M17星雲の光と影

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2006.02.15
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カテゴリ: その他
「すぎない」って知ってますか。えっ、知らない。あの身長190センチ、左腕、不世出のサブマリンピッチャーといわれながら、19才で夭折した伝説の天才投手をごぞんじない。それは残念。って、今のは大嘘です。そんな人はいません(たぶん)。

私のいっている「すぎない」は、「~にすぎない」の「すぎない」です。このことばづかいに高校生の頃、妙に引っかかったことを今日帰りの電車の中で突然思い出しました。

なにが引っかかったかというと、たとえばこういう文章を読んだんです。
「この広大無辺な宇宙空間を前にすると、私は自分がまるでけしつぶのような小さくあわれな存在にすぎないことを知り、しばし茫然とするのである。」

思いつきで書いたんで、文章はひどいものですが、書いてある内容そのものはそれほど変じゃありませんよね。でも、高校生の私は、この「すぎない」にすごく引っかかったんです。

その頃、私は星をみたり、宇宙の本を読んだりするのが好きでした。おそらくは高校の地学の先生の影響が強かったと思います。満州生まれで、東大地球物理学科卒。一見なよっとして見えるけれども、けっこう骨太で、職員室でも明らかに「浮いて」いたあの先生の影響を私は受けていたと思います。

その頃、私は勉強を完全に放棄していました。自分の好きな本だけを読み、授業中も本を読み、帰っても一切机の前には座らず、音楽を聴くか、好きな本を読むか、そういう毎日を過ごしていました。

公立のけっこう有名な進学校でしたが、入った時が成績のピーク。おそらく20番くらいだったと思いますが、あっという間に200番台へ、さらにそこから下降しつづけていた頃のことです。

中間試験がありました。結果は悲惨なものです。地学などという科目は教科書を開いたこともありません。おまけにその先生の試験は記号や空欄問題はいっさいなし。すべてが記述式で、ぽつんと問題が書かれ、その後はぽっかりとブランクが空いている。そういう試験でした。みんなはそのむずかしさにおそれをなしたものです。



すると先生はこういったのです。「○○、自分の答案を声を出して読んでみろ」。私はいやでした。だって、中味はでたらめなんですから。「白色矮星の特徴について略述せよ」「HR図とはなにか」「恒星の誕生から衰退までの軌跡を述べよ」。こういう問題に、私は口からでまかせの文章を書きなぐっていたんです。

でも、読めといわれたからにはしかたありません。私は開き直って自分の答案を声に出して読み始めました。クラスのみんなは静かにそれを聞いています。やがてクラスでトップの成績のA君が「先生、○○の答えは教科書の説明とまるで違います。その答えはぜんぜん間違っています」といいました。他のみんなも静かにその発言に同意しました。もちろん私も。だって、それは正真正銘でたらめな答案だったんですから。

すると先生はこういいました。「いったいおまえらはなにをきいとるんだ。いまの○○の文章を聞いたか。実にすばらしい文章じゃないか。そうは思わんか。この高校も昔は文章を書ける人間がたくさんいたもんだが、いまはどうだ。勉強はできるかもしれんが、ろくに人に読ませるだけの文章を書けるやつなどおらん。実になげかわしい。○○の文章はたしかに内容はでたらめだ。話にならん。しかし、文章はいい。俺はそう思うぞ。だから78点をつけた。文句のあるやつはおるか」

先生はそういった。教室中がしーんと静まった。私はいたたまれない気持ちになったが、心の中で深く感動していた。なんのために生きているのかわからないで鬱屈した毎日を送っていた頃だけに、そのことばが胸に沁みた。それから急に地学が好きになった。

馬頭星雲の写真集を図書館で借りて、それをうっとりと眺めたりした。白黒で解像度の低い写真が多かったけれども、宇宙空間の写真を見ていると、なぜか心がゆったりと解放されるのを感じた。気分が安らいだ。なぜそうなるのかはよくわからなかったけれど。

そんなある日、「すぎない」に出会ったのだ。広大な宇宙を前にすると、われわれ人間はけしつぶみたいな存在に「すぎない」。その「すぎない」に。

それはちがうだろう、と私は思った。なぜそれが「すぎない」なのだ。宇宙の広大さに比べると、たしかに人間は小さい。それはまぎれもない事実だ。でもどうしてそれが「すぎない」になるのだ。「宇宙の広大さに比べると、人間はけしつぶのような存在である」。それでいいではないか。人間が「小さな存在」であると認識するのはいい。それは事実だから。でもなぜその「小ささ」だけをとりあげて、「すぎない」ということばでくくろうとするのか。問題は「小ささ」ではなく、「存在」だろう。「存在」とは「ある」ことだ。人間はどんなに小さくともたしかに「存在」している。大事なのはそのことだ。それは「ない」ということとは決定的にちがう。人間は「ある」のだ。それがどんな状態で「ある」かというのは、大した問題ではない。たとえそれが大きかろうと小さかろうと、そんなことは大した問題ではない。大切なのは、自分が「存在」しているということなのだ。

たしかに宇宙は無際限の広がりをもっている。その中に人間が占める空間はほとんどゼロに等しいほどの微少なものだろう。しかし、どんなに小さくても人間はたしかに存在している。このことのほうがずっと大事だ。自分はちっぽけではない。ただ世界が、宇宙が大きいだけなのだ。なぜそう思ってはいけないのか。私はそう思った。

自分というけしつぶのような存在の回りに広がる広大な宇宙。それを知ることは私に無力感よりも、むしろ解放感を与えてくれた。私という存在がある。それはたしかだ。その存在が大きいか、小さいか、それはわからない。だって、それをとらえようとするのは私の意識なのだから。でも、その私の回りには気の遠くなるような宇宙の広がりがある。これはなんとすばらしいことだろう。私はとてつもなく大きなものに包まれて存在している。そういう大きなものを前にして、なぜ自分の小ささを嘆く必要があるのか。なぜ自分のまわりに広がる宇宙の大きさを讃えようとしないのか。私は正直そう思った。

人間は「~にすぎない」存在などではない。人間はただ「存在」なのだ。それに中途半端な自己憐憫の形容詞をかぶせて感傷にふけるのはよしたほうがいい。自分の小ささを知ることは、世界の大きさを知ることであり、それはすばらしいことなのである。

自分がどんなに小さく醜く哀れな存在であったとしても、その認識の向こうには大きく美しく崇高な宇宙の存在がある。小さな自分を嘆くのではなく、大きな宇宙を讃えるべきではないか。私はそう思った。



小さいことはすばらしいことだ。それは大きなものを感じとるゆたかな感受性にめぐまれているということだから。

自分の小ささをいたずらに嘆くのではなく、その小ささが大きなものを感じとる力の源泉であることを正当に受けとめたい。そういう気持ちはあの頃から何も変わらない。

だから残念ながら「すぎない」くんとは友達づきあいができそうにない。幼なじみの「すぎない」くんにはわるいとは思うのだけれど。







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Last updated  2006.02.15 22:00:19
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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