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その時、左腕の実里が急にしゃべり出した。「まんま。まんまー。オウ。オウ。まんま」 春花はハタと目を覚まし、置かれている状況に気が付いてくれた。「カイ!実里を離さないで!」 春花はそう叫ぶと目の前の岩肌につかまってなんとかよじ登る。「実里、ありがとう。あなたは命の恩人よ」 上まで上がると、春花は愛おしそうに実里を抱きしめた。 俺は大きく深呼吸して息を整えると、さっきまでの突風がウソのように穏やかな桜を見上げた。群生する中で、ひときわ大きかった桜の木が、恐ろしいほどに花びらを落し枯れ果てていた。桜はもう語りかけては来ない。終わった。俺の中でそんな言葉がぽっかりと浮かんだ。「湖に行ってみよう」 俺が言うと、春花も頷いた。静かな水面にすっきりと晴れ渡った空が映っていた。「お父さん。春花です。無事に赤ちゃんを生む事が出来ました。実里って言うのよ」「春花、お母さんを許してくれ。全ては桜の遺伝子がさせている事なんだ。それにしても、よく乗り越えてくれた」 いつもは穏やかな湖が、ずいぶん感傷的になっていた。「よかった。これで、思い残す事は何もないよ」「お義父さん。俺達、呉服屋のおじいさんに会ってきたんですよ。そして、この実里のお宮参りをおじいさんの仕立ててくれた着物を着せて、おじいさんと一緒に行ってきました」 湖は風もないのに微かに揺らめいた。「そうか、親父は元気にしていたか。ありがとう。実里、元気に育てよ。春花が桜の遺伝子に打ち勝ったのなら、私はもう、ここで語る事もないだろう。カイ君。後は任せたよ。娘と孫をよろしく頼む」 小さな揺らめきが、湖の水面を俺達の前から対岸に向けて遠ざかって行った。「お父さん」 春花が声を掛けても、もう湖は答える事もなかった。「逝ってしまったんだね」「うん」 俺達は、しばらく湖を見ていたが、やがて実里のミルクをせがむ声に急かされて山を降りた。春花は途中、1度も桜を振り向かなかった。ただ前を見つめ、実里を見つめ、そして俺をみつめながら歩いていた。 駐車場まで降りてくると、山小屋のおじいさんが待っていた。「無事に降りて来たか」 おじいさんはホッとしたような、驚いたような複雑な表情で俺達を迎えた。そして、背中に背負っていた籠をおろすと、中から山菜や野菜を取り出して俺達に渡した。「どうもわしは娘運が良くないようだ。どいつもこいつも勝手に出て行きやがって、嫁に行くなら行くと報告せんか」 怒ったような拗ねたようなそれでいて、嬉しいような。おじいさんは困った顔をしていた。「わしの作った野菜だ。煮物にでもするといい。辺鄙なところだが、たまには顔を見せに来い。」 俺達にそう言うと、そっと実里に近づいた。「実里、1人暮らしのじいさんにお前を喜ばすような物は用意できんが、こんな物でも持って行ってくれ」 おじいさんが差し出したのは、竹ひごと和紙で作った風車だった。俺達が上に上がっている間にでも作ってくれたのだろう。風車はおじいさんの手作りだった。実里は迷う事無く小さな手を差し出し風車を握り締めると、嬉しそうに声を上げて笑った。おじいさんは、その笑い声だけで一気に救われたように満面の笑顔になって、俺達を見送ってくれた。 帰りの車の中で、春花がポツリとつぶやいた。「私、女優業を辞めるわ。私はもう、シェリーでも桜の精でもないもの」「そうか」 俺は、それ以上何も言わなかった。ただ、それを聞いた西村さんのショックに引きつった顔がちょっと頭を掠めた。俺が苦笑いをしているのを見つけて、春花は西村さんの事を思っているんでしょっと言い当てた。「西村さんなら大丈夫よ。もう、次のタレントを育てているはずよ」 まがい成りにも厳しい世界にいた春花は、業界の流れの速さを熟知しているようだった。 家に帰ると、実里はおもちゃのマイクを握り締め、楽しげに振り回している。「もう歌手のまねごとができるのか」 俺が驚いて言うと、俺のマネをしているのだと春花は笑った。「パパの出てるテレビは、絶対見てるもんね」 春花は実里を抱きあげて、得意げに俺を見た。俺は目の前にある平凡でありきたりな幸せが、どれほど大切か思い知らされた気がして、2人をいっぺんに抱きしめた。「無事に帰れて、よかった」 そのつぶやきは俺の本心だった。春花は穏やかに微笑み、実里は澄んだ瞳で俺を見つめた。いずれこの子にも、好きな男が現れるのだろうか。その時は、あの湖のような奥行きのある大人になって、実里の選んだ男をしっかり見定めてやろう。見えない何かではなくて、娘を守り育てた父親として。おしまい。
April 5, 2010
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ほんの少しの夜泣きに悩まされただけで、実里はすくすくと育った。大きな瞳がじっとこちらを見つめると、もう何か話しかけているような気分になる。それを春花に話すと、親バカだと笑われた。だけど、きっとこの子には特別な思いがあるんだ。きっとそうだ。2ヶ月になる頃には、実里もとても活発に成ってきた。ベビーベッドの柵に足を引っ掛けて泣いたときは、俺の出番。さっさと抱き上げると安心したように眠ってくれる。どんなに親バカといわれても、俺はこの子の元気さが嬉しかった。年が明けて、春花のおじいさんの呉服屋を訪ねた。神社でお宮参りをすませ、俺達はささやかな祝いの席を設けたのだ。ふっくらと愛らしくなった実里を、時間の許す限りじっと目を細めて眺めていたおじいさんだったが、帰り際遠慮がちに春花に声をかけた。「赤ん坊に気を取られて自分をおろそかにしてはいかんよ。身寄りが無いと言う事は、本当に淋しい物だ。お前さんも知ってるだろう。どう言うわけで命を絶ったのか解らないが、あいつらのように簡単に未来を捨てる事だけはしてはいけない。わしは、お前さんが生きてそして、巡り会えただけで、今までの何十倍も幸せな余生を過ごしているよ」 春花は黙ってこっくりと頷いていた。 暖かくなってくると、実里はどんどん活発に動くようになってきた。黒目勝ちの大きな瞳は春花に似たのだろう。鼻や口元は照れくさいほど俺に似ていた。寝返りも打つし、どんどん声を出すようになってきた。仕事から帰ると、決まって実里は「オウ。オウ」と迎えてくれた。穏やかで幸せな日々が続いていた。 ある日、春花が山に実里を見せに行きたいと言い出した。俺が身構えたのは言うまでも無い。しかし、これを乗りきらなければ、先には進めないような気がした。次の休みを利用して、俺達は懐かしいハイキングコースを目指した。俺は、以前から気になっていたことを確かめたくて、冴子の写真をポケットに忍ばせて行った。 駐車場に車を止めて歩き始めると、山小屋のおじいさんが畑仕事をしているのが見えた。俺は、春花に声を掛けて山小屋に向かった。「こんにちは。ご無沙汰しています」 俺の声にゆっくりとした動きで振り向くと、おじいさんはすぐに思い出してくれたようだった。そして、同時に後ろからやっと追いついてきた春花に目をやった。「春花!! お前、どこに行っていたんだ? 心配したんだぞぉ。。。」「おじいちゃん、お久しぶりです。私、山の上の桜によじ登っているとき、どういうわけか足を踏み外して頭を打ったらしいの。 気がついたら街中に来ていて…。親切な人に助けられて、お仕事もできるようになったのよ。それに、カイと結婚して子どもも生まれたの。」 おじいさんは春花の無事を幻でも見るかのように切なげに眺めていたが、実里を差し出されると、じっといとおしそうに眺めて頷いた。「いい子だ。しっかりした目をしとる。」おじいさんはそっと実里の頬をなで、初めて笑顔になった。「おじいさん。突然なんですが、この人を知りませんか?」 俺は冴子の写真をおじいさんに見せた。しばらくじっと目を細めて見ていたおじいさんは、はっとしたように俺を見つめ返した。「この写真はどうした?」「これは、僕達の友達の写真です。昨年秋に、お腹に宿していた赤ちゃんが死産になって、それが元で亡くなってしまいました。彼女が亡くなる前に、子供を産んだらすぐ死んでしまう桜の遺伝子の事を手紙に書いて教えてくれました。それで、ふと思いついたのです。冴子は小さい頃ここにきたことがあったんじゃないかと」 おじいさんは観念したように深いため息をついた。「確かにわしの娘にそっくりじゃ。しかし、うちの娘は男と出て行ったきり帰っては来なかったんだ」 おじいさんは吐き捨てる様に言った。すると春花がとりなすように声をかけた。「おじいちゃん。私、まだ幼い頃に桜の枝を渡っていると私より少し大きな女の子とそのお母さんが上の桜を見にやって来た事があったのよ。女の子は、きれいな桜だとずっと上を向いていたのに、お母さんは絶壁の下ばかり覗いていて不思議だなあと思っていたの。その時の女の子がこの写真の冴子さんよ。私、今ならわかるの。おじいちゃんの本当の娘さんは、冴子さんのお母さんだったんだって。勝手に家を飛び出したものの、おじいちゃんの事が心配でこっそり覗きに帰って来てたんだわ」 おじいさんはうろたえたように力なく首を振っていた。「それで、この子はもう亡くなってしまったのか。娘は、清美はどうなったんだろう」 俺は、以前冴子から聞かされた病気で亡くなった母親の事を話した。おじいさんはがっくりと肩を落して、深いため息を吐き出した。「おじいちゃん、元気を出して。私はおじいちゃんの養子に過ぎないけど、こうして子供も生まれて、元気にやってるわ」 春花が実里をもう一度おじいさんに差し出すと、不意に実里が楽しそうに笑った。「実里。みのりって言うの。もう桜のように簡単に散ったりしないわ」 おじいさんはそっと実里を抱き上げると、いとおしそうに見つめた。そして、そっと実里を春花に返した。「父さんや母さんに見せておいで。 実里、この頼りないかあちゃんを絶対に放すなよ」 おじいさんの瞳に一瞬悲壮な決意が滲んだように思ったが、確かめた俺に帰ってくるのは穏やかな眼差しだけだった。 おじいさんの家からもうしばらく山を登ると、桜は今を盛りと満開になっていた。「お母さん。私の赤ちゃんよ」 春花は幸せそうに実里を抱えて見せた。「まあ、可愛い。どんな名前にしたの?」「実里。みのりと読むのよ。もう、散ったりしないの」 春花が言い終わる前に、突風が吹き荒れ桜が騒いだ。「春花、私達のこの血をあなたの代で終わらせるつもりなのかい?」 その言葉は恐ろしく攻撃的だった。俺は、思わず春花を抱き寄せた。風は一層強まり、怯えた実里が体をちぢ込めて泣き出した。「カイ。この子をお願い!」 あまりの強風に、春花は慌てて実里を俺に預けた。 俺は上着の内側に実里を匿い、強風から守った。しかし目を離した間に、春花が桜の根元で倒れていた。「春花!」 俺が叫んだ時、気がついたように春花が起きあがった。「大丈夫か」 俺が駆け寄ろうとすると、突風が吹き荒れた。「うっく」 俺がひるんでいるうちに、春花は絶壁へとその足を進めていた。「忘れたのか!冴子との約束を!呉服屋のおじいさんの言葉を!」 俺は風に刃向かいながら、声の限りに叫んだ。 春花は足を踏み外す寸前で、やっと正気に返ったように、こちらを振り返った。「カイ!」「春花!」 俺が駆け寄るのと、春花が足を滑らすのが同時だった。俺は、寸でのところで春花の腕を掴む事が出来た。しかし、左手には実里を抱いたままの俺には、春花の体重を支えるだけで精一杯だった。ショックで気を失っている春花に声を掛ける余力すらなかった。もう、だめなのか。ダメならダメで逝くときは3人一緒だ。俺の頭の中で、そんな事が浮かんでいた。
April 5, 2010
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みんながうっすらと安堵を覚え始めたころ、ジンがホッとした表情で病室から出てきた。「ありがとう、みんな。冴子はなんとかヤマを越えたようだ。今日はこのままホテルに戻って夕方までに少しは体を休めておいてくれ」ジンはそう言って皆を見送った。本番を前に、俺達が会場に集まった時、ジンは昨日の事など無かった様に元気に振る舞っていた。 ファイナルは、感動の渦に巻き込まれメンバーも皆涙を流していた。控え室に帰って、火照った体をシャワーで洗い流し、一息ついたときジンが皆を呼び寄せた。「皆、今までありがとう。素晴らしい全国ツアーになった。これからもこの調子でがんばろう。」おうっと皆が声を合わせた。しかし、ジンから冴子に関することで報告は無かった。俺にはそれが妙に引っかかっていた。ふと見ると、他のメンバーもジンをじっと見据えていた。皆、冴子の容態を知りたがっているようだった。 ジンは、少し考えてから、美奈ちゃんや志乃ちゃんも呼び寄せ、つぶやくように言った。「冴子は、今朝亡くなった。皆が帰った後、意識を取り戻したんだ。最後まで、俺達の事を気にしていたよ。自分の死が皆の足かせになることだけはイヤだと訴えていた。だから、ファイナルが終わるまで、俺には元気な振りをしていてくれと言ったんだ。明日、冴子の告別式をやるから、よかったら集まってやってくれ。じゃあ、お疲れ。今日はこれで解散するよ」 誰もがうなだれ、肩を落した。冴子は、本当に俺達の6人目のメンバーと言っても過言ではなかったのだ。俺は、ホテルで待っている春花の事が気になった。春花にどんな風に説明すればいいだろう。途方にくれていると、ジンが俺の肩に手を掛けて、封筒を差し出した。「冴子から、シェリーに渡してくれと頼まれた」 俺はその封筒を受け取ると、すぐに春花のもとに向かう事にした。楽屋を出るとき、ジンがつぶやいた。「俺の二の舞はするな。それと、俺に遠慮するなよ。お前達の子供には、冴子と俺達の子供のささやかだけど、確かな思い出がある。大きくなったら、2人はきっと仲のいい友達になるだろうって、冴子がよく言ってたんだ。だから、俺にも見せてくれよ。お前達のジュニアの元気な姿を」 俺が振り向いた時、ジンの瞳には澱みのかけらも無かった。俺は小さく頷くと、春花の待つホテルに急いだ。 部屋に入ると、春花はベッドに横になっていた。今日は妙にお腹の子が騒ぐのだと不安そうな瞳で訴えた。俺は、春花のすぐ横に座って冴子が亡くなった事を告げた。春花は眉をひそめ、信じたくなかった予感が的中したと顔を曇らせた。俺は、ジンから預かった冴子の手紙を春花に手渡した。春花はすぐにそれを開くと、じっと息を凝らして読みふけり、時折小さな相槌を打っていた。手紙も終わりに近づくと、冴子が自分の死期を悟っていたのか、春花はぽろぽろと涙を流して読み、嗚咽を殺しながらその手紙をたたんで握り締めた。俺は大事を取ってその日はどこにも外出せず春花の様子を見ていた。手紙に付いては、特に聞かなかったし、春花も話そうとしなかった。 49日の法要を終えると、次のアルバムの準備と充電期間として、2週間の休暇がもらえた。ジンはその間に冴子の母親の墓に報告に行って来ると言っていた。シュウとホリーは旅行に出かけるのだそうだ。ビーはアイドルのアルバム作りにつぶされてしまうと、ちょっと嘆いていた。でも、その苦笑いの影には、ビーも寂しさを紛らす事ができる安堵が見え隠れする。 それぞれが、冴子のいない現実を受け入れなければならないと自覚し始めていた。春花はある日、曲作りに没頭していた俺に病院に連れて行って欲しいと頼んできだ。それはあまりにも唐突だった。入院に必要な荷物は、いつのまにか春花が用意していたようだった。俺はただ急かされるまま病院まで車を走らせると、産婦人科の前で待たされることになった。予定日までまだ日があると思っていたせいか、分娩室のまえで、クマのようにうろうろするような醜態は晒さずに済んだ。しかし、ぽつんと取り残されたようなこの孤独な気分はなんだろう。おれは、春花の母親の、あの桜の吹雪く様を何故か思い起こしていた。 春花が診察室に入って小1時間がたった頃、看護婦がやってきた。「あの、さっきのお母さんから、お父さんに渡してくださいとの事でした。」差し出されたのは冴子の封筒だった。これを読めと言う事か。俺はそれを受けとると、そっと開いてみた。冴子の文面には、いつか2人の子供が大きくなったら、一緒に遊ばせたかったとか、家族ぐるみで海水浴やキャンプに行きたかった等と書かれていた。俺達が自分たちの事で必死になっている間も、未来に目を向けて、そんな風に俺達を見ていてくれたのかと、うれしいような心苦しいような思いになった。 そして、読み進む内に、驚くようなことが書かれていた。冴子は幼い頃、桜の枝を渡る、妖精のような少女と出会っていたのだ。そして、その姿の儚い気配から、きっとその少女は桜の花のように儚くしかし潔く散ってしまうのだと感じていたと言うのだ。あの時の少女があなただと言うことは、始めてみた時にすぐに気が付いていたとも書いてあった。「子供の頃の感覚が抜けないのか、あなたを見るたびにその儚さを感じずには入られなかった。だけど、どうか子供を産み落としただけで、自分の成すべき事を成し遂げたような気にならないで。どうか最後までその成長振りを見届けてあげてほしい。私が望んで止まなかったその事を、今あなたに託します。私、子供の頃母から桜の遺伝子をもった女の子の話を聞いた事があったわ。桜の遺伝子は、次の世代を生み出すとすぐ、潔く散ってしまう事を良しとしているから、本人の自覚しないところで、死へと歩み寄ってしまうんだそうよ。でもあなたは簡単に命を投げ出さないで。体中の全ての細胞が、あなたを潔い死へと誘ったとしても、あなたの心で、それを止めて欲しい。桜の遺伝子は、あなたの代で、止めるべきなのだから」 そうか、俺が不安になったり孤独を感じていたのは、潔い死を望む春花のなかにある遺伝子を感じていたからなのか。 俺は、冴子の手紙でやっと納得できた。そして、この手紙を俺に読ませた春花の心情は、大きな決意を胸に秘めている事を表していると俺は信じたかった。俺は立ち上がり、穏やかな日の射す窓辺に寄った。季節は晩秋。桜吹雪きの舞散るところはどこにもなかった。その代わり、紅葉した桜の葉が、はらはらと風に揺れては飛ばされていった。 子供が生まれて落ちついたら、もう1度あの山に登ろう。そして、今度こそあの桜の群生をゆっくりと楽しんで、3人で家に帰ってこよう。俺が決意を固めた時、分娩室から産声が聞えた。生まれたんだ!俺は、全身の毛が逆立つような、皮膚の内側からふつふつと喜びが湧きあがってくるような、不思議な興奮に身を委ねていた。 しばらくすると、俺は看護婦に新生児室に来るように言われた。「元気な女の子ですよ。」看護婦はなれた手つきで俺に真っ白な包みを差し出した。俺は、躊躇しながらもそっと腕に抱いてみた。想像していた以上に小さくて軽い。なんて頼りない命なんだ。白い布の隙間から、小さな顔が覗いていた。そのすぐ横でもそもそっと動く物があって俺はそっと包みを開いてみた。恐ろしく小さな手が、不意に俺の指を握り締めた。思いのほか力強いその握り方に、俺はドキッとしてしまった。まるでこの指を離したら、他に頼れる者が無くなるのだとでも言いたげだった。俺は自分の心の奥底に、絶対に一生掛けて守ってやるぞと言う決意のような物が芽生えているのに気が付いた。 3日もすると、春花はすっかり元気になって授乳だ、おしめだと動き回るようになった。突然、ジンがお見舞いにやってきた。ジンはガラにも無く照れくさそうに、俺にも抱かせろと頼んできた。春花がそっと子供を手渡すと、ジンはまるで父親のように穏やかなまなざしで見つめていた。「カイ。うちの子も、女の子だったんだ」 ポツリとこぼれた言葉に、ジンの心情が篭っていた。「時々は、おじちゃんとも遊んでくれよ」 ジンは子供にそう言うと、そっと春花に返した。 子供をベッドに寝かせながら、春花はそっと言った。「この子、冴子さんの赤ちゃんとどこかでつながっていたみたいなの。冴子さんが異変に気づいた頃、この子もひどく落ちつきが無くて、随分心配してたのよ。それに、冴子さんが亡くなった時も嘆き悲しんでいるように暴れていたわ。生まれる前の記憶って、2、3歳で消えてしまうって言うけど、1度この子に確かめてみたいと思ってるの」 ジンは思い出したようにそっと微笑むと、冴子からも同じような事を聞いた事があると言った。春花と会った日は、妙にお腹が張る感じだって言うのだ。「さあて、ファンクラブの会報でも準備するか。この子を載せても構わないか」 俺が頷くと、ジンは俺達の写真を撮って、帰って行った。 春花が授乳を始めた。傍で見ていると、なんだか自分が母に甘えているような変な感覚になる。何事にも変えがたい至福の時間を子供と共有しているようで、うれしかった。「名前、どうする?」 春花が唐突に言って、俺は我に帰った。「そうだな。散ってしまう花よりも、しっかりした未来につながる名前にしたいな」散々悩んで、実里と書いてみのりと名づけた。 家に帰ると、春花や実里を思い出してニヤニヤしている場合ではなかった。ドアにはおびただしい数の配達伝票が挟まっていた。そのほとんどは、外国にいる両親からの物で、初孫の誕生に2人も狂気乱舞しているようだった。俺は、あちこちの運送屋の配送センタ‐を回る事になった。レンタルで手軽に済まそうと思っていた物がほとんど完璧に揃ってしまった。そして、呉服屋の春花の祖父からも何か届いていた。受け取りにだけ行って、それは春花に開けさせた方が良いような気がしてそっと横に取り置いた。 退院を目前にして、俺は春花に入籍しようと提案した。ちょっと驚いたような顔をしていたが、今度は春花も首を縦に振ってくれた。退院の日は、お約束の記者会見があった。フラッシュが多くて実里はちょっと迷惑そうな顔つきになったが、取材陣に囲まれて、俺達3人は笑顔で写真に収まる事が出来た。 久し振りにマンションに帰ると、託児所のような状態に春花は楽しそうに笑った。「カイがこんなにマイホームパパだったとは思わなかったわ」 違う!それは皆うちの両親が勝手に送らせた物で、俺が買い捲ったわけじゃない!俺は必死で御託を並べ、それが余計春花を笑わせた。「俺が買ったのは、これだけだ」 俺はどうだとばかりに真っ赤なガラガラを差し出した。春花はすぐさまそれを実里の前で振って見せた。実里はゆっくりと音のするほうに顔を向けた。俺が勝ち誇ったように胸を張ったのは言うまでも無い。 実里がすやすやと眠りだした頃、俺は春花の祖父からの包みを思い出して、春花に差し出した。呉服屋には、生まれてすぐの写真を先日のお礼の手紙と一緒に送っておいた。おじいさんは、大変喜んでくれたようで、早速送ってくれた包みには、お宮参りに着せる色鮮やかな着物が入っていた。 淡い桜色ではなく、真紅のあでやかなその色合いは実里の名前にもふさわしい、豊かな実りのイメージだ。そんなところにもおじいさんの切ない願いが込められているのか。 俺達は、年末年始の慌しい時期をやり過ごしてから、呉服屋の近くの神社で、遅めのお宮参りをすることを計画した。
April 4, 2010
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主人はちょっと淋しげな笑顔を見せて、俺達の反応を待った。 俺が春花の顔色を覗うと、春花もちょうど俺を見ていた。そして、小さく頷いたので、俺は思いきって主人に尋ねた。「その息子さんが亡くなったのは、20年前の桜の群れ咲く山をちょっと奥に入った湖ではなかったですか」 主人は驚いたように俺を見つめると、「いかにも、そうです」と声を絞り出した。「その時の子供は、私です。私を育てた山小屋のおじいちゃんから、お前のお父さんはこの湖だと教えられていました。だから、あの着物を見たとき、どうしてもこのお店に入ってみたくなったんです」 春花は、そこまでを主人に取りすがらんばかりの勢いで言うと、もう1度俺の顔を確かめて、うれしいような困ったような複雑な顔をした。 主人は、悲しいまでにいとおしそうに春花を見つめると、名前を尋ねた。「春花です。山野春花」 春花の瞳をまっすぐに見つめて、主人は深くうなずいた。「そうか。アイツは駆け落ちしても、山野の名前を忘れずにいたのか。それにこんな可愛い孫を、私に残してくれたんだな」「私達、結婚しています。それに、もうすぐ赤ちゃんも生まれるんです。おじい様にとっては、ひ孫になりますね。この子が生まれたら、きっともう1度ここに来ておじい様に見ていただきますね」 春花は感動に頬を染めて、店の主人に言った。 日が翳ってきて、俺達は宿に帰ることにした。帰り際、店の主人が奥の部屋から何かを取り出してきた。「春花さん。これを持って行ってください」 主人が差し出したのは、小さなお守りだった。「これは、春花さんの父親が生まれる時、アイツのじいさんから貰ったものです。丈夫な赤ちゃんを産んでくださいよ」 春花はそのお守りをしっかりと握り締め、主人の言葉にしっかり頷くと、不意に肩にかけていた桜色のやわらかなスカーフを解いて、主人に差し出した。「今度こちらにお邪魔するまで、どうか預かっていてください。きっと他にも立派なお孫さんはいらっしゃるでしょうけど、私にとっては、たった一人のおじい様なのです。私の事、忘れないで下さいね」 春花はそう言うと、そっと店を出た。 俺も、ちょっと頭を下げて店を出た。主人は穏やかな笑顔で、俺達を見送ってくれた。俺の背中から、ささやくような声が聞えてきた。「孫どころか、他の息子も皆先立ってしまったんだ。私にとっても、お前さんがたった一人の肉親だよ。元気でな」 俺は、ふと主人の事が心配になって振りかえった。しかし、そこには先ほどと変わりない笑顔があっただけだった。そして、手には春花のスカーフがしっかりと握られていた。 俺達の全国ツアーもあと1箇所2回の公演のみとなった。春花は本当の肉親をみつけることが出来たせいか、ずいぶんと落ち着いているように感じられた。前日のリハーサル、春花は大きなお腹を抱えたままで差し入れを持ってやってきた。楽屋に入ると、すぐ冴子を見つけその功績を称えた。リハーサルの休憩時間を利用して、メンバーと冴子、それに春花の7人は食事に行くことになった。レストランに入ると、春花はお腹の具合の話などを冴子に持ちかけた。「こんなにハードワークなのに、冴子さんも赤ちゃんもすごいがんばりでしたね。きっとすごく元気な赤ちゃんなんだわ。冴子さん、こんなに忙しくて定期検診良くいけましたね。もう、2週間に一回はあるでしょ」 春花の何気ない一言で、ジンの表情が一変した。「シェリー、それ本当?」 冴子は、気にしないでと笑っていたが、ジンはそんな冴子を止め、春花の言葉を待った。「ええ、妊娠後期には2週間に1度の検診があるし、臨月になれば週に1度は検診があるんですよ」 春花は、何の躊躇いもなく答えた。俺がチラッと冴子を覗うと、苦虫を潰したような顔の冴子がどうしたものかと指をくわえているのが見えた。「冴子、どうして検診に行かないんだ」 ジンは真剣だった。順調だから行かなかったのだと言う冴子をジンの鋭い視線が責めた。「お前だけの体じゃないんだぞ。この子の命が掛かってるんだ」 冴子のお腹を見つめるジンの口調は、すでに父親のそれに成っていると俺は感じた。冴子は困ったような顔になって、明日にも病院に行くからと約束してその場を治めた。 バンドのリハーサルが再会されると、春花は冴子に何か耳打ちしていた。冴子も素直に答えて、真剣に何か相談しているようだった。その日の打ち合わせが終わると、俺は春花と一緒に宿に帰った。「何かあったのか、冴子の奴」 春花は、やっぱり見ていたのかと言うようにちらっと俺を見ると、俺に協力を頼んできた。どうやら冴子のお腹の赤ちゃんが、動かなくなっているらしい。本当なら係付けの医者にきちんと診てもらうのが筋だが、ちょうど異変に気づいた頃は、スケジュールが詰まっていて抜き差しなら無い状態だったそうだ。仕事に集中して妊娠している事すら忘れていた冴子だったが、ここに来て急に腹部にイヤな痛みを覚え始めているということだった。そうなってくると病院の敷居も高くなって、とうとう今日に至っているとの事だった。明日、明後日は、このツアーのファイナルだけあってコンサート会場の規模も大きく、ジンにも相談できそうに無いと言うのだ。「明日、私が付き添って病院に行くことにしたの。明日の段取りは美奈ちゃんと志乃ちゃんが聞いてくれてるらしいから、皆の仕事には影響ないようになってるらしいけど、この時期に急に赤ちゃんが動かなくなったり、お腹が痛くなるのはちょっと心配だから、ひょっとして大事を取って入院って事になるかもしれないの。ジンさんにはカイから上手く話しておいて欲しいんだって」 俺はなんとかなるだろうと簡単に返事をして、明日に備えて早めに休んだ。 翌日、春花から電話が入ったのは、コンサート会場にお客さんが入り始めた頃だった。「カイ。大変なの!冴子さんの赤ちゃん、死産だったの。おまけにお母さんにも影響が出ていて、今緊急手術の準備が進んでるところなの。ジンさんの承諾書が要るって言うんだけど。どうしよう!」 俺は、すぐジンの様子を覗った。ジンは、長かった全国ツアーを無事終えようとしているのをしっかりと実感していうようだった。その表情には自信が満ち溢れ、次のステップを約束されたような輝きに満ち溢れていた。今なら、冷静に判断できるかもしれない。それに、春花の言う通りなら、冴子自身も決して安泰とは言えないようだ。俺は、すぐにジンに知らせると言って電話を切った。 ジンを呼び出した俺は、階段の踊り場の手すりに持たれて言いづらい言葉を連ねていた。ジンは驚き、ショックで壁にもたれてしまった。しかし、今は亡くした小さな命より、今危機に晒されている冴子の体が心配だった。「開演まであと2時間。病院まで片道30分だ。充分間に合う。急げ!」 俺はすぐさま美奈ちゃんにタクシーの手配を頼むと、まだ現実を受け入れられないままのジンを病院に急かせた。 控え室に向かうと、皆が俺を見ていた。その視線が、何があったのか教えろと急かせていた。冴子のことを話すと俺達も行こうとシュウが言い出し、急遽俺達も病院に向かう事になった。病院に着くと、春花が受け付けの前を横切るのが見えた。声を掛けると、今冴子が手術室に入ったところだという。春花に続いて手術室に向かうと、ジンが頭を抱えてベンチに座っていた。「ジン!」 俺はとっさに声を掛けたものの、ジンを癒す言葉は見つけられなかった。 しばらく顔さえ上げなかったジンが、不意に頭を上げてみんなに言った。「冴子からの伝言だ。今日明日で、このツアーも終わる。最後の最後まで気を抜かず、しっかり演奏するように。だそうだ」「冴子…」 ホリーが手術室の扉にしがみついていた。ジンはちらっと病院の時計を見ると、皆をタクシー乗り場に促した。「とにかくコンサートをやろう。それが俺達の使命だ」「がんばってね。私、ここで冴子さんに付き添います」 春花の言葉にジンは頼むと言うと、手術室の赤いランプをじっと睨んでコンサート会場に移動した。 会場の熱気はジンの体を容赦なく包み込み、雑念を捨ててコンサートに取り組めと訴えていた。なにより長年リーダーをしてきたその体が、まばゆいライトに吸い寄せられるように熱を帯びていった。ホリーやシュウが視線を落としそうになると、ジンが大袈裟におどけてテンションの下降を許さなかった。その日のコンサートは、全国ツアーの最終地にふさわしい大盛況だった。会場にはまだコンサートの熱が覚めやらぬファンがざわめいている中、美奈ちゃんの用意してくれたタクシーで俺達は一目散に病院に向かった。冴子は集中治療室に移っていた。俺達が駆けつけると、後ろから静かな足音がしてきた。春花だった。「お帰りなさい。手術はなんとか成功したんだって。だけど、今夜がヤマなんだそうよ。彼女のお腹、相当痛んでいたみたい。お医者様がこんなになるまでどうして放っておいたんだって。おどろいてらしたわ」 ジンは頭を抱えてひざまづきていた。気づいてやれなかった自分を責めているんだろう。春花はそっとジンに近づくと、小さな物を手渡した。「お守りなの。さっき手術が終わってから、近くの神社に行ってお百度参りをしてきたのよ。冴子さんさえ生きていてくれれば、まだ次の子供も期待できるかも知れないもの」 俺は、春花の額に汗が滲んでいるのを見て驚いた。「大丈夫のなのか?そんなに歩いて」 思わず口調がきつくなった。春花はちょっと俺に寄りかかると、すぐにベンチに座りこんだ。無理をしているのは俺でも分かった。 看護婦がやってきてジンを病室に入れた。まだ危険な状態なので、外部との接触は出来るだけ控えたいとの事だった。俺達はしょうがなく病室の前に座り込んだ。シュウは心配そうにホリーを見つめていたが、ホリーはただ一点を睨むように見つめているだけだった。ビーもじっとジンの入って行ったドアを見つめていた。しばらくすると、春花のパンパンに張っていたお腹も柔らかくなってきた。俺は、春花にだけ聞えるように無理をするなよっと声を掛けた。春花も今度の事で随分ショックを受けたのか、今まで以上にお腹を気遣うようにそっと丸いふくらみをさすった。 気がついたら、外が明るくなりはじめていた。春花は、疲れきった様子で俺の肩にもたれたまま眠っていた。ジンが何も言ってこないということは、医者の言ったヤマを越えたということか。俺は、これから冴子が乗り越えなければならない赤ちゃんのことを考えて重い足かせのような重圧を感じていた。
April 4, 2010
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心配な1週間が過ぎた。その間、俺はバンド仲間の話しやCDの売上の事しか病院では話さなかった。ちょっとでもお腹の子供の事に触れると、春花が取り乱してしまいそうな気がしたからだ。俺達の心配をよそに、赤ちゃんは元気にその力をモニターに見せた。心拍もしっかりしていて、先週のことがウソのようだった。春花も心から安心できたようで、診察を終えて帰って来た時は、頬を染めてニヤニヤして部屋に戻ってきたものだった。 1ヶ月あまりの入院生活を経て、春花はやっとマンションに帰ってきた。退院の前後は、冴子の計らいで1週間ばかり休みを貰った俺が、せっせと掃除、洗濯、炊事をこなした。メンバー達は、暇を見て俺達の様子を見に来ては、俺の立派な主夫ぶりに驚きと冷やかしの言葉を投げて行った。 順調な回復を見せた春花にホッとしていた頃、大きな問題が起こってきた。それは、俺達の毎年恒例になっている夏の全国ツアーだった。「リハーサルはなんとかなるとして、問題は1ヶ月近くマンションを空けるツアー本番よね」 自分も大きなお腹を抱えていながら、冴子はどうしたものかと考えていた。「1度、シェリーと相談してくるよ。あいつの体調次第になってくるだろうから」「カイ。他の楽器なら、最悪その時だけの代役は準備できるだろうけど、ボーカルだけは代役が利かないのよ。ツアーに行かないなんて事だけは言わないでね」 わかったっとだけ言うと、俺はその場を後にした。 マンションに帰ると、春花が大きなお腹を抱えて出迎えてくれた。「カイ!カイ!今日は凄く動くの。ちょっと手を貸して」 春花は帰ったばかりの俺の手を掴んで、突き出したお腹に押し当てた。不意に丸く張ったお腹の中で、何かがくるくるっと動いたのがわかった。「うわあ。本当に動いた!」 俺は大声で叫んでしまった。春花は嬉しくて堪らないといった笑顔で俺を見ていた。そして俺は、ツアーのことを話しそびれてしまった。 日付はどんどん変わっていくのに、俺はいつまでもツアーの事を春花には言えずにいた。悩みながら家路に付いた俺に、春花の方が先に言い出した。「カイ。今日検診に行ってお医者様に聞いてきたわ。もう安定期に入っているし、今のところ順調だからホテルで大人しくしているなら、カイ達のツアーについていってもいいって」 俺は一瞬、寒気を覚えた。どうして春花がツアーのことを知っていたんだ。俺の心を見透かすように、そしてちょっと淋しそうに春花は言った。「ちゃんと話してくれればいいのに。隠してたって夏にツアーがあることは予想してたわ。それに、冴子さんから電話ももらってたのよ。私の体調がいいなら、一緒に居られるようにホテルを手配してくれるって」 肩透かしを食らったような変な気分だった。そうか、その手があったのか。長い入院生活を経験しているせいか、どうやら俺は、春花を重病人のように思い込んでいたらしい。だけど、同じく妊娠している冴子は順調に過ごしているらしく仕事も人任せにせず、どんどん指示を出している。美奈ちゃんや志乃ちゃんが随分段取り良く動けるようになってきたので、冴子一人が走り回る必要はなくなったが、冴子のチーフマネージャーとしての地位は確固たるものとなっている。「そうか、心配し過ぎてたのか」 俺が言うと、春花は笑いながら頷いた。「私のことで、仕事がやりにくくなるぐらいなら、どこか完全看護の病院で、大人しくしているわ」 俺は、春花の気持ちがうれしかった。「ごめんな。春花を不安にしたくなかったんだ」「分かってる。でも、ちゃんと話して。私はもう、ただの女の子じゃないわ。この子のお母さんなんだもの。少しの事で、怯えたりしないわ」 春花は、今までよりちょっと大人の顔になって笑った。 それからの1ヶ月は瞬く間に過ぎた。スタジオに篭って練習しながらも、ライブの構成やステージのデザインなど、雑多な仕事に追いまくられた。俺達が練習している間、冴子はライブの会場での公認商品の販売や、ファンに対するチケット優先販売などの手配に追われていた。まったく身重な体で良く動けるものだ。 学生達が夏休みに入る頃、俺達の全国ツアーは、始まった。心配していた春花の体調も安定していて、俺はライブに集中する事が出来た。同じ場所に2日連続でライブをやると、また次の街に移動するやり方を取っていたので、移動はそんなにきついものにはならないようだった。間に1週間ばかりの休みが入っても、俺と春花はマンションには戻らず、そのまま次の場所に移動して、その街をゆっくり観光するようにした。 ある街に来た時、いつものようにのんびりと散策を楽しんでいた俺達は、間口のせまい小さな店の前でどちらからともなく立ち止まってしまった。古い建物のガラスごしに、桜色の着物が飾ってあったのだ。その色は、春花の母親のあの群れ咲く桜をそのまま描いたような淡く穏やかで、それでいてどこか悲しげな趣を称えていた。俺は、本能的にその着物を買わなければならないような気がした。思い切って店に足を踏み入れると、主人が奥のほうからのんびりとやってきた。主人は随分年老いた人物で、穏やかな物腰で俺達を迎えてくれた。聞くと、その着物は主人自らが絵付けして作り上げた物だという。「何か、この桜には特別な思いでもあるんですか」 俺の質問にちょっと視線を落として考え込んでいたが、主人は春花に向き直ってつぶやくように言った。「こんな話は誰にでもする物ではないが、このお客さんがあまりにも私の亡くなった息子に似ているから、年寄りの独り言だが聞いていただこうか」 主人は店員にお茶の準備を言い渡し、俺達を店の奥の客間に連れて行った。「私には、3人の息子がおりました。見ての通りの古い街です。代々店を継ぐのは長男と決まっていました。ここの長男も、小さい頃からそのつもりで育てられましたから、他の二人と比べて着物のことや店の切り盛りにも長けており、私どもは安心していたのです。そんなある日、色白のきれいな娘さんが店に現れて、着物を作りたいと言われました。 どんな感じの柄行にするか、色合いはどうするか。着物の絵付けの仕事も少しはやっておりましたので、息子は熱心にその娘さんの好みを聞き出そうとしておりました。そしてその娘さんがどうしてもイメージを伝えたいと、とある街の山に咲く桜を見に来てくれと言い出されたのです。息子は、まだ意欲に満ちておりました。その娘さんについて行き、桜を見学して帰ってきたのです。出来あがった着物は、それは見事な物でした。長年着物に携わっている私でさえ、その出来の素晴らしさにため息が出たほどでした。 ところが、あろうことか息子はその娘さんと駆け落ちしてしまったのです。交際しているのは知っておりましたが、私達がそれを反対したりはしませんでした。ですから、私どもに取っては寝耳に水の駆け落ちでした。彼女と僕らの子供は、絶対僕が守って見せる。それが、息子の残して行った手紙の閉めの言葉でした。今でもその意味を理解する事は出来ません。何ヶ月後、息子とその娘さんが亡くなったと言う知らせをもらいました。しかし、息子の残した、僕らの子供という存在は、いくら探しても見つける事が出来ませんでした。私は、息子とその娘さんが亡くなっていた山に出かけました。そして、そこで見つけた見事な桜を自分なりに着物に作り上げたのがこの作品なのです。もし、息子の残して行った子供が生きているとすれば、この着物を見ればきっとこの敷居をくぐってくれると今でも信じています」
April 4, 2010
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次の日から、俺達のバンドの仕事は再開された。マスコミには、曲作りに専念するためにそれぞれ自宅に篭っていたことになっていたので、混乱はなかった。俺は、入院中に書いた何曲かをメンバーに披露して、次のシングルの選曲に取り掛かった。レコーディングは順調に進み、何事もなかったかのように日々は過ぎていた。だけどそれは、バンドのメンバーとの信頼関係があってのことだ。冴子の体調も順調で、ジンが心配するほどのことはない様だった。 それから2週間ばかり経ったある日、俺はライブの練習をしているスタジオのロビーで、つけっぱなしになっているテレビにくぎ付けになった。画面に映っているのは昼下がりのワイドショーだった。“あのCMのシンデレラ、シェリー・Bが妊娠?!!”画面には派手がましい見出しが書き出されていた。そうか、最近つわりがひどくて、吐き気に耐えていたから、それをマスコミの連中に目撃されたのか。精神的にも不安定な時期だと聞いているだけに、俺は心配でならなかった。ジンに頼んで、春花の元に飛んで行こうかと考えている時、西村さんから電話がかかってきた。「カイ、マスコミに気づかれた。もうスタジオの出口にやつらが張り込んでる。そこで社長と相談したんだが、君さえ良ければここで彼女との事を公に発表したらどうだろう。例の清涼飲料水のスポンサーはすっかり乗り気なんだが、君の所属事務所の社長は、プライバシーに関わるから君に任せると言ってくれたんだ」 俺はわかったとだけ告げて電話を切ると、ジンと冴子に頼み込んで、マスコミが待ち構えているスタジオに向かった。 スタジオの出入り口はマスコミでもみくちゃだったが、みんなシェリーを撮ろうと夢中で、俺が横を通ってもまったく気付く事もなかった。「シェリー、大丈夫か。西村さんが俺達の事、発表したらどうかって言ってくれたんだ。どうする?」 俺は、スタジオに入るなりシェリーを捕まえて尋ねた。春花は口元をきゅっと引き締め、ゆっくりと頷いた。スタジオの出口では、相当な人数が待ち構えているようだった。最初にドアを開けて出たのは西村さんだった。 西村さんはレポーター達を上手に静めると、皆さんに発表する事がありますが、どうか、体調の不安定なシェリーに意地悪な質問だけは避けて欲しいと頼み込んだ。レポーター達はシェリーが逃げないと解ると、みな一様に落ちついて待機していた。大きく深呼吸をして、シェリーが西村さんの合図でレポーター達の前に進み出た。一斉にフラッシュが焚かれた。「みなさん。今日は私の為に集まってくださってありがとうございます」 シェリーは、思いのほか落ちついていた。「皆さんが噂されている通り、私のお腹の中には、赤ちゃんがいます」 シェリーが穏やかな笑顔を見せたので、フラッシュがまたしてもにぎやかに焚かれた。レポーターの中から、相手は誰かと質問が飛んだ。シェリーは、にっこりと微笑んで、皆さんのご想像通りです。っと言って、俺に合図を送ってきた。 俺は、静かにドアを開け、ちょっと頭を下げてシェリーの横に歩み寄った。レポーターの間からやっぱりそうかっと言った頷きとも納得ともつかない返事が広がった。フラッシュが多く、目の前がくらくらした。俺は、春花の耳元に大丈夫かっと声をかけた。するとまたそれを撮ろうとフラッシュが焚かれる。大変な騒ぎだった。「結婚はしないんですか?」 そんな質問が飛んだ。春花はにこやかに微笑んで、これからゆっくりと相談して決めますっと答えた。西村さんが俺達の前に割って入って、もうこのぐらいで勘弁してやってくれと訴えた。そして俺達を用意していた車に乗せて猛スピードで連中をまいてしまった。「これでどうどうと二人で街を歩けるね」 車の中で春花は嬉しそうに言った。そうだなっと頷いて、春花のお腹をそっとさすってやった。 翌日のスポーツ紙には、俺達の写真がでかでかと載っていた。嬉しいような、照れくさいような気持ちの反面、俺は発売日が迫っていたCDの事が気になっていた。しかし冴子はしっかり考えていたようで、今度のシングルのジャケットに、生まれ来る次世代に捧ぐ一曲などと言う見出しをつけていた。遅かれ早かればれてしまうと思っていたらしい。もし、隠し通せるようなら、自分達の子供の事を発表するまでよっと、冴子は堂々と言い放った。まったく、冴子の商才には感服する。 アイドルのような売り方をしていなかったのがよかったのか、俺達の妊娠騒動で、バンドの人気が下がったりファンクラブの会員数が減る事はなかった。世間の騒動も、他の芸能人の騒ぎが起こるとあっという間に忘れられる。俺達は、比較的生活しやすい状況になってきた。 4月になって春花の体調を確かめた上で、俺たちは春花の故郷を訪ねる事にした。春花のお腹に 負担にならないように出来るだけ上まで車で登ると、後はゆっくりした速度で山を登った。向こうに桜の群生が見えてくると、春花は俺を見つめてありがとうっとつぶやいた。そして、軽い足取りで桜の木の下まで行くと、満開の桜を見上げて、ただいまっと言った。ざわざわっと花が風になびいて、穏やかな声が聞えてきた。「春花、おめでとう。もうすぐ待望の子孫を残せるのですね。よくがんばりました。あなたは立派にその役目を果たせそうですね」 ええっと嬉しそうに頷く春花に、満開の桜はまるで微笑んでいるかのように揺れ、子供が生まれたらもう1度ここにいらっしゃいっとささやいた。 春花は上機嫌で、今度は湖に行こうと言った。俺は、春花の体を心配しながらも、湖のほとりまでやってきた。春花は嬉しそうに湖に向かって言った。「お父さん。私、もうすぐ赤ちゃんが生まれるの」「そうか、おめでとう。体を大事にするんだよ」 湖から、あの奥行きのある声が聞えてきた。しかし俺には、湖が喜んでいるようには見えなかった。どことなく悲壮な色を称え、娘の妊娠を祝福しながらも、重い絶望に耐えているように思われたのだ。 俺は、春花に桜の元に向かうように言うと、湖と対峙した。「教えてください。彼女の運命は、もう決まっているのですか?」「何ゆえそんな事を問う?」 湖は静かに言った。「俺には、あなたの心にある絶望が見える気がする」 湖は答えなかった。それでも俺は続けた。「俺は、一時春花を恋しく思う余り、彼女を囲い込んでひどく傷つけ、挙句に春花と引き裂かれると自殺を試みたのです。彼女が妊娠したと知ったのは、そのすぐ後でした。あの一件から、春花は少しずつ変わっていきました。前にここに来た時、あなたは桜の散りざまの事をおっしゃってましたね。だけど、今の彼女なら、もしかしたら...」 湖は、俺を包み込むような色になっていた。「若いと言う事は、本当に素晴らしい。しかし、もしも君の考えと違う結果になっても、自分を責めて苦しんだりしないでくれ。それは、彼女達の遺伝子から来る行為なのだから」 しばらくの沈黙の後、そう言ったきり湖は黙り込んでしまった。後には穏やかな風が、俺を撫でて行っただけだった。 春花の待つ桜の所まで戻ると、彼女の母親は念を押すように春花に再会を約束させていた。「日が暮れると寒くなるから、そろそろ降りようか」 俺の言葉に従って、春花は山を降りた。途中で振りかえると、例の山小屋のおじいさんが畑仕事の手を休めて俺達の方をじっと見つめていた。その眼差しが悲しげで、俺は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。「お父さんもお母さんも凄く喜んでくれたわ。来て良かった」 何も気づかなかった春花は、嬉しそうにそうつぶやくと、俺の方に向き直って、ありがとうっと言った。車に乗り込みハンドルを握りながら、これからは無理しないようにしようなっとだけ言った。しかし、彼女の母親の念を押すような再会の約束とおじいさんの眼差しが、俺の中にしこりとなって残っていた。 それから10日と経たないうちに、春花は不正出血で緊急入院する事になった。俺がスタジオから病院に駆け込んだ時、春花は点滴を施された状態で病室の天井をにらんでいた。「春花、具合はどうなんだ」 焦って春花にしがみついた俺を見て、春花は逆に緊張の糸が切れたように、ポロポロ泣き出した。「カイ。恐かったよ。もうちょっと遅かったら、赤ちゃん流れてしまうところだったんだって」「それで、赤ちゃんは大丈夫なのか」「うん。今は流産を予防するお薬を点滴で入れてるから大丈夫みたい。だけど、トイレ以外では立っちゃだめなんだって」 俺は、ほっとして春花の頭を撫でてやった。 その日から、俺は毎日病院に通った。撮影が始まっていた春花のテレビドラマは、他の人間に交代が決まった。その辺りは西村さんの力が発揮されたのだろう。春花はちょっと残念そうだったが、今は小さな命を絶やさない事に意識が集中していたので、あっという間に忘れてしまったようだった。俺は、春花が不安にならないように、出来るだけ傍に居るようにした。照れくさかったが、育児書も買い込んできた。俺達は、毎日頭を付き合わせて育児書を読みこんだ。 春花が入院して、1週間が過ぎた。病院に行くのもずいぶん慣れてきた。病室に入ると、春花が、診察室に呼ばれて行くところだった。「カイ、すぐ帰ってくるから待ってて」「ああ。気をつけてな」 俺は春花を見送って育児書に手を伸ばした。必要な物をメモに書き写していると、看護士がやってきた。「あら、お父さん熱心ですね。生まれてくる赤ちゃんはきっと幸せになれるわ」 この病院は芸能人も良く使っているせいか、俺達の事を好奇の目で見る者は少なかった。そして、見た目の華やかさと裏腹に、夫婦の関係が希薄な仮面夫婦が多いのか、俺達は、よく看護士や医者にこんな風に誉められたりした。 看護士が体温計を置いて部屋を出ると。入れ違いに春花が帰ってきた。お帰りっと言いかけて、言葉が止まった。春花は真っ青な顔になってゆるゆると部屋に入ると、半ば放心状態でベッドに横になった。俺が居た事すら忘れているように、ベッドに横たわった後も抜け殻のようにぼんやりとしていた。「どうかしたのか?」 春花を気遣いながらも俺が声を掛けると、はっと我に帰ったように俺を見て、そして抱きついてきた。「ごめんなさい。私、どうしていいかわからないの」 春花はがくがくと震えていた。「なにがあったんだ。話してくれよ」 俺は春花の瞳をのぞき込んだ。「赤ちゃんの心拍が聞えないの。もう動いてもおかしくない頃なのに、ちっとも動かないし。来週の検査でも同じ状態なら、もう赤ちゃんの事を諦めなさいって言われてしまったの」「どうして...」 目の前が真っ暗になったような気がした。 春花が泣き崩れた時、さっきの看護士がやってきた。「山野さん。大丈夫?」 彼女も春花の診察結果を聞いて、心配で様子を見に来てくれたのだった。「落ちついて聞いてね。まだ、赤ちゃんが死んじゃったわけじゃないわ。諦めないで。だけど、ごくごくまれに、生きる力が弱くて、成長できないで死んでしまう子もいるの。でもそれは、お母さんやお父さんのせいじゃないわ。その子の寿命なの。でも、今はこの子の生命力を信じましょう。お母さん。赤ちゃんは、あなただけを頼りに生きているのよ。あなたが泣いてばかりいたら、赤ちゃんにそれが伝わって、赤ちゃんまで不安になってしまうわ。しっかりね」 春花はじっと看護婦の言葉を聞いていたが、しっかりと頷くと、涙を拭いて俺に向き直った。「諦めないで信じよう」 俺はそんな事しか春花に言ってやれなかった。それでも春花は気を取りなおして頷いていた。
April 3, 2010
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次の日も、その次の日も、俺は自分でも止められない感情に振りまわされていた。どんなに求めても満足がいくほどには充足感は得られなかった。春花をずっと自分の元に留めておきたい。他の誰にも奪われたくない。後から思えば、ひどい状態だったと思う。自分の仕事もそこそこに、シェリーとして舞台に出ていた春花をストーカーのように追いまわし、家に帰れば獣のように春花を押し倒し、欲望に溺れて行く毎日だ。 始めは笑顔で受け入れていた春花も、1ヶ月も経てばその執拗なまでの執着振りに、顔を背けるようになった。俺は怒り狂い、俺の方を見ようとしない春花を責めた。何がなんだか分からないほどの焦燥感が俺を苦しめる。そんな日が何日か続いた後、西村さんから呼び出しを食らった。 俺は、不機嫌なまま西村さんの待つ喫茶店に出向いた。西村さんは、鋭い視線を俺に投げてきた。「どう言うつもりだ。シェリーはどんどん暗くなって行く。それに、衣装を身に着けたとき、肩に青あざがあった。あれは、君がやったのか」 俺はうなだれて、そうだと言った。西村さんは、きっと俺を睨むと、「私は、シェリーが幸せになるならと、君との同棲を許可したんだ。このままでは、シェリーはダメになってしまう。このまま君達の関係が良くならないなら、彼女のダメージが少ない内に、さっさと別れてくれ。」 俺は愕然となった。今俺から春花を取ったら、何が残ると言うんだ。蒼白は顔を西村さんに近づけて、シェリーと別れるくらいなら、二人で死ぬっとつぶやいた。西村さんも、さすがにその言葉には頭に来たようだった。俺の胸倉をつかんで、ぐっと引き上げると、シェリーはお前の元には2度と返さないっとすごんだ。しかし、自分でもどうしていいかわからなくなっていたその時の俺は、卑屈な笑みを浮かべてされるがままになるしかなかった。 マンションに帰ると、俺は酒を煽るように飲んだ。もう、何もかもどうでも良くなっていた。春花に対する執拗なまでの想いと、それを押さえられない自分に対する激しい嫌悪感が俺を暴れさせていた。カーテンを引き千切り、テーブルに飾られたクリスタルを床に叩きつけた。本棚の本も、CDやビデオもめちゃくちゃに床にまきちらし、行き場を失った俺は大の字になってその上に倒れこんだ。背中にCDケースの角が当たって痛かった。こんなに打ちひしがれていても、体は痛いとか感じるんだなと、なんだか場違いなことが頭を掠めた。見上げると真っ白な天井があった。どんなに暴れても、止めてくれる者もいないのだと痛感した。視線を横に移すと、寝室のドアが半開きになって、その奥で、俺が描いた春花の絵が、静かに俺に微笑みかけていた。暑くなっていた俺の頭の中から、少しずつ熱が引いていくのがわかった。 「春花」 恋しい、いとおしい、狂おしいまでに春花に焦がれていた。それなのに、どうしてこんな事になってしまったんだ。俺は頭を抱え込んで、胎児のように丸くなって泣き叫んだ。涙が枯れるまで泣くと、俺はやおら起きあがって、寝室のフレームに飾られた、春花の絵を壁から外し、抱きしめた。そうだ、俺はどうかしてたんだ。俺の存在が春花を苦しめるのなら姿を消すしかない。俺は思い立って台所に行くと、果物ナイフを取り出し浴室に向かった。リビングに行かなかったのは、後で取りに来るだろう春花の私物を俺の血で汚さないためだ。 水を抜いた浴槽に座って手首を切った。意外にも躊躇いはなかった。そうして俺は春花の絵をひざの前に立てて眺めた。目の前が揺らめいて、涙で春花が見えなくなる。体から力が抜けて行くのが解った。ジンや冴子は、怒るだろうなあ。俺はぼんやりとそんな事を考えていた。遠くでドアが開く音が聞えたような気がしたが、今の俺には遠い世界の出来事のようだった。もう、眠りたい。この絵を抱いて眠ろう。春花の絵を抱き寄せ、浴槽の縁に頭を乗せて目を閉じた。まぶたの裏に春花の笑顔が見えた気がして、俺はほんのちょっと幸せな気持ちになれた。ありがとう。。。 聞き覚えのある音楽で、俺は目覚めた。白い天井、白い布団、無機質な匂いで、ここが病院である事がわかった。俺は生きているのだろうか、それとも、ここは霊安室か。腕を動かそうとして、左手がズキッと痛んだ。良く見ると、手首に包帯が巻かれていた。右手には点滴が施されていた。そうか、死に切れなかったのか。俺は、自分に対する憐れみと安堵の中でぼんやりと揺れていた。 どのくらい経っただろう。気が付くと、廊下で人の気配がした。西村さんの声も聞こえてきた。「大丈夫か?」そんな風に言っているようだったが、それは俺に向けられた言葉ではないようだった。ほどなくノックが聞え、廊下の気配が室内に流れ込んできた。「カイ。気が付いたの?」 春花だった。あんなにひどい事をしていたのに、彼女は心配そうに俺に取りすがると、じっと俺の目を見つめていた。その視線には一点の翳りもなくて、俺はおろおろと目をそらせてしまった。そしてその瞬間に、自分の心の中にチリチリと焼けるような痛みが走った。俺は、また逃げようとするのか。春花の後ろには、うつむいた西村さんがいた。「すまん。私が言い過ぎたんだな。君達のプライバシーに立ち入り過ぎたようだ。シェリーにも随分責められたよ」 西村さんは、申し訳なさそうに言ったが、それは違う、違うんだ。もうこのままでは人として許されない気がしていた。「西村さんのせいじゃない。俺が悪かったんだ。どうかしてたんだよ」 出血がひどかったのか、俺の体は鉛のように重く、話す事さえ辛かった。「危ないところだったのよ。発見があと1時間遅かったら、もう2度と会えないところだったって」 春花の瞳がみるみる内に涙で滲んだ。俺は、点滴の針の刺さった右手でそっと春花の手を握った。「ごめん」 どう謝っていいのか分からないほどに、俺は春花に申し訳なく思っていた。だけど、俺の口をついて出たのは、たったの一言だった。春花はちょっと西村さんを見て頷くと、ニュースがあると言い出した。俺が黙って聞いていると、春花はそっと自分の下腹部に手を当てて、優しい表情になった。そして、「カイ。パパになるんだよ」と告げた。 俺は、脳天をかち割られたような衝撃を受けた。そして、なんだか自分の悩みや苦しみがとても幼稚なものに思えてきたのだった。俺は、一体何をやっていたんだ。こんな情けない俺の子供を、春花はしっかりと育んでくれていたっていうのに。自分の愚かさと情けなさと、そして、辛い状況に耐えながらも傍にいてくれた春花への敬意と、そして何より新しい命の芽生えに対する喜びで、頭の中がごちゃごちゃになっていた。「生きていて、よかった」 俺が春花に言えた言葉は、そんな情けないものだった。 俺が落ちついた頃、バンドの仲間がやってきた。皆俺が意識を取り戻したのを確認すると、一様にホッとした様子を見せた。「なんだか心配して損しちゃったわ」 冴子が一番ホッとした顔をしながらそう言った。シュウはそっと傍に来て、なんで自分に相談してくれなかったと突付いてきた。ホリーは前の一件で春花とすっかり仲良くなって、心配したでしょうっと、労わるように春花に声をかけていた。後で聞いたのだが、流れていた音楽は、バンドの連中が俺の為にかけ続けてくれていたのだ。俺にはこの曲が一番いい薬になるだろうという事だった。そう、俺が春花のイメージで作ったあの曲だった。「医者の話しだと、1週間で退院できるそうだ。丸二日寝てたんだし、その間に曲でも作っとけよ」 ジンはそう言うと、五線紙とペンをベッドの脇のテーブルに置いた。きびしいなあっとビーがジンを見て言ったが、俺はその気遣いが嬉しかった。「こんな事やらかした後で言うのも変なんだけど、さっき生きてて良かったあって思えるような事があったんだ。だから、いい曲ができそうなんだ」 皆はその言葉に呆れて笑い出した。 皆を見送ると、春花一人が俺に付き添ってくれた。「大丈夫なのか?」 俺は春花の体を気遣った。春花はうんっと頷いて、仕事を減らしてもらったともらした。たぶん、西村さんが手を回してくれたのだろう。後で聞いた話だが、西村さんはこの時、社長に直談判して、大事な女優の体を労わってもくれない会社なら、こちらからやめてやるっと啖呵を切ってくれたそうだ。社長は折れたが、奥さんには散々叱られたと言っていた。 翌日、点滴を外してもらっている間に、俺は思いついた曲を楽譜に書き込んでいた。春花も仕事で出かけていたし、静かな1日の始まりだった。ドアがノックされて、ジンが入ってきた。ジンは、俺のベッドサイドのイスに腰掛けて、悩んでいる様子だった。何かあったのかと水を向けると、冴子もどうやら妊娠したらしいと言うのだ。俺は思わずおめでとうっと言ったが、ジンの表情は暗かった。 ジンは、冴子のマネージャーとしての手腕を買っていた。なにも今子供を産まなくても、まだ機会はあるはずだというのだ。普通の事務職と違って、マネージャーの仕事は体力が必要だ。身重の体で、その重労働に耐えられるとはとても思えないと言うのだ。しかし、冴子はどうしても生みたいと主張していた。 俺は、冴子のやりたい様にやらせるべきじゃないかとジンに答えた。冴子の事だ、どうせ家で大人しくなんてしていないに決まってる。自分の体調と折り合いをつけながら、美奈ちゃんや志乃ちゃんをうまく動かして、やっていくだろう。後は、俺達ががんばれば良い事だ。俺の考えを黙って聞いていたジンは、そうかっと一言つぶやくと、礼を言って帰ろうとした。「お前だってパパになるんだぜ」俺は、ジンの後姿に声をかけた。ジンはちょっと頬を赤くして、「そうか、パパになるのか」と照れくさそうに微笑んで帰って行った。 退院の日になった。春花が持って来てくれた私服に着替えて、病院を後にした。マンションに帰ると、部屋の中は以前と変わらない状態になっていた。あんなに大暴れしたのに、カーテンもクリスタルの置物も以前と同じように置かれていた。春花は、ちょっと得意げに笑っていた。「何も、変わってないよ。カイが描いてくれた絵だって、ちゃんと寝室に飾っておいたもん」 俺は、ありがとうと言う変わりに、春花をしっかりと抱きしめた。
April 3, 2010
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翌日は、二人で連れだって買い物に出かけた。もちろん、目深に帽子を被ってめがねをかけてはいたが、それでも新しい日用品を二人で選んで買うのはなんだかくすぐったいような気分だ。次の日に備えて、礼服も買った。春花には、桜色のサテンのワンピースを選んだ。さんざんまわってマンションに帰ってくると、春花がコーヒーを入れてくれた。俺は、なんだかとっても嬉しくなってきた。俺が買った物をそれぞれの場所に片付けていると、春花はこんなに楽な買い物は初めてだと大喜びだった。そうか、二人で暮らすってこういうことなんだ。俺は、改めてそう思った。 朝から春花と二人で身支度をして、ジンと冴子の結婚式に出かけた。挙式は、俺達バンドの仲間と親戚だけの落ちついたものとなった。幸せそうな二人を見送って帰り支度をしていると、シュウが駆け寄ってひやかした。「カイ!みずくさいじゃないか。あのスケッチの女の子って、お前の彼女のことだったのか」 まあなっと笑ってやり過ごした。シュウは、春花がシェリーだとは気がついていなかった。「あーあ。俺も彼女がほしいなあ」 まるでそんな気などなさそうに、シュウは呑気に言った。 俺が春花を促して式場を出ようとしている時、ホリーがシュウに声をかけていた。ホリーとシュウ?なんとなく合わない二人だったが、ビーはさっさと例のアイドルの元に帰ったらしいし、俺には春花がいたのでシュウを誘って一緒に帰ろうとでも言ってるのだろう。 うちに帰って二人で食事をしていると、春花がぽつりとつぶやいた。「ホリーさん。どうしただろうね」 俺には何のことだかすぐには理解できなかった。しかめっ面で箸をとめている俺には構わず、春花は遠い目をしてため息をついた。「シュウさんって、鈍感そうだもんね。悲惨な事に成ってなきゃ良いけど」 きっとホリーは傷つくに違いないと言わんばかりだった。「何の話し?」 俺は堪りかねて春花に問いただした。春花はそんな事も分からないのかとでも言うように、ちょっと俺を睨むような素振りをした。「ホリーさんのシュウさんを見る目を見ればすぐ分かるわ。彼女はシュウさんが好きなのよ」 俺がその言葉の意味を受け入れられるまでに、携帯が鳴り出した。ホリーだった。ホリーは、まともに話も出来ないほど、泣き崩れていた。俺が戸惑っていると、春花がホリーにうちに来てもらおうと言い出した。ホリーに伝えると分かったと言って電話は切れた。 春花は、いつになく真剣な顔で俺に言った。「カイ。分かってると思うけど、ホリーさんは真剣なのよ。遊びの恋とは違うわ。ホリーさんの話し次第では、カイも力を貸してあげてよ」 俺は、妙に大人びた春花の言葉に面食らった。 やってきたホリーは、案の定泣きはらした顔になって、いつもの勝気で知性的な姿はどこにも無かった。ホリーは春花を見ると居心地悪そうに、おじゃましてごめんなさいと謝ったが、ホリーを家に呼んだのは春花の方だ、謝ってもらう必要など元よりなかった。春花がいれた紅茶を飲んで少しずつ落ちつきを取り戻すと、ホリーは今日までの出来事をポツリポツリと話し始めた。 春花の想像通り、ホリーは随分前からシュウに想いを寄せていたそうだ。ところが、ビーがホリーにちょっかいを出すようになって、シュウはホリーがビーと付き合っていると勘違いしていたらしい。ホリーが声をかけても、なんとなく辺り障り無く逃げられて、どうしてもちゃんと話を聞いてもらえずにいたそうだ。思い悩んでいる時、相談相手だった冴子が思い切ってジンの胸に飛び込んでうまく受け入れてもらったのを見て、自分も体ごとぶつかってみる気になった。ところが、シュウはジンほど女心を理解していないから、ホリーが迫ってくるのを見て恐くなって逃げ出したと言うのだ。シュウ…。お前、男のプライドってもんがないのか?深い深いため息がでた。「今日はここに泊まって行けばいい。俺はちょっとシュウに会ってくる。後、頼んでいいか?」 最後を春花に向けて言った。春花はうんっと力強く頷いて、その瞳で俺にがんばれと合図した。俺は歩きながらシュウに電話した。 シュウは、声の主が俺だと分かると、ホッとしたように明るくなった。これからそっちに押しかけてもいいかと問うと、2つ返事でOKしてきた。行きがけにビールとつまみを買い込んで、シュウのマンションに向かった。呼び鈴を鳴らすと、戸惑った様子のシュウが顔をだした。「邪魔するぜ」 シュウがうろたえている事に気づかない振りで、さっさと奥に進む。シュウは、今日自分の身に起こった事を俺にどう切りだそうかと考えているようだった。俺は、とりあえず買い込んだビールとつまみをテーブルにぶちまけると、シュウにも飲むように勧めた。少し酔いが廻ってきた頃、シュウがつぶやいた。「俺は、女ってやつが分からなくなったよ」 黙ってシュウの言葉を待つ。シュウはそんなに口の軽い男ではないが、酔いに助けられてポツリポツリ話し始めた。「一緒に酒を飲みたいって言われたんだ。だから、快くOKした。そいつの男が、最近若い女の子と噂になってるのを聞いてたから、愚痴でも聞いてやろうと思ってたんだ。ところが、アイツは酒が入ると、突然服を脱ぎ出したんだ。そして、これから自分を抱いてくれって言い出した。焦ったぜ、まったく」 シュウは考えられないっとばかりに首を横に振った。「なんで焦るんだ。俺だったらちゃっかり頂くけどなあ。お前、その女に何か苦手意識でも持ってたのか?」 俺はあえてホリーの名前を出さなかった。シュウは、じっと自分の頭の中を整理するようにビールのグラスを見つめていたが、深いため息と共に、そうかもしれないっとつぶやいた。「シュウ、お前女嫌いだったのか?」 俺は、ワザとはぐらかして見た。シュウはムッとして返してきた。「バカ言え!俺は太ってるけどホモじゃねえぞ!逆なんだ…。俺、そいつの事ずっと気になってたんだ。だけど、他のやつに先越されて自分の気持ちを言い出せなくなったんだよ。アイツ、俺の気持ちなんか知らないで、何かにつけて俺に声をかけてくるんだ。俺は必死であいつの事忘れようと思ってるのに、あいつは俺の方ばっかり見てるんだ。その挙句にさっきの出来事だったんだぜ。もう勘弁してくれって、叫んだよ」 開いた口が閉まらなかった。シュウ。お前ってひょっとして、チェリーボーイか?俺は、心の中でつぶやいた。 シュウは、それ以上そのことには触れたくない様子だった。すぐにジンと冴子が穏かになってほっとしたとか、俺が同棲するとは思わなかったとか、そんな話に花を咲かせた。 シュウが気を取り直している様子なのを見計らって、俺は、シュウに無理を言って家の荷物を預かってほしいと頼み込んだ。シュウは、この部屋に入るものなら預かってもいいといったので、二人して俺のマンションまで取りに行くことにした。俺のマンションが見えてきた頃、俺は誰に言うとも無くボソリとつぶやいた。「ところで、俺、てっきりホリーとビーが付き合ってるんだと思ってたんだが、違うらしいなあ。ビーが勝手に熱上げてて、ホリーも手を焼いていたそうだぜ。まあ、今じゃあビーも若い子に夢中になってるから、ホリーとしても助かったってとこだろうけどな」 よそ見をしながら歩いていた俺は、突然立ち止まったシュウの背中に顔面からぶつかった。「それ、マジなのか…」 シュウには似つかわしくない真剣な表情だった。俺はわざと気の無い風に、そうだとだけ言ってシュウの横を通り過ぎると、マンションの呼び鈴を押した。「お帰りなさい」 春花が心配そうに俺達を迎えた。俺は、問い掛けるような春花の瞳に頷いて見せた。そしてシュウには、こっちなんだっと奥に促した。 ホリーのいるリビングのドアを開ける前に、俺は駄目押しに一言言った。「冴子のやつ、ジンに振り向いてもらうために体を張って体当たりしたらしいなあ。なんか想像できないけど、健気だよなあ」 俺は、そういいながらシュウの顔をのぞき込んだ。シュウは、朗かに動揺していた。「シュウ。お前に持って帰ってもらいたいのは、あれなんだ」 俺は、下を向いて、リビングに座っているホリーを指差した。 シュウは、真っ赤になって今来た廊下を玄関に戻ろうとした。一瞬顔を上げたホリーは、その様子を見るとまた落ち込んで下を向いてしまった。やっぱりダメか。俺が諦めかけた時、春花がシュウの前に立ちはだかった。「シュウさん、待って!女の子が好きな人の前で服を脱ぐって、どんなに恥ずかしい事か解る?変な奴だなんて思わないで!彼女をそこまで追い詰めたのは、あなた自身なのよ」 気が付くと、春花のひざはがくがく震え、その目から涙が溢れていた。俺は急いで春花の傍にいって頭をなでてやった。春花は、俺が横に来た事で緊張の糸が切れたのか、俺にしがみついてホリーがかわいそうだとわーわー泣いた。すまん、気にしないでくれっと、俺はシュウに声をかけた。 気が付くと、ホリーが立ちあがって帰り支度をしていた。もういつもの勝気なホリーの顔に戻っていた。「シェリー、ありがとう。でも、人の気持ちはこっちの都合では変えられないのよね。私、帰るわ。カイ、シュウ、迷惑かけてごめん。心配しないで、明日にはいつもの私に戻ってるわ」 まったく、やせ我慢しやがって。俺が小さなため息を着いた時、シュウの巨体が動いた。「すまん。俺が勝手に勘違いして、一人ですねてたんだ。お前は何も悪くない」 シュウは、華奢なホリーの体を潰してしまいそうな勢いで彼女を抱きしめると、熱病に冒された様に暑苦しいキスをした。 二人は何度も何度も頭を下げて、礼を言った。そして、幸せそうに見詰め合ったまま腕を組んで帰って行った。俺は、改めて春花に向き直ると、ありがとうっと礼を言った。「ずっとこのままでいられたらいいのにね…」穏やかな笑顔を見せてそっと言う。その言葉の中にそうは成らないのだと言う匂いを感じ、俺は一時忘れかけていた春花の儚げな翳を思い出し、再び焦燥感に襲われた。「春花、俺達も結婚しよう。結婚して子供作って、孫達に囲まれるようなそんな老後を作ろう」 俺は、みっともないほど春花を恋しく思っていた。春花は嬉しそうにクスっと笑って、俺の胸に飛び込んできた。熱い口付け、甘い吐息、春花の白い肌が、俺を夢中にさせてゆく。しかし、俺の提案に春花は首を縦には振らなかった。心の隅にその事実を留めながら、突き上げてくる欲望を止める事はできなかった。
April 3, 2010
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シェリーは、女優としては天性の物を持っていたようで、大したトレーニングをしなくても、すぐにその場に馴染んでいった。そして、夏が終わったからという理由で、真っ黒だった肌も美白に力を入れたのか、見る間に白い透通るような肌に変わっていった。西村さんに言わせると、それこそが女優魂だそうだ。念願叶ってご機嫌のシェリーを見やりながら、その奥底に眠る底知れない才能に俺は舌を巻いた。 店に着いて料理が運ばれてくると、俺達は酒を酌み交わし日ごろの労をねぎらった。シェリーは飲んだことの無い酒を試してみたいと言って、ジュースでも飲むようにコップに注いでごくごく飲んでしまった。俺と西村さんは慌てて水を飲ませたが、後の祭だった。シェリーの勝気そうな瞳はとろんとした甘い表情になり、なにが嬉しいのか一人でクスクス笑い出した。「参ったなあ。シェリー、眠くなると困るから今のうちに食事を済ませてくれよ」 うんうんと西村さんの言葉に頷いて、シェリーはご機嫌で料理に手をつけた。俺は、そんな緊張を解いたシェリーの顔を見て、体中に電流が走ったような衝撃を受けた。春花!まさしく目の前にいるこの少女は春花だった。俺はなんとか自分を落ちつかせ、シェリーにさりげなく尋ねた。「シェリーって、本名は何て言うの?」 シェリーは甘い表情のまま、「ひみつー」と言った。「じゃあ、今までどこでなにしてたの?」「それもひみつー」 見かねた西村さんが、そっと耳打ちした。「彼女、どうやら記憶が無いようなんだ」「お宅の事務所の近くの公園で、ぼんやりベンチに座ってるのを、うちのスカウトマンが見つけてきたんだが、社長がいたく気に入ってね。そのまま社長の家に間借りして歌のレッスンとかやったんだけど、ある程度できそうだってことになって、最近一人暮しを始めたところなんだ」「じゃあ、シェリー・Bって誰が付けたの?」「それが、社長が彼女とはじめて面会した時、過去の事で覚えている事はないかと社長に聞かれて、彼女、『さくら』としか言わなかったんだ。それで、cherry blossomからシェリー・Bとなったそうだ」 さくら...俺は、ますますシェリーが春花である事を確信して行った。 俺達が、こそこそ話し込んでいる内に、シェリーは酔いが廻ったのか眠ってしまった。西村さんは、シェリーのあどけなさの残る寝顔を見ながらため息をついた。「どう見たって二十歳には見えないよな。だけど、記憶が無いままの未成年を勝手に働かせる事も出来ない。それに、警察に連れて行っても結局施設に入れられてしまうだけだ。それなら、彼女のやりたいようにやらせてみようと言うのが社長の本音らしい。そうなると、二十歳以上で無いと、まずいだろ。だから、はっきりと二十歳となってるんだ」 俺は改めてシェリーを見た。透通るような肌に酒のせいか紅が指している。ワインレッドのセーターが良く似合っていた。なにか彼女が春花であると分かる物はないだろうか。例えば、あのハイキングコースにシェリーを連れて行ったらどうだろう。西村さんに頼んで、翌日3人で例の場所を目指すことにした。 シェリーは初め、どこに連れて行かれるのかと訝っていたが、ハイキングだと分かったとたん、大喜びで準備を始めた。目的地に着いて車を降りると、まるで前からこの辺りの事を知っているかのようにさっさと上って行く。俺と西村さんが息を切らしているのを、不思議そうに見下ろしては、朝から何度目かの気持ちいいを言い放った。「どうだシェリー。気に入ってくれたか」 俺の問いに、うんっと大きく頷くと、また先へと進んで行く。 例の桜の群生する場所に着いた時、シェリーは紅葉した桜の木々を見上げて、はあっと大きなため息を付いた。そして、「ただいま」とつぶやいたのだ。その言葉を俺達は聞き逃さなかった。「シェリー、何か思い出したのか?この辺りに来た覚えがあるのか?」 西村さんはシェリーを捕まえるようにして問いただしたが、シェリーは首を傾げていた。答の出ないまま、西村さんは問いただすように俺を見た。俺は頷いて、レジャーシートを広げると、ここで弁当を広げようと提案した。 シェリーは、食事中も飽きる事無く上を見上げ、うっとりとその鮮やかな紅葉に見とれていた。俺は、仕出しの弁当を食べ終わると、西村さんに春のイベントの事や、そこで出会った不思議な少女の話しをかいつまんで聞かせた。しかし、彼女の父や母からの言葉や、春花という名前に付いては結局俺は話さずに置いた。 西村さんは考え込んでいた。もしこんな絶壁から身を投げたのなら、彼女は確実に命を落としているだろうというのだ。それは、もっともな話しだった。結局何も確実なものを見つけられないまま、俺達は山を下りた。帰りの車の中で、シェリーが俺を誘った。自分の自宅に遊びに来いというのだ。俺は西村さんの顔を覗ったが、今日はオフだから感知しないと言ってくれた。 シェリーのマンションに到着すると、俺達を下ろして西村さんは引き上げようとした。何でも今日は奥さんの誕生日だそうだ。俺は、急いでさっき通った道路沿いの花屋に走り、バラの花束を買い込むと、西村さんの車に投げ込んだ。西村さんは真っ赤になって照れていたが、すぐに真顔になって帰りは一人で出てきてくれと注文をつけた。写真誌が狙っているとも限らないからだ。西村さんを見送ると、シェリーが俺を急かせて、部屋に案内した。昨日の内に新しいゲームを買い込んでいたらしい。しかし対戦相手がいないとイマイチたのしくない。結局そういうことだったのだ。 俺達は、夜遅くまでゲームに熱中した。何度目かのゲームに決着が付いた時、シェリーが台所から酒とグラスを持ってきた。昨日のことで懲りたと思っていたのに大間違いだった。慣れない手つきで酒ビンのふたを開けようとするシェリーにストップをかけると、俺は台所に押しかけた。「冷蔵庫の中のものは勝手に使って良いのか」 シェリーが頷いたのを見ると俺は早速料理にかかった。自炊生活が長いせいか、こういうことは苦にならなかった。手っ取り早く仕上げたつまみをシェリーの前に並べてやると、驚いたように歓声を上げた。今度は寝つぶれたりするなよと念を押して、少しだけシェリーに注いで遣った。 シェリーは嬉しそうにそっとグラスに口をつけた。そして、俺が作ってやったつまみを口に運んでは、おいしいを連発した。ゲームの話しや仕事の事でしばらく話しが盛りあがった後に、シェリーは小さな声で言った。「今日はありがとう。私、あの桜を見た瞬間から記憶を取り戻していたの」「春花。無事で良かった」 俺は思わず春花を抱きしめた。そうしないと、本当に生きているのか、それともこれはまぼろしですぐに消えてしまうのか、それさえもわからなかったのだ。 俺達は、ごく自然にキスを交わした。そして、その夜の内に、定められていた事のように二人は結ばれた。しかし、何度抱きしめても、何度キスをしても、彼女の儚げな雰囲気は消えず、彼女が消えてしまうのではないかと言う焦燥感が俺を苦しめた。 翌朝俺は、まだ春花が眠っているうちにマンションを出た。幸いカメラマンらしい人物に出会うこともなく、自宅に帰ることができた。 それからの俺たちは、まさに秒単位の忙しさで、メールや電話のやり取りが殆どだったが、それでも春花をそばに感じられるものがあれば、それで随分と癒される思いだった。 気が付いたら年が明けていた。売れると言う事がどういう事なのか、やっと分かってきたような気がする。クリスマスも正月も俺達には関係無かった。次のアルバムのレコーディングを終えて、やっと休暇を貰えたのは、2月にはいってからだった。ボーイッシュな感じに刈り上げていた春花の髪は、出会った頃と変わらない緩やかなロングになっていた。 俺と春花が親しくなっている間に、ジンと冴子もその関係を深めて行った。後で聞いた話だが、冴子はあの日俺の部屋を出てから、やっぱりジンに会いに行ったらしい。そして、ほとんど強引にジンを襲って奴を自分のものにしたらしい。まったく、恐ろしい女だ。休暇前のミーティングの時、ジンは皆の前で冴子と結婚する事を発表した。休暇の内の1日を、自分たちの為にあけて欲しいと言うのだ。俺達が祝福したのは言うまでも無い。それにしても、仕事が忙しくなると、あんなに行き来していたメンバーともなかなかゆっくり集まれない。俺がCM撮りに入っている間に、ホリーはアルトサックスのソロCDで、話題をさらっていたし、ビーはアイドルの女の子をプロデュースして、その子と浮名を流していた。あんなにホリーにこだわっていたのがウソのようだ。 収入が安定して良くなってきたので、俺は郊外のマンションに引っ越す事を計画していた。今度の休暇はそれにはお誂え向きだった。皆と別れると、俺はすぐに西村さんに連絡をとった。もちろん、春花と同棲する事を認めてもらうためだ。難しい話になると覚悟していた俺だったが、返事は意外にも簡単だった。例のCMで、結婚式の様子を使わせてくれるならOKだというものだった。まだ、春花にさえ結婚について話していないのにと、随分面食らってしまったが、勿論結婚する事はやぶさかではない。西村さんに頼み込んで、彼女にはこの電話の事を話さないでもらって、俺はシェリーの仕事が終わる頃、彼女を迎えに行くことにした。 シェリーは俺の顔を見るなり、嬉しそうに手を振って来た。シェリーを俺の車に乗せると、西村さんが耳打ちしてきた。「今日は調子が悪いみたいで、何度もNG出してたんだ。ちょっとご機嫌とってやってくれよ」 俺は、片目を瞑って頷くと、車に乗り込んだ。今日はシューティングゲームで勝負しようと持ちかけるシェリーに、ちょっと付き合ってくれと頼んだ。きょとんとしているシェリーを乗せて、俺は手付けの済んだマンションへと車を走らせた。「誰のお家に行くの?」 怪訝そうな顔で俺を見るシェリーを連れて、俺はその部屋に入っていった。2LDK+ウォークインクローゼットのその部屋に、シェリーはステキを連発した。広いベランダと出窓があって、フローリングの床と柱やドアは、木目を生かしたデザインになっていた。壁は淡いベージュで、前もってつるしておいた桜色のカーテンがしっくり馴染んでいた。「春花、俺とここで暮らさないか」 大きな瞳をより一層大きく見開いて、春花は俺を見つめた。「俺は、明日ここに引っ越すんだ。春花さえよかったらいつでも越して来いよ」「でも、...」 春花は西村さんや会社に承諾がいると思っているようだった。その時、春花の携帯が鳴った。「シェリー、新しい部屋の居心地はどうだい。社長にはもう連絡済みだから、心配しなくて大丈夫だ。引越しが決まったら、連絡しろよ。じゃあな」 春花は俺をチラッと睨むと、ずるいと言って膨れた。自分に教えてくれないで、先に会社にOKを取り付けていたなんて、と責めたのだ。はちきれそうな頬を指でつつくと、いっぺんに笑顔がはじけた。 引越しは、プロに任せておいたので、あっという間にカタがついた。春花も必要最小限の荷物を持って、俺と一緒に引っ越してきた。残りの荷物は、ジンたちの結婚式の後にして、とりあえずの新居を整えた。洗面台に2本の歯ブラシを立てて、春花は鼻歌を歌っている。俺は、あのハイキングの後で描いた春花の絵を、寝室の壁にそっとかけた。 やっと落ち着いたらもう深夜だった。俺たちは注文しておいた大きなベッドに二人並んで寝転んだ。引越しの疲れかすぐにとろんと目を閉じた春花は、子どもみたいな寝顔だった。
April 2, 2010
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俺達は、居酒屋に向かった。CDデビューしたと言っても、まだまだ駆け出しのバンドだ。生活にゆとりがあるわけでもなかった。俺達は安い酒を酌み交わして、これからのことを話し合った。CDの売上はそこそこ。これは冴子達の功績が大きいだろう。インディーズ時代からのファンにも頭が下がる思いだ。後はライブを成功させて、今後の活動の足がかりにしていく努力を惜しまない事。ジンはリーダーらしく、力強く言った。 飲んで食べてご機嫌になって店を出る頃、ジンがポツリと言った。「もう、大丈夫なのか」「えっ。」 俺がきょとんとしていると、ジンはため息混じりに言った。「冴子がさ。お前が落ち込んでたりすると、めちゃくちゃ機嫌が悪いんだよ」「なんだよ。ジンは冴子と付き合ってるんだろ。上手い事ご機嫌直してやればいいじゃないか」 俺がジンの背中をたたいて言うと、ジンは眉をしかめて言った。「俺が冴子と?世の中そんなに甘くないよ。冴子はお前にご執心らしい。その内襲われるんじゃないのか?」 ジンは酔いに任せてそう言うと、じゃあな。と帰って行った。冴子が俺を襲う?俺は背筋に寒気を覚えて、急いでアパートに帰った。 それからしばらくは、レコーディングとライブの練習に追われた。自宅とスタジオの往復が続いた後には、ライブツアーが用意されていた。 パンフ、衣装、演出。なにもかも自分たちで相談して作り上げた。短い期間だが、タイミングを逃すと次がない世界なのだ。俺はライブに集中することで、他のすべてを凍結させた。そう、心にうずく何かまでも。全国数カ所を廻るツアーは、思いのほか盛況の内に幕を閉じた。レコード会社の人が用意しておいてくれたささやかな打ち上げパーティーで、俺達メンバーは派目を外して騒ぎまくった。明日から3日間の休みを経て、再び曲作り期間に入る。季節はもう夏になっていた。 俺は、アパートに閉じこもって春花の事を思い出していた。透通るような肌、薄紅色の唇、腰まで伸びた甘いこげ茶色の髪。黒目がちの瞳には優しい輝きを称えていた。俺はおもむろにくちずさんだメロディーをそのまま曲にしてみた。彼女や彼女の周りで見た物を思い浮かべれば、いくらでもメロディーは浮かんでくる。曲を作る事がこんなにも楽しかったなんて。俺は、あっという間に数曲を書き上げると、そのイメージに合わせて詩を書いた。 一息ついて、近くのスーパーに食料の買出しに出かけた。あれこれ買い込んで戻ってくると、アパートの前に冴子が立っていた。「お帰り。悪いんだけど、これ、付き合ってくれない?」 冴子は手に下げていた袋から酒ビンをちょっとあげて見せた。気丈な冴子にはめずらしく、目が赤い。何かあったな。今日は腰を据えて飲み明かすことになりそうだ。俺は覚悟を決めた。 部屋に入ってグラスを用意すると、冴子はいきなりグラスにいっぱいの酒を注いでぐぐっとのみ干した。「無茶な飲み方するなよ。今つまみでも作ってやるから」 俺が呆れて注意しても、聞く耳もたないと言った風だ。手早く出来るものを2、3品用意すると、テーブルに運んでやった。俺が席に落ちついた時には、一本目の酒ビンが半分になっていた。呆れる俺に酒を注いで、あんたも飲めと絡んでくる。こうなったら正気でいた方がバカを見る。俺はつまみを突付きながら、酒を楽しんだ。 俺が2本目のビンに手をかけた時、冴子がボソリとつぶやいた。「私、まだあなた達がデビューする前にイベント興行の元締め遣ってる会社の重役とバーで知り合ったの。私があるロックバンドを売り出したいんだって言ったら、随分感激してくれて力になってくれるって言い出したの。バンドを売り出すためのノウハウには長けた人だったし私も若かったから、二人の利害はすぐに一致したわ。分かるでしょ、その意味。だけど、あなた達がそこそこ売れそうだと分かると、相手も儲けることに本腰を入れる気になってきたのね。マネージャーの首を挿げ替えると言い出したの」 冴子はタバコを取り出して、一口吸い込むと、ふうっとため息混じりに煙を噴出した。「確かに世の中には敏腕マネージャーと言われる人はたくさんいるわ。だけど、決して負けない働きはしてきたつもりなのに」「冴子に勝るマネージャーはいないよ。だけど、まだ事務所側から通知が来たわけじゃないだろ。それに、もしマネージャーじゃなくなっても、冴子は俺達の仲間さ。それは決して変わらないと思うよ」 冴子はちょっと淋しげに笑って言った。「カイはいいよね。優しくてさ」「ジンに相談しなかったのか?」 俺の言葉に、冴子はより一層淋しそうにうつむいた。「ジンはダメよ。個人の気持ちよりも、まずバンドの事を考える人だもん。私より腕の立つマネージャーが来るなら、首を縦に振ると思うわ。お願い。もうジンの事は言わないで。これ以上自分を傷つけられたくないの。今夜だけでいいから、カイの優しさを貸して。誰かに労わってもらわないと、気が狂いそうなの」 冴子は、お気に入りの鋭いめがねを外して髪を下ろすと、俺に助けを求めてきた。 その体を代償にブレインを手に入れたと言うだけあって、冴子は素晴らしいプロポーションと相手を満足させるだけのコツを心得ていた。俺はジンの事を気にしながらも、すぐにそれに溺れて行った。汗を流して服を着替えると、冴子はくわえタバコで、冷蔵庫からビールを取り出していた。俺は冴子のビールを取り上げると、アイスコーヒーをグラスに注いで手渡した。「もう、いいだろ。それでも癒されないって言うなら、ジンにぶち当たってこいよ」「カイ...。あっさりしてるのね。好きな子でもいるの?」 ブラックのコーヒーを苦そうに飲みながら、冴子は俺をからかう様に言った。「ああ、いるさ。プラトニックラブだぜ」 冴子は大袈裟に驚くと、ご馳走様っと言ってあっさり引きあげて行った。 俺はベランダに出てタバコを一本吸いながら、胸に残るむなしい気分を追い払った。部屋に入ると夕方作りかけていた曲の続きを仕上げた。この曲を口ずさんでいると無性に彼女に会いたくなる。はたと思い立って、急いで押入れから画材を引っ張り出す。今、描いておかないと、もう2度と彼女の顔が浮かんでこないような気がしたからだ。結局残り2日をその絵の作成に費やして、打ち合わせの日の朝を迎えることになった。 俺は、部屋に飾るために描いた大きな絵とは別に、手帳にファイルできるぐらいの小さなスケッチに色鉛筆で薄っすらと色づけした物を打ち合わせ場所に持っていった。主に作詞を担当しているシュウに、俺のイメージを分かってもらうためだ。打ち合わせは、次のアルバムの方向性をある程度定めるものだったが、どうも話しが煮詰まって前に進まない。ジンが休憩を入れる事を提案したので、自分はシュウのところに曲を持ち込んでみた。 俺の歌う鼻歌で、シュウは乗り気になってきた。「いいねえ。今までのカイの曲とは違う路線で来たな。曲調は明るいが、聞き終わった後に残る切なさがいいね」「もう1曲は歌詞も書いてみたんだ」 俺が歌う。皆が集まってくる。半分も歌わない内に、シュウがリズムを刻み出す。ビーがさびの部分をハモってくる。いい感じに皆の歩調があってくるのが分かった。歌い終わると拍手喝さいで、俺は深々と頭を下げた。「カイ。例の桜の影響か?」 ジンがすかさず言った。「まあね」 俺はあの日のことについて多くを語らなかった。皆も、それを知ってか知らずか尋ねても来ない。そのままうやむやにしたまま今に至っていたのだ。俺は、思い切って手帳に挟んだスケッチを公開した。ほう、なるほどっと、みんな口々に納得する。「今の曲はそのままの歌詞でいいんじゃないか。軽いタッチの曲だが、ずっと聞いていたい気持ちにさせられる。じゃあ、俺はその女の子のイメージでさっきの曲の歌詞を書けばいいんだな」 シュウがニヤニヤしながら俺に言った。よろしく頼むと頭を下げる俺に、シュウはせり出した腹を突き出して、まかせとけっと胸を叩いた。 俺の曲は、あっという間に12インチシングルとして発売される事が決まった。具体的なイメージがあったせいか、各楽器のアレンジもあっという間にできてしまった。清涼飲料水のCMにも使われる事に成り、俺は初めてマイクを持たずにカメラの前に立つ事に成る。 CMに起用されたのは、二十歳の女の子と俺の二人だけだった。春にふとすれ違った女の子に、夏の日差しの中、再会すると言う出会いのシーンを描いた作品だった。撮影当日現れたのは、ショートヘアに真っ黒に日焼けした肌の健康的な少女だった。瞳だけがキラキラと異様に輝いて見えた。俺は、なぜかどこかで会ったような気がして、思いを巡らしたが、思い当たる人物はいなかった。昔のタレントの2世か何かだろうか。春のシーンでは、焼けた肌を見せないように、帽子と、髪の長いかつらをつけ、女の子らしい白のワンピース姿を後ろから撮っていた。そして、視線がぶつかる夏のシーン。彼女はその生き生きとした魅力を遺憾無く発揮して、夏の煌きを画面いっぱいに振りまいていた。 撮影が終わると、少女はこちらを見てにこっと微笑むと、おつかれさまでしたと言って、帰って行った。若葉の色をしたタンクトップがいつまでも目に焼き付いていた。俺は、何故か彼女をそのまま行かせてしまった事を、悔やんでいた。どうしてだかわからない。しかし、なんとも言えない喪失感が、俺の中に満ちてくるのだった。 CMに起用されたのがよかったのかCDの売上も好調で、CMの次回作を楽しみにしているとの声も聞えてきた。その後、俺達は恋愛編と追憶編を撮影する事になった。恋愛編は、夏の終わりを感じて切なく寄りそうシーンと焚き火をしながら焼き芋を食べるシーンの2本を撮り、二人の関係が親密に成って行く事を彷彿とさせていた。そして、追憶編では、言い争ってそっぽを向くが実は相手の事が気になるケンカシーンと彼女を失って思い出に酔うシーンそして、最後に再び訪れた春に、桜の木の下で再会するシーンの3本を撮った。その撮影の間中、俺は春花の存在をすぐ近くで感じていた。そう、この一連のCMは、余りにも俺と春花の恋に近いような気がしていたからだ。 シーンを変える度に曲も変わって行く。そうすると、面白いようにCDが売れて行った。ワイドショーやネット上で、かの二人はその後、どうなって行くのだろうと、予想を立てるものさえ出てきた。CMの反応がよかったせいか、少女はいつのまにか女優になっていた。名前はシェリー・B.そして、テレビや雑誌の取材でシェリーとは共演する事が多くなった。 シェリーは、しょっちゅう俺の楽屋にやってきては、待ち時間を使ってゲームをやったり、どこの店の料理が美味いだの、どこのブティックがおしゃれだのと他愛の無い話で盛り上がっていた。もちろんその時は、お互いのマネージャーも仲間に入っている。俺が単独でやる仕事の時は、美奈ちゃんがついてくれた。結局のところ、冴子がジンに泣きついて事務所側と検討した結果、冴子がチーフマネージャーとして続投する事が決まったらしい。シェリーのマネージャーは、30後半ぐらいの西村と言うおっさんだが、これがまたファンキーでいかしたおっさんだった。俺と西村さんは時折二人で飲みに行ったりもする間柄になった。 その日も、テレビでシェリーと共演した後、飯でも食いにいこうかとの西村さんの誘いに乗って、とある小料理屋にやってきた。いつもは仕事を終えるとさっさと自宅に送り届けられるシェリーだったが、その日は翌日がオフだというので、ついていくといって聞かなかった。俺達は、しょうがなくシェリーを連れてタクシーに乗り込んだ。
April 2, 2010
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仲間の声がより一層大きくなってきたので、俺は急いでみんなのところに合流した。「カイ!どこ行ってたんだ。皆心配してたんだぞ」 ジンがいつに無く厳しく言った。「ごめん、ちょっとあちらこちら探索してたんだ」 俺が素直に頭を下げると、ジンはグイと俺の肩をつかんで引き寄せると小さな声ですばやく言った。「気をつけろよ。冴子のやつ、今日は異常に苛立ってるんだ。これ以上、余計な事させられたら堪ったもんじゃないぜ。今日はこのまま良い子にして、さっさと帰ろうぜ」 俺はジンの真意を悟った。「皆揃ったのかしら。じゃあ、下りるわよ」 冴子が言うと、一斉に皆が動き出した。5分も歩かない内に、シュウが俺に声をかけてきた。「なあ、何か食べ物持ってないか」「ガムならあるぜ」「ガム?なんだよ。腹の足しにもならないじゃないか」 シュウが嘆いていると、後ろからビーがチョコを差し出した。「チョコならあるよ。メリーがいい?ゴディバがいい?それとも...」「何でもいいから分けてくれ」 ビーが呆れ顔でシュウにチョコを分けてやると、ホリーにも勧めていた。「悪いけど、チョコは要らないわ。冴子と話がしたいから、私の事は放っておいて」 ホリーはビーが付きまとうのをいやがっているようだった。さっさと冴子の横に行くと、楽しげにケタケタ笑いながら先に進んで行った。ビーは懲りる風も無く、カバンの中をまさぐって、次なる作戦を考えているようだった。 随分下りたように感じて、ふと山の方を振りかえると、あの絶壁の上の桜からちらほらと花びらが舞い落ちるのが見えた。素晴らしい眺めだった。「よそ見してると、つまずくぞ」 ジンが俺に声をかけた時だった。「ああっ!」 俺は思わず声を上げてしまった。風に舞う桜の花びらに混じって、薄桃色のワンピースが絶壁から飛び降りるのが見えたのだ。「悪い!俺、ちょっと見てくるよ」 俺の様子から緊急事態だと悟ったジンが、冴子に声をかけてくれた。「なにかあったらしい。俺もカイに付き合うから、お前達先に帰っておいてくれ」 冴子は一瞬困惑したような表情になったが、すぐに気を取りなおして皆を引き連れて帰って行った。しかし、それはあとで皆から聞いた事で、その時の俺はそれどころではなかった。 何処をどう走ったか覚えていないが、俺とジンは生い茂った草を払いのけながら絶壁の下の山小屋までたどり着いた。小さなその小屋の周りは、手入れの行き届いた畑があり、そのすぐ脇を小さな小川が流れていた。小川のほとりには銀色の金たらいがおかれ、畑の横には庭木の枝に竿を渡して、洗濯物が干されていた。春花。俺は、叫びたい気持ちをぐっと押さえて辺りを探し回った。名前を誰にも言わないのが彼女との約束だった。 辺りが茜色に染まる頃、ジンが俺の肩を叩いた。「もう、いいだろ。そろそろ引き上げよう」 尚も上を見上げる俺に、ジンはハイキングコースの管理事務所に声をかけてみようと言ってくれた。俺はなんとかそれで納得して、山を下りることにした。管理事務所では、年配の事務員が対応した。20年前にも、あの桜の木の下で自殺する者がいたと、その事務員は言う。明日にでも捜索を開始すると約束を取りつけて、俺達は、自宅に戻った。 自宅に戻っても、ちっとも体が休まる気がしなかった。1度だけ冴子から電話があった。どんなに怒鳴り散らされるかと思ったが、冴子の言葉は意外にも穏やかだった。ライブが近いから、今は体をやすめてろと言う事だった。それと、明日の仕事は他のメンバーで埋め合わせておくから、明日中になんとか桜の絶壁から人が落ちたらしい事故に、自分なりのけりをつけてくるようにと言った。俺は冴子に礼を言うと、ベッドに横になった。間接照明のぼやけた灯りが春花の微笑を思い起こさせて、いつのまにか涙が流れていた。想像以上に疲れていたのだろうか、俺はそのまま眠りに就いてしまった。 緊張していたのか、翌朝は思いのほか早く目が覚めた。俺はすぐに着替えると、もう1度昨日のハイキングコースに向かった。途中からわき道に入って、例の山小屋に到着すると、そろそろ管理事務所の面々が、辺りを捜索し始めているところだった。山小屋の横を通り過ぎようとした時、中から一人の老人が声をかけてきた。「朝早くから随分騒がしいな。なにかあったのか」 俺は、昨日春花から聞いていた一緒に住んでいる祖父の事を思い出した。「あの、おじいさんと一緒に暮らしている女の子、昨日お家に帰ってこられましたか?」 老人は、眉をしかめて首を傾げると、「わしはもうずーっとこの山に住んでおるが、女の子がこの辺りに住んでいるなどとは、聞いた事がないがなあ。」と言った。俺は少なからず驚いて、山小屋はここ意外にどこにあるのかと尋ねたが、老人はこの辺りではここだけだと答えただけだった。 俺が途方に暮れていると、昨日の管理事務所の事務員が遣ってきた。「よお、じいさん。済まんなあ、朝から騒がしくして。例の桜の絶壁から人が落ちたように見えたとそこの若いのが言うもんだから調べていたんだ」「そうか、あの桜の絶壁からか...」 老人は遠い目をしてつぶやくと、深いため息と共に小屋に入っていった。「あの時は随分迷惑かけたからなあ」 事務員はしずかに老人を見送ると、ぼそりと言った。「迷惑?」 俺の問いに答えるように事務員は続けた。「昨日話しただろ、20年前のこと。あの頃は、まだ何軒かの家がこの辺りにあったんだ。ところが、20年前若い男女がこの上のさくらの木の下で自殺したんだ。発見された時には女のほうはもう息がなかった。男の方も、1度は保護されたんだが、どうしても死にたかったらしい。出血のひどい状態で、私達の目を盗んで奥の湖に身を投げて亡くなった。それからしばらく、赤ん坊の声が聞えるって言うんで皆探しまわったんだが見つからない。おまけに夜な夜な夜泣きの声が聞えるんで、とうとうこの辺りの住民は気持ち悪がって街へ移って行ってしまったんだ。そして、あのじいさんだけが残ってしまったと言うわけだ。あのじいさんにも若い娘がいたんだ。それが、ここのハイキングコースに来た客といい仲になっちまって、家出してしまったらしい。じいさんは、あの小屋から出てったら娘が帰って来た時困るだろうと、ずっと一人で居座っているんだ」 管理事務所の他の事務員が年配の事務員に声をかけていた。「やはり、どこにも見つからないですねえ。ヘリも飛ばしてみたんですが、それらしい人影は見えませんでした」「そうか、ご苦労さん」 年配の事務員はそう言うと、俺に向き直って言った。「このあたりは鷺のような大型の鳥も飛んでいるんでね。もしかしたらそれと見間違えたのかもしれんな」「そうですか。お手間を取らせてしまって、申し訳ありません」 俺は、納得できないまま管理事務所の連中を見送った。 せっかく来たのだからと、俺は春花に教えてもらった湖に向かった。しずかなたたずまいは昨日とちっとも変わらなかった。日々都会の喧騒の中で暮らしていると、こんなに静かな場所にいるのが不思議な感じさえする。昨日春花と座っていた辺りに腰を下ろすと、どこからか穏やかな男の声が聞えてきた。「カイ君だったね。昨日はありがとう。娘に代わって礼を言うよ。春花は昨日、桜の絶壁から飛び降りたんだ。それは、誰にも止める事が出来ない彼女の遺伝子に組み込まれている行動なんだ。」「そんな、自殺する様に組み込まれた遺伝子なんて..」 俺には、その言葉が湖から聞えてくるように感じて、そのままその水面に向かって答えた。「バカらしいと思うかい。だが、春花や春花の母親がそうしたように、それ以前の彼女達の先祖も、あの桜の絶壁で命を落としているそうだ。彼女達には、桜の遺伝子が組み込まれているんだよ。だが、春花はまだやるべき仕事を残している。彼女が君を見初めた以上、何らかの形で春花は再び君の元に現れるだろう。そして、目的を達成させた時には、...」「目的を達成したらどうなるんですか?」俺は畳み掛けるように言った。「それは、桜の散りざまを見ればわかるだろう」「じゃあ、目的って何なんですか?」 俺の声は湖の上を響き渡った。しかし、帰ってくる声はなかった。 思い立って例の桜の絶壁のところに遣ってきた。風が吹いて、桜の花が穏やかに笑っているようだった。「春花…」 昨日の笑顔を思い出して、俺はつい口にしてしまった。「カイさん。春花はあなたに恋をしてしまったようです。近い内にきっとあなたの前に現れます。どうか、受け入れてやってください。」 母親らしい声が聞えてきた。「春花は無事なんですか?」 俺は桜を見上げて尋ねた。「あの子はまだ恋をし始めたばかり。まだ散ったりしません」「散る?」 俺がそう言った時、風がやんで桜のざわめきがぴたっと止まった。「おーい。大丈夫か?」振り向くと、ジンがやってきていた。「ジン!」「皆心配してるんだぜ。ここんとこ曲作りが続いてて疲れてたんじゃないか。今日はゆっくり酒でも酌み交わそう」 俺はジンの好意にこたえることにした。ジンに続いて山を下りながらそっと振り向くと、桜の枝がしずかに頷いたように見えた。 山を下りる頃には、俺の心は不思議なくらい落ち着いていた。春花はきっと俺の前に現れる。彼女の父と母の言葉が俺をしっかりと支えていた。
April 2, 2010
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先日、自作小説をフリーページに掲載いたしましたところケータイでは見られないと教えていただきました。で、春ですので、思い切って前のブログで掲載していた桜モチーフの小説を再掲載してみたいと思います。前回のまま推敲していないので、できはいまひとつですが、まあ、よろしかったらどうぞ。 桜の夢物語 ソメイヨシノが何本も連なって今を盛りと咲き誇っている一角に、俺達は腰を下ろした。ちらっと腕の時計を見ると、12時を廻っていた。予定より随分遅れてしまった。「もう、ここで昼飯にしようぜ」 肥満気味の体にたっぷりと汗をかいたドラム担当のシュウが、足を投げ出して言った。「ダメよ。もうちょっとなんだからがんばって。頂上でガッツポーズを決めてる写真を取らないと、会報も作れないじゃない」 いかにもキャリアウーマンの冴子がシュウの提案を簡単に一蹴した。彼女はうちのバンドが結成されて活動し始めた頃から支持してくれた人物で、彼女無くして今の俺達はない、っと言っても過言ではない存在だ。今はマネージャーとファンクラブの会長を務めて、バンドの広報部的な役割を担ってくれている。 それでも日ごろの運動不足が祟っているメンバーたちは一様にぐったりしていた。冴子は大きなため息をついて決断した。 「じゃあ、10分だけ休憩ね。後、20分ぐらいで頂上に到着するわ。着いたらすぐお昼ご飯にするから、早く食べたい人はがんばってね。ね、シュウ。」 冴子はそれだけ言うと、休む間もなく肩から下げているカメラでへたっているメンバーをバシバシ撮っていた。 俺はちょっと寝転がって、木の根元から桜を眺めた。薄紅色が晴れ渡った空に良く似合っていた。「あっ、カイ。そのままにしてて」 冴子が俺のすぐ横に腹ばいになって、俺の横顔越しに桜を撮っていた。俺は瞬きも出来ずにじっと桜を見ていた。「ううーん。いいのが撮れたわ。サンキュウ」 冴子はさっさと他のメンバーの元に走っていった。しかし、俺はそのままの体勢から動く事ができなかった。桜の枝の間に、華奢な少女の姿が一瞬垣間見られたからだ。少女は、多分17、8歳ぐらいで、ほっそりとした体にふんわりとした桜色のワンピースを纏っていた。長く伸びた髪は桜の木のような甘いこげ茶色をしていた。俺は、その枝から一瞬たりとも目を離さないように、首をねじって体を起こすと、背伸びしてさっきの少女の行方を突き止めようとした。しかし、緩やかに吹く風に長い髪の一筋が見えたような気がしただけで、その姿を確かめる事はできなかった。 「はーい、時間ですよ。あと少しだからがんばりましょう。自分達で言い出したことでしょ。最後までがんばってファンの子達に納得してもらいましょう」 冴子は、息一つ乱れていない。あっという間に先頭になって歩いている。しかし、何も本当に山を登らなくてもいいじゃないか。適当に合成写真を載せておけばファンも納得するものを。俺は心の中で愚痴っていた。 そもそもこの山登りは、アルバムの発売が遅れたことからはじまったのだ。3月リリースだったはずのアルバムは、シュウのひどい風邪でレコーディングが遅れた事とプロデューサーと揉めた事で半年遅れのリリースとなり、たまたまテレビに出演した時、お詫びに山でも登って修行を積んできますなんて、リーダーのジンが言い出した事から現実の物となってしまったのだ。めざとい冴子が、それをファンクラブの会報で詳しく載せると発表したから抜きさしならない状態となってしまった。お陰でファンクラブの会員数は普段より伸びているらしいが、その代償は大きい。 振り向くと、重い体を起こして辛そうに歩くシュウと、その後ろでシュウを押しているホリーとビーの姿が見えた。やっとの思いで頂上に到着すると、冴子が集合をかけた。「はーい、皆ここに集まって!写真を撮るわよ」 ロッカーを気取っている俺達が、ここでバテてる姿を見られてはいけない。5人は、この時ばかりは余裕の笑顔で白い歯を光らせた。「OK。これでゆっくりしてもらえるわ。美奈ちゃん、志乃ちゃん、みんなに飲み物とお弁当をあげてね」 冴子の号令で、アシスタントの二人もバタバタ動き出した。考えてみれば、彼女達だって歩いてきたんだ。しかも、俺達の弁当や飲み物を担いでだ。それを考えると、余り疲れた等とは言っていられなかった。日ごろの不摂生が災いしたのか。そう思いながら、口元のタバコに火をつけた。「カイさん!だめですよ、先輩の前でたばこ吸っちゃあ。この前のシューさんの風邪以来、皆さんの不健康な生活を改善させなくちゃってやっきになってるんですから」 美奈ちゃんが、あたふたと俺に声をかけてきた。冴子に見つからないように俺と冴子の間に立ってくれているらしい。「悪い悪い」 俺は、ほんの一口吸ったばかりの煙草をもみ消した。 昼食を終えると、30分ばかりの休憩が取られた。俺はさっきの桜が気になって、冴子に無理を言って先に桜の群咲く場所まで下りることにした。ビーとホリーが俺に付き合ってくれた。振り向くと、シュウがリュックからチョコレートを出して頬張っているところだった。ジンは冴子と何やら会議中だった。おおかた、ファンクラブの会報にどんな形でこのイベントを載せるか相談しているのだろう。インディーズ時代にどんなに人気を誇っていても、デビューから1年と経たない俺達にとって、ファンクラブは大切な存在だった。 目的の場所まで下りてくると、俺はさっきやっていたように、ゴロンと地面に仰向けに寝そべった。ビーは自分のリュックから急いでシートを広げると、ホリーに勧めてやった。ビーは、俺達のようなロックバンドに在籍しているが、本当な山路物産と言う大きな企業のオーナーの三男らしい。そういわれると、着ている物もどこかこぎれいだし、度が過ぎるほどの潔癖症だ。それがどうしてビーなのかと言うと、山路 貴八郎という本名のはちを取ってBeeとつけたらしい。まあ、小さい頃からキーボードをビービー鳴らしていたからって言う説もあるが、真実は定かではない。ホリーは、そのまま堀 真亜子と言う。マーコでもいいじゃないかと皆は言ったのだが、本人が、余り女女した呼び名はいやだと言い張ったのだ。ホリーはピアノを担当しているが、曲によって担当するアルトサックスが絶品なんだ。「マーコ」を拒否しただけあってしっかり者の男勝り、冴子と共通点も多くて、良く気が合っている。 寝そべったまましばらく見上げていたが、少女の姿を見つける事はできなかった。諦めて立ちあがると、のぼりのときには気づかなかったが群れ咲く桜のその先は、切り立った絶壁になっているのに気が付いた。俺は思わず息を飲んだ。よそ見でもして歩いていたら簡単に落ちてしまいそうなほど、その絶壁は唐突にあったのだ。ふと気配を感じて横を見ると、もう少し下ったところに、少女が笑ってこちらをみているのが見えた。やっぱりいったんだ。俺は急に嬉しくなって少女に駆け寄った。 俺が遣ってくると分かると、少女は透通るような白い肌をほんのりとうす紅色に染めて微笑んでいた。「こんにちは。君はこの辺の人?」 少女は、はにかんだようにうつむき加減になって、小さく頷いた。「俺は、カイ。森崎 快人って言うんだ。君は?」 少女は、ちょっと困ったような顔になった。そして、「誰にも言わない?」と尋ねた。「言わないよ」 少女の意図するところは分からなかったが、俺は思わずそう答えた。「じゃあ、教える。私は山野 春花。おじいちゃんとそこの山小屋で暮らしてるの」 少女は絶壁のすぐ下にある小さな小屋を指差した。 俺がその小屋を見下ろしていると、春花はぐいぐい俺の腕を引っ張った。振りかえると、お気に入りの場所があるからついて来いと言う。彼女は相当山道には慣れているようで、蝶が舞うようにふわふわと山の獣道を進んで行く。俺はその後を必死で追いかけた。細い獣道は人が通った気配もなく、人の背丈ほどもある笹が生い茂り、それにつる性の植物が撒きついて人の侵入を拒んでいるかのようだった。 しばらく行って彼女が立ち止まって俺を振りかえった時、その後ろには信じられないような湖が静かに佇んでいた。水面にきれいな青い空を映し、時折吹き渡る風に揺れる桜の枝をも映し出していた。それにしても、佇んでいるとは変な表現かもしれないが、どことなく威厳があって奥行きのある、大人を連想させる湖だった。「この湖は、私のお父さんなの。さっきの桜の木はお母さん」 嬉しそうに話す春花に、すぐに理解できなかった俺はちょっと困った顔をしてしまったらしい。春花は淋しそうな顔になって、ごめんなさいっとつぶやいた。「おじいちゃんからそう教えられたの。やっぱりおかしいよね。湖がお父さんなんて」 春花は、物心付いた時には両親は無く、こんな山の中では学校にも行けなかったらしい。文字の読み書きや計算は、祖父から学んだと言った。両親が湖と桜の木と言う話しも、幼児期の少女にはステキなお話でも、思春期の彼女には持て余すものとなっていたようだ。俺は、引き寄せられるように湖を見渡した。そして、心に浮かんだままを言った。「おちつきがあって教養があって、包み込むようにやさしい。ステキなお父さんだね」 春花は、一瞬俺の真意を確かめる様に顔を覗き込んで、そしてわっと抱きついてきた。「ありがとう。本当に分かってくれたのは、カイさんがはじめてよ」 遠くの方から仲間が呼ぶ声が聞えてきた。「俺、そろそろ行かなくちゃ」 俺が立ちあがると、春花はきれいな唇をきゅっと真一文字に締めて頷いた。外界からやってきた者を、押し留める事は許されない。彼女は、そう理解しているようだった。「なかなか休みを貰えないんだけど、休みが取れたらきっとここに登って来るよ」 俺の言葉に、彼女は穏やかな微笑を返した。それはまるで春の風にはらはらと散り行く花びらのように、潔さと儚さを綯い交ぜにしていて、俺は一瞬いやな予感さえ感じていた。つづくー
April 1, 2010
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