い絶望(後ろ盾の森さんとその志が失われ、大学から追放される)だからこそ、ささやかに生きる歓びとは何かを視聴者に提示する。まことにもって 深いたくらみ(^^)をもって 視聴者に「今日一日を、あなた自身の心の力で、良い方向に向かわせなさい」という恩師のメッセージを届ける。
2023.08.17
1909(明治42)年7月に牧野富太郎は珍種の植物「ヤッコソウ」を植物学雑誌に発表している。シイなどの根に寄生する5センチほどの多年生植物で、大名行列の奴(やっこ)が練り歩く姿に似ていることから「ヤッコソウ」の名を付けた。ヤッコソウ高知県幡多郡(はたぐん)の中学教師だった山本一が生徒を連れ、土佐清水市へ植物採集に出掛けた。その生徒の一人が加久見(かぐみ)天満宮の境内で、この植物を発見する。山本は牧野に標本を送り、それが新種の植物であることが確認された。牧野は山本と自分の名を付した学名で「ヤッコソウ」を発表した。県立牧野植物園職員の稲垣典年さんがヤッコソウの由来を話しながら、ぼそっとつぶやいた。 「見つけた生徒の名前を付けちゃったら、良かったにねえ…」💛らんまんで 山本虎鉄に教えられた万太郎が少年の名前を学名に取り入れたのはそうした共通の思いを脚本の長田さんがドラマの中で生かそうとしたんだろうな。きっと(^^)万太郎は、植物採集のために高知の山を訪れていた。山奥で虎鉄(寺田心)という少年と出会った万太郎は、彼の案内で珍しい植物を発見し、少年の名前を学名として「Mitrastemon yamamotoi Makinoi」とつける。 寺田心さんが純真な遍路宿の少年を好演(^^)虎鉄役を演じる寺田には、「いい演技する子だなぁと思ったら心くん」「虎鉄くん役の子、自然な演技で只者じゃないと思ってたら寺田心くんかあ」「心くん大人っぽくなって・・・」など、驚きと称賛の声が寄せられている。寺田心さん 6月の出演発表の際「おばあちゃん子だった僕が、幼少の頃から祖母と見ていた朝ドラ。いつしか出演することが僕の夢の一つになっていました。出演が決まったときはとてもうれしかったです」「憧れの神木さんとまたお芝居ができること、初めての土佐弁、胸がいっぱいになりました。撮影当日が偶然にも僕の15歳の誕生日と重なり思い出に残る日となりました。虎鉄は遍路宿の息子です。お遍路さんを通して、人とふれあい、豊かな自然により、虎鉄もまた天真らんまんな子ではないのかなと思いました」宮崎駿監督が「もののけ姫」を制作するにあたって、屋久島の森を訪ねたことはよく知られている。監督はこんなことを言っている。〈深山幽谷の中に、ものすごく清浄な世界があって、樹々に満ちてけがれていない世界がある。日本人はそういう思いをずっと持ち続けて来たと思うんです。そこから清らかな水や清浄な空気が流れ出ているという思い。それが、ある時期までの日本人の中にはずっとあったんです〉
2023.08.11
私と大学 昭和十四年から凡およそ五十二年程前の明治二十年頃に民間の一書生であった私は、時々否な殆ど不断に東京大学理科大学、すなわち今の東京帝国大学理学部の植物学教室へ通っていた。がしかし大学とは公に於て何の関係もなく、これは当時植物学の教授であった理学博士矢田部良吉先生の許しを得てであったが、先生達はじめ学生諸君までも非常に私を好遇してくれたのである。教室の書物も自由に閲覧してよい、標本も勝手に見てよいとマルデ在学の学生と同様に待遇してくれた。その時分はいわゆる青長屋時代であった。私はこれがため大変に喜んで自由に同教室に出入して大いにわが知識の蓄積に努め、また新たに種々と植物を研究して日を送った。そこでつらつら私の思ったには、従来わが国にまだ一つの完全した日本の植物志すなわちフロラが無い、これは国の面目としても確かに一つの大欠点であるから、それは是非ともわれら植物分類研究者の手に依てその完成を理想として、新たに作りはじめねばならんと痛感したもんだから、私は早速にそれに着手し、その業をはじめる事に決心した。それにはどうしても図が入用であるのだが、今それを描く自信はあるからそれは敢えて心配は無いが、しかしこれを印刷せねばならんから、その印刷術も一ひト通りは心得ておかねば不自由ダと思い、そこで神田錦町にあった一ひとつの石版印刷屋で一年程その印刷術稽古をした。そしていよいよ『日本植物志』を世に出す準備を整えた。その時私の考えではおよそ植物を知るにはその文章も無論必要だが、図は早解りがする。故にとりあえずその図を先きに出し、その文章を後廻しにする事にして、断然実行に移す事となり、まずその書名を『日本植物志図篇』と定めた。これは『日本植物志』の図の部の意味である。そしていよいよその第一巻第一集を自費を以て印刷し、これを当時の神田裏神保町にあった書肆敬業社をして発売せしめたが、それが明治二十一年十一月十二日で今から大分前の事であった。その書名は前記の通りであったが、これを欧文で記すると Illustrations of the Flora of Japan, to serve as an Atlas to the Nippon-Shokubutsushi であった。助教授であった村松任三氏は大変にこれを賞讃してくれて「余ハ今日只今日本帝国内ニ本邦植物図志ヲ著スベキ人ハ牧野富太郎氏一人アルノミ……本邦所産ノ植物ヲ全璧センノ責任ヲ氏ニ負ハシメントスルモノナリ」と当時の「植物学雑誌」第二十二号の誌上へ書かれた。 それが明治二十三年三月二十五日発行の第六集まで順調に進んだ時であった。ここに突然私に取っては一つの悲むべき事件が発生した。それは教授の矢田部氏が何の感ずる所があってか知らんが、殆ど上の私の著書と同じような日本植物の書物を書く事を企てた。そこで私に向こうて宣告するに今後は教室の書物も標本も一切私に見せないとの事を以てした。私はこの意外な拒絶に遭ってヒタと困った! 早速に矢田部氏の富士見町の宅を訪問して氏に面会し、私の意見を陳述しまた懇願して見た。すなわちその意見というのは第一は先輩は後輩を引き立つべき義務のある事、第二は今日植物学者は極めて寡すくないから一人でもそれを排斥すれば学界が損をし植物学の進歩を弱める事、第三は矢張り相変らず書物標本を見せて貰いたき事、この三つを以て折衝してみたが氏は強情にも頑としてそれを聴き入れなかった。その時は丁度私が東京近郊で世界に珍しい食虫植物のムジナモ(Aldrovanda vesiculosa L.)を発見した際なので、私は止むを得ずこれを駒場の農科大学へ持って行ってそこでそれを写生し、完全なその詳図が出来た。この図の中にある花などの部分はその後独逸ドイツの植物書にも転載せられたものである。 私は矢田部教授の無情な仕打ちに憤懣し、しかる上は矢田部を向うへ廻してこれに対抗し大いに我が著書を進捗しんちょくさすべしと決意し、そこではじめて多数の新種植物へ学名をつけ、欧文の記載を添え、続々とこれを書中に載せ、上の『日本植物志図篇』を続刊した。当時私の感じでは今仮りにこれを相撲に喩うればそれは丁度大関と褌担ぎのようなもの、すなわち矢田部は、大関、私は褌担ぎでその取組みは甚だ面白く真に対抗し甲斐があるので大いにヤルべしという事になり、そこは私は土佐の生まれだけあって、その鼻息が頗る荒らかった。一方では杉浦重剛先生または菊池大麓先生など、それは矢田部が怪けしからんと大いに孤立せる私に同情を寄せられ、殊にその頃発行になっていた「亜細亜」という雑誌へ杉浦先生の意を承うけて大いに私のために書いて声援して下さった。 丁度その時である。イッソ私は、私をよく識ってくれている日本植物研究者のマキシモヴィッチ氏の許に行かんと企て、これを露国の同氏に紹介した。同氏も大変喜んでくれたのであったが、その刹那同氏は不幸にも流感で歿したので、私は遂にその行をはたさなかったが、その時に「所感」と題して私の作った拙い詩があるからオ目に掛けます。専攻斯学願樹功、微躯聊期報国忠、人間万事不如意、一身長在轗軻中、泰西頼見義侠人、憐我衷情傾意待、故国難去幾踟、決然欲遠航西海、一夜風急雨黫、義人溘焉逝不還、忽長隔幽明路、天外伝訃涙潸潸、生前不逢音容絶、胸中鬱勃向誰説、天地茫茫知己無、今対遺影感転切 明治二十四年十月遂に上の図篇が第十一集に達し、これを発行した時、私の郷里土佐国佐川町に残してあったわが家(酒造家)の始末をつけねばならぬ事が起ったので、仕方なく右の出版事業をそのまま擲なげうっておいて、匆々そうそう東京を出発する用意をし、間も無く再び東京へ出て来るから、今度出て来たが最後、大いに矢田部に対抗して奮闘すべく意気込んで国へ帰った。すなわちそれが右二十四年の秋も半ばを過ぎた紅葉の時節であった。 国に帰った後で、一つの驚くべき一事件が大学に突発した。それは矢田部教授が突然大学を罷職になった事である。同教授のこの罷職は何も私とのイキサツの結果では無論なく、これは他に大きな原因があって、ツマリ同じ大学の有力者との勢力争いで遂に矢田部教授が負けたのである。それには彼の鹿鳴館時代、一ツ橋高等女学校に於ける彼の行為も大分その遠因を成しているらしく思われる。 越えて明治二十五年になった。月も日も忘れたが、大学から一つの書面が私の郷里に届き私の手に入った。披ひらいて見ると君を大学へ採用するから来いとの事が書いてあった。大抵の人ならこんな書面に接したら飛び立つように喜ぶであろうが、私はそう嬉しいようにも感じ無くアアそうかという位の気持ちであった。そこで早速返事を認めて、只今我が家を整理中だからそれが済んだら上京して御世話になりますと挨拶をしておいた。 翌明治二十六年一月になって私の長女が東京で病死したので急遽私は上京した。大学の方はどう成っているか知らんと聴いて見たら、地位がそのまま空けてあるからいつからでも這入はいれという事で、私は遂に民間から入って大学の人となり、助手を拝命して植物学教室に勤務し、毎月月給を大枚十五円ずつ有難く頂戴したが、これは一面からいうと実は芸が身を助ける不仕合せでもあったのである。 実は私は大学へ勤める迄は、私の覚えていない程早く死んだ親から遺された財産があって、何の苦労も無くノンビリと一人で来たのである。が丁度大学へ入った時分にそれが全く尽きて仕舞った。それは大抵皆なわが学問に入れあげたからであったが、そこは鷹揚な坊チャン育ちの私には金の使い方が確かにマズク、今でもよく牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある。 惟おもうて見れば誠に不思議なもので小学校も半分しかやらず、その後何処の学校へも這入らず、何の学歴も持たぬ私がポッカリ民間から最高学府の大学助手になり、講師になり、後には遂に博士の学位迄も頂戴したとは実にウソのようなマコトで実に世は様々、何がどうなるか判ったもんでは無い。 ダガ、昨日まで暖飽だんぽうな生活をして来た私が遽にわかに毎月十五円とは、これには弱った。何分足りない、足りなきゃ借金が出来る、それから段々子供が生まれだし、驚く勿なかれ後には遂に十三人に及んだ。そして割合に給料があがらない。サア事ダ、私の多事多難はこれがスタートして、それからが波瀾重畳、具つぶさに辛酸を嘗なめた幾十年を大学で過ごした。その間また断えず主任教授の理不尽な圧迫が学閥なき私に加えられたので、今日その当時を回想すると面白かったとは冗戯じょうだん半分いえない事も無いでは無いが、しかし誠に閉口した。がそれでも上に媚びて給料の一円もあげて貰いたいと女々めめしく勝手口から泣き込んで歎願に及んだ事は一度も無く、そんな事は苟いやしくも男子のする事では無いと一度も落胆はしなかった。そしてこんな勢いの不利な場合は幾らあせっても仕方が無いから、そんな時は黙ってウント勉強し潜勢力を養い、他日の風雲に備うる覚悟をするのが最も賢明であると信じ、私は何の不平も口にせずただ黙々として研究に没頭し、多くの論文を作ってみたが、この研究こそ他日端なく私の学位論文となったものである。 紆余曲折あるこんな空気の中に長くおりながら、何の学閥も無き身を以て明治二十六年就職以来今日まで実に四十七年の歳月が流れたのである。こんな永い間敢て薄給を物ともせず厭な顔一つも見せずに何時もニコニコと平気で在職していた事は大学としても珍しいことであろうし、また本人の年からいっても七十八歳とはこれもまた他に類の無い事であろう。そこで私の感ずる事はなるべく足許の明るいうちにこの古巣を去りたい事で、去年からそれを希望し、今年三月を限りとし、「長く通した我儘わがまま気儘最早や年貢の納め時」の歌を唄いつつこの大学の名物男(これは他からの讃辞であって自分は何んとも思っていない)またはいわゆる植物の牧野サン(これも人がよくそういっている)が、この思い出深い植物学教室にオ暇乞いとまごいをするのである。 大学を出て何処へ行く? モウよい年だから隠居する? トボケタこと言うナイ、われらの研究はマダ終わっていないで尚前途遼遠ダ。マダ自分へ課せられた使命ははたされていないから、これから足腰の達者な間はこの闊ひろい天然の研究場で馳駆ちくし、出来るだけ学問へ貢献するのダ。幸い若い時分から身体に何の故障も無く頗る健康に恵まれているので、その辺は敢て心配無用ダ。私の脈は柔かく血圧は低く、エヘン元気の電池であるアソコも衰えていなく、そして酒も呑まず煙草も吸わぬからまず長命は請合いダと信じている。マア死ぬまで活動するのが私の勤めサ。「薬もて補うことをつゆだにもわれは思わずきょうの健やか」これなら大丈夫でしょう。 言い漏したが前の『日本植物志図篇』の書はその後どうなっタ? それは私の環境が変わったのでアレはまずその第十一集で打切り(十二集分の図は出来ていたけれど)、後に当時の浜尾総長の意を体して大学で私が『大日本植物志』の大著に従事していたが、ある事情の下にそれは第四集で中止した。これはわが国植物書中の最も精緻を極めたものであるので、その中止はわが学界のためにこの上も無い損失であった。著者であった私としては、マー私の手腕の如何なる〔も〕のであったかの証拠を示した記念碑を建てて貰ったのダト思えば多少自ら慰むるところがないでもない。 以上は頗るダラシの無い事を長々と書き連ねましたので、筆を擱おいたあと私は恐れ縮こまっています。ながく住みしかびの古屋をあとにして 気の清すむ野辺にわれは呼吸いきせむ
2023.08.11
月俸十五円の大学助手 矢田部先生罷職の事があった直後、大学の松村任三先生から郷里の私のところへ手紙で、「大学へ入れてやるから至急上京しろ」といってきた。私は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」と書いて返信し、明治二十六年一月上京した。やがて私は、東京帝国大学助手に任ぜられ、月俸十五円の辞令をうけた。 大学へ奉職するようになった頃には、家の財産も殆ほとんど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚おうように育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた。 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾新あらた先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。*私は元来鷹揚に育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来た。💛らんまん は 主人公の鷹揚さ、らんまんさ と だらしなさ、生活の破綻とが 微妙な塩梅になっている。しかも脚本の長田さんは、主人公を善のみでなく、また対立する教授を悪だけで描こうとせず、それぞれの光と影を描くから、主人公に感情を移入させがた。その代謝として 寿恵子に感情移入させやすくして「許すまじ万太郎」とか「へえ、万ちゃんは自分は植物の精だから困った時は植物に言えば届くって。万太郎、身重の妻をほおっておかないで帰って来い」とか、視聴者の声を代弁させて昇華させているのかも。*浜尾新(はまお あらた)濱尾 新(1849年5月12日〈嘉永2年4月20日〉- 1925年〈大正14年〉9月25日))明治時代から大正時代にかけての日本の教育行政官、政治家。旧豊岡藩士。子爵。文部省専門学務局長、元老院議官、東京帝国大学(東京大学の前身)総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任。嘉永2年4月20日(1849)、但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(兵庫県豊岡市)に生まれる。初名は貞次郎。1869年9月に藩費遊学制度により、21歳で芝新銭座慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学。同窓に、中上川彦次郎、村尾真一、吉村寅太郎、矢野文雄、藤野善蔵、魔野巻蔵、秋山恒太郎、名児耶六都、小林雄七郎、城泉太郎、森下岩楠、坪井仙次郎、後藤牧太、鮫島武之助、日高壮之丞、近藤良薫、田尻稲次郎、穂積寅九郎、永田健助、中村貞吉など)慶應義塾に在学中、慶應義塾の派遣教員となって一時高島学校に赴任する。1872年、文部省に出仕し、大学南校の中監事となる。1873年から1874年にかけてアメリカ合衆国に留学し、オークランドの兵学校に学ぶ。帰国後の1874年に開成学校校長心得となった。1877年、東京大学が設立されると、法理文三学部綜理補として同郷の法理文三学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐した。1885年11月には、学術制度取調のためヨーロッパ各国に出張した。1889年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の創立に際し、校長事務取扱(校長代理)を拝命する。同校の幹事は岡倉覚三(天心)。1890年に文部省専門学務局長となり、農商務省主管の東京農林学校を帝国大学に合併することを推進した。同年9月には貴族院議員(勅選議員)となっている(1911年8月まで)。1893年、帝国大学第3代総長となる。在任中の1897年6月、京都帝国大学の創設に伴い、帝国大学は東京帝国大学に改称されている。*私の信条 何んでもこうしようと思っている考えは、大小となく軽重となくいずれも信条である。ですから、人々は沢山な信条を持っているわけだ。それゆえ信条のない人は恐らく世の中に一人もあるまい。 だが、信条には立派な信条もあればつまらぬ信条もある。偉大な人の信条はこの上もなく立派なものであるのだが、平凡な人の信条はその人のように全く平凡である。 私は凡人だから凡人並みの信条を持っている。その中で私として最も大いなる信条は、わが日本の植物各種を極めて綿密に且つ正確に記載し、これを公刊して書物となし、世界の各国へ出し、大いに日本人の手腕を示して、日本の学術を弘く顕揚し、且つ学界へ対して極めて重要な貢献をなし得べきものを準備するにある。つまり各国人をアットいわせる誇りあるものを作りたいのだ。そして日本人はこの位仕事をするぞと誇示するに足るものを作らねばらん[#「作らねばらん」はママ]。 これは日本の植物学者に出来ぬ仕事かどうかといえば、それは確かに出来る仕事であると、私はこれを公言し断言するに躊躇しない。すなわちこの目的を以て既に出来たものが、私の著述の『大日本植物志』すなわち“Icones Florae Japonicae”であった。 私は大学にいる時、大学での責任仕事としてこの大著述に着手した。それ私一人の編著であった。そして私を信じてはじめてこの仕事を打立て任せてくれた恩人は当時大学の総長の浜尾新先生であった。 私は間もなく浜尾先生の仁侠により、至大の歓喜、感激、乃至ないし決心を以て欣然その著述に着手した。私はこの書物について一生を捧げるつもりでいた。そして次のような抱負を持っていた。すなわち第一には日本には、これ位の仕事をする人があるぞという事、その図は極めて詳細正確で世界でもまずこれ程のものがザラにはない事、且つ図中植物の姿はもとよりその花や果実などの解剖図も極めて精密完全に書く事、その描図の技術は極めて優秀にする事、図版の大きさを大形にする事、その植物図は悉く皆実物から忠実に写生する事、このようにして日本の植物を極めて精密に且つ実際と違わぬよう表わす事、まずおよそこんな抱負と目的とを以って私は該著述の仕事をはじめた。その原稿は精魂を打込み自分で描いてこれを優れた手腕のある銅版師に托して銅版彫刻とし、あるいは石版印刷としたが、後には幾枚かのその原図を写生図に巧みで、私の信任する若手の画工に手伝わした事もあった。 この大冊(縦一尺六寸、横一尺二寸)の第一巻第一集が明治三十三年(一九〇〇)二月に出版せられて西洋諸国の大学、植物園などへも大学から寄贈せられた。次いで第二、第三、第四集と続けて刊行したが、元来植物学教室で当時私は極めて不遇な地位にありながら奮闘しておったため、教授の嫉妬なども手伝って冷眼せられ、悪罵せられなどして、この『大日本植物志』の刊行は第四冊目でストップしてしまった。今思うと、これはこの上もない惜しい事でもしもこれを今までも続けていたなら、必ず堂々たる貴重本にもなっていたであろうし、また学問上へも相当貢献していたであろうが、短命で夭死したので、まことに残念ながら、ただ四冊だけが記念として世に残る事となった。 明らさまにいえば今日の日本の植物界で著者自身で精図も描き、詳細無比の解説文も綴るこのような仕事を遂行出来る人は恐らくこれなく、またチョットそんな人は世に出ないのであろう。これは著者がよほど器用な生まれの人でない限りそれは出来ない相談だ。自慢するようで可笑しいけれど、この『植物志』と同様な仕事を仕遂げる人はまず今日では、率直にいえば私自身より外にはないと断言してよいのであろう。これは狂人の言かも知れないがもしあればやって見るがよい、果して匹敵が出来るかどうか、何時でも御手際を拝見しよう。私の残念でたまらない事はこの仕事が続かなかった事だ。この私の深い信条の仕事が頓挫した事だ。これは日本の文化のためにこの上もない惜しい事だが、しかしとにかく四冊だけ出来た。嘘と思えばどなたでも右の四冊を御覧になって下さい。そうすれば私が虚言を吐いているか妄言を弄しているかがよく分るであろう。 私のやりたいと思ったこの大きな信条のその実行が、右の様に挫折した事は、日本のためにもまた私のためにも甚だ惜しい。これを思うと涙がにじんで来る。私が今もっと若ければふたたび万難を排して仕事にかかるけれど、何をいえ少し年を取り過ぎた。イヤ八十九歳でも強いてやれば出来ん事はない自信はあれど、他に研究せねばならぬ事項が沢山あるから、この一事に安んじてそれを遂行する時間を持たない。ただ私のせめてもの思い出は、右『植物志』は私の記念碑を建てたようなものであると自分で自分が慰めている次第だ。希ねがわくは将来右の『植物志』と同様、否な、それ以上の立派な仕事が出来る人が日本に生まれ出て、その誇りとする出来栄えを世界万国に示されん事を庶幾しょきする次第だ。 私の信条の大なるものはまずかくの如しだ。妄言多罪、頓首々々。*私が大学にいるうち私をよく理解してくれられし学長は、右の五島(清太郎)博士と箕作佳吉博士とであった。この両先生に対しては、今でも忘れず絶えず感謝の念を捧げている。私は曾かつてカヤツリグサ科の一新種であったマツカサススキを、世界的学名の Scirpus Mitsukurianus Makino と命名して発表し、すなわち箕作先生へデジケートし、そして先生の名を永久に記念する事にして、何時かは先生の墓畔へ水瓶を埋めてこのマツカサススキを植え、先生の霊を慰めんと思いつつなお今にはたさずにいる。執達吏の差押、家主の追立 大学の助手時代初給十五円を得ていたが、何せ、如何いかに物価が安い時代とはいえ、一家の食費にも足りない有様だった。月給の上らないのに引換え、子供は次々に生れ、十三人も出来た。財産は費いはたし一文の貯えもない状態だったので、食うために仕方なく借金もしなくてはならず、毎月そちこちと借りるうちに、利子はかさんでくる。そのうちに執達吏に見舞われ、私の神聖なる研究室を蹂躙じゅうりんされたことも一度や二度ではなかった。積上げた夥おびただしい標品、書籍の間に坐して茫然として彼等の所業を見守るばかりであった。一度などは、遂に家財道具が競売に付されてしまい、翌日知人の間で工面した金で、やっと取戻したこともあった。 家賃も滞りがちで、立退きを命ぜられ、引越しを余儀なくされたことも屡々しばしばであった。何しろ親子十五人の大家族だから、二間まや三間の小さな家に住むわけにもゆかず、その上、標品を蔵しまうに少なくとも八畳二間が必要ときているので、なかなか適当な家が見つからず、その度たびに困惑して探し歩いた。 こうした生活の窮状を救い、一方は学問に貢献しようとして『新撰日本植物図説』を刊行した。その序文には次のようにしたためてあった。『新撰日本植物図説』序文 余多年意ヲ本邦ノ草木ニ刻シテ日々ニ其品種ヲ探リ其形色ヲ察シ其異同ヲ弁べんジ其名実ヲ覈ただシ集メテ以テ之ヲ大成シ此ニ日本植物誌ヲ作ルヲ素志そしトナシ我身命ヲ賭とシテ其成功ヲ見ント欲ス嚢さきニハ其宿望遂ニ抑フ可カラズ僅カニ一介書生ノ身ヲ以テ敢テ此大業ニ当リ自ラ貲しヲ擲なげうツテ先ヅ其図篇ヲ発刊シ其事漸ク緒ちょニ就つきシト雖いえどモ後幾いくばクモナク悲運ニ遭遇シテ其梓行しこうヲ停止シ此ニ再ビ好機来復ノ日ヲ待ツノ止ム可カラザルニ至レリ居ルコト年余偶々たまたま乏ぼうヲ理科大学助手ニ承ケ植物学ノ教室ニ仕フ裘葛きゆうかつヲ更かフル此ニ四回時ニ同学新ニ大日本植物誌編纂ノ大業ヲ起コシ海内幾千ノ草木ヲ曲尽シ詳説しょうせつヲ経けいトシ精図ヲ緯いトシ以テ遂ニ其大成ヲ期シ洵まことニ此学必須ひっすノ偉宝ト為サント欲ス余幸ニ其空前ノ成挙ニ与リ其編纂ノ重任ヲ辱かたじけのフスルヲ得テ年来ノ宿望漸ク将ニ成ラントスルヲ欣よろこビ奮ツテ自ラ其説文ヲ起コシ其図面ヲ描キ拮据きっきょ以テ日ニ其業ニ従ヘリ而シテ其書タル精ヲ極メ微びヲ闡ひらキ以テ本邦今日日新学術ノ精華ヲ万国ニ発揚スルニ足ルベキモノト為サント欲スルニ在ルヲ以テ之ヲ済なス必ズヤ此ニ幾十載ノ星霜ヲ費ス可ク其間日夜孳々しし事ニ之レ従ヒ其精神ヲ抖とそうシ其体力ヲ竭尽けつじんスルニ非ザルヨリハ何ゾヨク此大業ヲ遂ゲ以テ同学企図ノ本旨ニ副そフヲ得ンヤ此ニ於テカ専心一意之ニ従事センガ為メニ始メテ俗累ぞくるいヲ遠とおざクルノ必要ヲ見ル」余ヤ土陽僻陬どようへきすうノ郷ニ生レ幼時早ク我父母ヲ喪うしなヒ後初メテ学ノ門ニ入リ好ンデ草木ノ事ヲ攻おさメ復また歳華さいかノ改マルヲ知ラズ其間斯学ノタメニハ我父祖ノ業ヲ廃シ我世襲せしゅうノ産ヲ傾ケ今ハ既ニ貧富地ヲ易かヘ疇昔ちゅうせきノ煖飽だんぽうハ亦何いずレノ辺ニカ在ル蟋蟀こおろぎ鳴キテ妻子ハ其衣ノ薄キヲ訴ヘ米櫃べいき乏ヲ告ゲテ釜中ふちゅう時ニ魚ヲ生ズ心情紛々寧いずくんゾ俗塵ノ外ニ超然ちょうぜんタルヲ得ン耶」既ニ衣食ノ愁アリ塵外じんがいノ超然得テ望ム可ラズ顧レバ附托ノ大任横ハツテ眼前ニ在リ進ンデ一ニ身ヲ其業ニ委スル能ハズ此ニ於テカ余ハ日夜其任務ノ尽ス能ハザルヲ憂うれヒ其公命ニ負そむクノ大罪ヲ惧おそレ又遂ニ我素志ノ果ス可ラザルヲ想ヒ時ニ心緒しんちょ乱レテ麻ノ如キモノアリ」余今ハ既ニ此大業ヲ執リテ々こつこつ事ニ是レ従フト雖モ俗累ぞくるい肘ちゅうヲ内ニ掣シテ意ノ如クナラズ其間歳月無情逝ゆきテ人ヲ待タズ而シテ人生寿ヲ享うクル能ク幾時ゾ今ニシテ好機若シ一度逸セバ真ニ是レ一生ノ恨事こんじ之ニ過グルナシ千思せんし又万考ばんこう速すみやかニ我身ヲ衣食ノ煩累はんるいト絶ツノ策ヲ画スルノ急要ナルヲ見又今日本邦所産ノ草木ヲ図説シテ以テ日新ノ教育ヲ翼たすク可キ者ノ我国ニ欠損けっそんシテ而シテ未ダ備ハラザルヲ思ヒ此ニ漸ク一挙両得ノ法ヲ覓もとメ敢テ退食たいしょくノ余暇ヲ偸ぬすンデ此書ヲ編次シ乃すなわチ書賈しょこヲシテ之レヲ刊行セシメ一ハ以テ刻下教育ノ須要ニ応ジ一ハ以テ日常生計ノ費ヲ補ヒテ身心ノ怡晏いあんヲ得従容しょうよう以テ公命ニ答ヘント欲ス而シテ余ヤ素もト我宿志しゅくしヲ遂ゲレバ則チ足ル故ヲ以テ彼ノ大学企図ノ大業ニ従フヲ以テ我畢生ひっせいノ任トナシ其任ヲ遂グルヲ以テ我無上の娯楽トナスノ外敢あえテ富貴ヲ望ムニ非ズ今ヤコノ書ノ発刊ニ臨ミテ之ヲ奇貨きかトシ又何ゾ妄みだリニ巧言こうげんヲ弄ろうシテ世ヲ瞞あざむキ以テ名ヲ干もとメ利ヲ射ルノ陋醜ろうしゅうヲ為サンヤ敢テ所思ヲ告白シテ是ヲ序ト為ス」時ニ明治三十年又二年己亥一月中澣ちゅうかん結網けつもう学人 牧野富太郎 識 然しこの書籍も私の生活を救うことにはならなかった。
2023.08.05
第86話教授 「ミスター槙野 今後我が東京大学植物学教室への出入りを禁じる」田邊「なぜ指導を。うちの学生でもないのに」(標本の検定は)「自分が使うためにな」万太郎が来る前から教室には3000の標本があった。多額の国費を費やし、世界各地から書籍を集められたのも、自分が努力したからこそ。「すべて、この東京大学に、植物学研究の礎を築くため。君は、土足で入ってきた泥棒だよ。大学の物を勝手に使い、自分の本まで刊行したんだから。他に言いようがないだろう」万太郎「どういて、ど、どういて、そこまで。私は、私はその、植物学を裏切っては…」田邊「この過ちこそが、裏切りだろう。傲慢で不遜。てがらばかりを主張する。世界に向けて吠えたいんだろう。Here I am!Makino is right here!」万太郎「教授は、わ、わしのこと、憎んでおられるがですか」田邊「ハッハ。自惚れるな。憎む価値もない」万太郎「し、失礼はその、すべて、お詫びいたします。その、けんど、出入りを禁じられたら、研究を続けることができません。その、あの、ほんまに、ほんまに、も、申し訳ございません」田邊「もういい。終わったんだよ。君には何度も忠告してきた。聞かなかったのは君なんだ。私の人生で、君に関わる時間は、終わった。ああ、そうだ。Mr.Makino,忘れるなよ。君の土佐植物目録と標本500点を大学に寄贈しなさい。もともと四国の標本がなかったから、出入りを許しただけだろう。君は、この教室のものを使って本まで出したんだから。清算しなければ」波多野「徳永助教授がいれば。徳永助教授なら、きっと教授を止めてくださった」大窪「できることは、ともかくやるしかない。刷り直した雑誌を見れば、教授の気持ちも変わるかもしれない」牧野富太郎自伝では、「自分(教授)も日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」という理由だった。「らんまん」では論文に教授の功績について記述がないという理由にする。「図篇第六集が出版されたのが、明治二十三年であったが、この年私には、思いもよらぬ事が起った。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣告して言うには、「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上る迄は、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生で〔も〕ないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。」これまでの徳永助教授の「教授に感謝しろよ」や植物学雑誌第1号で大久保講師が教授の功績にふれたことや野宮さんが「この教室では植物を愛することよりも大事なことがある。・・・逆らってはいけませんよ」との忠告が 全て 回収されて、視聴者に衝撃を与える。SNS「月曜の朝からメンタルやられる…」「田邊教授による万太郎の詰め方が正論の極み過ぎて目眩がする」「もういたたまれなくて見てられない」「胃がいたいくなる」「たった一度の過ちで…」そうではない、らんまんではこのシーンのために、何度も伏線が繰り返し貼られていたのだ。💛「教授は高等女学校校長就任に際して身辺をきれいにしたいのでは」なるほど美作教授に女学校出の若妻の事で嫌味を言われ、植物学教室の成果について嘲笑され、「次の植物学雑誌に出ます」と見栄を切ったものの、万太郎の論文に自分の名がなくブチ切れる。とともに、教授をやめることになった場合、自分が入室を許可した槙野を自分の手で出禁にしておこうと考えても不思議ではない。らんまんでは美作教授は山本浩司さんが演じている。実在の箕作佳吉の肖像画とそっくりに寄せてきている。美作教授のモデルは箕作佳吉で実在の東京大学の動物学の教授であった。後に東京帝国大学理科大学長を務めた。箕作 佳吉(みつくり かきち、1858年1月15日- 1909年9月16日)は明治時代の日本の動物学者。理学博士。津山藩医・箕作秋坪の三男。菊池大麓は兄、箕作元八は弟。江戸津山藩邸で生まれ、1870年(明治3年)慶應義塾に入学、1872年(明治5年)大学南校に学んだのち1873年(明治6年)に渡米。ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、のちイェール大学、ジョンズ・ホプキンズ大学に転じ動物学を学ぶ。その後英国・ケンブリッジ大学に留学。帰国後東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、1888年(明治21年)理学博士、その後東京帝国大学理科大学長を務めた。ほか、1883年(明治16年)5月から母校・慶應義塾にて後藤牧太、中村貞吉、印東玄得らと共に理学講習会を教授した。動物分類学、動物発生学を専攻。カキ養殖や真珠養殖に助言するなど水産事業にも貢献した。1907年(明治40年)頃より腎臓炎・脳溢血を患って静養していたが、次第に悪化して精神障害も発症した後、1909年(明治42年)に死去した。後に 美作(箕作佳吉)学長は出禁になった万太郎に同情気味で、ドイツから帰って来て教授となった徳永教授のもとで再び東京大学に出入りするのを許す。こうなってくると、嫌味たらたらで田邊教授に対抗する動物学教授が学長になって万太郎復帰を認めるという、なんともドロドロした大学内の権力闘争に巻き込まれた感じがしてくる。そして不思議なことに牧田万太郎自伝には兄の菊池大麓についての記述はあっても、箕作佳吉に関する記述はさほどなく、客観的叙述にとどまる。
2023.07.31
天城山の寄生植物と土佐の「やまとぐさ」 明治十六年に、時の東京大学御用掛で、植物学教室に勤務していた大久保三郎氏が、当時大学で発行していた「文芸志林」に、伊豆天城山で珍しい寄生植物を発見した、この種類は、多分ラフレッシア科のものであろうと発表されたが、私がその前後に郷里の土佐で見つけていたツチトリモチ属の一種の標品を大学に送ってみると、はたして私の考え通り同属のものであったので、バラノホラ・ジャポニカ・マキノという学名で発表した。 同じく十六年に矢田部博士発見のヒナノシャクジョウを土佐の故郷で採集し、露国のマキシモヴィッチ氏に送り学名を得たこともあった。明治十七年に私ははじめてヤマトグサを土佐で採集したが、その翌年に渡辺という人がその花を送ってくれたので、私は大学の大久保君と共に研究し学名を附し発表した。これによってはじめて日本にヤマトグサ科という新しい科名を見るに至った。この属のものは世界に於てただ三種、すなわち欧洲に一、支那に一、わが国に一という珍草である。小岩村で「むじな藻」の発見 明治二十一年頃にミゾハコベ科のエラチネ・オリエンタリス・マキノという植物を発表した。 明治二十三年五月十一日、ハルゼミは最早ほとんど鳴き尽くして、どこを見ても青葉若葉の五月十一日、私はヤナギの実の標本を採ろうとして一人で東京を東にへだたる三里ばかりの、元の南葛飾郡小岩村伊予田ようだ[#ルビの「ようだ」はママ]におもむいた。江戸川の土堤内の田の中に、一つの用水池があって、その周囲にヤナギの類が茂って小池を掩おおうていた……。 と私の採集記には、その頃のことをこんな風に書き出している。 その江戸川の土堤内の用水池の周囲にヤナギが茂っているので、その実を手折たおろうとした刹那せつな、ふと水面を見ると異形なものが浮んでいるので、早速とりあげて見たが、全く見慣れぬ水草なので驚いて大学へ持帰り、皆に見せると、皆も非常に驚いたが、矢田部教授は書物の中に思い当たるものがあるといい、その学名を探してくれたが、これは当時僅かに欧洲と印度と濠洲の一部とにのみ産するといわれたムジナモであった。後に黒竜江の一部、朝鮮、満洲にも発見されるようになったが、当時この発見は正に青天の霹靂へきれきの感があったものだ。 これと前後して私は、ヒシモドキという隣邦支那にのみ産するといわれていた植物を発見し、三十五年には伊勢の本郷というところで、寺岡、今井、植松の三氏の採集した新種を研究したところ、本邦ではじめて発見されたものであったのでこれに学名を下し、ホンゴウソウなる和名を附した。この植物は全体が紫色の小草で、葉がなく生えている様は一寸植物とは思えない姿をしている。 同じ頃土佐で時久という人が同属のものを一種とって見せにきたが、これにはトキヒサソウ一名ウエマツソウなる和名及び学名を附した。この二種は皆熱帯産のものでこれをわが国に得たことは分布学上に興味ある問題をなげた。 明治三十六年には、当時、東京博物館の天産課に勤務されていた桜井氏から、恵那山附近でとった標品を送られたが、これもわが国新発見のものであり、美濃出身の三好学君とこの桜井氏に敬意を表するためにミヨシア・サクライイ・マキノなる学名を附したが、その後不幸にしてマレー産に同属のものがあったのを知り、これを改称した。しかるに欧米の学者はユリ科に入れているが、私はこれは新科をつくるものとして研究した結果ペトライア・ミヨシア・サクライイ・マキノとした。 明治四十年に私は日本の南部にヤッコ草という新属新科のものを発見し、ミトラステモン・ヤマモトイ・マキノとした。これは最も珍しい植物である。*ムジナモ(貉藻、狢藻、Aldrovanda vesiculosa)は、モウセンゴケ科ムジナモ属の多年草の水生植物であり、1属1種の食虫植物である。日本を含む世界各地に分布するが、自然環境下での生息地は50カ所程度と少ない浮遊性の水草で、根は発芽時に幼根があるだけで通常はない。葉がハエトリグサと同じく二枚貝のような捕虫器官になっており、ミジンコなどの動物プランクトンを捕食する。細長い茎を中心にして、捕虫葉が風車のように放射状に輪生する。植物全体の印象は、似た和名を持ち小さな袋状の捕虫葉を持つタヌキモが二次元的・平面のように広がって見えるのに対し、ムジナモは三次元的・円柱のように見える。また、その形がタヌキの尻尾のようなので、発見者である植物学者の牧野富太郎(後述)は和名をつけるとき「タヌキモ」と命名したかったが、既にタヌキモという植物があったため、タヌキの別名であるムジナから「ムジナモ」と名付けられた。英名は Waterwheel plant と、水車の名が与えられている。茎は5cmから30cmほどの長さになり、夏期には1日に1cm伸びることもある。途中で脇芽を出して枝を伸ばし、基部が枯れ落ちていくことで分離、増殖していく。葉柄の長さは5mmから8mmで、その先に付く捕虫葉は5mm程度。捕虫葉の内側にはハエトリグサと同じく感覚毛が生えているが、数は約40本と多く、1回の刺激で葉が閉じる。閉じる速さも50分の1秒とハエトリグサより遙かに速い。しかし捕虫葉が小さく水中にあるため観察は困難である。葉を閉じると狭窄運動を行い、消化酵素を出し、養分を吸収する。ある日、ゆうから誘われて出かけた池のほとりで、万太郎は見たこともない水生植物と出会う。翌日、その植物を持って植物学教室へ行くと、田邊は、それが日本でまだ発見されたことのない食虫植物であることを万太郎に教え、論文と植物図を書いて世界に向けて発見報告をするよう命じる。
2023.07.26
田邊「おまえはこの図譜で、植物学会をこじ開け、自ら植物学者の名を挙げた。今この学会で、おまえの名を知らない者はいないだろう」 万太郎「いえ、私はただ、皆さんのお役に立ちとうて」田邊「刊行は大変だったろう。ヤマトグサの発表に間に合わせて」 万太郎「はい、石版印刷機を購入したり、家の壁を壊したり」 田邊「はは、めちゃくちゃだな。それほど私に頼るのが嫌だったか」 万太郎「いや、そんなことは」 ・・・田邊「言っておくが、トガクシソウなど、どうでもよい。私は、そんなことでは傷つかない。残念だな、槙野万太郎。この先は望み通り、おまえをいち学者として認めてやろう」 田邊「今後、私が求めるのは、この域の植物画を描ける人間だ。自分がそうなれないなら、仕事は終わりだ。福井に帰れ」田邊教授が物語を動かし、波多野宮バディを誕生させ、万太郎を窮地においこんでいく。制作統括の松川博敬氏「万太郎 vs. 田邊の関係性を丁寧に描くシークエンスは見応えがあります。 かなり覚悟を持って描きました」制作統括の松川博敬氏「(作り手の側からしても、この盛り上がりは)予想以上」「おかげ様で、予想の100%を超える反響と、高い評価をいただいていて、本当に幸せです」「朝ドラは毎朝観るものですから、みなさんの生活の中でとても大事なものだと思うんです。だから、とにかく毎日『朝が来るのが楽しみだな』と思えるような朝ドラを作りたい、私自身がワクワクしながら観られるドラマを作りたい、という気持ちが強くありました。そこはもう、真剣にやろうという思いでしたね」「もちろんこれは、私ひとりの力ではありません。ドラマはスタッフワークですから。いちばん初めの、企画のコアな部分を作っていく段階では、かなり念入りに揉んだと思います。スタッフも慎重に固めていきました。企画自体への『これなら勝負できる』という手応えは大きかったです。企画に呼ばれるように、徐々に『納得のいくメンバー』が集まっていきました。 キャストに関してはやはり、私たちが切望した神木隆之介さんに主演を受けていただけたことが、大変ありがたかったです。主演が神木さんに決まったことで、スタッフも、それから共演者のみなさんも『これは心強いな』と思ったんじゃないでしょうか」「私が胸に刻んでいる『代表作』が2つあって、朝ドラでは『カーネーション』。これは作品性の高さにおいて『理想』といえるドラマでした。それから、大河ドラマでは『篤姫』(2008年)。こちらも演出として携わったのですが、何より現場の盛り上がりというか、雰囲気が良くて。 自分が統括でドラマを作るなら、あのときと同じような現場を作りたいと思っていました。『らんまん』のチーフ演出をつとめる渡邊良雄は、『篤姫』の演出チームにもいたので、あの現場で感じた思いを共有して、今に引き継いでいるところがあります」「スタッフひとりひとりが各分野の職人であり、プロフェッショナルであることは大前提なのですが、やっぱりスタッフのやる気や熱量っていうのは結局、脚本にかかっていると思うんです。脚本家の長田育恵さんが、それだけのものを書き上げてくださった。 1~3週ぐらいまでの台本を初めて読んだスタッフ全員が、『これは絶対に面白い作品になる』と口を揃えて言ってくれましたし、出来上がった完パケ映像を見てさらに、手応えとやりがいを感じてくれているのがわかりました。脚本と、それを形にしてくださるキャストのみなさんの演技が、スタッフの熱量が高まっていく原点だと思います」「前半までは可愛らしい印象だった万太郎と寿恵子ですが、後半に入ってどんどん円熟味を増していきます。今は子どもが産まれ、万太郎の植物学の業績も上り調子ですが、このしばらくあと、大きな試練が待ち受けています。それを2人でどうやって乗り越えていくのか。神木さんと浜辺さんの素晴らしい演技にご注目ください。 それから、万太郎の栄光時代と対比して描かれる田邊教授の物語が、とても魅力的です。長田さんも、我々スタッフも、田邊のような“敗者”のほうにも思い入れがあるというか。人間は一面ではなく、多面でできている。光の裏には必ず影がある。このあたりのきめ細やかな描き方は、長田さんの脚本の真骨頂だと思います。14~17週の、万太郎 vs. 田邊の関係性を丁寧に描くシークエンスは見応えがあります。演出的にも跳ねたと思いますね」物語は再来週(18週)以降「かなり覚悟を持って描いた」という新たなフェーズに突入する
2023.07.23
田邊「今後、私が求めるのは、この域の植物画を描ける人間だ。自分がそうなれないなら、仕事は終わりだ。福井に帰れ」野宮朔太郎が父が病気の事情を伝える。田邊「それはおまえの事情だろ!私は仕事の話をしているんだ!」野宮「君(波多野)はよく顕微鏡をのぞいてますよね? 何を見てるんですか?」波多野「今は見えないってことを見ています。見えるものを見ていると、その先にもっと見えないものもあるはずだってことが、気になってくるんです」「肉眼では見えないけれど、命をつかさどる仕組みを見たいと思ってるんです。一生を懸けてでも」野宮「もしもそんなものが見えるのだとしたら、一生を懸けても惜しくはないでしょう。この世にはおとぎ話がいくつもありますが、『かぐや姫』の宝や不老不死の薬より私は……命の源を見られる方がずっといい。その源をいつか描いてみたい」波多野「じゃあ、僕と組みませんか。野宮さんに、僕は植物を見る目を教えます。代わりに、野宮さんは僕の手になってください」「僕が発表する時には、顕微鏡の奥の奥まで正確に写した植物画が必要なんです。そんなものは写真でも撮れない。それに肉眼で見えないものは、万さんにも描けない」野宮「今でさえ槙野さんのような精密な絵が描けません……」波多野「今は、でしょ? 僕だって今はまだ見えない。だけど、いつか一緒にたどりついてくださるなら……」波多野「いい日です。さっきまで寂しすぎて死にそうだったのに」野宮「そうなんですか。俺もわりと死にそうな気分でしたよ」波多野「野宮さん、いま『俺』って言いました?」💛サン=テグジュペリ「経験が私たちに教えてくれたこと。それは、愛するとは私たちが互いを見つめあうことではなく、共に同じ方向を見つめることなのである。」L’expérience nous montre qu’aimer ce n’est point nous regarder l’un l’autre mais regarder ensemble dans la même direction.(「アントワーヌ・サン=テグジュペリ~人間の土地より」)
2023.07.20
破門草事件田邊「読んだぞ」 万太郎「ありがとうございます」 田邊「見事な出来だった。今、この日本でここまで描けるのは、おまえしかいないだろう。いや、世界でも同じ人間がいるかどうか」 万太郎「ありがとうございます」 田邊「おまえはこの図譜で、植物学会をこじ開け、自ら植物学者の名を挙げた。今この学会で、おまえの名を知らない者はいないだろう」 万太郎「いえ、私はただ、皆さんのお役に立ちとうて」 田邊「刊行は大変だったろう。ヤマトグサの発表に間に合わせて」 万太郎「はい、石版印刷機を購入したり、家の壁を壊したり」 田邊「はは、めちゃくちゃだな。それほど私に頼るのが嫌だったか」 万太郎「いや、そんなことは」 田邊「トガクシソウはさぞ愉快だったろう」 万太郎「いえ」 田邊「おまえは、伊藤家の孫と留学前に会っていたそうだな。トガクシソウのことも、話す機会があったはずだ」 万太郎「それは、けんど、教授を裏切るようなことは」 田邊「裏切るも何も、そもそもおまえは私のものにはならないんだろ。言っておくが、トガクシソウなど、どうでもよい。私は、そんなことでは傷つかない。残念だな、槙野万太郎。この先は望み通り、おまえをいち学者として認めてやろう」 万太郎「ありがとうございます」 トガクシソウ日本語 トガクシソウ (トガクシショウマ)英語名 ranzania japonica学名 Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô(Podophyllum japonica T.Ito ex Maxim.)伊藤篤太郎は東京大学教授の伊藤圭介の孫(圭介の娘の子供)であり当時、東京大学植物学教室に出入りを許された在野の植物学者です。伊藤譲(1851-1879)は伊藤圭介の3男で圭介の後継ぎと期待されていたが早死にしています。篤太郎の叔父です。伊藤篤太郎は、叔父の伊藤譲が1875年(明治8年)に戸隠山で採集し、小石川植物園で植栽した植物(トガクシソウ)の標本と新種の提案名を、1883年(明治16年)にロシアの植物学者マキシモヴィッチに送り、マキシモヴィッチは1886年にロシアの学術誌にPodophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. として、メギ科ミヤオソウ属の一種と考えて発表しました。矢田部良吉教授も1884年(明治17年)に戸隠山で採集した植物 (トガクシショウマ)を、小石川植物園で植栽し2年後に開花したので、1887年(明治20年)にマキシモヴィッチに標本を送り、鑑定を仰いだところ、翌1888年(明治21年)3月、マキシモヴィッチは「本種はメギ科の新属であると考えられ、Yatabea japonica Maxim. の学名をつけたいが、正式な発表の前に花の標本を送ってほしい」と回答してきました。 植物学教室に出入りしていた伊藤篤太郎はこの矢田部教授の動きを聞き、叔父の伊藤譲が採集し、自分が学名をつけて発表したPodophyllum japonicum がミヤオソウ属の一種ではなく新属であることを知り、また、新属名が Yatabeaと矢田部教授に献名される予定であることを知ったのです。 伊藤篤太郎は叔父が採集し自分が最初に学名をつけた植物の学名が矢田部教授に献名されることにあせり、1888年(明治21年)10月に、イギリスの植物学雑誌に、新属 Ranzania T.Itô を提唱し、Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. (1887) をランザニア属に移し、新名をランザニア・ジャポニカ、Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888) として発表しました。矢田部教授はこのことを知って怒り、伊藤篤太郎を植物学教室の出入り禁止処分にしました。牧野富太郎はその頃大学の植物学教室に出入りを許されていて「日本植物志図篇」という図鑑を作っていた。図篇第六集が出版された明治23年、矢田部良吉教授が「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上る迄は、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。💛破門草事件が教授の疑心暗鬼を生み出し、牧野富太郎の植物学教室の出入り禁止につながり、その処分が今度は教授自らの大学追放を招いてしまう一因となる。藤丸「こんなに執念深い人が世界にひしめいていて、運が悪かったで済まされて。研究って、それに立ち向かうことですか」「誰が発表したって、花は花じゃないですか」「ここ(植物学教室)だって世界の最前線じゃないですか」「別に、そんな争いしたくないっていうか」「どんなに研究したって、明日すべてが無駄になるかもしれない。そんなの、心がもつんですか」藤丸の純真さが新種発表をめぐる闇を抉り出し、教授の闇を深くする
2023.07.19
藤丸がフライドポテトを作る動画万太郎「寿恵ちゃん、何か食べたいもんある?」寿恵子「かるやき…文太さんの…」万太郎が困ってると、藤丸がやってくる。藤丸は万太郎と一緒にジャガイモを用意する。藤丸は揚げたじゃが芋に、肘と手首を直角に曲げたまま塩を振る。2017年に話題となった“塩振りおじさん”(トルコのシェフ、ヌスレット・ギョクチェ氏の愛称)の仕草「義理の姉さん、こればっかり食べてたんだ」藤丸「これ、義理の姉はつわりの時も食べられたから。こればっかり食べて、ある日突然、普通の食事に戻ってた」万太郎「ちょっとだけでも」寿恵子「いただきます」「食べられます…おいしい!」藤丸「俺だけ何にもなくて……下級生にも示しがつかないし。だからやめる。いない方がみんなのためだよ」おゆう「大っ嫌い。その言いぐさ」「いなくなった方がいい理由100個見つけて『これでいい』って言い聞かせても、結局忘れられない。私、離縁されたとき、子供置いてきたよ。裕福な商家であの子は跡取り。大事に育ててもらえる。旦那にはもう次の人がいたから新しいおっかさんもいる。あたしが引き取ったって女手一つで大変だし……。置いてきた方がいい理由300個ぐらいあったよ! それでもあたし、痛いままだよ……」「あんたも腹くくりな! とどまっててもつらい。逃げても痛い。どっちにしろ引き受けるんだよ! 理由かき集めてるくらいなら絶対後悔する」藤丸「じゃあどうしたらいいんだよ! やめたら勘当される。大学どころか親も失うよ! けど俺、窒息するんだ。これ以上、あそこにいたら息のしかたも分かんなくなりそうで…… 万さん。助けてよ」
2023.07.19
可憐の妻 その間、私の妻は私のような働きのない主人にも愛想をつかさず、貧乏学者に嫁いできたのを因果だと思ってあきらめてか、嫁に来たての若い頃から芝居も見たいともいわず、流行の帯一本欲しいといわず、女らしい要求一切を放って、陰になり陽になって絶えず自分の力となって尽してくれた。 この苦境にあって、十三人もの子供にひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育て上げることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと、今でも思い出す度に可哀そうな気がする。 こうして過ぎゆくうちにも松村教授との離のことがあって、私の月給はなかなか上げてもらえなかった。箕作みつくり〔佳吉〕学長は私に「君の給料も上げてやりたいが、松村君を差置いてはできない」といわれた。 この苦境の中にあって私は決して負けまいと決心し、他日の活躍に備え潜勢力を貯えるのがよいと考え、論文をどしどし発表した。しかし金銭の苦労はともすれば、研究を妨げ、流石さすがに無頓着な私も明日は愈々いよいよ家の荷物が全部競売にされるという前の晩などは、頭の中が混乱してじっと本を読んでもいられなかった。この苦しい時に、私は歯をくいしばりながら一心に勉強し、千頁以上の論文を書きつづけた。この論文が後に私の学位論文となったものである。💛小澤寿衛子 牧野博士の妻牧野富太郎が、菓子屋を営む小澤寿衛子(壽衛)と出会ったのは、彼女が13歳くらいのとき。2人は明治21年に結婚していますから、富太郎が26歳、寿衛子(壽衛)が15歳のときでした。『牧野富太郎自叙伝』私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃――私がまだ二十七、八歳の青年の頃でした。寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。 母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。 青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。仲人は石版印刷屋の親爺――というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。 当時私は麹町三番町にあった同郷出身の若藤宗則という人の家の二階を間借していたのだが、こうして恋女房を得たのだから早速そこを引き揚げて根岸の御院殿跡にあった村岡という人の離れ屋を借り、ここで夫婦差し向いの愛の巣を営んだ。そうして私にはまだ多少の財産が残っていたので始終大学へ行って植物の研究をしていたが、翌二十四年ごろからはその若干の私の財産も残り少なになってしまったのです。 そこで二十四年から二十五年にかけて家政整理のために一たん帰郷したが、私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。 ところで私の宅ではそれから殆ど毎年のように次ぎ次ぎと子どもが生れる。月給は十五円でとてもやりきれぬし、そうむやみに他人が金を貸してくれる訳もなく、ついやむなく高利貸から借金をしたが、これが僅か二、三年の間に忽ち二千円を突破してしまったのです。 そこで同郷の土方寧博士や田中光顕伯が大変心配して下さって借金整理に当たることになり、田中伯の斡旋で三菱の岩崎が乗り出してくれてともかく二千円の借金を綺麗に払って下さったのです。それから土方博士が当時の浜尾東大総長に私を紹介してくれ、そこで浜尾総長が非常に心配して下され、総長の好意で私が『大日本植物志』の編纂に従事することになった。 つまりただの助手では俸給が決まっていてなかなか上るものではないが、こういう特別の仕事をすれば私の収入もふやすことが出来よう、という浜尾総長の御厚意からであったが、この私の大事業に対して当時の植物学の主任教授松村博士がどういう訳かいろいろな妨害をされた。のち故あってせっかくの『大日本植物志』も第四集のまま中止することとなったのです。 従ってまた私の収入はビタ一文もふえなくなってしまったので、そこで私は生活上止むを得ず、私の苦心して採集した標本の一部を学校へ売ってみたり、書物を書いたりして生活上の赤字はどうしても私の腕で補ってゆかねばならなかったのです。 ところが子沢山、結局しまいには十三人もの子どもが出来てしまったので私の家の生活が、月給十五円から二十五円(十三人目の子供が出来た時の俸給が二十円から二十五円でした)ぐらいの俸給と、私の痩腕による副収入とではとてもやってゆけるものではなく、また忽ち各方面の借金また借金がふえてその後長いこと私は苦しまねばならなかったのです。 その時丁度天の使のように私の眼の前に現れて来て下さったのが、当時某新聞社の記者をしていた農学士の渡辺忠吾君――一時京都の農学校の校長をしていて今は確か帝国農会の理事か何かしているはずです――でした。この渡辺君が非常に私に同情してくれて「こんな窮状にあることは思い切って世の中へ発表した方がいいでしょう。きっと何かお役にたつこともあるかも知れないから」と極力すすめ、かつは私を激励してくれたので、私もとうとうこの時はじめてわが生活の内容を世間に発表してしまったのです。 すると早速私を救済しよう、という人が二人出て来ました。一人は久原房之助氏、他の一人はまだ京大の学生であって、後の実業家池長孟氏であった。そこで渡辺君の勤め先の新聞社の斡旋で結局池長さんが私の負債を払ってくれることになり、これを綺麗に清算してくれた上で神戸に池長植物研究所をつくられたのです。 それのみならず当時池長さんは月々若干の生活の補助を私にして下さったのであり、私にとって終生忘れることの出来ない恩人になっています。畢竟右の池長植物研究所の名も実は牧野植物研究所とすべきであったが、私は池長氏に感謝の実意を捧ぐるためにその研究所に池長の姓を冠したのでした。 さて私はここで話を最初にもどして、死んだ家内の話を申し上げて見たい。何故ならば私が終生植物の研究に身を委ねることの出来たのは何といっても、亡妻寿衛子のお蔭が多分にあり、彼女のこの大きな激励と内助がなかったら、私は困難な生活の上で行き詰って仕舞ったか、あるいは止むを得ず商売換えでもしていたかも知れませんが、今日思い返して見てもよくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがあります。 それほど妻は私に尽してくれたのです。債権者が来てもきっと妻が何とか口実をつけて追っ払ってくれたのでした。いつだったか寿衛子が何人目かのお産をしてまだ三日目なのにもう起きて遠い路を歩き債権者に断わりに行ってくれたことなどは、その後何度思い出しても私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出て来て困ることがあります。実際そんな時でさえ私は奥の部屋でただ好きな植物の標本いじりをやっていることの出来たのは、全く妻の賜であったのです。 寿衛子は平常、私のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談にいっていましたが、それはほんとうに内心そう思っていたのでしょう、何しろ私は上述のような次第でいくら借金が殖えて来ても、植物の研究にばかり毎日夢中になっていて、家計の方面では何時も不如意勝ちで、長年の間妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです。(略)そうしてゆくゆくの将来は、きっとこの家の標本館を中心に東大泉に一つの植物園を拵えて見せよう、というのが妻の理想で私も大いに張り切り、いよいよ植物の採集にも熱中したのですが、これもとうとう妻の果敢ない夢となってしまいました。この家が出来て喜ぶ間もなく、すなわち昭和三年に妻はとうとう病気で大学の青山外科で歿くなってしまったからです。享年五十五でした。妻の墓はいま下谷谷中の天王寺墓地にあり、その墓碑の表面には私の咏んだ句が二つ亡妻への長しなえの感謝として深く深く刻んであります。 家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りやスエコ笹 この“スエコ笹”は当時竹の研究に凝っており、ちょうど仙台で笹の新種を発見してそれを持って来ていた際なので、早速亡妻寿衛子の名をこの笹に命名して永の記念としたのでした。この笹はいまだにわが東大泉の家の庭にありますが、いずれ天王寺の墓碑の傍に移植しようと思っています。💛ホント 奥さんの 寿衛子さんが 偉い
2023.07.17
らんまんの 波多野 と 藤丸 のコンビが楽しい優秀な波多野 と どじで心優しい藤丸 朝ドラ史上の名コンビに思えるのっぽ と 太っちょ の掛け合い漫才みたいなコンビはアボットとコステロ(1940年代から50年代に活躍したアメリカのお笑いコンビ)スターウォーズのC3POとR2D2を思い出させる。日本でも 弥次喜多道中 や ムックとガチャピンは同じイメージか演出者はきっと C3POとR2D2 や 弥次喜多 のイメージから俳優を抜擢したのかも。波多野役の前原滉 と 藤丸役の前原瑞樹 の“W前原”はどちらも素敵#らんまん観察日記 特別編【もうひとつのバディ】らんまんで 少し心配なのは 癒しキャラの藤丸の動向藤丸「こんなに執念深い人が世界にひしめいていて、運が悪かったで済まされて。研究って、それに立ち向かうことですか」「誰が発表したって、花は花じゃないですか」「ここ(植物学教室)だって世界の最前線じゃないですか」「別に、そんな争いしたくないっていうか」「どんなに研究したって、明日すべてが無駄になるかもしれない。そんなの、心がもつんですか」。大窪「やられたらやり返すしかねぇだろ」徳永「やるんだよ、それでも。ここはそういう場所だ。一人一人が自分と闘う戰場なんだ。他人がどれだけ成果を出そうが、心を揺らさず、自分の研究をするしかあるまい」SNS「朝ドラのスタイルを崩さずに、アカデミアの闇を表現するの、凄いな。藤丸と田邊教授、それぞれの傷ついた様子を佇まいで見せる」💛ドラマでは「白い巨塔」など支配権を廻っての闇が描かれてきたがらんまんでは 石版印刷 や 新種発表の過程 を克明に描いたように対話劇を通じて 新種発表の現実を克明に描きだす、それにしても万太郎の「わしが名付け親になる」を生涯貫きとおす生き様それよりもなお、それを支え続ける妻の生き方が「尊い」予告によると、そんな田邊に指導を受ける藤丸にも変化が。新種発表を巡って学者たちが激しくやりあう状況に、うさぎが大好きな心優しい藤丸は耐えられず、万太郎の家を訪ね「大学をやめる」と言い出す…。悩む藤丸に「理由かき集めているくらいなら絶対後悔する!」と喝を入れるゆう、万太郎「弱さも、よう知ったら強みになる」寿恵子に見送られ、万太郎と藤丸は、植物採集の旅へと出かける。波多野泰久 と 藤丸次郎 の 東大生二人のモデルは市川延次郎 と 染谷徳五郎 とされる。波多野 泰久(はたの やすひさ)演:前原 滉(まえはら こう)藤丸次郎(ふじまる・じろう)演・前原瑞樹(まえはら・みずき)波多野東京大学 植物学科 2年生。極度の近視でメガネをかけています。同級生の藤丸次郎と一緒に登場することが多いです。牧野万太郎が東京大学に来て最初に親しくなった人物の一人。後に、牧野万太郎、藤丸次郎とともに植物学雑誌を作る。富太郎とともに、植物雑誌発行を支えた二人の仲間では、藤丸次郎のモデルが、市川(田中)延次郎。ただし、藤丸のモデルはもう一人いる。藤井健次郎。市川と藤井が加味されて、藤丸次郎となっていると思われる とする。波多野 泰久のモデルは染谷徳五郎。波多野のもう一人のモデルが池野成一郎 とする。二人は牧野富太郎と一緒に植物学雑誌を作った選科生。選科生は東大に通う学生の一種。すべての科目を習うのが本科生に対して、一部の科目だけを習うのが選科生です。選科を卒業しても「学士号」はもらえません。そのため本科生よりも低く見られていますが。そのぶん入学の条件がゆるく設定(本科は旧制高等学校卒業、選科生は旧制中学校卒業の学力が必要)されています。編入試験に合格すれば本科に編入は可能です。牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りできるようになったとき。植物学科の選科生に染谷徳五郎(そめや とくごろう)と田中延次郎(たなか のぶじろう)がいました。二人は牧野の下宿先にも遊びに行く仲でした。3人で何度もすき焼きを食べている。明治20年(1887年)日本初の植物の学術雑誌「植物学雑誌」が発行されました。最初の「植物学雑誌」では染谷徳五郎は「植物と蝶の関係」の記事を担当しました。染谷徳五郎は東大を出た後は東京高等女学校の教師になった。田中延次郎 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。1889年に、田中長嶺と共著で『日本菌類図説』を出版した。「変形菌」の名前を使った日本最初の論文も発表した。1892年から名古屋の愛知県桑樹萎縮病試験委員などを務め植物病理学の分野で働いた。1897年から一年間、ドイツのミュンヘン大学に私費留学し、酵母の研究などもした。1898年から1899年まで東京帝国大学理科大学の講師を務める。1903年、桑樹萎縮病調査会が廃止された後、適当な就職口もなく、妻も亡くし、精神病を患い、精神病院で没した。田中が、江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた ことかららんまん 藤丸実家が万太郎実家の酒蔵と同様なことから 藤丸と比定されているが不明モデルを純化したのではなく、いろんな経歴を混合してキャラ立ちする仲良し二人組にしたのかもしれない。植物学雑誌第一号で田中延次郎は すっぽんたけの成長を染谷徳五郎は 花と蝶との関係を発表する池野成一郎も東大の植物学教室を卒業した植物学者。牧野富太郎も自叙伝の中で「親友」と呼ぶ人物です。1866年6月25日(慶応2年5月13日)生まれ。堺奉行も務めた旗本 池野好謙の息子です。池野成一郎は開成学校から帝国大学 理科大学(東京大学)の植物学科に入学。池野成一郎は帝国大学 農科大学助教授になりました。そして池野成一郎と藤井健次郎は落胆している牧野富太郎を農科大学に誘いました。農科大学にはかつて一緒に植物学を学んだ白井助教授もいます。研究する場所くらいは提供できるということでした。こうして池野成一郎や白井光太郎助教授の好意によって牧野富太郎は農科大学に出入りして研究を続けることになりました。その後、矢田部教授が帝国大学 理科大学(東大)を追い出され。松村任三教授が後任になり、牧野は植物学教室で「助手」として雇われることになりました。後に、牧野富太郎が松村任三教授と対立。助手を解雇されたことがありました。それを知った仲間たちは牧野を戻そうと運動を起こしました。そのころ農科大学教授になっていた池野成一郎も熱心に牧野の復帰を呼びかけた、東大の桜井学長に直談判して牧野の必要性を認めさせ。牧野を助手よりも待遇の良い講師として雇うことになりました。他にも池野成一郎は牧野が熱心に取り組んだ「日本植物誌」の発行にも協力。・染谷徳五郎は大久保三郎らと共著で「師範學校植物教科書」「中學植物教科書」「高等女學校植物教科書」「植物學字彙 : 全」「植物生理學 : 教科用」を作成している。大久保三郎, 齋田功太郎, 染谷徳五郎合著また「植物形態學 : 全」K. Prantl著 ; S.H. Vines英譯 を 齊田功太郎, 染谷徳五郎補譯している。もっとも藤丸次郎のモデルは市川延次郎であり、東京大学を辞めないという説もある。理由・藤丸は「俺の実家も酒問屋だよ! 隅田川の手前、千住の南で問屋をしてる」と万太郎に語っていました。Wikipediaによると、市川延次郎(のちの田中延次郎)は、「江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた」・市川延次郎(=田中延次郎)は「東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した」さらに言えば「佐川に帰ります」と万太郎を脅した 竹雄 同様 ウソぴょん でつまり、「東大をやめる」は、脚本家がたくらんだ 馬琴の七則 照応「譬えば律詩に対句ある如く、彼と此と相照らして、趣向に対を取るをいふ」「照対は、牛をもて牛に対(つい)するが如し。その物は同じけれども、その事は同じからず。」で、視聴者に「佐川に帰ります」と同じ効果をねらったものかもしれない。「こうろぎらん」では、藤丸は万太郎と一緒に植物採集の旅にでる。池野成一郎と牧野富太郎(大正12年)眼鏡をかけてる雰囲気なども 波多野 泰久 に似ているおうな。そうであれば らんまんでは 引き続き 波多野 泰久 が登場するのに対し、藤丸さんとはお別れになるか?SNSではそんな予感に「藤丸や万さんに悲しい事が起こりませんように」「えええ藤丸くん…」の声も明治22年、牧野博士が初めて横倉山で発見し命名したもの。8~9月、淡緑色でわずかに紫色をおびた花をつける。和名は花の色と形状をコオロギの羽に見立てて牧野博士がつけた。常緑林やスギ林内に生える多年草。明治22年に、高知県の横倉山で吉永虎馬や牧野らが見つけ牧野博士が同定を頼んでロシアのマキシモヴィッチに送った。マキシモヴィッチが新種として命名したが、マキシモヴィッチは急死し、牧野博士が変わって学名を公表した
2023.07.15
松村正剛171夜牧野植物図鑑の謎俵浩三平凡社新書 1999あくまで在野を貫いた稀代の植物学者・牧野富太郎は植物図鑑の開拓者だった。その図鑑製作をめぐる競争相手との葛藤や牧野のユニークな人間性を伝える植物図鑑黎明期の裏面史。牧野富太郎一人で日本の植物学を発展させ、一人で植物図鑑をつくり、一人でフィールドワークという歴史をつくった神様だった。日本の子供は全員が牧野植物図鑑で花の名をおぼえ、草の姿を知ったのである。昭和10年から刊行が始まった『牧野植物学全集』全7巻は誠文堂新光社の刊行である。これは原田三夫がつくった版元で、全国で台風のように売れた。昭和15年からは北隆館から名著『牧野日本植物図鑑』が出て、ますます牧野世界が日本の全土に広まる。本書はそこに誰もが気がつかなかった一人の犠牲者を掘り出してきた。それが村越三千男という一人の植物研究者であった。牧野富太郎の『日本植物図鑑』と村越三千男の『大植物図鑑』前者の初版印刷日は大正14年(1925)9月21日で、発行が9月24日。後者は大正14年9月20日が印刷日で、9月25日が発行。たった一日のちがいなのである。実際には村越の図鑑はよく売れたし、『普通植物図譜』『野外植物の研究』なども好評だった。それなのに村越の名は植物学の歴史からはすっかり消えている。誰が村越を消したのか。 村越三千男は学者というより民間の植物研究者であった。「東京博物学研究会」を主宰して、牧野とは別の意味で独力で図鑑編集に熱中しつづけた。海外には「ニュートンに消された男」(ロバート・フックこと)「ダーウィンに消された男」(これはウォレス)「エジソンに消された男」(ニコラ・テスラのこと)といったたぐいのドキュメンタリーやノンフィクションが数多くある。本書は、村越三千男という植物研究者を掘りおこした一方で、牧野富太郎の真の業績にも肉薄できた。牧野富太郎。 ぼくにはやはり、このひとは“神様”である。植物学の神様であるだけではない。実は「図鑑」というものを日本で最初に発明した“編集の神様”でもあった。松村任三は村越三千男の『大植物図鑑』の序を書いている。多分に牧野富太郎の『日本植物図鑑』を意識したものであることが分かる大植物圖鑑序松村任三 近來科學知識が一般に歡迎せられつゝあるは喜ぶ可き現象である。併し科學の範圍は廣いから、その總べてに亘る知識を何人もが得ようとすることは、それが各專門の知識であるだけに困難な業である。それで何人にも興味があり、直接必要な知識として歡迎せらるゝは自然科學、殊に動物及び植物に關する知識である。この方面の知識は婦人にも子供にも歡迎せられて、頻りに一般家庭に取入れられつゝある。 一括して動植物といつても、其處には無限に廣い領野があるから、一通りでもこれを知らうとするは容易でないが、直接日常生活に關係のあるものだけでも知り置くことの便利なるは言ふ迄もない。殊にその中でも植物一般は人間の生活に最も密接な交渉があるから、何人もその方面の知識を多く蓄へて居て生活上に活用することが肝要である。此に於て人々に廣く植物に關する知識を得させるに良き手引となる案内書の必要が生ずる。それには植物圖鑑の如く直接有らゆる植物に親しませるに最も都合よきものを欲しい。然るに從來植物圖鑑も二三あるが、或は簡略に過ぎたり、材料の選擇が適當でなかつたり、往々研究の結果が如何かと思はれたりして、未だ十分吾人の意を充たすに足るものが尠い。これは一般に有用な植物の知識を普及する上に甚だ遺憾のことであつた。そこへ今回村越三千男君の大植物圖鑑が現れて、吾人の從來遺憾とし來つたものが之に依つて略々充たされた觀がある。 余は當初村越君持參の本書を巨細に見た結果、その内容の充實せるに尠からず滿足を覺えたのであつた。今、余の眼に映じた本書の長所を列擧すれば、分類の整然たること、描畫の精密にして要を得てゐること、説明の懇切にして明快なること、材料の豐富にして遺漏なきこと、索引の至便なること等を數へることが出來る。從來世に出てゐる植物圖鑑には多く本書の著者村越君が關係してゐた樣であるが、未だ種々の點に於て不備なるを免れなかつた。併しそれも最後に本書を作り上げるための準備行爲だつたとすれば、それ等に完成を望むことは無理かも知れぬ。然るに本書は植物圖鑑として稀なる大著であるばかりでなく、總べての點から見て甚だよく整つてゐるので一般には勿論、專門家にも有用なものであらうと思ふ。 余は以上の理由に因り大植物圖鑑の刊行を學界のために祝し、喜んでこれを江湖に推獎せんとするものである。大正十四年九月松村任三識村越三千男1872年、埼玉県に生まれた。埼玉師範学校を卒業し、埼玉県立浦和高等女学校(現:埼玉県立浦和第一女子高等学校)、旧制埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)を歴任し、植物学と絵画を指導した。1905年(明治38年)までは教師として勤務していたが、その後退職して上京。教師時代に動植物の教育水準が低いことを懸念していた村越は、埼玉師範学校時代の同級生である高柳悦三郎(のちの埼玉県立久喜高等女学校校長)らと東京博物学研究会を立ち上げ、植物学のテキストとなる図鑑の発行を計画した。1906年(明治39年)から、牧野富太郎の協力を得て『普通植物図譜』(村越三千男画・高柳悦三郎編・牧野富太郎校訂)の刊行を始めた。これは月一回のペースで発行されたが、最終的に全5巻60集まで発行され、全5巻に編集された版と抜粋版もそれぞれ刊行されている。その後も牧野の校訂を受けて『野外植物の研究』(1907)、『植物図鑑』(1908)などを発行していくが、参文舎の社長が死去したことに伴い同社の経営が悪化、それによって『植物図鑑』の版権が北隆館に移ることとなった。この後北隆館が同図鑑を発行する際に、東京博物学研究会の代表者として掲載されていた村越の名が消され、徐々に牧野とも関係が離れていくこととなった。その後村越は独自に植物図鑑を出版する計画を立て、1924年に『図解植物名鑑』を刊行、さらに次年の1925年には『大植物図鑑』を刊行した。『大植物図鑑』には、松村任三、丹波敬三、本多静六の3人が序を寄せ、その内容を称賛した。一方『日本植物図鑑』の改訂版を同時期に計画していた北隆館は、『大植物図鑑』に後れを取らないために、牧野が満足に改訂できていない段階で1925年に『牧野日本植物図鑑』を刊行。しかし多数の誤植や内容の誤りがあり、34ページにわたる正誤表が付けられた。村越はその後も、持ち運びのしやすさを重視した『集成新植物図鑑』(1928年)、多数の原色図版を用いた大型版『内外植物原色大図鑑』(全13巻、1933-1935年)など、多様なニーズに合わせた植物図鑑の刊行を続けた。一方、新種の記載など植物学に関する研究成果を公表することはなく、もっぱら図鑑編集に携わっていた。1948年(昭和23年)に死去。著書以下のリストには、村越が主導的に関わった東京博物学研究会の編著も含む。東京博物学研究会(編)・牧野富太郎(校訂)『普通植物図譜』(1906年、積文社) - 1907年に参文舎より再版。東京博物学研究会(編)『普通動物図譜』(1907年、参文舎)東京博物学研究会(編)・牧野富太郎(校訂)『野外植物の研究』正・続(1907年、参文舎・積文社)東京博物学研究会(編)・牧野富太郎(校訂)『植物図鑑』(1908年、参文舎) - のちに北隆館に発行権が移された[7]。村越三千男・東京博物学研究会(編)『有毒植物図譜』(1908年、篠崎純吉)東京博物学研究会(編)・山内繁雄(校訂)『図解植物名鑑』(1924年、二松堂)村越三千男『大植物図鑑』(1925年、大植物図鑑刊行会) - 1941年に梧桐書院より縮刷版が刊行[13]。村越三千男(編)『集成新植物図鑑』(1928年、大地書院)村越三千男(編)『応用新植物図鑑』(1930年、大地書院)村越三千男(編)『集成昆虫図鑑』(1932年、フタバ書院成光館)村越三千男・飯田弥助『趣味の有用植物』(1932年、修教社書院)村越三千男(編・画)『内外植物原色大図鑑』全13巻(1933-1935年、植物原色大図鑑刊行会) - 1937年に誠文堂新光社より全6巻として再版。村越三千男『総合新植物図説』(1936年、照文社)村越三千男『原色図説植物大辞典』(1936年、中文館)村越三千男『図説植物辞典』(1938年、中文館) - 1936年版の縮小版。小野田伊久馬・村越三千男『図解動物小辞典』(1938年、照文社)村越三千男(編・画)『内外植物原色大図鑑』全1巻(1940年、誠文堂新光社) - 1933-35年刊行版の縮小版。
2023.07.13
徳永助教授は植物学教室でおや譲り葉だいにしへの恋ふる鳥かも万太郎が和すゆずり葉の御井の上より鳴き渡りゆく万葉集巻2-111弓削皇子田邊「徳永君、君こそが小学校中退の人間は出入りさせるなと言ってた張本人だろう? 学歴もない、留学もしていないただの素人だ! 植物学会も彼のことは認めていない! そんな人間におもねって門戸を開いてやるのか?」徳永「逆です教授。情けを受けたのはこちらです」「槙野はこれが植物学教室の実績となってもいいと譲ってくれたんです。この研究に関われなければ、我が教室は何も実績を出せないことになる」田邊「そんなことはない。私の戸隠草が……」徳永「花は咲かなかった!」「今、私たちがすべきことは、槙野に礼を言うことですよ」「ゆずりは」は古代「弓絃葉(ゆづるは)」とよばれトウダイグサ科の常緑高木です。春に出た新葉が成長すると前の葉がいっせいに落ち、新旧交代の特色が際立つので「代を譲る」意で「譲葉(ゆずりは)」の名が付いた。「いにしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井(みい)の上より 鳴き渡りゆく」 弓削皇子(ゆげのみこ) 巻2の111(昔のことを恋い慕う鳥なのだろうか、ユズリハの樹のある御井の上を通って、鳴きながら飛んで行く)この歌は678年持統天皇が吉野に行幸された時、お伴した弓削皇子(天武天皇第6皇子当時24歳)が都にいる額田王(当時63~64歳)に贈った歌。吉野にお伴した彼は天武天皇が在世中額田王と共に訪れ、しばしば遊宴を催した当時を懐かしみ、また歌に弓絃葉を詠みこむことにより時代の移り変わり、新旧交代する自然のあり方に感慨を示したものと思われます。従ってこの歌の「いにしえ」とは皇子の父である天武天皇と若き額田王との恋愛関係を指しています。額田王は弓削皇子に対して歌を返します。「 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我(あ)が思(も)へるごと」 額田王 巻2の112☆松村任三は、日本の植物について新たな研究を開始しようとしたときに、日本の植物についての欧米での研究成果が発表された当時としても、入手がむずかしい学術雑誌や著作物を徹底的に集めました。こうした、書籍類が、現在東京大学の植物学図書室に多数所蔵されていますが、その植物学図書室の基礎を築いたのも松村任三の大きな業績の一つです。松村任三は、生涯にわたり150種以上の新植物を発見し、これらに学名を与えました。その一部は後の研究者によって、さらに分析が加えられ、今では、松村任三が提唱した学名全てが用いられているわけではありませんが、ソメイヨシノやオオバヤシャブシ、ミネザクラ、カニコウモリ、オオカニコウモリ、モリアザミ、フジアザミ、ノハラアザミ、ヒトツボクロなどには、松村任三がつけた学名が今も用いられています。代表的なものとしてソメイヨシノ(バラ科)にはPrunus yedoensis Matum. さらに、ワサビ(アブラナ科)には、Wasabi japonica Matum.など、発見した松村任三の名前が記されています。松村任三略歴1856年、下手綱に生まれる。幼少のころから、漢学を学び武芸に励む。15歳の時、今の東京大学の前身であった大学南校に入学。1877年(明治10年)、東京帝国大学付属小石川植物園に勤務し、矢田部良吉教授の助手となり、植物学研究の道に入り、植物採集の旅を繰り返すようになった。1883年、助教授となった任三は翌年『日本植物名彙』など植物分類学研究上貴重な本を著す。さらに、1885年末にドイツ留学へ旅立ち、植物分類学・解剖学の研究を深め、1891年には、理学博士の学位を授けられ、1897年に東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長となる。1912年には、生涯の大著である『帝国植物名鑑顕花部後編』を著し、名実ともに植物学の権威者となった。学名にマツムラの名を冠した植物は数多く見られる。(あなたが「昔を恋う」という鳥はほととぎすでしょう。恐らく鳴いたでしょう、私が昔を恋しく思うように)
2023.07.13
<らんまん>“倉木の兄貴”誕生! 万太郎をアシスト 「かっこよくてほれぼれ」「えらい変わりよう」7/12(水)りん「好きにしてもらってかまわないんだけどさ。でもねえ……ちょっとでも壁があるってのが肝心なんだよ」倉木「ゴチャゴチャうるせえんだよ! その印刷機、もう買っちまったんだろう? そんならもう。四の五の言わずにぶち抜くしかねえじゃねえかよ」倉木「庇(ひさし)でも張り出して、砂置き場作りゃあいいじゃねえか。で、その庇の下に砂置き場と洗い場。そしたら、雨の日でも働けるし、布団もジャリジャリしねえじゃねえかよ」万太郎/丈之助「兄貴! 兄貴!」「もう筋肉しか思い出せない」 NHKらんまん感動展開も...ラスト1分の「肉体美シーン」に視聴者注目7/13(木) 工事当日、倉木は上半身裸となって大工仕事を行い、ときには「万太郎!縄よこせ、縄!」 と指示。たくましい背中には、古い刀傷も確認できる。倉木に対し、万太郎が「雑草なんていう草はない」と説いたのだ。日陰で枯れかけているところを、明るくまっすぐに照らしてくれる万太郎という存在は大きく、万太郎に心を開いた。大東さんの筋肉美に注目が集まった。記念すべき新種発見という話の流れにも関わらず、視聴者からはラスト1分での筋肉美シーンへの言及が相次いだ。 「全部倉木さんの筋肉がもってった もう筋肉しか思い出せなくなる」 「感動の大団円を迎えたのに倉木さんの美しい背中に持っていかれてしまった...」 「倉木さんが! 『万太郎』て呼んだ!!! 初めてじゃない!? 」 「倉木さんの筋肉美よ。 筋肉に持っていかれる木曜日。 筋肉には勝てない」 「倉木が、もろ肌脱いじゃうのは筋肉を見せるサービスカット?だけじゃなく、背中の刀傷を恥じていない生き様を見せているんだねぇ~。 脱いじゃう必然の見せ方に唸る」💛鎌倉殿の十三人では、すぐにもろはだ脱いで筋肉自慢のつわものがいたらんまんも それを踏襲して 倉木役の 大東駿介さん を当てているお笑いの原則の一つは 笑いのツボは繰り返す ドラマでも筋肉自慢の役は繰り返し、何度ももろはだを脱ぐのかな*「天丼」はお笑いのテクニックの一つで、同じやり取りを繰り返すこと。一度したものを時間が経過してから再びすることで、忘れていた最初の展開の記憶を呼び戻して笑いを誘う技術記憶を呼び戻されたときに発生する「同一性の気づき(アハ体験)」を作り出す、「それとは別」にその展開(発言・行動など)の面白さが存在するということになる朝ドラ や 大河 のときにこの「同一性の気づき(アハ体験)」を呼び起こす次元を超えて 朝ドラが 「鎌倉殿の十三人」の筋肉自慢の記憶をよび起こす大東駿介さんインタビュー演じる倉木隼人は、大東さんから見てどんな人物ですか?登場から「なんやこいつ。万太郎の邪魔をするなよ!」という感じですよね(笑)。物語の中で少し触れられていますが、倉木は上野戦争で生き残った侍崩れで、背中には刀傷がある。命をかけて戦う時代から新しい時代へと変わったことで時代に置いていかれ、自分の生きている意味は何だろうという割り切れない気持ち、さまざまな葛藤を抱えている人物だと思います。やり直す機会はたくさんあったはずなのに、それでも前に進めなかった。それはきっと、命をかけて戦ってきた侍魂が強かったからこそ、その思いの行き場がなくなったときのショックが大きかったからだと思うんです。そう考えると、倉木って本当はまっすぐな人間なんじゃないかなと想像しました。だからこそ、彼がただ悪く見えるような作り方にはしたくない。武士の恥と言われる背中の傷も含め、いろいろな痛みと苦悩を背負いながら、必死に生きている姿を表現したいと思って演じています。さまざまな葛藤を抱える倉木ですが、万太郎との出会いで少しずつ変化していきますね。万太郎の「雑草なんていう草はない」というセリフが、彼を動かしたんでしょうね。翌日、前を向いて仕事に行くという彼の決心は、小さな一歩に見えるかもしれませんが、彼の人生にとっては大きな一歩だと思います。そんなふうに前進できたのはきっと、あまりにも万太郎がピュアでいてくれたから。あそこまで真実だけをまっすぐに突きつけられると、人は背中を押されるんだなと思いました。日陰で枯れかけているところを、太陽のように照らしてくれる万太郎という存在は、とても大きいと思います。万太郎役の神木さんの印象はいかがですか?ずっと笑っていて、万太郎のようにみんなを明るく照らしてくれますね。人の心を軽々と開いていく人で、みんなの心の扉の合鍵を持っているんですよ。倉木を演じる上で、朝からこんなに重いものを抱えた人物が出てきて大丈夫だろうかとも思ったのですが、横に神木くんがいれば絶対大丈夫だろうなと思いました。神木くんが演じる万太郎だからこそ、倉木も心を動かされたのだと思います。人生において、人が挫折を乗り越えて成長していく姿って本当にすてきだと思うので、倉木がどのように前に進んでいくのか、僕自身も楽しみです。
2023.07.12
矢田部教授の罷免 私が郷里で音楽普及に尽力している頃、東京では矢田部教授罷職事件が起っていた。 大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷職にしたのである。その原因は、菊池大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる。 大学教授を罷職にされた矢田部良吉先生は、木から落ちた猿も同然で、憤慨してもどうにも仕方なかった。私は学問上の競争対手あいてとしての矢田部教授を失ったわけである。 矢田部先生罷職の遠因は、色々伝えられているが、先生は前に森有礼ありのりに伴われ外遊した事もあり、中々の西洋かぶれで、鹿鳴館にダンスに熱中したり、先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校で教え子を妻君に迎えたり、「国の基」という雑誌に「良人おっとを選ぶには、よろしく理学士か、教育者でなければいかん」と書いて物議を醸かもしたりした。当時の「毎日新聞」には矢田部先生をモデルとした小説が連載され、図まで入っていた。 矢田部先生は、伊豆韮山にらやまの人で、父君は江川太郎左衛門に仕えた人であった。令息は今日音楽界に活躍しておられる矢田部勁吉けいきち氏である。 矢田部先生は罷職後も植物志を続けねばいかんといい、教室に出てきて『日本植物図解』を三冊出版されたが、後は出なかった。また先生歿後『日本植物編』が一冊出版された。矢田部先生は、大学を退かれて後、高等師範学校の校長になり、鎌倉で水泳中溺死し非業の最期を遂げられた。*菊池大麓(きくち・だいろく 1855~1917)蘭学者の息子として江戸に生まれ、幼くして蕃書調所で学ぶ。蕃書調所とは、1811年に江戸幕府が設けた洋学の研究所である。時を遡ること1720年、八代将軍吉宗は洋学に深い興味を示し、キリスト教以外の蕃書(オランダを中心とする西洋の書籍、文書)の輸入を許可した。それによって1750年代より、西洋の(医学を中心とした)学問の道が開かれ、1771年に『解体新書』の翻訳が始まり、1776年に平賀源内のエレキテルが完成する等、蘭学が江戸でも花開き始め、それに伴い幕府管轄の研究所が設けられたのだった。 蕃書調所は1862年に開成所と改称され、福沢諭吉、西周らの洋学者が集い、当初は蘭語と英語を、後に仏語、独語、露語が取り入れられた。この開成所が明治時代に入ると開成校(1868年)、南校(1869年)、東京開成学校(1874年)と名称を変え、また蕃書調所とは別にあった幕府西洋医学所が明治に入って東高(1869)、東京医学校(1873)となっていったものと統合されて1877年に東京大学となった。 学校制度が整備されるまでは、南校や開成学校、東京大学に入学するためには、その予科となっていた官立の東京英語学校等で語学を学ぶか、官立開成学校予科を終えるのが一般的だったようだ。しかし菊池はそのコースを辿っていない。 1866年、幕府の命令によって、11歳で英国へ留学した。しかし留学期間中に幕府が倒れ、明治新政府となったため帰国し、開成学校(後の東京大学)に通うことになった。12~13歳にして英国留学経験を持つ稀なる英語の使い手として、明治政府は、まだまげを結っている元武士たちの英語教師として菊池少年を採用した。彼らに試験をした際、なかなか答案を出してくれない大きな生徒たちの試験監督に退屈してしまった菊池少年は、部屋で試験問題と格闘している生徒たちを置いて校庭に出て凧をあげて一人で遊んでいたという逸話が残されている(『おかしなおかしな数学者たち』矢野健太郎著、新潮文庫、1984年版、新潮社)。 1870年(15歳)、明治政府から英国へ再度派遣されケンブリッジ大学(セントジョンズカレッジ)で本格的に数学を学んだ。ケンブリッジでは数学で常に首席だったと言う。留学中の1872年、ラグビーの試合に出場した。恐らく日本人初のラグビープレーヤーは菊池だろうと言われている。 1877年に帰国し、東京大学の教授に就任した。福沢諭吉とも生涯親しかったそうだ。学生たちに愛情深く接する先生で、例えば毎年数学科の卒業生を自宅に招いて洋食のマナーを教えてくれたという。腹を空かせた学生にドッサリ食べさせてあげようという食事会というよりむしろ、学生たちを驚かせ楽しませる趣向を凝らしたものだったそうだ。高木貞治が招かれた時にはナイフとフォークでどう食べていいか分からない、アーティチョーク(チョウセンアザミ)等が出され困惑したそうだ。 近代の西洋の数学を学び持ち帰ったパイオニアとして、学んできたことを日本に広めて礎を築くと言う教育行政官としての大役を乞われ、それを果たした人物だ。💛菊池大麓は忘れられた明治教育の偉人というべきか。優れた行政的政治的手腕を発揮したが、数学の専門的書物のほかに、主著として記憶されるような書は寡聞にしてしらない。『初等幾何学教科書 平面幾何学』ケンブリッジ大学時代は数学で常に首席を占めていたため、他のイギリス人学生から嫉視されていた。あるとき大麓が風邪をこじらせて入院すると、イギリス人学生たちは示し合わせて大麓が欠席中の講義ノートを彼に貸さないことにした。それによっていつも2番目の成績だったブラウンという秀才を首席に押し出そうという企みだったが、当のブラウンは病院の大麓を毎日見舞って清書した当日のノートを彼に渡していたため、結局大麓の首位は動かなかった。大麓はその後ことあるごとに「ブラウンの高潔なイギリス魂ほど私を深く感動させたものはない」と当時を回想していたという。「イギリス的教えでは、ウソをつくのが最大の罪悪である」と、清廉潔白なジェントルマンの教育を子孫にも徹底した。 明治37年(1904年)、日英同盟成立の陰の功労者として男爵が授けられたが、人一倍自慢話が嫌いな彼は親族にさえこの名誉を知らせなかった。晩年、多忙な生活を送りながら近所の小学校の校長を務め続けた菊池は、子供たちに能力だけでなく、人格が重要であるというBe gentlemanを伝えたかったのだろう。明治期に海を渡った菊池大麓は西洋数学と共に、英国の高邁な道徳観をも日本に伝えたのである。月俸十五円の大学助手 矢田部先生罷職の事があった直後、大学の松村任三先生から郷里の私のところへ手紙で、「大学へ入れてやるから至急上京しろ」といってきた。私は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」と書いて返信し、明治二十六年一月上京した。やがて私は、東京帝国大学助手に任ぜられ、月俸十五円の辞令をうけた。 大学へ奉職するようになった頃には、家の財産も殆ほとんど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚おうように育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた。 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾新あらた先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。松村任三博士との離けいり その頃から松村任三先生は次第に私に好意を示されなくなった。その原因は、私が植物学雑誌に植物名を屡々しばしば発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の植物名と牴触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌に余り書いてはいかんといわれた。またある人の助言で松村先生も対抗的に、植物学雑誌に琉球の植物のことなど盛んに書かれたりした。このように松村先生は、学問上からも、感情上からも、私に圧迫を加えるようになった。 ……私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではなし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏の忌諱ききにふれた。松村氏は元来好い人ではあるが、狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁談のことが成就しなかったので、それでも大分感情を害したことなどあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に向かって私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。……『大日本植物志』は余り大きすぎて持運びが不便だとか、文章が牛の小便のように長たらしいから、縮めねばいかんとかいわれた。そのうち、松村先生は『大日本植物志』を牧野以外の者にも書かすといい出した。私は『大日本植物志』は元来私一人のために出来たものなので、総長に相談したところ、それは牧野一人の仕事だといわれたので、松村先生の言を聴かなかった。『大日本植物志』は第四集迄出たが、四囲の情勢が極めて面白くなくなったので、中絶するの止むなきに至った。 教室の人々の態度は、極めて冷淡なもので『大日本植物志』の中絶を秘かに喜んでいる風にさえ見えた。『大日本植物志』の如く、綿密な図を画いたものは、斯界しかいにも少ないから、日本の学界の光を世界に示すものになったと思っている。あの位の仕事は、なかなか出来る人は少ないと自負している。今では、私ももう余りに年老いて、もう再び同様のものを打建る気力はないが『大日本植物志』こそ私の腕の記念碑であると私は考え、自ら慰めている次第である。
2023.07.12
大窪(今野浩喜)、波多野(前原滉)、藤丸(前原瑞樹)の3人がやってきた大窪「標本を見せてくれマキノ俺は口先だけのクズだと教授に言われた何年経っても成果をあげられない。」「手伝わせてくれ。このとおりだ。俺を研究に参加させてくれないか?」万太郎はみんなでやろうと提案波多野は、大窪と共同で研究すれば、東大の植物学教室との共同研究となり、「これが新種だったら大学の実績になる」と強調し、よく考えるようにという。藤丸は、大窪が田邊の差し金ではないかと疑う。大窪はそれを否定。初めて自分が植物学を学びたいという気持ちになったと訴えた。「植物学に来たことをずっと恥じていたんだ」「俺の父は旗本の出で、東京府府知事になり、今は元老院の議官だ」「父が勝先生に頼んでくれて、ようやく、植物学教室の御用係に採用された」「勝先生の口利きがあってさえ、そんなところにしか職がなく情けなくてたまらなかった」*大窪昭三郎のモデルは実在する人物「大久保三郎」という植物学者。牧野富太郎と連名で1889年(明治22年)に『植物学雑誌』にヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表している。幕臣で後に明治初年の東京府知事・子爵となった大久保一翁の息子として安政四(一八五七)年五月二三日に誕生。1871年(明治4年)にアメリカ合衆国のミシガン大学に留学し、植物学を修めさらに1876年(明治9年)にはイギリスに渡り研鐙を積む。帰国後の1878年(明治11年)に内務省に務めた後、明治14年には東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調に任じられる。伊豆諸島、小笠原諸島の植物相の研究を行った。1883年(明治16年)に松村任三とともに帝国大学理科大学に昇進し、矢田部良吉を補佐し、標本施設拡充に貢献した。ヤマトグサ(大和草、学名:Theligonum japonica Okubo et Makino)1887年(明治20年)にも伊豆諸島を調査した。1889年(明治22年)に『植物学雑誌』に牧野富太郎と連名でヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表した。☆牧野富太郎がヤマトグサを最初に発見したのは、1886年高知県でのこと。当時は標本がないため、誤って「ハシカグサ」と同定していた。しかし、その後同じ場所にて最適な標本を得たことからヤマトグサの研究が始まる。後に植物学者である大久保三郎との連名で、「植物学雑誌」にて研究結果の論文を発表。日本固有種であり、日本人の手によって記録され、日本の学術雑誌に発表された植物はヤマトグサが初めて。*明治14年~18年頃まで植物学教室に在籍していた宮部金吾が、この当時のことを次のように書いている。「別館の実験室はその一部を仕切りて二つ(或は一つなりしか)の室を作り、その中の一番奥に矢田部教授、次に松村、大久保両氏在り。実験室には画工、箕作、斎田氏等と共に小生机を並べ、その他小使も居りて標本の製作等をなせり。又室の中央には机あり、其上にて食事をなし、其際には松村、大久保氏等も一緒なり」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「一ツ橋時代」宮部金吾)
2023.07.12
寿恵子「万太郎さん、日本中の草花が載った図鑑を作るって言ってるんです。私、それを承知で一緒になりました。いざ暮らしてみると、体壊したらどうしようとか。ちゃんと寝なきゃとかそんなことばっかりで」福治は、寿恵子が家事を一生懸命やっていると励ます寿恵子「それじゃあ足りない。だって私、あんな大きな人の妻になったんですから」「俺のこともな『いつまでも棒手振(ぼてふり)じゃダメだ。自分の店を持て』っつってさ。内職して、働きにも出て……。俺はこれでも棒手振が好きでこのままでもいいっつってたんだけどさ、どうやら……がっかりさせちまってな。男作って逃げちまった」福治「身の丈に合わねえ望みは不幸になる。俺はそう思うよ。万ちゃんは『やりてえ、やりてえ』バカでそれしか言わねえ生き物だから。お寿恵ちゃんが丸ごと全部真に受けたらいけねえよ。むちゃしねえで、身の丈を見てやれよ」💛すごく哲学的、あるいは人生論的な大きな問い人は自分の身の丈にあった生き方をすべきか?それとも夢や目標に向かって努力する生き方をすべきか?まだ内容すら分からない 宮崎駿監督の 君たちはどう生きるか?への問い、そして脚本家なりの回答(金色の道を歩きなさい) が隠されているのかもしれない。馬琴7則の最後は、「隠微」である。「作者の文外に深意あり。百年の後知音(友)をまちて、これを悟らしめん」とす。佳代「寿恵ちゃん何でここへ」佳代「お寿恵さんに近づかないで! あんたら汚いんだから!」佳代「お寿恵さんは私の天女様なんだから。言っとくけど万ちゃんより私の方がお寿恵さんのこと好きだからね」孝二郎「じゃあお嬢さんが隣、座りゃいいでしょ!」佳代「じゃあ…座る」「フフ…天女…」「あっほほ笑みもらった、ほほ笑み!」💛現代の「推し」の時代風潮を見事にとりこんでいる。寿恵子「万太郎さん大将ご相談があります身の丈に合わない望みは不幸になると言われました石版印刷を買う事はできませんでしょうか私本気です」*「牧野富太郎自叙伝」「植物学雑誌」の創刊 抜粋〈自分は植物の知識が殖えるにつけ、日本には植物誌がないから、どうしてもこれを作らねばならんと思い、これが実行に取掛った。 植物の図や文章をかくことは別に支障はなかったが、これを版にするについて困難があった。私は当時(明治十九年)東京に住む考えは持っていなかったので、やはり郷里に帰り、土佐で出版する考えであった。郷里で出版するには自身印刷の技術を心得ていなければいけんと思い、一年間神田錦町の小さな石版屋で石版印刷の技術を習得した。石版印刷の機械も一台購入し郷里へ送った。しかしその後、出版はやはり東京でやる方が便利なので、郷里でやる計画は止めにした〉〈この志は明治二十一年十一月になって結実し、『日本植物志図篇』第一巻第一集が出版された。私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打ち建てた男は、この牧野であると自負している〉
2023.07.11
万太郎は新種の名付け親になる方法を里中先生に相談する。里中先生「本を出せばいい。植物学に携わる誰もが認める本を出すんだ。 君の知見、発見を存分に披露する本だ。そうすれば皆、君を認めるよ」「植物男子ベランダー」の原作者いとうせいこうさんが里中先生を演ずる。朝ドラデビュー。SNSでは「相変わらずニコニコ可愛らしいおじちゃま」「これからも万太郎の心の友であってほしいなあ」「里中先生、このドラマで一番好きなキャラかも」「スピンオフで里中先生とサボテンの1日を描いてほしい」*万太郎憧れの学者・里中芳生は、「日本の博物館の父」と呼ばれ、万太郎のモデルである牧野富太郎とも親交があった博物学者田中芳男「日本の博物館の父」として知られる博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三の三男として生まれた。隆三は1834年に長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学、舎密学(化学)などにも関心が深く、芳男もその影響を強く受けることになった。また、隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」と教え諭した。兄が病死したため、家督と医業を継ぐことになった。1856年(安政3年)秋、名古屋に出て尾張藩御典医で博物学者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、千村五郎・柳河春三らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けたほか、博物学や本草学を学んだ。1858年には故郷の飯田に帰った。自宅で本草学や博物学の研究を行ったり、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていた1862年(文久2年)、伊藤圭介が幕府の蕃書調所に招聘を受けることなり、芳男はその助手として出仕し、物産学・本草学の研究開発に当たることとなった伊藤圭介は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となった。1865年(慶応元年)、幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明し、万博に昆虫標本の出品を決定することとなった。翌1866年(慶応2年)、芳男は幕府からパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行った。同年11月、パリに向けて出港し、シンガポールやスエズ運河を経由して到着している。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地の研究者に高く評価された。1875年(明治8年)、博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し、上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注いだ。町田が初代博物館長を務め、後に田中が職に就く。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置した。同年刊行された田中芳男訳纂『動物学初篇哺乳類』は簡略な図解であるが、分類階級の訳語として、classに「綱」、orderに「目」、familyに「科」、genusに「属」、speciesに「種」の訳を用い(磯野1986)、これが今日に及んだ農商務省博物局長を務めた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任に就く。1878年(明治11年)駒場農学校の設立に参画する。1881年(明治14年)大日本農会結成に参画し、1882年に大日本水産会と大日本山林会の創設に尽して日本での農学と農林水産業の発展に貢献。生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめた。 1916年(大正5年)6月22日永眠。「らんまん」の牧野富太郎から飯田出身の博物学者田中芳男への書簡展示5月9日牧野富太郎から、飯田市出身で「日本の博物館の父」と呼ばれる博物学者、田中芳男に送られた書簡が飯田市で展示された。この書簡は1904年に植物学者の牧野富太郎から博物学者の田中芳男に送られたもので、飯田市美術博物館で開かれている、田中芳男の企画展の中で特別に展示されています。1838年にいまの飯田市で生まれた田中は、近代日本を代表する博物学者として、博物館や博覧会などの創設に深く関わり、「日本の博物館の父」と呼ばれています。書簡のなかで牧野は、田中から「アンペラグサ」という植物の情報を教えてもらったことに対するお礼や、「アンペラグサ」についての知見を記しています。また、田中が持っている本の提供を求める記述もあり、2人の関係の深さが読み取れます。田中は牧野にとってあこがれの存在だったということで、連続テレビ小説「らんまん」にも、上京した主人公を受け入れる「里中先生」として登場しています。博物館の織田顕行学芸員は「牧野富太郎が注目されるなか、牧野と深い関わりを持った田中芳男についても是非知ってほしい」と話していました。この書簡の展示は6月4日まで行われた。残念
2023.07.08
「名教館(めいこうかん)」の幼なじみ広瀬佑一郎が、十徳長屋に万太郎を訪ねてきた。佑一郎がミシシッピ川の治水工事の技師としてアメリカに行くと聞いて、万太郎は明教館学頭・池田蘭光先生と3人で仁淀川へ行ったあの日に思いだす。佑一郎「おまんの顔を見ちょきたかった」「アメリカに行くがじゃ」「アメリカには広大な国土の3分の1を占める流域を持つミシシッピゆう、ものすごい川がある。国を挙げての治水工事を始めるそうじゃ。日本も水害の多い国やき。きっと勉強になるろうと、俺を技師の一人として推薦してくださったがじゃ」万太郎「仁淀川(によどがわ)からミシシッピ川に行くがか! 金色の道じゃ。佑一郎君はまっすぐ進みゆう!」万太郎は佑一郎に、田邊(要潤)とのやり取りを明かす。「わしゃ、これからどんな植物を発見したとしても、自分で発表できんそうじゃ。虫けらじゃと言われたき」佑一郎「学校を出ちゃあせん者はみな“虫ケラ”ながか?」「そんなこと言えるほうが、よっぽど恐ろしいがのぉ」「教授の言うところの『虫けら』らあが、この国を変える底力を持っちゅうがじゃ」「その教授を普請場に放り込んじゃりたいのう」万太郎「わしは一体どうしたらいいがじゃ」佑一郎「こっちだ最初に上京した時も博物館の先生方を頼ってきたがじゃろう?聞いてみたらえい。本当に自分じゃ何も発表できんがかと万太郎には、教授がすべてじゃないじゃろう?博物館の先生に発表する方法を聞いたらよかろう訪ねていく先があるゆうことも、自分の“たから”じゃき」万太郎「やっぱり祐一郎君は凄いのう何いうが弱虫万太郎のままじゃ」 万太郎は、新種の名付け親になる方法について相談をしようと、里中がいる博物館へ向かう。すると、たまたま居合わせた伊藤孝光を紹介される。シーボルトの助手を務めた伊藤圭介の孫と聞き、万太郎は大盛り上がり!しかし、会話の流れで田邊(要潤)が発表しようとしている“トガクシソウ”の話をすると、孝光は怒って部屋を出ていってしまう。牧野富太郎自叙伝7 「破門草事件」
2023.07.06
聡子「先生は去年の暮れに奥様を亡くされまして……。父が判事なのですけれど、先生と政府のお仕事でよくご一緒していて。お忙しい先生がお一人では、何かとご不便だろうと私が参ることに。御茶ノ水の高等女学校を途中でよして、今年の5月にこちらに参りました」「前の奥様はお美しくてピアノもたしなまれて、英語もお分かりになったそうです。でも私は……。(前妻の)子供たちも私のことは『母』とは呼んでくれなくて」「こうしていると女学校の友達を思い出します」寿恵子「私は学校に行っていないんです。なので、年の近いお友達がいなくて」聡子が「では……あの、お友達になっていただけませんか?」寿恵子「ええ! うれしい!」*聡子は田邊に「槙野さんに、旦那様のお力になっていただけるようお寿恵さんに頼んでおきました」と報告。田邊は聡子の肩に手を置き「そうか」と笑顔を見せ、聡子の頭に手をやった。ネット上では、このシーンに注目が集まった。「田邊教授ってツンデレくん」「新妻には優しいんですね 聡子さんの髪を触る仕草にキュン」「聡子さんの肩に優しく手をおいて優しい眼差しで見つめる田邊教授」「聡子さんへの頭ポンポンのシーンが印象に残っています」「こちらの田邊教授が本来の田邊教授なのかな」らんまんでは、役人と警察を除いて、ヒール役を単なる悪役として終わらせない人間味を持たせる。憎まれ役とならざるを得ないやむを得ない事情とか、聡子「先生は、政府の森有礼様と留学の時から懇意になさってますから、政府のお仕事はお断りできないんです。そのせいで大学の総長や教授の方々からいろいろ妬まれて……。いつも気が休まらないようで……」「槙野さんのようなお方が先生のそばにいてくださったら心強いです」身近な者への愛情表現とか「千と千尋」の湯婆婆が坊にメロメロなように(ちなみに神木さんは当時は8歳で坊の声優をやっていた 神木隆之介 「千と千尋」坊の声を務めた当時は8歳 今はもう「できない、できない」 ジブリ4作品で声優)それがドラマに深みを持たせる。教授が自分専用のプラントハンターになるよう提案する。万太郎「発表はどうなるんですろか」教授「もちろん私の名前だマキシモヴィッチがなぜ有名になったか長之助という助手がいたからだよだから学名にもチョウニスキーといれた?私が発表する時もマキノイと入れてあげよう」万太郎「教授の為に探しているのじゃないですこの子は大好きです寿恵子さんを誰にも渡しとうない、ということと同じことです」田邊「植物だろう? 人間とは違う」万太郎「突き詰めたらどんな違いがありますろうか?」「植物も人間も与えられた場所で懸命に生きちょります」万太郎「ご恩は忘れてはおりません」田邊「後悔するぞ。何の身分もない、何の保証もない、小学校も出とらん虫けらが何を言っても無駄だ!おまえは私にすがるしかないのだ!」万太郎「わしが、やりますき!」伏線が周到にはりめぐされている。牧野富太郎自叙伝7「破門草事件」牧野富太郎自叙伝 『日本植物志』に対する松村任三博士の絶讃 と 矢田部良吉博士との支吾田邊「方法は二つある大学予備門に入って東京大学を授年して合格し四年間勉強するかそれが嫌なら今すぐ留学しなさい」教授が「私の専属の植物ハンターになりなさい」の前置きでいう東京大学に正式に入るか 留学 かはまっとうな意見で事実、教授が東京大学植物学教室へ出入り禁止したとき牧野が考えたのは ロシアのマキシロビッチのもとに留学することだった。だがこれはマキシロビッチの死で断念する。また教授の妻が田邊教授が政府の御用でいろいろ仰せつかっていることを学長や他の教授たちはよく思っていないこれも重要な伏線で後に東大総長から教授は東京大学から追い出されることになる。・その頃、わが国では植物に学名を附す事はまだ誰もやっていなかったが、私は『日本植物志』第七集から卒先して植物に学名を附し、記載文を発表しはじめた。この第七集にはじめて学名及び記載文を附して発表した植物は「むかでらん」であった。・菊池大麓(きくち・だいろく:1898年東京帝国大学総長、1901年文部大臣、1908年京都帝国大学総長、1909年帝国学士院院長などを歴任)・杉浦重剛(じゅうごう)先生は私の同情者であって、矢田部先生の処置を不当として私に対し、非常な好意を示された。💛要潤さん「本日の #朝ドラらんまん の放送でTwitterトレンド2位と3位を獲得しましたー!」と報告。ツイッターのトレンド2位に「私のもの」、3位に「田邊教授」のワードがランクインしたスクリーンショットを投稿「田邊教授は依然大暴走中。奥さんも登場し家庭崩壊も暴露され、サイコパス扱い笑 『私のものになりなさい』というとんでも自己中発言に万太郎はどう対処するのか!?」「明日からの放送もお楽しみに」らんまん の ヒール(憎まれ役)陣は ヤバ藤 といい、皆、楽しそう「むかでらん」の学名発表 菊池大麓・杉浦重剛両先生の同情
2023.07.05
十徳長屋では ステテコ踊りに みんな興じる「向う横丁のお稲荷さん」向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげて ざっと拝んで おせんが茶屋へ腰を掛けたら 渋茶を出して渋茶よこよこ 横目で見たらば米の団子か 土の団子か お団子団子またまたそんなこちゃ 真打にゃなれねあんよを叩いてしっかり おやりよステテコ、ステテコ、ごろにゃんにゃん*ステテコ踊りは、明治中期に落語家初代三遊亭圓遊が始めたもので、噺が終わったあとに高座で見せた踊りである。当時大変な人気を博した。1880年(明治13年)はコレラ流行の余波で寄席は不況だった。そんな中、初代三遊亭圓朝門下の二ツ目であった三遊亭圓遊が浅草並木亭で始めたのがステテコ踊り。一席を終えるとやおら立ち上がり、尻っぱしょりで半股引を見せ、向こうずねを出して踊るものであった。それまで座り踊りと決まっていた噺家のこの仕草は、観客を大いに喜ばせた。八代目林家正蔵(彦六)【ステテコ誕生】田邊教授「あなたを知ってるよ! 高藤邸に菓子を持ってきたとき、私も居合わせた。あなたが持参した菓子を褒め、舞踏練習会にあなたをすすめたのも私だ。武家の出とはいえ、妾腹(しょうふく)の娘であるあなたが今をときめく高藤雅修(たかとう・まさなり)にあれだけの勇気を出せたのは、槙野君がいたからなのか?」田邊「つまり君は、相手がどれほどの地位であろうとも奪うものは奪う。そういうことだな?」万太郎「いいえ……そんなことは」*ヤバ藤の由来佐々木芳史アナウンサー「高藤さんのことをあるあだ名で呼んでたんですよね」浜辺「やばいやつすぎて“ヤバ藤”さんって」「薩摩弁と、ボディータッチの多さが、もう刺激が強すぎて、ちょっとこれは高藤さんって呼んでるだけじゃ消化しきれなくって、“ヤバ藤”さんって呼んで、発散していくっていう方向に持って行かせていただきました」田邊「君は不憫だ「君は巡り合うことができる。だが決して、自分の手で発表できない」」万太郎「でも植物学雑誌は・・・創刊したのがわしですきに発表できました」田邊「違う。私が許したんだよ日本でただ一つの権威ある学会だからね。素人の倶楽部ではないんだよ。素人じゃないか。君は何の身分もない。その辺の銭湯でわめいている連中と同じだよ。彼らがいくら吠えようが、国政は動かんだろ」万太郎「ではどうしたら・・・教授、わしは一体どうしたらええんですか」「方法は二つある大学予備門に入って東京大学を授年して合格し四年間勉強するかそれが嫌なら今すぐ留学しなさい」万太郎「学歴が全てゆうことですか?学歴で何をはかるんですか?私の一生は遠回りする必要はありません」田邊「また岩に穴を開けるのか。遠回りをするからこそ、正しいものに出会えるというのに。君は若いな。世間は単純なんだよ。学歴さえあればいい。私なら、さっさとやり直すがね」核心はただ一つ万太郎「人生を植物に打ち込むと決めました。他のことに使う時間はありません。その間にも誰かが新種を・・・」田邊「おかしいな。君は植物が好きなんだろ。だったら遠くから喝采を送ればいいじゃないか。嫌だ嫌だばかりでは、どうしようもないだろ」田邊「最後の提案だ私のものになりなさい」
2023.07.04
7月3日のらんまんで 万太郎と寿美子の新婚生活が十徳長屋で始めるおかみさん方の井戸端会議に寿美子はすぐになじむ長屋中で 歌や踊りが始まるまるで 日本独自の ミュージカル みたい江戸東京博物館 かっぽれミニお稽古を見ていると 楽しくなる。かっぽれの歌詞(かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)沖の暗いのに 白帆がぇ~あ~ェ見ゆる(ヨイトコリャサ)あれは紀伊の国 ヤレコノコレワイサ(ヨイトサッサッサ) エーみかん船じゃえ(あ~みかん船) みかん船じゃサーえ 見ゆる(ヨイトコリャサ)あれは紀伊の国 ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) エーみかん船じゃえ(かっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)沖じゃわしがこと 鴎と云うがサ ヨ~イヤサ(ヨイトコリャサ)墨田川では ヤレコノコレワイサノサ(ヨイトサッサッサ) 都鳥(あ~みやこどり)都鳥サ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)墨田川では ヤレコノコレワイサノサ(ヨイトサッサッサ) 都鳥(サテかっぽれ かっぽれ ヨーイトナ ヨイヨイ)ここはどこぞと 船頭しゅうに問えばサ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)ここは屋島の ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) 壇ノ浦じゃえ(あ~壇ノ浦)壇ノ浦じゃえ ヨイヤサ(ヨイトコリャサ)ここは屋島のヤレコノコレワイノサ(ヨイトサッサッサ) 壇ノ浦じゃえ
2023.07.03
「らんまん」最終回?旅立つタキさん 万感タイトル回収!ネット号泣 ロス広がる「完全メイクやり直し」大畑「さらには明日は大安吉日、一粒万倍日でございますから、大変にご結構で」寿恵子「この先もずっと、おとつぁんとおっかさんの娘だよ」「おとつぁんとおっかさんから、たくさんのものをもらいました。冒険が大好きなところ、しっかり者なところ。だから私、万太郎さんと行きたいと思った。この先も、おとっつぁんとおっかさんの娘として、もらったものを全部抱えて、生きていくつもりです」豊治「わしら分家をずっーと、ずっーと見下してきたがは誰じゃ!」紀平「わしらは本家の顔色をうかがいながらやってきたじゃろうが!」タキ「本家・分家の上下の別なく、互いに手を取り合うて商いに励んでいってほしい」「家言うがは、何じゃろうのお。血筋、金、格式。何を守ってきたがじゃろう。それよりも今、ここにおるおまんらの幸せが肝心ながじゃ」タキ「万太郎、わしの孫に生まれてきてくれて、ありがとう。おまんは生まれた時から、そして、この先もずっと、わしの望みじゃ」万太郎「おばあちゃん、育ててくれて、本当にありがとうございました」タキ「天寿がありますきの精一杯生きてきましたきの」万太郎「桜の木を接ぎ木した」タキ「大きう育つといいのう。楽しみじゃのお。いつか、この桜が咲き誇るがか」「らんまんじゃ」
2023.07.01
朝ドラ・嫌味な分家の本音に賛否、SNS感心「脚本すごい」豊治「これまで散々、本家と分家を区別して・・・。ワシら分家をずっと見下してきたがは誰じゃ」タキ「時は変わった…この先は、本家・分家と上下の別なく互いに手を取りおうて、商いに励んでいってほしい」SNSでは「流石に分家さんたちかわいそう・・・」「分家を見下していたのは確かかもしれないけど、分家の態度もね・・・不愉快ではあったよね」「分家のぐぬぬで終わらないで、分家の言いたいことを入れる脚本」「短い場面に、長年の分家の鬱憤を感じさせる説得力のある演技。最高のキャスティング、素晴らしい」「すごい脚本。分家の気持ちもよく分かる」など、脚本やキャスティングの見事さに唸る人も。朝ドラでクセ強・伸治役の坂口涼太郎、『あさイチ』登場で反響「ほんまありがとう」分家の豊治と伸治(坂口涼太郎)「これでやっとわしの出番じゃのう」「万の字の嫁御はどんな女かのう」あさイチでは、MCの鈴木奈穂子アナウンサーと博多華丸が「分家の皆さん、どんな気持ちで見ていたんでしょうか」「完全に水戸黄門のリアクションでしたよね」ゲストとして伸治役の坂口が登場。直前に流れていた寿恵子に見惚れて扇子を取り落とすシーンを再現してスタジオの笑いを誘い、「坂口涼太郎」がトレンド入り。坂口「皆様のおかげで人生で初めて#坂口涼太郎がトレンド入りしたそうです。夜なべして爪楊枝でネイルアートした甲斐あったわ。あさイチの花、咲かせてもろてほんまありがとう」
2023.07.01
竹雄の提案で横倉山へやってきた万太郎と寿恵子。佐川の槙野万太郎です。また帰って参りました。寿恵子さんをこの木にあわせたかったがじゃ槙野寿恵子です。よろしくお願いします万太郎「寿恵子さん、この子を採集してください。大きすぎず小さすぎず 凡庸なものを選ぶ」竹雄は万太郎の助手の役目を引き継ぐため、寿恵子に植物採集について教える。竹雄は植物を採集した時の環境や状態を忘れないように帳面につけていると明かす。「わしは帳面を使うちょります。」「周りをよく見て尾根か斜面か林の中か 常緑樹か落葉樹のそばに生えていたのか。この土はどういう土か」竹雄「万太郎の話し相手になりたいがやったら、書いてでも覚えちょくがじゃ。何でもない話の相手でも、助けになれることがあるき。」寿恵子「わたしに勤まるでしょうか?」竹雄「務まらなくて当たり前、あなたなら大丈夫」竹雄「わしみたいな凡庸がついていくがは大変じゃき。ほんじゃき努力した。万太郎が息するように分かることを、わしは一生懸命覚えるしかない。それでもそばにおりたかったき。大丈夫。あなたならできるき」寿恵子「万太郎さんはなんで山なのにお洋服に革靴なんですか?」竹雄「大好きな植物に会うのに、一番えい格好でいかんと失礼になると」寿恵子「万太郎さん、夕べ役立たずといいましたけどそんなことはないです。見えているもののことはそんなにも見えているじゃないですか」万太郎「見えるものが見えるのは当たり前」寿恵子「だって私わからないあなたと同じところにいても 草、木、山 それだけ万太郎さんはそうじゃ無いそれ全然当たり前じゃありません万太郎は草花をよくよく見える目をおもちですだからとことん見て上げたら?誰にも気付かれていないけどそこにいる子万太郎さんだけが気付いて見て上げて」万太郎「簡単に言うの・・・」竹雄「日本の植物学の入り口。みんなで山にとりかかっていく波多野さん、藤丸さん、全員が同じ山道を登ってもしかなないそれぞれがそれぞれの道を歩くことで山全体を見渡せる」💛第63回は哲学的な、あるいは教訓的なお話に聞こえました。凡庸なものを選ぶ は 宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を思い出す。「黄金の草地」で「一番えらい」のは先が尖っているのだとか、丸いのだとか,背が高いのだとか言って「パチパチ塩をはぜるやうに」音を立てて三日も争っている。一郎は「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」というと、どんぐりたちは急に静かになって争いは収まった。*新約聖書『ルカによる福音書』の9章 弟子たちの間で、誰が一番偉いかという議論が持ち上がる。イエスは一人の幼な子の手を取り、自分のそばに立たせてこのように言われた。「わたしの名のために幼な子を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」万太郎「見えるものが見えるのは当たり前」寿恵子「だって私わからない。あなたと同じところにいても 草、木、山 それだけ万太郎さんはそうじゃ無い。それ全然当たり前じゃありません万太郎は草花をよくよく見える目をおもちです」星の王子様の冒頭を想う。ほんとうは、これは帽子ではなく、ゾウを丸呑みした大蛇ボアの絵。でも、この絵を大人に見せるたびに、「帽子でしょ」と言われ、「僕」は仕方なく中身のゾウの姿も描く。大人たちは「なかが見えようが見えまいが、ボアの絵はもう描かなくていい。そんなことより勉強をしなさい」と注意する落胆した「僕」は、画家になることをあきらめ、操縦士を目指し、世界中を飛び回るようになる。「僕」はもう、大蛇ボアの話も原生林の話もせず、ゴルフや政治、ネクタイなどの話をし、大人たちは趣味のいい人間と知り合えたと満足する。「僕」は6年前、サハラ砂漠に飛行機が不時着した際、「小さな王子さま」と出会う。王子さまは、「ヒツジを描いて」と言い、「僕」はヒツジの絵を描いたことがなかったので、自分が描ける、中身の見えない大蛇ボアの絵を見せる。「ちがうちがう! ボアに飲まれたゾウなんていらないよ。ボアはすごく危険だし、ゾウはちょっと大きすぎる。ぼくのところは、とっても小さいんだ。ほしいのはヒツジなの。ヒツジの絵を描いて」大人が、本当はとても大事なことを「そんなことはどうでもいい」という態度でいること、目に見えないものが大切だという、『星の王子さま』全体を通して描かれる哲学を象徴的に表現している。💛馬琴は歴史小説の7則という原則を抽出し発表した。坪内逍遥(丈之助)は それを 近代西洋文学の立場からこっぴどく批判した。7則 とは 一に主客、二に伏線、三に襯染(しんぜん)、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微である。二の伏線とは「後に必ず出すべき趣向があるのを、数回前に少しほのめかしておく」のである。四の 照応 とは 「例えば、律詩に対句があるように、あれとこれを照らし合い、出来事や人物を対にすることをいう。照応は意図的に前の趣向の対とする」「照応はわざと前の趣向の対をとってあれとこれとを参照させる」とある。五の 反対 とは 「人は同じだが事は同じではない。」「事はあれとこれと互いに反し、勝手に対をなす。」六の 省筆 とは 長々しい出来事の内容を、後で同じように繰り返して書かないための工夫。必ず聞ける人物に立ち聞きさせることで筆を省く。あるいは、地の文を使わず、その人物の口で説明させる。作者の筆を省くことで、読者を飽きさせないようにする。七の 隠微 とは 作者が書かなかった文外に深意を置く。百年後の読者が現れるのを待ち、悟らしめる仕掛けだ。聖書ルカ伝の幼子 や 星の王子様のボアの絵 や 賢治の「一番バカでなってないのが一番偉い」のように百年後、千年後の人の心に響く。そのような隠微の仕掛けがあるからこそ、らんまんは奥深く感じるのかもしれない。
2023.06.28
寿恵子「食べてからにすればいいでしょ? 顕微鏡は逃げません!」万太郎「(ヤマザクラを)どうにかしようとしゆうがじゃ。構わんとってくれんか!」寿恵子「でも、きょうは私も作ったんです。万太郎さんのお好きな……」万太郎「寿恵子さん! 頼む! 今は邪魔じゃき!」寿恵子、竹雄と綾に「研究が忙しいってご飯を食べなかったら体にさわります」竹雄「わしもそれで何べんももめてきましたき。食事だけはとれと。万太郎はそういうところがいかん」綾「何べんもおんなじことしゆうがは、全然学んじゃあせんゆうことじゃねえ」竹雄「あと寝ること。万太郎は寝ることも削りますきね」寿恵子「一人で食べたことないんです。お夕飯はいつも必ずおっかさんと食べてました。おっかさんとけんかしたときも、ご飯だけは必ず一緒に食べてました。この先、万太郎さんと私は家族になるんです。幸せな家にしたいのに……万太郎さん邪魔だって。私のこと邪魔だって」万太郎「わしはその……いろいろふがいのうて、ほんまに申し訳ない!」綾「バカ万太郎! このバカ」竹雄「なにが『邪魔』じゃ! どの口が言いゆうがな!」寿恵子「草花の道、私も一緒に行くって言いました。もう二度と『邪魔』なんて言わないで! 一緒にやっていくんでしょ?」
2023.06.28
三山ひろしさんが、「らんまん」第61回(6月26日)で呉服商「仙石屋」の主人・浜村義兵衛を演じている。タキ「仙石屋の桜、もうつぼみは膨らんじゅうじゃろうか?」義兵衛「それが……切り倒そうかと思うちょりますき。昔から桜の天敵とされちゅう病じゃそうで。病にかかった枝は切り落とすしかのうて、たとえその枝を切り落といたち、いつの間にかほかの枝にも病はうつっちゅうそうでございます。よその桜にもうつらんように切り倒さんといかんがですけんど、思い出深い木ですきのう……」草の道を選ばせてもろたがじゃ救えんでどするがじゃ寿恵子さんをこの木に合わせたかったんじゃ槙野寿恵子ですらんまん 佐川 に 高知県出身者が続々登場馬琴の歴史小説7法則 伏線、照応 と らんまん坪内逍遥は「小説神髄」で馬琴の7法則を紹介している。中国の歴史小説にはおのずから法則がある。法則とは、一に主客、二に伏線、三に襯染(しんぜん)、四に照応、五に反対、六に省筆、七に隠微である。六の省筆 とは 長々しい出来事の内容を、後で同じように繰り返して書かないための工夫。必ず聞ける人物に立ち聞きさせることで筆を省く。あるいは、地の文を使わず、その人物の口で説明させる。作者の筆を省くことで、読者を飽きさせないようにする。第61回(6月26日)で仙石屋の義兵衛が桜の木が病気にかかったことを長々とタキに伝える。タキは万太郎を呼び止めるが、その話す内容は省筆されていきなり桜の木に「お久しゅうございます病なそうで」で語りかける。「必ず聞ける人物に立ち聞きさせること」は、竹雄が働くレストランに、実業家・高藤と寿恵子がやってくる。寿恵子を高藤家に迎え入れるため、元老院議官の白川の養女にする話が進んでいること、そしてその返事は舞踏練習会の発足式の日までに、という会話を聞いてしまった竹雄は、急いで万太郎に伝えにいく。という場面で、省筆が使われ、大変じゃと大畑夫婦に寿恵子との縁談をまとめてほしいという依頼をする。
2023.06.26
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