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飯喰場(いくいば)という地名は、天文23年(1554年)、織田信長・水野信元の連合軍と今川義元軍が戦った村木砦の戦い後、信長が兵にねぎらいの言葉をかけ、戦勝祝いの酒盛りをしたところから付いたと伝われています。大池南公園あたりにも飯喰場の地名が残っています。大池南公園の住所は:愛知県東浦町森岡字飯喰場7-88飯喰場は、大きな池を埋め立てた住宅地に変わっているので、看板表記のある所は児童公園になっています。飯喰場案内板がある児童公園飯喰場案内板がある横の池飯喰場の地名が残る大池南公園
2013/04/02
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織田信長が初めて戦いに鉄砲を使ったのが、村木砦の戦いといわれています。村木砦の戦いは、天文23年(1554年)尾張国知多郡村木で起きました。今川義元は、天文20年(1551年)織田信秀が没すると尾張進攻を図り、鳴海城・大高城・沓掛城を手中に納めました。そして、(東浦)緒川城の水野信元を攻略するため、(知立)重原城を滅ぼして根拠地とし資材を送り、村木砦を築き、三河の精鋭東条松平甚太郎義春を城将としました。(東浦)緒川城主・水野信元は、那古野の織田信長に援軍依頼し、信長の軍勢は那古野城から緒川城に出陣する際、今川方に寝返りした(知多市)寺本城を迂回するため、熱田から海を渡り緒川城に着きました。織田・水野連合軍が今川軍の村木砦を攻撃し、激戦の末、砦は陥落しました。のちに元亀2年(1571年)水野信元の家臣であった清水八左右衛門家重・清水権之助政春が、村木砦の戦いで戦死した死者の魂を弔うために村木砦のあった場所に八剣神社を建立しました。 村木砦の近くには、織田信長の陣屋となった村木神社(天王山)や、戦勝を祝った飯喰場などの史跡があります。村木砦・八剣神社 住所:愛知県知多郡東浦町森岡字取出八剣神社八剣神社村木砦址東側のJR武豊線
2013/04/01
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村木砦の戦いの時、織田信長の本陣が村木神社の地に置かれました。古くから村木神社の地には、建速須佐男命を祭神とする津島社(天王)がありました。桶狭間の戦いの翌年、緒川城主・水野信元の代官清水家重が、創建した八幡社の地は森岡保育園にあり学校用地にするため、大正2年に津島社と合祀し、村木神社と名を改めました。森岡の村木神社のおまんと祭りは、若衆が走る馬に飛びつき人馬一体となって疾走する勇壮な祭りです。500年ほど前から、尾張一円と西三河の一部の村々から、雨乞い・豊作・村民安全などの祈願で馬を飾りつけて、熱田神宮・猿投神社へ奉納する祭礼が行なわれており、この祭りを馬の塔(オマント)と呼んでいました。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元に勝利し、その祝いで各村々から清洲城へ馬を走らせたのが事の起こりで、以後、各村々の中心たる社寺の祭礼行事として、馬の塔を行なうようになったと言われています。村木神社のおまんと祭りも、信長の戦勝祝いで馬を走らせたのが起源と伝わっているそうです。村木神社住所:愛知県知多郡東浦町大字森岡字天王西27村木神社オマント
2013/03/31
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緒川城は、文明7年(1475年)に水野貞守が(緒川古城)築城し、賢正、清忠、忠政、信元と続きました。天文2年(1533年)4代目水野忠政は、刈谷城を築城し、本拠地を緒川から刈谷に移しました。忠政は、松平・今川氏に従い、娘(於大の方)を松平広忠に嫁がせ、於大の方は後の徳川家康を生みました。忠政のあと信元が家督を継いだが、織田家に従ったため、於大は離縁されて戻され、3年後には阿久比の城主・久松俊勝と再婚しました。信元は、佐久間信盛の戯言により武田氏内通を疑われ、信長から命を受けた家康に討たれました。緒川城には一時期、佐久間信盛が入っていましたが、信元の弟水野忠守が復帰し、子の分長が継ぎました。桶狭間の戦いの後、家康は今川家から独立し、織田家と同盟を結び、徳川家に母の於大を迎え入れて、母の再婚相手の俊勝と息子に松平姓を与えて家臣としました。慶長11年(1606年)水野分長が新城1万石に移封となり、緒川城は廃城となりました。知多郡東浦役場の裏手高台に、緒川城址(緒川新城)碑と東浦町役場敷地由緒之碑が移築されています。東浦町役場:愛知県知多郡東浦町大字緒川字政所20番地乾坤院総門として移築された緒川城(新城)正門は、唯一現存する建物です。乾坤院は、緒川城初代城主水野貞守によって、水野家の菩提寺として建立された曹洞宗の寺院です。緒川城址(新城)緒川城址(古城)於大公園乾坤院総門・元緒川新城正門
2013/03/30
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愛知県東浦町にある於大公園(おだいこうえん)の桜が満開です。於大公園は、徳川家康の生母、於大の方(おだいのかた)の出生地です。
2013/03/29
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童話作家・新美南吉のふるさと半田市に新美南吉記念館があります。「ごんぎつね」の舞台となった地に建てられています。秋には、記念館すぐ横の、沢山の彼岸花が堤防に咲くことで有名な『矢勝川の彼岸花』が見られます。「ごんぎつね」は、愛知県半田市岩滑(やなべ)地区の矢勝川(やかちがわ)や、目前にある阿久比町の権現山を舞台に書かれています。矢勝川は、兵十がうなぎを獲っている川です。記念館には新美南吉の自筆原稿や書簡、童話集などが収集されています。童話のジオラマ展示があり、物語が立体的に見られて面白かったです。新美南吉(1913-1943)の生涯。本名は新美正八。愛知県半田市岩滑生まれの児童文学者。旧制半田中学校(半田高校)在校中から、童謡や詩の投稿を始めた。半田第二尋常高等小学校代用教員時代に、はじめて児童雑誌『赤い鳥』に、『ごん狐』が掲載され南吉の代表作となりました。東京外国語学校に入学後、喀血。病と闘いながら作品を書き続け、25歳で安城高等女学校(現・安城高校)に勤務。教職と創作活動に充実した日々を送りましたが、1943年、病状が悪化し、29歳の若さで亡くなりました。↑なぜかしら100歳の誕生日までの日にちがカウントしてあります。新美南吉さんの作品の人気は長寿ですね。新美南吉胸像。逆光で怖い人みたいになってまったがね。記念館の外に、新美南吉文学作品に関するモニュメントや記念碑が幾つかありました。その中の一つ「手袋を買いに」碑。台座に書かれているのは、『手袋を買いに』の一章節です。手袋を買いに 新美南吉「坊、間違って ほんとうのお手々 出しちゃったの。 でも 帽子屋さん、 ちゃんと こんないい 暖かい手袋くれたもの。」と言って 手袋のはまった両手を パンパンやって見せました。愛知県の子供が使う方言で書かれています。ほのぼのとしちゃったの。新美南吉記念館所在地:愛知県半田市岩滑西町1-10-1休館日:月曜日、第2火曜日、年末年始、(祝日・振替休日は開館、その翌日休館)。観覧料:210円(中学生以下無料)
2011/10/03
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新美南吉記念館ちかくの矢勝川彼岸花を観賞してきました。矢勝川堤の彼岸花、華やかで見ごろでした。これだけ固まって咲いているのも珍しいですね。大変な混雑ぶりで、彼岸花が被写体の筈が人が横切り、他人の顔がドアップで写る事たびたびでした。↑上の写真は入り口近くで一番初めに撮った写真です。新美南吉の『ごんぎつね』の紙芝居です。紙芝居が始まると、いまどきの子供たちも周りに寄ってきますね。露天の店も10件ほど出ていました。知多牛ハンバーガーが売り切れで再入荷、また並んだのに目前で売り切れた。ちぇっ。
2011/10/02
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東海市立平州記念館細井平洲は上杉鷹山の師として知られる江戸中期の儒学者です。愛知県東海市生まれであることを記念して、郷土資料と共に紹介されています。平洲は名古屋、京都へ出て学問を学び、長崎では中国語を学びました。24歳の時、江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という塾を開き武士たちに学問を教えました。また分かり易い学問を心がけ、武士以外の人たちにも広く学べるようにしました。~細井平洲先生の教え~「先施の心」(せんしのこころ)自分から進んで働きかけることによって、相手の心を動かす。「学思行相まって良となす」(がくしこうあいまってりょうとなす)学んだことを、よく考え、そして実行して、はじめて学んだという。米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)も平洲の教えを受けました。上杉鷹山が領地返上寸前の米沢藩の財政再建を成功させたことは有名です。鷹山の名言「なせば 成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」吉田松陰と西郷隆盛は、細井平洲著書 の「嚶鳴館遺草」で学びました。平洲記念館・郷土資料館 所在地:愛知県東海市荒尾町蜂ケ尻67番地平洲をモデルにしたへいしゅうくんが東海市のキャラクターです。私に向かって何か言っているような気がします。。(o*。_。)o.ペコッ名鉄常滑線、聚楽園駅(しゅうらくえんえき)駅前に細井平州誕生碑があります。電車が来ました。聚楽園公園(しあわせ村)の大仏さま。デカイです。18.79mもあるコンクリート製の阿弥陀如来大仏です。電車に乗っていると「ぬわっ」と現れます。建物が建って見えにくくなったかな。木の枝がヒゲみたいでしょ。
2011/09/15
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東浦町郷土資料館に、於大、水野忠政、徳川家康の木彫像や資料がありました。郷土の歴史や文化が紹介、展示されています。水野忠政(1493~1543)は名古屋市博物館所蔵の画像を参考に思慮深さを表現したそうです。水野氏の本城である緒川城の城主で、於大の父。戦国時代、織田氏と今川氏の両戦国大名の間で、水野一族が知多から三河にかけて勢力を維持するのは困難な道だった。忠政は刈谷城を築き拠点を移した。娘の於大を岡崎城主松平氏に嫁がせ、於大が家康を産んだ。その翌年没し乾坤院に葬られる。於大の方(1528~1602)は刈谷市楞厳寺所蔵の「鏡の御影」画像を参考に凛とした強さを表現したそうです。緒川城に生まれる。父は緒川城主水野忠政。母は於富の方。14歳で岡崎城主松平広忠に嫁ぐ。翌年家康を産んだが、水野氏が織田方についたため、3歳の家康を残して岡崎を離縁された。後阿久比城主久松俊勝に嫁ぐ。離れてはても、幼くして熱田・駿府にあった家康の身を案じ、人を遣わして励まし続けた。今川義元亡き後は、夫俊勝と共に家康の天下統一を支えた。京都伏見城で家康に看取られて75歳の生涯を閉じた。江戸伝通院に葬られる。徳川家康(1542~1616)は東京都の浄光寺所蔵の画像を参考に人間としての器の大きさを表現したそうです。母は水野氏の娘於大の方、岡崎城主広忠の嫡男として生まれる幼名竹千代。今川義元の人質として駿府で成長する。於大の母・源応尼に養育され、今川の軍師太原雪斎を師とした。義元が桶狭間で戦死すると、岡崎に帰り織田信長と同盟を結び三河を平定、遠江・駿河へ進出した。信長の死後、豊臣秀吉と戦うが和して巨従、関東6か国に移封され江戸城に移った。関が原の戦いに勝利し、1603年征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。東浦町郷土資料館所在地:愛知県知多郡東浦町大字石浜字桜見台18-4
2011/09/01
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坂部城は、久松定益が築城したといわれる平山城です。当時は、阿古屋城、阿久比城とも呼ばれていました。天文16年(1547年)、徳川家康生母の於大の方(20歳の時)は、坂部城の久松俊勝の元に最嫁し、俊勝が岡崎城代として移るまでの15年間在城しました。於大の方と久松俊勝の間には三男三女と子宝に恵まれています。一方、岡崎に残した竹千代(家康)は、織田さらには今川の人質として苦難の月日を送っていました。坂部城にいた間、於大の方は、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類や菓子を送り続け、後に徳川家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたといわれています。永禄3年(1560年)5月17日、於大の方(33歳の時)は、桶狭間の戦いを控えた家康(当時は松平元康)と、この地で母子16年ぶりの感激の再会を果たしました。このとき家康の異父弟(康元、康俊、定勝)たちは松平の姓を与えられました。桶狭間で今川義元が敗れ、家康は長かった人質生活から独立します。織田信長と清洲同盟を結び、阿久比の地は織田氏の支配下となりました。永禄5年(1562)於大の方(35歳の時)、夫の久松俊勝は家康に取り立てられ、蒲郡の西郡城主となりました。坂部城は信俊(先妻の子)に譲り、西郡の上ノ郷城は康元を置いて、夫婦そろって岡崎へ移りました。と、ここまでは良かったのですが。。天正3年(1576年)於大の方の異母兄であり家康の伯父にあたる水野信元が、佐久間信盛の讒言で織田信長から武田勝頼との内通の疑いをかけられ、家康に指示し、三河大樹寺において殺害された。俊勝はそんな事になるとは知らされずに、家康に頼まれ信元を迎えに行った。家康の冷酷な仕打ちに激怒した俊勝は、上ノ郷城に籠もり、三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力した。天正5年(1577年)坂部城主の久松信俊(俊勝の長男)は、石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていましたが、佐久間に陥れられ、信長に久松氏はかつて一向宗を保護していた事を取り上げ、憤慨した信俊は大阪四天王寺にて自害した。坂部城は、信盛の手勢によって攻められ、落城炎上しました。そののち、佐久間信盛は石山本願寺攻めに難航、信長から指揮の不備を問責されて改易された。天正16年(1588年)於大の方(61歳の時)夫の久松俊勝が前年に亡くなり、夫の眠る蒲郡安楽寺で剃髪し尼となり、伝通院の号を授かりました。慶長7年(1602年)、天下をとった家康の招きで伏見城を訪れていた伝通院於大の方は、75歳で生涯を閉じました。綿畑(わたばた)坂部城へ嫁いで来た於大の方は、里の人に綿の栽培を勧め、自らも綿づくりに励んだそうです。坂部城址の、この小さな綿畑は、記念に造られているようです。坂部城所在地:知多郡阿久比町卯坂字栗之木谷
2011/08/31
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於大公園(おだいこうえん)近くに緒川城跡があります。緒川城は、徳川家康の生母・於大の方の出生地です。傳通院 於大出生地碑傳通院(でんづういん)とは、於大の方(1528年-1602年)の晩年の院号です。享禄元年(1528年)緒川城四代城主・水野忠政と於富の間に、於大の方は生まれました。緒川城は、西に織田方、東に今川方の勢力に挟まれていたため、忠政は城を守るため中立を図っていました。水野忠政は、妻であり於大の母でもある於富を離縁し、岡崎城主松平清康に再婚させました。於富は絶世の美女だと言われ、松平清康から妻にしたいという願いを聞き入れたとか。この後、忠政は刈谷城を築き、拠点を緒川城から刈谷城に移しました。さらに、水野忠政は今川方の松平氏と婚姻関係を結ぶため、天文10年(1541年)、忠政の娘・於大は14歳のとき、今川方の松平広忠16歳(徳川家康の父)の正室としました。この婚姻関係は、前年に安祥城を織田信秀(信長の父)に奪われた松平氏にとっても、織田方の水野氏と和睦しておくことが必要だったからです。広忠と於大は、鳳来山に良い子宝に恵まれるよう祈願し、1542年、於大は後に徳川家康となる竹千代を産む。ところが、忠政死後に跡を継いだ於大の兄の信元が、織田信秀の旗下に属したため、1544年に於大は離縁され、刈谷城ちかくの椎の木屋敷に3年程住みました。1547年には信元の意向により、阿久比城主・久松俊勝に嫁ぎ、俊勝との間に三男三女をもうけます。緒川城址(愛知県知多郡東浦町)初代緒川城主・水野貞守が文明年間(1469~1486年)に築城して以来、約130年間、水野氏の居城でした。慶長11年(1606)、最後の緒川城主・水野分長が三河国・新城1万石に移封となり、緒川城は廃城となりました。緒川城主四代目・水野忠政のときに、尾張国緒川城から三河国刈谷城に拠点を移しました。緒川城位置推定図です。この辺りは民家が密集していています。緒川城碑がある場所は、小さな児童公園となっており、車で通り抜けが出来ません。於大の方の出生地である東浦町には「於大公園」という大きな公園があります。毎年、桜の時期には「於大まつり」で賑わいます。夏はプール、バーベキュー施設も人気があります。緒川城址も、於大も通った乾坤院も、於大公園の横にあります。緒川城址所在地:愛知県知多郡東浦町緒川
2011/08/29
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宇宙山乾坤院総門は、緒川城が廃城となった後に移築されました。乾坤院(けんこんいん)は、文明7年(1475)水野氏の氏寺として創建されました。水野氏の子孫は於大の方(徳川家康生母)の縁のよって大名に取り立てられ、幕政に携わる者も現れました。水野家子孫各家の菩提寺とは別に、初代・水野貞守から四代目・水野忠政を祀る、水野家共通の氏寺です。江戸時代、乾坤院で行われた年忌法要は盛大に執り行われました。立派な橋が架かっています。左手に墓地があります。 乾坤院山門の右隣に鐘楼。竜宮城の様な形です。乾坤院本堂堅雄堂(けんゆうどう)木像岡崎城主・水野忠善が、乾坤院境内に御霊屋を建立。水野忠政・忠善の木像と先祖の位牌を収めました。出陣するときは、乾坤院横の「宇宙稲荷大明神」に必勝祈願したそうです。知多の民話「狐の嫁入り」の発祥元だそうです。乾坤院所在地:愛知県知多郡東浦町大字緒川字沙弥田4
2011/08/28
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木が生い茂った台地が大草城址でした。現在は大草公園となっています。本丸跡はグランドになっていて、ゲートボールをしている人達の声が響いていました。大草城天守閣を模した展望台からは、伊勢湾が見えます。大草城址からは遠方高台に大野城跡が見えました。ん?写真だとウォーリーを探せ!みたい。中央やや右よりです。大草城址の由来(案内板より)大草城は、織田信長の弟で、後に茶人としても名を挙げた源吾長益(有楽斎)が、築城しようとして途中で断念した“幻の城”である。矢作川とその支流の流域からなる大野谷、(現知多市の南部と常滑市の北部地域)を拝領していた長益は、大草の地に城を築き始めた。しかし、天正十年(1582)に本能寺の変で信長が暗殺され、長益も天正十二年(1584)の長久手の合戦後、しばらくして秀吉に仕え、摂津国味舌(現大阪府三島郡三島町)に転封された。このため、地形(ちぎょう)などの普請が大体終わったところで放棄され、廃城となり、幻の城と呼ばれるようになった。ともあれ、西は伊勢湾が迫り、南は矢田川、東は神田川が流れ、それぞれ外堀の役目を果たし、なかなかの要害の構えであった。現在、大草城址は、本丸、二の丸と周囲の一塁、堀の大部分が、ほぼ完全な形で残っており、このような城址は、愛知県下でも数が少ない。このように保存状態がよいのは、尾張藩の徳川義直、光友に仕えた重臣、山澄淡路守英龍が大草を給知され、寛文六年(1666)に城址の西南方に屋敷を構えるなど、歴史の支配者が保存に力を注いだためである。市では、こうした歴史的価値をとどめる城址をさらに保存、広く市民にも憩いの場として開放するため、大草公園として整備。本丸跡に天守閣を模した展望台を設置したり、二の丸跡に散策道を設けている。施設の保全と管理が行なわれている。愛知県知多市大草(大草公園)宿泊予約 | 高級ホテル・旅館 | 航空券+宿泊 |航空券 | 高速バス | レンタカー | ペットホテル | お得なディズニーホテル | いい湯だな♪温泉宿予約 | スキー&スノーボード特集
2010/12/30
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赤れんが建物・旧カブトビール半田工場(案内板より)○郷土産業の生き証人半田赤レンガ建物は、明治31年(1898年)、丸三麦酒株式会社のビール工場として誕生し、「カブトビール」として全国に送り出しました。キリン、サッポロ、アサヒといった大都市メーカーが、すでにシェアを占めていた時代に、地方都市半田から果敢に挑戦を仕掛けたのです。建物の規模と構造的工夫の見事さは、半田の先人達がビール製造に込めた心意気を雄弁に物語っています。○希少なビール工場の遺構建物は、明治建築界三巨頭の一人、妻木頼黄により設計されました。現存する代表作品には横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)、横浜新港埠頭倉庫(現横浜赤レンガ倉庫)、東京日本橋(装飾部設計)などがあります。安定した温度と湿度を必要とするビール工場ならではの特徴的な構造を持っており、二重から五重の空気層を有する壁(複壁)や、多重アーチ床(断熱耐火床)など、外気を遮断し、低温を保つ工夫が随所に見られます。○戦争の傷跡建物北面には、戦争の傷跡が生々しく刻まれています。第二次世界大戦中、中島飛行機製作所の衣糧倉庫として使用されていた半田赤レンガ建物は、昭和20年(1945年)7月15日、小型戦闘機ノースアメリカンP51から超低空での銃撃を受けました。北面の壁を見ると多数の機銃掃射の弾痕を確認することが出来ます。明治30年(1897年)9月1日起工。明治31年(1898年)10月31日竣工。基本設計者 ドイツ・ゲルマニア機械製作所実施設計 妻木頼黄施工 清水組(現清水建設株式会社)高さ21M地上5階建煉瓦造(イギリス積、一部長手積)平成16年登録有形文化財(国)に登録。平成21年近代化産業遺産(国)に指定。所在地:愛知県半田市榎下町8名鉄イン知多半田駅前名鉄知多半田駅最短!最新デザイナーズホテル!朝食無料サービス(6:00~)!インターネット接続無料!最安料金3,000円~
2010/12/30
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