全4件 (4件中 1-4件目)
1
「報徳思想の展開と結社運動」並松信久・尊徳の仕法地では, その足跡 ともいえる組織が ほぼ消滅 して いるに もかかわ らず, 駿河 ・遠江(現 在の静岡県)の 諸地域では, 結社組織である 「報徳社」が増加 している(図―1).これ は, 安居院庄七(1789~1863年)と い う人物 の普及に負 うところが大 きい. し か し, 安居院は二宮尊徳 と同世代で あるにもかかわ ら ず, その生涯において数度 しか尊徳 に会 っていない19). つ まり, 安居院は報徳思想を忠実に継承 してい くわけ で はな く, 報徳思想を安居院流 に解釈 し, それを広 め てい く. 安居院は, 近畿地 方 で 豊 富な農業知識を得, 万人 講を普及す る 目的で遠江地方に来 る.遠江の豪農や 老農が興味を もったの は, 万人講ではな く, 安居院の 農業技術に関する知識であ る. この農業技術 とは, 短 冊形苗代 ・深耕 ・正条植である(他 に, 鯨油による害 虫防除 ・土性転換法 などである). こ れ らの技術は, 「報徳の技術 」と して伝播 してい く. 安居院によ っ て, これ らの技術 と報徳思想が結びつ け られ る. 安居院は, 農業技術の使用について 「根元の父母に なる田地へ大孝行を尽 し, 共に共 に粉骨砕身 して勤行 致度事 に候」と説 く. 自分の伝え る技術は, 土 地に むか って勤労にはげむ ことによって成立す る. しか し, 勤 労は容易にできるものではない. 「諸 人 心を改め, 農業の道, 迷はず変ぜず惰 らず して, 風雨寒暑を厭 はず, 一筋 に粉骨砕身 して, 勤 行致度事 に候」と安 居 院は説 き, 禁欲的な生活を勧 める. 安居院が伝えた技 術は, 多労を必要 とす る(表-1).そ の 多 くの労働 力を捻出す るには, 禁欲的な生 活が必要であ る. した が って, 安居院 によ って, 農業技 術を活 かすため に, 報 徳思想 の中か ら勤労が導 き出され, 分度 は禁欲的な 生 活へ と転化 してい く. しか し, 技術の必要性を強調 して も, 定着す るには その地域 に技術を受け入れる基盤が な くて は な ら な い. 安居院の技術が定着 した地域 は, どのような特徴 を もって いたのであろ うか. 表-2か ら, この地域は 用 水費 ・区費が他地域に比べて高いことがわか る. つ ま り, 治水問題が地域の重要課題 であるこ と が わ か る. このような地域では, 農業生産 の安定性 は低 く, 地主層の窮乏を招 き易い. このよ うな基盤があ っては じめて, 安居 院の技術が受 け入れ られ, それと同時 に 安居院 によって解釈 された報 徳思想が受 け 入 れ ら れ る.つ まり, 治水事業に投入する資 金を生み出すため, 多労技術 による労働強化が行われ, その資金 は報徳社 組織 によって管理運営 されてい くこ とになる. しか も安居院の場合, 尊徳の ように分度を要求 して資金を出 させ る領主や藩は存在 しな い. したが って, 資 金の捻 出は, 農民の労働強化 と禁欲的な生活 とに求めざるを えない. た とえば, 安居院が指導 して仕 法が開始 され た石 田村の復興の場合(1857年 結社), 次のような過程 をた どる. 「其法厳密ニ シテ寛仮 スル所無 シ人民大ニ之ニ 驚 キ 或 ハ妻女家ニ 泣 クア リ或ハ子 ヲ負 フテ隣村ニ哀憐 ヲ求 ムルモノァ リ衣服 ヲ質ニ シ家屋 ヲ売却セ ン ト求ムルア リ一村 ノ惨状語ルヘカ ラス人気再タ ヒ挫折 シ社 中 ヲ脱 セ ン ト欲 シテ村社 ノ境 内ニ会スルモ ノ過半昼夜協議 ヲ 凝 シ甚 タ不穏 ノ状況 ア リ石垣氏大ニ 之 ヲ憂 ヒ同志 ト興 ニ力 ヲ尽 シ利害得失 ヲ説 明シ善法 ノ善法タル所 以 ヲ詳 カニ懇諭 ス村民又帰向 シ挙 テ其教ニ 従 ヒニ心無 ク其法 ヲ遵守スルニ至ル」.このような農民の労働強化 と禁欲的な生活に基づ い て, 報徳社組織の運営 がなされてい く。・ 勤労 と禁欲的な生活を軸 に, 組織形成を 目的 とす る報徳主義思想が形成 される. 安居院 は技術 を通 じて, 福住は組織を通 じて, 報 徳社運動の種をま くが, 両者を中心に報徳社運動が展開 したわ けで はな い. 報徳社運動は, 報徳主義思想の受け手となった遠 江地方の豪農によって担われ る。💛 「報徳主義思想の受け手となった遠江地方の豪農によって担われる」については、異論が出されている。「安居院庄七の報徳運動と参詣講」戸石七生「従来の「行政式仕法」と「結社式仕法」に加え、足立は遠江の報徳運動の隆盛の 原因を、岡田佐平治を始めとした「豪農層」 による「豪農指導型仕法」の存在に求める。 つまり、報徳運動の第三の類型である。 足立は、「豪農指導型仕法」は近世におけ る遠江の綿作の発展、東海道筋における商工業の蓄積によって経済力を蓄えた「豪農層」 の政治的台頭を、地域における領主権力の零細かつ分散した脆弱な支配が抑えられなかった結果、佐平治のような地域の有力者が領主権力を背景とせず、「豪農」同士がネットワー クを構築して行った農村運動と定義する。しかし、足立のこの主張は明らかに誤りであ る。まず、佐平治らが幕末に台頭した「豪農層」 であるというのは誤りである。山澄元の論文によると、庄七と共に尊徳に面会した前述の 大庄屋竹田兵左衛門の管轄に置かれた気賀地域は、中世の荘園であり、気賀荘と称してい たが、近世に入っても「気賀荘」と呼ばれ続 け、行政的に一つのまとまりを成していた。 逆に言えば、この地域における錯綜した零 細な領主支配は、中世から続く地域の一体性 や、村を超える広域的自治を行う大庄屋がいたからこそ機能したのである。それは、遠江の相給村(領主を複数持つ村)の比率の高さが証明している。岡田佐平治や竹田兵左衛門 のような大庄屋を長とする地域社会の自治能 力の上に依存しながら存在していたのが遠江の脆弱な領主権力である。決して領主権力が 脆弱だから「豪農層」の政治的台頭を許した 訳ではない。 さらに、「庄七の報徳運動によって地域有力者のネットワークが形成された」という のも誤りである。百姓身分とはいえ、大庄屋 になれるような家格の家は限られており、尊徳が役人に取り立てられたように一朝一夕に なれるものではなかった。当然、報徳運動以前から彼らの間に婚姻などによるネットワー クが存在していたはずである。その大庄屋層を、「豪農層」という曖昧な言葉によって、 幕末になって経済的実力を蓄えて政治的に台頭した層とするのは不適切であろう。「以前から存在した地域有力者のネットワークが庄七の報徳運動によって顕在化した」と解釈するのが正しい。 このような伝統的な地域有力者の自治組織 のネットワークによる運動と、庄七が利用し た参詣講のネットワークのネットワークによ る運動の双方が上手くかみ合った結果、遠江 における報徳運動は全国で最も盛んになった というのが筆者の結論である。ただし、参詣講のネットワークの力を十全 に引き出すには、庄七の能力が必要であった。それは、庄七死亡後、一時的に遠江にお ける報徳運動が衰退したことからも分かる。『福山先生一代記』によると庄七の生前は54 ヶ町村が報徳仕法を伝授されていたにも関わ らず、1867年には5ヶ町村(森町、天神町、 浜松町、気賀町、都田村)であったという。 報徳社は結社であるから、村や家計の立て直 しという目的を果たしたから解散したという のが最も大きな原因であろうが、庄七の働きかけの効果が薄れていったことが、人々のモチベーション低下につながっていた可能性も大きいと考えられる。檀家廻りをしなければ参詣講が維持できなかったのと同じ理屈であ ろう。 ・庄七は、佐平治のような庄屋層だけではなく、一般の農民にも親しみやす いアプローチをとった。宗教はもちろん、和 歌や謎かけ、歌など娯楽的・音声的な仕掛け を報徳仕法の普及に多用したのも、在村の知識人だけではなく、文字が読めない(あるい は読みたくない)百姓の心に届くようにと思 ってのことであろう。また、先行研究で述べ られているような稲の正条植や茶の栽培など の農業技術指導については、農業技術史の面 から庄七の貢献については検討の余地が多々 あるが、農業技術も百姓の関心を買うための 手段と心得ていたのかもしれない。幕末の農 村運動の核心である勤倹貯蓄についても、先 述の下石田村の規約を分析しても、五人組前書のようなありふれた文書をベースにしたも ので、尊徳や幽学に比べて特にオリジナリテ ィがある訳ではない。 庄七は理論家というより、実践家、 モチベーターとしての活動に重点を置いた運 動家であった。その素質や価値観は御師としての活動で養われたもの であったと言えよう。 ・鷲山は安居院庄七を「ただ敬神に鍛えら れ、崇高な道義に甦る精神家」であったとする。しかし、本稿での庄七を見ればそれは人柄の一部でしかなく、その場その場で、人びとの求めに臨機応変に対応してきた一面も あったと言える。ただ、それは裏返せば庄七の博識、視野の広さ、行動力、情報収集能力、 エンターテイナーとしての資質(雄弁さ、対 面での人心掌握能力)、そしてリスクを取る 勇気という美点の裏返しであり、時代を大き く変えるような運動家には必要な資質であっ た。 そして、それらの能力は蓑毛御師として庄七の前半生に培われたものであったとするの が妥当である。村人との会話のテーマが参詣の御利益から、報徳仕法のメリットに変わっ ても、庄七はあくまでも御師として生き、御師として死んだと言えるのではないだろう か。それは、本人が望むと望まざるにかかわ らず、民衆に寄りそう運動家としての生き方であったと筆者は考える。
2023.11.29
米国で「リベラルアーツ大学の死」が始まった 英文学も歴史学も資本主義に抗えず3/7(火)・米国でリベラルアーツ大学の衰退が著しい。つい最近も2月にバージニア州のメリーマウント大学が、英文学や歴史学、哲学、社会学などの専攻をなくすことを決めた。全部で10の専攻が削減されたが、そのほとんどがリベラルアーツだ。これらの学問は人気がなく、専攻する学生が少ないからだという。講義科目としては残るが、専攻したりその学位を取得したりすることはもうできなくなる。メリーマウント大学だけではない。高等教育について報じるメディア「ハイアー・エド・ドライブ」の調べによれば、米国では2016年以降、87校ものリベラルアーツカレッジが閉鎖、あるいは近くの大きな大学に合併された。・米ニュースサイト「アクシオス」は、こうした状況を「リベラルアーツ大学の死が始まった」と伝える。「非効率性とディレッタンティズムの最後の砦といえた米国の4年制リベラルアーツの大学だが、幸か不幸か、資本主義には抗しきれずに死に絶えつつある」・アクシオスによれば、リベラルアーツが死に向かう要因は二つある。第一に物価高だ。大学も授業料を引き上げているが、たとえば英文学科というものはそれに合わせて卒業後の生産性を簡単に上げられる分野ではない。つまり、事実上の値上げになっており、ただでさえ負担の大きい学生ローンの返済にさらに苦しむ未来が想像できてしまう。第二に機会コストの上昇だ。米国では多くの仕事で大卒の学歴を求めなくなってきている。つまり、大学へ進学するよりも、その4年間に仕事をして稼げるであろう金額が著しく上昇しているのだ。この二つを考慮して頭の中でそろばんをはじいた結果、米国の学生はすごい勢いでSTEM(科学・技術・工学・数学)分野に流れている。
2023.03.07
「春と修羅」初版本を展示 花巻の賢治記念館岩手日報2010/11/08 大分県から数人の手をわたり昨年、約80年ぶりに故郷に戻った宮沢賢治の詩集「春と修羅」の初版本が7日、宮沢賢治記念会(宮沢啓祐理事長)から花巻市矢沢の宮沢賢治記念館に寄託された。同日から約2週間展示され、多くの賢治ファンの関心を集めそうだ。 この初版本は1927年に大分県で小学校教諭をしていた故相良吉郎さんが賢治に注文し郵送で届けられた。 同日は相良さんから本を受け継いだ娘の城谷登美さん(79)と夫稔さん(80)=大分県国東市、稔さんの旧制高校時代の友人で本を譲り受けた菅原信夫さん(80)と妻マキさん(76)=奥州市江刺区西大通り=が記念館を訪れ、里帰りを共に喜んだ。 菅原さん夫妻が賢治記念会に寄贈し、今回の寄託に至った。宮沢理事長は「賢治が天上からつないでくれた縁」と語る。登美さんは「父が一番望んでいた場所に収まった気がする。いろいろなご縁でつながり、とてもありがたい」とほほ笑む。「宮沢賢治 と 岩手日報」によると、賢治の作品の批評が生前、新聞に載ったのは、読売新聞と岩手日報だけという。批評したのは、盛岡中学在学中に賢治と知り合い、親交があった作家の森荘已池。詩集「春と修羅」について「この詩集はいちばん僕を驚かした。」と絶賛した。森信三氏は「人生の意義いかんということについては、いろいろの考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天よりうけた力を、この肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです、」(「修身教授録」305ページ)といっている。賢治は、生前ほとんど評価されることがなかった。賢治がその作品にこめた願いや真実心は今もこれからも人々の心に火を点じ続けていくことであろう。宮 沢 賢 治 と 岩 手 日 報 賢治は生前、岩手毎日新聞(明治32年発刊、昭和8年廃刊)に童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」などを発表している。岩手日報は批評や消息記事を載せて、中央で正当に評価されることの少なかった賢治を世に紹介することに努めている。 「校本 宮沢賢治全集」(筑摩書房)によると、生前に作品批評を掲載した新聞は、読売新聞と地方紙では岩手日報だけとなっている。 日報に載った二つの批評文の筆者は、盛岡中学在学中に賢治と知り合い、親交があった作家の森荘已池。 当時は本名「森佐一」や別の筆名「北光路幻」で書いている。 森は、賢治も作品を発表した詩誌「貌」に関する大正14年9月29日付の寄稿の中で、前年出版された詩集「春と修羅」を取り上げた。まず「この詩集はいちばん僕を驚かした。 (中略)彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた。 奇犀、冷徹、その類を見ない。 (中略)僕は十三年の最大の収穫とする」との詩人佐藤惣之助の評(同13年12月「日本詩人」12号掲載)を引用した上で、「この本(春と修羅)はいわゆる、具眼の詩人、具眼の大家には実に巨大な刺激を与えたらしい」が「現今の詩壇にはてんで理解されていない」と慨嘆。 「日本現下の詩壇はどうあろうとも郷土の人々だけでも、できるだけ、宮沢さんを理解しようと努め『春と修羅』を読んでほしいものだ」と訴えている。 賢治は13年に童話集「注文の多い料理店」も刊行。 花巻農学校教師を続けながら、草野心平主宰の同人誌「銅鑼」にも多数の詩を発表するなど精力的な文学活動を展開したが、昭和元年3月に農学校を退職。 羅須地人協会の活動をスタートさせた。 同協会の活動について2年2月1日付夕刊は「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」との見出しで、賢治の顔写真入りで紹介した。 「羅須地人協会の創設は確かにわが農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目をひいている」と活動を後押しするスタンスで書かれた好意的な記事だったが、社会主義思想の実践と疑った地元署が事情聴取に乗り出す事態に発展した。 前年結成の労働農民党稗和支部に賢治が経済面などで支援していたこととの関連も指摘されている。 3年には賢治が肺結核で療養生活に入ったこともあって同協会の活動に終止符が打たれる。 小康を得た6年から賢治は東山町松川の東北砕石工場技師嘱託となり、石灰肥料の販路開拓に奔走する。 しかし、同年9月、上京中に発熱。直ちに花巻に戻り病床に就く。 7年6月13日付では「病める修羅 宮沢賢治氏を訪ねて」とする詩人母木光(雫石町出身)の訪問記を掲載した。 賢治の病勢を気遣いながらも「宮沢氏の存在は、われわれのみの、岩手県のみの祝福であろうか。 (中略)そして沈黙と節度の巨(おお)きさもここまでくれば、たしかに畏怖すべき高価な人間芸術の一つではないか」と評価している。 しかし、この記事について賢治は、交友のあった母木への手紙の中で好意を感謝しつつも「わたしはこの郷里では財ばつといわれるもの、社会的被告のつながりにはいっているので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです」と複雑な心境を述懐している。 「病気もよほどよくなられて今度も生きそうだとのお便り」との消息(7年6月13日付)が載った賢治だったが、ついに健康体に戻ることなく8年9月21日午後1時30分、永眠した。 23日付夕刊は「日本詩壇の巨星墜(お)つ」とする死亡記事を載せている。 その後、同29日付、10月6日付学芸欄で「宮沢賢治氏追悼号」を特集。 「疑獄元凶」(短編の梗概)、『寒峡』巻初の数首について」(花巻市出身の関徳弥の歌集の紹介文)、「春谷暁臥…(心象スケッチ)…」(一九二五・五・一一の日付のある詩)の遺稿三編を掲載した。 森は、昭和3年岩手日報に入社し学芸部記者となっており、遺稿掲載の経緯を紹介する一方、「森惣一」名で追憶記(上下)を執筆。 このほか多くの知人による追悼文や、逝去を悼む佐藤惣之助、高村光太郎らの手紙が載った。 一連の追悼記事は、12月8日付で掲載された賢治の追悼会での母木の講演要旨「ランボオ マラルメと宮沢さん」まで続く。 賢治を慕っていた関は「今にして話しておけばよかりしことつぎつぎ思ひ出でて空しき」などの挽歌20首(10月13日付)を寄せ、読者の胸を打った。💛「報徳の師父」シリーズの「師父」は宮沢賢治に由来する。12月18日(日)の第9回報徳講座で、この詩を披露してみよう。森信三「われわれ日本人としては、自分が天よりうけた力を、この肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです、」一〇二〇 野の師父 倒れた稲や萓穂の間 白びかりする水をわたって この雷と雲とのなかに 師父よあなたを訪ねて来れば あなたは椽に正しく座して 空と原とのけはひをきいてゐられます 日日に日の出と日の入に 小山のやうに草を刈り 冬も手織の麻を着て 七十年が過ぎ去れば あなたのせなは松より円く あなたの指はかじかまり あなたの額は雨や日や あらゆる辛苦の図式を刻み あなたの瞳は洞よりうつろ この野とそらのあらゆる相は あなたのなかに複本をもち それらの変化の方向や その作物への影響は たとへば風のことばのやうに あなたののどにつぶやかれます しかもあなたのおももちの 今日は何たる明るさでせう 豊かな稔りを願へるままに 二千の施肥の設計を終へ その稲いまやみな穂を抽いて 花をも開くこの日ごろ 四日つゞいた烈しい雨と 今朝からのこの雷雨のために あちこち倒れもしましたが なほもし明日或は明后 日をさへ見ればみな起きあがり 恐らく所期の結果も得ます さうでなければ村々は 今年もまた暗い冬を再び迎へるのです この雷と雨との音に 物を云ふことの甲斐なさに わたくしは黙して立つばかり 松や楊の林には 幾すじ雲の尾がなびき 幾層のつゝみの水は 灰いろをしてあふれてゐます しかもあなたのおももちの その不安ない明るさは 一昨年の夏ひでりのそらを 見上げたあなたのけはひもなく わたしはいま自信に満ちて ふたゝび村をめぐらうとします わたくしが去らうとして 一瞬あなたの額の上に 不定な雲がうかび出て ふたゝび明るく晴れるのは それが何かを推せんとして 恐らく百の種類を数へ 思ひを尽してつひに知り得ぬものではありますが 師父よもしもやそのことが 口耳の学をわづかに修め 鳥のごとくに軽佻な わたくしに関することでありますならば 師父よあなたの目力をつくし あなたの聴力のかぎりをもって わたくしのまなこを正視し わたくしの呼吸をお聞き下さい 古い白麻の洋服を着て やぶけた絹張の洋傘はもちながら 尚わたくしは 諸仏菩薩の護念によって あなたが朝ごと誦せられる かの法華経の寿量の品を 命をもって守らうとするものであります それでは師父よ 何たる天鼓の轟きでせう 何たる光の浄化でせう わたくしは黙して あなたに別の礼をばします
2022.08.18
前のパソコンが壊れて、データが失われてしまった。現在、12月18日(日)の第9回報徳講座にむけて、「報徳の師父」シリーズ第2集にあたるテキストを作成中だったが、内容を大きく変更し、三遠農学社については、「報徳の師父」シリーズ第3集(本当にできるかはともかくとして(^^))内容を「静岡県報徳社事蹟」に純化した。見た目が すっきりしてよかった。「静岡県報徳社事蹟」のうち、エクセルで各社の構成、人員、資産などを膨大な時間をかけて作成し、そこからワードに張り付けていたが、事前にHさんに送っていたデータが送られてきてそこにエクセルで作成して貼り付けたものがあった。「うれしい」Hさんへのメール そうこれ、遠江国報徳社の表が結構な時間をかけてエクセルで作ったものだったので、救出できれば、だいぶ時間の甘粛になります。「後世への最大遺物」内村鑑三カーライルは、「革命史」を著述して清書した原稿を、友人の求めに応じて貸し出した。ところが友人の下女が机の上においていた本を火にくべて焼いてしまった。それを聞いたカーライルは腹をたてた。そして気休めにつまらない小説など読んでいた。しかしながらその間に おのれ で おのれに言った。「カーライルよ、なんじは愚人である。なんじの書いた『革命史』はソンナニ貴いものではない。第一に貴いのは、なんじがこの艱難に忍んでそうしてふたたび筆をとってそれを書き直すことである。」そう自分を鼓舞して、ふたたび筆をとって書き直した。カーライルのエライことは『革命史』という本のためではなくして、火にて焼かれたものを再び書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれらがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ。勇気を起こしてふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起こしてくれたことについてカーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。」
2022.08.18
全4件 (4件中 1-4件目)
1