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2006.08.13
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テーマ: 本日の1冊(3751)
カテゴリ:
西原理恵子「上京物語」(小学館)を読む。

これはコンパクトな絵本の形をした自伝的作品である。一頁がそれぞれ小さく独立しており、それらがゆったりとつながって全体のストーリーが展開されている。

これまで自分の好きなものをいろいろな形でことばにしてきたが、まだ西原のことを書いたことはない。書こうと思ったことすらない。しかし、私は過去何十年にもわたって西原の作品が大好きだった。

4年前、生まれて初めての手術を受ける前夜、私はおちつかない気持ちで自分のバッグの中をごそごそとあさり、「鳥頭紀行 ジャングル編」を取り出して読みふけった。静かな病室で笑いをこらえるのに苦労した。読み終わると、どこか解放感を感じ、すっきりと翌日の手術にのぞむことができた。西原の作品にはそういう力がある。

というようなことをずるずると書いていても仕方がない。これではなにもわからない。徒労に終わるのは承知の上で、今日はあえて西原のことを書く。書けなくても書く。書けないのに書く。

西原理恵子とはそもそも何者であるか。一言でいうと、西原は巨大な人格の持ち主である。

もちろんこれは量的、ないしは空間的な意味でいっているのであって、西原が人格者だといっているのではない。(そんなことは本人も含めて誰もいわない。人格破綻者だということは本人がいいそうな気がするけれど)

しかし、彼女の(という代名詞がこれほどふさわしくない人物もいないだろう。そういう意味では西原はすでに男女の性差すら軽々と超えてしまっている)作品に触れるにつれ、私が強く思うのは、その人格の巨大さである。

一般的にいえば、多面性とか、破壊性とか、権威に対する生理的嫌悪とか、強烈なプロ意識とか、背後に隠れた叙情性や詩情とか、ネームと呼ばれることばによる表現の切れ味とかいうことが西原の特徴ということになるのだろうが、そんな一般的なことばをいくら羅列したところで何をいったことにもならない。それでは彼女の影すら描き出すことはできない。目隠しをして象の頭やお尻や足や鼻をこわごわと撫でてみても意味はない。



「上京物語」は、西原が高知から東京へ一文無しで上京し、食うや食わずの生活の末に漫画家としての第一歩を踏み出すまでを描いた作品である。

当然、ギャグ漫画である。コマの展開は鋭角的で、ネームはそれにもまして切れ味がある。人間に対する洞察があり、ある種の人々に対する愛情があり、羨望があり、怒りもある。それはいつもの通りである。

ここには三つの「自」があると私は思う。自分。自立。自由。この三つである。前の二つは自伝的作品である以上、当然存在すべき要素だ。ただし、西原の「自分」、西原の「自立」は、巨大な人格の持ち主のそれである。一般的に矮小化された意味で理解していると解釈を誤る。

西原の自分を見る目。これは独特である。そこには自己憐憫も自己卑下も自己否定もない。一見すると、そのどれもありそうに思えるのだが、どれほど悲惨な状況にある自分自身を描いていてもどこかに力強い肯定感がある。自己中心というのでもない。むしろ自己すら中心におかない巨大な意識のなかに生きている存在という感じが私にはする。こういう視点で自分自身を見ることのできる人間というものを私は他に知らない。だから西原は巨大なのだ。

自立。そうこれは自立の話である。結論を先取りしていえば、これはまぎれもないサクセスストーリーだ。しかし、読後の印象はそのことばに似つかわしくない。ここには彼女の「社会的」成功が描かれているわけではないのだから。

ホステス仕事で食いつなぎ、唯一の拠り所だった絵の才能のなさを知り、仕事をしない男と同棲し、エロ漫画のイラスト描きの仕事を見つける。もしもこれが通常のサクセスストーリーだとするならば、こういう経緯はカットされるか、あるいはその後にくる大きな成功を強調するための伏線の役目しか果たさないはずである。しかし、この作品では、これらこそが主要なテーマなのである。全体の8割から9割はこういう日々のことが愛情を込めて描かれている。

彼女の成功を約束してくれるはずの大手出版社の編集者の顔はぼかした円としてしか描かれていない。顔のない誰かとしてしか描かれていない。しかし、彼女の絵を罵倒し、罵倒しながらも他の編集者に頼み込んでなんとか彼女の仕事を探そうとしたエロ漫画の編集者には顔がある。表情がある。

「今回で連載は打ち切り」。エロ雑誌の編集者はそう彼女に宣告する。茫然とする西原。「笑いがもう青年誌のそれになっている」という編集者。しかし、それを告げたのは彼女が大手の出版社に見出され、成功への階段を上ろうとしたまさにその瞬間だった。

おそらくは彼女の成功の妨げにならないように編集者は断腸の思いで連載打ち切りを宣告したのだ。でも、そんなことは彼女の描く絵にもことばにも一言も書かれていない。そこには実際に口にされたせりふとその時の両者の表情がたんたんと描かれているだけだ。

こんな作品が書ける人間が他にいるだろうか。私は西原の巨大さのひとかけらでも伝えることができればいいと思っているのだが、はたしてそれは伝わっているのだろうか。まったく自信がない。

もちろんこの作品は彼女のサクセスストーリーである。しかし、ここには彼女の社会的成功はほとんど描かれていない。大手出版社の人々の賞賛のことばを聞いても、彼女は「自分は大きな夢のなかにいるのではないか」と思うばかりである。「ついに自分の才能が社会に発見されたのだ」とは彼女は思わない。



彼女は彼らに対してこそ深い愛情を感じている。彼女の描く作品よりも、まず彼女という人間自身を見ていた彼らに対して西原はこの作品を通して「ありがとう」といっている。

彼女の作品が社会で認められ、流通するであろうことを正確に判断した一流の出版社に対しては「ほんとうかしら」とクエスチョンマークを進呈しているだけである。

彼女の成功はあくまでも内面のそれであった。そして、その成功は彼女の作品の成功ではなく、彼女の人間のこころのなかにあるものの達成であったことが、この作品を読み終わると深く了解される。これはそのような本である。

自分がはじめて認められたときの「ヤッター」という気持ちのみずみずしさを、「ヤッター」というせりふと表情だけで表現することのできる表現者がいったいこの世に何人いるだろうか。そのような表現者を巨大な人格の持ち主ということば以外でどう言い表せばいいのか。へっぽこ表現者の私には見当もつかない。

自分の進むべき道を見出した後、彼女は「もう捨て猫は拾わない」と思う。「あんたはかわいいから、きっともっといい人に拾われるよ」彼女はそう思う。



「笑ってくれてありがとう。いったい次はどういうことを書けば、この人たちは笑ってくれるんだろう」と。

そう思う彼女はどこかの草原の中に立っている。そしてそこには風が吹いている。その時、「自分」、「自立」という二つのテーマの向こうに、もうひとつの「自」が存在していることに私は気づく。

それは「自由」だ。自由とは何か。束縛からの解放?そんな幼稚な定義にいまさら耳を貸す暇はない。自由とは自分自身からも自由になることだ。そう、自由とは「風」になることなのである。私は強くそう感じる。そして、西原は当然のことながら、そんな幼稚なことは一言も書かない。そこにはただ風に吹かれて揺れる彼女のドレスの裾が描かれているだけである。

わずか50頁足らずの小さな本を読み終えた時、西原理恵子という人間の大きなこころが私の小さなこころのなかに広がる。自分よりもはるかに大きなものに触れた時に自然にあふれでる体内の水分が目元からこぼれ落ちる。

そして、唐突に文章を書くために必要な条件をふたつ思いつく。

「何かをこころから好きになること」
「誰かに自分自身を認められること」

このふたつだ。他のこまごまとしたことなどどうでもいい。とにかくこのふたつさえあれば、人は文章を書くことができる。表現をすることができる。そしてなによりもまず「生きていく」ことができる。

西原理恵子はこの作品を通してそういっているように私には思える。







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Last updated  2006.08.13 10:27:33
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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