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「 あたし、時計 」は、無機物を擬人化したようなそこはかとないシュールな「時計」の自己紹介ではじまり時計が最後に「狂う」所で終わる。
小田桐圭介先生らしい、幸せってなんだろうと頭を抱えたくなるようなお話だ。
人生だってそう。
だけど何年も前の話や何巻も前の展開を忘れていたり、自分の中で消化しているからこそ
今立ち止まらずに、未来に向かって歩いていくことができる。
ただし大抵普通の人生は、「時々振り返る」ことなくしては、まともに進んでいくことなどできない。
いきものは皆、経験を蓄積して生き延びていく。
けれど、その積み重ねているはずの記憶が誰かの意図によって消されているとしたら?
過去が欠けていても、欠け続けても、「歩き続けられる」としたら?
日々の思い出は不必要で、毎日毎日同じ仕事を続けることさえできればいいとしたら?
ぐるぐると同じところを回り続けているとしたら、それは機械と同じじゃないのか。
「あたし、時計」はそんな話だったと思う。
彼らは育てられた所を旅立って、派遣された場所で毎日ただただ研究と報告を繰り返す。
面白みもなく達成感もない淡々とした攻略には、日々消化する目的(ノルマ)はあっても夢はない。
未来はない。
「それしかやることがないし」
「それしか知らないからだ」
そう彼女たちは言う。
そんな彼女・彼らを称して、主人公の一人は言う。「あの人たちはこわいんだよ」と。
同じ一日を繰り返すことは、クレしんの「夕陽のカスカベボーイズ」しかり
「転校生神野紫」しかり、賽の河原しかり、一種の地獄絵図だ。
それに気付かないことは不幸せか、それとも幸せなのだろうか。
この話の主人公のように狂うことは不幸せか、それとも幸せなのだろうか。
私たちが壊れた、狂ったと思ってきた沢山の時計や携帯や電子レンジなどに
もしも意思があったとしたら?
ぞっとしない話だ。
コラさん(にょた) 2023.07.15
あー子可愛いよあー子 2023.01.18
マジかよデルウハ殿最低だな 2022.08.05