道の駅・宿 0
全29件 (29件中 1-29件目)
1
裁断橋…と聞くと、名古屋在住の者からすると熱田区伝馬町の裁断橋を思い浮かべる。ここ丹羽郡大口町堀尾跡にも裁断橋は現存します。そもそも尾張名所図会に描かれた裁断橋は前途した伝馬町のこと、そこから25㌔程北の丹羽郡大口町になぜ裁断橋があるのだろう。そこには戦国時代の若き武将堀尾金助とその母に由来する母と子の悲しい実話からはじまる。その舞台が熱田区伝馬町であり、遠く離れた大口町に裁断橋が復元された理由には、この地に堀尾一族の屋敷があったことによる。名古屋から下道で小一時間程の丹羽郡大口町堀尾跡公園駐車場。所要で大口町を訪れた帰り、ここの駐車場を起点にして近隣を徘徊することにした。桜の名所五条川右岸にある公園で普段は訪れる人も少なく、そこそこ広い駐車場は閑散としているが、桜の時期ともなるとそうはいかない。正面に見えている寄棟の建物が尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元された姥堂。姥堂へ向かう前に公園に入ってすぐ左の歩道に架けられた小さな木橋に向かいます。平成4年に熱田の裁断橋が撤去され、その際保存会により保管されていた親柱、高欄を使用して修築された橋で、明治37年(1904)に改築された裁断橋の親柱4本と、その後使用されていた高欄の一部を再利用している。右手の親柱には明治の元号が刻まれています。こちらには裁断橋の文字も残る。木橋の先に雅宴舞會と刻まれた石標が立つ、ここは屋外ステージとして使用する目的で作られたもののようです。後方は右が姥堂で、その先は五条川に架けられた裁断橋に続く、左に見えている森は、この地を納めた掘尾氏が守護神として崇めるため創建した八剱社の杜で、境内の東外れに掘尾氏邸があったとされる。掘尾氏邸跡には二体の銅像が立てられています。裁断橋架け替えの主人公となる二人、左の若武者が堀尾金助で左がその母。架け替えに至る悲しい物語は後程。姥堂全景、平成6年から7年にかけて、公園と共に尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元されたもの。桁行3間、梁間2間の寄棟瓦葺の木造建築で、開け放たれた堂の先に復元された裁断橋が架けられている。軒下に架けられた額、熱田の姥堂の額の書体とは随分印象が違います。堂内から望む裁断橋と八剱社の杜。橋の上には先日降った雪で子供らが作ったのか大きな雪玉が残っていた。裁断橋の袂から見る姥堂。姥堂の正面に架かる橋が復元された裁断橋。裁断橋に纏わる物語は以下のようなもの。天正18年(1590)2月18日、堀尾金助は父の方奉が病気のため、叔父の泰次に伴われてこの地、御供所を出発し、従兄にあたる堀尾吉晴に従い小田原征伐に加わりました、金助はこの時十八才で初陣しました。金助の母は日頃信仰している熱田様に祈願をかねて、熱田神宮付近にあった裁断橋まで金助を見送りましたが、その願いむなしくその年の6月、金助は凱旋することなく病死してしまいました。この由を看病し臨終まで立ち会った西照寺の僧淳誓が、金助の遺品と共に戦陣中の金助の動静や病気の模様を母に伝えましたが、この戦で泰次も病死し、父の方奉も病死してしまい、金助の母は天涯孤独の身となったのです。金助の死に嘆き悲しんだ母は、金助の死を無駄にすまいとの志から、武運つたなく功名もなく若い身で死んだ不学と愛情の情を、せめて世間の多くの人々の心にとどめたいと念じ、金助との最後の別れの場となった裁断橋が古くなっていたので、修築すれば人々の助けになり金助の供養にもなると、その改修のために私財をなげうつことを決心しました。天正19年(1591)のことでした。母は元和8年(1622)にも二回目の改修工事に取り組みましたが、その完成を見ることなく元和7年(1621)永眠しました。その後、幾度も架け替えが行われた末、川の埋め立てにともなって橋は取り壊されました。昭和28年(1953)には三分の一の大きさで復元されましたが、平成4年(1992)にはそれも撤去されました。そして平成8年(1996)、金助の母が二回目に建立した裁断橋を百年以上の時を経て、尾張名所図会をもとにして、母子の出生地・大口町に忠実に再現されたもの。尾張名所図会に記されている裁断橋と右手が姥堂。挿絵と実際の配置は多少違うように見えますが、寄棟瓦葺の姥堂や橋の姿は良く再現されている。裁断橋が記録が現れるのは永正6年(1509)「熱田講式」とされる。架橋の沿革は以下。天正18年(1590)金助出陣、同年戦没天正19年(1591)金助の母、裁断橋を架け替え元和7年(1621)金助の三十三回忌にあたり、母二度目の架け替えに着手するが、同年御供所にて没元和8年(1622)金助の母の養子安藤類石衛門が遺志を継いで完成。擬宝珠に母の銘を刻む寛文9年(1669)裁断橋架け替え。その後、不明の期間をはさんで数度にわたり架け替えが行われる大正15年(1926)裁断橋が架かっていた精進川埋め立て。擬宝珠を残して橋は取り壊される昭和28年(1953)裁断橋を三分の一の大きさで復元昭和48年(1973)擬宝珠、名古屋市文化財に指定平成4年(1992)裁断橋を撤去平成8年(1996)大口町堀尾跡公園に、二度目に架け替えた裁断橋が復元される 尾張名所図会は江戸後期に編纂されたもので、上の沿革から見ると挿絵は二回目の架け替え後の姿と思われます。名古屋市の裁断橋解説は以下内容「大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋の袂には死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。橋の名の由来には、閻魔大王が死者を裁断する場という説もあります。1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。」擬宝珠に刻まれた我が子への母の想いは以下。「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也」この銘は、成尋阿闍梨母、じゃがたら文と並んで、日本女性三名文のひとつとして名高い。息子の供養のため、二度にわたり裁断橋の架け替えを行った金助の母。いろいろ調べて見たが「金助の母」と表記されるのみで、その名は分からなかった熱田の精進川にかかる裁断橋は、橋はおろか川自体が埋め立てられ、嘗てを感じさせるものはあまり残っていません。金助の屋敷がある大口町がそれを惜しみ、屋敷の北側を公園として整備し、桜の名所として知られる五条川に裁断橋を復元したのがこの木造橋。夕方ともなれば燈籠に灯りもともされ、裁断橋と姥堂はしっとりとした表情に変わります。もう少しすれば堤の桜がこの光景に彩りを添えてくれるたろう。あの世とこの世の境とも云われる裁断橋、ここには閻魔様も奪衣婆もいないが、嘗ての裁断橋や堀尾一族の若き武将とその母の物語を体感するには良い場所である。また、八剣社境内の堀尾吉晴邸跡から東へ徒歩2分程先には堀尾吉晴と堀尾金助、その母の供養塔のある桂林寺があります。桜の時期に堀尾跡公園を訪れた事はないのでなんとも言えないが、公園前の駐車場は混みあうのかもしれない。渋滞や人混みが苦手な自分には、しっとりとしたこの時期の裁断橋が丁度いい。裁断橋建造 / 平成8年(1996)所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-61訪問日 / 2024/01/26車アクセス / 名古屋から一般道で約50分関連記事 / 『姥堂』名古屋市熱田区
2024.02.16
コメント(0)
愛岐トンネル群。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されています。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として、名古屋から多治見間が開通し、日本の近代化から高度成長期を支えてきました。やがてSLによる単線の輸送は、日本の高度成長に追いつかず、新たに複線の電化されたJR中央線として開業を始めると昭和41年(1966)に廃線となり、その後はその存在自体忘れ去られていきました。平成17年(2005)に古老の記憶からトンネルの探索が行われ、土岐川沿いの藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。愛岐トンネルの建築に際しては難関があり、トンネル崩落や土砂の崩落、幾多の犠牲者を伴いながら近代化を歩み始めた当時の智恵と技術が注ぎこまれ完成を見たもの。玉野第四隧道。両サイドの壁柱や壁面、綺麗な曲線を描く迫石など、赤レンガを使用したもので、近代工法のトンネルにはない造形美と温もりがある。年二回、期間限定で一般公開されています。今回は愛岐トンネル群散策で見かけた「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」を取り上げます。玉野第四隧道解説。土岐川右岸の散策路入口から二つ目のトンネルで通称4号トンネル。山の神とんがり岩は4号トンネルを出た左の山肌にあります。山の神とんがり岩全景。土岐川右岸の岩肌に注連縄が巻かれた巨岩が聳え立ち、その下に素木鳥居が立てられています。左手からとんがり岩の直下に続く小路が作られており、間近で拝めるようです。遊歩道脇にも鳥居と解説板が設置されています。解説は以下。「“山の神”(とんがり岩)山の神は女性(女神)だと云われます。そのため昔は女性がトンネルに入ると女神が嫉妬して山が崩れるといわれ、女人禁制でした。またトンネル工事などで、作業員の妻が出産した時は、女神の嫉妬を恐れ一週間坑内に入らないという決まりもありました。正面のトンガリ岩を見あげると女神さまのお姿に観えませんか。周囲のトンネル群を見渡せる高台にあり、まるでトンネル通行の安全を祈って いるようです。ちなみに俗称・山の神とは、結婚後「ヤカマシクなった妻」のこと。特に怖い奥さんのことを「山の神が怒る!」と言います。「山の神」が短縮されて“カミさん”になったという説も・・・・。また、トンネルの山の神は、トンネル工事が無事貫通したことから“難関突破” ”初心貫徹”の意味につながり「合格祈願」にもなります。きっと拝んで損はありません!特例*箱根駅伝 山登り5区の “山の神” は男性である」女神の全景。山の神は多くの場合、男神なら大山祇命、女神の場合は木花咲耶姫をさす事が多く、この女神はやきもち焼きで、解説にある坑内女人禁制や産後の一週間…のくだりはこうした業界では知られた話の様です。今では草食男子に変わり女性技術者が多様な業種に活躍し、そんな縁起を担ぐことはないようです。「怖い奥さんをかみさんと言う」については全くその通り、女神は一旦怒らせると大魔神になり、一旦噴火するとしばらくは鎮まらない、息をひそめ少し離れて時の経過を待つしかない。護り稚児地蔵は4号トンネルを過ぎ、次の隠山第一隧道(通称5号トンネル)の入口右に安置されています。入口右の隠山第一隧道解説。玉野第四隧道と隠山第一隧道では右の壁柱から斜めにウイングと呼ばれる壁が作られているのが特徴で、山側の圧力を分散する地形に合わせた技法なのだろう。護り稚児地蔵はこのウイングに寄り添うように安置されています。護り稚児地蔵全景。赤レンガで小さな祠が作られ、赤い前掛けが付けられた小さな地蔵が安置されています。愛岐トンネル群の調査・整備中に付近の土中から少女形の地蔵が発見され、護り稚児地蔵として安置されたもので、祠に使われている赤レンガは明治期のものを用いて建てられています。「護り稚児地蔵トンネル群調査・整備活動中にこの近くの土中からモルタル製の少女のレリーフが彫られた「稚児地蔵」を発見しました。右側は「昭●二七●十二」の文字、左側の文字は「鈴木 仲二郎?」と読めます。どなた何方かのご供養か? どんな経緯で作られたものか定かではありませんが、「トンネルと廃線敷」一帯の安全と「豊かな渓谷の自然」が永久に続きますようにと願いを込めて、廃線跡から集めた明治の赤レンガで祠を作り安置させていただきました。 合掌平成22年5月 愛岐トンネル群保存再生委員会」銘が刻まれているとありますが、前掛けで隠れている事もあり、自分にはそれらしき文字は見当たらず、像の表情も伺い知れない状態でした。こうした思いの込められた地蔵や古い建造物が打ち捨てられ撤去されていく中で、トンネル保存整備中の偶然とはいえ、再び安置された事はトンネル保存会の思いも現れているようでもある。トンネル群を訪れる機会は年二回と限定されますが、トンネルを形作るレンガの造形美の他にも、こうした小さな見所もあります。愛岐トンネル散策路 「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」所在地 / 春日井市玉野町公共交通機関アクセスのみ / JR中央線定光寺駅から入口まで徒歩3分。訪問日 / 2023/04/28関連記事 / 新緑輝く旧国鉄中央線廃線愛岐トンネル群へ
2023.05.12
コメント(0)
26日~30日まで、旧国鉄中央線廃線の愛岐トンネル群の片道1.7㌔を散策に出かける。新緑の時期を迎え、涼しいトンネル群とトンネル出口に広がる瑞々しい新緑がとても眩しく、清々しい気分を味わうことが出来ました。JR中央線定光寺駅。その昔は土岐川沿いの観光旅館や定光寺の紅葉を愛でに訪れる乗降客で賑わったこの駅も、旅館の廃業や移動手段の様変わりもあり、今では土岐川沿いの崖っぷちに建つ秘境駅の趣に変ってしまったようです。そんな秘境駅も春と秋の年二回は乗降客で賑わいを見せます。普段は閉じられているトンネルの門が開放され、愛岐トンネル群(3~6号トンネル)を徒歩で通り抜けることが出来ます。但し、料金100円が必要になりますが、涼を求めつつ、途中の野外演奏や展示物を見ながら、往復3.4㌔散策でき、トンネル群整備に充当されると思えば安いレジャーです。新緑を迎えた土岐川、今日は陽気も良く、盛んにウグイスの鳴き声が聞こえてきます。駅を降りて土岐川沿いを上流に向かう事数分、トンネル群の入口が見えてきます。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されており、この入口のレンガ発見からトンネル群の記憶が呼び起こされた。1900年の開通当時のまま残されたトンネル群は全14のトンネルがあり、その内の3~6号トンネル1.7キロが開放されています。写真は最初の3号トンネル(玉野第三隧道)、こちらでボランティアの方に料金を手渡しいざ散策開始。3つのトンネルには、其々間接照明や蒸気機関車の効果音が流されるなど演出が施され、小さい子供達が恐怖感を感じる事無く散策できるように配慮されていますが、足元は石がゴロ〃なので子供にはライトを与えた方がいいかも。赤レンガ造りのトンネル内はこうして明りが灯され、規則正しく積まれたレンガが浮き立って見えます。薄暗いトンネルから抜ける時が樹々の緑が外光に照らされ一番綺麗に見える瞬間。廃線跡には多くのもみじが自生し、秋の紅葉は真赤に染まります。写真は4号トンネル出口に聳える県下最大の大もみじ。5号トンネル出口のSL(C57)の動輪。後方に自転車がありペダルをこぐとこの動輪が回る仕掛けがあり、動輪一回転させると5.5㍍進んだことになります。ここはお子様に受けるかもしれないな。愛岐トンネル全体図。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として名古屋から多治見間が開通し、昭和41年(1966)に廃線となるまで日本の近代化から高度成長期を支えてきましたが。その後はその存在自体忘れ去られ、平成17年(2005)に古老の記憶をもとにトンネルの探索が行われ藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。トンネル以外にも遺構が多数残り、明治の香り漂う構造物を見られます。また周囲の自然も廃線後手つかずのままにされていたので、豊かな自然が残されています。6号トンネル出口、目印は正面に生える1本の椿。ここから先は整備が進まず、現状はここから来た道を戻る事になります。5号トンネルまで戻り、ここから左手の川沿いの道を進み暗渠を見学に向かいます。道には案内板や解説もあり整備が行き届いています。ただ、崖沿いに手摺や柵はないので子供や高齢者の方は要注意です。川沿いから暗渠内の眺め。入口から注ぐ外光が暗渠内を照らし、幻想的な雰囲気を見せています。暗渠内は直ぐに行き止まり、そこから上を見上げると鮮やかな新緑が。駅に戻る土岐川(庄内川)沿いの道筋は、廃線散策路を上に見上げながらの帰り道になりますが、川も近くなることから爽快感も得られる。廃線散策路には新緑の山々を背景に大きな鯉が泳いでいました。高額の料金を支払う管理されたものと違い、安全は自己管理が問われます。散策路には飲料等売店が開かれていますが、食事は弁当持参をお勧めします。公開時間 午前9時半~午後3 時(入場は2時半まで)雨天は中止となります。アクセス公共交通機関のみ / JR中央線定光寺駅から徒歩3分。2023/04/28詳細は愛岐トンネル群保存再生委員会のHPを
2023.04.29
コメント(0)
前回掲載した桑名市住吉町の住吉神社。風の吹きすさぶ揖斐川堤を2~3分程下流に進む、右側に大きな鳥居と櫓が見えてくればそこが七里の渡し跡。昔は東海道41番目の宮宿から七里の渡しを利用し、海路で伊勢に向かうと最初に上陸するのが桑名の七里の渡し跡。海が荒れ、渡れない時には陸路佐屋街道を歩いて42番目の桑名宿へ向かう手もあるが、自分なら安宿でちびちび飲んだくれ渡れる時を待つんだろう。広重が描いた絵にも伊勢国一之鳥居とも呼ばれた大きな神明鳥居が描かれ、正に伊勢路の玄関口としてのランドマーク的存在。天明年間(1781〜1789)に建てられたこの鳥居、お伊勢さんの遷宮に合わせ、宇治橋の鳥居を移築し建替られていたという。帆を大きく膨らませた舟は続々とこの地を目指し、桑名宿は人や物が集まる物流の拠点として賑わいを見せた。七里の渡し跡全景。後方に見えている櫓は蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入る船の監視する建物。現在の櫓は平成15年(2003)に水門の管理棟として往時の外観を再現した水門統合管理所として一般に公開されています。渡し跡に建つ鳥居と常夜灯。渡しの内側。広い空間は伊勢の入国管理や渡航料の徴収など行われたのだろう。渡し跡の解説板。ここには伊勢参宮名所図会の挿絵と渡しの説明が書かれている。渡し周辺には舟番所や高札場、脇本陣や問屋、宿など連なり賑わっていた様子が描かれています。渡しで繋がれた東海道はここから再び陸路となり南に伸びていきます。渡し跡に建つ一基の常夜灯。竿には安政3年(1856)と刻まれています。本来の常夜灯は天保4年(1833)寄進のものが建っていたそうです、しかし伊勢湾台風で倒壊し、代替として多度大社から上部のみ移されたものがこの常夜灯。二基一対とは限らないが、ひょっとすれば多度大社に一基だけの常夜灯があるやもしれない。渡し跡の西に東海道の道標。ここから東海道が直角に曲がり、矢印の先は蟠龍櫓、西に進むと宿場へ続く。蟠龍櫓(水門統合管理所)。一帯は整備された桑名城三の丸公園、多くの桜が植えられ花の時期は賑わうだろう。園内には嘗て網の目のように入り混じった木曽三川と治水の歴史を物語る解説が掲げられている。この整備された歩道や蟠龍櫓も揖斐川改修に伴う堤防整備の際に合わせて作られたもの。一階の管理所で一帯に設けられた三つの水門(住吉、川口、三之丸)の開閉を一括操作し高潮などに供えている。二階は観光用として歴史資料や蟠龍櫓の謂れでもある蟠龍瓦の展示物を無料で開放しています。桑名城には元禄時代の大火の後再建された段階で51の櫓があったと云う。その中でもこの蟠龍櫓は、東海道を行き交う者が必ず目にするもので桑名のシンボルでもあったそうです。蟠龍とは天に飛び立つ直前のうずくまった姿勢の龍を指し、航海の守護として据えられたとされます。二階に上がり東の窓から覗くと、揖斐川を見据えた龍の瓦が見られます。嘗ては旅人で賑わい、宿や食事処が軒を連ねた伊勢の入口も、今は姿を変え道筋だけがその名残を感じさせます。今日のように風が吹きすさぶ日に舟は出たのだろうか?宿で蛤を肴に一杯やるのが一番かも。七里の渡し跡と蟠龍櫓(水門統合管理所)所在地 / 桑名市船馬町訪問日 / 2022/12/14住吉神社から徒歩 / 揖斐川堤防を下流へ徒歩2・3分程関連記事 / ・北桑名総社 北桑名神社 (桑名市堤原7)・住吉神社(桑名市住吉町) ・幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日
2023.02.02
コメント(0)
2022/06/11、愛西市立田町福原にある、国営木曽三川公園「船頭平河川公園」の船頭平閘門(こうもん)と河川公園の蓮を見に出かけてきました。工事渋滞が出来る高速を避け、下道を利用し立田大橋を渡り「立田大橋西」交差点から左折、そこから堤防上に伸びる県道168号線を下流に向け5分程走る。 右側に細い道が現れたらそれを進むと駐車場に辿り着きます。東に木曽川、西に長良川と揖斐川が流れ、その先には養老山系が聳える。 今でこそ綺麗に三つの川として流れてはいるが、往古は一つに合流し多くの分流が出来ていた。川は豊かな土壌の平野を作り稲作に都合のいい土地をもたらしてくれた反面、一帯は常に水との鬩ぎあいの場だった。御囲堤や三川分流、輪中や水屋など治水や独特の施設が生まれる事になる。 船頭平河川公園の最大の見所に船頭平閘門がある。三川分離で治水が出来て一安心、反面それまで舟で自由に行き来できた隣の川は「ちょっと待てぇ、河口まで行くんかい?」となる。 それを解消する手段として1899年(明治32)に着工、1902年(明治35)に竣工した施設が閘門。舟のバイパスだね。閘門から長良川を眺める、閘門を隔て隣り合う木曽川は長良川とは水位が違っています。 閘門は二つあり、門で仕切られた空間「閘室」に舟を入れ、扉を閉じ其々の川の水位に合つたところで出口の閘門を開け航行するものです。閘門の下部に小さな門があり、閘門全体を開放せず閘室に緩やかに水を満たす事ができるので舟に乗っているとエレベーターのような感覚かも知れない。閘門前に着いた舟は閘門前でドアのインターフォン押して開けてもらいます。 写真中央の紐がそれで、神社よろしく鐘を鳴らして担当者に知らせ、スピーカーでコミュニケーションを取ります。「開けてくれぇ」今も現役の閘門、施設の詰所には担当者が詰め、扉の開閉をコントロールする。 「毎度、開けるわな、開いたら中で待ってや水入れるんで」・・・なんてやり取りがあるのかもしれない。閘室から長良川側の閘門の眺め。閘室全景。 ここへ舟が侵入し水位調整が済み閘門が開くまで待機する。目的の川の水位と等しくなると巨大なギヤを介して閘門が開かれ航路が現れます。 通行料がいるのか定かではないが一般には無料開放され料金箱やETCなど見られなかった。生活や物流の舟の利便性を高める目的から始まった閘門、今ではレジャーボートや水上バイクの利用が多いようです。 長良川河口堤にもこうした閘門が設けられていますが、規模は大きく閘室に水が満たされる際は結構荒々しく、カヌーで水位調整を待つときは結構怖かった記憶がある。その頃のカヌーは今も物置で眠っているけれど、今も使えるようであれば一度通って見たい気にさせる・・・が若くはないか。 閘門扉。木曽川と長良川の間をつなぐ船頭平閘門、明治以降1994年(平成6)に手動から電動化、改修工事が行われ建設以来現役で稼働している閘門で、2000年(平成12)に国の重要文化財に指定されています。指定理由は・ 数少ない明治期に建造され現在も使用されている閘門である事。・ 複閘式閘門として最も初期のもの。写真は木曽川側の閘門脇に改修工事の際交換された初期の扉が保存展示されている。園内には船頭平閘門の建設に貢献したオランダ人土木技師ヨハネス・デレーケの銅像が立つ。長良川左岸にある国営木曽三川公園船頭平河川公園。 駐車場の目の前にあり、広大な芝生の園内には水生植物が植えられていて、これからの時期は蓮の開花が近づいてくる。上は2022/6/11時点の蓮園の様子。 ぐるっとひと回りしてみたが蕾を付け出したくらいでまだ〃気が早いようです。広い園内で唯一見かけた蓮の花、小雨が降る生憎の天気の中、淡いピンクの一輪の花がとても印象に残る。 森川花蓮田とは一味違ってしっとりと落ち着いた雰囲気の中鑑賞できる。因みに帰宅の際に森川花蓮田や周辺の蓮田を通りがかったが一輪も咲いていなかった。 どれくらい気が早いのかなぁ、一週間待てばもう少し咲いてくれるかナ。堤防道路はガードレールもなく、車は結構な速度でかっ飛んで行くが、ネズミ捕りにかからない程度の速度違反で留める事をお勧めします。 どうせ橋の信号や橋を渡るのに必ず渋滞する場所です。船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園休園日 / 毎月第2月曜日(休日の場合は直後の平日)、8月は第4月曜日 12月31日、1月1日開園時間・4月1日~6月30日 9:30~17:00・7月1日~8月31日 9:30~18:00・9月1日~11月30日 9:30~17:00・12月1日~2月末日 9:30~16:30・3月1日~3月31日 9:30~17:00☎ / 0584-54-5531所在地 / 愛知県愛西市立田町福原272訪問日 / 2022/6/11・駐車場無料、徒歩圏内に神明社、八幡神社等車アクセス / 名古屋から東名阪自動車道利用 / 約40分、名古屋から一般道 / 約60分
2022.06.14
コメント(0)
2021/11/18愛知県豊田市の松平郷を訪れました。さきに掲載した「八幡社・東照宮」から松平家菩提寺の高月院山門までのふるさとの小径を取り上げます。松平郷をぐるっと一周する3㌔ほどの散策路を「ふるさとの小径」として整備し、松平家の所縁ある史蹟や自然を満喫できる、訛った体を呼び戻すには絶好の散策路。松平郷を代表する松平東照宮から菩提寺の高月院までの約250㍍程の道周辺は「松平郷園地」として特に整備された道。紅葉のピークは過ぎたとはいえ、のどかな里山の雰囲気を留め、徳川ゆかりの地など見がてらゆっくり歩きたい道が続きます。右上の神明社入口が既に掲載した『親氏公行場跡』の神明社入口。八幡社・東照宮(東照宮)から緩やかな坂を高月院に向け歩き出してすぐに写真のような石段と歩道が奥へと続いています。稲わらを燃やす煙が霞の様に漂う、収穫を終えた後のならではの光景。次の稲作に向けての伝統的な光景でしたが、最近は昔の様に藁焼きも思うようには出来ない、世の流れというものだろうか。歩道脇の石柱は松平八代を象徴したもので七対の石柱が立っています。その突き当りには松平家の始まり「松平太郎左衛門親氏」の銅像が立っています。親氏の素性については僧侶だとされたり、ただの旅人としてこの地に辿り着いた、など諸説あるようです。一つの説として、関東で鎌倉公方との戦に敗れ、足利氏の追ってから逃れるために父・有親と相模国の時宗総本山清浄光寺に出家し、徳阿弥(とくあみ)と称する僧侶だと云われ、徳阿弥は部下を伴い諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、この地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となり、和歌に通じた才能を認められ、末娘の水姫の婿養子となり松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったようです。この歩道は徳阿弥と水姫をつないだ、あやめにちなんでいるのだろう「あやめ恋路」と呼ばれているようです。この辺りに天下池と呼ばれる小さな池があり、そにはあやめや蓮などが植えられ、そこに注ぐ流れ沿いは趣もあり散策にはいい。室町塀「ふるさとの小径」沿いに高月院まで続く土塀。塀自体は室町時代の趣を再現したもので、名から室町時代の名残りと思われるかもしれないがそうではないようです。この時期は延々と続く塀と紅葉が綺麗な場所、塀の一部は苔むし、そこに赤い落ち葉やシダが自生する光景は日本の秋を感じさせる風情があります。冠木門と天下茶屋室町塀の中ほどにある茶屋で門も含めて地域活性化のために作られたもののようです。営業時間は10時~16時で水曜定休、松平郷散策で唯一食事が摂れる場所。室町塀。まるで古都にでも来たようなしっとりとした光景も見られます。氷池跡。「あやめ恋路沿い」にあり、ここで天然氷を切り出していたという。この解説板がなければただの棚田としか見えない。「氷造りは明治20年頃に始まり、昭和16年太平洋戦争開戦に伴う中止まで行われた。池に水を張り、一月から三月頃まで三回ほど氷を切り出していた。切り出した氷は山影の氷室に夏まで保存し、岡崎方面に出荷された。こうした氷池は真垣内と東宮口にも存在していた」ひと昔前の山間部の田んぼで冬場スケートする子供達の姿を見たことがあるが氷とは驚きだ。そんな氷も温暖化の影響で成立しなくなったんだろうね、身近にも氷が張る光景を見なくなった。気候が変わってしまったのを実感する。「あやめ恋路」を氷池跡からそのまま室町塀沿いに上に向かいます。壁と紅葉が続く石段の小路、壁の向こうを歩くより自然に包まれ落ち着いた雰囲気が味わえる。壁の先に高月院の山門が姿を見せ始めました。少し上がると視線の先に高月院の伽藍が視界に入ってきます。紅葉に包まれた「あやめ恋路」も間もなく途切れます、山門はもう近い。因みに山門前に駐車場もあり、わざわざ東照宮から歩く必要はありません。松平東照宮から駐車場までは普通に歩いてしまえば5分くらいでしょうか。高月院まで訪れるなら「あやめ恋路」を歩くのをお勧めします。せせらぎの音を聞きながら、こうした紅葉や山野草など探しながら歩いていると、とんでもない田舎に来た感じですが、ハッチョウトンボの飛び交うこの郷へは、豊田スタジアムから車で30分もあれば手軽に味わえる。四季折々に表情を変える松平郷、お気に入りの場所になりそうです。…というか、「ふるさとの小径」、途中で道を見失い経由地の松平城跡には辿り着けず、「親氏」の銅像横に出てしまい一周できていない。雪が降りしきる時を狙って再度歩いてみます。松平郷「あやめ恋路から高月院へ」松平東照宮から光月院山門まで / 所要時間徒歩5分程東海環状豊田松平ICよりR301にて車で約15分。関連記事 / 八幡神社・松平東照宮 / 『親氏公行場跡』 松平郷 / 松平郷の紅葉
2021.12.13
コメント(0)
江南市小折町八反畑「生駒屋敷跡」生駒氏が大和より移住し、この地を拠点に大きな勢力を誇り、後に尾張藩の重臣となった生駒家の屋敷跡で小折城とも呼ばれましたが、今はその遺構は残っていません。現在は「生駒氏の邸址」として石碑が建立されているだけです。以前生駒家の菩提寺「嫩桂山久昌寺」と「神明社」江南市田代町郷中 を掲載しましたが、「生駒氏の邸址」はそこから徒歩で5分もかからず、久昌寺を訪れた際に併せて立ち寄るといいかもしれません。現地へは久昌寺から東に進み、県道172号線で左に進み左手の布袋東保育園を目指してください。保育園付近のフェンスに写真の「生駒屋敷跡ここ」の案内板があるのでこちらへ。写真中央の一際高い樹の聳えるところが久昌寺、裏手と云ってもいいかもしれない。因みに、この道を進むと生駒吉乃が収めた棟札が残る「龍神社」に至ります。「生駒氏の邸址」の石碑は保育園の一画の南西角に建てら、現況は石碑と解説板のみ。岩を組んだ基礎の上に建てられた石碑。裏側には「生駒氏の祖は藤原忠仁で、大和の生駒郷に山荘を建て子孫が住み姓を生駒と称した。家広にいたって丹羽郡小折村に移り住み家名をあげた。豊世豊政を経て、三世家宗の女久庵桂昌大禅定尼は織田信長の室となり信忠信雄岡崎信康の室を生んだ。四世家長五世利豊は戦国の武将として大いに功績を立て、のちに利豊は尾張藩主に厚遇された。六世利勝以後は、尾張藩に仕え四千石を領しこの地に邸を構え世々重臣であった。なお当所には、明治十三年から四十年まで、丹羽郡中心の高等小学校が設置されていた。いまこの地に保育園を建設するにあたり碑を建てて、その歴史を刻み由来を明らかにする。昭和五十年九月吉日 江南市」とある。生駒屋敷(小折城)の解説板生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいましたが、応仁の頃に戦乱が続いたので、尾張の小折に移り住みました。尾張へ移ったのは応仁・文明の頃、前野氏の祖先・宗安が承久の乱に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼ってきたといわれています。(前野氏由来記)生駒氏は灰(染め物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力をもつようになりました。生駒氏三代家宗の娘・吉乃の方(幼名お類・久庵桂昌)は織田信長の室となり、信忠・信雄・五徳の二男一女を生み、織田家に対して重要な地位を占め、尾北の豪族として小折に城を構えました。・・・・・以下省略。小折城が築城されたのは定かではないけれど、生駒氏により築城されている、邸跡には生駒屋敷絵図がある。生駒屋敷絵図これを見る限り邸跡は二の丸に位置し、北は桜雲ふれあい公園付近、南は久昌寺東の本丸、西は龍神社付近に及船溜まりを有した大規模な城だったようだ。小牧・長久手の合戦以後、秀吉の頃に外曲輪の一部を崩し城としての姿を失い、以降は生駒屋敷として秀吉から引き続き居住する事が許された。時は過ぎ、そんな生駒屋敷(小折城)も、現在は田畑となり、住宅が建ち平城の名残はこの碑がなければ感じ取れない。吉乃あっての信忠、信雄、五徳だっただけに、吉乃と信長の出会いがなければそれも変わっていたのかもしれない。生駒屋敷跡・小折城跡所在地 / 江南市小折町八反畑147関連記事 / 嫩桂山久昌寺、「神明社」江南市田代町郷中 久昌寺から徒歩ルート / 県道172号線を北上、徒歩5分
2021.09.30
コメント(0)
名古屋市緑区大高町中ノ島あれ、ここのあたりは東海市だと思い込んでいたが名古屋市なんですね。前回記載した名和町寝覚「神明社」から東に歩いても2~3分程、寝覚めではないのか。神明社の鳥居から常滑街道を東に進み「大高町砂畑」交差点を右に進みます。正面の小高い山は火上山、今回の目的地「寝覚の里」はこの通り沿いにあります。通りからだと木々の生い茂る未造成の区画にしか見えないかもしれない。左手の解説板が目印か。寝覚の里入口。右側に「史蹟 寝覚の里」寝覚の里「ここは、日本武命と宮簀媛命が新婚のひと時を過ごした館があったとされる所。当時海辺であったこの地、毎朝寄せてくる潮騒に寝覚めを得ていた。そのことから里人はこの地を「寝覚の里」と呼んできた。初めはここよりやや東の田の中に塚が設けられていたが、伊勢湾台風で散逸。現在の碑は昭和35年この場所に再建されたもの。」碑文は識別不能な文字もあるので勝手に要約すると「大高の里の寝覚の地名は、1800年の昔、倭武天皇が火上の御座所にいたとき、毎日朝になると波の音に目覚めたところから付いた。この地名を末永く伝えるために碑を残す 明治43年10月 熱田神宮宮司」という感じだろうか。石碑が建つ一画は一段高く盛られ、区画を囲むように樹木が植えられている。碑はその奥に建つ。石碑全体像。碑文拡大。この石の紋、なかなかのもの。景行天皇より東征を命じられた日本武尊、伊勢神宮で倭姫命より草薙神剣を授かり、当時尾張国を治めていた乎止与命の館のあった氷上山に立ち寄りそこで宮簀媛命を見初めたという。日本武尊は東征を果たし、再びこの地に凱旋し、宮簀媛命と妃として迎え、氷上館にとどまり打ち寄せる波の音を聞きながらひとときの平和な日々を過ごしていた。その場所がこの地「寝覚の里」とされ地名の由来となっている。当時は波打ち際か迫っていたこの地も、新田開発や干拓により海岸線は遠く離れ、川はコンクリート堰堤により河口も沖へと伸びていき、今では潮騒は聞こえない。ロマンス漂うこの地も碑が建てられた頃とは様変わりして民家が立ち並び、道路は整備され車の往来の多い土地柄となりロマンスを感じるどころではないかもしれない。また浦島太郎とは無縁の様だ。2021/07/19寝覚の里所在地 / 名古屋市緑区大高町中ノ島19名和町寝覚 「神明社」から徒歩ルート / 東に進み大高砂畑交差点を右に数分関連記事 / 名和町寝覚 「神明社」 、 氷上姉子神社
2021.07.19
コメント(0)
熱田神宮の広い境内、『大幸田神社』の後方から東西に塀が続いています。『信長塀』と呼ばれこの塀は、その名の通り信長が寄進したもの。当時は全長400㍍の長さがあったそうですが、現存するのは120㍍ほど。1560年(永禄3)、桶狭間出陣の際、手勢の少ない圧倒的に不利な戦へ出陣するにあたり、信長は熱田神宮で戦勝を祈願したといいます。ご存知の様に天候を味方とした信長の奇襲により、今川義元は討ち取られます。どう考えても不利な戦いに勝利できたのは熱田の神が味方をしたのかもしれません。内心では信長自身死を覚悟の出陣だったと思いますが、その戦に勝てたお礼として熱田神宮に奉納したのがこの塀と伝わります。「日本三大土塀」というものがあるようで、兵庫県の西宮神社大練塀、京都の三十三間堂太閤塀と名古屋の信長塀を指すようです。土と石灰を油で練り固め、瓦をサンドイッチし厚く積み重ねて作られた築地塀(ついじべい)、塀の上には瓦屋根が付きます。今時のブロックとセメントの塀はその気になれば容易に破る事が出来ますが、この塀はそう簡単には倒せまい。それ故にこの塀は大切なものを守る防御の目的が感じられます。この塀が守るのは、信長を勝利に導いてくれた熱田大神そのものだろう。先人の知恵で作られた信長塀は震災、戦禍に遭いながらも今も姿を留めています。重厚で趣のある塀ですが、この解説がなければただの「へぇー」かもしれない。熱田神宮境内 『信長塀』建立 / 1560年(永禄3)住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 熱田神宮末社 『大幸田神社』
2020.11.30
コメント(0)
吉田城址春日井市下条町の八幡社で吉田城址を公園整備中複数の大きな石が見つかり、神社に一つ移されたとあったことから訪ねて見ました。八幡社から北に向かい王子町の交差点で西方向に向かいます。この周辺で遠景写真を撮ると必ず写り込んでくる製紙会社の赤白の煙突。ここまで来ると見上げる高さに迫ってきます。春日井のランドマークと云っても過言じゃない。この工場が稼働を始めたのは昭和27年頃、当時は田畑が多く長閑な景観だっただろう。名古屋のベットタウンとして宅地化が進み、現在は工場を取り囲む様に住宅が広がっています。上は1894年(明治24)頃と現在のこの辺り移り変わり。現在の下条公園が赤のマーカーになります。明治の頃にして既に地図上に城の痕跡はないようです。以前訪れた上条城址には石積みなどの遺構を見ることができましたが、吉田城址に遺構らしきものは皆無。下条公園から北の眺め、この正面に施錠された石碑がありますが、それは公園の竣工碑。竣工碑、柵で囲って施錠までするんだ。という事で城址の碑はどこよ。吉田城址の碑は公園の南側の東角に建てられていました。囲いもなく、間近で見ることができます。とはいえ碑だけしかないのですが。この碑の台座になっている大きな石、根拠はないけれどこれも公園整備で見つかった岩が使われているのかな。吉田城室町時代に築城された日本の城(平城)。但馬国で出生した小坂吉政(1466年(文正元年)~ 1517年(永正14))が但馬から、応仁の乱の頃に京都に入り織田敏定の家臣となり尾張国に入った。当初奉行所として館を建てた事が城の始まりのようで、やがて土塁や堀を築かれ、当初は柏井城と呼ばれていたらしい。その後吉政が吉田孫四郎吉政と改名したので吉田城と名乗るようになった。1554年(天文23)の清洲攻めの際、当時の城主であった小坂正氏が清洲城の南西で討死。跡継ぎのいない正氏死後、城は放置されていた、織田信長は前野宗吉の母の生家だった、小坂家と城を継がせ、小坂孫九郎尉雄吉と名を改めた。こうして小坂雄吉は、ここ吉田城と上条城の城主になっていった。 信長亡き後の1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いに於いて羽柴秀吉が休戦と引き換えに官職を解き、吉田城や上条城、小牧にある諸城の取り壊しを命じられ廃城になった。現在はそれを伝えるこの石碑のみがかつてここに城があった事を伝えています。小坂雄吉のその後についてはよく分からない。吉田城の絵が欲しいところですが生憎見つけきれません。「勝川郷土資料館」に古い地籍図などが展示されているようなのでこちらを訪ねると城の痕跡が見られるかも知れません。吉田城址築城 / 室町時代 初代城主 / 小坂吉政遺構 / なし住所 / 春日井市下条町3-10-4公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅から南西に徒歩30分下条 八幡社からのアクセス / 八幡社から北へ王子町の交差点を西に関連記事 / 下条町八幡社 上条城
2020.07.30
コメント(0)
今回も春日井市JR春日井駅から直行すると10分ほど、春日井市上条町3の不明社経由で西に歩く事15分程で上条城跡に着くのではないでしょうか。目標となるのは1本の木が聳えるこの石碑、というか右側の駐車場かもしれません。東西に長い駐車場の西角に建つ石碑が上条城跡。どこかに遺構はないのか?右は整地された駐車場で痕跡らしきものは見当たりません。城址を示す石標があるのかと思えば、自分が見た限りそれらしい石標は見当たらない。石碑正面にそれらしい事が彫られているのでは?と近づいて見るも、この碑には「林金兵衛君碑」とあり、その下に細かい文字が碑の全面に彫られている。林金兵衛(1825年(文政8)~1881年( 明治14))を調べて見ると、初代東春日井郡長で今井兼平から数えて林家の28代目にあたり、上条城(じょうじょうじょう)主の小坂氏の子孫に当たる方だそうです。上条城は小坂光善が1218年(建保6)に築城し、後に近江国へ移り住んでいたが、林重之の代に上条城に戻り、名字を「小坂」から「林」へ改姓したそうです。上条城は1586年(天正14)に秀吉により廃城となるも、小牧・長久手の戦いで秀吉は自ら兵を率いて竜泉寺の帰路、林重登の屋敷で少しの期間滞在したという。秀吉はこの時の礼として重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名、重登から林金兵衛の代まで大庄屋として明治に至るまで勤めた。城であり林家の屋敷でもあったようです。この碑にはこうした事が刻まれていると思われます。遺構としては駐車場が嘗ての本丸で「人呼びの丘」と呼ばれる天守跡(左のこんもり部分)やその東側に石垣や西側には土塁の痕跡が残る。こうして見ると遺構というより造成工事中の趣です。駐車場から北側を見ると今もこうして石垣が残っています。北側には回り込んでいないのでよく分かりませんが、本丸跡の駐車場は時代の流れとはいえ、石碑や遺構をここまで留めているのだから、当時を忍ばせる想像図や解説が掲げられていると訪れる方は多くなると思う。文化財に指定されていない事もあり予算が付かないのだろう、これが現実なのかも知れない。訪れる方もなく静まり返った上条城跡、折角の遺産がもったいない気がします。2020/6/13上条城址築城 / 1218年(建保6)築城主 / 小坂光善主な城主 / 小坂光善、林重之、林盛重、小坂雄吉廃城 / 1586年(天正14)関連記事 / 春日井市上条町3の不明社公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南口から南へ徒歩約10分上条町3の不明社からアクセス / 社から南西に徒歩10分
2020.06.22
コメント(0)
本地城址から車で東へ2~3分、徒歩でも5分程あれば「本地大塚古墳」です。北を流れる赤津川の左岸に当たり、肥沃な土壌に恵まれた田畑が広がります。田畑の間を走る細い通りに写真のような案内板があり、こちらを目印にするか、保育園を目標にすれば古墳への入り口に辿り着けるはずです。古墳と聞くと「こんもり」とイメージしがちですが、それを思い描いて歩いていると見つけにくいかも。さっぱり見かけなくなったレンゲの花もこの辺りでは見ることができます。畑を肥沃にするレンゲも化学肥料に取って代わられ、一面レンゲ畑の光景を見ることも少なくなりました。ピークを過ぎ、あのピンク色も色あせて白っぽくなっています。北側の保育園と南側の資材置き場の間に本地大塚古墳の入口があります。保育園のフェンスにも小さな案内板があります。古墳はどこだ?小路の先を塞ぐように「本地大塚古墳」の解説板が現れるのだが、「こんもり」はどこよ?「本地大塚古墳」解説「瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。 この土地では「誉牟治別命」の墓という伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。同51年、瀬戸市の文化財(史跡)に指定された。出土遺品1.須恵質円筒埴輪 高さ40㌢余り 2.須恵質形象埴輪 水鳥・馬・人・家など 3.須恵器 蓋坏・高坏など成立年代この古墳の成立は、出土品から推測すると5世紀末から6世紀初め頃と考えられる。 その後市内に盛行する群集墳に先行するものである。前方後円墳の規模1.中心軸の長さ 33㍍ 2.円部の直径 22.5㍍ 3.方部の幅 11.7㍍」解説にある埋葬者の「誉牟治(ほむじ)」が本地村の由来となったともいわれるようです。群集墳とある様に、ここから少し南の高台に建つ宝生寺の境内地にも「駒前1号古墳」と呼ばれる古墳(残存していない)もあり、一帯には古墳が結構築かれたようです。こうした古墳からの出土品は「瀬戸蔵ミュージアム」で見ることができるようです。本地大塚古墳、後円部(後)から前方方向の眺め。仁徳天皇陵(今はこう呼ばないらしい)のイメージがあるけれど、こんもり部分は過去の開墾で削られてしまい、前に当たる台形の部分も短く、仁徳天皇陵の形をイメージして訪れるとギャップがあります。古墳の前から後方の後円部の眺め、右後方の高台が宝生寺になります。城址があり、古墳も残り、寺社がある、ここから北の庄内川付近に行けば水晶も見付けられる、面白い地域です。本地大塚古墳、古墳の主は分からないけれど、こんもり部分の一本の桜が手向けるように見頃を迎えていました。2020/04/05「本地大塚古墳」公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南東へ徒歩5分程 住所 / 瀬戸市西本地町1-109
2020.04.10
コメント(0)
名古屋市昭和区御器所3丁目八大龍王社から徒歩で南に5分程歩きますグーグル先生曰くほぼ平坦と仰るが、龍神様の池があった場所です、平坦な訳がない。緩やかに下り、そして緩やかに上り御器所八幡宮方向に続きます。緩やかな登り、その先は写真の様な三差路となります。「止まれ」の標識の左に小さな社が視界に入るはずです。「御所屋敷趾」到着です。車で訪れると駐車場に困る場所かもしれません。境内と言っていいのか分かりませんが、歩道から板宮造りの社がとても良く見えます。三差路から御所屋敷趾の全景玉垣はなく、代わりにブロックが積まれ敷地を取り囲んでいます。屋敷跡の道路脇に名古屋市教育委員会の解説板。『秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと云われ始めた分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛知郡御器所村の人也」とある。また、この後天保年間(1830~44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷があったとの伝説が結び付いたものと云われている』尾張史の記述については、これと符合する裏付けが定かではないようです。大政所(仲)1516年(永正13)~ - 1592年(天正20)屋敷趾には基礎の跡とか、それを語るような遺構はありません。それと知らなければ、ここはどなたが祀られた神社でしょうね、という趣です。天下人秀吉の母(仲)の在所だったとして、屋敷きにしてはこの区画はあまりにも小さく、当時の規模がどの程度のものなのか、知る術はありません。周囲は住宅街に生まれ変わり、この一画だけがポッンと残っている事が不思議なくらいです。入口左の「御所屋敷趾」石標(大正12年)。ここが残っていられたのは、奥に祀られた社のお陰もあるのかも。社の主は分かりません。恐らくですがこの御所屋敷趾に後から祀られたものでしょう。御所屋敷趾に祀られた社は良くわからなかったけれど、この御所屋敷趾は史跡として、社の神域としてこの住宅街に残って行くだろう。御所屋敷趾住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目32
2019.12.20
コメント(0)
熱田区伝馬1丁目『焙烙地蔵』ここから北の国道1号線の先は熱田さんの杜、左に熱田神宮南の交差点があります焙烙(ほうろく)地蔵のある伝馬町の西端周辺は、その昔東海道と佐屋街道の分岐する交通の要所でもあり、街道を行き交う旅人や物資が集まる場所でもあったこの焙烙地蔵はその昔、三河國重原村(現在の知立市)の草むらの中で倒れていたそうで三河から焙烙を売りに通りかかった商人が見つけ、両側に積んでいた炮烙も既に片側が売れてしまい、空いた側に重石替わりに地蔵を乗せて、熱田まで運んで来たそうです焙烙も売り尽くし、荷がなくなった事で、重石替わりの地蔵も不要になり、海辺の葦原に捨てられていったそうですやがて住民が見つけ、不憫に思い地蔵を拾い上げようとしたが動かなかったそうです不思議に思いその下を掘ってみると台座が現れそれを掘り出し地蔵をお堂を建て安置したのが「焙烙地蔵」の始まりという焙烙地蔵堂内全景堂の左には座布団の上に石地蔵が安置されていて、ガラス扉の先に焙烙地蔵は安置されています焙烙地蔵の解説板ところで焙烙とは? 素焼きの平皿だったり、急須状の煎器子供の頃には豆やゴマを炒ったり、正体不明の野草(主にドクダミ等)を炒る時に用いた日用品婆さんの作る野草のお茶の苦さは今も記憶に残るけれど、その焙烙も見かけなくなったお堂の左に安置されている石地蔵赤い帽子に白い前掛けが付けられ、視線はやや下を向いて安置されていますガラス扉の先の地蔵、ふくよかな顔つきで優しい笑みを浮かべているようにも見えます謂れとなった当時のお堂は現在地から少し東にあった様ですが戦争で被災します1949年(昭和24)戦後の復興事業で、江戸時代からこの場所に鎮座していた上地我麻神社が熱田神宮境内に遷座する事になり、その跡地に「焙烙地蔵」のお堂が新たに建てられたそうです野に捨てられ、焙烙売りに拾われ、また捨てられる最後に熱田の人に拾われ、安住の地を与えられ手厚く祀られたのがこの場所と言う事です『焙烙地蔵』住所 / 名古屋市熱田区伝馬1丁目1-9アクセス 市営地下鉄名城線 「伝馬町」下車西へ5分程『道標』焙烙地蔵の前の三差路の北角に綺麗に整備された道標が建っています道標の東から伸びてきた旧東海道の道筋も、この場所で熱田さんと宮の渡し方向へ分岐する三差路となります1790年(寛政2)に建立された道標は当初は三差路の東南角にあったようです2015年(平成27)三差路の北角にあたる現在地に移設されたもの移設され間もない事から解説板も新しく整備されています道標の四面には以下のように記されています 東 北 さやつしま(佐屋津島) 同みのち(美濃路)南 寛政二庚戌年(かのえいぬ)西 東 江戸かいとう 北 なこやきそ道北 南 京いせ七里の渡 是より北あつた御本社貳丁 場所こそ少し移動したものの、200年を超え多くの災いから免れ今も当時の姿を留めています『旧東海道道標』住所 / 名古屋市熱田区伝馬1丁目5-29 焙烙地蔵の東向かい
2019.09.13
コメント(0)
東海道笠寺一里塚名鉄名古屋本線本笠寺駅から笠寺観音の山門を左に見ながら、旧東海道を東へ15分程歩いて行きます道は緩やかに下りとなります 街道の面影が残る道の先に、見事な枝振りの1本の大木が見えて来ます左が今歩いて来た笠寺観音方向、右手は笠寺公園方向へ続く交差点の角に先ほどの大木が聳えています街並みの中に聳える1本の大木はとても存在感があります旧東海道の目印となっていた笠寺一里塚です小高く盛られた塚の上を覆う様に根が張っていますこの大木の正体はエノキ、随分遠くからでも見えるはずです一里塚の前の解説板、このエノキの役割が記されています江戸日本橋を起点に京まで続く東海道の約4㌔(1里)毎にこうした塚が作られ、旅人の目印となる木が植えられたそうです、その数124、ここは88里の一里塚になります当初は路を隔てた南側にも塚があり、そこにはムクの木が植えられ、その二つの塚が一つの一里塚として対をなし、大正の頃までは残っていたようです南側が無くなったきっかけは分かりませんが、市内に残るものとして笠寺一里塚だけの様です県内では残存する一里塚は、愛知県豊橋市東細谷(71里)、愛知県岡崎市大平町大平(80里)、愛知県知立市来迎寺町(84里)、愛知県豊明市阿野町(86里)と笠寺一里塚の5ヶ所空を覆い尽くす様に伸びる枝は、支柱で支えなければ樹形を保てない程の枝振りですこの榎は都市景観保存樹に指定され、根は塚を鷲摑みするかの如く大きく張っています自然の力強さが伝わってきます一里塚から笠寺観音のある西側の眺め多宝塔の屋根と宝珠が辛うじて確認できます、一里塚の榎や特徴のある建物は、旅人の重要な道標マンションや住宅が建ち、景観は変わっていきますが、今でもこの一里塚は目立つ存在です一里塚から北の見晴台考古資料館のある笠寺公園方向の眺め、この高低差が笠寺の台地を示していますここまで下って来たので帰り路は登らずに・・・・・携帯に聞いてみよう便利になったものです2019/07/25旧東海道笠寺一里塚住所 / 名古屋市南区白雲町アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」駅から東へ徒歩15分
2019.07.28
コメント(0)
長久手市岩作色金県道57号線沿いの安昌寺を過ぎ、道は香流川に沿って左に緩やかに曲がっていきます左の山は色金山歴史公園に至りますやがて小さな堰が見えて来ると岩作色金の『馬頭観音』は目と鼻の先です左岸は岩作御嶽山になりますこの小さな堰は、香流川の水を周辺の田畑に潤す水源になっています色金山歴史公園の東、県道57号線沿いの山肌にへばり付く様に小さな堂と左右に石碑が二つ見えてくると思います、岩作色金の『馬頭観音』です堂の左側の石碑何やら沢山刻まれていますが、拡大するも読めませんでした堂の右側は歌碑の様です「ここはやざこか、安昌寺よこか、むかしじゃのでたいのはな(猪の鼻)か」と刻まれています 言い伝えによると、井のはな(猪の鼻)は、古代より岩作川上の聖地とされてきた所だそうです上古神代の時代には龍神が棲息していたと伝えられるそうです当時の猪の鼻は、村の外れで人家もない場所だったそうですそこには大蛇が棲んでおり人をおどしたりしたそうで、ここから近い安昌寺の雲山和尚が退治したという伝説も残っているそうです長久手合戦の戦死者を弔い、首塚を築いた雲山和尚、蛇退治までされたという事の様です歌碑の左の三面八臂坐像の馬頭観音1900年(明治33)に馬車引きの人々により建立されたもので、台石には馬車有志中と刻まれています馬頭観音菩薩は七観音の一つであり、行き来する人々の安全祈願と災いを祓う道祖神として崇拝されています現在の堂は2005年(平成17)に再建されたもの同じ様な観音様はここ以外にも岩作御嶽山の他、土橋の馬頭観音等でもお目にかかるお顔です観音様の前を通るのが馬から車に様変わりしても、この場所で佇み見守っています住所 / 長久手市岩作色金 アクセス / リニモ長久手古戦場駅下車北に徒歩35分程
2018.06.04
コメント(0)
長久手市岩作中縄手長久手市消防署と南側に喫茶店があります、その間に狭い歩道があり小さな畑につながります畑の中ほどに玉垣で囲われた一画が見えて来ます、そこが耳塚になります畑の南には耳塚に通じる歩道が整備され、塚の東側は南北に伸びる県道60号線に接していますそこから眺める光景はまさに畑の中央に耳塚が祀られています塚の左には小さな手水鉢の燈籠、耳塚と記された石碑も見て取れます耳塚左の石碑は平成25年に修復した事を刻む石灯籠は昭和3年建之と読めるこの耳塚は何時頃、誰がどうした理由から建立したのか詳細は良くわかりません首塚は古図でも記されていましたが、耳塚を記した古図は見つけられず1584年(天正12)長久手の合戦に伴う史跡なのか否か確たる根拠はありませんNAGAKUTE GUIDEから引用『天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。耳塚の発生の詳細は不明ですが、徳川家康が合戦に際して戦いに勝利した時には「敵方の首・片耳をそぎ取り持参して、後日勲功の証とせよ」と指令した、討死者は耳をそぎ落とされたと言われています。岩作里誌には、「耳に病む者茲に祈る。克く感応あり」と書かれているように、古来よりこの耳塚に祈願すれば耳の悪い人は平癒すると言われています。昔は3.9坪の草塚でしたが、昭和3年(1928)12月に手水石、耳塚入口石碑、燈籠などが改修されました。平成25年(2013)4月耳塚入口が住宅で囲まれ、塚も傾いたので、地元有志により参道の整備と塚の基礎工事他の改修が行われました。』長久手市のガイドの内容と碑に記された年号は符合しますが、起点については結局良くわかりません耳塚、忌嫌う様なネーミングですが後に知った事ですが、耳の悪い人を平癒するパワースポットです改めて祈願しに行こうと考えています住所 / 愛知県長久手市岩作中縄手50アクセス / リニモ長久手古戦場下車 北へ徒歩20分程
2018.05.25
コメント(0)
長久手市岩作元門「首塚」長久手市役所から東に歩いた、御嶽山参道入口にほど近い住宅地にそれはあります古い住宅地の中にご覧のように分りやすい「史跡 古戦場 首塚」の案内板が目に入りますなんとも個人的には好まない史跡となるのですが、寺を訪ねて行くとどうしても避けて通れなくなりますこの地は古くは長久手の合戦の舞台となった場所それは尾張名所図会といって1844年(天保15)に前篇(全7巻)、1880年(明治13)の後篇(全6巻)の全13巻でなる、尾張の名勝、古跡、風俗、名産、神社仏閣など絵と文章で説明した地誌があります著者は西枇杷島の青物問屋主人の野口道直と尾張藩士の岡田啓で、挿絵は尾張藩士の小田切春江により作成されましたそこにも長久手古戦場として記されています以下は長久手教育委員会案内板からの抜粋『1584年長久手合戦の舞台となった長久手、この辺りは至るところ戦死者の山となりましたその惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は村人達と共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。毎年、4月9日の合戦の日には村人によって首塚に香華(こうげ)を手向け法要が営まれますこの法要には名古屋から尾張藩士からの参拝もあったと云われます』長久手周辺には合戦の後に付けられた地名が今も残ります尾張名所図会にも「安昌寺」と南側の田畑だけの場所に首塚が記されています田畑だった当地も今では住宅に変貌、県道57号線が通り面影はありません民家と駐車場に挟まれた奥まった場所に塚と祠が建ち「南無観世音菩薩」の赤と白の幟が靡いています右側の祠地誌には描かれていないこの祠、いつ此方に祀られたかまでは辿り着けませんでした祠内は生花が供えられ一体の石仏祀られています石垣が積まれ一段高く盛られた首塚今年も法要が行われ、新しい塔婆も建てられていました傍らの八重桜、散りゆく花弁が塚の周辺をピンクに彩っています・・・・・合掌のみです首塚住所 / 愛知県長久手市岩作元門アクセス / リニモ「長久手古戦場」下車北へ徒歩30分程
2018.05.18
コメント(0)
名古屋市南区上松町 大江川緑地の北側のにある住宅街の一画、その路地にある小さな祠ですGoogle先生の指示する場所を過ぎてもそれらしきものはない振り返ってよく見れば堂が民家と溶け込むようにして建っています、見落としていました何故だか道路に面した側に堂の正面はなく、駐車場のフェンス側に向け建てられています道沿いに堂の正面があるものと勝手に決めつけていたので前を素通りしていました周囲は住宅街で地蔵堂は民家と月極め駐車場の狭い空き地に祀られています民家の建物かと見まごうばかりの祠ですこれはどうやって拝むのか?堂の前に来て初めて納得、フェンスと堂には僅かな隙間があるなるほど、ここから拝むのね、しかし屈んで拝むにはきついかなァ南区 大江川(おおえがわ)緑地と新田めぐりより抜粋『新田開発の頃、当時の鳴尾村庄屋・永井隆により水門・堤防工事を行った際に、堤に枯れた松を植え根元に石地蔵を祀ったのがこの地蔵と言われます江戸時代に発行された水袋新田絵図・大江通南西角に、「水袋新田鎮守社加霊松神社・星宮神主神事」の文字と一本の大松と祠が描かれていると云われますこの地蔵さまはこの祠に祀られていたもののようですが1943年(昭和18)の大江川改修工事のときに、現在の場所に移されました』祠の内部には東を向いて祀られる一体の地蔵様、表情は風化により窺い知れませんが右手の錫杖は今でもそれと分かります江戸時代から始まった新田開発、それに伴い変貌するこの地を見守って来た地蔵様ですね住所 / 名古屋市南区神松町1-24アクセス / 名鉄常滑線「大同」下車、北へ徒歩15分
2018.05.16
コメント(0)
『訶愚突知社』へ訪れた際、境内に星崎城跡碑がありましたが 碑は二つあり、笠寺小学校にもう一つの碑が有りますそちらに向かいます 国道1号線の本地通3交差点から東を眺めるここから先は迷路のような狭い古い道が残り、車で来ると困惑する地域住宅の中に笠寺小学校の校舎が高台に聳えています 笠寺台地の高台に建つ校舎を城にイメージしてみると南を臨むと間近に海岸線が迫り、北には星宮社、笠寺へと続く台地が広がる そんな眺望が広がっていたのでしょう 掘割、本城等の地名から、この辺りに城があった事を偲ばせますが 路地の狭さ、傾斜地、寺社が集まっているくらい城をイメージする痕跡は残っていません 校舎南側の桜並木は訪れた時が丁度満開 目を楽しませてくれます城址の碑は学校東側にある通用口の敷地内にあります 残念ながら立ち入りは出来ません星崎城址石碑 教育委員会解説板 この二つが敷地内に建っています城は東西が約350m、南北が約450mで本丸はここ笠寺小学校と言われます校門南側に二の丸、三の丸、大手門が広がっていたようです築城年 / 不明築城主 / 山田重忠 平安時代(794-1192)末期の武将歴代城主 / 山田重忠、花井右衛門兵衛、岡田直教、岡田重善、岡田重孝、山口重勝、山口重政 廃城年 / 1588年(天正16)住所 / 名古屋市南区本星崎町本城765アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑駅」下車徒歩約5分程
2018.04.01
コメント(0)
ゆとりーとライン川村駅で降車、庄内川に架かる松河橋を渡り松河戸界隈を訪れました 松河橋を渡った庄内川堤、春の訪れを感じさせる陽の温もりを感じつつ上流に向かいます正面には「名古屋第二環状自動車道」と庄内川大橋が見えています 河原にひとり生えの梅の枝にはピンクの花が満開です庄内大橋を過ぎた上流、対岸は龍泉寺方向です 子供達がよちよち歩きの頃、春になるとディキャンプに訪れた場所です下流を眺めます ここは我が家にとって忘れられない場所長男に初めてカヌーに乗せるため、ライフジャケットを装着させ 目を離した一瞬のスキに川に入り、プカプカ流された場所彼を見守っていたかみさんが直ぐにピックアップして事なきを得ましたが 彼にとっても思い出の場所です(outdoorでは子供から目を離してはいけない・・・・・特に長男は予測不能でした)そんな場所を後に、土筆を探しつつ更に上流へやがて堤から河原に降りる道が見えてきます 堤脇に石標が建っています、車で走っていると見過ごしてしまうかも?その昔、春日井から対岸の龍泉寺街道の龍泉寺を結ぶ渡船所があった場所です 「下津尾渡し」と呼ばれます 石標は昭和に建てられた新しいものです1938年(昭和13)頃までは竜泉寺の節分、初観音の時は利用客で賑わったと云われます 戦後、参拝客の減少と下流に松河橋が架けられた事により衰退していきますがそれでも1965年(昭和40)頃まで続いたそうです堤から対岸の竜泉寺方向を眺める 森の上には龍泉寺多宝塔の相輪が見えています確かに近い 大雨の度に様相が一変する川ですが、ここに渡しを作ろうとしたのも頷ける位置関係です 土筆を探しながら堤を歩いて見ましたが、今回も見つける事は出来ませんでした 殺風景な河原にもゆっくりですが芽吹きの緑も見られますもう少し暖かくなると堤の散策や近隣の寺社巡り、毛鉤を振るにはいい場所です「下津尾渡し」住所 / 春日井市下津町731-12アクセス / 地下鉄名城線大曽根⇒ゆとりーとライン川村駅下車徒歩30分程
2018.03.01
コメント(0)
基幹バス汁谷で降車して出来町通りを東へ緩やかな上りの頂きを左に折れ、整備された歩道を歩く横堤と呼ばれ、この歩道の下には猫が洞池の水位調整用の暗渠があり、この先の矢田川へ導かれます桜の時期にはピンクのトンネルとなるこの歩道、桜はまだまだです今日の散歩の目的地は渡しの名残りを見に行く事にします夏場には歩道沿いに水が流れ、夕散歩には涼やかな場所です矢田川堤を超え、以前は無かった千代田橋の橋脚下から河原に出ます気の早いつくしは出ていないかな?護岸整備される以前は容易に目にする事が出来たつくしまだ早いのか、見えていないのか?写真に収める事が出来なくて残念矢田川は毛鉤を振りに良く訪れる川今年は水温も低く未だ訪れてはいないけれど子供の頃の白い川を思うと水質は良くなり多くの生物を育む川になってきました河原を下流へ矢田川に架かる名鉄瀬戸線の橋脚これも随分と年月を重ね、相変らず踏切も残っていますこの風景に矢田川を渡る赤い電車は欠かせない存在だと思うのだがシルバーの車両が目につくこの頃です対岸の矢田川河川敷宝勝寺付近から対岸の木ヶ崎公園方向を望みます渇水期の広い河川敷、歩いて渡れるような川幅も豪雨の時などは河川敷一杯に水が上がりますこの周辺の寺社の由緒には、必ずと言っていいほど矢田川氾濫の記述が出てきます矢田川は洪水の度に流れを変えています、木ヶ崎公園の西に「長母寺」がありますが昔は「長母寺」の南を流れていたと云われ、洪水で流れを変え長母寺の北を流れる現在の姿になったと云われます昔はこの広い川を行き来するための渡しがあったそうです対岸に戻り、堤防道路沿いを木ヶ崎公園に向かいます堤防道路から左に入ると公園の入口、右側に二つの石標が見えます「やだのわたし」と彫られた石標石標の先が現在の矢田川(宝勝寺方向)左の石標には1884年6月(明治17)と彫られ、今も昔を語っています住所 / 愛知県名古屋市東区矢田3丁目16-85アクセス / 市営地下鉄名城線 砂田橋下車 20分程2018/2/23
2018.02.24
コメント(0)
紅葉にはまだ早い10月26日岐阜県恵那市の岩村城跡を訪ねる事にしました。岩村城跡は小高い山の頂にあった山城標高は717mと山城の中では最も高い築城は1221年以降(鎌倉中期)とされ1871年(明治4)に解体されています岩村の上町常夜灯から左に折れ、案内板に従い登り始めます温故の井を右手に見ながら高度を上げていきます(上段左)知新館跡のほど近く、聳え立つ太鼓櫓(下段左)は藩主邸跡地に藩主邸の一部、表御門、平重門と共に1990年(平成2年)に資料館として復元されたもの。下田歌子勉学所(下段右)、趣のある古い門、その奥は実践女子学園の創設者の下田歌子の勉学所。知新館の教授を父に持つも女性故に、知新館で学ぶ事が許されず、父親の書斎で独自に勉学した場所とされます。勉学所を過ぎてからが本番、杉や檜に囲まれた石畳の坂を上り高度を上げますpointには解説板も設けられとても親切です------結構な上り坂です一ノ門あたりから石垣も顔を見せ始めます土岐門あたりからは石段となり斜度も更に強く、道は曲がりくねり、荒れています土岐門は移築され徳祥寺山門として現存しているようです(上段)畳橋付近の石垣、急峻な地形によくぞ作ったものです、これは容易に攻め込めない(下段)石段は杉の枝が落ち滑りやすいので要注意追手門の案内坂までくると再び石畳に変わり視界が少し開けてきます。三重櫓の跡の井戸岩村城は他の山城に比べ圧倒的に多い17箇所もの井戸があったと云われています。ここまで観光気分で上がって来たものの、もはやトレッキングです、なまりきった脚には結構きます。馴染んだ靴で足元を固め、飲み物を持参しましょう。霧ヶ井、ここまでくれば本丸はあと僅かです岩村城は別名「霧ヶ城」とも呼ばれます、その由来となった井戸がこの霧ヶ井。敵に攻められたとき、秘蔵の蛇骨をこの井戸に投げ入れるとみるみる霧が湧き立ち城を守ったという。蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵され、虫干しをした記録も残されている。(この近くに霧が城神社が鎮座しています)霧の井を過ぎると道は大きく右に回り込み日差しが差し込みます。その先には何段にも折り重なる様に組まれた石垣、六段壁が見えてきます。六段壁は当初一段の高石垣から始まり、崩落防止の補強を繰り返した結果が六段の石垣となりました。ゴールは近い長局埋門本丸への最終関門、狭い通路の両脇を急な石垣が囲み、何度も折り返しを強いられる、やっとの思いで辿り着き、更にこれでは厄介そのもの。目的地、岩村城本丸到着です六段壁正面から望む御嶽秋空の下、雪でうっすら化粧したその姿を眺めて下さい、最高のご褒美です。岩村城跡の標柱からは岩村城下町を見る事が出来ます。岩村城跡標柱と昇龍の井戸山城でありながら、水が枯れることは無かったといわれます。本丸までの道すがら幾つも井戸があったように、戦の時には心強い。これも豊かな森のおかげでしょう、岩村城下町では疎水として、酒の仕込み水として今も絶えることなく供給されています。700年の歴史誇った城は時の流れで取り壊されたものの、この険しい山の地形を生かして築城した技術とエネルギーは敬服に値する。東洋のマチュピチと称する事もあるようです、この石垣は充分それに値する。朝霧に包まれた城跡はきっと幻想的でしょう。霧が城神社、岩村城弁才天社を参拝、得体の知れぬキノコを見がてらのコースタイムは50分でした。(この間イノシシ、クマと遭遇する事はありませんでした)因みに、本丸の下の駐車場まで車でショートカット可能です。住所 / 岐阜県恵那市岩村町字城山アクセス / 明知鉄道「岩村」駅下車(岩村歴史資料館まで徒歩約30分)
2017.11.04
コメント(0)
郡上八幡 『神農薬師』郡上の街を流れる清流吉田川、そこに掛かる『新橋』を北に渡る、岸壁に彫られた洞窟に収められた祠が見えてくる。案内板と郡上八幡観光協会の紹介からの抜粋となります。神農薬師は市島林組の富豪・治左ェ門方に立ち寄った一巡礼がもてなしの礼に薬師如来を置いて立ち去ったのが由来。1781年(天明元年)に薬師如来を同地の竹林内に安置奉安。その後、神農講の会員によって1929年(昭和4年)1月8日に薬師如来をもらいうけ、同年7月28日の馬市を利用して城山の巌窟に奉還して入佛式を奉行し現在に至るそうです。商売繁盛の他、諸難諸病を取り払うとして信仰があつく、7月第3土曜日には例祭が行われるそうです。1990年頃にこの洞窟の右側のコンクリート壁面に高さ5メートルにわたって地下水によると思われるシミが浮き出したことがあるそうで、それが偶然にも薬師如来の姿に見え、左手に持つ蓮の花まで鮮明に識別できたそうで、「昭和の奇跡」と報道されたこともあったそうです。煩悩多きおやじ、シミから如来の姿を見出すことなど出来なかった。住所 岐阜県郡上市八幡町柳町1緯度 35°45'1.48"N 経度136°57'31.85"E
2017.05.22
コメント(0)
丸根砦跡大高城の東約0.8kmに位置し、小高い丘の住宅街の頂きにある史跡付近、道すがらには下の様にコース案内もあり迷う事なく辿り着けた。それにしてもここまでの坂、短いながら結構足に来る。木々に包まれた小道を上ると視界は開け丘の頂きへ。周囲を歩いた感じでは、砦跡は円形砦の感がした。頂きには「丸根砦戦殉難烈士之碑」が建てられている。この頂き、周囲を木々に囲まれ、南に開いた僅かな視界からは新幹線を下に見る高台にあり、砦とするには好条件であった事が頷ける。名古屋市教育委員会案内板砦の守備に当たっていた信長方武将は信長本体の援軍もなく、元康(家康)により全滅との記述がある。信長方の鷲津砦(現鷲津公園)はここより北西に1kmもない。碑を前に無意識に合掌。頂きから50m程下がったところに丸根砦跡の碑が立っている。この静かな住宅街、緑に囲まれたこの地で壮絶な戦いがあったとは思えない。撮影2017/5/6緑区史跡散策路・緑地・砦コース 住所 愛知県名古屋市緑区大高町丸根29緯度35° 3'52.02"N 経度136°56'43.14"E
2017.05.11
コメント(0)
名古屋市昭和区川名山町にある香積院 (曹洞宗)1687年、現在の久屋大通付近にあった豪商・味岡次郎九郎が愛娘の死を弔うためにお寺を建立したのが始まりと言われています。当初の寺号は多聞寺と言い、源頼朝が建立したとされる多聞寺の山門を移築、その寺号を拝領したもの。元禄2年(1689年)に香積院と改めた。 総門の脇にある2体の子安地蔵。小ぶりな像は子どもを抱き、大ぶりな像は錫杖(しゃくじょう)を持ち、その足元には14体の小さなお地蔵さんが祀られています。それぞれ、穏やかな表情をしています。総門を入った右側にある鐘楼丸い入口は特徴的な山門、丸門とも龍門とも呼ばれ、建立当時に移築されたもの。境内の枝垂れ桜が顔を覗かせ、この時期は味わいのある趣を見せてくれる。2017.04.01撮影龍門から境内へ、枝垂れ桜が盛りを迎えつつある。雨に打たれ、落ち着いた色合の枝垂れ桜と本堂 枝垂れ桜と紅梅境内左には、目が不自由の方も拝めるよう、手で触れる「ふれあい観音」があります。ふくよかで優しい表情をしています ふれあい観音の上に飾られている鳳凰は宇治平等院の鳳凰を西村公朝が手がけ複製したもの。ふれあい観音の左にある観音堂、高台にあり周囲の景観が一望できる。観音堂観音堂内部、西村公朝作監修による天井画が描かれ、色彩とその大きさに圧倒される色鮮やかな西村公朝作一葉観音像周囲の住宅を見渡せる、観音堂前にある梵鐘観音堂の左に並ぶ石仏群枝垂れ桜と龍門が印象的なお寺です撮影日、4月1日、2日住所愛知県名古屋市昭和区川名山町115アクセス名古屋市営地下鉄鶴舞線「杁中」駅徒歩約10分 「川名」液徒歩約30分
2017.04.04
コメント(0)
城山八幡宮末盛交差点から本山方向へ徒歩5分ほど歩くと、左側に小高い森が視界に入る。鳥居をくぐり一つ目の石段を上ると反橋が架かり二の鳥居に至る。ここは末盛城跡に創建されており、空堀を渡るために架けられたもの。最後の石段を上り三の鳥居をくぐると境内がひろがる。境内は名古屋の中心とは思えない、雑踏から隔離された緑に囲まれた別世界。境内は末盛城の本丸跡となるそうです。八幡社、浅間社、山神社、一ノ御前社、白山社を合併合祀され、厄除開運、交通安全、縁結び祈願の社として親しまれています。山門をくぐり本殿を正面に、左に神楽殿、右手に社務所。神楽殿からは、昭和塾堂の特徴ある屋根が良く見る事が出来ます。山門左にある手水舎の水盤に水御籤を浮かべると、恋愛、結婚、夫婦円満の運勢が浮きあがります。本殿と末社を守る狛犬たち、表情がなにか愛くるしい。本殿主神應神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) 合祀木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)・大山祇神(おおやまつみのかみ)・木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)・菊理媛命(くくりひめのみこと)・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと) 末社左から津島社、山神社、神明社本殿左には桃取石(青石、赤石)と呼ばれる二個の石があり、写真の青石から赤石まで目を閉じて辿り着くと恋愛が叶うといわれているそうです。境内から徒歩五分程北側に歩くと、連理木と呼ばれる立派なアベマキの木があります。なにやら、たもとで出逢った男女は結ばれるとかで恋愛のパワースポットらしい。三の鳥居から境内に入って左側に豊玉稲荷神社とお狐様が祀られています。同じく三の鳥居をくぐり右側には末盛城址の石碑があります。天文17年(1548年)織田信長の父、織田信秀により築城され。信秀の死により、信長の弟の信行が末森城の主となった。信長、信行の兄弟の戦い、稲生原の戦いで信長に破れた信行は永禄元年(1558年)信長に暗殺されそれ以後廃城となったと伝わる。ここから東山公園等が一望でき、東からの守りの居城として絶好のロケーションだったことが伺える。 アクセス 東山線「覚王山駅」2番出口から本山方向へ徒歩5分程度住所 名古屋市千種区城山町2丁目TEL (052)751-0788http://www.shiroyama.or.jp/
2017.02.27
コメント(0)
覚王山日泰寺地下鉄東山線「覚王山」駅で降車、参拝客の多さにびっくり。人の流れが収まるのを待ち参道の写真を一枚、と待ってはみるも人並みは途絶えない。普段は静かな日泰寺参道、毎月21日は縁日が開かれ、この日ばかり大勢の方で大賑わい。参道は衣類、干物、だんご、露地野菜などの露店、近隣のお店の露店が立ち並びます。他県からも出店に見えていて、地方の特産品も販売されています。見て、試食して、お店の方と会話して楽しい時間が得られます。日泰寺はいずれの宗派にも属さない全仏教徒のため創建された寺院。釈尊(お釈迦さま)のご真骨をタイ国(当時シャム国)より拝受、仏教各宗代表が協議し奉安する為に1904年(明治37年)当地に建立された。釈尊を表す「覺王」(かくおう)を山号とし、日本とシャム(暹羅)国の友好を象徴して覺王山 日暹寺(にっせんじ)として創建され現在に至っているそうで、おやじが子供の頃に見ていたものとは違う新しく創建されたものばかり。山門が見えてくると更にすごい状態。この山門の手前から、日泰寺境内東側にかけては、四国八十八か所巡りの祠と札所が立ち並び、この日にお参り見える方々も加わり、思わず「どこからこんなに集まるの?」山門(昭和61年建立)の両脇には右側にお釈迦様の最後を看取った阿難尊者の像左はその後の仏教を率いた迦葉尊者の像が立っており、いずれも平成元年に製作された新しいもの。山門を抜けると境内が広がります、右手に写経が収められた五重塔(1997年建立)と鐘楼(1985年建立)、正面には釈迦如来像をお祀りする本堂(1984年建立)、その境内は参拝客と露店で埋め尽くされすごい熱気。皆さん両手に一杯の野菜やら花やら買い求めて帰られます。おやじも田舎大福とブルーベリー大福を買ってこ~♪五重塔から右に折れ、四国八十八ヶ所霊場の札所をまわる。弘法大師像、不動明王はじめとする地蔵さんが立ち並び、皆さん一つ一つの札所をお参りされ、こちらも境内に負けず劣らず大賑わい。本堂、お釈迦様のご真骨を収めた奉安塔、舍利殿等、廻りきれていません、城山八幡宮にも訪れたいので次回のお楽しみとします。久し振りの日泰寺、昔を思い起こさせる風情と覚王山アパートの様に時流を発信するスポットが存在する楽しい場所です。昨年頂いた御朱印になります
2017.02.25
コメント(0)
ここんとこ寒気の影響で寒さがきつかったけれど、今日は幾らか暖かく助かります。御朱印担当のかみさんは家事の都合から不参加名古屋市守山区小幡にある、生玉稲荷神社に行ってきました。生玉稲荷大神は、衣・食・住をつかさどる守護神であり、広大無辺の御神徳をもった「福神さま」です。また、「お稲荷さんの縁結び」として、男女の縁結び、商取引の縁を結ぶため事業、殖産の興隆を得しめ、現世の縁を取り持つ神さま。また「お稲荷さんのお導き」として、道案内の神さまとして旅行安全、交通安全、人の一生を導いて下さる守護神として信仰されているそうです。稲荷信仰は全国八万社あるといわれる神社の中で、稲荷神社は三万社以上あるといわれ。日本という国の中で、最も崇敬者が多く、庶民の熱い願いを背景に、この風土に深く根付いています。生玉神社の創建は明らかではなく、社伝によれば西暦1200年頃の創建とされるそうです。 江戸末期には「小幡稲荷」とも呼ばれ、明治12年に現在の社名に変わったそうです。慶安三年(1650)9月、大洪水により社殿を流失、その後再建し幾度かの改修、造営を行うも大東亜戦争の空襲によりほぼ全焼、総代会や崇敬者により、昭和49年5月に現在の社殿が竣工された新しいもの。(この地形にして大洪水・・・・・)守山郵便局の東北側に位置し、周囲に住宅が立ち並ぶ環境中にあります。本殿本殿右側に奥ノ院への鳥居が多数 本殿横を眺め奥の院へ 木々に囲まれた厳粛な雰囲気の中に奥ノ院はある 奥ノ院の裏手にある祠と山神社 奥ノ院の手前、左に弁天神社の鳥居と辨天様の祠 境内にある沿革、由緒の名板 境内では毎月、1日・15日は朝市が立つそうです。機会があれば行ってみたいものです。アクセス 名鉄瀬戸線小幡駅下車、北へ徒歩15分。守山郵便局の北側になります。URL http://www.ikutama.or.jp/
2017.01.27
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1