M17星雲の光と影

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2006.03.26
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カテゴリ: その他



大学進学で上京するまで桜の花やお花見などまるで興味がなかった。小生意気な若造がそんなものに惹かれるわけがない。一言「ふん」といってそれで終わりである。

通い始めた大学の傍には大きな墓地があった。私はその墓地を通って大学へ行くことにしていた。人通りが少なく、緑が多く、考えごとをしながら歩くのにちょうどよかったからだ。その墓地の中を抜ける道の両側には多くの桜の木があった。桜が咲きはじめても花見客は誰もいない。さすがに墓石の傍に敷物を広げて馬鹿騒ぎをするのはためらわれるのだろう。桜を眺めながら散歩する人が少し増える程度で、そこはいつも通りのひっそりとした場所のままだった。

ひとつ、またひとつと桜がほころんでいく。薄いピンクの花びらがそっと開くたびになぜか墓場の静謐はさらに深まるように思われた。その薄い花弁が周囲の物音を吸い込んでいるようでもあった。やがて桜の花の「まり」の重みに枝がたわみはじめると、その静けさはさらに深まる。つぼみをついばむヒヨドリの「ピー」という甲高い啼き声が空に上がる以外には何も聞こえない。見上げると、春の青空を背景に薄桃色の花びらがいっせいに広がっている。その花びらは自らの体を開けば開くほど、その色を薄めていく。それは病弱な女性のひそやかな裸身を思わせるほどにはかなげで、死の予感に満ちている。

やがて桜は散りはじめる。私がこの花の時期に平静ではいられなくなったのは、上京して初めてこの花の散り際に接してからである。桜が散りはじめてまもなく夜通し強風が吹き荒れたことがあった。朝になってようやく風は収まり、空は一面の快晴である。私はいつも通り、墓場を抜けて大学への道を歩いていた。するとなにか周囲の状況が一変しているような感じを受けた。しかし周囲を見渡してもとくに大きな変化はない。桜の花が落ち、その枝から若葉が伸び始めている以外にはとくに変わったところはない。私は通路を右に曲がる。

私は目の前に現れた細い通路を見て、思わず息を呑んだ。幅一メートル足らずのその通路は、びっしりと桜の花びらに覆われ、それが何重にも積み重なり、ふっくらとした厚みを帯びたじゅうたんがそこに敷き詰められていたのである。その上を一歩また一歩と進むたびにまるで雪道を歩く時のように「さくっ、さくっ」と音がする。そこへ横殴りの風が吹いてくる。目の前に桜花が嵐のように舞い上がる。桜の木の黒い幹と薄墨色の墓石を背景として桜花の吹雪が吹き上げられる。陽射しは春。空は快晴。踏みしだく花びらの音と、地に落ちた花びらが舞い上がる際に擦れあうさわさわとした衣擦れのような音以外には何の音もない。

頭の中に「じーん」という沈黙の音が鳴り響く。とても平静ではいられない。何か自分で声を出さなければ、この風景の中に吸い込まれて、元に戻ってこれなくなるような不安を感じる。私は小さく「あー」と言ってみる。効果はない。もう少し大きな声で「わー」といってみる。少し落ちついてくる。でもこの情景から自分の意識を切り離すことができない。私はほとんどこの情景に呑み込まれてしまっている。自分の体が桜の花びら状に細分化し、それが端からぱらぱらと崩れ落ち、風に煽られて外界に飛散していくようだ。ほっておくとそのままどこまでも自身の断片が剥ぎ取られ、後には黒々とした枯れ枝だけがぽつんと残される。そんな気がしてくる。

私は薄桃色の分厚い絨毯の上を走りはじめる。墓場の通路を走り抜け、近くにある住宅街へ走り、その角にある酒屋の自販機でワンカップを買う。そしてまた墓場に戻り、墓場の通路の敷石に腰掛け、吹き荒れる桜吹雪の中で一気に酒を飲み干す。

はるか昔、同じ季節、同じ時候に、同じものを見、同じことを感じ、同じように酒をあおった人間がたしかにいたことを、私はその時に確信する。桜の狂気に吸い込まれないように酒をあおって自らの狂気を呼び起こそうとした人間がいたに違いないと思う。眼前にある風景を遠い昔に見ていたような奇妙な既視感を味わう。



原初の花見が始まる。しかし友人達にとってはそれはいつものおきまりの年中行事にすぎない。彼らにとっては単なる野外の飲み会にすぎないのだ。いささかロケーション的に不謹慎な場所ではあるけれども。

酔いが回ってきた私も、この原初の花見のきっかけをすでに忘れかけている。でもいつかどこかでこうしてこの儀式が生まれたんだという確信だけは心の中に残っている。桜、死者、狂気、酒。これらは遠い昔の春の昼下がりにたしかにひとつにつながったに違いない。

「そうなんだよ」

背後で誰かの声がする。私は振り向く。誰もいない。苔むした小さな墓石がそこにあるだけである。誰もお参りにきた様子もなく、荒れ果てて、献花のひとつもない、小さくみすぼらしい墓石が。

ひょっとして、という私の思いは、友人の歓声にかき消される。

死者と生者は散り行く桜とそれが引き起こす狂気をなかだちとして結びつき、互いに酒を酌み交わすのだ。そして互いの魂を慰めあう。散りゆく花は死者の碑の上に積もってその霊魂を癒し、生者のこころをあやしく掻きたて狂気へといざなう。

墓場で行われた原初の花見はその後もはてしなく続いた。





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Last updated  2006.03.26 11:13:07 コメント(2) | コメントを書く


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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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