M17星雲の光と影

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2006.03.12
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カテゴリ: その他
大学時代、下宿生活をしていてひとつ気づいたことがある。貧乏な六畳一間暮らしだったのだが、ラジカセやレコードプレイヤー、レシーバーなどオーディオ関係の機械が比較的多く、畳の上をコード類が錯綜している状態だった。たまに(ほんとにたまに)掃除をしようとすると、必ずそのコード類がもつれてからみあっているのである。それもひとひねり、ふたひねりというレベルではなく、よじれを戻してもとの二本なり三本の線に戻すのに一苦労するほど、複雑にコードがよじれあっているのである。

なぜこんな状態になるんだろう。素朴にそう思った。別にそうさせるような目に見える外力の働きがあるわけではない。それらのコードは雑然とした部屋のなかにただぼんやりと横たわっているだけである。しかし、気がつくと自然にそれらはひとつの線を形成すべく互いに身を寄せ合い、交差し、からまりあって、ねじりんぼう状態を形成している。ここには何かたいせつな力の働きがあるのではないか。そう考えた。

私はねじれたものを頭の中にイメージしてみる。そう、銀河星雲の螺旋形、台風、竜巻、ハリケーン、渦潮、洗濯機の渦流、注連縄、ソフトクリーム。実に数多くのねじれたものが思い浮かぶ。そして、その中でも最も示唆深いもの。それは遺伝子の二重螺旋構造である。二本の線をよじらせ、互いを二つの異なる塩基でつないでいく、あのワトソン君、クリック君、よく見つけたね、の遺伝子の構造図である。

どうも地球上には、二本のラインが存在するとき、それを互いにからみつかせる力が働いているのではないだろうか。ちょうど地球上がまだまったりとした原始スープ状態だった時、単線の遺伝子の鎖が二本、塩基を媒介物としてよりあわされることで、新たな生命体を誕生させたように。ふたつのものをひとつにする。そしてその結果、生まれたひとつのものをまた二分する。さらに二分したものをよりあわせる。こういう無限の順列、組み合わせの中から、地球上の生命の多様性が生まれてきたように私には思える。

なにか新たなものを生み出すためには、単線の積み重なりでは不十分であり、そこには単線を相互に結びあわせる「ねじりんぼう」パワーが必要なのではないだろうか。

ここで唐突に私はロダンの「抱擁」を思い浮かべる。みなさん、ご存知ですか、かの五味川純平の「人間の条件」の冒頭シーンに出てくる、あの「抱擁」ですよ。(って、わかりませんよね。ふつう)とにかく男女が抱き合う姿を思い浮かべてください。そこにはある種の「ねじれ」現象が生じているとは思われませんか。男という一本の線と、女という一本の線が、単純に重なり合えば、両者の結合は可能であるように思えます。しかし、実際にはそれは単線の重なり合いではありません。人間の場合、両者の結合はやむにやまれぬ、互いに互いを求める気持ちが自分の心の底へねじれるように深まっていき、その二本のねじれた線は螺旋階段のようにしっかりと結びつき、互いに決して離れることのない、強固な鎖の結合を生み出すのです。そして、そういう一対の男女が抱き合う姿は、それ自身がねじれた二本の線のからまりあいをわれわれにイメージさせるのです。

男女が向かい合い、互いに求め、抱き合う時、そこには「ねじれ」が生じます。その抱擁は、二本の線を互いに絡みつかせる。ちょうど電源コードが互いにねじれあった状態を形づくるように。そして、それはまた遺伝子の二重螺旋構造をもわれわれに想起させます。

ことばの世界でも、この「ねじれ」は重要な役割を果たします。いうまでもなく「逆説」、「パラドックス」がそれに当たります。常識的な見解をひとひねりする。ちょうど一本の紙の帯をひとひねりして作られる「メビウスの帯」のように。その帯の上にペンで線を引いていくと、それはその帯の表と裏をいつのまにか同一の平面へと変えてしまう。あのメビウスの帯です。

それと同じように常識のラインをひとひねりし、それをたどっていくと、常識と非常識とが同じ一本の線でつながれてしまう。そういう不思議な瞬間を体感することができます。これが逆説、パラドックスのもたらす効用です。



ある物体の奥深くに自らの認識を到達させようとするときにも同じことがいえます。地底深く探索を行おうとする時、人はどのような手段を講じるでしょうか。直線上のものを地表に突き立てたとしても、それが到達する距離はたかが知れています。日常生活で想定するラインをそれが凌駕することはおそらくないでしょう。

でも、その直線状のものに螺旋形の切り込みを入れるとどうなるか。それは次々と地面を掘削し、ねじりこむようにどこまでも地底を掘り下げていきます。そうです、それは頑丈なドリルの形をとるのです。

事物の創造だけではなく、認識の深化にもまた「ねじれ」が不可欠の手段として要請されることがここからわかります。

われわれの日常生活、人間関係も、ときにもつれ、ねじれます。そして、人間は懸命にその「ねじれ」を解きほぐそうとする。このねじれさえなかったら、われわれは原始の素朴な明朗さを取り戻すことができるはずだ。そう信じます。

でもはたしてそうなのでしょうか。われわれの体を構成するひとつひとつの細胞の中に組み込まれている遺伝子の配列はすでにして二重螺旋のねじれた形をしているのです。

われわれはそれがねじれていることを嘆くのではなく、それがこの惑星の運動を司る基本的な法則であること、そして、だからこそその「ねじれ」がさまざまな創造の根源であり、発見の契機であり、認識の深化を促す屈強なドリルであることを、今一度認識する必要があるのではないでしょうか。

宇宙はねじれた空間から生まれ、生物もまたねじれた遺伝子の鎖から生まれ、人間の認識もまたしばしばねじれを生じさせます。そして、その一方で現在のわれわれの生きている時間や空間が、基本的には「近代」と呼ばれる時代の延長線上にあることをわれわれは知っています。そしてその「近代」という時代を象徴するのはけっして「ねじれ」ではなく、異なる二点間を最短距離でつなぐ「直線」であったということも。もしもその近代という時代が今日ある種の行き詰まりを見せているとすれば、その原因はひょっとすると世界の根源に存在する「ねじれ」の軽視にあったのではないか。私はそういう気がしてならないのです。

むずかしい話になってすいません。(といいながらまったく反省していない自分が……っと、これでは昨日のブログと同じ結びになってしまいますね。)

末筆になりましたが、先生、がんばってくださいね。最近の先生のブログの文章の奥から、私はときおり深いため息を聞いてしまうんです。たとえそれが先生の遊びの朗らかな報告であったとしてもです。以前の先生の文章は、もっとすなおに、ほがらかに、しかし、切れ味鋭く「ねじれて」いました。私はその頃の先生の文章のねじれを思い浮かべながらこの文章をここまで書いてきたんです。

これが去年の年末に書いた「内田樹400Mリレー第二走者論」の続編です。「内田樹における『ねじれ』の研究」です。そういう「ねじれ」の文章を私はずっと待っていたんです。でも、すこし待ちくたびれました。

先生、こんな半端者の半端ブログにこんな生意気なことをいわせていてはいけません。ここはひとつがつんと小生意気な弱小ブログを叩きつぶすような「ねじれた」文章をお願いします。









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Last updated  2006.03.13 06:30:48
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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