M17星雲の光と影

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2006.03.18
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カテゴリ: その他
子供の頃、父はとても無口だった。精神的訓話というようなものはまず一言も口にしなかった。「たまには精神的なことでも話せばいいのに」と息子の私が思うほどに、父は寡黙だった。息子が父親の精神的訓話を求めるなどという話は聞いたこともない。もっとも父が実際にそういうことを口にすれば、私は猛烈に反発したに違いないのだけれど。

だが父は食事の作法にはとても厳しかった。「口にものを入れてしゃべるな」「椀は静かにおけ」「くちゃくちゃ音をたてるな」「飯粒を一粒も残すな」「とにかく食い物を残すな」「きれいに食え」ーーなんて細かい親父だと思った。でもさすがに毎日そんなことを言われつづけるのはいやだから、そのうちに自然とそういう食事の作法が身についてくる。

その後、東京で一人暮らしをするようになって、何度か食事の作法をほめられたことがある。ずいぶん変なところをほめる人だなとしか、その時には思わなかったが。

でも年をとってきて、徐々に自分が幼い頃に身につけた作法の意味がわかってくる。きれいにものを食べることの意味というものが理解できるようになる。悲しいことにそれはたいてい「きたないな」という食べ方を目にしたときが多いのだが、ともかくも自分の身につけた作法のもつ意味というのは、ずいぶん時間がたってからわかるものである。

実のところ、年をとればもっといろいろなことがわかるものだと漠然と思っていたが、そんなことはぜんぜんない。年をとるだけでわかることなんてほとんどないのだ。年をとってわかるのは、「人間は年をとっても何もわからない」ということだけだ。知恵はいつも遅れてやってくる。ミネルヴァのふくろうは日が暮れてから飛んでくる。そしてそのことに気づくのはさらに夜もとっぷりと暮れてからである。その時にはもう遅い。年をとってわかるのは、人間は多くのことをわからないままに死んでいく存在だということくらいである。

それと同時に「作法」の意味というものがぼんやりとだがわかってくる。そもそも外から与えられた知識と、内面的な気づきと、そのどちらに大きな意味があり、そのどちらが自分の身となり肉となるかというと、考えるまでもなくそれは後者だろう。そして、知恵がいつも後からやってくるものだとすれば、ある行動の意味を知る前に、あらかじめその行動を自らのものとして身につけていなければいけないということがわかる。つまり、意味のわからない状態でその行動をあらかじめ身につけておかない限り、その行動の意味がわかる瞬間は永遠に訪れないのだ。そのことがわかってくる。そして、それを可能にするための手段が「作法」なのだということも。

ある行動をまず身につける。意味などわからなくていい。とにかくそのことを体に馴染ませ、染みこませる。そのために、その行動を何度も反復する。やがて、その行動が体にしみついていることさえ意識しなくなった時、その行動が自分の自然な振る舞いの中に吸収されてしまった時、ある日忽然と、そのことの意味がわかる瞬間が訪れる。人間の知恵はそういう形でしかやってこないものなのだ。

今日、比較的大きな催し物があった。何人かの講師が聴衆の前で講演を行う。聴衆は素人ではない。玄人に玄人が技術的、精神的アドバイスを行う。そういう講演である。しかし講演者はプロ中のプロだ。何十年にもわたってバトルロイヤルを勝ち抜いてきた猛者連中である。私の役割は最後列に座って、その猛者の講演を見守ることだ。

講演者はパフォーマンスを始める直前に私の隣に座る。偶然、そういうことになってしまった。今まであまり身近に接することのなかった人たちではあるが、そばにいると彼らは例外なく緊張している。しかし、それと同時に異常に高いレベルで精神を集中させていることがわかる。くだらない冗談を言ったりはしているが、緊張と集中がその心の中でせめぎあっていることはひしひしと伝わってくる。私とて素人ではない。20年以上プロとして生きてきた身である。戦いの直前の心境は自分なりに理解できる。



気がつくと、最後の講演者が隣に座っている。休憩時間のうちに少し早めに席についていたようだ。私はこれまでと同じく立ち上がって深々と礼をし、挨拶をする。しかし、彼は胸を傲然と張ったまま、こちらを見ようともしない。頭を下げても、完全に無視をしている。おまえなんかおれの目には入らないんだよ、という顔つきである。日頃から礼に欠けるところのある人間ではあったが、これほどの不遜な態度は初めて目にした。

そしてその時、「こいつ失敗するな」という確信をもった。失礼だったからではない。当然守るべき作法を守っていないからである。

学生時代、野球をやっていた時、未知のチームと対戦するときには、守備練習に入る前のキャッチボールを注視することにしていた。投げたボールがことごとく相手の胸元に吸い込まれていくチームは強敵である。しょっちゅう受け手がジャンプしたり、後方に球を取りに走っているチームは取るに足りない相手である。その予測がはずれることはまずなかった。

最も基礎的な練習に集中しているチームがいちばん手強い。彼らは練習で集中している分、本番ではリラックスして全力を発揮することができるからだ。

最後の講演が始まる。講演者は、一時期、この世界に並ぶ者がないとまで言われた猛者中の猛者である。こんな場面など何百回となくらくらくとクリアしてきた人間である。しかし、ちょうど3年前くらいだったろうか、私はその人間よりもはるかに年長で、かつ尊敬すべき先輩ととても大事な打ち合わせをしていた。5メートルほど離れたところで、彼は海外旅行の猥談を大声でわめきちらしていた。私はおもわず彼の顔をにらみつけたが、彼は大きな腹を揺すって笑い転げていた。あの頃から予兆はあったのである。

彼のなめらかであるべき口調は妙にくぐもり、リズムは寸断され、なんとか流れにのりかけたところで、自分でそれを断ち切り、また元に戻り、口調が徐々にいらついてくる。必要以上に強調表現が増え、刺激的なことばづかいが増えてくる。それとともに聴衆の集中力が損なわれていく。

われわれが人前で話をする直前に一番心がける作法は、沈黙しないことである。大きな声で挨拶をし、たわいのない世間話をすることである。そのことによって、われわれは相手と視線を交わし合い、相手のことばを受け、それを相手に返す呼吸を計り、自分の意思を相手の胸元に放り、相手から放たれた意思を胸元できっちりと受けとめる訓練をするのだ。そういう意思疎通を円滑に行うために欠かせない準備運動、それが「挨拶」という作法なのである。

講演は10分経過した。準備不足は明らかであり、彼は話の方向性を見失って、途方に暮れている。場つなぎの自慢話で聴衆の失笑を買い、助けるようにわれわれのほうへ目線を投げる。

「なんだかもう話すのやめろっていうような冷たい視線を後方からびしびし感じるんすけど。」というような冗談にもならない冗談を言いながら。

やっと聴衆の目に焦点を当てることの大事さに気がついたようだな。でも、その聴衆が私だったのはいかにも不幸だ。そして、気づくのがいかにも遅すぎた。

私はいたたまれなくなっておもわず目をそらす。講演は予定時間を大幅にオーバーし、収拾のつかない状態で終わった。



知ることはいつも遅れてやってくる。だから作法をおろそかにしてはならないのだ。彼がそのことに気づいていればいいのだが。

彼は顔面蒼白の状態で顔一面に脂汗をかきながら、もつれた舌でしどろもどろに話を締めくくり、逃げるように講演会場を後にしていった。

彼の頭上にふくろうが訪れる日ははたしてやってくるのだろうか。





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Last updated  2006.03.18 22:07:20
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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