M17星雲の光と影

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2006.02.21
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カテゴリ: 猫のいる公園にて
日曜日に小さな公園のそばを通り過ぎようとして「ひのき」の姿を見かけた。この公園をねじろにしている雌ののら猫である。彼女は公園のまんなかあたりに体を横たえ、所在なげにまわりを眺めている。私はマスクをはずして小さな声で「ひのき」と呼んでみた。彼女は当惑した様子である。このところ週末には何度もその公園に足を運んでいたのだが、折悪しくなかなか会えなかった。顔をあわせるのは3週間ぶりくらいだろうか。猫の時間意識について確かな知識はないが、人間より寿命が短いことを考えると、われわれの一ヶ月は猫にとってはもっと長期間とイメージされるのだろう。ひのきがとまどうのも無理はない。

そっと膝を曲げて少しずつ近づいてみる。彼女の目は小刻みに動き、少しおちつきがない。私に対してというのではなく、外界の刺激、とくに音に対して過敏に反応する。やや精神的に不安定な様子である。

でもそっと体を撫でていると、少しずつひのきのこころもゆるみ、ほどけてくる。だが、やはりいきなりうちとけるというわけにもいかないのだろう。彼女は額の部分を私の膝、足にぶつけるように押しつけ、体をこすりつけてくる。手に持っていたポリ袋にもがさがさと頭をこすりつける。それはひさびさに会った若いカップルが軽く抱き合い、女性が彼氏の胸のあたりを小さなこぶしで何度も軽く叩く仕草をするのに似ている。それはある種の儀式なのである。ひのき流の再会の作法なのである。

やがてひのきはごろんと横になり、ふさふさと毛の密生したおなかをこちらに向ける。私はそのおなかをなで、のど元をくすぐるようにさわる。彼女は目をつむって、じっとしている。喘息気味なのか、ときおり「ひゅー、ひゅー」という呼吸音が聞こえる。

ふとその向こうに体の小さな猫が姿をあらわす。そして甲高い鳥のような声で短く、単発的に「にゃあ」「にゃあ」と泣く。一瞬どこの猫だろうと思ったが、よく見ると3,4ヶ月ほど前に公園の脇の家の軒下で生まれた二匹の子猫のうちの一匹だ。名前もちゃんとつけてある。活発で食欲旺盛な方が「ロビン」、いつもその後ろに控えて臆病で弱々しい方が「ミュウ」である。目の前にいるのはロビンだった。でも、しばらく見ないうちにすっかり大きくなっている。あと一息で成人の猫に達するかというほどの大きさである。まだ人に馴れていないはずだが、私のすぐ前まで来て、じっとこちらの顔を見ている。手を近づけて、人差し指を左右に振ってみると、じっとその指の先端の動きを見ている。でも、それから先どうしたらいいのか、ロビンにはわからない。逃げる様子はない。どういう行動をとったらよいのか、迷っている。しょうがないから、ロビンはそばにある木の幹でがりがりと爪を研ぎ、しまいにはその木によじのぼろうとしはじめる。どうしていいかわからないので、とりあえずからだを動かしているのだ。そしてときおりかなり近くまで寄ってきて、じっとこちらの顔を見る。

彼は、自分がなぜ目の前の人間の顔をじっとみているのか、その理由がわからないのだ。ロビン、それはな、おまえが生まれて数週間足らずの頃、まだ母親のクロのお乳を吸っていた時、おまえの鼻先にはじめて餌をあげたのが私だからだよ。おまえは生け垣とフェンスの向こうからじっとこちらの目を見ていた。目の前に枯れ枝をもってくると、小さな右手でそれをつかまえようとした。まだ固形食はむりかなと思って、小さく痩せたその体の前に乾燥したキャットフードを置くと、おまえは「かりかり、ぽりぽり」という小気味のいい音をたててその餌を食べた。去年の11月頃のことだったろうか。それははじめて自分の口で食べたキャットフードであり、人間の手から餌をもらった最初の経験だったんだ。そして、その時、必死に餌をかみ砕くおまえは、その初めての味とともに、その餌の向こうにある顔を網膜に焼きつけたはずだ。それが今おまえの目の前にある顔なんだ。それをおまえの脳はちゃんと記憶している。だから、自分でも理由がわからないまま、私の顔から目をそらすことができないんだ。おまえの動作の背後にはそういうストーリーがあるんだよ。おまえはそんなこととっくの昔に忘れてしまったろうけれど。

私は「刷り込み」のことを思う。生後はじめて目の前で動くものを自分の親と認識するimprintingのことである。まあ、ロビンのケースは厳密には刷り込みとはいわないが、軽い「刷り込み」に近い現象ではある。

人間にももちろん刷り込みはある。本能的なそれはずいぶん衰えただろうが、二次本能としての社会的、伝統的、文化的な刷り込みの下でわれわれは社会生活を営んでいる。

この文化的、社会的刷り込みに対するある種の恐怖感が、この国には浸透しているように思える。たしかに先の戦争で痛い目にあったということがあるだろう。特に戦時中に幼少期を過ごし、戦後に価値の一大転換を経験した世代にとって「二度と刷り込みはされたくない」という意識が生じたとしても誰もそれを責めることはできない。



その世代が子どもをもうけ、その子どもがまた子どもをもうけ、その子どもがもうじきお年頃になる。今はそういう時代である。

詰め込みはよくない、子どもの自発性を重んじよ、暗唱などという手段は極力避けるべきである。そういう教育がもたらしたのは、しかし、自由というよりもむしろ「空白」だった。なにもない「ブランク」だった。これをして自由な空間ということはもちろん可能だろう。しかし、空白は人をどこにも連れていかない。

もしも「刷り込み」から自由になりたいと思うのであれば、いったんはその洗礼を受け、そこを起点として自らの刷り込みを相対化し、それを乗り越えるしか方法はなかったと私は思う。しかし、そういう選択肢はついに選ばれなかった。人々は、刷り込まれることを極端に怖れ、その結果として、きわめて刷り込まれやすい体質を自ら作ってしまった。

歴史は軽んじられ、古典の暗唱は避けられ、伝統は無視され、儀式は損なわれ、作法は無視された。そして、まっさらで「自由な」脳みそだけが残った。

生物はなぜ「刷り込み」という生存戦略を選択したのか。それは「とりあえず生きるため」である。少々のミスは承知の上で、とりあえず目の前に動いているモノを保護者と認識する。その庇護を期待する。力のないものが生き延びるためにはそうするしかない。自発性などというものが生まれるのは、とりあえず生き延びた、そのずっと後のことなのだ。判断や、理屈や、批判などというものは、そのまたずっと後に生まれるものだ。とりあえず生きねばならない。理屈は後で考えよう。刷り込みされた内容の批判、分析、検討は後回しだ。大事なのはとりあえず生きることだ。

それではいけない。誰かがそう思ったのだろう。それでは人間的な生き方とはいえない。まず考えるんだ。子どもにとって理想的な環境で、束縛や制約を極力なくし、自由と自発性を尊重し、のびのびと育てる。そうすれば、情操の豊かなすばらしい子どもたちが育つだろう、と。

そして、刷り込みから自由な、まっしろなあたまをもった、自由と自発性に満ちあふれた人々が、この社会を覆うようになった。それが今の時代である。その実状はごらんの通りである。ひとつだけ確かなことは、人々がそれらの代償として「とりあえず生きる」というたくましさと活力を失ったことだろう。

ロビン、おまえもいつかは人間に手ひどい目にあわされ、人間の敵意と反感と暴力に直面し、生まれた直後に刷り込まれた人間への親和性をうらみに思う時がくるかもしれない。人間に近づいたばかりに傷つけられ、損なわれ、苦渋をなめる時が訪れるかもしれない。その時には、ロビン、頭にこびりついたその忌むべき刷り込みをかなぐり捨てるんだ。そして、牙をむき、爪を出し、毛を逆立て、その人間と戦うんだ。たとえそれが私であったとしてもだ。その時にそなえて、私はおまえに勇猛果敢な伝説的な森の英雄の名前をつけたのだ。

ふと気づくとロビンは目の前からいなくなっていた。おそらく軒下の自分のねぐらに戻ったのだろう。無理もない。彼には「とにかく生きる」という大切な目的があるのだから。







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Last updated  2006.03.20 10:49:49
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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